狂月日誌

旧「実録・躁うつ病」。躁うつ病のリアルを書いていたのだが・・・

2015年06月

点滴2日目

喘息が治らない。それでも少しは眠れた。タクシーで通院することも考えたがバスにした。200メートルの距離で3回座り込んだ。歩くのが辛い。今日も点滴だった。3回失敗された。去年も同様のことがあり、点滴を拒否して帰った記憶がある。今日は大人しかった。4回目で成功した。

喘息は大分ましになった気がする。明日も点滴になるのかどうか。微妙な形勢だ。

朝は喫茶店でモーニング。昼は喫茶店でドライカレー。帰り道、バス停を降りてから喫茶店。スーパーでチャーハンを買って帰宅。これが夕食。こんな豪勢な生活は今日が最後かもしれない。

昨夜は夜間救急に行くかどうかで迷っていた。未明に救急車を呼ぶよりは良いかと思った。このまま死ぬのかと思うほど酷い喘息だった。プレドニンを夜だけで20mg飲んだ。

今日は若くて美人の女医さんだった。父に電話をした。特記すべきことが一つあるが流石に書けない。馬鹿丸出し、顰蹙の嵐になるからだ。そういう書き方は読者に失礼だろ。書きなさい。はい。タバコ吸ってます。

躁うつ病は特に何も感じない。薬で感じない脳になってしまったのかもしれない。もう終わりで良いのだが、苦しみたくはない。だめになった脳。苦しい脳。脳ダメ。

今月は1日も欠かさずにブログを書いた。


喘息の発作で点滴

昨夜、急に喘息の発作が出た。一睡もできず。朝一番で病院に行き点滴と吸入。効かない。再度、点滴と吸入。まだ治らない。ステロイド多用。躁に良くないが命には代えられない。あああ、喘息の時くらいタクシーにしないと。昨年8月以来の点滴だ。夏は天敵。昨年も、一昨年も夏に躁転している。危険だ。暑いのはダメだ。死にそうだ。喘息で入院するかもしれない。

原因は何だろう。打合せのプレッシャーか。打合せは延期になった。明日も点滴かもしれない。今日も寝られるかどうか分らない。ピンチ。

医者のことば

今の病院(精神科)に転院したのが、2013年の2月。その時以降の主治医の言葉をピックアップしてみた。

もう一度チャレンジして欲しい

2013年3月。もちろん仕事をするということだ。会社を辞めてからはフリーランスで働くことしか考えていなかった。しかし、常に開店休業状態だった。

■自分が精神病だという意識は持たない方が良い

去年の4月に聞いた言葉だ。ブログを読み返していて発見し、驚いた。普通は病識を持てと言うのではないのか。2013年の夏、秋、2014年夏の躁転時も、いわゆる躁状態とは病相が違うと言う。典型的な躁うつ病ではないと言っていた。典型的な非定型精神病なのだと。これは予後が良いとされているのだ。

■生活を安定させましょう

私はこの言葉の意味を誤解していた。単に生活リズムのことと考えていた。しかし、ベースにあるのは経済的な収支なのだった。私は退職金を食いつぶしていただけなのだった。

■昔のような華やかな生活には戻れないでしょう。前途多難でしょうね。

去年の6月の言葉。状態が安定しないので見立てが変わったようだ。

■破綻したんですからね

今年の6月の言葉。入院、離婚、引っ越し、破産。事態は大きく変化した。

■就労継続Aでやってみたらどうですか

これは微妙な問題だ。将来展望とも関わってくる。明日、通院するかもしれない。

その他の医者の言葉

■内科的には仕事はできます。仕事をした方が良いと思います(内科医、2014年4月)

■貴方は見なくてもいい世界を見過ぎた。はやくビジネスの世界に戻りなさい(内科医、2008年頃)

おまけ。元上司の言葉。

■君に柔軟性があれば、出世なんてススイのスイなのに(1996年頃)

一番の鍵は、自分が精神病だという意識は持たない方が良いという言葉が今も有効なのかどうかだ。夏を乗り越えればと何度も書いておきながら、来年以降のことが気にかかる。それも含めて、安定なのではないかと思う。また、質問をノートに整理しよう。

離人感が強まる

今日は久しぶりに一般人(ON氏)とアポがとれ、電車に乗ってでかけた。どうも日に日に離人感が強くなっているようだ。電車の中で向かいの席に座っている人たちが全員、変な人に見えた。どの顔も殺人を犯してもおかしくない顔に見えた。私だけが別世界にいるような浮いた感覚。そんな中で友人に会った。

話は弾んだ。友人は40手前。いま、転職を考えている。福祉の世界はブラックだと言っていた。昨日のヘルパーさんの話は嘘ではないらしい。

友人に離人症を知っているかどうか聞いてみた。知っていた。自身も高校時代に体験しいているそうだ。傍目には私は正常のようだ。前に会った4月よりも元気そうだと言ってくれた。

朝、去年の夏のブログを読み返していた。本当に末期的だった。いま、こうして暮らしているのは奇跡かもしれない。3時間睡眠が1ケ月続き、躁状態で浪費に借金。さらには喘息が追い打ちをかける。おまけに主治医には「貴方は躁うつ病ではない」などと言われ頭が大混乱している。死にたいと書いている。もう、2度と夏を迎えたくないと書いている。

それを思えば、今の生活は収支の安定路線に近いところにいる。睡眠にも乱れがない。ただ、離人感だけが厄介だ。一日中ぼーっとしていて、何にも好奇心が湧かない。仕事にも集中できない。

生活設計はやり直しだ。タバコとコーヒーという生き甲斐を捨てるのは無謀なように思う。節約しようとするが出来ない。出来ないと反動で出費がさらに増える。タバコも1日1箱から2箱に増えてしまった。喫茶店に行く回数も増えた。問題だ。大問題だ。しかし、きっと去年の夏よりはマシだろう。家賃が滞る心配まではしていないのだから。

友人と会ったら、少しは離人感が解消されるかと思ったがそれは無かった。むしろ逆に、離人感を強く意識してしまった。何かが違う。私がここにいない。

転落が急激過ぎて、意識が追い付いていないんじゃないですか、というような事を言われた。確かに、1ケ月の出費は2年前の3分の1だろう。パソコンが壊れたらどうするのか。新しい洋服が買えない。いつまでカビの生えたマットの上で寝ているのか。夏の電気代が怖い。おい、それで安定路線に近いだって? 何か勘違いしていないか。まあ、去年よりマシなのは認めるが。

制約条件が無いとしたら何がしたいかを聞かれた。去年なら文学と答えただろうと言った。しかし、離人症の影響か今は詩も書けないと言っておいた。むしろ、イラストレーターやフォトショップを使ってデザイン系の勉強をしたいと言った。昔やっていた、システム開発の上流工程などどうかと言われたので、今は無理だろうと言っておいた。むしろやりたいのはコンテンツ制作だ。もちろん、そんな仕事はないだろうが。

折角、安定路線に近づいたのだ。いま、就労を考えるような時期ではないだろう。主治医の戯言に踊らされてはいけない。去年のブログを読み返して、そう痛感した。

元妻への愛

今朝、久しぶりに電話で元妻の声を聞いた。声を聞くだけで癒される。私は元妻を愛しているのだなと思う。元妻と娘は幸せに生きて欲しい。心からそう願う。

長い別居生活(単身赴任)の末の離婚だった。一方的な当方の経済事情から離婚に応じてもらった。元妻は、障害者である私を、どういう目で見ていたのか。

私が狂気から醒めたのは、2011年の事件による入院の時だったように思う。あの時に初めて現実に目覚めた。そして、家族への愛に目覚めた。それまでの10年以上の間、私は自己過信の中にいたのだ。愛は見えなくなっていた。

もっと家にお金を入れれば良かったと悔やまれる。もっと頻繁に帰省していれば良かったと悔やまれる。あまりにも少ない子供との思い出。私は子供のことを何も知らない。

離婚の話は、2012年から出ていた。生活保護を受けるためだ。元妻は「それだけいろいろな手続きが出来る人が精神障害者だなんて信じられない」と言っていた。はて、今はどう思っているのだろうか?

狂気。精神疾患。2013年の夏の東京での思い出。そして、すべてを終わらせた2014年秋の入院。

「会社を辞めたら離婚だからね」

そんな言葉を浴びたこともあった。

「貴方のことなんて視界にないですから」

電話でそう言われたこともあった。

それでも元妻は優しかった。耐えていたのだと思う。どこまでも、耐えていたのだと思う。弁護士に言わせると、私の行為は無茶苦茶らしい。一人で全給料を使っていたのだから。

「貴方にはついて行かないから」

1998年、地方へ転勤の辞令をもらったことを伝えた時、元妻は即座にそう言った。私は何も言わなかった。単身赴任が決まった。引っ越したばかりだった。娘の幼稚園が決まったばかりだった。最悪のパワハラとも言える辞令だった。発病は、その8ケ月後だ。

それから。元妻は遠距離の中、病院に同行してくれた。入院中はお見舞いにも来てくれた。しかし、病気のことは子供には秘密にしていた。

私が立ち直れば良かったのだ。会社を辞めても、フリーランスで食べて行ければ良かったのだ。しかし、立ち直るどころか、見事に現状まで転落してしまった。

適切な治療とは何だったのか。2001年、会社の借り上げたマンションから実家に引っ越すことになった時、母は私を拒絶した。それでも、元妻は頭を下げて母に同居を依頼した。私も頭を下げた。結局、父が出て行って母一人となった実家に私は住むことになった。仲は悪かったが、半ば会社からの要請でもあった。つまり、誰かの監視下でなければならないということだ。

退職後、母が私を実家から追い出し、結局は離婚したということは何度も書いている。母にとっては、私よりも、私の勤めていた会社の名前の方が大事だったのだ。こう書くのは、甘えだろうか。

会社に勤めている間の大学病院の治療方針は一貫していた。会社に行くこと、それが究極の治療目標だった。果たして、本当にそれで良かったのか。第一に私は躁うつ病だったのか。単なる適応障害ではなかったのか。薬で頭がおかしくなっただけではないのか。

会社を辞めて東京に戻るという選択肢は無かった。子供がいた。元妻はそれを認めなかった。私は、家族からも医療機関からも、働くことを命令され続けた。

狂気。精神疾患。治療方針。

今日はヘルパーさんと下手をすれば今頃はグループホームだったという話をした。福祉の世界の給与水準の驚くべき低さを聞いた。そう言えば昔のブログに何度も「主体性」と書いていた時期があった。私が主体性を発揮したのは会社を辞める時だった。そして、離婚する時だった。家を売る時だった。なんだ、結構主体性を発揮しているではないか。全部間違いだったのかもしれないが。

思えば、1999年の発病から2011年の退職まで、4度の入院を経験しながら会社勤めを続け、離婚もしなかったというのは驚異的なことだ。お陰でバブル並みの乱れた生活を何年も堪能できた。そのツケが今、回ってきているのだろう。

はて、治療方針に問題はなかったのか。治療は成功したと評価されるのか。解離性障害に苦しむ私を見て、昔の主治医は何と言うのだろうか。そして何を思うのだろうか。

卒業。私は昔の主治医から卒業させられたように感じている。元妻も、それ以降の主治医とは会ったことがない。私はきっと立ち直る。これだけの幸運を持った男が立ち直らない訳がない。それだけが愛の証。
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きょうげつ

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