昨夜は、川上未映子の「ヘヴン」を一気に読んだ。読み終わったら、2時をまわっていた。いろいろ、考えさせられた。どっぷり、小説の世界に入ったようにも思う。起きたら、11時だった。頭が重い。私の人生は終わっているのだなと実感する。いま、この時が辛い。現実感が薄まっているようにも感じる。大丈夫だろうか。

昨日のブログでは瞑想や自我について書いたように思う。しかし、ある人に言わせると、自我を消そうとするのは、今の私には危険だと言う。躁うつ病の病状悪化を招くリスクが高いと言うのだ。

私の場合、精神世界よりも現実世界が問題だ。終わっている、と言っても生きなければ仕方がない。お金も、地位も名誉も失い、知力は衰え、気力も体力もない。それでも、生きなければいけない。この、辛い今が、ずっと続くのだろうか。

なんとも言えない焦燥感。また、耳鳴りがする。昨日読んだ小説の影響かもしれない。「ヘヴン」は中学生のいじめを題材にした小説だ。つい、私自身の中学時代を思い出してしまった。なぜ、いじめるのか。ただの欲求。対象は誰でもいい。そこに理由などない。主人公はいじめられる側だ。そんな主人公に同じくいじめられている友達が出来る。小説の中でこの友達が「意味のある弱さ」、「美しい弱さ」という言葉を口にする。

さて、躁うつ病に意味があるだろうか? 躁うつ病は美しいだろうか? 躁うつ病を狂気に置き換えると、どちらの問いもイエスに思えてくる。しかし、どれほど意味があり、美しくあろうとも、これは苦しいものだ。本人もそうだが、家族も苦しい。

自我を消すのは危険かもしれない。しかし、現実を生きる上で、自我はあまりにも重い。ああ、なぜ地球上で人間だけが生きるためにお金を必要とし、働かなければいけないのか。それは人類という種が生き伸びるための戦略の一部だからだ。野生で生きるよりも、人類にはその方が有利だったのだ。本当だろうか? あるいは支配者の都合だったのか? しかし、いずれにしても今は、貪欲な者だけが生き残る。それが現実だ。

躁うつ病は弱さである。ハンディどころではない落差である。現実を見ると、貪欲になろうという気にすらならない。躁うつ病は決して社会の中心になることはなく、片隅に置かれる。それは運命と言うしかない。