狂月日誌

旧「実録・躁うつ病」。躁うつ病のリアルを書いていたのだが・・・

母親

狂犬扱い

昨日、母と電話でやりとりしていて、母の私に対するイメージが「ただの狂犬」であることが分かった。

確かに仲が悪い。話をするとすぐに喧嘩になる。しかし、暴力をふるったことはない。私がただ怒っているというだけで、狂っていることにされてしまっていたのだ。誰だって怒ることくらいあるだろう。それをいちいち病気にされていたのだ。ただの親子喧嘩で警察を呼ばれ、何をどう言ったのか知らないが、私は病院に入院させられた。その方が、よほど暴力ではないのか。

母親だけではない。このイメージを親戚にも言っているようだ。とんでもない親だ。それでいて、感謝を強要する。いったいどういう神経をしているのか。頭が痛い。

会社で発病してから退職するまでの12年は本当に苦しいだけの無駄な時間だったなと思う。社会的延命という治療方針に苦しめられていたと思う。私は、私の脳は、ボロボロになってしまったようだ。無駄な12年とは思いたくなかったが、ある医師が言ったことが正しかったように思えてきた。今の私は、世界の外側にいる。

狂犬の私を薬で抑えること。母の頭の中にあったのは、ただそれだけだったのだろう。私を人間として見ていなかった。ましてや、私の苦しみを理解しようなどとは、毛頭思っていなかった。あの人の中では、私の怒りはただの狂気にされてしまっていたのである。

今も、怒りが込み上げてくる。このブログを出版して親戚に配ろうか。(笑)

「ありがとう」が許せない

1999年の躁転。この時、私が単身赴任中であることは前に書いた通りだ。一人でワンルームマンションの高層階に住んでいた。しかし、躁転を繰り返すうちに、主治医が誰かと住まないと駄目だと言い出した。妻は引っ越すつもりはない。子供に、こんな父親の姿は見せられないからだ。近隣の都市部に実家があった。そこには離婚して父を追い出した母が大きな屋敷に一人で住んでいた。私は、この家に引っ越した。

もちろん私は相当額の家賃と食費その他を毎月支払った。それでも母の口癖は「面倒を見てあげてる」「感謝しなさい」だった。私としては、お金を出しているのだから、もう少しまともな食事が食べたかったし、部屋も何故私が1部屋だけなのか理解できなかった。

それでも私は誕生日や母の日にはプレゼントするなど、それなりに気を使っていた。同居といっても広い家だったので、食事も別だし、会話もほとんどなかった。会話をすると喧嘩になるからだ。母は都合の良い時には私を病気だと言い、都合が悪いときには今は病気ではないと言った。医者の意見や発言も、すべて母に都合の良いように塗り替えられるので、診察に一緒に行く意味が無かった。

ある日、軽躁状態だった私は母を中華料理に誘った。もちろん、私の奢りだ。レストランで従業員が母にお茶を足した時だ。母は、思い切りの上から目線で「ありがとう」と言った。あからさまに従業員を軽蔑しているかのような言い回し。お前は何様なのか。私は、「そのありがとうの態度は何だ」と激怒した。私には母の心の中が透けて見えた。メラメラとした正義感に火が着いた。そして、私が何に怒ったかを話終わると、目の前にあったノンアルコールビールを母の顏のど真ん中にぶっかけた。私は立ち上がると財布から2万円を出し、一人店を出た。まるで映画のヒーローになったような気分だった。その日、母は家に帰って来なかった。

その後、主治医にこの話をすると、「本当に仲が悪いんですね。接触しないでください」と言われた。おいおい、同居を勧めたのは主治医、あなたですから。私は母が怖くなり、実家を出た。

この事件は、私の易怒性(いどせい)を示すエピソードだ。母は私のことを人格障害だと口癖のように言う。いつもは温厚な人格なのに、何年かに一度、易怒性が出る。それは発病前の会社員時代にもあった。そして、一度怒った相手は決して許さない。これも病気なのだろうか?
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きょうげつ

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