狂月日誌

旧「実録・躁うつ病」。躁うつ病のリアルを書いていたのだが・・・

躁うつ病

意識の奇妙な軽さ

今日は目覚まし時計の音で起きた。7時半。夢の中で公式文書を作成する仕事をしている時だった。寝ていたい。しかし、朝一番で病院に行くことにしているのだ。起きた時から、妙な意識の軽さがあった。最近読んだSF小説によると、意識とは20個ほどのモジュールで構成されるもので、意識があるとか、ないとかいう単純なものではないと言う。本当か嘘かはわからない。ひとつの仮説なのだろうが、妙に納得できる。意識は軽ければ良いというものでもない。実際、何かをしようという意欲が持てない。ただ浮かんでいる。そんな感じだ。

リスパダールは結局、眠前の1mLのみになった。冒険はしない。それで良いだろう。医者には家族のことを質問された。妻には障害者である私の面倒を見る考えのないこと、私の社会復帰をのぞんでいること、私が社会復帰したとしても同居が困難であろうこと、そして双方に積極的な離婚の意思がないことを伝えた。不思議な家族だが、お互いに離婚をすると、より孤独になる。一般的な家族の実態はないが、何もないということでもない。脆く壊れ去った廃墟の中に、強い何かがある。お互いに廃墟を離れようとはしない。それは論理を超えているのだと思う。

いよいよ4月。今年も4分の1が過ぎた。雑煮を食べたのがつい先日のように思う。その時から、まだ日常は安定したことがない。活動と呼べるものが何かあっただろうか。重大な出来事は転院と引っ越しの延期くらいだ。4月からは何らかの活動と呼べることをしたいと思う。特に、書くこと。そう思いながら最近は読むことが増えている。どこまでひねくれた体質をしているのかと思う。この意識の奇妙な軽さは、モチベーションというやつを消し去って行く。今日は無理だ。明日から頑張ろう。そして、一日というのは起きた時の気分で決まるように思えてきた。仕事も何もなく、どこまでも自由になった人間の生態。人間は習慣の動物だそうだが、習慣を失った人間はいったいどうなるのだろう。いや、私は明らかに習慣を失いつつある。

今は仕事が目標ではないということも主治医と確認した。今日もヘルパーさんが来て食事を作ってくれた。主治医は活動的になるな、とも言わなかった。自分で判断してください。そうなのだ。主体性を再構築することが重要なのだ。それでも私には一人、心強い相談者がいる。かなり依存している。それは一概に良いとは言えないのかもしれない。しかし、適切な依存は悪いことではないと書いておく。私は障害者なのだ。甘えではなく、立場を知ることは大切なことだと思うようになった。自分が障害者であることを受け入れることも勇気だろう。特に、精神障害者の場合は。

躁うつ病と闘うという表現は適切だろうか。寛解を目指して行うべき努力があるのだろうか。快方へと向かうのは好ましいことだが、そのための方法論などというものは何もない。あるのは再発の予防と、再発時の治療。そのために何かを犠牲にして生きている。

ある患者は、躁うつ病と闘っても勝ち目はないと語った。ある人は躁うつ病と共に生きろと言う。私はまだ、躁うつ病の全容がわからない。極端に病的な状態を除いて、どこからが病気で、どこからが正常なのかが、まるでわからない。今日の「意識の奇妙な軽さ」にも違和感がある。しかし、医者はこれを病状だとは言わない。だから、意識には20のモジュールがあって・・・。いや、これ以上書いても無駄だ。やめておこう。

起きていない。寝ていない。

躁病後の鬱という奴だろうか。朝から目は覚めていても起きているという感覚がしない。交感神経が働いていない気がする。それでも朝と寝る前のリスパダール1mlはやめない。いまは我慢なのだと思う。

いつも通りカフェでモーニングを食べた。それでも食欲がおさまらず、別のカフェでフレンチトーストを2枚食べた。昼食は焼きそば、コロッケ2個、蒸しパン3個。昨日と同様に異常な食欲だ。

朝食後は1時間ほど寝た。昼食後も1時間ほど寝た。夕方は歯医者に行き、舌に当たって痛かった歯を削ってもらった。本を読んだのは朝のカフェでの小一時間。意欲というか、エネルギーが湧いてこない。自己評価も下がり気味だ。まあ、まだ正常の範囲だろうが、睡眠すら安定しないのでは働けるはずもない。このまま、座して死を待つことになるのか。どこか他人事といった感じもする。まあ、考えても始まらない。今が快適なら、それで十分なのだと納得したい。

昨日書いた「薄っぺらい人々」というエントリーについては反省するところがある。私はいったい何に対して嫌悪を抱いているのだろう。寛容が欠けていると思う。そしてまた、その嫌悪が実は自分自身に対して向けられているのだということに気がつく。差別されているという意識、差別したいという意識もまた、劣等感に由来している。でも、嫌いなものは嫌いなのだ。そんなところで我慢したり、嘘をつく必要などない。ただ、その表出が未熟なのだろう。世渡りが下手なのだろう。まあ、こんなことはきっと躁うつ病とは何の関係もないことだと思うが。

就労は病気、体力、需給などの面から考えて検討する価値がないように思われる。私に出来るのは、こうしてパソコンに向かって書くことだけだ。ブログだったり、評論だったり、小説だったり、詩だったり。

その中で一番人気があるのが、このブログだ。先日、友達にこのブログを本にしたいと言ったら「甘い」とたしなめられた。本になるような水準でもなければ、売れる内容でもないのだと言う。これはとてもショックだった。この友達は文芸評論家でも出版関係者でもない。そういう人の見解に深く傷ついてしまう自分の弱さにも呆れ果てる。そうやって、二重三重に傷が深くなる。若干の怒りと、果てしない虚無感に包まれる。

人間という動物は、人生という物語(ナラティブ)と共に生きている。その物語は、尊厳と傷つきやすさの間で揺れ動く。私は世界に足跡を残したかった。そんな下品なことに尊厳を求めていた自分が、今は情けない。ただ、これだけは確実に言える。どんな物語も、読者を求めているのだと。精神科領域で働く人の基本は読者になることなのだと。クライアントは、それだけで癒されるものなのだ。だから私は、これを読んでくださっている読者に、ありがとうと言う。

節約への疑問

昨日は夕方から、友人A氏、友人B氏と会って三人で食事をし、喫茶店で雑談をした。A氏とB氏は初対面だが、すぐに打ち解けた。A氏は30代のフリーランス。B氏は40代のフリーランス予備軍だ。予備軍といえばかっこいいが会社更生法にひっかかり失業が確定しているだけだ。昨日は起業についての話し合いの予定だったのだが、誰にも切実さがない。貯金があって余裕があるわけでもない。それでも二人は明るい。ただの雑談になったことは私には少し不満だったが、楽しい数時間を過ごせたことは有意義だった。

昨日は昼のリスパダールもやめた。1日二回。朝と寝る前にした。夜の10時頃まで三人でいたが、眠くもならなかった。夜もすぐに寝られ、起きたのは7時過ぎ。良い感じだ。

私は贅沢ではないが節約した経験がない。海外旅行や自動車、ブランドに興味はないが、日常生活でお金のことを考えるのが、節約を意識するのが嫌いなのだ。10円でも安い缶コーヒーを選ぶとか、喫茶店を我慢するというのが耐えられない。借金もしないが貯金もない。そんな生活を長年おくってた。多分、昨日集まった3人も同じような感覚だ。いまここでの快適さを大切にする。未来にたいする楽天的で明るい態度。やはり似たものが集まるのだろうか。

私はただの大卒だが、A氏もB氏も院卒だ。それでも出世願望とか、上昇志向のようなものは見られない。しっかりと自分の人生観に従って生きている。そういう人だから友達になれる。嗜好は違っても、そういう人同士の会話は弾む。言い方は悪いかもしれないが、サラリーマンの狭い世界での馴れ合いの会話とは質が違うと思う。

こういう時間は、病気に対する癒しにもなる。私が求めている究極の時間は、こういう時間なのだ。最後は、毎月1回は3人で集まりましょうという話になった。だんだんと私も正常に向かっていると思った。ただ、まだ違和感は残る。本調子ではない。デパケンの影響だとも思う。しかし、これはすぐにはやめられない。おそらく激しい離脱症状が出る。医師は定説通りに維持量としての服薬を指示するだろう。交渉は長期戦になる。

もう働けないですよと前の主治医に言われてから、医者やケースワーカーに節約の練習を命令された。ある人は、1日1500円を目安にしなさいと言った。もちろん贅沢に興味はない。しかし、節約することで、人生のチャンスをどんどんと失うように思えてきた。貧すれば鈍す、という言葉もある。

そんな訳で、今日も出かけることにした。来月の読書会の課題図書も買うつもりだ。もっとも節約は必要でもある。今日の昼ははカップ麺だ。少し歩いてでも安い交通機関を選ぶ。自炊にかかるコストも見えてきた。ペットボトルのお茶や水から、水出しの麦茶に変えた。人に奢る習慣を割り勘に変えた。これは節約というよりは金銭感覚の適正化というべきものだと思う。節約というと無理をして切り詰めるという感じになる。無理はよくない。まあ、世の中には節約が喜びという人もいるかもしれないが。

躁うつ病にストレスは良くないと思う。しかし、ストレスフリーが長くなると社会に適応する力が失われるな、とも思う。今はまだ状態が安定していないのだ。ストレスをかけないこと、無理な節約をしないことも自己管理だと言い訳しておきたい。

とにかく活動的だ

今日は3時に目が覚めた。都合5時間睡眠といったところだろうか。

早朝からブログを書き、朝一番でカフェでモーニングを食べ、書類を作成し、Docomoショップに行き、郵便局に行き支払、コンビニに行き支払。またカフェに行って本を読み、帰宅して昼食、その後スーパーで買い物。午後も電車に乗って出掛ける予定だ。昨日は疲れて頭が働かなかったが、今日はマシだ。リスパダールを増量し、飲み方を変えたのは正解だったように思う。

悩み事は多いのだが、4月いっぱいは、この街での生活をエンジョイしようと気持ちを切り替えた。おしゃれな街のカフェで若者に囲まれて本を読む。服装にも気を配る。世捨て人的浮浪者時代とは大いなる変貌だ。

ただ、やはり寝不足で身体がしんどいのと、頭が冴えないのは仕方がない。この程度は受け入れるしかないと思う。健康を目標にしてはいけない。そう思う。

最近、食欲が旺盛だ。躁の時は脳が狂うのだろう、拒食ななる場合と過食になる場合がある。昨日も夜にコンビニに行って、クロワッサンを5個食べた。特に夜の食欲が止まらない。良くないことらしい。

自炊を初めて10日になる。とにかくご飯が美味しい。ただ、これも太る原因になるかもしれない。まあ何ごとも、一長一短はある。すべてはトレード・オフなのだ。

軽躁とは言え、浪費はしていない。問題は睡眠だけだろう。

リスパダール増量

今日も1時間しか眠れなかった。朝一番で病院に行った。レンドルミンを貰おうと最近の睡眠状況などを説明したのだが、結果はリスパダールの増量だった。1日3回、朝、昼、夜、各1mlだ。まあ、これで試してみるしかない。それにしても近所の病院という病院は便利だ。私はラッキーなのだろう。

思えば、状態に変化が起きたのは、ヘルパーさんに来てもらうようになってからだと気がついた。誰も来ないゴミ屋敷が、今やモデルルームだ。週2回他人が来る。それがストレスはストレスでもある。

まあ、理由はいろいろと考えられる。引っ越しへの不安、仕事への欲望、その他諸々。何が引き金なのかは分からない。考えるだけ無駄なのかもしれない。しかし考えないように頑張るのもしんどいのだ。

昨日は友人に「そわそわした感じ」だと言われた。その通りだと思う。浮ついていて落ち着きがない。医者は言わなかったが「軽躁状態」と言ってもおかしくないのかもしれない。今日もカフェでBGMに合わせて数秒だが英語の歌を声に出してしまった。まあ、客は私一人だったのだが。

ある友人にメールをし、さらに返事の催促をしたのだが、まだ返事が来ない。こういうのは本当にイライラする。まあ、これは私自身の問題なのだ。そう自分で言い聞かせる。

いろいろな人に手紙を書いては送っている。典型的な躁状態の行動パターン。自覚はある。しかし、止まらない。自覚を持ち、薬を使って、その時期が去るのを待つこと。それにしても、躁うつ病は厄介な病気だ。完治などという夢は追いかけない方が賢明なのだと思う。さあ、今日は眠れるのだろうか?
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きょうげつ

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