2012年01月01日
2012年!
あけましておめでとうございます!
2011年は色々ありました。
まぁ,20日の修論提出が終わらなきゃ2011年が終わった気がしないので,これはいずれ機会があれば・・。
今年の目標!
1. 1冊の本をしっかり読む。
これは,自分の悪い癖からきた目標。いろんな本に興味を持つのはいいけども,どれも中途半端に読んでしまって,それに伴って知識も中途半端になってしまう。1冊の本をしっかりと精読することで,知識をしっかりとつけたい。
2. 語学をやる。
これまで続けてきた英語の勉強はもちろんのこと,もう1つ2つ言語を勉強しようと。修論も片付いたらやろうと思う。やはり言語学をやってて,語学の知識がマイナスになることはないし,その方が言語学というものを適切に捉えられるはず。
まず地道にやるところではこんなもんか。
これだけは絶対に何としても継続したいのはこの2つです。
この2つを軸に,研究を頑張っていきたい!
2011年は色々ありました。
まぁ,20日の修論提出が終わらなきゃ2011年が終わった気がしないので,これはいずれ機会があれば・・。
今年の目標!
1. 1冊の本をしっかり読む。
これは,自分の悪い癖からきた目標。いろんな本に興味を持つのはいいけども,どれも中途半端に読んでしまって,それに伴って知識も中途半端になってしまう。1冊の本をしっかりと精読することで,知識をしっかりとつけたい。
2. 語学をやる。
これまで続けてきた英語の勉強はもちろんのこと,もう1つ2つ言語を勉強しようと。修論も片付いたらやろうと思う。やはり言語学をやってて,語学の知識がマイナスになることはないし,その方が言語学というものを適切に捉えられるはず。
まず地道にやるところではこんなもんか。
これだけは絶対に何としても継続したいのはこの2つです。
この2つを軸に,研究を頑張っていきたい!
2011年12月22日
虚栄心
「虚栄心は、人間が現在の自分を乗り越えて行くために欠くことの出来ない悪徳である。」
「哲学の歴史や諸概念の歴史を調べてみると、真理への愛 だけが学者たちを動かしていたのでないことに気づく。もちろん、真理への愛がなかったら、何事も始まりはしないが、それと相混じて、虚栄心を初めとする醜い悪徳が彼らを駆り立て、しかも、そこから思わぬ業績が生まれていることがある。同量を蹴落とそうとして、その学説に反対したり、有名になろうとして、極端な学説を編み出したり・・・・・・、それが、はからずも、立派な成果を生むことがある。それは、昔もあったし、今もある。」
(清水幾太郎 著『本はどう読むか』 p.29)
「哲学の歴史や諸概念の歴史を調べてみると、真理への愛 だけが学者たちを動かしていたのでないことに気づく。もちろん、真理への愛がなかったら、何事も始まりはしないが、それと相混じて、虚栄心を初めとする醜い悪徳が彼らを駆り立て、しかも、そこから思わぬ業績が生まれていることがある。同量を蹴落とそうとして、その学説に反対したり、有名になろうとして、極端な学説を編み出したり・・・・・・、それが、はからずも、立派な成果を生むことがある。それは、昔もあったし、今もある。」
(清水幾太郎 著『本はどう読むか』 p.29)
2011年11月11日
人を評価する
人を評価するってことは日常生活をする上で誰でもすることだと思う。
身近な人はもちろんだし、街で接したり、見かけた他人でさえも我々は評価する。
学問の世界の研究室も例外じゃない。
特に人からの助言で成長していくこの世界だと、人からの評価がモチベーションになることは十二分にありえる。
もしくは、逆にその評価によってやる気が無くなるってこともあるだろう。
では、その評価というものが本人がいない場所でされるとしたらそれはどれくらい意味があるのだろうか、ってことを最近よく考える。もちろんいい評価ならどこでされてもいいのだが、悪い評価をしても生産性は無くて、ただその評価者の自己満になっているような気がする。
悪い評価をされる者も、そういった事実(つまり自分がいない場所で研究室の複数人が自分についての悪い評価を行っていること)を知ったらよくは思わないだろうし、そうだったら自分に直接言ってくれよ、って思うだろう。少なくとも僕は絶対そうだ。
高校生のときに数学の先生が、僕の友達に「あいつ(僕)は、服装とかが悪い。一回落第すればいい。」と言っていた事実を聞かされたことがある。
僕はそう思われるのは仕方がないことだし、自分が悪かったことを否定するつもりはなかったんだけど、何故それを僕に面と向かって言ってくれなかったのだろう。もう指導するほどの価値もないと思われてしまったのかと非常に悲しくなった。
研究室内でも、よくそういったこと、つまり「ある人に対する悪い評価を当人がいない場所で話し合う」ってことをすることがあるし、自分も実際することはある。果たしてそれがどこまで生産的なことなのか、ってのはよく考えなくてはいけないと思った。もちろん、その評価ってのを当人に伝えている上での話なら別なのだが。
つまり、「悪い評価」というものは存在しなくてはならないと思う。それは、その人の今後の成長を促すために、である。それを当人が居ない場所で行うのは、(i) 評価者たちの自己満足 (ii) その評価を聞いている他の人たちが反面教師のモデルとして使用する のどちらかだと思うのだけど、やはりその評価を当人に知らせていない状況での話ならば、(i) も (ii) も少々酷であるような気がしてきた。
自分も「当人がいない場所での悪い評価」は、やってしまうことがあるので、それがどれだけの価値があることなのかしっかり考えていきたい。
身近な人はもちろんだし、街で接したり、見かけた他人でさえも我々は評価する。
学問の世界の研究室も例外じゃない。
特に人からの助言で成長していくこの世界だと、人からの評価がモチベーションになることは十二分にありえる。
もしくは、逆にその評価によってやる気が無くなるってこともあるだろう。
では、その評価というものが本人がいない場所でされるとしたらそれはどれくらい意味があるのだろうか、ってことを最近よく考える。もちろんいい評価ならどこでされてもいいのだが、悪い評価をしても生産性は無くて、ただその評価者の自己満になっているような気がする。
悪い評価をされる者も、そういった事実(つまり自分がいない場所で研究室の複数人が自分についての悪い評価を行っていること)を知ったらよくは思わないだろうし、そうだったら自分に直接言ってくれよ、って思うだろう。少なくとも僕は絶対そうだ。
高校生のときに数学の先生が、僕の友達に「あいつ(僕)は、服装とかが悪い。一回落第すればいい。」と言っていた事実を聞かされたことがある。
僕はそう思われるのは仕方がないことだし、自分が悪かったことを否定するつもりはなかったんだけど、何故それを僕に面と向かって言ってくれなかったのだろう。もう指導するほどの価値もないと思われてしまったのかと非常に悲しくなった。
研究室内でも、よくそういったこと、つまり「ある人に対する悪い評価を当人がいない場所で話し合う」ってことをすることがあるし、自分も実際することはある。果たしてそれがどこまで生産的なことなのか、ってのはよく考えなくてはいけないと思った。もちろん、その評価ってのを当人に伝えている上での話なら別なのだが。
つまり、「悪い評価」というものは存在しなくてはならないと思う。それは、その人の今後の成長を促すために、である。それを当人が居ない場所で行うのは、(i) 評価者たちの自己満足 (ii) その評価を聞いている他の人たちが反面教師のモデルとして使用する のどちらかだと思うのだけど、やはりその評価を当人に知らせていない状況での話ならば、(i) も (ii) も少々酷であるような気がしてきた。
自分も「当人がいない場所での悪い評価」は、やってしまうことがあるので、それがどれだけの価値があることなのかしっかり考えていきたい。
2011年08月21日
『世界の言語と日本語』8章
8章は、従来ごっちゃに扱われてきた
「主語 subject 」、「主格 nominative case」 、「主題 topic」、「動作主 agent 」は、こういう風に区別できるんですよ、というお話。
英語は、主語に7つの役割があるため、非常に主語の優位性が高い (8.9.3)。
対して日本語は、主語・目的語共に4つの役割があるため、主語唯一の優位性はない (8.11)。
8.11で、日本語の様々なパターン(「が+を」、「が+に」、「が+に+を」など) で、主語らしさを4つの役割に沿って論じている。
これまでぼんやりとしか捉えてなかった (オイ!)4つの概念が結構クリアになりました。
「主語 subject 」、「主格 nominative case」 、「主題 topic」、「動作主 agent 」は、こういう風に区別できるんですよ、というお話。
英語は、主語に7つの役割があるため、非常に主語の優位性が高い (8.9.3)。
対して日本語は、主語・目的語共に4つの役割があるため、主語唯一の優位性はない (8.11)。
8.11で、日本語の様々なパターン(「が+を」、「が+に」、「が+に+を」など) で、主語らしさを4つの役割に沿って論じている。
これまでぼんやりとしか捉えてなかった (オイ!)4つの概念が結構クリアになりました。
2011年07月23日
『世界の言語と日本語』
最近読んでいる本。
読もう読もうと思っていて、やっと最近購入。
現在5章まで読み進めたが、いろんな言語が出てきて豪快で面白いです。
特に、5章の「他動性」のとこが面白かったです。
他動性と言えば、Hopper and Thompson (1980) の研究が有名だけれども、角田先生は、それを豪快にばっさり切っている(もちろん部分的にだけれども)。
具体的にいうと、Hopper and Thompson (1980) では、volitionality (意志性)が高いほど他動性は高いみたいなことを言っているらしいが、実は全然関係ない、というのが角田先生のご意見。
(i) I hit him. 意志性<言及なし> 被動作性<+>
(私は彼を叩いた)
(ii) I hit at him. 意志性<+> 被動作性<言及なし>
(私は彼を叩こうとした)
(i)では、被動作主(him)に対して、動作主の行為の影響が及んでいるため被動作性は+だが、それは意図的であるかどうかはわからない。
(ii)では、被動作主に対して、動作主の行為の影響が及んでいるかどうかはわからないが、動詞のhit, kick, shootなどが前置詞atをとると、「狙う」という意図性が含意される。
つまり、意図性がなくても、被動作性はある場合があり、そのときは他動性が高いと言える。つまり、意図があるかどうかは、他動性とはあまり関係ないわけである。
なるほどなぁ~と思っていたときに、
「実はパルデシ (2007)が意図性と他動性が密接な関係がある言語が存在していることを発見した」
とあって、びつくり(笑)。
南アジアの諸言語は、被動作性よりも意図性が他動性と密接な関係を持つものがあるらしい。
だから、他動性の研究の歴史はこういう流れになっているっぽいです(誤解をおそれず言ってますwしかも、この3つの文献は読んでいません・・・汗)。
Hopper and Thompson (1980) → Tsunoda (1981など) → パルデシ (2007)
【意図性主義】 【被動作性主義】 【どっちもあります主義】
とは言え、何といっても。自分の不十分な点を指摘している文献をしっかり提示することができる角田先生の学者としての心意気に感服したなあ。 これが本物の「改訂版」です。すごい!
読もう読もうと思っていて、やっと最近購入。
現在5章まで読み進めたが、いろんな言語が出てきて豪快で面白いです。
特に、5章の「他動性」のとこが面白かったです。
他動性と言えば、Hopper and Thompson (1980) の研究が有名だけれども、角田先生は、それを豪快にばっさり切っている(もちろん部分的にだけれども)。
具体的にいうと、Hopper and Thompson (1980) では、volitionality (意志性)が高いほど他動性は高いみたいなことを言っているらしいが、実は全然関係ない、というのが角田先生のご意見。
(i) I hit him. 意志性<言及なし> 被動作性<+>
(私は彼を叩いた)
(ii) I hit at him. 意志性<+> 被動作性<言及なし>
(私は彼を叩こうとした)
(i)では、被動作主(him)に対して、動作主の行為の影響が及んでいるため被動作性は+だが、それは意図的であるかどうかはわからない。
(ii)では、被動作主に対して、動作主の行為の影響が及んでいるかどうかはわからないが、動詞のhit, kick, shootなどが前置詞atをとると、「狙う」という意図性が含意される。
(角田2009: 87)
つまり、意図性がなくても、被動作性はある場合があり、そのときは他動性が高いと言える。つまり、意図があるかどうかは、他動性とはあまり関係ないわけである。
なるほどなぁ~と思っていたときに、
「実はパルデシ (2007)が意図性と他動性が密接な関係がある言語が存在していることを発見した」
とあって、びつくり(笑)。
南アジアの諸言語は、被動作性よりも意図性が他動性と密接な関係を持つものがあるらしい。
だから、他動性の研究の歴史はこういう流れになっているっぽいです(誤解をおそれず言ってますwしかも、この3つの文献は読んでいません・・・汗)。
Hopper and Thompson (1980) → Tsunoda (1981など) → パルデシ (2007)
【意図性主義】 【被動作性主義】 【どっちもあります主義】
とは言え、何といっても。自分の不十分な点を指摘している文献をしっかり提示することができる角田先生の学者としての心意気に感服したなあ。 これが本物の「改訂版」です。すごい!
2011年07月13日
修飾
修飾って何なのか分からなくなってきた?
名詞には修飾する機能はあるのか?
修飾しているように見えて、ただあるフレーム内における関係が近いだけではないか?
と思うのは、暴論すぎるか・・・?
名詞には修飾する機能はあるのか?
修飾しているように見えて、ただあるフレーム内における関係が近いだけではないか?
と思うのは、暴論すぎるか・・・?
2011年06月23日
ソシュールと使用基盤モデル
認知言語学で採用されている言語観としてusage-based model (使用基盤モデル)というものがある。
それは誤解を恐れずにざっくりと言うと、言語で所謂「文法」と呼ばれているものは、言語使用がプライマリーにあって、つまり実際に言語が使用されることによって自ずと形成されていくものであって、根本的に静的なものではなく、動的(dynamic)なものである、と考える言語観だ。
Bybee (2006) では、これまでの言語学では、言語使用と言語の構造が峻別され(ラング v.s. パロール、言語能力 v.s. 言語運用)、言語使用が文法理解にとって重要なものと考えられることがなかったと述べられている。
In American structuralism and in generative grammar, the goal of studying language/ competence was given highest prioriy and the study of language use in context has been considered to be less relevant to the understanding of grammar.
で、そういったこれまでの言語研究の流れの大元にあるのが、ソシュールによるラングとパロールの区別、というらしいが、日本における偉大なソシュール研究家である丸山圭三郎の本を読んでいると、本当にそうなのか疑問が出てくる。
「…ラング、パロールの両者が相互依存の形をとっている…。個人の言葉が人から理解されるためには社会の約束事がなければならないが、その約束事が成立するためには、まず個々の具体的発話がなくてはならない。 また個人がラングを獲得でき習得できるのはあくまでも社会生活を通してであり、しかも個人ひとりでそれを変えることができず、むしろあるがままのラングを押し付けられるのも事実であれば、歴史的には常にパロールが先行したのも事実である。この作りつつ作られ、作られつつ作るという相互基底が、ちょうど社会とその中に住む個人のような関係にも似て、ラングとパロールの間に見られる…」
それは誤解を恐れずにざっくりと言うと、言語で所謂「文法」と呼ばれているものは、言語使用がプライマリーにあって、つまり実際に言語が使用されることによって自ずと形成されていくものであって、根本的に静的なものではなく、動的(dynamic)なものである、と考える言語観だ。
Bybee (2006) では、これまでの言語学では、言語使用と言語の構造が峻別され(ラング v.s. パロール、言語能力 v.s. 言語運用)、言語使用が文法理解にとって重要なものと考えられることがなかったと述べられている。
In American structuralism and in generative grammar, the goal of studying language/ competence was given highest prioriy and the study of language use in context has been considered to be less relevant to the understanding of grammar.
(Bybee 2006: 711)
で、そういったこれまでの言語研究の流れの大元にあるのが、ソシュールによるラングとパロールの区別、というらしいが、日本における偉大なソシュール研究家である丸山圭三郎の本を読んでいると、本当にそうなのか疑問が出てくる。
「…ラング、パロールの両者が相互依存の形をとっている…。個人の言葉が人から理解されるためには社会の約束事がなければならないが、その約束事が成立するためには、まず個々の具体的発話がなくてはならない。 また個人がラングを獲得でき習得できるのはあくまでも社会生活を通してであり、しかも個人ひとりでそれを変えることができず、むしろあるがままのラングを押し付けられるのも事実であれば、歴史的には常にパロールが先行したのも事実である。この作りつつ作られ、作られつつ作るという相互基底が、ちょうど社会とその中に住む個人のような関係にも似て、ラングとパロールの間に見られる…」
(丸山 1981: 84)
そして、まさしくこれは usage-based 的考え方であろう、と感じられるのが、丸山によって引用されているソシュールの第1回講義に出席していたリードランジェのノートからの一節だ。
【追記】(2011/06/24)
そして、まさしくこれは usage-based 的考え方であろう、と感じられるのが、丸山によって引用されているソシュールの第1回講義に出席していたリードランジェのノートからの一節だ。
「人が語るためには、ラングの宝庫が常に必要であるというのも事実であるが、それとは逆に、ラングに入るものはすべてまずパロールにおいて何回も試みられ、その結果、持続可能な刻印を生み出すまでくりかえされたものである。ラングとはパロールによって喚起されたものの容認に過ぎない。」
(丸山 1981: 85)
「パロールにおいて何回試みられ」、「持続可能な刻印を生み出すまでくりかえされた」、「ラングとはパロールによって喚起されたものの容認」という言い方はまさしく usage-based model そのものである。
丸山があらゆる著作で一貫して述べているのは、
「言語学の唯一・真正なる対象はラングである」というのは全くソシュール的でなく、おそらく『一般言語学講義』を編集した弟子らによって創作されたものである。
ということである。
もしこれが事実ならば、ソシュールは実は、その当時から usage-based model 的な言語観を持っていたということになる。それはそれで非常に興味深い、とぞくぞくしながら読んでいる 丸山圭三郎 著 『ソシュールの思想』。
この本、学部時代に図書館の「自由に持っていっていいですよ~」コーナーで拾って持ち帰ったもの。貴重な本に出会えてよかったです^^
【追記】(2011/06/24)
しかし、Hopper (1987)の"Emergent Grammar"を読んでみると誤解はされていないみたいですね。
In opposition to the 19th century's preoccupation with written texts, and the tendency to identify language with written language, Saussure (1916/ 1986) and his succesors were at pains to point out that it is the essential nature of language to be spoken, and that writing is secondary to speech.
【追記】(2011/06/24)
Bybee (2010)では、
The first usage-based linguist of the twentieth century was Joeseph Greenberg.
【参考文献】
【追記】(2011/06/24)
Bybee (2010)では、
The first usage-based linguist of the twentieth century was Joeseph Greenberg.
(Bybee 2010: 195)
と述べられているけど、このソシュールの名前や、ステルン(Gustaf Stern)の名前も挙げた方がいいのかもしれない(本格的にusage-based model 的な研究をしていないにしろ)。ステルンはまだ本格的に読んだことがないけど、深田・仲本(2008)で引用されており、usage-base model の言語観と近い、と述べられている。
・・・一時的、あるいは個人的な「ゆれ」 (fluctuation)の段階を超え、比較的多数の言語話者によって慣習的に用いられるようになると、周辺的な意味だったものが新しい意味として確立し、言語体系の中に取り込まれていく。
・・・一時的、あるいは個人的な「ゆれ」 (fluctuation)の段階を超え、比較的多数の言語話者によって慣習的に用いられるようになると、周辺的な意味だったものが新しい意味として確立し、言語体系の中に取り込まれていく。
(深田・仲本 2008: 8)
【参考文献】
Bybee, Joan. 2006. From usage to grammar: the mind's response to repetition. Language 82: 711-733.
Bybee, Joan. 2010. Language, Usage and Cognition. Cambridge: Cambridge University Press.
深田智・仲本康一郎. 2008. 『概念化と意味の世界』 東京:研究社.
Hopper, P. 1987. Emergent grammar. Berkeley Linguistics Conference (BLS), 13:139--157.
丸山圭三郎. 1981. 『ソシュールの思想』 東京: 岩波書店.
2011年06月20日
チェスゲーム
「我々が言語とチェスを比較できるとしたら、それは同時に位置することと打ちから成立する、つまり同時に変化と状態から成る完全な意味でのチェスゲームでしかないと確信している。」
(『ソシュール小事典』より)
2011年04月20日
耳が痛いこと
Joan Bybee(2010) "Language, Usage and Cognition"より引用
"Understanding how structures arise in grammars provides us with possibilitis for explanation not available in purely syncronic descriptions. Because morphosyntactic patterns are the result of long trajectories of change, they may be syncronically arbitrary; thus the only source of explaining their properties may be diachronic."
以前記事で書いたCroft先生のお言葉も考慮に入れると、結論は以下のようになる。
フィールドワーカーと歴史言語学やってる人は神!
ああ・・・笑
"Understanding how structures arise in grammars provides us with possibilitis for explanation not available in purely syncronic descriptions. Because morphosyntactic patterns are the result of long trajectories of change, they may be syncronically arbitrary; thus the only source of explaining their properties may be diachronic."
(Bybee 2010: 110)
以前記事で書いたCroft先生のお言葉も考慮に入れると、結論は以下のようになる。
フィールドワーカーと歴史言語学やってる人は神!
ああ・・・笑
2011年04月05日
「ある概念を説明する」
というのは、難しい。
特にそれが限られた分量で、となるとなおさら、その難易度は増す。
限られた分量で、ある概念について説明するには、概ね以下の項目が必要になる。
・その概念を一言で定義する
・その概念が出てきた歴史
・誰によって提唱されているか
・その概念が分かる、具体的かつシンプルな例の提示
・その例以外では、他にどのようにその概念が使われているかおおまかにリストアップ
・その概念の今後の展望
この項目を、いかにシンプルに、いかに流れよく、分かりやすく書くか、が重要である。
そういった観点から、本や論文を改めて読むと、また見えるものが違ってくる。

