c010cdd8.bmp * 写真はアメリカ、ビリー・グラハム牧師の「クルセード」集会で肩を組んで涙しながら祈る信者達の様子。

  千石イエスについて書いたので、若干敷衍して彼がカルトよばわりされたことについて考えていることを申し述べてみたい。 

 繰り返しになるが、私がごく簡単にまとめた「カルトの定義」は、
 
 「特定の人物(あるいは事物)に対して、熱狂的(狂信的)な崇拝やのめり込みを行うことや、そうした行為を行う組織・集団のこと」
 
 であるという内容である。宗教、政治思想、勝手な妄想、ユートピア思想などジャンルは不問。例外があるが、閉鎖的である場合が圧倒的。極めて特異な教義、信条や行動様式を持ち、指導者がいない場合も稀にあるが、多くの場合の特徴として、カリスマ的指導者や教祖のもとに率いられている。

 もちろん、その崇拝・のめり込みの対象になる人物や事物それ自体も「カルト」に含まれること言うまでもない。「カルト」の中核にいるカリスマ的指導者(教祖)も紛れもなくカルト組織全体の一部を構成しているからに他ならない。
 
 熱狂的、狂信的崇拝やのめり込みについては、冷静な思考を完全に破壊してしまうほどの水準に達したものと考えている。ロックコンサートや憧れの俳優に一時的に熱狂することは多くあることであるが、そういう浅薄な例えをイメージするのではなく、極端な洗脳によってそれが恒常的、継続的に反復されて通常の判断能力を喪失させられるもの、それがカルトである。心の覚醒剤というべき人間性破壊をもたらし、それは時に回復不能の打撃と傷を人間精神にもたらしてしまう。

 そして、それらからの離脱について、強烈な洗脳の影響から実質的に意志の自由が認められないものという特徴がある。閉鎖的であることが多い(とはいえ、やや緩やかな排外性、排他性しかないところもある)のはそうした理由からである。そして、当然の事ながら、そうした数々の特異な性質により、一般通常の「常識」や「社会通念」と激しく軋轢を起こす結果となる。
 
 注意していただきたいのは、私が「反社会性」とは申し上げていないことである。しばしばこれをカルトの重要な要素だとする人がいるが全く賛成しない。なぜならば、何が「反社会的」で、何が「社会適合的」であるかはその時代の状況、文脈によって全く異なるからである。私はポストモダン論者ではないが、それを判断する基準は相対的にしか決まらない
 
 例えば、狂気のナチスドイツ時代、末期的に進行する全体主義に対してドイツ人の内部にも、強烈な連帯感を持って秘密の地下組織でレジスタンス運動をする人たちが少数ながら存在した。「白バラ」は最も有名だ。ミュンヘン大を中心にして集まり、反ヒトラー政権のビラを作って配布したり、建物の壁に反体制的スローガンを書いたりした。ハンス・ショルが中心で、理論的な支援を行ったのが哲学教授だったクルト・フーバー。後に彼らはゲシュタポに逮捕されて、1943年2月22日、ショル兄妹を含めメンバーのうち3人が第1次裁判で死刑。1943年の第2次裁判でフーバーや2名の学生が死刑になった。他にも20数名が10年以内の懲役に科せられた。

 また、私が人生の師と思っているドイツ人牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファー(Bonhoeffer, Dietrich)は、ナチス政権時に「兄弟の家=ブルーダーハウス」にて息を潜めるように共同生活を行い、辛うじて自由を繋ぎ止めようとしていたが、ヒトラーの弾圧につぶされて頓挫。最後に彼は悩みに悩んだ揚げ句、仲間数人とアドルフ・ヒトラー暗殺計画を練り上げ、実行しようとする。ところが、不運にもそれを突き止められて逮捕。実にドイツ敗戦の数ヶ月前に処刑台の露と消えた人である。彼の「共に生きる生活」は私が何度と無く読み返した名著。

 白バラにしても、ボンヘッファーにしても、当時の時代文脈からは完全に「反社会的」だとされた。また、最後にはヒトラー暗殺を計画したことから、今なおキリスト者としてのボンヘッファーに強く否定の評価をするキリスト教関係者は多い。しかし、ボンヘッファーは、暴走トラックが多くの人々をなぎ倒し、ひき殺しているというのに私たち牧師ができることは彼らの遺体を弔いただ埋葬することだけだろうか、必要であれば、トラックの運転台から運転手を引きずり降ろしてトラックそのものを止めることでは無かろうかとして、ヒトラー暗殺に踏み切ったのである。
 
 これらは極限状態の極端な例にしても、「反社会的」とか、「犯罪行為」だというだけではカルトは語れない。事実、当時、ナチス政権に礼賛の声を送ったドイツの教会主流派からはフーバー、ショル、ボンヘッファーらは狂人扱いされたのである。

 これだけは気をつけた方がいい。平気で出鱈目をいう幼稚なキリスト教徒や評論家、批評家、ジャーナリスト、学者などはごろごろしている。ウソジャーナリズムやいんちき批評は歴然と存在する。もちろん、私自身もそうなり果ててしまう可能性があるので強く自戒している。
 
 世の中には救いがたい幼稚な傲慢が多い。自身が相手に対して持つルサンチマン(逆恨み)をこれでもかと、詭弁、強弁、循環論、事実の歪曲、論理のすり替え、当てこすり、人格批判、押し問答などありとあらゆる方法を弄してはただ繰り返すばかりの「小児病的」病理を抱えた人間は少なくない。それに早とちりと勘違いが加わると末期的である。頼みもしないのに礼儀知らずの議論をふっかけてくるような連中にはそういう手合いが極めて多い。作法も何もあったものではなく、言葉遣いも荒れに荒れてほとんど罵詈雑言に近いことすらある。自己中心極まりないのであるが、自分を客観的に眺められないそうした「頭に血の上りやすい人間」こそ、この世でもっともやっかいでつける薬のない卑しむべき人間だと私は思う。
 
 かつて私は大学院時代、大学院生をとりまとめて学長(総長)や学部長たちを相手に団体交渉をする役を引き受けた(押しつけられた?)ことがあった。私は私の信念に基づいて、ミスター・デュープロセスの教えに恥じない「柔軟で、開かれた、平和的な意見交換の場」にしたいとものすごく頑張って尽力したのだが、当時、マルクス主義にはまっていた他学部の大学院生の何人か、そのうち一人が特に煮ても焼いても食えない男で、全く辟易させられたことを思い出す。最後はほとんど私も満身創痍だったが、何とか団体交渉自体は実りある、思い出に残る内容にできたことを今もかなり感慨深く思っている。

 くだんの彼はしきりに話し合いの交渉が終わった後に私を「まさしげ」で飲まないかと誘ってきたのだが、私は固辞した。そういう幼稚な人間をまともに相手にすることそれ自体を私の心が拒否したからである。今も基本的にはそうしている。取り纏めまでの過程ではやむを得ず自分を抑制して、意志疎通のつなぎ役に徹したが、終わった後の飲み会くらい気のあった仲間だけでやれば宜しいと突き放させてもらった。
 
 思うに、カルト組織・団体の中で、カリスマリーダーや教祖の周囲を固めて補佐している「幹部」といわれるような人間には、そういう「固い心」の人間がかなり多いのではないかと感じられる。クレッチマーの精神分析を出すまでもなく、自己顕示欲が強く、頑固者の石頭、妄想癖が強い屈折した人格の人間がカルト組織をがっちりと固めていく。そういう意味では、強烈にカルト組織を批判する人間も容易にカルト化(準カルト化、疑似カルト化)した人間集団・組織を支える人間に変貌する事が十分にありうるのである。実名こそ出さないが、私はいくらもその実例を目の当たりにしてきている。
 
 一時的、瞬間的な狂信、熱狂現象ということで観察するならば、外部に対して開放的なカルトはあり得ないとはいえない。私は忘れない風景がある。9/11テロが起こった直後、ブッシュJr.が「立ち上がる我らが強いアメリカ」を指導していくその姿に熱狂したアメリカ国民は非常に多い。というよりほとんど全てだったろう。一時的、瞬間的とはいえ支持率は9割を超えたのである。その時にもそうだったし、イラク戦争開始直後もそうだったが、アメリカの福音主義派教会が礼拝で熱狂的、狂信的に我らが大統領ブッシュJr.やアメリカ軍のために祈り、歌い、叫んでいる姿があった。通常時のアメリカの福音主義派教会はさすがに見まごう事なきカルトであるとは言えなかろうが、あの一瞬、一時的にせよ集団全体がカルトの空気にさっと変貌したといっても言い過ぎでは無かろう。彼らの血走った目、ガンとして戦争へ向かうという強い意志に溢れた顔を見て、私は背筋が凍りつくような気持ちだった。まるで物の怪にとりつかれたかのような戦闘的な表情が並んでいた。当時のそれら教会は決して閉鎖的なものではない。開かれた教会で現実に起こったことである。 

 冒頭のカルトについての定義は、アッセンブリーズ教会の長尾牧師が以前に書かれたものの一つが優れていたので、それを借りて私なりに咀嚼し直して用いているものであるが、異端キリスト教とされた「イエスの方舟」が「カルト集団だ!」と罵られ、一見するとちょっと信じられないようなスタイルを持っていたにしても、とても自由で平和的、穏やかな信仰生活を送っていたのに対して、正統キリスト教とされたアメリカ・福音主義派が留まるところを知らない熱狂と狂信の渦に巻き込まれていった(今も根本的にはそれが治っていない)のは、非常に特徴的な対照である。異端とカルトは極めて結びつき易く、実際上もそうした事例が圧倒的に多い(金保の京都、聖神中央教会はその例)が、正統な宗教が一時的、瞬間映像的にカルト(あるいは準カルト状態、疑似的カルト)に狂っていくことは十分にあり得ることで、事実多くあることだと私は思う。

 カトリックでは必ずどこの教会でも、どこの修道会でも黙想会がある。基本的に座禅を組んでも、祈っても、本を読んでも、イコンを描いても、野山をゆっくり散策して思索に耽っても良いのだが、日に3回、みんなで集まる食事の時も口を利かずに静かに黙想し続けることに集中する集まりである。1泊2日だけでも目に見えて頭の切り替えになる。ペンテコステ派や福音主義派など熱狂的なスタイルを持つキリスト教徒は、せめて一度は経験した方が良いと思う。特にアメリカ人。もしかしたらイラク戦争が止まるかも知れない。アメリカはメディア、政治、宗教、産業など社会のあらゆる領域が絶えず「発熱しすぎている」ことに国家的病理の理由がある。
 
 冷静に、自分の頭で思考し、反省的に考え抜くことができない人間は、論理の読みとり間違いや早とちりを自覚できない。何かの些細なきっかけで自身がカルトに堕していったり、カルトを見る目を大きく見誤る可能性がある。