2004年12月

真剣格闘技ビジネス その全盛に思う

dea795d2.JPG 一昔前は大晦日といえば、NHK「紅白歌合戦」の鑑賞と国民的に相場が決まっていたものであるが、この10年ほど、大晦日の見せ物といえば真剣な格闘技になってきた。K1が火をつけて、PRIDE、パンクラスなどその拡大は止まらない。元五輪金メダリストが続々と参入し、元横綱曙やその他のトップアスリートも競技の枠を超えてなだれ込む。まさに今、全盛期を迎えたといってよいと思う。

 私が中学生から高校生の頃は、アントニオ猪木やジャイアント馬場などしか有名な人はいなかった。アブドーラ・ザ・ブッチャー、デストロイヤー、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセン、天龍・・・。好きな奴は好きだった。しかし、素人目にも真剣な戦いとは見えなかったので、一種のショービジネスとしか認識されていない。

 ところが、近時の真剣格闘技ビジネスはわけが違う。全て真剣勝負であることが一目瞭然。だからこそ観客は狂喜乱舞するのであろう。K1会長が巨額の脱税で実刑判決を食らってもなお全く衰退する様子がない。

かつての神聖ローマ帝国でもそうであった。皇帝が民衆を満足させるために作り上げた究極のエンターテイメント、それがコロッセオでの人間同士の殺し合い、猛獣と人間との殺し合いであった。こうした見せ物が払った代償は大きい。日に5000頭の猛獣が「使い捨て」されたこともあった。合計72万人もの剣闘士が命を落とした。
 
 私は格闘技ビジネスが大いに盛り上がる世相に異様な危うさを感じざるを得ない。それを求める民の心理に横たわる、非常に凶暴な感性をまともに感じるからである。決して健全な人間の精神状態ではないと思われる。人間とは元々それほど出来の良い生き物ではない。上手く説明できないが、格闘技ビジネスが大受けする社会が示すものは、今の人間が深刻な病を抱えていることの裏返しでは無かろうか。

高校の後輩が吉祥寺で建築士を

5e13c8ca.JPG 私の卒業した高校のサッカー部時代、1学年年下だった後輩が吉祥寺で独立開業していることがわかった。何でもたいそうな新人賞などを受賞するなど将来を嘱望されている建築士だそうだ。滝口聡司という。経済産業省関連の仕事で委員もしている。当時からとても細身でサッカーが技術的に上手かった。明治大に進学して建築を勉強しているという事は知っていたが、大卒後すぐに起業したとは知らなかった。意外にお近くで頑張っている知り合いがいて、少し嬉しかった。 

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フェラーリ好き 成金男の何と醜いこと

402d409f.JPG 日本人に限らず世界的にどこにでもいるようであるが、特に日本では顕著に出てくる人間性の傾向として、ビジネスで一山当てた男が極端な成金趣味に走ることが非常に多い。そうした男の何と醜いことか。私はずっと前からそう感じてきた。無教養と品格の欠落を金とモノで埋め合わせて誤魔化そうというさもしい魂胆がムキだしの丸見えである。

 銀座や赤坂で豪遊すること、ど派手な豪邸に暮らすこと、札束を振り回すような海外旅行をすること、目のくらむような貴金属やアクセサリー、高級服で全身を固めること、そして、高級車を次々と乗り回すこと。アホな男がやりそうなことである。

 私は将来的にどんなに金を持つようなことになったとしてもベンツやフェラーリを乗り回すようなことはないだろう。そういう男を心底軽蔑している。全く微塵も羨ましいと思わない。存在そのものが卑しいとさえ感じている。そして、そういう人間は多く実際にその精神が卑しい。

ラテン語の聖歌

f95495e5.JPG 私は幼少時より、厳粛で、かつ幻想的な礼拝や礼拝堂に憧れていた。自分の通った福音主義派の日曜学校がそうではなかったからである。欧州のキリスト教会が継承するキリスト教の諸文化は、まさに歴史的遺産というに相応しい素晴らしい内容が多い。建築物であれ、文物であれ、音楽であれ、心を打ってやまない。仏教もイスラム教もそうだが、宗教的文化遺産にはそういう力がある。
 
 建築物としてはステンドグラスやパイプオルガン、イコン、円形アーチ天井などにも憧れた。私はプロテスタントであるのでそうした様式性を備えた文化遺産との邂逅は少なかったのである。私はマリア信仰を持たないが、それでもミケランジェロの「ピエタ(悲哀)像」などには息をのむ美をずっと感じてきた。サンピエトロ大聖堂に置かれているあの最も完成度の高い作品である。これをミケランジェロは20代で作り上げた。本当にその若さで作ったのかという世間の邪推や噂話に静かに反論すべく、後になってからマリアの襷部分に彼の生涯で唯一、自らのサインを彫り込んであるもの。「美しいものは年をとらない」として、象徴的に母マリア像が若く彫られている。おそらく最も美しいマリア像であろう。本当のマリア像の実体を反映しているかどうかは不明であるが。

 数あるキリスト教文化の中でも憧れたのが、ラテン語での聖歌。グレゴリオ聖歌も好きであった。我ながら、幼少時からグレゴリオ聖歌が好きというのはかなり変だと思う。ラテン語とは、かつて中世欧州では教養を持った人間(多く貴族や僧侶だった)の共通語。今も学問的にベースになる言語である。
 
 かつて犬養道子女史が渡欧してイタリア人の哲学者がドイツ語で講演していたとき、そのあまりに聞き取りにくいドイツ語に聴衆の学生も飽きてしまい、半ば講演がだらけたことがあったという。だが、彼がラテン語を使って引用してから後、ラテン語を用い始めると一斉に鉛筆をノートに走らせ、真剣に聞き出す学生ばかりとなった光景に驚いたという。その場にいた欧州各国からの学生らをして見事に束ねた共通項はラテン語であったのである。

 さて、東京都の西のはずれ、東久留米に「聖グレゴリオの家」という場所がある。ここでは日本で数少ないグレゴリオ聖歌を歌うことが出来る。探していたところ、今度見学にいけるようであり、楽しみにしている。かつてはあのフランシスコ・ザビエルやフランチェスコらも歌った同じ歌を、同じ言語で歌えるというのは感動的なことである。こうした幸運に30歳を過ぎてようやく辿り着いた私であるが、とても感謝している。
 
 *私が特に気に入っているラテン語の曲は例えばこのようなもの。

 Venite, exultemus Domino (Venite exultemus)
 Jubilate Deo (Ubi Caritas)
 Alleluia, slava tiebie Boze (Ubi Caritas)
 Christus Resurrexit (Ubi Caritas)
 
 * 聖グレゴリオの家 宗教音楽研究所
 東京都 東久留米市 氷川台 2-7-12
  電話: 0424-74-891

性格の悪さがわかる時

 性格の悪い人間は、瞬間的に見抜かれることがある。言葉、態度、表情などに隠しようもない性格の悪さが出る。同じように性格の良さが出ることがあるが、それは正鵠を射た判断の素材にならないことも多い。逆に悪い人格は時にすぐにわかるもの。かなり違っていたということは稀にあったけれども、判断が全く間違っていたことはない。
 
 性格の悪い人間は異性よりも同性によってより正確に、客観的に判断されることが多い。男の性格が良いか悪いかはだいたいわかる。多くの男達と仕事、趣味、余暇、その他多くの事柄を一緒にしてきたが、「悪い性格の男」が持つ共通項には一定の要素がある。
 
 仕事の種類・内容、女性遍歴、女癖、金の使い方、スポーツのプレイスタイル、宗教への関わり方、喋り方、語彙、昔話の内容など多岐に渡る。同じ男としては声を聞いて一発でわかるのにという場合など、なぜこの様なばか男の甘言に騙されるのか、理解できないというケースも少なくない。しばしば私にも掛かってくる「個人様向け資産運用のご案内」といった勧誘電話をしてくる男の声は、まさに「振り込め詐欺師」や歌舞伎町のホストらと質的に全く同一の声。騙される方がどうかしている。

 女性の性格が悪いことについても稀に一発で見抜くことが出来ることもある。たまたま今し方見ていた、テレビ東京の歳末番組で一人いた。「年末報道スペシャル・師走の報道大会議」という番組で、テレビ東京の女子アナと、元TBSキャスター鈴木史朗がバスでニュース現場を巡回しながら、今年一年の事件、出来事などを振り返る内容。出てきた女子アナの一人が、西武鉄道の堤会長が東証への上場基準違反を起こして辞任した事件に言い及んだ時に、

 「しかもそれを知り合いに売っていたということがわかって、それってすごくなーい?っていうことになって・・・」
 
 ハイテンションの声でやかましい。こういうのは嫌いである。
  
 性格について、友人であるY田くんが私を評して、

 「いやあ、随分丸くなりましたよ!」

 と人前でのたまわったことがある。当時はそういわれてそのようなものかと思っていたが、確かに20歳の時とは比較にならないくらい丸くなってしまった。

神谷美恵子

ab2cb2f4.JPG 私がもっとも尊敬している人の一人が神谷美恵子。1914年生まれ。岡山市出身である。父が敗戦直後に東久邇宮内閣にて文部大臣をやった前田多門、名家の生まれである。
 
 1935年、津田英学塾を卒業、その後、渡米してニューヨークのコロンビア大に留学。1944年、東京女子医専(今の東京女子医科大)を卒業した。医学博士。その後、東京大学医学部精神科や大阪大学医学部精神科勤務で当時はまだ珍しかった精神科の臨床経験を多く積んだ。1958年から72年まで、ハンセン病患者の収容施設、長島愛生園の精神科に勤務した。この時の臨床を踏まえた膨大な著作が残されている。
 
 先日驚くべき事があった。コンピュータの出張訪問サポートを依頼してくれたある女性がいたのであるが、その方がなんとこの神谷美恵子さんと東京女子医専時代に同級生だった内科医の伊規須タカ子さん。若松町にて女子寮も一緒に勉強したという間柄だったそうである。私はひっくり返るほど驚いて、しばし仕事を続けながらも、半分仕事を忘れて夢中で神谷さんのことをあれこれと聞かせてもらった。

 いかに彼女が優しい人であったか、フランス語が得意であったか、それを出し惜しみせず皆に教えていたか、朗らかで明るく周囲とごく自然に打ち解ける人であったかなどを取り留めもなく聞かせていただいた。彼女の夫は1999年1月10日に逝去した神谷宣郎氏。結婚後、関西に引っ越ししたことが縁で長島愛生園への精神科勤務を始めた。片道6時間近く普通電車を乗り継いでの勤務だったそうである。

 限界状況において人間の精神性がいかに追いつめられるか、神谷さんの学術的功績は今なお燦然と輝く価値を持つ。まさか神谷さんの同級生から話が聞けるとは、仕事をしていてこれほど幸運だと思ったことは今までになかった。

 神谷美恵子
 1960年に神戸女学院大学教授
 1958-72年長島愛生園精神科勤務 
 1963-76年津田塾大学教授 
 1979年10月22日 逝去

仁志 結局、巨人に残留 彼のいう「夢」とは・・・

85f5639d.JPG FA宣言していた巨人の仁志敏久。結局、そのまま巨人に残留となった。FAの契約金を合わせて総額5億円だそうである。2年契約とのこと。5億も積まれれば目もくらむだろう。2000万円の最低年俸で渡米という気持ちにはなれなかったようだ。

 「このまま待っても希望に沿うオファーは望めない。必要としてくれる球団にいくのが最良の選択だと思った。」
 
 と話した仁志であるが、彼は大リーグへ行くことが「夢」だと公言して憚らなかった。いったい彼の言う「夢」とは何だったのだろう。「夢」というのは、余計なもの全てを捨ててでも取りにいくものである。最低年俸であっても、マイナー落ちの危険があっても、飛び込むべきものである。仁志が一切の条件をつけずに、トロントブルージェイズでも、ブリュワーズでも、ロイヤルズ、エクスポズであってもどこでも行くと渡米して交渉していれば、メジャーには入り込めたかもしれない。日本人を入れれば興行的にもメリットがあるからである。しかし、仁志はそれをしなかった。

 2年契約とはいえ、身分はもう巨人のもの。仁志の保有権は巨人が持つ。2年後、自由契約選手にしてもらって身軽にメジャー挑戦させてもらえる保証などない。
  
 「2年間で悔いなくいい成績を残せれば、また考える。その先に楽しみが待っていると思う。」 
 
 といったが、再度大リーグに挑戦できるかどうかすら怪しい。こいつのいう「夢」というものが非常に薄っぺらな砂上楼閣か蜃気楼のように思えて、聞いていてばからしくなった。

個人技を見せつけるドリブラーは鬱陶しい

dc57d210.JPG 久し振りに母校の小学校へ行ってみた。懐かしい緑のユニフォームが校庭で踊っていたからである。「白ふじ」と書かれた青いユニフォームのチームと試合をしていた。狭い校庭をより狭くコート取りして、10人制サッカーであった。オフサイドもなく、ペナルティエリアも半円形。ただ試合を延々としているように見えた。あまり上手い教え方だとは思わない。欧州では今、少年サッカーは6人から7人制くらいで行うのが常識になりつつある。そうでなければ上達しないからである。少年サッカーを11人でやると、いつもボールの周囲に密集してしまって団子状態。ほとんど見応えがない。要するに、小学生に11人は多すぎるのである。この試合は狭いグランドに合計20人でひしめき合っているのでほとんど両サイドへの展開というものがなく、もったいないなと思いながら眺めていた。

 一つ見ていて気がついたことがあった。「白ふじ」チームの13番、左利きの子が非常に上手い。キープ力があり、走力もある。右へ左へ自在にボールをコントロールしながらプレイしていた。だが、全てにおいて自分中心にプレイを組み立てる。周囲を活かそうという態度が全く見えないプレイだった。団子状態のサッカーだったのでなおさらごちゃつく中、彼は右へ左へずっとボールを持ちながらまるで迷走するようにドリブルを続けている。

 本人はそれで活躍しているつもりかもしれないが、チーム全体としては全然なっていない。点も入らないし、サッカーをより効率的に理解することにもならない。もったいないことだ。指導者に問題があると思われた。

 私が高校生時代、都立石神井高が非常にサッカーが強かった。元ガンバ大阪の磯貝がいた帝京や、修徳、暁星、堀越といった強豪がいた中でも、都大会で優勝したことがある。正月の高校サッカー選手権には行かなかったが、確かに強かった。同級生が石神井のサッカー部だったので練習を見に行ったのだが、とにかく驚いたのが延々とパスを機動的に回す練習をしていたことだった。ワンタッチから多くてもワントラップ。まるで町工場の機械のようにパス回しをしながら、狭いエリア内で動いて練習していた。

 ペレ、クライフ、マラドーナ、フリット、ジダン。超絶的な技巧を持つ選手の個人技に頼って試合を組み立てることが可能な場合もないとはいわない。しかし、「うまいパスを多用したサッカー」が出来れば、凡人が11人集まっても強豪に互しうるのである。市立船橋高国見高がなぜあれほど強いか。見ていればわかる。パス回しが群を抜いて上手いからである。

 私たちの草サッカーチームの様な場合でもパス回しは重要であること、同様である。なぜなら、個人技がある人がドリブルでどんどん切り込んでいくと、それはそれで本人は面白いであろうが、周りが白ける。せっかくオープンスペースに走って声をあげているのに無視されてパスが供給されない。それが続くと苦労してスペースに走り声を出すのがばからしくなって嫌になって来るのである。他のプレーヤー全員が楽しめるサッカーにならないのである。

 例え、下手なプレーヤーであっても活用するべくパスを回して、彼から再び良い形でパスをもらう位置取りをすることが重要だ。独善的に個人技を見せつけるドリブラーは鬱陶しいのである。少なくとも私たちのチームでは全然評価されず、あまり中心的に呼ばれることはない。少年サッカー時代からこういう悪い癖をつけると後々、悪い影響が出る。つくづく指導者が重要だと痛感した次第である。

若い男を無職にさせておくとろくな事はない

 「最大の犯罪対策は失業対策である。」
 
 というのが私の確信である。比較法的に見ても、比較社会学の見地からしてもやはりその通りであり、生活保護など金銭の授与があまり犯罪対策には効果を上げていない。金ではなく、仕事が重要である。職場があるということ、社会に参加できている自分を実感するということこそが、犯罪の抑止には何よりも重要であるといってよい。
 
 「最大の刑事政策は社会政策である。」
 
 と大学時代、所一彦先生の刑事学ゼミで聞いたことを覚えているのであるが、要するに、例え大もうけしていなくとも仕事と順調に向かい合っていれば人間は精神的にも大きな歪みを経験しにくい。ニュースで良く耳にする
 
 「逮捕されたのは住所不定、無職の○田×郎、27歳です。」

 といった事件報道からはいかに無職という状態が犯罪の温床になるかを痛感させられる。
 
 私にも一つの悪夢が思いだされる。練馬区関町南2丁目、千川上水に面した路上脇で数人の十代後半の少年が休日の真っ昼間からたむろしていた。ちょうど用事で自転車で移動していた私がそこを通りかかった時、右頬にいきなり痛みを感じた。彼らが遊びで放った空気銃のプラスチック弾が私に当たったのである。私を狙ったわけではなく、そこを通過した私にたまたま当たってしまったということであるが、人や自動車などが頻繁に通るこのような所でおもちゃとはいえ鉄砲を水平発射して撃っている事自体論外であることはいうまでもない。

 彼らは全く謝ろうともせず、路上にへたり込んだままだった。私はそのような連中に、あまりに危険なことでしょうとひとこと言ったのだった。決して乱暴な言い方をしたわけではない。当たり前のことをごく普通にいっただけである。ところが、連中はにやにやしていて全く反省の色がない。私もこれはつける薬がないと考え、立ち去る時に
 
 「全く冗談じゃないよ。」
 
 とごく普通の口調でひとこと口にしたのだが、これに一人の若者が逆切れ。血相を変えて追いかけてきた。危険だと判断した私は大急ぎでペダルをこいで逃げてそのまま逃げ切り、110番通報をしたことがある。私も用事が迫っていて付き合っていられなかったし、通報した110番担当者も私が暴行を受けたわけではなかったからあまり緊急の対応をとってくれたわけではなく、そのまま終わってしまった。結局、現場検証や取り調べなどもなかったようだ。
 
 しかし、あれは今考えても肌が粟立つ経験である。もし捕まって暴行を受けていたらどうなっていたかわからない。ヒップホップのような服装で、平日の昼間からだらついているだけあっていかにもやることが無く、不満をため込んでいるようなタイプの無職男たちであった。

 私たちの草サッカーチームにもごくまれにこういう荒っぽい無職男がお試し参加で紛れ込むが、試合もチームも荒らされてたまらないのでその様な場合は上手くやりくりしてすぐにご退場願うようにしている。私たちのチームではないのであるが、下手をすると試合中に本気で殴り合いが始まるケースすらあるのである。本当にばかな男達だと思う。

 結局、日本はこういう駄目男連中の受け皿を作ることに完全に失敗しているため、産業も、経済も、福祉も、治安も十全に機能させられていないのである。私は前から中山間地域の農業へ政策的に若い男性人材の誘導を図るべきだと考えているのであるが、中央政府に全くその気がない。農業政策だけではなく、それは刑事政策、福祉政策にも絶大な力を発揮するということがわからないのである。

 犯罪が決して少なくない大阪。この2月、何と大阪地裁の所長裁判官である鳥越健治さん(62歳)が路上で暴行され、現金を奪われて重傷を負った事件の公判が今月あった。大阪地裁で大阪地裁の裁判長を襲撃した被告人の裁判が行われるというのは何という皮肉だろう。米山正明裁判長が担当しているが、きっと非常に厳しい判決が下るに違いない。鳥越裁判官は、無職の27歳の男と清掃会社従業員だった30歳らに暴行された。鳥越氏は相当なショックだったようだ。

 「マンションの玄関前路上にたむろしていた高校生ぐらいの数人の若者が自分の方に歩いてきた。すれ違った後に右後ろに打撃を感じ、気付いた時には地面に転倒していた。」

 と状況を証言。実際には27歳や30歳の被告人が混じっていたわけであるが、裁判官が暮らすマンションの路上すら安心できないこの現実。全くやっていられない。私が思うに、小泉純一郎がしでかした非常に大きなの罪の一つは治安の悪化を全く止められていないことである。何と言ってもあのゴミクズ老婆の南野を法務大臣に据えているくらいである。本当に目も当てられない。

「主の祈り」は口語体が良い

 イエス・キリストが人間に対してお祈りの言葉についてお手本を見せたものを「主の祈り」という。英語では The Load's Prayer 。カトリック、東方教会、古代教会、プロテスタント、英国国教会などを問わず、みな内容は同じで極めて重要なものとされている。
 
 福音書の中でももっとも美しく軽やかな文体で綴られているといわれるルカの福音書において記述がある(11章)のであるが、それによると、イエス・キリストの弟子たちがヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてくださいとイエス・キリストに願ったことに対してこの「主の祈り」が示された。簡潔にして明快。多くもなく、過不足もない優れた内容であると思う。
 
 で、今日、プロテスタント教会の圧倒的多数は、この「主の祈り」を文語体で使用している。

天にまします我らの父よ
願わくは御名を崇めさせたまえ
御国を来たらせたまえ
御心の天になるごとく地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ
我らを試みにあわせず悪より救いい出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン

 である。威厳と趣、格調高い響きはあるのであるが、やはりわかりにくい。アメリカ流の伝道方針を採り、何かにつけ現代的なスタイルを好む福音主義派の教会であってさえこちらの文語体を今も使っている。
 
 だが、読んで字のごとく、意味があまりに難解でだれにでも直截にわからないということが問題である。特に小学生などにはわかりにくいし、キリスト教徒ではない人たちにも理解しにくいことは間違いない。
 
 そこで、もっとわかりやすく、かつ諸会派にとって共通の「主の祈り」を持つべく、日本聖公会からがカトリックに提案したのを受けて1997年からカトリックはそれぞれの専門家が共同研究を重ねて「口語体」を作りあげた。2000年を節目にして聖公会やカトリックは共同でこちらに切り替えている。

天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国が来ますように
御心が天に行われる通り 地にも行われますように
私たちの日ごとの糧を 今日もお与えください
私たちの罪をお赦し下さい
私たちも人を赦します
私たちを誘惑に陥らせず
悪からお救い下さい
アーメン

*頌栄を続けて唱える場合は・・・

国と力と栄光は、永遠にあなたのもの

とこれまでの末尾の言葉であるこの一文を続けることもある。

 プロテスタントはこの作業に含まれていないので今も文語体を用いている。だが、現在の言語環境では、どう見てもその意味を自然に理解して祈るには口語が適している。幼少時から私にとっても文語体の「主の祈り」は馴染みにくいものであった。実は今もそうである。とりわけ、

 我らを試みにあわせず悪より救いい出したまえ
 国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり

 というくだりはかなりのものだと思う。

 わかりやすく、自然体の口語を用いた良いサンプルの口語体が出来上がっているのだから、もはやプロテスタントも「主の祈り」を揃って口語体に変更したほうが良い。文語体を併用しても良いのだが、それだけでいくのはあまり望ましいと思わない。
 
 ただ、一つだけ思うことは、カトリックや聖公会は、現在の口語体において頌栄を続けて唱える場合だけ、「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」と続けたり、司祭の言葉を挟んでこれを用いたりするのであるが、今まで通り、「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」まで一気に言い切ってしまった方が良いと思う。プロテスタントにとってもその方が馴染みやすい。

 プロテスタントとして申し上げることは、それほど決定的ではないことでいつまでもカトリックと違った運用をするのは辞めた方が良いということ。向こうの方が進んでいるのだから倣った方がよい。いつまでも頑迷固陋でいつづけることは、面子をかけてVHSとベータが規格を競い合ったことと同じくらい無駄でつまらないことだ。 

* The Load's Prayer

Our Father in heaven,
hallowed be your Name,
your kingdom come,
your Will be done on earth as in hearven.
Give us today our daily bread.
Forgive us our sins as we forgive those who sin against us.
Lead us not into the temptation,
but deliver us from evil For the kingdom,
the power, and the glory are yours now and forever.
Amen

アーサー・ホーランド 話と話し方に毒がある

ac74f519.JPG アーサー・ホーランド。前にもちらっとコラムで言い及んだことがあったが、非常に変わったタイプの牧師である。大阪市西成区の生まれ。父は元アメリカ海兵隊員、母が日本人だった。だから、日米2カ国語が完璧。特に大阪弁はおそろしく完璧なネイティブである。西成という街柄もあり、喧嘩に明け暮れて育った札付きの悪だったという。大人になってから上京しても夜の赤坂で喧嘩三昧。どう贔屓目に見てもまともな人間ではなかったと自分でもいっている。

 このホーランド氏、今日、吉祥寺の前進座劇場カントリーゴスペルのクリスマスコンサートの中で講演会を開いていた。主催はあの吉祥寺北町、四軒寺交差点にある東京武蔵野福音自由教会小川国光牧師が世話人であった。この教会は私は私が幼少期を過ごしどうしても馴染めず飛び出した福音主義派の教会と雰囲気が酷似しており、どうしても違和感が抜けない。だが、小川氏が人間として悪い人間ではないように思えたことと、私たちの会社、メディアテラスの目と鼻の先にあり、時々出かけていたりする縁で案内がきたこともあり、午前中のFC弥生のサッカーの試合が終わってからちょっと自転車で出かけてみた。
  
 アーサー氏、立教大時代にキャンパスに来てわいわいやっていた頃と何ら変わらぬそのエネルギー。おそれいった次第である。まるで彼は年をとらないかのようだ。

 だが、彼一流のその話術には私は強い抵抗感がある。若い世代を中心とした会場の聴衆らはしきりに笑っていたのであるが、私は一つとして笑えなかった。彼の話と話し方には、かなり強めの毒があるからである。詳細をここで文字起こししてしまうときりがないので辞めるが、要するに、品がない。関西の吉本興業でこれからスターダムにのし上がろうとする若手芸人のようなノリが感じられるのである。

 私は毒がある話や話し方、下品な話というものが大嫌い。その様な品格や教養が欠けた戯言など聞きたくはない。聞く必要もあまりない。苦痛だ。毒舌には事欠かない毒蝮三太夫という芸人も私が最も嫌う男の一人である。何なんだ、あいつは?

 アーサー・ホーランド氏は「不良牧師!アーサー・ホーランドという生き方」という本を出しているのであるが、あのようなスタイルはキリスト教に対する極めて大きな誤解を生じさせるので辞めてもらいたいと私はずっと思っている。無理にこの様なスタイルにする必要はないはずである。
 
 アーサー氏、ざっとその経歴を紹介すると、あり余るその体力を活用するべく、20歳で父の国、アメリカへ渡る。なんと世界有数の層の厚さを誇る全米レスリング選手権で優勝。パンアメリカン選手権大会銀メダル受賞。さらにその強さは留まるところを知らず、柔道でも全米選手権3位。とてつもない肉体派である。

 しかし、荒みきっていた人生をやり直すべく23歳でキリスト教の洗礼を受けて、後に牧師となった。1982年に母の国、日本へ福音伝道のために帰国。今は、日本全国を辻説法するように飛び回っている。年間300日400回だそうである。1988年ソウル五輪選手村の公式チャプレンを任されたこともある。日本キャンパス・クルセード・フォー・クライスト所属の公認伝道者である。「十字軍」を表すこの「クルセード」という言葉を組織体の名称に用いるのはアメリカ流福音主義の極めて特徴的な点であり、私は全く支持できないということは前に述べた。
 
 人の心を打つ話に「毒」はいらない。彼のこうしたスタイルによる「ミッション=福音伝道活動」によって多くの人たちが精神的に救済されたことを私は否定しない。アーサー氏らの活動、福音主義者たちの圧倒的な強みは、人生の底辺を歩き、絶望的な破滅を走っていたような人間が相当数、人生をやり直すことに成功したことにある。

 例えば、世界有数の不夜城、新宿・歌舞伎町で路傍伝道をしていたこともある。日本列島を十字架を背負って縦断伝道したこともある。そうした福音主義者たちの活動の成果として元はヤクザだったごろつき暴力団出身の人間によるキリスト教徒団体「ミッションバラバ」なども生まれた。アーサー氏も彼らと日本をどさ回りしたことがある。こうした成果をカソリック関口教会や日本基督教団霊南坂教会のようなハイソな教会から生み出したことはほとんど無かったと思う。こうした人々は切り捨てられていた。
 
 だが、私はこの「アーサー・ホーランド・ミニストリー」が意図的にこうした「毒」を演じているように見えてならない。巨大で真っ赤なハーレーダビッドソンに乗らなければならない理由がどこにある?ホストやちんぴらのようなスーツを身に纏わねばならない理由がどこにある?きらきら光る貴金属の装飾品を全身にちゃらつかせる必要がどこにある?スラングや攻撃的な駄洒落をてんこ盛りにしてキリストの福音を語る積極的なわけがどこにある?

 私は彼のこういう「毒」が気にくわないといっているのである。それでも彼がもっと大きなものと戦っているのであるならば、全てに目をつむって彼の行動を積極的に応援しても良いと思うのだが、彼はそうではない。例えば、彼は日本国内の自殺率の高さ、自殺者数の多さをしきりに話の中で強調し、日本人は精神的な飢餓状態にある、心の内戦(Inner war)の真っ只中にいると訴える。それはその通りであり、何ら異論はない。

 だが、それではイラク戦争をどう考えるのか?中東諸国の内戦をどう考えるのか?彼の母国、アメリカが武器を振り回してめちゃめちゃに破壊している行為になぜもっとはっきり反対の立場をとらないのか?
 
 彼自身、父親が元海兵隊員であるという面はしんどいだろう。また、依然として多くのアメリカ人がイラク戦争を正義の戦争だと考えていることも彼にはつらいことかも知れない。しかし、日本人の母を持ち、こうしたミニストリーを率いて活動してきたのであれば、今こそアーサー氏はイラク戦争をはっきり指弾しなければならないはずである。母国アメリカのビリー・グラハムやジョン・ヘギーらと正面からぶつからなければならないはずである。それが彼の言い続けてきたイエス・キリストとともに生きる人生の「ファイティング・スピリッツ」なのではないか?
 
 彼のイラク戦争に対する考えや認識はともかくとして、このアメリカとイギリスのいんちきキリスト教徒がしでかした21世紀の十字軍戦争に対する態度の取り方に私は非常に強い不信感を感じている。彼の持つ圧倒的な行動様式の積極性やエネルギーからは全くこの戦争への対決姿勢が感じられない。もし、私のこの不信が完全な誤解であったというならば、私は彼の前に土下座し、丸坊主にしてお詫びしても良い。

清原の怒り

 監督の堀内と対立し、オーナーへ自らの起用法について直訴するなど異例の去就騒動を経て残留を決めた男・清原37歳。昨夜のXマスイブに契約更改した。その金額は3億6000万円とも3億8000万円ともいわれる。正確なところはわからないが、いずれにせよ史上最高額のとてつもない大幅ダウンである。史上2位、巨人の球団史上最高ダウンだそうだ。
 
 だが、スポーツ新聞が大げさにかき立てすぎだと思う。元々今までもらっていた金額があまりに大きかったために一度それが下がるとなるとそのダウン金額も自然と大きくなるのは何の不思議もない。今までがあまりに度を超したバブリー状態だったのである。減額幅が9000万円ともいわれるが、今シーズン、セリーグの首位打者、最多安打、ベストナインだった嶋重宣と、パ・リーグのセーブ王、ホークスの三瀬幸司という2人の年俸を足した金額よりも清原の「減俸額」の方がまだ上である。いかに人気者とはいえこれまでがあまりに異常だったということにほかならない。

 家を出るときから保留はしないことを決めていたというだけあって、たった5分で交渉を終了。「怒りの一発更改」といわれている。

 つり上がった目、紅潮した顔、両手の震えと止まらない貧乏ゆすり。憮然とした表情は確かに一種の興奮状態であったといって間違いない。「男・清原」の殺気を漂わせていた。金額ははっきり明かしていないが、右手の親指で後方を指して

 「(清武)代表に聞いてください。代表に。サインはしましたよ。(球団から期待の言葉などは)特にないです。(巨人への要望も)ないですね。やるしかない。口でゴチャゴチャ言うのもあれやから。それだけ。」
 
 と今にも切れかかりそうな状態でいった後

 「すぐ終わりましたよ。給料の話ぐらい。言われてあーそうですか、と。納得もクソもゼニ、カネの問題じゃない。」

 ということだそうである。しかし、本当に「ゼニ、カネの問題じゃない」のだろうか?

 予定よりも早く球団事務所に到着して、高橋由の交渉を待っている間は終始ご機嫌だったのに、交渉後は一気に顔色が変わった。提示された「ゼニ、カネ」に頭に来て怒っているのではなかろうか?

 今までのキャリアでダントツの最低、出場40試合、打率が2割2分8厘、ホームラン12本、27打点。これで4億5000万円をもらおうというほうがどうかしている。大幅減俸だがそれでも高橋由より上で、巨人の野手ではまだトップである。十分な金額じゃないか!

 「早くスッキリして野球をやるための準備をしたい。とにかく選手はグラウンドで野球をしてナンボ。早くシーズンが来てほしい。」

 というが、名球会でのゴルフやテレビ出演と随分忙しいようだ。ハワイで名球会総会に出席して

 「僕はまだハナタレ小僧。・・・巨人では向かうところ敵なしで偉そうにしているんですが、この名球会ではパシリとして一からやらせていただきます。」
 
 とにこにこ挨拶していたのはほんの数日前である。野球とは全く関係ないことに時間を使いすぎではないか?20年目という節目の崖っぷち、37歳という高齢、怪我だらけで満身創痍のフィジカルコンディションを考えれば、一刻も早く、少しでも多く入念なストレッチや走り込み、泳ぎ込みなどを行わなければならないはずだろう。油を売っている場合ではないと思うよ。

 せっかくのクリスマスイブに深くプライドを傷つけられたということなのかも知れないが、一般的な良識からすれば今でも十分にもらいすぎ。庶民はプライドも何も粉々になる扱いを圧倒的多数が受けている。公の記者会見の場でこれほど大人げない態度を見せる清原という人は、つまり、日本のバブリープロ野球選手の典型であるといって言い過ぎではない。とてつもなく熱烈な清原ファンはおそろしい数で存在するが、私は清原が新庄のように本当に金にああだこうだといわないようなそういうスタイルをとらない限りは、彼の言葉を額面通りはとても受け取れない。

 自分のやるせなさに怒るならばともかく、3億数千万円ももらえるというのにこの扱いに怒るのは全くおかしい。テレビCM出演料も入ることを考えれば、軽く手元に何億円という金額が入るじゃないか?これまでにもそういう金額を手にしてきたではないか?普通の人には考えもつかないような、とても使い切れない金額ではないか?

フィブリノゲンによるC型肝炎問題

88907865.JPG みちのくは青森、弘前大学医学部の名誉教授に品川信良がいる。御歳87歳。これで「しんりょう」と読む。彼は、1963年頃、あの薬害エイズで悪名を轟かせた悪魔の製薬会社、旧ミドリ十字の計らいで米国製薬メーカーを視察し、日本でのフィブリノゲン製剤販売に漕ぎ着けた立て役者である。翌64年に日本国内で販売が開始されている。

 だが、すでに1977年、アメリカの連邦食品医薬品局であるFDAは、あまりに肝炎感染の危険性が高い上に薬効も疑わしいとして米国内でのフィブリノゲン製剤承認を取り消ししている。もちろん、日本の厚生省もこれは知っていた。だが、稼ぎ頭の製剤を中止しようということにはならなかった。売血で製造されたフィブリノゲンがどれほど危険だったか、薬害エイズと薬害C型肝炎とは全く同列の経緯を辿って被害者を生んだ。

 1987年、東北の妊婦8人が連続して肝炎に感染し、病院は詳細なレポートを厚生省に提出したが、時の厚生省とミドリ十字はこれを隠蔽。被害者を爆発的に広げてしまった。公表されたこの製剤納入先医療機関は、外科、産婦人科だけではなく、内科、歯科診療、美容整形(あの高須クリニックまでもが含まれている)に至るまで広範に及ぶ。今、これで厚生労働省も東京都も対応部署の電話は鳴りっぱなしだという。

 品川信良は頑なにインタビューを断り続けているが、逃げ切れるはずもない。国会に招致して問いたださなければならない。

 「感染してしまった方は非常にお気の毒。ですが、この製剤で命が助かった方もおられる。」

 と責任は自分にないとする彼だが、彼も彼の肝いりの製薬会社もこれでぼろ儲けした事実は微動だに動かない。旧ミドリ十字は今、三菱ウェルファーマに継承されている。同社は推定患者が日本国内に1万人と推測しているが、大嘘である。使用された製剤の総数は実に53万本。それがたかだか1万人で終わるはずがない。少なく見積もっても十数万人以上の膨大な患者がいるはずだ。私の大学時代の恩師、田宮裕先生もかつて病院で輸血を一度受けたときにC型肝炎にかかり、それが最後には肝臓ガンとなって66歳の短い生涯を閉じた。ずっと養生されて治療を続けていらしたが、晩年の数年は時々恒例行事のように体調不良で入院するなど、もう素人目にもはっきり見えて衰弱が進んでいた。あれほど不世出の法律学の天才を早くに失ったことはまさに国家的な損失でもあった。私も個人的にあの時ほど日本の医療行政を深く恨んだことはない。
 
 肝臓の疾患は自覚症状が出てからでは完全に遅いのに、検査態勢ものろい。保険が使えない検査費用は実に1万円。これを自己負担させている。保健所での検査はあまりに数が限定されており、使いにくく事実上無いに等しい。

 この点、にこにこ笑っているだけで何一つ役に立たない無能大臣の典型、現在の厚生労働大臣、尾辻秀久

 「率直に申し上げまして、検査費用を無料にするというのは難しいと。」

 と実に脳天気に記者会見でのたまわっている。が、そうこうしているうちに自覚症状がないエイズ感染患者も激増。薬害のC型肝炎患者もどんどん追い込まれていく。彼は自身を自分のホームページで「ぼっけもん」といっているのであるが、小さい「つ」がいらない。単なる「ぼけもん」以外の何ものでもない。医療界の経営陣、厚生労働省の幹部らも含め、こいつ等ははっきり言って大馬鹿者である。

 薬害肝炎では、これまでに日本で74人が提訴中。薬害肝炎の被害者の多くに出産時の使用で感染した妊婦の女性たちがいる。本当にお気の毒であると思う。日本は子どもすら安心して産めない国だということである。

楽天へ移籍、岩隈久志

a08ff4ef.JPG 元近鉄バファローズの岩隈がついに金銭トレードで楽天へ移籍することが決まった。最後はオリックスの宮内オーナーの決断で諦めたようだ。

 オリックス・バファローズの球団社長、小泉隆司は、岩隈を最後まで説得できなかったことに悔しさをにじませ、

 「彼の意思を尊重した。球界や本人の将来を考慮して超法規的な判断をした。」
 
 というのであるが、これは「超法規的」ということではないだろう。単純に万策尽きて政策的に早めの断念をしたというだけのことである。労働法的にもオリックスが不利であったし、小泉社長自身がストライキでてんやわんやだった9月の交渉時に古田や磯部の前ではっきり、合併に際して「本人の意思の尊重」と約束したのでこうした事態になった。長時間の交渉の末に屈服させられその場に居合わせて涙の決断をした3割26本男の磯部。もはや楽天イーグルスの中心選手に躍り出た元近鉄の選手会長である。今の彼はオリックスへの敵意と対抗意識ムキだし。岩隈獲得に全力を挙げて後ろから応援した。 
 
 お年を召された大企業の経営者が、簡単に2つのチームをくっつけられると思ったようだが、そう簡単に事は動かない。人間は心で動くものだということを忘れていたとしか思えない。私はおそらく今シーズンもオリックスはビリ争いになると思う。2チームをくっつけて戦力アップなど虫が良すぎる。初めから球団を素直に売却しておけば良かったのである。これほどの深い怨恨と傷は残らなかった。

 そもそも岩隈が楽天を切望する理由は、オリックスに愛着が持てないというだけではない。磯部ら慕っていたメンバーが移籍したこともあるが、何と行っても彼が惚れ抜いて若くして結婚した妻、まどかさんの父親が楽天のコーチをする広橋公寿だからである。私も幼少時、西武球場へ試合を見に行ったときには広橋が活躍していた。守備、打撃、走塁全般に通じており指導者として有能だとされている。岩隈はこの義父を慕っている。今まで広橋は西武のコーチだったため、ずっと敵味方関係であった。この機会を逃しては義父と一緒に優勝を目指すという夢は消える。何が何でも楽天へ行くという気持ちがあったのだろう。

 岩隈は元々わがままな人間ではない。むしろ非常にお人好しの選手だった。彼が大活躍し始めたのは今から3年ほど前。大活躍したのにその年の年俸交渉で近鉄から提示された金額が何と1000万円。だが、若かった岩隈を近鉄球団は
 
 「若いうちからあまり高い年俸をもらうと君のためにならない。」
 「みんなこんなもんだ。」

 といった説明で丸め込んでしまい、お人好しの岩隈は「そんなものか」と思ったそうでサインしてしまった。彼の若さが思いっきり出てしまったケースだったので、近鉄の同僚等にも「何ともったいない。フロントに言いくるめられたな?」といわれた。かたや中村ノリに5億を出しておきながらの仕打ちであるのだから、岩隈はそもそもチームへの信頼を全く持っていなくても不思議ではない。
 
 結局、オリックスも近鉄も企業イメージを大きく躓かせたまま来シーズンへ突入。全くダメな人たちだと思えてならない。来シーズンは日本野球没落の歴史的な転換点になると思う。巨人戦の視聴率もさらに落ちるだろう。胡座をかいてきたツケが一挙に出る。

ラブワゴン あまりに軽いその「あいのり」

f7f61c38.JPG 時々、ザッピングのようにちらっと見るだけで真面目に見ていないが、フジテレビに「あいのり」という番組がある。ピンク色のワンボックスカーに若い男女が乗り合わせ、地球のあちこちを回りながら恋愛模様を繰り広げて、カップル誕生を目指すという話である。この様な番組に素顔を晒して参加できるその「勇気」には「感心」するが、全く恥ずかしくて正視に耐えない。まじまじと見ていられる代物ではない。視聴率稼ぎに演出された番組内で好いた惚れたとガキががやがややっているだけのこんなものは全く恋愛とは呼べない。
 
 これを通じて結婚にまで至った男女が何組かあるのだが、私は非常に情けない気持ちになってしまう。なぜ、これほど日本人の恋愛観が劣化したのだろう?これを劣化と思わないのはどうかしていると思う。私は全くそうは思わないのだが、今の日本は「純愛ブーム」なのだそうである。「冬ソナ」から「世界の中心で愛をさけぶ」に至るまでいったい、このような一過性の流行現象のどこが「純愛」なのだろうかと思う。

 つまり、要するに低級メディアの横溢によって日本人の人間観そのものが陳腐化してしまったのではないか。だからこそ、人間水準の落下が止まらないのではなかろうか。ちょっと主観的で乱暴な比較だが、たった1週間欧州を旅行してきただけの日本人が、帰国後テレビでこうした低級ばか番組を目にするとちょっとした拒絶反応を起こすことがある。たった1週間離れただけで低級メディア中毒が体感できるほど日本のメディアはひどい内容を日夜、撒き散らしているのである。

 そうしたフィールドの中で培養される「純愛」が陳腐になるのは当たり前で、その程度の恋愛観しか持ち得ない人間に、樋口一葉の恋心など理解できようはずもないと思えてならない。「純愛ブーム」は恋愛と呼ぶに値しない。

 こうした日本人の「アホ化」現象は女性よりも男性に顕著に見てとれる。私も仕事柄、若い男性と話をしたりすることが多いが、もう、本当に溜息が出るようなやつらが非常に多い。また、休日の草サッカーをやっていても、若い連中のチームはマナーが悪かったり、約束を守らなかったり、メールのやりとりが全くなっていなかったり、煙草の吸い方も出鱈目だったり、とにかく神経を逆撫でされてたまらない。若手主体のチームは試合を組んでもらえないことが多いのは、そういう点にも非常に原因がある。女子大生から今の若手男性を評すると、「幼児的、バカ、無責任、無神経、嘘つき」となるそうである。
 
 最近、大阪国際大学 人間科学部 心理コミュニケーション学科、宮本二美生ゼミ生らが卒論の一環として、女子学生を対象にしてアンケートを実施。今時の男性をどの様に見ているかを発表した。その結果はおよそ以下の通り。

 男子学生の印象:

 1. 幼児的 52・3%
 2. 優しい 45% 
 3. バカ  40・3%
  
 彼らの言動から想像される言葉を四字の熟語でまとめると、「大言壮語」、「優柔不断」、「軽佻浮薄」などとなったようだ。授業態度についても「不まじめ」が61%。理由として「寝ているか、しゃべっている」を挙げた。講義を受けている教室で私語を撒き散らされると真面目に受講している人間は異様に腹が立つということが彼らにはわからない。私が在学中だった10年前よりもこれら「小児病的男子学生」が激増していることがよく解る。

 男子学生の5悪をまとめると、「幼児的、バカ、無責任、無神経、嘘つき」となる。要するに、「大人になりきれていない」わけである。

 調査したメンバーの一人が言うように男女を問わず
 
 「目的を持たず、何となく生きている人が多い。」
 
 というのはかなり実際に近いのでは無かろうか。ラブワゴンでの「あいのり」。まさにそういう「生活様式」にぴったりとはまる人間模様だと思われる。

仁志もノリも考えが甘い

 巨人の仁志敏久(33)と、元近鉄の中村紀洋(31)。二人ともメジャーリーグへの移籍が「夢」だとして、フリーエージェント宣言をしてそれを目指している。しかし、朗報は届かない。届くはずがない。二人ともあまりに考えが甘すぎると思う。

 メジャーは大所帯の32球団。日本よりもずっと試合数が多い年間160試合以上があり、数時間の時差がある広大なアメリカ大陸をジェット機で飛び回る、ピッチャーは故障も多いし、分業制が完全に確立。メジャーで投手が崩壊すると全く試合にならないので最も駒不足のポジションとされる。だから、日本人のメジャーリーガーで投手が非常に多いわけである。もちろん、一流でなければ通用しないことはその通りであるが。

 これに対して野手。日本人のパワー不足は歴然としている。肩の強さは日本人の強肩が現地のやや良いというくらいである。打力についても日本有数の長距離砲である中村、清原、小久保、城島、松中らもメジャーに混じれば何でもない。50発を叩き出していた松井秀喜ですら1年目は3割に遠く届かず、16本しか打てなかった。カージナルスの田口も来季は契約を更新してもらえないことになった。イチローと松井という超一流の二大巨頭のみが例外である。
 
 そういう厳しい目で見ると、仁志もノリも認識不足である。もう、現地はクリスマス休暇に入る。今、ダイエーの井口のように具体的な話がないのだからもう、話はないと思ってほぼ間違いない。井口は自由契約選手という極めて自由に契約が出来る立場であることもあってオファーがいくつか舞い込んでいる状態である。仁志もノリも話を待つとか、単独トライアウトだのとかっこつけていないで、かつての新庄のように2000万円そこそこのメジャー最低年俸であってもどこでも良いからとにかくメジャーでやるという心意気で現地のストーブリーグに身を投じない限りはオファーなどあるはずがない。
 
 思うに二人とも今まで億単位の年俸をもらい、華やかな現役生活を送ってきたことが頭の切り替えを阻んでいる。特にジャイアンツ一筋の仁志は客が入らないオリックスのようなチームの悲哀はわからないだろう。5億も年俸をもらっていたノリは食パンにバターとジャムを塗ったものを「食事」(マイナー落ちを経験したことがある新庄はこれを餌に近いといっていた)にしながらメジャーに上がるべく虎視眈々と狙っているマイナー選手の気持ちなど絶対にわからないはずだ。仁志もノリもプロ野球選手年俸バブルに慣れきっていて、それを全て捨てて挑戦するという野茂、新庄、マック鈴木、多田野のような感覚が持てない。FAですんなり好待遇のままメジャー移籍を狙うなど、はっきり言って自惚れ以外の何ものでもないと思う。

 33歳の仁志はこの2年ほど守備の冴えが明らかになくなっている。打棒も振るわない。井口や岩村、赤星のように超快足というわけでもない。年齢を考えればオファーがある方が幸運である。ましてノリは前回のメッツとの契約で呆れたドタバタをやったばかり。どのチームのGMも手を出すはずがない。最低年俸でマイナー落ちの可能性も排除しないならばあり得るかも知れないが。偶然、イチローと同じ飛行機で帰国した中村は、
 
 「あとは評価を待つだけ。しんどい部分ですけどね。クリスマスプレゼントが届いてくれれば。年内に決まってくれたら。」

 というが、そういうクリスマスプレゼントは届かないと思う。人生、大きなチャンスはそうそう何度も窓を開けてくれない。2人ともこのまま日本でやる以外にない。だが、一度は日本野球を捨ててメジャーが「夢」だと口走り、言いたい放題にやったツケは重たい。残留してもものすごく肩身が狭いと思うよ。

「○○先輩」という呼び方は辞めよう

 小学生から中学生になった時、多くの日本人が経験することではないかと思われる事だろうと思われるが、自分の上級生を「○○先輩」と呼ぶ慣習が始まる。これは極めて「日本的」な悪い慣習である。
 
自由で伸びやか、闊達だった小学校から、拘束的で息苦しい、抑圧が上から下へ委譲されていく管理社会の中学校へ入った瞬間、そこにまるで共産主義社会のような重苦しい空間が待っている。客観的な根拠のない不合理な掟が横たわり、その空気の澱みといったら例えようもない。ごく普通に、「田中さん」、「佐藤さん」、「かおりさん」と言えば良いではないか?中学に入ったばかりの頃から、在学中一貫してずっとそう思っていた。尊敬も何もしていないようなばか男をなぜ、「滝谷先輩」、「高林先輩」などと言わなければならなかったのか、今持って不愉快極まりない。誠に日本の中学校というのは不健康な組織体である。
 
 大学でも、社会人でも体育会にでも入らなければこうした異様な呼びかけをする事はない。社会人になった今、私はかつての小中高校時代の上級生とも町中やその他の場所であれこれと接点を持つのであるが、ただの一度も「○○先輩」と呼びかけたことはない。そういう言い方は一生、これからも拒んでいく。これは私の信念に他ならない。
 
 あれほど自由で伸びやかに見える女子プロゴルフの宮里藍さんだが、東北高ゴルフ部の後輩がみな「宮里先輩」といっているのを見聞きして、少し気が滅入った。やはり中高のスポーツ部とはそのような言い回しが今なお健在なのだろう。
 
 本来、「先生」とは非常に重要な意味と尊厳を持つ言葉であったはずだが、が、日本ではだれでもいともあっさり「先生」になってしまう。地方政治家といわず、国会議員といわず、政治家を「先生」と呼ぶ慣習がこれほどまでに疑問をもたれずに承認されていることに私は異様な違和感を感じざるを得ない。
 
 なぜならば、基本的人権のために民主主義体制は採用されたはずであるが、その政治体制においては議員とは主権者の代理人、代表、奉仕役であり、主権者より偉そうに振る舞う理由などどこにもないからである。それにも関わらず、床の間を背にしないと不機嫌になる政治家のだれかさんのようにふんぞり返って威張り散らすことを何とも思っていない自称、「代議士」には心底、強烈な嫌悪を感じざるを得ない。

 もう一つ、背筋が凍りついたおぞましい他人の呼び方がある。日本共産党の幹部だった筆坂がつまらないセクハラ事件で失脚したとき、今は日本共産党の書記局長をしている市田忠義が、筆坂の事を「筆坂同志」と呼んだ時だった。未だにこの現代社会において「同志」という言葉を公的に使う神経が全く理解できない。いつの時代の、どこのお国でそういう言い方をしているんでしょうか???「筆坂さん」、「筆坂氏」でいいじゃないか。気持ち悪い。頭がどうかしている。

 他人を呼ぶときに気持ちの悪い呼称をつけるのは辞めましょう。

異様なカルト、聖シャーベル修道会 キリスト教ではない

0d6745eb.JPG 「聖シャーベル修道会」という組織がある。教会の教導権に服従するカトリック組織であると自分たちは自称しているが、バチカンからも日本のカトリック司教からも全く認知されていない。見まごう事なき完全なカルト宗教組織である。イラク戦争にも強烈な賛意を送っている。「マリア様の戦士」の使徒職といった聞いたこともないような言葉を連発、頭がどうかしているとしか思われない。ローマ・カトリック使徒教会の教えに従った、教会法605にある「新しい形式の奉献生活」を目指すとしているが、彼らの絶対的な自己肯定は客観的な根拠を何一つ有さない。

 修道会の創立者はカトリックの平信徒だったウィリアム・カム。ニックネームを「リトル・ペブル」とつけている。本人は否認しているが、豪で散々、女性信徒への性犯罪で訴追された。この種のカルトカリスマに良くある話だが、神を見たとか、神の声を聴いたと延々、のたまわっている。「聖母マリアの御出現の幻視者」だそうである。脱会者に対しては、

 「この幻視者はリトル・ペブルとの一致を捨て、恵みと使命を失いました。」

 と堂々とその経緯を若干の伏せ字を混ぜながらもウェブサイトで公開して罵っている。洗脳集団の典型である。完全に頭がおかしい。
 
 オーストラリアを拠点にしているようだ。豪のニューサウスウェールズ州キャンベワラにある。カムは今、豪のウォロンゴング教区の下にいると自称はしているのであるが、全然違うようである。この様な洗脳集団組織が、「聖シャーベル修道会」といういかにもカソリックの修道会のような名前を用いて、今や世界120ヶ国にて53人の司祭、数百人にもなる修道女と修道士、30の共同体、64の女子修道院を持つという。事実ならば恐ろしいことである。公称50万人の信者がいるというが未確認である。

 日本における「聖シャーベル修道会の共同体」設立の促進と援助のための事務所(Office for promoting and assisting the establishment of Communities of the Order of Saint Charbel in Japan)があり、大阪に拠点を持っているようだ。東京の杉並区にもあるようである。くれぐれも気をつけてもらいたいと思う。
 
 キリスト教徒の私ははっきりと申し上げるが、キリスト教を名乗る洗脳集団(ものみの塔、エホバの証人、ニューエイジ運動、モルモン教会、聖シャーベル修道会、東京キリストの教会など)は、数あるカルト組織の中でも極めてたちが悪いので気をつけてほしい。
 
 あまり申し上げたくはないことであるが、それでもいっておかなければならないと思うので申し上げると、異端とはされていないプロテスタントのキリスト教教会の中にも場合によってはそうしたたちの悪い牧師が居座っているところは少なくない。少しでも異様な違和感を感じたらそれはもう逃げた方がよいと思う。私からのお薦めである。いずれそういう牧師たちの卑劣な面を何かの機会にまとめてみたいと思っている。

  聖シャーベル修道会 および 箱舟の聖母社
  〒540-0004  大阪市中央区玉造1-4-14  
  charbeljapan@nifty.ne.jp

  あかし書房 
  〒166 東京都杉並区成田西3-9-22 
  電話:03-3313-4014 ファクス:03-3311-9359
  

アイドリングストップは心にも優しい

 「環境に優しいバスの利用を」というステッカーが貼ってある割には全く排気ガス対策が十全にとられていない日本の路線バスであるが、滅多にないが、時々バスに乗るチャンスがあるとバスによっては信号待ち、渋滞待ちの時に自動的にアイドリングストップをする車種がある。あるいは運転手が手動操作でやっているのかもしれない。あれは燃料の節約や環境への配慮ということが最大の理由だろうが、乗っている乗客の心にも優しいと思う。大型車のディーゼルエンジンはメーカーが手抜きをしてそうした技術開発に力を入れていない上に、技術的にも騒音、振動の抑制に限界がある。乗っている客にとって自分の真下で止まっている時にエンジンがずっと振動して音を立てているのは精神的な負担が掛かる。バスに乗っていてエンジンが切れると、
 
 「あっ」

 と思って気持ちが少しふわっと軽くなったように感じる。穏やかに静かな心持ちになれるのではないかと思うのである。数十秒後にはまたエンジン始動になったとしても、ごく短時間であれ、エンジンが切れることは心にも優しい。

 私もホンダカブで運転している時に踏切や信号待ちの時にはエンジンを切る。すぐに始動できるから簡単なことだ。乗っている自分に一切、振動や騒音が無くなるのでやはり気持ちがぐっと落ち着いてくれる。
 
 アイドリングストップの効果は環境だけではない。人間にも優しい。人間にとって音や振動は想像以上に心身を疲弊させるものだ。

吉祥寺プラザ 「ハウルの動く城」はよくわからなかった

a095a004.JPG 私は宮崎駿監督をとても尊敬しており、立派な職業人だと思っている。コナン、ナウシカ、ラピュタ、紅の豚などどれほど豊かな想像性の世界を見せてもらったか知れない。歴史的な人物であるとさえ思う。
 
 「ハウルの動く城」についてはさっそく公開直後に勇んで見に行った。吉祥寺では2つの映画館で上映されている。吉祥寺駅の目の前、4館合同の吉祥寺オデオン座はいつも混雑していて見られないことが多いが、もう一つ、駅から3,4分歩いてサンロードの末端、五日市街道に来てから左へ曲がるとそこに「吉祥寺プラザ」という小さな東宝系の映画館がある。「吉祥寺プラザ」、このいけてない名前がさらにまたナイスである。
 
 座席数が260。やや小さめの映画館。ここは土曜日の夜9時25分から毎週、レイトショーをしており、23時半頃に終わる。普段は料金が一般で1800円だが、これだけ1300円で見ることが出来る。私はこれで楽しんだ。
 
 この作品、原作は英国の児童文学作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ。「魔法使いハウルと火の悪魔」である。徳間書店から出ている。宮崎監督オリジナル作品ではない。この「ハウルの動く城」は空前の興行記録をつけているようだが、率直に言って私にはよく解らない映画であった。原作の限界とも言えようが、コナン、ナウシカ、ラピュタらのイマジネーションやメッセージ性、ストーリー性からは遠く及ばない。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」と比較するとアニメーションの品質も落とされている。それでも見応えのある部分はかなりあったが・・・。

 ご覧になった方、どうお感じになりましたか?「吉祥寺プラザ」では比較的格安に見られます。毎月1日のサービスデーは1000円。女性限定ですが毎週水曜日ならやはり1000円で見られます。

 なお、この吉祥寺プラザのビルの屋上にあるバッティングセンターに行きますと、稀にスイッチヒッターとして豪快にゴロの山を築いている私がバットを振っていることがあります。

吉祥寺プラザ
武蔵野市吉祥寺本町1-11-19
0422-22-5336
* いずれかが50歳以上の夫婦 ¥2000(年齢は要証明) 

友だちというもの

 私がその姿を見て「頑張っているな」と羨望の眼差しで眺めている経営者の一人にインターネットや電話フリーダイヤルでの宅配専門食材ビジネスを営む、高島宏平氏がいる。オイシックスという会社の社長である。高島氏は私と世代も近い。私よりも2歳ほど若い。大学、大学院を卒業後、公務員や大手一部上場企業などへは行かず、厳しい経営コンサルタント会社で2年間現場を経験。26歳で起業した。今や数億円の売上げを出す優良企業である。牛乳宅配のサービスと組んで老人などへの宅配を組み上げたのが大成功であった。世代が近いことも親近感を持てる一つの理由だが、最大の理由は彼が現役の高校生にこの様なことを言っているのをNHKで見たからである。
 
 「高校や大学時代に一生の友だちになる親しい友人をたくさん作って下さい。大人になってから親しくなった人ももちろん、良いつきあいができることもありますが、どうしても仕事を切り離して親しくなることができない場合がある。社会に出てとても困ったときに、いざというときに本当に親身になって助けになるアドバイスをくれるのはそういう学生時代に親しくなった人たちです。」

 と。しかもこれは現役高校生がベンチャー起業の経営者などに経営の体験をさせてもらうために現場をあれこれ見せてもらうという趣向の番組での答えであった。他の経営者は、自由な発想を持って欲しいとか、失敗を恐れないで欲しいといったありきたりのことをいっていたのだが、高島氏はこういっていた。それを聞いた瞬間、私は彼への信頼を深めたのである。
 
 私にも友人や知り合いは多くいるが、やはり小さい頃からの友だちというのは段違いに気兼ねがない。自然体のやりとりができる。私は草サッカーチームを主催していてビジネスとは無縁の繋がりを持つ知り合いも非常に数多いが、やはりそれでも学生時代からの友人のようにはうち解けることはない。ビジネス上の相談で力になってもらったということはまだほとんどないが、彼ら小さい頃からの知り合いとのやりとりがとても楽しい。統計でも人間のストレス発散の圧倒的一位は何と言っても友人と談笑することなのだそうである。

 サッカー部だった時の友人で今、メガバンクに勤務している同期の友人も時々参加してくれて、今もメールのやりとりをするが、当時と変わらぬ遠慮のない自然体の呼吸感が感じられるのが嬉しい。1つ年齢が上の42期の人たちは今も私にとっては元上級生だったから私に対して 「あのさ、杉本」、「杉本、これでいいか?」といった話し方をしてくれる。そういう風に会話できる人は学生時代からの人しかいない。
 
 サッカーを引き合いに出したので申し上げれば、私は代表世話人なので皆、私には偉そうなことをいわない。私は自分でレフィリーをやったり、人気のない守備に徹したりして自分ばかり楽しまないようにしているので皆メンバーは私の指示をそのまま受け入れてくれる。また、私たちのチームは勝たなくても良いので相互に怒鳴ったりして指示を出し合うことはないから、私が守備で位置取りがまずかったことが再三あったとしてもストレートにいわれることはない。
 
 先日、三鷹大沢グランドで試合をした時、高校サッカー部時代のストライカーで部長だった同期の友人が参加してくれた。ポジション割りの関連から彼が左サイドバックで私がセンターバックを担当したのだが、彼がしばしば私に対して

 「杉本、もっと絞って。」

 「少し下がって。」

 といった指示をこちらに顔を向け、右手で身振りをとりながら出してくれた。このチームで私にそういう指示を出してくれる人は彼以外にいない。私は何だかとても嬉しかったのである。一生、あの光景と印象を忘れることはないだろう。できれば、彼とは高校時代に一緒に公式戦などの試合でプレイしたかったものだが、私は残念ながらずっと下手くそな控えだったもので彼とは一緒に練習するのみ。一緒に試合に出たことがほとんどなかった。怪我人続出の時に練習試合でほんの前半30分だけ出たのを覚えているのみである。
 
 大人になるに連れ、人間はもうかつての友人を頼って生きていくしかなくなるものではなかろうか。仲間はみな独立し、家庭を持ち、地位を得て大人になっていくに従いばらばらになっていく。私が好きな歌手の一人に元オフコースの小田和正がいるが、彼が招待役を務める深夜の音楽番組でチューリップの財津和夫をゲストに招いたときにもその様なことを言っていてそうだなと思ったものである。
 
 皆さんも友だちを大切にしましょう。

「不登校」で命が繋がるならそれでよい

 私は公立の小中学校に行っていた。当時は第二次ベビーブームのピーク時。クラスも多く、何をするにも混雑。何かにつけ倍率が過去最高という過酷な時代であった。そのように完全な「学校優位」の時代、ひどい教師がたくさんいたものである。もう、箸にも棒にも掛からない、なぜこの様な頭のいかれた大人が「教師」をやっているのか、全く理解できない低劣な人材が校舎内に巣くっていた時代であった。
 
 その様な中、昔、こんな事を言っていた教師がいた。

「お前、勇気を持って学校へ来てみろよ。」

当時、深刻ないじめを受けていたある女生徒が不登校になってしまった。当時は不登校は珍しく私の中学の同期でもその子だけではなかったかと思う。ややふっくらとしてかわいらしい子で、とても優しく純情な傷つきやすい子であった。だが、どういういきさつだか分からないが、彼女を目の敵にする粗暴な女生徒軍団がいて彼女たちの刃に掛かってしまったのであった。直接同じクラスになったわけではないからわからないが、親友が同級生だったので聞いたことがあるが、そのいじめたるやひどかったらしい。どう考えてもその子に罪はなく気の毒であった。その気の毒な彼女に対して、
  
 「お前、勇気を持って学校へ来てみろよ。」

 と無神経にもぬかしたのが顔を思い出すだけで腹が立つある中年の男教師であった。
 
 それを聞いた私は

 「こいつ、ばかじゃないか?お前、この子がどういう仕打ちを受けたか本当に知ってるか?勇気を持たなければ来られないような学校、びくびくしなければならないような学級ならばそれがそもそもおかしいだろ?」

 ひどく憤慨したものである。
 
 今年、全国の公立学校(小中高全て含む)で自殺した児童はなんと137人。慄然とするべき数(小学生:5人、中学生:34人、高校生:98人)である。少子化の時代、子どもがこれほど自ら人生を止めてしまうとは!未遂事件やそれらの潜在的な数からいえばもっと増えよう。私立学校や大学生、専門学校生も入れればさらに膨れあがる。これは5年ぶりに増えた数だという。昨年よりも14人増えた。およそ児童生徒10万人当たり1人ほど自殺する割合となる。

 この統計を見てげんなりしたのは、教育委員会が報告した自殺の原因別分類において、最大の理由が64%で「理由が特定できない」というものだったこと。それらは「その他」扱いとされる。大きく数値が開いて「家庭事情(父母の叱責など)」が12%、精神障害が9%、「世の中が嫌になった」が5%、進路・学校問題が4%となっている。

 さらに、現場の教育者達の責任が一挙に追及される「いじめが原因とされた自殺」がこの5年間ゼロ行進である。これは根本的に疑わしい。全く信頼に値しない統計報告と見る以外にない。いじめ、いびりによる自殺が64%の「その他」の中に相当数含まれていると見て間違いない。分類上、自分たちの管理責任が浮かび上がるのが嫌でこの様に処理しているだけである。全く実に無責任で不誠実、あきれた頼りない「教育者たち」である。
 
 昔からこの「教育界」というものに生きる人間が総じて大嫌いであった。今も教育論専門のNHK解説委員や教育評論家、教育学部の教授など、どれをとっても例えようもない嫌悪感である。
 
 自分が見てきた教師の中でも尊敬できる人間はごくわずか。小学校から高校までの12年間で、本当に4人ほどしか尊敬できる人間がいなかった。32歳にもなった今も年賀状を出している人たちであるが、残りの形式上は「教師」と呼ばれる人たちの6割から7割くらいについては、言い方は非常に悪いがゴミみたいな人たちであった。

 文部科学省がまとめた「生徒指導上の諸問題の現状」で判明した今回の問題だが、自殺の多発は「諸問題」どころの話ではない。この彼らが言うところの「諸問題」の中で最も深刻なことはこうした生徒の自殺にまで直結してしまう深刻な学校現場の崩壊である。やれ君が代を歌えだの、日の丸を掲げろだの、ボランティア実習をとりいれるだの、「命の大切さ」教育に力を入れるだのとばかばかしくて聞いていられない。学校現場に上から官僚主義的に生徒不在の不毛な方針を押しつける教育委員会の連中というのはいったい何を考えているのだろうか?はっきりいってガン細胞そのものである。
 
 私は都立高を卒業した。旧制中学時代からの伝統を持つ名門といわれる学校であり、当時から私立校の躍進が著しかったことを差し引いて考えても、大学進学の実績も高く猛烈なカリキュラムの進学校であった。はっきりいって私がこの高校を受験した理由は不純であった。実際、この高校に進学してから後は全くばかを見た。入ってからは目の前が真っ暗。全く周囲の学力水準についていけない。私の人生の中でもあれほど惨めだった時期はない。今から思えば色々と楽しかったこともあるが、詳細は省くにしても苦しかったのである。
 
 だが、その様な中でもいくつかの点で「素晴らしい」と当時も今も変わらず思うことがある。

 1. いじめ、いびりがほとんどなかったこと。
 2. 校風が自由で、生徒が自主的に取り組む領域があったこと。
 

 である。中学時代は荒れに荒れた学校だったため、いつもおどおど、びくびくしながら暮らしていた。考え得る最悪の環境であった。いじめ、いびりの問題にあまりに無力な教師達をどれほど呪ったかわからない。「治安」とは人間社会に最も重要な要素である。安心して過ごせないということくらい物心両面で負担の掛かることが他にあろうか?かなり話は飛ぶが、米英軍がめちゃめちゃにした今のファルージャを見てもよく解ろう。
 
 母校にはいじめがほとんどなかった。だからこそ私は不登校にもならず、遅刻はオンパレードだったが、欠席はなく3年間を過ごせたのである。あれでいじめ、いびりが蔓延していたらたまったものではない。
 
 日の丸も君が代もなかった。運動会も学園祭もクラスマッチもクラブ活動も自分たちで組み立てることを許された。佐藤校長先生の音頭にあわせて熱狂的に万歳を叫び、猛烈な大声で学友歌を歌ったことは、やはり今も何度思い返しても珠玉の思い出である。
 
 学校は自由で安心できる場所でなければならないはずである。いじめやいびりを解決できないのならば、自衛手段として生徒が「不登校」になったっていいではないか?それで命が繋がるならばそれでよい。無理に「勇気を持って学校へ」来させる世話を焼いてしまうのは頭がどうかしている。
 
 親も子供に下らぬ進学問題などでがたがた言うべきでない。倫理の一線を踏み外したようなときや、薬物にでも手を出したようなときだけ本気で叱責すれば良い。大学など行かなくとも十分に幸福に生きていける。

粗暴な男に殴られた

 東京都日野市。街道を走り、前を走っていた日産の白いワゴンが信号機で止まるなり、中から40歳くらいの男が出てきた。浅黒い顔、普段着だったが、仕事で移動の途中のようだった。
 
 「てめえ、ああいう曲がり方があるかよ!!」

 というなり私のヘルメットの上から左手で強烈に強打。いきなり襲われた私はもちろん、スクーターから降りて後ろに下がったが、さらに相手はもう一度殴り込んできた。私はしりもちをついて倒れる。これ以上、関わると危険だと判断して立ち上がるなり数歩距離をとった。彼は私のスクーターを思いっきりけっ飛ばし、風防を破壊。そのまま立ち去った。

 私は仕事へ行く途中で、約束の時刻が迫っていたのでそのまま移動。およそ2時間遅れで110番通報を行った。

 彼は私がその車の左脇を走ったのが危険だったということで腹を立てていた。だが、接触はしていない。私も言われて初めて気がついたのだが、そういえば、やや不注意な運転であった可能性はある。しかし、接触しているわけではないし、クラクションを鳴らされたわけでもなかった。常識はずれの危険走行だったわけではない。それがそこから1kmほども離れた信号待ちの停車時にいきなり襲われたのだからたまったものではない。百歩譲って危険な局面があり、彼が怒ったことが当然としてもだからといっていきなり暴行して怪我を負わせて良い理由は何もない。さらに相手の車両を腹立ち紛れに蹴飛ばして破壊して良い理由もどこにもない。

 転ばされたときに左手指の突き指と右足首、膝を捻った。当然、明日にでも診断書を書いてもらおう。こういう粗暴な男をこのまま被害届を出さずに放置することは公共危険であるから。この様なつまらぬ男から被害を賠償してもらおうとは思わないが、警察に追及される恐怖だけは十分に味わってもらう。
 
 この男、信号機の下で私に暴行する前、川崎街道の途中で一回、完全に停車した。私はなぜ、この様なところでこの車は止まるのだろうといぶかしく思いながらも、道路と車体の左側面との間隔も狭かったのですり抜けることなくそのまま止まっていた。そうしたところ、この男は降りてくるわけではなく再び発進したのだった。
 
 この男、私がもし、この時にこの日産エルグランドを追い抜いたとしたら後方から私に追突して転倒させようと思っていたのだろう。だから、このように不自然な停止と発進を行ったのである。いくら頭に血が上っていたとはいえ規範意識の崩壊も甚だしい。下手をしなくても人殺し行為である。
 
 彼が車から降りてきて暴行してきたときには怖かったし、緊張した。完全に頭に血が上っていることがわかったからである。この様な男には短期的にであっても緩やかな教育的服役を科するような仕組みがあってしかるべきだと思う。日本の刑事司法は、罰金や執行猶予付きの量刑と、禁固や懲役との乖離が大きすぎるのである。無期懲役と死刑との乖離も均衡を失している。もう少しきめ細かい刑罰とその運用が考案されて良いと思う。

ドン・キホーテ放火 「音の暴力」を恨む男が犯人では?

8e46b39e.JPG 黄色と黒のツートンカラー。まるで阪神タイガースのようなごてごてした色彩感で、目のくらむように明るい蛍光灯看板を用いて深夜まで営業し、何でも超格安で売りまくるドン・キホーテ。この店が相次いで埼玉で放火の被害にあった。若くてかわいらしい女性店員が3人、煙に巻かれて死亡してしまった。何とも痛ましい事件である。放火とは極めて卑劣で被害の大きい「公共危険罪」であり、絶対に許されない重罪である。犯人の逮捕を願う。

 だが、ドン・キホーテがなぜ狙われたのか。私はおそらくドン・キホーテの営業に伴う騒音を恨んだ人間の放火ではないかと思っている。深夜にまで渡る店舗にやってくる客が引き起こす「音の暴力」、とりわけ駐車場を使う自動車のエンジン音に苛立っていた周辺住民の男が犯人ではないかと思っている。私も自宅に隣接する駐車場の車がたてる大きなエンジン音や常識知らずのバカ者達が騒ぎ立てる話し声にはいらいらしている。特にパジェロなどエンジン音がトラック並に大きいディーゼルエンジンの場合は振動や低周波ともあわさってたまらない。5分と堪えられない。
 
 ドン・キホーテは、前々から出店するたびに猛烈な周辺住民との軋轢を生んでおり、新規出店に反対されることが通例となっていた。私もあれが自分の自宅のすぐそばに出来てひっきりなしに24時間、深夜もいとわずうるさいエンジン音や話し声が聞こえてきたらたまったものではない。騒音は人間を非常に疲弊させる。「音の暴力」は物理的な暴力と何ら質的にかわるところがない。関西の精神科医、野田正彰も同様のことを指摘していた。
 
 ドン・キホーテの社長、安田隆夫については、私は記者会見で初めて見たのであるが、地域社会もなんのその、傍若無人に営業をするという評価そのものの印象であった。まだ犯人の男が捕まっていないからわからないが、実はこの放火事件を知って、もちろん不適切であり不謹慎の極みではあるが、

 「ざまあみろ。」
 
 と思っているドン・キホーテ店舗の周辺住民も多いだろう。これを良い機会に経営が傾いてそのまま倒産して欲しいと思っている人もいるのではないか。仮にそうであったとしても逆恨みの犯罪を肯定するつもりはないが、ドン・キホーテのようにめちゃめちゃな金儲けの振る舞いをしている人間たちには、あるいは痛みを受けてきた被害者達からのこうした仕打ちがありうるということではなかろうか。 

 昨年、ドン・キホーテでは、消防法違反の有無をチェックする立ち入り検査で195件の違反を指摘された。昨年だけでも首都圏の全31店舗のうち6店舗で合計7件の不審火があった。その前にもぼやが連続していた。こういう店舗は他に聞いたことがあまりない。こういう放火が続出した段階で、経営方法によって深く恨まれていることを予測して、経営を変えなければならなかったのではなかろうか。

素晴らしい 東京女子大のメサイア

bbb1a644.JPG 以前のコラムで吉祥寺東町に隣接している東京女子大を紹介した。この大学は、毎年12月に礼拝堂併設の大講堂でメサイアのクリスマスキャロルを歌うことを恒例としていて、今年は記念すべき50周年。私も自転車で聴きにいった。カントールであり、今は故人となった聖歌隊創設者である池宮英才を継承した中内潔助教授が指揮者。彼もまた渋みのあるスリムでやや白髪まじりの朗らかながらハンサムな中年で、どう見てもバレンタインデーあたりには女子学生から圧倒的な人気を博していると思われた。
 
 演奏はというとこれがまた素晴らしい内容であった。とりわけ、やはり何と言っても東京女子大クワイヤーの若い乙女たちの伸びやかな歌声は極めて印象的であった。その圧倒的な声量、絹糸のように繊細な声質、一糸乱れぬ旋律の流れ、赤と白のツートンカラーのクワイヤー衣装。どれをとっても非常にかわいらしかった。茶髪のおねえちゃんなど一人もみあたらない。料理に例えるのはあまり品の良いことではないかもしれないが、乳臭い仔牛肉のような印象で、美しく、汚れを知らぬかのごとくに澄んだ瞳のうら若き乙女たちが、汲めども尽きぬ泉のごとくのエネルギー感に充ちていた。
 
 私は今回、異例の位置に座ることになった。最前列、中央部。そこしか空いていなかったのである。他の機会には全くありえないチャンスであるから、それもいいかと思ってそこに決めた。ソプラノの岩井理花さんのまさに目の前、アルトの阪口直子さんもすぐ右前に座っていた。いかに異例中の異例のポジションだったかを伝えるために申し上げると、しおしお見上げたわけではないが、彼女たちが立ち上がって歌うと鼻の穴を下から見上げるくらいの位置であった。
 
 そんなわけで私の位置から唯一しっかり見えたクワイヤーのメンバーは、最も左端に立っていたソプラノの女の子であった。やや背が高めでショートカットがかわいらしい人であった。彼女は実に楽しそうに歌っていた。時折とても良い笑顔を浮かべながらわずかに身体が左右に揺れて、顔をかすかに振りながら前へ前へ伸び上がるように歌っていたその子はまさに天使のように私には見えたのである。カンターレ、喜びながら歌うこととはあのように言うのではないかと思われ、清々しいコーラスの美を見た思いであった。

華がある人

ba5c8b76.JPG 理由を説明しようと思ってもなかなか上手くいかないが、なぜか惹きつけられる人間的魅力を持った人がいる。芸能人でもそういう人はいるのだろう。私にとってはそうではないが、石原裕次郎美空ひばりなどは国民的なスターだった。スター、つまりそれは周囲の人間を魅了してやまない人間そのものが輝いている人である。それは必ずしも人柄、人格というだけではない。その言葉遣い、声、立ち居振る舞い、服装、髪型、顔立ち、能力など全ての要素から生み出される「魅力」ということである。人はそれを「カリスマ」とか、「華がある人」と呼ぶ。「カリスマ」とは元々、Charisma。つまり、チャームであり、魅力という意味であった。アメリカで言えば、JFKロナルド・レーガンらにはそれがあった。レーガンはハリウッドで磨かれたその人間的カリスマによって、あらゆる政治上の失態にまつわる批判という油をはじき返してしまっていた。まるでテフロン加工されたような疑惑に強い大統領ということで「テフロン・プレジデント」とさえいわれた。

 カトリック吉祥寺教会にベトナム人のグエン・トルン・ジュンさんという男性神父がいる。年齢は30歳代半ば。帰化申請を行って日本国籍を取得。今は形式上は日本人となった。忠元淳という名前になっている。母言語のベトナム語はもちろん、英語がネイティブレベル。日本語も時々微細なところで怪しい面があるがほぼ我々日本人と遜色ない。彼の姿で私がいつも感心することがある。彼が礼拝の時に必ず両手をやや広めに広げ、左右を見ながら
 
 「主の平和が皆さんとともに!」
 
 と声を掛けるシーンがあるが、この時に必ず左右にゆったりと顔を向けながら身体を捻るのである。これが非常に格好いい。実に様になっているのである。正面から見ていて思わず息をのむような「美」を感じたことさえある。その他の神父はこれをやらないか、やっても控えめ。全く決まっていない。彼ほどその立ち居振る舞いに「華がある」聖職者は珍しい。

 彼は声が良く通る。メッセージも簡潔にして本質をついた優れた内容が多い。事前によく考えて練り上げているのであろう。彼はとりたてて長身だとか、スタイル抜群だとかいうこともないし、整った顔立ちではあるが、水も滴る美男子ということもない。だが、非常に華がある人である。

 私は昔からその種の「華がある人」とは全くいえない。それを悔しいと思ったことはあるが、無いものをねだったところであまり建設的ではないので自分の持ち味をどの様にして引き出すかを考えている。大輪の花を咲かせるような「華」とは異なった、もっとほのかに、ひっそりと、静かに、穏やかに花弁を揺らす小さな「華」もあるだろう。身の丈と自分の様式に馴染まない「華」ではない、私なりの「華」を追求したい。

 * ちなみに私はSMAPの「世界に一つだけの花」は非常に嫌っている歌である。理由は割愛するが、あの歌に歌われているような意味で申し上げたのではない。

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憲法は国家の基本法・最高法規 軍人が口は出せない

9bd8d1cc.JPG 日本には軍隊はないということになっている。だが、実体としては自衛隊という堂々たる軍事組織を擁しており、憲法上の矛盾が半世紀以上、論争されてきた。自衛隊は形式的にも法規上も軍隊ではないが、対外的には軍隊そのものと位置づけられている。 
 
 自衛隊の合憲性をめぐる憲法解釈論の論争とは別に、文民統制という概念が近代立憲主義には存在する。Civilian control という。軍人ではない文民出身の政府が指揮をして、職業軍人たる軍最高指揮官は任命されなければならないという原則である。民主主義体制を採用する近代国家において微動だに動かない大原則である。

 これは極めて重要な原則であり、もともとは軍隊の政治介入から民主政治を守るために確立された。かつて日本でも15年戦争中に陸軍や海軍の大臣現役武官制度が採用され、軍人の協力と承認なしには組閣が出来ないという時代があった。軍は気に入らない内閣ならば大臣になるべき人材を推薦・拠出しなければそれで良かったので大きく政策決定に関与することになって、これがあの悪夢の「軍閥の台頭」をもたらした。

 この観点からして大きな問題を呼ぶべき事件が起こった。日本の陸上自衛隊の幹部が、軍隊の設置や、集団的自衛権の行使を可能とする内容の憲法改正案をまとめて、政権与党である自民党憲法調査会の中谷元(憲法改正案起草委員会座長)に提出していたことがわかったからである。提出されたのは10月下旬のことであった。1ヶ月以上もその事が公にされていなかったことも大問題だが、それ以上に問題なのは、これが文民統制原則に反することである。この自衛隊幹部案によって示された趣旨が全て自民党改憲草案大綱の素案に反映されていることである。今回、この情けない中谷に手渡された自衛隊版改正案には「憲法草案」という題名がつけられており、陸上自衛隊の中枢である「陸上幕僚監部防衛部防衛課防衛班」所属の隊員(二等陸佐)と彼の職場内連絡先が添えられていた。

 憲法改正という最高レベルの高度に政治的課題に軍事的組織たる自衛隊の「制服組」が関与したことは極めて大きな問題だ。政治が軍事を監督できていないということである。国権の最高機関であり、唯一の立法機関であるところの国会を構成する国会議員が、たかが自衛隊幹部官僚のパペットになり果てているということに他ならない。

 そもそもこれはもっと初歩的な水準で法的におかしい。自衛隊隊員は紛れもない公務員である。公務員にははっきりと憲法尊重擁護義務が課されている。その公務員がそうした「軍部の意向」をまとめて憲法改正案に盛り込もうとしたのであるから、この義務に明確に違反している。

 戦後日本の政治を辿ってきた宮沢喜一という耄碌しかかったお爺さんの元首相がいる。彼が10年ほど前にいっていたことで、宮沢のコメントとしては珍しく非常に印象的だったことがある。かつてあのGHQを率いたダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争を巡る対応などで本国アメリカ合衆国の意向を聞かず、原爆を20回ほども落とせばすぐに陥落するとか、一挙に満州にも軍事侵攻するべきだと言った交戦論を展開したことにホワイトハウスのトルーマン大統領が業を煮やして、「途方もない爆発」を覚悟しつつ電光石火、マッカーサーを解任したことがあった。彼はあえなくすごすごと本国帰還の目に。以後、夢だった大統領への挑戦もできずに一生を終わった。

 その解任劇の時に時の大蔵官僚として事態を目の当たりにした宮沢は、
 
 「ああ、これがそのいわゆるシビリアン・コントロールというものであるかと。」

 思ったそうである。日本人にとっては神様、仏様、マッカーサー様とさえいわれた天上の人物があっさり首を切られたのであるからそれはそれは驚いたことであったろう。それほど軍人の暴走を文民である主権者たる代表政治家が統制して、政治が軍事に優越するという原則は重要である。

 まして、当時のマッカーサーは大変な人気を博しており、トルーマンとの激烈な対立を経て解任に至った相違点を浮かび上がらせるため、歴史上稀に見る大混乱の聴聞会を後に開くことにもなったのである。当時の米国内では、怒った市民がトルーマン人形を燃やし、12の州がマッカーサー支持や大統領非難を決議。シカゴ・トリビューン紙はトルーマンに対して「大統領不適格者」の声明すら出したのである。当時の世論調査では国民の3分の2がマッカーサーの解任に反対したといわれている。(ギャラップの調査による。)
 
 しかし、当時、マッカーサーの言うがままに任せていたら極東地域はまさに目も当てられない阿鼻叫喚の地獄絵図となっていたことは間違いない。マッカーサーは当時、戦略上、次の3点を主張していた。「中国を海上封鎖すること」、「原爆投下も辞さず、満州への総爆撃を行うこと」、「蒋介石総統の国民党軍を投入すること」である。このマッカーサー暴走を止めるべく、トルーマンは当時4月11日未明の緊急特別記者会見を開いて、国連軍最高司令官、アメリカ極東軍総司令官、アメリカ極東陸軍司令官、GHQ最高司令官など全ての軍事要職を務めていた英雄、マッカーサーを電撃的に解任したのである。文民統制原則とはかくも重い意味を持つ。

 かつて日本は戦後直後、軍閥は解体され、軍事的な無力化が図られた。ところが、旧日本海軍の幹部軍人たちが秘密裏にこの海軍復興計画を練り上げて、緻密にそれを政治的状況を見ながら今日の巨大な海上自衛隊の骨格に直結するべく、一挙に滑り込ませたことがわかっている。全容を明かす4000ページの機密文書が見つかり、日米秘密委員会の真相がわかったことでそうした裏の動きがわかったのである。詳細は、2002年8月14日放映、NHKスペシャル、「海上自衛隊はこうして生まれた」に詳しい。

 この数年にわたりろくな説明と国民的討議もないまま、有事法制案の国会通過など軍事関連の法案審議が目白押しである。自衛隊の活動が大きく広がった。大原則たる文民統制原則すら危うい局面を迎えている。思うに、日本の与党国会議員はこれほどまでに官僚から一方的に押し切られる現状を情けないと思わないのだろうか?政治の徹底的な無機能を見透かされてバカにされているのである。

がんばれ、弱い男のための医者、山中修さん

 横浜に寿町という地域がある。ここは最も汚らしい街であり、低所得者、生活保護受給者、日雇い人夫などの仕事をする男などが非常に多い。一人暮らしが圧倒的で、ホームレスも数多い。最も気の滅入る街である。ここに「ポーラのクリニック」を開院した山中修さんという医者がいる。総合病院の循環器内科部長という安定した地位をかなぐり捨て、この簡易宿泊所が密集する寿町へやってきた。50歳の挑戦である。彼はNPO、「さなぎ達」の理事もしている。

 エリート循環器内科部長時代は、仕事が多岐にわたり、一般患者を診る暇が皆無。会議、講演、学会、院内行政、新人研修など分野は細分化し、内科医というより循環器内科医として極めて領域の狭い「井の中の蛙」、よく言っても「専門屋」だった。16歳年下のアメリカ人女性ポーラさんと結婚した後、40歳代半ばから体力、視力の衰えを実感してきた。こうした中で「人生の残り時間」を意識するようになったという。残りの人生の時間をどう使うかということ、これは人間を大きく変える。私も32歳になったあたりから強烈にその自覚が出てきたので、それが解る。

 「医は仁術」といわれる。そういう意味での「医者」になりきれていない自分を痛感したという。患者と綿密なコミュニケーションを取り、つながりを重視したかったという。それゆえ、この寿町での開院にこだわった。5年前、ポーラさんに誘われて路上生活者に毛布などを配って激励する活動に参加。こういう人たちは多くが青森や岩手、北海道、鹿児島など地方出身者であり、こうした人たちとしんみり話すことでその人達の人生の歩みを知ったという。

 この町だけではないが、こうした地域には結核患者が多い。適切な医療を受けられないからである。そして、耐性結核が蔓延する悪夢の循環が始まる。もはや抗生物質が何一つ効かない結核がこうした最も社会の弱い地域から広がるのである。全国平均を大幅に上回る割合の結核患者数である。朝になったら簡易宿泊所の中で、あるいは公園のテントの中で一人で死んでいたというケースは珍しくも何ともない。
 
 NHKの首都圏関連の小さなニュースでやっていた。素晴らしい。応援したい。

ナイキはアジア人の心が理解できない

96da5680.JPG 中国において、ある人気スポーツの選手が龍や仙人を負かす内容のテレビCMが流されると聞いたら日本人ならばどう思うだろう?例えば、日本のアシックスが自分たちの会社のPRのためにテレビCM制作を電通や博報堂、あるいはタグボートのようなテレビ広告業の会社に発注して出来上がった作品がそうだったとしたら、それを中国で流すだろうか?よほどの愚か者でない限りそういう選択はしないはずである。私がその会社の社長や管理職だったら、

 「お前、正気か?頭は大丈夫か?」

 と尋ねることであろう。これ、実際にアメリカのナイキが先月から中国においても放映していたテレビCMの内容である。たった今、ナイキのオフィシャルウェブサイトでもこの画像を見ることが出来る。4回に1回、この場面が出てくる。画像はその静止画像である。だいたい、今も中国をこういうイメージでとらえているという頭がどうかしている。何だこのセンスのない絵は???
 
 いわんこっちゃない、中国人から侮辱的だという苦情や抗議が殺到。あえなくナイキは深いお詫びを示す羽目に陥った。相手の国の歴史的伝統の中に織り込まれた登場人物をかくも無邪気にふざけた弱虫役として仕立て上げられる感性が全く理解できない。「歩く万里の長城」といわれ、新人王も獲って大活躍の姚明が一挙に広めたNBA人気であるが、ナイキはマイケル・ジョーダンを起用して以降、そのNBA関連では屈指の巨大スポーツメーカーでありながらこの程度の社会マーケティング、文化的配慮もできなかったということである。

 中国人は中華民族を侮辱していると解釈できる事柄については非常にエキセントリックに反応する。かつて複数の中国人社長の下で働いてきた私にはそれがよく解る。時に端から見ているとどうかしているのではないかと思われるくらいの面がある。見ていて時にかなり見苦しい面があるにせよ、しかし、怒って当然という局面もあるだろう。

 ナイキとはつまり、アメリカの価値観を世界に広げようとする企業である。グローバル市場といえばかっこよく今風に聞こえるのであるが、実体は身も蓋もない弱肉強食のやり方そのものである。イチローが一時、巨額のオファーにナイキへ使用スパイクなどを変えるかもしれないといわれたが、結局、アシックスを継続した。技術力を信頼し、高く評価したからである。サッカー少年だった私にとってアシックスはやはりアスリートのための用品メーカーだという印象が強い。インジェクターとかシャペという言葉を聞くだけで少年期に心を躍らせた記憶が蘇る。

 「いつか僕もこれをはくんだ!」

 ナイキにはそういう意味ではほとんど思い入れがない。デザインやプロデュース能力、マーケティング能力は高いと思うが、商品の品質は低いと思える。あれはスポーツ用品メーカーというよりはもう、アパレルブランドというか、スニーカー生産会社のような印象だ。
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