先週の金曜夜、ちょっとしたご縁をいただき夜7時から四ツ谷の紀尾井ホールで高野山仏教徒の声明を聴きに。「御論議」という。ちょうど同日、高田馬場で株主総会があった関連で掛け持ちで足を運べてたいへん都合も良かったので行ってみることにした。
出演は宮田永明や真言声明の会。Samghaやカルチャーリンクスが切り盛りしていたようである。期待に反して幻想的、瞑想的な声明を聴くことがほとんどできなかった。第二部の冒頭部で少しあっただけ。残りは全ていわゆる「公案」のように仏教の内容を質疑応答のようにしてやりとりしていくもの。かつて声明の恍惚感だけではなく、その内容を民衆にわかってもらえるように工夫なされたものだという。
私の座席は二階席の横側テラス最前列だったので、したがって、お坊さんたちの頭の上から見下ろすような非常に珍しい位置でこれを眺めることになった。内容についてはまたいつか気が向いたら書いてみようかと思うが、印象的だったのは聴きに来ている人たちの装い。とても地味で落ち着いたものがたいへんに多かったことである。
声明、特にこの「御論議」は当然のことながら非常に珍しい催しである(チケット代金も5000円もするものであった)ので、普通私が出かけるような声楽や教会音楽のコンサートなどとはまるで足を運ぶ人たちの雰囲気が違う。年配の方が非常に多く、夫婦連れなどが多かった。明らかに仏教徒が多かったことは明白である。
例えば、女性の多くがノーメークであった。比較的若い人も、年配の方も。していても口紅だけとか、ほんのり薄化粧という人が多い。厚化粧の人はほとんどいない。また、色鮮やかな洋服を召した人も非常に少なかった。
男性の多くは背広ではなく非常に地味な上着を着て、シャツもこれまた地味な人が多く、地方の公民館の集いに行ったときのような雰囲気。格式高いぴかぴかの四ツ谷・紀尾井ホールコンサートに集まった人たちの装いには全く見えなかった。よそ行きとはまるで見えず、悪く言えば、垢抜けず、時代遅れで、ださかったと言って過言ではない。
ところが、その群衆の中に混じっている私は不思議な安心感を感じたのである。仏教徒でない私であったが、
「ここは私がいていけない場所ではない。」
と思え、気持ちが和んだというか、安らいだと言っても良い。かつてこれに似た経験をしたのは私の祖母が熱心に通っていた真言宗のお寺に、法事や御施餓鬼のため祖母を連れて行った時。あの時にも周囲に座っていらした方々はみな決して飾ることのない質素な装いばかりであった。
私は思う。あの時にも感じた気持ちが和まされる印象というものは、これが日本人が昔から持っている気取らない、飾らない気持ちのあり方そのものだったからではないかと。記憶の原風景に残っているような故郷の感覚、庶民の心性を何ら繕うことなく外に表した姿だからではないかと。
日本におけるキリスト教の雰囲気は今もなおやはり「外来」、「舶来」といって間違いない。礼拝堂の建築様式や、法服、用いる道具なども欧州様式、北米様式のそれが圧倒的に多い。
「西洋の宗教の輸入」
が多くの形式、様式においてまだ色濃く残っている、と思う。
それが一律に悪いことだとは言わない。だが、私たちは日本人である。日本人として、もう少し日本人らしいそういう文化や宗教、理念の受容があって良いのではなかろうか。
一人として知り合いがいない、仏教徒の中に混じり込んでしまった時に私が感じたあの独特の気持ち、印象というものは、キリスト教徒の中にいる時にはついぞ感じないものである。また全く違った別の安らぎ、心地よさはあるのであるが、それは単に質の違いだと簡単に片付けられない、何かを語っているように思われるのである。
出演は宮田永明や真言声明の会。Samghaやカルチャーリンクスが切り盛りしていたようである。期待に反して幻想的、瞑想的な声明を聴くことがほとんどできなかった。第二部の冒頭部で少しあっただけ。残りは全ていわゆる「公案」のように仏教の内容を質疑応答のようにしてやりとりしていくもの。かつて声明の恍惚感だけではなく、その内容を民衆にわかってもらえるように工夫なされたものだという。
私の座席は二階席の横側テラス最前列だったので、したがって、お坊さんたちの頭の上から見下ろすような非常に珍しい位置でこれを眺めることになった。内容についてはまたいつか気が向いたら書いてみようかと思うが、印象的だったのは聴きに来ている人たちの装い。とても地味で落ち着いたものがたいへんに多かったことである。
声明、特にこの「御論議」は当然のことながら非常に珍しい催しである(チケット代金も5000円もするものであった)ので、普通私が出かけるような声楽や教会音楽のコンサートなどとはまるで足を運ぶ人たちの雰囲気が違う。年配の方が非常に多く、夫婦連れなどが多かった。明らかに仏教徒が多かったことは明白である。
例えば、女性の多くがノーメークであった。比較的若い人も、年配の方も。していても口紅だけとか、ほんのり薄化粧という人が多い。厚化粧の人はほとんどいない。また、色鮮やかな洋服を召した人も非常に少なかった。
男性の多くは背広ではなく非常に地味な上着を着て、シャツもこれまた地味な人が多く、地方の公民館の集いに行ったときのような雰囲気。格式高いぴかぴかの四ツ谷・紀尾井ホールコンサートに集まった人たちの装いには全く見えなかった。よそ行きとはまるで見えず、悪く言えば、垢抜けず、時代遅れで、ださかったと言って過言ではない。
ところが、その群衆の中に混じっている私は不思議な安心感を感じたのである。仏教徒でない私であったが、
「ここは私がいていけない場所ではない。」
と思え、気持ちが和んだというか、安らいだと言っても良い。かつてこれに似た経験をしたのは私の祖母が熱心に通っていた真言宗のお寺に、法事や御施餓鬼のため祖母を連れて行った時。あの時にも周囲に座っていらした方々はみな決して飾ることのない質素な装いばかりであった。
私は思う。あの時にも感じた気持ちが和まされる印象というものは、これが日本人が昔から持っている気取らない、飾らない気持ちのあり方そのものだったからではないかと。記憶の原風景に残っているような故郷の感覚、庶民の心性を何ら繕うことなく外に表した姿だからではないかと。
日本におけるキリスト教の雰囲気は今もなおやはり「外来」、「舶来」といって間違いない。礼拝堂の建築様式や、法服、用いる道具なども欧州様式、北米様式のそれが圧倒的に多い。
「西洋の宗教の輸入」
が多くの形式、様式においてまだ色濃く残っている、と思う。
それが一律に悪いことだとは言わない。だが、私たちは日本人である。日本人として、もう少し日本人らしいそういう文化や宗教、理念の受容があって良いのではなかろうか。
一人として知り合いがいない、仏教徒の中に混じり込んでしまった時に私が感じたあの独特の気持ち、印象というものは、キリスト教徒の中にいる時にはついぞ感じないものである。また全く違った別の安らぎ、心地よさはあるのであるが、それは単に質の違いだと簡単に片付けられない、何かを語っているように思われるのである。