123121bb.bmp かつて日本中の注目を集めた日本人帰還兵は2人いる。

 「恥ずかしいけれども、戻って参りました。」

 という有名な言葉を残して戦後のジャングルから帰国した横井庄一氏。すでに他界している。また、「軍法会議」にかけられることをおそれて大使館員の言うことを信用せず、わざわざジャングルの中に元上司が出掛けていって「除隊命令」式まで行って戦争が終わったことを理解させたエピソードまである小野田寛郎(おのだ・ひろお) 氏。今はブラジルと日本とで「自然塾」を行っている。
 
 これら2つのニュースは日本中の注目を集めた。実は今も、タイ、ビルマ、ラオス、インドネシア諸島、フィリピン諸島などのあちこちにこうして帰国せず、現地人と結婚するなどして生きながらえている旧日本兵は数多くいる。あるいはいた。今、フィリピンはミンダナオから齢80歳を過ぎた2人の旧日本兵が発見されて大騒ぎになっている。無事に帰国できるか?

 こうしたニュースを聞くと私は実にいたたまれないような感覚に襲われる。私の祖父もラバウル島にて戦闘中に右腹に銃弾を受け土手から滑落。そのまま気を失い「死体」だと勘違いされて後から救出されたという経験をもっていたから。傷口が化膿し、ウジがわいていた。戦闘が終わってから救い出されて命からがら帰国。だが、その後もこうした極端な栄養不良状態や戦傷によって健康を崩し、私の両親が結婚する直前に逝去した。せめて顔と声を記憶に焼き付けたかったといつも思う。
 
 かつての「西欧列強の植民地支配」から「亜細亜諸国を解放」するために、「大東亜共栄圏」樹立を狙い、「聖戦」のため「一億火の玉」になって戦った(戦わされた)祖父の世代の肖像はいずれもどんよりと暗い。実に悲劇的な運命に翻弄された世代だと思う。
 
 何と言っても「八紘一宇」、「東亜新秩序」を作ろうとしたのだから、「現人神」の天皇陛下がお治めになられたところの極東の島国、「大日本帝国」は、物理的な限界を遙かに超えて、ユーラシア大陸東部、東アジア諸国の全て、果てはパラオ、ポリネシア、豪州に至るまでオセアニア全域を「戦域」として「進出」した。だれがこれを物理的に達成可能なミッションだと判断したのだろうか?
 
 インドネシアとフィリピンを合わせただけで、小さな島々を含めた諸島の数は1万を軽く超える。しかも手つかずの熱帯ジャングルが広がる未開拓の地域ばかり。実は、横井さんや小野田さんのように部隊からはぐれて命からがら現地人の集落、部落に拾われて生きながらえている日本人はかなりの数に上ることは前から知られていた。

 ところが、事情がやっかいなのは、小野田氏のように「軍法会議」にかけられると思っていた人たちがいたこともそうだが、もはや現地で結婚。子供も産まれ、家族を営み完全に現地での暮らしに順応した人たちは、探し出されることはおろか、連絡をしてこられること自体を快く思わない場合もある。最も難しいケースでは自分が日本人兵士であったことを認めず、話をすることを拒絶される場合もある。

 かくて、「戦友会」が何十回、何百回と無く旧厚生省(なぜか遺骨収集や生存情報の確認業務などは包括的に最も許し難い省庁である厚生省が担当してきた)に陳情してきても冷たくはねつけられ、自費で遺骨収集の作業のために現地入りしたりした事も非常に多い。

 記者会見で質問された厚生労働省の官僚。こうした旧日本兵の行方不明者については、
 
 「資料の上ではいないことになっているんですね。」
 
 今回の事件は、日本の厚生省官僚主義の深い根を改めてあぶり出したという点で非常に大きい。政策変更のきっかけになってほしいと思う。

 * 長洋弘はこうした帰還兵を中心に撮影してきた写真家である。かつてインドネシアのスマトラにて現地の独立戦争ゲリラに捕らわれてしまい、現地で結婚した土岐時治さんは、ついぞ妻と再会できなかった。妻の死後、弟の林泰二氏とテレビ中継で話をした時の泣き崩れが印象的だった。未帰還者特別援護措置で後に帰国したときの墓参も誠に悲しげであった。