26f2902f.bmp キリスト教では聖職者(プロテスタントでは牧師、伝道師に、カトリックや東方正教会では司祭、助祭、修道士、修道女になること)になることを、

 「召命」 「献身」

 と専門用語で言う。カトリックでは司祭、助祭になる際にはそれを七つの秘跡の一つ、「叙階」という典礼上の手続きを踏むことになる。

 以前にも少し申し上げたが、カトリックや東方正教会では司祭、助祭、シスター、ブラザーなどは基本的に全て無給である。個人財産を蓄えることは全くできない。彼らは結婚をしないので自身の家族がない(終身助祭を除く)わけだが、死後、自身の財産の相続については修道会に帰属する遺言を残す。衣食住は修道会に入ることで用意されるが、贅沢ができるわけではない。俗世間とは一線を画した基本的に質素な生活である。
 
 清貧、貞潔、従順の誓いを立てる彼ら。財産と家族を持てないという大きな制約があるため、カトリック司祭になることを希望する男性は極めて少ない。しかもそれを基本的に35歳までに決断を要するとされており、かつ、神学院に入った希望者も最終的に叙階まで辿り着く割合が1〜2割という険しい道のり。よって世界的にみて慢性的、圧倒的不足状況にある。日本国内で毎年何人かが司祭になるのが精一杯の状況。ゼロという年もある。特に日本人の司祭希望者は本当に少ない。世界各国から司祭が日本にやってくるのはそういう理由がある。欧州各国や北米も司祭不足は顕著であり、勢い、特にフィリピン、インドネシア(またはティモール)、ベトナム、アフリカ諸国、南米諸国など経済的には大国と言えない国からの司祭に頼る傾向が強い。

 プロテスタントの牧師も不足していると概して言われているが、この点はカトリックや東方正教会(オーソドックス)とは並列に比較できない。果たして不足しているといえるかどうか疑問に思う。確かにプロテスタント教会で牧師がいない無牧教会、無牧地域は日本全国に多くあるし、特に過疎地なども含む地方に多い。しかし、プロテスタント教会はそもそも教会それ自体の数が大変に多いのである。訳のわからない異様な(時に有害で病的な)新興プロテスタント教会も含めればおそろしいほどの数があり、実際は同じ教団に所属する教会同士でも地理的にいくつも近接していて、結果として少ない信徒を奪い合っているような地域も都市部には多い。武蔵野市や藤沢市のように少し自転車をこげばいくつもの教会を通り過ぎる地域も少なくない。

 プロテスタント教会の牧師には、なり手が圧倒的に不足しているわけではなく実際、毎年、多くの教団で相当数の牧師が輩出される。信徒の数からいえばカトリックに圧倒されているが、聖職者(牧師などの教職者)の数はカトリックより桁違いに多い。したがって、信徒数あたりの牧師数がたいへん多い。

 牧師のなり手がそれほど枯渇していない理由は、

 1.いずれの教団も男性だけでなく女性もなれる

 2.牧師は信徒の献金から給料(報酬)をもらうことができ、個人財産を保有できる。

 3.結婚して自身の子どもを養育することもできる。

 という点が大きい。一般庶民とそれほど変わらない「自由」が与えられているので敷居が低いということができる。カトリックでは、教皇や修道会、管区長の指示があれば、例え、政情不安のある治安が悪化した国、誘拐や命の危険のある地域、自身が全く派遣先の言語を習得していない地域への派遣であってもただただ従順にその命に従わなければならない、といった厳しい制約がある。清貧、貞潔、従順の3つの誓いを立てるが、「従順」が最も難しいとされている。自身の希望、能力と全く異なる指示であっても拒むことは許されない。来日して活動している外国人司祭は元々日本好きだったわけではない。多くが当初から日本での活動を積極的に望んだわけではなく、日本に司祭が圧倒的に不足しているため派遣された人たちである。したがって、30歳を過ぎてからひらがな、カタカナの書き取りから日本語を必死で覚えた、という涙ぐましい努力を経験している人が多い。日本語は習得が困難であり、みなたいへんな苦労をしている。

 元々、プロテスタント牧師の給料は戦後長らくは概して非常に低いものであった。生活していくのもままならぬ厳しい現実に泣いた牧師も多かった。しかし、高度経済成長期を終えてからこの40年ほど、日本社会が豊かになったことを反映し教会も財政的にゆとりを持つところが増えてきた。牧師の給料は普通の仕事として見ても割に合わないものではなく、良い待遇の報酬を与えられることもある。大卒初任給よりもずっと良い牧師、30歳前後の中小企業サラリーマンの給与より恵まれている牧師は相当数に上る。アメリカのメガチャーチ牧師では年収が億単位で、数億円を稼ぎ出す「牧師」もいるが、さすがに日本にはそうした牧師はいないものの富裕層を多く信徒に抱える教会では牧師給与が年収1000万円近くに届くこともある。教皇就任前のベネディクト16世が乗っていた乗用車はフォルクスワーゲンの小型大衆車だったが、リンカーンやキャディラックを乗り回す「牧師」はアメリカにはざらにいる。

 まして単立教会や、新しく自分たち独自の教団を設立したような教会で多くの信徒を抱えるようになった教会大和カルバリーチャペルハレルヤコミュニティチャーチ沖縄リバイバル教会など)などには時に拝金主義が蔓延することもある。実際、教会をより大きく、信徒をより多くすることそれ自体を強く志向している「教会」があまりに多いことは全く本末転倒でみっともないことであろう。

 カトリック信徒の方にプロテスタント教会牧師の給与の話をすると一様に驚かれる。司祭、シスターらが無給、独身で奉仕している姿を見慣れており、それが「召命」、「献身」というものだとごく普通に思っているために驚かれることになる。実際、私もカトリック司祭が基本的に無給だと思ってはいなかったので初めはかなり驚いた。

 プロテスタント教会で一般に言われる「召命」、「献身」という言葉は、カトリックや東方正教会のそれと比較して「軽い」と評されてもしかたがない面がある。素人目にも重みが違う。牧師、伝道師、神学生と言われた人たちについて、私の目には

 「それのいったいどこが献身か?」

 とため息が出る「召命者」の方々があまりに多く映ってきたのだった。清貧、従順、貞潔などどこ吹く風、という人たち。金儲けが主目的になっている連中もいる。あまりのばからしさに笑わずにいられない。

 現在、アメリカも日本も限度を超えた異様な格差社会に突入している。貧困に苦しむ世代、人たちは夥しい数に及ぶ。ぬるま湯体質に浸かったまま自身の待遇が恵まれていることを知らない一部の公務員が一般国民から顰蹙を買っていると同じく、一般社会のあまりに過酷な現実を知らぬ脳天気な聖職者たちが少なからずいることは残念なことである。そもそも異様な新興宗教、危険なカルト宗教の蔓延は精神的な飢餓、経済的な貧困が基礎にあって増殖する現象であることはもう40年も前から指摘され、懸念され続けてきたことであるが、実際、日本の教会がこれらの現象、社会問題に有効に働きかけてきたとはいえない面の方が多い。

 英国では今世紀中にキリスト教は英国内から消滅する、と真顔で考えている人が30%以上も存在する。仏教など他宗教への関心、興味は強まっている反面、伝統のあるキリスト教の宗教離れは顕著である。日本ではそのような伝統、歴史がないが、非常に変形した没落期に入っているということは紛れもない現実であると感じずにいられない。

 召命、献身とは神の道をただ歩み、その結果、最後は一文無しでのたれ死のうと本望、という強い決意を持ってその道に入ることを言う。実際、歴史的に見れば宣教師になったことで命を落とす時代、国はいくらでもあった。今も数多くある。プロテスタントの召命、献身という言葉が概して軽くなってしまったとすれば、それ自体がたいへんおかしなことである。