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メディアと現代の風景  - 吉祥寺の森から

人物

調査報告 STAP細胞 不正の深層

00bb7cf9.jpg 記者会見は一度きりで終わり、検証実験のために理研に戻った小保方晴子博士は現在、厳重な録画や点検が整えられたチェック体制の下、STAP細胞の生成再現に取り組む。200回以上成功した実験であれば再現は容易なはずだが、世紀の発見とされた実験結果がES細胞との混合があったから出たものであることについて、本人が勘違いで気がついていなかったか、あるいは確信犯として知っていながら故意に虚偽の発表としてまとめたかはまだわからない。しかし、客観的疑義や事実が多く提出された現段階でほぼ彼女の立場を支持する科学者はいなくなり、四面楚歌にある。

 
 NHKがドキュメンタリーにまとめたものをみると、個人としての小保方さん論は科学論とは異なった内容になるのでとりあえず除外すると


 1.理研の内部運営が非常に組織防衛的で末期的な独自の倫理がまかり通っていること


 2.iPS細胞の山中教授と並び、世界の再生医療研究の最先端を走っていた笹井・副センター長が、研究者としても研究プロジェクトマネージャー役としても優れた人材であったこと


 3.論文不正について、単純なエラーやミスがあり得ないほど多く存在し、それを国内からではだれもチェックすることができなかったこと


 4.ユダヤ人研究者4人兄弟の一人、ハーバード大のチャールズ・バカンティ教授が、日本の研究費付きでやってくる小保方さんを最大限戦略的に利用していたこと


 5.騒動が起こってから後、日本の科学界、研究者たちが、立ち止まって検証する機会をことごとく失ってきたこと

 
 がわかった。

 
 番組の中で、笹井博士と小保方さんとの間のメールが一部、紹介されていた。また、若山照彦教授(山梨大)の小保方さんの当初の印象についての発言も映されていた。これらをみると、二人が小保方さんの将来性に非常に期待していた様子がわかる。捏造の可能性があるかもしれないとは露も思わず本気で信じ込んでいたことがわかる。厳戒態勢の部外秘実験で行われていた上に、万能プレーヤーである副センター長の笹井博士自らが管理していたため、鉄壁のプロジェクトについて外側から何一つ点検ができなかった。


 「小保方さんとこうして論文準備ができるのをとてもうれしく楽しく思っており、感謝しております。」

 
 笹井博士から小保方さんへ出されたメールにはこうあった。


 「新発見」の内容では、生後1週間程度のマウスから取り出した体細胞をおよそ25分間、オレンジジュース程度の弱酸性の液体に浸した細胞が、その後、数日間分裂を繰り返すと万能細胞になるという。しかし、数十億年に渡る地球の発展史ではこの程度の条件が整う環境は膨大な回数になる。こうしたことがこれまでの科学の歴史の中で全く見落とされ続けてきたということはそれ自体が考えにくい。小保方発表が公表されてからすぐに、上昌弘博士ら数人の科学者が公然と論文内容に疑問を出したことからもそのことがわかる。なぜか疑問の声とチェックがなかった。

 
 論文不正が発覚後に同じ理研の遺伝子解析専門家である遠藤高帆博士が検証すると、精子の発現と関係がある「アクロシンGFP」が見つかったが、これはスタップ細胞研究と何の関係もないもので、ES細胞が混じったとしか考えられないとされていた。事実、小保方博士が、nature、 Cell、 Science に一度ずつ論文掲載を申し込んだ時、全体にプレゼンのレベルが低い、分析が不完全で説明が不十分だ、ES細胞がコンタミ(混入)しているのではないかと具体的に指摘されていた。
 

 ところが、論文を理路整然ときれいに美しく、わかりやすくまとめることについての秀才である笹井博士が論文の再整理に力を貸し、40カ所以上の写真やグラフ、表を作成して入れるように具体的に助言を出してまとめると、一度はかつて掲載拒否されたはずのネイチャー誌(ロンドン、フィリップ・キャンベル編集長)から、2013年3月にネイチャーに申し込み投稿された論文が、専門家、編集部ともに大きな可能性を感じて掲載を検討すると評価が一変。一挙に新しく展開し始めた。 
 
 
 論文には、確証となるTセルレセプター=TCR再構成が見つからなかったが、この点、論文内では再現性を確認したという記述は、わずかに rearrangement analysis としかなかった。この点、笹井博士がこれに気がつかなかったということがあり得るのかどうか、検証した分子生物学会の仲野徹、篠原彰(以上、大阪大)、中山敬一(九州大)らも指摘していた。



 思うに、今回の論文事件では、特に理研を中心として日本の科学界の信頼が揺らぎ、科学と予算獲得との暗い側面が見えた打撃があったが、最大の損失は、笹井副センター長それ自体の研究者人生が破壊されたことである。笹井博士はまがい物の研究者ではなく優れた科学者であったが、たった一つの部下の論文不正を見落としたミスで自分の研究者人生そのものが壊れてしまった。これは本人にとってはもちろん、日本にとっても大きな損失になってしまったと私は思う。笹井博士の事件後の対応はお世辞にも誠実だったとは言えなかったが、これで彼を永久追放にしてしまうようなことはあまりにも打撃が大きい。



NHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」

2014年7月30日(水) 24時40分〜25時30分


 「世紀の発見」から、科学界を揺るがす一大スキャンダルへと一転した“STAP細胞”。独自に入手した資料の分析と関係者への徹底取材を通して、論文の不正の実態に迫る。


 今月、英科学誌ネイチャーは、STAP細胞の論文取り下げを発表。研究成果は白紙に戻った。しかし、執筆者の小保方晴子研究ユニットリーダーは徹底抗戦。現在も理研で再現・検証実験を行い、STAP細胞の存在を証明するとして真相の解明には至っていない。番組では、独自に入手した資料を専門家と共に分析。関係者への徹底取材を通して、論文の不正の実態に迫る。



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山田香織 (盆栽家) 清香園

40377986.jpg 7月7日(木) 22:25 3ch  グランジュテ  山田香織さん(盆栽家)

 山田香織さんが手がけるのは花や若木を使った「彩花盆栽」。老舗盆栽園の跡継ぎとして生まれた山田さんは、幼いころから絶えず家業を継ぐことの重圧を感じていた。男社会の盆栽の世界で輝くために。家業を継ぐにあたって目指したのが女性に向けた新たな盆栽づくりであった。男性の趣味だった盆栽を女性にも楽しめるものに変えようと。

 江戸時代から続く老舗の盆栽園「清香園」の一人娘として生まれ、五代目園主として奮闘しながら長男を出産。子育てと仕事の両立。今の自分があるのは、生まれ育ったこの環境があるからこそとがんばる姿が、今夜、22:25 ETVのグラン・ジュテにて放映。

 この方は、ほんの1,2年だけだが、私と同じ時期に同じ大学に通っていたらしい。

http://www.nhk.or.jp/kurashi/grand/

http://www.seikouen.cc/saika/prof.html

 
盆栽家。彩花盆栽教室主宰。NHK教育テレビ「趣味の園芸」前キャスター

1978年埼玉県生まれ。彩花盆栽家元、盆栽家。幼い頃より盆栽に関する教育を受けて育ち、大学卒業後、盆栽家の道へ。従来の盆栽とは異なったスタイルの彩花盆栽(1本の木のみではなく、風景を具体化する為、草花や化粧砂などを用いた寄せ植えのスタイル)を通じて盆栽を広めるため、テレビ、ラジオ、雑誌、書籍などさまざまなメディアで活躍中。08年4月からはNHK教育「趣味の園芸」のキャスターとして出演している。著書は『山田香織の盆栽スタイル』(NHK出版)、『定年からの簡単盆栽』(毎日新聞社)、『山田香織の暮らしを彩るモダン盆栽』(講談社)など多数。
山田香織の盆栽スタイル (NHK趣味の園芸ガーデニング21)山田香織の盆栽スタイル (NHK趣味の園芸ガーデニング21)
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老人民主主義

299a4050.jpg 東電の福島原発事故の直後、清水正孝社長が極度の目眩と高血圧で体調不良の入院。その後、一時、前社長の勝俣恒久会長が記者会見に出てきた時期があった。現在71歳。戦前生まれの人で勝俣久作の四男。勝俣孝雄(新日本製鉄元副社長、九州石油元会長)、勝俣宣夫(丸紅元社長)と合わせて経済・産業界に名を知られた勝俣兄弟の一人。東京電力一筋に出世し、終身雇用、年功序列、学歴偏重の時代に生きた。99年に東海村JCO事故があって立ち直りを期したはずの東電で、再度2002年に原子炉のひび割れなど原発データ改竄事件で引責辞任した南直哉の後に社長に就任。だが、勝俣社長時代にも継続して多くの不祥事を引き起こした。2008年2月、柏崎刈羽原子力発電所事故の時に引責辞任しているが、その後、代表権は保持したまま代表取締役会長に就いた。

 今回、東電は原発だけでなく広野火力発電所や東扇島火力発電所など多くの火力発電所が次々壊れる事態になった。しかし、同じ大震災地域にあった住友金属の自社火力発電所は何の問題もなく現在フル操業。停電回避に協力するため東電に電力を供給している。他にもJFEや新日鐵など並みいる製鉄工場関連の施設は震災にも微動だにしない。鉄鋼業界の方がずっと施設の堅牢性が高かった。製鉄所の高炉を一度止めるということは大変なことであり、そこから再度千数百度以上の温度に上げるだけで莫大な時間と費用を要する。施設の堅牢性や安全性の基準は厳格を極めていて結果的に東電の施設よりもずっと信頼性が高かった。溶けた千数百度の鉄が万一にも外へ漏れるような、海水に入ってしまうようなことになれば大規模な水蒸気爆発で大災害の事態になるわけで、そうしたことがないように厳重な施設管理になっている。

 鉄鋼産業の経営者は東電のようなぼんやりした人たちには務まらない。独占企業ではなく、民間企業であり、競争も激しい領域の国際企業であるためレベルが違う経営能力がある。酒癖の悪さでは有名な東電副社長の藤本孝にしてもそうであるが、出てくるメンバーがみなどうにもならない老人ばかりである。日本の戦後体制をして老人民主主義(シルバー民主主義)と批判されたことがあるが、今回の震災対応や原発事故を見ているとそのことを痛感させられる。

 政治、行政、経済、など老年期の人々が若い次世代に可能性と道を譲らないものだから日本は多くの領域で活力を失った。原発事故後の暴言で注目を集めた御年84歳、セ・リーグを強引に3月25日開幕させようとしたナベツネは極端な論外だが、70歳、80歳を過ぎてもなお政界、財界など多くの社会で「重鎮職」から出ようとしないシルバー世代がいかに多いことだろうか。そのしわ寄せは全て団塊ジュニア以降の若い世代に来ている。年金制度はその最たる具体例であって、だれの目にも無責任なシルバー世代の重荷を一方的に若い世代が背負わされていることはわかる。

 東北大震災の影響で都知事選は無風選挙になった。立ち会い演説会すらないという異例の盛り下がりで、選挙期間中であることを知らない有権者さえ多くいたといわれる。今回、票を投じようという候補者がだれもいなかった。投票所に行ってもやはりどうしてもだれの名も書けず、白票を投じることにした。投票締め切り後、30秒もたたないうちに石原慎太郎が当確。この人ほど失言、暴言、傲慢や不品行、ありとあらゆるでたらめにまみれながらまるでそれが政治生命に響かない人物も珍しい。自身で認知した隠し子もいて石原自身がそれを認めているが、その彼が近時の日本人の我欲、性欲がどうのこうのと言えるのかどうか。昔、ロナルド・レーガンがどれほど危機に直面しても結局はなぜか支持が戻ってしまうという大統領として「テフロン・プレジデント」と言われたことがあるが石原慎太郎もそれに似ているところがある。嫌いと拒否する人も多いが、根強い人気が衰えない。

 NHKのニュースで当選の記者会見を見て驚いた。酔ってはいないのに酔っぱらっているような支離滅裂な回答が続き、質問するNHKのアナウンサーや記者も困惑しながらのインタビュー。御年78歳。喜寿はすでに通り越して在任中に傘寿を突破する老人である。かつて原発は東京湾に持ってくれば良いと発言したこともあった。外形標準課税プランや新銀行東京の破綻、五輪招致失敗などいくつも失政はあったが、なぜかまるで失脚に繋がらない。この78歳に票を投じるという感覚がわからないが、それが都民の選択だった以上、都政はもう4年、あの老人民主主義が続くことになる。

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マイケル・ジャクソン イスラム教徒へ改宗

629b9805.jpg 家父長主義的な父ジョセフの絶対的支配の元、子役時代から家族で結成した「ジャクソン5」のスター歌手として、また、ムーンウォークや軽快なステップを華麗に舞台で見せつける天才的ダンサーとして、世界的なアーティストになったマイケル・ジャクソン。バーレーンで黒い女性のイスラム装束を身にまとい歩いたりする姿が知られていたが、このほどイスラム教に改宗。名前をキリスト教の天使の名である「Michael」から「Mikaeel(ミーカーイール)」に変更した。

 Michael Jackson 'converts to Islam and changes name to Mikaeel

 マイケルの母、キャサリンはあの異端キリスト教カルト、「エホバの証人」の信者であり、その影響をマイケルも強く受けていたが、かつて「スリラー」の作曲を担当したSteve Porcaroの家でアルバムを録音中、すでにイスラム教徒に改宗していた作曲家であるDavid Wharnsby、演出家のPhillip Bubalから話を聞いたからだと言われる。

 イスラムの教えにすぐに強い共感を持ったマイケル。イスラム教の指導者であるイマームがモスクから呼び出されてシャハーダといわれる信仰告白を行いイスラム教の世界に足を踏み入れた。

 西洋、欧州のキリスト教離れはこの20年で非常に進行しており、イスラムへの改宗(元日本代表監督、フィリップ・トルシエなど)、オイルマネーで沸き返るイスラム圏への帰化申請(南米のサッカー選手など)も増えている。

トーマス・マーシャル (オルガン&薩摩琵琶)

d141acfc.jpg 近時、日本の伝統芸能、工芸、文化の継承者は国内の日本人若手では足りず、高齢から第一人者が引退すると同時にそのまま廃業したりと、技能継承が途絶える領域も珍しくない。それゆえ、以前には考えにくかったことだが、外国人の希望者を弟子入りさせる世界が出始めた。歌舞伎や能、狂言のように今も堅く扉を閉じているところもあるが、広くだれでも受け入れてくれる世界もある。特にやや庶民的な芸能、工芸の領域でそうした国際性が広がりつつある。

 鹿児島県に「薩摩琵琶」という楽器がある。淵源を辿ると元々は、遠く奈良時代、大陸中国から雅楽琵琶盲僧琵琶という2種の琵琶が別々に日本にもたらされた。雅楽琵琶は文字通り、宮中の伝統音楽、雅楽の合奏に用いられる。かなり大きいものであり、それゆえ、後に扱いやすく持ち運びにも優れた独奏用の小琵琶も作られるようになる。

 他方、盲僧琵琶は仏教世界における祈祷、法要に用いられる宗教楽器。雅楽琵琶に比較するとかなり小さく素朴に作られている。外形が笹の葉っぱに似ていて別名、「笹琵琶」といわれることもある。時代が下って平安から鎌倉期に視力を失った僧侶たちが北九州から都(京都)へ出かけたが、その一部がその後、四百年以上の間、京都にそのまま留まることになる。その過程で京都の様々な都文化を吸収することになる。そして、この過程において、彼らが用いていた盲僧琵琶が宮中楽器の雅楽小琵琶に似たの形として変化し、その後、九州へ逆輸入される。薩摩(今の鹿児島県など)にもたらされ、さらにこれが薩摩盲僧琵琶となって発展していく。大きく時代が下って戦国時代、薩摩藩の島津忠良が藩士のたしなみのため盲僧琵琶を改良して薩摩琵琶となっていった。

 京都から九州へ逆輸入されず、そのまま京の都に残ったもう一方の盲僧たちがあの源平合戦を語った「平家物語」を雅楽小琵琶の奏楽をつけながら歌われるようになったものを平家琵琶と呼び、その演奏者たち僧侶を琵琶法師と呼ぶのはあまりに有名である。彼らは多くの平曲を創作し平家琵琶を今に伝える。

 この薩摩琵琶も日本の伝統音楽の一つだが、直面する問題は同じで、この世界も人手不足が深刻。この楽器は珍しい楽器であり担い手も楽器の制作者も少ない。楽器制作者として有名なのは、歌手、小椋佳の息子、神田宏司。他方で、演奏者として日本で研鑽を積み、楽器の教師役を務めるに至ったアイルランド人がいる。名をトーマス・マーシャルという。本名、Thomas Charles Marshall。1972年生まれ。

 アイリッシュの彼はカトリック信徒。幼少時からピアノとフルートを習い、さらにパイプオルガンも手がけるようになる。やがて天性の才能を開花させ、英国のケンブリッジ大にオルガン専攻学生として奨学金を得て入学する。ピーター・ハーフォード(Peter Hurford)らに師事。卒業後、なぜか日本に興味を持った彼は1994年8月、JETプログラム英語指導助手(ALT)として来日。群馬県多野郡吉井町で働いた。ここで邦楽の世界に見せられ、1994年10月から若林舜童(故人)について琴古流尺八を学び始め、さらに翌年12月、普門義則(故人)について薩摩琵琶を学び始めた。これがご縁で彼は薩摩琵琶にのめり込んでいくことになる。演奏者としての日本名は「蘭杖(らんじょう)」。

 途中の経歴を大きく省略するが、並々ならぬ情熱と努力で演奏の技術を磨き、ついに昨年度から群馬県の創造学園大・創造芸術学部音楽学科に常勤講師として着任。この薩摩琵琶を学生に教えるようになった。今年の5月27日、NHKの衛星放送BS-11、「大人の自由時間」に出演したのでご存じの方もいらっしゃるかも知れない。

 彼はここ吉祥寺と縁があり、日本有数の信徒数を誇るカトリック吉祥寺教会のミサにてオルガン奏楽奉仕を担当することがあるからである。主に日曜の18時ミサでしばしばその姿を見ることができるらしい。頭髪をそり上げている男性であるのですぐにわかる。

 ミサが終わった後、後奏として一曲演奏するが、これがすごい。通常のオルガニストは単純で簡単な、短い曲をさらっと演奏して終えるが、彼の場合、それはコンサートの一曲と変わらない。聞いたことがないような難解で高度な技巧を要求される曲をすらすらと鮮やかに弾きこなし、時にそれは10分前後の演奏時間になることもある。楽譜を脇でめくる人がつかなければ演奏できないこともあり、気持ちの入り方が並ではない。ミサが終われば信徒たちは普通、長い人でもそのまま2,3分沈黙の後で聖堂を後にすることが多いが、彼が後奏を担当する場合、見事な演奏に聴き惚れてしまい、そのまましばし時を忘れて聴き入っていく人が少なからずいる。

 ところが、彼はオルガンをおよそ15年間、ほとんど弾いていなかったというから驚かされる。というのも、ケンブリッジの卒業直前、利き手の右手が原因不明で動かなくなる悲惨な過去があり、15年間の長きに渡りオルガンを離れていた。しかし、昨年から徐々に回復しはじめやや痛みは残っているが、リハビリも兼ねて高崎教会(日本基督教団)で日4時間練習し、カトリック吉祥寺教会などで奏楽も担当するようになった。

 残念ながら、来月末で母国へ帰国予定。昨年、脳梗塞で倒れた父、ジョーさん(67)の介護に専念し、最後の時間を一緒に過ごすと決めたかららしい。その別れの意味もこめ、昨日、高崎教会で被災者支援のチャリティとして募金コンサートが開催された。

 オルガン 「トッカータとフーガ ニ短調」
 薩摩琵琶 「那須与一」

 演奏の様子を動画でご覧いただくのはこちら。→ http://jp.youtube.com/watch?v=8_3bjBJqVSw

国立屋内総合競技場

fe1e26eb.jpg 今夜、22時からテレビ東京系で放映。

 私はあまりコンクリートを用いた建築物に興味がないし好きでもないが、やはり建築学、設計の分野ではコンクリートを用いた建物が全盛、木造建築は日本の都市空間から消えつつある。

 黒川紀章、安藤忠雄らも有名だが、彼らに影響を与え日本のコンクリート建築設計で先鞭をつけたのが丹下健三である。彼はカトリック信徒で目白の東京カテドラル大聖堂のコンクリート設計も担当している。

 テレビ東京で、夏休み特別企画“日本の建築シリーズ”が放映されているが、今夜、その2回目、「国立代々木競技場」が紹介される。丹下はフランスのル・コルビジェに強い衝撃を受けて建築の世界に入った。元東京帝大時代の工学部教授。戦後達成したこの競技場の設計により世界が認めるようになった最初の建築家だとされている。彼の最高傑作といわれている。当時、世界初の挑戦だったケーブル吊り天井や美しい曲線を描いた屋根は注目を集めた。

 「機能的なものが美しいのではない。美しいもののみが機能的なのだ。」

 丹下はかつてそういったことがある。しかし、丹下の建築について見るならば、実際は全く逆といえる。丹下の作品はいずれも優美で流麗な曲線、直線を多用した近未来的でユニークなものだが、機能的とは必ずしもいえない。丹下は単に建築設計を行うだけでなく都市全体のデザインを常に意識していた。明治神宮本殿からまっすぐ南に引いた線上に直角に交差するように競技場を配置したこともその理由の一つ。使い勝手や機能性、耐久性、保守管理性は二の次。したがって、彼の作った建物はメインテナンスが困難を極め、非常に高い費用がかかる。

 例えば、広島の平和記念公園は除くとして、代々木競技場、東京カテドラル、香川県庁、立教大学図書館、東京都庁、お台場のフジテレビビルなどいずれも外観が斬新なコンクリートデザイン。しかし、ものによってはたいへん使いにくく、冷暖房効率が悪い。また、想定よりも老朽化がずっと早くしかもその修復が難しい。東京カテドラルは雨漏りの修理だけで8億円を要した。東京都庁舎はあまりに高額につく補修費用のため、このまま耐用年数まで使ってその時に解体して建て直そうというプランが現実の選択肢として検討された。

 美しいものは機能的とは限らない。また、美しいものは高くつく。


 * 美の巨人

  オープニング・テーマ曲 「The Beauty of The Earth」
  作曲:陳光栄
 
  エンディング曲 「ヴォ・ルガール」
  作詞・作曲・唄:アマンダ・ブレッカー

  丹下事務所 http://www.ktaweb.com/profile/index.html

寅さん

2b4b7231.JPG 老人ホームで一揃え用意しておくビデオとして定番になっている、まず失敗しないシリーズが

 「男はつらいよ」

 だそうである。男性も女性も、出身地がどこの方であれ楽しめる。政治色や宗教色もほとんどない。全方位に好かれる作りになっていることが日本を代表する映画として不滅の金字塔を打ち立てた。
 
 私は渥美清が演じた「寅さん」と、武田鉄矢が演じた「刑事物語」の片山刑事が好きだった。どちらも三枚目役ではまっているところが共通している。

 「男はつらいよ」のシナリオや台詞にはかなり多く、毒が含まれているところがある。時折見ていてストレスが溜まる場面が多かったため、この映画もそれほどの大ファンではないし、「寅さん」そのものも映画の主人公としてあまり好きではない面がある。他人を傷つけず、いつも自分が笑いものになりながら、しかし、一生懸命で純情な片山刑事さんの方がずっと好きであった。

 ただ、場面でぴたりとはまったときのおもしろさは「寅さん」の上を行く映画を見つけることはなかなか難しい。私は笑いのつぼが少し普通の人とずれているところがあって、普通の人があまり笑わないところがものすごくおかしく感じられることがある。どの作品だったか忘れたが、妹のさくらと寅さんが話している時に

 「お前、そんなことあるはずないだろ。」

 とか何とか言った後、

 「そんなことがあったら、お兄ちゃん、おかしくて・・・屁こいちゃうぞ。」

 といったような台詞を言った作品があったと思う。あれを初めて見たときには数分間、お腹を抱えて笑ってしまいどうにもならなかったことを良く覚えている。
 
 私にはユーモアというものがない。人を笑わせることがなかなかできない。周囲の人を愉快にさせる冗談を飛ばすことができない。そういうイマジネーションが根本的に欠けているのである。

 そういう意味で、私は寅さんになりたかった。今もそう思っている。

永井荷風

b4de1b35.jpg 浅草のロック座でうつつを抜かす荷風。

 何となくぼんやりNHK教育テレビ、「知る人その時代」を眺めていたら、今夜から永井荷風のことを坪内祐三が解説する番組の初回であった。

 永井は1959年に逝去しているので、来年で没後半世紀になる。本名、永井壯吉。号は断腸亭主人(あるいは金阜山人)ということも。三十路後半から書き出した日記は

 「断腸亭日乗」

 として有名。

 彼は父が外務官僚であり、裕福な家庭に何不自由なく育った。1903年-1908年には当時としては極めて異例のアメリカ、フランスへの留学、滞在を経験している。

 母、恆(つね)がキリスト教徒であったため、彼女が教会の宣教師からあれこれ洋食のレシピを教わったものを幼少時から食事に多く作ってもらって食していた。オムライス、ソーセージ、ハンブルクステーキ(ラム肉のたたきで作る)などなど。これは当時の子どもとしては極めて珍しい。それゆえ、少々変わった男シングルグルメになった。

 若い頃から上海や吉原にて遊び歩いた荷風。六本木在住時代は銀座へ毎日出かけて食事。いつも同じ店で同じものを頼んでいた。その後、市川市に引っ越ししてからは毎日、浅草へ。浅草尾張屋でいつもかしわ南蛮を食べた。晩年は市川から遠出できなくなり、地元の大黒屋にて正午にカツ丼セットを頼むのが決まりに。ちょっとした日本酒をお燗で頼み、おしんこをつける。これは今も「荷風セット」として大黒屋で出されていて、当時の荷風を知っている女ご主人によって供されるというから驚く。

仲代達矢

157f2c29.jpg NHK3チャンネルで現在、水曜22時25分から出演しているのが俳優の仲代達矢。今年で75歳だが、まだ、活力は失われていない。来年、役者歴55年になる。世田谷区の用賀と二子玉川の間あたりに劇場兼用の俳優塾、「無名塾」を設立して活動してきた。中世欧州の建物の煉瓦を用いた瀟洒な建物である。役所広司などそうそうたる名優が輩出されている。ここは女優だった奥さんの宮崎恭子さんと一緒に作り、歩んできたところである。

 彼の人生は大切な人との死別の人生ともいえる。幼い時の父との死別、その後、母を見送り、そして、最愛の妻にも先立たれた。彼の表情にはそうした死別の悲しみがいつもぎゅっと詰まっているような印象がある。私は特に仲代達矢のファンではないし、彼の舞台を見るようなこともない。ただ、この番組で彼が語る言葉には真実の重みが凝縮されていて興味深い。

 彼は今日の番組の中で一言、涙ぐんだ場面がある。妻、恭子さんが無名塾の入塾試験に最後に臨んだ年、一次試験から二次試験、三次試験まで全てに関与したが、受験してきた若者に対し、次の試験へ通りそうな人にはあまりあれこれ声をかけずにあっさりと終え、ここで落ちてしまいそうな若者には意識して優しく、長く質問を繰り返し、受験そのものを思い出深い記憶に留めてもらおうとされていたらしい。そのことに言い及ぶ際、仲代の声が詰まったのだった。

 そういう人を妻に選び、脇目もふらずその人と添い遂げ、彼女が残した劇場と若者とともに今も生きる彼の姿には重い存在感がある。非常に興味深い番組であった。

瀬戸内寂聴

7ccc2b13.jpg 私よりかなり年下だったが、個人的にも親しくしていてまた信頼していた女性が、つい先日、修道院に入られた。修道院は非常に規律のしっかりしたところであるので個人で携帯電話を持つことができない。パソコンは自分のものを持ち込めるらしいが、インターネットに繋ぐことが困難らしく、したがって、メールで連絡をとることができなくなった。やりとりするには手紙か電報、というおそろしく古典的な方法になってしまう。外部とかなりやりとりが遮られると逆にあれこれ思い考える時間が深まっていくのかも知れない。
 
 最近、NHKの教育テレビで京都は嵐山に暮らす天台宗の尼僧、瀬戸内寂聴さんが「知るを楽しむ」の月曜夜、「この人この世界」を担当、得意にしている「源氏物語」を解説している。この物語に入れ込んだ彼女は現代語訳を出版しブームを作った。私も3年前、元旦に一人で京都へ出かけた際、嵐山の寂庵を訪れてみたが、当然のことながら閉まっていた。目の前がどこかの農家の畑やぼろ小屋がありとても静かなところであった。

修道院に入った友人の女性がキリスト教世界に足を踏み入れるきっかけになったのはこの瀬戸内寂聴がきっかけだった。大学在学中、瀬戸内寂聴ファンでその生き方にどことなく共感していた彼女は将来、出家して仏門に入ることを考えていたそうだが、大学で世話になっていた教授にそのことをちらっと話したところ、

 「仏教も良いが、試しにカトリック教会を見てみても良いんじゃないか。」

 と助言され、彼が通う教会に出かけたのがきっかけだった。

 その瀬戸内寂聴はこの逆であった。彼女は幼い時から周囲に構ってもらず、友達と遊ぶことも少なく、独りで遊びを覚えることが多かったそうである。同世代の友人に会えると思ったのかも知れないが、同じ町内にインマヌエルの教会があり、日曜学校へ通った。讃美歌を歌い、牧師の説教を聞いていた。彼女には仏教の教えよりも先にキリスト教の教えが吹き込まれたのだった。

 その後、彼女はここ吉祥寺にある北米プロテスタント系のミッションスクール、東京女子大で学んだのであった。創立者は新渡戸稲造。学長の安井てつもキリスト者であった。特に安井てつには尊敬の念が深かったようで、彼女が行う毎週の祈りの声は朗々として力強く、

 「今でも私の耳にも心にもありありと残っている。」

 とまで書いている。

 個人的にもカトリック作家の友達が多く、かの遠藤周作の影響でカトリックの洗礼を受ける直前までこぎ着けていた、というから驚く。後に彼女はどん底の人生に転落、存亡の危機に近い状況にあって51歳の時、型破りの破天荒僧侶として有名だった今東光の元を訪ね、出家の希望を出したのだった。普通、縁もゆかりもない、そしてまた、仏門に触れた年月も圧倒的に浅い50歳過ぎの女性をすぐに受容する寺などありはしない。だが、瀬戸内の様子を見た今和尚はたった一言、

 「急ぎですね?」

 と声をかけ、そのまま仏門入りを許したというエピソードがある。瀬戸内は中尊寺で剃髪、以来、仏教徒として歩みを今に繋ぐ。

 「仏門に入ったのも、不思議だが、これこそ仏縁というものかと解釈している。」

 修道院に入った友人の彼女は人柄が優れたたいへんすてきなかたであって、私は一度もその人に、この人、嫌な人だ、という嫌悪感を持ったことがない。思いやりと優しさ、配慮のある稀有の人であった。その人とあれこれ話ができなくなってからは片肺がなくなってしまったような息苦しさがある。

 人生、初めに思い描いていた道のりと、その後、実際に辿る道のりとは大きく異なる。人の世、人の生き方は非線形的な航跡を辿り、思いもかけないところで終わるものなのかもしれない。

さかもと未明

96eae30e.jpg 週刊誌のSPA!で「おしえてプリーズ」という連載漫画をやっているさかもと未明が、今、カトリックの講座に通って勉強しているという。信徒になるつもりなのだろうか。あの人とカトリックはどうも私の頭の中で結びつかないし、書いている文章を読んでもあまり適切に理解していないように感じる。

 先日、衆議院議員の西村眞悟の息子、西村林太郎が飛び降り自殺してしまったが、彼の葬儀はカトリック堺教会で行われたようだ。さかもと未明は西村眞悟と親交があるので葬儀ミサにも出かけたとブログに記されている。西村眞悟はカトリック信徒であるがあるいは息子さんもカトリックだったのかもしれない。過激な行動で知られ、厚顔、傲慢は政界でも指折り。弁護士法違反で逮捕、起訴、有罪となってもさしてへこまなかった西村も、自身の議員宿舎から息子が飛び降りたという現実にはさすがに消沈したとされる。
 
 小林よしのりと並びさかもと未明も類い希な表現力、描写能力を持った時事評論的漫画家とされるが、彼女は深いトラウマを抱え、飲酒時の異常酩酊が大きな悩みだ、と自身の漫画で描いていたことがある。アルコール中毒から教会へ足を運ぶ人は少なからずいて成果をあげることも多い。ここ吉祥寺のカトリック吉祥寺教会にも「アラノン」というアルコール中毒克服のグループワーク活動がなされている。

モーツァルトの肖像画

98c65efa.jpg 以前にも晩年のモーツァルトとされる肖像画をご紹介したことがあったが、世界屈指の水準を誇る聖歌隊を持つことでも知られる英国、ロンドン大学・キングズ・カレッジ教授のクリフ・アイゼンがこれまで知られていなかった肖像画を発表。真贋はこれから判断されるが、極めて重要な発見だそうだ。

トニー・ブレア 17日 ニュース23出演

8e40039e.jpg JNN系列、関東地方では6チャンネルのTBS、深夜23時からは、筑紫哲也がサブキャスターを務める「ニュース23」が放映されている。オウム報道事件や筑紫の癌闘病など色々ありながら今も続く看板番組。時々、大物のゲストが登場する。かつてビル・クリントンが現役大統領時代にスタジオにやってきた際はたいへんな警護だった。毎回、100人の市民をスタジオに呼んで質問を受け付けるスタイルになっている。「討論」とされているが、実際は「質問」に答える。

 今回、前英国首相のトニー・ブレアが洞爺湖サミットに合わせて来日、N23に登場する。最近、N23では環境破壊問題を特集することが多いが、

 ブレア英国前首相と語る地球破壊 〜Breaking the Deadlock

という放映予定。2005年、英国グレンイーグルズサミットで「気候変動」を世界首脳会議の議題に取り上げたのはブレアだったが、それは彼が環境を重視していたからではなくすでに開始されていたイラク戦争などを議題にしにくかったという理由だったと思うが、N23はブレアを環境問題で国際的なリーダーシップを発揮して活動を続けている政治家だ、とN23では位置づけているらしい。実際は欧州で環境問題に熱心な国は、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなどスカンジナビア半島諸国やスイス、ドイツで、廃棄物処理の問題などを筆頭にして環境問題に関してみれば英国は欧州でもかなり遅れている。

 ブレアはブッシュJr.とともにイラク空爆を始めた責任者。開戦時の戦時国家元首として彼が犯した罪は消えることはない。人類がなす最大の環境破壊は戦争。環境、文化、生命、歴史、経済など全てを破壊してしまう。同じように来日時、

 「戦争は生命の破壊です。戦争は死です。」 

 と日本語で語ったのは故ヨハネ・パウロ2世である。
 
 ブレアはつい先日、英国国教会からカトリックに所属を変更している。英国の首相経験者としては非常に稀なことであるが、ブレアと同じく弁護士の妻、シェリーも子供もみなカトリックであるため、一般私人に戻った今、同じカトリックに変わることを選んだ。

 カトリックに帰正する前、ベネディクト16世をバチカンに訪問し、会談する様子も報じられていた。ベネディクト16世や英国のカトリック大司教がイラク戦争のことについてブレアに問いただしたのかどうか、正確にはわからないが、ブレアはイラク戦争の開戦を反省、後悔、謝罪していない。カトリック信徒になった後もインタビューでそう答えている。

 少なくともあのイラク戦争を今も反省、総括、謝罪しない人間はカトリックに受け入れるべきではないのではなかろうか。第二次世界大戦後に限ってみても、未曾有の間違った戦争について引き金を引いた張本人であって、それについて一切、問わずにカトリック世界に受け入れてしまえばイスラム世界、アラブ社会に間違ったシグナル、伝言を送る。より根本的にいえばキリスト教の教えそのものに彼の態度は反している。これが故ヨハネ・パウロ2世だったならば、最終的にカトリックへの帰正を認めたとしてもきつくイラク戦争について問いただし、強い悔い改めを要求したのではなかろうか。

 今、ブレアをEU大統領に就任させようという声がある。悪い冗談もいいところで、彼が欧州を代表する顔になってしまったとすれば、アラブ社会、イスラム世界は一層、西洋とキリスト教社会を信用しなくなること必至、取り返しのつかない代償を払う。現在、EUの代表を務めるのはソラーナだが、彼はかつてNATOの代表でセルビアへ空爆をなした時の責任者でもあった。だから、現在のEUはセルビアから信用されず、コソボ共和国独立を即座に歓迎してしまったことも追い打ちをかけセルビアの極右民族主義、ロシアへの傾倒を強めてしまっている。ソラーナとブレアは欧州を代表する「顔」としては不適格な人物。

今回、だれかがイラク戦争について厳しい質問をぶつけるかどうか。

小田実

eb79475a.bmp 昨日、小田実が胃ガンのために逝去したというニュースを知った。彼ががんだったことも知らなかった。この5月にわかったことで末期だったのだろう、化学療法のみで外科手術はしなかったという。早期発見ができなかったことが彼の寿命を縮めてしまったようだ。

 彼は作家であり、とりわけ平和活動家として有名だった。一時、代々木ゼミナールで英語を教えていたこともある。私は代々木ゼミナールで浪人した経験があるので小田のことは浪人中にある予備校講師から聞かされたのが初めてだったような覚えがある。

 ベトナム戦争が激化していた時代、「ベトナムに平和を、市民連合」という通称、「ベ平連」を立ち上げた人であった。久野収、鶴見俊輔、高畠通敏ら学者らとも広範に人脈を持ち、数年前に作られた「九条の会」の呼びかけ人の一人でもある。

 彼の政治的立場(社民党の支持者だった)、認識(北朝鮮との国交回復を強く主張)、態度表明のあり方などについて、私はついて行けない(=賛成できない)面がいくつかあったが、しかし、国際平和問題に対する彼の行動力、発信力には深い尊敬の念を送らずにいられない。彼は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、あらゆる戦争に対し強く反対の意思表示を一貫して行ってきたのだった。

 ベトナム戦争時代は、ワシントン・ポスト紙に日本語で意見広告を掲載。
 
 「殺すな」
 
 とあの岡本太郎画伯が日本語ででかでかと書き記したものを用いた。彼が当時、吉岡忍らとともに「ベ平連」でベトナムからの良心的兵役拒否者や脱走米兵の移送を助けたことは有名である。
 
 湾岸戦争の時には、ニューヨークタイムズに
 
 国際紛争は武力では解決できない (International conflict cannot be resolved by military force)

 という意見広告を掲載。宮崎駿らも含む合計81名の連名だった。これらはアメリカ国内でも反響を呼び、あのカンヌでパルムドールを受賞した若き日のマイケル・ムーア監督(アイルランド系米国人、カトリック)らも強い影響を受けた、と述懐している。
 
 元々、非常に行動的な人物。「何でも見てやろう」がベストセラーになって作家としての活動を始めた。大阪市出身だが、結婚後は阪神大震災の直撃を受けた西宮に暮らしていた。荒っぽい粗野な外面に似合わず、東大進学後は文学部で言語学科(古代ギリシア語専攻)だった。院に進学後は西洋古典学を学んだ。ハーバード大にフルブライト奨学金を得て留学したこともあり、アメリカにも人脈が多かった。今でこそこうしたキャリアは何でもないかも知れないが、当時は非常に数少ない選択であった。

 妻が北朝鮮系のコリアン、玄順恵(ヒョン・スンヒェ、画家)さんであるためか、北朝鮮問題にも積極的に発言。北朝鮮の擁護者と見なされてきて私も実際、彼がシンポジウムで国交回復を強く主張している姿を目の当たりにしたことがある。たしかに北朝鮮に対する評価、認識は甘かったと思わされる面が多かった印象がある。

 最近、あの保守的な雑誌タイムにおいて、アジアで活躍する50人の人物の一人にとりあげられたこともある。また、大学としてはかなり保守的とされる慶応大で講義を担当したことを聞くと、小田の評価もずいぶん変わってきたものだと思わされた。彼のエネルギー感に溢れた授業は若い学生の心をかなり惹きつける内容を持っていたようで私もできることならば、学生時代に聴いてみたかったと思う。

 私が彼の発言で一番良く覚えているのは、

 「正しいと自分が思ったことは、たった一人でも言うべきであるし、一人でもやるべきだ。また、それが間違いだと思ったならば、一人でも辞めるべきだ。」

 というもの。

 「一人でもやる。一人でも辞める。」
 
 印象深い言葉である。このコラムで身のすくむ思いをしながらイラク戦争についておそるおそる書き始めたのも彼のこの言葉があったことが影響している。自分の理想型のサッカーチームを徒手空拳で作ったのも、教会音楽のクリスマスコンサートを強引に開催したのも、これが私の心に響いていたから。

 キリスト教の恥さらしになるようなできごとについても仮借なく書いている人と一部には思われているようであるが、それは実際、その通りであるので否定はしない。だが、これが趣味で好き好んで書いているわけではない。他の人がこうしたことを私と同じように内部者としての立場から書くことが少ないのでそれゆえ敢えて書いているに過ぎない。他にやっている人がいるならば、ぜひ教えていただきたい。根拠のない卑劣な身びいき論くらい嫌いなものはない。牧師や司祭の不祥事を論うべきではない、カトリック信徒がローマ教皇様の批判をするべきでない、と言うような人などごく初歩的な認識不足というべき論外の人たちである。

 多く、修道会所属のシスターたちの存在感がどうしても自分の肌に合わないのであるが、あれは抑圧された世界に生き、精神的、思想的には窮屈な暮らしをしているがゆえにものが自由に言えない人たちであることから感じられる違和感ではないか、と以前から感じずにいられない。シスター職は司祭職と比較して遙かにこうした心の制約が多い。修道会ごとの差があまりに大きいことは強調しておかなければならないが、彼女らノイローゼにならずにいるのが不思議に思わされることがしばしばある。

 以前から、自分が関わった全ての教会において、教会の内側では信徒同士が割れてしまうような政治の話は禁句だ、と教えられてきた。それはある程度まで、一定の範囲でその通りである。職場など一般社会ではなおのことそうである。年金だ、増税だ、公共事業だ、福祉政策だ、と何でも教会内でやられてはたまったものではない。
 
 だが、そうした水準を遙かに超えて明白にキリストの教えに反する内容の出来事についても何も言うべきではないだろうか。イラク戦争とはそういう明白な戒律違反の性質を持つ戦争である。HCCの榊山のような牧師の破廉恥行為、あるいは米カトリック教会が行ってきた児童性的虐待、若手司祭への同性愛強要といった異様な犯罪行為についてもそうした明白な性質を持つ問題である。こうしたことにも黙っていなければならないとするならば、それはそういうエクレシア=人々の集まりが異常と判断されて良い。

 こうしたことがらについては意識して思い切り、言葉に濁りや淀みのある表現をしないようにしている。小田の書き記す文章、口にする発言にも遠慮というものがなかった。無骨にして粗野、流麗な文体とはおよそほど遠かったかもしれないが、その点では明瞭に、はっきりと立場を表す。それを同じように意識している。

バルトーク国際指揮者コンクール 菅野宏一郎、3位入賞

以前にこのコラムで紹介したこともあるルーマニア在住の指揮者、菅野宏一郎。彼がこのたび、地元ルーマニアで行われたバルトーク国際オペラ指揮者コンクールで3位に入賞した。このコンクールでは1位も日本人指揮者、橘直貴が占めた。ロシアでは西本智美が活躍し、東欧での評価を高めている。日本人が男女を問わず、指揮者としてこれほど多く活躍する時代になったということは隔世の感がある。

菅野はトランシルヴァニア・ヴィルトゥオーゾ室内管弦楽団指揮者として現在は活躍。今回のコンクールは、クラシック音楽の若手指揮者を対象にしたものであり、今年で2回目である。橘も菅野も桐朋学園大を卒業している。

 菅野は高校時代、アメリカンフットボール部、私はサッカー部。運動会の時、彼の下で楽しませてもらったこともあった。彼と一緒に高校時代、筋力トレーニングに打ち込んだことはいつも思い出される。人柄の魅力が何といっても抜群の人だったゆえ、これからも指揮者としての活躍がきっと広がると思われる。

佐野史郎

 俳優の佐野史郎は、ここ吉祥寺に暮らして20年以上の地元人である。彼の妻が生まれ育ちも吉祥寺の方。自身もかつて貧乏人時代に阿佐ヶ谷在住でよく吉祥寺に来ていたという。ローリング・ストーンズなどの大ファンで、シンガーソングライターとしての一面も持つ佐野にとって、昔から憧れの町だったという。音楽が溢れる吉祥寺は居心地の良い町になっているようで、近所づきあい、町内会、商店会のお祭りなどにもせっせと出かけている。

 彼は島根県出身。彼の父親は医師であり、東京医大を卒業した医師、佐野義和であった。私の仕事の顧客がこの義和と同期生の眼科医で、当時の卒業写真などを見せてもらったが、佐野史郎と大変に良く似ていた。

 佐野史郎、読書家でも有名で、ニーチェや小泉八雲などに入れ込む。何と自身の娘に女の子であるのに「八雲」と命名しているのだから相当のものである。

 こちらで面白い彼の考えがよく読める。橘井堂http://www.kisseido.co.jp

みどりの日

 今日、4月29日は「みどりの日」である。前の天皇、昭和天皇であった裕仁さんの誕生日がそのまま祝日として残された。ちなみに一昨日の木曜は私の誕生日だったのだが、小さい頃から自分の誕生日に近いこの日を過ぎるとどっと連休が始まり、少年サッカーのリーグなどが始まった。西武バスに乗せられては遠征したので何だか良く覚えている。
 
 毎年何事もなく過ぎていく私の誕生日だが、この何年か、かつての小学生時代のように連休中に怒涛の草サッカー試合を組むようになったので、この日になるとなぜかあの頃の感覚をふわっと思い出す。
 
 昭和天皇といえば自然が好きで趣味が皇居の中の植物や昆虫の観察。メガロポリス東京の真ん中ながら、周囲から完全に隔絶され保護された環境だったため、皇居の中には固有種に近い生物種が生息し、裕仁さんはそれらを眺めるのを好んでいた。
 
 私がちょうど高校生の時期に彼は他界し、長く続いた時代、「昭和」が終わった。一斉に全てのテレビ中継が服喪中継に変わったのには少なからず驚き、NHKの教育テレビだけがようやく逝去してから数日後に元に戻ったことは良く覚えている。まだ、1チャンネル=総合テレビは言うに及ばず、他の民放全ても追悼番組を一日中放映していた時に教育テレビだけが戻った次の日、社会科の先生が部屋に入ってきて授業の冒頭に

 「3チャンネルが新鮮に見えましたねえ!」

 とつぶやいて教室が笑ったことは今も記憶にありありと残っている。

 まだ私が小学生だった時期から彼についての記憶で焼きついているのは、大きな虫眼鏡を独特の丸めがねの前にかざして植物をじっと見ていることが多く、そしてまた、誰と話すときであっても何につけ
 
 「あっ、そう!」

 というすっとんだ返事をする変わったおじいさん、という印象であった。
 
 このみどりの日は、来年で「昭和の日」に変わる。新たに5月4日が「みどりの日」になる。改正祝日法が昨年の5月13日に国会で可決されたからである。

 裕仁さんとはそういう人であったのだから、わざわざ「みどりの日」を動かして設定するのは的が外れているように私は思うのだが・・・。

土屋アンナ

 先日、情熱大陸という番組で土屋アンナが出ていた。私は彼女の名前や活動、仕事などのことについて全く知らなかった。あちこちの媒体で彼女の顔だけは多く見かけていたが、実際こういう人だったのか、と今更ながら知ったものである。
 
 ざっと見て一言で言えば、猛烈に敵を作るが、熱烈な人気もあるというカリスマ的魅力を持った人物のように感じられる。非常に癖の強い女の子で型破りなパーソナリティを強い攻撃性と混ぜ合わせて炸裂させる存在感に、羨望と敵意、ふたつの正反対の感情が周囲から向けられる。親しい友人は少ないともいわれるが、たとえばカメラマンの蜷川美花と親しい友人同士である。

 彼女はニューヨークのバッファロー市生まれ。父がアメリカ人。彼女はカトリックであるという。それゆえか、かつて子どもの頃は聖歌隊で歌っておりクワイヤーで歌うことが何より楽しみで生きがいでさえあったと言っている。たしかここ吉祥寺の井の頭公園に隣り合う明星学園中・高に通学していたと記憶しているが、どこのクワイヤーであったかは定かでない。明星学園は日本の学校法人であるが、アメリカンスクールといくつかの点で似たような自由で柔軟な学校の運営を行なっている。

 98年、姉の影響で雑誌「セブンティーン」のモデルになってから大人気に。父が米国人であるためその個性的な顔立ちからも人気を博した。7歳で両親が離婚したことと、青少年期にその独特の顔立ちからからかわれたり、いじめられたりしたことが今の屈折した彼女の活動に繋がったらしい。それがなければ、もしかしたらそのまま聖歌隊の女の子だったかもしれぬ。

 この若さですでに子供がいる。その名も澄海(スカイ)くんというらしく、母の真弓さん、祖父の宏さん、祖母の豊子さんらが育児に大きく協力してくれていると喜んでいる姿はいじらしい。土屋アンナのような女の子は非常に苦手でちょっと話ができそうにないが、彼女が30歳になった時どのように変わっているか、興味がある。

ロマンチスト

 正確な割合はわからないが、男は女性と比較して感傷的な人間が多いと思う。ロマンチスト、夢想家、劇画的な思いを持つ人である。

 昨日、例のごとく、4時間、天然芝グランドの上で散々、庶民サッカーを楽しんだ。GKや主審役をいくつか挟みながら休み休みやっていた私も相当くたびれたのだから、ずっと出ていた他のメンバーはもっと疲れたのではないかと思うのだが、気分良くできたせいか、みな気持ちよさそうにグランドの隅でシューズを脱いで、帰り支度をし始めていた。

 最後の試合の試合終了時、うちのチームが点を決めたところでちょうど試合が終わった(試合そのものは2−10でボロ負け)のだが、その点を入れたメンバーがなぜかチームの全員と握手をして帰って行った。もちろん、私にも。がっちりと力強い握りであった。彼がこれを最後にどこかへ引っ越しするわけでもないと思うのだが・・・。普段はその様なことをするような人には全く見えない、むしろ地味な、抑制的な人であるが、存分にサッカーを楽しめた喜びがそうさせたのかもしれない。

 私がこうして30歳を超えてから猛烈に仲間を集めてサッカーをやり始めたのは、かつて若かった時代、クラブ活動で思う存分、試合を楽しめたという記憶がなかったから。その惨めな記憶が今に至るまで私のトラウマ(といっては言い過ぎだが・・・)に近い暗い思い出になってしまっている。あと、5,6年もゲーム三昧を続ければ私のそうした惨めな記憶を拭うことができるかも知れない。

 思うに、彼も私と同じくそうした同じ惨めな記憶を持っていたのではないか。ほとんどフォワードで起用されたこともなく、点を取ったこともなかったので、あまりに嬉しかったのではないか。

 彼はロマンチストである。間違いない。なお、私はこういう質のロマンチストは嫌いではない。

天満敦子

c205ff26.JPG 昨日、23日19時過ぎから、四ツ谷のイグナチオ教会大聖堂において、ドイツから遙々やってきたドレスデンの聖歌隊が奉唱する

 「ドレスデンの夕べ」

 が催された。さすがに本場欧州でも有数の聖歌隊だけあってまずその人数がすごい。ざっと40人近くはいたであろうか。比較的若手のメンバーが多く、男声も充実していた。鬱陶しく自己陶酔的なビブラートが一切ない、抑制的な安定した発声が徹底されており、教会音楽を代表するようなぶれ、揺れがない歌い方であった。

 この演奏会では、パイプオルガンの演奏とともにバイオリニスト、天満敦子さんがソロで演奏。二階バルコニー部の聖歌隊座席からせり出した部分で一人、演奏された。演奏については、若干、高音部の音が金属的に聞こえたり、わずかに音程が外れたような気がしたが、たった1つのバイオリンで十分な音量を誇る堂々とした演奏であった。
 
 天満さんは、かつて朝日新聞の連載小説、「百年の予言」の主人公のモデルとされたこともあって一挙に人気が沸騰した人である。使っている楽器はストラディヴァリウス晩年の名器。弓もまた著名な匠の手になるものだそうだ。

彼女はかつて日本の戦後政治学に一大金字塔を打ち立てた丸山真男が逝去した折、信濃町駅前の千日谷会堂にてお別れ会(丸山真男は遺言によって通夜、葬儀をしなかった)が開かれた時、献花がなされる間、ずっとシャコンヌを演奏なさった方である。ちなみに丸山真男は東京女子大の近く、吉祥寺東町に在住していた。蔵書は今、東京女子大に寄贈されている。蔵書をちらっと整理するのを手伝ったり、書簡を何通かやりとりしたことが昨日のことのように思い返される。

エンヤ 「アマランタイン」

f1a3bb16.jpg 私がアイルランド出身の歌手、エンヤ・ウォーターマーク(本名、エンヤ・ニ・ブレナン)を知ったのは高校生の時。当時まだ小林克也が案内人を務めていた「ベストヒットUSA」を気に入って見ていたのでそれによって知ったものである。当時、世界中の大ヒットとなった

「オリノコの流れにのって(Orinoco Flow)」

を初めて聴いた時は、たいへん印象的だったことを記憶している。デジタル技術を駆使し、何十回もの多重録音をしていく独特の音響技術は幻想的な雰囲気にリスナーを誘う。
 
 エンヤは多作ではなく、ゆっくりと作品を生み出す。すでにキャリアは長いがそれほど多くの曲を世に送り出したというわけではない。それでもここまで随分蓄積されてきたが、彼女の曲はそうそう短期間にリリースできるような内容ではないからである。

 2年掛けて作り上げた彼女の最新作は、”Amarantine”。これで「アマランタイン」と読む。何でも詩人が「永遠の花」を語る時に使う言葉だそうで、永遠性への思いを込めて命名したとのこと。彼女は自身のケルト人としての世界観からこのイメージを非常に好んでいる。
 
 今回は、彼女初の日本語で作詞した曲、「菫草」が収録されている。これで「すみれぐさ」と読む。42歳の時に松尾芭蕉が詠んだ俳句から着想を得て作ったものだという。「野ざらし紀行」の旅行中に大津で詠んだ俳句、

 「山路来て何やらゆかしすみれ草

 に触発されたもの。ちょうどこの俳句を作った時の松尾芭蕉と、今のエンヤとが同じような年齢であることも共振したのかもしれない。

 パナソニックの公式テレビCMにも採用された曲だが、松下の石油ファンヒーター回収騒ぎで全て放映がストップしてしまい、あまりご覧になっている方はいないのではないかと思う。

 一応、ネットで見ることはできる。http://panasonic.jp/olympic/index.html

 アルバムを全曲ゆっくり何度か聴いてみたが、これまでの作品の中で屈指の出来かと言われるとそうではないような気がするが、駄作ではない。

元ちとせと奄美大島

2c192d8e.JPG 奄美大島出身の女性歌手に元ちとせがいる。奄美大島の島唄を得意とする歌手で、幼少時からその天賦の才は評判であった。1979年生まれ。海亀を海岸で友達としながら育つという何とも豊かな自然の中で育った。

 過疎化が著しい時期で、小学校は全校生徒4人。しかもその全てが親戚だったという。1人で入学式と卒業式を経験した。プールはなく、水泳の授業が近くの川だったというから素晴らしい。

 三味線を習ったのがきっかけで小学生の時に島唄を歌い始める。声をひっくり返し、西洋音楽のファルセットのように歌うが、島唄独特の発声が加わる。素人にはなかなかできるものではなく、彼女のそれは最も巧緻性に優れた幼少期からの習熟がもたらしたものである。

 奄美民謡大賞を受賞するなどした活躍からそのままプロになるかと言われていたが、高卒後に美容師になる。大阪で働いたが、良くある美容師の薬剤アレルギーで断念。(ちなみにあのだいたひかるも美容師だったが、指を怪我したのとパーマ液アレルギーで辞めたらしい。)それゆえ、東京へ移住して歌で生きていくことにしたのがデビューのきっかけであった。

 奄美大島には時間があれば帰省するというがなかなか多忙ゆえ難しかったようだ。昨年1月、電撃的に妊娠と結婚を発表。ようやく冬から活動を再開したばかりである。
 
 出産してからは帰郷する機会が増えたという。島の人は、彼女の歌い方が島唄のそれをそのまま出していることに嬉しさと誇りがあるという。

 私の両親がただ今、奄美大島へ旅行中。写真を多く撮ってくるようにと買ったばかりのデジカメを渡し、1Gものメモリーをつけて持たせた。いずれここでご紹介できればと思う。私の弟が近いうちに奄美大島へ移住予定。仕事を開始する。その下見も兼ねて親が遊びに行った。南の島が好きなところは私も同じである。いつか私も行ってみたいところである。

神谷徹 ストローで笛を吹く

5e52f56b.bmp ストローで笛を作り、シャボン玉を出しながら演奏するという奇天烈なスタイルでエンターテイナーとしても活躍しているリコーダー奏者に、神谷徹という人がいる。元々は京都大で宇宙物理学科を出た理系の人間。後にリコーダー奏者へ転身した。今は、大阪音楽大で講師も務め、日本テレマン協会のソリストでもある。国際的にも活躍中。

 ストローを活用するきっかけは、かつて喫茶店で友人とストローを吹いてみたところ見事に音が鳴り、それから工夫してみたというものだそうだ。先日、ビートたけしの番組にも出てきて、手作りストロー笛をくわえ

 「だんご三兄弟」
 「頭の上のタケコプターが回るドラえもんの曲」
 「しゃぼん玉が出てくるしゃぼん玉の曲」
 
 などを演奏。スタジオ中を爆笑の渦に巻き込んだ。おもしろい着想の人である。

 さて、この神谷さんの母は、私が尊敬して止まないあの神谷美恵子。精神科医として、語学に通じたキリスト教徒として、ハンセン病問題に取り組み存在感を発揮した女医である。徹さんは、美恵子さんが生きていたら、他人がやらないようなことをやることを高く評価して喜ぶ人だったから、きっと褒めてくれたろう、と言っていたことがある。
 
 彼女は良い息子をこの世に残した。

藤原正彦

 時々、NHKの「視点・論点」に出てきて日本の時事問題や世相についてあれこれ一頻り論をぶっている風変わりなおじさんに藤原正彦がいる。かなり禿げ上がった白髪をかなり変わったまとめ方をしている。そのビジュアルは一度見ると忘れられない。お茶の水女子大の数学の先生で、ここ吉祥寺に暮らしている。私自身も何度も彼を町で見かけるし、自転車などで彼の家の前や横をすり抜けながら駅の方向へ出かけることは非常に多い。

 数学の先生であるが、数学では大したことがない(大学院時代の数学専攻博士課程の友人らからそう聞いた)らしいが、むしろ評論家として有名である。1年ほど前か、NHK教育テレビ、「人間講座」で並みいる数学者の評伝をざっと紹介するシリーズを担当したことがあった。私と同じ高校を卒業している(彼は14期、私はそこから30年ほど後になる)ので大先輩になるが、藤原教授ご本人とは一度も言葉を交わしたことはない。
 
 日本の頑固者親父をそのまま地でいくような頑迷固陋な世界観、価値観を持っている人物として知られる。数学者であるが、特に初等教育からの国語教育の重要性を説くことで有名で、英語の早期教育は逆に強烈に批判している。私も方向性こそ全く違え、滅多にいない頑固者であるらしいので、このような彼とは間違っても仲良くできそうにはない。正鵠を射たことを言っていると思うことが稀にあるが・・・。  

 1943年7月、かつての中国大陸、旧満州新京で生まれた。父はあの新田次郎。藤原正彦は彼の次男である。新田はペンネームだが、自宅の表札にも「新田次郎」と書かれている。山岳関係の小説において優れ、多くの小説を執筆した物書きである。新潮社から出ている「アルプスの谷 アルプスの村」は優れた内容であると思う。

 母が藤原てい。出版数こそ少ないが彼女も有名な物書き。この藤原てい女史、これまた衝撃的なおばあさんで、いつも躁状態のような激しいエネルギー感で捲し立てるようにものを言われる方であるが、その仰っている内容は、それが些細な世間話などであってもほとんど客観性がないことが多い。駄洒落として割り切って聞いている分にはおもしろいが・・・。彼女はかつて旧満州からこの藤原正彦ら子供たち3人を連れて引き揚げてきた体験を綴って「流れる星は生きている」を出版し、戦後の大ベストセラーになった。映画にもなっている。

 奥さんもまた物書きであり、こちらはたいへん上品できれいな方である。なぜ藤原博士と結婚なさったのか、など詳細についてはさすがに存じ上げない。以前、テレビの対談番組だか何だかに彼女がちらっと出ていたように記憶しているが、しおしおと聞いてはいなかった。

 さて、この藤原正彦、天皇家の皇統存続問題について一頻り持論を展開している。その内容に私は全く微塵も賛成できないが、こちらにその内容が

パルアットポップ 高野健一

c79ffe7c.JPG 私の高校時代、サッカー部の1年上級生に高野健一がいる。時々、一緒にサッカーをやったりもする。油絵が得意な芸術家肌のなかなかハンサムな気の良い人である。パルアットポップというバンドを作って活躍中。彼が今、人生最大の勝負時にあるという。何でもいくつかのテレビCMの曲に採用され、また、同時に詩集の出版と音楽アルバムの発売をほぼ同時に行い、いよいよメジャーへの階段を登りだせるかも、ということらしい。

 で、後輩の私としてはPRするわけです。皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 はい!お知らせ!ついに発売っす!期は熟した!満を持した!
 高野健一デビューミニアルバム「will」(7曲入り1800円)、12月7日発売決定!
 オンエアー曲としては以下がテレビで聴けます。
 ミスタードーナッツCMテーマ曲
 フジテレビ系   情報番組「スタ☆メン」(日曜22時〜)オープニング曲
 日本テレビ系  「松本紳助」エンディング曲(12月〜)

それとあわせて好評であった前回の詩集(一万部突破!)に続き、第2詩集「僕は君が好きが続いてゆく」(ディスカヴァ−21出版)が11月より発売中!こちらは本屋で売ってます。

というわけで人生最大の勝負時でーす。みなさん買って下さい。そして周りに広めて下さい。よろしく頼みまーす!ぐわ〜っ!!!!!!!! 高野健一

響いた美声 アンサンブル・プラネタ

35f6cf65.JPG つい先日知ったばかりのアンサンブル・プラネタ。美しい女性5人の声楽家たちが欧州歌曲やキリスト教宗教曲などを歌うグループである。クラシック音楽のアーティストとしては異例の人気を獲得しつつある。こういう美しい声、音、音楽を使いこなす人たちの活躍を私は非常に嬉しく思う。28日の金曜夜、四谷の上智大に近い紀尾井ホールにて久々のコンサートが行われた。ここは彼女たちのデビューコンサートをしたところでもあり、思い出深い特別の場所であるという。
 
 紀尾井ホールは天井が極めて高く、二階席からも非常に良く音が聞こえる優れた音響を持つホール。私は1階の10列10番。ちょうど真ん中あたりで非常に良い座席だった。しかも右隣が空いていて窮屈でなかったのがさらに幸運だった。うっかり自動車運転用に強めに作っためがねを忘れ、あまりよく見えないめがねで行ってしまったのでかなり後悔する羽目に。
 
 会場には品の良さそうな、穏やかそうな聴衆が多く、老若男女があれこれ混じっていた。子ども連れも多かったのが印象的。私のように寂しい「お一人様」もかなり多かったように見受けられた。

 観客席から見て、左から戸丸華江、高橋美千子、池城淑子、伊藤美佐子、村田悦子、の順番に並んだ。音叉を吹いてキーを確かめる役割は村田さんが担当。第二部になってからシューベルトの”Ave Maria”など2曲だけ戸丸と高橋が場所を入れ替わって歌っていた。全員、ノースリーブの白いドレス。ちょうどウェディングドレスの袖なしのように見えた。色が白だったこともあり、「天使」のように神々しい印象があった。

 やはり歌唱力の面で一枚抜きんでているのが高橋芸大で声楽を学び、イタリアへ留学したこともある超高音域を出せるソプラノ。爆発的な燃焼力がある声を遺憾なく披露していた。特に中休みを挟んで第二部、シューベルトの”Ave Maria”をあれだけ観客を魅了しながら歌えるソプラノというのはそう滅多にいるものではない。また、彼女は5人の中で唯一といって良いほど、歌うことそれ自体を非常に楽しんでいるような姿に見える。腕の動かし方、顔の揺らし方、表情などにこにこ笑いながら歌える余裕があり、だからこそ5人の中では最も目を引く。
 
 黒髪が美しいのが戸丸華江と村田悦子。艶やかな黒髪が光を反射して美しかった。両端からがっちり支えている。村田はその潤い溢れるアルトの声で終始一貫他の4人を引き立てる役割に徹していたが、ときおり彼女の声が中心的に聞こえてくるところもあり、そうした部分での響きには優しい安らぎがあった。戸丸はやや今回、声が不調だった面があるようで、出だしの曲の冒頭部を初めとして、1/4音ほど音程を外したりした箇所が数回あったが、彼女のスタイルでもあるやや体を右に傾けながらの歌声は観客を魅了した。

 池城淑子が第二部三曲目、アイルランド民謡、「サリー・ガーデン」にてソロを担当。アルバムで聴いたことがある私はあの独特の声が聞こえるのかと期待したが、むしろ逆にとても穏やかで柔軟な声。声の質として考えると、「サリー・ガーデン」における彼女のソプラノは、5人の中で最も良かったように聞こえた。

 しかし、やはり私が一押しなのは伊藤美佐子。ソロを担当した箇所はとても少なかったが、声の質が繊細で柔らかい。またもっとも丁寧に歌っているという姿に見えた。「サリー・ガーデン」では高音部のソプラノパートを歌っており、
 
 「・・・サリー・ガーデン」

 と繰り返し最後まで彼女がバックで歌っていくのだが、これがたいへんに素晴らしかった。
 
 何と言っても伊藤は、MCで挨拶をするときの話し方が実に印象的である。その優しさ、人柄の良さがあますところなく現れており、あの挨拶は男だけでなく女の人の心を鷲づかみにする魅力があると思う。MCの挨拶というのはおそろしいもので、その人の人格がほぼ一瞬で判断されてしまうことさえありうる。今回、伊藤美佐子と村田悦子のそれは、彼女たちの性格がとても優しいことを象徴的に示しているような、そのような気がした。
 
 コンサートが終わってからアンコールで「G線上のアリア」を歌っておしまい。私としては最も気に入っている「すみれ」が歌われなかったので少々残念だったが、気に入っていた歌も数曲聴かせてもらってとても楽しめた。ホール出口ではCDアルバムやパンフレットを販売。買うとサインしてもらえた。私も「Choral」の公式楽譜を買い込んで列に並ぶ。ほとんど最後から数人目であった。
 
 随分待たされたのでサインする5人も少し恐縮気味だったのであるが、
 
 「お待たせいたしました。」
 
 「ありがとうございました。」


 という声のかけ方にこれまた思いっきり人柄というものが出るもので、ここでも私一押しの伊藤美佐子さんと村田悦子さんが最も丁寧で思いのこもった対応。高橋、伊藤、村田、戸丸、池城の順番にサインをしてもらうのだが、他の3人はぞんざいな、とまで言ったら言い過ぎだが、ややおざなり気味で流れ作業的な感謝の言葉とサインしかなかったのであるが、伊藤さんと村田さんのそれは、わざわざ平日の夜に聴きに来てくれて、またアルバムを購入していただいてありがとうございますという思いが目いっぱい詰まった満天の笑顔と言葉をかけてもらった。
 
 「ありがとうございました!」

 伊藤さんの細く繊細でガラス細工のような優しい言葉と、村田さんの潤いのある暖かな一言。あれは男の心を一瞬で撃ち抜く力がある。
 
 帰路の中央線、頭の中を「サリー・ガーデン」の音楽と風景が回りながら吉祥寺まで帰ってきました。

フェイレイ

9dc46e7d.JPG Fayrayというのは、元々キングコングが手の中に捕まえてしまった女の人のことを言ったらしいが、これをそのまま芸名にして活躍しているのが、日本人歌手のフェイレイ。1976年4月18日、東京で生まれたらしい。だが、その後アメリカで育ったので英語がネイティブ並にできる。ピアノが弾ける。

 彼女の本名は、大橋美奈子。かつて立教大に在学していた。卒業したという人もいるが、私の記憶では途中で芸能活動が多忙になり辞めてしまった様に思うのだが・・・。ちょうど私が在学中だったので学部は異なったが、しばしば見かけた。
  
 在学中にミス立教に選ばれる。ちょうどその日は学園祭の最終日、天気が良かったのでタッカーホール横、各学部の事務窓口前に工事現場用のアルミ特設パイプを1mほどの高さで組み上げて作られた舞台の上で最終のミスコンテストがあった。ちょうど私もその10数分前に舞台横を通りかかったのでそのまま足を止めて見ていたが、混雑していた現場の右横に空いた空間があり、運良く舞台に非常に近いところから最後の様子を見ていた。司会者がミス立教に選出された感想をフェイレイに尋ねたところ、

 「まあ、人生、悪いものじゃないなと、思いました。」

 といった具合に答えていたのを覚えている。彼女の声は女性としてはやや低めであり、また、滅多にいないほど非常に潤いのあるしっとりとした魅力的な声質であることと、この種の質問についての答えとしては珍しかったので記憶に残っている。当時はまだ艶やかな長い黒髪でたしかに一級品のかわいらしさであった。手に印象的なほくろがあるのが特徴だとか何とか言っていたような記憶がある。

 たしか彼女はカーペンターズの曲が好きであり、また得意でもあったらしく、カラオケで歌わせると素人学生の物真似の域を遙かに超えてうまかった。ピアノの素養がポップスの方向に花開いたらしい。その後、各大学のミスが集まって企画・放映された番組に民放テレビにて出演したりして、だんだんと有名になっていった。今は早稲田大の政経学部で勉強三昧のそのまんま東がフェイレイのスタイルをしてスーパーモデルのようだとか何とか言っていたのをちらっと見たことがある。
 
 その後、キャンパスで見かける彼女の姿は、だんだんと「業界人」のように装いを替えていき、髪も茶色く染め始めたりしてすっかり印象がかわった。少しがっかりしたのは私だけではなかったのではなかろうか。思うに、日本人の女性で髪を染めたり、パーマをかけたりすることで印象が「上がっている」人は極めて少数派だと私は思うのだが・・・。
 
 彼女ももう随分と大人になった。最近、どこでどの様な活動を中心にしているのかは全くわからないが、ちょっと調べてみたところ、この夏、日本を縦断しながら大がかりなライブツアーをした後、今はまたアメリカに戻って曲作りをしている真っ最中らしい、ということが彼女のブログからわかった。

 私は、彼女のあの独特の潤いある低音が好きである。潤いのある落ち着いた低音の女性というのは、美しい高音を持つ女性とは全く別の意味で、衝撃的に男の心を撃ち抜く力がある。ほとんどありえないだろうが、私は思うに、彼女が古典的な宗教曲を歌い始めたらたいへんな新領域を開拓するのではないかと予感する。あの様な声が一枚、聖歌隊に入ったら美しい響きを加えてくれるだろうにと思う。

マイクを持ったら離さない人たち

 カラオケで「マイクを持ったら離さない」という人は思っている以上に存在する。政治家には非常にこのタイプが多いそうである。とにかく自分中心に物事を考える人間、そういう立場にある人が多い。会社経営者、タレント、芸能人、ビルオーナーなど。煮ても焼いても食えない。
 
 あまり多いことではないが、聖歌隊にもそういう人が時々いる。それで軋轢を引き起こし、出入り禁止になったりする人も稀にいる。私が知っている人の中にもつける薬がない人がいる。
 
 どうひいき目に判断しても、その人に他を圧倒するような力量、技量があるわけでもないのだが、なぜか本人だけは自分がうまいと、高い能力を持った不可欠の人間であると思いこんでしまっているような場合、周囲は手こずらされる。

 俺が、俺が、としゃしゃり出てきてどこまでも中心的な役割を自分が演じないと気が済まない。一切の良識や適切な言葉遣いもなく、粘着質な「意見表明」を文章にしたためメールで送りつけてきたりすることさえある。思うに、こういう人に限ってメールを通じた文章が異様に自己中心的、攻撃的な装いを増す事例が何と多いことだろうか。

 こうなるともうほとんど重症の心の病、精神の歪みを抱えた人間というしかない。実際、私の目からその彼を見ても、おそらく深刻な精神疾患ではないだろうと思われたが、単なる偏屈を遙かに超えた、異様な男であった。

 あまりの良識はずれに私を含めた皆が呆れてしまい、怒りを通り越し彼の存在自体を横流しの状態。下手に導火線に火をつけてしまうとやっかいなことになるので、丁重に、穏やかに、しかし、確実に近寄らせないよう追い払うしかないとされている。

 私たちの初金聖歌隊では、次次回に女声合唱の「Edi Beo」を奉唱予定。男性は歌わずにお休みで待っていることになる。指揮指導の大内先生が自分たちが歌えない男性陣が拗ねたりしないかしら、と仰っていたのであるが、そんなことはない。
 
 ボーイソプラノや少年少女合唱団にも同じ事が言えるが、女性のみの高く、繊細で美しい声で歌われる奉唱には天に昇っていくかのような「美」がある。それを真横で聴くことが出来るとは、その練習を間近で横から見たり聴いたりできるとは幸福だ、と思う。集中して声を揃えようと熱心に打ち込むソプラノからアルト、その横顔が並ぶ光景はたいへん印象的である、といつも思う。(それが主たる目的になっているわけではないが。)

 自分がメインパートを歌えないからといって、自分の役割が黒子的だからといって、自分の担当、順番以外は無関心という人間はやっかいである。そもそもそういう男は合唱や聖歌隊向きではない。男の声は基本的に女声を盛り立てるために存在するようなもの。それが嫌ならばテノールのソリストでも目指せばよろしい。

西郷隆盛

806a4d24.bmp 昔、日本テレビ関口宏が司会を務めて行われていた「知ってるつもり?」という番組があった。あの中で、私は非常に印象的な肖像画があったことを覚えている。それが西郷隆盛のそれである。本当の西郷の顔立ちに最も酷似していると言われたものが出ていたからである。

 上野に西郷の銅像が建てられたのは明治30年。あまりに有名なあの浴衣姿で犬を連れた姿のものである。だが、銅像の除幕式でその場に立ち会った未亡人の「イト」さんが白い幕がとられてその下から出てきた瞬間、言葉を失い、そして、ひとこと、

 「宿んしはこげなお人ではなか。」

 と呟いた。あの銅像が全く西郷隆盛に似ていないということは今や常識。だから、真実の西郷の顔立ちがどの様なものであったか、大いに興味を集める話題になっていった。

 西郷隆盛は極端な写真嫌いであった。それはそれはもう、本当に徹底的に嫌っており、かの明治天皇が西郷の顔を知っておきたいから写真を撮影して送れと命じたにも関わらず、彼は曖昧な態度で結局うやむやにしてしまったくらいである。当時、天皇の命令をすっぽかすと言うことがどれほどのことだったかは言うまでもない。
 
 王政復古の大号令の後、明治政府が樹立され、薩長土肥が躍進し、封建時代から近代へ。維新の真っ只中の政局の中心にいた超大物の西郷。ゆえに絶えず暗殺の危険があった。刺客に狙われる事が多かったので、顔があまり解らない方が良いと考えていたことが一番の理由らしい。生理的にも写真が嫌いだったようだ。

 必死の思いで廃藩置県に尽力しそれがようやく終わって始まったばかりの明治5年、呑気に外遊していた盟友、大久保利通岩倉具視が記念に集合写真を撮影して西郷に送ったことがある。それを見た西郷は呆れてしまい、大久保に対して、全くもって醜態の極み気の毒千万だとまで強烈な書簡を送ったことは有名である。
 
 確か、西郷の肖像画は西郷の遠縁かなにかの人だったか、山形県の旧家に保存されていると記憶している。それを見たかつての西郷を良く知っていた身の回りの女性等は、

 「間然するところなし」

 と生前の顔立ちにまさにそっくりであることを認めたもの。私もそれを見て、なるほど西郷の顔とはこうしたものだったかと感心し、非常に得心したものであった。公開されていないらしく、どこにもその写真が見あたらないので大変に残念だ。 
 
 西郷の肖像画といえば、大牟礼南塘(おおむれなんとう)が描いた西郷隆盛の肖像画が残っているが、全然似ていない。

今、簡単に見ることができる西郷の顔立ちにかなり近いとされるものは、イタリア人の画家、キヨソーネが描いた肖像画であり、西郷従道と大山巌の顔を合成して描いたものだという。しかも原本は消失し、複製でしかない。今は鹿児島県歴史資料センター黎明館に蔵されている。この絵は、私が見た山形の肖像画とはやはり少々異なるが、それなりに近い。もっと優しく柔和な顔立ちで、知性と気品が良く現れているそういう顔立ちだった。

 西郷は非常に優しい人だったという。一緒に暮らしていた義理の妹、岩山トクさんが録音取材に応じたものが残っているが、料理を作って出すと、これはたいへんにおいしいものだと必ず優しく褒め、威張り散らしたりする面は皆無だったという。
 
 「ほんに優しい人で・・・」
 
 あったそうである。頻繁に若い侍連中が押し掛けては西郷に会って話をしたがるのに時々うんざりし、加治木の若い衆が来たりしたときには、

 「いないといってくだされ。」

 と居留守を使って一人の時間を作ったことも良くあるという。若い衆は残念そうにすごすごと帰っていったのを良く岩山さんは記憶に留めたという。

弁護士 西田章

 忘れられない男がいる。ただ今、第一東京弁護士会で弁護士として活躍中の西田章である。彼と私は高校時代に同窓生だった。クラスメートになったことはないが、私はサッカー部、彼はアメリカンフットボール部。いつもグランドですれ違っていた。言葉を交わしたりしたこともほとんどない。
 
 彼は大変ハンサムで女生徒にも非常に人気があった。だが、怪我をしたか何かでアメフトの活動を十分に出来なかった。気の毒なことだ。運動神経は良かったと思う。当時、アメフト部はかなりの強豪で都大会の上位を狙える位置にあった。全国大会には残念ながら行けなかったが、かなり本気でそれを狙えるチームだった。
 
 以前に、今はルーマニアでシンフォニーの指揮者をしている1学年上の菅野宏一郎さんと良く一緒に筋力トレーニングをしていたというコラムを書いたが、菅野さんとともに西田くんも良くディフェンスの練習をしていたのを思い出す。 
 
 西田くんは同期の中でも最速で司法試験に合格。期待の星であり、羨望の眼差しで見られていた。その後、東京大の修士課程も出て、経済産業省でも仕事をしたらしく欧州へ留学をして研鑽を積んだと聞いている。

 どの様な法律家になっているのかわからないが、尊敬できるようなそういう弁護士になっていてほしいと願う。
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