思い出の学者たち

聖書に親しむ ーマルコ福音書に学ぶー

420b7f89.jpg 日本で最も古い時期に創立されたミッションスクールの一つ、女子学院。四ッ谷駅が最寄りで中学校と高等学校とがある。女子学院はプロテスタント。すぐ近くにある雙葉中・高はカトリック。近くの水道橋駅前にある桜蔭と合わせて女子御三家といわれることがある。ちなみに桜蔭は吉祥寺の名物漫画家・舞台演出家、あの水森亜土さん(あどちゃん)の母校。
 
 この女子学院の院長を務めていたことがある人に斎藤正彦牧師がいる。彼の代表的な著作として信仰入門書、
 
 聖書に親しむ ーマルコ福音書に学ぶー(日本キリスト教団出版局)
  
 B6判・並製 190ページ 1,121円税込 1985年10月
 ISBN4-8184-2064-6 C0016

 が出版されている。初学者向けに平易に「マルコ福音書」を説いた入門書。入門講座などに適した著作として用いられることが多い。四福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順番に並んでいるが、実際に執筆された時期としてはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの順番である。マタイはマルコを参考にして書かれたところがある。その意味でマルコからマタイへ読み繋いでみるというやり方はあって良い。
 
 斎藤牧師は、女子学院院長を引退後、福岡中部教会で牧師を務め2年前に引退された。学識豊かで学術的な翻訳、著作なども多い。説教も一切ふざけたりくだけたところがない。非常に伝統的、古典的な堅い印象の古風な雰囲気。いかにも院長先生にぴったりという雰囲気だが、実際の人柄は柔和で温厚、話しやすい。
 
 今から15年くらい前だったか、まだ、院長をされていた時代、一度だけばったり四ッ谷駅近くで道を女性教員と一緒に歩かれている彼と出くわして1,2分ご挨拶をしたことがある。まだ、ご存命で元気だが、私が斎藤牧師と声を交わしたのはそれが一番最近のこと。
 
 16年前、洗礼をして下さったのは斎藤牧師である。私が自分の人生で最も世話になっている現在の牧師は、当時、教会を長く引っ張ってきた先代牧師が逝去後、そのまま引き継ぐように着任していたが、まだ、牧師になる直前、伝道師の段階であったため洗礼式ができなかった。もっぱら信仰問答を通した指導を受けたのは現在の牧師であるが、当日は斎藤牧師が担当されたのだった。たしか、その後、今の教会で斎藤牧師によって洗礼をなされた信徒は私だけだったか(あるいはもう一人くらいいたかいなかったか)だったと記憶している。

わたしが子どもだったころ「政治学者 姜尚中」

 わたしが子どもだったころ「政治学者 姜尚中」
  
 本日、4月27日(日) 24:25〜25:10(45分)  NHK1チャンネルにて放映予定。

 http://www.nhk.or.jp/kodomodattakoro/

 インタビューとドラマでの構成

 以下、NHKウェブから

 在日2世として熊本県に生まれ、日本名は永野鉄男。家は廃品回収の商店を営んでいた。父は寡黙でまじめに働き、母は故郷の生活様式を大切にする人だった。10歳のころ、鉄男は転校生の女の子に思いを寄せる。恋に目覚めると同時に、自分が在日2世であるということを強烈に意識するようになった。その葛藤は鉄男をひどく悩ませていく。少年がアイデンティティーを確立していく足跡を探る。

斎藤眞

 現在、アメリカ政治外交史の研究者としては、藤原帰一、久保英明、五十嵐武士らがいるが、彼らが直接、間接に教えを受けたのがICU名誉教授、東京大名誉教授でもあった斎藤眞。これで名を「まこと」と読む。

 この16日、86歳で慢性気管支炎のため死去、一昨日がお葬式であった。ICUに勤務し平和研究所所長をしたり、告別式が日本基督教団・信濃町教会(新宿区信濃町30)で行われたことからもわかるように彼はキリスト教徒であった。

 著書が逆に英訳されたこともあり「アメリカ政治外交史」や「アメリカ史の文脈」などがある。彼の父は英文学者、斎藤勇。早くからアメリカ社会、政治に通じた。ハーバード大留学後、ユダヤ人閣僚、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官らと繋がりもあった。アメリカ学会会長も務めたこともある。05年に文化勲章を受章。

 アメリカ政治外交史の担当者は多く帰国子女だったり留学経験がある人が多い。そして、アメリカとその政治をどこかしら、世界の政治のお手本的要素を多く持った国、と見る憧憬的な眼差しが強い印象がある。斎藤は、アメリカ政治は自由と統合がいつも緊張関係を持ちながら発展する、と説明していたが、少なくも90年代以降、とりわけ90年代後半以降のアメリカ政治は私にはそうは見えなかった。現在、アメリカ政治には世界の民主主義に有用で模倣されるべき手本になる要素が非常に少ない。

 何もかも良いとは言わないが、個人的には現在、藤原帰一がもっともアメリカへの憧憬と桎梏から解き放たれて、ドライにアメリカの政治、国家、外交をとらえていると私は感じている。

産科フィスチュラ

f20b025a.bmp 今世紀の世界をざっと見回してみると、だれもが容易に気がつくことがある。あまりに目を覆うべき地獄の現実に苦しむ取り残された大陸が一つある。それがアフリカ。内戦、専制政治、対人地雷、エイズ爆発、砂漠化、飢餓、環境破壊、難民、女性虐待、資源の奪いあいによる殺し合い。数え上げれば全くこれほど絶望に満ちた大陸は他にない。つい先ごろ、NHKがNHKスペシャルでアフリカ大陸の惨状についての特集シリーズを組んだが、その内容たるやすさまじいものであった。

 さて、あまり知られていないアフリカの女性問題の一つに「産科フィスチュラ(Obstetric Fistula)」という言葉がある。「ろうこう=瘻孔」、「ろう」ともいう。「女性割礼」問題と並び、アフリカ女性を悩ませるたいへん深刻な問題である。

 アフリカは初等教育の水準が非常に低い地域が多い。公衆衛生という観念も概念も無い。したがって、適切な医療を受けることができないため、無謀に出産に挑むことを余儀なくされた女性たちは時に陣痛が長引いたりすることが良くある。こうした場合、出産後に膣部に多大の打撃受けてしまい、そこから、糞尿漏れ、合併感染症の発症、身体障害、下肢障害といったことが多発する。こうした場合、普通は酸欠状態になり胎児も死産で終わる。

 アフリカでは女性が非常に若い年齢で女性が結婚する。未熟な体、骨格の発達が未発達なままに妊娠、出産を余儀なくされる。このような難産は十代中頃という早い婚姻年齢が大きな原因にもなっている。ただでさえアフリカは栄養不良状態で女の子の発育は大きく遅れている。アフリカの一般的な婚期に達するまでに骨盤の成長が全く間に合わない。

 だが、このフィスチュラは、ほぼ9割前後は手術で治る。再び妊娠、出産することも問題ない。要するに、公衆衛生と初等医療が最重要ポイントということになる。医療が十分に受けられる先進国では、ほぼ19世紀までに撲滅された症状。帝王切開による出産もこれを回避する一つの選択である。適切な産婦人科医療の介入が必要な場合にそのような措置が受けられないと、こうした途上国の貧困女性に、膣の孔から流れる便や尿が抑えられず、自らの排泄物にまみれた生活を強いられるという悲劇を生む。彼女たちは負担のかかる出産で自分の子どもを失った精神的な打撃に加えて、さらに身体的な症状に苦しむ。

 こうした問題への果敢な解決を目指す団体がある。それがフィスチュラジャパン。アフリカの中でも政情不安、専制政治、飢餓難民などの多発にも悩むエチオピアに限定して、悲劇的な女性を救済するため、無料治療を続けるアジスアベバ・フィスチュラホスピタルを支援するために設立された。エチオピアのアジスアベバには國枝美佳さんが現地リエゾンとして担当駐在している。

 この病院は、フィスチュラ罹患少女・女性に無料で手術を施術する非営利の病院。手術が成功した患者の生活再建にも助力し、国際的なフィスチュラ研究教育機関に変貌しつつある。フィスチュラジャパンは、日本で唯一、産科フィスチュラ問題に取り組む団体。賛同してくださる方の支援を切望している。

 ちなみに最近は、先進国であるはずの日本でも、若い女性が極端な栄養の偏り、運動不足など食と生活が大きく乱れたことにより、体格、骨格面でかつての日本人女性よりも大きく劣ってきている。ちなみに現在の小中学生世代が史上最悪なのだという。これが20歳前後になった時が非常に懸念される。したがって、日本でも出産等に伴うフィスチュラが生じる場合も皆無ではなく、症例が稀で少ないため、診断や治療に苦慮することがある。小児科医、救急救命医と並び、産婦人科医がそもそも減っており、国内でもこれに悩んでいる女性が存在する。

 フィスチュラジャパン代表を務めるのは中山道子。憲法学、比較憲法学、英米法などを中心に活躍していた法学研究者で、今は退職し別の道を歩いている。フィリピンの小児性愛被害問題に取り組むプレダ(Preda)のカトリック司祭、シェイ・カレン神父の日本来日時にシンポジウムをアレンジしたりといった活動を為していた。西洋政治思想の理解に深い。英語の語学力にも優れる。
 
 女性割礼の問題はしばしば知られているが、フィスチュラはまだ圧倒的に知名度が低い。アフリカの悩みはますます深い、と思った。
 
 フィスチュラジャパン代表 中山道子
 104-0061 東京都中央区銀座1-22-12 ノルン株式会社気付 
 電話03-5159-9890
 メール info@fistula-japan.org

 フィスチュラジャパン
 郵便振替口座 00150-9-630504

制度とその運用

 学生時代、私は法学部だった。自分で望んで法学部へ進学したものである。だから、「行きたい大学」へというよりは「行きたい学部」へという選択をして、あれこれと色んな大学の法学部ばかりを受験したのだった。学生時代に法学を学んだことは私にとって非常に役に立っている。
 
 進学してからは大学の授業が楽しくてたまらず、さぼろうというようなことは露も思いつかなかった。一生懸命、おもしろい講義を探し、せっせと教室へ通って教授に話をしたのは今でも良い思い出でである。お陰で教員に煙たがられたこともあったようだ。

 その中でも私が最も優秀で明晰な研究者だ、と舌を巻いたのが故田宮裕。刑事法を、とりわけ手続法たる刑事訴訟法を専門にした。団藤重光、故平野龍一らの薫陶を受けて学生時代を過ごし、助手となってから一事不再理についてのめざましい論文を書き上げて学会へデビューした。

 いくつも私が田宮先生に感嘆した点はあるのであるが、その中でも

 「制度とその運用」
 

 を緻密に調べ上げて詳細に比較、その制度が当初予定していた理念系と、その実際上の運用とのずれや問題を浮かび上がらせる認識方法を徹底したところは他の追随を許さないものがあった。

 制度は単に作るだけで良いわけではない。作っただけで死蔵されることもあるし、悪用されることさえある。制度が設計された当時に想定されていた形とは全く違った方向へ、徐々に、しかし、着実に、極めて複雑な過程をたどりつつ変形され歪められていくという点で、日本の多くの公共的な制度は共通の課題を抱えている。日本のありとあらゆる制度は、この深刻な病を必ず内側に包み込んでいると言っても良い。

 刑事手続きは言うに及ばず、生活保護制度、サービス残業などの労働法制、民事上の司法的救済、教育現場での体罰、年金や障害者福祉、産休・育休制度、果ては憲法九条の国防論に至るまで、全てがそうである。建前と実際が大きく乖離してずれようとも何一つ問題がないかのごとくにずるずると滑っていく統治機構、それが日本の国家権力装置の特色といえる。日本の政治と同じく、

 「まるで鵺(ヌエ)のようだ。」

 といわれる所以でもある。

 現代日本の官僚制度の膨張と巨大化は著しい。法という民主社会の血液を極端に悪用し、その運用が歪められることで近代日本の1世紀は走ってきたと言って良い。

 私たち日本人は、いい加減、こういう見え見えのでたらめといんちきを徹底して破壊し、新しい再生を図らなければ、末期のガン細胞のように増殖した霞ヶ関とともに沈没する、と思う。 

がんばっていきまっしょい

223a319a.bmp 幻冬舎文庫から刊行されている原作・敷村良子のがんばっていきまっしょいがテレビドラマになっている。関西テレビが制作して放映中。これ今から7,年ほど前に田中麗奈主演で映画化されたものを再度焼き直してドラマに仕立てたものである。

 原作者の敷村良子さん自身の青春の一ページを飾った自叙伝的作品であるので、鈴木杏が演じる主人公の名前は「篠村悦子」となっている。
  
 私は大学時代の友人数人とともにこの映画をわざわざ新宿の映画館まで土曜日の午後、見に行ったことがある。別に招待状をもらったわけではないし、田中麗奈ファンだったわけでもない。この原作者の敷村良子さんと結婚したばかりだったのが、私たち大学時代のゼミで世話になった学部助手、越智敏夫さんだったからである。同窓生のY氏が見に行こうと提案して出かけたのであった。
 
 この越智氏、私たちにとっては大変に印象的な人物であった。ちょうど大学2年生の時、まだ履修できるゼミに限りがあったときに政治社会学の栗原彬先生とともに担当した助手が越智さんであった。

 その強烈な批判力、一切妥協のない毒舌、無能でとんちんかんな議論をしている学者を容赦なく次々に切り捨てていく破壊力があった。お陰で学生は圧倒され押し黙ってしまうことが多く、ゼミは最初の2,3回ほど彼の独演会的に停滞してしまい、しぼんでいた。
 
 当時からこういう男に思いっきり噛みついてやらずにはいられない気質であったわたくしは、4回目あたりのゼミから業を煮やして機関銃のようにあれこれ反論していったことを思い出す。越智氏はそういう展開を逆に望んでいたようで丁寧にそれら論点、質問を受け止め、議論を敷衍する役回りを果たしていた。後から私に続いてチラホラと発言をし始めるものも出てきて結果としてこのゼミはまずまずの成果があったようである。
 
 「いやあ、君みたいにあれこれ噛みついてくれないとゼミにならんのよ。ありがたいね。」

 そんな風に言っていたことを覚えている。映画を見に行ったメンバーは基本的にこの年以来の仲間である。

 映画の内容的にはつまらないものであったが、四国ののどかな風景があれこれと出てきたことや、レトロな学生服や街並みなどが印象的であった。私にとってはむしろ懐かしい感傷に浸れる映像ではあった。私の大学院時代の同期生がちょうど四国出身であるのであれこれ聞かせてもらったが、あのロケ地の多くが舞台となっている愛媛県松山市ではないそうである。同じ四国ではあるが、徳島、香川などの場所が多かったそうだ。
 
 また、田中麗奈もまだデビューして間もない頃であり、とても初々しく若さ溢れる存在感で、役者としての演技はまるっきり下手だったがぼんやりと眺めながら見ているにはかわいらしい子だと感じたことを覚えている。この後1年たったくらいから、いきなり田中麗奈の化粧が厚くなり、ヘアスタイルも大きく変え、けばいメークになってしまったのを見た時は少し悲しかった。かわいらしかったあの女子高生が一挙に・・・。あれほど劇的に変わるとは。全然良いと思えなかったのだが。
  
 先日、この越智氏と恩師の一周忌で出くわした。相変わらずとぼけた毒舌スタイルから抜け出せず、突き出た下っ腹を隠しようもないおじさんぶりであったが、彼から「がんばっていきまっしょい」がテレビドラマになるのでぜひよろしくとその時に言われた次第である。

 「あれは映画になったときの田中麗奈がかわいかったですからね。」
 
 と私がいったところ
 
 「いや、だけど、鈴木杏のほうが明るくて元気がええのよ。」

 と越智氏。彼は今のドラマの出来をかなり気に入っているようである。
 
 彼は後にシカゴ大学へ留学したりしてから新潟国際情報大学にて教鞭をとっている。シカゴ留学直前、成田から出発する前日まで池袋のボロアパートの引越をしている有様で、私たちもそれを深夜まで彼のお兄さんもあわせて手伝ったりした。

 学生時代に私が予測していたより遙かに「期待を裏切って」、彼の政治学者としての政治的、社会的な発言・言論は停滞している。このまま越後の地に埋もれていくような気がしないでもない。
 
 私のような何の肩書きもない一介の人間でさえこの程度のコラムは作れてしまうのだから、彼のようにそれを本職にしている人はもっと鮮やかな切れ味の態度表明をしてもらいたいと願ってやまない。学生時代、私たちの前であれほど大見得を切っての歌舞伎役者ぶりを見せたのだから。 

 「がんばっていきまっしょい」の件については、「親ばか」ならぬ「夫ばか」かもしれないが、自分の妻が活躍してくれるのは嬉しいのだろう。その気持ちは良く解るし、悪いことではない。実際、敷村さんも明るく元気で良い人であるし、別に有害な原作本、ドラマではないのでご興味がおありの方はちらっとご覧下さいまし。

 越智さん、約束通り、宣伝しておきました。そろそろ自身もこの社会にインパクトを与えるなにがしかをリリースなさいまし。「政治の社会学」と、「社会の政治学」と、「政治社会」の学を私たちにあれほど偉そうに威風堂々、説教垂れていた助手時代の燃え上がる情熱を思い出しつつ。

鉄道に詳しい政治学者 原武史

2e49a795.bmp 最近、あちこちの学術誌、出版社など固いメディアで引っ張りだこの争奪戦にあっている人がいる。明治学院大学国際学部原武史。非常に鉄道に詳しい政治学者である。鉄道網を通じて政治社会を分析することができる珍しい視点を持つ。確かに並の鉄道ファンとは一線を画していると思う。私も鉄道好きという点では相当の者だが、とてもとてもかなわない。TBS情熱大陸でやっていた。 

 「芸術と政治」という内容でゼミをしていたこともあるようだ。そういうゼミの設定はあまり聞いたことがない。非常にユニークだと思う。


 少なくともこの人が書かれた鉄道に関する本は、ぜひ近いうちに読んでみようと思う。

姜尚中

476781c6.bmp 姜尚中。カン・サンジュンと読む。在日韓国人の二世で1950年、熊本県生まれ。私が大学に入ったばかりの頃はICU準教授だったが、ちょうど当時出来たばかりの東京大院、情報学環 ・ 学際情報学府の教授になり、本郷キャンパスに移った。今は佐倉統らと同じ学生相手に教鞭を執る。ICUで教えていた時代にはここ武蔵野や吉祥寺で見かけたり人も多いはず。

 整った顔立ち、端正な髪型。空手で鍛えたスリムな肉体。流暢な語学力。低く落ち着いた穏やかでまろやかな渋い口調。その醸し出す独特の雰囲気から、とても学者とは思えないほど、芸能人並に非常に熱い視線を送る多数の女性ファンが存在。「男も惚れる」と形容されるほど、男性ファンも少なくない。ソーシャルネットワーキングサイトとして先駆者的に利用者を広げているMIXIにもコミュニティが存在している。ちなみにこのSNに私のこのコラムの文章をついて

 (;´x`)な内容の典型
 
 と書いている男の管理者がいる。ファンである姜尚中を悪く書かれて頭にきたのであろう。それはそれで思想、表現の自由であるから(絵文字を使って簡単に書くだけの言い方は幼稚だと思うが)問題はない。ミクシについては、あまり興味もなくそれほど面白いとも思わないので、知人の繋がりで試しに入れてもらったが、一度も書き込みをしたことがない。

 姜尚中には、かつて日本名があった。「永野鉄男」という。だが、早稲田大にてコリアンとしての自分のルーツ、存在証明に目覚め、72年に韓国を訪れてからは民族名である今の「姜尚中」を用いている。

 彼はプロテスタントのキリスト教徒。成人になってから信仰心を持つ。彼は1984年、外国人への指紋押捺を拒否して刑事問題に。それを支援してくれた日本人が多数いたことが彼の人生を変えたと彼自身がいっていた。最終的には彼自身も指紋の押捺に応じている。私も個人的には指紋の押捺強制には反対している。そういう苦い人生を歩いてきた人である。

 だが、キリスト教徒である彼、国籍や民族性についての認識を色濃く投影した議論が多いので、ちょっと私はついていけない面をしばしば感じることがある。率直に申し上げて、私は彼が好きではない。尊敬もしていない。大嫌いではないが、何かこう、上手く言えない独特の「嫌な面」を感じずにいられない。学生時代、まだ彼を直接見る以前からそれを感じていたが、その漠然とした印象を決定的にしたのは在学中の政治学ゼミにおいて。まだICUにいた時の彼が一回だけ臨時のゲスト講師としてゼミに来てくださったことがある。ちょうど私は彼を左斜め前、すぐ目前に眺めながらおよそ2時間のゼミを過ごしたことを思い出す。そのゼミ参加に際して良く準備してきていたし、頭の良い人で、研究者として秀逸な、かなりしっかり勉強している人だという印象を持った。
 
 その時には丸山真男の文献を読んでいたのであるが、しきりにエドワード・サイードを引き合いに出しながら彼は持論を展開。サイードのポスト・コロニアニズム論の影響が強く見受けられた。彼は自分で言っていたことであるが、丸山真男を非常に高く尊敬、信頼、評価しつつも
 
 「無い物ねだりだと思うんですけれどもね。」 
 
 と自らゼミ議論で呟くくらい重箱の隅をつつくようなちくちくとしたアプローチで、丸山真男の論旨展開に足りない面をあれこれと指摘していた。それは横で聞いていてもあまり冴え渡った論旨という印象は持てなかった。しかし、それはそれで彼の立場だろうと思うので構わないのであるが、もっとも強烈に嫌な面を感じたのは、ゼミが終わった後のフリーディスカッションで質問がなされた時のこと。
 
 ちょうど私が大学に入学した時、とある在日コリアンの人が大手メディアを相手に民事訴訟を起こし、自分たちの名前を自分たちのハングルと同じ発音で、つまり、ネイティブ通りの正確な発音で放送するようにと訴え、これについての損害賠償が認められた案件があった。判例タイムズなどにも採用され、最高裁判例でこそなかったが、社会的にはかなりの注目を浴びた。民法の講義でも取り上げられた。これ以降、日本の大手メディア、マスコミは新聞といわず、テレビといわず、朝鮮民族の人たちの名前について一斉に読み方を替えてしまった。

 例えば、それまで、「金大中」は「きん・だいちゅう」と読んでいた。「キム・デジュン」とはいわなかった。「金泳三」は「きん・えいぞう」。「金日成」は「きん・にっせい」であった。それが一挙に「キム・ヨンサム」、「キム・ウィルソン」に変わっていった。日本人にとってハングルは馴染みが薄い言語。とても発音しにくい。これをやられると、普通の日本人は全く読み書きができないため、コリアンの人たちの名前に用いられる漢字が頭に浮かばない。同じように日本が植民地支配を行った国であるが、中国人、台湾人はこういう訴訟を起こしていないので、「江沢民」は「こう・たくみん」と、「毛沢東」は「もう・たくとう」、「陳水扁」は「ちん・すいへん」と今も読むことを許容されている。コリアンのみが訴訟を起こしたのはかつて「創氏改名」があったことが影響しているようである。

 私はこうしてハングルのネイティブ方式で相手の名前を発音しなければならなくなったことは、同じ「漢字文化」の上に生きている日韓、日朝の相互理解の上ではかなり煩わしい障害になってしまっているのではないかと思っていたし、今もそう思われてならない。空前絶後の大人気になった「冬のソナタ」主人公、「ヨン様」の名は、「ペ・ヨンジュン」であるが、「裴勇俊」という漢字表記を知っている日本人はどれくらいいるだろうか。残る3人の韓国ハンサム四天王、李炳憲(イ・ビョンホン)、張東健(チャン・ドンゴン)、元斌(ウォン・ビン)についてはどうだろうか。漢字で表記し、漢字読みで読んでくれた方が遙かに記憶しやすいではなかろうか?

 言葉の本質とは、本来的に言って非常に柔軟で、流動的なもの。私は英語圏に行けば「のりひさ」とは発音してもらえない。「のりいさ」になる。だが、それをいちいち細かく指摘して修正してなどいられないし、個人的にも全く気にしない。言語の本質を考えれば、侮蔑的な意味が無い限り大した問題ではないからである。
 
 この点、在日朝鮮の人たちの名前をネイティブで呼ばなければならなくなってしまったことについてどう思うかという質問を私はしたのだった。まだ、当時は学部生の私だったから若く幼稚な質問だと受け取られたのだろうか、姜尚中はあまりいい顔をしなかった。彼の答えは、
 
 1. 彼自身は自分の名前を日本風に読まれても気にしない。
 2. 英語で表記すると、 Kang Sang Jung となるが、英語圏の人にも煩わしく覚えてもらいにくいことがあるのでKan San Jun と書いてしまうこともある。
 3. そういう読み方についての争い、認識の違いがいったいどういう問題から派生しているのかということ自体を、全然知らない世代が増えていることの方がよりいっそう深い問題

 というものだった。私はとりわけ3についての見解については目からうろこが落ちる思いで、なるほどと思って聞いていたのだったが、彼はその後に次のように言った。つまり、一生懸命準備してゼミ講義しに来たのだから、その内容についてディスカッションしてもらいたかったようで、やや悲しく苦笑しつつ、

 「できれば、こっちの話をしてほしいですね。」

 とレジュメと文献を指さしながら呟いた。筋違いの幼稚な質問だよといわれたようなものであり、他の教授や生徒もそのゼミにはいたので私はそう対応され、それ以降、そのゼミでは黙ったまま。会話に加われなくなってしまった。あとは大学院生や助手、教授らがわいわいやってディスカッションが続いていった。言っておくが、これは正規の「学部生向けの授業」であった。院ゼミや研究会に学部生がもぐりこんだわけではない。そのゼミの内容から考えても、その時私がした質問は、それほど限度を超えた幼稚な、無意味な、焦点はずれのものだったとも思えないのだが、彼はそう受け取ったようである。 
 
 だが、あの一瞬のやりとりに、彼の中に存在しているエリート主義的な心性がよく見えてしまい、非常に嫌な印象を持った。今もなおそれは消えていない。
 
 話が飛ぶが、漫画家、小林よしのりは 姜尚中を徹底的に嫌っている。当初はそれほどでもなかったが、段々と「朝ナマ」での討論などを経てそう思うようになっていったようである。姜尚中がもつ「主婦キラー」光線は大変な魅力を発揮することを認めつつも、彼の持つ相手を小ばかにしたような知的エリート知識人としての態度の取り方に堪えられない嫌悪感を持っているようである。姜尚中ファンはしきりに彼を持ち上げるが、私が仮に彼を好意的に見ている人間であったとしても、それらの「称賛の声」についてちょっとどうかと感じることが多い。

 あまりに果てしなく議論の客観性のない暴走を続ける小林よしのりについて、私はもちろん尊敬も信頼もしないが、彼が姜尚中に対して炸裂させる怒りについては何となくわかる。特に、姜尚中がICUから東京大へ移籍してから彼の意見にはどうにも変な違和感を感じることが多くなってきた。今、これだけ「韓流ブーム」といわれながら、日本・朝鮮・中国の関係は戦後60年の中でもかなり悪い状態に入っている。これは今後も数年は止まりそうにない。3つの極で、非常に不健康な民族主義と国家主義が同時に燃えている
 
 彼は、在日コリアンという立場を、エドワード・サイードの言葉を使って「周辺者」、「亡命者」と表現し、日本と韓国という母国と祖国に挟まれた独自の存在だという。そうした朝鮮民族としての立場から、日本の社会が保有してきた朝鮮史観やそこから発射される差別、偏見を強く批判的に指摘する。だが、戦後60年を経て、日本社会も韓国社会も大きく変化した。実態はよりいっそう複雑になっている。部分的には韓国や中国が日本の上を行く面もある。韓国最大のメーカー、サムソン、LG、ヒュンダイらはすでに現状、いくつかの日本の超大手メーカーすら圧倒している。私は姜尚中の議論や認識をどこまで煮詰めていっても、日本・朝鮮・中国の友好的な融和とつながりは達成できないように思えてならない。

 姜尚中ファンの人たちがそういうことをどこまで考えているのか、時々、疑問に思うことがある。

白川静 漢字の世界を広げた

f073e76e.bmp 白川静。日本が生んだ世界に誇るべき偉大な漢字学者である。私がもっとも尊敬する人の一人。
 
 1910年生まれ。あの倉木麻衣も卒業した立命館大で教鞭を執っていた。名誉教授である。ちなみに倉木麻衣、私は「Day after tomorrow」だけは良い歌だと思う。白川静翁、現在は京都に在住。中国古代文学、特に漢字研究の世界的権威である。「字統」、「字訓」、「字通」の漢字辞典三部作は今世紀の大傑作と言って良い。

 この白川静氏が、立命館大内部に漢字の研究所を開設し、自ら5000万円を寄付しつつ、後進の指導にも当たることになった。「白川文字学賞」を設けて、東洋文字文化の研究に貢献した研究者に奨励金を贈ることになっている。
 
 今回の研究所は、文化勲章受章記念であり、「白川静記念東洋文字文化研究所」とされる。95歳になってなお旺盛な研究意欲が衰えない彼は、研究継続の拠点を望んでおり、白川氏自身の著書から出た印税5000万円を寄付して実現した。白川氏が名誉研究所長に就き、スタートする。素晴らしい試みだと思う。
 
 東洋の文字文化は裾野が広い。中国、朝鮮、台湾、チベット。ベトナムも元々はそうである。内外の研究者との共同研究やシンポジウムを実施予定。また、立命館の小中学校教員を研究員にして、文字文化教育の理想像をテーマにした実践的研究も計画中。
 
 白川氏は常々、漢字文化の回復を説いてきた。私もそう思う。日本人が漢字を忘れてしまったら、何という損失だろうか。

野口英世

52d46517.bmp 黄熱病の研究に尽力し、惜しくも研究半ばで死去した野口英世。貧しい家に生まれ、幼少期に手に大やけどを負ったことで医者としては致命的とも言えるハンディを背負い、様々な差別冷遇を受けながらも不屈の努力で苦難の道を歩き、先駆者としての道を歩いた。

 写真右端にいるのが若い頃の野口英世。非常に珍しい写真だそうである。不屈の努力で未来を拓く。野口英世博士の心にはいつも会津・磐梯山の風景が映っていたという。そういう人物に深い尊敬の心を私は抱く。

東京女子大 丸山眞男記念講座

16b3b5a2.JPG 吉祥寺に暮らし、ずっと中央線でお茶の水、本郷三丁目まで通勤していた丸山眞男。日本の戦後を代表する屈指の学者である。政治思想史が専門だが、素晴らしく博学な人であった。とりわけ、西洋思想と日本思想との比較分析に優れた。また、桁違いのクラシック音楽ファンで、フルトベングラーの熱烈な愛好家でもあった。この点、私の恩師、田宮裕先生とぴたり同じ。両者とも
 
 「ベートーベンはフルベンに限る。」
 
 といっていた。
 
 私が研究室で、丸山真男が音楽評論をちらっと書いていたものの中に、

 「ベートーベンにおいてあれほどまでに精神の貧しさを見せるカラヤン氏は・・・」
 
 というのがあったことを私が田宮先生に話したらその場でげらげら上を向いて笑い出したことは良く覚えている。私はフルトベングラーの交響曲はあまりに重厚すぎてまだ好きになれるほどのファンではないが、カラヤンのそれがちゃちだということはその通りだと思う。
 
 さて、丸山眞男氏が残した膨大な蔵書を私は丸山真男夫人や助手のようなことをやっていた女性の牛田さんと一緒に一度だけ手伝ったことがある。「丸山真男手帖の会」の川口さんらもいらっしゃった。この蔵書、本来ならば本郷の東京大図書館に寄贈したかったらしいが、官僚主義的な対応から東京大図書館員が面倒くさがり断った経緯がある。ではと武蔵野市にある成蹊大に話を持っていったが、ここでも断られた。しかたなしに、政治学の専門がなく女子学生しかいない東京女子大に話を持っていったところ快諾となったという。自宅の目の前が東京女子大であることもあり、運搬なども考えてすんなり決まったと思う。東京大、成蹊大は実に先見性がないと思う。

 さて、これ以来、東京女子大では、丸山真男文庫を記念して、比較思想研究センターが時々、公開講座、公開授業を行っている。今年度からは丸山眞男並びに広く比較思想を講ずる科目を、新たに設置した。そのご紹介をしておきたい。授業の単位は認定されないし、女子大生との共同受講なのに2万円と少々、受講料が高いが。

http://office.twcu.ac.jp/support/koza/maruyama.kokai-2005.html

 前期: 「比較思想A」として、 
      「『開国』の比較思想史」 
      平石直昭 (東京大学教授、丸山眞男文庫顧問)

 後期: 「比較思想B」として、  
      「丸山眞男に出会う−その人・思想・学問−」 
      松沢弘陽 (前国際基督教大学教授、丸山眞男文庫顧問)

 受講者を募集中である。

 2005年
 4月8日 〜 2005年7月15日 (前期)
9月30日 〜 2006年1月20日 (後期)

 時 間: 毎週金曜  2時限目 10:55〜12:25
 会 場: 東京女子大学 善福寺キャンパス(JR吉祥寺駅から関東バス、西荻窪駅から大学バス)
 定員:   30名
 受講料: \20,000

 問合せ先  〒167-8585 東京都杉並区善福寺2−6−1
         東京女子大学 教育研究支援課 「公開授業」 係
         TEL. 03-5382-6454  月〜金・9〜17時 (11:25〜12:25を除く)
   E-mail support@office.twcu.ac.jp  

神谷美恵子

ab2cb2f4.JPG 私がもっとも尊敬している人の一人が神谷美恵子。1914年生まれ。岡山市出身である。父が敗戦直後に東久邇宮内閣にて文部大臣をやった前田多門、名家の生まれである。
 
 1935年、津田英学塾を卒業、その後、渡米してニューヨークのコロンビア大に留学。1944年、東京女子医専(今の東京女子医科大)を卒業した。医学博士。その後、東京大学医学部精神科や大阪大学医学部精神科勤務で当時はまだ珍しかった精神科の臨床経験を多く積んだ。1958年から72年まで、ハンセン病患者の収容施設、長島愛生園の精神科に勤務した。この時の臨床を踏まえた膨大な著作が残されている。
 
 先日驚くべき事があった。コンピュータの出張訪問サポートを依頼してくれたある女性がいたのであるが、その方がなんとこの神谷美恵子さんと東京女子医専時代に同級生だった内科医の伊規須タカ子さん。若松町にて女子寮も一緒に勉強したという間柄だったそうである。私はひっくり返るほど驚いて、しばし仕事を続けながらも、半分仕事を忘れて夢中で神谷さんのことをあれこれと聞かせてもらった。

 いかに彼女が優しい人であったか、フランス語が得意であったか、それを出し惜しみせず皆に教えていたか、朗らかで明るく周囲とごく自然に打ち解ける人であったかなどを取り留めもなく聞かせていただいた。彼女の夫は1999年1月10日に逝去した神谷宣郎氏。結婚後、関西に引っ越ししたことが縁で長島愛生園への精神科勤務を始めた。片道6時間近く普通電車を乗り継いでの勤務だったそうである。

 限界状況において人間の精神性がいかに追いつめられるか、神谷さんの学術的功績は今なお燦然と輝く価値を持つ。まさか神谷さんの同級生から話が聞けるとは、仕事をしていてこれほど幸運だと思ったことは今までになかった。

 神谷美恵子
 1960年に神戸女学院大学教授
 1958-72年長島愛生園精神科勤務 
 1963-76年津田塾大学教授 
 1979年10月22日 逝去

鶴見俊輔さんのこと

be63e112.JPG 私は鶴見俊輔を尊敬している。秀才ではなく、天才に近いひらめきを持つタイプの人であるが、普通に一人の人間として見るとちょっと変わった面があるかも知れない。天才肌の学者にはそうした人が多いと思う。

 私の先生だった田宮裕もそうであった。人望の高い人格者であり学生、同僚を問わず他人から大変な尊敬を集める人であったが、その話し方のスタイルはかなり独特のものであった。しばしばまるで子どものような話し方をする面があってお茶目な天の邪鬼という印象で、私が初めて田宮・刑法総論を聞いたときにはあまりのたらたらした話し方に、

 「この人、頭がどうかしているんじゃないか???」
 
 と思ったことを強く覚えている。全国的知名度を持つ屈指の大学者が担当する田宮刑法、刑訴法だったが、その様なわけで講義開始の初め2,3回は聴講者が多いもののやがて潮が引くように受講者が減っていった。先生を尊敬してやまず、教え子の私から見ても確かに耳を澄まして聞いていてもあまり意味がない講義だったかもしれない。あまり意味のない雑談になったときには私も教科書や論文をそのまま読んで時間をやり過ごしていた。 
 
 さて、鶴見先生、私がゼミに入らせてもらっていた故高畠通敏先生と大変な親交があったのが鶴見先生だったこともあり、在学中からファンだった。その様な訳で個人的にお願いして、昨年の6月中旬、京都で鶴見俊輔さんにお会いする時間を作っていただいたことがある。京都駅ビルのル・タンというレストランで御馳走にまでなり3時間半ほど話をしたいただいた。一生忘れることが出来ないできごとであり、大変に感激したものである。

 その時にはいくつものお話を伺ったが、一つとても私のその後の人生に強く影響した話がある。それがなぜ、日本人に自殺者が多く、アメリカ人に少ないのかということについてであった。それほど深刻に話したわけではない。話の流れでおよそ4、5分ほど触れた程度のものである。社会の実態から言えば、アメリカの方が日本よりはずっとひどい。

 1.アメリカでは年収1万ドル程度であえいでいる貧困層、貧困家庭が相当数に上る。
 2.公の医療保険がないから病気になっても薬も飲めない、診療所にも行けないなど当たり前。人間の健康や生命にも市場原理が貫徹しているのである。
 4.子どもを学校にやれないとか、栄養状態が悪化しているなど珍しくもない。誘拐も多発して、行方不明になる子どもも何万人もいる。アメリカ国籍、市民権を適正に持っているのに英語の読み書きがまともに出来ない人というのは珍しくない。
 5.銃社会がもたらした大打撃は改めていうに及ばない。年間の死者数は夥しい。
 6.麻薬、薬物中毒は目を覆う惨状である。
 7.所得の格差は天文学的に開いた。
 
 いやいやすさまじい社会である。「アメリカン・ドリーム」としばしばいわれるが、夢の国であるとは到底、思われない。
 
 ところが、アメリカの自殺率は低いのである。日本の半分以下。ほとんど1/3近い。やはりキリスト教の規範意識が強いのだ。自殺は許されない罪であるから。カトリックでは時代によっては自殺者の葬儀をしなかったこともある。

 2002年の世界の人口10万人当たり自殺率をざっと概観すると、多い地域は旧共産圏とアジア。貧困に喘いでいるものの、中南米やアフリカは低い。メキシコ、ブラジル、チリ、アルゼンチンなどたっては治安すらままならない危険な国となっているのに自殺については世界トップクラスの少なさである。メキシコはなんと3.1。十代の若者にとっては朝日新聞ティーンズメールなどでカリスマであった評論家、の元TETSUYA=明川哲也、『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』はいまも各方面で話題を呼んでいる。ポイントは食生活。インゲン豆を食べることが良いのである。その理由は本をご覧頂きたく。

 日本 25.2人、韓国 19.1人、中国 17.6-20人 香港 16.4人  台湾 13.5人、 シンガポール 10.7人  インド 10.5人  タイ 7.7人  
→ タイやインド、韓国などには宗教的な影響もあり焼身自殺などもまだ存在することが影響しよう。

   割愛したが、日本よりも高い世界ワーストレベルに続々と入った旧共産圏やスリランカなど一部の国については、内戦、失業、放射能汚染、環境破壊、官僚制度の崩壊など全く目も当てられない実態がある。ロシアでは自殺者どころかアル中などが激増し、病死と事故死を含めて男性の平均寿命が10歳近く縮んだのである。
 
 日本は旧共産圏を除くとほとんど世界ワーストレベル。ひどい状態といって何ら誇張はない。 

オーストラリア 13.1人  米国 10.7人  英国 7.5人
 → 豪の場合、自殺の圧倒的多数が先住民族アボリジニー。失業率が6割を超え、アル中が蔓延。末期的な状態である。アングロサクソンは低い。

 なぜ、アメリカの自殺率は低いのか?鶴見翁のこれに対する答えは、他人に攻撃的になれるかなれないかという人間の差だというものだった。苦しいことがあったり、ストレスがあったりした時に、そのはけ口を何の遠慮もなく他人にぶつける「攻撃文化」の国がアメリカ。それらを外へ放出できず内攻し、自分自身を痛めつけてしまう「自傷文化」の国が日本。そういうことである。

 確かにそうだろう。アメリカで車同士がぶつかってバンパーがへこんだような簡単な交通事故の現場を数回見たことがあるが、そのやりとりたるやすさまじかった。責任転嫁体質もすごい。イチローがアメリカの買い物では呆れると行っていた。何かを注文して届けるようにいっておいても、届かない。妻の弓子さんが問い合わせると、担当者が今はいないと。なぜかといえば今は妊娠しているだのと言い出す始末で手に負えない。日本に帰ってきて百貨店にせよ、周囲の人たちにせよ超一級の優しい、細やかな、温かい対応をしてくれるのに触れると素晴らしいと思うことしきりだという。離婚訴訟のやりとりや、テレビ番組の罵りあい、大統領選挙のビッグ・ディベートすら罵詈雑言の雨霰である。これらは日本においてはなかなか見られない現象だ。一部のホストや暴力団などを除けば。

 私はこの鶴見翁とのやりとりを良く覚えている。それ以降、何だか少々であるが、他人とのやりとりが楽になったように感じている。若干、開き直ったからだ。私はくよくよするタイプだった。何かにつけ気に病み、うじうじと決められず優柔不断であった。「あった」ではなく、今もそうである。だが、若干、開き直りが出来て、少々、図々しくなれるだけでかなり違う。とりわけ仕事上のことについてはそうしている。
 
 「相手はこれこっきりかもしれない仕事のお客さん。自分の親しい仲間や友人ではない。不法なビジネスをしているわけではないのだから、もらえる金はがっちりもらう。そうでなければ国民年金すら払えないじゃないか!」
 
 その通りである。やや私は図々しくなった。中原中也のようなナイーブな感性にはもう、戻れまい。それはそれで悲しいが・・・。

 経験的に見ても、自殺を試みたことがある人というのは何とも繊細な人が多いように感じる。それはもうかわいそうになるくらいである。もっと威張ったって罰は当たらないだろうにと思う。狂気の宰相、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが恐怖政治を振り回したあのカンボジアでさえ、自殺はずっと少ない。
 
 アイヌやイヌイットの風が吹く国、琉球の歌が響く国、コリアンの七色チマチョゴリが映える国、やまとの国の皆さん、血液や角膜と違って生命は他人に譲渡できません。貴重な命を粗末に扱わないよう、心よりお願い申し上げます。死にたくなったら少々、開き直って強気に図々しくなりましょう。
 
 鶴見俊輔さんも若い頃から気が滅入る気質で、かなりあれこれ苦労したそうである。ハーバード大留学時には戦争関連で弾圧を受けて逮捕、拘留されたこともある。だが、監獄の中の生活はそれほど悪くなかったともいう。静かで平和だったと。当時、ハーバード大学と大学の仲間達は烈火のごとくこの逮捕に怒り、警察、検察に猛烈な抗議をしてくれたという。戦争中だというのに、当時のアメリカの東部エスタブリッシュメント気質を伺わせる。

 生きていれば良いことはたくさんある。その様に鶴見先生も仰っていらっしゃいました。

超一流の教育者 高畠通敏

41b93fcd.JPG 私が大学時代にお世話になった政治学の高畠通敏先生が逝去してから半月たった。やはり寂しいことこの上ない。お世話になった先生が段々と他界していくことは、自分に残された時間も減っているということを痛感させられるできごとである。ぼやっとしていたらすぐに自分も晩年を迎えるのである。在学中、秩父に先生と一緒に連れて行ってもらったことは一生の思い出になった。

 私は高畠先生が草の根民主主義運動を推進したと紹介されることに少し、違和感を感じている。もちろん、それはそれとして間違っていないのであるが、そういう紋切り型の説明で説明しさってしまうことに不自然な気持ちが沸き上がってくるということである。彼は草の根民主主義運動を推進しただけではなく研究者としても一流。また、教育者としては超一流であった。

 高畠先生は、学問としての政治学の骨格を示す稀有の教育者であった。色々見方はあろうが、高畠先生が超一流の教育者であったことは疑いがない。例えば、政治学原論の講義を高畠担当で受けることが出来たか出来ないかというのは非常に大きな差があった。たしかについていくだけでもしんどいものであったが、質の高さはこの上なかった。在学中、他大学も含めて数え切れないほどの講義、ゼミナールに参加してきたが、高畠先生ほどの教育技術を持った人間は珍しい。古典を踏まえた原理、原則、歴史、思想への理解と洞察。政治学者として当たり前のことではないかと思われるが、この「当たり前」ができていないポンコツ学者がいったい、どれほど日本の大学に寄生していることであろうか。「当たり前」を達成するだけでも大変な能力と努力が必要なのだということをよく示していると思う。
 
 専攻や内容、スタイル、方向性はかなり違うが、教育者としてのレベルも高畠先生に比肩しうる数少ない学者の一人が、国際政治学の藤原帰一であると私は思うが、藤原氏自身も高畠先生への評価は惜しまなかった。逆に、元東京大の西部邁、高崎経済大の八木秀次、白鴎大の福岡政行、日本大の岩井奉信、元早稲田大の川勝平太。挙げていったらきりがないが、聞いているだけでげんなりしてしまう出鱈目学者がかくもぞろぞろメディア世界へ出たがることへの呆れは、私にとって当時から始まっている。
 
 たしかに高畠先生は市民が主体となる実践的な政治学の構築を目ざしたといえる。しかし、「運動」という概念に着目して「運動の政治学」についての体系を残したことは全て、欧州や米国政治、ラテンアメリカ政治など世界各国の政治学をしっかりと踏まえた上でのことであった。彼ほど巧みに政治学の原理、原則を解きほぐすことができる人間は他にそう見つからなかったと思う。私が尊敬してやまない政治社会学の栗原彬先生が高畠先生のサバティカル休暇時に政治学を担当なさったことがあったが、やはり政治学原論の担当としては雲泥の差があった。政治学原論は一般教養科目だったために、他にも2,3人の教員や非常勤講師が担当していたが全く話しにならない。実名こそ出さずにおくが、その90分間は実に退屈で冗漫、当時の学生が気の毒であった。

 高畠先生の名前である「通敏」は彼の祖母が「諸学に通じて敏なり」という意味を込めて命名されたそうである。これがうそか本当か知らないが、講義の時に先生自身がそう仰っていた。その名前に見劣りしない70歳の人生であったと思う。

 

幼少時の原風景 哲学者、出隆(いで・たかし)

a916c278.JPG 私にとって忘れることができないお爺さんが一人いる。1980年に逝去した哲学者、出隆である。これで「いで・たかし」と読む。
 
 彼は19世紀末に岡山に生まれた。東京大の教授を務め、後に革新系の候補として戦後政治の激動期に東京都知事選挙にも出馬した哲学者である。経歴の詳細は追記に。1980年3月9日逝去。87歳だった。
 
 私は72年生まれ。小学校の低学年くらいまで彼は存命していた。実は彼は私の実家から徒歩1分のところに暮らしていて同居している孫が3人いた。そのうち末の孫にあたる人が私とは幼稚園時代からの幼なじみであったために私は出隆の実家に何度も遊びに行ったことがある。平屋の日本家屋であり、やや狭い日本風の庭園があった。小さな池には銭亀が泳いでいた。日当たりの良い濡れ縁もあった。私はなぜかあの平屋をものすごく良く覚えている。今もあの平屋の家の雰囲気、光が射し込んできた縁側の様子、庭木の茂り方、部屋の間取り、桐箪笥の木目やにおいなどは他人に家ながら今もありありと覚えている。何とも懐かしい。一度、厠に入り引き戸を閉めて内側から鍵をかけたはいいがそのはずし方がわからなくなりパニックになったことを覚えている。戸の向こうから友だちのお母さんに説明してもらいながら猛烈に焦りつつ戸を開けたときのことは今もはっきり覚えている。(実につまらないことを鮮明に覚えているものである。)
 
 紺色の和服を着ていた彼の膝に座り込んだりした記憶がある。既に齢が80歳を超えていたためさすがに体力的には衰えていたが、出隆の妻にあたるお祖母さんともあわせて私の最も原始的な幼少期の記憶に刻み込まれている人の一人が出隆である。
 
 彼は眼鏡をかけずいぶんと痩せていた。ひどく気難しい人であったように覚えている。だが、さすがに子どもである特権といえようか、孫娘の友だちである幼稚園児とくれば無碍に突き放したりはされなかった。あれほど晩年のあの人に身内でもないのに物理的に接触した人間というのは非常に珍しいと思う。彼の晩年の写真にはなぜかその孫娘さんの横に邪魔して私が膝元に写っているらしい。現物を見たことはないがそう聞いたことがある。やんちゃ坊主がしでかした愚行とはいえ、邪魔そのものであり何ともいい迷惑になってしまった。
 
 何か心の中に強烈なわだかまりを持っているような感じの人ではなかったかと今になって思い返される。哲学者らしくいつも苦虫をかみつぶしたような表情はしていたが、それは何か大きな人生の悔しさを抱えていたから、心に暗い記憶を持っていたからというような印象であった。追記にも書いたとおり、まさに激動の時代を大きな幅を持って生きた人だった。だから、私は彼を「ちょっと怖い」お爺さんと感じていた。何か非常に固い思いを心の内側にずっと持っている人だと幼心に感じていた。

 その出隆が亡くなったときのことは今も覚えている。春が近い日であったが、その時はまだ寒い季節であった。小雨が降っていたように思う。
 
 「・・ちゃんのお爺さんが亡くなったんだよ。」

 そう両親から聞かされた。子どもだったためにお焼香には行かなかったが、何だかひどくショックだったことを覚えている。彼の家に「忌中」と書かれた紙が貼られて、家の雰囲気が暗くなって感じられた。葬式なのだから当たり前であるが。家の前を通り過ぎるのが何となく怖かった。
 
 あのお爺さんがいなくなってしまった。もう二度と会えない、手の届かないところへ行ってしまったのだと思うと非常に胸がざわついたことを覚えている。「悲しい」という感覚ではない。人が死んでしまうと消えて亡くなるのだということを生まれて初めて体感した記憶が出隆であったと言えるかも知れない。
 
 私にとっての幼少時の原風景はいくつかあるのであるが、出隆と彼が暮らしていたあの日本家屋の平屋については、本当に自分でも全く理由が分からないのだが、今もなお何十回、何百回と記憶に繰り返し蘇ってくる風景である。 

 出隆はギリシャ哲学の研究者であり、明治男でもあるからといえようか、文章は非常に読みにくい。「きけ わだつみのこえ」という学徒出陣の若者達が残した書簡や日記をまとめた岩波文庫があるが、これを読んでの感想を次のようにまとめたことがある。
 
 この本から 
「われわれは、なにをきくか。それはあの戦争で窒息させられ圧殺されている若者どもの、さまざまなといきであり、叫びである。」

「だが、それよりかさらに、そこに、そのかげにーーーあの、おだてあげられ、ときつけられ、おしつけられ、いためつけられ、ゆがめられ、くらまされて、事の真実をつかむすべをも語るすべをも知らなか ったところの、かず多くの若い戦没学生の、書きのこした痛ましいこの記録のかげに、そのうちに、今日のわれわれは、なにを読みとるべきであるか。」

 彼自身、自分で設定したこの問いかけに十分に答えられずにこの文章については筆を置いている。戦没学徒を母校、東京帝国大学から大量に戦地へ送ってしまったことを悔いていたそうだが、直接、本人の口からそのことを聞いてみたかったと思うことがある。

ちなみに彼の墓は、生まれ故郷の岡山県津山市西寺町、高徳山は大円寺にある。続きを読む

政治学者、高畠通敏先生と私

cfb54cf5.JPG 新聞記事でご存じの通り、高畠通敏氏が逝去した。昨日7日、午前9時20分だったそうだ。OB会を通じて大腸ガンが肝臓に転移し、それを手術。再発して再入院と聞いた数ヶ月前から場所が肝臓だけにもう生前の先生に会うことはかなわないなと予測していたが、想像以上に早かった。残念であり、悲しみに堪えない。目をとても通せないので手紙や著作の送付もご遠慮いただきたいという世話役の方からの連絡手紙があったので、病状は推してしるべしという状況であった。
 
 この間の冬に行われた古稀記念の講演会+誕生会が最後の姿になった。懐かしの立教大第一食堂にて開催された。あの日、なぜか私は少し遠慮してしまい、先生と記念写真を撮らなかった。他の人が行列で撮影をしているのにどうしても割って入れなかったのである。少し悔しいのだが、それにかわる思い出がたくさんある。

 立教大タッカーホールにて8月1日の午後2時に追悼会が開かれる予定。昭和の時代を彩った数々の星が散っていき、もう残るは鶴見俊輔さんくらいしかいない。時代は着々と移り変わっている。これが時代の流れというものであろう。18歳で入学した私がもう32歳になるのだから。
 
 高畠通敏のゼミ出身者として恥じないような、大きな成果をいつか残してやりたいという野心は今も持っている。
 続きを読む
Categories
Archives
Recent Comments
記事検索
タグクラウド
QRコード
QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

 元ホーリネス平塚教会牧師、「星の子どもたち」 小松栄治郎事件の手記、
 「性暴力被害の家族として」  以下で販売しています。 
 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/52128088.html
「Amazonライブリンク」は提供を終了しました。
 






カスタム検索