May 07, 2016
♪Just a Re-Note from Rennie #251 2016/5/6
As a child, I recall many times when my friends would tease me, saying that I could not do something that we knew was “wrong” because I was a “PK” (preacher’s kid). I would get upset and tell them, it was just as bad for them, because they were deacons’ kids. Maybe even then, I was taught that pastors and pastors’ family were supposed to be better than others and not sin. But through my experience this time in being disappointed with the pastor, I realized that pastors are human and sin as well as anyone else. I also learned that God uses weak and sinful people. I recalled David and how God blessed and used him and Solomon. I recalled Peter and how Jesus forgave and used him. At the time of my disappointment, a deacon who knew the circumstances asked me to let him take it to the church. I refused because just a week before an elderly lady who had just been recently baptized came to my office praising the pastor. I could not destroy her faith. I refused to tell what had happened. In spite of this, God blessed the pastor’s ministry. (Ironically, years later the pastor came to seminary looking for a Minister of Music and requested an interview with me.) I took the first door that opened, left the church and for several years taught public school music. I kept looking back at that “closed door”, not longingly, but unable to forget the pain and having no desire to serve on a church staff again. However, God works in such mysterious ways. I do not recall the circumstances leading up to the decision, but when I was most confused and doubtful about God’s call, I felt led to go to Southwestern Baptist Theological Seminary and study Church Music Ministry. It was a great enlightenment and I was greatly blessed during my study at Southwestern Baptist Theological Seminary. Though I had served in church music and taught music in schools several years, I had not saved enough to pay for more study. However, the Mississippi Baptist WMU gave me a scholarship and SWBTS gave me a scholarship as a teaching fellow, teaching class piano. Most of the students were voice majors who could not pass the piano barrier. This was a new experience for me. Most were men who had such big hands that I struggled to teach them to play, without playing 2 notes with one finger. Most of them later became Ministers of Music in Southern Baptist Churches, State Church Music Secretaries, Foreign Missionaries or working for the Southern Baptist Convention. Several contacted me later thanking me for helping them pass the piano test.
I had great professors and as a teaching fellow had good fellowship with them as friends. My time at Southwestern was one of my happiest. “Though the Lord give you the bread of adversity and the water of affliction, yet your Teacher will not hide himself…and your ears shall hear a word behind you, saying, ‘This is the way, walk in it,’ when you turn to the right or when you turn to the left.” Isaiah 30:20-21
♪レニー・リノート (翻訳:宇賀治潔) #251 2016年5月6日
子どもの頃は、牧師の子だからということで、私は「悪い」ことができないでしょと友だちからよくからかわれました。私は腹が立って、あなたたちも同じでしょとやり返しました。彼らも執事の子だったからです。当時でさえ、私は牧師や牧師の家族は一般の人よりも良い人で、罪を犯すべきではないと教えられていたと思います。しかし、今回牧師に失望したという経験を通して、私は牧師も人間であって他の人と同じで罪を犯すのだということを知りました。また、神は弱くて罪深い人々をも使うということも学びました。神はダビデとソロモンを祝福して用いました。イエスもペテロを赦して用いました。失意の真っ只中にいたとき、状況を熟知していた執事が、私のためにその問題を教会に訴え出てあげようと言ってくれましたが、私は断りました。断ったのには理由がありました。その一週間前に、最近バプテスマを受けたばかりの年配の女性が事務所に来てその牧師のことを褒め称えたからです。私は彼女の信仰を台無しにしてはならないと考えました。執事には断った理由を明かしませんでした。このことがあっても、神はその牧師のミニストリーを祝福しました。(皮肉なことに、数年後、その牧師が音楽ミニスターを探しに神学校にやって来て私とのインタビューを願い出ました。)私は開いた最初のドアを選び、その教会を去って公立学校の音楽を数年間教えましたが、その「閉じたドア」を振り返ってばかりで、どうしても過去の痛みを忘れられませんでした。教会のスタッフとしてまた働きたい気持ちも消えてしまいました。しかし、神は不思議な方法で働かれます。どうしてそのような経緯になったのかは思い出せませんが、とくかく私が最も混乱し、神の召しに疑問を抱いていたとき、サウス・ウェスタン・バプテスト神学校に行って教会音楽ミニストリーを勉強するようにと私は神から導かれたと感じました。サウス・ウェスタン・バプテスト神学校で学んだときほど大きく目が開かれ、恵まれたことはありませんでした。私は教会音楽で奉仕をし、学校で何年も音楽を教えてきましたが、さらに学校で勉強できるほどの金銭的な蓄えはありませんでした。しかし、ミシシッピー・バプテスWMUが私に奨学金を出してくれ、クラスでピアノを教える教育助手としてSWBTSが私に奨学金を出してくれました。学生の大部分はピアノの垣根を越えることができなかった声楽専攻の学生でした。これは私にとって新しい経験でした。大部分が手の大きな男性だったので、1本の指で2つの音を出さないようにピアノを弾くことを教えるのに苦労しました。彼らの多くは、後にサザン・バプテスト教会の音楽ミニスターや、州の連盟の音楽セクレタリーや国外宣教師、サザン・バプテスト連盟の職員などになりました。何人かは後で私に連絡してきて、ピアノの試験に合格できたことを私に感謝してくれました。
素晴らしい教授が沢山おられ、私は教育助手として、彼らとよき友だち付き合いをさせていただきました。サウス・ウェスタンで過ごした月日は自分にとって最も幸せなときの一つでした。「我が主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることはなく、… あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け』と」(イザヤ書30章20、21節)。
I had great professors and as a teaching fellow had good fellowship with them as friends. My time at Southwestern was one of my happiest. “Though the Lord give you the bread of adversity and the water of affliction, yet your Teacher will not hide himself…and your ears shall hear a word behind you, saying, ‘This is the way, walk in it,’ when you turn to the right or when you turn to the left.” Isaiah 30:20-21
♪レニー・リノート (翻訳:宇賀治潔) #251 2016年5月6日
子どもの頃は、牧師の子だからということで、私は「悪い」ことができないでしょと友だちからよくからかわれました。私は腹が立って、あなたたちも同じでしょとやり返しました。彼らも執事の子だったからです。当時でさえ、私は牧師や牧師の家族は一般の人よりも良い人で、罪を犯すべきではないと教えられていたと思います。しかし、今回牧師に失望したという経験を通して、私は牧師も人間であって他の人と同じで罪を犯すのだということを知りました。また、神は弱くて罪深い人々をも使うということも学びました。神はダビデとソロモンを祝福して用いました。イエスもペテロを赦して用いました。失意の真っ只中にいたとき、状況を熟知していた執事が、私のためにその問題を教会に訴え出てあげようと言ってくれましたが、私は断りました。断ったのには理由がありました。その一週間前に、最近バプテスマを受けたばかりの年配の女性が事務所に来てその牧師のことを褒め称えたからです。私は彼女の信仰を台無しにしてはならないと考えました。執事には断った理由を明かしませんでした。このことがあっても、神はその牧師のミニストリーを祝福しました。(皮肉なことに、数年後、その牧師が音楽ミニスターを探しに神学校にやって来て私とのインタビューを願い出ました。)私は開いた最初のドアを選び、その教会を去って公立学校の音楽を数年間教えましたが、その「閉じたドア」を振り返ってばかりで、どうしても過去の痛みを忘れられませんでした。教会のスタッフとしてまた働きたい気持ちも消えてしまいました。しかし、神は不思議な方法で働かれます。どうしてそのような経緯になったのかは思い出せませんが、とくかく私が最も混乱し、神の召しに疑問を抱いていたとき、サウス・ウェスタン・バプテスト神学校に行って教会音楽ミニストリーを勉強するようにと私は神から導かれたと感じました。サウス・ウェスタン・バプテスト神学校で学んだときほど大きく目が開かれ、恵まれたことはありませんでした。私は教会音楽で奉仕をし、学校で何年も音楽を教えてきましたが、さらに学校で勉強できるほどの金銭的な蓄えはありませんでした。しかし、ミシシッピー・バプテスWMUが私に奨学金を出してくれ、クラスでピアノを教える教育助手としてSWBTSが私に奨学金を出してくれました。学生の大部分はピアノの垣根を越えることができなかった声楽専攻の学生でした。これは私にとって新しい経験でした。大部分が手の大きな男性だったので、1本の指で2つの音を出さないようにピアノを弾くことを教えるのに苦労しました。彼らの多くは、後にサザン・バプテスト教会の音楽ミニスターや、州の連盟の音楽セクレタリーや国外宣教師、サザン・バプテスト連盟の職員などになりました。何人かは後で私に連絡してきて、ピアノの試験に合格できたことを私に感謝してくれました。
素晴らしい教授が沢山おられ、私は教育助手として、彼らとよき友だち付き合いをさせていただきました。サウス・ウェスタンで過ごした月日は自分にとって最も幸せなときの一つでした。「我が主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることはなく、… あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け』と」(イザヤ書30章20、21節)。
meekmeek at 12:41│Comments(0)│レニー先生