2024年03月

凡庸

 「こころの玉手箱 編集者 都築 響一  追及される‟ふつう”への興味
 刑務所でつくる製品に興味を引かれたのは、その大半があまりにも凡庸だからだった。ふつう、商品というものは他と違うオリジナリティーが重要なわけだが、刑務所製品にはなんのオリジナリティーもデザイン的なひねりもない。ただのブリキバケツとか、ただの木製すのことかただの日用品が溢れている。あまりに普通すぎて街場の店では見つからない。そういうただの‟日常のかけら”を眺めているうちに、もっとも普通で、でもどこにもない、現代日本の暮らしの完璧なプレゼンテーションになるのではと思いついた。いまから十数年前、刑務所製品を管轄する矯正協会という組織にお願いして各地の刑務所内での作業の様子を取材、‟刑務所良品”という本にまとめることができた。刑務所製品は基本的に商売のためというよりも受刑者の教育―‟手に職をつけて送り出す”ためにつくられるので、オリジナリティーよりもむしろ応用が利く、‟ふつう”であることが重要になる。刑務所という非日常的な組織が生み出す、それは問答無用の日常世界であり、確信に満ちた‟平凡”という小さな幸福の象徴だ。‟ほかとちがうなにか”ではなく、‟いちばんほかといっしょでいちばんふつうのなにか”を一点の疑いもなしに、全国的スケールで、国を挙げて追求しつづける刑務所製品。デザインという言葉を使うのさえためらわれる膨大な日用品は、見方を変えれば、現代日本の生活空間をかたちづくる真の象徴でもある。意識高いデザイン・ミュージアムのひとたちには見えていないだろうが。昔ながらの木製救急箱は水戸刑務所製。ちなみに水戸刑務所は、‟犯罪傾向の進んだ成人男子受刑者で刑期10年未満の者”を収容する施設である。                                            水戸刑務所製の木製救急箱IMG_3630










                                              」

 遅れそうになって、タクシーに飛び乗った。‟外苑のフランフランの前を左に曲がって、スキーショップジローを右にそして、昔のフロラシオンの前で止めて下さい” ‟昔のことはわかりません”と運転手は言った。白髪頭で、私より年上に見えたのに・・・。昔のことはわかりませんときたかあ‼バレエ会議は朝9時からだった。わかりにくい場所だったから迷ったらいけないか。早めに出て、ひろくんと一緒に出掛けた。40分も前にたどりついたが、書類が無くて準備ができない。すでに早く着いている先生もいる。オフィスも連絡がつかないし・・・。焦っていると、‟社長、掃除のおばちゃんが、鍵を持っていて開けてくれましたあ”と宮本先生が声を掛けてくれた。ラッキー‼今日の参加者の先生は40人と聞いていたから、5列で8脚づつ、円型に椅子を並べた。テーブルはレクチャ円一つ。来賓用一つ、あとは、片付けやすいように、荷物置きを後ろに2〜3テーブルで準備完成‼よかった、間に合った。市川さんが紹介してくれた、解剖学の先生の講義はすごく参考になった。からだを支える骨盤と筋肉の話。続けて学んでいくことにしよう。
とり 2024.3.29 一時の栄華は一杯の酒の如く儚い。一瞬の栄華よりも平凡を大吉とすべし
   ※凡庸 すぐれた点がなく、平凡なこと。または、そういう人。

             


  

おかんアート

「こころの玉手箱  編集者  都築 響一
‟おかんアート”  の謎の魅力 バザーで買った毛糸で編まれた犬のペア 
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アートというジャンルにもいろいろあるけど、‟ おかんアート” という言葉はご存じだろうか。たとえば久しぶりに実家に帰ると、いつの間にか増えている ‟軍手のうさぎ” とか、喫茶店のカウンターにある ‟三角形の折り紙ブロックを組み合わせたツル” とか、ああいうやつです。どこにでもあって、だれからもリスペクトされることなく、作者本人もアートとは全く思わず、売ったり買ったりもできず、しかしもらえることはよくあり、しかももらってもそんなにうれしくないこともあり・・・  そういうのが  ‟おかんアート”  の真髄だ。地方出張の夜に立ち寄ったスナックのカウンター、商店街の信用金庫のショーウィンドウやたばこ屋のケース内、病院の待ち合い室、道の駅の隅っこ・・・  いろんな場所で出会うたびに、‟これって誰がつくって、どうして飾ってあるんだろう” と、深まるばかりの謎にすっかり取り憑かれて もう20年近く。写真はたしか、広島駅地下広場で開かれていたバザーで出会い、目が合った気がして連れ帰った犬のペア。バザーのテーブルに置かれたら ただの拙い手芸だけれど、これをすごくきちんと撮影して巨大なプリントにしたり、おしゃれなギャラリーで白い台に乗せて展示したりしたとたんに、深遠なコンセプトを秘めた現代美術作品に見えてきたりもする。作り手はなんにも考えていないのに、見る側が勝手にいろいろな意味を探したり・・・ そういう現代美術の虚しい深読みごっこを、この子たちは体現してくれている気もするのだった。」

ラ・トミオカのスタッフといっしょにチャコットへ出かけた。
バレリーナの創業の土屋徳四郎さん(現ボンジュバレリーナ顧問)と、チャコットの土屋まことさんは兄弟だった。
一方は倒産し、あとをメガブルーバードが引き継がせて頂いている。チャコットはオンワードの傘下になって、世界No.1のバレエショップになっている。
渋谷へは私はよくレオタードなどを買いに出かけていたが、代官山に移ってからは、まだ一度も伺ったことがなかった。
素敵なガラス張りで、ベランダが広くゆったりとしている。
カフェもあって、10%引きの券をいただいた。
ちょうど、トウシューズを履くと親指が痛かったのでトウパッド、それに普段使いができるジーンズを買った。
6月に、バレリーナバレエショップ&バレエスクール ララポート富士見店をオープンする。
それで、商品の品ぞろえなどを参考にさせてもらおうと思ったのだ。
春の日差しは暖かい。
ゆったりと、そしてゆっくりと新しいお店の準備に入ろう。 



ケハレ

 「ケハレ 料理研究家 土井 善晴

 ケ(日常)とハレ(非日常)にけじめをつければいいと思う。現在のケは仕事や学業に励む日。ハレは休日(楽しむ日)と考える。ケは心身を健やかに保つ古来の食事。ハレは一週間頑張った後のご褒美で楽しみを享受する食事。何をハレとするかは、それぞれの考えでよい。ケにも小さなハレと言うべき喜びが数々潜んでいる。淡々と時すぎる時、自然の移ろいや、親切に、気づき、心栄えする。気づきは知らせ、芝居で打つ拍子木だ。その人は、意図せず、周囲を明るく照らし、人を幸せにしている。美、喜び、哀れ、楽しみを、受け止めた心を、‟もののあはれ”と言う。ケとは大自然の営みで、ハレは人間が意図した行為。ハレ化した料理は、食材を混ぜ、味付けして美味を作る。‟それ以上”の〃努力による。それ以上は、喜びにもなり、苦しみにもなる。ケの一汁一菜は、有るものを、気ままにいただくところに喜びが生まれる。ケの人は、案外、積極的に食べている。ハレの食事は、より積極的な努力が要求される。ケ、ハレは日本だけではない。西洋の一汁一菜は、スープ、パン、チーズ。ケの慎ましい食事はあたりまえの普通のこと。」

 ‟ケとハレ、日常と非日常にけじめをつければいいと思う”たしかに・・・。3月の最後の週は、ケというより、ハレの連続だ。昨日はハレが午前中に4つもあった。私はオフィスを抜け出した。ケを求めて‼ハレは、ハレにはより一層の努力が必要だから。すっごくエネルギーを必要とする。私自身が消耗してしまわないように、雨の中エネルギー補給に出かけた。私にとってのケは、大切な自分をとりもどす儀式。たとえば、朝4時に起きてのベッドメイキング、シャワーでの温マッサージ、コーヒー豆をひく、まどかとのたわいもないおしゃべり・・・、もくもくとからだを動かすバレーレッスン。こうやって、私はハレに対して、からだを鍛え、心を整え、ハレにむかって自分を整備する。さてと、今日も大切なハレが朝から3つはいっている。よっしゃあ‼行くぞお。




 

教育

「十字路 金融教育の学びにルビを振る ニッセイアセットマネジメント社長 大関洋
学びには人生を変える力がある。また学ぶことで人生を変えられると知るだけで、人は希望を持つこともできる。以前国連の人権担当の方から聞いた話だが、女性の差別などで世界でも劣悪な状況にある国への取り組みで、最も効果的でインパクトがあったのは、経済支援ではなく、教育だったという。教育の機会を与えることが原動力になったというのだ。一方、世界には人々から教育の機会を奪い、現状の固定化をもくろむ為政者もいる。教育の力を認識しているがゆえの所業なのだろう。それでは、人の学びを促進するには何が効果的なのだろう。学ぼうとする人の本能を阻害するバリアを少なくすることではないか。よく学ぶ人は良い先生との出会いがある。良い先生とは知識を与えてくれる人とは限らない。学ぶことの楽しさを教えてくれること。自分の可能性を信じてくれることで、学ぶ気持ちを励ましてくれた人であることが多い。 」

今日から、英語の先生、バレエの先生が集まって会議が3日間続く。100人くらいは久しぶりに先生が集う。
今回私はどんなことを話すか決めていない。
いつもそういった場で話をする時は、前もって頭の中を整理する。そして、先生達にお願したいこと、あと会社の方向性、環境などをいれて、私の考えを短い時間でピンポイントに伝わるように準備する、のだが・・・。
思えばそうやって社長業を20年以上続けてきたのだが、一体どのくらいが先生達の心に入ってきたのか。とにかくやっと人々が集まることができた。
そして会議という一同に介する機会が生まれてきた。
いつもあちこちの教室で、それぞれが力を出して、指導を行っている。自分たちのやっている仕事の成果がしっかりと見れる先生もいるだろうけど、常にこれでいいのかという疑問や不安にさいなまれている先生もいるはずだ。
先生達が集まって、‟ あー元気、どう? ” と声をかけあう場ができることが、良かった。
さてと、話す内容は、もすこし、朝の満員電車に揺られながら現実化してゆこう。

ルルドの泉

「方舟を燃やす 角田 光代著 生きる確かさを求めて 評 重里 徹也(聖徳大特任教授・文芸評論家)

 私たち日本人はこの数十年、不安を抱き続けてきたのではなかったか。多くの情報に心を左右され、もてあそばれたのではなかったか。この長編小説を読みながら、そんなことを考えた。2人の主人公を交互に描く_。2人の人生とともに、この半世紀以上にわたる日本人の心模様が浮き彫りにされていく。寄る辺なく漂う私たち。この2人は様々な物語にさらされる。ノストラダムスの大予言、コックリさん、未来さん(未来から来たという人が情報を流す)、2000年問題(2000年を迎えた時にコンピューターが誤作動するという問題)、食品添加物、ワクチン禍。さらに自然災害が日本列島を襲い、原発が事故を起こし、新型ウイルスが蔓延し、貧困が社会問題になっていく。生きる確かさを無意識に求める2人が、子供食堂で出会うのが象徴的だ。不器用な2人が描く軌跡に、この数年を振り返りたくなった。」

 久しぶりにバーバのひとり自由な時間ができた。電車に乗って、多摩川を渡る。新丸子の商店街をぶらぶらと歩く。3人しか入れないパン屋さんの順番を待つ。焼きたてのぶどうパンを買う。丸子温泉の熱い42℃の黒湯につかる。2分も入れないくらいからだの皮膚が真っ赤になる。冷水シャワーを浴びる。ピリピリとからだが冷える。それを5回繰り返して、15分で湯ぶねから脱衣場で、ほーっと一息する。常に私たちを追い立てて、動かして、奪っていくものが、世の中の流れを作っている。流れに逆らって、取り残されて、ひとり、考える、自分と自分のからだに向き合う。銭湯は、バアさんになった私のルルドの泉だ‼ひからびた心とからだと、感性を、みずみずしく潤わせてくれる。


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