東京に出てきた頃、生粋の田舎者の私は、2回目の引越しで、モノレールから見える場所、田町へ移った。父はアパートの押しいれを改造して洋服ダンス、ドレッサーを作ってくれた!! 母に1万円札を渡したら、おいしいものを作ろうとはりきって買物に出かけた。
“シイ子、すっごいスーパーマーケットがあったよ!!”
母はカートを押して次から次へと食材を楽しそうに選んでいた。横文字の瓶に入ったソース、魚、肉、野菜・・・・。九州ではなかなか手に入らないものばかり。もちろんゆうに1万円は越えていいた。
兄ちゃんは、東京に来るたびに、その店でおいしいできたてのパンと木のケースに入ったクリームチーズとワインを買ってくる。ときには、それに加えて、茎がついたほしぶどう。
みんなで、ひとときの贅沢な食事を味わった。

忙しい中をぬって、社長がテープカットをして下さった。
ファサードには赤いバラのお花も届けられた。
日曜日、塾インターナショナルメガブルーバードの広尾店がオープンした。
不思議な縁を感じる。

母や兄ちゃんが、おいしい食卓を、東京へ来るたびに作ってくれた。
その食材を買い求めた店に、15年の歳月が流れ、たどり着いた。

「精進 森田真生
広島市内にある普門寺で、午前中に精進料理の作法を学び、午後に数学を学ぶというちょっと変わったイベントがあった。精進料理と数学がどう繋がるのか。精進料理の作法、“丁寧に食べる”という習慣をつくることが、“そのまま丁寧に考える”ことに直結するのだと気付いて腑に落ちた。
守るべき作法の一つ一つはシンプルである。食事中にしゃべらない、箸や器を両手で扱う、口に食べ物を入れている間は手を膝の上に置く。 こうした作法を守っていると、自然と食事中の意識は、“いま、ここ”に集まってくる。
誰かとしゃべりながら、あるいはテレビを見ながら、普段はいかに、“こころ、ここにあらず”の状態で食事をしているのか、作法に則った食事をしてみると、改めて気付く。
“心ここにあらず”なのは、食事の時だけではない。
明日の心配や、昨日の不安など、頭の中はいつも忙しない。一つの思考を咀嚼し終わる前に、また別の思考を始めてしまう。口の中で料理をごちゃ混ぜにしているのと同じように、頭の中も無数の雑念で混乱していく。
“食べる”という行為は、あらゆる生物に共通する。原初的な活動である。この時点で身に着いてしまった癖は、より高度な認識活動にも影響を与える。食べるときから混乱している人が、どうして思考するときだけ整然としていられるだろうか。
目の前のことに一つ一つ丁寧に向き合う、その習慣を“食べる”という活動の段階から身につけてしまうのである。
どれほど抽象的で高度な思考も、すべては生物としての私たちの身体に根ざしたものである。だからこそ、姿勢や呼吸、食事など、すべて日常における人の“在り方”は、その人の思考の広がりや深さを制約している。
今や、コンビニに出かければ、出来合いの食事が簡単に手に入ってしまう時代だ。食材の調達も、調理も、後片付けも、人に任せて、下手をすれば、ただ“腹を満たす”だけが食事になった。効率を求めるあまり、人が自分の“在り方”と向き合う時間は、削られていく。逆に日常のどんな些細な行為も、それを自らの“在り方”と向き合うチャンスと捉えられれば、“精進”となる。 独立研究者」

木の箱に入ったクリームチーズを手に取る。
今でも、この店には、売られている。 チーズがたくさんある中で、私は兄ちゃんがお土産にもってきてくれたそのチーズは、どんなにか食べたくても自分では買わなかった。
白いカビで覆われた中に、甘酸っぱいふんわりとした味が独特のツーンとする香りに・・・・。
“ほら、あの店にオープンしたんだよ。すっごくきれいなお店だよ。”
口にしなくても、心にはしっかり刻まれた味がある。
そして心の会話は続いていく。