「恋というものが、一番尊いと思っている年代の人たちがいる。それは70年代に青春を過ごした人たちのことである。時代は、ラブ・アンド・ピースであった。特に女子の買うバレンタインデーチョコや、男子がデートに誘うために買う車、クリスマスや誕生日のたびひ贈られる有名ブランドのアクセサリー。スキーやテニスで泊まるケーキみたいな外観のペンションと、恋愛はとにかくお金のかかるものだった。
つまり、大変贅沢なものだったのである。そういう贅沢をさせてもらって、ようやく女子は結婚に踏み切る。という儀式のようなものがあった。つまり、女の子は自分にいくらの値段がつくのか試したいのである。その実績を思い出として携え、家事、育児、介護という主婦としての労働が待つ結婚生活へと突入していくのである。
OLをしているとき、お弁当を食べながら、絶対に売春なんてイヤダヨねえという話になった。30万円でもイヤだよ、いやいや百万円でもイヤだわ。じゃあいくらならやるのよ、という話になった。2千万円でもねえと同僚はしぶる。誰かが家を買ってくれたらいいんじゃないのと言い、そこにいる者は、家だったらねえと同意した。当時、一戸建ての家は相当な値段だった。でも、それって結婚なんじゃないのと誰かがつぶやいた。そこにいた全員がはっとした顔になって、その後暗い顔で息を吐き出すように “そうだよねぇ” とつぶやいた。
すでに当時から、結婚は若者にとってリスキーなものだった。そのことをしばし忘れさせ、現実を甘くくるんでくれるものが恋愛だったのだと思う。その甘くくるむものの正体は、自分につく値段である。仕事や家庭でさんざん価値のないと言われ続けている人が、恋愛をすると自分に価値があると認めてもらったような気がする。
結婚前、高い値段がついていた自分自身をもう一度確認したくて、主婦が不倫に走るのだとすると、ちょっと切ない。それは今の生活を不幸だと思っているからに他ならないからだ。
昔、つぶれそうなレンタルビデオ屋さんの店頭のワゴンにアダルトビデオが二束三文で売られているのを見て、ついにセックスの値段はここまで落ちたのだと思い、“やった” と私は叫んだ。
このまま、タダになってしまえばいい、そう思ったのである。そもそも、なぜ自分のセックスに値段がついているのだろう。せめてそれぐらいは売り買いできない、自分自身のものであって欲しいと私は願う。高価そうなものをちらつかせ、あるいはスカートの下をちらつかせながら、あなたにはそれだけの価値があると言って近づいてくる異性がいたら要注意である。私たちはタダであることを思いだそう。道に落ちている子猫と同じで、何の価値もないんですと言おう。ご冗談でしょうと笑い飛ばして、自分自身のものにしておこう。」  プロムナード 私たちはタダである  木皿 泉

結婚はリスキーかあ。たしかに!! 一人の男に一生縛られるとしたら・・・・、でもお互いにともに成長できる相手だとOKだけど。それに私はタダである。タダである自分に女たちはいつもたくさんのお金をかけて少しでも価値を上げようと必死だ。新聞の折込には、シワとり、美白・・・・ いくつになっても女性の悩みは、自分をより美しく若くみせたい。
待てよ。私はいつから、この負のループから抜け出したんだろう。自分が相手に対して高価で取引してもらいたい!!という気持ち、ちょっと思い出せない。というか、市場では売り手と買い手がいて、買う方の立場だと、いいものを安く買いたい。そして売る方の立場は、より高く売りたい。自分はタダだから、というのは、売る方の立場、もし買う方の立場だと、タダほど恐いものはない!!
それにしても私は60才。もう自分を売ったり買ったりしなくていい、自由人だ。呪縛から解き放たれて、自分を売らなくていいし、自分の価値をそれでも高くすることが自然に好きになった。
“クリスマスパーティで、ジルバかルンバまたは今振付けてるダンスで踊ってみる?”
“でも、今の振り付けのダンスだと、11月は特別レッスンしないとネ”
“パーティは楽しみだから、ジルバかルンバで”
“じゃあ、レッスン費用は僕のパートナー代が・・・・”
先生は鉛筆でパンフレットに数字を書きいれようとする。
何だろう。若いカッコイイ先生と、身体をフィットさせて、汗をかき踊っても、6ヶ月もすると、ドキドキがしなくなった。これでダンスに専念できる。そうか。私は買う方の立場になったのか?