旅行中にハチのキキがなくなっていた。おかげでハチをゲイジから出しても、キキとの自由行動ができなくて、私にまとわりついてくる。ハチのつめで私の背中は傷だらけ・・・・。私のブログタイムも、“羽そうじしてー”って 甘えてくるから、右手をハチにとられて、なかなか進まない。
何とかしなくては。ハチのキキは、ハチが子供の頃に練りえさをすり切り一杯計る特別な軽量スプーン。ずーっとハチといっしょだった。お世話係さん、なんとかして下さーい。


「経済苦
失業者が町にあふれた。それだけではない。兵士たちが、海外から戻ってきた。200万を超す兵士たちである。その兵士たちにも、仕事を与えなければならないのだ。そこで鉄兜を鍋に改造する仕事や、手作りの電球作りや、サメ皮での靴作りといった手仕事に毛の生えた仕事が、日本各地で始まったのである。他に仕事らしい仕事と言えば、占領軍(アメリカ、イギリス軍など)の基地の労役だった。基地は、日本各地にあり、東京にも品川や恵比寿にも作られた。大人も子供も、基地に働きに行ったのである。その中で、一番人気があったのはアメリカ軍の基地だった。何しろ、アメリカ軍基地には、何でもあった。それも豊富にである。とにかく、私たちは飢えていた。終戦の時、1945年(昭和20年)は、米は不作だった。そのため配給は減り、配給だけでは、餓死するだろうと言われた。そのため都市住民は、農家に行き、主としてサツマイモを売ってもらった。私も、父と一緒に埼玉県の農家に買い出しに行った。農民が都市住民に対して優位に立ったのは、この時が初めてだったと言われる。お金で売る気はないと言われたり、着物を持って行って、これでサツマイモを頼んでも、もう着物は何十着も手に入ったと嫌味を言われたりした。その上配給以外で食糧を手に入れるのは法律違反だから警官に見つかれば没収されてしまう。赤羽駅で警察の検問にぶつかり、父と一緒に必死で逃げたこともあった。法律違反を取り締まるのは、おかしいと言う人もいた。配給だけで生活をしていた裁判官が栄養失調で死亡したことは、大きな問題となった。  この道  西村京太郎 」

昭和20年だから、私はまだまだ生まれていない。けど父、母の時代だから・・・・、そこまで遠くはない。この時代を知る人は多い。しかもそこから、今のような生活レベルまで日本が経済発展するのには時間も経過しているから・・・・。私の記憶の中、私の子供のころも、貧しかった。だけど、今より、食事はすっごくおいしかった。炊飯器、洗濯機、掃除機、冷暖房と、快適製品が日常になるまでには、私の大学時代までかかった。魚は父がつりによく出かけて、新鮮な釣れたてを母が出刃包丁でさばいた。刺し身、煮魚、あらはみそ汁に、捨てるところがないくらいにきれいになくなった。お米のご飯は、釜のふちについたおこげが香ばしくっておいしい。大根は青々とした葉っぱは塩もみでお漬物と、みそ汁の具に。大根の皮も短冊に刻まれて、鰹節と一品で出てくる。頭を使い、手、足を使い、工夫して、時間と体力は必要だけど、しっかりとした生活があった。
この年になって、前へ前へ進んでいく動きに加え、少しだけ過去のページを振り返っていく。
じいちゃんの50回忌法要に、妹のみきが私たちの子供の頃の写真を持ってきて、親戚の人たちで見ていた。
“ワァー、しいちゃんと、ももちゃんと、おばちゃんは同じ顔ねえ”
しいちゃんは私。
遺伝の種は、過去から未来に向かって、ずーっと続いている。