東京駅始発6:00、品川駅始発6:00。同じ時刻に発車するが、新大阪到着は品川発が6分早い。ということで、東京駅からではなく品川から乗ることにした。品川駅には思ったより早く5時10分に着いた。
途中、六本木、麻布を通って品川へ向かったが、まだ夜が明けきらない。カップルや若者たちが、暗い街中を千鳥足で歩いている。そして品川駅は、工事の赤いライトが ぐるりと取り囲み、人っ子一人見えない。どこが駅で、どこから入るのか、もう朝の5時過ぎなのに、コンクリートのビルは冷たく、ぞっと冷える。歩道を渡り、2階へ移動し、だだっ広い港南口新幹線乗り場はシャッターが下り、切符さえも買えない。まるで、大きな大きな防空壕の中に、まばらな人がマスク姿で息をしている。
あーよかった。ズックを履いてきて。何かが起こればバッグを肩ベルトに変えて、両手を振り、俊足で駆け抜ける自信はあった。5時30分にシャッターが開き電気がつく。3月最後の三連休にガラガラの新幹線のぞみは、定刻通り6時に発車した。私は待ち合わせの新阪急喫茶店、8時38分に着いて、早速ズックをヒールに履き替えた。
さあ、今日はどんなオーナーとお会いできるのかしら。楽しみだ。

「ロヒンギャ難民
当時ラカイン地方に住むロヒンギャの人々は約30万人が隣国のバングラデシュに逃れていたが、やや状況も落ち着き始めていた。1990年代、私がUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)時代、元の居住地に帰還するプロセスが進行しつつあった。
様子を見てきなさいとの緒方貞子弁務官の指示で、二人で現地に赴いた。ロヒンギャ難民は、ミャンマーにおいては市民権を認められていない。衝突が生じて大量の難民が流出していた。そしてラカイン州内にロヒンギャ難民が住む地域は、“貧国の中の貧国”と言われ、その生活は苦難に満ちていた。ラカイン州現地で難民と食住を共にしながら働いた。現地出発前日の夜半、サイクロンが近づいてきており、早く出発しないと帰れなくなると知らされた。急遽暗闇の中、小さな船で大河を航行することになった。暴風雨が襲来し、水でいっぱいの船は、沈没寸前となり、水をかきだし泳ぐこととなった。一瞬終わりかと覚悟したが、後続の船が救助してくれた。やっとたどり着いた空港で飛行機は飛んでおらず、屋外でぬれた着物や書類を乾かしながら、一人三役で寸劇(難民、政府、UNHCR)の役を行って時を過ごした。緒方先生に報告したら、“あらまあ大変でしたネ”と笑われた。難民仕事の世界ではそれは日常のことだったのである。  日本国際問題研究所理事長 佐々江賢一郎 」

教授は言った。“アメリカに住む娘が今大変なことになっている”と。“スーパーの棚からはトイレットペーパーどころでなく、食料も消えてしまった”らしいです。私は続けた。“それに銃がすっごく売れているらしいですよ。” “あの国には、保険制度もないから、コロナにかかっても治療してもらえないし、死者もたくさん出るんじゃないかな。銃で強奪すらも起きかねないですよね。”
・・・・・・、あーそれに、そんな状況で、フードスタンプ(生活保護のかわりにスーパーのチケットを渡す仕組み)もどうなるんだろうか!?
日本では、そろそろ、動きだしつつあるが・・・・。株は下がり、マスクとトイレットペーパーはまだ、手元にはない。だけどこの生活に慣れつつある。だが世界を見ると、もっとひどいことになっているのだろうか。確実に不況の足音が、失われた10年、20年、そしてデフレの経済にのしかかってくる。
私は昭和の人間だから、物がなく、食べものも分け合い、寒い冬をおしくらまんじゅうでしのいだ日々が、遠い遠い子供の記憶にある。足はシモヤケに、靴下やズボンの膝やらには、繕いがあった。青ばなをたらした、いがぐり頭の子もいたし・・・・。そんな時代が日本に戻ってくるのかも・・・・・わからないけど、だけど私はそこまで不安ではない。あの頃 私の周りでは、心が物やお金の代わりに、大きく明るく赤々と燃えていた。
コロナではバラバラに1mに、手を伸ばしても遠い人が、おじさんもおばさんも、じーもばーも、父も母も、従妹たちみーんな、そばにいて、あたため合っていた。
人は、どんな状況も乗り越えていけるだろう。
勇気と希望を道連れにして。