アカサカのオフィス並びにある串揚げ屋で、太田しゃんとフーとシーとオーとドロシーで夕食をした。
私は生ビール小をガンガン飲んで酔っ払い!!饒舌になった。
しゃべりだしたら止まらない。そんな私は、あとで墓穴を掘ったなあと次の日少しだけ反省する。
カーからメイルがきていた、小池都知事が 週末は不要不急の外出を避けて下さい・・・・ と。
急に酔っぱらいたくなったのは、立ち上げたばかりの若い社長に会って話をしたから。私も45歳で東京にでてきて いきなり社長となった。右も左もわからない経営という仕事。その頃の私は、B/S、P/Lが読めなかった。もちろんキャッシュフローも!?!
そんな私が社長になったから、毎月500万の赤字が私に襲いかかってきた。金策のために右往左往した。どこも3期分の決算書を持ってこないと、門前払いだった。周りでは、いつつぶれるか時間の問題だと言われていた。創業して7割以上の会社が3年以内につぶれるという。とくにこのコロナの影響が、若い会社を襲う!!
“ハアー” なんとか生きのびてほしい。
まずこの関門をくぐり抜ければ、その先は新しい新天地が開けてくるから。
とにかく今は、ビジネスにとって、不要不急は避けましょう、というより、打てるだけの全ての可能性にかけましょう と言いたい。
私が操業間もない時、100人乗りの船に200人が乗って、せえのよいしょおと、初めは100人がジャンプして次に残りの100人がジャンプしてと、着地しているのは100人だから沈まない!! 
みたいに、ジャンプジャンプジャンプジャンプ・・・・・・と力の限り飛び続けた。
そんなハチャメチャの経営で嵐を乗り越えてきたなあ。
と、ついビールを飲み過ぎた。

「レコード会社のゴミ箱の中に、歌詞が捨てられていた。それを見かけた女性が拾い上げ、読んだところ、かわいそうな戦災孤児の歌だった。これをどうしても歌いたい。そしてヒットした。“ガード下の靴みがき” 1955年。ゴミ箱の曲を拾い育てた人が亡くなった。宮城まり子さん93歳。誰も気に留めなかった存在に手を差し伸べる。からだの不自由な子どもたちの養護施設“ねむの木学園”を設立したのは、障害者というだけで教育が受けられない当時の現実。そして自身が子ども時代に体験した悲しみがある.
弟とこんな約束をしていたそうだ。“泣いている子にやさしくしようね” それが学園となった。当初は俳優の道楽とみられ、苦労の連続だった、汚物の付いた何十枚もの下着を泣きながら洗った。干し終えたとたん、ロープが外れて全部落ちた。“神様、私はうそつきです。やさしくなんかありません。” 逃げだしたくなる日もあったという。子供たちにはこう教え続けた。“やさしくね、やさしくね、やさしいことは強いのよ。” “やさしくしようね”から逃げなかった強い人が旅だった。  2020.3.24   」

思えば、東京でビジネスをしながら私がここまで生きのびてきたのは・・・・・・。
奇跡の連続。そしてやさしい人たちに囲まれていたから。
若い社長たちに、
“必ず道は開けてくる!! 信じて、突き進もう”
いっしょに、子供達の未来のために、力を合わせましょう。と言いたい。