待ちに待った日曜日。
いつもの水シャワーを浴びる。まんまんちゃん(仏壇)にコーヒーをあげて、おさがりを頂く。
今日はボタもち(おはぎ)
DSC_0420















“福島屋のおはぎすっごくおいしいんだ”
“いつもグレースと1個づつ分けて、ペロリと食べちゃう”
ヘエー!?! まどかって、チョコレートやケーキやらが大好きだったけど、おはぎ!? 
まあ、あずきは女の人の体にはいいしなあと考えていた。
そして、まんまんちゃんに手を合わせて、お供え物のボタモチをおさがりで頂くとき・・・・・・、ふっと義理の父のことを思い出した。
そうかあ。義理の父の大好物がおはぎだった!!
戦争が終わり、満州から引き揚げてきた時、日本には何にもなく焼け野原で、それでも義理の母が甘くおいしいボタモチをたっぷりと父につくってくれた話を、何度も何度も聞いていた。
そういうことかあ、と 一人納得して、血のつながりの不思議さを思う。

「札束偏愛論  美術家 森本泰昌
先日ゆえあって知人から “あなたにとってお金とは何ですか?” と問われ、子どもの頃を思い出した。当時の私にとってお金とは “札束” のことだった。本物ではない。マンガ本や適度な大きさに切った新聞紙を札束に見立て、ひとりで遊んでいた。怪盗ごっこが多かった。銀行の金庫からまんまと大量の札束を盗み出し、秘密の洞窟に隠し持つという妄想を楽しんでいた。大富豪や企業家に憧れていたわけではなかった。一枚一枚はただの紙きれなのに、束ねて帯で巻かれると俄然輝きが増してくる。そんな札束という存在の在り方そのものに、なぜか惹きつけられたのだ。大人になってもこの偏愛は変わらなかった。お札とは単なる紙切れではない。表面に画像のイメージが描かれている。昔の子供は札の絵柄から、聖徳太子の存在を知った。お札は肖像や風景が描かれた、まさに絵画表現そのものなのである。しかし言うまでもなく、お札の時代は終わろうとしている。キャッシュレスが推奨され、紙モノは時代遅れとなり、今や空中を飛び交うのは札束ではない。電子マネーと呼ばれる目に見えないデータ世界である。札束という画像イメージの集積に惹かれた私は、結局その後美術というイメージを扱う職業を生業とすることになった。そんな私の自慢は、幼少期の妄想が作り上げた秘密の洞窟に今でも容易に立ち戻ることができるということ。しかも洞窟の奥では、例の紙モノの束が変わらず輝き続けている。時代が変化しても、私の出発点にある宝物は揺らぎない。それが私にはちょっと、いやかなり嬉しい。 」

いい文章だ。子供心の洞窟の奥に隠された秘宝が美術家の原点。
そういえば、私も最初に社長に目覚めた、いやビジネスに目覚めたのは、2つの記憶。
紙芝居屋の仕事が好きで好きで、おじさんの手伝いをして笛を鳴らして、子供達を呼ぶおじさんから、“しいこ人の笛を吹くな” と叱られた。
あと一つは、実家の倉庫にしまってあったお宝の、黄金色に輝く銅板をもらって取引をしたこと。
ある意味、実体経済と、先物取引を始めていたんだ。
楽しかった。