「こころの玉手箱  キタムラ社長 北村宏
ハマトラシューズ巻き起こす
欧州視察を経た1970年代初め、キタムラのオリジナルバッグを作ろうとし決意した。日本ではハンドバッグは黒か茶色しかなかった時代。カラフルでワクワクするバッグを世に出したかった。‟皮をピンクや黄色に染めてほしい”と東京・浅草の皮革業者に頼んだが、誰も相手にしてくれない。日本にない新しいバッグを作る夢を語って回った。2軒の皮革業者が興味を持ってくれた。ただ、皮に色を染めるのは、1、2枚では引き受けてくれない。最低でも100枚。‟現金で全部買い取る” と約束し、銀行に頭を下げて現金を融通してもらった。色彩鮮やかで、デザインを何百枚も描いて、‟K”の字のロゴをつけた。お客様はかわいいものを渇望していて、感激された。70年代後半、地元の女子大学生は、元町商店街の ‟ミハマ” の履きやす靴、‟フクゾー” のカジュアルなシャツ、‟キタムラ” のハンドバッグを身につけていた。ファッション雑誌が特集しハマトラ(横浜トラディショナル)ブームがやって来た。バッグは飛ぶように売れ、やることなすこと当たって有頂天だった。そんな時、危機感が芽生えた出来事があった。米国のSF映画 ‟スター・ウォーズ” が78年に大ヒットした。映画館で見ていたらあることに気付いた。‟あ、誰もハンドバッグ持っていない” 近未来はハンドバッグはなくなるかもしれない。洋服、シューズとファッション全般に業態を広げた。新しいことに挑戦をするという変わらぬ思いを持ちつつ、やり方は変えていくのが商売だと気づいた。」
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朝は、CDの十人十色3枚目を聴く。夜は安達祐実の ‟家なき子” を見る。
すっかり昭和にひたっていると・・・ 世の中はすっかり様変わりした、そしてまだまだ変化は続いている。
‟すごいわ!! 出店、出店で忙しいなんて!!”
真知子さんが言う。 ‟だって私が行っている武蔵小杉のグランベリーモールだって、次々とお店が閉まっているのよ” と、雑貨屋さんやら洋服屋さん、お菓子のお店など名前をあげた。
確かに、ショッピングモールのデベロッパーから次々と出店依頼がやってくるのは、空区間がけっこうあるということだろう。日本の人口が減っていき高齢化が進んでゆくなかで、消費意欲は縮んでいるから・・・ お店を出すのも大変な時代となっている。
ただビジネスにとっては、現状維持というのは一番難しい。
後退するか、前進するか、どちらかに動くほうが、私はやりやすいと考える。
どちらにしてもスピードが問題を小さくしてくれる。
そして、たくさんの選択肢を想像すること。