2005年04月15日

2004年春・・・ 明路さんからのお便りに、予防医学研究会のスタッフ一同が感動 この感動と涙とあなたへ・・・



「エアロビクスで健康、長生き。メイジさんのお便りをあなたへも・・・」 

伊丹市 明路英雄様の前向き人生の秘密


予防医学研究会発足、ホームページの立ち上げにあたり、
この方の人生を皆さんにもお伝えしたい!
私の頭に何人かのすばらしい方々の顔が浮かんでいました。

そのうちの一人、明路 英雄さん(伊丹市)を研究会のホームページで皆様へご紹介できることを、心からうれしく思い、大きな感謝の気持ちでいっぱいです。

90年代、私がアメリカと日本を行き来し、フィットネスのインストラクターをしていた頃、エアロビクスを教える業界にいて、この方を知らない人はいない・・・といわれるくらい、有名な一人の男性がいました。

それが、明路 英雄さんです。

幾度にも及ぶ大手術から、エアロビクスを通して何度も生き返り、今もますますお元気に人生をすごされていらっしゃいます。

日本のフィットネス業界のニュースのメールやご旅行先からのポストカード、本当に日本を離れた私にとって、彼からのまめなお便りが、どんなにこちらでの生活を元気づけてくださったことか・・・。尊敬する、人生の先輩です。 

「明路さん、アメリカに住む日本人の方のために、予防医学研究会という団体をつくり、ホームページを立ち上げます。病気にならない身体づくりにも、エアロビクスや運動が本当に重要ですが、その辺のお話を、今までの貴重な経験からメッセージをしていただけませんか?」

こんな私に次のようなお返事が来ました。


敏江 先生

お久しぶりです。今日はとても暖かくなり、桜も咲き始めました。一昨日 阪大病院の検査結果を聞きに行きましたが、主治医の先生が急用で 代わりの若い先生でしたが 私のカルテを最初から目を通され 私の病歴をご覧になり ビックリされていました。

お申し越しの件ですが 私は 自分がだらしないから こんな病気になったので 恥の上塗りをしたくないと考えています。しかし 私の体験談が 皆さんの励みになるようでしたら 敏江先生のご指示ですので これから少しずつ報告します。でも どうなるか自信はありません。

一応 先生の このアドレスに 少しずつ送信しますので 適当に処理 お願いします。では また後で。

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そして、その次の日から明路さんからの、お元気メールが毎日届くようになりました。毎日一時間、私たちのために彼の貴重なお時間をわけてくださり、体験談をつづって頂いています。

日本のドラマを見ているように・・・。毎日のお便りを楽しみにする私がいました。

「エアロビクスで健康、長生き。メイジさんのお便りをあなたへも・・・」のコーナーで、ご紹介させていただきます。

明路さん、本当にありがとうございます・・・ 

研究会代表 藤原敏江



3月28日 第一信「プロフィール」

みなさん こんにちは。始めまして。
私は 1939年 大阪市生まれの 64才で 1999年秋に定年退職して 現在は 兵庫県・伊丹市に 妻と二人で暮らしています。

縁あって 藤原敏江先生とは 東京で エイズ撲滅のチャリティーイベントの エアロビクス大会に参加するようになって 知り合い 今も仲良くして頂いています。

今回 先生の運営されている「予防医学」に お便りさせて頂くことになりました。私の経験が 少しでも 皆様の お役に立てればと思います。

先ずは 私の病歴からお話します。

中学生の頃は 大変な肥満児で 運動が苦手で 病気もよくしていました。高校に入り ラグビーを始めましたが 三年生の時 結核性リンパ線炎(いわゆる瘰癧)になり 半年間 首に 放射線を当てる治療を続けました。今から 振り返ると これが
私が ガンと付き合うようになった原因かも知れません。

新婚二ヶ月で 広島へ転勤となり 1971年 首筋に 小さなしこりを感じるようになり それが半年位の間に パチンコ玉から ラムネ玉 そしてピンポン玉へと大きくなり 肩がこるようになり ついに右腕が痛くて 動かなくなりました。

72年 お正月明けに 広島大学原爆放射能研究所 付属臨床外科へ入院し そこで「甲状腺ガン」と診断され切除手術を受けました。広島へ転勤したことが幸いでした。

その病院で 大勢の原爆被害の後遺症で苦しむ患者さんと 出逢ったことが 私の現在の反戦平和活動の原点の一つです。

翌 72年に 大量の下血があり 検査で大腸ガンの疑いありと診断され 手術を受けましたが 開けて見ると 重度の痔ろうで血の塊が 直腸の壁を突き破って出血していたのです。

先祖代々 我が家は 大痔主だったのです。

その後 名古屋 仙台 東京 仙台と 転勤して 仕事を楽しんでいました。高度成長の真っ最中で 接待も仕事の内で 日曜日はゴルフ 毎晩 はしご酒の生活でしたが 疲れも感じなかったのは 若かったせいでしょう。91年 三年間の仙チョン族
を終えて 東京へ戻り 会社の健康診断のエコー検査で 肝臓に怪しい影があるので 精密検査を受けるよう指示され 大宮日赤病院で CT検査を受けました。

そこで「かなり進行した、肝臓ガン」と宣告を受けました。当時は ガンの中でも 肝臓ガンは 一番治癒が難しく 五年後生存率は 一桁という状況でした。主治医も「手術しなければ あと三ヶ月の命」と言われ 絶望のどん底となり毎日 ベッドで ふとんを被って 涙を流していた時 隣のベッドのおじさんに
ふとんを剥がれ

「メイジさん。泣いてばかりじゃ ガンと戦えないぞ」と一喝されました。

「こんな病気になつたのは 他人は誰も悪くない。全て 自分が悪いのだ。 だけど なつてしまつたことは もう仕方がない。諦めずに 一緒にガンと戦おう。」と励まされました。

そのおじさんは 私より5才年上ですが その後も何度も手術されていますが 今も元気で 世界の山々へ出かけて楽しんでおられます。

ご存知の通り 肝臓は 毛細血管が大変入り組んだ組織でその手術は大変細かい処置が必要です。14時間に及んだ手術のことは記憶にもありません。術後3日間 ICU 集中治療室で 昏睡を続け 家族は やはりだめだつたかと 一時諦めたようです。

しかし幸いにも助かり 手術から40日に 二人の息子に肩を貸
して貰って退院しました。私の肝臓ガンは C型肝炎ウィールスによるものでした。

終戦直後の 学校での予防注射の廻し打ちなどで この世代の人には C型肝炎が多いようです。このウィールスを治療するのに丁度 インターフェロンが開発され臨床試験が始まりました。主治医の勧めで それを受けることになりました。

今でこそ インターフェロンは 副作用も殆どありませんが 当時は 大変つらい治療でした。1ccの筋肉注射をする前に 解熱用の注射と 座薬を入れます。

注射をして 30分も経つと 40度の発熱が始まり 全身痙攣が起こって 半日位続きます。一週間に二回 1クール 50本でしたが 食欲もなくなり 最後は 16kgも体重が落ちて 一人で ベッドから降りる力もなくなりました。50本が終
わっても 芳しい改善が見られず 主治医は もう1クールと勧めましたが 私はもう気力を無くし どうせ死ぬなら 一度自宅へ帰りたいと考え 退院させて貰いました。自宅でも トイレへ行くのは 這っていく始末でしたが 一ヶ月も経ったころ
自分で 何か身体が シャキッとするのを感じました。

一週間に一回 通院して 血液検査を受けていましたが その頃から 急激に 肝炎ウィールスが減少し始めて二ヶ月で完全に消えてしまいました。主治医も その効果を喜んで 「もう君に使う薬はない。でも 君のガンは 将来 また再発する可能性が高い。あとは 自分で身体を鍛えなさい。」と 以前から一緒していた スポーツクラブへ同行して下さり お腹の傷跡を見て断るマネージャーを説得して下さり 傷を隠すワンピースの水着を着用することを 条件にプールへ復帰し 毎日少しずつ 前に向かってトレーニングを再開しました。 (続く)

これで 一時間 これ位のペースで 頑張って見ますので よろしく。

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3月29日 第二信

桜の花が 満開となりました。甲子園の センバツ高校野球も ベスト8をかけての激突で 春たけなわです。今日は 少し花曇りの朝です。

第二信

プールに入る前に 鏡に写る 自分の姿は当に「骨皮筋衛門」 本当に 社会復帰できるのかと 不安でした。でも 私がプールに復帰したことを スタジオのエアロビクスの先生や仲間がとても喜んでくださり 応援して下さる暖かいものを感じ、必ずスタジオに戻ろうと決心し、毎日、黙々と歩きました。

身体を動かすとお腹が空いてくる。食欲が出て来ました。そして心地よい疲れで 夜もぐっすりと眠れるようになり、生活にリズムが戻りました。夕方 涼しくなると、妻が「お父さん。行くよ。」と自転車を連ねて 浦和から 大宮市内の社寺めぐりをして 感謝の気持ちで 手を合わせることも続けました。

少し体重も戻り 体力もついたので 一年ぶりに 会社に復帰すると同時に 待望のエアロビクススタジオにも 復帰することが出来ました。大宮日赤の看護婦さんも誘って 

チーム「Step by Step」を作り 東京や横浜まで 30人を超える大所帯で 大会に参加するようになり、この頃に
藤原敏江先生との出逢いを頂いたように記憶しています。

91年の入院で あと三ヶ月と宣告を受けた時、一番反省したことは 何故 こんなになるまで大酒を飲んだのかと言うことでした。これも 前述の先輩から「メイジさん。お酒も 仕事のうちと言うけれど もう一杯とさされた盃を 口へ運んだのは、自分のその手じゃないか。もう 他人のせいにするのは止めよう。」と 諭されて二度と お酒は飲まないと決心しました。妻は「本当に 飲まないのね。」と念押しし、家中にあつた ウィスキーや ブランデーのボトルの封を切り 流し台へ流してしまいました。

「ちょっと待って。その一番上等のブランデー、一本だけは残し
ておいて。」と頼みました。死ぬまで 一生絶対に飲まない代わりに もし ご臨終の時には このブランデーを口にねじ込んで
飲ませて欲しいと約束しています。

このボトルは その後の入院の時には 必ず持参しています。まさか 病室に置いておく訳には行かないので入院したら すぐ 婦長さんに預けて「万が一の時はお願いします。」とそんな話はその日のうちに 病棟の皆さんに 聞こえてしまうので 仲間作りに役立つようになりました。

アルコールは 肝臓に良くないのは当然ですが 私はこんな大変な苦労をして助けて下さった医師団や看護婦さんたち、それに 私以上に 悩み苦しんだ 妻や息子たち そして応援して下さった沢山の友人を 裏切るようなことは絶対にしないと決めたのです。以来 13年間 宴席でも 私の席には ウーロン茶のボトルが 当然のように置かれるようになり また 周囲は誰も気にされなくなり 助かっています。

話が少し横道へそれましたが。毎月一回 大宮日赤で血液検査 半年に一回 エコー検査 年に一回 CT検査を続けながら 仕事と エアロビクスを楽しんでいました。この間二回、通勤の途中で 急にお腹が痛くなり 脂汗がにじんで我慢できなくなり 救急車で入院しました。やはり お腹の大きな手術を受けると 腸閉塞はよく起こるようです。いづれも 抗生物質の点滴を受けて 一週間位で退院しました。

95年7月に 血液検査で 腫瘍マーカーに異常値がでました。肝臓のCTでも 再発は見つかりません。自覚症状のないのが ガンの一番厄介なところです。ところが朝 ひげを剃っていたら右の首筋に 小豆大のしこりがあるのに気づき すぐ入院しましたが 「開けて見ないと何とも言えないが リンパに もし散ってたらお終い。」と言われました。

どうせ これで終わりならと 何をしたかと言うと スポーツクラブが病院の近くでしたので 手術の前日まで エアロビクスに熱中して恐怖心を忘れようとしていたのだと思います。

「メイジさん。綺麗に取れました。散っていなかったよ。」と 主治医の先生が 目の前に ニコニコされて立って居られました。一週間目に抜糸して退院しようと妻が迎えに来るのを待っていたら 「お父さん。スタジオへ行くんでしょ。」とカバンを持って来たのです。先生に 目配せすると 「解けるような 縫い方はしてない。」と笑っておられるので、ならばと病院からスタジオへ直行、一番驚かれたのはインストラクターのS先生でした。S先生は 高校生の時に 膝の関節にガンが出来て、腰の骨を移植した経験もあり その頃 ご両親を相次いでガンで亡くされていたので 人一倍 私のことを気にかけて応援して下さっていたのです。

その日のレッスンは スタジオ全体が すごく熱く盛り上がったことを覚えています。

この時に「君のガンは 時間が経てば 必ず再発して出て来る。」ことを確信しましたし、「その日のために備えて、エアロビクスを続けて 手術に耐えられる身体を作ろう。」と決意を新たにした日でした。

(続く)

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3月30日 第三信

月一回の大宮日赤の定期検査の通院も待たされる時間を利用して、院内のあちこちの看護ステーションを廻って、婦長さんや 看護婦さんたちとエアロビクスの楽しい話で花が咲き、楽しみな一日でもありました。

会社の仕事も、たびたびの入院やその後の通院のことも配慮して貰って、完全に独立したテーマが与えられて自由に新商品開発をすることになり、毎日 晴海や 幕張の展示場を歩くことが多
くなりこれも体力増強には大変役立ちました。

その当時としては画期的なビデオカメラ用の携帯電源を企画・開発・生産・販売までを 同僚の応援も受けて 大ヒット商品となったのも懐かしい思い出です。

こうして完全に仕事に打ち込んでいましたが、97年5月に定期検査で肝臓ガンが再発したことが分かり、6月にまた大宮日赤に入院しました。「メイジさんが帰って来たよ!」看護婦さんたちの歓迎にまた闘志が湧いたものです。

動脈造影検査 通称 カテーテル検査は 右の太腿の付け根の動脈から 細いチューブを肝動脈まで入れて、そこから造影剤を注入してレントゲン写真を撮影します。検査そのものもつらいのですが 検査後 24時間は 絶対に安静にして 止血します。もう何回もしてなれていましたが この日は 病室のベッドで 物を取ろうと少し身体を伸ばした途端 下半身に生暖かいものを感じました。看護婦さんが かけつけた時には マットレスも何もかも 血の海でした。検査の傷口から 大量出血して その処置に 先生方に 大変迷惑をかけてしまいました。

検査から一週間ほど経った日に 主治医から 検査の結果の説明がありました。その時が 今までの中で 一番のショックでした。

「メイジさん。申し訳ない。大変申し訳ないが 余りにも難しい場所に ガンが再発しているので 手術は不可能だ。そこで カテーテル検査で チューブを入れたついでに ガンの周辺の毛細血管に エタノール塞栓術をして 血流を止めて ガンの成
長を抑える処置をして置いた。明日 退院しても良いですよ。」

「エッ。手術出来ないんですか? 今まで 二回も難しい手術をして下さった先生のその腕でも ダメなんですか? 先生に 手術して貰うために 毎日 エアロビクスで 体力を作って来たのに。エタノール塞栓術で 何年生き延びれるのですか?」

「人によって まちまちだが 平均して 二三年位です。」

その夜は 色んなことが 頭をよぎり 眠ることも出来ませんでした。翌日 婦長さんが「メイジさん。残念だけど ベッド空けて退院して下さい。」と言われましたが 私は もう動く気力もなく 「暫く このままにして置いて。」と退院を拒んで考え込むことになりました。婦長さんも「折角 一緒に頑張って来たのに 私たちも悔しいよ。」と私の我がままを許して下さったのです。

(続く)

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3月31日 第四信

退院を拒んでも何もする気になれず、呆然としていたある夜に 新しく内科部長として着任されたT先生が、病室へ来られました。ベッドの横に座られて「メイジさんですね。前任のM先生からの 引継書に 退院を拒否されているとありますが どう言う訳か聞かせて下さい。」 私は今までの経過と自分の気持ちを正直に話しました。

「そうですか。分かりました。」と先生は病室を出て行かれました。夜10時を過ぎた頃になってT先生から医局へ呼ばれました。「私の親友の 東大病院のT助教授に連絡を取ったら どうなるか 診てみないと分からないが とにかく明日来るようにとの返事である。T助教授は 東大の肝・胆・膵外科の専門医で
あるから きっと相談に乗って下さるよ。」と 言われました。

地獄で仏に出逢えたような気持ちで 朝早くに目覚めて ナースステーションへ レントゲン写真等の資料を貰いに行くと 朝8時に 東大病院の入院受付に来るように、とのメモがありました。そこで 妻に電話を入れ 東大病院へ転院するので 今日
退院手続きに来て欲しいと連絡して 電車に乗って 上野へ向かいました。

東大病院の入院受付の窓口に行くと 

「メイジさんは本日の入院リストにはありません。」

「でも 昨夜 T先生から 8時に来るように言われたのです」

「じやぁT先生に連絡とってみましょう。」 
そのまま 30分ほど待っていたら 手術着のままの格好で T先生が見えて 五階の病室まで 付いて来るようにと言われまし
た。

病室の六つのベッドには まだ患者さんが寝ておられました。「詳しいことは婦長さんに聞きなさい。私は 手術室へ戻るから また後で。」と T先生は 出て行ってしまわれました。9時になると 看護婦さんたちが「○○さん。退院おめでとう!シーツを取り替えたら ここがメイジさんのベッドだから すぐパジャマに着替えておいてね。」と訳の分からぬまま 東大入学が決まってしまったのです。

後で分かったことですが どうも私は 東大へ裏口入学させて貰ったようでした。その夜は 久しぶりに ゆったりした気分になり 初めてのベッドにも拘らず グッスリと熟睡できました。

翌日 医局へ呼ばれて行くと10人ほどの医師がおられ、私のレントゲン写真が一面に張られていました。T助教授は「難しいところに 出来てしまったなぁ。」と頭を抱えておられました。

「M教授の意見を聞こう。」と若い医師に言われました。暫くして M教授が入って来られました。M教授は 肝臓の生体移植手術では世界的な権威であることは 私も テレビで見て知っていました。そのM教授も「これは難しすぎるな。」と部屋中が静まり返っていました。

暫くして M教授が 私のほうを見られて「メイジさん。貴方は年齢の割には体力がありそうだが?」と質問されました。

私は待ってましたとばかり「私のガンは時間と共に必ず再発すると言われ、今日の日の為に毎日エアロビクスで身体を鍛えて来ました。体力には自身があります。先生お願いです。切って下さい。」と訴えました。

M教授は「メイジさんがこうして体力を付けて来てくれたのだから我々も受けて立たないと申し訳ないよ。」と、その一言で決まったのです。

(続く)

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4月1日 第5信

バタバタと 東大病院への転院して 手術をして貰えると決まりましたが 聞いて見ると 手術の予定が満杯であり 8月に入らないと実施出来ないとのこと。それまで 一ヶ月近く待たないといけない でも 一旦 退院したら 次のベッドが空くのが
 何時になるか見通しが立たないので このままベッド確保をして置きなさいと言われました。手術前の検査は もう全部 大宮日赤で終えているので必要は無いとのこと。婦長さんに 相談したら「朝の検温と 夜の検温の時だけは ベッドに居てね。
あとの時間は 好きなようにしていいよ。」と 言われました。

「よし。体調を維持するために エアロビクスに行こう。」と 決めました。その年の春に原宿の「スタジオNAFA」が閉鎖されることになり 有名なインストラクターの先生方が困っておられたので 私が仲介して 揃って移籍された 巣鴨の三菱養和会スポーツセンターが近くにありましたので 毎日 そこへ通ってエアロビクスを楽しみました。東大の御殿下グランドの地下にも 看護婦さんたち 職員専用のフィとネスクラブがありました。

一般の人は 入れなかったのですが 婦長さんの計らいで そ
こも利用させて貰いました。また 私のことを心配して下さる 大宮日赤の看護婦さんたちも 代わる代わるお見舞いに来て下さり その都度 東大の構内を案内がてら散歩しました。そして 巣鴨からの帰りに 電車で 有楽町に出て 銀座の「相田みつを美術館」に寄り そこで ゆっくりとお茶を頂きながら 先生の著書や 見学者の手記などに目を通して 手術に向けてのファイトを失わないようにしました。全国のエアロビクスの先生や 仲間からも 写真と一緒に 激励のお手紙も下さり 華やかなレオタード姿の写真が 枕元の壁に一枚一枚と貼って行き 若いインターンの先生方も 楽しみにして よく私のベッドへ来られて 色々とお話をするようになりガンについての勉強もよく出来て助かりました。土日は 自宅へ帰って良いと言われてましたが 土日には 次々と見舞い客があるので帰宅できません。同室の方たちも「メイジさんのところへは いつも元気なおネェちゃんが来られるので 私たちも楽しみだ。」と喜んでおられました。

7月終わりの 日曜日の夕方 M教授が見えて 壁の写真の先生についてお話したら 笑いながら病室を出て行かれました。その
後 すぐに看護婦さんが来られ「メイジさん。ピンチヒッターよ。明日 手術するから 今から 剃毛するよ。ご家族にも 電話しなさいよ。」 よく聞くと 先ほど 
M教授は 明日 予定していた 生体肝移植手術予定のドナーの方の体調が悪くなり手術予定がなくなったので本当に「誰か いいのは おらんかなぁ。」と 病棟を廻って 私に 白羽の矢が当たったことが分かりました。

7月23日 心配する家族と手を握って別れて 手術室に入りました。東大病院の手術室は 今まで見たものより広く 見学者の数も多く 驚きました。「さぁ メイジ さん 始めるよ。」の声で 一瞬のうちに麻酔の眠りに入りました。12時間後に 
ナースステーション横の回復室で 眼が覚めました。一番驚いたのは 91年の開腹手術の後は 12本のチューブが お腹や腕に繋がっていたのに 今回は 手術前にいれた 胸部への点滴用のチューブと縫合部のドレンパイプの 二本だけだったの
です。

長生きするものだなぁ 手術の技術もは 日進月歩だから 体力さえあればまだまだ助かるぞと 変なところで感心しました。その夜10時頃になって 俄かに 回復室が慌しくなりました。隣に 寝ていた少年の容態が 急変したようです。

「メイジさん。悪いけど 邪魔だから 自分の病室へ帰って。」
「ハイ 分かりました。」 

ごく普通に 一人でベッドから降りて 自分で点滴台を ゴロゴロと押して 歩いて病室へ戻りました。お腹の傷は 少し 引きつりましたが こんなもんだと思いました。

同室の五人は みんなビックリです。みんなは「メイジさんは 大宮日赤で匙を投げられたから ひょつとしたら このまま あの世へ。」と 思っていたので 夜中に一人で歩いて戻って来たので 幽霊が入って来たと思ったと大笑いになりました。

同室の皆さんも 私と一緒になってから ずいぶん
明るくなられ 前向きな考え方に変わって行かれたと思います。

 (続く)

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4月2日 第六信

病室へ戻った翌朝 改めて 手術を乗り越えられた喜びが胸にこみ上げて「さぁ また前へだ。」と 点滴台を ゴロゴロと引っ張りながら 廊下を三往復 朝の散歩です。

他の部屋の患者さんは みな心配そうに見ておられましたが 看護婦さんたちは「さすが ベテランは違うね。」と笑顔で応援してくれます。

術後の経過も順調で、4日目になって、今日から流動食となりました。薄い「重湯」を一口 いつも味わう一番の美味しいものでした。ところが10分も経たないうちに苦しくなって全部吐き出してしまい お腹がきりきりと絞るように痛み 脂汗がに
じむほど苦しくなりました。担当の若いS先生に診て貰うと 腸閉塞を起こしたようだとのこと。

地獄で 仏に出逢えたのに 今度は 地獄で 閻魔に出逢うはめになりました。鼻から 肛門から それぞれ5mもある ゴムチューブを挿入し 注射器で吸い出すのです。レントゲン台に乗せられて 逆さまになったり 色々と身体の位置を変えて 腸を動かして吸引を 一日に二回するのですが どうしても開通しません。

ガスは抜けるのですが そのうちに お腹は タヌキの腹づつみのように ポンポンに張って 痛くて我慢が出来ません。そんな状態が5日間続いた 土曜日の朝、M教授が来られ

「メイジさん。苦しいだろう。もう一度 手術しよう。」

「エッー。10日しか経ってないのに また手術ですか?」

「その方が 早く治るよ。さぁ 奥さんに電話して 到着次第始めるから。」と 部屋を出て行かれました。

担当のS先生も「どうも お腹を閉じる時に 小腸を挟み込んでしまったようで 吸引では解決しないようだ。」と 申し訳なさそうな顔つきです。

外出していた妻に やっと電話連絡がつき お昼過ぎに到着した時は 私は もうストレッチャーに乗せられており、妻が書類にサインすると同時に 手術室へ運ばれました。

手術室までの長い廊下を運ばれる時 

「ほんまに これで終いかなぁ。」と 思ったりしました。

手術は 五時間位で終わり そのまま病室へ戻りましたが さすがに ドット疲れが出て熟睡してしまいました。翌朝早く T助教授が見えて

「やはり 小腸を挟み込んでしまっていた。前回より お腹を大きく切り開いて 腸を 一旦全部出して整頓しなおしたから もう心配ない。痛い目に会わせて すまなかった。」

「先生。有難うございます。生きておれば それでいいんです。もうベッドから降りて 歩いていいでしょう?」

「後の治し方は 君の方が詳しいのだから・・・。」

手術から2日後に ガスが出て 食事もOKとなりました。
お見舞いに来て下さる インストラクターの先生や仲間を 点滴台を持ち上げて 7階の病室から 歩いて階段を降り 玄関まで見送って また階段を登ることが 日に何回もあり これが結構良いリハビリになりました。順調に回復して 二度目の手術から二週間 教授回診で30人位の医師が入ってこられました。

M教授は「アレッ? メイジさん。まだ居たの?」 

担当のS先生は「もう一週間 様子を見ます。」 

M教授「メイジさんはなぁ 君らに任せておくより
この美人の先生たちの方へ戻す方が 早く元気になるよ。今日にでも 退院させなさい。」と 

ベッドの頭上に 何枚も張ってある レオタード姿の写真を指さされました。病室中 大爆笑が起こりました。

後で S先生に「先生お願い。この週末は 全国からお見舞いに来る人が沢山いるので 月曜まで待って下さい。」 

その土日は次々と駆けつけてくださつた友人たちと 三四郎池や赤門を散歩して 気持ちよい時間を過ごしたのです。

(続く)...

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4月3日 第七信

お盆休みの明けた18日の月曜日に、本当に退院することになりました。先生方と看護婦さんたちにお礼のご挨拶をするため、ナースステーションへ行くと丁度 M教授とT助教授がおられました。

M教授は

「メイジさん。一つだけ話しておくことがある。みんなの話を聞くと 君は大宮日赤のK先生が 手術を断念され
たことを 余り良く思っていないようだが それは大間違いだよ。確信の無い手術を断念すると言うのは 大変な決断なんだよ。君の お腹を開けた時 前回の手術の時の 電気メスを使った処置を見て 私は 教室中の先生たちに これは ベストの処
置だよ。よく見ておきなさいと 話したんだよ。K先生の手術があったからこそ 君は 東大へ来れたんだからね。でも 良く頑張った。君のガンに向かう姿勢には 私たちも いい勉強させて貰ったよ。有難う。」と 固い握手をして下さったのです。

後に 朝日新聞社の月刊誌「論座」でみずほ銀行の常務さんが 16回のガン手術を受けて なお元気で仕事を続けておられる 闘病の記録が掲載され M教授も コメントをされていました。

私は この記事を読んで こんな大先生に生命を助けて頂いたのだと感激し 先生に お礼と近況報告の手紙を出しました。大変お忙しいのに先生から返事を頂きました。

その中に「メイジさん。元気になってくれて嬉しいよ。でもいつか又再発するから、毎月の検査は欠かしてはいけない。そして エアロビクスを続けて 体力をつけて置くように。君は ガン以外の病気で死んではいけない。いつでも 東大へ戻って来ていいよ。」とありました。

「ガン以外の病気で 死んではいけない。」 これは どう言うことなのか?後日頂いた手紙に「メイジさんの年齢になったら 普通の生活をしていても 生活習慣病 血圧・心臓・糖尿の どれかが悪くなるのが当たり前 でも それをこじらせてし
まつたら とても手術は出来ないと言うことだよ。」とありました。

そう言えば 過去の入院の時に 手術する前に それらの治療のため 内科病棟に移り カロリー制限された食事を採るうちに 余計体力を無くして 結局 手術を受けられないまま過ごしている患者さんがおられたことを思い出しました。

「よし分かった。私は やはり最後は ガンで死ぬぞ。」と納得したのです。

挨拶を済ませて 退院するのですが 息子たちも お盆休み明けで 仕事が忙しく妻も レッスンを休む訳にはいかないと 誰も迎えに来てくれません。ならばと大きなカバンを二つ持ち 病院の玄関まで降りました。

「そうだ。入院の時は 東大へ裏口入学したのだから 退院の時は 堂々と 赤門から 卒業だ。」と 我ながら 良いアィデアが浮かんだものだと 胸を張って赤門をくぐり抜け バス 電車を乗り継いで 浦和の我が家へ凱旋しました。

翌日 一番に 大宮日赤に K先生に面会に行き 失礼を詫びてM教授の言葉を伝えたところ とても嬉しそうなお顔で

「手術が出来て良かった 良かった。」と大変喜んで下さいました。私に 東大行きを紹介下さった T先生。父上の診療所を
継がれた M先生を訪ねて 退院の報告に行きましたが そこでも「このガンは また いつか再発するから 気をつけなさいよ。」と 言われたのです。

東大病院に入院中に 読んだ本の中に 戦国時代の武将は 薬など無い時代に 刀傷を治すのに 温泉治療が最適であったとありました。さすがに 今回は 二度も続いて手術を受けたので 見事なほど大きな傷跡は 太いみみずのように 赤く腫れてひ
りひりしていました。

そうだ 温泉へ行こうと決めて すぐに 仙台のスポーツクラブで仲良くしていた 蔵王・遠刈田温泉の旅館の専務に 電話を入れたら「新幹線の駅まで 迎えに行くから。」との返事。退院から 一週間でした。

遠刈田温泉は あの戦国武将 伊達政宗の隠し湯として栄えた温泉です。現地には温泉診療所があり そこの先生に相談して 朝夕 就寝前の 一日三回一回5分 傷口は石鹸でこすらないことと アドバイス受けました。

「それにしても見事な切り傷ですな。」 老先生も 驚いておられました。

湯治を続けながら 朝夕には 秋の気配を感じる 蔵王の美味しい空気を一杯吸いながら 山道の散歩を楽しみながら体力回復をしました。

一週間で お腹の傷は 来た時に比べて 色もあせて みみず腫れもひいて ひりひり感もなくなりました。爾来 私は 手術を終わったら 温泉に行くことを勧めています。

せっかく蔵王に来たのだから 応援して下さった エアロの先生や仲間にも お礼を言って帰ろうと連絡したら 運良く 明日 ジョグメイトカップ東北大会があることが分かりました。

翌日 体育館の観覧席に座った途端 すく゛に 山岡有美先生が
側に来て下さり「信じられない。良かった 良かった。」と抱き合って喜びました。

セントラル仙台のスタジオの先生方や 仲間たちも その夜 大会の打ち上げの飲み会で 私の全快祝いを催して下さったのです。

(続く)

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4月4日 第八信

昨日の雨も上がり 暖かい青空の気持ちの良い朝です。センバツで 初出場 初優勝をした 愛媛の済美高校の 上甲監督が 52才で ガンで亡くなった奥さんの バンダナをポケットから取り出して「これが 勝因です。」と涙されていました。

昨日 「予防医学研究会」のURLを 私のアドレス帳 500人位の皆さんに送信しました。早速 アクセスされて 感想も届き始めましたよ。

4月5日(Japan time)

朝夕 蔵王高原の道を散歩した効果もあり 仙台から戻るとすぐスタジオへ復帰してエアロビクスを再開しました。一ヵ月半ぶりの スタジオは とても楽しく身体が 動いてくれました。

当初 東大病院へ転院した時には 手術は早くても お盆休み
以降と予定していたので 9月一杯はかかると考えて 休暇願いを提出していました。そこへ バンクーバーに住む姉から 電話があり「助けて貰えて良かったね。カナダにも 良い温泉があるよ。サンパウロの叔父さん夫婦が 金婚式のお祝いで 子供たちから カナダ旅行をプレゼントされて 来ることになったから 貴方たちもこちらへ来ない?」と 声をかけてくれました。

妻も 公民館の教室が上下期の切り替えで 9月後半は休みが取れると言うので 20日に 成田を発ちました。
私の亡母の弟である叔父は ブラジル移民をして 40年 もう80才を超えました。しかし 奥さんが 現地で 大変ひどいリウマチになり 車イスの生活が長いのです。一度 日本へ帰国した時は まだバリアフリーの施設も整っておらず 移動に
大変苦労したので バンクーバーなら大丈夫だろうと 出かけて来たのです。

91年 大宮日赤に入院中に やはり若くしてガンで亡くなった従弟の次女が 医大に合格したので そのお祝いも一緒にして上げようと 千葉からも三人が参加してくれました。バンクーバーから フリーウェイを二時間ほど走った湖のほとりに 温泉が湧いています。日本の温泉とは違い 水着を着て プールのような浴槽で 一日中 出たり入ったりして過ごすのです。ワンピースの水着を持ってこなかったので親類も カナダのお年寄りたちも 私のお腹の傷を見てビックリです。

”Why have you a deep cut?””I had operated three times by liver cancer.”

”Wow! You are Japanese Samurai,Harakiri.”
   
 私の下手糞な英語が通じて大笑いとなり 楽しい時間を過ごしました。ウィスラーMt.にも 登ったりしている内に 叔母さんが 車椅子を離れて杖で歩こうと頑張りだしました。

「にんげん この気持ちが大切なんだな。」と 再認識した楽しい10日間の旅でした。

10月から 会社に復帰し また仕事と エアロビクスと 忙しくも楽しい毎日を過ごしていましたが 97年12月の血液検査で 腫瘍マーカーに異常値が出ました。

「エッー。まだ 半年経ってないのに。また お正月は 病院で・・・。」 

早速 東大へ再入学 勉強足りなかったんだと 諦めの気持ちでした。T助教授も

「戻ってくるのが 少し 早すぎるよ。でも 身体作りだけはして来たみたいだから いつでも切れるよ。」 

CT検査 カテーテル造影検査(通称 アンギオと言うのも この時 教わりました。)で 調べて貰いましたが どうしても見つからず こんなに元気なんだからと 10日間の入院で強制退学となり スタジオの皆さんとの X’masパーティーに 間に合いました。

(続く)

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4月5日 第九信

今朝も 暖かい朝です。庭の花水木の蕾が 急に大きく膨らんできました。「予防医学研究会」のホームページを ご覧になった友人からも メールが入り始めました。

敏江先生からも どうぞ 皆様のご感想 ご意見などを BBSに書き込んで下さいとのこと。このホームページが 日米の 健康広場として拡がることを 願っています。

それから 訂正が 二件あります。一つは 私を 東大病院へ紹介下さった 大宮日赤の先生のお名前が T先生となっていますが H先生に訂正します。

最近 人の名前が どうしても思い出せなくて困ることが多くなりました。ボケの前兆ですかネ。

もう一つ 大宮のインストラクター S先生のガン履歴は 小学校五年生の時 膝ではなく 下腿部の骨に発生し 骨移植されました。10後に 再発した時 毎日エアロを続けていたら 入院までに 消えてなくなっていたのよと ご本人から連絡貰い
ました。

以上 お詫びして 訂正します。

 (第9信 Japan Time 6日)

まぁ それだけ次々と病気になると 呆れておられるのではないでしょうか。

98年12月の日曜日 東京・有明スポーツセンターで 大山 恵美子先生のイベント「X’mas 踊らんや!」があり参加しました。このイベントは とても楽しく 最近では 地方でも開かれていますが 年末の行事として 毎年 盛大に行われて
います。

大山先生は 97年 私が再発して 大宮日赤へ入院した日に ゴールドコーストのビーチ・エアロビックから 成田へ帰国され
そのまま大宮へ 心配して駆けつけてくださったこともありました。

「踊らんや!」で 参加の皆さんと 楽しく輪になって踊っている途中 下腹部がひりひりとして来て 左太腿の付け根に痛みを感じました。途中退場して 更衣室で触れて見ると ひりひりがきつく これはおかしいと思い その日は 打ち上げパーティーも欠席して 自宅へ戻りました。

翌日 東大病院へ行くと 前立腺ガンかも知れないと言われ 指を突っ込まれて グリグリとやられました。とても 痛かったのですが 発見されず 暫く 様子を見ようと言うことになりました。

でも ひりひりは取れず しばらく エアロビクスは休むことにしました。

年が明けたころから 左太腿の付け根に しこりを感じるようになり だんだんと肥大するのが判り 検査の結果 鼠蹊(そけい)部ヘルニヤと 分かりました。ガンでなくて良かったと 胸をなでおろしたものの 痛みは一向になくなりません。東大病
院に手術予約を入れましたが 満員で なかなか順番が来ません。

3月に入り 真夜中に 患部がひどく痛み出し 我慢出来ずに 救急車を呼んで 大宮日赤に行きました。救急受付には 仲良しの看護婦さんがおられ 当直の先生に鎮痛剤の注射をして下さりそのまま救急病室に入院しました。

翌朝 K先生が見えて

「こりゃ ひどい。よく辛抱してたね。」
「今日は 他の患者さんの手術があるけど その横で 同時進行でやるしかないね。」

「先生 とにかく痛いのです。早く切って下さい。」 

その日は 初めて局部麻酔で手術を受けました。麻酔で 頭は少
しボッーとしていますが カーテンで見えない 下腹部を開けられて 何だか グリグリとかき回されている様子は感じます。

先生方が 

「メイジさんは 手術の達人だからね。」などと冗談も言われるのも良く聞こえ 次は 絶対全身麻酔だと思いました。

「何度も お腹を切ったから 腹膜が弱くなっている。ナイロンの皮膜で 補強したから大丈夫と思うけど 暫く休んだら また腹筋を鍛えなさい。」

かくして 手術は 約二時間で終わりました。手術から 10日目に退院し いつもの通り翌日には スタジオに復帰し 今度は 腹筋強化のための シットアップも加えて 次の手術に備えての エアロビクスが始まりました。

(続く)

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4月6日 第10信

99年秋 何回も入院手術で 迷惑をかけた会社も 首にならずに 何とか定年退職を迎えることになりました。再就職の話も いくつか頂きましたが いざ健康診断書を提出すると、相手がビビッテしまって破談になりました。自分でも いつかまたガンが再発して 迷惑かけてもいけないし 自分の残りの時間は 間違いなく健康な人より少ないので 何も縛られずに 自分の納得出来る道を選ぼうと思い 伊丹へ帰ることを決めました。

幸いにも 91年 大宮日赤で 後三ヶ月の宣告を受けた時「自分が死ぬのは仕方がないけど 残った家族は 社宅を出たら 暮らす家も無い。」と 考えて 妻の母親の家の隣にあった駐車場に 家を建てさせて欲しいと頼み 承諾を貰ったのですが 
先立つものは ありません。住販会社の同級生に 事情を話して万が一の場合は保険金と退職金の範囲で、全額銀行ローンの手続きまで頼みました。もちろん「俺の仏壇入れだけは 忘れるなよ。」と。

ガンになったお陰で 定年退職になって 戻る家があったのです。そのまま元気でいたら とても退職金で 新しく住居を持つことは無理だったと思います。

義母は 97年5月 私の長男の結婚式で マウイ島へ一緒に行ったのを最後に 腰痛がひどくなり歩行困難となり 入退院を繰り返し この頃には 病院で ベッドから降りれなくなり 完全に寝たきりになっていました。

「よし 二人で母親を介護しよう。」と決めて 大宮日赤の婦長さんに連絡したらタイミングよく「家庭介護実習 10日間」の講座がありました。会社の年休を取って 妻と一緒に 一日おきに実習を受けて 終了証書も貰って 腹をくくりました。

10月1日 引越し荷物と一緒に 自宅へ到着すると 玄関に その義母が座っていたのです。

「おばぁちゃん どうしたんや?」

「30年も 離れていた 貴方たちが戻って来るのに 病院で迎えるのはいやだ。死んでもええからと 医者に無理言うて
退院して来たんや。」

「そりゃ嬉しいけど これから えらいこつちゃ。」

でも 介護実習で習ったことが 本当に役立ちました。最初は 毎日 マイカーに乗せて病院へ通院しましたが その内 家の中では伝い歩きが出来るようになり、毎日 お昼ごはんを食べに 私の家まで来るようになりました。

三年目頃には 手押し車で散歩も出来るようになり 今では 一人で杖をついて 朝夕の散歩を欠かしませんし 近所のスーパーまで 買い物に行くまで 元気になりました。

先月 妻の姉弟夫婦で集まって 義母の米寿のお祝いで お食事に行きましたが 私たち子供は みんな「お魚にしとこ。」と言ったら 義母は「私だけ 肉にしてもいい?」 みんなと同じ分量を全部平らげて

「あぁー美味しかった。お祝いして貰ってありがとう。」

「オバァちゃん。元気になつて良かったね。」と 私が言ったら

「英雄さん。あんたが 諦めたらあかん 努力せなあかんと 言うてくれたからや。お陰さんやね。」 

横で 妻が「お父さん。オバァちゃんに 負けたらあかんで。」

その時は つくづく 人間は気持ちの持ちようで どうにでも変われるんやなと 再認識しました。

そして 伊丹へ戻って間もなく 義母と一緒に暮らしている 妻より2才年下の義弟が 動脈瘤で 下腹部から 両足に分かれる血管を 人工血管に取り替える大手術をすることになりました。

義弟は「もう仕事も ゴルフも出来へん。」と悲しんでまし
たが 私は お嫁さんに言って とっても可愛いゴールデンレトリバーの子犬を買わせました。退院して来たら 義弟は 可愛い可愛いと 散歩に連れて行くのが日課になりました。でも 半年もすると とても大きくなって力強くなり 散歩に連れて行くどころか 義弟がグイグイ引きづられて散歩させられる始末です。

ワンちゃんのお陰で 半年で 義弟は会社に復帰し 今では休日はゴルフ三昧です。

こうして 向こう三軒両隣 兄弟姉妹が 母親を大切にしながら暮らしていたのですが 2001年12月に また 私の腫瘍マーカーが動いたのです。

(続く)

今日で 10回 こんな勝手なことばかり 書いていいのかなと思いながら 調子が出て来ました。明日 11回は 02年の阪大病院 の手術です。一応 入院記事を終えて 次はエアロの効用  そして 生活態度 医師との関係などへ入るつもりです。

その時の調子で 脱線して 元へ戻すのに大変ですが 暫く 続けて頑張ります。

ホームページのBBSへの 書き込みもして下さり これから賑やかになると いいですね。

それから 次の候補者もおられると思いますので 記事の収納場所の参考に 

www.diabetes.co.jp/ を 一度見て下さい。糖尿病のサイトに 大村詠一君のことがうまく収納されています。最近は 母上が書かれることが多いですが 小学生で 発病した頃から 記録されています。

大村詠一君とは 彼が中学生の時 JAFのサイパンビーチエアロビックで一緒して病人同士仲良くなり 良く 携帯メールをくれます。

先日 国立熊本大学の教育学部へ ストレート合格しました。彼の夢は 数学の教師になることだそうです。本当に 頭の良い 素敵な少年です。

17日 18日の スズキ・ワールドでは 吉田知子さんと ペアを組んで優勝を狙っています。吉田知子さんも 東京で 毎週土曜日に 東京ZEALで レッスンを受けていました。昨年 12月に 将来 この業界で生きて行こうと思うなら 何で
も 一度優勝しろと 尼崎オープンに呼んだら 大村君がコーチについて 見事 女子シングルで 優勝しました。

前夜に ミナミで食事した 焼肉ビビンバと テールスープが 効いたから 次も それで馬力をつけろと応援しています。
私は 金欠病なので 東京へ応援には行きませんが 表彰台に上がってくれるものと信じています。

スズキワールドは 日本時間で 25日 日曜日 夕方 4時〜5時に NHK BS−1 で 放送されますので そちらでもご覧になって下さい。

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4月7日 第11信

定年退職で伊丹へ戻ることを決めた頃、東大病院のT助教授に 今後のフォローについて相談したところ 即 阪大病院の消化器外科のN助教授に連絡を取って下さいました。

お二人は 肝臓外科の学会では よくご一緒されて とても仲の良いお友達でした。本当に 私は 良い医師に出逢えたものです。

阪大病院は 昔の大阪・堂島から 千里の万博公園の北側の丘陵地に新しく移転されており 通院には 大阪モノレールを利用すると 一時間以上かかり 少し不便だと考え 30年以上 ペーパードライバーでしたが 意を決して 運転の練習を開始し次男の軽四を取り上げて 浦和から 伊丹までの高速道路が 初めての長距離ドライブとなりました。

早速 阪大病院にN助教授をお訪ねすると、とても若くて優しそうな先生でした。

「やぁ いらっしゃい。T先生から お話を聞いて 楽しみに待ってたんだよ。データーも もうパソコンで送って貰って 全部見たよ。大変だったけど これからも頑張って下さいよ。私も 一生懸命 勉強させて貰うからね。」

私のいい医者、わるい医者の判断基準の一つに、患者さんをお客さんとして、きちんと挨拶できる先生かどうか?が あります。

その点で N先生の お人柄に触れて 信頼感が増しました。
月一回の血液検査 半年に一回のエコー検査 一年に一回のCT検査のペースを きちんと守りながら 失業保険の給付が終了した 2000年後半から 私は以前から夢であつた 海外旅行に次々と出かけました。「動けるうち 日の暮れぬうち。」です。

いつも旅に出ると こうして ここに来れたのも 皆さんのお陰と感謝の気持ちで 医師 看護婦さん エアロの先生に お便りすることを楽しんでいます。

N先生の外来受診の日は 検査結果を パソコンの画面で確認して 異常無しが分かると 後は 旅先からのハガキのこと エアロビクスのことなどをお話して 先生も ニコニコしながら 聞いて下さいました。

2001年11月の血液検査の結果 腫瘍マーカーの数値が パソコンの画面で赤色点滅し すぐCT検査を受けましたが 見つかりません。

12月も 腫瘍マーカーが異常値を示し 年末のCTで 同じ場所に 5mm位の ガンが再発したことが分かり お正月明けに入院するように言われました。

でも 翌年の成人の日は 卒業以来続いている 高校の同窓会の幹事を 私の当番になっていたので それを済ませてからの入院予約にして貰ったのです。

ところが 2月に入っても ベッドが空かず 待たされることになつてしまい スポーツクラブも休会手続きしてしまつた後なので

「待っている間に ガンが大きくなって 手遅れになるのでは?」と イライラしてストレスが貯まり 胃袋に穴が開き
そうだと N先生に訴えました。

しばらくして「血液内科のベッドが空いたので 入院して カテーテル造影検査だけでも 済ませておこう。」と連絡を下さり 2月中旬に 入院しました。

血液内科とは どう言う科目かも知らなかったので 病室に入った時 とても驚きました。同室の患者さんは 殆どが 急性白血病でした。お聞きすると 皆さん 元気で仕事を続けておられたのに ある日突然 高熱が出て 風邪だと思って 町医者に
診て貰ったけど 熱は下がらず 阪大病院へ来たら 血液ガンと言われてビックリしたと聞きました。

抗がん剤治療が始まると 毛髪は抜け落ち 全員がタコ坊主のような頭で 免疫力が落ちるので 感染症予防のためマスクをされていました。私も マスクを着用し「これは いつもの 私のペースでは 皆さんに 迷惑かける。」と思い静かにすることにしました。

カテーテル造影検査もすぐ終わり 4日間で退院する前の夜 お風呂に入り 石鹸箱に手をのばした途端 腰に激痛が走り動けなくなり 非常ベルを鳴らして看護婦さん助けで 裸のまま ベッドに戻されて 一週間 絶対安静のおまけ付きで 一旦 退院しました。

(続く)

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4月8日 第12信

2002年2月 一回目の 阪大病院 検査入院は ギックリ腰のおまけ付きで 二週間で退院となりました。
その一週間後に 消化器外科のベッドが空いたので 再入院しました。

「さぁ 切って貰えるぞ。」と 張り切って いつもの「入院セット」を入れて キャリーバック゛を転がして行きました。 その中に 例のボトル トレーニング用のゴムチューブと 1kgのダンベル レターセットと切手も 忘れずに入れました。

病室へ案内されたら 案の定 六人部屋の仕切りカーテンが張られたままでした。

「皆さん おはようございます。今日から お世話になるメイジです。外は とても気持ちの良い天気ですから カーテン開けましょうね。」 

五人の先客は「何だ、この野郎は?」と驚いておられるのは 承知の上です。

最近は 100%ガン告知を受けておられる筈ですから 

「皆さん ガンでしょう。 私も ガンで来ました。一人で カーテンの中へこもっていたら 怖くなってしまうんで 勝手ですが 仲間に入れて下さい。」

「あんた 何回目や?」

「みなさん 初めてですか?私も 最初の時は もうあかんと思うて カーテン締め切って 一人で泣いてました。でも 今度で四回目の切腹です。」 

さらに追い討ちをかけて おもむろにシャツをめくって 腹を見せます。

「この印籠が 目に入らぬか」とは 申しませんが 私のお腹の傷は 黄門さまの 葵の紋ならぬ 東大マークの いちょう
印です。

「私も 正直のところ 不安です。でも 諦めたらあかん 生きて帰らなあかんと思うてまっさかい みんなお互い励まし合って乗り越えましょうな。」 

その日から病室の空気が、ガラリと変わります。付き添いに来られた ご家族にまで

「この人、四回目やけど 生きてはるんやで。」と 自分で 自分を励ましておられるのが良く分かります。

外科は 次から次へと 手術になりますが その度に みんなが 「頑張ってこいよ。」と 握手して心強い応援です。

入院した日に N助教授から 治療方法について 色々と選択肢があり ぜひ一度放射線科の先生の話を聞いて欲しいと言われ 放射線科の医局へ行きました。その先生は

「最新の技術で 高速度で粒子線をピンポイントで当てて ガンを叩く治験をさせて頂けないか。これなら 手術に比べて 身体のダメージも少ないので これからは有望な治療としたい。」

私も 神戸の西部に スプリング8という 最新設備が
出来て実験が始まったことを知っていましたので これも選択肢の一つとして さらに詳しく聞くと 準備をこれから始めると 三ヶ月先になると言われるのです。

「それは止めときます。私は そんな長い間 待ってる時間はありません。早く 切って貰って 早く退院して また遊ばんといかんのです。」

と 即座に お断りしました。病室への帰る廊下で「メイジさん。私たちに任せなさい。」と担当の若い先生たちが 肩をたたいてくれました。

(03年秋 神戸の全国放射線学会の市民講座で このスプリング8は 現在では実用に入り 治療効果も良い結果が出ている報告を聞きました。念のため。)

2月26日に入院し 3月5日手術予定と決まり H講師 U助手が担当で 手際よく準備がされ 早くも 右胸に点滴用のプラスチック製の留め置き針まで刺されCTの写真を見ながら 手術の手順のシュミレーションを何度もされます。H講師も若くて とても気さくな先生です。

「メイジさん。このCT写真で ガンの位置 大きさは 良く分かっているけど 貴方のお腹は 何度も手術してるから その癒着をほどきながら 血管を傷つけないように 患部にたどり着くのが 一番大変で時間がかかるんだよ。ガンを切除するのは 五分もかからんよ。」

「東大病院の先生からも そう言われました。だから エアロビクスを続けて 身体を作って ここへ来たんです。」と言いながら 

「先生。明日の土日は 外泊していいですか?」

「OKだよ。」 

翌日 留め置き針を付けたまま 舞洲アリーナーの全国ジュニアエアロビック大会に 北海道代表の中学生の選手の応援に行き 日曜日は 御影の弟宅へ行き 栄養補給をさせて貰いました。

3月5日 8時半に 妻と弟 そして千葉から駆けつけてくれた長男の嫁と握手して「心配せんでも ええよ。」と 別れて 手術室に入り 午後3時に 回復室へ戻り 翌日には また歩いて自室へ戻りました。同室の患者さんも 私を見て「私も 頑張れそうだ。」と 喜んでおられました。

(続く)

4月9日 第13信

3月5日の手術から 三日目には 脊髄に刺さっていた バルーンと言う 小さなゴム球から徐々に 薬が押し出される麻酔も取れました。この麻酔のおかげで 術後の痛みも 殆ど感じることはありません。食事も 重湯から始まり 三分 五分 七分
全粥と 順調に進みました。

地元へ戻っての 入院手術とあって 小学校 中高の同級生たちが 見舞いに次々と来て下さり 広い大学の構内を散歩して 二週間位で退院出来るからと4月初めの お花見と 4月末のハイキングの日程も決まりました。そして妻には 5月後半の「シルクロード8日間」の格安ツアーを見つけたので予約しておくようにと依頼しました。その頃には 入院保険の給付金が振り込まれるだろうとの算段でした。

ところが 一週間目から 毎日38度前後の発熱があり なかなか下がりません。 レントゲン検査の結果 手術した内部に挿入したドレンチューブから うまく廃汁が抜けずに 内部に貯まり炎症を起こしているのが原因のようだと分かりました。

その日から 毎日 ドレンチューブを 抜いたり押したりして 位置を変えたりしながら 廃汁を抜き出したり 逆に 薬品を注入することが続きました。12日目には縫合部の抜糸を受けて この日から チューブを付けたままで リハビリ開始です。

ドレンチューブは 23日になってやっと抜いて貰えました。その時 担当のH講師は「豊中市民病院の救急部への転勤辞令を貰っていたけど 心配だったので赴任を遅らせていた。もう大丈夫だから 明日 赴任する。今度は 近い場所だから 何かあ
ったら救急車に乗って いつでも来なさい。」と挨拶を受けました。翌日 久しぶりの入浴を済ませたあと 同室の患者さんたちと 散歩に出て 芝生に座って お互いの無事を喜びあいました。

その内の一人の青年に 今回の入院で出逢えたことが 最大の収穫でした。彼は32才で 和歌山の神社の跡取りでした。小学6年生で 小児性糖尿病となりそれが進行して 1995年に 視力合併症と 慢性腎不全で 左目の視力を失い、和歌山で入院生活を続けていたそうです。

2000年4月に 阪大病院で、臓器脳死移植の第1号として すい臓と腎臓の移植を受けたと 当時の 新聞記事を見せてくれたのです。さらに 驚いたことは 2001年夏に 神戸王子競技場で開催された「臓器移植者 陸上競技世界大会」に出場して走ったんだと 公式の記録写真集も 見せて貰いました。その時私は「上には 上がいる。」と感心しました。 

「メイジさん。やっぱりお腹に大きな傷があると 何かあるね。」

 その時 彼は やはり私と同じ 腹部ヘルニヤの手術と 二年前の 移植手術のチェックで入院していたのです。

「私は どこの何方か知らない方の お陰で 元気になれました。本当に 有り難いことです。メイジさん。お互い これからも頑張りましょう。」 

爽やかな笑顔で 私より 一日早く 退院して行かれました。
今もとても元気で 走ってるよーと 時々 メールが来て 私にパワーを送ってくれます。

翌 26日 手術から三週間目 退院の挨拶に行くと N助教授が

「メイジさん 良く頑張ったね。今回の手術は 門脈(肝動脈)の分岐の6番の血管に出来たガンを取ったんだよ。大宮日赤で 2番。東大病院で 4番を手術したから 後 3本残って
いるけど それは また再発する可能性が多いという事ですよ。明日からまたスポーツクラブへ行きなさいよ。」

「分かりました。後 3本残っているから後10年は 手術お願いしますよ。先生も トレーニングして体力維持しといて下さ
いね。」と 桜の咲き始めた 万博公園を見ながら 一人 モノレールに乗って 退院しました。

退院して一週間 日帰りで あちこちの温泉めぐりをして 4月1日に スタジオに復帰 いつもの通り「手術の後の エアロビクスは 何でこんなに 楽しいんだろ。」と思いました。

小学校のクラスメートとのお花見は 満開の桜の下で 大勢が集まって下さり 楽しい全快祝いをして貰いました。
「メイジさんが ガンになってくれたから こうして再会出来た。」と 50年ぶりの仲間も喜んでおられました。

4月末の日曜日 今度は 高校の同級生が集まって 京都・貴船神社から 鞍馬寺へのハイキングです。遅咲きの山桜が満開でした。みんなは 「ジメ。大丈夫か 無理すんなよ。」と 心配してくれましたが 昼食を済ませて すぐに 貴船川から 鞍馬山頂上への 700段近い階段は 私は 休憩なしで トップでした。

呆れる皆に「阪大の10階から 何回も上り下りして来たから お前らには 負けへんで。」 その後 幹事さんの計らいで 鞍馬温泉の露天風呂に 全員一緒に入浴し「いちょうの紋所」の お披露目をしたら みんな 目を丸くして驚いていました。

入院のお陰で この年は 二回も お花見を楽しめました。
その後 幹事さんのお世話で このハイキングの会は 「八逢会(ヤッホー会)」と名前も決まり 健康維持のため 奥さん同伴で 毎月一回 楽しいハイキングを続けて もう二年になりました。講習会も開いて 事故の無いよう 病気をしないよう 
中高年登山の手本になるよう 皆さん 頑張って楽しんでいます。

5月下旬 シルクロードの旅に出ました。いつか行きたいと思っていた場所でした。ウルムチ トルファンでは 昼間は 45度を越える暑さの中を歩いて 砂漠地帯に残された古代遺跡を巡り敦煌で 西安 広州と 強行軍の旅も 私が 一番元気で
楽しむことが出来たのです。

(続く)

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4月10日 第14信

2002年3月の 阪大病院での入院手術から以降は 月一回の血液検査 六ヵ月に一回の CT検査を続けて来ましたが 二年経過した現在は 幸いにも全ての数値が正常であり 週五回の エアロビクスを楽しく続けています。

二周年の記念に 3月中旬に 妻と一緒に 北京世界遺産めぐりのツアーに出かけて、万里の長城に登って来ました。

と ここまで 記憶を辿りながら 書いてきましたが 改めて よくもまぁ これだけと驚きながら 他にも 入院したことを思い出しましたので 次の入院の時に、医師や 看護士さんに 病歴を説明する時のために もう一度 整理しておきます。

1939年 7月 生まれ。

1954年 6月 15才 結核性 腹膜炎。西宮市・山内医院 一ヶ月入院。

1957年 6月 18才 リンパ結核。 神戸市・甲南病院通院 三ヶ月間 レントゲン照射。

1971年 2月 31才 甲状腺ガン摘出。 広島大学病院 付属原爆放射能医学研究所。二ヶ月間入院。

1972年 5月 32才 痔ろう 摘出。同上。二ヶ月間入院。(この間 名古屋・石突内科 仙台・東北大学病院に通院。甲状腺ホルモン錠剤(チロナミン)服用続ける。)

1979年 6月 40才 肝炎治療。仙台市・東北公済病院。一ヶ月入院。(この間 仙台逓信病院 文京区・本郷診療所に通院。週三回 強力ミノファーゲン剤注射。)

1991年10月 52才 肝臓ガン手術 さいたま市・大宮赤十字病院 三ヶ月入院。

1992年 2月 52才 インターフェロン治療。大宮赤十字病院。二ヶ月入院。退院後 六ヵ月間 浦和市・水谷医院でフォローを受け 自宅療養。

1995年 7月 55才 リンパ線ガン摘出。同上 
20日間入院。
   
1997年 6月 57才 肝臓ガン再発。同上 二週間入院。検査 及び エタノール塞栓処理。

1997年 7月 57才 肝臓ガン摘出。東大病院 第二外科へ転院。7/23 摘出手術。 8/2 腸閉塞手術。一ヶ月入院。

1997年12月 57才 肝臓ガン再発の疑い。同上 検査の結果 異常なし。一週間入院。

1999年 3月 59才 そけい部ヘルニヤ手術。大宮赤十字病院。10日間入院。

2002年 2月 62才 肝臓ガン摘出。大阪大学病院 消化器外科。 40日間入院。

入院 13回 手術 8回 よくぞ 生きていると 我ながら感心するととももに医師団 看護士さん そして応援団の皆様に 感謝です。

(続く)

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4月11日 第15信 (4/12 Japan Time)

テレビでは イラクで人質となった 3人が まだ解放されず ご家族の悲痛な訴えの姿が続いています。昨日の 日曜日は ピースボートの仲間から 届く署名活動のメールや 政府 政党に対する 早期救出を願うメールの発信に 慌しい一日でした。本当に 無事に帰国して欲しいと祈るばかりです。

昨日の 入院手術の記録を 一覧にしているうちに よくも まぁ こんなに入院したもんだと呆れる一方 待てよ それ以上によくまぁ 海外旅行を 楽しませて貰ったなと思い それも 記録として残しておこうと思いました。

私の旅行好きは 母ゆずりのDNAかも知れません。母は 女学校時代に 祖父の転勤先の中国・天津 大連まで 学校が休みになると 一人で 下関から 連絡船に乗って出かけた話を 良く聞かされていました。

母親が亡くなった後 遺品の整理をしていたら パスポートが出てきて チェックしたら 親父が亡くなった後 自分が 糖尿で寝込むまでの 10年位の間に30ヶ国位の 印が押してあつたのです。毎年 夏になると バンクーバーの姉の家に来て 二三日すると ちょっとヨーロッパへ ちょっと サンパウロの弟のところへと すぐいなくなってしまつたと 後で 姉に聞かされました。

何回も 入院するうちに 何としてでも生き延びて うまく定年退職したら 体力のある内に 海外旅行を楽しんで あの世へ行った時に 母に 話を一杯してやろうと思うようになりました。

その事が 「諦めたらあかん。海外旅行に行くんや。」の頑張りに繋がったと思います。やっぱり 夢を持っていると 頑張れますね。

スペースを拝借して 私の旅の記録を整理させて貰います。

1970年代 会社のお客様を引率して シンガポール・バンコック・香港  フィリッピン  バリ島・ジャカルタと 東南アジアへ 三回 官費旅行。

1989/5 バンクーバー・ビクトリア・バンフ 10日間
1997/5 長男の結婚式で ハワイ・マウイ島 7日間
    /9 バンクーバー 湯治旅行 10日間
1999/9 定年退職
2000/1 香港 バーゲンセールツアー 5日間
    /2 JAF サイパン・ビーチエアロビック 4日間(この時に 中学生の大村詠一君と お互い病人同志だねと 仲良くなりました。)

    /5 スペイン 10日間
    /9 ピースボート 南太平洋クルーズ 45日間
       神戸〜フィリッピン〜東ティモール・ディリ〜オーストラリア・ ダーウィン〜エアーズロック登頂〜ブリスベン・オリンピックサッカー応援〜NZ・オークランド〜ニューカレドニア・ヌーメア〜ソロモン諸島・ガダルカナル〜トラック島・チューク〜東京港。

(船上では 毎朝6時のラジオ体操と 船内ホールで エアロビクス教室を 20回担当しました。)

    /12 パリ〜ブリュッセル〜ロンドン 8日間
2001/3 トルコ一周 13日間
    /5 エジプト・アレキサンドリア 7日間
    /9 ピースボート 南北コリアクルーズ 13日間 ピョンヤンとソウル。(静岡沖まで帰ってきたら 自衛隊のイージス艦に 東京港まで護衛されました。翌々日に NY同時多発テロでした。)
    /10 上海滞在 10日間
2002/5 シルクロード 8日間 広州〜ウルムチ〜トルファン〜敦煌〜西安〜広州
    /12 イタリヤ周遊 8日間
2003年は バンクーバーからの  親子二組が 来日したので一服。
2004/3 北京・世界遺産めぐり 4日間)

こうして並べて見ると ガンになったお陰で 海外旅行も 12回と 入院回数を越えて 海外に行けて有り難いことです。

これで 亡母の記録は越えられましたが まだまだ出かけたいと思っていますが体力は 自信あっても 財力が 少し弱って来たので どうなることやら。 

(続く)

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4月12日 第16信

これまで書いてきた 病院での ガンとの付き合い方から 少し離れて 藤原敏江先生の「予防医学研究会」の提唱されている 栄養・運動・休養の バランスの取れたウェルネスライフに関連したお話に入ります。

まず「栄養」ですが 私も 人間の体質 体力 健康状態は 毎日 口から入れるものによって 大きく左右されると思っています。私の 肝臓を悪くしたのも毎日毎晩 外で お酒を飲んで帰宅し また寝酒に ウィスキーのストレートをコップ一杯 日曜日には 朝風呂を沸かして入り 冷たいビール。しかも おつまみはお漬物があれば 他には要らぬと言うことを 何年も続けたのですから いくらガン家系と言っても それを加速させたのは間違いありません。

でも 私は 大酒を飲んだことを反省はしてますが 後悔はしていません。お酒を飲んだことで 沢山の良い仲間に出逢えたし 仕事もうまく出来たんだと思っています。皆さんも お酒を楽しんで飲んで下さい。

沖縄県の長寿の秘訣は 焼酎 泡盛にあるようです。要は 適量で止めることです。医者から お酒を控えるようにと言われたら自重して下さい。そして 飲んだら死ぬと言われたら 私のように 止めればいいのです。

私の肝臓ガン仲間の一人のNさんには とても優しいお嬢さんがおられ 病室へも良くお世話に来られ 私も とても優しくして貰いました。お互いに お酒はきっぱりと止めようと約束していたのですが ある日 「娘の結婚式に出席して欲しい。」と電話を貰い

「メイジさん。自分は 娘の結婚式を楽しみに ガンを乗り越えた。結婚式で 乾杯の一杯だけは飲みたい。先生に聞いたら 一杯位はいいよと言われた。」

「だけど 我々はだらしないから こんな病気になった。本当に一杯で終われるのか?」 そんなやり取りがありました。結婚式では 本当に嬉しそうに乾杯を干されて 私に目配せをして 盃を伏せられました。けれども 三ヶ月ほど経ったある日 奥さんから 主人が亡くなったと電話があり 葬儀に参列したら もうあくる日から どんどん飲みあがって 停められなかったと 悔やんで居られました。

後日 大宮日赤の看護婦さんの結婚式に招かれて メインテーブルには 看護学校の校長を兼ねておられた 主治医のM先生と 婦長さん そして患者代表?の私と同僚の皆さんが座りました。

M先生は「今日は 目出度いのだから メイジさんも 一
杯位はいいよ。」「先生 私を殺す気ですか?」と 冗談を言ったら とっさに 看護婦さんが「ハイ お薬。」とジュースを持って来て下さいました。

酔っ払わないから 会場を ビデオカメラを持ってウロウロ 自分でも納得できる 最高のビデオになりました。そのビデオが評判となり その後 三人の看護婦さんにもお招きを受けました。

もう 皆さん 小学生のママさんですが 今でも「メイジさん。お酒飲んでないでしょうね。」とチェックのメールが入ります。

ガンになってから 妻は 私の為に 食事には特に 気を使ってくれています。私は 元来好き嫌いはありませんが どちらかと言うと 野菜が大好きです。

妻は 色々と本を読んで 緑黄野菜を使った 美味しい料理を作ってくれます。特にかぼちゃを使った料理のレパートリーが増えました。煮付け サラダ スープ パイ 天ぷらなど 一時は 顔がかぼちゃ色になるかと思う位 毎食 かぼちゃを出し
てくれました。

現在も朝食は 我が家には馬を飼っているかと思うぐらいの量の生野菜を 二人でバリバリ食べています。夜は お魚 野菜の煮付けや いため物が中心ですが 一週間に一度は ステーキも食べるようにしています。妻の工夫で とても美味しいので 食べ過ぎないようにしするのと 夕食の後は 飲み物以外は 口に
入れないようにして 体重は ベストをキープしています。

口から入れるものとして お水があります。お水について 信じられないような本当の話を一つ。

91年の手術の後 インターフェロン治療で 食事が取れなくなり体重が 16kgも落ちて動けずに苦しんでいた時 会社の取引先の社長夫人が 私の三階のマンションまで 20L入りのポリタンクを持って上がって来て下さいました。聞くと この奥様も 五年前に ガンで生命を落とす寸前まで行かれたとのこと。

丸々と肥えられて 重いタンクを軽々と持ち上げた姿から 想像もつきません。私が苦しんでいることを 私の部下から聞いて 群馬県・沼田町から わざわざ来て下さったのでした。

その水は 富山県の北アルプスの麓 上市町に湧く「穴谷の霊水」で その奥様がこの水で 健康を取り戻されたとのことでした。

ガンの手術を受けて 自宅療養していると どこからか噂を聞きつけて 毎日のように自宅に お薬 健康食品などの売込みがくるようになり 私も わらにすがる思いで 色々と試していました。私の為に 遠いところを 重たいタンクを届けて下さり
またご自分の体験談をお聞きして、そのお水を信じて飲もうと決め毎月 宅急便で送って貰って 約三年間続いたと思います。
この水を飲むと 汗をよくかく 尿の回数が増える 爪がよく伸びて なんとなく新陳代謝が促進された気がしました。

何年か後に 富山県へ仕事で行った時に お礼参りに行きました。そこには 百年以上も前から 救われた信者さんの寄進で建てられた寺があり 側には そこで水を飲みながら療養されている患者さんの宿舎もありました。洞穴の滝から流れ落ちる水を 長い行列で持ち帰る方で満員でした。

その後 私は この水を 何人ものガン患者さんに 紹介しておりますが 結構 効き目があると 今でも 信じています。
最近は インターネットでも 広く紹介されていますので 
「穴谷の霊水」で 検索して下さい。

(続く)

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4月13日 第17信

次に 口から入れるものとして 私が 一番嫌いなものに タバコの煙があります。

昨今 禁煙運動 嫌煙運動が盛んになり タバコを吸う人は肩身の狭い思いをしておられると思いますが この機会に 決心して止めて下さい。

何回もの入院経験で 小さなお子様のおられる 若いママさんが肺ガンで亡くなられるのを沢山見て来ましたし 私の同級生でも「タバコを止めてまで 長生きしたくない。」と強情を張っていたのが 何人か亡くなりました。

私は 中学生の頃に 面白半分で 親父のタバコを盗んで吸っていて それが先生に見つかり 母親が呼び出しされて 一週間の停学となり 家に戻ると 親父は いきなり 私を丸裸にして ロープで縛り 庭の松に逆さ吊りにして 剣道の竹刀で何度も叩きました。気絶すると 冷たい井戸水をかけて また 叩き続けました。今なら 児童虐待で 近所の人が 110番へ電話をするでしょう。でも 大人になってからも 「一本 どうぞ。」とタバコを差し出されると その時の 恐ろしかった親父の顔が出て来るので それ以来 タバコを吸わないで済んでいます。

絶対に許せないのは エアロビックのインストラクターが 喫煙することです。あちこちのスタジオに入り インストラクターの側に行くと タバコの臭いに敏感な私には すぐ分かります。私は 黙ってレッスンを受けずに スタジオを出て行くことに
しています。レッスンの終わるのを待って 

「先生 ちょっとお話があります。インストラクターは 生徒に健康を伝える 大切な役目があるでしょう。{ハイッー
 大きく 息を吸って 吐いてー。何 えらそうなこと言うとんねん。お前の 肺の壁が ヤニで真っ黒けやと思たら レッスンなんか受けれんわい。肺カメラ 突っ込んで貰って よう見て来い。タバコ止められたら 連絡して来い。またレッスン受け
に来るから。」

この一言で 今では とても仲良くして頂いてる先生も 何人かおられます。今では 東京体育館でも 喫煙場が全廃されていますが ここで 私に捕まった インストラクターの皆さん あれ以来 禁煙守っておられますよね。スタジオ仲間には レッスンフィーを払っていませんので もう少し 柔らかく注意すること
にしています。

このお話を JAFの連盟支部の設立パーティーの席で スピーチしたことがありました。今でも JAFの理事長さんにお会いすると 

「おー怖い。メイジさんの前でタバコは吸われんのだが・・」と言いながら 一本火を点けられるので 

「理事長さん。貴方は エアロビックをしないんだから もつと沢山吸って 沢山税金はらって 早く死んで そのポストを早く若手に譲りなさい。それが エアロビック業界に一番貢献できることですよ。」と 

冗談を言って笑っています。でも 理事長さんも 私のことを応援して下さり いつも大会会場でお目にかかると 優しく声をか
けて下さいます。やっぱり「タバコは お止めになったら・・・・。」

なのに 我が家の息子二人とも ヘビースモーカーです。こんなに可愛い孫が生まれたのだから これを機会に禁煙しろと注意するのですが ダメです。自宅の玄関のドアに「禁煙」の大きなステッカーを貼ったら お正月に帰省した時も 寒いのに外へ
出てホタル族です。

「お前ら 肺ガンになってから 泣くなよ!」

(続く)

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4月14日 第18信..............

92年 大宮日赤から退院して 自宅療養を始めたら それはそれは驚くほどの ガンの特効薬や 健康食品 治療器具などの 売り込みのDMや セールス訪問が 毎日のようにありました。

どこかで 情報が漏れるの 現在の ネット時代を先取りし
ていました。葬儀会館のセールスマンが来た時には 我慢が出来なくなって 玄関の花瓶の水をブッかけました。

でも 内心はとても不安で 溺れるもの 藁をもつかむの心境でしたので いいと思ったものは 一通り全部試しました。でも これらは結構値が高くて大変でした。

私の同級生にも 何人か そういう事業をしていて 私のことを心配して 色々と届けてくれました。余りにも高価なので

「悪いなぁ。元気になったら 月賦で払うよ。」と言ったら

「そんなもん心配するな。原価なんて タダみたいなもんや。効果もあるか どうか分からんけど 高いほど効くように思うやろ。」

そんな話があって 少し元気が出て エアロビクスを再開したころから 主治医が言われた

「君に使う薬は もう無い。後は 自分で身体を鍛えなさい。」の言葉を思い出して 全部止めました。ただ 先に紹介した 富山の「穴谷の霊水」は 三年間位続けましたし 友人が送り続けてくれた「ローヤルゼリー」は 今でも毎朝 冷たい水で薄めて東京の方に向かって 感謝の一礼をしてから 飲んでいます。

その二人の同級生も 相次いで ガンで亡くなってしまいました。今頃は あの世で「あれは 信じて飲まないと 効かんへんで。」と 話し合ってるかも知れません。

ローヤルゼリーは 自己免疫力を高めると 信じていますので 現在は 上海の次男のお嫁さんに頼んで 取り寄せて 飲み続けています。

狂牛病BSE 鯉ヘルペス 鳥インフルエンザ 遺伝子組み換え食品と 食をとりまく問題が 次から次へと出てきて 世間を騒がせています。先日の 北京旅行のレストランでも 豚肉のから揚げと北京ダック以外は 肉料理は出ませんでした。激安ツアーのせいだったのかも。でも 野菜を使った 色々な中華料理が こんなに美味しいものだと知ったのも 大きな収穫でした。帰国後 妻のレパートリーは また広がりました。

私は もう何度も 死に損なったのだから BSEでも 鳥インフルエンザでも 何でも来いの心境で 気にせず食べていますが義母は あれも心配 これも心配 今日の みのもんたの番組で見たのが良いなんて ひとりで スーパーへ買い物に行き
ますので

「おばぁちゃん。私らは もう何食べても 一緒やで。」と言うと 「そうかて みのもんたさんのお陰で 毎日 スーパーまで歩くから 元気になったんや。」 これには 一本取られました。

まぁ 薬もほどほどに 毎日 バランスのことも 少しは考えながら おしゃべりしながら 楽しく そして腹八分目の食習慣をつけることだと思い実行しています。

(続く)

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4月15日 第19信

今朝も 気持ちの良い青空です。朝から イラクの人質解放報道で 支援活動した仲間との メールが行きかい忙しくなりました。本当に 良かったと思います。次は自衛隊が 巻き込まれないうちに 早期撤退を決断するよう求めて 運動を展開する
予定です。

今日は 午前中は 英会話サークルがありますので 原稿は 午後から 作成して送信しますので ご承知下さい。では 後ほど。

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今日は 送稿がおそくなりすみません。金曜日の午前中は 近所の生涯学習センターで 英会話サークルがあります。仲間で設立して 今年で四年目になり会員は 25名 殆どが リタイヤされた方です。帰り道で 先日 BBSに書き込んで下さった K氏が 「英語が上手になりたいと言う目標よりも 今はもう ボケないための手段になって来た。」と言われました。これからも楽しみながら「学習療法」を 続けて行こうと考えています。

さて 藤原敏江先生の提唱されている「トライアングルエクササイズ」の「栄養」から 今日からは 「運動」のお話をさせて頂きます。

私にとって エアロビクスは 次の手術に備えての 体力づくりもありますが 一日一日の生活を充実させ 楽しむ大事な時間として 完全に組み込まれております。何で こんなものに ええ年をしたオジンが はまり込んでしまったのでしょう?

それにも 数々の思い出に残る出逢いのエピソードがあります。

私が始めて エアロビクスを知ったのは 1988年春です。仙台へ単身赴任して二年目に 私のアパートの道路一つ隔てた向かいに セントラルFC仙台がオープンしました。

すぐ入会はしましたが 目的は 銭湯代より安い サウナとお風呂でした。そこには カウンター・バーがあり 湯上りの一杯だけを楽しみに毎晩トグロを巻いていました。

カウンターの中には 交代で エアロビックの若い先生たちが入られておりました。その中の一人に菅野牧子先生が おられたのです。

「メイジさん。そんな大きなビール腹で 毎晩 お酒ばっかり飲んでたら 身体壊すから エアロビクスをしなさい。」

「あんな恥ずかしいこと ようせんよ。第一 男は 一人も居らないよ。」

「週三回 朝6時から 早朝エアロ教えてるけど それなら人数も少ないし お年寄りばかりだから。」と手を差し伸べて下さり
レッスンに参加したのが始まりです。気がついた時には もう 二階のスタジオの最前列が 私の指定席になっていました。

ある日 そこへ東京から転勤された 小太りのオジサンが 真っ赤なユニタードを着て登場しました。私は まだ 短パンにTシャツでした。オジサンは レッスンが終わると いきなり私に

「君は エアロビクスを習う資格がない。君 もし柔道や 剣道を習う時には まず最初に胴衣をつけて 先生 お願いしますと行くのが礼儀でしょう。先生や おネェちゃん達の雰囲気を 君がぶち壊している。」と説教されました。

言われて見れば一理あるので 近くのスポーツショップへ買いに行きましたが あの派手な衣装を見ると「これ 私に似合う?」とは聞けず 買わずに悩んでいました。

その頃 五十嵐理恵先生が アメリカへ勉強に行かれることになり「先生。Kさんにこんなこと言われたの。」とお話したら「お金預かって 私が探してきて上げる。」と引き受けて下さいました。三ヶ月後に帰国され「メイジさん。いいの見つけて来たよ。」「エッー!こんな派手なの よう着んわー。」 

家へ帰って 着替えて鏡を見たら「やっぱり あかん。」と暫くレッスンも休みました。五十嵐先生が 「メイジさん。私は忙しいスケジュールの中 メイジさんが 少しでも若く見えるよ
うにと思って 何軒も廻って探して来たのに 着てくれないならもう二度と 私のレッスンには来ないで。」と宣言されたので 意を決して着用しました。

その日のレッスンは 金縛りにあったようになり 緊張で足がもつれて 転倒したことを 今でも忘れません。でも それが 一層 エアロの虜になるきっかけになりました。

エアロビクス効果で 一年位で 体重は −10kg ウェストは −10cmと減り 仕事や 社用ゴルフでも 疲れを感じなくなり ますますエアロビクスにのめり込み 週末も 浦和の家族の元へ 帰らないことが多くなり 心配した妻が訪ねて来て ユニタード姿を見て

「お父さん。みっともないこと止めて! 私も 仙台に8年半住んで 友達沢山いるんだから お父さんが こんなことしてたら恥ずかしくて町歩かれへんやろ。」とプンプンでした。

しかし その内に ミイラ取りがミイラになることになるのです。

エアロビクスと 出逢った仙台での単身生活は 本当に楽しい思い出ばかりです。エアロビクスや ゴルフの仲間と 青森「ねぶた」に跳ねに言ったり 松島海岸へのバーベキュー そして ゴルフと温泉。

91年2月 東京へ転勤が決まった時には、五十嵐先生や 菅野先生が音頭をとって下さり 国分町のディスコを借り切って、 100人以上の仲間で 盛大な送別会をして貰ったのは 仙チョン族の中でも ただ一人と 今でも 語り継がれているようです。

(続く)

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4月16日 第20信

今朝の朝日新聞 朝刊に 引退した横綱 曙が 病気と闘いながら K−1復帰まで の記事がありました。

”Bad days tell more than goo
d days.”

彼を 支えた ことば です。病気になって見ると 今まで見えなかったことが 沢山 見えるようになるものですね。

私を励まし パワーを送って下さった エアロビクスの先生との出逢いのエピソードを記すと 今までの何倍ものスペースになりますが このお一人だけはぜひ紹介したいと思います。

ミイラ取りになってしまった妻は ますますエアロビクスに熱を上げて行きました。

92年秋 自宅療養中の私に 「全日本エアロビクス大会東北大会に行くよ。あんたも 仙台の先生方にお礼に行かなくてはならないから カバン持ちで付いて来なさい。」と 仙台に向かいました。

仙台駅から 会場に向かう 市パスは超満員でした。運良く席に座れた私の前に 小学生の娘さんを連れた 一見 それと分かる女性がおられたので 子供さんに席を譲りました。プログラムが進み 女子シニア・シングルの決勝で その方が優勝され 東京の全国大会出場権を獲得されました。妻は 実力差歴然で 二位でした。

大会が終わり お互いに ご挨拶して 札幌から来られた 西村幸枝さんと知りました。東京での再会を約して その時はお別れしました。

全国大会の応援に行き 今度は ゆっくりとお話をする時間もありました。その時 西村さんは ボランティアで 札幌の公民館で 高齢者の方を対象に「演歌体操」を自ら考案して実践されていたのです。生徒さんたちの 膝を守るために 公民館の畳の上に シートを張って シューズを履いて体操しているとも聞きました。

後日 札幌のローカルTV局が放送したビデオと一緒に「私たちには 色々と大会など発表の場があるけど 一生懸命頑張ってるおばぁちゃん達が気軽に参加出来る大会を開くのが 私の夢です。」と お便りが来て 文通が始まったのです。

元気を取り戻した私は 大宮の仲間とチームを組んで 「シャインナップ・コンテスト」に参加するようになり10代から60才以上まで 10才ずつクラス分けした この大会の 熊谷清美先生にお話して 札幌の西村さんに 一度 上京されたら如何とお誘いしました。

そして 翌年に「J.Y.Sエアロビクス大会」を立ち上げ
られました。J:ジュニア Y:ヤング S:シニアと言う分けです。私も 熊谷先生と一緒に 参加しましたが とても暖かい気配りの行き届いた大会でした。

その時 西村さんと 高齢の生徒さん達に接して これからの高齢者社会で どうしても こう言う指導者が必要になると 実感しました。JYS大会は その後も評判が良く 今では 札幌で一番参加者の多い大会として定着し 昨年10周年を迎えられました。

94年頃に 西村先生が 生徒さんを引率されて 東京のNSPカップ シャインナップに 参加されることになり 応援に行きました。「チルチル・ババチル」と名付けた 五人のおばぁちゃんの 平均年齢が 69才と聞き驚きました。その五人全員
が 舞台の上で 最高の笑顔で演技され おまけに 膝も付かずに プッシュアップを軽々とされたのです。勿論 優勝 会場は割れんばかりの大拍手でした。

95年 ガンが再発して 大宮日赤へ入院して 間もなくの日曜日 札幌から 西村先生がお見舞いに来て下さいました。同室の患者さんは 全員 外泊でしたので ベッドを角に押しやって 妻と一緒にステップを踏みました。そして お土産に 一冊
の大学ノートを下さったのです。その中には 100人近い オバァちゃん達からの励ましのメッセージが書かれていました。

何しろ 全員 私の姉さんですから 殆どの方が 何らかの病気と付き合って来た人たちです。

「メイジさん。早く良くなって また札幌へいらつしゃい。一緒にエアロビクスしようね。」 本当に 有り難いお見舞いでした。

そして 96年 JYS大会に オバァちゃんたちの リクエストNo,1であった 石垣(大石)三恵子先生を案内して 妻と東京のオバァちゃん?も一緒に参加して お礼を申し上げたのです。

99年の夏 退職直前に 新潟から 函館まで 大阪市の帆船「あこがれ」のセール トレーニングに乗船した時も 札幌まで足を伸ばし 「チルチル・ババチル」の皆さんに 体育館でお会いした時も 西村先生が付きっ切りの マシントレーニング
を見学しましたが あのプッシュアップの秘密を見せ付けられ 驚きました。

この原稿を書くため 確認したら 最高齢の 新田さんは 80才になられたそうですが 五人一緒に 毎日 トレーニングを欠かさず あちこちからお座敷がかかり笑顔で舞台を楽しんでおられるとのことでした。

そんな元気な 西村先生に出逢えたことも 動機になったのか 我が家の妻が ある日「私も インストラクターになる。」と 宣言したのです。

「年甲斐もなく・・・やめとけ。」と私が申すと

「年甲斐のないのは あんたでしょ。」と 一蹴されて妻の努力の日々が始まりました。

(続く)

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4月17日 第21信

今日も 良い天気です。今日は バンコックから 一時帰国された 同級生のご夫婦も一緒に 仲間20名で 西宮市・甲山へ ハイキングに出かけますのでその前に 送信します。

今日は 私が通っている スポーツクラブ「ティップネス塚口店」で 私が目標にしている 山田輝見さんのお話です。

山田さんは 朝一番の ローインパクトのエクササイズに スタジオの一番前の インストラクターの先生の側の特等席?で毎日エアロビクスをされています。

白髪のロングヘアーにバンダナ、上下のウェアもバッチリと決めて お腹を引き上げて 長身の背筋もまっすぐにして とても楽しそうです。

そんな 山田さんに出逢ったことが また 大きなパワーを貰ったのです。何とお年を聞いて驚く無かれ 今年は 88才の米寿私の義母と同い年です。

私より 二周り 年上の大先輩です。スタジオの入れ替わりの時私が 入り口で待っていると レッスンを終えて 汗を拭きながら 

「メイジくん。今日もいい汗かいたよ。君も 頑張れよ。」と いつも声をかけて下さるのです。

山田さんは このクラブの前身 「レヴァン塚口店」が オープンした 10年前78才で 初めてエアロビクスをされたそうです。二人で よく何で こんなに エアロビクスにハマッテしまったのだろうと話をすると 山田さんは

「とにかく楽しい。楽しいことは続けられるんだよ。しかも ここへ来れば 若い先生や 元気なオバちゃんたちが 話相手になってくれるしね。でも 最近のエクササイズは 内容が変わってしまって 困ってしまうよ。」

それは 私も 同感です。経営の合理化の名のもとに まずエクササイズの時間が、30分 45分と 細切れになってしまいました。本来のエアロビクスのウォーミングアップ ローインパクトルーティーン ハイインパクト そして リラクゼーション ストレッチが これで 尻切れトンボになってしまいました。

私が エアロビクスで 一番 至福を感じる時は エクササイズで思い切り汗を流した後 スタジオのマットを引いて ストレッチをする前に 静かな音楽を聴きながら、しばし眼をつぶって瞑想の世界をさまよう時間でした。

NAFAのスタジオでも、岡島(岩佐)浩美先生や 石垣(大石)三恵子先生が 一人一人に 足裏のつぼを押して下さると それはそれは もうこのまま死んでしまいたい気持ちになつたものです。

その後 充分ストレッチをして 翌日に疲れを残さないという あのプログラムは どこへ行ってしまったんだろうと 山田さんと話すことがあります。また 山田さんと一致していることは 一日 一本に集中すること 何本も 調子に乗ってやると集中力が散漫になり 正しい姿勢が保てなくなって 必ず どこかに故障が出てくると言うことです。

朝から夕方まで 何本も 受けている方も多いのですが いづれ故障して見ないと分からないだろうな 我々とは 年期が違うもんねと 黙ってストレッチを充分してから お風呂に入ります。

そんな 山田さんは 商社を定年退職されてから NZへ語学留学され 今は 日本NZ学会に所属され 英語の著作も何冊か頂戴しました。また 町を歩いている外人さんを掴まえては 尼崎市の民謡教室に連れて行くのが楽しみで

「メイジくん。誰かええのん居らへんか?」

と笑っておられます。昨日は 私がお風呂から上がったところへネクタイを締めて入って来られたので

「山田さん。今日は いつもより遅いですね」と聞くと
「今日は入学式だった。今日から ピカピカの一年生だよ。」 近くの大学の聴講生として通われるそうです。

「それも これも エアロビクスのお陰だよ。」と笑顔の山田さんに 私は頭の中で 指を折りながら「山田さんの年で 果たして 自分は スタジオに入っているだろうか? よし 当面は 70才で スタジオに居るぞー。」 

本当に 良い先輩に出逢いました。

(続く)

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4月18日 第22信

私の がんとの共生は 抗がん剤と 放射線治療が不要であったのが ラッキーだったと思いますが 手術と エアロビクスによる 体力作りによって ここまで来ることが出来ました。

予防医学と言うと 病気にならないための医学と言う イメージがあるかも知れませんが 私にとっては 病気を乗り越えて なお 次の病気に備えるための医学と言う 捉え方もあると考えます。

今まで 医者にかかったこともない 入院もしたことないと自慢していても 最後は 医者のお世話になるのは間違いありません。「一病息災。」 人間は 病気を経験することによって 健康の有り難味を痛感して 多くのことを学ぶものですが 一番大事なことは その学んだことを それからの日常生活で 実践して行くことです。頭や 口だけでは 何の足しにもなりません。

トライアングル・エクササイズの「運動」については これ位にして 「休養」について触れさせて頂きます。

「休養」 イコール 「睡眠」は 言うまでもないのですが ガンを告知されて「良く睡眠を取って 良く休養するのよ。」と 言われて眠れる人はありません。

普段でも 何か 考えごとや 気になることがあると なかなか寝付けなくなることも しばしばあります。

病室でも 昼間でも 気がつくと 高いびきをかいて寝ている人が多いですが そう言う人に限って 夜中にゴソゴソ 「夕べは良く眠れなくて困った。」

そんなの当たり前でしょ。私は 病室でも 回診のある時以外は朝起きたら パジャマから Tシャツ 短パンに着替えて 出来るだけベッドから降りて過します。

本を読んだり テレビを見るときも ベッドに寝転んで見ないようにしていました。横になると やっぱりウトウトとしてしまい夜は 寝つきが悪くなります。

良い睡眠を取るためには「適量の運動によるよる 疲労感。」が必要です。疲れれば 自然に 眠るのが 動物の本能です。
そして 良い睡眠を取るためには 「リラクゼーション」精神的な解放と安定が 大事ですね。

何にも考えずに ボケッーとしてると 知らんまに寝てしまっていた。あれです。エクササイズの後半に マットに寝転んで ストレッチの前にした リラクゼーション。

今は 少なくなつてしまい 寂しいかぎりです。
私は もうリタイヤして 仕事のことでストレスが溜まることも少なくなりましたが それでも「悩みは つきねぇーんだなぁ。生きているんだもの。」です。

私の 精神的な解放と安定に 大いに役立っているのが 相田みつを先生の 数々の「こころの ことば」です。 私は 生前の相田先生と 仕事のお取引先の講演会で一度と もう一回は 偶然 通勤電車でお話をする機会がありました。

「その時の 出逢いが 人生を 根底から変えることがある。よき出逢いを。」 

その通りになりました。

妻とお見合いで出逢い 結婚して息子二人と出逢い 今 その嫁さんと二人の孫に出逢いました。学校では 良き仲間と出逢い 会社では 良き上司 同僚 部下と出会いました。病院では 心から信頼出来る医師 優しい看護婦さん そしてガンに立ち
向かう患者の仲間に出逢いました。そして エアロビクスでは 素晴らしいインストラクターの先生方と 楽しい仲間たちに 出逢うことが出来ました。あれも これも 「おかげさん。」です。感謝しています。

91年12月 千葉・館山に住む従兄弟が やはりガンで亡くなり その兄貴が お見舞いにと 相田先生の「にんげんだもの」他 三冊セットを持って来てくれました。それを読むうちに 心が落ち着き 闘志が湧いてくるのを感じました。その12月の末に 相田先生が 脳溢血で急逝されたことを 新聞で知りました。

もう一度 相田先生逢いたかったと 残念でなりませんでした。
96年9月になって 銀座に「相田みつを美術館」が オープンしたことを知り 早速出かけました。

ご長男の相田一人さんが 父上の作品を 末永く多くの方々に見て貰いたいと 開館されたのです。会社も近くでしたので 美術館友の会にも入会させて貰い 前を通る時は 必ず お寄りして作品を眺めたり 見学者の感想文を読んだりして パワーを感じていました。

97年7月 大宮日赤から 東大病院へ転院してから 手術の前日までは 巣鴨のスタジオの帰り 毎日 美術館に寄り お茶を頂きながら 心に安らぎとパワーを貰ったことも忘れられません。

退院してから 友の会の開館一周年記念のパーティーに 大山恵美子先生から 「草創塾」の名称は 相田みつを先生の ことばから 付けられたことを知り お誘いして 一緒に出席させて頂き 皆さんの前で 相田先生に感謝の気持ちを お話できたのも良い思い出です。

(続く)

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4月19日 第23信

昨夜の 激しい雨も止んで 庭の木々の緑が 一層美しくなって来ました。

相田みつを先生が 1984年に 一番最初に 発刊された詩集 「にんげんだもの」(文化出版局発刊)に 私がガンになって本当に良かったと考えるようになった 詩があります。

「つまづいたおかげで」

つまづいたり ころんだりしたおかげで 物事を深く考えるようになりました

あやまちや 失敗をしたおかげで
少しずつだが 人のやることを 暖かい眼で
見られるようになりました

何回も追いつめられたおかげで
人間としての 自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました

だまされたり 裏切られたおかげで
馬鹿正直で 親切な人間の暖かさもしりました

そして・・・・・
身近な人の死に逢うたびに
ひとのいのちのはかなさと
いま ここに 生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました

人のいのちの尊さを
骨身にしみて 味わったおかげて゛
人のいのちを ほんとうに大切にする
ほんものの人間に 裸で逢うことができました

一人のほんものの人間に めぐり逢えたおかげで
それが 縁となり次々に 沢山のよい人たちに
めぐり逢うことがだきました

だから わたしの まわりにいる人たちは
みんなよい人ばかりなんです


この詩を読むたびに 私は 心がやすらぎ 今まで出逢った方々に感謝して 前に向かって進んでくることが出来たと思っています。

私の部屋には「にんげんだもの」 トイレには「ひとりしずか」と言う 相田先生の独特の書体で書かれた 日めくりカレンダーをかけておりますが 日々 身の回りに起こることについて それぞれのことばを当てはめて 感謝したり 心を落ち着け
たりして重宝しています。

昨年秋に 相田みつを美術館は 有楽町の東京国際フォーラム 1階に 新装移転しましたが とても良い癒しの空間となっていますので ぜひ 一度 お出かけください。 

美術館のホームページ www.mitsuo.co.jp/ もご覧下さい。


(続く)

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4月20日 第24信

今 私が 大きなパワーを貰っている女性がいます。
ジャズシンガーの綾戸智絵さんです。昨年 彼女が出演した NHK−TVの「わたしは 諦めない。」を 見て大ファンになりました。

アメリカでの 離婚 出産 ガンを経験してからの 40才デビューです。悲劇のど真ん中にいた時 彼女に 救いの手を差し伸べた母親の言葉は「寿命と 生命は 別物やで。」だったそうです。

3月中旬に 近所の伊丹ホールで コンサートがあり 一月のチケット発売日に 朝6時に並びましたが 徹夜組も多く 発売一時間で完全売り切れでした。

コンサートは 大阪弁のトークと ピアノの弾き語り おまけにタップも踏んで 大汗を流しながらの ぶっ通しの二時間でした。舞台では 一切 苦労話には触れず

「何ちゅうても にんげん 生きてて何ぼでっせー。死んで 生き返った人は いまへんでー。」

「お客さんも 私も 必ず 何時か死ぬんやから 今と ここを大事にして 今日は お互いに ジャズで楽しい夜にしまへんかー?」 

会場は 大部分が中高年ですが もう完全に彼女のペースに引き込まれて 手拍子をうって 私も大汗かいて パワーを貰いました。

彼女のWebサイトにも そんな「いのちのふれ合い。」のやり取りがあります。

入院中に読んだ 永 六輔さんの「大往生」の中にも 良いことばを見つけました。

「大往生と言うのは 立派に死ぬことではない。大往生とは その字の通り 立派に生き抜くことだ。」
 
昨年6月7日 NHKの番組「笑って 死ねるか?」に出演されて 誰にでも 平等にやってくる最期 それより大事な「今と ここ。」 元気で過ごすための医者と患者の いい関係を語られました。ビデオに撮りませんでしたが チラシのうらにメモしたものを 後日 整理しました。

諏訪中央病院の医師 鎌田 実さんの選んだ

「いい医師 10ヶ条」

1,話を よく聞いてくれる。

2,わかりやすく 説明してくれる。
(特に 専門用語は わかりやすく。)

3,薬にたよらず 生活上の注意をしてくれる。

4,本当のことを ショックなく教えてくれる。
(小分けに 時間をかけて。)

5,患者の悲しみや つらさを理解してくれる。

6,家族の気持ちまで 考えられる。

7,ほかの医者(セカンド・オピニオン)を 快く受け入れる。

8,必要があれば 専門医を紹介してくれる。

9,地域の 医療・福祉を 熟知している。

10, 医療の限界を しっている。

永 六輔さんの選んだ

「いい患者になれる 10ヶ条」

1,学者風より 職人風の医者を。

2,偉そうな医者より 優しい看護婦さん。

3,誤診や ミスごときには 驚かない。

4,お医者様なら こっちは 患者様だ。

5,医者の前では 気取らない。

6,同じ病気の 医者を探す。

7,遠い医者より 近くの獣医。

8,生命の終わりを 考えない。

9,「ご臨終です」と 言われたら 死んだふりをする。

10,奇跡は 患者の生命にある。
(死んでからは 生き返らない。)

最期は 家族に抱きしめられ 声が出なくても「ありがとう。」と 微笑んで逝きましょう。その為にも 生きている間は 毎日笑って 楽しく過しましょう。

皆さん。どうですか?私は 今までお世話になった医師は この物差しに当てはまっていると思い 感謝の気持ちと一緒に この内容を先生方にメール送信しました。

翌日 その後 東大助教授から 日本大学医学部教授に栄転された T先生から返信メールを頂きました。

「メイジさん 元気そうだね。我々は テレビを見る暇もないけど この指摘は 肝に命じておきます。早速 プリントして 医局に張り出しました。ありがとう。」と。 

やっぱり 私は 素晴らしい医師に 巡り逢えたと感動しました。

(続く)

PS 綾戸智絵さんの サイトは www.dmi.co.jp/chie/main.html です。その中の、綾戸倶楽部は私は 未入会ですが とても楽しいサイトです。
一度 覗いてみて下さい。


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4月21日 第25信(最終)

3月29日から 毎朝一時間 書き綴ってきた メールも そろそろネタ切れになって来ました。

Webサイトを ご覧になった ラグビーの先輩から

「ジメ。兄貴のことも 書いておかんとあかんぞー。」

と メールを頂きました。

私より 四才年上の兄貴は 1994年9月に 59才の誕生日を前に やはり肝臓ガンで亡くなりました。兄は サラリーマンでしたが 長男とじぶんの健康のためにと 吹田市の万博公園グランドで 少年ラグビースクールのお手伝いを 長く続けておりました。幼稚園から 中学生まで 年齢別にクラス分けして 兄は 受け持ちの小学一年二年の子供達に囲まれて 本当に楽しそうな休日を過し 会社勤めのストレスを発散させていました。

94年の夏休みに 大勢の子供達を引き連れて 夏合宿をして家に戻って すぐに 兄嫁から「熱を出して まっ黄色の汗をかいて フウフウ言ってるので お盆休みが済んだら 病院へ行く。」と電話があったので「すぐ 救急車を呼んで 入院さ
せろ。」と言ってから 新幹線に飛び乗り 病院へ行きました。

担当医は レントゲンとCT検査の写真を前に

「残念ですが 肝臓ガンが 全体に散ってしまっています。手術も出来ません。よく持って後一ヶ月 本人には告知しませんのでご家族も そのつもりで接して下さい。」と言われました。

兄貴は「俺は ガンではないよな。ガンなら お前みたいに すぐ手術だもんなぁ。」と全身まっ黄色になって 苦しそうにしていました。

すぐ その写真を借りて新幹線に乗って 大宮日赤のM先生を訪ねて見てもらうと「そちらの先生の 見立てどおり 手遅れだね。」との意見でした。

兄の容態は どんどん悪くなり 全身に水が溜まって ゴム風船のように脹れて いくら注射器で水を抜いても すぐ溜まります。丁度 その頃 兄は 古い自宅を取り壊し 新築工事に入っていましたので 万が一のことを考え

「兄貴。ガンではないけど 少し長引くから 建築のことだけは息子に引き継いでおいた方が良いのでは?」と話をして 息子と一緒に 会社へ行き 秘書立会いの下 関係書類を持ち帰り 引継ぎをしました。それで兄貴も 安心したのか 家族の願いも空しく たつたの二週間で 旅だってしまいました。

春の人間ドッグの検査では 何もなかったのに そして 元気に子供達とラグビーを楽しんでいたのに・・・。

念願の新しい家を見ることもなく 逝ってしまった兄の死に 
私は生命のはかなさを感じ 改めてガンの恐ろしさを認識しました。

私より 二才年上の姉は 一昨年 夏 やはり ヴィールスによる肝炎で バンクーバーの病院に入院しましたが 二週間の入院で 自分で インターフェロンと ビリバリンの注射をする練習を受けて 後は 自宅で 二ヶ月間 注射をしたら 完全にヴィールスも消えて 元気になりました。

03年11月に 長男の結婚式に出席するため 15年振りに帰国した時 「やっぱり 我が家は 肝臓ガンの家系だね。」と これからも 真面目に検査を受けて 早期発見することと エアロビクスで体力づくりをすることを約束し 姉も 地元のスポーツクラブへ通うことになりました。
 
「いい奴ばかりが 先に逝く 悪い俺だけ 後で行く。」 

地元へ戻って 四年半の間に 中高の同級生だけで 10人 会社の後輩や 知り合いを入れると 15人も 死んでしまいました。今も 4人が ガンで入院中です。

月一回は 見舞いに行って「諦めるな。頑張れ。」と励ましていますが、一方では「今のうちに どうしても片付けて置かなければならない事を 一つ。元気になったら やりたい事を 一つ 紙に書け。俺も 手伝うから実現させよう。あんまり沢山書いても 神さんは 聞いてくれへんぞー。」と言っています。

 私自身も 何回も入院するたびに書きましたので もう 片付けることは大体済み 後は 押し入れ一杯の エアロのビデオテープと アルバムの処分位です。

そして 治ったらやりたいことは いつも 一日でも早く スタジオに戻って エアロビクスをすることでしたので 幸いにも実行出来ています。

体力もついて 次の手術にも 自信もありますし まだまだ海外旅行にも 出かけたいと夢をみていますが 近頃 だんだんと 財力の衰えを身にしみて感じるようになり 財布の底に穴が空いて ボロボロになって来ました。

どなたか「予防医学」を伝授下さいませんか?

こうして 色々と書いて来ましたが 本当に 長い人生には 山あり谷あり 色々なことがありました。振り返ると その時 その時に 本当に 沢山の いい方に出逢い助けて貰い 励まし支えて頂きながら ここまで来れたことに 改めて 「おかげさん。」と感謝申し上げます。

これから先も 一日一日を大切にしながら「じぶんの花」は咲かせられなくともせめて「枯れてもきれいな 秋のすすき」位になれるよう 努力を続けます。


最後に こうして自分の人生を振り返るチャンスを下さった 藤原敏江先生と「予防医学研究会」のスタッフの皆様。そして 私の駄文に お付き合い下さり、励ましのメールを頂いた皆様に 感謝申し上げます。

これからも BBSに 色々書き込んで 「予防医学研究会」が一層 皆様の健康と 楽しい人生に お役に立つよう よろしく応援をお願いします。

皆様方の 今後 益々のご健勝と ご活躍を 祈っております。有難うございました。

(終わり)











Posted by meijisan at 16:37