December 31, 2009

『無意味と殺人鬼』について

このブログは『無意味』と『殺人鬼』について考察するものです。

有意味性を前提とした上で成立する高等な戯れとしての無意味、

その無意味という領域において成立する可能性としての殺人鬼。

この二つに極めて強い関心をもち、恐怖し、志向して、愛している。

そういう人間が書いた『無意味』と『殺人鬼』に関するものです。

『無意味』に関しては書き方によって面白い考察が書きうると考えますが、

『殺人鬼』に関してはどうしても、詳しく語れば語るほどその語りが、

非倫理的、反社会的になってしまいます。しかしそれを、私はこの世界で

もっとも確実で根源的なリアルだと信じてしまっており、その中でどんな

態度、倫理、信念をもつべきかを考察していきたいと考えます。

いわば、私はホームで電車を待つ際に、ただ安心したいだけなのです。



November 22, 2007

【無意味】な【殺人】の可能性について

すでに意味連関に親しんだ世界内存在である我々は、

意識上において、もはや完全な無意味をもって行動することはできません。

「意味のない行為」をするという意識をもたなければならないからです。

ここから、【無意味】な【殺人鬼】の存在を否定することができるのではないかと考えます。

仮に「意味なく殺す」という殺人鬼がいたとしましょう。食人鬼でも性倒錯でも精神疾患でもなく、ごく一般的な思考能力をもった人物でありながら「無意味に殺す」といった存在です。

例え社会文化的な規定の上で成立しようとも、行為そのものとして人間は自由ですから、殺人が可能です。そのため、この無意味の殺人鬼も殺人します。

では彼は何故殺人するのか、といえば定義上「無意味に殺人する」と定められているからですが、彼の意識の上では何故でしょうか。

【殺人】に目的がない場合、彼はそれを無意味に行うわけです。この殺人鬼はそのような存在として仮定されています。

しかしそれは可能でしょうか。本当に無意味ならば、彼は何故【無意味】である【殺人】というものを【選択】したのでしょうか?

この【選択】が重要であると考えられます。

人間が自由であるということは、行為を【選択】できるということであり、また選択可能であるということは、常に何かを選択して生きているということでもあります。

自由には無限の行為の可能性が含まれていますから、彼にとって【同じぐらい無意味な出来事】というのも当然多くありえます。

【殺人】が無意味である人間にとって、例えば【音楽】が同じぐらい無意味であったとしてみましょう。別に「ダンベル体操」でも「小指を曲げて戻すこと」でも構いませんが、分かりやすさ重視です。

正常な精神である彼が自由の中からわざわざ【殺人】するということは、それがたとえ意識上で無目的として意識されていたとしても、そこに【選択】があるのです。彼は同じぐらい彼にとって無意味な【音楽】ではなく【殺人】を選んだといえます。

つまり【音楽】より【殺人】の方が【価値】があると判断しています。

また意識上の判断でなくとも、それは無意識上の判断です。

彼には【殺人】を選択するだけの【有意味】があるのです。

以上の点から、意識が【正常】で【無意味】に【殺人】するという人間は、ありえないということが言えるのではないでしょうか。

【殺人】には必ず理由があります。しかし言語化された時点で、それはすでに想起者によって、聞き手によって、言語の区切りによって概念表象化された何かに変化してしまっており、【殺人】の理由を真実に捉えるなどといったことは、殺人した本人にすら不可能です。 



meiroku at 00:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!無意味 

November 13, 2007

【不条理】な【殺人鬼】について

新宿には沢山の人がいて、遊びに行くといつも驚きます。

すれ違う全てが素性も性格も何もかも知らない人で、肩がぶつかるほどの距離を犇きあっているわけです。

非常に恐ろしいのです。何故なら、今私の背後にいる男が、殺人鬼かもしれないからです。また元宇宙飛行士かもしれないし、プロ棋士かもしれません。

勿論、それは時折訪れる病的な不安に襲われたときのみ現れる感情で、普段は一々そんなこと気にしたりはしません。ただ厳密に考えれば、電車や街中で知らない人が接近しているということが恐怖であることは疑えません。

非常に不安です。この不安は、何が理由なのでしょうか。

私は【不条理】の可能性であると考えます。

――――――

【不条理】とは、あずかり知らぬことから来る被害です。

【理不尽】と言っても問題はないと思われます。

通常の、99%以上の【殺人】は有意味連関の内部でしか起こりません。

金銭、痴情のもつれ、怨恨、政治、いじめ、その他諸々、常に【殺人】は【知り合い】の中で、【関係がある人】を殺します。

それが普通です。普通といっても、十分異常ですが。

しかし稀に、この有意味連関、もしくはコミュニティ内部にある人間関係以外の【知らない人】を狙う殺人が起こります。

例えば【強盗】、【誘拐】、【レイプ】、【通り魔】などです。

【強盗】や【誘拐】は政治や金銭を目的としていますが、自分たちの知っている人間を狙うわけではありません。目的は人間ではないので「金を持っている人間」、「政治的なターゲット」であれば誰でもよいのです。最悪、「たまたまそこを歩いていた」という理由でも問題はありません。

【レイプ】などの性的な犯罪も、対象になるのは有意味な関係性などではなく、【性的な対象になる】という一方的な理由からです。相手が【知り合い】である必要など、どこにもありません。

【通り魔】は最も分かりやすいかと思われます。元々無差別に関係ない人間を襲うのですから、そのままですね。私が一番恐れている存在です。

その他にも様々で「ホームレス」のリンチとか、「オヤジ」を狩るとか、「弱い奴」から金を巻き上げるだとか、対象のもつ意味連関ではなく、対象のもつ性質を狙った犯罪は沢山あります。この手の犯罪は、つまり「個」としての原因ではなく、単に条件に当てはまるというだけで狙われる【不条理】なものです。

どんなに誠実であっても、良い服を着ているから金をもっているだろう、という理由で殺される可能性があるのです。こちらの【生き方】になどまるで敬意を払わずに、どんな人間であるか知らずに、一方的な理由から被害がやってくるのです。

知り合いと喧嘩したり、昔の恋人に怨まれてフォークで刺されるなど、理由と解決の糸口がはっきりしているだけで、はるかに安心できます。

それに対して、【不条理】系の犯罪は対処のしようがありません。

これが私のもつ【不安】の決定的な根拠です。

どうしようもないのです。

どうしようもなく殺されてしまうかもしれない。
どうしようもなく殺してしまうかもしれない。

それが法律で禁じられているからといって、何が安心でしょうか。法律を破る人間など、幾らでもいるのです。意識的に破れるし、欲望に負けて破れるし、最初から気にしないような人間だっているのです。

【殺人罪】は【殺人】を止められません。
【殺人罪】は【殺人した】という【過去】しか裁けません。

【殺人未遂】は【殺人】を止められません。
【殺人未遂】は【殺人しよう】という【未来】しか裁けません。

この【現在】の【殺人する】という行為を、誰も止められないのです。


怖くて仕方がありません。

meiroku at 19:00|Permalinkclip!殺人鬼 

November 10, 2007

誰もが【殺人鬼】になりうるという事実について

「殺人」とは何か。

殺人することは、罪であるとか悪であるとか以前に、もっと単純に何をどうすることでしょうか。簡潔に答えるならば「殺人」とは「誰か」が「誰か」を殺すことです。

殺人には常に【殺人する主体】―【殺人される客体】という構造があり、このどちらが欠けても殺人は成立しません。ジャック・ザ・リッパーが孤島に居たりしたら、誰も殺せないからです。それは明らかだと思われます。

「殺人」と一口に言うと、特にドラマティックなミステリやサスペンスを思い浮かべてしまいがちですが、この殺人の構造は熱射病や自然災害などにも対応することができます。人が死ぬことの原因結果を映し出しているからです。

――――

「殺人」は罪です。

悪かどうかは状況や定義によるので何ともいえませんが、少なくともいつの時代も、どこの地域も、どんな社会体系も「殺人」を罪と定めています。

――――

「殺人」が罪であることから、導き出される隠蔽されがちな事実があります。それは全ての人間に殺人が可能だということです。

誰もが殺人できるからこそ、殺人は罪になります。例えば「悪戯に地球を持ち上げて振り回してはならない。振り回したら死刑」という刑罰がないのは、それが不可能と思われるからでしょう。それに対して「殺人」は刑罰として定められ、どの時代・地域・文化においても禁止されています。何故か。「殺人」が起こりえる出来事だからです。

どの時代・地域・文化においても「殺人」が罪であることは、つまりどの時代・地域・文化においても人間に「殺人」が可能な行為であったということを意味します。

現代でも同じです。寝ているうちに首を絞める、電車を待つ人間の背中を押す、金物屋で売っている包丁で誰かを刺す、爆弾をつくって駅前にしかける、サリンのようなテロも勿論そうですが、「殺人」は誰にでも可能な行為です。そして「誰にでも可能な行為」である殺人の標的になることも同様に「誰にでも可能」なのです。

この事実から、「我々は常に殺人鬼になりうる可能性を保持している」と考えることができます。また「我々は常に殺されうる可能性を保持している」とも言えましょう。

これは非常に恐ろしいことです。しかし一方で、そんなことを気にしていたら日常生活なんて送れやしません。交通事故に遭うかもしれないから引き篭もっていると主張するのと同じで、とてもまともな思考ではありません。

しかしまた殺人鬼になる可能性が誰にでもあること、死体になる可能性が誰にでもあることは歴然とした事実でしょう。ここでは動機や方法について問うたりはしていません、あくまで可能か否かのレベルです。

我々はこの事実を忘れて生きています。世界の一般定立に、殺人鬼は入り込みません。

――――――

ここで言う「殺人鬼」は「誰かを殺人可能な主体」を指します。保険金殺人や痴情の縺れからくる殺人は有意味な殺人ですが、どちらかといえば私が「殺人鬼」と呼んでいるものは「特別な理由なく無意味に」殺人する主体です。殺人という可能性についてのみ言及しているわけですから、特定の意味が入り込まないことは仕方ないことと思われます。

――――――

我々は殺人鬼でありうる存在です。
我々は死体にされうる存在です。


この事実を認めているからこそ、どの時代・歴史・文化においても殺人は罪として規定されるのです。まさにこの事実を受け入れて初めて、そこに倫理や道徳の出番が回ってくるのです。

人間が自由な主体であるというとき、そこに殺人が含まれていることを忘れてはなりません。可能性としてなら、我々はどんな恐ろしいこともすることができるのです。手足を胴体から切り離し、内臓を舐め、性器を切り取って壁に釘でうちつけることは異常な行為であり、普通の精神ならまずできはしません。しかしそう言った行為に含まれる残虐性を全てエポケーして、それが物理的に可能かどうかと考えるなら、普通の筋力をもつ人間なら誰にでもできるのです。

我々は殺人鬼でありうる存在です。
我々は死体にされうる存在です。


そしてこの事実を何故か忘れて生きていられる一般定立の分析にこそ、確固とした安心の世界が広がっているのではないかと考えます。

meiroku at 17:16|Permalinkclip!殺人鬼 

【無意味】が高等な戯れであることについて

「無意味」と単に書いてみても、それが具体的に何を指しているのか説明する必要があるでしょう。私が言う「無意味」とは、当たり前ですが「意味がないもの」を指します。馬鹿馬鹿しいぐらい、当たり前の話なのです。

次に問題になるのは、どのレベルで「意味がない」のかでしょう。

ひょっとしたらこう思われているかもしれません。「おどらでく」だとか「くらむぼん」だとか「ズンドコベロンチョ」だとか、一種のマクガフィンなどに使用されるような適当な文字を並べて、さも意味のないものを作り出したとしても、それは結局「【意味がない】という意味」をもってしまっているじゃないか。その意味で、「無意味」として表現されたありとあらゆる記号表現は「意味がない」という意味をもつため「有意味」なのだから、厳密に言ってしまえば「意味がない」ものなんてないのだ、と。

それはその通りだと考えます。そのような厳密なレベルで「無意味」なものはないでしょう。対象を言語に限りますが、何かを発話したり書き残した時点で「時間」と「空間」的な場を占めていますので、悉く完全に「無意味」なものはありえないでしょう。それは厳密な定義上、我々の頭の中に浮かんでこないのですから。

これを認めるということは、提唱された「無意味」はもう少し曖昧なレベルでの話ということです。つまり私が主張する無意味とは「【日常性】においての無意味」を指しています。先にあげた例のようなものは「意味」と呼びたくありません。我々が一般的に行う日常生活において「意味がない」もの、それを「無意味」と呼んでいます。

例えば「はもべぽけ」という単語があります。今私が作った単語です。

これは日本語でも何でもない、適当な文字の羅列です。

「はもべぽけ」という時点で、それは「文字が連なっている」「時空間に存在する」という意味をもっていますが、実際この「はもべぽけ」にどの程度の意味があるでしょうか?誰かが「はもべぽけ」と叫んだり、街中で使用したりしても、それは指示対象をもたない無意味な単語だといわざるをえません。

つまり「はもべぽけ」は日常において無意味な単語です。

――――

以上の説明で、「無意味」と私が指すものを理解して頂けたと思います。

そのため次に、この記事のタイトルである「【日常性】においての無意味」が、何故高等な戯れなのかを説明しましょう。

また「はもべぽけ」を使いましょう。「はもべぽけ」が日常性において無意味である条件は何か。その答えは日常性において「はもべぽけ」が使用されていないことです。当たり前かもしれませんが、もし「はもべぽけ」が何かの食品名であったり、会社名であったり、想像上のキャラクタであったら「はもべぽけ」は有意味になってしまいます。

ですから「はもべぽけ」が無意味であることは、日常性の意味連関を踏襲した上で初めて成り立つことであると考えられます。

この意味で「高等な無意味」なのです。何故このような言い方をするのかといいますと、それは「根本的な無意味」と区別したいからです。「高等」や「根本的」と書くと、権力関係が発生しそうですが、どちらが偉いというわけではありません。純粋に構造的な問題です。

区別を明確にするために「根本的な無意味」の説明をしましょう。

赤ん坊にとっての世界を想像して下さい。赤ん坊は世界に生まれたばかりなので、まだ世の中の諸対象に対して意味を与えていません。赤ん坊は成長にしたがって色々なもの(乳房、おもちゃ、車など)あらゆる対象に意味を与えて世界内存在として意味連関を獲得していきますが、現時点で赤ん坊であるなら、その時、世界に意味は付与されていません。

この時、赤ん坊にとって世界は「根本的な無意味」の中にあります。それは決して有意味の連関を前提にした無意味ではなく、そもそも未だ意味がないのです。これに対して「高等な無意味」は「世界の意味連関」を前提にした上でのものですから、根本的な無意味とは全く違います。

図にすると以下のようになります。

――――――

「根本的な無意味」
   ↓
成長とともに意味を付与していく
   ↓
「意味連関=日常性の有意味」
   ↓
「日常性において成立する無意味」


――――――

この点で、有意味の上に立脚しているから「高等」と呼ぶことにしました。正確には意味体系の中で起こっていることですから、有意味体系の一領域としての無意味とでも言うべきなのかもしれません。

有意味の中で、つまり日常においてわざわざ無意味を創り上げるということ。これこそは全くもって「戯れ」でしかないでしょう。何故なら、無意味はその名の通り意味がないのですから、他者に確定した意味での影響を与えないのです。

目的がないことが目的であり、意味がないことが意味になっています。

しかし無意味を表示する人間は後を絶ちません。日常性における無意味は、理由が明確ではなくても、非常に魅力的なのです。

つまり「日常性の無意味」を表現することは、単純に目的のないことをしているわけではなく(本当に無目的だと動けないので)、無意味に垣間見れる何らかへの憧れをもって行われる目的のないことであると考えられます。これはいわば一種の遊びに過ぎず、実益もなければ建設的な意味など壊滅的にありません。

たんなる「戯れ」なのです。仕事で忙しい人は「日常性における無意味」に構っている暇などありません。それは悪いことではなく、頽落などと呼んで蔑むことなどあってはなりません。(ハイデガーは別に蔑んではいませんが、非本来という言い方がどうしてもネガティブなイメージを含んでいます)

以上の説明から「日常性における無意味」が「高等」と呼ばれる理由と、それが「戯れ」であるということが明らかにされたのではないでしょうか。

無意味。

このような酔狂なことをわざわざやるのは、何故なのでしょうか。私は無意味に惹かれる者として、これを明らかにしたいと考えるのです。

はもべぽけ

meiroku at 15:27|Permalinkclip!無意味