2023年06月07日

味寿食堂:二度と行きません

味寿食堂

食べログにたまに記事を書いたりしてるのですが、とにかく店の悪いことは言ったら弾かれるということが分かりました。もう食べログでは書きません。食べログは元々悪い噂が多く、自分でもどうかと思ったのですが、今や他を圧倒するサイトとして最低限の信用をしていたんですが、それが裏切られました。やたらとお店のちょうちん持ちみたいなレビューしかないのは、こういうことだったんですね…全く信用できなくなりました。以下は弾かれた内容をそのまま書いています。


ちゃんぽんを玉子とじ野菜を食べ、みそ汁を飲みました。

ちゃんぽんは、とにかく味が薄くて塩味がしない。でも、ちゃんぽんに醤油を大量にいれる訳にも行かず、塩を貰いました。とにかく具がショボくて、スープが上手くなくて、麺もグダグダ。本当に酷いものでした…

他のレビュワーが進めるメニューにちゃんぽんはないので、とにかくこれだけが酷かったのかもしれません。ただ、玉子とじ野菜もちゃんぽんの具とほとんど同じ。こっちは味はマシでした。まあ、こんな昭和からある時計の止まったしょうもない店なら具材の種類を求めるのが間違っているのでしょう。

味噌汁だけは美味しかったです。合わせ味噌らしく、白みそか麦みそだと思います。

最悪なのは店の親父でした。自分たちが入った時に、隣に昔気質のおっちゃんがいました。自分がお茶がなくなったときに、おかみさんにおかわりをお願いしたのですが、そのおっちゃんが「後ろに給水機があって、自分で入れられるよ」と教えてくれました。確かに店も混んでたし、自分で入れた方が店の人も助かると思って普通に自分で継ぎました。そのおっちゃんにはお礼を言っておきました。

そしたら、そのおっちゃんに気に入られたらしく、やたらと話しかけられます。別に自分はそういうのは嫌ではないので普通に受け答えしていました。途中でそのおっちゃんが、「この店は夜は居酒屋だから」と言うと、急に店主が厳しい言葉で「うちは定食屋です」と強く否定してきました。確かにビールや焼酎のメニューが無かったので、それが店のポリシーなのでしょう。多分、常連には酒を進めるということなのでしょう。ただ、新参者は食い物だけ食ってさっさと帰れと言わんばかりで、非常に不愉快な気分になりました。また、常連らしきそのおじさんに、そんなキツい言い方で言わないでも、とも思いました。まあ、割とうるさいタイプの客なので、うっとおしいと思っていたのかもしれません。

しかも余計に感じが悪いことに、そのおっちゃんの向こうに別の老夫婦がいて、小さな声でしたが、はっきりとそのおっちゃんに「余計な口を叩くな」と言っていました。非常に閉鎖的な印象です。

そのおっちゃんは、飲んでた焼酎を空にすると、いそいそと店を出ていきました。

TVで野球を流して、常連限定かもしれませんがビールだけでなく焼酎まで出してるような下町の大衆店で、静かにしろという方がどうかしてると思います。

最後に、自分の方に向かって「隣に客がいるから、もう少し静かにしてくれ」とまた無表情で怖い感じ言われました。確かに声が大きかったのかもしれません。しかし、真ん前のTVの音のせいで会話が難しかったのも事実です。しかも、明らかに自分以上の大声ではなしていた最初のおっちゃんには注意しなかったことも不愉快でした。

とにかく店主が気に入るような静かに食べる客だけ来い、と言わんばかりでした。よっぽど大声で「ごちそうさま!!!」と叫んでやろうと思いましたが、大人げないのでか細い声で「失礼します」と言って店をでました。感じが悪いのは親父だけで、女将さんは非常に感じよく送ってくれました。親父の注意にハラハラしていたのかもしれません。感じが悪いのは親父だけです。

長々とした文章になってしまいましたが、どうして自分が非常に不愉快になったのかをきちんとお伝えしたくて詳細に書きました。

もちろん、TVが大音量でも店主に嫌われないように静かに食べたい人は問題ないと思います。ちゃんぽんと野菜は最悪でしたが、他のモノはマシなのかもしれません。ただ、自分が行くことは絶対ないと思います。

meitei2005 at 03:51|PermalinkComments(0) レストラン 

2023年06月02日

亡くなった芸能人

meitei2005 at 15:00|PermalinkComments(0) TV 

山城新伍

2009年8月12日
平成21年8月12日

山城新伍

現役時代は、バラエティに出てくるエッチで面白いオジサンでした。

その後、時代劇でカッコいい役をするのをみて、こっちが本職だと後から知ることに。

楽しそうなオジサンだっただけに、晩年が可哀そうでした…

meitei2005 at 14:57|PermalinkComments(0) TV 

2023年05月30日

カフェイン錠剤比較

◆楽天

オールマックス カフェイン

100mg=4.25円

ピュア カフェイン

1錠200mg×200錠=40000ml、2980円。100mg=7.45円


カフェイン100+PLUS

10000mg、1478円。100mg=14.78円


カフェイン10000EX

一袋あたりカフェイン10000mg配合、1480円。100mg=14.8円



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カフェイン200

200mg×100錠=20,000mg, 1000円。100mg=5円


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200mg×200錠=40,000mg、2750円。100mg=6.875円


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◆楽天

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ピュア カフェイン

1錠200mg×200錠=40000ml、2980円。100mg=7.45円


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カフェイン10000EX

一袋あたりカフェイン10000mg配合、1480円。100mg=14.8円

meitei2005 at 22:14|PermalinkComments(0)

2023年03月22日

ロールズ批判

自分の最大の社会契約系の議論への批判は、コミュニタリズム的なもの、というか、世代間の継承。酷い言い方をすれば、新メンバーを予め洗脳しておいてメンバーにしておきながら、それで社会の原理の正当性を主張するのはどうなのよ、と。


普通の批判ポイントは、実証・経験的な所になるだろう。

・歴史性(あんたがどれだけ歴史知ってんの?)

・相補性(どうやって証明すんの?

meitei2005 at 16:19|PermalinkComments(0) 鉄力 

2023年01月27日

なぜ異世界転生モノは大ブームなのか?

異世界転生モノ自体は昔からある。

すやまたくじのアニメ・漫画ブログハイトの記事にその歴史が記されている。

ただ、ここ10年弱で異世界モノが圧倒的に人気になって増えているのは間違いない。だが、なぜそうなのかはよく分からない。ハイトの記事が説明しているが、意味が分からない。

あと、「異世界」といっても、大抵はDQ的な世界だというのは作者の手抜きだという指摘もあるが、やっぱり「なぜ今」なのかは分からない。

一番単純で、それでいて一番ありそうなのが、現実社会がつまらないから、というものだろう。昔からSFや異世界転生モノはあった。だが、それを楽しんでいるのは「オタク」という非リア充に過ぎない。ところが、日本経済・社会が停滞して、結婚できない男性が人口の3分の1になり、恋人もいなければセックスするのも大変な社会になると、「非リア充」の割合が圧倒的に高まる。そんな可哀そうな人への慰めが異世界転生モノという訳だ。

これは、異世界転生モノのメディアがアニメになったことにも表れている。少数のオタクが楽しむモノなら小説でも良いし、マンガでも良い。しかし、現代は「マンガの字すら読むのがめんどくさい」人が大量発生している時代だ。また、昔に比べてアニメ制作のコストが下がったし、AMEBAなど地上波以外の放送媒体も増えた。まあ、AMEBAがあること自体「非リア充」が増えているのが原因なのだろう。もちろん、そもそも趣味の多様化もあるとは思うが…

あと、表現形式として異世界転生モノは、世界観の説明を自然にやりやすいというメリットもある。転生モノではなくガチのSFだと、その世界を分かりやすく提示しなければならないし、消費者側にも読解力が必要とされる。だが、異世界モノだと、主人公がその世界を理解していくプロセスを追えば、消費者も自然と理解できる。ここでも安直さが流行の原因になっている。

安直さがその発生原因なのだから、当然面白い作品は極めて少ない。というか、面白い作品というのを見たことがない。まあ、昔の小説、マンガやアニメを知らない世代には、これでも十分面白がれるのかもしれない…それに、今のアニメは絵が奇麗だし…(笑)

要は日本でAVが異常に普及しているのと同根である。併用している人も多かろうと思う。彼らの老後はどうなっているのだろうか?

meitei2005 at 15:36|PermalinkComments(0) 社会 | Animation

2022年11月22日

身体検査

大臣になると特別な法・道徳上の調査が必要とされる様。

およそ真面な国の国民は皆法律・道徳に従って生きるものだと思われるが、なぜか大臣にのみこれが必要とされ、大臣を辞めれば国会議員は辞めなくてもよい。不逮捕特権の裏返し。

meitei2005 at 14:11|PermalinkComments(0) 新紋切型辞典 

2022年11月17日

世界や日本は100人の村、ではない

以前同様のことを書いた気もするのだが、念のために書き置く。

世界がもし100人の村だったら』という本がある。

ちょっと何言ってるか分からない」という人も多いと思うが、説明するより現物を見てもらった方が早いかもしれない。

自分の様に数字が好きな人間にとっては、なんで60〜80憶の人類や1億2500万の日本人に直さなければならないのか直感的には分からない。この本は2001年に出版されたのだが、人気が出たことに味をしめたのか、2008年に「総集編」というのまで出た。中身は内容を水増ししただけで、しかも後半には「1000人の村」と企画が結構変わってくる(笑)。まあ、そこに「大人の事情」があるのは容易に想像できるが、実は100人の村と1000人の村では本質的に異なる、というのが今回の話のテーマである。

ここで使うツールは進化心理学という学問である。これは人間を対象としたものだが、似たような発想を動物全般に広げたものとして社会生物学というのもある。

話をどこから始めたらよいか難しいが、今回のテーマに即して、「なぜ人間は100人の村で生きてきたか」というのが一番分かりやすいと思う。「100人というのは比率(%)というのを使いこなせない子供や残念な大人のための方便でしょ」と思われるかもしれない。

いや、実際に人類というのは、それこそ、その圧倒的な歴史を100人ぐらいの集団で過ごしてきたのだ。となると、そもそも「人類」の定義が必要になる。これまた厳密な学問的な議論はめんどくさいが、ここではおよそ600〜500万年前に登場したヒト亜科という霊長類ということにしておこう。特徴は二足歩行である。

なぜ、腰に負担をかけてまで(直立)二足歩行をするようになったのかには議論もあるが、元々アフリカにいた祖先のお猿様がいたのだが、地殻変動で山ができ、山の片方には雨が降らなくなって草原になり、今の猿が暮らしている森が減った・無くなったからだという説が有力だ。実際に、今でもアフリカには広大なサバンナが広がっている。

二足歩行は負担も多いが、なにより前足(手)が自由になり、その手が器用になって道具なんかを作って使い始めたのが人類と他の動物との差になった、という話は南部アメリカでも育ってなければ聞いた人は多いだろう。ここでも、そのストーリーに乗っかることにする。

初期の人類が脆弱な存在だったことは想像に難くない。なんせ、そこはアフリカのサバンナである。今と全く同じものかどうかは分からないが、ライオンだのトラだのハイエナみたいのがウロウロしていたはずである。そこにサルを放ってみれば、あっという間にエサになるのは目に見えている。

では、なぜ「我々」はすぐに滅びなかったのか。多分、「森が減った・無くなった」というペースがゆっくりだったためだろう。いきなりサバンナに放り出されてしまっては獰猛な肉食獣のエサになるしかないが、「ゆっくり」と森が減っていったのであればなんとかなる、というか運よくそうなった。ここでの「ゆっくり」は、「進化」という観点からの表現だ。動物は進化する。その進化は、ハエとかを特殊な環境で育成しない限り、普通人間の寿命に比べて相当遅い。多分100年や1000年では普通ほとんど変わらないだろう。だから、キリスト教とかで今の動物が神様によって作られた、と教えられても違和感は全くないのである。

ただ、最初に確認したように、今回の話は数百万年のスケールの話だ。「人類の誕生」のwikiにあるように、例えば初期人類の脳味噌の容量は400〜500ccぐらいだったと見積もられている。これは現生の最も「賢い」動物であるオラウータンと大体同じだ。それが、今の人類は大体1400ccぐらい、ざっと3倍ぐらいに増えた。だから「3倍賢くなった」という訳ではないが、大分「賢く」なったのは、我々とオラウータンを比べてみれば分かる。

ところで、脳というのはやたらとエネルギーを消費する。体重の2%ぐらいしかないのに、全エネルギー消費の18%も使うという。もし脳が生きるのに役に立たないのだとしたら、こんな石潰しを抱えていた生物は一発で滅んでしまったに違いない。もちろん、それだけエネルギーを使うからには、それに見合った効能があり、それが「賢さ」とう訳だ。

サバンナに放り出されたサルは、すぐにエサになってしまうと言った。それでは人類はどうやって凌いできたのだろうか? まあ、今のサルの行動から推測するに、最初はなるべく森の近くに住み、危険な肉食獣が来ればキーキー警戒音を出して、仲間は木の上に逃げたのだろう。

安全面はこれで良いとして、食料はどうやって調達したのか。もちろんサルなら木の実、それから場合によってはもっと小さい動物を食べればよい。しかし、状況は今の日本に似ていて、徐々に食い扶持が減っていった時代だ。それに対応しなくてはならない。

ちょっと話は逸れるが、人間というのは自分ではそう思ってないと思っていても自尊心というのを持っている。その証拠の1つが、初期人類の食糧問題だ。最初は、人類は石器や弓矢を使って動物を狩っていたのだろうと言われていた。しかし、サルから狩猟者になるのは相当な飛躍がある。最近では、我々のご先祖の新たな食い扶持は死骸だったと考えられている。

死骸漁りなんてハイエナみたいな嫌らしい動物がやるものだ、と思われるかもしれない。まあ、現実にはライオンとハイエナで、どっちが狩って、どっちが相手の獲物を奪っているのが状況によるのだが、とりあえずハイエナは骨まで砕いて食べてしまう強靭なアゴと消化力の強い内臓を持っているらしい。

だが、どんなにハイエナが死骸を漁っても、やっぱりちょっとは残っているブツがある。食べられない皮のすぐ近くの部位や、大きくて固い骨の中の骨髄だ。どうも我々のご先祖様は、その前足の器用さを活かして、こういう部分を食べてて糊口を凌いでいたらしい。

実は私も魚の皮や、鶏肉の骨の周りの軟骨が大好きだ。日本人としてのルーツみたいなことは考えたことはないが、こうした魚の皮や軟骨を食べている時はご先祖様の事を思う。やっぱり、生き物は食べてこそナンボである。

話を戻すと、こうやって死骸漁りをしていたご先祖様方は、その内にどんどん器用になっていったらしい。そりゃそうだろう。より器用で死骸からより多くのごちそうにありつけた奴が生き残る。適者生存。まさに進化の力が発揮された訳だ。

そうして賢くなっていったご先祖様方は、少しずつ新し食い扶持を増やしたり、生活を便利にしていった。水や食料を保管する器を作ったり、死骸分解や固い木の実を割るのを効率的にする石器を作ったのだろう。

それがどんどん進むと、とうとう本当に狩猟する側に代わってくる。とはいっても、たぶん最初は防衛能力の構築だったのだろう。適当な木の棒とかで抵抗していたものが、その先に石器を付けて斧にできれば上等だ。石器を括り付けるには紐が必要で、このためには適当な草や細い木の枝を使わなくてはいけない。弓矢となると相当難易度が上がるから、たぶんこの斧ぐらいの段階で、団体で装飾動物を狩るぐらいのことをしていたのだろう。あと、罠とか作って捕獲したりしたりもしたのだろう。

よく「狩猟採集時代」と言うが、実際にエネルギー源として大きかったのは狩猟より採集だろうと思われる。これだって、賢くなれば効率も上がる。季節によってどういう場所にどういう生物が生えるかとか、何なら食べれるかなどの知識を蓄積する。生では食べられないものでも火を入れれば食べられるようになるものもある。最初は直接火にくべていたのだろうが、水で似た方が効率が良くてアクも出る。となると、木の器では燃えてしまうので土器が必要という話になる。生より煮た方が消化効率も良く、これまた都合がいい。

ここまで来てしまえば、実際のところもうほとんど我々と変わらないニンゲンだ。だが、人間になったとたん、大きな問題を抱え込むことになる。人間が一番恐るべきものは何か? 別に比喩でもなんでもなく、それは人間自身である。自然界最強の生き物が一番怖いに決まっている。

もちろん、最初は集団で逃げれば良かった。人間がアフリカから脱出したのが大体10万年前ぐらいだったと言われている。なんと人類500万年の歴史の490万年、98%はアフリカだけで暮らしていたのだ。ただ、いったんアフリカから出たら、その後世界に広がるのは相当早かったと見られている。新しい環境に生物が慣れるは相当大変で、進化のスピードではそれこそ万の単位かそれ以上の時間がかかってしまう。しかし、人類は知恵を付けていた。寒くなればあったかい服を作ればよいし、新しい動物もその生態を調べれば狩ることができるし、新しい植物もちょっと調べれば食べられるかどうか分かる。そのスピードは進化とは、本当の意味で桁が違った。

しかし、である。逃げると言っても限界がある。人類が狩猟採集で生きるとして、大体人口当たり〇〇程度の土地が必要だということになる。これは、他の動物と同じだ。最初はどんどん逃げるのがメインだったかもしれないが、そのうち世界中に人類が溢れてしまう。いろいろな説があるが、大体500万人ぐらいが狩猟採集というスタイルの限界だったらしい。このサイズの動物としては相当な数だが、今の基準からしたら相当少ない。

そして、人間の争う相手のメインは人間になっている。このプロセスは想像してみるしかないが、最初は血統の近いグループだったのではないかと思われる。最初の方に出た社会生物学の理屈を使って考えると、我々は自分と近いDNAを持つ人間には優しくなる。というか、近いDNAに優しい生き物が適応的なのである。

ただ、このロジックだけでは規模の限界がある。そして、あれこれやった結果、人類が辿り着いた最適な集団の規模が最初の約100人ぐらいらしいのである(ひょっとすると300人ぐらいまでOKだったのかもしれない)。集団の数は多ければ多いほど強い。しかし、集団内のイザコザが増えれば、逆に肥大化した集団は生き残れない。そのバランスが取れるのが100人ぐらいだったらしいのである。

人類は、食料を得て他の動物や自然環境から身を守ると同時に、その集団の維持のためにも賢くなった。集団の維持という問題が無ければ、こんなに言語を発達させる必要はなかっただろう。アニミズムだったとしても素朴な宗教もなかっただろう。道徳心を促す教育だって必要だ。あと詳細は説明しないが性淘汰、要は色恋沙汰をどうやって上手くやっていくかというのも大事になる。こうやって人間はどんどん賢くなり、どんどん脳は大きくなっていった。

現代社会でも、人類はほとんど進化してないなと思わせられることは多い。例えば喫茶店でコーヒーを飲んでいて、隣の席のOLの話を聞けば、ほぼ間違いなく恋愛とか家族とか職場の人間関係、年齢が上がれば子や孫の話である。立派なべべを着ているだけで、数万年前のご先祖様や、今でも世界にわずかであっても残っている「原住民」という人たちと何の違いもない。もちろん、ごくまれに世界政治や経済の話をしている人もいるが、これなんかは例外だ。地球の裏側では核戦争が起きて人類が崩壊するかもしれず、地球のこっち側でも人口が1位か2位の国が同族が住んでいる島に攻め込んんでやっぱり大戦争からの核戦争となって人類が滅びるかもしれないのに、人間様は飽きもせず自分の半径3mの話ばかりしている。あと、違いがあると手れば趣味の話題というのもある。こういうオタクも比較的新しい存在だろう。そんな中で著者はオタクにも成れない半端ものである。喋る相手もいないから、こんな駄文を書いている…

別に私は男尊女卑の人間ではない。男だって似たようなものだ。夜の宴会で話す内容は、職場の人間関係である。男性の傾向としては、誰誰が出世したとかいう話の割合が多いかもしれないが、これもご先祖様たちも村の中で誰誰が威張っているという話と同じだ。私も学者という職業にありついて、酒の席でもちったあ知的な話ができるのかと期待したが、結局話しているのは職場=大学の話が大半で、これじゃあサラリーマンと変わることは何もない。社会の中で最も知的であるべきはずの人間どもがこのザマなのである。

多分誰もちゃんと調べたことはないが、こういう人間関係の話の対象は、たぶん100人ぐらいに収まっているはずだ。それを大きく超えると、情報の供給が極端に難しくなるのである。人間が2人なら関係は1つだ。人間が3人だと関係は3つ、4人だと6つと、どんどん割合が増えていく。数学に覚えがある人なら nC2 という奴だ。ちなみに100C2は約5000である。

「あなたは約5000の人間関係を考察しながら生きている」と言われると、とてもそんな気がしないという人が大半だろう。人間関係が大事だといっても、普通は10人ぐらいのことしか考えてないし、10C2でも約50である。50の人間関係を考えていればお腹一杯かもしれない。

もちろん、ここの5000とか50とかいうのはフェルミ推定という適当で簡便な数に過ぎない。実際に100人と関わっていても、その人たちは家族とか職場とかサークルとか教室とか、適当にグループ分けされている。そのグループを跨いだ人間関係というのは、あんまり多くないかもしれない。そうすると、100人と関わっていても人間関係5000と言うのは多分誇大広告だ。

そういえば100人と言えば「100人乗っても大丈夫」というCMがある。まあ、ここではそれはどうでもいい。あと100人と言えば「友達100人できるかな」というのがある。ところが、彼・彼女が所属するのは大体40人弱のクラスである。ちょっと話を膨らますと、団塊世代の就学時代には施設・教員が足らず1クラス50人とか60人があったらしい。逆に、最近の先進国では少人数クラスというのがありがたいらしく、1クラス30人とかもあるという。ただ、多少変化があるといっても1クラス1000人なんてのは、マンモス大学の大人気授業以外には聞いたことがない。逆に1クラス数名とかいうのも、統廃合寸前の小学校以外では聞いたことがない。やっぱりせいぜい20〜50ぐらいの数に収まるのだ。

学校のクラスというのは社会の縮図で、社会性を養う場だ。それがなぜ100人ではなく20とか50人なのだろう。教育を受ける側から見れば、まだ子供で社会性能力が未熟なので、100人というのは厳しいのかもしれない。また、教育する側からすれば、担任の先生が、学校の他の先生や親類縁者とは別に、管理できる人間の数が40ぐらいなのかもしれない。もちろん、この能力にも個人差があり、能力(か倫理観、情熱など)の劣る先生だと、いじめなどの人間関係の問題を放置してしまうことになる。多分、こういう理屈が本来ならあると思うのだが、教育学というのは高尚な学問で、どれだけ立派な子供を育てるかという有難い話をしている。子供により目が届くから少人数クラスが望ましいとおっしゃる方も多い。でも、少なすぎたら社会性の学習に問題があるんじゃないですか、なんて質問をしてもマトモな答えは返ってこない。それは彼らの高尚な議論には関係ないからだ。

100人ぐらいが適正規模だというのは、原住民の調査や、人類学の発掘などによって確認されてる。もちろん、幅があるので実際には数十人の集団もあれば、数百のもある。しかし、数人で集団を維持するのは不可能だろうし、逆に1000人を超えるというのも相当難しいようだ。

大分前に、100人ぐらいだったら人間は集団を維持できると言った。別の言葉を使えば「顔の見える範囲」とも言える。私の偉い経済学の先生が教えてくれた。経済学のいう「市場」とは「顔の見えない関係である」と。実際、狩猟採集時代に市場はない。

これが、たぶん「つい」1万年ぐらいまでの人類の生活だった。しかし私は「狩猟採集というスタイルでは100人」と言った。つまり、狩猟採集ではないスタイル、つまり農業というスタイルになると話が変わってくる。念のために書くと、昔ほど狩猟採集と農業の時代と言うのは大きな断絶があった訳ではないと考えられるようになっている。確かに狩猟採集と言っても時期によって数カ所を移動していただろうから、適当に食べ残しを蒔いておけば、次来た時に生えている、という発見はあっただろう。そこから農業が少しずつ本格化し、農業・狩猟・採集をバランスさせた時期もしばらくあったのだと思う。

だが、やっぱりその内に農業がメインの社会になってくる。そして、農業がメインの社会というのは100人では済まない。用水路の整備、収穫された農作物の管理と配分といった仕事は、100人とかでは難しい。難しいというより、上手くやればもっと大きな単位でできたと言った方が正しいのだろう。そして、人間集団の力関係は数が全てだ、というのは変わらない。たぶん、100人とかよりは桁の違う規模を成立させた集団が勝ち残っていった。

しかし、それは大体1万年ぐらい前の話である。人類の脳が進歩するにしては時間が短すぎる。そもそも、100人規模よりもっと大きな集団を作れる脳を進化が生み出せるのだとすれば、狩猟採集でもそれをやっていたはずだ。そこは例の100C2=4545という数字の制約があり、規模を拡大するメリットよりも、脳を維持し消費するエネルギーのコストの方が大きくなってしまったのだ。

脳というハードでどうしようもないなら、ソフトでどうにかするしかない。そこで生み出されたのが制度化された宗教、階層化された社会、もっと進めば法ということになる。もう滅んでしまったが、アステカ文明とかインカ文明というのは、そうやってできていたのだろう。

農業は単位面積当たりのカロリー生産が狩猟採集に比べてはるかに大きい。要するに、地球上で生きていける人類の数が500万人よりもはるかに大きくできるようになったのだ。人類自体の数が大きくなり、人間が所属する集団でも100人なんかとは比べ物にならない大きなものが出て来た。その中でも特大のものが4大文明といわれるやつである。

ここから先は、人類史というよりは歴史の分野になる。ごく簡単に説明する。農業を主力産業とする巨大文明の時代がしばらく続いた。その間、わずかずつだが科学技術が進んだ。そして約200年前に人類は狩猟採集から農業への移行に続く、また大きな変化を迎えることになる。変化は2つある。1つは経済で、ちょっと前に書いた市場経済というヤツに移行した。

なぜ約200年前に変化したのかは定説はない。ここは私の自説になるが、たぶんアメリカなど新大陸の発見と、ウクライナ・ロシアのあたりで遊牧民族が追い出されていったのが大きい。世の主流経済システムは農業になっていたが、未開の巨大な空間が残されていたのだ。細かい説明は省くが、少人数で農業をやると平均的には食べきれないぐらいの生産物ができる。これを放っておけば、カツカツになるまで人口が増えてしまう。有名なマルサスの罠というやつだ。ところが、一気に巨大空間が生まれたおかげで、人類がマルサスの罠にハマるまでに時間の猶予ができた。この間に人類は産業革命をなしとけげた。農業以外の産業の割合がどんどん高まった。普通なら生活水準の上昇で出生率は上がる。産業革命が始まったイギリスもそうで、産業は発展するものの人口も同じペースで増え、大体1800年頃に産業革命が始まったと言われているが、19世紀後半になるまで実は1人当たりの生活水準はあまり上がらなかった。

ところが、である。人類は延々と出生率を高止まりさせるものではないらしかった。そのうち、経済成長とともに出生率はむしろ低下していくのである。これを人口転換という。衛生状態が良くなって幼児死亡率が下がるのは分かるのだが、なぜ子供の数が減るのかも、実はよく分かっていない。子供の数だけではなく質、つまり教育を重視するようになるからだという理屈もある。女性の教育水準が上がって、子供を産んで育てるだけではなく、社会に出て働くようになり、近現代人として他の楽しみを見つけるようになったからかもしれない。多分、全部それぞれそれなりに正しいのだと思う。とにかく、出生率は近代的な衛生状態・幼児死亡率の中で人口を維持する2.08程度まで下がり、さらにそれを下回った。ようやく人類はマルサスの罠から完全に逃れたのである。

大体200年ほど前にもう1つ大きな変化が起きた。この2つのタイミングが重なったのが偶然なのかどうかは私にも分からない。とにかく、社会が王様がいる封建社会から民主主義社会へと移行した。それに伴い、従来からあった法が進歩し、人権などの概念も生まれた。国民国家が生まれ、国民を作るための教育が普及した。2つの変化の関係は分からないといったが、教育の(特に女性への)普及が出生率を下げたのは間違いないと思う。女性はより自由になった。

もちろん、国民国家からその先のストーリーもあるにはあるのだが、今回の話としてはもう十分である。というか、約200年前に起こった大きな2つの変化も実は必要ない。ただ、話を現代に繋げるために必要だったというだけだ。

大きなポイントは、もう我々は100人の村には住んでいないということである。より正確に言えば、100人の村で完結する社会には生きていない。実際に100人ぐらいの村に住んでいる人は、未だに多くいるだろう。しかし、その100人の村の中だけで経済が完結するということは、ほとんどない。また、その集団の維持を集団内の論理だけで済ませているということも、まずありえない。農業社会では制度化された巨大宗教や巨大な王権が出て来たし、現代では憲法を中心とする法と、それを実施する行政で社会は運営されている。

「100人の村というのはお互いの顔の見える関係だ」と先に書いた。そして、数十万、数百万、数千万、どうかしたら数億の社会というのは、当然当事者全員の顔が分かる訳がない。そして、その集団を統治するのは、巨大宗教でも、現代の法・行政であっても、匿名化されたシステムである。例えば憲法は「国民」とか「人民」を対象にすると書いている。どこそこ家では、とかではない。経済も国の単位になり、現代ではグローバル化している。もう、我々が消費する財のほとんどの生産者の顔は分からない。

いろいろな人がいるこの村では
あなたと違う人を理解すること
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です


『世界がもし100人の村だったら』で最も重要なのはこの部分である。これは、まさに、現代の匿名化された巨大集団においてこそ重要な原理なのだ。我々が昔過ごしていた本当の100人の村ではこんなことはなかった。全員が同じ信仰をして、集団の原理に従わないか害を与える者は容赦なく追い出された。とても相手を「あるがままに受け入れる」余裕などなかったのだ。

それではなぜ、この本はそれでもなお、世界を100人の村と捉えようとするのか。それは、100人というサイズであれば、我々人類の脳の力で、お互いに顔の見える情の通じた相手として考えられるからなのである。100人の村はあるがままの相手を受け入れるような寛容な社会ではない。しかし、同じ秩序を受け入れるのであれば、それは暖かく優しくお互いを守り合っていく社会でもある。マンションで隣に誰が住んでいるか分からないとかいう現代社会とは全く異なる。

要は、この本は欺瞞である。巨大文明社会の利益を享受しながら、その運営を100人の村の原理で行おうと言っているからだ。それは端的に不可能である。巨大文明社会は、匿名化された法・行政、経済では市場を中心とした自由経済で運営されなければならない。お互いの情や共感ではなく、論理、法が優先される。そうでなければ、この巨大な社会は運営できない。

念のために言っておくが、現代社会において情とか共感がもう要らない、と言っているわけではない。やっぱり我々の脳は100人ぐらいの集団で生きるように設計されている。多くの人はそれぐらいの規模の集団の中で、顔の見える関係の中で、情とか共感で生きている。しかし、ひとたびその関係から外に出ると、非人格的な論理の世界で運営されている、というだけだ。

「100人の村」の原理による社会の運営が欺瞞だとすれば、どうすればより良く社会を運営できるのだろうか。その答えはもう出ている。民主主義という、最低ではあるが人類が発見した中では最善の政体を用い、なんとかかんとか利害調整を行い、多少は理想に訴えて人の倫理・道徳心を作用させ、市場経済を基本としながらそこに部分的に修正を加えていく。そう、我々が日々ニュースで目にすることである。これを効率的に、それでいて着実に丁寧に、そして質を保って進めていくしかない。

それをするには、我々はもっと賢くならなければならないのかもしれない。進化による脳機能の拡大が間に合わないのであれば、ソフトウェアをアップデートするしかない。それは教育だ。もう先進国においては経済的には割に合わなくなってはいるが、よりよい社会の運営のためには民度を上げるしかないのだろう。また、特に難しくて重要な社会問題の解決のための専門家の養成も進めなければならない。端的に言えばもっと勉強しなければならない。そうでなければ、社会運営に不満を募らせるしかない。それが、民主主義というものなのであり、そこに代替案は今のところないのである。

meitei2005 at 16:06|PermalinkComments(0) 社会 | サッカー文化

2022年11月15日

国葬問題の本質:知的権威の退廃

先ほど「経済成長と社会発展の簡単なモデル」を書いた。

そして「国葬の検証」というツイートもした。

問題は「#有識者ヒアリング」の「有識者」が怪しいからだろう。最近の政府は #三浦瑠璃 とか #古市憲寿 なんかを有識者として扱っている。そんなん誰が信じんねん(笑)

ただ、そうでなくても大学の先生の権威は地に落ちている。これも大学を粗末に扱った末路だね…


事後的にしか「有識者」は公表されないらしいが、事後ならば誰がどんなことを話したかなんて、一般国民は興味を持たないだろう。「有識者」の選定さえ適当なら、これは問題ではない気がする。

問題は、「適当に選定された有識者」がいるか、という問題だ。


◆使い捨てられるタレント学者

最近似たような企画であったのは「消費増税の影響点検」だった。

ところが、ここにタレントの古市憲寿が呼ばれたことで、一気に胡散臭いものになった。彼は社会学者を自称しているが、いわゆる研究者の仕事はしていない。彼の仕事は、TVに出て有名になり、適当な本を書き、それを活かして政府系の仕事をしたり講演したりすることだ。研究者として最も重要な仕事、研究、をしている形跡はない。あれだけTVに出たりしてたら研究している時間もないだろう。功成り名遂げたベテラン研究者ならいざ知らず、まだ30代前半の彼があんなことでまともな研究者になれるわけがない。成れたとしたら、それはいかに社会学という学問がパチものかという証拠だろう。

もう1人有名な最近TVに良く出る若手自称学者としては三浦瑠麗が挙げられるだろう。古市に言ったことは「社会学」を「国際政治学」に置き換えれば全て税率する。師匠は藤原帰一らしいが、とんでもないモンスターを作り出したものだ(笑)。

藤原帰一自身も端正な顔立ちと知的な語り口、そして何より東大教授という肩書でTVで仕事していた胡散臭い人物だった。まともな研究業績で英語で書かれたのは本1冊のみ。日本以外の誰が彼をまともな研究者として知っているのだろうか?

別にここでやりたいのは、タレント学者の悪口を言っていくことではない。彼が言っていることを誰が信じているのだろうか? 藤原も三浦も、客層は全く逆だが、自分たちの客層以外はマトモに話を聞いてはいない。彼らはもうある種の政治勢力の代弁者でしかない。


◆憲法調査会

もう1つだけ、学者が世間の前に出て来た事例を占めさせてほしい。そこで出てきたのはあまりTVで著名ではない、その意味では胡散臭くない学者だった。それは「憲法審査会」だった。特に有名になったのは慶応大学の小林節教授だろう。もともと「タカ派改憲論者」といわれ、当時の安倍政権に都合の良い発言をすると思われ起用された。ところが、そこは学者のめんどくさい性分を発揮し、むしろ安倍政権を批判するような発言を行った。安倍ちゃんはもちろん、それを予想できなかった安倍周辺のブレインの間抜けさんは呆れるしかない。学問には学問としての自立性と内部の論理性があり、単純に政治勢力によって都合が良いかどうか、右か左か、タカかハトか、なんて区別は本来できないものなのだ。小林教授は学者として当然のことをしたに過ぎない。


◆憲法審査会のその後と学者による政治過程の会議

ついでに憲法調査会のその後について見てみよう。誰も興味無いのに律義にHPが更新され続けている。どうでもよい存在に成り果てたのは、実際に安倍が死んで憲法改正が現実の政治課題ではなくなったことと、そもそも憲法改正が本気で考えるときに、ここで議論された内容がどれだけマトモに扱われるも分からないからである。

その理由も単純で、そもそも参加した学者に権威がないからである。小林教授が有名になったのは、政府の意向に逆らうことを言ったからであって、彼が特別権威があるからではない。そもそも、今の日本に憲法学等で権威がある人間がいるのだろうか? そして、そんな連中が出した「結論」を誰が尊重するのだろうか?

これは、他の政府の審議会などでも同様だ。今では審議会というのは、基本的にはどうでもいいか、政府の言うことを聞く御用学者が政府の方針通りの結論を出す機関に過ぎない。

いつからこんなことになってしまったのだろうか?


◆過去の事例

自分も過去の事例に通じている訳ではない。

1つ目に思いついたのはジェームズ・トービンが1961年〜1962年、ジョン・F・ケネディ大統領の下で大統領経済諮問委員会委員を務めというものだ。トービンは後1981年にノーベル経済学賞を受賞しており、1961年頃にはトップクラスの経済学者としての地位を確立していた。ただし、この時代の経済学はまだまだ見発展であり、その割にトービンは強気だったのだが、案の上失敗してしまった。

2つめは、高坂正堯の特に大平内閣下での「総合安全保障研究グループ」、1983年に設置された中曽根康弘首相の私的諮問機関「平和問題研究会」での座長での活動だった。論壇では憲法九条を象徴とする理想主義的な外交が論じられていたが、高坂は現実主義者として、軍事の必要性を意識しつつも、80年代の新冷戦という厳しい外交環境下でタカ派の中曽根康弘首相の下で日本の軍事費を低い水準に保って経済を強めた。また、TVに出ての洒脱な語り口には人気もあった。

最後には、最近ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキである。彼は学者だけではなく、第14代連邦準備制度理事会 (FRB) 議長(在任:2006年 - 2014年)を務めた実務家でもあった。2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に指名され実務家としての道を歩み始めるが、その頃に既に50ほどになっていて、ノーベル賞級かどうかは議論が分かれるかもしれないが、一流経済学者として学会の中心人物だったのは間違いない。

3つの例の内2つがアメリカの、それもノーベル経済学賞受賞者になってしまった。経済学賞は特にアメリカに集中しているため、こういうことが起きやすい。ただ、近年ではFRB以外でノーベル賞級の経済学者が実務を行うのは稀だと思う。


・日本の事例

日本の事例となると、高坂正堯以降はとんと思いつかないし、そもそもその前からそういう人がいたのかも疑わしい。丸山眞男は政治学者として、戦後のリベラルな論調に大きな影響を持っていた。しかし、学者として優秀で、その上実務やマスコミで活躍した人となると、全く思いつかない。

そもそも立派な学者がいない。文系で他分野でも知られるのは民俗学の柳田國男(彼は元々官僚だった)、博物学者・生物学者の南方熊楠、音楽学の小林義武、数理経済学者の宇沢弘文(ほぼノーベル賞級)…あと歴史学からは網野善彦。その他は和辻哲郎西田幾多郎…哲学系・宗教系では他にもいるかもしれないが、私が無学なせいか、これ以外は思いつかない。永井均はまともだと思うのだが…作家としては夏目漱石ぐらいか…意外と冷戦後の浮ついた時代に冷徹な核戦略を説き続けた高橋杉雄さんなんかは相当偉いのかもしれない。

確かに文系はノーベル賞は経済学にしかないし、日本語で研究している学者も多い。ただ、いくら人文科学でも今どき英語で論文を書かないと、国際的には評価されないに決まっている。比較的国際的な経済学でも、マシな学者は英語で論文を書き、駄目なやつが日本語論文を書くという役割分担が成立している。それに社会科学でも経済学以外はそもそもマトモなのかという問題もある。

それでは逆に、駄目な例を挙げていこう。最近だと三浦瑠麗と古市憲寿が典型だろう。若い人には(も?)ひろゆきと差はないと思われる。部外者ながら養老孟司は知的に優れた人だという印象があったが、『バカの壁』以降、自分自身がその壁の中に引きこもっている。

もう学者でもなくなるが、一般に人気があったのは司馬遼太郎だった。しかし、所詮は戯作者。「司馬史観」というたいそうな言葉まで出てきたが、これなんか「アベノミクス」とか「新しい資本主義」みたいなもので、専門家はみんなバカにしている。

あとは立花隆。確かに田中角栄を退陣に追い込んだのだからジャーナリストとしては立派だった。しかし、その後はとにかく本好きおじさんになり、訳が分からないことに成り果てた…

ワイドナショーという報道でもバラエティーでもない番組に出てきて、何にでもコメントする作家や(元)新聞記者なんかは最低レベル。一応報道番組に出てくる学者でも、マスコミに名が売れている者は99%ゴミだ。理由は単純。現代のマトモな研究者は研究と教育と学内業務が大変で、マスコミの相手をしている暇などないからだ。竹中平蔵なんて似非学者から政治家・政商になった人間までいる。宮台真司東浩紀なんかも酷いものである。宮台は援交・ブルセラの専門家、東は郵便局の専門家である。それが他の分野に何をしゃしゃり出ているのだろうか? それほど知的に優れているようには見えない。

最近、マシだと思うのは、ウクライナ戦争にきちんとした軍事研究者を出していることだ。先ほどの高橋杉雄、小泉悠なんかは、「知的な巨人」ではないかもしれないが、確かな専門性を感じさせる。2人に共通することは、「知らない」とはっきり言うことで、自分の専門外で怪しい発言をしないということを徹底している感じが伺える。記憶が定かではないが、湾岸戦争はじめ、これまではそんなことはなかった気がする。統一教会問題に出てくる櫻井義秀さんなんかも安心感がある。特定の分野の特定の問題だけに出てくる人は、マトモな可能性が高い。ただ、政治学者・社会学者はやっぱり全般的にいかがわしい…たぶん、一番ちゃんとしてそうな盛山和夫がメディアに出ないことも関係しているのではないかと思う。


◆日本における知的ヒエラルキー

それでは、日本における知的ヒエラルキーはどうなっているのだろうか。話は単純、やっぱり東大の先生が偉い。田舎だとその地方の旧帝大の先生が偉い。それぐらいだろう(笑)海外でどう評価されているなんかは、ノーベル賞でも貰わないと分からない。成田悠輔という人が出てきたが、今のところは海千山千だ。

全国区だったら、流石にまだ東大の御威光は通用する、と思いたいところだ。官僚、全国向けの新聞やTV、あと今ではほとんど滅びかけているが真面目な雑誌などマスコミ、古い大企業なんかは東大出身者が多く、彼らは大学で東大の先生が意味が分からないぐらい勉強して知識があることを知っている、はずだ。あと、一応世界大学ランキングみたいのに、東大だけはそれなりの地位にいることも調べれば分かる。

(余談だが、上場企業の社長の出身大学で一番多いのは慶応である。慶応の先生が経済で起用されることが多いのはこれが原因だろう。もちろん、そのトップは竹中平蔵ではあるのだが…)

じゃあもう、お国の仕事なんかは東大の先生、せいぜいその先生が推薦する将来東大の先生になりそうな若手先生にやってもらえばええじゃないか、と単純に考えられる。ところがそうもいかない。なにせ、最近政府系の仕事がやたらと多いのである。〇〇審議会みたいのは山ほどある。

それにさっきも言ったが、マトモな研究者はメディアや政治の仕事なんかしない人も多い。ある程度年齢がいって、研究にピークを過ぎた人が気まぐれでやってくれるぐらいのことが多い。特にメディアや政治系の仕事を受けて、バカを相手にするのは本当に気が折れる。それが嫌で学者になってる人もいるぐらいだ。

そうなってくると政治やメディアは、大学のランクは下がるが、特に首都圏の私立大学の先生辺りに手を出さざるをえなくなってくる。早慶ぐらいならまだましだが、それより下になってくると本当に大丈夫なのだろうか? まあ、どうせ本当のことなんて誰にも分からないんだから、それっぽいことを流暢に話してくれる人を選んで置けばよいだけだ。

あと、学問の専門性が進んだという問題もある。例えば国葬問題を偉い学者に考えてもらおうとしても、憲法、日本史、天皇制、海外の王室、倫理・哲学、政治哲学・民主主義…さまざまなジャンルの人が必要になる。東大が巨大大学と言っても全ての分野を網羅しているわけでもなく、しかも半分以上は世間と話が通じない。

勢い、怪しい学者を使わざるを得なくなる。そうそう、慶応大学に天皇制の専門家がいる。明治天皇の玄孫ということだけがウリの竹田恒泰先生だ。この人も父親も裁判にまみれて、公室を汚す存在に成り果てている…それでも慶応大学の先生なのだ。博士号をとってもいないが…あと慶応大学の有名な先生と言えば竹中平蔵…本当に慶応大学の先生は信用していいのだろうか…いやいや、私が尊敬する永井均だって慶応だ、と勘違いしていたが、慶応出身というだけで日本大学文理学にお勤めだったらしい…

そうなると、国民の側だって疑心暗鬼だ。「この先生の大学聞いたことないけど、大丈夫かしら」なんてことになりかねない。うちの田舎の高卒の母親が安倍総理に一言言った。「せめて早稲田か慶応を出てくれていれば…」。残念ながら成城大学だか成蹊大学だか、あまりお勉強のできないお坊ちゃんが行く大学だ。東大出身の平沢勝栄が必死で家庭教師をしたが、どうにもならなかったらしい…これが田舎のおばちゃんの正直な感想というものだ。


◆もう何も信じられない

まあ、マトモに考えればもう信じられるものなんて1つもない。日本は東大卒の官僚が優秀だという噂だったが、これはここ30年で完全に反証されてしまった。そもそも、世界のトップクラスの実務家が修士号・博士号を取っている時代に、学部卒でなんとかなるわけがないのである。流石に霞が関はそれを分かっていて、入省した人を海外に派遣して修士号ぐらいはとらしている。やっぱり彼・彼女らは日本の中では一番マシな存在なのだ。それでも国民は満足できない。

そうなら、アベノミクスだの、統一教会だの、ひろゆきだの、ホリエモンだの、新しい資本主義だの、なんでもござれとなるのも仕方ない。夢の21世紀があけてまだ20年だが、世は末である…

meitei2005 at 18:49|PermalinkComments(0)

経済成長と社会発展の簡単なモデル

これからいろいろ議論していくのに便利になるだろうから、表記について議論をまとめておきたい。前提としては最適成長モデルを考えるが、別にソローモデルでも良いくらいだ。ただ、最終的にはやはり家計の何らかの行動様式を織り込まなければならないため、最適成長モデルが出発点として最も簡潔かつ十分だと思う。


◆興味深い点

もっとつまらないと思って始めたのだが、教育補助金が出生率の改善だけでなく教育水準・政治レベルの上昇に同時に繋がるというのは、意外と盲点だった。


◆経済成長のモデルの結果

モデルは非常にシンプルで、一番簡素なモデルに教育だけを導入する。教育水準Eは一般資本Kと同じく一定割合で減耗し(現実には労働者の引退を想定している)、毎年労働時間を削って教育投資Sを行うことで増える。教育生産関数は単純に、E=(1-δ_E) S、で良いと思うが、教育の追加効果の逓減を考慮し長ければ、もう少しだけ複雑になる。

実際のところ、経済がフロンティアに移行するまでは、Eに意味はあんまりない。Kが増えるようにEが増える。実際経済を成長させるのはハロッド型技術Aの成長である。Eは、特に高度経済成長中のAの高い水準のいくばくかを説明するという意味しか、この段階ではない。余談だが、生産関数にさらにエネルギー・資源消費のMとかを入れると、「無知の指標」がもっと減ると思う。

モデルの結果はきわめて簡単で、低所得国ではAが当初高い水準で上昇し、フロンティア付近に達するとフロンティア経済の成長率の2%程度に収束していく。ここでは単純にAは外生と考える。経済も
Aと同じように成長し、低所得国から中所得国になり、最後は先進国になる。教育水準も同様だ。


◆人口N、教育補助金B、付加的年金給付Pの導入

モデルをOGにして、もう3つ要素N、B、Pを追加しよう。

Nの関数はややこしいが、低所得国の時に中ぐらい、中所得国で高く、高所得国で低くなるとする。高所得国でのNの成長率はマイナスになるとする。

Bを入れるとNの成長率は上がる。

Pは現役世代から引退世代への所得移転であり、税引き後の現役世代所得の50%(所得代替率)とでもしておく。

このモデルの結果は単純で、経済成長すると人口が減り、年金負担が大きくなる。別の税金を取りBを入れると一定範囲では人口成長率が復活し、経済厚生が改善するとする。

また、BはEの生産関数にもプラスの効果を持つ。Eの関数を時間だけでなく金銭もかかるとしておけばよい。

ここでは初期世代が云々とか、世代間の利害関係の政治などは考えず、social plannerが勝手に決めるとする。


◆現実国家への当てはめ

もっとモデルを拡大しても良いのだが、記号が増えるだけなので止めておく。ここでは先進国を3つのパターン、アメリカ・新大陸型、北中欧型、東アジア・南欧型と3分割する。

・アメリカ・新大陸型

ここは最初から人口成長率が高く、年金負担が大きくならない。土地代が安い、移民が多いことなどが挙げられる。

・北中欧型

ここは経済成長に伴い人口成長率が低下するが、途中から危機感を覚えBを増やす。すると人口Nの成長率は回復する。ここでは単純にNの成長率は0となるとしておこう。副次的効果としてBを増やしたのでEも増える。経済への直接的な効果は、教育の追加効果逓減のため、限定的とする。

・東アジア・南東欧型

ここではBを低水準にして人口成長率の低下を放置する。人口成長率は低下し、国の規模は年々小さくなり、年金負担は高い水準になる。日本、韓国はまさにこれ。中国も国家体制はアレとしても、少子高齢化の道には着々と進んでいる。面白いのは、ロシアも同じという点だ。ただ、ロシアでは石油と天然ガスがあるので、まっとうにやっていれば豊かなのだが、ものの見事に資源の罠が発動しており、権威主義体制になっている。


◆モデルの社会的含意

ここで興味深いのはタイプ2と3の比較だ。北中欧型はBが多く、国民の就学年数は長い。これは現実には大学進学率の高さなどに表われている。また現実、こうした国では女性の社会進出が進むため、年金負担の負担主も多くなる。教育水準が高いため、政治・マスコミのレベルも高い。

東アジア・南欧型では、就学年数が短め、大学進学率が低めになる。女性の社会進出も制約的だ(共産党の建前のおかげで中国では女性の社会進出は割に進んでいる)。政治のレベルも低い。女性の社会進出が制約的なため、ブレッド・ウィナー的な家計になりやすい。男はフルタイム、女性はパートタイムという感じだ。




・北中欧型の教育と政治

ここで1つ注目したいのは、それぞれの社会における教育や大学の価値が大きく違うだろうという点だ。北中欧型は社会全体の教育水準が高いため、大学の存在価値自体も大きくなるし、教育がある人の社会的威信も高くなるだろう。プーチンが謎の博士論文を書いてたりするのも、この辺りの事情による(実際、ロシアの経済タイプは北中欧型よりも、石油・天然ガスの湧く東アジア・南欧型だが)。

大学は教育機関だと考えているが、知識人への社会的威信が高まれば、自然と大学教員のレベルも上がるのだろう。これは、現実にはアメリカなどと違い、北中欧では大学教員の給料は安いのにレベルは保てていることと整合的だ。


・東アジア・南東欧型の教育と政治

一方、こちらの国々では教育も経済も停滞する。結果として政治はポピュリスティックあるいは権威主義的になる。日本、見事に当てはまっている。また経済は先進国にはなっていないものの、中国・ロシアも見事にこのコースに乗っている。韓国はまだ経済成長している分だけましだが、その内こっちがわに来るだろう。

あと南欧といえばイタリアで、まさにこのコース。東欧ではハンガリーのミニプーチンことオルバンが有名。ポーランドも対ロシアで勢いづいているが、実はこれが背景にあるのかもしれない。

さらに、こういう国では性的マイノリティなど人権感覚が弱く、報道の自由が低く、過去の賛美に走りやすい。

問題なのは、人口成長率が低いということは年寄りが多いということであり、これも様々な社会の進歩の足枷になる。


・ポピュリズムに対する注意点

ポピュリズムを経済と教育の停滞が原因としたが、これらは十分条件かもしれないが必要条件とは限らない。英米は経済はマシだが結構ヤバい。こっちは経済全体の水準よりも、移民・格差問題の方が大きそうだ。ただ、これらを政治的に解消できないということも、やはり政治レベルの低さであり、民度の問題ともいえる。

meitei2005 at 15:26|PermalinkComments(0) 社会 | 政治