2006年10月12日

ピピ島 tsunami海中メモリアル

久々のピピ島ネタです。
ピピ島のトンサイ湾沖に先月末、tsunamiの水中メモリアルが完成したそうです。
このことを知ったのは、ピピのイントラ、shunさんのブログサイトにて。
最近になって、タイの英字紙TheNationとプーケットガゼッタでも記事として取り上げられました。
次回訪島時には、是非潜って祈ってきたいと思っています。

TheNation記事 Tonsai tribute
The Phuket Gazette Underwater tsunami memorial installed off Phi Phi Island


A drop in the Ocean記事
津波水中メモリアル
Tsunami Undersea Memorial
Tsunami Undersea Memorial 続編
Tsunami Undersea Memorial 続々編
Tsunami Undersea Memorial まとめ編

2006.5月のピピ島・クラビ・プーケットの画像
2005年5月のピピ・プーケットの様子
2005年9月のピピ・プーケットの様子もあわせてご覧下さい。現地の復興状況が比較できます。




完売カウントダウン開始!
ピピ島の子供達が書いた絵本 『みんなのピピ島』 好評発売中 
この本の売り上げは、昨年末被災したピピ島の子供達とその家族の生活支援に使われます。




ピピ島のダイブインストラクター shunさんのサイト。ピピ島の現在の様子、子供たちへの支援の状況がご覧いただけます。
A drop in the Ocean


最強のタイランド情報を探そう



  

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2005年02月01日

被災手記 その13(本編最終回)

感謝
今回の災害で、私は運良く助かり、貴重品も無事で、まるで奇跡としかいいようがありません。
不幸にも亡くなった方と私とがどう違ったかといえば、本当に運が良かったとしかいいようがなく、生と死は紙一重だったと言えます。会う人会う人からも、お前はラッキーだと言われました。神様(仏様)は私たちにとてつもない試練を与えた思います。無念にも亡くなっていった人達の分まで一生懸命生きなければ、と、心から思いました。
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2005年01月31日

被災手記 その12

4e09b505.jpgバンコク〜台北〜日本へ 12/30
 スクンビット方面からNaraiホテルに戻った時は、日付が変わって30日になっていました。
 気晴らしに外へ出たわりには、やはりあまり眠れず、5時半に起床。すぐに朝食を取り、ホテル前に止まっていたタクシーでドンムアン空港へ・・。車はガンガン飛ばして35分で到着、高速料金込みで270バーツ、ドンムアンは被災とは関係なく、いつもの通りでした。

 出国手続きでは、パスポートが濡れ、写真の所がめくれ上がっており、出国カードもボロボロで数字の所が読み取れず、別の係員の所へ連れて行かれました。事情を説明したところ「マイペンライ・・・」係員もなれているようで、結局新たに出入国カードを書き直し、無事出国。
時間があったので、空港内のマッサージコーナーに行ってマッサージ。その後、免税店へ行っておみやげを大量購入しました。普段の旅行ならば、BIG−Cくらいで適当に安くてタイっぽいものを買うくらいで、お土産をほとんど買って帰ることはないのですが、今回は時間も余裕もなく手ぶらで帰るわけにいかないため、おもしろみも何もないチョコレートなどを購入し、ついでに売店でBangkok Postを購入、本当はThe Nationが欲しかったのですが・・・。  続きを読む
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2005年01月29日

被災手記 その11

3c9d0fe8.jpg12/29 バンコクの様子
 朝起きたら、9時をすぎていました。あまり、眠れませんでしたが、久々に柔らかい布団の上で休むことが出来、身体の痛みもなくなっていました、疲れからきていたのでしょうか。
 朝食後、ペニンシュラプラザの中華航空オフィスへ・・。元々、元旦の夜に帰国する予定でしたが、便があれば明日にでも・・。と思い、タクシーに乗りました。
 タクシーの運ちゃんは最初、何処かバックマージンの入る店に連れていきたそうでしたが、ピピから逃げて来たと一言告げたとたん、ハンドルから両手を離して哀しみのポーズを作り、オフィスまで大爆走。お金は持っているから、ちゃんと料金を払うと言ってもマイペンライを連発して受け取ってもらえませんでした。オフィスで事情を説明し、チケットを変更、ここでもコーヒーをごちそうになりました。オフィスを辞し、BTSでホテルに戻りました。この後、ここバンコクでもいろいろと親切にしてもらうことが続きました。
 
 部屋に戻ってNHK国際テレビを見ると、一緒に避難していた日本人の姿が映っており、なんと自分も映っているではありませんか?顔はやめてっていったのに・・・・別の映像で映したらなんの意味もないじゃん。このあと何回かNHKを見ていたのですが、新しい情報が入らないときのおきまりのパターン「同じ映像の繰り返し」で、帰国後のフォローが大変だぁと思いました。

 少し休んだ後、帰国用の服を買いに街へ出ようと再び部屋を出ました。フロントには「new yearのイベントは自粛します」の張り紙と同時に「献血募集中 献血会場までトランスファーします」と張り紙がありました。「これだけ多くの人が傷つき、亡くなったのに、自分は多くの人に助けられ生きている。自分だけ助かって何もせずにいて良いのだろうか・・」少し体力面で不安がありましたが、とりあえず会場まで行ってみようとフロントに申し出、スネークファーム近くのチュラローンコーン病院まで運んでもらいました。 
 赤十字の本部もありそこには、多くの救援物資が集まり、高校生らしきボランティアが大勢仕分けを行っており、ボランティアが定着していることに感心しました。

 献血会場は外国人専用会場が設けられるほど大勢のドナーで溢れ、受付をすませ、1時間ほど外で話をしながら順番を待ちました。医師はSwedenとHong Kongから来たそうで、ドナーはバンコクへ旅行か仕事で滞在している欧米人、フィリピン人などが多かったようで被災者はいませんでした。献血は500ml。ちょっと多めですが無事終了。変な赤い薬をもらいました。未だ、飲み方が分かりません。

 冬服がないため、近くのロビンソンデパートで服を一通りそろえ、バスでいったんホテルへ戻った後、食事をしに少し遠出、プロンポンへ。到着の日以来のタイ料理。タイ式マッサージも2時間受けました。本来、津波がなければ、これが毎日続くはずだったのですが・・。
 何はともあれ、明日は日本に帰れます。バンコクでもタイの人の優しさに多く触れたのでした。  続きを読む
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2005年01月27日

被災手記 その10

Naraiホテルの夜 12/28
 Naraiホテル到着後、部屋の鍵を受け取りすぐに部屋へ。早速、実家に電話をかけようとするも調子が悪くつながりません。重い足を引きずり、フロントへ。フロント氏に電話をかけたいけど繋がらない旨を伝えると、すぐに、オペレーター室に案内してくれました。
 オペレータの女性に電話番号を告げ、繋いでもらい、両親に報告、もう涙が止まりません。本当に心配かけてごめんなさい。自分の親不孝を詫びました。ただならぬ状況に、電話が終わった後、オペレーターの女性はピピ島での話を聞いてくれました。涙ながらに自分の経験を話すと、みんな、涙目で聞いてくれました。2時間ほどそこにいたと思います。その間、ここでもカオパットとパイナップルをごちそうになり、タイの人の優しさが身にしみました。
 いつまでもオペレーター室にいるわけにいかないので、丁重に礼を言って部屋を辞し、自分の部屋へ。久しぶりのシャワーです。足の付け根の所に切り傷があることにこのとき気がつきました、だから短パンが破れていたのか・・・。
 シャワーから出ると、電話が・・。先ほどのオペレーターの女性が仕事を上がる前に、私のことを心配してかけてきてくれたのです。タイの人の優しさにまたまた涙です。
 ベッドの中に潜り込むも、やはり、水が入ってきたときのことを思い出します。その日は灯りとテレビをつけて、入り口のドアを少し開けて休みました。
 1ヶ月たった今も、まだ灯りを消さずに寝ることができません。  
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2005年01月24日

被災手記 その9

12/28 プーケットからバンコクへ
 2日目の夜もあまり眠れませんでした。天井扇が強かったのもありましたが、8時前に起き、向かいのメルリンホテルにテレビを見に行きました。そこでは、大使館関係者の方が仮眠を取っておられました。(彼らは連日ほとんど寝てないと思います、本当にお疲れ様です・・。)
 朝から取材攻勢・・・。前日同様、名前を出さないことを条件に応じましたが、記者はほとんどプーケット近辺の状況が分かってないらしく、(ピピ島、カオラックの位置関係も知らない)正確に伝わるかどうか心配でしたが、行方不明の方も多くいると知っていたので、できうる限りの情報を伝えました。(帰国後、新聞記事を見て、全く正しく伝わってないことを知る。)  続きを読む
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2005年01月23日

被災手記 その8

ピピ島からプーケットへ・・・12/27
 桟橋には、他の避難所から降りてきた同胞も沢山いました。パスポートを含め荷物を流されてしまった人もかなり多く、命・貴重品ともに無事だった私が本当に幸運だったということを改めて認識しました。船を待っている間、島ではヘリがひっきりなしに飛んできて、海岸では遺体の搬出作業が行われ、クラビへ行く船にもいくつか運ばれていきました。海はおびただしい数の浮遊物・沈下物があり、元の美しい海とは別のものになっています。桟橋には長蛇の列が出来、クラビ・プーケットへ戻る船からは被災者と入れ替わりにレスキュー隊・ボランティアが降りてきて、船員は桟橋で待つ被災者にミネラルウォーターを投げて渡しています。炎天下で待つこと数時間、ようやく自分たちの順番になりました。なんとか、乗船した船はけっこう大きなものでしたが、津波の体験からか、甲板に行った人が多いようで1階は空席が目立ちました。昼12時過ぎにようやくプーケットに到着。プーケットでは沢山のボランティアが待ちかまえていて、食料、水を配っていました。ホッとするのもつかの間、出口にはバンやピックアップトラック、ソンテウが停まっており、私たち被災者をプーケット市内の県庁敷地内にある臨時被災者支援センターにピストン輸送してくれました。
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2005年01月22日

被災手記 その7

12/26夕〜27の朝
 山を下る道は登ってきた方とは反対側で、一応人が通れるようにはなっていましたが傾斜はかなり急で、裸足の私にとってはかなり苦しいものでした。また、道の脇にも避難された方がかなり座っていて、誰かが叫ぶとみんな慌てて登り出すという一種パニックのような現象も見られました。途中、何度かしりもちをつき、おしりで滑りながらなんとか麓までたどり着きましたが、降りたところから自分のホテルまでの間、がれきや泥濘をこえなければならず、かなり時間がかかりました。ようやくたどり着いたホテルは、ほぼ半分が倒壊、残ったコテージも天井が落ちて建物が傾き、室内がひっくり返った状態で、レセプションやレストランも完全につぶれてました。
 ホテルの敷地は、崩れたコテージやら家具、旅行者の持ち物で足の踏み場もないほどで、歩くのに一苦労です。ある部屋の前ではロシアのパスポートが落っこちていました。火事場泥棒にでも遭ったのでしょうか?
 私の泊まるはずだった21号室の室内は泥水でグチャグチャ、天井が完全に落ちていたものの、幸運にも私のリュックサックをひっくり返ったベッドのしたから発見し、部屋の外へ引きずり出しました。ただし、衣服は泥と塩に浸かって使い物にならないし、海水を吸って重くて邪魔になるので諦め、泥だらけの靴だけ履き、貴重品や水の入ったデイパック部分を分割し、最小限の装備で山へ逃げ戻る事にしました。途中、つぶれた建物とかを覗き、声をかけながら歩きましたが、返事はありませんでした。水に浸かった部屋の前で荷物を片づけている白人(なんと、酒を飲んでいる!一緒に山へ逃げたほうがいいと言ったが彼は残ると言った)、すでに、簡単な小屋を建てて、火をたいている現地の人がいましたが、もし次の波がきたらひとたまりもないので、山へ急ぎました。後から思うと、もう少し見て回り、なんらかのヘルプをしたり、食料品を手に入れておけば良かったのですが、一人で動くのは不安で全く余裕がありませんでした。  続きを読む
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2005年01月21日

被災手記 その6

昼間の避難所
 移動した避難場所には大勢の人がいました。当初でも5〜60人はいたでしょうか。携帯電話の着信のみが外部との連絡手段で、地震がスマトラで起き、プーケットにも相当の被害が出ていること。スリランカやインドの被害がひどいこと。タイの海軍の船がこちらに向かっていること。・・・等の情報が伝わってきました。みな口々に自分がどうやって逃げてきたか、早く帰りたい、ここで夜を迎えるのは嫌だ・・・等と話していましたが、一日ツアーでピピに来られた方がほとんどで、(体力温存の意味でも)皆おとなしく座り、現地ガイドの指示に従っているようで自分から動く人はいませんでいた。この時点で私は、プーケットの状況がひどいことを鑑みて、おそらくこちら(ピピ島)まで救助の手が回らないんじゃないかと思い、あまり楽観的にはなれませんでした、荷物もどうなったか心配だし・・・。
 そのうち、救助のヘリが、往来し始めました。2時半〜3時頃だったと思います。火をたいて、煙を上空に知らせる人もおり、少し期待感がもてました。しかし、期待とは裏腹にあまり良い情報は入ってこず、反するように、今まで少なかったピピ島の住人も加わり、山上の人間はますます増えてきました。血だらけの人や、足を引きずり肩を支えられてきた人も徐々に増え、正確な情報が乏しい現地はいっそう不安で混乱した空気になりました。
 ところで、私が日本人ツアーの集団の中にいる間に、一緒に屋根へ逃げたスウェーデン人が貴重品を取りに山をいったん下り、無事戻ってきました。聞くと私のコテージはまだ壊れてなかったそうです。(何で一緒に取りに行こうって誘ってくれなかったんだよ・・・)非常に不安でしたが、夜になると動きがとれなくなると思い、貴重品を確保するため、おそるおそる、一人で山を下りることにしました。
  
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2005年01月20日

被災手記 その5

山へ逃げる・・・。 
 山といっても、急角度で道なき道を登るだけです。小枝やとげが刺さり、立ち止まって木を持つとタイ名物の凶暴蟻が噛み付いてきます。私を含めて多くの人がここで怪我をしました。本当は10数メートルも上れば安全だったのですが、恐怖のあまり、数十メートルは登ったと思います。南ア人の連れ合いの方はぜんそく持ちで、途中でかなり辛そうな表情で吸入薬を使っていました。私もぜんそくの経験があるのでその苦しみはよく分かります。
 しばらくすると、山の上からライフジャケットを着た人が降りてきました。あと5分くらい登れば、開けた場所があり、避難した人がいるとのことです。なんとか、登り切り、少しくだったところでライフジャケットを着た人達と合流しました。彼らはビーチや埠頭方面から逃げてきたプーケットからの1日ツアーの参加者で、日本人も何名か含まれていました。皆、一様に不安そうな表情で推移を見守っている様子でしたが、私は同胞に会え、少し安心しました(それまでは、片言の英語のみで本当に不安でした)。津波があった時刻は、私を含めて、プーケットからの船が到着する時間で、かなりの人が埠頭近辺にいたはずです。聞くところによると、ビーチでは、いったん海の水が引いたため、危険を察知した人が呼びかけ、かなりの人が逃げることができたそうです。(ということは、埠頭近辺、ホテル内、プール、村内のショップ、レストランにいた人は大丈夫なのだろうか・・・。)
 しばらくすると、韓国人の若い女性が2名全身水びだしで登ってきて、私たちに合流しました。彼女は茫然自失状態で、水を差し出すと一気に飲み干し、その場で倒れ込んでしましました。聞くと、ピピに着いたばかりの所を襲われ、友人とはぐれ、荷物もすべて流されたそうです。
 小1時間ほど待って、もう少し開けたところへ移動しました。先ほどの韓国人女性は、支えてあげないと歩けないほど疲弊、混乱していました。  
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2005年01月19日

被災手記 その4

屋根の上で・・・(2)
 私たちが逃げたコテージは、本当にラッキーなことに何とか持ちこたえました。海に直接面しておらず、3部屋続きで1棟のため比較的頑丈だっただからではないかと思いますが、運によるものが大きかったと思います。私たちは、一つの屋根に集まり、お互いの家族、友人の無事を確認しました。「とにかく落ち着こう。私たちはラッキーだ。生きているし、大丈夫だ。」お互いそう言い、励ましあいました。
 シンガポールから来た白人の家族は父親が別の所に避難したらしく子供達は泣き叫び、スウェーデン人の若い男性は恐怖のあまり嘔吐していました。たまたま、腰からぶら下げていたミネラルウォーターを回し飲みし、コテージ群の裏数十メートル先の山へ逃げる方法を皆で考えました。また、次の波が来襲しないという保証もないので、浮くもの、掴まるものもないかとあちこち見渡し、水が引くのを待ちました。水は依然引いておらず、ようやく窓が見える程度です、隣のコテージに飛び移り、下を見ると大きな魚が泳いでいるのが見えました。
 照りつける太陽の下、1時間ほど屋根の上で待機した後、コテージの裏山沿いにカバナホテルの制服を着た男の人が2人歩いてきて、とにかく急いでこちらへ(山へ)逃げるように指示しました。時間は12時前後だったと思います。コテージの真下の水はほぼ引いていましたが、裏山へ抜ける途中は、まだ腰下くらいまで水がたまっていました。私達は崩れたコテージを足場に屋根から降り、水につかりながら、着の身着のまま裸足のままで山へと逃げました。おそらく、まだ周りの部屋の中や、崩れたコテージの中には、逃げ遅れた人、生きている人が残っていたかもしれませんが、次の波が来るのが怖くてそんな余裕は全くなく、大急ぎで逃げました。その時は、とにかく自分たちの命を守るので精一杯だったのです。  
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2005年01月18日

被災手記 その3

屋根の上で・・・・(1)
 屋根の上から海を見ると、沢山の船が一斉に沖に向かって逃げているのが目に入りました。島の東側(Tonsaiの街や埠頭の方)に視点を移すと陸地と海の境は全く分からず、ただ濁った色の波が次々と島を破壊、建物を飲み込み、家財道具、椰子の木、旅行トランク、崩れた建物・・・・あらゆるものが流されていきました。きっと人間も流されていたでしょうが、あまりに渦巻いていて、よく分かりませんでした。 
 最初はあちこちで聞こえていた悲鳴も、いつしか建物や椰子の木が倒壊する音、家族、友人を呼ぶ声に変わっていきました。あれほど美しかったピピの風景が褐色の地獄と化してしまったのです。私たちはそれをなすすべもなく、呆然と眺めることしかできませんでした。
 そして、恐ろしいことにその波によって、私たちの周りのコテージも嫌な音を立てて次々に倒壊しはじめました。いったん波が引いたときだと思います。津波は引き波の時の方が怖いといいますが、一番奥(山側)のコテージが最初に崩れ、柱とかが流れていきました。自分たちが避難したコテージが崩れないことを祈るばかりで、本当に生きた心地がしませんでした。また、残っていたコテージからも家具や荷物が流されていきましたが、どうすることもできません。
 「Oh my God!」隣の南ア人はそうつぶやいたのを耳にしました。僕はただ手を合わせました・・・。
 逃げるとき、私は、死ぬなんて事は全く考えませんでしたが、もし、あのとき数秒逃げるのが遅れていたら、コテージの中に取り残され、水死していたか、良くても瀕死の状態だったでしょう・・・。恐怖で口の中にアドレナリンが出てるのが分かりました。
  
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2005年01月17日

被災手記 その2

12/26 津波来襲 屋根へ逃げる
 とりあえず、これからレセに貴重品を預け、ダイブショップに顔を出し、おっと、その前に食事をしてなかった・・・等と考えながら部屋に入りました。
 しかし、楽しかったのはここまででした。時間は確か10:30分前後(日本時間12:30分)、部屋に入って1〜2分も経ってなかったと思います。ベットの上にバックパックを下ろしトイレに入っていると、ザーッという水の流れる音が聞こえました。「おかしいな?まだ水は流してないのに・・・ん、違うぞ!」外を見るとものすごい勢いで大量の水が押し寄せ、人々の悲鳴が聞こえています。最初は、水道管の破裂か、ダムの決壊かと思いましたが、すぐにうち消し(ピピには川がない)後はわけが分からず入り口の方に走り寄りました。頭の中を「津波・・」の文字がよぎりましたが、そうしている間にも室内には瞬く間もなく水が浸入、ベッドや椅子などの家具が胸の高さまで浮き上がり、逃げようと思ってドアを押すも水圧で開きません。外に向かって「What happen!」と叫びましたが誰も答えてくれず、その間にもどんどん水かさが増えてきています。
 このままだとコテージの中に閉じこめられたまま水死してしまうと直感、窓ガラスを椅子で割ろうにも流れて手元から離れていくので、怪我を覚悟の上で右肘で割り、ものすごい勢いで室内に流れ込んでくる海水をかき分け、「こんなところで死んでたまるか!」と叫びながら室外へ脱出しました。外に出ると、かなり流れがきつく、建物に掴まっていないと流されてしまいそうです。「Somebody help me!」確かそう叫んだと思います。ちょっとでも高いところへとポーチの欄干に足をかけると、屋根の上に登れと誰かが叫んだので、海水の浮力を使ってそのまま隣のコテージの屋根に登りました。このとき、何故かデジカメを手にしていたのですが、邪魔なので水中に投げ捨てました。この時点で海水は窓の上まで来ていました。
 私以外に屋根に逃げたのは外国人旅行客8名(スウェーデン人・シンガポール人・南アフリカ人)でした。屋根に登り思わず「津波だ!」そう叫んだとき、南ア人の男性が首を振りながら、「So TSUNAMI!」と返しました。私たち二名以外の人はそれが全く分かってない様子でした。そういえば、逃げるときに、先ほど、部屋まで案内してくれた女性従業員は室外で何か叫んでいましたが、その後、どうなったか分かりません。まもなくして高床式のコテージは屋根の直下まで水没しました。
  
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2005年01月16日

被災手記 その1

 今日から、少しずつでありますが、被災時の旅行記をアップしていきたいと思います。
今日現在、マスコミはスマトラ沖から阪神淡路大震災10周年にシフトしていますが、同じ震災を体験した人間として、一つの記録として残していきたいと考えています。


12/25〜12/26(ホテル到着まで)
 年末年始に、僕は一人で訪タイしました。ピピ島は2度目の訪問です。前回来た時にダイブショップのインストラクターに免許取得を誘われていたので、休暇をとって再訪したのです。
 日程は8日間、ピピ島で3日間はダイブの講習を受けライセンスを取得、残り2日はビーチでのんびりと休息、バンコクで少し遊んで元旦の夜に帰国する予定でした。津波前日(12/25)はプーケットのパトンビーチのALOHA VILLAに投宿しました。夜は海沿いのマッサージ屋やディスコなどをハシゴして夜更かししましたが、翌朝、元気に起きて、朝食もほとんど取らずに、ピピ島に船で向かいました。船には大勢の客が乗っていましたが、日本人と見受けられるのは私一人だけ。甲板に寝っ転がり、海からの風を受けていました。
 前回来たときと違い、季節は乾期でピピ周辺の海は透明度も高く、波も穏やか。船を下りると小魚の大群が船周辺を泳ぐのがはっきり見えました。このときの海の様子からは、津波が来るなんて全く想像できませんでした。
港に着くと宿屋の従業員が看板を掲げて待っていましたが、荷物がリュック1個の僕は場所もある程度分かっているので、美しい海と、のどかな村の様子を眺めつつ、一人でホテルに向かいました。
 日本からインターネットで予約したホテル「Tonsai village」にチェックイン。Tonsai地区の安宿なら、飛び込みでも泊まれたかな?と思いつつも、繁忙期で不安だったのでこれでいいのかなとその時は思っていました。実のところは「Tonsai village予約後に、よりリーズナブルな「TTZ」が確保できるというメールをもらったのですが、面倒くさかったので変更しなかったのです。今思うとこれが運命の分かれ道だったかもしれませんが・・・。「Tonsai village」の場所は島の南側、Tonsai湾サイドの一番西側で、村の中心まで徒歩10分弱、静かな雰囲気の所でした。ウェルカムドリンクを飲み干し、南国のコテージ風の部屋に案内されました。確か21号室だったと思います。建物はシンプルな平屋で、3室で1戸、海は目の前で、快適な休暇が過ごせると悦んでいました。  続きを読む
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