『資本論』に書かれていること

authorは前原芳文(和歌山県紀美野町在住)。mail: melfake@hotmail.co.jp

 資本論の内容を正確に理解するためには、その議論の展開の仕方、あるいはあらすじについて仮説を設けることが必要ではないかと常々考えています。私の資本論の読み方は理論の場と時間の設定の仕方に注目するというものです。そうした視角から資本論においてマルクスは、資本家的生産における下部構造と上部構造という枠組み中で、生産力がどのように発展するのか、そしてそれがどのような理論的結末をもたらすのかを明らかにしていると思います。つまりは、資本家的社会における生産力の発展は剰余価値率(v/m)の変化と資本構成(s/v)の変化をもたらし、終には利潤率の傾向的低下の局面をもたらす、というのが資本論の基本的内容のひとつだと考えています。そのように資本論を読むきっかけになったのがこの記事に述べているような絶対的剰余価値と相対的剰余価値との関係の捉え方なのです。この記事は資本論の読者としての私の仮説の核心をなすものであり、できるだけ多くの人に読んでいただきたく、再び掲載する次第です。20180731




絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産、そのいずれが「資本の生産過程」の
"表象(representation, Vorstellung)"に対応しているか? あるいは、いずれの剰余価値の生産がより”現実”的であるのか?

この問題を考えていただきたい。

 

まず、“絶対的”と“相対的”という語の意味について。

 

“絶対的”とは“一つ”ということである。例えば、ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教は同じ一つの神への信仰である。これらの信仰において神は何者とも比べられることのない唯一無二の存在、その意味で“絶対的”存在である。

これに対して相対的とは同じ性質をもつ”あるもの”、あるいは相互に異質な”あるもの”が二つ以上存在するとき、それらを比較・対照したうえで”あるもの”について規定するという意味である。同じあるものを比較/対照するという場合、基本的には場所的/空間的な比較/対照と時間的な比較対照とが考えられる。(「資本論」でわかりやすい一つの例をあげれば、第3巻第6篇における差額地代Ⅰは前者の例であり、差額地代Ⅱは後者に対応する。)相対的剰余価値についていえば、同じ空間すなわち同じ社会の中で産出される剰余価値が比較されている。比較/対照によって現れるそれら同じ性質をもつものの時間の経過に伴う量的な相違とその根拠、および変化の方向に意味があるからである。

 
つまり相対的剰余価値の生産という概念は、時間の経過に伴う剰余価値生産の量的変化の根拠と変化の方向を定義するための概念である。


さて、絶対的剰余価値の生産も唯一の剰余価値の生産である。絶対的剰余価値の生産は、一定の社会の一定時点(もしくは一定の期間)における剰余価値の生産であるから、労働生産力の変化を想定しない概念である。 労働生産力の変化を想定しないから、商品価値総量の変化も、必要労働時間と剰余労働時間との割合の変化も、労働者数の変化も考える必要がない。

 

時間の経過に伴う労働生産力の変化を捨象する(無視する)ことによって、資本の生産過程がもつ剰余価値の生産過程という性格を、あるいは資本家的生産様式が“搾取”のシステムであることを明確に定義しうる。

 

資本の生産過程は資本制社会の生活を物質的に実現するのに不可欠な社会的過程である。そこにおける主体は労働能力をもつ労働者である。そのことに注目すれば、資本の生産過程は労働者の能力が支出される社会的労働過程である。だからこの社会的生産過程は、生産物の究極的な原因である労働者の労働(能)力の再生産なしには連続し得ない。したがって、また労働者が自らの労働によって生み出す生産物のうち一定部分は必ず労働者に配分されなければならない。労働者がその労働(能)力の支出である労働によって作り出す生産物=商品のうち、その一部分が労働者の生存のために控除されなければならないことは明らかである。

 

(労働生産力の変化しない)一定の期間に生産される商品全体のうち、一定の価値量をもつ生産物=商品がこれら労働者の生存のために控除されるわけである。(労働生産力の変化しない)一定の生産期間=労働期間のうち、これら労働者の生存のために控除される労働時間が必要労働時間、残余が剰余労働時間、そして後者の労働時間によって生産される商品の価値が絶対的剰余価値である。必要労働時間と剰余労働時間との割合がこの期間の一定の発展度に達している労働生産力に規定されていることはいうまでもない。

絶対的剰余価値の生産、すなわち単純な搾取は相対的剰余価値の生産を論ずるための理論的前提をなしている。

前述のように、絶対的剰余価値の生産はその発展の一定段階にある労働生産力を前提する、すなわち労働生産力の発展(変化)を前提しない概念である。

それに対して相対的剰余価値の生産とは、労働生産力の発展(変化)が剰余価値率(と剰余価値量)を変化させるという内容の概念である。

資本制社会においても労働の生産力が変化することは自明である。

だからマルクスは第1巻第1篇第1章第1節から一貫して、有用労働の生産力の変化に関する配慮を怠っていないのである。例えば、第3節にある‘相対的価値形態の量的規定内容’に関する記述、またそこから遡って、第1、第2節及び第3節における労働生産力の変化に関する諸記述を見られたい(この点については、 第1章商品テキスト完全解説(拙稿:「第1章商品」の文脈)、35-36頁を参照されたい。この文章の最後に付録として掲げる。)。

資本制社会の歴史的性格を定義するにあたってマルクスは、絶対的剰余価値の生産ではなく、相対的剰余価値の生産をこそ「資本の生産過程」の表象に照応する本性としてつかんでいるのである。

言い換えれば、資本制社会の歴史的性格を定義するにあたって、「資本の生産過程」の諸属性をつかもうとするときには、絶対的剰余価値の生産、それに対応する単純な搾取の定義に止まっていてはダメなのである。

実際、『資本論』のマルクスは、「資本の生産過程」をもっとダイナミックに、すなわち深化発展する搾取を捉えている。

絶対的剰余価値の生産は単に形式的な剰余価値の生産である。そこにおいておこなわれる労働は所定の熟練度をもっておこなわれる労働であり、その熟練度に規制される、したがって生産過程の運営が労働者の意志によって左右される過程である。労働力の資本の生産過程への包摂は形式的なものに止まるからである。

それに対して、相対的剰余価値の生産こそ実質的なあるいは現実的なそれである。資本蓄積に伴う労働生産力の発展によって、資本の生産過程における資本家の労働または労働者支配が実質化するからである。資本蓄積は労働の熟練度を引き下げ、あるいは熟練労働者の生産過程からの放逐を促進とする。すなわち新規の機械などの労働手段の導入、それに伴う生産方法の変化、そして熟練労働の解体とともに労働生産力は発展する。

つまり、資本制社会の歴史的性格を定義するにあたって、「資本の生産過程」の諸属性をつかもうとするときには、絶対的剰余価値の生産ではなく、「資本の生産過程」によりよく照応する相対的剰余価値の生産を属性の一つとすべきなのである。

同様に単純再生産と資本蓄積、資本制社会の歴史的性格を定義するにあたってそのいずれが資本制社会の現実をよりよく表現しているか? と考えていただきたい。

答えは資本蓄積である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
付録

( 「相 対 的 価 値 形 態 の量 的 内 容 」を考 察 する前 に、まず「相 対 的 価 値 形 態 」の定 義 を確 認 しておこう。単 純 な価 値 形 態 は商 品 世 界 の一 商 品 A が他 種 類 の一 商 品 B と交 換 関 係 に入 ることによって「発 生 」 する。単 純 な価 値 形 態 は一 商 品 A が他 種 類 の一 商 品 B を等 価 物 と する交 換 関 係 のなかに 現 れる交 換 価 値 (価 値 形 態 )である。この関 係 において、一 商 品 A は、自 身 の価 値 が等 価 物 商 品 B の身 体 で表 現 されるという関 係 を体 現 している。その意 味 で一 商 品 A は単 純 な 価 値 形 態 の一 極 ・相 対 的 価 値 形 態 である。一 方 、等 価 物 商 品 B は この価 値 形 態 においては、相 対 的 価 値 形 態 に対 して直 接 的 に交 換 可 能 であるという関 係 的 内 容 を体 現 している。その意 味 で商 品 B はこ の価 値 形 態 の他 の一 極 ・等 価 形 態 である。 もうひとつ、これまでに商 品 の価 値 量 について何 が定 義 されたかを 確 認 しておこう。第 1節 では、一 商 品 の価 値 量 はそれが含 んでいる価 値 実 体 の量 、すな わち抽 象 的 人 間 労 働 の量 、 した がって同 労 働 の 継 続 時 間 に よ っ て 規 制 さ れ る も の と さ れ て い た 。 こ の 命 題 を die quantative Bestimmtheit des absolutes Warenwert ; 「商 品 の絶 対 的 価 値 の量 的 規 定 」と呼 ぶとしよう。第 2節 の「1着 の上 着 が 10 エレ の亜 麻 布 の2倍 の価 値 があるとすると、10 エレの亜 麻 布 =W とおけば、 1着 の上 着 =2 W である。」という関 係 は、「商 品 の絶対的価値の量 36 的規定 」を前 提 とする二 商 品 の価 値 量 の比 較 である。ここで労 働 生 産 力 は商 品 の使 用 価 値 量 で表 現 されるが、商 品 の価 値 量 とは無 関 係 である。というのは、「一 商 品 の価 値 量 はそれが含 んでいる価 値 実 体 の量 、すな わち抽 象 的 人 間 労 働 の量 、 したが って 同 労 働 の継 続 時 間 によって規 制 される」からである。 商 品 の単 純 な価 値 形 態 は 相 対 的 価 値 形 態 と 等 価 形 態 と いう 両 極 の関 係 で構 成 されている。あるいは相 対 的 価 値 形 態 である一 商 品 の価 値 が等 価 形 態 である他 種 類 の一 商 品 の身 体 で表 れる関 係 であ る。 し た が っ て 「 相 対 的 価 値 形 態 の 量 的 内 容 」 ; die quantative Bestimmtheit des relativ es Wertform とは自 身 の価 値 が他 種 類 の 一商品 B の身 体 で表 現 される一 商 品 A が体 現 する価 値 量 的 内 容 のことだと理 解 されよう。そのことからすれば、相 対 的 価 値 形 態 の量 的 内 容 に関 係 のある量 的 要 因 は、相 対 的 価 値 形 態 である一 商 品 A の 価 値 量 (商 品 A に含 まれている抽 象 的 人 間 労 働 の量 )と商 品 B の 使 用 価 値 量 (商 品 B が表 している有 用 労 働 の量 )である。他 方 、そも そもこの価 値 形 態 は、二 商 品 の交 換 関 係 (価 値 関 係 )のなかに現 れ る交 換 価 値 ・価 値 形 態 である。この価 値 形 態 は相 対 的 価 値 形 態 で ある商 品 A の価 値 と等 価 形 態 である商 品 B の価 値 とが等 しい関 係 を前 提 する。あるいは次 の等 式 は「商 品 の絶 対 的 価 値 の量 的 内 容 」 によって基 礎 づけられている。) 

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どんなテキストでも、最初の書き出しの部分は書き手にとっても、読み手にとっても大事な部分である。資本論は次のように始まっている。

”Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung"
, die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.”

これまでは私はこのパラグラフを、

「資本家的生産様式が優勢な社会の富は、“巨大な商品の集積”として表れ 、個々の商品は富の Elementarform 要素形態として表れる。だからわれわれは商品の分析から研究を始める。」
(http://tabbreak.web.fc2.com/jpdkbd1ab1kap1.pdf)

と訳してきたのだが、これではどうも文章の意味がはっきりしない、そう思ってきた。

そこで、次のような修正を考えている。

例えば、

「資本家的生産様式が優勢な社会において、富は”巨大な商品の集合”として、個々の商品は富の要素的形態として表れる。そこでわれわれは商品の分析から研究を始める。」


なお、WarensammlungはWarenmenge(商品の集合)と同義とみなしている。また、最初の文章は、富と商品とがそれぞれ集合として、そしてそれら二つが重なり合って存在するという表象(現象)的関係を前提に記述されているものと理解するのである。すなわち、

   富の集合 =  商品の集合

という関係である。

"ungeheure Warensammlung"このことば自体は「巨大な商品の集積」とか「巨大な商品の塊」を意味する可能性もあるのだが、後続部とうまく繋がらず、結果、この一つの文章の意味が判然としない。他方で、"ungeheure Warensammlung"は「甚だしく多数の種類の商品」すなわち「巨大な商品の集合」である可能性もあり、そうとらえる方がこの文章で述べられている内容も判然とする。

このパラグラフ全体の要点は、「商品の分析から始める」である。最初の文章で述べられているのは、個々の商品は要素的形態または元の形態であるから、というその理由である。政治経済学したがってその批判の核心が富の分析である理由は述べられていない。この段落においてそのことは前提されている。(「富」概念については、アダム・スミス「富国論」のはじめの部分を参照されたい。)

とりあえず以上。もう少し考えて不都合がなければ、上記のように訳文を変更したいと思う。

  
追記 20190119

この訳語の問題は、19世紀における集合論の進捗がどの程度「資本論」に反映されているかという問題だと思う。われわれの世代は1870年頃に成立した”写像”概念が定まって以降の”現代集合論”の基礎を高校の数学で一応は学んでいるので、冒頭文が集合にかかわる文章だと理解できるのだろうが、マルクスが資本論を書いた当時、そのような集合概念が常識となっていたのか否か、私には判断が付きかねる。常識となっていたのであれば、迷いなく上記の様な訳語をあてることができるだろうが、そうでなかったら、どうすべきか? 



    
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20170514

上記の記事に手を加えました。どうかご覧下さいますように。
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「絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産」の記事、一部加筆しました。2016/12/02
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20160711初稿 20170514:加筆修正

もうずいぶんと長い期間に亘ってまともな記事を書いておりませんのに、このサイト及び関連サイトを訪ねて下さっている方がわずかながらいらっしゃいます。こころからお礼を申し上げます。

さて、すでにいくつかの記事で述べたように、マルクスは”利潤率の傾向的低下の法則”(『資本論』第3巻第3篇)を論証できていない。そのように私は考えています。

しかし、誤解のないように申し上げますが、実は、この法則は存在するものと感じているんです。そして現代がそういう歴史的局面なのではないか?、そう感じています。そこで何とかこの法則を論証できないものかと、あれこれ考えを巡らせているのですが残念ながら未だ論証につながる糸口すら見いだせていません。 

たとえば、利潤率(平均利潤率または一般的利潤率)p’は、

p’=一社会(または一国)の総剰余価値/総費用価格=m/(c+v )と定義されています。

この式の分子分母をv=労働力の総価値 で割ると、次の式が導き出せます。

p’= (m/v)/(c/v+1)

なお、明らかにvは正の数ですから、この算術的操作に問題はありません。

ともあれこうしてp’・利潤率はc/v・資本の価値的構成とm/v・剰余価値率の関数として表現できるわけです。

なぜわざわざこのような操作をするのか? それはいうまでもありません、第3巻第3篇・”利潤率の傾向的低下の法則”と第1巻第4篇・相対的剰余価値の生産及び同巻第7篇・資本の蓄積過程とが繋がっていることに注意を喚起するためなのです。

そしてこの”利潤率の傾向的低下の法則”に至る話は、さらに、『経済学批判』の序言・Vorwortの第4パラグラフにある”唯物史観の公式”に始まる話なのです。つまり利潤率の傾向的低下の法則に至る話の発端は:

いずれの社会でも労働生産力の発展は諸生産関係及びその法的な表現である諸所有関係と「矛盾的」関係にある。すなわち労働生産力の発展と諸生産関係及び諸所有関係とが手を携えて発展するという関係が一定の期間は続く。が、労働生産力の発展がある段階に達すると、諸生産関係及び諸所有関係は労働生産力の発展に対する桎梏へと急変する。

という”唯物史観の公式”の3番目の内容にあるのです。

だから、『資本論』には何が書いてあるのか、その大ざっぱな内容、話の流れを知りたかったら、まずは『経済学批判』の序言→第1巻第4篇・相対的剰余価値の生産(剰余価値率の変化)→同巻第7篇・資本蓄積過程(資本の価値構成の変化)→第3巻第3篇・利潤率の傾向的低下の法則と読めばよいのです。第1巻第1篇/第2篇など、初心者が読んでも理解できる話じゃありません。というのも、これまでの殆どの自称他称マルクス経済学者たちが理解できなかった諸篇なのですから、素人に理解できるはずもありません。利潤率の傾向的低下の法則に至る上記の話の流れが理解できた後で読めばよいのです。

ともあれ、マルクスには利潤率の傾向的低下の法則を証明する=資本が歴史的・historischな存在である(すなわち資本家的生産様式に基づく社会もいつかは終わる)ことを証明するために、それに先だって労働生産力の変化=剰余価値率の変化と資本の価値構成の変化を定義する必要があったわけです。

さて、問題はここからです。 利潤率の傾向的低下の法則を論証するには、少なくとも資本主義社会のある歴史的局面(おそらく最終局面)では、(m/v)<(c/v)であることを論証する必要があるはずなのですが、上記の平均利潤率の定義からは、あるいは第1巻における相対的剰余価値及び資本構成の定義からはそれを導き出せません。

マルクス(正確にはエンゲルス編・『資本論』第3巻テキストも、という言うべきか)も利潤率の傾向的低下の法則の証明に実は失敗しているのです。

もしかしたら、p’を規定する変数が もう一つ(あるいはそれ以上)あるのかもしれませんが、未だよくわかりません。前述のように、私自身はこの”法則”を証明したいと考えています。この”法則”、論証はされていないけれど、現代資本主義の現実とその将来について考えるとき、その結論的内容(=利潤率が傾向的に低下する局面がある)には大いにリアリティを感ずるからなのです。

民間企業がいかに投資をしても、儲けはそれほど増えず、内部留保が積み上がるだけというのが昨今です。低成長で雇用環境も悪化傾向をたどるが、”資本”の失業問題も深刻というわけです。言い換えれば、投資によって資本の価値構成c/vをいくら高めても、それに伴って剰余価値率m/vは上昇せず、結果、企業の営業利益も増えないから投資も停滞する。

この資本主義のどん詰まり状況、資本家的生産様式の継続的存続を前提に、いくら“知恵”を巡らせてみても根本的、積極的な打開策は見つからない。せいぜいのところ賃金総額引き下げのための非正規雇用の増加策や殺人的超長時間労働制などの”悪知恵”くらいしかでてこない。”経済学の発展”も資本主義の発展同様もう過去の話です。この状況のなかで、”労働生産力の発展が終わるとどんな社会的生産様式も終わりを迎える”というマルクスの”予言”にリアリティを感ずるのは私だけなのでしょうか?

さて、このサイト及び関連サイトにuploadした記事のほとんどは2年以上前に書いたものです。それ以降、第1巻第1篇を構成する3つの章の論理的つながりについては、進捗があったのですが、「資本論3巻全体」に関する私の考えに変化ありません。

今後とも、よろしくおつきあい下さいますようお願い申し上げます。
 
                           20160711
                           20170514 前原芳文





 
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ホ-ムペイジ:『資本論』のあらすじ に掲載の図・第1巻と第2巻との照応関係のなかの不等号の向きを変更(訂正)しました。20160529
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"資本論のあらすじ”というホ-ペ-ジに掲げています二つの図、

  図・第1巻と第2巻との照応関係、及び
  図・資本論(全3巻)のシナリオ構造

それぞれについて部分的修正を施しました。ご覧下さいますように。

この修正は、資本論第1巻は基本的に3つの部分から構成されているのではないかという考えに基づいています。すなわち、

の部分: 資本の措定(第1及び第2篇)
第2の部分: 剰余価値の定義(第~6篇)
第3の部分: 資本蓄積の定義(第7篇、結論部)

というように、です。こういう読み方によってもしかしたら重要な概念(たとえば「生産的労働)の位置付けが曖昧になるなどの問題が生ずるかもしれません。が、とりあえずは、このような”資本論読解のための仮説”に沿って、今一度読んでいこうと考えています。



   
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                       20140924修正・追記

最近、「資本論」第3巻の話の流れを掴もうとして、現行版テキストを読んだり、新MEGA(3巻関連)をながめたりしているのですが、なかなか思うように事は運びません。

そうするなかでしばしば思うのは、第3巻、あるいは全3巻の話の流れを掴むには、マルクス自身の手で編集された第1巻の話の流れ--定義の順序--の意味するところを正確に掴むことが大事だ、ということです。いうまでもなく、第3巻あるいは全3巻の話の流れを正確に類推するためには第1巻の”論理展開”の正確な把握が必要不可欠であるからです。

さて、この第1巻の話の流れ、諸定義の論理的順序という点で、私は大きな未解決の問題を抱えています。「第2章交換過程」についての問題、第1篇の話の流れの中で「第2章交換過程」はどんな位置を占めているのだろうか?という問題、です。

以前には無理矢理、第1章=商品形態論、第2章=貨幣形態論、第3章=商品論・貨幣論の総合=価値の運動論という”弁証法”的関係で捕らえられるのではないか?と考えて、第2章についてもテキスト解説を掲げていたこともあったのですが、それを読むごとにどうにも説得力がないように思われ、現在この第2章を「解説」した文章はホームページ: ”資本論のあらすじ”から削除したままの状態になっています。そこで常々この問題も片づけなければ・・・と思ってはいるのですが、なかなか決定的な答えが見つかりません。

とはいえ、いつも頭の中に抱えているわけですから、これまでとは違う第2章についての考えが全く思い浮かばないはずもありません。

そこで今日はその第2章交換過程の位置づけに関する”新しい捉え方”について少しだけ書いておこうかと思います。

”新しい考え”というのは、第2章自体についてごくごく簡単に言えば、「第2章交換過程」は「第1章商品」の必要不可欠な付録であるというものです。

これだけでは単なるメモとしても、あまりにもわかりにくいので、”新しい考え”をもう少し敷衍しておきましょう; 

①第1篇全体は同篇の表題にあるように「商品及び貨幣」について定義した部分であって、そのうち商品については主に第1章で、また貨幣については主に第3章で定義されている。そして、この第1篇で定義される商品→貨幣と続く話の流れは決して第1篇で、すなわち貨幣をもって終わってはいない。むしろ、「第2篇第4章貨幣の資本への転化」に連続するものである。言い換えれば、第1篇と第2篇とは一体として商品→貨幣→資本という順番でそれぞれが定義されている部分である。つまり第1巻第1篇及び第2篇は、そもそも資本を最も抽象的に定義するための部分と読める。
 
    20150422記 : 下線部で「資本を・・・定義する」と述べているのは言い過ぎかも・・・。商品と貨幣は第1篇で定義されているが、第2篇で「資本が定義されている」とまで云ってよいものか???資本を定義するために措定することとその定義とは明らかに別物。下線部はたぶん間違い。だが、どう書き直せばよいやら・・・?

②第2章での交換過程の定義はなぜ必要不可欠な付録的定義なのか?
交換過程の定義=商品と経済的人格=商品所有者との関係の定義、この関係が存在しなければ、あるいはそもそも商品所有者、貨幣所有者という経済的人格(の定義)なしには、商品流通という商品(価値)の運動も貨幣の諸機能も定義できない。とりわけ第3章において”観念的”な価値尺度としての貨幣の属性が定義できない。つまり、第2章での交換過程の定義は、第3章の必要不可欠な論理的前提である。

③付録的だと形容するのはなぜか?
第1章第3節で説かれた商品の価値形態、この価値形態がその中に現れる価値関係は資本主義社会の下部構造=生産関係を表現する概念である。それに対して、交換過程は、商品それ自体にとっては他者である商品所有者と商品自身との関係を含んでいる。で、この商品所有者というのは第1章第3節で記されている「商品の番人」に対する概念である。価値関係を取り結ぶ商品の傍らに単に存在する、が、その属性について何らの定義も要しない「人」、それが商品の番人Hüterである。それに対して、商品所有者Warenbesitzerというのは単なる人じゃない。資本家的社会の上部構造の基幹を構成する私法=物権(及び債権)制度に沿って商品と関係する人=経済的人格である。なお、経済的人格である商品所有者を上部構造=理念レベルで規制する私法制度については第1章の第4節で説かれている。

商品それ自体については第1章の第3節までの部分で定義が尽くされている。その意味で、この第2章が商品論の主な部分であるわけはない。が、商品は自ら価値物として運動することはできない。これを運動させる必要不可欠な「他者」が商品所有者である。第2章ではこの商品の他者である商品所有者に焦点を当てて商品と商品所有者との関係が「交換過程」として定義されている。つまり、話の流れとしては、第1章(厳密には第3節まで)では商品それ自体が、対して第2章は商品と商品所有者との関係が定義されている。そしてこの二つの部分を橋渡ししているのが「第1章第4節商品の呪物的性格」ということになる。

つまり商品→貨幣→資本という第1篇及び第2篇全体の話の流れのなかに置くと、第2章は”付録”的である。

とりあえず以上。

追記:

第1巻第1篇及び第2篇を上記のように商品→貨幣→資本という文脈で理解するとすると、第1/2篇と第3篇以降との論理的関係はどう理解すべきかという問題が自ずと浮かび上がる。

だが、この問題については、正直なところ未だよくわからない。

また、商品→貨幣→資本ではなく、むしろ商品・貨幣→資本というように第1/第2篇の流れを理解した方がよいよのかもしれない。というのは第1章第3節では等価形態=貨幣形態も説かれ、第2章交換過程も貨幣及び貨幣所有者を無視しては説けない。同様のことは第3章にも通ずるからである。

この点についても未だよくわからない。




 
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この章は同篇第1章第3節の価値形態論で述べられている商品の交換関係または価値関係との対照で、交換過程が定義されている章と理解すべきかも知れない。 詳細は後日。20140131
 
追記 2019年6月27日
第1章第3節までは生産関係、すなわち下部構造の話、第2章交換過程は上部構造(法制度-私法=民法=債権と物権)を含む交換を取り扱っているものと理解しています。第1章第4節が同章第3節までの生産関係としての交換の議論から上部構造を含む交換の議論への転換点となっていると思います。第4節では脚注を含め私法について述べられています。第1章第3節までに登場する人は単なる商品の番人Hüterにすぎないのに対して、第4節での私法=民法の定義を経た第2章では私法に基づいて行為するWarenbesitzer商品の所持人あるいは所有者に変化しています。(第2章冒頭段落を参照ください。)

Der Austauschprozeß

<99> Die Waren können nicht selbst zu Markte gehn und sich nicht selbst austauschen. Wir müssen uns also nach ihren Hütern umsehn, den Warenbesitzern. Die Waren sind Dinge und daher widerstandslos gegen den Menschen. Wenn sie nicht willig, kann er Gewalt brauchen, in andren Worten, sie nehmen.(37) Um diese Dinge als Waren aufeinander zu beziehn, müssen die Warenhüter sich zueinander als Personen verhalten, deren Willen in jenen Dingen haust, so daß der eine nur mit dem Willen des andren, also jeder nur vermittelst eines, beiden gemeinsamen Willensakts sich die fremde Ware aneignet, indem er die eigne veräußert. Sie müssen sich daher wechselseitig als Privateigentümer anerkennen. Dies Rechtsverhältnis, dessen Form der Vertrag ist, ob nun legal entwickelt oder nicht, ist ein Willensverhältnis, worin sich das ökonomische Verhältnis widerspiegelt. Der Inhalt dieses Rechts- oder Willensverhältnisses ist durch das ökonomische Verhältnis selbst gegeben.(38) Die Personen existieren hier nur <100> füreinander als Repräsentanten von Ware und daher als Warenbesitzer. Wir werden überhaupt im Fortgang der Entwicklung finden, daß die ökonomischen Charaktermasken der Personen nur die Personifikationen der ökonomischen Verhältnisse sind, als deren Träger sie sich gegenübertreten. ・・・

第2章 交換過程

諸商品が自ら市場にでかけ、自ら交換するということはあり得ない。そこでわれわれもその Hütern 番人たち、 すなわち Warenbesitzern 商品所持人たちを探さねばならないのである。諸商品は物であるから人に抗うことも できない。諸商品が言うことを聞かないなら、人は暴力を使うこともできる、言い換えれば人は諸商品を支配 できるのである 37。Warenhüter 商品の番人たちがこれらの諸物を商品として互いに関係させようとすれば、彼ら はそれら諸物に自らの意志を宿している諸人格として互いに関係し合わねばならない。そうすることで、一方 は他の番人の同意がある場合にだけ、すなわちそれぞれの番人は――彼が自らの商品を譲渡することを条 件に他人の商品を取得するという—一つの Willensakt 意志的行為を、したがって両者は共通の gemeisam 同 じ意志的行為を互いに成立させるのである。彼らは、だから、私的所有者として交互に認め合わなければな らないのである。この Rechtsverhältnis 権利関係――Vertrag 契約がその形式をなす――は、それがどれだけ法 的に発展していようがいまいが、一つの Willensverhältnis 意志的関係であって、その意志的関係には経済的 関係が反映している。この権利関係、あるいは意志的関係の内容は経済的関係そのものよって与えられて いるのである 38。<100>諸人格は、ここでは、それぞれ商品の Repräsentant 代理人として、したがって商品所有 者として相対峙するのである。一般にこれ以降テキストでは、人々が身につけた仮面でもって表わしている経済 的性格というものはただ人格化された経済的諸関係でしかないのであり、人々はただそうした諸人格の担い 手としてのみ相対することになろう。

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20131221
資本論のあらすじ”をなし崩し的に再開しました。何のための一時閉鎖であったのか?? 今となっては意味不明に・・・。かわり映えしないサイトですが今後ともよろしく。

最近、資本論第1巻第1篇第3章と同第2篇第4章第1節の私家版・日本語訳を追加しました。 これで第1篇は第1章から第3章まで揃いました。どうかご一覧下さい。
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20131218
表題の翻訳原稿を、”『資本論』のあらすじ"にupしました。

 
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20131202 

上記部分の翻訳原稿を”資本論のあらすじ”にupしました。ご笑覧下さい。
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表題の記事をblog:日本社会の経済的再生のために にupしました。
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暑中お見舞い申し上げます。

毎日暑いですね。この暑さの中で資本論を読むのはどうかと思います。例のくどくて息をつかせないマルクスの文章とこの暑さ、二つ合わさったらたまったものじゃありません。今の時期に資本論を読むのは、愚の骨頂、下手したら頭を壊します。夏も過ぎて涼しくなってからでもよいのではないか?と。・・・

さて、homepageを一時的に閉鎖するのは、これまで『資本論』についてあれこれ論じてきましたが、もう少し整理された形で私の”資本論解釈”--とりあえずの到達点--をお示しするのがよいのではないか、そう考えたからです。ついでに私の頭の中の方も、もう少し、整理してみようかと・・・。

ご閲覧頂けるようになるまで、そう長くはかからないと思います。いましばらくの間お待ちください。

                                  2013年7月11日   前原 芳文

20150621
『資本論』のあらすじ 現在は閲覧可能です。
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Zirkulation、Circulation、「循環」と聞いてまず想い浮かぶ言葉: 「血の循環」

心臓に始まり心臓に終わる血の「循環」。そのように「循環」とはある出発点にはじまり、出発点と同じ場所を終点とする"あるもの"の運動を意味する言葉である。

もちろん、Zirkulation、Circulationには「流通」と云う意味もある。

 
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                                       2013 0419
Zirkulationを循環ではなく流通と訳す誤り。

第3巻第5篇第21章、352(原書)頁。 

Betrachten wir zunächst die eigentümliche Zirkulation des zinstragenden Kapitals. Es ist dann in zweiter Instanz zu untersuchen die eigne Art, wie es als Ware verkauft wird, nämlich verliehen statt ein für allemal abgetreten. 

この Zirkulationも「流通」ではなく「循環」と訳すべき。その方が意味が通る。

参照: 「まず利子生み資本の特有な流通を考察しよう。」 (大月全集版・岡崎訳) 大月全集版、第3巻、424頁。
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表題の記事を“日本社会の経済的再生のために”にupしました。さほど新鮮味のある内容ではなく申し訳ありませんが、ご笑覧くださいますようお願いいたします。20130405 表題を変更して20130407更新、20130409再更新
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表題の通り。ここをクリック。  20130329
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表題の図を“『資本論』のあらすじ”にupしました。
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副題を変更 旧副題;『資本論』第3巻は”弁証法”的に書かれているか?

マルクスは弁証法が大好きだったようだ。すなわち、an sich, für (anderer) sich,an und für sichという物事の分析・認識・理論展開の順序がことさら大事だと考えていたようである。『資本論』第1巻第1篇第1章の”お話”も、同篇全体の話の流れも、”弁証法”という三拍子のリズムが分からなかったら、読み解けるはずもなく、また生産関係=「下部構造」と法制度等=イデオロギィ-的構造=上部構造との関係も理解できないはずである。多くのマルクス経済学者たちがそうであるように・・。

そうだ、彼らはマルクスによるこの関係の定義を明らかに理解していない。すなわち第1巻第1篇第1章「商品」における第1節から第3節までと第4節との差異と相互の関係をまた、それらと第2章との関係を理解していない。この点については、”『資本論』のあらすじ”で詳細に論じているので参照されたい。

さて、そうした”弁証法”は第1巻第2篇から第3巻第3篇までの部分の展開にも生かされていたように見える。が、その後の部分についてはどう考えたらよいのであろう?弁証法的に展開されているのだろうか? どうであろう? 編者のエンゲルスはどう考えていたのだろうか?

第1巻「資本の生産過程」、その他者としての第2巻「資本の流通過程」、両者を”総合する”第3巻「資本家的生産の総過程」*。
 
   * 新MEGA4/2では第3巻草稿の表題は、Die Gestaltungen des Gesamtprozesses (総過程の諸々の姿)
     と表記されている。エンゲルス編の現行『資本論』(Dietz書店版)では,
           Buch Ⅲ: Der     Gesammtprocess(Gesamtprozessの誤りか?)der kapitalistischen Produktionと表記    されている。誤字の件はともかく、なんで、エンゲルスは第3巻の表題を変更したんやろう?
           


こうした流れのなかでみると、第3巻の表題はよくできているようにも見える。だが中身の展開はどうであろう? 現行『資本論』における各篇の展開は”弁証法的”なのだろうか? 

最近、編集者エンゲルスはその最初(第1篇~第3篇)から間違っているのじゃなかろうか、などと不埒なことを考えている。というのは、エンゲルスは”資本の回転Umschlag des Kapital”が3巻のなかで持つ重大な意義について気が付いていなかったように思えるからである。そしてそのせいで、第4篇及び第5篇も分かりにくい話になってしまったのではないか?第1篇から第3篇についても同様のことがいえるのではないか?

ともあれ、この点の詳細については、別な機会に論ずることにしよう。

最後に、マルクスは『資本論』のなかでは弁証法とか弁証法的とか言う語を使っていない。私の記憶では、『資本論』(第1巻)の第2版の「序言」のなかで紹介されているロシアの新聞記事(『資本論』を賞賛した記事)のなかで出てくるだけで、マルクス自身が何かを表現するために使っているわけではない。 
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『資本論』第1巻第1篇は『経済学批判』の「要約」版である。第1章「商品」も『経済学批判』「序言」で示されている「手引き」または「下敷き」に沿って書かれているものと考えることができる。マルクスが近代市民社会研究するための「Leitfaden手引(または下敷き、現代風に翻訳すればmanualマニュアル)」と呼んでいるものである。そしてこの「手引」において重要な位置を与えられているのが「Produktionsverhältnisse諸生産関係」である。「手引」では生産様式、経済構造、生産関係、及び労働生産力の発展と生産関係との関係、労働生産力の発展と所有関係との関係について概略次のように述べられている。

マルクスがこの「手引」をよりどころに考察しようとする対象の全体は、ブルジョワ社会を含む「歴史的」社会である。彼はこれらの社会それぞれの全体を、二つの契機に大別して捉えようとする。一つはこの社会の生産様式すなわち経済構造であり、他方は法制度や政治制度や慣習、哲学等々社会のイデオロギィ-的構造である。これらのうち社会の「本当の基礎」をなす経済構造がもう一方のイデオロギィ-的な諸構造の内容を規定するのだ、とマルクスはいう前者が「下部構造」、後者が「上部構造」と呼ばれているものである。

さらに「手引」では、生産様式の性格は「諸生産関係」により規定される、と述べられている。前述のように「Produktionsverhältnisse諸生産関係」とは、孤島に住むロビンソン・クル-ソ-がその生活のために行う物質的生産における彼の労働とその生産物との関係や、中世社会等々の諸社会的生活の物質的な生産に観察される特定の諸内容をもつ労働と同じく特定の諸内容をもつその生産物との関係、すなわち様々な社会の生産様式を規定する労働形態と生産物形態との関係である[1]

そのことからすれば、それぞれの「生産様式」の性格はそれぞれ特殊な「生産関係」によって規定され、さらに「諸生産関係」のうち最も基本的なものが、労働と労働生産物の歴史的形態である商品との関係であると考えられる。

諸生産関係は諸所有関係とともに当該社会の「Produktivkräfte諸生産力[2]」と矛盾的関係にある、とマルクスは言う。すなわち一つの社会の生産様式を規定する諸生産関係は、諸生産力が発展する時期においては諸生産力発展の諸形態として現れるが、諸生産力の発展が一定の段階に達すると、諸生産力の発展を抑え込む手枷足枷(てかせあしかせ)に転化するのだ、と言うのである。そしてこのような諸生産関係及び諸所有関係と諸々の有用労働の生産力との関係が社会の構造全体の変化すなわち社会変革をも基礎づけるのだ、と言うのである。

またマルクスによれば、一つの「歴史的」な人間社会は社会変革の時期を経て別な支配的生産様式をもつ新しい社会に転化する。そしてこの新しい生産様式はすでに旧い社会のなかで非支配的な生産様式として発展するものと考えられている。だから変革の時期にある社会がどのような社会であるかは、その基礎にある上述の諸生産力と諸生産関係及び諸生産諸力と諸生産関係の法的表現としての諸所有関係との矛盾的関係だけによるだけでなく、旧い生産様式と新しい生産様式(したがって旧い生産関係と新しい生産関係)との対抗関係によっても説明されるべき事柄だ、ということになる。

つまり彼によれば、いかなる社会もそのうちに支配的生産様式(したがって諸生産関係)が別な支配的生産様式に転化するというダイナミズムを含む不安定な、その意味で「歴史的」な社会なのである。


[1] テキスト第1章第4節を参照。

[2] 全種類の有用労働の生産力の意――テキスト第1章第2節を参照。


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「資本論第3巻第4及び第5篇はどうして分かりにくいのか」と題した一連の記事をBLOG・”日本社会の経済的再生のために”に一纏めにしてUPしました。20130301
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資本論冒頭の商品論は非常に難解なテキストです。その文脈を完全に補足した解説を

homepage:”『資本論』”のあらすじ

に掲載しています。初めて資本論のテキストを手にされる方にお薦めの商品論解説です。テキスト各段落の内容をまとめるとともに、段落相互、各節相互の関係、いいかえれば話の流れをfollowしたものです。難度は院生向け、学部生には無理かもしれません。ただし、言語能力が高いとお思いの方であれば高校生でもご利用可能かと思います。テキスト本体(Mlwerke版原文及び前原訳、も同じサイトからdownloadできます。是非お試し下さい。

なお、同じ解説の簡略版(脚注抜き)をBLOG:”日本社会の経済的再生のために”にupしました。こちらもご利用下さいますように・・・。

資本論は未完成な本ですし、難解な本です。だから、資本論をもっているほとんどの人がこの本の中身を読みとれないのです。特に第1章は難解です。よほどの訓練を経た人でないと読めるテキストじゃありません。試しに私の解説を眺めながら第1章商品を読んでみてください。それでもテキストの内容、文脈が読みとれなかったなら、今のあなたには資本論第1巻第1篇第1章は無理だということです。とりあえず今は諦めるのが無難かと思います。ドイツ語の文法書に取り組み、マックス・ウェ-バ-の本を何冊か読んで読解力を鍛えた後に再挑戦してみてください。悪しからず。

なお、第1章商品について質問があれば 前原:melfake@hotmail.co.jpまでお問い合わせ下さい。できる限り対応いたします。また私の返答は本サイトかBLOG”日本社会の経済的再生のために”に掲載いたします。

20130219 前原芳文
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                                                  22032013更新

世間にはさまざまな種類のテキストがあります。そのなかで行間も理解できなければ、テキストの内容が読みとれない、というややこしいテキストというものがあります。

『資本論』冒頭の”商品”もその一つです。例えば、このテキスト(第1章)では”生産関係”という語は一度しか使われていないのですが、この語は同章の全体の行間に絶えず静かに控えています。だからこの語とその意味内容に絶えず留意しなければ、このテキスト全体でマルクスが言わんとするところは絶対につかみ取れません。言い換えれば、このテキストの内容が読みとれたと感ずるときには、抽象的なものながら”生産関係”という語の第1章における意味内容も自ずと理解できているということになります。

上で生産関係というのは「経済学批判」「序言」第4パラグラフで述べられている生産関係、法制度や他のイデオロギィ-的構造に対してブルジョワ社会の土台=下部構造なす生産関係のことです。
  
第1章でマルクスは生産関係=労働の社会的関係(または私的労働という労働の特殊歴史的な性格--第2節を参照。)に照応するブルジョワ的な上部構造についても触れています。それは第4節です。そこで”物権”についての議論がなされていることをけっして見逃してはなりません。債権とならぶ私法(民法)の基本概念である物権について説いているのです。

この点を見逃している『資本論』解説本が巷にはあふれていますが、ろくな物じゃありません。『資本論』に対する無理解を宣伝しているような代物。

ついでに、「商品所有者Warenbesitzer」という概念は第2章冒頭部で初めて登場するのですが、それは第1章の「商品の番人Warenhüter」(第3節で一般的等価物が説かれているあたりにも登場)が転化した経済的人格です。後者は経済的人格じゃありません。規制されるイデオロギィ-的構造をもたない(物権という”権利”に規制されていない)からです。対して商品所有者は物権を認める法制度に規制されて活動する人であるから経済的人格だとマルクスは云うのです。「資本家」も同様に経済的人格です。

このように書くと、お気づきの方もあろうかと思いますが、第1章は、”唯物史観の公式”と呼ばれる研究仮説に基づいて書かれています。

そこで、是非とも「経済学批判」「「序言」の第4パラグラフを今一度読み、その意味するところを確認して頂きたい。

つまり、第1章商品の行間は”要約された唯物史観”によって満たされているのです。そのことを忘れては第1章の文脈を捉えることなど不可能なのです。いいかえれば、そのことを弁えない”資本論研究者”による第1章解釈など何の役にも立たないのです。

20130219

    *参考資料:「経済学批判」の「序言」の第4パラグラフ

「私につきまとった疑念を解くため最初に企てたのは、Hegelの法の哲学を批判的に検討する仕事であって、その序文は1844年にパリで出版された『独仏年誌』に発表した。私の研究は、国家諸形態のような法的諸関係はaus sich selbstその内容がどうであるかによって理解すべきでも、いわゆる人間精神の一般的な発展に照らして理解すべきでもなく、むしろHegelがそれらの全体を18世紀におけるイングランドとフランスの歴史とを参考に『ブルジョワの社会』と呼んで総括した諸生活関係に根ざしているものであり、それゆえブルジョワ社会の解剖は政治経済学に求めるべきである、との結論に至った。Guizot 氏の国外追放命令によって移動させられたBrüsselでもパリで始めたこの研究を継続した。私の頭のなかに思い浮かび、そしてそのうちに確実なもの、研究ためのLeitfaden手引となった一般的な結論は、それを取りまとめると以下のように定式化できる: In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem Willen unabhängige Verhältnisse ein, Produktionsverhältnisse, die einer bestimmten Entwicklungsstufe ihrer materiellen Produktivkräfte entsprechen.その生活の社会的な生産において人間は一定の、必然的な、その意志からは独立した諸関係、すなわち諸生産関係のなかに入る。これら諸生産関係は人間の物質的な諸生産力の一定の発展段階に対応している。これらの諸生産関係の全体は社会の経済的構造をなしている。すなわちその上に法的及び政治的なÜberbau上屋が立ち上がり、そしてこの上屋には一定の社会的な諸意識形態が対応している。物質的な生活の生産様式が社会的、政治的及び精神的生活過程一般を規定する。人間の意識が人間の存在を規定するのではなく、逆に人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的な諸生産力がある発展段階に達すると、それらはそのときに存在する諸生産関係と矛盾するに至る、または、将にそのことの法的な表現なのだが、諸生産力がそれまでそのなかで運動してきた諸所有関係と矛盾するに至る。これらの諸生産関係及び諸所有関係は諸生産力の発展諸形態から諸生産力に対する桎梏(しっこく)へと急変する。そのとき社会的な革命の時期が始まる。経済的な基盤が変化するのに伴って巨大な上屋全体がゆっくりとあるいは急速にひっくり返るのである。そのような変革の考察においては常に、経済的な諸生産条件、自然科学の法則に忠実に持続する経済的な生産諸条件の変化と法的、政治的、宗教的、慣習的、あるいは哲学的な諸形態、つまりはイデオロギィ-的諸形態――人がこの衝突を知覚するようになるのはこのイデオロギィ-的諸形態にくるまれてのことであり、また徹底的な議論を交わすのもこのイデオロギィ-的諸形態についてである――とが区別されなければならない。・・・・」(翻訳:前原)

なおこの「序言」のテキストで注意すべきことの第一は、”(諸)生産力”とは労働生産力(労働生産性)の意味で使われていると言うことである。

この「序言」のテキスト第4パラグラフの要約というより解釈を別な記事で示してます。是非ご覧下さい。


 『経













  
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お知らせ:
”マルクスによるブルジョワ社会分析の方法”という標題の記事を”日本社会の経済的再生のために”にupしました。

これは以前、「第1章商品の文脈」という拙稿の冒頭に掲げていたものです。一括してuploadするには長くなりすぎてしまったため割愛した部分です。  
                           20130218
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資本論のシナリオ構成
そもそも本を読むという行為は、一種のコミュニケ-ションである。一方には書き手が居て、書かれた書物がある。他方には読者が居る。読者はその本に向かって、”何を書いた?”、”どんな問題?”、”結論は?”、”等々と大小の質問を著者に問いかけながら読む進めていくという関係にある。

著者は著者なりに話のみちすじを定めて書いているはずである。だから、その”話のみちすじ”が読みとれればそれだけ、読者にも本の内容(考察されている問題、結論、それに至る手続き)がわかろうというものである。

さて、『資本論』についても以上のことは妥当する。 そして上の図は読者である私が『資本論』というお話の構図を読みとろうとして描いたもので、けっしてマルクスの描いた構図でも、エンゲルの描いた構図でもない。これまでupした記事からもわかるように、『資本論』全三巻の内容が読みとれたなどとは微塵も考えていない。だから、上の図はいつか必ず変更されることになろう。上の図はあくまで一人の読者が『資本論』を読みとるための、暫定的な見取り図にすぎないのである。

なお、上の図にある利潤率の傾向的低下は論証されていない。すなわち第3巻第3篇には致命的問題が存在する。しかし、第3巻第3篇までの話のつくり方、その大筋については変更を要しないのかも知れない。が、その後の篇にも問題はある。

商品取り扱い資本と貨幣取り扱い資本を第4篇で分析対象として措定した段階で、総資本が流通過程の資本である商品取り扱い資本及び貨幣取り扱い資本のグル-プと価値を形成するグル-プ=産業資本とに分裂している理論的な新たなplatform・舞台が設定されている。おそらく同篇の書き手(あるいは編集者)も両グル-プ間の関係如何を眺望しながら、この第4篇を書いた(編集した)はずであろう。そこで私は上掲図( )のなかに産業資本を登場させている。

そして、そのような眺望の中で、資本家的生産様式の歴史的性格(資本制社会も終わるという性格)を明らかにするために必要な限りで、第4篇において取り上げられている商品取り扱い資本や貨幣取り扱い資本、第5篇の信用制度や利子・利子生み資本、商品取り扱い資本及び貨幣取り扱い資本と産業資本との関係等の定義が与えられるべきであると考えている。

そのような観点から第4篇を読むとき、そこにおける商品取り扱い資本と貨幣取り扱い資本の定義は明らかに不完全である。というのは例えば貨幣取り扱い資本についていえば、第4篇では手形交換業務(手形交換所)や内国為替制度等の資本家的社会において必須の”決済機構”に関する記述がなく、また貨幣取り扱い業務と短期金融市場との関連に関する記述もないからである。

そのような事情から、第4篇と第5篇とは総資本の流通過程を担当する諸資本(商品取り扱い資本と貨幣取り扱い資本=銀行業者)を定義すべき部分としてまずは見なして、さしあたっては第25章以降の諸章でそれらの定義がどの程度うまくなされているのか、それらの定義とは直接には無関係な主題を”発見”するという作業を進めてみたいと考えている。

図のなかの第5篇については、あきらかに舌足らずである。図には利子も、利子生み資本も、信用(銀行)制度も出てこない。それらの定義が不必要というわけではなく、それらの説かれるべき順番について、現行の資本論のそれは奇妙だと思いながらも、然るべき順番がわからないから書き出していないだけのことである。

20130210




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”『資本論』のあらすじ”に掲載の資本論全三巻のシナリオ構造と題した図を修正・更新しました。




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wikipediaによれば、マルクスは1883年3月14日に亡くなっている。だからもうすぐ没後130周年を迎える。

そのことに最近気づいて、また日本に資本論が初めて”輸入”されてから100年以上が経過したことを思ってため息が出るばかりだ。

このため息にはいまひとつ理由がある。私自身の経験である。初めて資本論を買い入れたのは1972年の秋であった。それから40年も経っている。そうであるのに、このblogで書き記している程度のことしか資本論について知らないからである。

が、この100年を超える期間、我が国で資本論研究に関わってきた学会関係者を見渡しても、大したことはない。

資本論全3巻の最終的オチを明確に語り、また(経済学批判体系の)後半体系との接続について明確に語っている人は皆無であるといってよい。後半体系そのものについてはほとんど手つかずの状態である。

多大な額に上る税金も使われてきたというのに、何故このような状況になっているのか?

私の答えは簡単である。第3巻があたかも”まともな本”であるかのように取り扱ってきたからである。

第3巻は実際とんでもなく未完成な本である。体裁は本であるけれども、まっとうな本じゃない。中身はグチャグチャの本といってもいいくらいに、全体としてはひどい本だ。特に第4篇と第5篇はひどい内容である。(そのようにいう理由のいくつかについては最近書いたので繰り返さない。)

そこで思うのは、資本論の研究者(そう自認する人がいればの話だが)に求められているのは、第3巻を書き直すことではないかということである。(書き直しの対象は第2巻を含めてもよかろう。マルクス自身が編集したわけではないからある。もっとも私自身は、第2巻はよくできた本だと思っているのでその必要は感じてはいない。)

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『資本論』第3巻第4及び第5篇が分かりにくい三つめの、というより根本的理由。(20130128更新)

第25章から第29章までは、概ね再び銀行業者(貨幣取り扱い資本)に関して論じられている部分と思われるが、それら諸章の内容はまともな話じゃない。何かを論ずるための文章としてはひどいものである。

例えば、25章以降の諸章が何かの表題を付されて、日本のどこかの大学院で修士論文の原稿として提出されたとしたら、受理されないであろう。私が”論文審査”の担当者であったなら、確実に、”不可”をつける。それほどひどい、何を言いたいのか分かるはずもない文章である。

確かにマルクスは偉大な理論家である。それは彼が自ら編集した『資本論』第1巻を読めば分かる。が、たとえ”偉大な”マルクスの草稿を盟友・エンゲルスが編集したとしても、ダメなものはダメだ。25-29章はろくなものじゃない。

何故こんなことになってしまったのか?

簡単に言えば、第3巻第4篇と第5篇については、使いものになる、まともなマルクスの草稿が残されていなかったからであろう。

編集者エンゲルスの苦悩は絶望的に深刻であっであろう(これについては第3巻の序言を見よ)。エンゲルスは自ら”資本家的生産の総過程”と第3巻の表題は付けたものの、第5篇については、まともなマルクスの草稿はない・・・。そこで、残された草稿をできるだけ使って、足りなところは自ら継ぎ足して第5篇を”完成”させた。要するに”デッチ上げたaufbeuten→aufbot”わけである。それも決して見事とはいえないでっち上げである。

第3巻の「序言」や現行「資本論」における第4篇と第5篇との繋ぎ方からして、おそらく、エンゲルスは第4篇及び第5篇の部分でマルクスが書きたかったことを十分には理解できていなかったであろう。そもそもエンゲルスにとってもわけのわからないマルクスの草稿しかなかったのだから当然といえば当然のことだ。だからわれわれが第3巻(第4及び)第5篇を読んでも分かるはずがないのである。編集者自身がそのあらすじが理解できていない文章をどうしてわれわれが理解できようか?

第3巻(第4及び)第5篇、今のままのそれに何らか(信用制度)に関するまっとうな、論理的定義を見いだそうとするのは、だから、馬鹿げている。

われわれもそのようなものとして第4篇及び第5篇とつきあうべきなのであろう。これらの篇に関してわれわれに要求されているのは、読者の読解力ではなくて合理的精神なのである。

現行の両篇は、おそらくは産業資本との諸関係を含む商品取り扱い資本や信用制度、及び利子生み資本の論理的な、そして一般的定義なのであって、(第4篇及び)第5篇はそのための”材料”を提供しているにすぎない。(第1篇~第3篇についても同様のことがいえるかもしれない。また地代論の差額地代の第Ⅱ形態についても現行のまま--一つの土地の時間の経過に伴う地代の変化論--でよいものかどうか再検討されるべきであろう。第7篇についてはいうまでもない。)

そしてそれらの一般的定義は、資本制社会の歴史的性格(資本家的生産様式も過去の生産様式と同様に終焉を迎えるものだという性格)に関わる限りで与えられるべきである。

さらに両篇の”あらすじ”を展開するための方法は第1巻のそれに学ぶべきであろう。いうまでもなく同卷はマルクスがその編集まで自らの手でおこなった本だからである。




(続く)










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ところで、このような第4篇の不完全さを踏まえて続く第5篇に目を移せば、そこにまず現れるのは、貨幣の貸し付けの話ではなく、またそれに伴う”利子”の話ではなく、資本の貸し付けとそれに伴う”利子”の話、「利子と利子生み資本」である。 ①で第4篇以降の話の流れが分かりにくい理由として挙げた二つ目の理由はこのことであった。

さて、この第5篇冒頭部における利子及び利子生み資本の話のオチは資本関係(=資本・労働力関係)の隠蔽という利子生み資本論の意義付け、すなわち、資本所有の成果としての利子、資本機能の成果としての利潤、労働の報酬としての労賃という関係のVersachlichung(客観化もしくは客観的現実化とでも訳すべきか?)の話である。すなわち、第4篇の上述の不完全さを補うような議論ではないのである。

そして第5篇のこの冒頭諸章(第21~24章)は第4篇及び第5篇25章以降に比べて、第4篇及び第5篇の話の流れでは奇妙な内容であるとしても、それ自体としては明らかに、第2篇、第3篇、及び第6篇と同様にかなりまとまった完成度の高い諸章から構成されている。そのことからすると、第5篇のこれら冒頭諸章は、第4篇及び第5篇第25章以後とは別な時期に書かれた草稿ではないかと思われるが、マルクスの第3巻草稿の執筆の経過の詳細について私はほとんど何も知らないので、この点は確実なこととして述べているわけではない。

ところで、第5篇の第5章以降になると再び貨幣取り扱い資本=銀行業者の話が語られている。しかし、銀行業者(貨幣取り扱い資本)の話が第25章以降36章までの全てかというと必ずしもそうとも言い難い。

第36章資本主義以前、はともかくとして例えば、第30~31章貨幣資本と現実資本のⅠ~Ⅲや第35章貴金属及び為替相場、は少し色合いの違う話のようにも見える。

が、仮にそうであるとしても、商品取り扱い資本及び貨幣取り扱い資本(=銀行業者)の定義として読むことによって、とりわけ貨幣と資本との区別という観点、言い換えれるなら”貨幣に対する利子”と”資本に対する利子”の区別という観点に配慮して
第5篇を読むことによって、両篇の本来あるべき話の筋道が多少は見えてくるのではないかとも思われる。

第4篇のみならず第5篇をも商品取り扱い資本および貨幣取り扱い資本=銀行業者を定義するための諸章からなるとして読むことは、それに妥当する章、妥当しない章あるいはこの定義という目的からはずれる章、すなわち別なテ-マを取り扱ったみられる章とを区別する基準を提供することになり、第5篇全体のテ-マあるいはあらすじの解明に大いに寄与していくれるはずである。つまり上記の読み方は第5篇を読むための方法的仮説となるであろう。

ただし、その結果がどれだけ
第3巻第3篇”利潤率の傾向的低下の法則”において”総括”されている第1巻から同篇に至る資本主義の歴史的性格の規定とどのように関係するのかについては残念ながら今のところ全く明らかではない。

(続く)

 

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・・・・・・・・・・・・
参考資料:第3巻第4篇及び第5篇目次


第4篇 商品資本及び貨幣資本の商品取扱資本及び貨幣取扱資本への転化(商人資本)

16章 商品取扱資本

17章 商業利潤

18章 商人資本の回転 諸価格

19章 貨幣取扱資本

第20章 商人資本に関する歴史的事柄 


第5篇   利潤の利子と企業者利得への分裂 利子生み資本

21章 利子生み資本

22章 利潤の分裂 利子 自然 利子率

23章 利子と企業者利得

第24章 利子生み資本という形態での資本関係の外化 

25章 信用と架空資本

26章 貨幣資本の蓄積、その利子率への影響

第27章 資本家的生産における信用の役割

28章 流通手段と資本、TookesFullartonsの見解

第29章 銀行資本の諸構成要素
第30章 貨幣資本と現実資本Ⅰ

第31章 貨幣資本と現実資本Ⅱ (続き)

第32章 貨幣資本と現実資本 Ⅲ (結論)

33章 信用システム下の流通手段

第34章 通貨原理及びイングランドの1844年銀行法制

35章 貴金属及び為替相場

36章 資本主義以前

・・・・・・・・・・・・・

話を本筋に戻そう。

①では資本論第3巻第4篇以降の話の流れが分かりにくい理由を二つ挙げた。その一つ
は、第4篇が商品取り扱い資本及び貨幣取り扱い資本の定義をテ-マとするはずであるのに、その定義は明らかに不完全であることである。

というのは、第一に、とりわけ貨幣取り扱い資本について、その”業務”は銀行業者の貨幣預託及び決済の代行業務であり、それらの業務は現実には”貨幣市場”と不離不可分であり、貨幣市場を介してそれぞれの銀行が”貨幣”の過不足を”貨幣”の貸借によって調整しながら執行している。そしてそこで決定される”貨幣市場金利”が銀行の対顧客貨幣貸付を行う時の”基準金利”を規定する。 それぞれの銀行は、この貨幣市場金利を基準に、顧客それぞれの返済の確実性・あるいはリスクを勘案して貸し付けるという関係がある。

マルクスの時代にあっても、割引商会やLondon手形交換所加盟銀行等の参加する手形再割引市場等がこのような”貨幣市場”の役割を果たしていたはずである。

銀行間の貨幣市場の存在、そこでの短期金利の決定、銀行間短期金利を基準とし、それにリスク・プレミアムを上乗せした銀行の対顧客”貨幣”貸し付け。貨幣取り扱い資本を定義するにはこのような表象を無視するわけにはいかないはずであるのに、第4篇では全く無視されている。第4篇における貨幣取り扱い資本の定義が不完全であるという所以である。(但し、あるものの表象の単なる記述がそのものの”理論”、もしくは”理論的定義”だと主張するつもりは毛頭ない。)

そして、このような銀行の対顧客貨幣貸し付けの”恩恵”を顕著に享受しているのが商品取り扱い資本である。が、第4篇ではこの点にも言及がない。。

第4篇における貨幣取り扱い資本の定義が不完全であるという根拠の二つ目は手形交換所への言及がないということである。

手形交換所は資本家社会のいける決済のための重要不可欠の社会的施設であって、この施設によって、個別諸資本間の債権・債務は各個別資本とその取引銀行との債権債務関係と銀行間の債権・債務関係とに再編される。それによって、個別諸資本間で発生する債権債務関係は大いに相殺される。したがって個別諸資本にとっても資本家社会全体にとっても、必要な”貨幣”及び貨幣取り扱い費用(流通費用の一大部分)が大いに節約されるのである。もちろん、このような社会的貨幣決済業務に伴い発生するそれぞれの銀行の貨幣の過不足も貨幣市場を介して調整される。

なお、上述のような銀行間貨幣貨幣市場を背景とした銀行の対顧客貨幣貸付業務が非金融個別諸資本(産業資本及び商品取り扱い資本)の間での商業信用の発展に寄与することは明らかである。というのは、商業信用を与えた個別資本は、いざというときに陥るかもしれない支払い不能のリスクを銀行による手形割引によって回避あるいは低減できるからである。が、周知のように、第4篇では商業信用についはわずかのことが述べられているが、商業信用と貨幣信用とのこうした関連についても触れられていない。この点からしても、貨幣取り扱い資本及び商品取り扱い資本の定義として第4篇は不完全である。

ところで、このような第4篇の不完全さを踏まえて続く第5篇に目を移せば、そこにまず現れるのは、貨幣の貸し付けの話ではなく、またそれに伴う”利子”の話ではなく、資本の貸し付けとそれに伴う”利子”の話、「利子と利子生み資本」である。 ①で第4篇以降の話の流れが分かりにくい理由として挙げた二つ目の理由はこのことであった。

さて、この第5篇冒頭部における利子及び利子生み資本の話のオチは資本関係(=資本・労働力関係)の隠蔽という利子生み資本論の意義付け、すなわち、資本所有の成果としての利子、資本機能の成果としての利潤、労働の報酬としての労賃という関係のVersachlichung(客観化もしくは客観的現実化とでも訳すべきか?)の話である。すなわち、第4篇の上述の不完全さを補うような議論ではないのである。

そして第5篇のこの冒頭諸章(第21~24章)は第4篇及び第5篇dai25章以降に比べて、第4篇及び第5篇の話の流れでは奇妙な内容であるとしても、それ自体としては明らかに、かなりまとまった完成度の高い諸章から構成されている。そのことからすると、第5篇のこれら冒頭諸章は、第4篇及び第5篇第25章以後とは別な時期に書かれた草稿ではないかと思われるが、マルクスの第3巻草稿の執筆の経過の詳細について私はほとんど何も知らないので、この点は確実なこととして述べているわけではない。

ところで、第5篇の第5章以降になると再び貨幣取り扱い資本=銀行業者の話が語られている。

(続く)



 


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第3巻第4及び第5篇が分かりにくいのは当然である。わかるように書いてないからである。そのことは編集者のエンゲルスが第3巻の序文で書いている。特に、第5篇についてはエンゲルスは話の筋道が明らかになるようにはマルクスの草稿を編集することができなかったと述べ、エンゲルスとしては当該の篇で議論されるべきであろう材料を提供するだけなのだと言い訳めいたことを書いているのである。是非ごらんいただきたい。


第3巻であれ、『資本論』のどの巻であれ、またいかなる本であれ、あるいは論文であれ、その内容が”分からない”という印象が生ずるのは、著者と読者の間でのコミュケ-ションが失敗またはうまくいかなったことを意味するが、その原因を一般的に、そして冷静に考えてみるといくつかのことが思い浮かぶ。
 

あり得べき原因その1: 読者がダメである場合(あるいはそう自ら思いこんでいる場合)。読者に読解力がないないから分からないというわけである。おもしろいことに、読者が客観的にはダメでないのに、そう思いこんでいる場合すらある。マル系学者・院生の間に少なからず見られる現象である。自分に力(読解力)がないから第3巻が読みとれないと考えてしまうのだ。


あり得べき原因その2:著者も読者もダメである場合。悲惨かつ救いようがない状態である。このケ-スについては、そうでないことを望むのみ、あまり多くを語りたくない。トホホ・・・、意外と多くの場合実態に近いかもしれないし・・・。


あり得べき原因その3: 著者がダメである、というか、著者の書いた原稿が読むに耐えない代物である場合である。本来分かるはずの物でないから分からないという場合、あるいはもっと端的に言えば、著述物に間違いがある場合である。


ともあれ、『資本論』第3巻については多くの人が分かりにくいと感じられているはずである。では、この状態は上の三つのケ-スの内どれに当てはまるのであろうか? あなたの場合はどれに当てはまるだろう?


私自身も第3巻は分かりにくいと感じているが、私の場合には上の③が妥当するのではないかと考えている。だが、そうであるからといって、もう『資本論』第3巻を読むのはやめた!とは思っていない。間違いあるいは不完全なところを正せば読める本になるのではないかと考えている。


そのようなわけで、第3巻のどこに間違いあるいはそれらしいところがあるのかを明らかにしようというのが、この記事のテ-マとなった次第である。


先の記事: 『資本論』第3巻はどうして分かりにくいのか?①では、第4篇が商品取り扱い資本論及び貨幣取り扱い資本論としては明らかに不完全であると書いた。またそうであるから、それに続く第5篇にその欠落(短期金融市場や短期の利子率、あるいは貨幣の貸借の話)を補う何かが書かれているのかと期待して第5篇を読み始めると、同篇の最初に出てくるのは、長期の利子率の話、あるいは資本の貸借料の話であることに面食らうことになると書いたのである。


脱線ついでの一言


年の初めに、学生諸君、一度考えてみよう。 講義を聴くとき(本を読むとき)、そしてその内容が分からないとき、一度その原因を考えてみられてはいかがであろう? 分からないのは私のせいか? アホな教員のせいか? それとも両方ともアホなせいか? それによって対処方法が異なるというものである。



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新年明けましておめでとうございます。

 今年は第3巻第4及び第5篇、そして第7篇について考えてみようと思います。途方もなく、極端な現行『資本論』批判を展開することになるかもしれませんが、どうか気長におつきあいくださいますように。また、今年はできればMEGAの1863-67草稿にも目を通そうかと望んでいますが、 失業者の身ですから、どれだけ時間がとれるやら・・。

 ともあれ、新年にあたり、ご来訪いただいている皆様のご健康と、ご活躍を祈ります。 

 2013年元旦  前原芳文
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dksenario

2013 01 04更新

周知のように『資本論』の第2巻と第3巻はマルクスの草稿をもとにエンゲルスが編集したものだ。そのうち第2巻については、かなりうまく編集されていると思う。が、率直に言って、第3巻はかなりひどい、”読める代物じゃない”と思う。これは編集の問題というより、むしろ草稿の問題だろうと思う。マルクスの草稿が『資本論』という物語のシナリオ展開が鮮明になるほどにまとまったものではなかったせいだろう。

特に、第4篇、第5篇、そして第7篇にたくさんの問題が詰まっている。この表題・”『資本論』第3巻はなぜ分かりにくいか”では、そのうち第4篇と第5篇の問題について述べる。が、第7篇についても”印象めいたこと”を一言。

第7篇の最初に三位一体の話があるのがよくないんじゃないかと思う。第1巻との比較で考えてみよう。第1巻の剰余価値論の最後には(、あるいは剰余価値論と資本蓄積論とのあいだには)第6篇「労賃」がある。あまり目立たない控えめな、そして適切な場所にある。というのは労働力の価値が労賃と認識されることによって、第1巻で定義されるべき資本・賃労働関係の歴史的性格が隠蔽されるという論点は、第1巻で論ずべき一つのテ-マではあってもけっしてメインテ-マではないからである。

同様に三位一体の話も第3巻の論点の一つではあっても、メインテ-マではあり得ない。メインテ-マはあくまで資本家的生産様式に基づく社会の歴史的性格(資本主義は終わるという話--集積・集中・最後の鐘)であるはずだと考えるからである。だから、三位一体の話は第3巻第7篇のなかでもっと控えめな場所に置くべきであった。それを最初に持ってきたから目立ちすぎて、『資本論』全3巻のシナリオについても誤解が生まれることになってしまっているのではないかと思う。

そうとすれば第7篇のメイン・テ-マは何か?が気になるところ・・。

が、第3巻第7篇について、詳しくは別な機会に考えることにして、本題の第3巻第4篇と第5篇の問題に戻ろう。

まず第4篇から。この篇では商品取り扱い資本と貨幣取り扱い資本の社会的機能とそれらが享受する利潤の根拠が論じられているのだが、それらの資本家社会的機能についての定義が全くもって不完全である。

なぜなら、例えば、貨幣取り扱い資本である。これは銀行、--『資本論』はイギリス資本主義を表象として浮かべながら書かれたという事情を考えれば--商業銀行や割引商会(商業銀行業界に対して銀行サ-ビスを提供する民間の)大銀行業者のことである。これらの銀行は、非金融諸企業の保有する貨幣を預金(当座預金・定期預金等)として受入れ、非金融の諸企業がおこなう種々の取引にまつわる決済業務(手形交換/・内国為替業務を含む貨幣の支払・受取の代行)を営む貨幣取り扱い業者である。

そして、肝心なのは、これらの業務がマネ-・マ-ケット(短期金融市場--銀行間で商業手形や融通手形を売買する市場、手形引受、当座貸し越し、国債売買etc.の市場)の存在なしにはあり得ない業務だということである。言い換えれば、全ての銀行業者がおこなう貨幣取り扱い業務は貨幣市場と不利不可分の関係にあり、貨幣市場無くして貨幣取り扱い業務の遂行など不可能、といえるほど両者の結びつきは深いのだ。

つまり、銀行間での貨幣貸借市場を論ずることなく貨幣取り扱い資本の定義を終えるなどというのは、とんでもない間違いなのである。そして銀行間での貨幣貸借は当然”利子”付きの取引であるから、”利子”についても論じられてしかるべきである。ところが第4篇はというとどうだろう? ”利子”の”りの字”も出てこない。これじゃ貨幣取り扱い資本の規定として、あるいは定義として不完全もいいところなのだ。

この問題、つまり、貨幣取り扱い資本=銀行業者の相互的な貨幣貸借市場と”利子”に言及がないことは、当然にも、商品取り扱い資本の規定・定義にも関わりをもつ。

そもそも、銀行からの借入を受けないで商品の卸売りや小売業務を営む流通業者など存在するものだろうか?ほとんど存在しない。銀行業者から手形割引のサ-ビスも受けず、その他の貨幣の貸し付けも受けずに営んでいる流通業者は確かに存在するが、それは例外的な存在である。卸売業者や小売業者(流通業者)のほとんどは、自己資本だけではなく他人資本(銀行信用)を利用しながら業務を遂行するのが通常である。

だから、第3卷第4篇における商品取り扱い資本の規定もあきらかに不完全なのである。

だから、続く5篇の冒頭で、いわばその欠落を補うべく、利子(利子生み資本)が説かれるのだといわれる方があるとすれば、それはずいぶんと”お目出度い”人といわねばならない。

そこで述べられているのは、貨幣の貸借ではない。資本の貸借である。”短期の利子”じゃなくて”長期の利子”の話であって、まったくもって”猫だまし”を喰らわされたような気分にさせる議論である。

そこで問われるべきは、”短期の利子”あるいは短期金融市場(マネ-・マケット)の話はどうなったの?なのである。なのに、エンゲルスが5篇冒頭で述べ始めるのは、”長期の利子”、資本の貸借の話なのである。まったくもって他人を小馬鹿にした話、問題のすり替えもいいところなのである。こんな無茶苦茶な話の流れに何の疑問も持たず、『資本論』のテキストを”素直に”読み続けられる人は、たぶん、アホである。

エンゲルスにも悪意はなかったであろうけれど、とんでもないことをしてしまったものだ。

私はこれまで、第3巻の第4篇と第5篇とは一体のものとして読まれるべきだと申し上げてきましたが、そのわけの一端はご理解頂けたのではないかと思います。今日はこのくらいにしておきましょう。


















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(この記事は”日本社会の経済的再生のために”に掲げたものとおなじ。2012 12 21)

あるもの・事物の変化を定義するにはそのもの・事物の絶対的定義が前提されねばならない。

たとえば、相対的価値形態の量的な変化の定義も、相対的価値形態の量的内容が絶対的に定義されてはじめて可能である。

マルクスは資 本 制 社 会 の歴 史 的性格の理 論 的 証 明 にあたって 、story 展 開のための二 つのツ-ルを用 いている。

『資 本 論 』はあれほどに多 様 な材 料 からなる長 大 な理 論 書 である。だからマルクスはそれを書 きはじめた時 点 ですでに、資 本 制 社 会 認 識 を理 論 的 に表 現 するための clear なあらすじとそれを展 開 する基本的な方 法 をもっていたものと思われる。あるいは自 身 のブルジョワ社 会 認 識 を、商 品 形 態 の定 義 を端 緒 として論 理 的 に展 開 するための基本的方 法 を最 初 から手 にしていたはずだと考えられよう。

そして、彼 の頭 の中 の道 具 箱 に存 在 した『資 本 論 』の story を展 開 するためのツ-ルはそれほど多 くはなかったであろう。story 展 開 の仕 方 を場 面 ごとに変 えることなど考 えてはいなかったはずである。たとえば第 1巻 「資 本 の生 産 過 程 」を記 述 するには A という story 展 開 の方 法 を適用 し、第 2巻 「資 本 の流 通 過 程 」については A とは異 なる方 法 B を、第 3巻 については story 展 開 の方 法 C を用 いるなどというような愚 かなやり方 は考 えていなかったであろう。

なぜなら一般に、理 論 の明 晰 さは story 展 開 の明 確 さに依 存 し、story 展 開 の明 確 さは展 開 の論 理 的 ツ-ルの数 にかかっている。極 言 すれば、同 じ論 理 的 パタ-ンの繰 り返 しであればそれだけ、理 論は明 解 である。場 面 ごとに取 り替 えられる多 様 な方 法 は複 雑 にすぎる、clear ではない「理論 」しかもたらさない。

実 際 、『資 本 論 』全 三 巻 、各 巻 の目 次 を同 時 に横 に並 べてやや遠 目から眺 めてみると、繰 り返 される同 じ型 の story 展 開 が発 見 できる。

story 展 開 のためのマルクスのツ-ルの一 つは、ブルジョワ社 会 を構 成 する「ある事 物 の絶 対 的 な措 定* die absolute Setzung des etwas」に対 する「相 対 的 な措 定 die relative Setzung des etwas 」、及 び絶 対 的 かつ相 対 的 な措 定 「それらの総 合 die absolute und relative Setzung des etwas」という順 序 での‘措 定 ’、分 析 、定 義 によって事 物 を、すなわちブルジョワ社 会 とそこにおける人 間 存 在 の歴 史 性 を認 識 しようとする方 法 である.

例 えば:
第 1巻 には「絶 対 的 剰 余 価 値 の生 産 」に対 する「相 対 的 剰 余 価 値 の生 産 」、両 者 を「総 合 」する篇 がある。「単 純 再 生 産 」に対 する「資 本 蓄 積 」も同 じ系 統 に属 する区 別 であろう。

同 様 なものとして第 2巻 には「資 本 の循 環 」と「資 本 の回 転 」があり、第3篇「社 会 的 総 資 本 の再 生 産 と総 流 通 」はそれらの「総 合 」である。また「単 純 再 生 産 の場 合 の社 会 的 総 資 本 の   再 生 産 と総 流 通 」に対 する「拡 大 再 生 産 の場 合 の社 会 的 総 資 本 の再 生 産 と総 流 通 」の区別 がある。

また第 3巻 第 2篇 の平 均 利 潤 論 に対 する第 3篇 「利 潤 率 の傾 向 的 低 下 の法 則 」がある。また地 代 論 には「差 額 地 代 の第 一 形 態 」に対 する「同 第 二 形 態 」がある。

 *第1巻第1篇第1章第3節の「簡単な価値形態」の「相対的価値形態の量的な内容」のなかにもその絶対的規定と相対的規定がある。拙稿「第1章商品の文脈」を参照されたい。 

die absolute Setzung des etwas  →  die relative Setzung des etwas  →  die absolute und relative Setzung des etwas  という組 み合 わせにからなる story 展 開 、または論 理 展 開をいかにマルクスが多 用 しているかがわかる。

もう一つ、die Setzung des etwas an sich  → die Setzung des etwas für  (anderer)sich  →die Setzung des etwas an und für sich  という組 み合 わせからなる story 展 開 のツ-ルがあるようにもみえる。例 えば各 巻 の相 互 的 関 係 は基本的にこのツ-ルを使 って展 開 されている**。そしてその基 本 型 は第 1巻 第 1篇 の三 つの章 の編 成 に見 られる。

                                               
 * ‘措 定 ’が耳 慣 れない言 葉 だと思 う人 のために一 言 ;  鯛 をさばこうと思 えば、それを俎 (まないた)の上に乗 せなければならない。‘措 定 ’とは何 かを分 析 するために、それを頭 の中 の俎 の上 に乗 せることである。次 に、鯛 に包 丁 を入 れ、鯛 の‘あら炊 き’のための頭 と骨 、刺 身 のための三 枚 おろしの身 、などに区 分 けし、それぞれの鯛 料 理 の材 料 に整 えなければならない。そうすると鯛 がどのような‘部 品 ’から成 り立 っているか、また部 品 相 互 の関 係 はどのようなものか、がわかる。‘分 析 ’とはそのようなものである。では‘定 義 ’は? それは鯛 の調 理 によって喩 えるのはむずかしい。

** ある事 物 の‘定 義 ’については、マルクスの用 いる‘形 態 ’という語 にも注 目 されたい。ある事 物 が別 な事 物 との関 係 のなかである定 まった内 容 を体 現 している場 合 に使 われている‘-形 態 ’という語 が重 要 である。あるものが何 であるかはそれ自 体 の観 察 、分 析 だけからは認 識 、したがって定 義 できないとマルクスは考 えている。ある事 物 が何 であるかは、その物 が他 の事 物 とのあいだで取 り結 んでいる関 係 を分 析 し、その関 係 のなかでその事 物 が表 している内 容 によって定 まる、そうマルクスは考 えている。そしてそのような事 物 を‘-形 態 (-Form)’という語 で表 している場 合 がある。この点については、価値形態論を参照されたい。剰余価値論では資本という形態と労働力商品の関係が措定、分析、定義されているものとみることもできる。

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2012 12 13

表題の図を”『資本論』のあらすじ”にupしました。また同図にかんする説明を"日本社会の経済的再生のために”に掲載しております。



2014 12 14 追記

この図のうち第1巻最初の二篇の部分を変更しようかと考えています。両篇併せて、資本(またはその属性=剰余価値)を措定するための部分として読むのがよいのではないか、そう思い直しているからです。

私は従来、この両篇のうち第1篇は商品と貨幣が定義されている部分、また資本関係を捨象した段階での資本家的生産様式の社会が定義されているかなり独立性をもつ部分として読んできました。また第2篇は、「資本の生産過程」と題されている第1巻の本論部(資本の属性たる剰余価値とこの社会における労働生産力の発展との関連が考察されている第3篇以降)と第1篇との”つなぎ”の部分だと。

このような読み方はとても曖昧な論理展開の理解の仕方ではないか、そう反省しているわけです。 

さしあたって最初の二篇の部分の読み方を上述のように変更することで、このような曖昧さから少しは抜け出せるのではないか・・、そう思います。

 
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『資本論』第4篇と第5篇は、むしろ一つの篇として読むべきであろう。その際には、とりあえず、現行『資本論』第5篇の利子生み資本の各章(第21ー24章)は、さしあたり無いものとして、言い換えれば無視して読んでみよう。
では、どのような視角から読めばよいのか? さしあたっては、下記の諸点とともに、貨幣と資本とを厳然と区別すべきという視角が考えられよう。あるいは”貨幣の貸付(借入)料”と”資本の貸付(借入)料”とを区別すべきという視角である。しかし、これだけでは不十分かもしれない。貨幣の貸付(借入)と貨幣形態の貸付(借入)との区別も考えなくてはならないかもしれない。

 第3巻第4及び5篇のテーマを読み解くためのいくつかの留意点

 ①(「資本論』の基本的テーマは第3巻第3篇”利潤率の傾向的低下の法則”に象徴的に表現されている資本制社会の歴史的性格を解明することにある、その意味で政治経済学=リカードォ批判にあるとすれば)、商品取扱い資本及び貨幣取扱い資本がもつ諸機能の分析においても、それら諸機能が資本制社会の歴史的性格に如何に関係するのか、という観点からの考察がなされていて当然である。
 ②この二つの篇においては、総資本のうち流通過程を担当する諸資本が、商品取扱い資本及び貨幣取扱い資本(=銀行業者)として措定され、それらの諸機能、したがってそれらに総利潤(総剰余価値)の一部分が配分される根拠が分析されているものとみられる。
 ③剰余価値を産出しない商品取扱い資本及び貨幣取扱い資本を特殊な資本種類として措定することは、社会の総資本がこれら流通過程を担当する諸資本と剰余価値を産出する、すなわち社会の物質的な存続のために不可欠の財を生産する諸資本とに分裂している状態を措定することでもある。したがって、商品取扱い資本及び貨幣取扱い資本の諸機能の分析にあたっては、それら流通過程を担当する諸資本の諸機能と生産過程を担当する諸資本の諸機能との関連が考慮されて当然である。

このような読み方によって直ちに第4及び第5篇のテーマ(何を定義すべきか)が明かになるものでもなかろうが、もしかしたら、貨幣の借入料としての"利子”と資本の借入料としての"利子”をどこの段階で措定すべきかが明かになるかもしれない。そうなれば第4及び5篇をどのように書き直すべきかも自ずと明らかになるであろう。

参考1:第3巻目次


参考2:覚書 第3巻第4及び第5篇のテ-マと利子生み資本(利潤の利子と企業者利得への分裂)論について
(2012年2月13日 3月7日一部修正)

資本または資本家的生産様式は人間社会のnatural自然な姿でもなく、ewig永久不滅でもなく、いつかは終わりを迎えるhistorisch歴史的な属性をもつものであることを定義する、それが『資本論』のメイン・テ-マ である。私はそう考える。そうであるから、『資本論』は”資本家的生産様式の行き詰まりが露呈する” 現代においても 読まれる価値があると思っている。

そのような考え方からすれば、第3巻第4及び第5篇は、同巻第3篇において利潤率の傾向的低下の法則*として総括された社会の総資本の運動の属性的傾向に対して、商品取扱資本や貨幣取扱資本(銀行業者または銀行制度)の運動が、どのように作用するか、を規定するための部分として一つの纏まりをなしている、と見なすことができる。

  *剰余価値率一定を前提して説かれている利潤率の傾向的低下の法則 の論証が不十分なことについては、これまでの記事によっても明らかである。

その一纏まりの部分においてprimaryに考察し、定義すべきなのは、中・長期の貸付や出資ではなくてむしろ短期の貨幣信用及び商業信用が、 一定期間に 社会の総産業資本が 生み出す総剰余価値=総利潤にどのように影響し、利潤率の傾向的低下の法則にどのように作用するかであり、その作用の長期的趨勢であろう。

つまり商品取扱資本及び貨幣取扱資本=銀行業者の資本の運動を規定する第3巻第及び第5篇では、利子生み資本一般ではなく、短期の貨幣信用及び利子と総利潤=総剰余価値との関係、及び商業信用と 総利潤=総剰余価値との関係 を解くことがprimaryな課題である。

債券市場や株式市場、さらに利子生み資本一般(Spaltung des Profils in Zins und Unternehmergewinn.
Das zinstragende Kapital 
利子と企業者利得への利潤の分裂)については、このprimaryな課題を果たした後に解くこともできるように思われる。

いつか、できるだけ早い時期に、以上のような観点から第3巻第5篇を読み直すことにしたい。第3巻第7篇も同様に資本=労働力商品という生産関係及び同関係の内容がその内容を規定する資本家社会の上部構造がもつ歴史的性格に注目しながら、つまりは資本家的生産様式に基づく社会の歴史的性格がどのように規定・総括されているのか、という視角から読み直すことになろう。 

   
 

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『資本論』第3巻第1篇は無くてもよい、無くても困らない、と思う。絶対に必要だと考える人があれば、是非ともご意見をうかがわせていただきたいものだ。”回転”の問題くらいか・・。しかし、部門間での回転の差異は資本構成の差異と並べて第2篇で措定するという途も考えられよう。
「剰余価値の利潤への、または剰余価値率の利潤率への転化」という表題には誰しも思い入れがあろう。が、そうであっても、第2篇の副題を「剰余価値の利潤への、または剰余価値率の利潤率への転化」として済む話ではなかろうか?
ともあれ第3巻は章の数が多すぎる。そして噺のオチがわかりにくい。第7篇だってこのままでよいはずはなかろう。
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           表題を訂正Zirlulation→Zirkulationsform 20130328, 追記20160408

第1巻第2篇第4章 161頁(原書)最後の一文:

Geld als Geld und Geld als Kapital unterscheiden sich zunächst nur durch ihre verschiedne Zirkulationsform

(Geld als Geldとは正真正銘の貨幣、本物の貨幣、すなわち金地金の意味。ドイツ語辞書でalsを引くとMerkant als solcher本物の商人というのがあります。Geld als GeldはGeld als solcherと書き換えることができるはずです。だから本物の貨幣、蓄財等を目的に一旦流通界の外に出て、例えば支払い手段として流通界に帰り、さらにそこから流通界の外に出るという運動をする貨幣(第1巻第1篇第3章第3節、及び拙稿『資本論』のあらすじ「序言」27頁の図・「貨幣の運動領域」を見よ)という意味。

したがってGeld als Geld und Geld als Kapital unterscheiden sich zunächst nur durch ihre verschiedne Zirkulationsform.という文章の訳は、「金地金と資本としての貨幣=貨幣資本では何よりも循環形式が違う。」とすべきです。)

繰り返すが、この Zirkulationsformを流通形態と訳すのは誤り。正しくは、循環形式または循環形態と訳すべき

同様に、166頁(原書)の最初の方にある、Solche Wertverschiedenheit bleibt jedoch für diese Zirkulationsform selbst rein zufällig.の  Zirkulationsformも流通形態ではなく、循環形式または循環形態。

そう読む方がず-と意味が通る。

そもそも、流通形態って何のこと? 

とりあえず以上。また脚注4にある Zirkulationsformも循環の形式または循環の形態と解しても意味は通る。

ともあれ、 Zirkulationsformの解釈には要注意。文脈を考えよう!!

ちなみに、循環とは出発点に還る運動のことをいう。例えば血液の循環。 ただし、ここでは出発点Gにはじまり、Gに終わる運動、あるいはWにはじまりWに終わる運動という意味で、循環とマルクスは表現している。

追記)言い換えればテキストのこの部分でマルクスは、W-G-Wという循環形式(または形態)に対して、それとは異なるG-W-Gという循環形式が存在することを指摘し、もって、資本の措定を始めているである。循環という点では同じだけれど、形が違うG-W-Gというものがあるよ、と指摘しているのだ。

 そのように理解(翻訳)してこそ、テキストのこの部分の文意は読み取れるはずで、 Zirkulationsformを”流通形態”なんて理解(翻訳)してしまったら、話の流れ(テ-マ=資本の措定)は見えないであろう。

ついでに、これまでこれを流通形態などと翻訳・理解してきたのは”正統派”も”宇野派”もおなじだが、後者はこの語の誤訳をテコに資本論の誤解とヘンチクリンな”理論”(というべきか妄想というべきか?)を繰り広げてきた点では大いに反省すべきであろう。

ともあれ、翻訳を利用するのはよいとしても、研究者であるなら翻訳書利用の責任は自分でとるべきだ。あるいはそもそもきちんと原書を読むべきだ、と思う。

追記2)Zirkulationsformという語は第1巻では数多くは使われていないし、同巻第1篇でも、何か特別な・重要な内容がこの言葉で表現されているわけでもない。気がかりな人は原文テキストで検索し、(あるとすれば)当該箇所を検討してみたらよい。第2巻では、もしかしたら、けっこう使われているかもしれない・・・。資本の流通形態? これならありそうだ・・・

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資本家社会的生産様式に代わる新しい生産様式とは、社会的生活のmaterial物質的な生産の新たな方法に他ならない。この新たな方法について考察するには、将来のある時点における社会の物質的需要の構成について、詳細に確定する必要がある。そのことから明らかなように、”新しい生産様式”に関する研究は、方法上、『資本論』の方法的枠組みを超え出る研究分野となろう。
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(2012年2月13日 3月7日一部修正)

資本または資本家的生産様式は人間社会のnatural自然な姿でもなく、ewig永久不滅でもなく、いつかは終わりを迎えるhistorisch歴史的な属性をもつものであることを定義する、それが『資本論』のメイン・テ-マ である。私はそう考える。そうであるから、『資本論』は”資本家的生産様式の行き詰まりが露呈する” 現代においても 読まれる価値があると思っている。

そのような考え方からすれば、第3巻第4及び第5篇は、同巻第3篇において利潤率の傾向的低下の法則*として総括された社会の総資本の運動の属性的傾向に対して、商品取扱資本や貨幣取扱資本(銀行業者または銀行制度)の運動が、どのように作用するか、を規定するための部分として一つの纏まりをなしている、と見なすことができる。

  *剰余価値率一定を前提して説かれている利潤率の傾向的低下の法則 の論証が不十分なことについては、これまでの記事によっても明らかである。

その一纏まりの部分においてprimaryに考察し、定義すべきなのは、中・長期の貸付や出資ではなくてむしろ短期の貨幣信用及び商業信用が、 一定期間に 社会の総産業資本が 生み出す総剰余価値=総利潤にどのように影響し、利潤率の傾向的低下の法則にどのように作用するかであり、その作用の長期的趨勢であろう。

つまり商品取扱資本及び貨幣取扱資本/銀行業資本の運動を規定する第3巻第及び第5篇では、利子生み資本一般ではなく、短期の貨幣信用及び利子と総利潤=総剰余価値との関係、及び商業信用と 総利潤=総剰余価値との関係 を解くことがprimaryな課題である。

債券市場や株式市場、さらに利子生み資本一般(Spaltung des Profils in Zins und Unternehmergewinn.
Das zinstragende Kapital 
利子と企業者利得への利潤の分裂)については、このprimaryな課題を果たした後に解くこともできるように思われる。

いつか、できるだけ早い時期に、以上のような観点から第3巻第5篇を読み直すことにしたい。第3巻第7篇も同様に資本=労働力商品という生産関係及び同関係の内容がその内容を規定する資本家社会の上部構造がもつ歴史的性格に注目しながら、つまりは資本家的生産様式に基づく社会の歴史的性格がどのように規定・総括されているのか、という視角から読み直すことになろう。 

   参考資料: 『資本論』各巻の篇別構成
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資本を定義することと労働力商品を定義することとは同値または等価である。
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標題の記事を”日本社会の経済的再生のために”にupしました。
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これまでにも述べてきたように、『資本論』は未完成な本である。厳密な意味では、第1巻だけがマルクスの書いた本と言っても間違いではない。マルクスが自身の手で出版稿まで完成させたのは第1巻だけ、だからである。だが、彼は第2巻及び第3巻のための草稿(原稿)も遺していた。現在われわれが読んでいる第2巻と第3巻は、これらの草稿をエンゲルスが編集したものである。

もちろんエンゲルスはマルクスの企図を尊重してこれらの巻を編集したことであろう。そのことを私は疑ってはいない。しかし、エンゲルスはマルクスではないのだから、現行『資本論』第2及び第3巻の全てがマルクスの考えていたように編集されたのかというと、そういうこともないであろう。特に第3巻の草稿には、完成度の極めて低いものがあったからである。

そのあたりの事情についてエンゲルスは第3巻の「序言」のなかで率直に書いている。

特に第5篇については、<”話の筋道が通るようには編集されていない>旨を述べている。

是非、第3巻「序言」を読んでいただきたい。原書頁で11頁の最後から14頁の半ばまでの部分である。

ちなみに第3巻第1篇についてはどうであろうか。

この部分についても、完成されたマルクスの原稿は存在しなかった。そうエンゲルスは書いている。

では新MEGA第四部の第二の部分、新MEGA Ⅳ/Ⅱの最初の部分は誰が書いたのであろう?

エンゲルスとサミュエル・ムアの合作か?

それにしても、第1篇だけで7章もあるというのはどうであろう? 章の数が多すぎるのではなかろうか?

7章もあっては、どこか浮気がばれた男の言い訳のようで、話の焦点が定まらないように思えて仕方がない。







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(2011.07.06訂正・更新)
このテーマでは、前に、「第1巻第2篇から同巻第7篇までをどう読むか? 1」という記事を書いた。そしてこの記事は、今振り返ってみれば、第1篇第1章第3節の価値形態論にみられる
形態論的認識を参考にすれば、第2篇~第7篇のあらすじと諸内容とが遺漏なく、正確に読みとれるのではないかとの思いから書かれている。

価値形態論はある商品とそれと使用価値を異にする商品とが取り結ぶ交換関係すなわち価値関係から、それぞれの商品に不離不可分の形態どうしの関係(相対的価値形態及び等価形態、したがって商品形態及び貨幣形態)が生ずるという話である。

価値形態論の場合と同じように、剰余価値論と資本蓄積論から構成される第2篇~第7篇の部分も読めるのではないか、というのが先の記事の基本的な趣旨であった。

このような思いについては現在も変わりはない。だが、先の記事では、次のように述べた:「あるもの(物)が「資本」という形態として表れる関係は、いかなる別のもの(または物)との関係なのであろうか?

これについてはいくつかの関係が思い浮かぶであろう。

さしあたっては、私には資本vs賃銀、及び資本vs労働力の関係が想い浮かぶ。あるいはマルクスの若い時期の著作「賃労働と資本」すなわち資本vs賃労働という関係を思い浮かべられる方もあるかも知れない。

私が資本vs賃銀、及び資本vs労働力の関係を思い浮かべるのは、資本vs賃金は第6篇で賃金が論じられているからであり、資本vs労働力は、「第2篇貨幣の資本への転化」の第3節において、労働力の売買が論じられているからである。

が、これらのvs関係はおそらく全て的を射ていないどのように的をはずしているのか? あるいはマルクスはどのようなvs関係を措定して剰余価値が資本という形態の内容を規定ことを明らかにしているのであろうか?」

問題は下線部である。上の引用した文章では、資本vs労働力の形態論的関係で第2篇~第7篇を読むのは、的はずれだと書いている。

これは誤りであろう。おそらく第2~第7篇は、資本vs労働力(より正確には労働力商品)の形態的関係の展開として読みとれるであろう。そして、第2篇はこの部分の単なる「まえがき」ではなく、資本vs労働力商品の形態的関係の展開として以下の諸篇が読まれるべきことを指示している、そのように捉えるべきだと思う。

さらに第2篇を除けば、この部分(第2~第7篇)は、以下三つの基本的な内容から構成されているものと考えることができるであろう:それぞれ資本の生産過程における、

1,資本vs労働力商品の形態的関係1  絶対的剰余価値の生産・・・第3篇
2.資本vs労働力商品の形態的関係2  相対的剰余価値の生産・・・第4篇
3 資本vs労働力商品の形態的関係3  資本蓄積(「資本の生産過程」がもつ歴史的性格の定義)・・・第7篇

では、第5篇と第6篇はどうなんだろう、剰余価値論及び蓄積論のなかでこれら二つの篇はどのような位置を占めるのか、あるいは、どのような意味を持つのか?

それについての答えは、さしあたりここでは差し控えておくことにしておこう。資本・労働力関係=資本関係のAblenkungを説いた第6篇についてはともかく、再び「生産的労働」を論じているものと思われる第5篇の意味について明言するにはいま少し検討する必要があるからである。
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先日upした記事、第2巻第1篇の表題について誤りがありましたので、訂正いたしました。先の記事をお読み下さった方、是非ご確認下さいますように。
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Dietz 書店版のテキストにも、それぞれの巻末にInhalt(目次、英語でならcontents)があります。第1巻の場合はS.949-955.です。mlwerke 版にも同じものがあります。それらを各巻ごとにファイルにしました。それらに加えて、全三巻の篇別構成を一まとめにした図(『資本論』の篇別構成)を”『資本論』のあらすじ”にupしました。是非ご覧くださいますように。

  ここから入れます。id = guest  ,  pssword = 1234

資本論のあらすじについて、大雑把に、あれこれ考える際の必要から作成したもの。何箇所かでDietz書店版とは違う表記があります。mlwerke版ではDietz書店版のcopyだと各巻の冒頭に記されていますのでやや違和感あり、ですが、相違の理由はわかりません。

ここは誤りでした→)表記の違い: たとえば、第2巻第1篇の表題。mlwerke版では次のように、「資本のメタモルフォーゼ」となっています。 
                                       複数形に注意     
                                            ↓
正確には、Dietz書店のbook版でも「資本のメタモルフォ-ゼDie Metamorphosen  des Kapitals und ihr Kreislaufと同じです。これを大月書店全集版では「資本の諸変態とその循環」と訳してあります。丁寧な訳とも言えますが、「その循環」と付け足すのは、ちょっと余計じゃないのか・・・とも思います。(20130203t訂正)
 

上記の”目次”に付いている日本語訳は私によるもの。もしかしたら誤訳があるかもしれません。ご注意ください。
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(2011年5月29日、同30日及び6月3日、同4日加筆。11月1日タイトルを訂正:流通経費→流通費用

第3巻第1~第3篇の議論においては、費用価格のなかに流通経費は含まれていない。何故なのか? この数年抱えてきた疑問です。以下はこの問いに対するさしあたりの答えです。

第2巻では種々の流通費用は資本家の負担で剰余価値から支出されるものとされている。第2巻第3篇の再生産表式においても二つの部門のc+v+mのmなかに包摂されている。

機械制大工業的経営をもって実現されている資本家的社会の現実としては、資本の流通過程は、商品の売買・帳簿づけ、貨幣の受け払い・帳簿づけ、保管・帳簿づけ等の労働をおこなう”労働者”により担われている。そうした労働者たちは資本家によって雇用され、その管理の下で労働し、そして商業/銀行労働者としての”賃金”を得、賃金の支出により自らの労働力を再生産するために必要な生活資料を得ている。そうした事情は、具体的には、再生産表式には未だ反映されていない。再生産表式においては、流通過程を担う労働者の生活資料の生産・流通については特段区別されていない。事実上mの生産、流通のなかに含まれている。

同様のことは、第3巻第1~3篇についても妥当する。流通費用はここでもすべて、m(剰余価値)またはp(利潤)に包摂されている。”費用化”されていない。または”資本化”されていない。

ここで登場するいくつかの生産部門の資本構成を代表する諸資本(平均利潤論)も、市場価値論において同一部門の内部に存在する諸資本も、産業資本ではない。なぜなら商人資本(商品取扱資本及び貨幣取扱資本)と区別される産業資本について考えるとき流通費用は剰余価値または利潤ではなく、費用項目の一つとして産業資本家の計算に入るからである。あるいは、産業資本にとって、商人資本との”分業関係”は自らの流通過程の代行による流通費用の節約という点にその意味があるからである。

したがって、第3巻第4篇にいたって初めて、商人資本が措定されることによって、個別資本は産業資本にも転化するのである。また第3巻第1~3篇から第4篇の商品取扱資本及び貨幣取扱資本の利潤についての議論への展開は、上記の利潤の産業資本と商人資本とのあいだへの分割だけでなく、”利潤(流通経費)の費用への転化”を語っているものと読めるのではなかろうか・・。


  





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Zirkulationは循環すなわち「始点に回帰する運動」の意味で用いられている場合があるのではないか?W-G-W: 商品に始まり商品に終わるという循環形態または形式

したがってZirkulationsformは流通形式または流通形態という意味ではなく、循環形態または循環形式という意味で理解すべき場合もあるのではなかろうか?またW-G-Wという循環形式または形態に対してはG-W-Gという循環形式または形態。

例えば第1巻第2篇第4章貨幣の資本への転化、第1節(原書161頁)にある次の文章;

Geld als Geld und Geld als Kapital unterscheiden sich zunächst nur durch ihre verschiedne Zirkulationsform.

「貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりそれらの相互に異なる循環形式によってのみ区別される。


201308006訂正: 横棒の部分
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ここに掲げている記事は、第1巻第1篇、とくに第1章の論理展開を踏まえて書かれています。

第1篇の論理展開に関する私の理解がわからないと、このblogに書いている記事はご理解頂けないものと存じます。是非ともホ-ムペ-ジ: 『資本論』のあらすじ 、特に「『第1章商品』の文脈」をご覧下さいますようお願いいたします。

これまで『資本論』を読んだことのある人にも、まだ読んだことのない人にも決して損はさせません。第1章商品が理解できなければ、絶対に『資本論』の全体で何が書かれているかわかりません。是非お読み下さい。


なお、現在第1巻第2篇以降、労賃までの論理展開について検討中です。この部分に関するまとまった原稿をupするまでにはまだまだ時間がかかりそうです。

気長にお待ち下さい。
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