2007年02月15日

2月も半分終了

9日

 樺美智子の『人知れず微笑まん』、A・ビアス著で大津栄次郎訳の『ビアス短篇集』の2冊を購入。まだ両冊とも完全には読んでいないが、『人知れず微笑まん』は期待ハズレのような感じである。ただ、「人知れず微笑まん」という言葉が彼女の「最期に」という詩の一節に過ぎないにも関わらず、それをタイトルにした着眼点は感嘆に値する。自分の中で腑に落ちないなのは、結局のところ彼女が遺稿も含めて政治的な道具の一つとなってしまっていることであるのかもしれない。
 一方、流石はA・ビアス。短篇も素晴らしい出来のようだ(芥川龍之介も絶賛したらしい)。自分の中では、ビアスと言えば『悪魔の辞典』である。『悪魔の辞典』とは文字通りで、物事を「悪魔」的に解釈した「辞典」なのである。例えば、「辛抱強さ・・・不当な扱いを受けても、一方で復讐の計画を練りながら、意気地の無い自制心をもってこれに耐えていこうとする気質」とか「現在・・・永遠の時間の流れの中で、失望の領域と希望の世界とを分けている部分」とかである。かなりブラックで面白いが、ブラック過ぎて笑えない部分もあるし、人種差別的な表現もある。ただ、多角的な視野という観点からも相当興味深い一冊である。世の中の物事全てを再定義しているといっても過言ではなかろう。

10日

 『ビアスの短篇集』読破。全ての短篇で登場人物が死ぬところがビアスらしくて笑えるが、短編一つ一つが考えさせられるネタなので読むのは大変だ。何が伏線で、何を伝えんがための文章かを考えながら読まないとただ単に文字面を追っただけになってしまいそうだからである。乱読では決して理解できず、精読を必要とする。最近、乱読気味なのでいい転換点となるのではないかと期待している。
 さて、ビアスの短篇を読んでいて思ったこと。究極の短篇といえばショートショート。ショートショートといえば星新一である。星新一の作品は、アシモフのSF的な要素をふんだんに取り入れており、オチが素晴らしい。ビアスにしろ、星新一にしろ短編が人の心を惹きつけるのは何故なのであろうか。それは、文学への熱意や知識そして思いが強いことに加えて、自分の専門分野をキチンと持っている強み、土台となる基礎を持ってることではないだろうか。ビアスならジャーナリズム、星なら生物学と薬学。では、お前の「専門」は何なのだ。「専門」という言葉が堅苦しいなら「好きなモノ」は何なのだ。一体全体どこを拠り所としているのだ。場当たり的なものじゃなく、心から笑えるモノは何なのだ。よく考えてみよ。もう、「好きなものを探すために生きている」なんて口にするほど若くはないことを自覚せよ。

11日

 最近、文庫本などの「あとがき」を読むことをとても楽しみにしている自分を発見することがある。それも稀ではなく、かなりの頻度でである。昔はあとがきなんてまったく読まなかったし、不要な存在だとすら考えていた。最近になってやっと他者の解説を独善にならずに読めるようになったということだろうか。とはいうものも他人思考になりすぎることは、自分の意思を忘却することになりかねず自分の脳を使用する機会を減少させてしまいかねないことには留意しなくてはならない。
 さてさて今日は母親の49回目の誕生日だった。梅田の大丸でケーキを6つ買った。「L'ASIE」という有名な店ではあるらしいが、6つで3000円超えた。いくらなんでも高い。わざわざネットカフェで梅田近辺のケーキ屋を探して購入したわけだが、相手が母親とは我ながらなんとも色気の無い話である。まあそれは兎も角、両親を見ていて「年とったな」と感じることが最近多々ある。肉体的にも精神的にも辛そうで傍目からも痛々しい。親への感謝が無いとは言わない。しかし、相当遠慮もし続けて生きてきたつもりだ。自分勝手って何をさして言うのだろうか、未だに分からない。

12日

 惰眠をむさぼり続けた一日であった。一日の内で半分近く眠っていたのではないだろうかと思うくらいだ。眠くて眠くて堪らない。この眠さはどこから来るのだろうか。睡眠は人間に不可欠な存在で、睡眠中に記憶が定着したり、疲労が回復されることはよく知られている。しかし、現在感じている眠気はそんなもののための眠さではないように思う。なんというか、ただ只管落ちていくような錯覚に陥る。
 重松清の『かっぽん屋』を読む。この本で読むべきは、「桜桃忌の恋人」のみである。この話は、太宰治を専攻する教授の話である。「選ばれてある恍惚と不安と二つわれにあり」というヴェルレーヌの一説が引用されているところが一番のお気に入りの要因である。何かを選ぶということは即ち何かによって選ばれているということに他ならないのだ。
 今月はハイペースで日記を書いていたが、心の中に葛藤があり自分の頭で物事を考えるとペンが進むことがよく分かる。
 ここからは覚書。ダーツの投げ方で気付いたこと。.澄璽弔魄く際に、肩に触れるほどは引かずに肘が90度を少し超えるくらいにする。▲澄璽弔魄く際は、ゆっくりと落ち着いて引く。ダーツを投げるときは押し出すイメージで、躊躇なく強く放つ。

13日

 昔の落書きを発見した。内容が泣かせるね、過去の自分よ。「落魄れて 袖に涙の かかるとき 人の心の 奥ぞしらるる」(古歌)なんてノートの切れ端に書いてるんだもの。でも、あのときの自分より客観的になっている今の自分から言わせてもらえば、この歌はやはり自己本位でしかないようにも思える。辛いとき、悲しいとき周りの人間の醜悪なところばかりが目に付くだけなのだ。楽しいとき、嬉しいときは良い点ばかりが目に付くのと一緒なのだよ。「幸せはいつも自分の心が決める」って、相田みつをも言っていたし、心理学的にも雰囲気は人間に多大な影響を与えると証明していたじゃないか。
 しかし、ここで原点に返って古歌を見直して見よう。「涙」は、ただ人の世の虚しさを嘆いたから出ただけなのだろうか。「人」とは世間一般の人を指し示しているのだろうか。刑法199条における人は「自分を除く自然人」と定義される。では、この歌における「人」は刑法199条と同じでよいのだろうか。「人」とは、自分自身を指しているとは考えられないだろうか。そうすると、「涙」は浮世への失望ではなく、自らへの悔恨の象徴なのではなかろうか。失ってなお持ち続ける人間としての尊厳をこの古歌は謳い上げているのかもしれないとも思える。落魄れて初めて着飾ることのない自分の裸の心に触れたとき、人はただただはらはらと涙するしかできないのかもしれない。
 さて、ではここで問題。冒頭の「内容が泣かせる」と書いたときの「泣く」は何を思って自分は泣いているのだろうか。悲劇のヒーローを演じているつもりなのか、はたまた自らへの悔恨の情の成せる業なのか。

14日

 最近目を閉じると、数字や英単語などの様々な文字が飛び交うことがある。ふとした時に、頭の中で数学の定理が思い浮かび迫ってくるときがあるのだ。決してそれを使う機会など無いのにも関わらず、パップス・ギュルダンの定理とかバベルの塔とかがふと思い浮かぶのである。塾講師や家庭教師等の話もあるにはあったが、それは絶対にできない。あの日、自分の知識の切り売りはしないと心に決めたのだ。全てがそうだとは言わないが、ペラペラと口から知識を垂れ流すだけの愚劣な存在どもが多すぎる。そんな存在に自分は成り下がりたくないのだ。
 絶対に破ってはならないもの、それは法律ではないと断言できる。法律を学ぶ者が言うべきことではないかもしれないが、結局のところ、法律なんていうものは円滑に近代社会が動くように人間を歯車へと貶める手助けをしているだけなのだ。自然法とか法実証主義とか色々な学説があるが、そんなものはまやかしに過ぎない。人間が守らねばならないのは、唯一自分の作ったルールのみだと思う。「他人のルールに縛られる人間を、家畜の豚という。自分のルールを持たない人間を、快楽の豚という。自分のルールを持たない人間は、道を選べない。右に左に流されて、無法地帯を流されるだけだ。そして、知らぬ間に、ヒモをつけられ、マリオネットになってゆく。生きていくためのルールは、従うものではなく、創るものだ。」 と言うではないか。当然、ルールを設定するに当たっては、厳格な「正しさに裏打ちされた優しさ。優しさに裏打ちされた厳しさ。厳しさに裏打ちされた強さ。」を伴っている必要があるし、それはとても難しいことである。


mementomori444 at 11:29|この記事のURLComments(4)
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