人が集まるだけでは、それはただの人の集まりでしかない。人の集まりをそれ以上のなにものかへと昇華させるためには、個人のロジックを越えた所に一歩踏み出す必要がある。そこには全体主義やら宿願の共有、時にはある種の宗教じみたミームを用いることすらある。
「人の集まり」が「組織」となるためには、あるポイントに存在している分水嶺を超えなければならない。
弊社は相変わらずそのポイントを超えるのかどうか微妙なところを(額面だけ見れば期待通りに、しかしその実は予想の斜め上を行くカオスさで)ふらふらしているが、外注先には己の腕一本で勝負する流浪のエンジニアが居たりして、
加えて最近はかっちりとした「いわゆる大企業」を顧客とする案件が増え、他ならぬ僕もそのまっただ中に放り込まれて"大企業流"に揉まれまくって半年近くが経過した。
副社長の強力なサポートがあるとはいえ、ベンチャーならではの人数不足によって、新卒の僕1人がメイン張って【自主規制】万円の案件をやって、要件定義・設計・サーバ/インフラ・実装・テストetc... あらゆる側面から攻めて来るほぼすべての担当者と関わらざるを得ない以上、経験の濃度的に、同じ時期に入社した新卒の80%にはどう転んでも負ける気はしない。が、上位20%層がえらく厚いのは世の常。同期も頭角を現しまくっているし、まだまだ僕は足りなさすぎる。
ともかく。組織と個人の境目で、両端に触れながら仕事をしていると、嫌が応にも"組織"という概念がいかに矮小で脆いものであるか知ることになる。
大企業・中小・ベンチャー・零細・外資...種類を問わず、何らかの組織に人生を預けるなどというのはもう僕には自殺行為としか思えない。
少し本題に入る。
まず前提として、人間は個人個人で異なる気質を持つ。
ところが、高度に組織化された企業 -- 企業然とした企業 -- に属している構成員には、一定の法則性があるように思われる。その法則性の中にはおそらく日本独特の慣習によるものもあるし、人が組織化される以上避けることの出来ない性質の変容と見られるものもある。
僕はこの法則を共有する社員を「企業人」と呼ぶ。他の場所で別の定義がされていてもまぁ知らん。
企業人が共有する思考法則とは、例えば以下のようなものだ。
- 与えられた仕事に専念する
- 高度に専門化されている
- お客様は神様です
- クライアントの要望には際限がない
- 下に見た相手には強い
- 「どちらがボールを持っている?」
そして、どうも「企業人」をよく見ていると、根底にただ一つ「責任範囲を規定したい」という思考があるように思える。
上記の特徴はすべてこの「責任範囲の規定」という根本のインスタンスに過ぎないんじゃないかと思う。つまり、こういうことだ。
- 与えられた仕事に専念する
- →前提をそのまま受け入れ、与えられた仕事以上に食いつこうとはしない。なぜならば責任範囲を超えてしまうから。
- 高度に専門化されている
- →専門外のことに対しては責任を負わない。
- お客様は神様です
- →責任を負うべき最大の相手は顧客にあり。
- クライアントの要望には際限がない
- →どれだけ好き勝手言おうとも、最終的な責任は「やります」と行った方にある
- 下に見た相手には強い
- →駆け引きの中で弱みを見せないことが重要となる
- 「どちらがボールを持っている?」
- →ボールを持っている側に責任がある。とりあえずスカスカでもいいから投げ返す。
一般的な大企業、いや規模に関わらず大抵の企業においていわゆる「仕事ができる」人というのは「責任を上手に切り分けられる人」である。
彼らは実に上手に「仕事」を切り分ける。分析して分解して分割し、ぺんぺん草一本残らぬ程の非情で以て「仕事」を己の利益となる形に再構築する。それが彼らの学んだ仕事のやり方であり、同時に、今後も脈々と受け継がれるであろう、正しい仕事のやり方である。
もちろん誰であれ、明確に意識しているかどうかはともかく、リスク/リターン最適バランスを常に探っている。危険は最小限に、それでいてなるべく美味しい部分をもらいたい、というのが合理的な人間行動というもの(であるとされている)。
ところが、ニュートラルを基準として見た場合、責任範囲を規定することによって必要以上に「リスクを回避する」という部分に重点を置くのが企業人の特徴だ(と、僕には見える)。
僕の見立てでは、この傾向にはそれなりに合理的な理由がある。 おそらく彼らの中で
「組織」という責任主体と、「個人」という感情主体が混在していることが原因だ。
「個人」の視点からはリターンが見えない、それゆえリターンを追い求めることの出来ない、わりと厳しい立場にあるのではないかと思う。このへんの話は詳しく突っ込むのは止めておこう。
ドラッカーの言う知識労働者(Knowledge worker)を地で行く、現代社会の基盤を構成する人々が企業人に他ならないとすれば、『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』で語られたように、知的労働者の反復性・再現性のある仕事は程度の差こそあれ
- コンピュータに代替される
- コストの安い海外に振り向けられる
という形で、不要なものとされて行く可能性が高い。
僕が上記の「企業人」に関してさほど肯定的に書かなかったのは、僕は例えば『奇跡の経営』でリカルド・セムラーが語るような企業が現実になればいいと思っているからで、
「企業人」はこうした"理想の企業"にそぐわない局所最適解に向かうように思えてならない。
仮に、企業人として「仕事ができる」と言われるだけの蓄積を行うことによって、「企業人」という軸とは別の何かが蓄積されるのであれば、
「企業人」を通過しないとビジネス全体を見渡すことが許されていないように見えるのも納得出来るのだが、判断を行うだけの経験がない。
「企業人」に意義を見いだすことが出来るか出来ないか、意義がないのであれば代替の道を探し出せるかどうか、
それがまた、一つの分水嶺になると考えている。
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