売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

河合栄治郎のストレスと病

若年のバセドウ病は急ではないが、ハルトネッキッヒだそうで武見氏に通う数も多かった。之により自分の健康に対する手心も自ら理解して来て却って長命の摂理と見ているのではあるが、寒さ、食料の不足、非常の場合などを考えて、充分健康をいたわる方針にて之が為には金を惜しまない積りであった。
(昭和18年12月31日)


「ハルトネッキッヒ」はドイツ語で頑固の意(hartnackig)。
河合栄治郎は自身の身体に金は惜しまなかったのかもしれないが、肝心要の休養は惜しんだ。命を削って本を読んでいる。大西祝ミルコーヘン和辻哲郎シュテルンなどなど。
ミルといえば、河合栄治郎の数々の艶聞を知って自分はジョン・スチュワート・ミルとハリエットの大恋愛を思い出した。出会った当初、ハリエットは人妻であったからミルとは不倫の仲である(後に結婚)。社会活動家であったハリエットは、ミルの思想に多大な影響を与えた。例えば、コレなどは恐らく。

2つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が2つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満が伴うことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられても元の快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的に優れていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。
( J・S・ミル著、伊原吉之助訳「功利主義論」)


閑話休題。

出て武見(太郎)氏。少し脚気の気味があるらしい。
(昭和19年1月7日)

昭和19年1月13日から23日まで箱根に滞在しているが、ここでも調子は悪い。

何だか頭が疲れていて睡いし足が倦い。
(昭和19年1月14日)


脚のダルサはそれほどでないが動悸がひどい。
(昭和19年1月15日)


典型的なバセドウ病の症状である。病状の悪化は明らかであった。

此の2、3日健康が良かったが、昨夜晩く眠った為か今朝は足がひどく倦いし少し動悸もし手が震える。
(昭和19年1月21日)


今日あたりからひざの辺で骨が痛む。リューマチか脚気か。何となく嫌な気持がする。
(昭和19年1月22日)


23日には、河合研究所設立の祝を虎ノ門の晩翠軒で開いている。

やはり疲れていて何をする気も起こらず、午前は空しく暮らす。武見(太郎)氏に行くのも止めにした。本当は今夜の報告の準備をしなければならないのだが。
(昭和19年1月24日)


疲労感はバセドウ病の症状のひとつ。しかし、治療の意欲すら後退させてしまうとは……。

武見氏に行くのを止めた。一体に疲れているが、特にどう云う所もないから。
(昭和19年1月26日)


午後海野(普吉)邸に赴き、木村(健康)君の来るまで相談し、相変わらず豊富な饗応を受け、その後は自分から木村君に苦言を言い、時局を論じたりして9時半辞し戻る。途中気分が悪化して辛うじて戻る。
(昭和19年1月29日)


1月30日に武見太郎の診察を受けて、

午後武見氏に行く予定であったが、疲れているし物臭いので止めてパン。
(昭和19年2月4日)


今朝は昨夜晩く疲れた為か鼻風を引き起き辛く、床上で朝食をとる。9時前起きたが頭がボンヤリして何をする気力も起こらない。
(昭和19年2月5日)


まだ鼻風が続く。
(昭和19年2月6日)


次は2月7日に受診。

朝7時に起きたが、武見氏に行くのが嫌で、パンを食べ午前は川村氏の「判断力批判」をよみ続け、出て武見氏に行き、一時間まったが空腹で我慢出来ないので戻り御茶をとる。
(昭和19年2月7日)


2月13日、河合は53歳となった。

43才帰航の途次、もう死んでもよいと思ったことのあるのを思い出した。あれから10年生きていた。
(昭和19年2月13日)


翌14日が、最期の日記になる。

昨夜は11時頃に起床したが中々眠れず、12時頃起きて喫煙した。今朝は美事な青空、去るのは惜しい位だ。(略)今日は動悸が殊に酷い。一時前に戻り、パンが間に合わないので少しイライラし、「序曲」の今朝の分を記録す。3時の御茶の後にリーゲン、眠れず。S(斎藤暹)が来たが会わずにコタツに当たって夕食を待つ。
(昭和19年2月14日)

これで日記は終わっている。昭和19年2月15日午後9時15分、河合栄治郎はバセドウ病による心臓麻痺で死んだ。享年53。
昭和37年、当時朝日新聞論説委員だった土屋清は、河合栄治郎の晩年をこう書いている。

起訴されてから、亡くなるまでの5年間、一切社会との交わりを絶った先生は、初めて門下生の少数グループにとって、「われらの先生」となった。もはや昔の「こわい先生」ではなくなり、灯火管制下の暗い応接間で定期的に開かれた演習では、先生は快活に人生と恋愛を論じ、芸術と哲学を談じて、尽くるところがなかった。「人格の成長」を中核とする先生の思想が、そのまま先生に円熟した形で具象化したように思われた。しかもその間先生は日本の敗戦を予想し、その後に来るものに備えて、「河合研究所」を創設し、ぼつぼつたる気はくを示していたのである。それなのに研究所創設後、わずか20日足らずで亡くなられたのは、先生にも、日本の思想界にも遺憾至極というほかない。
(土屋清、昭和37年9月3日付朝日新聞)


河合栄治郎は「日本の敗戦を予想し、その後に来るものに備えて」、出版法裁判ではできる限りの極刑を望んですらいた。戦時の罰が厳しいほど、敗戦後はそれが聖痕となって社会にアピールする、そう考えていた。そもそも、若い頃から机上の学問よりも社会活動、政治活動を指向していたアクティブ男である。実際、河合門下生の多くが戦後に河合栄治郎が生きていたら政界進出していただろうと述べている。門下生ではないが立花隆など、「昭和22年の片山内閣ができたあたりの政治展開では、河合内閣が生まれていた可能性すらある」とまで書いている。

社会民主主義者グループで、共産党の獄中18年組に対してもいささかもひけをとらないくらい名前が売れかつ闘志まんまんのイメージを持った人といったら、河合に及ぶ人は誰一人いなかったろう。河合が政治の世界に乗り出していたなら、河合は、その闘争経歴の輝き、ならびに政治的行動力、闘争心、バイタリティ、理論闘争能力、政治的策謀能力などをいかんなく発揮して、たちまち社会民主主義グループの中では比類ない政治指導者になっていたにちがいない。
(立花隆「天皇と東大 大日本帝国の生と死」下巻)

そうかもしれない。河合栄治郎は右派社会党の偉大なる指導者になり、とすれば今の政治状況もかなり違っていたのかもしれない。しかし槿花一朝、夢のまた夢だ。それも、河合が武見に指示された“休養”を無視したばっかりに、だ。このあたりを勘違いしている患者は今もフツーにいるが、“休養はときに最上の治療法で、経過観察こそ医療技術の粋である”と断言して、この項を終わる。合掌。

河合栄治郎のストレスと病

昭和18年の7月23日から9月中旬(多分、15日。記載なし)まで、河合栄治郎は軽井沢に滞在していた。体調は不良である。

石上君が応召とのこと。驚き石上君に速達を書く。午前は何もする勇気なく、石上君に会う必要もあり、S(斎藤暹)が召集するかも知れず、軽井沢の残りの生活がよく行けるとも思えず、足がだるいし、歯の工合もよくないから、明日皆で引き揚げようかと思った。
(昭和18年9月14日)


足のだるさはかなり続いている。バセドウ病でも足がつる症状があるが、脚気かもしれない。河合は甘党で、毎日の菓子を楽しみにしていた。好物はパン、甘い紅茶である。

今朝6時起く。パンが旨い。太田(歯科医)に電話をかけて明日にし、出て東京駅で石上君、酒井母子に会い同君と暫く話す。君は寂しそうであった。気の毒だ。
(昭和18年9月16日)


翌日の日記はないので、歯科治療の内容は不明である。
なお、この頃の河合栄治郎の生活。

6時30分 起床、外出、小散歩
7時-7時30分 喫茶、思索
7時30分-8時 朝食
8時-12時 読書
12時-12時30分 中食
12時30分-1時30分 散歩
1時30分-3時 仮睡
3時-3時30分 読書
3時30分-4時 御茶
4時-5時 読書
5時-5時30分 入浴
5時30分-6時 読書
6時-6時30分 夜食
6時30分-10時30分 読書
11時 就床
(昭和18年10月17日)


勉強しすぎである。であるのに、河合に博士号はないのである、意外なことに。そして読んでいる本はカントなど思想書ばかりで、経済学関係のものはない。元経済学部教授なのだが。
11月25日から12月3日まで河合は箱根(仙石)に滞在しているが、動悸と足のだるさが再発、さらに心臓発作を起した。
東京に戻り、12月8日に武見太郎の診察を受けている。

今日は大東亜戦争の二周年だ。ひどく疲れて弱っていたが、7時過ぎ出る。ひどい靄で倫敦を思い出させる程だ。電車が徐行するので時間が掛かった。武見(太郎)氏に行ったが、第一番であった。今日は階段を上るにも息が切れた。帰途は大森から人力車に乗った。(略)2時から「二十八人集」をよみ夜まで続けた。
(昭和18年12月8日)


昭和18年末に、人力車がまだあった。タクシーと共存できたのはスゴイ。「二十八人集」は明治41年、新潮社から刊行された小説集。

明治40年頃の日本が思い起こされる。何か急速に世相が変わって行くさまが色々の文章に窺われる。日本の変わった時としては明治初年以来ではないかと思われる。夜の7時頃土井夫人が来て御菓子とリンゴとを持って来て呉れたが、玄関で帰られた。久し振りで菓子が口に入る。今朝武見さんが仕事をしないで温泉に浸っていればなおりますと云われた。それが耳に残る。つくづく今日は弱った。「二十八人集」の花袋の「一兵卒」を読んで同感した位だ。
(昭和18年12月8日)


「土井夫人」は、土屋清の夫人だろう。
「一兵卒」は、日露戦争の際、脚気で野戦病院に収容されるもその汚さに耐えられず、脱走して死ぬ兵士の話である。

渠(かれ)は歩き出した。
銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまった。
(田山花袋「一兵卒」)


これほどつらい症状がありながら、河合栄治郎は休もうとしなかった。
「仕事をしないで温泉に浸っていればなおります」――武見太郎の言うとおりである。休養に優る薬はない。しかも、あと2年我慢すれば戦争だって終わった。復職その他も可能だったのである。

河合栄治郎のストレスと病

昭和18年6月、52歳の河合栄治郎。昭和15年1月から始まった出版法違反訴訟で大審院に上告していたが、

午前は西田氏の「論文集」第2巻をよみ出して50頁。然し判決が今朝の11頃にあるので、その結果が別にどうと云うことの程のものではないが、未定と云うものは落ち着かないもので進み方が少し鈍った。電話が中々ないので外出の支度をしていたら上告棄却の旨を海野氏から通知あり、まあ之で確定したと思った。
(昭和18年6月25日)


棄却される。有罪確定である(裁判長:三宅正太郎)。

有罪の判決を受けたのだから辞表を出そうかと思う。
(昭和18年6月26日)


東京帝大教授の職は、昭和14年1月に休職処分となっていた。いわゆる平賀粛学である。

9時森(荘三郎)学部長来訪。昨夜の話をする。自分に花を持たせて呉れと云うことを云っていたが、つまらぬことを云う人だと思う。その当時は自分としては辞表を出そうかと思っていた。だが今日人々に相談してみようと思っている。11時10分有楽町に着きコーヒー2杯を飲み、糖業会館に行く。割合に早く人が集まり、11時25分席に就く。
(略)
席に就く前南原〔引用者註:南原繁〕、高木〔同:高木八尺〕の2氏と辞表の話をしてみたら、出さない方がよいと云うことであり、散会後高田〔同:高田正〕、梶村、山田〔同:山田文雄〕、木村、石上〔同:石上良平〕の諸氏に話したら出した方がよいとの事であった。(略)結局出さないことにして11時森君に電話をかけた。総長の意志らしい。森君は明朝今一度と云うことであったが之で腹は定まった。大学の好意は有難いが、自分は恩恵を受くべきでないと思った。
(昭和18年6月27日)


森荘三郎は当時の東京帝大経済学部長。
河合は東京帝大に辞表を出さず、休職期間の2年延長で話がまとまっている。これは平賀総長の温情であり、大学としての教員確保策でもあったのだろう。河合は学者としても教師としても優秀で(学生にも熱烈なファンがいたし、多数の門下生もいた)52歳と若く、教授復帰も十分に可能性があった。とにかく、まだ死ぬような年齢ではなかったのである。
有罪による罰金は300円だが、

南原(繁)氏から電話。検事局から電話あり、罰金納付を暫く待って呉れとのことであった。
(昭和18年7月1日)

なぜか罰金納付を待てと検事局。なぜだ。
昭和18年7月12日から9月15日までは、軽井沢の別荘に滞在している。毎年恒例のバカンスである。

今朝のS(斎藤暹)の手紙も伊太利の政変を重視していた。ファッショ崩壊の時が来るか。
(昭和18年8月4日)


斎藤暹は河合の弟子で、河合の長女・純子の夫である。昭和19年に外地で戦死。もちろん、河合がその死を知ることはなかった。
ムッソリーニが失脚したのは昭和18年7月25日である。で、9月8日にイタリアは無条件降伏する。

今朝の新聞で伊太利が脱落した。
(昭和18年9月10日)


イタリアは10月13日に連合国軍の一員としてドイツに宣戦布告するが、河合栄治郎はもはや日記に何も記していない。
ちなみに、河合門下生のひとりであった猪木正道によると、河合は盧溝橋事件後に華北作戦真っ最中の現地を視察し、そこでの見聞から日本敗戦を予測、昭和13年にはなんとそれを公言していた。

1938年1月工業クラブで、華北から帰京された直後の先生が時局について一場の講演を行われた。その中で先生は「この戦争の結果日本は、満州、朝鮮はもとより、台湾、琉球をも失うことになろう。」と述べて、満座の実業家を震駭せしめられた。
(猪木正道「リベラリスト・ミリタント」河合栄治郎・伝記と追想、1952年)


河合の予想は的中したが(しかし無謀というか勇者というか。あの言論弾圧の時代によく言ったものである)、とすると河合には枢軸国VS連合国の勝敗も自明の理であったのかも。これも門下生であった土屋清(朝日新聞論説委員)によると、河合は「日本の敗戦を予想し、その後に来るものに備えて、「河合研究所」を創設」したという(昭和37年9月3日付朝日新聞)。惜しい人を早くに亡くしてしまったものである。

河合栄治郎のストレスと病

昭和17年7月、武見太郎によりバセドウ病と診断された河合栄治郎。この病が最終的に彼の命を奪うのだが、一時は回復基調にあった。

1時半出て武見(太郎)医師に行く。大変回復したとの事、当分注射せず2週間、間を置いて来るようとの事であった。
(昭和17年11月25日)


「注射」は恐らくヨードの皮下注射。
ちなみにこの頃はスターリングラード戦の真っ最中で、ドイツの敗けがほぼ確実になっていた。

11時過ぎに有楽町に着き武見医師に行く。大変よいそうで、もうバセドウ病の徴候は殆ど消えた。此の上は一般の体力の回復に俟つのみだと云うことであった。
(昭和17年12月11日)


このまま養生に努めたら、新日本建設に少なからず関わったであろうに。
昭和17年には、印税収入がなくなっている。すべての発表の道が閉ざされたため原稿は書かず、読書ざんまいの河合栄治郎である。本を買いまくっている。

武見(太郎)師は2時から4時まで待った。バセド−(氏病)は大変よいようだ。平和な健康な勉強の日が続く。有難いと思う。
(昭和18年1月8日)


体調はまずまず。だが、動悸を感じる日もあった。心臓は確実に弱ってきている。1月19日から26日までは、発熱して床に臥していた。

ずっと床にいて熱は37から38の間を上下していた。21日迄は研究会〔23日〕に出て報告が出来ると思って居たが、21日の午後に38度なので諦めて木村君(健康)に電報を打ち「国家観」をやって貰うことにした。此の間寝付きが悪く、又少し動悸がし、歯に物がつまって気持がよくない。
(昭和18年1月19日〜26日)


「研究会」は、河合門下生とともに月2回、自邸で開催していた社会思想の研究会。昭和16年に河合の門下生が月1回糖業会館で会合していた「青日会」が発展したものである。昭和19年には河合研究所と改称。
木村健康も河合の門下生で元東京帝大経済学部助手。河合栄治郎事件で師とともに大学を辞め、裁判では河合栄治郎の特別弁護人を努めた。

新橋からタキシで理研に着き、武見(太郎)氏の外に文理大の藤岡氏あり、外に助手の人と話し、機械にて新陳代謝を検べ、酸素の吸入多過ぎ、炭酸瓦斯の排出少なく、それでやせるのだと云う。
(昭和18年1月30日)


「機械」とは間接熱量計だろうか。
1月下旬に放置した齲蝕(歯に物がつまって気持がよくない)は、2月に入って痛みだし、

起きたら歯が痛んだ。
(昭和18年2月9日)


治療した記載はないが、歯科には通ったもよう。やはり刊行時に削除されているのだろうか。
昭和18年2月13日に、52歳の誕生日を迎えている。

昨日はカントの死んだ日で今日は自分の生まれた日だ。之で52歳になる。動悸もなくなったし、歯の治療も片付きそうだし、何よりも健康で、カントの研究に没頭出来るのが嬉しい。麗らかなよい日であった。8時起き、直ちにカント。「永遠平和の為に」はそれほど感動しないのは、自分の方に予備知識があるからか。一時半大井の方へ出て、バルト神学の本を買い、日の当たる往来を歩いて歯科医、喫茶。戻ってからカントを読了した。
(昭和18年2月13日)


5月には京都、山陽、奈良を旅行した河合栄治郎。出版法違反裁判は昭和18年6月に大審院で上告棄却となり、有罪確定となる。そして、病状は悪化するのである。

河合栄治郎のストレスと病

昭和16年3月に出版法違反の控訴審が始まり、4月には印刷製本まで完了していた自著「国民に愬う」が出版差し止めに遭う――そんな激動の日々を送る河合栄治郎。
歯も悪くなっており、

今日から歯の療治に掛かる。仕事としては「哲学史」の原稿に着手した。散歩の時愛山の「徳川家康」下巻を買いよみ出した。実に興味津々だ。
(昭和16年7月17日)


歯科受診している。河合栄治郎、この時すでにバセドウ病を発症しているはず。麻酔などで交感神経作動薬(エピネフリン、エフェドリンetc)を使われなかったか気になる。ヘタすると甲状腺クリーゼだ。

9時歯医(者)から10時に丸善に行き、外国書を見る。本当に久し振りだ。
(昭和16年7月25日)


昭和16年における河合栄治郎の歯科受診記録は、2回のみである。2回しか受診しなかったのか、受診しても書かなかったのか、書いたが日記刊行の際に削除されたのかは不明。河合の日記原本を参照して書かれた江上照彦「河合栄治郎伝」(河合栄治郎全集別巻)と照会すると、刊行の際に削除された部分はかなり多そうである。削除部分は主に恋愛や不倫関連だそうだが、歯科受診云々も削除された可能性はある。ツマラナイという理由で。
裁判は昭和16年7月に結審し、10月に判決を受けた。有罪判決である。ただちに上告、裁判の舞台は大審院となった。12月には日米開戦。
昭和17年の歯科治療は2回である。5月と8月に1回ずつ。

3時半戻り、歯科医に行き、喫茶店に寄る。
(昭和17年5月12日)


この頃の体重は「12貫800」(=48kg)。「19貫(=71.25kg)のこともあったのに」。
2月には河合のベストセラーシリーズ「学生叢書」が絶版となった。
体重減少など体調が思わしくないので、

10時聖路加に行く。橋本博士深切に診察され、結局内村氏と同じく心臓に故障なしと。色々の機械で調べられた。
(昭和17年6月30日)


聖路加病院に行くも、

今朝聖路加に電話をかけ、肺にも異状なく蛋白も糖も出ないことを聞き更に安心す。
(昭和17年7月2日)

異常を見付けることができなかった。河合栄治郎の病を見抜いたのが武見太郎、後の日本医師会会長である。

7時に起き鶴見(祐輔)氏を太平洋協会に訪い、共に武見(太郎)氏に行き診察を乞う。バセドウ病なりという。鶴見氏の好意感謝すべし。
(昭和17年7月8日)

武見太郎は、医師としてもすこぶる優秀だったようだ。今でこそバセドウ病は大きな専門病院があるぐらいポピュラーな病気だが(ジョージ・ブッシュ“父”元米大統領が罹患したことで世界的に周知された気がするが、気のせいかも)、この時代には大学病院でも診断がついていない。聖路加病院でも血液検査(甲状腺機能検査)をやったと思うが、ホルモンの数値まではみなかったのか。
ちなみに、今はどこの診療所でも甲状腺機能検査は行っている(多分。内科か婦人科、循環器科なら確実)。保険も効いて、同検査のみなら3割負担かつ初診で2500円くらい。また、フツーの定期的健康診断の血液検査でも甲状腺刺激ホルモン(TSH)、甲状腺ホルモン(FT3、FT4)の数値を出すところもある。バセドウ病の療は薬物、手術、放射線の3種があり、第一選択は薬物治療。なお、明治31年の吉松文治「万国新治療年報」には、胸腺食用法なる治療法もあった。胸腺はフレンチじゃポピュラーな食材だが(いわゆるシビレ)、どういう機序で甲状腺機能を安定させると考えられたのかはわからない。
閑話休題。診断確定後の河合栄治郎は、健康を取り戻しつつあるかのようであった。

2時美作(太郎)君、桑名二君来たり、文献批評に就いて中止すと云う。学者の約束と外来の力には屈しないと宣告す。調子の強かった為か美作君大分狼狽したらしい。歯医。
(昭和17年8月15日)


河合栄治郎の自宅は東京府荏原郡大井町庚塚4948(現・品川区大井7-15)にあり、かかりつけの歯科医院もご近所であったと思われる。歯科医の名は「太田」。

6時半起き武見(太郎)氏に行き、大変良く此の分なら案外早く直ると云われた。
(昭和17年8月17日)


この時河合栄治郎、51歳6ヶ月。昭和18年10月には奈良、南紀地方を旅行するほど体調は回復するのだが。

河合栄治郎のストレスと病

53歳という河合栄治郎の寿命は、戦前の日本でも若死だろうと思う。戦争と感染症の蔓延で平均寿命は40代ではあったが。

彼は日本人としては、普通の高さであった。五尺三四寸であったろう。学生時代はそうでなかったが、大学教授時代は少し肥満していた。運動はほとんどしなかったようであるが、天与の体力は非凡であった。中年以降は軽井沢でテニスを家庭の人としていたが、彼の最も好きな運動は散歩であったろうと思う。
(鶴見祐輔「交友三十三年」、河合栄治郎・伝記と追想、1952年)


学生時代からの親友であった鶴見祐輔によると、河合栄治郎は生来頑健だったそうだ。「五尺三四寸」というと、162cmくらいの身長である。

わたくしも相当体力では自信のある方であるが、河合君との夜のつき合いには弱らされた。彼の徹夜力というものは、驚くべきものであった。原稿など書くときは四百字詰の原稿百枚くらいを、徹夜して一気に書き上げるという精力ぶりであった。それが自分の体力に対する過信を生み、遂にあの頑健な身をもって早死する結果となったのだと思う。
(同)


バセドウ病との診断が確定したのは昭和17年7月8日で、武見太郎による。河合を銀座にあった武見の診療所に連れて行ったのも、鶴見祐輔である。

その診断は今までの他の医師の診断とは全然違っていた。今までは神経衰弱といわれていたのである。しかるに武見博士の診断では、紛れもなきパセイドウ氏病であるというのである。その手当の結果、河合君の食欲も増し、睡眠も楽になり且体重が増加したと言った。
(同)


鶴見は河合が東大をやめさせられた後も、経済的に河合を支えた。
周囲の目にも見えるほど、また河合が自覚するほどにその体調が悪化したのは昭和16年半ばで、出版法違反の控訴審の最中であった。

5月8日から病床に就き、公判を3回休んで貰った。稲垣氏は糖尿病と胃腸と云い、中原氏は冷えて排泄がよくない、もう少しで肺炎になる所だ、少し小脳に来ているといい、糖は15、30、21、23、13、77、40という滴数を上下した。
(昭和16年5月8日〜29日、河合栄治郎全集 第23巻)


河合は裁判を休み、昭和16年5月21日に慶應義塾大学病院に入院した。これもストレスからだろうか。この時慶應大学病院で下された糖尿病という診断は間違いであったが、入院で一時、河合の体調は回復する。しかし、それは対症療法と、入院による休息の結果に過ぎない。
歯も悪くなっていた。

23日に原稿が10枚進んだ。24日には第二の弁論、25日には歯医者に行ったり岩波の藤川君が来たりしたが、原稿は73枚になって完了した。
(昭和16年6月22〜29日)


「原稿」とは『学生と哲学』の「自然主義・経験主義」。
この時、河合栄治郎50歳。あと3年の命である。

河合栄治郎のストレスと病

河合栄治郎は、戦前の東京帝国大学経済学部教授で社会思想家。2.26事件で軍部を直接批判したただ一人の大学人で、自由主義の立場からその後台頭するマルクス主義もファシズムも批判、右翼からも文部省からも迫害されてついには東大を追放された戦闘的自由主義者である。
さらには精力絶倫で恋愛対象は性別人種を問わず、

河合栄治郎
▲イケメン(竹内洋「大学という病 東大紛擾と教授群像」2001)。

あまり日本人の男の風采をほめない西洋人の間でも、河合君の風采は高く評価されていたらしい。強い意志力と頭脳の聡明との表われを男性美の条件とする静養の女性たちの眼には、その端麗な風姿と相俟って、河合君は好男子という印象を与えたらしかった。
(鶴見祐輔「交友三十三年」、河合栄治郎・伝記と追想、1952年)


クラスメートから教え子、同僚夫人まで相手にし(江上照彦「河合栄治郎伝」)、さりながら“結婚って処女と童貞が式で初めて互いの顔を合わせるようなのがイイよね”的なことも日記に記してしまうところは、まあ、明治男である。河合の著作中人気が高い「学生に与う」の「学生」も、エリートの男子学生であって女はその埒外であるところも時代の限界であろう。なお、出版法違反裁判の公判中には「マルキシズムの如きは、此の項目で取り締まらるべきではないか」などと言論弾圧を支持していて驚愕したが(公判の記)、これも時代の限界なんだろうか。河合夫人(金井延の次女)は河合をエゴイストと呼んだりもしているが(日記)、実生活では結構な独裁者だったのであろう。ちなみに、経済学部教授であるが経済学の論文はひとつもない。浅田彰的?

河合教授への公開状
▲戦前右翼の代名詞的存在、蓑田胸喜も攻撃しまくっていた。

さて、河合は明治24年2月13日東京生まれ、実家は千住の裕福な酒屋だった。大正4年に東大法科を卒業後(銀時計組)、農商務省の役人として初のILO(国際労働期間)に日本政府方針案を起草するが、受け入れられずに上司とケンカして役人を辞める。大正9年に東大経済学部助教授、昭和11年に経済学部長。軍国主義攻撃などにより昭和13年10月に著書「社会政策原理」「ファッシズム批判」「時局と自由主義」「第二学生生活」が発禁となり、

昭和13年10月6日
▲昭和13年10月6日付朝日新聞。

13年12月末より警視庁の取調べが始まる。ちなみに、同年6月には国家総動員法が公布されている。
昭和14年1月に検事局の取調べがはじまって、

昭和14年1月8日
▲昭和14年1月8日付朝日新聞。

31日付けで東京帝大から教授休職が命ぜられる。いわゆる平賀粛学であるが、本人に言渡される前に新聞で報道されている始末。ひどいものだ。
昭和14年1月29日
▲昭和14年1月29日付朝日新聞。

昭和14年2月には、鈴木利貞・日本評論社社長とともに出版法違反(第27条、安寧秩序紊乱の罪)で起訴され、

昭和15年4月24日
▲昭和15年4月24日付朝日新聞。

7月から公判となる。昭和15年10月、東京地裁にて無罪判決(裁判長は石坂修一)。検事局はただちに控訴し、

昭和15年10月 8日
▲昭和15年10月8日付朝日新聞。

昭和16年3月から控訴審(裁判長は小中弘毅)がはじまり、7月に結審して10月に有罪判決となる。
大審院に上告するも棄却となり、

昭和18年6月26日
▲昭和18年6月26日付朝日新聞。

昭和18年6月25日に有罪が確定した(裁判長は三宅正太郎)。罰金300円なり。それから1年もたたない昭和19年2月15日午後9時15分、河合栄治郎は自宅で亡くなっている。死因は、バセドウ病による心臓麻痺。享年53。
バセドウ病は甲状腺ホルモンが過剰に作られる自己免疫性甲状腺疾患で、過度なストレスや過労が原因との仮説もある。日記を読むと昭和13年の著書発禁を契機に取調べ、休職、起訴、法廷闘争と強いストレス要因があり、

今朝あたりの新聞をよんで、総長や学部長を支持している論調をみて寂しく思った。そして今日の午前に分限委員会が開かれるを知り、1、2日の寿命だと思った。明後日の講義には出られるかと思ったが、検事局で今日で終了すると聞いて、或いは明朝の講義には出られるかと思った。今日で取調べが済んだ。12日間掛かった。やはり疲れたように思う。
出て夕刊をみたら、休職の辞令が出ていた。その時丈は寂しい気持がした。急いで帰宅し(佐藤)千恵子さんの電報や、2、3の手紙を見ている時には何となく涙が流れた。戦いの後の哀しみとも云うのであろう。
(昭和14年1月31日、日記、河合栄治郎全集 第23巻)


これらが病を引き起した可能性もなきにしもあらず(特に家族歴のない場合には)。河合門下生による昭和15年末時点での河合の様子は、

ひどく変わられたな、と先ず思った。頬骨が飛び出し、顎が光り、目の光が異様にキラキラして、顔色がいやに黄色っぽいのだ。先生は座られると、御苦労でしたね、無事で何よりでしたね、といつもの口調で仰言った。しかしその声音は以前のハリがないように思われた。私は、先生は随分お変わりになりましたね、と幾度か言いかけては口をつぐんだのであった。
(略)あの気取ったような独特の歩き方は変わりはなかったは、やはり大分お疲れの様子で二人とも殆ど無言の銀ブラであった。
水野勳「追憶」、河合栄治郎全集第21巻月報22、1969年)

病的であった。眼球突出、色素沈着、痩身、疲労感――どれもバセドウ病の症候である。

Weekly Bulletinによる“crown-maker”関連文書

GHQ/PHW(公衆衛生福祉局) Weekly Bulletin復刻資料に、“crown-maker”に関する以下の文章があった。なお、Weekly BulletinはGHQ/SCAPの公衆衛生福祉局(PHW)がまとめた府県軍政チームへの連絡文書である。

1946年2月25〜27日に、中国および満州から本国に送還される朝鮮人歯科医師12人のため、ソウル歯科大学で試験が行われた。


「朝鮮人歯科医師12人」の原文は“12 Korean dentists”。 この文書が発行された当時の朝鮮半島は国連軍の占領下で、その国連は大韓民国臨時政府の政府承認を否定している。というわけで“Korean”を「朝鮮」としてみた。

この計画の実行、歯科医師らの登録、以前日本側で免許された“crown-maker”に関する指示が、各地方の衛生管理官に出された。開始される地方歯科医師会の編成を指導している地方衛生官に手紙が送られ、職業に関係する問題が健康福祉局歯科課に提起された。


「各地方の衛生管理官」の原文は“each provincial health officer”。保健所か、警察の衛生管理課か、GHQ/PHWの地方部署か不明。
“problems relating to the profession”を「職業に関係する問題」としてみたが、ここでいう“profession”は専門という意味かも。What is your profession? だと“あなたの専門は何ですか”。ちなみに、professionは医師や弁護士、教師などの専門性の高い職業を一般的に指す。

この1週間で、歯科課主任はソウル歯科医師会と面会し、金の流通に関連した問題が議論された。


歯科課はGHQ/PHWの「Dental Affairs Section」。

流通問題解決のために委員会を選ぶことが提案された。また、歯科医師をその仕事の規模により3区分(A、B、C)に区別することも提案された。例えば、歯科医師個人が購入可能な金の量をその歯科医師が置かれた区分により決定する、というように。水銀と銀の流通に関しても同様に計画が開始される。
以下のプレスリリースが、3月8日につくられた:
朝鮮でクラウン製作を免許されたいわゆる“crown-makers”はすべて、各地方の公衆衛生管理官を通じて、歯科課、公衆衛生局、本部、軍政府、ソウル、朝鮮に登録しなければならない。
登録は1946年の3月15日から4月15日まで。
彼らは軍政府によって新しい免許が与えられ、免許は彼らにクラウンの製作の権限を保証する。軍政府に登録ができなかった“crown-makes”や、1946年5月15日以後に免許なく冠の製作を行った者は逮捕され、思い罰金か禁固、またはその両方の処罰を受ける。
“crown-maker”が登録する際には、所在地の地方公衆衛生管理官に以下を提出すること:
1.以前に発行された“Crown-makers”免許
2.履歴書
3.戸籍謄本
4.写真
5.登録費用50円
歯科免許と登録に関する朝鮮委員は軍政府の支援の下、以前に免許された“crown-makers”のみが軍政府によって新しい免許を与えられると布告した。1946年5月15日以降、無免許の“crown-maker”によるcrown製作は非合法とする。

「戸籍謄本」の原文は“Official family record”。
「歯科免許と登録に関する朝鮮委員」の原文は“The Korean Board of Dental License and Registration”。

さて、この10数行の短文が以上のようにマトモに訳せないのは、当時の事情が把握できていないからである。
特に、
 crown-maker”とはナニか。
◆崢鮮人歯科医師12人」には試験を課しているのに、“crown-maker”は無試験で免許を与えたのはナゼか。
が、大きなナゾである。
以下は憶測だが、

 crown-maker”は歯科衛生士と院内歯科技工士を足したような、いわば臨床歯科技工士だったのではないか。

Professionという単語を用いているところから、“crown-maker”は専門技術職であろう。また、ラボワークのみの歯科技工士であれば、国連軍も問題にしなかったはず。臨床に関わる技術職だったからこそ、米本国(国連軍はほとんど米軍である)には存在しないけれども、彼らの既得権を尊重し、免許したのではないか。
しかし、“crown-maker”が診療歯科技工士なのであれば、なぜdenturistといわないのか、との疑問は残る。
彼ら“crown-maker”は日本人歯科医師がつくった職業で、とすれば歯科衛生士業務もこなしていた可能性があり(当時の日本に歯科衛生士は存在しない)、そこらあたりから米本国におけるdenturistとの混同を避けたのかもしれない。で、実際にcrown製作が“crown-maker”のメインワークだったのではないか、dentureではなく。当時のcrownはサンプラ冠でかなりの技術と時間を要したから、臨床でそれらをこなす専門職がいると都合が良かった――のかもしれない。憶測だが。

次に、なぜ「朝鮮人歯科医師12人」に試験を課したか。

◆崢鮮人歯科医師12人」は、限地開業歯科医だったのではないか。

戦前の限地開業医制度は、特に医師の不足する離島、へき地に限定して開業を許された医師、歯科医師の制度である。沖縄の医介輔も限地開業医の一種である。一方、米本国の医師・歯科医師はへき地云々に関係なく、すべからく限地開業医師・歯科医師である。つまり、免許を得たA州ではなく、B州で医業・歯科医業を行おうとすると、新たにB州の医師試験・歯科医師試験に合格しなければならない制度に米国はなっている。国連軍は、米本国のこの例にならって、「朝鮮人歯科医師12人」に試験を課した――のかも、しれない。
憶測だが。

敗戦直後の山田風太郎 作家・山田風太郎の誕生

敗戦後も感染症、特に結核は蔓延していた。

高須氏肋膜炎と医者から言われたよし悲観して帰る。
(昭和22年8月18日)


山田風太郎が下宿する高須家主人も、一時肋膜炎と診断されている。後に誤診と判明するが。

午前中、第一講堂にて教授学生の懇談会。第2回国家試験の成績表貼らる。我校に未だ受験生なきもこの表を見るに台北帝大の100%、東京帝大の99%などにくらべ日本医大、各大学附属医専etc、評判香ばしからぬ学校は20%以下、殆ど2%すらある。惨たる成績なり。皆粛然たり矣。
(昭和22年9月1日)

第2回医師国家試験は昭和22年5月15〜17日に行われ、受験者数1464人、うち合格者数1364人で合格率は82.9%であった。この合格率は戦後10年間ではそう悪くもないのだが(第3回は60.2%、第4回は55.4%)、学校別で見るとその差は歴然としていたようだ。修業年限が一律ではないうえに勤労動員も課されているので、当然ではある。
山風はこの頃、著しい倦怠を覚えてサア結核かとビビるも、

朝より恐ろしい倦怠、横たわりたるまま起つ気せず。食欲全然なし。朝、無理にパンの小塊ひとつ食いたるまま毫も空腹を感ぜず、夕、全身の倦怠著しけれど熱はあっても微熱の程度、頭痛盗汗全くなし。T・B〔肺結核〕の試験当日よりT・Bになるとは滑稽なれど、他に思いあたる症状なきによってT・Bの疑いあり。しかれどもこの数日、これを発すべき生活上の転機に覚えなし。ただ金甚だ乏しくパンと馬鈴著のみ食うこと長時日にしてEiweiss、Fett、Vitamin etcに大いに欠乏しいたることは事実なり。
(昭和22年9月23日)


これも違った。食事内容を見るに炭水化物ばかり、脚気の可能性が大である。また、こんな食糧事情では、感染症の蔓延も当然だろう。
さて、この昭和22年10月、歯科医師国家試験(学説:1〜3日、実地:6〜15日)の根管を揺るがす大事件が起こっている。
問題漏洩事件である。第2回目にして。

昭和22年12月28日
▲昭和22年12月28日付朝日新聞。

新聞報道によると、日本歯科医専(現日本歯科大学)の校長で日本歯科医師会会長でもあった加藤清治が、とある試験委員から試験問題を不正に入手。試験後は同試験委員に菓子、果物、煙草など約2000円分を贈り、合格の折はさらに「1人につき1万円」の報酬を支払う約束になっていたという。関わった日本歯科医専幹部らは26日付で歯科医師免許取消となり、同日に加藤清治は日本歯科医師会会長を辞任している。
不肖わたくし、かつて日本歯科医師会を“2回も現職会長が逮捕されている組織”などと書いてしまったが、3回であった。不明を恥じるとともに、現職会長の3回もの逮捕という金字塔を打ち立てた日歯に、もはや魅力すら感じるものである。2度あることは3度ある、3度あるなら4度ある。今後の記録更新はあるのか、凶報が待たれる。
さて、われらが山風。昭和24年3月に東京医大を卒業している。

本日卒業式、つまらぬ式なりき。
(昭和24年3月20日)

卒業後の4月、山風はインターン生となった。インターンとは、医師国家試験の受験資格の要件として1年以上の実地修練を課すもので、当初は医専卒業者のみが対象である(昭和21年8月、国民医療法施行令)。インターンは23年7月に公布された医師法に引き継がれるが、この時は学校教育法により専門学校制度が廃止されて新制大学が発足していたため、インターンは医師国試受験者すべてに課される要件となった。昭和43年の医師法改正で廃止。

午前10時より淀橋病院臨床講堂にてインターン入所式。60人余。このうちのは東京女子医大生5人ばかりまじる。加藤院長のアメリカ留学の話。緒方学長のドイツ留学の話。この1年映画もみるなという。(略)早速、安西と米映画『ジキルとハイド』観る。
(昭和24年4月11日)


しかし、山風のインターン生活はひと月も持たなかった。
山風の筆によるインターン生活が見られないのは残念ではあるが、

決意す。余が医者たるは肉体的に精神的に性格的に適せず。乾坤一擲作家たらんとす。
(昭和24年5月8日)

しかし、作家・山田風太郎の誕生は喜ばしい。これ、井上陽水と園田直が歯科医師にならなかったことに匹敵する僥倖といえよう。

敗戦直後の山田風太郎 医療制度改革

さて、昭和22年2月には医療制度審議会が設置され、28日に第1回総会が開催される。

昭和22年2月28日
▲昭和22年2月28日付朝日新聞。

そこで出ているのが医療公営論であった。しかし、今に至るまで日本の医療が民間に頼っているのはご承知の通り。この時期の医療制度審議会で医療公営論が出たのは、日本医療団の解散後の処理が念頭にあったからだろう。
6・3制が閣議決定されたのは昭和22年2月26日で、

昭和22年2月27日
▲昭和22年2月27日付朝日新聞。

あわせて、官立の5医専(青森、前橋、松本、米子、徳島)の大学昇格も決定されている。
3月29日に文部省で開催された全国医専校長会議では、医専51校の処置が発表され、

昭和22年3月30日
▲昭和22年3月30日付朝日新聞。

6校の廃校が伝えられた。廃校に在学する学生数は1568人。移行措置が付けられたとはいえ、少なからぬ時間を無駄にされたのは気の毒だ。戦争で若い命が消費された直後だから社会的に不問に付されただけで、今なら大問題であろう。
歯科医専の措置が決ったのは昭和22年6月で、

昭和22年6月17日
▲昭和22年6月17日付朝日新聞。

歯科医専8校中3校がB級校と判定された。
このうち福岡県立医学歯学専門学校は、医学科と歯学科を持つ公立学校である。で、医学科は特設高校(福岡県立高等学校)へ転換した後に廃校となるも、歯学科は大学昇格までこぎつけている(昭和24年、九州歯科大)。医学科は昭和19年4月に開校した、まさに戦時のタケノコ医専のひとつであったのだが、歯学科は30年の歴史を持つ伝統校であり(大正3年、私立九州歯科医学校)、設備や教員その他が確保されていたことが大学昇格につながったのではなかろうか。
なお、歯科医育が6年制に決ったのは昭和22年6月20日の歯科教育審議会第15回総会で、同審議会委員の投票によるものであった。
その票差は1票(4年制:14票、6年制:15票)。
かなりモメたであろうことが伺われる。

敗戦直後の山田風太郎 A級・B級の判定結果

文部省は1947年3月29日に全国医学専門学校長会議を開催し、A級・B級の判定結果を発表した。これは3月22日にGHQより発令された「医学専門学校の生徒取り扱いに関する計画承認についての要望」に基づいたものである。
判定の結果、A級と判定されたのは45校で、これらには大学昇格が一応許されることとなった。
B級と判定されたのは長崎医大附属医専、福岡と山梨の両県立医専、高知、山梨、秋田の県立女子医専の計6校である。廃校6校のうち半数が公立の女子医専であるが、これには戦災の不幸もあるだろうが、さらに戦前の女子教育のおざなりさが強くわざわいしたのではないだろうか。明治33年に初の女医養成所として設立された東京女医学校(現東京女子医科大学)の第1期生卒業式で、まさに卒業生の前で来賓客が女医亡国論をぶち、大隈重信が「10年ないし15年の歳月をもって事実に現れた成績の如何によって、女医が適当か不適当かという結果がわかる」と無礼かつ不見識な来賓を牽制したエピソードが有名だが、それほどに戦前の女子教育レベルは低く抑えられていたからである。

午前本校地下室にて全学生大会。Bクラスの医専学生を救えの決議。
(昭和22年1月31日)


B級校の措置としては、
・試験を経て高等学校(廃校となるB級の施設を利用する特設高校)または同程度の大学の1学年下に転校させる。懸案事項であった1年生は、1級下がって高校、大学かの1年に転入。
・昭和22年4月以降、試験を経てA級校に転校させる。学年は、今年進級する予定の学年より1年下に転入する。
GHQが昭和21年に示していた案とは違い、医専在校生のほとんどに移行措置が取られることになっている。この措置に影響したかはわからないが、山田風太郎ら医専在校生達はB級校救済を訴える運動を展開していた。大学昇格のための、涙ぐましい努力も続けられている。

午後学生大会、病院の清掃修繕費に尚20万円ばかり要す、学生発起して先輩の間を巡り、ここ1週の間に各自1千円ずつ調達し来るべきことを決す。余にはそんな手腕も見込みもなし。
(昭和22年2月3日)


全学生、寄附金集めに先輩を求めて地方に散る。
(昭和22年2月4日)

医学校視学委員会が視察する際、昭和医専がその接待に「1、2時間の間に3万円投じた」とあるが、ホントか。

13日に進駐軍のジョンソン軍医などが視察に来る。すでに終った昭和医専などではその接待の装飾、料理などわずか1、2時間の間に3万円投じたという。余が学校でも硝子をはめ換えるの、ペンキを塗りたてるの宛もパンパンガールの夜化粧ごとし。当日は皆選択した白衣、磨いた靴、油をつけた髪を必要として、4年は実習の予行練習を繰り返し、われわれは当日の臨床講義に際して教授との応答をしめし合わせることになった。まるでお芝居である。アメリカ兵にお芝居を見せるのは愉快であるが、情けない方が強い。これでは中学時代の査閲以上だ。余は断然当日は登校しない決心をする。
(昭和22年2月10日)

東京医専では、視察時に教授と学生によるサル芝居を容易していた。

学生本部(看護婦長室)にて、各部屋の扉の上に貼る案内札を書く。英語で書くのである。勿論外人の病人など入院しはせぬ。進駐軍大明神お通りの為に書き奉るのである。――東京の米の遅配今日で11日間。
(昭和22年2月11日)


だが東京医専の場合、実際に視察に来たのは慶應義塾大学の草間良夫のみ。東京医専は昭和21年中に大学昇格が決定しており、視察は形式的なものだったようである。サル芝居を見せたのかどうかは不明である。

進駐軍既に病院より去りたる時刻見はからいて、病院にゆく、4時頃也。然るに教室を一寸覗くに未だ授業中の模様、驚きて町に出で芋を喰いてまた病院に戻る。漸く終りたると見え学生三々五々帰り来る。慶應の草間教授のみ形式的に来れるのみと。他校にはたいてい進駐軍来りて相当厳重なる検査したる話なるにこは如何なることぞと皆思いしが、結局吾が校の内容は検査するまでもなく定評にしたがえることのごとしと安堵せる由なり。
(昭和22年2月13日)


なお、医学校視学委員会のメンバーは、
                                 
小池敬事(千葉医大、解剖学)
橋本喬(新潟医大、皮膚・泌尿器)
遠藤忠節(岡山医大、法医学)
木村廉(京大、微生物学)
三浦百重(京大、精神医学)
佐藤彰(東北大、小児科)
田宮猛雄(東大、内科)
柿沼昊作(東大、内科)
東龍太郎(東大、薬理学)
戸田忠雄(九大、細菌学)
柳壮一(北大、外科)
吉松信宝(阪大、産婦人科)
木下良順(阪大、病理学)
久野寧(名大、生理学)
齋藤真(名大、外科)
上野一晴(金沢医大、生理学)
勝義孝(京都府立医大、解剖学)
阿部勝馬(慶應、薬理学)
大森憲太(慶應、内科)
草間良男(慶應、公衆衛生)
永山武美(慈恵医大、医化学)
草間弘司(日本医師会書記長、公衆衛生)

の計22人である。各地方、専門分野、国公私立から満遍なく採用したようだ。

学校にゆく。校舎白きペンキ塗り立て、海岸のホテルのごとし、トウキョウ・メディカル・カレッジといわんよりトウキョウ・メディカル・キャバレエとしたる方がよき眺めなり。校長の大熱弁。Aクラスほぼ確実、医学の大殿堂たらしめるための新発足の日は来れりと。生理学の久保教授まで飛び上ってワメキ立てる。
(昭和22年2月17日)


GHQが医育界に与えた影響は甚大かつ強烈であった。ある意味、敗戦で呆然としていた人たちにはカンフル剤となったのかもしれない。
なかでも発奮したと思われるのは、文部省だろう。そもそも医専の大量設置は軍部の意向で、当初軍部は千葉医科大学の接収を望んでいたが、さすがに文部省は認めず、その代わりに“臨時”医学専門部を帝大7と医科大6の計13校に設置したのが始まりである(昭和15年5月)。やがて“臨時”という冠ははずされ、昭和17年度:1校、昭和18年度:7校、昭和19年度:18校、昭和20年度:6校と雨後のタケノコの如く医専は増えた。敗戦時に51校となっていた医専のうち、明治〜昭和初頭開校の8校以外は、すべて臨時医専以降に設置されたものである。この状況に従わざるを得なかった文部省は、しかし、占領軍に対しては粘り強い抵抗を見せ、譲歩を勝ち取っている。戦時の文部省が、これほどの抵抗を旧日本帝国軍に見せたかは、大いに疑問である。

敗戦直後の山田風太郎 医学教育に関係する地方長官及び専門学校長会議

午前病院の掃除、余は事務所の硝子拭く。午後一時より臨床講堂にて学生大会、昨日学校にて行われたる会合に於ける校長の談話を納富報告すること左のごとし。
校長の言に依れば高専校長会議に於て決せられたる日本医学教育改正案は次のごときものなり。即ち全国の医学校をA級B級の2に区別す、A級に指定せられたる学校の現在2年以上の医学生は教育年限を夫々1ヶ年延長せらる。現在の1年は、入学以来の勉強は総て無益なるものとし、改めて入学試験を課することとす。B級に指定せられたる学校はその学校に於て4年乃至5年修学したる後改めて1年補修教育を課せられ、更に他の医科大学予科に入学せしめらると。――而して、A級となりしものは悉く医科大学となり、B級となりたるものはその値なしとして現在在学中の学生を送り出したる後は自然廃校となるなり。校長は本校はA級ならんと楽観しあり、A級とならば、2年以上は1年伸びるだけにて損害最も少なし、憐れなるは1年にして入学権全く空に帰す。即ちA級に指定せられたる医専は本年4月より予科1年生を募集せざるべからざるも、これは普通80名、如何に多くとも120名なり、然らば現在1年をこれに編入するとするも悉くこれを入るるを得ず、必ず数十名の犠牲者を出ださざるべからず。B級校は更に悲惨にして医者となるまで合計13年乃至14年間の教育を受けざるべからず。実際問題として年齢上経済上これは殆ど不可能なり。況んや爾後廃校たるべき運命にあるB級校が如何なれば学生を教育し得るや。
(昭和22年1月30日)


「高専校長会議」とは昭和22年1月29日に開催された「医学教育に関係する地方長官及び専門学校長会議」である。
同会議において、以下のGHQの意向が医専校長らに伝えられた。

・昭和26年以降の医学教育は予科3年、本科4年、臨床1年程度の形態をとる医科大学でのみ行い、卒業生は国家試験を受ける
・医専をA級とB級に判定する
・A級は1年間の補習教育を加え、大学昇格させる
・B級は廃校し、在校生はA級医専に転校させる

このB級校の在学生をA級校に転校させるという移行措置は、文部省が提案し、昭和22年1月24日に開催された第22回教育刷新委員会でGHQ/PHW(公衆衛生局)とCME(医学教育審議会)に了承されたものである。この時点ではまだ、B級校の1年生(昭和21年4月入学)の救済措置は認められていない。

――尚、校長の言う所に依れば、本案は文部省の決したるものにあらずして、G・H・Q(総司令部)の提出せしめたるものなり。即ち、医学教育を悉く米式に切り換えんとするものにて、文部省は全くこれに対して無力なり。左様なる残酷なる案は施行し難しと文部省対えたるに対し、G・H・Qはさらば当方にて之を施行すべしといえる由、云々。
(昭和22年1月30日)


GHQが「医学教育を悉く米式に切り換えんとする」というのはその通り。だが、移行措置を主張し続けたのは文部省で、GHQは廃校後の運命なんぞ当初は1ミリも考えていなかった。あくまで文部省および日本側委員が、移行措置を講ずるようGHQに譲歩させたのである。
ただ、文部省は現実に医専校長らに、そう述べたのだろう。医学教育の改正はGHQの圧力により、やむを得ないのであると。昭和21年末まで医専に大学昇格するよう指示したのは文部省だし、今更それがダメになりましたなどといえば自分らに批判が集まるからである。いや、そもそもGHQが糾弾する医師の粗製濫造は、戦時の軍医量産政策の結果である。医専は、国や軍部に奨励されて増加した。医学教育のカリキュラムには軍部の意向が強く反映され、その結果が医師の粗製濫造なのである。言うとおりにしたのに今更ナニが廃校だ、負けやがって! というのが廃校医専の言い分であろう。その批判を避けるために、文部省は“GHQの圧力”を楯にしたのだと推測する。

又曰く「本案の内報せられてより、最も清掃に努力せるは1年生なること諸君の見らるるところなり。1年は真意母校をAクラスたらしむべく死力をそそげり、電灯のグローブ、硝子、ペンキ代、カーテン、電球その他修繕改築費として彼等は既に、自ら11万円の金を集む、病院に於て3年、4年は2万数千の金を集めたるに過ぎず、われら顧みて慙愧に耐えず、然るに何ぞや、その1年はBクラスとなればもとよりAクラスとなるもその苛酷なる運命を免るる能ず。然るに昨日地下室の会に於て1年の代表者曰く、われらの運命は如何ともし難し、されど本校に籍を置きたるものとして光栄ある東京医大をAクラスたらしむべく在学中は尚全力をあげて努力すべし。校長慨然として曰く、余は諸君を断じて見捨てることなし、余は諸君の将来に対し血の一滴までも責任を持つべし、諸君は余が双腕にぶら下がれ、諸君とスクラム組みて余は断じて1年をも犠牲者たらしめざるべく渾身の努力を捧げん。ここに於て校長、教授、上級生、下級生、愛擁して涙流せり、而して皆一せいに叫びて曰く、戦いは負くべきものにあらず! これ昨日の会に於て、われらが永遠に忘るべからざる光景なりき」と。
(昭和22年1月30日)


「」の位置が妙だが、ママ。

これより、夕4時半まで互に議論激論して次のごときことを決す。
1、兎も角本校をAクラスたらしむべく全力をあぐること。
進駐軍は来月1日調査に来る予定にして本校は午前の日本医大に続き午後行わるる筈なりしが、丁度土曜にして彼等は半休なるため東京都中の医学校最後の13日と決す、故にこの日まで学生委員本部を設け、この指揮下に全員奮起すること。またその資金として学校にて30万円、病院にて20万円を要す、この金学校になし。故に吾ら分担して先輩に頼み父兄に願い何とかして調達すること。
2、Aクラスたるを得たる時、1年の救済に努力すること。
3、不運にしてBクラスたりし時は、事実問題として、更に10年内外の教育を受くること不可能なる故、本校卒業のみにて何とか糊口の資を得る様な資格を貰うこと、etc。
(昭和22年1月30日)


GHQはB級校の1年生をなぜ救済しようとしなかったか。
モートン博士(PHW病院管理課)は、昭和22年2月7日の医学教育審議会総会で次の見解を表明している。

モートン博士(PHW病院管理課)は、46年度は新入生の受け入れは許可されていないはずだったが、実際にはいくつかの私立医専ではそれが反故にされたこと、また、医専の統廃合に関しては、どこかに線引きをしなくてはならない、医専1年生は1年を無駄にするだろうが、彼らは十分若くその分のロスをやり直せるだろう、と述べた。

つまり、若いからやり直しがきく、ということであった。若いといっても、当時の日本人の平均寿命は40そこそこなのだが。それに、学校が勝手に学生を受け入れたのだとしても、その罪を学生に着せるのはフェアではない。
以下はB級にランクされ、廃校となった山梨医専の教授の話。

学校が廃校になるということは如何に学生を苦しめるかということを、筆者は当時の教官としてまのあたりに見て涙を流した。筆者をふくむ何人かの教官が地区や中央に向って存続運動をしたが、ついに成功せず、大きな力の前には数人の教官の力が如何に無力であるかを知らされた。当該学生の犠牲が大きかったことを世人は忘れないでほしいと思う。


実際は、「世人」は廃校医専学生のことなど忘れ去ってしまった。記録がないからである。
占領時の医専の苦境の記録といえば大学に昇格できた学校の大学史ぐらいで、そこでは当然ながら廃校医専のことなど気にもされていない。文部省の学制百年史も戦時〜占領中のゴタゴタをほぼ無視しているが(戦時に増えまくった医育機関の数、戦後の廃校数すら把握していない)、日本医育史におけるエポックメーキングなこれらの事情を一切無視する態度は一体何なのか。まさか、黒歴史をなかったことにしようという目論見なのであろうか。屈辱感を忘却で清算できるかといえば、実際は傲慢な厚顔無恥を生産するだけであって、その証左が今の劣化内閣なのかもしれないと思うと、本当にわたくしは憂鬱である。

敗戦直後の山田風太郎 医専の命運

医専の運命は、昭和21年末時点で、以下の3つにわけられていた。

☆帝大・官立医大の附属医専
卒業生(1947〜1949年)は教養課程と若干の基礎医学学科からなる1年のコース、その後の1年間のインターンで国試受験できる。全学生が卒業後、廃校。

その他の医専:
☆Aクラス:医学校視学委員によって13帝大附属医専と同等またはそれ以上のレベルと判断された医専の卒業生は,汎韻諺蔀屐△靴し昭和21年入学の1年生は放校。2学年以上が卒業後、大学昇格。
☆Bクラス:医学校視学委員によって帝大附属医専以下のレベルと判断された医専は廃校し、教養課程の高校あるいは大学に移行する。

登校、「Aクラスとなるか? Bクラスとなるか? 母校の運命はかかって吾らの双肩にあり。下級生に恥ずることなきや。諸君の精励を切に望む」などの紙貼り出し、皆病院の掃除に血眼也、吹き出したくなる。進駐軍を迎うるに如何に母校と吾らの死命制すとはいえ、この醜態は呆れかえりて唯苦笑い浮かぶるのみ。
(昭和22年1月25日)

医学校視学小委員会は昭和21年10月から活動し始め、昭和22年1月16日の段階で医専52校中視学済みは24校という進捗状況であった。
ただし、東京医学専門学校は昭和21年時点で大学昇格を認可されているので、昭和22年になってもまだ大学昇格対策を学生に講じさせているというのは少々奇異である。昭和21年の大学昇格認定は概括的なもので、後は教員の確保などが残っていたが、しかしそれは学生が云々するたぐいのものではない。
占領軍だからナニをされるかわからない、という危機感と焦りが東京医専の教師にも学生にもあったということなのだろうか。

皆、依然掃除に大童。
(昭和22年1月26日)


文部省は昭和21年末まで、各医専に大学昇格のために寄附金集めなどの準備をするよう指示を出していた。掃除もその一貫だったのだろう。GHQは医専の多くを切り捨てるつもりであったが、文部省は多くを救済するつもりで、特にGHQが切り捨てを主張していた廃校医専に在学する1年生の救済も実現させている。廃校医専救済を訴える学生運動も、影響したのかもしれない。

敗戦直後の山田風太郎 医学教育の大改革


東京医学専門学校の大学昇格が認可されたのは、昭和21年5月15日であった。
朝日新聞では同年8月10日に医専の大学昇格を報道しているが、

昭和21年8月10日
▲昭和21年8月10日付朝日新聞。

廃校となる学校もあることはサラリと触れているだけで、大学昇格する医専のほうが多いような書き方である。
GHQ/PHWのサムス准将は当初、医専52校(官立19校、公立20校、私立13校)中、大学昇格させるのは10校のみとし、大半を廃校させる意向だった。
一方、文部省は医専の大半を大学昇格させる意向であったから、新聞は文部省よりの報道をしていたことになる。ちなみに、この頃はGHQによる新聞の事前検閲があった(昭和23年7月15日まで)。医専関係者のパニックを恐れ、真実を報道させなかった可能性もある。

一昨日の<読売>紙上に医学教育の大改革との大見出と共に全国60数校の医大、医専を徹底的に調査し、内容不十分なるものは廃校乃至転向せしめて厚生専門学校乃至看護婦養成所となす、残れる優秀校はA級(8年制)B級(6年制)に年限を延長し、少数ながら優秀なる医者を生み出さんとするの意向当局にあり、医専中現在迄に文部省に認められたるは東京医専他6校にして既に大学に昇格ありと報ぜられる。
(昭和22年1月22日)


東京医専はすでに大学昇格が決っている。よって、在校生たる山田風太郎にとって最大の関心事は年限の延長であった。

年限延長に愕然として登校するに松柳、藤井教授に聞きたりとて本制度の適用さるるは本年度よりの新入生にして吾らに適用されずと。
(昭和22年1月22日)


新制度の適用は新たに入学する医学生からで、在学生ではない。

昨日休めり、本日病院に行くに友人皆全院の大掃除に大童なり、何事なりやと怪しむに大変なりと言いて上中来りて曰く、「緒方校長の言に依れば学制改革は文部省よりもマッカーサー司令部の意向なり、小国日本の中に不十分なる医学校過多なり、整備すべしとの内命ありしに拘わらず、各医専の運動猛烈にして文部省怠慢なりし為、近くマッカーサー司令部より直接に視察員来りて調査し、その結果不良ならば本校も廃校を免れず、学校半ば焼け、病院も松原病院は焼失す、必ずしも安心を許さざれば、この週一ぱい学業をやめて大掃除することにす」と。また曰く、「楽天主義なるは校長と、西川病院長のみにして岩男教授は悲観派なり、あとの教授は沈黙を守るのみ、唯米国に長らく留学せし加藤教授の顔色を伺うのみ」と。又曰く「本事態はあらゆる点に於て日本人を他の亜細亜諸国民の水準以下に置かんとすいる米国秘密政策の一なり、即ち日本人の知的水準を低下せしめんとするマッカーサーの手段なりと思惟す。日本はかくて真綿にて頸しめらるるがごとく次第に沈下せしめられ再び起つ能わざるごとく追いこまる。日本の前途は絶望なり」と。
各方面に吹きまくるマッカーサー旋風は遂に吾々医学生の上にも吹き来れり、吾人もまたマッカーサーの鼻息を伺わずんば医者たるを得ざらんとす。
(昭和22年1月22日)


「学制改革は文部省よりもマッカーサー司令部の意向」なのはその通りであるが、「文部省怠慢なりし為、近くマッカーサー司令部より直接に視察員来りて調査し」というのは間違いである。
実際は、医学教育審議会傘下の、日本人の大学教授級の専門医で形成された医学校視学小委員会が医専を視察し、52校の医専のうち6校を廃校とした。CMEはPHWサムス准将肝煎り機関でGHQの意向が強く反映されたけれども、文部省はCMEおよびGHQにそう安々と丸め込まれはしなかった。文部省の健闘がなければ6校程度の廃校では済まなかったし(サムスは医専52校中42校を廃校にする気だった――大学基準協会十年史、1957)、廃校される医専に在学中の医学生たちにも一切救済措置が取られず、多くの若者とその親の怒りを買っただろう。
また、GHQ/PHW/CMEが導入した医育や医療の制度は世界でも最高レベルで、それらが世界屈指の医療大国、長寿国たる現在の日本の源泉となったことも間違いない。傲岸で高圧的、人体実験を日医に申し付けるなど差別的でもあったが、GHQ/PHWは大国の威信をかけて日本の公衆衛生の改善に尽くしたのだと思う。ただ、限界はあった。それは、彼らがアメリカ人ということである。

国際的比較としての医学教育の国家負担率については、アメリカ以外に比較することは不可能である。イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、イタリア、スイスなどは、いずれも医学教育は国立大学または、私立であっても、ほとんど全学を国庫負担によっているからである。中川米造.医学教育費.医学教育Vol.3(1972)No.1,39-41

社会保障政策に世界規模で影響を与えたベヴァリッジ報告が出たのは1942年、第二次世界大戦後の先進国では国家負担による医師養成がスタンダードになりつつあった。その潮流を一顧だにしなかったのがアメリカで、連合国軍とは言いながらほぼアメリカ軍であったGHQでも、医学教育の国庫負担率をどうするかなんて話は一切出てこない。
もちろん、当時の日本経済はドン底で発展途上国以下の状態だから、専門教育費の国庫負担など、まあ、無理だったろう。しかし、将来の為に道筋をつけておく、ぐらいのことはできたはずである。占領軍がイギリス軍主体であれば違った結果になっただろうとも思うが、しかし、それを言うのは奴隷根性である。経済大国となった今現在においても、高校の教育無償化すらできていないのはGHQのせいでも、その“押し付け”憲法のせいでもなく、日本人自らの怠慢のためである。

兎に角吾人は唯拱手して、この旋風の結果を俟つの他なきに至る。校長、長嘆息して「戦争には負くべきものにあらず」と述懐せる由、せめて吾人に傷つかざらんとして皆汲々としてハタキを振い硝子を洗うのみ、戦時中軍人の視察を迎えたる工場が斯くのごとかりき、今や外国の手のふり下さるるに教授学生戦慄して鼠のごとく働くのみ、痛恨極まり暗然たるの他なし。
マッカーサー司令部の調査に合格する可能性は60%なりといわる、地方の医専は悉く廃校必至なり。廃校とならば吾人はその去就を知らず、また存続を認められたりともそのあとが問題なり。8年制6年制の大学とはその中に予科含められてありや否や、もし含められていざれば11年、9年となる、中学を卒業するが既に18、9才なり、然らば即ち医者になるには殆ど30才たるを要す。
(昭和22年1月22日)


当時の医学生としては、ビビるほかなかっただろう。ナニをされても従わなければならない、それが無条件降伏である。

敗戦直後の山田風太郎 医師国家試験制度の開始

皆一大恐慌を来せる「医師国家試験」本年より適用かと<朝日新聞>に報ぜらる。
(昭和21年3月19日)


昭和21年3月19日
▲昭和21年3月19日付朝日新聞。

医師国家試験の受験は当初、2回が限度であったが、

それによれば目下日本の開業医6万、これに復員軍医約2万加わる上、本年の医学卒業生6千、来年は8千、明後年は1万となり、国土狭く、設備薬品不足の上に粗製濫造の医者氾濫してはヤリクリつかず為に本年よりブレーキを兼ねて基礎医学、臨床医学の国家試験を行い、落第2回は資格なしとする由。
これ悦ぶことなり。されど毎年落第する者、合格する者に比して2倍、4倍、5倍となりては、長き月日と大いなる学費をかけて医学を学びつつ遂に職能を有せざる者巷に溢る。その腕にメスあり、その頭に医学知識あり。これ虎を野に放つがごとく本人の不幸なるのみならずまた社会の不幸なり。しかず、今、各学校を調査してその不完全なるものを廃せんには。その方が遙かに本人と社会のためなり。
(昭和21年3月19日)


結局は何度受験してもOKになる。

今朝の<読売新聞>に医師国家試験施行の旨発表さる。今秋より行う。何回受くるも制限なしと。学校は、内科よりこの話で持ちきる。(略)夜、馬橋松葉の下宿を訪ねる。松葉は関東医学徒連盟に出席していて夜遅く帰って来る。国家試験の事につき討論ありし由。東大は大讃成で日大医は大不讃成なりし由なり。
(昭和21年3月28日)


昭和21年3月29日
▲昭和21年3月29日付朝日新聞。

GHQも山田風太郎と同じく「今、各学校を調査してその不完全なるものを廃せん」としたのだが、実際に医専を視察した医学校視学小委員会の面々が情に流されたのか、内地の医育機関計70校のうち廃校は6校のみという結果に終わった。結局は、出口で搾るしかなくなったのである。
昭和21年5月11日には保健婦を養成する東京保健女子学院が東京医専校内に開校するが、

学校には学生がいない代り、妙齢の女の子がうようよしている。聞けばもと航空医学研究所だった建物を使用し打て保健婦養成所つくり今日がその開校式なのだそうな、道理でそっちの方には紅白のマン幕なんぞ張りめぐらしてある。何の為かジープも1台来てとまっている。校門を見たら「東京医学専門学校」の標札は去年の5月(4月?)焼け失せたまま、今は「東京保健女子学院」なる白木の大看板のみぶら下がる。どちらが附属なのか分らない。
(昭和21年5月11日)


同学院は昭和26年3月31日、大学予科とともに閉鎖されている。卒業生は23人のみであった。
預金封鎖も続いており、

薄冷、関宮にカネオクレの電報打つ。預金封鎖の為、家に金乏しく且農家は一銭も金下りず農村の医科として今オイソレと数百の金自由にならざるがごとし。余帰京に際し出発後直ちに送金すべしといわれたるに未だ不来ほとほと困却す。
(昭和21年5月12日)

まとまったカネが下せないので仕送り頼みの下宿者もキツい生活を強いられていた。預金封鎖の解除は昭和23年7月である。

午前10時より学友会結成式。4年より医師国家試験反対運動の為、各人より10円ずつ集金するとの動議あり。
(昭和21年5月25日)


学生は医師国家試験に対する反対運動を行っていたが、結局は行われる。医科大・医学部などは試験に賛成だった。修業年限がそもそも違うので、医専が医大よりも不利なのは間違いない。
昭和21年6月には東京医専の大学昇格祭が行われているが、

ひる、高田馬場に行き徒歩にて早稲田大学大隈講堂に入る。地下にて、東医の大学昇格祭演芸行われつつあり、ひる皆菓子を喰い、酒呑みたりと。酒は甲府より入手せる葡萄酒5樽に医化学三坂教授の作れるアルコール混えたるもの激烈にして学生頗る多く騒ぎ且倒れたるものありと。
(昭和21年6月23日)


ワインにエタノールをぶち込んだ合成酒を飲んでいる。身体に悪そうだ。
なお、東京医専の大学昇格は概括的には認められているが、詳細はまだまだ詰めなくてならなかった。大体、医学制度もこの先どうなるか未定の時期である。この段階で祝典を行う呑気さは、緒方知三郎校長由来のものであろう。

敗戦直後の山田風太郎 大学昇格決定

大学昇格の内定が東京医学専門学校(東京医専)に伝えられたのは2月20日。調査して即日である。

大学昇格内定せる旨発表。(本日文部省より人来る)
(昭和21年2月20日)


視察したのは、医学教育審議会(Council on Medical Education、以下CME)傘下の医学校視学小委員会(Subcommittee on School Inspection、委員は大学教授クラスの専門医)である――といいたいが、CMEの発足(第1回総会)は昭和21年2月27日、さらに医学校視学小委員会の活動開始は同年10月から。山田風太郎の日記によれば東京医専の視察は昭和21年2月20日だから、CME発足前である。東京医専はCMEではない別組織(文部省単独?)が視察し、大学昇格GOサインを出したのか。

大学昇格に対しては図書館の整備が最も要求されたので、原館長は全国の校友に檄を飛ばし、書籍や雑誌等の寄贈を求め、辛うじて規定の1万冊を整えることができた。論文別冊等を1冊の書籍として計算せねばならぬような状態であったが、その後次第に巻数を充実した。
(東京医科大学初期、東京医科大学五十年史)


大学(現・東京医科大学)の設立が認可されたのは、昭和21年5月15日である。この認可は大学設立の概括的なもので、

予科及び学部の設置は更に詳細に文部省と交渉をなし、その具体的且つ詳細なる申請を要した。
(東京医科大学初期、東京医科大学五十年史)


教職員の認可など細部は後回しにされていた。東京医専が医育機関としてAクラスに判定されたのは昭和22年3月末で、4月1日に予科の開設が認可されている。
なお、この頃、東京医専の学生大会で緒方校長の排斥論が出ているが、

ひる学生大会あり。校長排斥論4年より提出、3年これに対し絶対支持を唱う。
(昭和21年5月15日)


大学民主化運動の一環であったのだろう。

昨日また学生大会あり。校長出席して4年の説を一々徹底的に論駁せりという。
(昭和21年5月18日)


熱血だが所詮はエエとこのお坊ちゃまで頼りない、というのが緒方校長に対する学生評だったらしい。
しかし、PHWのモールトンは評価に値する世界的水準の大学教授のひとりとして「東京帝国大学の緒方知三郎」を挙げており(堀籠崇、実地修練(インターン)制度に関する研究―新医師臨床研修制度に与える示唆ー、2010)、東京医専の大学昇格も緒方校長の知名度なくしてありえなかった可能性はある。施設は焼けまくっていて「せめてB級に入らんとしたが、戦災が余りにも大きく、それさえもかなりの危険が予想された」(東京医科大学五十年史)のだから、人材面で救われたと考えるのが妥当ではないだろうか。であれば、敗戦直後の医専の危機においても、緒方校長は大いに頼れる存在であったということになる。
さて、話は飛ぶが、この時期の日記に登場する緒方富雄の話が興味深い。

血清―緒方富雄教授。大川周明完全なる黴毒第3期なりしとの事。
(昭和21年5月24日)


大川周明は極東軍事裁判の開廷初日である5月3日に東条英機の頭を2度たたき、翌4日に米陸軍病院に入院してそのまま出廷しなくなった。緒方富雄は、梅毒血清反応検査の“緒方法”で知られる血清学者である。米陸軍病院で大川の梅毒検査を行ったのは、緒方富雄なのかもしれない。

敗戦直後の山田風太郎 新円切替

大学昇格か、廃校か。
すったもんだしていた医専・歯科医専にさらに打撃を与えたと思われるのが、経済危機緊急対策――いわゆる“新円切替”である。
新円切替は昭和21年2月16日の夕方に突如ラジオで発表され、翌17日限りで預貯金は一切引き出せなくなり、10円以上のカネは3月2日限りで通用しなくなった(2月22日には5円も追加でダメに)。3月3日以降は“新円”が登場して、旧円はゴミと化すのである。日本は一気に玉音放送以来の大騒ぎとなり、皆が皆5円以下の小銭集めに奔走、使えなくなるカネは使ってしまえとヤミ市がごった返すことになる。

切符売場など10銭20銭のものに百円千円出すものありと。本日煙草配給4円20銭なれ10円札以上ばかりで買う能わず。高須さんは3円の電車定期券買うに10円札出せど売ってくれず、2組買って4円ツリくれといいても駄目、3組買うから1円くれといいても駄目。泣く泣く10円で3組買って来た由、新円引換は10円以上にて5円以下は旧来通りなればこの騒ぎなり。これでは電車にも乗れず、夕刊も買えざるようにならん。
(昭和21年2月17日)


新円切替は、国民の現金所有を制限して進行するハイパーインフレを抑制する目的があった。よって、庶民が手持ちできる現金は100円/人に制限し、あとはすべて銀行or郵便局に預けさせた。給料は500円/月までを新円で支払い、預貯金からの新円の引き出しは月に世帯主300円、世帯員100円/人に制限された。あとの預貯金はすべて封鎖である。これで3月3日以降の金融資産はすべて金融機関にあるという理屈が成り立つから、3月3日午前0時現在で財産調査が行われ、この調査結果が財産税算定の基礎となった。預金封鎖が解除されたのは昭和23年7月である。なお、当時の大蔵大臣の月給が540円なので、金持ちはともかく、ビンボー人の苦しい生活がさらに苦しくなったわけではないとは思う(そもそもその苦しさはドン底である)。しかし、これが山風のような仕送り生活を送る学生や、学校建設というデカい話になると、また別である。

午後より学生大会があって、校長が演説していた。大学昇格も、貧乏な学校の上に、今度の預金凍結で大口寄付者の口が怪しくなったので、どうも危ういとのこと。
(昭和21年2月18日)


寄附を募っている最中に預金封鎖、これはイタイ。東京医科大学五十年史には、大学昇格への預金封鎖の影響には触れられていないが、寄附金集めはかなり難航したと思われる。
なお、東京医専は昭和17年11月に大学昇格を申請しており、当時すでにその準備も万端ではあった。昇格できなかったのは「戦争苛烈の事情」による(東京医科大学五十年史)。しかし、空襲によりその準備は灰燼に帰したどころか、建物もかなりの部分焼けてしまった。ゼロからの出発どころか、マイナス状態でGHQの査察を受けなければならなくなったのである。

敗戦直後の山田風太郎 医専統廃合

昭和21年春、東京医学専門学校は標本を総動員させていた。
大学昇格のためである。

病理解剖室より解剖実習室へ、標本類を運搬す。この20日、文部省より大学昇格の実質ありや否や調査に来るとて、メチャクチャに標本を総動員させると校長の命なる由。松原病院焼けてベッド数足らず同じく大学昇格運動に狂奔しつつある昭和医専より横槍が出ているとのこと也。
(昭和21年2月15日)


戦時にボコボコできた医専の統廃合と大学制への移行は、GHQ公衆衛生福祉局(Public Health and Welfare Section、以下PHW)が医療の水準向上のために行った施策のひとつ。

すべての医学校が視察を受け、その結果、適切な臨床教育を実際に実施し得るのに必要な施設、実験設備、附属病院を持っており、かつ新しいカリキュラムを適切な指導の下に実施し得る質の高い教授陣を持っていれば、これらの学校はAクラスに格付けされた。しかし、必要な教授陣を充足したり、充分な臨床教育を実施するための研究室のスペースを確保できる建物の建設に数年もかかるような学校は、仮認可とされBクラスに格付けされた。所在地、施設の物理的制約、教授陣の不足の故に将来においても新基準を満たす見込みのない学校は閉鎖された。(略)1951年までに、Aクラスの医学校は45校となり、ここでは一流の医師が養成されることになった。これらの医学校は、人口1000人に対して、医師1人という必要量を充たすのに充分な数の卒業生を送り出すことになったのである。
(C.F.サムス「GHQサムス准将の改革 戦後日本の医療福祉政策の原点」2007)


日本敗戦時の国内の医育機関は大学18校(帝大7校、官公私立医大11校)のほか、医専は52校(官立19項、公立20校、私立13校)で計70校にもなっていた※。PHWのサムス准将はこのうち医専10校を昇格させ、大学18校とあわせて計28校にし(大学基準協会十年史、1957)、廃校予定医専に在学中の学生も救済しない意向であった。

高木〔引用者註:喜寛〕(慈恵医大)が医専の将来について尋ねているが、ムールトン〔同:PHWの予防医学課ラボラトリーコンサルタント、少佐〕は「努力すればいい結果が出る」と素っ気ない態度でかわしている。さらに松井〔同:正夫〕(文部省)が食い下がっても、ムールトンは専門学校の卒業生が国試にパスしなければ、専門学校の存在理由はないということになると答えるにとどまっている。

これを覆したのが文部省の粘り強い交渉で、廃校は6校となり、廃校生徒全員の救済も行われた。もうひとつ、文部省と草間良夫(慶應義塾大学医学部予防医学講座教授)らが頑張ったことに戦時に医師となるために慶應と慈恵で医学を学んでいた歯科医師計320名の救済措置がある。彼等の頑張りがなければ、これら歯科医師にも医師になる機会(半年間のインターンと医師国試受験)が与えられず、見殺しにされたであろう。なお、これらの頑張りは草間自身をも救った。草間は当時大学内外から親米的とみなされ、慶応大学では排斥運動が起こっていた。そして実際、草間は教授職を解かれて医学部図書館館長へ左遷されるのだが、この歯科医師擁護の顛末が伝えられると一転して常勤の教授職に復職し、好待遇が与えられることになった(堀籠崇、実地修練(インターン)制度に関する研究―新医師臨床研修制度に与える示唆度を中心として―2010)。情けは他人のためならず、の典型例であろう。

当時マッカーサー司令部は医学教育機関をABCの三段階に格付し、A校は無条件に、B校は条件付きで大学とし、C校は廃止する指令を出した。ABC級決定の視察員がマッカーサー司令部より来校するのを目前に控え、卒業生側の後援会は出身教授が全国の校友を尋ねて寄附金を募り、学生も同じく全国の校友及び父兄を訪ねて寄附金を募るために奔走した。緒方校長は唯一つ残っていた基礎医学本館及び航空医学研究所の名で戦時を過ごし、消失を免れた旧衛生学教室の二つの建物に取敢ず全基礎医学教室を入れるために基礎医学学科及び教室の再編成を行ない、病理学教室は細菌学教室を合わせて病因学教室とした。細菌学教室実習室は縮小すべきであるとした。既述のABC級決定に関してはA級に残ることは不可としてもせめてB級に入らんとしたが、戦災が余りにも大きく、それさえもかなりの危険が予想されたのである。そこで緒方理事長は米軍司令部関係を顧慮して、長く米国に居て当時日本医科大学教授であった加藤勝治氏を迎えて病院長とし、後に理事及び副学長の任にも着けようとした。この当時の学生は創立当時の学生にも劣らぬ程の母校愛に燃えていた、かくして学生は全国をめぐって校友より寄附を集め、迷彩により汚れていた基礎医学本館のペンキを塗り変えたり、破壊していた教室の窓を修理したり、又内部の壁を塗り変え、細菌学教室を図書館にするためにその間仕切仕事をしたりした。(略)このようにしてマッカーサー司令部のジョンソン大佐、モールトン少佐等の視察も終り、辛じてB級に残り廃校を免れることができたのである。
(東京医科大学初期、東京医科大学五十年史)


このほか医師・歯科医師の6年制大学教育と国家試験、インターン、検死制度などもPHWにより日本に導入された医療施策である。以上を検討し、実施したのは医学教育審議会(Council on Medical Education、以下CME)というPHWサムス准将肝煎りの機関で、その第1回総会は昭和21年2月27日である。CMEの委員にはGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部) 、文部省、厚生省、日医、大学の各代表が加わっていたが、医専代表はおらず、医専代表代理として当時文部省学校教育局長の田中耕太郎が出席している。

※外地には台北帝大、京城帝大、京城医専、平壌医専、大邱医専、京城女子医専、旭医専、樺太医専、満州医科大、盛京医科大、新京医科大、哈爾浜医科大、佳木斯医科大、旅順医専の14校がすでに卒業生を出していた。

歯科技工士法違反容疑で歯科技工所社長ら6人が書類送検

大阪府警生活環境課が5月8日、歯科技工士法違反容疑でサンエー株式会社(大阪府吹田市)の長谷川妥社長(50歳)ら役員4人とパート従業員の女性2人(31歳と39歳)を書類送検した。容疑は無資格のパート従業員2人に、歯形の読み取りや詰め物の加工をさせたというもの。

産経新聞
府警によると、同社は受注から3日で納入することを売りにしていた。2013年9月ごろから無資格の従業員が作業し、関西を中心に200以上の歯科医院へ詰め物などを納入。これまでに健康被害の報告はないという。


今すぐ、サンエーの納入先である「200以上の歯科医院」を公表すべき。
ヘタなインレーでスグ取れたとかならまだマシで、スキマが空いていると二次齲蝕になる可能性が高いし、二次齲蝕は進行が早いのと詰め物で発見しづらいのとで高率で歯がイカレる。「これまでに健康被害の報告はない」とか言ってる場合か警察よ。歯科に通院していた周辺の患者は不安がっているはず。不安なヒトは自分の詰め物が大丈夫か、すぐに歯科医師に聞こう。
「わたしの歯の詰め物なんですが、資格のある歯科技工士がつくったものですか?」
なお、憶測だが無資格者が手掛けていたのは保険のインレーやCAD/CAM冠だろう。速さと安さがウリになっているのであれば、自費補綴ではない。

しかし――なんでココなんだ、という感は拭えない。
中小だと、有資格の歯科技工士オンリーの技工所のほうが少ないだろう。10人に1人くらいしか歯科技工士がいないと思われる、大手の大規模工場もある。「受注から3日で納入する」というウリが気に入らなかったライバル技工所によるタレコミか、同社の歯科技工士(有資格)による内部告発か、もしくは行政による見せしめか。

敗戦直後の山田風太郎 不足と豊富

昭和21年2月2日、東京医学専門学校の20年度第3学期が開始された。

母校大学昇格は今月中旬に実現する見込なる由。且、昨年供出せる高橋翁の銅像熔かさるることを免れて無事今回帰還せるにつき、11日紀元節を期して祝賀会やりたし、皆におでんでも食べさせたき希望学校にあれどその費用1万円かかるとのこと、費用は校友会より出だすも生徒の意向如何と校長の提議を伝う。
(昭和21年2月2日)

高橋琢也は森林法制定の立役者。13歳で薬問屋の丁稚となり、奉公のかたわら独学でドイツ語、蘭学、医学を学んだという明治の偉人である。大正5年、70歳で私財を投げ打って東京医学講習所を設立、これが後の東京医科大学になる。84歳で結婚しているのも衝撃だ。女は25歳で行き遅れといわれていた時代だが、男の結婚年齢に上限はなかったらしい。

さて、食糧とモノの不足は続いていたが、豊富なものもあった。

解剖学実習室に屍体20余り来る。上野駅頭の餓死者のごとし。
(昭和21年2月4日)


解剖実習用の屍である。

手は無理に合掌せしむる為か手頸紐にてくくられぬ。指出たる地下足袋、糸の目見ゆるゲートル、ボロボロの作業服。悲惨の具象。
(昭和21年2月4日)


昭和20年11月18日
▲昭和20年11月18日付朝日新聞。

昭和20年11月18日の朝日新聞によると「上野駅で処理された浮浪者の餓死体は多い時は日に6人を数え、先月の平均は1日2.5人であった」。「終戦後現れた浮浪者の多くは敗戦日本が産んだ新しい失業者の型である」ともあるが、これはすなわち復員と引揚者をメインに戦後の2年間で人口が6000万人以上も増加し、さらに軍需工場の解雇と徴用解除によって、終戦直後の失業者が推定1300万人に達したことを指している(朝日新聞「朝日経済年史」)。

インフレは諸般に及び、

授業料値上のことにつきクラス会を開く。
(昭和21年2月6日)


授業料も値上げ。
慶應義塾大学医学部・工学部の場合、昭和19年に年間で医420円、工350円だった授業料が21年:医工同額で900円、22年:同1700円→3000円、23年:同7200円と4年間で17〜20倍になっている。
なお、昭和21年元日に昭和天皇による新日本建設に関する詔書、

朕となんじら国民との間の紐帯(ちゅうたい、結びつきのこと)は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。
天皇をもって現御神(アキツミカミ、この世に人間の姿で現れた神)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。
官報號外 昭和21年1月1日 詔書

いわゆる人間宣言をしたこともあって、

昭和21年1月1日
▲昭和21年1月1日付朝日新聞。

紀元節の式典を急遽取りやめる学校も多かった。
が、東京医専は開催組。

午前11時より校庭の高橋翁銅像前にて紀元節、及び復興祭。銅像紅白のだんだら幕にてめぐらさる。「……天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と勅語奉読する校長の声寒風に流れ頭上に米機の爆音凄し。君ヶ代歌い地上の学生中にも既に天皇制打倒を呼号する共産党支持者2、3にとどまらず。
(昭和21年2月11日)


教育勅語はまだ現役。教育刷新委員会・第一特別委員会(安倍能成委員長)が式日に学校(国民学校から大学まで含む)での棒読を禁じる答申を出したのは昭和21年の9月で、

昭和21年年9月29日
▲昭和21年9月29日付朝日新聞

さらに当時の新聞を見ても東京は「帝都」と表現されている。大日本帝国は敗戦と同時に瓦解したようなイメージがあるが、法的に帝国が消失したのは昭和22年の新憲法発効なのか。とすると日本国憲法は大日本帝国にトドメを刺したモノというわけで、右翼がGHQの押し付け憲法扱いするのには、こういう事情も絡んでいるのかもしれない。
ちなみに、東京“帝国”大学(「東京大学」に改称したのは昭和22年9月30日、国立総合大学令による)も昭和21年紀元節式典開催組で、

昭和21年2月12日
▲昭和21年2月12日付朝日新聞。

総長の南原繁が式典で述べた演説「新日本文化の創造」が全国の学生を大変に感動させたらしいが(立花隆「天皇と東大」下巻)、山風は日記で触れていない。学生といっても総合大学の学生で、専門学校生にはピンと来ないものだったのか。
一方、東京医専校長の緒方知三郎。紀元節の式典でなんと「皿廻し」を山風らに披露している。緒方校長は「東京奇術研究会の会長」で、芸をいくつも持っていたようだ。こういう人、好きである。

敗戦直後の山田風太郎 男女共学制

昭和21年1月11日、24歳の山田風太郎は世田谷区三軒茶屋196の高須氏宅に戻った。東京医学専門学校の3年生である。
戦争は終わっているとはいえ、いまだ戦時色は濃厚で、
依然東京上空を乱舞する米機の轟音。
(昭和21年1月12日)

米機はブンブン飛んでいるし、

渋谷界隈の焼野散歩。あまり淋しい方へ行きかけて、「危い危い」と引き返す。白昼でも追剥の出かねないこのごろの東京である。
(昭和21年1月19日)


治安もひどかった。ただ、モノはなくはなかったようだ。質と料金を気にしなければ、とりあえず何でも揃いはしたらしい。

朝、鰯9匹10円にて買ってくる。午後タバコ「のぞみ」80本巻く。巻紙を買いに行くに1組(200枚)3円50銭。タバコより巻紙の方に金がかかる。
(昭和21年1月23日)


この「鰯9匹10円」が5日後には「鰯7匹10円」になり、「インフレ愈々急ピッチ」(昭和21年1月28日)。

本日の<朝日>「足ぶみする男女共学制」と題する記事の中、目下医大申請中の東京医専では、予科3クラスの中1クラスを女とし、並行して進みつつ本科で共学するという仕組を取っているがこれは将来の共学制の姿を明確に示しているというべきである云々の記事あり。
(昭和21年1月23日)


昭和20年12月5日
▲昭和21年1月23日付朝日新聞。

男女共学制は新憲法(性による差別の禁止)と教育基本法(教育における男女の機会均等の保障)発布後の話だと思いこんでいたが、全然違った。昭和20年12月4日の閣議で「女子教育の刷新要綱」が決定されている。

昭和21年1月23日
▲昭和20年12月5日朝日新聞。

男女共学制も憲法と同じく、GHQの肝煎りか。すなわち、GHQが次回の総選挙から婦人参政権を認めるよう言ってきたので、日本側は「わが国における女子の知識水準は男子に比し劣るところがある」という状況の改善を図ったと。いつもながら泥縄である。

敗戦直後の山田風太郎 麻薬調査

ひるから高須さんと病院へゆき、半狂乱になってまた荷物を探せども、山のごとき疎開帰りの荷の中どうひっくり返して見ても、僕のやつはない。途中で失われたおそれ大なり。
(昭和20年11月3日)


山田風太郎が飯田から送った荷物は、結局、手許に戻っては来なかった。

学校の事務の方では、飯田からの学生の荷物はことごとく送出したという。ついに絶望のはかなきか。蒲団のみならず、衣類一切中にあり。辛うじて家より整えてもらいたるものなれば閉口の極に達す。
(昭和20年11月6日)


山風は高須氏の家に居候しているのだが、2人も蒲団がないので、ありったけの衣類を総動員して寝ていた。すでに11月、「けさも4時半ごろ寒さにふるえあがって眼がさめた」という毎日である。

学校の飯田より送れる荷はすべて送れりと判明。万事休す。
(昭和20年11月22日)


盗難だろう。実家から郵送してきた荷物も抜かれている。ムチャクチャな時代である。

午前緒方校長のカシンベック病論。満州の研究所の運命を憂うる顔悲痛なり。
(昭和20年11月27日)


「満州の研究所」とは、満洲医科大学東亜医学研究所のことか。満州医科大学は今の中国医科大学。

食糧問題重大にして、2ヵ月乃至それ以上の冬休みとなれる学校多し。相談の結果12月10日より1月20日までとキメ学校に交渉せるところ、12月10日より1月一杯は休みとすと却ってまけてもらう。
(昭和20年11月30日)


蒲団を入手できた様子はない。結局、このまま冬休みに突入するようである。

寒気ようやく烈しからんとす。冬物一切失いたれば、夏シャツ寒くして耐えがたし。風呂敷をたたんで背中にあてて、その上から上衣を着てすまして歩いている。誰も知らないから可笑しい。
(昭和20年11月30日)


しかも、高須氏は車内泥棒にやられている。

早朝高須さん帰宅。東海道線の車中でトランクを盗まれたりと。
(昭和20年12月2日)


高須氏は父親の急逝で故郷に帰っていた。踏んだり蹴ったり。

学校は12月10日から冬休みである。山風は17日に帰省した。
翌々日には、実家の診療所が米兵による麻薬調査を受けている。

アメリカ兵、通訳と警官をつれて突如薬局検分に来る。麻薬調査のためなり。家内震動し、遠き窓々より、妹、女中、こわごわ覗く。叔父も急ぎ洋服に着がえて緊張せる顔にて案内す。
飼犬のエスは見知らぬ人には何びとにも吠えつくを以て、役場より使いの少年、右ジープより早く犬を繋ぐように間道を飛んで来りしは悲喜劇なり。
(昭和20年12月19日)


医薬分業が進んでいなかったために、GHQは日本の開業医を信用していなかったのだろう。実際、GHQのサムス准将は、日本の医者は薬を売って儲けていると発言する。

午後また米兵、通訳2人、八鹿署長、当村駐在巡査ジープにて来り、薬局を検分す。米兵はきのうと同じく土足のまま上る。
(昭和20年12月20日)


靴ぐらい脱いでもらおうよ……。いくら敗戦国といっても。まさか映画「フェイク」(ジョニー・デップ主演)みたいなことにはならんだろうと思うんだが。

家中恐慌、一部の薬はあらかじめ隣の安木酒造店に運びおくという騒ぎなり。麻薬の幾分かは残し置かねば却って疑惑を受くる怖れありとて残し置けるもの、ヘロイン2、モルヒネ3押収さる。「合衆国政府の命令より、ランディス軍曹押収す」とのメモを残し、サヨナラ、サヨナラといいて帰りゆけり。
妹、薬局の娘たち、窓より恐る恐る覗きあるに、オーキニと愛嬌ふりまく。あまり愛嬌よきに、ことし8月15日激昂して「8万4千の毛穴より熱血を噴きたる」叔父、つい「またおひまの節はお遊びに」など口走る。媚びたるにあらず、善人のゆえなり。
哀れをとどめたるは犬のエスにて、犬小屋に追いこまれたるのみか、入口は炭俵にて塞がれ、中でキューキューいっている。
押収されたる薬は姫路にて検査、別状なければ返還とのことにて、取りにゆかねばまだあとに残ってはせぬかと疑われる怖れありと、あれを思いこれを思って、叔父はご苦労にも近く姫路へゆくことになる。
夕、村民続々見舞いに来る。敗戦滑稽談。
(昭和20年12月20日)

こうして、山風の敗戦の年は終わった。近代始まって以降、医療関係者がこれほどヒドイ扱いを受けた時代はなかったであろう。確かに医学生や医学校は曲がりなりにも敗戦までその命脈を保った学校であり学生であったが、卒業後は戦場行きであったし、学校は軍に蹂躙されてカリキュラムも独自に決められなかった。空襲が激化する中で開業医師・歯科医師は疎開を許されず、薬も医療機器も不足する中で、実現こそしなかったが本土決戦で大量に出る傷病者を一手に引受ける責を任されていた。従軍すれば死の危険性があり、敗戦まで生き延びて帰国すれば医師過剰で邪険にされる。従軍看護婦など戦場で死んでも戦死と認められず、軍人恩給のような手当てもつかなかった。医師不足のため已むを得ず投薬や注射をしていた保健婦は、帰国した医師に医師法違反だと脅迫されたり。
それにしても――戦争という殺し合いと併行して、命を救う医療行為があるということ。
これは人類にとっての希望なのだろうか、それとも、われわれ人類が救いようのないアホである証左なのだろうか。
さらにいうと、日本が真に敗戦の屈辱を克服するには徹底した平和主義国家になるしかないのであるが、負け知らずの戦勝国であった明治時代に戻りた〜い的な動きが現日本にはあるのが情けないというか、痛い目を見てもわからないバカがわが祖国に多そうなのが日本人として実に屈辱であり、慙愧に堪えない。

歯科医師国家試験、真の合格率

福岡歯科保険医新聞2017年5月5日号に、「最低修業年限での歯科医師国試合格率」という興味深い表が載っていた。2017年3月新卒合格者数を2010年4月入学者数で割った、いわば“真の合格率”である。

最終修業年限での
▲最低修業年限での歯科医師国試合格率(平成28年)

この“真の合格率”の平均は国立66.9%、公立74.7%、私立42.7%。
私立は平均でも半数が不合格である。
合格率が最低の鶴見大学は13.2%――入学者数76人に対し、たった10人しか歯科医師になれなかった。国立は私立よりもマシであるが、しかし、マシという程度でもある。長崎大学(52.0%)や鹿児島大学(55.4%)では、入学者の約半数が落ちている。私立17校のうち合格率50%以上は東京歯科大、昭和大、日本大、愛知学院大の4校ぽっちというのもすさまじい。

歯科医師国試合格率が年々下がっているのは以下の通りだが、

合格率の推移
▲歯科医師国試合格率の推移。

一方で「出願不受験者数(出願して受験しなかった数)」はほぼ、増加の一途である。これは学校側が卒業者に受験を禁じるのだろうか? 学力不足が顕著であれば、そもそも卒業させるべきではないのだが。歯科医師養成校の自覚はあるのだろうか。
合格者数を出願者数で割った“真の合格率”をみると、

第102回:61.4%
第103回:61.7%
第104回:61.9%
第105回:61.8%
第106回:62.9%
第107回:55.6%
第108回:54.2%
第109回:53.2%
第110回:53.7%

もはや2人に1人は落ちている。ヒドイものだ。これはもう、国試浪人の数もヒドイことになっているはず。浪人中の者はニートの範疇じゃないらしいが、事実上のニートになっているだろうことは想像に難くない。しかし、この件に関する社会の眼は冷たく、社会問題としてとらえるどころか同情の声すら聞えない。ナゼか。

まず――歯科医師国試合格率低下の原因は、主に2つある。

1つは歯学部人気が落ちて(=偏差値の低迷)、歯学部生なるものが劣化したからである。
デキる高校生は底辺学部を選ばないし、目先の効く子であれば歯科医師の喰えなさ&潰しの効かなさを知っていて歯学部を選ばない。実際、歯学部入学者の大半は開業歯科医師の子弟である。実家にカネがあって、卒後の開業のメドが立つ子でないと、歯学部には入れない。私立であれば、その学費はウン千万である。ウン千万のカネがある歯科医師がわが子を入学させる大学の底辺化、そんな話に世間が同情を寄せるワケがない。10人に1人しか歯科医師になれない歯科医師養成校にウン千万を払ってわが子を入学させる、ということ自体がすでに狂気のレベルである。

もう1つは、国が合格率を下げているからである。
つまり、歯科医師過剰対策として、国は歯科医師国試を難しくした。優秀な成績で卒業した子が国試のひっかけ問題につまづき、落ちているのである。このこと自体はゆゆしいが、しかし。ここでの問題は、歯学部の底辺化が進むこの状況でソレを主張するのが難しいということである。この偏差値で国試合格率が高かったら、その方が恐ろしい事態を歯科界に招く。歯科医師に対する尊敬や信頼は、一気に失墜してしまうのである。

この状況を打開するには、まず底辺校の統廃合が必須である。
そしてカネのある子ではなく、実力のある子が目指す学部にするしかない。
歯科医師数は絞り込む。
患者の増減には、コデンタル(歯科衛生士と歯科技工士)で調整するべきである。

歯科医師免許は医師免許に次ぐスーパー免許で、ほぼ何でもできる。にも関わらず、例えば病院経営者などには看護師免許よりも使えないと思われているし、実際に使えない。この状況を変えない限り、歯学部の不人気は続くだろう。理想的には、歯科医師は歯科医療チームの司令塔となるべきである。歯科衛生士と歯科技工士は臨床でもっと活躍できるよう教育を充実し、業務範囲を拡張する。特に歯科衛生士が重要で、患者の増減には、例えば歯科医師1人につき歯科衛生士3人くらいの割合を目安にアレコレ調整したらどうだろうか。養成に6年もかかる人材でアレコレするには、社会経済的リスクが高すぎるのである。
歯科衛生士は開業できるようにし、訪問歯科ステーションを訪問看護ステーション並に充実させる。これで訪問歯科患者はもちろん、外来患者も増える。一般人が歯科医療に触れる機会が高まり、潜在的歯科患者が掘り起こされるからである。ユーザーが増えるとその要求が総体的に高まるのが社会の鉄則で、特に義歯関係での対応に院内歯科技工士の臨床活用は欠かせなくなるし、その充実と点数評価も重要である。なんだか歯科医師国試の話から歯科医療の話になってしまったが、しかし、当然そういう話なのである。

戦時の山田風太郎 授業再開

敗戦後、山田風太郎は10月22日から東京医学専門学校への通学を再開している。しかし、授業が始まったかどうかについては記載なし。疎開先からの荷物を片付けたりの作業が優先されたようである。

学校にゆく途中、予科練の少年と逢う。東医に入りたいのだそうだ。軍学校生徒の入学試験は今日病院で行われているそうで、30人入れるという。早稲田などでは、軍学校生徒に特権を与える必要はない、来春一般とひとしく入学試験を受けて入って来るべしと学生が反対して、学校相手に騒いでいるという。
学校の本館の前で見塩や谷川たちが日向ぼっこしていた。いま病院に寝泊りしているという。この月一杯で出ろといわれているが下宿などありっこないし、第一いま外食しているのだが、それはそれはひどいもので、この通りだとゲッソリこけた頬を見せる。ゆきだおれはたいてい外食者だそうで、このままでは生命にかかわるという。
(昭和20年10月28日)


陸士や海兵からの優先転学に反対していたのは第二早稲高等学院の学生で、

昭和20年10月25日
▲昭和20年10月25日付朝日新聞。

反対の決議は転学生のための入学試験が行われた後に出された。寝言か。モメた挙句にヌルく出してみたのだろうが、バカみたい。
ちなみに、山風が飯田から送った荷物はまだこの時点でも届いていない 。

午後淀橋病院にゆけど荷物いまだ到着せず。強引に東京に帰還せしめたる学校にして、爾来半月を経ていまだ荷物を疎開先より搬出し得ざるは何ごとぞやと談判すれど、日本とひとしく責任者あいまいにして、無益の談判に終る。
(昭和20年10月29日)


山風は高須氏の家に居候して居るのだが、高須氏も蒲団を持っていない。就寝時には、2人ともありったけの服を着込んでなんとか耐えていた。とはいえすでに初冬、未明には寒さで眼が覚めてしまう。
11月1日には緒方知三郎校長が学生に向け演説し、
午前10時より第一教室にて緒方校長の話あり。学校民主化をさけぶ論旨、あまりにもげんきんにしてひっかかるところあれど、またあまりに熱烈痛快なるがゆえに、みな笑う。
曰く「教授内容はドイツ医学より米国医学に切替えるべし。従って外国語はドイツ語よりも英語を重んず。出来るなら教授数名をただちにアメリカに派遣致したし。この際進んでアメリカの懐に入るにしかず」
(昭和20年11月1日)

「この際進んでアメリカの懐に入る」と表明。機を見るに敏、さすがは緒方洪庵の孫である。

曰く「戦争中は実に不本意なること多かりき。配属将校なるものが諸君の及落にまでくちばしを入れたるは余の心外千万なるところなりしも、当時は万やむを得ざりしなり。彼らに対し、その酷使するところとなりし諸君の恨み深かるべきも、彼等はもと教養なき野蛮人なり。諸君とは育ちがちがうなりと思いて、たとえ彼等は本校の事務員となれる姿を見るもこれを問題とすることなかれ。戦争中の責任はことごとくわが負うところなり。
これより軍国主義は一切払拭す。軍隊のごとく徒らに大声を発し、機械人形のごとくピンシャンするのはエネルギーの大損にして、ふつうの態度をとりて充分つとまる話なり。
見よ、アメリカはそれでいって、しかも戦に勝ちしにあらずや。上官にも或る場合を除けば敬礼せず、上下悉く愉快に笑えり。それがほんとうにして、日本のごとく敬礼一つ忘れたるがため重営倉に叩きこむがごときは愚劣野蛮の骨頂なり。話せばわかるなり。話せばわかるといいし犬養首相を問答無用と射殺し、議会で黙れとどなりつけたる軍人は、無智蒙昧の標本なり。人間の思想と感情は自由なものにして、これを腕力で押えつけんとするは僭越の極みなり。爾今、挙手の敬礼など一切止むべし」
曰く「よく遊びよく学ぶ。まず遊んでしかるのち勉強と考えてよろし。これより出席のごときは一切諸君の自由とす。授業時間以外は学校に笛太古がプカプカドンドン鳴りていると一向に構わず」
曰く「ただ目下諸君の住と食は問題なるも――宇都宮より通学する学生もありときく――しかし学校としては、諸君の私生活まで援助する資力もなければ、義務も感ぜず。何とかして東京に居を探し、モグリ込み、歯をくいしばっても辛抱せられたし。それの不可能なる人は当分休学するか地方の医専にでも転学せられよ。御気の毒ながら学校としてはかくいうよりほかはなし」
校長の演説をきいていると、何だか敗戦をうれしがっているようなり。ただし、校長も情ない情ないを連発す。
(昭和20年11月1日)


実際、緒方校長はうれしかったのだろう。敗戦はともかく、終戦は。

戦時の山田風太郎 帰省

敗戦により東京医学専門学校が休講になり(8月27日〜9月20日)、山田風太郎は帰省する。
9月2日午後に疎開先の飯田を出て、3日夕に関宮に着。
列車はひどい混雑で、「剣のない兵隊」が多かった。タイムスケジュールもメチャクチャ、2時出発予定のバスが5時に出ている。

〇叔父は、降伏以来、落胆してあまり働かないそうである。
(昭和20年9月3日)


9月13日に、飯田に戻っている。

正午飯田着。寮にはまだ友人一人も帰っていず、清閑を極めている。
(昭和20年9月13日)

授業開始より1週間も早く、山風は学校に戻った。実家の居心地はあまり良くなかったようだ。
9月21日に授業開始。

午前、天理協会にて校長の訓示。西川院長の講義食欲論。
本年中に東京へ帰還したき意向なれど、文部省は許可したれども都の方が食住の関係より難色あり、されど出来るかぎり努力すと校長いう。
校長院長、過去の権力政治、圧制を糾弾し、将来は自由なる愉快なる学校を創らんという。終戦後第一回の訓示なるに、痛恨の語一句もなし。この2人の老博士、祖国の敗戦にはまったく無関心なるがごとし。みな物足りなさそうな顔なり。怒れる顔もあり。
(昭和20年9月21日)


国敗れて学問あり。大学人または研究者とは、浮世離れした学問バカであるのが本来ではないか。

新聞紙法、経済法……矢つぎ早に最高司令部の法令くだる。
(昭和20年9月24日)


昭和20年9月23日
▲昭和20年9月23日付朝日新聞。

10月3日、学校から東京への帰還が発表された。

学校より東京帰還発表さる。10月10日より15日迄の間なり。9日までに各自の荷物30キロ2個以内梱包して置くべしと。東京に家なきものはしばし淀橋病院に住むも可なり。ただし外食にして1カ月以上留まることを得ず等。
(昭和20年10月3日)


図書の梱包作業などを経て、山風は18日に帰京した。朝4時半飯田発、午後2時新宿着。
淀橋病院に寄ってから、山風は茨城県石岡町に赴く。級友の家に泊めてもらうためである。
22日、再度上京。学校事務所に赴くと、なんとあの「奥野中尉」が。

淀橋病院にゆき、学校へゆく。事務所の扉をあけて入って見たら、奥野教官が背広を着て事務を執っていたので肝をつぶした。
復員後の職を学校の事務に求めていたのであろう。何も奥野教官のせいで敗けたのでも、教官が終戦時に見苦しい醜態を見せた軍人の一人というわけでもない。彼は戦争中怒罵叱咤で全校を慴伏させた鬼教官であり、勇気凛々と召集され、終戦に当っては悲憤した模範的将校である。それが今は悲しきサラリーマンとなって、おそらく当分の間は、軽薄な学生のザマ見やがれ的な嘲笑の的とならねばならぬ。8月15日を境としてこんな――もっとひどい運命の逆転を見た人々が多かろう。悲痛というより人生的滑稽の感がこみあげて来て、外へ出てからも自棄的な? クツクツ笑いがとまらなかった。
(昭和20年10月22日)


優秀な学者でありながら時代の波に逆らい、追放された河合栄治郎や矢内原忠雄、三木清などに比べれば「奥野教官」の「悲しきサラリーマン」化は不運のうちにも入らない。河合栄治郎は不遇のまま終戦を待たず病死し、三木清は敗戦後も釈放されず9月26日に獄死している。日本人が自力で悪法の改廃や政治・思想犯の釈放ができなかったことは、敗戦以上の屈辱だと思う。

戦時の山田風太郎 敗戦

昭和20年8月15日、山田風太郎は日本の敗戦を知る。

〇帝国ツイニ敵ニ屈ス。
(昭和20年8月15日)

いわゆる玉音放送の流れた8月15日の日記は、この1文だけであった。山風の受けた衝撃の大きさが知れる。
15日の詳細は、翌16日に書かれた。

「先生、12時に天皇陛下の御放送がありますから、すみませんがもう授業をやめてください」
「承知しています」
と、教授は落ち着いたものであった。
(昭和20年8月16日)

「教授」は皮膚科の廣田康教授。当日は水曜日である。

「しかし、まだいいでしょう」
「いえ、ラジオをきくのに遠い者もいますから、どうか。……」
教授はしぶしぶと「薔薇粃糠疹」の講義をやめた。
教授はそのとき果たしてその御放送の内容を感づいていたであろうか。学生も予感していたであろうか。学生のききたがっていたのは、その内容よりもむしろ生まれてはじめてきく天皇陛下の御声であった。
教授も学生もことごとくソビエトに対する宣戦の大詔だと信じて疑わなかったのである。
(昭和20年8月16日)


玉音放送後の山風は茫然自失して、

眼醒むるもいまだ信じる能わす。
正直にいいて学校にゆく気せず。張合いなし。
(昭和20年8月17日)


授業に出たのは22日からであった。

〇授業再開。午前外科、皮膚科。
(昭和20年8月21日)


しかし夜は眠れず、

〇午前内科。
〇昨夜も眠る能わず、高田の部屋にゆき3時ごろまで話す。
(昭和20年8月23日)


級友と連日連夜、激論を交わしている。

結局意見まとまらず。十数人、各々4つ5つに分れて議論囂々、部屋鳴り返るばかり。外へ出ろと喧嘩すら起きんとす。
言いくたびれてみな去る。物散乱せる部屋に哀愁のみ沈殿す。
(昭和20年8月23日)

東京医学専門学校(東京医専)を仮卒業して軍医学校に入学していた先輩たちは敗戦後、医専に返されることとなった。

佐々教授の話によれば、軍医学校急遽解散せられ、生徒は出身校に復帰することになる。しかも一度も軍籍に入らず、はじめより出身校にありしがごとく秘密裡に書類を改むることとなりと。まるで豊臣の残党のごとくなり。
(昭和20年8月25日)


陸軍軍医学校の場合、疎開先の山形で敗戦を聞いている。

8月15日正午から重大放送があるとの連絡が入り、学校職員、入校学生は玉音放送で終戦を知ります。翌日学校副官は、卒業半月前の入校学生の軍歴を焼き、大学に帰るよう命じます。軍歴がないのですから復員でも除隊でもなく、学徒動員解除証明書を受領して退校となりました。軍籍を消された彼らが、戦後の日本の医学界を担うのです。学校副官の独断でした。
翌17日、左沢西方の本郷村小学校に疎開中の軍医学校衛生史編纂準備室は、学校本部からの命令で、陣中日誌、業務詳報、教程などの焼却を開始します。18日も作業は続きます。翌日、焼却中止と米軍への引渡し命令が下達されますが、所蔵資料の殆どはすでに灰と化していたのです。

彰古館 往来 陸自三宿駐屯地・衛生学校 終戦前後の軍医学校、自衛隊ニュース2004年8月15日号

しかし、なぜ学生の軍歴を消す必要があったのだろう、「秘密裡」に。まるでこの先、軍歴が恥となるかのような屈辱的な配慮ではないのか。
東京医専は8月26日に、8月27日〜9月20日までの休講を学生に告知した。26日に進駐軍が上陸予定で(実際は台風で2日延期)、その後の占領政策に対処するための措置だろうが3週間以上というのはちょっと長い気も。開国以来初の敗戦および占領で、学校側もどうしたらいいかワケがわからないし、ムダにビビっていた部分もあったのだろう。

ちなみに。
敗戦直前の新聞を見ていたら、こんな広告があった。「傷痍軍人歯科技工師募集」の求人広告である。求人していたのは日本愛歯健民会、募集資格は「傷痍軍人にして学歴年齢を問わず」。

1945年8月10日
▲昭和20年8月10日付朝日新聞。

傷痍軍人を対象に、歯科技工師の養成を行っていたようだ。戦後もこの養成は続いたろうか。

戦時の山田風太郎 緒方校長の大演説

信州は飯田に疎開した、東京医学専門学校。飯田に集まった山田風太郎ら第2学年は、計70人余りであった。定員は150人だから半数以下である。

学校としては、学生が間借りのみして外の食堂にて食事するを許さず、これ食堂が学生を楯に闇にて食糧を買入れ、しかも学生に出さずして闇にて処分する恐れありと警察より注意がありたればなり。
ゆえに学校としては全寮制として、寮に於て食事をとることに決定したれども、いま飯田市の食糧状態混乱し、1日2合1勺の配給も豆7分米3分の割合なりという。さればこれを切抜けんがため、学生にして故郷より米を持参し、所持しある者はすべてその米を出し呉れよとの相談なり。
18畳の部屋に2人の老師を囲む70余人の学生、問題が問題なれば、みな憂鬱そうな――悲惨なような滑稽なような情景を呈す。
(昭和20年7月12日)


食糧は非常に不足しており、

大和寮の食事。
朝は豆3勺米3勺の飯に、湯呑茶碗1ぱい程度の人参の味噌汁。
昼は飯は朝と同じく、菜は大豆を煮たるもの小皿1皿。
夜は朝昼の飯量の半ばをかゆにせるもの。これに卓の真中に小皿ありて、黒き唐辛子の葉を煮たるものを載す。
30人でかゆ啜りつつ餓鬼のごとく1口にこれを食うなり。考えてみれば、これで動き勉強しているのが不思議なり。
(昭和20年7月30日)


学なりがたし。この程度の食事で、よく栄養失調で斃れないものだと思う。しかも、山風は胸を病んでいたというのに。
以上は飯田の状況であるが、第1学年のいた茅野はもっとひどかったらしい。

昨日まで茅野にありて1年の面倒を見ておられた緒方校長、飯田に来られ、きょうより入学以来はじめての校長の病理学講義始まる。
(略)
病理学講義に先立って次のごとき演説をせらる。
「諸君は茅野にいる一年生よりはるかに恵まれていることは事実である。第一に諸君はごらんの通り、たたみに座って勉強が出来る。茅野は実に一介の寒村で、寝るのも板敷、教場もむろん板敷――桑の倉庫なのだから、汚いことは言語に絶し、食物はいうまでもなくお話にならない。だから雨のふる日など、みな家が恋しくてならないらしい。それで私なども真っ先ににぎやかにやっているわけですが、私の信念としては、この苦痛を明るくするものは、ただ勉強、勉強より外にはないと考えている。
危急存亡といおうか、この未曾有の国難に際し、諸君にはそれぞれ煩悶があろう。学問も国家あっての学問である。国家なくして何の学問ぞや。私も、この研究が果たして何になるのか、そう考えると、夜も眠られないことがある。諸君にとってはなおさらであろう。
しかしながら、現在の吾々にとって、学問するにまさる愛国の道は断じてない。戦争は軍人に委せようではないか。吾々は学問しよう。研究しよう。困苦欠乏にめげず、あくまで医学にかじりついてゆこう。飯田が焼かれたら、さらに山に入ろう。私はどこの果てまでも、諸君とともにゆく。あくまでも諸君を、インチキ医者ではない立派な医者に、必ず育てる。
日本をこの惨苦に追いこんだものは何であるか? それは決して物量などではない。それは頭だ。それはこの頭なのだ!
日本医学がなんで世界の最高水準などに在るものか。下らないひとりよがりの自惚れはもうよそうではないか。日本医学は決して西欧医学の水準には達していない。医学ばかりではない。工学でも物理学でも化学でもそうである。その例はあのB29に見るがよい。日本じゅうの都市という都市が全滅してゆくにもかかわらず、なおあの通りB29の跳梁に委せているのは、物が足りないのではない。あれが出来ないからだ。あれを撃ち堕す飛行機が日本にないからだ!
諸君、このくやしい思いを満喫しなければならないのは、吾々の頭が招いたことなのだ。はっきりいっておくが、毛唐は日本人を対等の人間とは認めていない。黄色い猿だと思っている。この軽蔑を粉砕してやるのは、吾々の頭だ。学問だ。研究だ。不撓不屈の勤勉なのだ。
諸君にはもはや私達のような学問の生活を送ることはできないだろう。この戦いのあとは惨澹たるものであろう。医者の資格さえとればそれでよい。開業すれば何とかやって、金さえ儲ければよい――とまではゆかなくても、単なる安楽な、こぢんまりした平和な生活を望んで、ただそれだけで満足してもらいたくはないのだ。――これから頼りになるのは、本当に自分の実力だけである。金とか親の威光などというものは何にもなりませんよ。断言しておきますが、近い将来に日本には恐ろしい変化が起こります。明治維新以上の大転回が参ります。そのときに頼りになるのは自分自身だけですよ。
つい昂奮してしまって、みなを固くして相すみません。しかし、老いた私は諸君学生が力なのだ。頼りとするのは諸君だけなのだ。諸君、どんなことが起ころうと日本を忘れるな。日本を挽回するのは誰がするのか。諸君の外に誰があろうか。だから諸君にお願いするのです。心からお願いするのです」
(昭和20年7月31日)


「緒方校長」=緒方知三郎は病理学者で、この時62歳であった。「近い将来に日本には恐ろしい変化が起こります。明治維新以上の大転回が参ります」――果たして、その通りになる。この演説を聞いた山風ら学生は「みな感動して身動き一つせず」という状態になるが、緒方先生が暗に示唆したものに気付いた者はいただろうか。

日歯のたまわく「尻の赤いものは猿である」

日本歯科医師会(以下、日歯)が会員増を目的に非会員に配っている広報誌があるのだが。

P1030279
▲コレ。平成29年4月発行。

表紙のガキに軽いムカつきを覚えつつ、中を開くと。

P1030280
▲歯科医師会の会員でなくてもよいと答えた国民は10人に1人。

へ?
歯医者さんは現職会長が2回も逮捕されている団体の会員であれなどと、9割も答えたとはハテ面妖な。

この面妖な言説の元ネタは、日本歯科医師会のアンケート調査という。すなわち、2016年2月実施の「歯科医療に関する一般生活者意識調査」である。で、わたくし発表当時にそれを確かに見た。が、そこに歯科医師会会員がどうこうという問いはあったっけ……と確認すると、

51
▲ない。

やはりないので、問題のページをよく読むと。

その中で「歯科医師会の会員であること」が「歯科医師に求めること」に該当するかを調査したところ、全回答者のうち計10.6%が「あまりあてはまらない」「あてはまらない」と回答……つまり、「歯科医師会に入っていることは求めない」と答えた人は、わずかに10人に1人であることがわかりました。


なんだ、ありがちな引っ掛け問題か……。「逆は必ずしも真ならず」的な詭弁の典型例というか。
例えば、

英雄は色を好む。

色を好むものは英雄である。

猿の尻は赤い。

尻の赤いものは猿である。

上記の詭弁がわかる知力があれば、

歯科医師に「歯科医師会の会員であること」を求めるかという質問に、計10.6%が「あまりあてはまらない」「あてはまらない」と回答した

「あまりあてはまらない」「あてはまらない」と回答しなかった計89.4%は、歯科医師に「歯科医師会の会員であること」を求めている

の詭弁もわかるはずだが、わからない人材が今後歯科医師会に入会し、有為の人材はますます日歯を避けていくのであろう今後。歯科医師会の人材不足は承知していたが(歯科大入学に6浪した人材でも県歯理事になれるほど)、こうやって人材不足スパイラルは昂じていくのであろう。これ、歯科医育の低迷・不人気と同じ構造である(偏差値低下→高学力の青年に避けられる→ますます偏差値低下)。実に示唆に富む、有意義な広報誌と言わざるを得ない。

戦時の山田風太郎 飯田に疎開

東京医学専門学校は昭和20年6月に、信州飯田に疎開を行った。山田風太郎は6月25日に飯田入りし、元木賃宿の宿舎「桐好館」に宿泊する。
翌26日には周辺にあいさつをして回り、

8時半ごろより田林教授につれられ、高安病院、飯田病院、市役所、地方事務所、警察、はては農会支部まで挨拶に廻る。
(昭和20年6月26日)

「田林教授」の演説を聴く。

夕、飯田市に今後新たに設けられたる学校の附属食堂なるものへゆく。東京のミルクホールと同じ仕組なれど、東京荒れはて学生はかかる雰囲気に飢えたれば、コリャスゲーヤ、カンジガイイジャーネーカとむやみに嬉しがる。久保食堂という由。無糖なれど紅茶ゼリーもあり。
〇ここにて田林教授より一場の演説あり。
「疎開のことを考え初めたるは去年来のことなれど吾ら先見の明なく、空しく時日を費し、突然あわててこれを真剣に考えたるはこの3月以後のことなり。しかも時すでに遅くついに今回のごとく学校の財も半ば東京に捨て、こちらの授業場、宿舎も諸君にとりては不自由なるありさまになり果てたり。学校としては諸君に対しおわびの言葉もなし。
しかし、学校としては実に全力をこれに傾倒しあり。この前古未曾有の国難に際し、あくまで諸君を軍医として国家に捧げるが唯一の御奉公なりと信じ、学校はそのため全財力を投ずるも悔いざる決心を固めある次第なり。この飯田市もまた灰燼と帰せんか、吾々はさらに山中に籠りて野天にても医学を研鑽し、不撓不屈以て米英とただ戦わんのみ。
諸君。正直にいいて吾らはB29のためにこの境地まで追いこまれたるなり。必ずこの復讐を忘るることなかれ。
(昭和20年6月27日)


「田林教授」は田林綱太、泌尿器科の教授で、後の東京医科大学病院付属准看護婦学校の校長である。
下宿先を探す山風は「裏庭で猿股一つとなりて防空壕を掘」っていた歯科医院院長に、その姉である江治という家を下宿に紹介してもらう。
その歯科医師「松野白麟先生」もまた、東京で罹災した疎開者であった。

この5月まで東京赤坂に開業しいたれど罹災帰郷した人なりとぞ。器械焼かれて目下これを入手すべく努力中なりという。痩せた小柄の人なれども頗る景気よく、また飄逸なる人にして、「君達、何じゃ、娘っ子をまずつかまえ、その家に入らんかい」などいう。
(昭和20年6月28日)


「器械焼かれ」れば、歯科医師手も足も出ず。

松野白麟先生、小躯なれど剣道5段の由。剽悍の気満ち、緒戦当時の日本人の夢失せたるを嘆き、
「往来でも通ってぶつかって見ろ、肩で切れそうな奴は一人もいねえ。みんなヒョロヒョロしてつんのめってしまいそうな奴ばかりじゃねえか」
といい、また、
「勝つ勝ついって、何を根拠に勝つちゅんじゃ」
という。されど憂国の気、眉宇に満つ。
(昭和20年7月2日)


「何を根拠に勝つちゅんじゃ」――こう感じていた日本人は、多かっただろう。空襲後は特にである。だが、いざ敗戦が知らされた8月15日には多くの日本人が呆然自失し、山風もそのひとりであった。理性ではわかっていても感情では現実をなかなか認められないのは、仕方のないことである。

戦時の山田風太郎 図書室に住む

昭和20年5月24日の空襲で下目黒の下宿を焼かれた山田風太郎。知人の知人である町工場に居候するも長居はできない、途方に暮れる山風に思わぬグッドニュースが。通学する東京医学専門学校自体が、信州に疎開するというのである。

朝登校するに、学校は信州飯田に疎開すと告示あり、大いに驚く。2年3年は飯田に、1年生は茅野なりと。20日までに各自の荷50キロ以内(夜具、学用品、洗面道具、食器etc)を持ち来れと。7月10日までに彼地に於て授業を開始する由なり。この焼土の帝都捨てていまさら疎開するは逃ぐるなり、豈耐え得んやと悲憤する者あり、騒然たり。余もまた同感なれど、その心情とはまったく別に、現在住むべきところ東京にあらねばこの疎開のこと、その点だけは天の助けのごとくに思う。
早速松葉らと図書室に入り、向うに運搬すべき書物の選定を命ぜられ、働く。
(昭和20年6月13日)


信州への疎開の日まで、山風は図書室で疎開作業に従事しながら、そのまま住みこんでしまう。

図書室暮し。座り込んで石原純『相対性原理』など読む。
(昭和20年6月15日)

職住一致?

図書室整理。『学校内救急処置』を読む。
(昭和20年6月16日)

図書館暮し。本好きにはたまらないシチュエーションだ。うらやましい。とかいってる場合じゃもちろんないんだが。

午後二時閑院宮殿下国葬に当り遥拝式。然るのち佐々学監より疎開についての話あり。
(昭和20年6月18日)


閑院宮載仁親王は、日本帝国最後の国葬となった。亡くなったのは5月20日、国葬が6月18日とひと月要したのは空襲のせいなんだろうか。

飯田の町。昔は桃源郷にひとしかりしも、今は疎開者罹災者溢れ、決して楽にあらず。食物の配給は東京よりかえって悪いくらいなり。宿舎は以前疎開児童のいたる旅館、青年訓練所、或いは倉庫(!)
授業は座学とならん。常任の教授もあれど、東京より通いの人もむろんあるべし。これは1週に1度2度、毎週通うわけにゆかねば、1カ月なり半月なりぶっ通しに同一課目をやり終えることとならん。病院は飯田病院高安病院(級友高安の家なり)とす。泌尿器と産婦人科の専門病院なければ、これは新しく設立するか他の方法によりて、諸君の学問に支障は与えざるべしetc。
つづいて佐野生徒監より輸送について述べらる。
本校の使用し得るは貨車6輌のみなり。この計算でゆけば、私物は1人50キロ1個以内に定むべし。運搬搬入積下ろしなど、すべて学生にてやる。26、27、28日の3日間に新宿駅の貨車に積み、これより一歩先に先発隊飯田にゆきて待ち受け、これを積下ろす。
〇午後6時まで図書室の仕事。
(昭和20年6月18日)


山風は6月25日10時に新宿を出発し、飯田には夜9時過ぎに着いている。宿舎は「桐好館」という木賃宿。当日夜は、月蝕であった。

戦時の山田風太郎 被災

昭和20年5月24日、山田風太郎は空襲で下目黒3丁目の下宿を焼かれ、高輪螺子へ転がり込んだ。高輪螺子は港区白金台3丁目日吉坂上にあった町工場である。空襲は翌25日まで続き、山の手の高級住宅街や国会議事堂周辺、東京駅、皇居の明治宮殿などが焼失した。渋谷区にあった東京陸軍刑務所も被災し、日本人の囚人は救出されたものの米兵捕虜62人は救出されず、焼死するという悲惨な事件(飛行士焼死事件、極東軍事裁判で看守らが有罪に)もこの時に起こっている。

電車、バス全く不通である。東海道線も不通だという。帰郷しようと思っていた自分は途方にくれた。この高輪螺子は高須さんの知人だから、高須さんはまだいいとして、その下宿人たる自分がいつまでもここにくっついていることは出来ないのである。
(昭和20年5月25日)


「高須さん」は沖電気時代の上司で、山風はその下宿人である。高須氏妻の実家が鶴岡にあり、よるべなき山風は高須氏妻の弟である「勇太郎さん」と一緒に鶴岡に行くことになった。両者は5月27日に鶴岡着。そこで将来の妻となる、高須氏妻の連れ子「啓子ちゃん」と出遭い、6月2日に帰京する。この間、5月29日には横浜大空襲で京浜地帯が焼かれている。

横浜空襲の日は、品川の沖電気を狙ったのか、はずれたのか、すぐ傍らの芝浦屠殺場がやられ、投弾の響と爆風のため、沖電気の鉄筋の建物も波のようにゆれ、高須さんはいよいよこれが最後かと思ったという。
(昭和20年6月2日)


東京は、一面の焼け野原となっていた。

ひる、高田馬場へいっていた勇太郎さんが、眼をぱちくりさせて帰って来た。山形県へいっている間にアパートが焼けてしまって、いつのまにか御自分も無一物になってしまっていたのだそうだ。みなげらげら笑い出す。
〇午後、新しい家を探して、2人で世田谷三軒茶屋へ自転車を飛ばす。路々ほとんど焼け野原だ。もう東京には、めぼしい、町らしい一劃は存在しないだろう。いつか、東京全部が焼けつくすには2年かかるとか何とかいっていたが、とんでもない話である。ここらあたりも陸軍のトラックだけがしきりに動いている。
勇太郎さんが心当りの三軒茶屋の家は、家主が焼け出されてそこに転がりこんでいたので駄目であった。
〇さあ、弱った。住む家もない。生活の道具も一つもない。いつまでも高輪螺子に厄介になっているわけにはいかないが、下宿すべき家はどこにもない。第一、蒲団はどうするのだ。書物、ノート、鉛筆、それに洋服、傘、下駄はもとより、着替えのパンツ、サルマタに至るまで何にもない。時計、ラジオ、洗濯盥、バケツはおろか、庖丁一つ、俎一つ、ないのである。
(昭和20年6月3日)


悩んでいるヒマはなかった。「とにかく故郷に帰ってシャツ1枚でももらってこなければならない」と、山風は東海道線に飛び乗る。「今夜にでもドカドカと来て東海道線が不通になったら万事休す」だからである。

午後10時55分の列車、すでに満員で来る。
〇横浜はまだ燃えていた!
29日の朝やられたというのに、30日、31日、1日、2日、3日のきょうの深夜まで、いったい何が燃えているのだろう。
(昭和20年6月3日)


6月5日夕刻、関宮着。

10時半のバスで八鹿にゆく。罹災者用衣料切符にてシャツ1枚、足袋2足、糸10匁を買う。
八鹿駅にゆくに行列混雑猛烈なり。午後のいま切符買いの行列に並びある人々、朝暗きうちよりここにありという。
駅長に会して医学生として上京せざるべからざるゆえんをいう。空爆のため目下掛川以東不通なり、開通次第申告しおくゆえ、2、3日中に電話にて打合わせ来れと駅長いう。この前のことより余を手強しと思いおるごとし。
(昭和20年6月11日)


当時ほぼ唯一の学生が「医学生」である。よって、駅長も無碍にはできない。

夜雨。一時過ぎまで叔父叔母と語る。ふたたび逢う日を期せざれば、珍しく優し。
(昭和20年6月11日)


山風は6月13日早朝に帰京した。結局、高輪螺子に戻るしかなく、しかも高須氏は山形県に行っている。途方に呉れた山風だが、翌14日、登校すると思わぬグッドニュースが。信州は飯田に、学校が疎開することになったのであった。生々流転。しかし、結構運が良いのかも? 

戦時の山田風太郎 新学期

東京医学専門学校(東京医専)の2学年に進級した山田風太郎。しかし、勉強よりも勤労動員に忙殺されている。

午前建物破壊作業。軍隊と共同にて、家数軒を曳き倒す。
(昭和20年4月1日)


勤労学徒のミッションは疎開後の空き家を破壊することであるが、軍隊も出動していた。学生も兵隊も、いいようにコキ使われていたようである。
動員された山風らの勤労期間は、昭和20年4月1日から20日まで。休めるのは雨天のみで、日曜日の休みもなかった。もっとも、連日連夜の空襲のため授業があっても勉強できたかは疑わしい。空襲があれば、ほぼ徹夜の消火活動を余儀なくされたからである。

日曜なれど作業続行。正午より一時にかけB29二機来。
夜学校に宿直に行く。道場取壊しによりて生じたる木片を炉にくすべつつ、12時過ぎまで事務所の中畑氏を囲みて話す。(略)
拓大、勤労動員の成績悪しく、軍より学校閉鎖を命ぜられ、全学生入営を命ぜられたりと。文部省には現在毫の権能なく、ただ軍の意向に戦々兢々たり。
母校も勤労動員の成績悪しくば閉鎖を命ぜらるることなきにしもあらず、最近憲兵しきりに学校界隈を徘徊監視中なり。
(昭和20年4月8日)


拓殖大学の前身は台湾協会学校で、台湾開拓のための人材育成がその設置目的だった。勤労動員の成績が悪くて学校閉鎖というのはどうもデマっぽいが、文部省も学校も「軍の意向に戦々兢々」であったというのは真実であろう。
4月13日深夜から14日未明にかけての空襲では、東京医専の校舎も焼けている。

ゆきみるに学校を中心とし、四辺満目荒涼たり。学校は本館と航空医学研究所のみ残り、生理学教室、図書室、事務所、講堂、塀等はことごとく烏有に帰す。先日打壊したる道場の材木の山、きれいに焼けて影もなし。
校庭には空より落下、地につき刺さりたる焼夷弾の孔いたるところに開き、一ヵ所にその焼夷弾の殻4、50個並べあり。校内に落下せる焼夷弾は百五、六十個にも及び、一角には爆弾も落ちし由。
(略)
わが通いたる近傍の朝日食堂も信濃屋食堂もむろんなし。ほんのこのあいだまで下宿しいたりし酒店小池屋もあとかたもなし。
(昭和20年4月14日)


この頃、沖縄では菊水作戦(特攻)の真っ最中であった。

32
▲「393隻、屠る 沖縄周辺・戦果累計」昭和20年4月19日付朝日新聞。

その戦果は大本営発表の10分の1程度であった――ということがわかるのは、もちろん戦後である。

疎開作業地、新宿武蔵野館近傍に移る。エビスヤビヤホール屋上に本拠をかまえ、その界隈を破壊す。
(昭和20年4月18日)


4月20日にやっと勤労動員は終わるが、

午前にて作業終る。エビスビヤホールにて一同帽子ふりふり校歌合唱。学校に帰り学校地下食堂にて丼一杯ずつのビール配給、乾杯す。ばかげている。
(昭和20年4月20日)


金曜日だったため、授業再会は23日であった。

授業再開。きょうは午前は法医学。午後は淀橋病院臨床講堂にて外科、内科、耳鼻咽喉科。今後午後は毎日病院の方で講義。
学校の授業、今後2ヶ月間に臨床医学をともかく一応修了すべしとのことなり。すなわちいかなる変事出来するとも、少くとも看護婦以上のことはなし得べく速成栽培し、もし2ヶ月後なお余裕あらば、改めて正規課程を踏みゆくこととなる由なり。そんなにうまくゆくものなりや。
(昭和20年4月23日)


「そんなにうまくゆくものなりや」――もっともな疑問だが、まあ、歯科医師を1年で医師にしようとした時代である。文部省や医学の権威たる東大医学部も「軍の意向に戦々兢々」であったし、いわんや厚生省は軍の意向――国民皆兵を目的とした日本人の体力向上のためにつくられた省である。
山風が勤労動員されていたこの昭和20年4月に、歯科医師を医師に転用する特設学部が医専につくられた。すなわち慶應大附属医専特設科、慈恵医大附属医専臨時科である。この両科は医学科の3&4年次を1年間で修了し医師免許を得るというもので、入学定員は各160人であった。これにチャレンジした歯科医師は戦後の昭和21年3月に卒業し、すぐに医師免許が与えられるはずであったがGHQに却下され、結局は6ヶ月のインターンと国家試験が課された。この国家試験こそ戦後初の第1回医師国家試験で、受験者は歯科医師のみである。合格者は計137人(受験者数268人、合格率は51.1%)。たった1年の勉強期間で半分以上が合格したのは、大健闘というべきだろう。歯科医師国家試験合格率が50%を切っている私立歯科大がゴロゴロある昨今は、とくにである。
しかし、かように医師増員をはかりつつ、

ひる休み第一教室にて新入生の校歌練習。新入生といっても大半はいまだ中学時代の工場動員を続けおり、その義務より脱する能わず。この7月に入学し来る予定なり。きょうより登校せるは浪人生30人余りのみ。
(昭和20年4月24日)

医学生も勤労動員させるというのは、矛盾していないのだろうか。

戦時の山田風太郎 進級試験と空襲

昭和20年3月、山田風太郎ら医学生は進級試験を受けた。連日連夜の空襲の最中である。

この試験前、試験中空襲ありたらば如何と学校に談判せるところ、学校にても種々考えた末、その場合は諸君を信頼して無試験合格とすとの確約を得たり。延期すれば他の科目の試験の予定狂い、またその日にも空襲あるやも知れず、さらに日中空襲あることは珍しければ、学校もかく非常の決定をせしものならん。
(昭和20年3月4日)


日中に空襲がなければいい、というものでもないと思うが……。

〇午前10時警報発令。
〇ちょうど化学、医化学の試験初まりたるところにてみな騒然となる。柳の下に2匹目のどじょうを得たる心地なり。しかるに敵3機、静岡より東進、ただし帝都に入ることなく去り、試験続行さる。
小山教授「一機くらいなら、入って来ても試験はあります」
学生「爆弾で死んだらどうします」
教授「私も死にます。諸君といっしょに死にましょう」
学生、小声「ジョ、冗談じゃない。お爺さんと心中させられてはたまらん」
教授「試験中に死ねば、これは学生の戦死です。諸君も本懐というべきでしょう」
学生、小声「戦死したあとで答案を見たら、デタラメばかりじゃ、あんまり勇ましくないなあ」
(昭和20年3月8日)


この日、山風は「いよいよ東京は徹底的大空爆のもとにさらされん」と記している。果たして10日午前0時から約2時間、東京は激しい空爆に遭う。

午前零時より3時ごろにかけ、B29約150機、夜間爆撃。東方の空血の如く燃え、凄惨言語に絶す。
爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり。
(昭和20年3月10日)

爆撃されているのは下町――深川、本所、浅草、日本橋などの東京湾側に近い地域なのに「目黒にて新聞の読めるほど」。凄まじい。来襲したB29は300機以上、そして死者数は約10万人。

朝来る。目黒駅にゆくに、一般の乗客はのせず、パス所持者のみ乗せる。浜松町より上のにかけ不通、田端と田町にて夫々折返し運転。
8時半に目黒を出で、10時に新宿に着く。
まさかきょうの「胎生学」「組織学」「生物学」の試験はあるまじと思いしに、教室に入れば行われつつあり。ただし生徒は3分の2に満たず。
(昭和20年3月10日)


試験後、山風は被災した下町を歩いた。

牛込山伏町あたりにまでやって来ると、もう何ともいいようのない鬼気が感じられはじめた。ときどき罹災民の群に逢う。リヤカーに泥まみれの蒲団や、赤く焼けただれた鍋などをごたごたと積んで、額に繃帯した老人や、幽霊のように髪の乱れた女などが、あえぎあえぎ通り過ぎてゆく。――しかし、たとえそれらの姿をしばらく視界からのぞいても、やっぱりこの何ともいえない鬼気は町に漂っているのである。
店々のガラスは壊れ、看板は傾き、壁は剥げ落ちている。その壊れたガラスや傾いた看板や剥げ落ちた壁に、灰色の塵が厚くこびりついているところから見ると、この惨憺たる町の風景は、決してこの一夜で変貌したものではなく、過去の3年間の――日本が苦戦に苦戦を重ねて来た陰惨な過去の3年間の結果に違いない。
(昭和20年3月10日)


東京医専のある新宿から本郷へ歩き、神保町から水道橋までは電車に乗って、

電車の中では3人の中年の男が、火傷にただれた頬をひきゆがめて、昨夜の体験を叫ぶように話していた。ときどき脅えたように周囲を見回して、「しかし、みなさん、こういうことは参考としてきいておかれたがよろしかろう。だから私はいうんですが……」と合いの手のように断りながら、またしゃべりつづけた。彼らは警官や憲兵を怖れているのである。哀れな国民よ!
(昭和20年3月10日)

水道橋からは大塚へ、そして新宿まで徒歩で帰っている。水道橋駅では、切符販売を罹災者のみに限っていたからである。
試験は12日に終了。山風の周辺では、疎開が始まっている。

近所合壁、ことごとき奥さんを疎開せしめて、どこも主人自炊をなす。
(昭和20年3月12日)

東京医専も移転を開始し、

〇学校の図書室本館に移転作業、大いに疲る。本館周辺にある柔道場、相撲道場、航空医学研究所等も近い中取壊す由なり。
〇3月10日以来、登校せざる学友数名あり。焼死せしが如し。
(昭和20年3月14日)


3月13日には第3学年の仮卒業式が行われた。仮卒業者は軍医学校に行き、さらに第一線に送られる。すべての道は、戦場に続いていた。

進級試験結果発表。進級す。
(昭和20年3月31日)

戦時の山田風太郎 歯科受診

学徒の勤労動員は、世間でも評判が悪かった。

学徒の勤労動員問題に関し、新聞の論調、文部当局を責めて激烈なり。
わが校、今年はなるべく浪人を入学させる由。最近の中学生は勤労動員のため全然知識なく、入学後の授業に堪うべからざるゆえなりと。
(昭和20年1月6日)


学徒勤労動員は昭和19年8月から。
ただ、山田風太郎の書いたが如く「新聞の論調」が「激烈」であったかといえば、微妙だ。朝日新聞にしたって、シフト制などを用いて効率を高めよ、とかその程度である。ヤメロとまでは書いていない。

転換期に立つ決戦下の文政
▲昭和20年1月6日付朝日新聞。

で、学徒の勤労動員は廃止されるどころか、

昭和20年1月21日付朝日新聞
▲昭和20年1月21日付朝日新聞。

規制緩和でむしろガンガン動員されていく。むろん、こうなれば学校の存在意義などない。臨時閣議で決戦教育措置要綱が決定されたのは昭和20年2月、その4月から理工系をのぞくすべての学校の授業が停止された。国民学校高等科から、大学まで。

昭和20年3月19日付朝日新聞
▲昭和20年3月19日付朝日新聞。

これらの措置は、まさに教育勅語の精神にのっとって行われた。すなわち「一旦緩󠄁急󠄁あれば義勇󠄁公󠄁に奉じ、以て天壤無窮󠄁の皇運󠄁を扶翼󠄂すべし。かくの如きは独り朕󠄁が忠良の臣民たるのみならず、又以てなんじ祖先の遺󠄁風を顕彰するに足らん」(教育勅語)。

さて、昭和19年11月1日に歯の不調を訴えた山風だが、歯科を受診したのは昭和20年1月11日。2ヶ月も放置している。

歯痛み堪ゆべからず。目黒に帰りてより、不動近くの歯医者にゆく。
寒くて寒くて、炭もないんですからなあ、などいいつつもみ手して出て来たる医者は、中年の、魚屋のおやじのような男なりき。第一臼歯に神経出であり、1週間くらいかかるという。
破れたる足袋にジャンパーの風体、医者ともなれば少くとも白衣にひげをひねりあげて傲然と鼻をつきあげておることを得んと、はかなき楽しみを持ちいたるわけにはあらざれども、同業者の卵としていささか前途を悲観す。
(昭和20年1月11日)


「破れたる足袋にジャンパーの風体」の歯科医師。白衣が入手できなかったのかもしれない。なんたって「炭もないんですからなあ」。

午後歯医者にゆく。がりがりと歯をけずる音、頭蓋骨を震動させて最初は気味悪けれど、しばらくするとほとんど脳髄を麻痺陶酔せしめ、むしろ心地よし。
(昭和20年1月13日)


その「歯医者」は腕がよいとみた。

歯医者にゆき、神経をとってもらう。
(昭和20年1月15日)


抜髄である。そこまで齲蝕を放置する山風。

帰宅後、歯医者にゆく。歯をけずりて型をとる。
(昭和20年1月18日)


この目黒不動尊近くの歯科医院は、

熱をおぼえざるも咳止まず。胸背に一種異様の感覚あり。去春のことあれば大事をとりて休む。夕刻長岡歯科にゆけども医者不在。
(昭和20年1月23日)


「長岡歯科」。

午前中、近傍の谷山なる医者にゆく。診察、注射、散薬2日分、診断書にて9円。流感なりという。ついでに歯医者にゆけども留守なり。
(昭和20年1月26日)


歯科材料が不足していた頃だから、開業日を減らしていたのかもしれない。

午前出廬。歯医者にゆく。サンプラを嵌む。25円也。金足らず走り帰りて奥さんに借る。払い終りて五反田を回り新宿へ、淀橋病院へゆく。
(昭和20年1月30日)


「淀橋病院」とは、今の東京医科大学病院。サンプラ代25円は、理髪料金の約7倍(昭和20年、3円50銭)、映画料金の25倍(同、1円)。やはり治療費が恐くて受診できなかったのだろう。詰め物で済む段階であれば安く済む、という知識もなかったかもしれない。

森戸教授かかり、ちょうど3年これが試験とみえて、傍に侍して戦々恐々たり。下級生たる余に対しても、「おのどを」、「お舌を」などと鞠躬如たり。痛快の至りなり。検温36.8度、血沈のプレートを採る。やはり風邪のごとし。費2円50銭、中1円は瓶代。つまり診察代と薬代は1円50銭にして、余のごとく全然医者の勉強せぬ者に対してすらひとしくこの恩恵を垂れたまう母校、げに感激の至りなり。
(昭和20年1月30日)


「診察代と薬代は1円50銭」とは格安だ。街中の開業医でも9円とっている(1月26日)。米1升15円、卵1個2円の時代である。学生医療割引制度でもあったのだろうか。

戦時の山田風太郎 連日連夜の空襲

化学の小山教授、近来糖分なきとも人間の栄養にさしつかえなしなどという学者現れ、その心にくむべし。糖分は人体に必要なり。必要なれども、無きものは無きなり。国民よ我慢せよとなにゆえにいわざる。糖分足らざる異常なしなど、良心ある学者のいうべきことにあらず。これを称して曲学阿世の徒というと喝破す。
(昭和19年9月5日)


この時代は、御用学者となるのも仕方なかった面はあろう。文部省自体が右翼化し、右翼的言辞を弄さねば学者といえど食えない時代だったのだから。情けないのは今、この民主主義の時代の御用学者である。

12時半突如警戒警報発令さる。全校生徒校庭に集合、先般定められたる新編成により防空訓練を行う。
警報2時過ぎ解除となれども、訓練はなお5時まで続行さる。警備班、ポンプ班、防火班、給水班、救護班、消毒班etc。
奥野中尉四方八方睥睨して痛罵鞭撻す。学生の反感を買うことおびただし。
(昭和19年9月19日)


授業は訓練等でつぶれ、医療機器も不足していた。

午後、胃、大腸などのプレパラートを幻灯にて見る。佐野教授より話あり。来週より屍体解剖実習行うにつき、使用するメス、鋸等、いま販売しあらざるを以て学校より貸与するも、その修繕費用徴収することとならんと。また今般東京医科大学昇格の1道程として小田急線沿線の松原病院を本校に収めたるを以て、その開院前後の種々工事に勤労の提供を頼むと。
(昭和19年9月20日)

昭和53年、横浜歯科技術専門学校が新校舎の改築に生徒を動員して非難された事件があったが、まあ、戦前と同じような意識であったのだろう。

新設の諸医専、師なく書なく資材なく、実に惨憺たるものなる由。松本医専病理教室は顕微鏡3台よりなしとのこと、実に恐るべき医学校なり。ほとんど教練ばかりやっているという。某医専生徒より、わが校へ編入を嘆願し来れるもの血書を以て書きありしとのこと。
(昭和19年10月12日)

「松本医専」は官制の医学専門学校で、昭和19年4月1日開校。戦時にボコボコできた「新設の諸医専」のひとつ。

85a5bd82
▲戦時下、医専の開設状況(坂井建雄編「日本医学教育史」)

戦後は旧制医科大学となり、昭和24年5月に信州大学医学部医学科となった。

午後、防空訓練。救護訓練として止血法を習う。
〇マッチなきため、このごろ煙草はレンズを以て点火す。
〇学校の校舎、クリーム色の壁を真っ黒に塗りはじむ。
(昭和19年10月14日)


午前9時より京浜地区軍官民防空訓練あり。授業なし。これに従事す。
(昭和19年10月24日)


さらに防火訓練、空襲も。

午後第一時限、吉岡教授組織学を講ぜられんとするや、警戒警報発令さる。教場騒然たり。空襲だ空襲だとさけぶ者あり。
(略)
吾は歯痛みて頗る憂鬱甚だ意気上らず。機影見えざるに、満天に爆音のみ満つるに次第にイラだち来る。突如、屋上の監視所より、敵機、敵機っと絶叫聞ゆ。急遽退避の半鐘凄じく鳴る。敵機見たかりしも、とにかく解剖実習室に飛び込む。
(昭和19年11月1日)


敵機の来襲は日増しに増えていった。昭和19年11月には6日間(5、7、24、26、27、30)、

午後3時警戒警報解除。実に実に日本の航空隊は何をしておるや。
(昭和19年11月7日)


12月は21日間(3、6、7、8、9、11、12、13、14、15、18、20、21、22、23、24、25、27、28、29、30)、ほぼ連日連夜である。あまりの来襲に、警報を控えるまでなる。

最初の中はたとえ不明なるも必ず警報を発せしが、このごろ例え敵機なること明白なるも、少数機にては空襲警報を鳴らすことなく、警戒警報のみにてすます。出来得るかぎり人心をイラ立たしめざるようにと方針によるものなるべし。
(昭和19年12月23日)

なお、警報が出た際に、学生は学校に駆けつけなければならなかった。「学校防衛」のためである。

一時間目、佐野教授より注意あり。警報発令のときは各員登校参集すべきに、昨夜のごとき10人余来りたるのみ。学校消失すれば現在の医学生生活もそれまでなりと知るべし。かく考えれば学校こそは命より2番目ともいうべき大切なるものならずや。万難を排して登校、学校防衛の任に当らんことを望むと。
(昭和19年12月13日)


警報が出れば授業はつぶれる。御殿場での野外演習もあった(11月21日〜24日の4日間)。軍医不足といいつつ、医育はかなりないがしろにされている。
ちなみにこの頃、山風は歯痛に悩まされていた。

正木宅にて食いし煎豆、歯を傷つけしと見え、2、3日前よりいと痛みてほとんど眠る能わず。歯ぐき腫れた感あり。耳も痛し、頭も痛し。四辺の事象音響ことごとく脳髄にひびき、その印象ことごとくナマコのごとくねばりつく。何もかもあまりに鋭敏鮮明にしてたえがたきものあり。
(昭和19年11月1日)


ここまで悩みながら、しかし歯科受診はしない。山風が重い腰を上げたのは、年が明けた昭和20年1月11日であった。2ヶ月もほっといたワケである。

戦時の山田風太郎 診療所に麦の供出命令

ちかく理工科系も学徒出陣の噂が流れる。医科だけは残されるらしいとの話だが、よろこぶべきか、悲しむべきか。吉田が去年出陣のとき、ああ救われる、と叫んだ気持が少し分って来たような気もする。
(昭和19年7月17日)


「吉田」は外語大学の学生。昭和18年11月21日、山風はその出陣を見送っている。
勤労動員で7月1日から中止されていた授業は、22日に再開した。21日、山風は「配給の白衣」を5円10銭で購入している。1学期は7月29日に終了、授業のあった期間はトータルで3ヶ月間ほどであった。
勤労動員で授業が潰れたことの埋め合わせに、夏休みが短縮された。

夏休みの短縮発表。1年は8月1日より20日まで。2年は8月11日より31日まで。3年は8月1日より10日まで。及び21日より31日まで。4年は休暇なし。ただし登校すべき10日間の授業は午前中限りとのこと。
(昭和19年7月24日)

相変わらず医学書も手に入らない。

雨のざんざとふる中を、本郷へ本買いにゆく。解剖の本と、力学熱学の本を買いにいったのだが、本郷の金原書店、南江堂、南山堂と探し廻り、神田の本屋街をしらみつぶしに1軒のこらず歩いたが、ついに1冊もない。医書といえば、戦陣医学だの南方医学だの空襲手当法みたいなものばかり、物理関係書といえば、飛行機工学だの旋盤何とかだの――こんなものばかりで、基礎的な書物が1冊もないのは何ということだろう。くたびれはてて、もう何でもいいという心境になり『医学序説』と『雨月物語』を買って帰る。
(昭和19年7月30日)


6月26日には、北九州が本土初の空襲を受けた。

北九州の空爆で死んだ者は500人くらいだそうである。大部分は埋没で、負傷者中の死人は頭部の負傷が一番多いという。女学生の態度が一番好ましくなかったという。医者の中では歯医者がよくなかったという。
どうも可笑しいと思って考えてみたが、これは空襲の動顚でメッタヤタラに負傷者を歯医者のところへ担ぎこんで、歯医者が当惑したところからこんな批評が出て来たのではあるまいか。衆口とは、そうしたものである。
(昭和19年7月30日)


「メッタヤタラに負傷者を歯医者のところへ担ぎこん」だのは、「空襲の動顚」からではなく、医師不足だったからだろう。国民体力法(昭和15年)でも医師と歯科医師は対等の扱いだし、この頃は医師も歯科医師も一緒に救護活動を行っていたのだから、歯科診療所に負傷者が担ぎ込まれてもおかしくはない。歯科医師の評判が悪かったのは、事実らしいが。
短い夏休みを利用して、山風は8月3日に関宮に帰省した。実家は診療所である。

関宮の家は、前庭ことごとく畑とし、キビが青々と風にひかり、診察所の溝には稲が植えられ、庭園にはヒマが作ってある。鶏も4羽、雛が2羽いる。食糧はこちらも大変らしい。「移動申告持って帰ってくれたか」と叔母がいう。持って帰らないというと、憂鬱そうな表情になった。持って帰りたいのはヤマヤマだが、8月分の外食券をすでに20日分くらい食いつくしているのだから、万やむを得ない。
(昭和19年8月3日)

診療所の庭に畑をつくっているのは自前の食糧を得るためかと思いきや、なんと供出命令が出ていた。

百姓男が来て、庭で乾草を切っている。供出命令が来て、乾草10貫目を馬糧として出さねばならぬそうだ。このクサは叔母や女中たちが出動して刈って来たのだそうで、乾草くらいならいいが、医者の家に麦まで供出しろといってくるのはどうかと思う。ヤミで買って供出するよりほかはないとのこと。
(昭和19年8月4日)


診療所に、麦の供出命令である。医師不足というのに、妙なところで平等主義だ。いや、天皇制共産主義というべきか。

戦時の山田風太郎 勤労動員

昭和19年7月、山田風太郎ら東京医学専門学校の第1年生は勤労動員に狩り出された。期間は20日間である。

放課後、奥野中尉より、明日よりはじまる勤労動員に関する注意あり。
今回の命令は非常措置要綱に基づくもので、たんなる勤労奉仕ではない。現在のところ第1学年のみに発動す。仕事の内容は疎開事業を促進せしむるものにして主として運搬に携わる。警戒警報発令さるとも続行す。期間は約10日間の予定なり。明朝8時半常磐線南千住駅に集合すべし。
(昭和19年6月30日)


そして「奥野中尉」は「新らしく作られた軍医勤労報国隊の歌」なるものを学生に練習させる。こういう歌を、いつ、誰がつくらせるのだろうか。
山風ら医学生が動員された目的は、強制疎開で空き家となった省線沿線の家々を壊すことであった。空襲による火災を防ぐためだろう。医学生の勤労動員は病院など医療施設に限られたと神谷昭典が書いていたが、例外もあったようである。

この疎開作業に学生を使うのはまことに適材適所というべきで、医者になるより壊し屋になった方がマシな連中である。
(昭和19年7月1日)


破壊するための道具はナシ。よって山風らは素手で家を叩き、壊し、押し倒した。そこに「この辺一体の裏長屋の女房隊の奇襲」がかかり、軍需品とすべく積んでおいたトタン板や窓ガラスが奪われる。燃料にするのであろう、「木ぎれなどひっ抱えて逃げる」女たち、それをなだめたり「きさま、それでも日本人かっ」と「ゲンコをふりまわして追い払」ったりする学生……。開高健「日本三文オペラ」の医学生バージョンである。

午後、たたみなどを指定された臨時倉庫に運び入れ、ムスビを一つずつ貰って3時ごろ解散。まるで蟹だ。
(昭和19年7月1日)


「まるで蟹」(爆笑)。
その2日後、第4学年の「仮卒業式」が行われた。

卒業生は3カ月後にことごとく軍医となり、戦争にゆく。下級生が捧げる送別の辞には、「諸兄よ、われわれがふたたび諸兄に見〔まみ〕ゆるのは、必ず砲丸の中でありましょう」という一説があった。
(昭和19年7月1日)


仮卒業生はこの後軍医学校に通い、その在学中に医専の卒業証書を受け取って、第一線に送られた。内地は医師不足になっている。

「陸海軍が全然背中合わせなんですって! ケンカばかりしているんですって!」
と、下宿のおばさんが腹の底から怒りにたえぬかのごとく叫ぶ。
それが蜚語であることを信じたい。しかし自分は、敵に対してのみならず悲憤の念を禁じ得ない。
サイパン戦ついに終焉を告ぐ。空襲はやがて来るだろう。
(昭和19年7月18日)


歯科医師を医師に転用する特設or臨時科が慶應大附属医専、慈恵医大附属医専に置かれたのは昭和20年4月、歯科医師への医学講習が始まったのは20年6月からである。当時の歯科医師はプライマリ・ケアや救急医療、特に空襲による傷病の治療を担っており、さらに来たるべき本土決戦への備えとして臨床知識――医科方面の――の強化が図られたのである。戦争末期には、歯科医師が口腔領域のみを診るということが、もはやゼイタクの部類となっていた。

戦時の山田風太郎 軍事教練

東京医学専門学校では、昭和19年度から人文学講義を開講していた。外部から講師を呼んでしゃべらせるもので、山田風太郎は折口信夫下村海南青野寿郎小汀利得辰野隆、朝日新聞記者の川手泰二、清野謙次らの講義を受けた。なかなかの布陣である。
注目すべきは、清野謙次だろう。清野謙次は病理学者だが、歴史的には清野事件、そして731部隊の関係者としてのほうが有名かもしれない。大正12年に京大医学部病理学教授となったが(併任、昭和3年から専任)、古寺から教典や古文書を盗んでいたことが発覚し、昭和14年8月に京都大学を免職されている。

清野謙次
▲昭和13年9月11日付朝日新聞。

大学免職後は太平洋協会の嘱託となり(昭和16年)、大東亜共栄圏建設に人類学者として参加。731部隊の病理解剖の最高顧問を務め、弟子を731部隊に数多く送り込み、そのひとりが石井四郎である――と、いろいろウサンくさい人だが、GHQにも引っぱられなかった。なんでこの人を引っぱらずに笹川良一なんぞに戦犯容疑をかけたのか、GHQよ。戦犯容疑もかけられず、公職追放にもならなかった清野謙次は昭和30年12月、心臓病で死んだ。享年70。ちなみに石井四郎は昭和34年10月、67歳で死んでいる。死因は、喉頭ガンだった。
閑話休題。
山風ら学生には、講義のほか軍事教練が課された。以下は昭和19年6月2日〜4日に行われた教練のもよう。

六時半登校。
朝の太陽の爽やかにさす校庭に全校生徒整列。執銃帯剣で戸山ヶ原へ行進。明後日行なわれる教練査閲の予行演習のためである。
(昭和19年6月2日)


「戸山ヶ原」は新宿区で、現在は早稲田大学文学部や学習院女子大学などがある、学生の多い場所である。戦時は陸軍射撃場や陸軍戸山学校など軍事関係施設が多々あった。「教練査閲」は軍の査閲官が、各学校の教練の成果を視察・評価すること。

7時半ごろ戸山ヶ原につく。
むろん草原などいうものではなく、土を盛り上げたような丘、砂地や石ころの多い一角、それにすぐ傍を省線がはしってるし製材所はあるし、何だか建築前の地面のようだが、しかし整列したり歩いたりしているうちに、やっぱりその広さが久しぶりに爽快な感じで身体を包んで来た。
予行開始。1年は伏射と膝射。2年は銃剣術。3年は戦闘教練。4年は実弾射撃。
昼前やっと自分たちの舞台をすませて休憩となる。
(昭和19年6月2日)


指揮官は誰がやっているのかと思えば、なんと教授たちである。

昼ごろより集合、閲兵分列。大隊長は解剖の佐野教授。大きなのどぼとけからすばらしい号令を発し、普段の俳味ある人格とは別人のごとし。1年の指揮官は法医の山本助手。(略)かん高い声ははりあげるけれども、運動神経は鈍いとみえて、何度叱られても指揮刀の順序をまちがえ、また奥野教官に叱られている。
(昭和19年6月2日)


ああ国民皆兵。“知識分子”が迫害された、文化大革命期の中国とそこはかとなく似ているのも悲しい。そんな悲しい教授らいわく。

解剖の佐野教授曰く「教練や勤労奉仕で学生の学力が低下すると気をもんだのは昔の話だ、今はもう学力低下は当たり前のことで、その中に工場の機械の中で諸君に脈管系統でも教えることになりましょう」
内臓学の井上教授曰く「このごろはもう唾液腺〔スパイツエルドリューゼン〕もすっかり厄介ものになってしまいました」
化学の小山教授曰く「ムチャでも何でもこれが文部省の命令なんだから、文部省はすっかり右翼になっちゃってるんだから……」
(略)
医科学の三坂教授曰く「何しろ1年から臨床をやらせろってんですから、文部省の考えることは私など見当もつかんです」
数学の福田教授曰く「実数は公定です。マル公です。しかしこればかりではとうていやってゆけない。どうしても闇が必要です。それはすなわち虚数ってやつで……」
人文の青野講師曰く「いまの薄っぺらな書物が、一日ごと、一月ごとにみるみる肥って、厚いドッシリした書物に帰ってゆく日が一日も早くくるといいですねえ」
生理の久保教授曰く「今年から体力検定の方法が変ることになったんですが、文部大臣はメートル法ではなく尺貫法を使えといって承知しないのだ」
(昭和19年6月3日)

これらの教授は戦争終結に欣喜雀躍し、軍国青年・山風に皮肉られることになるのだが、しかし当然の喜びであろう。戦争中はアカデミズムもクソもなく、教育は地に堕ちていたのであるから。
査閲は最終日に行われた。

7時前学校出発。7時半戸山ヶ原着。8時より査閲開始。
黄塵万丈。薄曇りの戸山ヶ原のはしからはしへ、吹きなぐり湧きあがり立ちのぼる凄まじい砂塵。
黄色い煙に向うの町の樹々も、査閲中の学生も朦朧と浮かびつ消えつする。眼もあけられない。口もきけない。口の中がガリガリいう。耳の中がザラザラする。
自分たちは9時ごろ査閲される。3年4年の射撃の戦闘教練意外に長びく。おまけに終りごろになってポツリポツリと雨粒がおちて来た。
(略)
午後1時半ごろ終了。砂塵で眼もあけられず、するとふしぎに耳も遠くなった感じで、査閲官たる大佐の講評もよく聞えず。が、こんなときの講評はきまっている。「おおむね良好。しかし、云々」
(昭和19年6月4日)


モノ不足が嵩じて、医学書も入手できない。

帝大病院の前へ出て、南江堂書店、金沢書店をのぞく。福田教授の「人体生理学の概略」竹内教授の「近世細菌学及免疫学」を探したが1冊もない。
(昭和19年6月5日)


ドレスコードも戦時色になる。

24日より学生は教練服ゲートル姿にて通学すべしとの告示あり。
(昭和19年6月22日)

さらに、勤労動員が始まる。山風ら1年生は雨の日以外、土日も関係なく動員された。期間は昭和19年7月1日〜20日、ミッションは強制疎開後の空き家を壊すことであった。素手で。

戦時の山田風太郎 東京医専入学

昭和19年4月8日、山田風太郎は東京医学専門学校の入学式に臨んでいた。入学金等々は未納入のままである。必要な金は入学金10円、授業料125円、実習費30円、報国団入会費10円、報国団費6円の計181円であった。

金ついに来らず。入学金も納めず、暗澹たる心で入学式へ。
10時から入学式講堂にてあり。式後大詔奉戴式、そのあとで陸海軍の委託生がこもごも起って委託生になれと勧誘、運動部の勧誘などその声もない。
制服は国民服でも中学時代の制服でもいい、徽章も金属製のものなく刺繍製のものだがそれも今月末にならないと出来ないという。書物としては当分ドイツ語の教科書だけでいい、要するにいまや医学校は軍医学校のつもりでいよと訓示される。とにかく入学金も納めていないので意気上らず。
(昭和19年4月8日)


「委託生」とは、現役学生のまま軍籍に入れ、軍務につける制度。陸軍の場合、従来は陸軍衛生部または獣医部の現役士官を志願する者のみから採用していたが、昭和13年から航空関係の陸軍技師、陸軍技手の志願者にも拡充、さらにその応募資格も昭和13年時には大学の工学部と理学部の学生だったものを、昭和15年には専門学校学生でもヨシとした。委託生となれば学校の長期休暇に歩兵連隊にひと月ほど入営し、卒業後は各歩兵連隊で軍医見習士官として隊附勤務を行った。
で、こんな記事もあり、

昭和15年9月17日
▲昭和15年9月17日付朝日新聞。

どうも委託生の範囲は拡がっていったようだ。戦局の悪化とともに。
昭和18年2月21日の朝日新聞には「陸軍では今回専門学校に新設された造兵学、金属機械工学、火薬学、および採油学を修めるものにも技術部委託生徒を志願し得る資格を付与」とある。昭和18年発行の依田述「学生と兵役」によると昭和18年度の委託生応募資格には、陸軍では法学部、海軍では法学部、経済学部、商学部の各学生も加わっている。なお、昭和18年時点では大学生=依託学生、専門学校生徒=委託生徒と分けている。とすると、養成校が大学昇格していない歯科では、委託生徒のみであったことになる(陸軍は「衛生部委託生徒」、海軍は「歯科医生徒」と呼んだようだ)。

さて。

山風は、やっと仲の悪い養父(叔父)に頭を下げに行く。ナゼ仲が悪いのかについての記載はないが、まあ、エディプスコンプレックスであろう。叔父に母を取られた恨みである。山風は5歳で実父を脳溢血で亡くし、母は叔父と再婚、この叔父が養父となる。で、14歳で母が肺炎で急逝し、叔父は再婚するが、養母にも山風はなじめない。母を亡くした少年・山風は不良になって県立豊岡中学(5年制)を停学すること3回、修学旅行にも行けず、寮も追い出される。ハムレット以上に悩めるハムレットである。
閑話休題。山風は昭和19年4月13日午後10時の夜行列車で、14日朝8時に京都に着いた。そして「直接関宮に帰る勇気なく、河江に寄る」。河江には叔母がいたが、力にはなってくれず、やはりひとりで叔父のいる関宮に行く。16日、叔父と面会。

12時家につく。叔父、照れたように笑う。しかし応答ギゴチなし。
夜大説教。大説教のあとにて、ともかく学資は出してやるという。ただしこれは借金として自分に負わせるという。そのタンポとして診療所の名義を書きかえるという。
(昭和19年4月16日)


山風の実父は医師で開業医であった。その死後、診療所(山田医院)は山風の名義になっており、叔父は借金のカタに自分の名義に変更した。この時山風が叔父から借りた金は275円だが、その後もるる送金してもらっており、最終的にいくらになったのかは不明である。敗戦後、山風は東京医科大学(東京医専は戦後、大学に昇格)を卒業するが、インターン中に作家に転向し、家業は継がなかった。とすると、診療所はそのまま叔父のものになったのか。

昼休みに2年の指導で校歌の練習がある。それに出ないといって、きょう6つ殴られた、これは中学で鍛えられているのでこわくも何も感じないが、頬がほてり、頭がぼうっとして、授業もボンヤリ暮してしまった。夕方には、殴られた頬より歯が痛む、やっぱり面白からず。
(昭和19年4月27日)


入学式で訓示されたごとく「いまや医学校は軍医学校」で、山風は先輩から早速殴られている。軍国化というのは、どうも体育会系化のようである。というか、わたくしの学生時代のいわゆる体育会系組織(運動部や運動系サークルなど)は軍隊っぽかったと今にして思う。80年代から90年代半ばにかけての話だが。個性は殺され、陰湿で、イジメもあり、サワヤカさのかけらもなく、団体競技ならともかく個人競技でも団体主義で上下関係が厳しくて、しかも応援団が軍装(詰襟)。なんだったんだろう、アレは。

午前身体検査あり。体力章検定ではなかった。それで、駆けたり飛んだり俵をかついだりすることは免れたが、マントー氏反応で去年の秋までは陰性だったのが、夜見るともう10ミリ以上の直径を有する赤い円となって陽転している。この春肋膜だの肺浸潤だのいわれたのが、それっきりになってしまったので狐につままれたような思いがしていたのだが、やっぱりほんものではあったらしい。
(昭和19年5月18日)


「体力章検定」は厚生省の技術認定試験で、走・跳・投・懸垂・運搬・水泳などの基礎能力種目を中心に青少年の身体能力をはかるもの。昭和14年から15〜25歳までの男子を対象に始まり、昭和18年には女子も含めて行われた。検定結果により、初級、中級、上級にわけられる。厚生省創設と同じく、国民体力の向上を図って戦力を増強するのが、体力章検定創設の目的であった。今の体育会系組織が妙に軍隊っぽいのも、このあたりの“伝統”ゆえなのかもしれない。
山風が肺疾患を治療している形跡はなく、栄養を取っている形跡すらない。よく死ななかったものである。

戦時の山田風太郎 東京医専を再受験

入隊検査でハネられた山田風太郎は、帰京してすぐに東京医学専門学校に入学願書を出している。昭和19年3月14日、山風22歳。
願書を提出したその日に口頭試問と、体格検査を受けている。で、「あしたまたレントゲンをとりに来いといい渡されたので少なからずショゲる」。
入学試験は19日、明治大学で行われた。入学定員150人のところ、受験者数は約3000人。29日発表、今度はめでたく合格。山風の医学生時代到来である。沖電気に退職の意向を伝えるとはたしてモメたが、

勤労課長のところへゆくと、ニベもなくダメだと拒絶された。学生でさえ工場に狩り出す時代に逆に学校へ戻る奴があるかといった。茫然たり。
(昭和19年3月30日)


何とか退職にこぎつける。就職の自由も退職の自由も一切ない時代である(労務調整令、後述)。
入学には、当然カネが必要である。入学金10円、授業料125円、実習費30円、報国団入会費10円、報国団費6円、計181円。納入期限日は4月4日。
しかし、養父からカネは来ない。

孝叔父より痛烈無比の手紙来る。(略)
以下自分の不遜不軌の行状を責め、陳謝を要求するの言辞つらねあり。これに対する返答の文は一句も念頭に浮かばない。
(昭和19年4月4日)


養父との関係は悪かった。なので、昭和18年時には受験料の工面にも苦労している。

東京医専に払う11円、昭和医専に払う12円、合計23円の試験代がどうしても出来ない。合格するまでは郷里に屈服したくない、カネオクレなど電報を打つのは嘲笑の火に油を注ぐようなものである。
少なからず弱って、会社の労務課へ電話できき合わせたところが、入社以来毎月6円平均とりたてられている国民貯蓄を、事情によっては下げてやらぬこともないという。歯の治療代と偽ろうかと思ったが、医者の診断書とか何とかいい出されると面倒だし、いっそほんとのことをいっておいた方がはるかによかろうと思案して、昼過ぎ、労務課長の伊藤さんのところへいった。
「国民貯蓄を下していただきたいのですが」
と、いうと、
「どういうわけで?」
と、問い返される。
「実は来月上級学校を受験しますので、その受験代に」
「というと、
「その学校はどんな学校だ? 夜間なのか?」
「東京医専だから昼間です」
「――おや、君は徴用にかかってはいないのか?」
こういう問答の前後から、伊藤課長は妙な微笑を浮かべ出した。同情とも意地悪ともとれる微笑である。自分はKさんにお願いして徴用令を1回免除してもらいましたと答えると、課長はまっくろな皮膚の顔をいっそう崩して、「ほほう、そりゃ妙な話だ。――が、たとえ徴用がなくてもですね、この会社は労務調整令の下にありますから、一寸、自分の勝手な理由で退社はできませんぞ」といいながら立ち上がった。
(昭和18年2月24日)


労務調整令は自由な転職・退職を禁止し、雇用者による恣意的な解雇も制限する勅令。昭和16年12月8日――太平洋戦争開始日――に公布、施行は昭和17年1月10日から。

「若し、君、失敗したらどうするつもりだ?」
という質問に、
「どちらにせよ、退社させていただくつもりでした」
と答えると――合格すれば退社、落ちればそのまま居なおると答えてはかえって悪かろうと思ったからである――「あらかじめ退社の意志をもって徴用令を避けたとあっては、徴用忌避としてひっぱられますぞ」と突然、秋の霜のような語韻で彼はいった。
「君の立場には大いに同情する。会社も退社させてやりたい。――そう考えてもだ。現在はそう勝手に退社入社はできないんだ。一たん会社に入った以上、本人の一身上の理由は一切無視せよというのがお上のお達しだし、会社もその方針でいるのだ。そうしてその進退は悉く職業指導所の指示許可を受けてからじゃなくっちゃ、どうすることもできないんだ」
自分は全身の血がすっと引いてゆくのを感じた。もはや受験料どころの騒ぎではなかった。
(昭和18年2月24日)


結局、昭和18年の山風は、友人からの借金で受験料をまかなった。で、落第すると。
ちなみに、労務調整令は昭和20年3月20日公布・施行の国民勤労動員令により廃止される。その国民勤労動員令は本土決戦に備えた「国民皆働」の勅令で、病人まで動員の対象にするという苛酷なものであった。あと1〜2年戦争が稀有属していたら、日本人は絶滅していただろう。

戦時の山田風太郎 応召で姫路へ

昭和19年3月9日、陸軍より召集された山田風太郎は養父(叔父)とともに姫路に向かう。白紙で、教育召集であった。教育召集とは教育のため第一補充兵を召集することである。

夜10時に姫路につく。街路に灯は1つもなく、月はあるのに小雨がふっている。
宿屋に2軒寄ったが、やはり召集兵満員で、やむなく警察へいって召集令状を見せ、三木屋というのに電話してもらう。ガランとした薄暗い夜の警察に夜勤している2人の巡査の黒服は妙に陰惨だった。
三木屋も実は満員で、大広間にはもう蒲団の列が並んでいた。自分はその端に、これまた蒲団が1組しかないので、昨夜と同じ寝方で寝る。
(昭和19年3月11日)


叔父とひとつ蒲団にたがいちがいに寝て一夜を過ごし、所属部隊に赴く。所属は姫路中部第52部隊であった。入隊検査が始まる。

9時になって練兵場に集合する。
1000人くらいもいたであろうか、ムチャクチャに集合した中で、軍医が台上に立って、最近播州方面の工場にいた者や、家族中に伝染病が出た者を呼び出して、赤インクをつけたコヨリをわたした。播州方面ではいま腸チフスや赤痢がはやっているそうで、それはすでにこの部隊にも侵入しているそうで、なるほどそこらに立っている兵隊はみんな口に白いマスクをかけていた。
次に最近結核とか肋膜にかかった者は手をあげて前に出ろという。自分はためらった。ためらったのは、卑怯に見られることを怖れたのである。他人に見られるより自分に恥じたのである。しかし100人近く出たであろうか。「嘘をついては部隊の迷惑になる」と軍医がいう。自分は手をあげて、前に出た。そして白いコヨリをもらった。
(昭和19年3月12日)


入隊検査での山風は、身長161cmで体重44kgであった。ガリガリだ。しかも、徴兵検査の時から体重はもちろんのここと、身長まで2cmも縮んでいたという。もちろん不合格である。検査後、山風は昼食の「アルミニュームの食器に盛り上げられた2合の凄い飯。同じくアルミニュームの食器に入れられた煮豆」を食べ、食後は「二列縦隊で食器を洗いにゆく」。

それがもう1時半ごろであったろうか。さてそれから4時半までが実につらい時間だった。すなわち即帰者(即日帰郷者)は前に出ろといわれ、出た者がちょうど20人、兵舎の前にボンヤリ立たされたまま、4時半まで帰郷の旅費を渡す手つづきがかかるそうだから待てといわれたのである。
曹長が来て、おまえどこが悪いのだ、お前は? と次々にきいた。中に1人、そういわれてもポカンと顔を見つめている男があった。こら、返事をせんか、と曹長はいらだった声をはりあげた。それでも彼は、ポカンと顔をむけ、それから横をむいてムニャムニャと何か口を動かしている。
「おまえ、自分で勝手に帰郷をきめたのか? おいこら、きさま」
すると向うの兵隊が、自分の頭をたたいてさけんだ。
「おーい、関口、そいつはダメだダメだ。ここが悪いんだ」
その男はいつのまにか、ぺたんと地べたに腰を下したまま、うつろな眼つきで、真昼の日光のみちた練兵上を見ていた。その横顔には改めて一種のいやらしさが感じられた。しかし自分は彼といっしょに練兵場を見ていた。
(昭和19年3月12日)

帰郷の旅費は9円60銭。姫路から兵庫までだろう。「八鹿から東京まで、汽車賃13円」(昭和19年4月18日)。

乞食より恥ずかしいことに思った。だれか一人「これは国防献金して下さい。お願いします」と叫んだが、係りの兵は微笑しただけだった。
夕日の色になった練兵上をななめに通って門の外に出る。送って出て来た兵が「おまえたちは残念ながら身体が悪いので即日帰郷となった。しかしまたすぐ召集がゆくだろう。それまでにしっかりと身体をなおして御奉公できるようにしておけ、ではこれで」といった。自分たちは敬礼して別れた。路には夕日がしずかにのびていた。自分たちはトボトボと歩いた。からだも心も疲れていた。
(昭和19年3月19日)


三島由紀夫も入隊検査でハネられた「即日帰郷者」で、山風と同じく、それが一生の劣等感となった。3度も戦争に行って3度目に、たった27歳で死んだ沢村栄治よりよほど幸福ではないか、本人にとっても人類にとっても――などと思うのは、戦後の人間である。

歯科技工士の窮状

福岡県歯科保険医新聞(2017年4月5日号)に、「歯科技工士の窮状」を国会議員に訴えたという記事が掲載されていた。2月23日に医療団体連絡会議による国会内集会「誰もが安心の医療を」が開催され、その集会前に、福岡県歯科保険医協会役員が鬼木信(自民党)、真島省三(共産党)、田村貴昭(共産党)の衆議院議員3人と懇談したという。

技工士アンケートの結果を元に長時間労働、低賃金、あと取りがいないこと(あとを継がせられない)、やりがいをなくしていることなどを紹介し、このままでは将来技工をする人がいなくなってしまうこと、その原因は技工料金の低さにあるが歯科医側としても低い保険点数では料金の安い技工所を選ばざるを得ない。技工士学校の閉校や若い技工士が他の職業をえらんでしまうことも説明し、技工士の皆さんがやりがいを持てるように患者さんに接して技工物を作製し患者さんに喜ばれることを体験できるよう、患者さんに触れることができるように法改正したり、技工料金の原資の確保のため、歯科診療報酬のアップをお願いした。


「技工料金の原資の確保のため、歯科診療報酬のアップをお願いした」――歯科診療報酬が上がれば委託技工料も上がるという、その根拠はあるのですか?
1988年、まさに委託技工料と歯科診療報酬の連動を図る目的で「7:3の大臣告示」が出されましたが、形骸化しています。中医協の介入と努力で実現した大臣告示を、歯科医師会・自民党・厚生省が結託して潰したのです。現実的に、歯科診療報酬のアップは、委託技工料のアップに無関係なのです。
また、「歯科技工士の窮状」は今にはじまった話ではありません。1992年の診療報酬改定ですが、テレビ報道をきっかけに多くの自治体が「歯科技工士の窮状」を救おうと陳情し、国会にも取り上げられて、補綴点数アップが実現したことがありました。この時総義歯の点数が1220点から2050点と倍近くなりましたが、しかし、委託技工料は上りませんでした。歯科医師の搾取分が増えただけだったのです。歯科診療報酬をアゲても委託技工料はアガらない――それを証明しているのが上記アンケート結果なのです。

集会が終わってから野田国義参議院議員(民進党)と懇談して帰路についた。(略)4名の議員とも技工士の窮状はご存じなく、何らかの対策が必要と感じておられるようだった。


「技工士の窮状」をご存じないのであれば、歯科医療のこともほとんどご存じないでしょう。
「技工士の窮状」は、歯科の歴史そのものであります。7:3の大臣告示を潰し、技工士をダシにして補綴点数アップを実現しながら、歯科医師は当の技工士に還元しませんでした。これが、歯科保険医療の低迷に直結します。すなわち、7:3の大臣告示を潰したことで、歯科医師は、技工料金の市場価格を診療報酬に反映させる根拠を失いました。7:3の大臣告示を守らない限り、中医協で技工料の値上げを根拠に点数向上を主張することは不可能なのです。その結果が今の歯科診療報酬、特に補綴点数の低さなのです。そして、ここが重要なのですが、“その結果”――補綴点数が低いままにある現状とその経緯をガン無視し、今も「歯科技工士の窮状」をタテに歯科診療報酬点数を上げろなどとうそぶいているのが歯科医師なのです。
もう少し、歴史を遡りましょう。
かつての“歯科技工師”(当時)はそれこそ「患者さんに接して技工物を作製し患者さんに喜ばれることを体験できる」医療従事者でした。歯科医師はこれを恐れ、“入歯師”“歯科技工師”からその「やりがい」を奪い、「印象採得、咬合採得、試適、装着」行為を法的に禁止します(昭和30年、歯科技工法)。しかも、この歯科技工法制定から10年を経ても当の歯科医師に、それも都や県の歯科医師会長が「歯科技工指示書なるものは書いたことがない」などと公言するほど遵法意識はありませんでした。歯科技工師を弾圧する目的でつくった法だから、当の歯科医師は守る気などなかったのです。また、従来から営業していた“歯科技工師”から歯科医師は既得権すらも奪っています。戦前、漢方医を弾圧した医師ですらその既得権は奪わず、戦後の看護改革においてもGHQは従来の看護婦の既得権は尊重したというのに、歯科医師はそうではなかった。歯科医師は補綴で食べていて、同様に補綴で食べていた“歯科技工師”を強く憎み、怖れて、弾圧したのです。

さて、現在の歯科医師はこの恐怖、差別感情を克服できたのでしょうか。

記事にはありませんが、「歯科技工士の窮状」の歴史、特に7:3の大臣告示について一言も触れなかったのであれば、私は克服できていないのだと思います。
歯科技工士が歯科医療に不可欠の、対等なパートナーであるとはわかっていない、そう思います。
保険医協会も、まずは会員に徹底すべき7:3の大臣告示のルール(補綴点数の70%は製作した歯科技工士のものである)を無視し、自分らに都合の良い要望だけを口にするようでは、なんら信用するに足らない人たちであると思います。中医協や厚生省があれだけ努力してたどり着いた7:3の大臣告示を、一瞬で無にする人たちなのですよ?

「歯科技工士の窮状」を救うには、製作歯科技工士による直接請求、そして歯科技工士法改正による患者との直接対応が必要だと思います。
歯科医師による中間搾取は、患者にも医療経済にもメリットはありません。なお、現在の補綴点数は設計も含めて設定されていますが、現在の歯科医師の大部分(9割?)が設計も歯科技工士に丸投げしています。歯科医師は歯科技工の能力を失いつつあり、歯科技工の実際からも遠ざかりつつある――その意味でも、「歯科技工士の窮状」は歯科医療の窮状そのものであります。

戦時の山田風太郎 応召で姫路へ

昭和19年3月9日、陸軍より召集された山田風太郎は養父(叔父)とともに姫路に向かう。白紙で、教育召集であった。教育召集とは教育のため第一補充兵を召集することである。

夜10時に姫路につく。街路に灯は1つもなく、月はあるのに小雨がふっている。
宿屋に2軒寄ったが、やはり召集兵満員で、やむなく警察へいって召集令状を見せ、三木屋というのに電話してもらう。ガランとした薄暗い夜の警察に夜勤している2人の巡査の黒服は妙に陰惨だった。
三木屋も実は満員で、大広間にはもう蒲団の列が並んでいた。自分はその端に、これまた蒲団が1組しかないので、昨夜と同じ寝方で寝る。
(昭和19年3月11日)


叔父とひとつ蒲団にたがいちがいに寝て一夜を過ごし、所属部隊に赴く。所属は姫路中部第52部隊であった。入隊検査が始まる。

9時になって練兵場に集合する。
1000人くらいもいたであろうか、ムチャクチャに集合した中で、軍医が台上に立って、最近播州方面の工場にいた者や、家族中に伝染病が出た者を呼び出して、赤インクをつけたコヨリをわたした。播州方面ではいま腸チフスや赤痢がはやっているそうで、それはすでにこの部隊にも侵入しているそうで、なるほどそこらに立っている兵隊はみんな口に白いマスクをかけていた。
次に最近結核とか肋膜にかかった者は手をあげて前に出ろという。自分はためらった。ためらったのは、卑怯に見られることを怖れたのである。他人に見られるより自分に恥じたのである。しかし100人近く出たであろうか。「嘘をついては部隊の迷惑になる」と軍医がいう。自分は手をあげて、前に出た。そして白いコヨリをもらった。
(昭和19年3月12日)


入隊検査での山風は、身長161cmで体重44kgであった。ガリガリだ。しかも、徴兵検査の時から体重はもちろんのここと、身長まで2cmも縮んでいたという。もちろん不合格である。検査後、山風は昼食の「アルミニュームの食器に盛り上げられた2合の凄い飯。同じくアルミニュームの食器に入れられた煮豆」を食べ、食後は「二列縦隊で食器を洗いにゆく」。

それがもう1時半ごろであったろうか。さてそれから4時半までが実につらい時間だった。すなわち即帰者(即日帰郷者)は前に出ろといわれ、出た者がちょうど20人、兵舎の前にボンヤリ立たされたまま、4時半まで帰郷の旅費を渡す手つづきがかかるそうだから待てといわれたのである。
曹長が来て、おまえどこが悪いのだ、お前は? と次々にきいた。中に1人、そういわれてもポカンと顔を見つめている男があった。こら、返事をせんか、と曹長はいらだった声をはりあげた。それでも彼は、ポカンと顔をむけ、それから横をむいてムニャムニャと何か口を動かしている。
「おまえ、自分で勝手に帰郷をきめたのか? おいこら、きさま」
すると向うの兵隊が、自分の頭をたたいてさけんだ。
「おーい、関口、そいつはダメだダメだ。ここが悪いんだ」
その男はいつのまにか、ぺたんと地べたに腰を下したまま、うつろな眼つきで、真昼の日光のみちた練兵上を見ていた。その横顔には改めて一種のいやらしさが感じられた。しかし自分は彼といっしょに練兵場を見ていた。
(昭和19年3月12日)


帰郷の旅費は9円60銭。姫路から兵庫までだろう。「八鹿から東京まで、汽車賃13円」(昭和19年4月18日)というし。

乞食より恥ずかしいことに思った。だれか一人「これは国防献金して下さい。お願いします」と叫んだが、係りの兵は微笑しただけだった。
夕日の色になった練兵上をななめに通って門の外に出る。送って出て来た兵が「おまえたちは残念ながら身体が悪いので即日帰郷となった。しかしまたすぐ召集がゆくだろう。それまでにしっかりと身体をなおして御奉公できるようにしておけ、ではこれで」といった。自分たちは敬礼して別れた。路には夕日がしずかにのびていた。自分たちはトボトボと歩いた。からだも心も疲れていた。
(昭和19年3月19日)


山風(大正11年生まれ)と同じく大正生まれの三島由紀夫(同14年生まれ)も入隊検査でハネられた「即日帰郷者」で、山風と同じく、それが一生の劣等感となった。3度も戦争に行って3度目に、たった27歳で死んだ沢村栄治(同6年生まれ)よりよほど幸福ではないか、本人にとっても人類にとっても――などと思うのは、戦後の人間である。

戦時の山田風太郎 ショウシュウキタ

肺浸潤と診断された22歳の山田風太郎。診断されて8日後、今度は陸軍から召集令状が来る。
といっても、受け取ったのは兵庫の実家で、山田風太郎は「ショウシュウキタアスムカイユクタカシ」という電報を受け取った。昭和19年3月9日である。「タカシ」は風太郎の叔父で養父、医師である。

山田さん〔引用者註:アパート2階の住民〕はびっくり仰天した。たちまち町会にいって来ようだの、隣組で壮行会をやらねばならんだの、酒は2升もらえるだの、アパート中ガンガン鳴りひびくような声で騒ぎ出す。自分は持て余し、後悔した。こんな身体で、肋膜で、9分9厘までは帰されるに違いないから、あまり大ゲサに騒ぎたててもらいたくないと静かに断った。
(昭和19年3月9日)

風太郎の実家は兵庫にあった。兵庫から上京する叔父を迎えるべく、10日午後5時にアパ−トを出て東京駅に行き、10時まで待ったが、来ない。

召集は12日朝9時、姫路に集まるのだそうだ。白紙で、教育召集である。時間的に故郷に帰る余裕はないのだから、姫路で待ち合わせようと思ったが、万一まちがいでもあると一大事なので迎えに来たといった。やっぱり品川駅でおりたのだそうで、そのむね浜松駅から打ったのだが、その電報は叔父がこのアパートについてからやっと到着した由、叔父はプンプン怒りながらその電報をポケットからひきずり出して見せた。
何にしても郷里に帰って、挨拶することをまぬがれたのはありがたい。帰されるかも知れないのだからあまり大きな口はきけないし、それかといってあまり意気悄然たる挨拶もできないし、実際閉口していたのである。
(略)
受験のことを話す。とにかく久留米医専の願書はとったが、ロクマクにかかった上、しかも天なるか命なるか、その試験日がこの12日なのだ。というと、もうほかにないのか、ときく。東京医専の〆切が15日だが、あそこはとうてい自信がない、というと、若し軍隊がだめだったらともかく一応受けるだけは受けて見ろ、という。
(昭和19年3月10日)


「久留米医専」は九州高等医学専門学校のことあろう。現・久留米大学医学部である。
山田風太郎は昭和18年に昭和医学専門学校(3月12日@昭和医専附属病院)と東京医学専門学校(3月19日@明治大学)を受け、両方とも落ちている。定員150人、受験者数2500人という難関だった。入学試験前には口頭試問があり、医者が「眼や歯や耳や体重や内臓」を検査する。昭和医専で体格検査を行った試験官は「退役陸軍少佐」というところが時代である。また、昭和医専の受験願書は「家庭の財産だの学資金の準備ありやだの、色んなキタナイ事」を記入させられた。受験料は東京医専11円、昭和医専12円(昭和18年)。
なお、昭和19年春には医専の偏差値が急上昇した、と思われる。理工医および教員養成系の学校以外は閉鎖されることが、昭和18年10月に決ったからである(在学徴集延期臨時特例)。

近い中に大半の学校は閉鎖され、理工医の学校のみ残される関係上、受験者はそれらに殺到するだろう。それに先天的に理工科のきらいな人間でも医者にならなってもいいと考える者も多かろうし、さらに医者なら軍医になれるということもあるのだから、来春はおそらく言語に絶する激戦となるだろう。
(昭和18年10月9日)

理工医いずれかの学生にならなければ、徴用されての労働が待っていた。徴用がなくても、就職は国営の国民職業指導所(昭和16年〜)を介さなければできず、結局は軍需工場行きである。昭和19年1月には学校と軍需工場が直接連携、いつでも学生を動員する体制がつくられた(緊急学徒勤労動員要綱)。敗戦時の動員学徒数は、340万人超。学徒動員による死亡者は1万966人、傷病者は9789人だった(文部省「学制百年史」)。

戦時の山田風太郎 結核に罹患

昭和19年2月9日、とある22歳の青年が肋膜炎と診断された。

朝、近所の伊藤医院にいったところ「左湿性肋膜炎」と診断される。
「2ヶ月の療養を要す」との診断書と3日分の薬とをすべて、合計1円20銭。
僕は前に、健康保険の証書を出すのがはずかしく、この2日、食欲不振なのを案じて同じく近所の神山病院にいったとき診断書と薬で5円とられたから、はじめて健康保険の威力を知る。
(昭和19年2月9日、山田風太郎「戦中派虫けら日記」)


後の山田風太郎である。以下、山風。
忍法ブームを巻き起こした大衆作家として知られる山風だが、昭和17年11月25日、20歳で書き始めたその日記はむしろ純文学の感触がある。大正11年1月4日兵庫県養父市関宮に生まれ、20歳で出奔、品川にあった沖電気の軍需工場で働きながら医師となるべく医学専門学校入学を目指していた――というのが、日記開始時期の山風だ。医師の家系に生まれ、早くに亡くなった父も、養父となった叔父も医師で開業していた。戦時の医専受験、医学講義、さらには結核患者としてのアレコレ等々、山風日記の医療史的価値は高く、しかも名文で読めるこの幸福。20歳の山風が肋膜炎で入隊検査をハネられたのは、僥倖であった。

肋膜とは意外であった。罹ってみれば、東京の塵埃と日光の全然入らないアパートの3帖、下等な食事と馬のごとき労働、それに元来の虚弱な体質と、当然なことではあるが、それにしても専ら流感だとばかり思っていた自分には意外であった。「水が溜っていますよ」といわれてはじめてそれが事実であることを知ったが、恐怖の念はなかった。僕は病気に対して全然恐怖心を持たない男である。ただ学校の試験に重大支障が生じたことを思う。
医者、田舎があったら帰った方がいいという。
帰途病人用として診断書を見せてリンゴ100匁買う。アパートに帰って茫然としているところへ、純ちゃん来て、竹沢さんの弁当を持って来てくれる。感涙にたえず、夜頭痛盗汗。
(昭和19年9月9日)


医者が帰郷を勧めたのは、当時大した結核治療法がなかったからである。すなわち、空気のキレイな場所で喰っちゃ寝するしかなかった。
患者が自分の医療用品や牛乳、氷などを購入するには担当医師が交付する証明書が必要になったのは昭和17年。リンゴも滋養品のひとつだったのだろうか。
なお、山風の労働時間はこの頃10時間に及んでいる。それまで朝8時〜午後4時の8時間だった勤務が、昭和18年10月から朝7時半〜午後5時半に延長。所属は「作業課第3計画係」で、事務職だった。
昭和19年2月20日、山風は東京帝国大学病院を受診している。

朝、帝大病院にいって見てもらう。
9時までに初診は申し込めとのことで申し込んだが10時半まで待たされる。
予診室で簡単な診察の結果やはり左に水がたまっているといわれる。しかし水は採るまでもなく自然に吸収するかも知れないとのこと。
またしばらく待ち、ようやく内科第2号室に通される。大学生3人来り、背中を叩くもの、胸を叩くもの、横腹のあたりを叩くもの、それがどいつも大変な叩き方で、もしこれがひどい肺病ででもあったら大変だと思う。聴診器を左右前後より押しつけること約2時間、ほんとに風邪をひいてしまいそうである。親の死亡原因について、既往症についおて、それから舌を出したり、眼をむいたり、腹をなでたり、脈を見たり、「ひとーつ」と百三辺もいわせたり――結局ハッキリ分らんらしい。
(昭和19年2月20日)


そりゃ、わかるまい。いじくりまわしているだけだから。ツベルクリンの皮膚検査もすでにあったはずなのだが。

おたがいの言葉はドイツ語だが大体の見当はつく。「脈を見ようか?」とドイツ語でいうから、こっちは目前として手を出し、「熱はいくらか?」とドイツ語でいうから「熱はありません」といってやる。ヘンな顔してこちらを見る。
あとで教授に見てもらう。やはり左がおかしいといわれる。もう一度レントゲンでみるから26日に来いといわれて木札をもらう。学生十数人集り、教授一々説明す。診断終り、シャツを着ていると、また3人ばかり追っかけて来て「ちょっと拝見」といい。それからまた大変である。1人左胸部に聴診器をあて、「聞える聞える猛烈に聞える」と大声で叫ぶ。ハシタない医者の卵ではある。
時計12時半を示す。2時間も裸にされていたわけで、これだけおもちゃにされると30銭の診察料も安くないと思う。
(昭和19年2月20日)


診察料30銭。コーヒー2杯分の値段である。その日のうちにレントゲンを撮らないのはなぜなんだろう。フィルム不足か。
モノは不足し、結核患者なのに暖房用の炭も手に入らない。

〇病人用としての半俵以外、今冬ついに炭の配給なし。
ほんとうはこの冬3俵配給になるはずが、はじめの2俵は町会事務所の手ぬかりでもらえず、1月分のは2月が終わろうとするのにまだ配給にならない。もらえればありがたいが、もうそろそろ暖か味のある陽気になった。少なくとも酷寒の期は過ぎ去ろうとしている。
しかし1月分の炭が2月の終りになっても配給にならないなんてばかなことだ。国民は配給制度に関して全然政府に信頼を置いていない。
はじめの2俵は町会の手ぬかりだが、さればとてどこへ不平を持っていっても相手にしてくれない。一般に「お上」が国民に対して損害を与えたときは、結局泣寝入ですませるほかはないようだ。これは古今東西の通則かも知れぬ。
(昭和19年2月29日)


レントゲンによる診断は、肺浸潤だった。

〇午後東大へゆき、先日のレントゲンの結果をきく。「肺浸潤」と診断される。あえて動揺せず。
(昭和19年3月1日)


薬代は3円50銭。何日分かはわからない。なお、山田風太郎の月給は50円だった。

大仏次郎の明るい敗戦

昭和19年12月、大仏次郎は歯の痛みと上顎の腫れを日記に記している。数日で治っているが。
初出は12月2日。

歯の為に上顎鼻の脇がはれている。それと急に寒くなった。仕事もしないでフランス「神々は渇く」を読み続ける。世態が今の日本に似ているところが多い。
(昭和19年12月2日)


上顎洞炎だろう。

〇上顎のはれいよいよひどし。
〇駒沢の兄が遺言のように後のことを書いて来る。
(昭和19年12月3日)


歯性上顎洞炎は、歯が原因とわからずに耳鼻科等に行く患者も多いらしい。
大仏次郎は、12月4日に歯科を受診した。

快晴冷たい。歯の腫れが段々ひどくなる。起きると三条の筆匠吉光父子がやって来ていた。この間送って貰った障子紙の値段を聞くと、大した量でないが高いのに驚く。蜜柑箱に4個ほどで588円である。一位の軸の筆(150円)1本を買う。この方がずっと廉いし貴重である。父子が帰り歯医者へ出かけようとすると二の鳥居のところで内山基君の鉄兜を背負い長靴をはいた出立ちで来るのに出会う。治療後茶室で炉を囲み話す。巌谷栄二が小学館の青年とやって来る。歯がいたみ億劫なのだが一度帰って行った内山君を呼び戻し香風園へ行き夕食、やけになった形でビールを飲む。一日客で潰れたわけである。
(昭和19年12月4日)


内山基は「少女の友」誌の主筆。巌谷栄二は児童文学研究家、作家・巌谷小波の次男である。香風園は鎌倉の温泉旅館。鎌倉文士が執筆したり、女を連れ込んだりした有名老舗旅館だが、現在は潰れたようだ。もったいない。

仕事の慾は動いているが前日の酒の影響の残りと歯のはれでぶらぶらし、治療に行ったあと藤の落葉を掃き集めて焚き、三時のニュウスのあとで初めて筆を取る。乞食大将(39)。風呂屋の大将に酒と醤油を取りに松浦君のところへ行って貰う。白鹿2本に、亀甲万2本である。村田よし子が結婚を解消せし旨報らせ来たる。気のすすまぬものをその方がいいのである。鎌倉書房に3円2円某〔なにがし〕支払う。長谷の歯科医堤氏の息子さんの英霊帰りし由。サイパンである。
(昭和19年12月5日)


腫れてるなら酒はダメなのだが、大仏次郎はとにかく飲みまくっている。食糧難の時代に、よく手に入ったものだ。

06
▲「乞食大将」は大仏次郎が朝日新聞に連載していた小説(昭和45年3月6日掲載分)。

「鎌倉書房」は、ファッション誌やレシピ本を出していた出版社。ウチの母が洋裁をやっていたもので、実家に山ほどあった。子ども心にもビジュアルがファンシーにコっていて、とくに洋菓子の本などページに穴が空くほど見つめたりしたものである(おいおい)。大量の雑誌は実家の建てなおしの際に捨てられたようであるが、残念至極。鎌倉書房は牧野富太郎のエッセイなんかも出している。
「長谷の歯科医堤氏」が大仏次郎のかかりつけなのだろうか。
サイパンは、ほぼ全員が玉砕した激戦地。歯科医師にしておけば、出征は免れたのに……。

19
▲昭和19年7月19日付朝日新聞

6日が、歯科治療の最後の記述である。

昨日焚いた藤の落葉の灰を畑にまく。なるほど灰の触感はさめても暖いものである。12時少し過ぎ歯の治療から帰って来ると警報出る。1機入って来たというのである。写真を撮りに来たのだろうとたかを括る。神戸白雲堂に本の代送る。札幌斎藤一にバタ代100円。(略)
布団綿の供出を命令して来ている。矢崎君の組で1戸500目、ここでは700目、それはよいとして客が来ても座布団など出す必要はないと言添えた由。
(昭和19年12月6日)

「布団綿の供出」は、なんと火薬をつくるためだったらしい。
13
▲昭和19年12月23日付朝日新聞。

組によって供出量が違うのがよくわからないが。
歯科治療については6日で終わっているようだが、上顎洞炎はよくなったのだろうか。8日には泥酔して不覚中に下痢したりと、とにかく飲みすぎなのが心配である。大仏次郎の死因が肝臓がんというのも、日記を読んで合点が行った。晩年の病床記でも、がん治療しながら飲んでいるのである。これで享年75なら、いや、大往生だろう。

大仏次郎の明るい敗戦

大仏次郎 敗戦日記」より。

「主婦の友」の最新号を見ると表紙のみか各頁ごとに「アメリカ人を生かしておくな」と「米兵をぶち殺せ」と大きな活字で入れてある。情報局出版課の指令があったのを編輯者がこう云う形で御用をつとめたのである。粗雑で無神経で反対の効果を与える危険に注意が行きとどいていない。つまり事に当った人間が粗末なのである。我が国第一の売行のいい女の雑誌がこれで羞しくないのだろうか。日本の為にこちらが羞しいことである。珍重して後代に保存すべき一冊であろう。日露戦争の時代に於てさえ我々はこうまで低劣ではなかったのである。
(昭和19年11月18日)

作家、大仏次郎(おさらぎじろう、明治30年10月9日〜昭和48年4月30日)は、日本は昭和19年9月10日に突如として日記を書き始めた。日記はほぼ途切れることなく書き続けられ、昭和20年10月10日に突如として終わる。歴史小説家としての勘で大仏は歴史の転換点である“今”を察し、それを記録しようとしたのだろう。その記録は丁寧で、多岐にわたる。配給値に闇値、報道、戦局、世相、書評、風景、友人知人、ウワサ、デマ、そして自分の内面。

奈良では鹿の盗殺がはやる。半ばは公然と行われ、鹿を捕えて鹿が畑を荒らしたがと春日神社に云ってやると、神社の鹿でないと答える。畑を荒らした責任を逃げるのである。では勝手に処分するということになると神社で皮だけくれというそうである。神官がなっていないせいであろう。鹿は三分の一に減じたという。
(昭和20年8月6日)


大仏次郎は当時すでに流行作家で、その生活は庶民とは比べものにならないほど豊かであった。特に、情報は。それはメディア関係者との交流があったためで、大仏はたびたび電話をかけて報道されない事実をつかんでいる。例えば、広島への原子爆弾投下。投下翌7日の各社の新聞では「若干の損害」的な報道だったが、

22
▲昭和20年8月7日付朝日新聞。埋め草扱いである。

同日に、大仏はそれが「原子爆弾」であるという情報を得ている。

広島に敵僅か2機が入って来て投下した爆弾が原子爆弾らしく2発で20万の死傷を出した。死者は12万というが呉からの電話のことで詳細は不明である。大塚雅精も死んだらしいという。トルウマンがそれについてラジオで成功を発表した。(よし子の話だと7時のニュウスで新型爆弾を使用し、これが対策については研究中と妙なことを云ったというが)10日か13日に東京に用いるというのである。他の外電は独逸の発明に依ると云っているが、米国側では1941年からの研究が結実したと発表している。何としても大きな事件で、閣議か重臣会議がこの為に急に催されたが結論を見なかったそうである。次の効果を見てからのことに成るのだろうが、ロッキー山研究所のウラニュウムが物に成ったのだとしたらこれは由々しいことで、戦争が世界からなくなるかも知れぬような画期的の事件である。また自分の命など全く保証し難い。横須賀の襲撃に用いられれば恐らくそれが最後なのである。こうなっては本の疎開も糞もない。
(昭和20年8月7日)


なお、8日に報道された大本営発表でもまだ「新型爆弾」で、

55
▲昭和20年8月8日付朝日新聞

「新型爆弾」が原子爆弾であるという記事の初出は、朝日では8月11日であった。

23
▲昭和20年8月11日付朝日新聞

情報は、大事だ。ナチス政権下のドイツおよびその占領国では、外国の放送を聞くことは非合法であり、販売されるラジオ自体がドイツ国内放送しか受信できないようになっていた。しかし、こっそり聞いていた人間もいたのではないか。ラジオ無線の知識があれば改造できるし、比較的旅行の自由があった将校クラス以上の軍人であれば、外国でこっそり購入することも可能だったはずである。世界情勢を正確に得ていたからこそ、独裁者の暗殺が計画され、そして欧州各地でレジスタンス運動が起きたのではないだろうか。敵と地続きの欧州と、離れ小島の日本では、その住民の得られる情報にもかなりの差があったはずである。語学力の問題もあるし。国民性もあるが。
それはともかく――日本史上最も苛酷な時期を記録する大仏は、しかし、どこか明るい。生活も、読書も結構楽しんでいるし、明快でサバサバしている。

配給の焼酎を飲んでいると隣の茶の師匠今日庵で親子喧嘩どたばたす。あさましきこととこちらもあさましく聞きに出ると頭上の空の夏の星座のさんらんたるを見る。銀河が水煙の如く丁度真上にあるのである。最近に静かに見たこともない美しさである。ウラニュウムもこの空までは崩せぬ。こう思うのはいつ死ぬかも知れぬと暗に考え始めた人間の負け惜しみであろうか。自分たちの失敗を棚に上げ、本土作戦を呼号し、国民を奴隷にして穴ばかり掘っている軍人たちはこれにどう答えるのか見ものである。部外の者を敵視蔑視して来たことの結果がこうも鮮やかに現れて、しかも無感動でいるのが軍人なのである。話が真実ならば国民は罪なく彼らとともに心中するのである。くやしいと思うのは自分の仕事がこれからだということである。この感慨だけでも方法を講じて後に残したく思う。知らないで死んだのではなく知りつつ已むを得ず死んだのだということを。
(昭和20年8月7日)


大仏次郎は、戦争で死にはしなかった。2発目の原発は長崎を焼き尽くし、日本は敗戦する。この時大仏次郎、48歳。そして、75歳まで生きた。
戦後も「帰郷」や「パリ燃ゆ」など傑作をものして、「天皇の世紀」の執筆中に死んだ。命日は昭和48年4月30日、享年75。肝臓がんだった。築地の国立がんセンターに入院中の昭和47年6月2日から、死の直前昭和48年4月25日まで、やはり大仏次郎は日記を書いた(つきじの記)。そこでの大仏も驚くほど明るく、がん治療をしながら死ぬ直前まで仕事をし、しかも飲んでいる(がんセンター的にはOKなのか?)。病床には友人がやってきて昔話に花を咲かせ、親しいものに囲まれながら、楽しく死んだ。うらやましいほどの明るい死である。なお、これら日記が刊行されたのはすべてその死後である。

アミトリプチリン

2016年6月発行の日本歯科心身医学会雑誌の編集後記から。

最近、とある学会から「新規保険適応薬アミトリプチリンの使用について」云々という勉強会の案内が来て吃驚仰天しました。この薬は1961年に薬価収載されて以来、もう50年以来特にその成分や薬効には何等変化は加えられていないのです。いうまでもないことですいが、我が国の歯科領域での抗うつ薬の使用については都名誉理事長の報告(昭和45年)以来50年近い実績を持ち、本学会では設立当初から学会発表や論文があまた存在します。何が「新規」なのか? この本末転倒な人達は学問を冒涜してないでしょうか。
(豊福明「編集後記」. 日歯心身医会誌 31(1): 2016)

アミトリプチリンは第1世代の三環系抗うつ薬。2016年2月29日付で「末梢性神経障害性疼痛」の効能・効果が追加承認され、口腔顔面領域の同疼痛に対して歯科医師が処方することが可能となった。

今さら「保険で通るようになったから、これから薬の使い方を勉強しよう」などという情けない人たちと一緒にされてはたまりません。この人たちは、これまで「そんな薬は歯科医師が使うものではない」などと無根拠に放言して憚らなかった人たちです。要は「怖いです」「責任を負う覚悟はなく、努力する気もございません」という本音を隠しつつ自尊心を満たすための都合の良い言い訳に“保険適応”や“歯科医師の分限問題”に責任転嫁してきた人たちです。そんな無様な歯科医師に国民は自らの健康を委ねようとはしないでしょう。


大正、および戦前昭和の医歯一元・二元闘争の頃、二元論派の文章は一元論派に比べて少なかった。新体制ブームの頃の闘争では、二元論を主張したのは東京歯科医学専門学校の関係者のみで、その他の歯科医育機関や大学関係者はほぼすべて一元派であった。にもかかわらず今に至るまで医歯二元であるのは、実は二元派が沈黙していただけなのかもしれない。文章として発表された主張は一元派が圧倒的多数であったが、『「怖いです」「責任を負う覚悟はなく、努力する気もございません」という本音』がそれを上回る、いわゆるサイレント・マジョリティだったのかもしれない。

「学会発表の場で“それは保険が利くのですか?”といった質問を浴びせられることがあります。これは本末転倒で、まずは学会がエビデンスを呈示し、それが保険診療に反映され、研究成果が患者さんに還元される、という本来の流れを見失うべきではありません」(日歯心身 21(2): 142, 2006)


医科の某学会で診療ガイドライン製作に関わっている医師の話では、保険収載されていない薬や技術もあえて掲載し(もちろん臨床成績とともに)、発行後のガイドラインを厚生省に持って行って「ウチの会員の8割はもうやってます」と保険収載を要求するそうだ。歯科でもそういう流れで保険適用が増えるといいのだが。だが、この「本来の流れ」がどこまで歯科で認識されているかも、少々疑問ではある。

帝大歯科ァ‥臺徹、中国に歯科学校設立を希望

昭和15年3月29日、学士会館で東亜文化協議会医学部会協議会が開催された。

北京より□□□、飽□清、黄〔空白〕、□□黄の4氏。
日本側、森島委員長はじめ林、慶松、島峯、宮川、増田、永井、興亜院より両3名。奥田□□太郎(総務)も出席。支邦に薬学校(慶松提出)、歯科学校(島峯提出)建設の建議可決。支邦側は殊に後者を希望し居れり。
(昭和15年3月29日、小高健編「長與又郎日記」)

9月2日には、日支文化提携の中心機関である東亜文化協議会第4回総会が、北京大学で開かれた。

北京大学本部に於て評議員総会開かる。始めは勤政殿に於て挙行せらるる筈なりしが、南京より周佛海来京、護営〔衛〕に便な安全地帯に宿泊する要あるものと見え、勤政殿をその為に提供し、急に式場変更となりしなり。
(昭和15年9月2日)


周佛海は汪兆銘の側近。汪兆銘はこの年の3月、蒋介石とは別の国民政府を南京に立てている。

森島、島峯両氏と共に日本側評議員を代表して北京大学附属病院に入院中の湯爾和会長を見舞う。呉祥鳳、鮑恒清 両氏案内す。
(昭和15年9月2日)


森島=森島庫太(薬理学者、京都帝大名誉教授、帝国学士院会員)は東亜文化協議会会長、それと並んで島峯は日本側代表になっている。歯科医育機関設立の希望が日中双方で強かったためか。
昭和15年には、満州国に於ける唯一の歯科医育機関、哈爾浜医科大学歯科医学部が発足していた。哈爾浜医科大学歯科医学部は東京歯科医学専門学校と関わりが深く、歯科医学部の主任教授兼附属医院長は福島秀策だった。佳木斯医科大学(昭和15年〜20年)にも歯科学講座があり、歯科担当は野田久雄(昭和9年九州歯科医専卒)である。

歯科技工士関連質疑@保団連代議員会第2回

昨日の続き。
2017年3月5日付全国保険医新聞に掲載された、保団連代議員会第2回の要旨から技工関連のものを抜粋。
長崎県の黒木正也代議員は、患者提供文書に製作技工所名を記載することを提案している。

h20_bunsyo0005
▲日本歯科医師会監修の様式見本、補管編

黒木正也代議員(長崎)
補綴物装着時の提供文書に、製作技工所名を記載することを提案したい。患者が技工物を「誰が製作したか」知ることになれば、患者が特定の技工所を希望することも考えられ、技工料金の値下げに歯止めがかかるかもしれない。少なくとも国民に技工士がいかに身近で大切な存在であるかを知らしめる効果はある。


「患者が特定の技工所を希望する」と、なぜ「技工料金の値下げに歯止め」がかかるのか、よくわからないのだが。指名料?
ちなみに、この患者提供文書は補綴物維持管理料(以下、補管)を算定する場合に必須だが、補管とはつまりクラウン・ブリッジの2年間保証である。この程度の点数(冠100点、5歯以下330点、6歯以上440点)で2年間も保証してタダで再製かよ! と歯科医師の間でも評判が悪い。が、この補管を算定しないと加圧根管充填処置(単根管136点、2根管164点、3根管以上200点、各/歯)が算定できないので、ほとんどの歯科医療機関では補管を算定していると思われる。

閑話休題。

黒木代議員に対する、新井良一理事の答弁は、

黒木代議員からの提案は、歯科技工士の知名度を上げることで技工士問題を改善していく工夫だ。保団連では歯科技工士の実態を周知するパンフレットも準備している。提案についても、歯科社保部で検討していきたい。


花桐岩吉の時代、歯科技工師と患者を切り離そうとやっきになっていた歯科医師側が、いまや「歯科技工士の知名度を上げること」を検討している。時代は変った。いまや歯科技工師は消え、院内歯科技工士も絶滅危惧種になり、息も絶え絶えな歯科技工所を救おうと歯科医師が言い出しているのである。どこまで本気かはわからないが。
それはさておき――製作した歯科技工所の情報を患者に提供することは、患者にとっては確かにメリットになると思う。
例えば、こんな話がある。某夫人がマイホーム建設の際に建築士とトラブった話で、実話である。ブログで公開されていたのだが、今は削除されている。以下はわたくしが勝手にまとめたものである。

某夫人は今50代、30代で今の家を建てた。もちろん、家を建てることは初めてで、夫妻にとっては一生ものの買い物であった。設計モロモロを依頼したのは夫の知人の建築士。夫が忙しいがためにもっぱら彼女が対応し、建築士の言うままにカネをつぎ込んだ。
20年経ち、彼女はマイホームに使用された建材が、決して高級なものではないことに気付かされる。
トラブルがあちこちに出てきたのである。某夫人は、リフォームを件の建築士に頼んだ。建築士は家を調べ、そして彼女が想定していた以上の価格を言い出した。屋根もヤバいし、フロも水漏れしています、と。
建設時には50年は持つと言っていた建築士。だが、20年しか経っていない今、手入れが必要という。
彼女は、建築士に任せた。壊れているのであれば、直さなければならないのだから。
彼女はバスタブを探すために、ショールームに行った。リフォームをすると店員に伝えると、店員は「〇〇市に在住しているのならリフォームに補助金が出るはず」と教えてくれる。さらに「建築士が申し込まれているとは思いますが……」。
建築士が申し込んでなど、なかった。彼女は役所に走る。役所の人は、リフォーム料金はいくらかと聞き、その額を知って驚く。そして曰く「大丈夫なんですか、その建築士は」。
工事が始まり、職人が毎日やってくる。
工事中、彼女は職人をもてなしたが、どうもヤル気が感じられない。私はあれだけのお金を払ったのだ。決して安くはない料金だ、役所の人も驚いていたではないか。それでいて、この仕事っぷりは何?
まさか、建築士が中抜きしている? 
彼女は、ふと建築士のホームページを見て、驚いた。無断で自宅の写真が使われていた。トップ頁に、まるで自分の手柄だというように。
そこで彼女は思い出す。これまで小さなトラブルがあった際、わざわざ建築士の手を煩わせるのもアレだと思い、工務店などに直接電話をかけて話を聞いたことがあった。あとからそれを知った建築士は激怒し、今後一切こういうことをやめてくれ、と迫る。彼女はそういうものかと思い、建築士に謝罪した。だが、それは、中抜きの事実を自分に知られたくなかったのだろう。自分は50にして、やっと世間を知った。高すぎる勉強代だった。

某夫人=患者、マイホーム=技工物、建築士=歯科医師に置き換えても、よくありそうな話ではないか。家にしろ義歯にしろ、プロ以外はシロウトなのである。プロの言いつけに、忠実にならざるを得ない。
この手の情報の非対称性によるトラブルは、もちろん解決が難しいけれども(理解力のない人もいるし)、積極的に情報収集することがトラブル回避の一助にはなるだろう。すなわち、知識を持つ第三者的プロに話を聞くのである。某夫人の場合は、職人や工務店、ショールームや役所の人に。義歯が合わなければ技工所に、治療に迷いが出たらコメディカルやコデンタルに。
消費者や患者の誤解から大事(訴訟や不買運動など)に発展するケースもあるのだから、末端ユーザーの誤解や疑問を解いていくことは業界的にも有益である。ネットにウソ情報が反乱している今だからこそ、リアルなプロの連絡先は貴重で、安心する人も多いだろう。歯科技工所のメリットになるかは、未知数だと思うが。






Recent Comments
記事検索
Profile
鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
Amazonライブリンク
  • ライブドアブログ