売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

戦時の医歯一元化闘争68 医歯一元化闘争の30年後

昭和51年発行の新潟県歯科医師会史に、医歯一元化闘争時代をリアルタイムで経験した歯科医師たちの座談会が掲載されている。

小林 
あれ、“一元論”と“二元論”で、あのお寺でやったのは、あれはどうなんだ? あれ、何年になるんですか。


「小林」十一郎氏は昭和28年〜42年度、45年度の新潟県歯副会長。大正14年“日本歯科”卒。

高頭
おれ、あれがわからないんだ。


「高頭」憲二郎氏は昭和26年〜45年度の新潟県歯会長で、この座談会では一番の古参である。
大正2年“日本歯科”卒。そして卒業後に、四国の入歯師のもとで修行したという。有免許の歯科医師が、無免許の入歯師を師匠とした時代もあったのである。

広瀬
昭和の14、5年じゃないですか。おれ、戦地にいって聞きましたよ。

小林
“一元論”かね……。

広瀬
17年くらい……。

手島
あれは、どういうことが出たんですか。

広瀬
イタリヤ軒で大騒ぎになったとか。

小林
イタリヤ軒でない。お寺。松川さんの。

高頭
どっかの、お寺だった。たしか……。

小林
“一元論”と“二元論”というのはけっきょく、医科に全部含まれて分科になるとか、それから、歯科は独立するか、こういうわけなんだよ。それで、“東京歯科”はこれ、“一元論”なんだ。

高頭
“一元論”だね。

手島
“一元論”じゃない、“二元論”だ。

清水
“一元論”でしょう……。

本間
“医科歯科”でしょう……。“一元論”は。

小林
いや……。

高頭
“われわれのほうは一元論だ”と、こういうわけなんだ。あの時分は学校、余計ないんだからね。

清水
“医科歯科”と……。

広瀬
“日大”が“一元論”じゃないんですか。

高頭
“一元論”は……、“日大”も“一元論”だったかい?

小林
そうだと思うな、あのとき、本間さんが、そんなことは詳しいんじゃないかい。

本間
いや……。


「本間」邦則氏は昭和31年“日本歯科”? 卒で、この座談会では一番の若手らしい。

手島
“日本歯科”は今、“一元論”ですか。

小林
“日本歯科”は“二元”じゃないですか。

清水
“東京歯科”と“日本歯科”は“二元論”で、“医科歯科”と“日大”かなにかが“一元論”じゃなかったんじゃないですか。

高頭
そうか。


記憶はかなり薄いようだ。無理もない。

広瀬
“医科歯科”と、――“医科歯科”ははじめから“一元論”ですね。

手島
“医科歯科”とそれから“日大”だ。

高頭
“日大”そうかもしれない。

広瀬
そうじゃないですか。

清水
その昔に、日歯の中原さんと、医科歯科の檜垣さんとが握手したら、またけんかになったとかなんとか……。(笑)

広瀬
けんかになった。離れたり、くっついたり、離れたり、くっついたりしてたんだね、あれ。

清水
いっとうはじめは?

高頭
なんだかわからんけど、もう……。

小林
なんだか、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、まあ、騒ぎだったよ。本間修二さんがあれ、こっちの一元論の有力者だったんだから、やっぱり、あれは“日大”が強かったんだな。

「本間修二さん」は、昭和22〜23年度の新潟県歯会長。

高頭
“日歯”はだめ。

手島
“医科歯科”だって、いくらもいないんだよ。

広瀬
そうだね。

小林
それだから、“日大”がとりしきっているんだな。

清水
二元論にすると“日歯”と“東歯”ということになる。


事実は、二元派は東歯のみ。日大も日本歯科も医科歯科も一元派である。

高頭
それは、“歯科”でもってきたんだから、それ以外、とりようがないんだな。

小林
あのとき、“医大”の学生なんかも来たように思うな。応援演説に。

高頭
医者のほうまで、応援演説にくるんだよ。


医者の応援演説。日大医学部か?

小林
なんだか、毎晩毎晩、なにかやってたね。

広瀬
しかし、おもしろい時代です、あれは。


そう「おもしろい時代」なのである。
戦時は暗くて、つまらない、声も出せない時代だったというイメージが強いけれども。蓑田胸喜とかね。

高頭
あれは、あの年度で終わっちもうたね。

小林
終わったね。

広瀬
そのうちに、18、9年に、歯科の将校制度ができましたからね。

高頭
そういうのかね。

広瀬
そうしたら、もはや、言っても……、既成事実ができちゃったから。

清水
なにも騒ぐことがなくなった。


陸軍歯科医将校制度は昭和15年、医歯一元化闘争よりも前である。海軍歯科医下士官制度は昭和17年。
しかしまあ、「歯科の将校制度」を一元化と捉えていた人もいたわけか。

手島
あれはたしか、17年ぐらいに、陸軍のほうが早かったんですよ、1年ばかり。海軍のほうは、妙にあれはおそかったですね。

広瀬
そして、“おまえ、行け”といっても、“おれは土方稼業が似合うから、いやだ”っていったんですわ。そのうちに、2年くらいたってから馬にけとばされましてね。そうだ、15年ぐらいにできたんですわ。

本間
15年ですね。歯科医将校というものは。


繰り返すが、15年は陸軍歯科医将校、17年は海軍歯科医下士官である。

手島
わたし、17年くらいにはいった。

広瀬
いや、これも、地方の面白い話もあって、歩兵の方がいいやなんて……、テクテクと歩くので……、あれ、いちばんすごいな。

手島
歯科医のくせして、歯科軍医にならず、みんな普通科の〇〇少尉になるわけなんだ。

広瀬
そう、そう。

高頭
それまではね。

広瀬
歩兵将校だ。

手島
戦争がそういう制度をつくりあげた。

本間
ところが、戦争がたけなわになってくると逆になってくるんですね。医学部を出ても軍医になれない人がいるんですね。

高頭
なるほど。


「医学部を出ても軍医になれない人」?
あの、軍医不足の時代に?

手島
いたけど、それよりも、戦争当時、歯科でもって、試験受けて医者になるなんていうのがあった。

広瀬
そうですね。

小林
あれも“一元論”のいい宣伝になったね。短期間の教育で……。

清水
1年くらいでね。

広瀬
そう、そう、1年ですね。

高頭
とにかく、戦争中はなにをしながら、戦争中の歯医者って何したんだか、実際わからんな。どうして食ってどうしてやってたんだか……。

いや、ホントに。材料も燃料もないのに「どうして食ってどうしてやってたんだか」。
それにしてもさすがは非売品、ユルさが大変貴重な歯科医師会史であった。というわけで、次回は「戦争中の歯医者って何したんだか」について。

戦時の医歯一元化闘争67 満州国の歯科医育

満州国の医師養成は、開拓医学院でも行われていた。
開拓医学院は康徳7(1940)年6月、龍井、斉々哈爾、哈爾浜の3ヶ所に設置された(1943年4月に哈爾濱開拓医学院は北安に移転)。修業年限は2年、入学資格は医学専門学校か“歯科医学専門学校の2年を終了したもの”、または満州国医師考試第2部考試または“歯科医師考試の学科考試に合格したもの”。卒業時に開拓地医師の資格が与えられ、現地での開業が許された。

満州国に於ては歯科医学専門学校の第2学年を終了せる者及び歯科医師考試の学科考試に及第せる者は医学専門学校の第2学年を修了し若くは医師考試の第2部考試に及格した者と同様既に基礎医師方面の教科課程を修了した者と見做して居る事が明らかである。
この他に前章で述べた哈爾浜医科大学医学部及び其の他新京医科大学等に於ても1、2年前迄は日系学生が僅少であった為に日系学生に限り歯科医学専門学校の卒業生を試験の結果第3学年若くは第4学年に編入せしめた実例もある。
之等は日本に於て歯科医学専門学校卒業生を単科歯科大に入学せしめたのとは異なり満州国に於ては歯科医師たるものの基礎医学的素養を医師たる者の夫と同様に認めたものとして歯医一元化問題に極めて重大な意義を有するものである。
茂田貫一「満州国に於ける歯医一元化問題に就て」、1943年5月発行「臨床歯科」)

ちなみに、満州国における医師および歯科医師の考試の内容は以下のとおり。

〔満州国歯科医師考試〕
第1部・学課試験:解剖生理、病理、薬物、保存、補綴、口腔外科
第2部・実地試験:保存、補綴、口腔外科

〔満州国医師考試〕
第1部・学課試験:解剖、生理、病理、薬物
第2部・学課試験:内科学、外科学、産婦人科学、防疫学
第3部・実地試験:内科、外科、産婦人科、眼科

第一部はほとんど同じであるが、だからといって、歯科医師が医師考試を受験する場合に第1部が免除されるということはなかった。

満州国には国内総有の科学者技術者の総力を結集し多岐方面に亘る専門知識の総合的動員体制を確立する目的を以て、本年(引用者註:1942年)6月5日満州帝国協和会科学技術連合部会なるものが結成せられ、凡ての保険衛生に関する部門は保健部会の名称の下に本連合部会の組織下に結合せられた。

満州国協和会とは、民族協和の実現を掲げた官民一体の政治組織。いわば、満州国の大政翼賛会である。

保健部会は更に事業部会と研究部会とに二分せられ、前者は主として国民保健衛生運動の実行に当り、後者は之が研究機関になって居るが本保健部会に於ける構成は医、歯、薬の完全な一元下に高度国防国家建設に於ける人的資源の確保に邁進する事になって居る。
未だ創立日浅く有機的な活動を示して居ないが、所謂歯医一元化問題も本保健部会の俎上に載せて研討せられるに至れば実現も極めて容易ならんと思惟せられ、我々歯医一元化促進運動に携る者に取って本保健部会の受容性を観過する事は出来ない。
従来の学会、其の他結核運動、齲歯予防の如き国民保健運動等も総て本保健部会の中に統合包含せられ、近く勅令に依る医師会令、歯科医師会令等が発布せられば医師会、歯科医師会等も本保健部会の機構下に属する模様である。


日本帝国は満州国を独立国家であると主張していたが、満州国の国籍を持った日本人はいなかった。つまりは日本の傀儡国家だったわけだが、一方で、医療行政などで独自路線を歩んでいたことは注目される。


戦時の医歯一元化闘争66 満州国の歯科医育

私は満州の国立大学医学部、歯科医学部の一元化に次のような私案を有して居る。
現在哈爾浜医科大学医学部及び歯科医学部の教科課程は第2及び第3表に占める通りであり、其の内国民道徳、日本語、体育、教練、物理化学等の一般課目は医学部、歯科医学部合同教育を行い、其の他の課目に就ては夫々の担当者が別個に教育して居るのであるが、此の医学部の教科課程に歯科学の講義及び実習時間を増加或は追加し、此の4ヶ年の課程を修了した者の中で選考の上数名を歯科学教室に於て1ヶ年間教育して歯科を専門とする医師を社界に送り出すのである。内科、外科等の各科に就ても同様1ヶ年の予科を於て基礎教育を施すよりも4ヶ年の医学教育を終って更に1ヶ年の専門科目に就て専攻せしめた方がより効果的ではなかろうか。
茂田貫一「満州国に於ける歯医一元化問題に就て」、1943年2月発行「臨床歯科」)

▼第2表 哈爾浜医科大学医学部各学年学科目及毎週教授時間数(矢印は臨床実習を示す)
第2表

▼第3表 哈爾浜医科大学歯科医学部各学年科目及毎週教授時間数
第3表


口腔衛生学は1時間なのに、軍事教練は18時間もある。時代である。

なお、著者いわく満州国の齲蝕罹患率は「極めて低位」という。
だから著者は「(日本の)轍を踏まない様に予防対策の確立こそ急務」と主張するわけだが、しかし、一方で鑲牙師(日本でいう入歯師、歯科技工師)は満州の大衆に親しまれていたわけで、とすれば齲蝕は少なくなさそうなのだが。歯周病が多かったのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争65 満州国の歯科医育

今般満州国に於ても歯科医学専門学校連合同窓会が結成せられ大東亜戦下の非常時局に対応して職域方向の完璧を期する事になった。此の歯科医学専門学校連合同窓会に課せられたる重大な使命の一は歯医一元化促進運動にあり、我々京城歯科医学専門学校校友会満州連合本部も単に母校校友会と軌を一にしたのみではなく、満州独自の見解に基づいて欣然之に参加したのである。
茂田貫一「満州国に於ける歯医一元化問題に就て」、1943年2月発行「臨床歯科」)

著者は哈爾浜医科大学に歯科医学部が発足した当時(昭和15年)の初代助教授。昭和25年岐阜県立大学医学部附属病院歯科部長、昭和31年岐阜大学医学部口腔外科学教室教授。

現在満州国に於ける唯一の歯科医育機関である哈爾浜医科大学歯科医学部は国立大学令に準拠した民生部直轄の教育機関であって修業年限3ヶ年、之に対して医学部は修業年限4ヶ年、孰(いず)れも明年度から満系学生には1ヶ年の予科を置いて基礎教育の補修を施す事になって居る。
医学部は日鮮満蒙露の男子に限って毎年約100名の学生を収容して居るが、歯科医学部に満系のみ50名而も女子の入学も許可して居る。
元来満州国に於ける大学教育は国家に枢要なる人材を国家が養成すると謂う根本方針を原則として私立大学の存在を許さず総て国費を以て教育し、卒業後はそれぞれ国家の指示する部門に於て職域奉公の義務を果すのが建前となって居るが、歯科医学部のみ医学部と異り日系を収容せずして女子の入学を許可して居る現状は満州国に於ては既に日人歯科医の過剰を意味し、歯科医術のみが女子にも適した医療行為なりと軽視せられた社界一般の認識不足に因るものである。


哈爾浜医科大学歯科医学部は、東京歯科医学専門学校と関わりが深かった。医歯一元化、さらには女子への門戸開放は、その頭越しになされたものなのだろうか。

事実満州国に於ては日人歯科医師のみならず国家の要求に依って養成せられた前記歯科医学部の満系卒業生すらも、現在の公営機関に於ける歯科施設の数では辛うじて毎年数名を収容し得るに過ぎず過半数は資材難の今日個人開業も出来ず無為に遊んで居るのは特に国立大学教育の本旨に悖る事甚だしい。
而して此の問題は決して一時的の現象ではなく例え全満の各公営機関に総て歯科施設が整備せられたとしても、其の数は限定せられ歯科方面のみにしか活用範囲を持たない歯科医学部の卒業生を毎年50名近く充当して行く事は困難である。然らば資材難が解消せられた暁に個人開業方面に振り向けて行く可きか、之も後述する鑲牙師なるものに大衆の殆んど総ての歯科的施術を占有せられ、且つ多少なりとも医学的療法を必要とする分野は之亦殆んど日人歯科医師の手に依って行われて居る現状では、此の方面への進路も非常に多難であるのみならず、国家として高度国防国家建設の立場から多分に自由主義的色彩の濃厚な個人開業医制度は早晩改正せられるべき運命にある時、斯かる方面へ国費を以て養成した卒業生の活路を期待する事は至当ではない。
女子に対しては未だ未だ良妻賢母の教育を第一義としなければならない現在の国情に徹して文科方面の女子大学の出現こそ望ましく時に技術方面の大学中、歯科医学部のみ女子の門戸を開いて居るのは其の真意が那辺にあるのか了解に苦しむ所である。


日本において女性の社会進出、職場進出が最も進んだのは戦時中である。男にカネがあれば畜妾は常識の時代にあって、それら妾たちを戦時にどう活用するか、なんて話も出ていた。

医学部に於ては国策的見知から一昨年度より女子の募集を廃止し出来る丈多数の男学生を日鮮満蒙露の五族から入学せしめて居るが卒業生は殆んど総て公営機関に配置せられて名実共に職域奉公の実を挙げ尚且つ医師の不足を嘆いている。
現に第1表に示す通り満州国に於ては医師歯科医師の待遇にも非常な懸隔があるが、之とても為政者に云わしむれば需要供給の関係に他ならないと謂うに到っては、我々は従来我々が踏襲してきた所謂歯科医界なるものを確かに再検討しなければならない事を痛感する。


▼第1表 満州国民生部康徳9年度技術官任用初任給
第1表


康徳9年は昭和17年、西暦1942年。「津貼」は手当の意。単位が書いてないが、恐らく円。
ちなみに、昭和16年の小学校教員の初任給は50〜60円(週刊朝日編「値段史年表」)。

田代次郎「重光葵さんと巣鴨の思い出」

田代次郎「重光葵さんと巣鴨の思い出」(昭和58年)より、巣鴨拘置所内の重光葵。
重光さんとは、半年以上の間、向い合った独房で、朝夕顔を合わせた。独房の鉄扉を開けば、お互いに飯を食べていることも、読書していることも、大小便をしていることも、手に取る様に見えた。


著者は九大生体解剖事件※に連座し、重労働15年に処された医師。大正6年生まれ、昭和14年九州医学専門学校卒業。巣鴨拘置所内では医師として、同ブロックの「彼等A級戦犯の人々の保健や疫病について、米軍医務室係の米人衛生兵等との間に、適宜に連絡処置をしなければならない立場」であった。A級戦犯はBC級戦犯と当初は隔離されていたが、「世相の推移と国際情勢の変遷に、米軍当局の管理取扱いも緩和され」、著者のいる15年有期刑グループのブロックに移動していた。

某日ある日、ふと重光さんの独房に眼をやると、机に向かったまま彼は動かない。私は異常な胸騒ぎを感じた。これはおかしいと駆けつけ、呼びかけると返事がない。独房に飛び込み、脈搏を触診すると、結滞して微弱である。「重光さん! 重光さん!」と肩を揺さぶり、声をかけると、ほーっとした顔貌で、「おーっ」と声が返ってきた。一過性の脳循環虚血症状だった。米軍管理下の聖露加病院での受診精密検査では、過喫煙のアリトミーで余り煙草は喫まない様にとの簡単な注意事項の通達があった。出獄数年にして、突然死で斃れた重光さんは、既に当時から血管循環系障害の病因を持っていた。


獄中でもタバコには不自由しなかったもよう。今はどうなんだろう。

重光さんは、訪問されたり、ポーカーを誘われたりした時に「ノー」と拒むことのない人だった。永年の外交官生活が第二の天性となったのか、或は身に備えた天性の美徳だったかも知れない。米軍将校が好意的に贈ったチョコレートやキャンデーを二人で頬張り、重光さんの折り重ねた蒲団に、顔をつき合わせて寄りかかり、何かとだべり語った。


同時期に収監されていた笹川良一は、重光の健康と無罪を祈って禁煙までしている(笹川良一「巣鴨日記」)。好かれる人柄だったようである。

重光さんは、A級戦犯の中でも、米軍将校等から特に好感を受け、暖い心で交際していた。頻々と、彼等の訪問を受け、独房で一時間も二時間も話し込んでいた。その折に、BC級戦犯の釈放や処遇に、峻烈な意見批判を吐露し――挙句のはてに、「全く同意見です。而るべく善処します」と畏敬窮屈し、彼等は独房を引き揚げていった。


獄中外交である。外交官は天職だったのだろう。
サンフランシスコ講和条約の成立後は、巣鴨拘置所は収監者の宿泊所と仮した。夜さえ帰ってくれば、昼間はシャバでナニをやっていてもいいのである。弁当まで支給され、しかもその弁当は「銀めし弁当」。まだ白米の不足していた時代に、である。著者は「獄外の大学で子宮、膣の発生学、殊にミューラー氏管と尿生殖洞の関係の研究探索に朝から晩まで没頭」したとある。「獄外の大学」とは日本大学らしい

ある日、米国務省に提出する九大生体解剖事件の死刑囚三名の除名減刑の嘆願書を「この英文でどうでしょうか?」と重光さんに補筆訂正を求めると、じっくり丹念に何回も読み返し、「ウン! 仲々うまく書けてるね!」と一応は私を喜ばせた。あれを訂正し、これを書き変えて、最後には殆ど鉛筆で真黒に塗り潰された五枚の嘆願書を、ポーンと机上に置いて、「そこでだ! 田代君! この助命嘆願書は、意味はチャーンと筋立っているが、これでは助命嘆願書ではなくて、米国務省に喧嘩の果し状を送る様なものだよ」と。要するに稚拙にして語学のセンスがないと、真綿でシンワリと首を締める様に宣告した。


重光は墨で書いた似顔絵(墨絵)がうまく、外交官時代にはパーティーなどので披露し、駐在官婦人らにも喜ばれていた。著者は重光に、墨絵をプレゼントされている。達筆でもあった。上海総領事時代に「江蘇第一の中国書家」から学んだのだという。芸達者である。
獄中の人物評には、平沼騏一郎もみえる。

A級戦犯の最高年齢で、胸を打診しても、ボコンボコン音がして肋骨が洗濯板の様に痩せて痛々しかったのは平沼騏一郎さんだった。検事総長として、明治の幸徳秋水らの大逆事件を裁き、枢密院議長、総理と歴任した人で、国家主義団体の国本社の総裁でもあった。
金の総入歯を、ガクンガクンさせながら、「精神修養団体の国本社が、A級戦犯の訴追原因となってね――」と味気のない言葉だった。


合わなくなった総入歯で獄中生活を送っていたようだ。そして、そのまま死んだのだろう。かわいそうに。

※九大生体解剖事件
1945年5月5日、米軍爆撃機B29が紫電改の体当たりを受けて熊本、大分の県境付近に墜落。捕虜になった米兵9人のうち、東京に送られた機長を除く8人が九州帝国大医学部に運ばれ、生体解剖されて死亡した事件。23人が有罪、うち5人は絞首刑を宣告されたが、後に減刑されている。
著者は事件当時、九大医学部第一外科の研究生だった。計4回の生体解剖手術のうち、第1回と2回に参加している。

九大生体解剖事件判決
▲著者は判決当時32歳(昭和23年8月28日付朝日新聞)。

巣鴨プリズンの重光葵I賊,糧畛瓦幣況

極東国際軍事裁判で禁固7年の刑を下された重光葵は、昭和25年11月21日に仮釈放となる。収監されたのは昭和21年4月29日。獄中生活は、4年7ヶ月に及んだ。
獄内の医療状況は、実に「悲惨」だったようだ。

原田巌君(刑5年)病院より退院して我々の一棟に入る。病院の悲惨な状況を語る。
結核患者は軽きも重きも一室に集め廊下の方は密閉し窓は開放す。寝具不足にて皆ふるえ上る。血を吐くものは同室の患者にて介抱せしめる。
精神患者2名(死刑)あり、騒ぐ時は袋に入れて天上に吊し上げて冷水を打ちかけ半死半生の状態にて静まるを俟っておろさる。見るに忍びなかった云々。
(昭和24年3月16日、重光葵「続巣鴨日記」昭和28年)

この「病院」は巣鴨プリズンに附属していたようで、戦犯として入所中の日本人医師が診療している。

A級戦犯の扱いはことのほか厳しかったようで、

今日2組に分れて午前午後運動会をやり、巣鴨人の英気を養う機会が与えられた。A級は参観を許されず。
数日前他棟に自殺未遂があった。肺を病める人で雑房にありし人。廊下の隅の窓側で自絞を計りて見付かり蘇生したとの事。彼は後に独房に移され、後手にして手錠をはめられ、食事の時のみ片手をはづされると。
巣鴨の外郭に鉄条網あり。ある日鉄条網近くの木屑を拾い集める為之に近づきし女あり、見張台の番兵之を射殺した。その為監視も一層厳重となった。
(昭和24年5月22日)

「巣鴨人の英気を養う機会」(=運動会)も見せてもらえない。
戦犯たちに対する世間の目も、温かくはなかった。無理もないが。

壁外野球見物許さる。柵外より子供
「小父さん、何でぼろを着て、愚図愚図して居るの? 早く逃げればいいじゃないか」
P服
「いや、逃げたり何かしないよ、この内には沢山偉い人も居るんだぞ」
子供
「偉い人なんか、皆殺されてしまったんぢゃないか」
(昭和25年5月14日)

ちなみに、女囚棟には「三、四十歳くらいの人で九大医科病院の看護婦長筒井順子さん」もいた。「順子」は間違いで、正しくはしず子。九大医学部生体解剖事件の被告である。1948年8月27日に重労働5年の判決が下された。

1948年8月28日付朝日新聞
▲1948年8月28日付朝日新聞。

さて、重光の仮釈放当日。「法務局の人」が来て、なんとマッカーサーへの感謝をマスコミに言うよう要請するのである。なにそれ。

待って居る間に法務局の人とか云うのが私に耳打ちして、新聞記者には保釈は全くマッカーサーの特別の恩典で、此の恩典に対して感泣して居ると云う趣旨を談して貰い度い。後の人の為にもなると云うのである。私は之を黙殺した。其の人は更に之を紙片に書いて私に渡した。私は之迄出所する人の言葉が一様にマッカーサーに対する感激の辞であったことを不思議に思って居たのであるが、其の原因は茲にあることが解った。之が日本政府の指導であるとすれば飛んでもないことである。私はポケットに入れた其の紙片ノートも素より完全に無視した。
(昭和25年11月21日)

武見太郎がマッカーサーから人体実験を要求され、それに厚生官僚が反対しないどころか追随したことに激怒していたが、法務局もか。そんな追従を断固拒否した重光はエライ。昭和30年8月、米国務省での会談で米軍完全撤退と、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止をダレスに果敢に主張したというのも納得である。
収監期間4年7ヶ月、58歳で収監された重光葵は、出所時には63歳になっていた。
64歳で公職追放が解除され、67歳で鳩山内閣で外相兼副総裁に。日本の国際連合再加盟が実現し、日本政府代表として国連総会で演説したのが69歳。その1ヶ月後、昭和32年1月26日に重光葵は狭心症で急死した。

巣鴨プリズンの重光葵◆―堽苛責なき方法

巣鴨から法廷に行く、其の出入は例に依って丸裸にされ、持ち物は一切其の都度検査される。二重の検査である。行き帰りの検査、法廷でも二重の網戸である。外部との連絡は斯様にして厳重に遮断されて居るのであるが、それでも巣鴨に帰る時は思い出した様に手荒い検査がある。肛門から、陰茎、足の裏、口腔等容赦なく検査する。巣鴨に帰ると一つの室で裸になり、順々に検査を受けて、他の質に実に一物も着けず素足の儘行く、此処で朝出がけに脱ぎ棄てた獄房用の衣服に着替えて、整列して房に帰るのである。眼鏡も入歯も書類と共に検査を受けねばならぬ。
(昭和22年2月17日、重光葵「巣鴨日記」昭和28年)

常に沈着冷静、泣き言を言わない重光葵が参っていたのが、検査だった。身体検査に室内検査。収監者が自殺する事件などがあり、国際的にも注目されていた重光ら要人の検査は苛烈を極めた。ほとんど強姦である。

先づ頭髪、腕下、股間と毛のある処を仔細に検査する。次に鼻、陰茎、肛門等苟くも穴のある処を、或は指先で或は機械で入念に検査し、それから口腔から歯を全部一々手荒く検査し、永い時間を費やした上で二階に返され、第硬錣貌ったが、今度は室変えで、廊下の反対側に移されて、房内は一、二の書類初め私有物は全部取り上げられ、P印のズボンとジャケットの上下と蒲団二枚及びバイブル一冊と洗濯物が投げ込まれてあった。日記等の書き物は引きちぎってある。本日記中欠けた部分は回復出来ぬ部分である。
(昭和22年6月24日)

房はたびたびアラされ、しかもモノが持ち去られている。
日記は証拠品として――なのかもしれないが、タオルや靴下まで消えるのがよくわからない。支給品だからいつ取り上げてもOKとかいう腹なのか。支給品は「タオル石ケン便箋便紙歯ブラシ歯磨」(笹川良一「巣鴨日記」)、取りあえず必要な品は支給されたようだ。しかし、必要品が必用時に支給されるかは、また別問題であった。

更衣室に置いてあった靴下等が何時の間に失くなった。困ると訴えれば主任大尉は何時でも別に配布しようと答える。用紙、鉛筆、状袋、石鹸等の日用品を要求すれば「明日配布する」と獄兵は云う。翌日も同じ返事である。それかと思うと思い出した様に先方から歯ブラッシを持って来たりすることもある。
(昭和22年5月24日)

「眼鏡、鉛筆」まで取り上げられている。

午前中全員引き出され、医務室に連れ行かれ一人一人長時間の検査をなす。検事論告も始まる際何事か起ると直感したのであった。検査は毒薬隠匿を防ぐ為め峻烈苛責なき方法を以てなされた。先づ頭部、胴部のX線光線撮影の後、次の室にて歯、口腔検査、第三室にて衣類全部を取り上げ、別の囚人服を着せられる。其の前に耳、陰茎、肛門等を入念に検査し正午過ぎ迄かかる。夫れから二組として雑居房に連れ込まれ、食事の後数時間其儘監視の下に放置せられ、午後4時過ぎ外出の際の更衣室に送られ、再び裸体となり、今度は明日の為めに全部検査洗濯せる外出用の個人洋服を点検、明日出発の用意に整理せしめらる。終りて一同元の独房に帰さる。独房は書籍類に至る迄全部一物残らず引き上げられ、畳も取り代え、夜具も全部取り代えらる。
之より夜は眼鏡、鉛筆も夜8時より朝6時迄取り上げられるとの命令、自殺予防の科学的方法の様である。
(昭和23年2月5日)

眼鏡と鉛筆を夜8時から朝6時まで取り上げることが、ナゼ「自殺予防の科学的方法」なのか。

市谷往復は水も洩さぬ監視の下に置かれることは勿論である。それに巣鴨に帰ると丸裸にされたうえに、眼鏡も入歯も除かれて、口腔も鼻孔も耳も尻の穴も最も非常識な検査を受ける。
(昭和23年2月21日)

医務室には歯科室も付属していた。

次に歯科室に連れ込まれた。口腔を入念に検査する為めである。
(昭和23年4月16日)

歯科医師は外部から来ている。常駐ではなかった。

手荒き歯医者来り口腔の検査をなす。其実スヴェニールの為めに写真にサインをなさしむる為めなり。
(昭和23年4月27日)

「スヴェニール」とあるからには、米人だろう。
GHQは日本の歯科医療を50年前の遺物とバカにしていたが、巣鴨プリズンに来ていた米人歯科医師の質は非常に低そうである。
判決前日には、米陸軍病院で仔細な身体検査を受けている。

簡単な食事の後に最も厳重な警護の下に、目かくしバスは市ヶ谷から市内を通って病院に向った。街の様子も少しは見えた。こみ合った町の通行人、夜店の寒むそうな陳列もちらちらと眼に止まった。
病院では、要するに自殺用の薬品を所持して居らないかを調べるもので、X光線で丸裸にした身体を仔細に検査し、更に口腔、鼻孔、肛門等一々手荒く検査するのである。検査は粗暴で痛味を感ぜしめるものであった。
(略)
4時に法廷が終り、直に食事をして病院に行き、病院を出たのが7時前、真暗であった。
巣鴨では幸にももとの房に入れられた。然し房にあるものは畳迄含めて全部、蒲団も毛布も衣類も石鹸も歯磨きようじも、一切の日常品は全部取り替えられて、其の他のものは、書物もバイブルも新聞片も全部完全に持ち去られて居た。
(昭和23年11月11日)

この翌日、昭和23年11月12日に重光葵は判決を受ける。有罪、禁固7年の刑だった。

重光葵の法廷スケッチ
▲重光の法廷スケッチ。重光葵は、絵もうまかった。

巣鴨プリズンの重光葵 \謬咾料人鉄獄に堕つ 

戦時の日本外交を担っていた重光葵(明治20年7月29日〜昭和32年1月26日)は昭和21年4月29日、A級戦犯容疑で起訴・即日逮捕された。事前勧告等一切ナシ。スーツケース1つに身の回りの品をまとめ、重光はジープに乗って鎌倉から巣鴨へ向う。そして、そのまま拘置所に収監される。この時重光葵、58歳。逮捕時、14歳のお嬢さんが涙を浮かべながらも取り乱さず、MPや憲兵に茶を出す態度は見上げたものである。
なお、名前がやたら難読だが(葵と書いてマモルと読む)、父親が漢学者らしい。重光葵自身も獄中でたびたび漢詩をつくっている。余裕である。

隻脚騒人鉄獄堕 家亡身滅両児飢
湘南日夜思風浪 勿愁方之国破時
(昭和21年4月29日、収監当日)

重光が隻脚となったのは14年前、巣鴨拘置所への収監日と同日(天長節)の昭和7年4月29日である。その上海天長節テロ事件で、重光は爆弾テロに遭い、右脚切断の重傷を負った。死線をさまよいながら重光は第一次上海事変の停戦交渉について外務省と連絡をとり合い、停戦協定調印を5月5日午後に行っている。調印を終えると、すぐさま右脚を切断。爆弾創による複雑骨折は、外科手術でも最も難しいもののひとつという。死線を越えたのは5月8日午後。その後船で九州大学医学部病院に運ばれて、再手術である(第二外科)。

参考:渡邉行男「隻脚公使(2) : 重光葵文書より」

昭和20年9月2日、戦艦ミズーリでの降伏文書調印式では、重光はステッキを使い、義足で歩いている。あの高い甲板まで、どうやって登ったのかと思う。4年7ヶ月に渡る監獄生活もさぞ不自由だっただろうが、意外に医療関係の記述は少ない。持病の神経痛に始終悩まされていた有馬頼寧とは対照的である。まあ、重光はそれどころではなかったのかもしれないが。有馬は被告席に立つことすらなかったが、重光は有罪となるのである。

食事時となれば、番兵大声
チャウ!
と叫ぶ。多くはどんぶり鉢の中に、飯に汁類を打ちかけたものなり。恰も飼犬に食事を給するが如し。
(昭和21年5月8日)

計5人が同室。

同室五名何れも俘虜関係なり。互に激励す。
(昭和21年5月8日)

重光クラスの要人でも相部屋なのか。
ニュルンベルク拘置所は、もちろん独房である。日本で雑居させたのは、GHQ側に人種差別的な意図があったからか、日本の人権意識が低くて収監施設が貧弱だからか。どうもその両方くさいけれども。
人種差別といえば、アメリカとカナダが製作したテレビドラマ「ニュルンベルク軍事裁判」を見たら、ヘルマン・ゲーリングが心理学者のグスタフ・ギルバートに、アメリカ人の人種差別意識を指摘する場面があった。いわく、米国内で強制収容したのは日系人のみでドイツ人やイタリア人にはそうしなかった、ヒロシマとさらにはナガサキにも原爆を落としたのはどうなんだetc。ナチスのユダヤ人差別への非難に対する、見事な切りかえしである。このドラマ、ゲーリングが輝きまくっていて他すべてを喰っていたが(役者はブライアン・コックス。実にうまい)、製作者側に右派のドイツ人でもいたのだろうか。一方、恐らく主人公設定なのであろう、主任検事のロバート・ジャクソンは不倫相手の秘書とイチャつく軽薄なヤンキーそのものでイラつくこと限りなし。いやしくもアメリカ合衆国代表をこんなアホに描いていいのか、と心配になったほどの軽さであった。死刑廃止論者なのに死刑判決がお約束の裁判の主席検事を引き受けるし、検事と判事は超ナアナアだし……って、これは事実か脚色か? まあ、ドラマとしては面白いのだが、こんな内容(極めて反連合軍的、親ゲーリング的)でエミー賞を取ったというのはちょっと驚きであった。同じくエミー賞受賞作でナチス政権下のユダヤ人家族を描いた「ホロコースト」も面白かったのでオススメである。
閑話休題。 

昨日平沼男病院より帰来、病院の待遇悪化の事を語る。又東郷は容態宜しきも、心臓発熱は歯より来るとて全部の歯を抜きたりと、
(昭和22年5月2日)

「病院」とは、蔵前にあった米陸軍病院(現・同愛記念病院)だろう。
「平沼男」=平沼騏一郎男爵。平沼は昭和22年4月16日に入院している。病状についての記載はないが、この時平沼79歳。拘禁自体が老体には酷だったと思われる。判決は、A級戦犯として終身刑。1952年に病気のため仮釈放されたが、その直後に死亡した。享年84。
ちなみに、平沼が夜半に重光の房にやってきて「軍部の横暴振りを述懐し、今日若し戦争が好結果に終りたらば、日本は如何なったか寒心の至りであると云」ったと重光は書いている(昭和23年9月12日)。
「軍部の横暴振り」――まあ、米内光政が戦後、原爆投下やソ連参戦を天佑と述べたのは有名な逸話だし、似たような感慨を抱く当時の閣僚・官僚は少なくなかったのかもしれない。しかし、お前が言うな平沼よ。帝人事件や企画院事件などのでっち上げで首相にまで成り上がった極右が、どの口で「軍部の横暴振り」というんだ。
「東郷」=東郷茂徳。無歯顎になったこの時、64歳だった。義歯は獄中でつくったのだろうか。米人の歯科医師と、歯科技工士によって?

巣鴨プリズンの歯科事情 有馬頼寧

ドンブリ一杯は茶碗で四杯はあると思うが、おかゆの様なものとか、汁の多いときはよいが、普通のお飯を喰べなければならぬときは、胸につかえて通らず、御茶をのんでも下らない。時間が短いので、あわてるためもあるが、どうも唾液が足りぬ。食欲が旺盛でないのだ。歯が悪いというためもある。
(昭和21年2月26日、「有馬頼寧日記〜祿獄中時代」1997年)

有馬頼寧には、軽度の嚥下障害があったようだ。
巣鴨拘置所の食事は肉や果物は少なくともシャバよりは豊富だったが、野菜不足だったようである。食糧はドコから調達していたのだろうか。

拘置所の我々のとりあつかいについてはいろいろ不平もあるが、戦犯のことだから、たいして我儘はいえず、此位ならよい方である。食事も悪いという人もあるが、量といい質といい、闇の生活でもしていない限り、上等である。私など家に居る時よりも遙かによいものを喰べている。肉も魚もあり、野菜こそないが、パンも上等だし、バタ、チーズ、ジャムから果物は期[季]節期節のものをとにかく喰べられるのだから文句はない。或人の計算では一人一日百円はかかるというていた。
(昭和21年6月11日)

「一人一日百円」とすると、3000円/月。昭和21年の巡査の初任給(基本給)は420円/月、国会議員報酬は1500円/月(諸手当含まず)、国家公務員の賞与は1080円だ。ホントならすごい食費である。

問題は医療である。松岡、大川、津田の三人も要するにドクターの腕のないのと不親切が元で、それはドクターの責任か、上の方針かしらぬが、とにかくなって居ない。裁判で俘虜の医療をやかましくいいながら、此ていたらくは何であるか。


松岡=松岡洋右、大川=大川周明、津田=津田信吾

松岡氏の病状の悪いのに驚いて司令部では拘置所のドクターを非難していたとか、松岡氏をここに入れたことが聊々間違いなのに、入ってからの取扱いは到底あの重病人の取扱いではない。そして今になって入院させたり何かして騒いでいる。裁判上からいうても大切な立役者なのだから、もっと大切にすべきであった。


松岡洋右は結核で、肺も腎臓も悪かった。極東国際軍事裁判公判中の昭和21年6月27日に死亡。享年66。
呼吸器感染症の患者をそうでない人と一緒の雑居房に入れるというのは、衛生的にいかがなものか。有馬のいうように、虐待と言われても仕方のない所業である。

将来戦犯者の取扱上非難さるべき問題があったとしたら、それは医療のことで、ドクターの態度であり、又所長の責任である。津田さんの事は私はよく知らぬが、あれとても、前以て多少の取扱上の注意はあるべきだったと思うし、殊に大川氏の如きは明かにドクターの怠慢である。又所長の無責任の結果だと思う。


大川周明は精神異常。裁判から外され、昭和32年まで生き延びた。享年71。
津田信吾の病状は不明だが、昭和23年4月に脳出血で死去している。享年67。公判中から、めまいや頭痛などの自覚症状があったのかもしれない。

私の病気についても、ドクターは殆んど知識がないし、又極めて不親切である。(略)医療のことを病人個人の問題と考えるところにあやまりがある。自分が病気をせぬから、医者などどうでもよいと考えるなら、それは根本観念がまちがっている。


有馬は神経痛であった。痛いうえに治りにくい、つらい病気である。獄中の有馬は、神経痛の誘因である隙間風などに戦々恐々としている。

前の主任ドクターは恐らく一度も診察ということも治療ということもしたことはないであろう。収容所の人達も、自分達は俘虜に対して、この様な冷酷なことはなかったというて居る。人種的蔑視も手伝っているのであろう。肉体に触れることをきらっているのであろう。


「人種的蔑視」とあるので、巣鴨プリズン内の医療はアメリカ人医師が担っていたのだと思われる。「恐らく一度も診察ということも治療ということもしたことはない」医師というのがよくわからないが。厚生技官みたいなものか。
ちなみにこの頃、シャバは医師過剰である。戦時に大量養成し、戦地や外地にいた医師が敗戦で大量に帰国したからである。日本人医師の調達など、GHQはいくらでもできたはずなのだが。


巣鴨プリズンの歯科事情 有馬頼寧

有馬頼寧の巣鴨プリズン獄中記は昭和20年12月12日に始まり、翌21年8月31日に終っている。有馬は起訴されることなく、釈放された。
A級戦犯の容疑をかけられた、その原因は不明である。
有馬頼寧は明治17年、久留米藩主・有馬頼万伯爵の長男として生まれ(出生地は東京)、明治43年に東京帝大農科大学を卒業後、農商務省に入り農政に携わる。大正6年に同省を辞職し、東京帝大で農政学を講じる一方、部落解放運動や農民組合運動を支援して注目された。“左より”の華族であったわけだ。昭和12年の第1次近衛内閣では農相を務め、さらに近衛とともに新体制運動を促進し、昭和15年に大政翼賛会の初代事務総長になっている。
というわけで、大政翼賛会初代事務総長という経歴がマズかったのか……と思われるが、獄中記によると、取り調べでは大政翼賛会的なことは一切聞かれなかったようだ。というか、取り調べ自体ほとんどなく、有馬はヒマを持て余して読書と歌ざんまいの日々である。巻末に付された伊藤隆の解説によると「証言者として利用できるかどうか調べるためであったらしい」というが、それにしては収監9ヶ月は長すぎないか。不起訴にはなったが、裁判なしで9ヶ月の禁固刑を喰らったのと同じではないか。
有馬と同時期に巣鴨プリズンに収監された容疑者には、太田正孝井野碩哉古野伊之助岡部長景などがいた。以上は皆不起訴で釈放されているが、岡部長景の収監期間は22ヶ月(1945年12月拘留〜1947年8月釈放)と、もはや制裁の域である。なお、岡部は東条内閣での文部大臣。任期中、学徒動員や学徒勤労動員を実施している。

岡部君と話したことだが、近衛君は健康も悪いから気毒だ。多分痔が悪いので入所せぬであろう。
(昭和20年12月14日、「有馬頼寧日記〜祿獄中時代」1997年)

近衛文麿は当時、54歳。昭和20年12月16日に近衛は服毒自殺し、18日に有馬頼寧は獄中で近衛の死を知る。有馬は「無理もない」と同情しつつ、「任務を果さずして死ぬのは臣道ではない」と憤った。

死んですべてをうやむやにしてしまうことは、陛下に対しても、国民に対しても、又友人に対して、総てに迷惑をかけることなのだから。
(昭和20年12月18日)

近衛が死んで最も迷惑がかけられた「友人」は他ならぬ自分だ――と、有馬は思ったのだろう。有馬は大政翼賛会の創設者のひとりで、ナンバー2であった。ナンバー1はもちろん近衛なので、現存する最もエライ大政翼賛会関係者は有馬となってしまった。

事務総長をやったものは、死刑になるのではないか。日本にナチなど出来もせず必要もないが、それをいえば陛下に累を及ぼすし、近衛公というかんじんの人が居なくなったので、自分の立場も甚だしく不利になった様だ。
(昭和21年1月10日)

「死刑になる」という懸念は杞憂に終わるが、有馬はさぞ気が重かったに違いない。気が弱い人であったら発狂してもおかしくない事態である。ここで彼の正気を保たせたのは、趣味や教養であった。有馬は読書し、歌を詠み、愛人に思いを馳せたりして獄中生活を優雅に生き抜くのである。

隣の八号室に松岡洋右氏が来た。一寸見てはわからぬ位変っているが、不相変強気である。近衛公の手記に対して不満であった。あれは自分で書いたものではあるまいという。私も同感である。あの人は自分で書いたことは殆んどない。松岡氏曰く、自決するなら終戦の大詔の時にすべきで、自分が引っぱられることになってから自決するのは間違っているという。あの人の態度のために自分は引っぱられたのだというて居た。
(昭和21年4月13日)

巣鴨プリズンで、近衛に対する評価は地に堕ちていた。近衛は最もひどい形で自分の人生に幕を引いたのである。首相の器ではなかったのだろう。そういう人を首相として全世界を敵に廻したのが、わが国か。悲惨としかいいようがない。
なお、「近衛公の手記」とは朝日新聞に12月20日から掲載された「日米交渉 近衛公手記」(全11回)だろう。書いたのは松岡洋右の指摘するとおり近衛文麿ではなく、朝日新聞記者の小坂徳三郎である。小坂は後に、第1次大平内閣の経済企画庁長官、鈴木改造内閣の運輸大臣を務めた。

巣鴨プリズンの歯科事情 有馬頼寧

昭和17年、有馬頼寧(明治17年〜昭和32年)の獄中記から。昭和20年12月12日にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された、その当日の記載である。

午後一時に荻窪を出発、巣鴨に着いたのは二時前、暫く連絡事務局で休憩の後刑務所の門を入ったのは二時半頃と思う。第一調室では荷物の検査と身分の調べがあり、第二室は身体検査で、第一室の検査の時衣服は全部脱ぎ、支給の衣服と着替え、健康診断も簡単に終って、第三の室に入り、何か知らぬが白い消毒粉を総てのものにふりかけられた。
(昭和20年12月12日、「有馬頼寧日記〜祿獄中時代」1997年)

「白い消毒粉」はDDTだろう。

今朝ドクターが来たので診断書を見せた。温かくする方法はないとの事。歯グキの痛いのは、歯医者が居らぬから、来たら何とかしてもらえるとの事。
(昭和20年12月12日)

歯科医師は常駐ではなかったようである。
この時、有馬頼寧62歳。有馬が無歯顎になったのは58歳で、収監時は総入れ歯であった。極東軍事裁判の、特にA級戦犯容疑者は皆高齢である。歯科医師ぐらい常駐させとけよと思うが、そこまでGHQの気が回らなかったのか。ちなみに、食事はシャバよりも良かったことを、多くの入獄者が証言している。

林檎やみかんを近頃は毎日の様にくれる。林檎はあまり好きではないし、刃物がなくて歯が危ないから他の人に譲っている。ミカンは上等で味い。
(昭和20年12月25日)

皮をむくナイフはもたず歯は入歯 林檎も梨もただ眺めいる
(昭和21年1月7日)

入歯で林檎も梨も喰べられぬ歌を書いたら二十四号の人がミカンを沢山わけてくれたので、林檎と梨を交換した。
(昭和21年1月12日)

ドンブリいっぱいのぜんざい、カレーライスなど当時の食糧事情からすればかなりのご馳走も出されている。ただし、波があったようで三食ともパンという日も。パンが好きな有馬は喜ぶが、他の容疑者は不満を言っている。当時、パンは代用食という意識が一般的であった。

カレーカレーほんとにカレーライスなり 汗をふいたり水をのんだり
(昭和21年2月16日)

死刑の恐怖に脅え、神経痛に悩まされつつ、有馬頼寧には獄中で歌を詠む余裕があった。このあたり華族のエレガンスであり、プライドなのだろう。

戦時の医歯一元化闘争63 お医者さんとソバ屋の新体制

新体制ブーム真っ最中の医療系記事。著者は下村海南(明治8年〜昭和32年)、初出は昭和16年6月号の「モダン日本」。

「夜ふけての往診は全く閉口しますよ。京都の茶屋街では夜12時すぎ、午前1時、2時、そうした頃にふんだんに電話がかかってくる」
「夜中急病が多いのでしょうか?」
「急病では無い、宵のうちから電話をかけてよいのだが、商売柄縁起をかつぐ気味もあろう、何よりもお客商売最中に医者がくる、病人のほうへかかわってるのは困る、まあ店が片付いてからの事だ。お客はかえる、店はしまう。夜の1時、2時、やれやれ一眠りという時、夜と昼と取りちがえている茶屋街では、それではお医者さんに来てもらいまほか、電話おかけやすえという、いと心安げな電話をかける段取りになるのですよ。」
(お医者さんとソバ屋の新体制、下村海南「日本の底力」昭和16年)

今でいうコンビニ受診である。

「それはたまらない。そうした夜更けの往診などは特別診察料をとってよいのですな」
「ドイツなどでは夜8時以後は時刻によりちゃんと診察料が割増しになっているが、日本ではそんな事をすると世間が承知しないでしょうね……だから自然新規はじめての家だからと足が運びにくい。御得意の方は仕方がない、床からはね起き、ぶるぶると身振いして寝巻を着かえる……」
「冬のさ中雪の夜などは感心しませんな……結局これも時節柄ドイツ式にでもしないといけないようですな。そうした特別割増料でもきまってると、遠慮なく夜中にもお医者さんへ電話をかけて見る気にもなるが、そうでもないと、よくよくの時でないと、そのうち夜の明けるまであと何時間だ、それまでまあ辛抱しよう、という事になりやすい。」
「ドイツではそればかりでない、薬瓶にしても患者の方で無駄をしたくないというのでよく古瓶を持参してくる。そうすると薬瓶代の3分の1をとる。古瓶の洗浄とレッテル貼付代として……」
「ハッキリしてますな」
「それから電話で容体をはなしその手当なりいろいろたづねる。時には郵便に託する事もある。そうしたときにはその電話なり郵便による返事に対し、なにがしか法定の料金もとる……」
「日本ならばいやに水くさいというところでしょうな……」
「日本ではそうしたいろいろの代金が、つつこみで薬価や診察料へコミにはいってると見てもよいですな」


傍線は引用者。まさに。マルメ、ダメ、ゼッタイ。
国会議員に一律支給される「文書通信交通滞在費」(月額100万円、領収書もいらないし使途も明らかにしなくてよい、つまり使わずに貯蓄してもOK)なんてのもマルメの一種かもしれない。

「いや同じような事が僕らの畠の物価問題へうつして見ると、早い話がソバ屋の出前持ち……あれが雨風の夜も雪の日も註文した家並にくばってくれる、又あとから空いた皿小鉢をあつめにまわる。そのソバやウドンの値段は、ソバ屋の店に見えるお客さんの分とかわりが無い。」
「そうですな」
「其の上店先でパクついてくれるお客は、その場で現金を払う、宅までくばったのは月末の延べ払いだから、まるでさかさまである」
「近頃ホテルでは部屋へとりよせると、食堂の分へなにがしかサーヴィス料をとる、あれがよいですな」
「述べ払いの商売はその延べの為めの金利、それも相当長くのびるのもあれば、結局不払いになるのもある、そうしたのをつつこみにしてるのだから、即時現金払いをする方が馬鹿げてるという事になる。結局こうした所にも革新建直しがあって然るべきでしょうね」
「どれもこれも新体制ですな」


著者の下村海南は本名・下村宏。官僚とジャーナリスト畑を行きつ戻りつした人である。東京帝国大学卒業後、逓信省に入省、台湾総督府総務長官と植民地行政にも携わり、大正10年には大阪朝日新聞社に入社、昭和5年に副社長に。朝日を退社すると貴族院議員になり、昭和18年には日本放送協会会長に就任、昭和20年4月には入閣(鈴木内閣)。内閣情報局総裁として、いわゆる玉音放送をプロデュースしたことで知られる(岡本喜八監督の映画「日本の一番長い日」では、志村喬が下村を演じた)。戦後は戦犯容疑者として拘留され、昭和21〜26年にかけて公職追放。戦中のエッセイなどを読むと、その視点の幅広さに感心する。情報源は豊富な人脈なのだろうし、であればダイナミックな経歴も納得だ。

戦時の医歯一元化闘争64 歯科医育のユニバーシチイ化

一元、二元論の歯界を観察しても高等歯科陣は医師であって歯科を専攻した教授陣であって、東京歯科は純然たる歯科医師教授陣である。
(京都哲人「杉山不二氏の所論を読みて」、1943年1月発行「臨床歯科」)。

著者は「歯専卒業後米国にて学びたる」歯科医師。

米国には「デンタルカレッヂ」は多数あるが日本のように名実共に単立しかも私立では無い。多くは「ユニバーシチイ」に附属している。したがって歯科の学長あるいは教授の如きもただ、我独存的なまたは独善的な我利我利では無い。総合的な識見をもっている。従って米国の歯科教育または制度を批判する資格は日本の如きお山の大将然たる歯科医専制の人物ではできないと思う。学長はもちろん、有能教授はM.D.、D.D.S.であって総合大学のいずれの科の教授にも押しも押されもしない。杉山氏は学校の総合に論及しているが、東歯と慶大、または慈大と総合すれば将来性が大になるではないか。

総合大学化では、佐藤運雄の日大歯学部の例がある。子ども自体が減っているし、将来性を大にする方向で何とかしなければ、歯科大のみならずすべての単科大学は厳しいんじゃないだろうか。
なお、松本歯科大学は「ユニバーシチイ」を名乗っている。単科大学だが。

米国でも口腔外科医 oral surgeon はもちろんのこと、抜歯専門医(Exodontist)でさえM.D.を持っている。教授においてはなおしかりである。口腔外科の教授になるために禿げ頭、白髪頭をしても、医科に通っている米国歯科外科医の真面目さにならっては如何? 東歯の外科陣の人々は――基礎学研究に境界がない安全地帯にいる正木氏の勝手な議論に比して診療範囲に束縛ある臨床地帯に立つ大井氏の心中察すべきものがある。


「大井」清は大正12年東歯卒で口腔外科教授。正木正と同期。

東歯同窓会大阪支部会研精会席上にて大井氏が大見得を切った話を友人の東歯同窓から聞いたが理屈は無い。大井氏はM.D.を持つべきである。東歯のため、また、日本歯科界のために。実際全身症候、ことに危険症候、さらに致死症候ある歯科口腔領域疾患の診療を受ける患者の身分になって見よ。医師資格ある口腔外科専門家に手術して欲しいのが人情ではないか。術者としてもまた同じ心持ちであるはずである。
医学博士の学位と附属医院外科部長という看板で腕を振うよりも自他共に明朗な心境で仁術をなすべきである。我々の知人、近親者に重症口腔外科患者があったとすれば、大井氏よりも大歯の原先生、また開業医では川上、織田先生に頼む気になるのが当然である。
医歯交流は東歯年来の主張であると今更になって申しているが、大正年代に青年歯科医が医師になる途を開けと運動した時には日本歯科医師会長血脇氏および同幹部の奥村氏が道府県歯科医師会長に指令して大弾圧した当時から観れば東歯幹部も時代に目覚めたのであって遅れながらも日本歯科界の為、慶賀すべきである。


ああ「医歯交流」。言うは安し、実際は難し。
そして著者は友人からの話として、官選日本歯科医師会(日歯)人事の裏話を披露する。

前加藤局長は日本歯科医師会は血脇、奥村の「コンビ」で旧来の通りやると定めておられたが瀬尾局長になってからは加藤局長の約束を無視する事もできず、さりとて校長や学監の委任では非難が多いから、東歯の校長は奥村氏にゆづって血脇氏が日歯会長になるならよいと、非常な同情を賜りまた、血脇氏に配するに広瀬氏と兄弟内閣ができることに了解済みであると(引用者註:奥村理事長が)明言せられた話である。


日歯に日医ほどの激震がなかったのは、官僚と日歯の癒着があったようだ。

戦時の医歯一元化闘争62 官選歯科医師会

官選歯科医師会について、福井県の場合。

己に任命された設立委員長、宇賀治民造氏以下11名、各地区代表設立総会議員7名が、今は惜しくも消え去った名物人絹会館に当時の地方長官永野若松知事以下の来賓を迎えて、設立総会のテーブルに着いたのは昭和17年、師走も押し迫った28日のこと、この日我福井県歯科医師会は、いわゆる官選歯科医師会へと変身したのである。外には冷い小雨が静かに降っていたが、戦線では第3次ソロモン海戦が演ぜられた時期、次第に戦争の影が皆の胸に拡って来ていた。会議は既設のレールに沿って走るのみである。
皇居遥拝から始り、会議は議題の会則案の審議に入ったが説明役の警察官の鼻息は荒い。その頃は保健所ならぬ警察が医療衛生業務の監督を担当していたのである。その解説をした県警部の顔をその時の人達は覚えているだろう。彼は誠によくしゃべった。そして条項毎に「この様に謳っているのであります」と結ぶのが癖であった。その警部両川速水氏も今は亡く只冥福を祈り度い。
会則の最も重要な点は、「国策に協力するを以って目的となす」の1項と伝える第3条である。官選とは主たる役員の任免権を所属官庁の長官が行うことであり、強力な業務の統制力を意味することになる。
斯くして新しい会則に拠る本会が成立し、記念撮影で総会は終った。半ば何とはなしに茶番劇をやっている様でもあり、一方ではひしひしと危機感が忍び寄って来るのである。
(細井達雄「官選歯科医師会」、「福井県歯科医師会史」昭和60年)

医療は国防の一貫であった。とくに防疫は犯罪の取締と同じように考えられていた。

さて翌18年1月9日には、早くも宇賀治会長は、だるまや講堂に第1回の臨時総会を召集し、臨戦下、新歯科医師会の設立を宣言した。各支部も又議員の選挙、支部常会式等結構に多忙なるを迎えていた。その上、この時期降雪も多く、日誌は処々に雪下しの記事を誌している。
当時、同時に支部長を委嘱された私は、1月6日支部常会を召集して議員、予備議員の選挙を行い、坂野、三好の両氏を臨時総会に送っている。然も、急を要したためか、7日、在郷軍人分会の行事を終えてから夜、雪の中を会長宅を訪問して名簿を提出している。我ながらいじらしい。
各支部も変りはなく、又会員諸君も後輩支部長をよく盛り立てて手馴れぬ行事を補佐した。車のない時代である。
本会の一行事として、敦賀陸軍病院に於て救護活動の訓練をやったのを覚えている(7月20日)。訓練とは程遠いものであったが、然し歯科の先生方の担架演習は戦時下、非常時意識昂揚に病院側を感服させた。昭和19年7月私は、再度戦争に召集されて会を離れたが、之より後の会員諸氏のご苦労は迫る空襲下大変なものであったに違いない。

官選の福井県歯は昭和18年2月12日に第2回の臨時総会を開いている。議題は「歯材配給制の問題を中心に、報国診療についての会の活動」であった。昭和17年には歯科材料のほとんどが配給制となっており、その後、材料“不足”は“欠乏”となって手も足も出ない状況になっていく。報国診療として「無歯科医村診療並に無歯科医校の検診」を行った、と会史にあるが、材料がなければ修復もできなかっただろう。予防が叫ばれたのは、そういう事情も反映したのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争61 歯科界の改革的興味

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▲昭和18年8月19日付朝日新聞

顧れば我等の職域団体には、新法令による内閣任命の日本歯科医師会長の出現というまことに華やかな命題が越年した。この椅子によって3万の歯科医師に号令する当代第一人者決定の問題は、歯科界の大きな話題であり関心事である。
(三好泰「指導者よ立て」、1943年1月発行「臨床歯科」)

74年前の今頃、官選歯科医師会が誕生した(昭和17年11月1日施行「医師会および歯科医師会令」、勅令634号)。強制設立・強制加入、郡市区歯科医師会は廃止されて道府県歯の支部になった(例:富山市歯科医師会→富山県歯科医師会富山市支部)。中央集権化して、上意下達をスムーズに行うためである。
役員は官選。日歯会長は厚生大臣に、道府県歯会長に県知事に任命された。

推薦任命の手続きになるこの会長は既に旧臘6日に行われた府県歯科医師会設立議員の選出によって、基礎となるべき第一階梯の準備手続きを終り、目下第二階梯たる道府県歯科医師会長が、厚生大臣から続々任命せられて居るのだから、も早や大勢は定まったと見ても大過はあるまい。


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▲昭和17年12月25日付朝日新聞

新歯科医師会の設立には、
‘刺楔歯をまず設立
△修涼罎ら官選された設立委員(5人以上)によって、日歯を設立
の2段階を経た。
以下は官選・広島県歯科医師会の設立スケジュールである。

昭和17年11月
14日 県衛生課で第1回設立委員会
16日 県医師会館で選挙執行者協議会
18日 選挙名簿縦覧に関する事項を新聞に広告
19日 29日の設立総会議員選挙執行の件を新聞に広告
24日 大分市で新会設立に関するブロック会議
26日 県衛生課で第2回設立委員会
29日 各支部一斉に設立総会議員選挙

昭和17年12月
12日 県社会館で設立総会開催
23日 設立認可、会長任命
26日 会長が新支部長を推薦、県知事の認可を得て嘱託

昭和18年1月
24日 各支部常会、支部規定および昭和17年度予算を附議

昭和18年2月
23日 官選会長のもと初臨時総会
(広島県歯科医師会史、昭和40年)

ちなみに、「県衛生課」は県警察の下部組織である。衛生行政は当時、警察の管轄であった。

医歯一元論の理念が歯科界に大凡そ浸透した頃、世間の苦労を積んだ方々によって、歯科医学専門学校同窓連合会が結成せられ、その会長は「……今ぞ正に新生歯科医師会設立のために勇敢に立上るべきである殊に強調したいことは、新生歯科医師会の幹部を求むるにあたり、歯科医業の本質に鑑み、その使命の重きを思い、又今日の国情に照し、医歯一元化の急務なるを理解し、その実現に対し真に挺身すべき者に嘱目すべきことである……」と呼びかけた。即ち歯科医師会役員詮衡の条件に一元論を結付けて、同窓を新興勢力となすべく立上がったのである。これに対し旧勢力側即ち東京歯科医学専門学校側では、医歯は素より二元制である。一元運動並に同窓連合会には与すべきではないとうけて立上がり、歯科医師会の動向はこちらの手のものだという膨らみをみせた形をとったのである。
ここに2つの派が出来て、明かに相対立し、歯科医師会幹部選出――究極は日本歯科医師会長推薦――の対抗となり、その名目として一元、二元の論をかつぎ出したかの如き観を呈するに至った。かくして歯科界の改革的興味は燎原の火の如く忽ちに広がり、しかもこの間に於ける一元側の不鮮明なる態度が人心を暗うしたが為めに、簡単な理念が却て複雑な印象を与え、疑義と不安に動揺しつつこの元旦を迎えた次第である。


新日歯は、昭和18年1月15日に発足。

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▲昭和18年1月29日付朝日新聞

同月28日に、厚生大臣より設立が認可された。
会長:血脇守之助、副会長:加藤清治、専務理事:西村豊治。

日歯は大して代わり映えしなかった(日医会長は、日本医療団・稲田龍吉会長が兼任となる大変化)。東歯ががんばったか、同窓連合会がヘタレたか。取りあえずマスコミは無視というか、医師会を取り上げておけば歯科医師会は省略してもいいという程度の扱いであった。国もそういう態度で官選に臨んだのではないかという気がしてならない。

戦時の医歯一元化闘争60 狂乱の状態

昨日に引き続き、杉山不二「一元論者に与う」より。東京歯科大学百年史では医歯一元化闘争についてほぼ無視しているのだが、

昭和17年春同窓連合会なるものが組織せられるや、所謂一元論は一元化運動となり、今や殆ど狂乱の状態を呈し、これに関与する官私学校の長、教授以下東奔西走、筆舌を尽して殆ど目的のために手段を選ばない有様である。その間流言につぐ流言、デマにつぐデマを以てし、怪文書は縦横に乱れ飛び、人をして真偽の識別に惑わしめている。
(杉山不二「一元論者に与う」、1942年12月発行「臨床歯科」)

当時の東歯卒業者は苦労していたわけである。東歯側の記録(例えば奥村鶴吉など当時の指導者の言い分)も結構、あったのではないか。「百年史」では“黒歴史”として意図的に無視したのだろうが、医歯一元化闘争は日本の歯科医療史のエポックメーキングである。もったいない。

戦時の医歯一元化闘争58 一元論者は医技分離論者

1942年12月発行「臨床歯科」より、杉山不二「一元論者に与う」。
著者は後の東京歯科大学名誉教授で学長(昭和40年6月)、昭和58年7月に死去、享年83歳。東京歯科医学専門学校卒の、医歯二元論者である。

歯科医専を医専に改造すべしという論が医事雑誌によく出ているが、それは少し見当違いであろう。歯科医学教育の内容を医学教育の中に盛り込むことが出来ない以上、歯科医学教育に従事するものが、その天賦とするところを放棄する結果となるからである。現行法規にも明示する通り、保存、補綴及び矯正の3科は、医学校の課程中には含まれていない。これらは何れも国民医療上大切な部分であるが何処でも教えない。たとい教えても殆ど形があるばかりということになっては、大欠陥を来すことになるから、真面目な歯科医学校当事者は承知しないであろう。仮に承知して改造が行われたとする。幾年かの後には医師にして歯科を行うものは、どうしても技工師に頼らなければならない時代が来る。


その通り、いまや「どうしても技工師に頼らなければならない時代」となった。
それにしても、バイトも取れない歯科医師が現れるのはいつなのか。
歯科医師国家試験から技工実技がなくなった1982年以降だろうか。だが、歯科技工所は東京大震災後から隆盛となり、東京技工所同業組合(日本歯科技工士会の前身)ができたのは昭和9年、花桐岩吉による公認歯科技工師会(花桐会)の設立は昭和13年。丸山岩三郎によると、昭和16年頃の東京市には200軒を数える歯科技工所があったという。

これら技工所のお得意は、技工所の小なものは2、3の歯科医院、大きな技工所では数十軒の歯科医を得意としているのであります。平均技工所の得意が10軒といたしますと、約2000軒の歯科医が技工所を利用しているわけであります。昭和16年11月7日開催の「歯科技工所問題に就ての談話会」、1942年2月発行「日本口科学会雑誌」)


というわけで、昭和初期(戦前昭和)から技工をしない歯科医師は珍しくなく、歯科技工師も大いに食えたわけである。まあ、技工をしない=技工ができない、とはいえないけれども。

技工師もその地位を高めたいと思い、医師の方に技能が乏しいのだからこれに乗じて必然的に頭を擡(もた)げてくる。遂に欧州に見た如く独立の義務となる。こんな具合で、真の一元論者は結局は所謂医技分離論者ということになり、これが避くべからざる結論となるのである。


「真の一元論者は結局は所謂医技分離論者」という指摘も、その通りである。歯科技工師および歯科技工所をいかにせん、という歯科技工法成立まで続く議論の一貫として、医歯一元化闘争はあった。ということは、医歯一元化を選ばなかった時点で、歯科技工法の内容は決定されたのかもしれない。

昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と

本日は近衛文麿の命日なり。

僕は支邦事変以来多くの政治上過誤を犯した 之に対して深く責任を感じて居るが 所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は耐え難い(事である) 殊に僕は支邦事変に責任を感ずればこそ此事変解決を最大の使命とした そして此解決の唯一の途は米国との諒解(の外なし)にありとの結論に達し日米交渉に全力を尽したのである その米国から今犯罪人として指名を受ける事は誠に残念に思う
しかし僕の志は知る人ぞ知る 僕は米国に於てさえそこに多少の知己が存することを確信する 戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂与論なるものもいつかは冷静を取り戻し(正)常に復する時も来よう 其時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう
(近衛文麿の遺書、武田泰淳「政治家の文章」1960年。カッコ内は近衛自身の書き加え。引用に際し現代かなに直した)

近衛文麿は昭和20年12月16日午前1時ごろに上記の書をしたため、次男・道隆に渡した。遺書は近衛家の用箋に、鉛筆で書いたもの。2時ごろ道隆が就寝、近衛の遺体が発見されたのは午前6時。服毒(青酸カリ)自殺だった。家族は近衛の自殺を察して、深夜まであれやこれやと話したり、世話を焼いたりしたらしい。遺族の落胆を思うと胸が痛む。特に、文章を受け取った次男は自分を責めたのではなかろうか。

政治家としての近衛文麿の評価は、優柔不断で無責任――まあ、そんなものだろう。

威勢よくブチ上げては解散、を3度も繰り返した首相である。
当人も認めているように、特に「支邦事変」への対応はマズかった。盧溝橋事件では現地で停戦協定を結んでいるにもかかわらず――近衛と蒋介石のトップ会談で戦争を回避すべきという石原莞爾の提案を蹴って――華北に派兵。国内の戦争気分を盛り上げ(国民精神総動員運動)、挙国一致の戦争協力体制をつくる。同年12月の南京攻略前には、和平を唱える陸軍参謀次長に対し、なぜこの期に及んで弱気になるのかとつぶやいて軍部をあおりさえした。この南京攻略後の残敵掃討作戦中にいわゆる“南京大虐殺”が起こり、いまだに日中両国間の禍根となっていることを思えば、近衛は怨んでも怨みきれないアホ首相である。一方、中国共産党はひそかに近衛に感謝しているかもしれない。近衛は翌13年1月に「爾後国民政府を対手とせず」と声明して華麗に日中戦争を全面拡大しているが、この声明がなかったら中国の共産化はなかったor遅れた可能性が高いからである。それはともかく、第1次でまるで見るべきものがなかった近衛内閣が第2次、さらに第3次とあることには茫然とする。他に政治家はいないのか、と思いながらの第3次。って今現在もか。

そして、日本は敗けた。
史上初の敗戦、しかも無条件降伏という最悪の負け方である。
そこで近衛文麿は裁かれることに耐えられず、自ら死んでしまう。

近衛の遺書について武田泰淳は、「最後の文章のとっぱなに、過誤と責任を持ってきたのは、真に言いたかったのは中国問題の悩みでもなければ、支邦事変の反省でもなく、ただひたすら『米国から犯罪人として指名を受けることは誠に残念に思う』という、消しがたい強烈な感情を吐き出す前置き」と推定しているが、同感だ。遺書には近衛の知性(「戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と」の部分など実に名文)、気品(かなりの達筆)、そして弱気が感じられる。五摂家筆頭の家柄で父は公爵、京都帝国大学法科大学卒で師はマルクス経済学者の河上肇である。軍部の荒くれどもにバカにされないよう背伸びしていた貴族、それが近衛なのかもしれない。国民人気を背景に分不相応な地位にまつり上げられた気弱な男の悲劇、なのか。

近衛は、ゲーリングのように言いたいことを言ってから死ぬべきであったと思っていた。
この遺書を読むまでは。

ゲーリングは毅然として勝者の裁きに立ち向かい、言いたいことを言い、死刑判決を受け、服毒自殺した。米国は永遠に自分を吊るせない、と家族に言い残して。連合軍の厳重な警戒の裏をかいた、見事な自殺であった。近衛には、しかし、そんなしぶとさ、したたかさはなかったのだろう。この時代に生まれていなければ、平和な時代に生まれていれば、もっと幸せで、優雅で、知性と賞賛に満ちた人生を送った人だったのだろう。かわいそうな人であった。頭に来るけれども。

戦時の医歯一元化闘争57 旧体制歯科医師会の残骸

国民医療法施行せられ新たに歯科医師会は設立せられんとして東京府に於ては8名の設立委員(11月2日付)並に選挙執行者(11月7日付)が任命せられた処が左記通牒に依り会合があった。
(よみびとしらず「新生歯科医師会設立に汚点を印するもの」、1942年12月発行「臨床歯科」)

通牒は昭和17年11月10日付の「発東府歯第287号」。上田貞三・東京府歯科医師会長より支部会長に出された「歯科医師会設立総会議員選挙執行者に対する選挙執行上の注意並に打合会開催通知」である。

設立議員選挙執行者は地方長官の任命にかかり(設立議員選挙規則第3条)旧体制歯科医師会の残骸とは全く無関係のものである。
然るにこの府歯科医師会長の残骸が各区支部長の残骸を集めて設立議員の選挙打合せ会を開催し而も東京府の織田事務官が出席した由であるが、旧体制の残骸に如何なる権能ありてかかる会合を催したりや実に新生歯科医師会をして旧体制の連続たらしめんとするものであり何等権限なきものが新たに生れ出づるものを汚すもので許すべからざる行為である。而も此の狂的招集状に対しては又何をか云わんやである。


しかし、これは行政の怠慢だろう。それを歯科医師会に許したのだから。
Ni-Cr合金の保険収載歯科医師の需給過剰――国の歯科軽視が歯科医師会を助長させ、そのアホに加担してきた面は否めない。

戦時の医歯一元化闘争56 歯科医業とは何ぞや

歯科医業とは何ぞやと言うと私にもサッパリ判らない。
(田邉一郎「医界維新」、1942年12月発行「臨床歯科」)

著者は日本歯科医学専門学校(日歯専)卒の歯科医師。

歯科医師は歯科に関係ある死亡診断書が書けると云う事は、歯科に関係して起った死亡であるか又は全く別な所に原因があったのではないかどうかを全身に就て診察する能力が歯科医にあると云う事を当局が認めておるに他ならぬ。然らば死体の検案も出来てよさそうなもので法医学も現在歯専で教えておる。然るに事実は之に反す。


今でも歯科医師は死亡診断書を書くことが可能で、そして死体検案書は書けない。

我々には歯科疾患と何等の関係無く起った疾病や創傷の治療をする事は医・歯の区別ある限り到底出来得ない事であるが歯科的疾患を治療する為に必要とあらばあらゆる適切最上なる手段を講じ得べき権利(義務)ある事を主張する事は出来る筈である、然るに事実は必ずしも之をゆるさない。しかも歯科的疾患そのものが既にどの範囲を指すか解らないし、例え歯牙に関係するものと規定しても9月号で佐藤さんが述べられた様な問題が起る、又果して歯牙に関係しておるのかどうか解らぬ場合もあるし厳密に言えば全身之一貫性あるところ関係無いものはない、ここに又問題が起ってくるのである。

歯科心身症の患者は、歯科に行くべきか心療内科に行くべきか、精神科に行くべきか。
口内炎は歯科に行くべきか、内科に行くべきか、皮膚科に行くべきか。
結局は患者の自己診断と趣味で受診科が決められるのだろうが、それでいいのかとも思う。
静注は赦すが毒にも薬にもならぬ様な薬物でなければいけないと云う、そんな事で果して歯科医業が完遂され得るものであろうか、苦しむのは患者だ、手に負えなくなったら医師へ廻せというのでは医者としてあるまじき無責任極まる態度と申さなければならん、その様な事では無条件独立開業は赦さるべきではあるまい。


ホント、歯科医業とは何だろう。難しい問題である。

なお、話は飛ぶのだが。
著者の田邉一郎氏は、学生時代(日歯専)に「クラブ太陽堂の援助を受け在京各歯科医校学生会の講演部(又は有志団)と連合し」「西銀座森田ビル講堂で或る研究会を開いた事がある」。その際、「東歯だけは、校内団結を乱すと云う学校当局の意向で不参加であった」という。東歯の排他性は校風であって、医歯一元化闘争の際に限ったことではなかったようである。

戦時の医歯一元化闘争55 最初の一元論者

当時は恰も議会に歯科医師法改正案の現わるる以前であって、歯科医界の有力者は筆者の言に耳を貸さず、却って反対の態度でいた。今日それが全国歯科医界の与論となって燃え立ったのを見て、真に感慨に耐えないものがあり、同時に健民政策の為め深く之を欣快とするものである。
(土屋清三郎「医歯一元は歯界のみの問題に非らず」、1942年12月発行「臨床歯科」)

厚生新聞主幹の土屋清三郎は、「夙(はや)く医歯両制度の一元化を企てた恐らく最初の一元論者」らしい。

然るに昨今歯科医界を代表する日本歯科医師会会長が之に反対しているとの事である。凡そ団体生活に於ては会長は会員に従い、会員は会長に従い、相率いて合理的な生活が出来るのであって、会長が会員の意志を無視して服従を強るならばそれは会長の独裁専制であって、反対に会員が会長の意志を無視して行動するならばその団体は無政府状態に陥ったのである。而して会長の意志は総会の意志であって、日本歯科医師会は未だ医歯一元に就て総会の意志を決して居らざるが故に、会長は此の問題に就ては白紙である筈である。然も会長にして医歯一元に反対の意志を有しそれが歯科衛生の為に不都合であるとするならば、官府に向って運動する前に、先づ以て総会を招集して之を附議し、その決定を待って会長としての態度を決すべきである。

日本歯科医師会は「官府に向って運動」はしていた。

筆者は、会長血脇氏とは面識多年その人と成りに大して私かに経緯を表するのみならず、歯科医師会設立以来の功労者として会外の信望を繋ぐ事北島日本医師会長と甚だ似たるものあり、近く全会員より大にその功労を表彰さるべき地位にある。然るに今や多年に亘って率い来った医師会が数旬を出でずして終焉を告げんとするの時、澎湃として捲き挙った全国会員の熱望に対し、敢て之を抑えて、為に歯界有終の美を兄弟争牆の醜に終らしむるが如きは、光輝ある我歯界の名誉の為真に惜むべき事と云わざるを得ない。思うに血脇氏は徳の人である。左右あに知者なからんや。

土屋清三郎は明治15年、千葉県生まれ。医師、元衆議院議員。昭和21年3月3日、心臓麻痺で逝去。享年65歳。

戦時の医歯一元化闘争54 真の孤高派

大阪歯科医学専門学校(大歯)校友会は当初、歯科医学専門学校同窓連合会(以下、連合会)に参加していなかった。
大歯校友会は、医歯二元論派・東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会と、一元論派・その他る歯科医専との調整を図るつもりだったらしい。昭和17年6月28日に開かれた連合会総会において大歯校友会は、複数の役員に推薦されたものの「正式に加入していない関係上直ちに辞退取消し方を申し出」ている。
大歯交友会は、不参加の理由を7つ挙げているのだが、

森山氏等の在京委員は東歯及び連合会側と2、3回会合して話を進め極力円満和解に努力されたのであるが双方共に本会の切望している「まづ一丸一体となった上で一元、二元あるいはその他当面の問題を協議検討しては」という意見に対し「まづ一元か二元かを決定せねば」という意見が強く、なおその他にも相容れない複雑した問題もたまっている様子あるため本会が要望しているように簡単容易に妥協提携は実現しそうにも見えず、その後も依然として双方共対立の空気を濃厚にして摩擦を続けている現状である。
(大阪歯科医学専門学校校友会「歯科医学専門学校同窓連合会、東歯同窓会並に所謂医・歯一元化問題に対する本会の立場、1942年9月発行「臨床歯科」)

要は、連合会側の根回しが足りなかったようである。

某氏をある歯界の要地に推薦する場合にも協議機関設置陳情の場合にも連合報国大会に代表者を送る場合にも連合会側ではその一つ一つを以て本会が連合会に同意参加せるものとなしたのかもしれないが本会では何ら関連なきものとしてその一つ一つの事柄を別々に考えて善処したに過ぎなかった。

大歯交友会は同年10月に「本会は連合会に加入しないこと、一元化問題は独自の立場に於て研究すること、調停から手を引くことを決議しそこに到達するまでの経緯を校友会員及び他の関係方面へも声明」するのだが、その3日後には連合会から除名処分を受けることになる。加入していないのに除名とはこれいかに。

しかも電文によると三千余の会員を有する本会全体を除名するという考えらしく誠に以て驚き入った行き方と申す外はありません。


一方、大歯交友会は同時期に東歯と決裂しており、さらに日本歯科医師会(日歯)の会長と理事長に辞職勧告書を出すなど、二元派にも与していなかった。真の孤高派は東歯ではなく、大歯だったのかも。一元論については「独自の立場に於て研究する」という態度であったが、しかし、歯科医師の診療範囲や医師との社会的地位の格差については問題視し、「いろいろの『不都合』『不合理』を除去せねばならぬという点に就ては当然のこととして異論はない」。ここまで言わせておいて離反させてしまうのは、これは連合会の手落ちだろう。無党派層の取り込みいかんが戦を左右するのは、戦前もであった。

大詔奉戴日の清沢洌

昨日は大東亜戦争記念日〔大詔奉戴日〕だった。ラジオは朝の賀屋〔興宣〕大蔵大臣の放送に始めて、まるで感情的叫喚であった。夕方は僕は聞かなかったが、米国は鬼畜で英国は悪魔でといった放送で、家人でさえラジオを切ったそうだ。斯く感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。奥村〔喜和男〕情報局次長が先頃、米英に敵愾心を持てと次官会議で提議した。その現れだ。
東京市では、お菓子の格付けをするというので、みな役人が集まって、有名菓子を食ったりしている。役人がいかに暇であるか。
英米は自由主義で、個人主義で起てないはずだった。いま、我指導者達は英米の決意を語っている。
(略)
大東亜戦争一周年において誰もいったことは、国民の戦争意識昂揚が足らぬということだった(奥村、谷萩〔那華雄=大本営陸軍報道部長〕大佐ことごとく然り――『日々』12月9日)。これ以上、どうして戦争意識昂揚が可能か。
12月8日、陸軍に感謝する会が、木挽町の歌舞伎座であって、超満員だった。
「連続決戦」という文字が新たに出た。
(昭和17年12月9日、清沢洌「暗黒日記」機

清沢洌は74年前の本日――昭和17年12月9日から、“また”日記を書き出し、昭和20年5月5日で筆を置いた。同年5月21日に、急性肺炎で死んだからである。清沢洌、享年55歳。桐生悠々と同じく、日本の敗戦を確認はしなかったが、確信していたジャーナリストのひとりである。
若くして死んだもののヒヨワな文学青年タイプではなく、病気ひとつしたことのない頑健な男だったそうである。16歳で渡米して苦学、貿易会社に入社して国際的営業マンになるなど行動力もあり、人好きでコミュニケーションにも長けていた。心身ともに強靭なリベラリストだったのである。しかしこの丈夫さがわざわいし、体力が落ちていることに気付かず無理を重ね(39度の発熱中に2夜にわたって来客と時局を論じ合うなど)、肺炎をこじらせて急逝した、らしい。19日に聖路加病院に入院、21日午前1時過ぎに死亡。敗戦間際の物資不足も関係しているのかもしれない。

大戦争2周年廻り来たる。新聞も、ラジオも過去の追憶やら、鼓舞やらで一杯だ。外では盛んに訓練がある。
満2周年において明らかなことは、沢田〔謙蔵?〕も昨日いったように、国民はまだ戦い足らぬことである。2、3日前から12月号の『中央公論』を見ている。その「赴難(ふなん)の学」という座談会の如きは「京都帝大」教授連の談なのに、奇々妙々なものだ。「徳川慶喜にフランスが刃向かわせた」とか、征韓論はアメリカの謀略みたいに書いてある。『中央公論』を通して全部そうした調子だ。
大東亜戦争には(1)戦争そのものを目的な人と、(2)これを機会に国内改革をやろうという人と、(3)それによって利益する人とが一緒になっている。そしてその底流には武力が総てを解決するという考え、また一つの戦争不可避の運命感を有している民衆がある。戦争が徹底的に戦い通されねばならぬ。
2年に気付く現象は、コソ泥の横行である。物を盗まれない家とてない有様だ。玄関に置いた外套、靴、直ぐとられる。
この日の新聞はロ、チャ、スターリン3名のテヘラン会議の公報を発表した。「世界の全民族が圧制を蒙ることなく、かつまた独自の決意と良心に基づき、自由なる生活を営み得る日の到来を待望する」といっている。6日発表だ。「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそうだ。
(昭和18年12月8日、清沢洌「暗黒日記」機

『「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそう』――いや、まさに。「地域の平和と自由を促進するために働く」と演説しながら無差別爆撃を開始した国が、つい最近もあった。どう取り繕おうが、戦争は戦争なのに。

本日は大東亜戦争勃発の3周年である。朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣。口調も、東条より遥かに下手である。全く紋切り型で、こうした指導者しか持たない日本は憐れというべけれ。
昨日は午后6時に警報、今暁2時頃警報。起きて整服。記念日だから、この日に来るだろうというので、多くの平和産業は休んでいるとの事、「仇討ち」思想だ。当局者も、必らず来るだろうと予測している由。
小学校は11日まで休み。栄子の組は26名が8名しか来ていないという。いずれも8日の復仇を予期してのことだ。
これ等の事実は、日本人がいかに米国を「日本的」に観ているかを示すものだ。予は先頃、政府に駐米大使をやった者で、一つの情勢判断局をつくれと『東洋経済』に書いたが、そうすべきだと思う。
午后は、家の糞尿の汲みとりをなし、また落葉を集む。畠に堆肥をつくるためである。
(昭和19年12月8日、清沢洌「暗黒日記」供

いまだに死刑制度が支持されているのも、「仇討ち」思想なのかも。いまだに、年末に忠臣蔵やってるし。

日本の敗戦を確信していた清沢洌は、その次の段階をすでに考えていた。
つまり、敗戦で日本人が賢明になれるかどうかについて。清沢は、しかし、そのことについて悲観的な見通しを持っていたことが日記で伺われる。その慧眼が悲しいばかりの今日この頃である。

日米開戦75周年

本日12月8日は、日米開戦75周年なり。当日は月曜日で、快晴だった。

いよいよ日本は米英両国に戦線を布告した。来るべきものが来ただけの事であり却ってさっぱりした。九時前に出て省線で浜離宮に行く。天気がよくて鴨は余りとれない。零時半のニユースによると遠くハワイにまで爆撃に行っている。痛快だ。
(昭和16年12月8日の記載、入江相政日記第2巻1994年)

以上は昭和天皇の侍従、入江相政(いりえすけまさ、1905-1985)の当時の日記。とった鴨は食べており、当時の東京ののどかさがわかる。翌9日には「各新聞にはハワイの大戦果を大きな字で戴(ママ)げている。その嬉しいことといつたらない」。

日米開戦の新聞号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となり街頭商店の灯追々消え行きしが電車自動車は灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合うが中に金切声を張上げて演説をなす愛国者あり。
(昭和16年12月8日の記載、永井壮吉「永井荷風日記」第6巻、昭和34年)

永井荷風によると、開戦布告とともに「屠れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」というポスターが「街上電車飲食店其他到るところに掲示せられ」ていたという。大政翼賛会のポスターである。

23
▲昭和16年12月9日付朝日新聞の記事。

06
▲新聞広告。

開戦も祝! ワールドカップ開催、みたいな感じだったのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争53 歯科技工下士官

昭和17年の記事。歯科技工師がいかに医歯一元論の要であったかを示す記事である。

本年の4月21日付のある雑誌に
「陸軍に療工下士官制の確立さる?」という見出しで「わが陸軍の衛生陣に療工下士官制が去る3月30日勅令第580号を以て創設された。」歯科技工下士官制創設の希望されている折柄、一般の注目を引いている所であるが、この歯科技工下士官制は目下陸軍当局において鋭意検討中に属し、陸軍衛生下士官中に入るか、療工下士官中に入るべきかは不明であるが、いずれにしても歯科技工を専門とする特殊下士官制の実現する所は確かなる点で……と述べ、

勅令第580号(昭和17年3月30日)
昭和15年勅令第580号陸軍武官官等表の件中科医政の件を裁可しここにこれを公布せしむ
 御名御璽
  昭和17年3月30日
内閣総理大臣兼陸軍大臣 東条英機

勅令第297号
昭和15年勅令第580号中左の通改正す別表中経理部の項ないし軍楽部の項を左の如く改む

と記載し、次いで武官表を書いている雑誌があった。
坂本豊美「医歯一元化論と歯科雑誌の指導性」、1942年9月発行「臨床歯科」)

著者の指摘によれば「第580号」は間違いで、正しくは第297号だそうだ。でもって本勅令によって療工下士官制が創設されたのではなく、同制度は昭和15年の勅令第580号で創設され、同年9月15日に施行となっている。昭和17年の第297号勅令は、ただ経理部と軍楽部の武官官等表の改正を公示したものだという。その指摘にも間違いがあるのだが(後述)、それはさておき。

しかして現在のところ、療工下士官と歯科技工手とは全然関係のないものであって、あるいは雑誌の報ずるごとく、鋭意検討されているかもしれないが、それは本勅令とは全然無関係のものである。しかるにかくの如き誤った報道を敢えてするのは、医歯一元化論を叫び、歯科技工手の存在を昂然と認めんとする主張に興する雑誌社が、療工下士官制を取り上げ、軍当局者もまた自分らの主張と同様なる考えを抱いているが如く装い、一般に宣伝し、自分たちの主張があくまで正しいかの如く述べようとする実に低級なる態度であると考えられる。療工下士官とは従来の磨工兵を指すのである。かくの如き記事を臆面もなく掲載し、あらゆる事態に対して我田引水な解釈を下している雑誌が歯科医界に横行している事実は、歯科医界にとって喜ぶべき現象ではない。心ある人から見れば実に恥ずかしい話である。

著者のいう「従来の磨工兵」は、“昭和12年”に看護兵とともに衛生兵となる身分だが、その後も療工下士官という別区分が設けられていた(百瀬孝「事典 昭和戦前期の日本 制度と実態」p316)。というわけで著者も間違っており、当時の二元論派の余裕のなさをそこはかとなく感じさせる。現代風にいえば「必死だな」である。
ちなみに、療工下士官とは――

療工下士官の任務は衛生材料器械の製作、修理、検査、保全手入、衛生材料補給等を包含する衛生勤務に関し上官を補佐し兵を指導し以て上下の楔子となると共に自ら得たる学術を活用し之が実施に当るに在り
療工下士官候補者教程草案、総則の第2)

歯科技工師を下士官にするのであれば、ココに分類されそうではあった。なお、下士官とは軍部では最下位の地位にあるが、軍隊の強さは下士官の能力によるといわれているほど、重要な人材であった。

戦時の医歯一元化闘争52 医科・歯科の境界診療症例

昭和17年の記事。
佐藤峰雄が、臨床で出会った「歯科と一般医学との境界診療症例、もしくは医師の領域に属するものと思わるる症例」は12年間で8例あったという。佐藤峰雄は日本歯科医学専門学部助教授、大日本新歯会委員。

すなわち第一例は、学童における麻疹経過年齢と齲蝕罹患率との関係であって、何歳に麻疹を経過したか、そしたら齲蝕はどうであるか、この関係を大数関係によって相関関係の釈明に努力したもので結局この成績は比較的幼年期に麻疹を経過した者の齲蝕罹患率は比較的成長期に麻疹を経過した者に比し齲蝕の罹患率が高かったのである。第二例は、固定架工義歯嚥下例ならびにこれが考察であって、救急の場合歯科医がいかにも無力であることを自ら暴露した例とも称するを得べく、内科医の適宜の処置を得て嚥下義歯は身体内に永く滞在することなくまた臓器その他に何等の障害を与えることなく排泄された例である。余はこの際痛切に歯科医の診療範囲の狭小とその無力とを感じた。
(佐藤峰雄「日本歯科学の研究」、1942年9月発行「臨床歯科」)

團伊玖磨のエッセイ「義歯」にも総義歯を丸飲みしたが、後日無事排泄された例が書かれている。しかも、取り出した後も使用し続けたという愛と勇気ある例である。 

第三例は熱性伝染病経過200例における口腔状態であって、第一例に相似の症例というべく歯科疾患と熱性伝染病との相関関係の発見に努めたものである。第四例は、齲蝕ならびに歯槽膿漏の発生頻度と血圧との関係についてであって、血圧の高きもの例えば腎臓疾患を持つ者にあっては歯槽膿漏に罹患することが多いのではないか、あるいは血圧の比較的低き者は齲蝕罹患率も低いのではないかとの常識的な考え方の科学的根拠を求めようとしたものだ。


日本で歯周病が生活習慣病のひとつとして公的に位置づけられたのは2000年の健康日本21からだが、戦前からそういう指摘はあったもよう。

第五例は、日歯専附属医院来院患者の一ヶ年間統計において歯科疾患の季節的、地理的関係など、即ち環境と歯科疾患、あるいは経済、社会動態的に歯科疾患を考察、最後に根管充填の成否すなわち歯科治療の効果を少しく検討した次第である。

季節と歯科疾患は、関係があるかもしれない。例えば精神疾患患者は口腔内の状況も悪い場合が多いが、なかでも冬季に悪化するタイプのうつ病の場合は、当然、冬季に口腔内の状況も悪化すると思われるのではないか。

第六例は、代償性月経としての歯齦出血症の一例である。本例において領域外の疾患すなわち婦人科医の協力にまたなければ充分にその治療効果を挙ぐることができない状態であって、いかに歯科医が努力しても普通医との完全な連絡がなくば到底その目的を達することはできないのである。


女で腹痛が主訴の場合は妊娠を疑えとよくいうが、女で定期的な出血がある場合は代償月経を疑え、か。

第七例は、癲癇児態症における口腔所見例である。本例もまた第六例同様興味ある症例であったが、内科医との連絡が途中遮断した事によって結果はついに判然しなかったのである。いかんとも残念な次第であった。


「連絡が途中遮断」。患児が来院しなくなったのなら、医師も追いようがない。来院しなくなった患児について、それは治療が奏効したからなのか、奏効しなくて他の医者にかかっているのか、わからないのがツライと小児科医に愚痴られたことがある。

第八例は、歯科常識の問題とし取り上げた一例で、本例のごときも婦人科的知識を保有することによって、あるいは婦人科医と協力し多数の例につき考察することによって相当な成績が求め得らるるものと信じている。

婦人科に関係する歯科疾患といえば、妊娠合併症(流産、早産、子宮内発育遅延、低出生体重児、妊娠高血圧etc)である。ある婦人科医は、最近はできちゃった婚で歯科疾患を抱えたまま妊娠する子が多くなった、と嘆いていた。昔は妊娠する前に歯を治すのが常識だったそうである。妊娠合併症と歯周疾患の関係がどのぐらい周知されていたかはわからないが、ツワリなどで歯が悪くなる(吐き気で歯が磨けない、嘔吐による酸蝕症、etc)のは結構母から娘へと伝えられる妊娠の常識であったのではないかと思う。

戦時の医歯一元化闘争51 医科・歯科の診療境界線

日本歯科医学専門学部助教授で大日本新歯会医委員の佐藤峰雄は、医科と歯科の境界線についての考察を発表している。昭和17年の記事。

某教授は医学の一分科として、また実際上口腔外科を取り扱う点より見ればとことわり、次のように分類している。
一、医師のみが行うべき場合
 例 悪性腫瘍、黴毒または結核性疾患、急性伝染病に伴う口腔疾患等
二、医師と歯科医師との協力の下に行うべき場合
 例 副木応用ならびに口腔外科手術等
三、歯科医師のみが行うべき場合
 例 歯根端切除術、口腔内畸形に対する義歯応用の補綴的処置等
四、医師が行う歯科医師が行うも何れにしても良き場合
 例 抜歯等
(佐藤峰雄「日本歯科学の研究」、1942年9月発行「臨床歯科」)

「某教授」については明記されていないが、多分医師なのだろう。
ちなみに、平成8年の「歯科口腔外科に関する検討会」で決定された歯科口腔外科の診療領域は、以下のようなものであった。

【歯科口腔外科の診療領域】
標榜診療科としての歯科口腔外科の診療領域の対象は、原則として、口唇、頬粘膜、上下歯槽、硬口蓋、舌前2/3、口腔底に、軟口蓋、顎骨(顎関節を含む)、唾液腺(耳下腺を除く)を加える部位とする。

【歯科口腔外科の診療領域における歯科と医科との協力関係】
歯科口腔外科の診療の対象は口腔における歯科疾患が対象になるが、特に、悪性腫瘍の治療、口腔領域以外の組織を用いた口腔の部分への移植、その他治療上全身的管理を要する患者の治療に当たっては、治療に当たる歯科医師は適切に医師と連携をとる必要がある。
日本耳鼻咽喉科学会「口のなかのがん(癌)は誰が診るの?」

訪問歯科の講習会で、摂食嚥下障害のための唾液腺マッサージを歯科医師が披露していた。耳下腺含む、である、当然だが。これぐらいはもはやフツーであって、得意な人は歯科医師でもやるし、興味のない人は医師でもやらないのである。わざわざ唾液腺から耳下腺を除く意味がわからない。「舌前2/3」などギャグの領域である。3/4まで来たら医師にバトンタッチしろって? バカバカしい。
さて、昭和17年に戻る。提示された医科・歯科の診療境界線について、佐藤峰雄は詳細に考察している。その一部を抜粋した。

一について。
黴毒の一般的治療はもちろん医師の範囲であるとするも、顎骨骨髄炎における歯牙の抜去または腐骨の摘出はどうかの問題が来る。かりに口腔内のあるいは歯科的な治療は黴毒の一症状にすぎないとするもその一症状は黴毒の一般的治療だけでは治癒するとは限らない。ここに歯科医と医師との連絡を必要とするのではあるまいか。また次の結核性のものにおいても同様である。結核性口内炎または潰瘍も歯科の口腔外科の治療とあいまって完全を期することができるのであると思う。


二について。
口腔外科手術は外科医で技工的方面は歯科ということになり一応もっともな連絡であり副木に関する材料ならびに操作の実際的知識は歯科医師に越すものではなかろうが、事実は歯科医師を越して医師、技工師の連絡となり終るのではなかろうか。歯科側の不安はここにもひそむ。


この時代の歯科医師は、医師にくわえて技工師にも脅えなければならなかった。技工師の存在感は歯科医師並であった。地方では特に。

三について。
骨室内の病巣の掻爬手術を主とするならばまづ歯根嚢腫が挙げられる。嚢腫の大小は種々あってその拡大方向も鼻腔へも上顎竇(引用者註、=上顎洞)にも接近し交通する場合もある。従って歯根端切除手術を歯科医だけの仕事とすることは取りもなおさず歯根嚢腫が歯科領域に編入さるる事になり顎骨外科になりうる理でもある。(略)義歯を応用する口腔内の畸形とは戦時の創傷に多く見らるる歯牙ならびに顎骨の実質欠損大なるものにして畸形形成をなせるものも考えられ、また一般抜歯後の普通の義歯ともまた考えられるが、義歯の問題なれば特別に口腔内の畸形といわずとも一般義歯といえばわかるはずである。ことに歯科医師のやる場合の例がかくのごとく不明瞭であるのは最も遺憾とすべきである。


四について。
抜歯を医師もやるということになると歯科のいわゆる口腔外科の中心を失うこととなり、歯科医はついに金属充填と根管治療と義歯の仕事だけとなり、いわゆる歯科の要求する口腔外科はやや完全に皆無ということになる時である。
かりに歯科医も抜歯を許すとせられても、他方においてかくのごとく医行為の一切を拒否されているのでは抜歯に伴う出血、感染等の際偶発症に対して何等施すことを得ず、実際には歯牙抜去すらできないということにされるのである。抜歯を許すならば抜歯に付随する口腔外科は当然許さるべき性質の物でなければならないということになるのである。


診療範囲を科で分けるのは無理だし、無意味である。どんな人間も自分の体は2つとないのである。
患者としては、得意な人にやってほしい、というのが本音だろう。個人の技量差が激しいのに、科別に診療圏争いをしたって無意味なのである。現実的かどうかを無視すれば、個人的にはヘタクソな有資格者よりも、ウマイ無資格者のほうがいいぐらいである。そして自分の得意と不得意を把握して、得意でなければ速やかに得意なヒトや診療科や病院に回すことができる医師や歯科医師こそ、私は名医であると思う。その手の名医が活躍できる方向に、なんとか持っていけないものだろうか。

戦時の医歯一元化闘争50 歯科医学専門学校同窓連合会初の評議員会

昭和17年6月28日、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)において歯科医学専門学校同窓連合会の第1回評議員会が開催された。司会と開会の辞:松本政雄(高歯)、氏名点呼:大橋忠(京北歯)、宣誓文朗読:森山賢一(大阪歯)、閉会の辞:小森忠三(京城歯)。

宣誓
われらは母校同窓会を代表し各同窓間の緊密なる連絡のもとに全職域を結集し医界新秩序の建設を図り以て国策施行に協力邁進せんことを期す
右宣誓す
 昭和17年6月28日
   歯科医学専門学校同窓連合会
代表 森山 賢一


同連合会には、東京歯科医学専門学校(東歯)卒業者も入会していた。歯科医術開業試験合格者や帝大卒、さらに実業家もいる。【】は引用者。役職名は当時。

役員名簿(イロハ順)

顧問
飯塚純一郎【大正6年、デンバー大学歯科卒、大阪歯専校長】
大久保通次【京北歯科医学校創設者】
加藤清治【日歯専校長
川合渉【明治39年、東京歯科医学院卒、日大歯教授】
柳楽達見【明治41年、歯科医術開業試験合格、京城歯専校長
長尾優【大正2年、東京帝大卒、東京高等歯教授】
中原實【大正4年、日本歯科医学専門学校卒、日歯専理事長
長澤富次郎
永松勝海【大正7年、日本歯科医学専門学校卒、九歯専校長
宇田尚【中央大学法科卒、東洋学園創立者
熊谷鉄之助【広島県歯会長】
佐藤運雄【明治31年、高山歯科医学院(後の東歯)卒】
島峰徹【明治38年、東京帝大卒、東京高等歯校長】
清水精一
清水盛樹


歯科医育関係者が多い。

会長
原房吉

理事 〇は常任理事
池田八郎
〇今田見信【大正5年、東京歯科医学校卒
〇伴長義
林了【昭和4年、日大歯卒、慶應大解剖学教室研究生
原田一幸
二ノ宮千代
〇本多武夫
豊田實
〇大澤勝人
〇大橋二郎
〇大橋忠
〇沖野節三【大正7年、東洋歯科医学校卒
〇渡邊源吾
〇川上政雄【大正9年、東京帝大卒】
川瀬もと
竹山厚
田口静雄
椿弥十郎
奈良碧
中澤勇
長尾スミヨ
延島幸三郎
国澤利明【日大歯卒】
〇窪山健吉
山村こう
真壁ナツ
〇松本政雄【東京高等歯卒】
〇小林シノブ
小菅朴二
〇小森忠三【東歯卒?】
青木貞亮
淡路隆一
笹田三信
齋藤辰之
三村浩三
境信愛
菊地武利
宮崎三雄
〇永島チヨ子
水野直隆
〇鹿田定
〇柴田信【日本歯科医学専門学校教授】
清水幸蔵
一ツ子邦夫
〇森山賢一
〇鈴木郁子
鈴木勝【昭和2年、日大歯卒、日大歯助教授


鈴木勝は、昭和23年に東京医学歯学専門学校医学科を卒業している(医師と歯科医師のダブルライセンス保持者)。
同校に医学科ができたのは昭和19年4月からで、歯科医師は4年制の医学科の3年次に編入できた。戦時における、歯科医師の医師転用制度の一環である。鈴木勝はこの制度を利用した可能性があるが、とすると、戦後しばらくは歯科医師の3年次編入は継続していたのか。制度を利用せず、医学科に入りなおしたのか。

幹事
原田一幸
西田信雄
尾崎安之助
吉井二郎
高橋良夫
高道孝
辻一
長井丈二
国澤利明
近藤三郎【東歯卒?
佐藤峰雄【日歯専卒】
鹿田定


戦前の歯科医師は、人材にも幅と奥行きが感じられる。純粋培養的人材育成が主流になるのは、戦後からである。



戦時の医歯一元化闘争49 一元論者は国際派

昭和16年11月に開催された大政翼賛会主宰「医界新体制協議会」。その1年後の歯科公報による回顧談。

11月26日、日刊新聞は日米外交戦のスリルを一斉に回顧して、国民の大東亜戦争への自覚喚起が強調された。記者は同時にあの緊張そのものであった大政翼賛会主宰の医界新体制協議会を思い出す。
1週間後、大東亜戦争の大緞帳が降らされるなどとは夢にも予想せず、医界新体制はかくあるべしと力説した場面を想起し感激を新にするものである。本誌の今田主幹は厚生歯科学会理事の立場において、推薦されて出場の機会を与えられ、年来の持論たる歯科医師の現行制度を改変して医師の資格に一元した口腔科専門医とせよと主張した島峰徹博士も、佐藤運雄博士も、加藤清治博士も同様に医歯一元とせねばならぬと叫ばれた。また埼玉の蓮見宏氏京都の寺尾幸吉氏もこの一元論を主張されたのであった。
(余禄、1942年12月1日発行「歯科公報」)

ここに名の出た歯科医師は、昭和16年7月に設立された口腔保健協会の役員である。島峰徹はベルリン大、佐藤運雄はシカゴ大、寺尾幸吉はカルフォルニア大のいずれも医学部卒。加藤清治はノースウェスタン大学歯学部卒で口腔外科医である。
変り種は蓮見宏で、日本歯科医専の学生時代にアントワープ五輪に選手として参加している(蓮見三郎名義)。参加したのは800mと1500m、本選出場はできなかったもよう。
なお、谷津三雄ほか『雑誌「口腔保健」と日本歯科医史学会々誌』によると、口腔保健協会の役員には「何故か東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)関係者の名がみられない」そうである。さらに口腔保健協会設立のきっかけともいえる皇紀2600年記念歯科医学会には、日本歯科医師会が関わっていないという。同論文いわく「本学会誌のどこにも日本歯科医師会の協賛、後援はみられず、歯科教育機関歯科研究機関のみが大同団結して行われたことが想像され、政治的意図が何らかの形であったことも考えられる」。皇紀2600年記念歯科医学会は全国から準備委員長780人を配して開催された初の全国的な歯科医学会で、時の文部大臣や東京帝大教授の緒方知三郎の講演なども行われている。会長は島峰徹。開催日は昭和15年11月7日から3日間、総演題数243、参加会員4500人。で、最終日には「計画其他一切」および残務整理で生じた余剰金が、学会委員の申し合せにより口腔保健協会に委譲されている。
これだけ大規模の学会を日歯抜きでやれた、というのはスゴイことだと思う。今のように民主主義でも、ネットのある時代でもないのである。これも、従来の政党を全滅させた新体制運動の影響なのだろうか。

<新体制運動のおさらい>
1940年6月にドイツ軍がマジノ線を突破、フランスが降伏。同年同月に日本で新体制運動が起こり、翌7月に全政党が解散、10月に大政翼賛会創立。昭和16年7月に第3次近衛内閣ができて10月につぶれ、東条内閣に。昭和17年4月に翼賛選挙、同年5月に翼賛政治会創立。


あの晴れの舞台で、歯界の意見が一元論と二元論とに対立したことは、医師側から見ると奇怪にさえ感ぜられたらしい。しかし筆者等の見方をもってすれば、この対立はむしろ当然のことであると思う。類似業態の一元化がすでに国策として近年明示されている以上、さらに天下の与論は現実に行詰っている歯界を好転せしむるためにあるいは職域奉公に功名を与うるためには、何をおいても医師と歯科医師との業間にある不必要な境界の撤廃が叫ばれるのは、当然過ぎるほど当然なことだったのである。しかるにあに計らんや反対せんがために無意味な反対をなすものが飛び出して、その結果は遂に今日われわれが目の当りに見せ付けられている、一元、二元の大きな全国的な論争となったのである。論理主義の遊戯を得意にしている論者がわが歯界に不幸にしてあったためにここに至った次第なのである。


「論理主義の遊戯」とあるが(数学でいうところの論理主義ではなさそうだが)、二元論者の文章は少ない。とりあえず、日本歯科医師会と東京歯科大学の会史では無視されている。

医者が足りなくて占領地域の文化工作に不自由であるとき、しかも日本人の分野が土地と時間的に無限に拡大されつつるとき、医歯の一元強化が悪いはずはないのである。


日歯や東歯が反戦・反軍国主義の立場から軍部が要求する医師増員に抵抗し、二元論を固持した――というのなら、わかりやすいんだが。

戦時の医歯一元化闘争48 大政翼賛会「医界新体制協議会」

大政翼賛会主宰の医界新体制協議会は昭和16年11月26・27日の両日、東京丸の内の大政翼賛会本部で開催された。議長は前厚生相、吉田茂である。
4つの分科会が設定され、歯科界からの代表者は22人だった。なかでも「歯科医師を医師とする提案は全体を通じて激しい論戦を巻き起こした」(島根県歯科医師会史、昭和51年)という。

第1分科会:医道高揚
委員長・高杉新一郎
歯科からは木村忠三、寺尾幸吉が出席。
医道理念明徴と実践方策につき意見を述ぶ
(島根県歯科医師会史)

第2分科会:医育刷新
委員長:熊谷岱蔵
歯科からは織田正敏、佐藤運雄、広瀬武郎、正木正、島峰徹、血脇守之助が出席。
医育機関の修業年限を短縮し、予防、治療方面の医学を専攻し、医療報国の万全を期す。歯科医育問題については「歯科医育の向上発展に関する件」 正木正「歯科医師をして医学校上級に編入し修学せしむる件」 熊谷鉄之助「歯科大学を設くるの件」「医育刷新の目標とその対策」 佐藤運雄の諸案について熱心な意見を述べ、医師と歯科医師の区別なく同一に医学を教育し、現在の歯科医師には医師の資格を付与することを強調したが、一部議員しかも歯科医師の中にも反対者があった。


第3分科会:医業改善
委員長:北島多一
歯科からは今田見信、岡田満、緒方終造、加藤東七、北村一郎、蓮見宏が出席。
社会保険の全面的拡充と厚生活動への組織体要望であったが、歯科問題については今田委員から「歯科医師のごとき末梢臓器専門意思の存在を廃し、医師に包含せしめ、眼科、耳鼻、咽喉科のごとく口腔科専門医とする件」の提案に対し、山口求俊委員は明治39年の医師法制定議会における高山紀斉の電報を引用して、歯科を分離した事情を明らかにし、初めの医師法案には歯科医を包含していたのだと説明した。


第4分科会:保険国策
委員長:広瀬久忠
歯科からは上田貞三、奥村鶴吉、小野豊、加藤清治、長屋弘が出席。
人的資源の培養強化に保険衛生国策の大道を画策せしむるもの。


で、その決議。

医界新体制確立のため吾等は医人として卒先挺身せんことを期す、それと同時に政府に於ては本議会の意見を充分斟酌せられ医界諸般の制度組織を急速に刷新せられんことを要望す、なお大政翼賛会に於てもその運動を通じて厚生問題を適切に処理すべき機構を整え、医人協力体制を確立すると共に健康に対する国民の自覚を促すため一層の努力を期待す


この後2週間足らずの12月8日に大東亜戦争が開始、12月15日に医療関係者徴用令が出され、年明けの1月22日に国民医療法が無修正で衆議院を通過、2月24日に公布される。日本歯科医師会は、よくこの世情に抗しきれたものだと思う。

低落社会歯科医療の打開

ココで紹介した大日本新歯会の中央委員・鹿田定は昭和14年、九州歯科学会雑誌に興味深い論文を発表している。タイトルは「低落社会歯科医療の打開に対する私見」。

空気は無尽蔵なる天恵物質であるが故にその人類生存に絶対不可欠要素であるに拘らず吾人はその真価について認識を敢えてせない。同様に歯牙もまた人類健康保持に絶対不可欠の重要機官であり生命と一連の連りを有する身体組織であるに拘らず、その異常の強固さ数量的多数存在および、これに加え吾人歯科医の歯牙に対する物質価格評価のあまりに低率であるが故に、現在に於て歯牙の真価は吾人の評価せる価値以上に何等の真価を認識されていないのである。しかも尚年々加算しつつある歯科医過剰現象、自由独善競争および国家経済の動向は混然合流して一層歯牙の真価の低落を来し終ったのである。
鹿田定「低落社會齒科醫療の打開に對する私見」九州歯会誌、1939、87-92

「歯牙の真価の低落」の原因として「歯科医の歯牙に対する物質価格評価」の低さを挙げているところが、興味深い。当時の歯科医師はホンモノの歯の治療費よりも、ニセモノの歯(義歯)の価格を高く設定していたのである。

現今一般的歯科医療を目して「疾病起源の製作者」であるかの如き非難の声を聞くも、これに向って断じてしからずと反駁断言し得る者いくばくありや、考うる時まったく心細い限りであり、神聖なるべき歯科医学を極端に侮辱するかかる非難にすらも屈服しなければならないのが現状の歯科医療であると言って最も当らずと言い得ないのである。


そんな鹿田の「低落歯科医療の打開の方策」は「歯科医療の国家経営」、もしくは「歯牙真価の物質価格的高価評定であり歯牙および人命尊重」である。

抜歯術および現在治療の名目下にある抜髄処置を抜髄手術としてこの両者の医療報酬額を歯牙の真価の割合に応じて高価に評定する事である。あるいは極端との非難を受くる恐れあるも、吾人の主張せんとする所は保存歯科および歯科外科に歯科医療の重点を置く事である。(略)かくする事により一時的には国民大衆の経済的皮層の感念より負担過重の悪印象を免れ得ずとするも、反面国民歯牙愛護思想の偉大なる啓発原動力となり齲歯予防実行の強制力となり、その結果必然起るべき生活改善となりここに於て家庭経済に充分の余力を生じ得ると信ずるものである。なおかくする事によって歯科医も現在のごとくその収益の充填を技工にのみ偏在せしむるを要せず、結局は現在高率歯科技工料金の材料および技術に応じたる減額を見るを得べく、さらにまた重要なるはかくて始めて歯科医療の分業的独立すなわち専門科独立の可能条件となり、数年を出ずして歯科外科、保存歯科、補綴歯科の専門的独立分業を来し、各専門医院に対して一定の患者の集中となり、ことに補綴科のごときは極低価格をもって何等の不安なく最も進歩せる技術および生理衛生的加工が自然可能となり、まったく国民医療費負担の軽減となり国家の低物価政策の真意に合流し、人的資源確保の大理想におのずから合致し得て君国に対し吾人歯科医も表面的ならざる充分のご奉公を果し得る事になるのである。

今日でも、歯科診療報酬点数の低さが、患者の歯科医療に対するモチベーションを下げているという意見はある。つまり、アメリカ並みに日本の歯科治療費が高くなれば、日本人もアメリカ人並みに予防に注力するだろうという意見である。
一理あると思うが、痛みが出るまで放っておく患者は、歯科治療費が安い=いつでも治療できる、という理由で痛みを放置しているのではないだろう。そういう患者はそもそも歯や口腔の健康を甘くみているのであって、むしろ現状の歯科治療費ですら高すぎると思っているのである。また、アメリカが皆保険制度になって保険で安価に歯科治療が受けられるようになったとしても、アメリカ人は予防や早期治療を軽視すまい。口腔内を清潔にして歯をキレイさを保つことは、もはや文化だからである。
なお、鹿田定の執筆当時の肩書は「山口県仙崎町齋木病院歯科」。齋木病院は今も健在だが、歯科はなくなったようだ。鹿田の問題提起から80年近く経過したが、歯科の価値が高まったとはとてもいえない現状である。

陸海軍に於ける願望神経症

昭和7年3月発行の「産業衛生協議会報」に「願望神経症」なる病が報告されている。
報告者は植村秀一、肩書きは大阪陸軍工廠診療所所長・陸軍二等軍医正である。植村は1938年、満州国の大学令により国立化した哈爾濱医科大学の校長に就任している。下線は引用者。

軍部に於きましては日清、日露の戦役に於きましては当時の病床日誌を調べると戦傷あるいは精神的外傷のために色々の神経症ことにOppenheimのいわゆる外傷性「ヒステリー」あるいは外傷性神経衰弱あるいはそれらの混合型というような型のものは相当発生しておりましたように見受けますが、StrumperやNaegeliのいわゆる戦時神経症(KriegsneuroseあるいはWar-neurose)と称すべきものすなわち、なるべく多額の年金を得て軍隊より除籍されんとし、あるいは戦争の危険より逃れんとする願望的観念を持ちこれが自己暗示として作用し症状を頑強に保持せしめ、また種々の運動障害を生ぜしむるものというようなものは見出され得なかったのであります。
植村秀一「陸海軍に於ける願望神経症」、産業衛生協議会報.第14 外傷性着款匹柾陲垢訃委員會報告1932)

当時軍部では「願望神経症」なる病気が問題になっていた。戦闘から逃れるための仮病である。
このレビュー(Crocq MA, Crocq L. From shell shock and war neurosis to posttraumatic stress disorder: a history of psychotraumatology. Dialogues Clin Neurosci. 2000 ;2(1):47-55.)によると、欧米においても戦争神経症を仮病と疑う意見はあり、激しい論争が第一次世界大戦中に始まっていた。当時の“嵐のような論争”において、エミール・クレペリンは“346人の連合軍兵士が最前線から逃亡したという理由で軍司令部から射殺されたが、殺された兵士の中には戦場での混乱と恐怖からくる急性ストレス障害の患者が確かに含まれていた”というコメントを述べており、殺された兵士には多分に同情的でありながら、しかし、仮病の完全否定もできなかったようである。でもってクレペリンによると、第一次世界大戦時の戦争神経症患者はフロイトにも大きな影響を与え、この時にフロイトはそれまでの“幼少期のトラウマに起因する心因性徴候”を柱とする精神分析理論に、精神外傷性夢(traumatic dreams)を含めるようになったのだという。
閑話休題。
日本では――というか日本軍では、仮病的な戦争神経症を「願望神経症」と呼び、より厳しくあたっている。外傷性着款匹柾陲垢訃委員會の経過報告書には、願望神経症が外傷性神経症の多数を占めている、とまであった。神経症なんてほとんど仮病だ、というのである。

外傷性神経症に関する決議
1、災害に端を発し、種々なる神経症状を呈するものを、従来、ひろく「外傷性神経症」と称せしが、この中には成因を異にせる諸種の病型含まるることは周知の事実にして、なかんずく、補償その他の欲求観念に由来するいわゆる「願望神経症」に属する症例の甚だ多きことは多数研究者の一致せる見解なり。
2、いわゆる「願望神経症」は直接災害により惹起せる疾病にあらざるをもって、補償は本症以外の外傷性神経症に限局するを合理的なりと認む。
昭和6年11月15日産業衛生協議会「外傷性神経症に関する決議」から抜粋)

第二次世界大戦時には、神経症が軍務に関係のない障害と診断されれば、傷痍軍人恩給の対象外となった。願望神経症の“創設”は精神論が幅を利かせ、精神疾患に冷たかった当時の風潮とともに、国が補償を回避するために敷いた布石の面もあったのかもしれない。
なお、産業衛生協議会は今の産業衛生学会の前身である。
その理事長は産業医学や労働科学の先駆者として知られる、暉峻義等(てるおかぎとう、1889-1966)である。ラジオ体操(元来は逓信省簡易保険局が制定した国民保健体操)の普及も、産業衛生協議会の答申が後押ししたもの。過去は、過去ではないのかもしれないと思う今日この頃である。

戦時の医歯一元化闘争47 歯科医療の社会化運動

さきに大政翼賛会の肝煎りで医界の新体制が発足され、歯科医師界でも実にこの線に沿って一段と高い溌剌たる新体制を確立しようと昨年の10月下旬、30代の新進学徒によって雄々しくも大日本新歯会が結成されることとなった。
(1942年1月発行臨床歯科

ココで大日本新歯会の結成を昭和17年と書いたが、昭和16年10月であった。ということは国民医療法制定以前の結成である。大政翼賛会の呼びかけに応えた組織らしい。

われわれの主張は、端的に、「吾人は皇国医道の確固たる理念に則り新歯界の建設、医道の宣揚実践、医の国家的使命を確認し、挺身皇国民生活進展の礎たらん事を期す」にある。
(佐藤峰雄「大日本新歯会の結成」、1942年1月発行臨床歯科)

一、歯科医道の振作
二、日本歯科学の明示
三、歯科医育刷新
四、医療の完遂
五、医界の有機的結合
(大日本新歯会実践要綱、1942年1月発行臨床歯科)

なお、大政翼賛運動とは第2次近衛文麿内閣の主導する全国組織で、昭和15年10月に発足。総力戦のための国民運動展開が、その目的であった。大政翼賛会総裁は内閣総理大臣。道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会、などがその下部組織である。ちなみに、昭和15年は皇紀2600年であり、日本人ナショナリズムが最高潮に達した年であった。同時に経済・文化・社会・生活の統制も強められるのだが。

紀元二千六百年記念観兵式(昭和15年11月6日発行アサヒグラフ)
▲紀元二千六百年記念観兵式(昭和15年11月6日発行アサヒグラフ)

現在中央委員の人達は医博入山秀氏、舟生秀夫氏、高橋利定氏、松本政雄氏、江西甚良氏、白土壽一氏、楢原六郎氏、岡部圭司氏であり、外に歯科出身であり、法科出身である佐藤峰雄氏、国澤利明氏、その他純粋学徒として尾崎安之助氏、鹿田定氏等でいかにも新鋭そのものの如き顔ぶればかりである。


当初の会員数は、約100人。昭和16年10月21日には東京水道橋の保生館で第1回講演大会を開催し、約300人を集めている。
講演者および演題は以下の通り。

松本政雄・医における歯道の振作について
栖原六郎・大学教育に於ける歯道の振作
尾崎安之助・独創的日本歯科学建設
岡部圭司・予防歯科学の確立
高橋利貞・歯科教育機関の再検討
白土壽一・人的資源確保の為めの医療完遂上の保健税
佐藤峰雄・戦時下に於ける吾が職域
江西甚良・国民体位向上の方策としての歯科学領域
鹿田定・皇国歯科医療の向途
入山秀・大陸に於ける歯科医師の立場に就て
国澤利明・アメリカ歯科学を排し日本歯科学を樹立実践の方策

どの講演もそのマクラは「大東亜戦争に於ける赫々たる偉勲に対して」とか「有史以来の大東亜戦争に際会したるわれわれは」「世界制覇の野望に燃えつつあったコミンテルン打砕の聖戦に」などとモノモノしいが、内容は今日的にも考えさせられるものが多い。
例えば、

医学教育に、精神科学の持ち来される必要がある。例えば、少くとも、哲学、歴史、民俗学、更に政治学等をも医学の分野に採り入れられなければならない。
(栖原六郎・大学教育に於ける歯道の振作)

療養費の国家的負担、病院および医薬製造の国家的設立等でありまして、その費用としての全国民に対する保健税の必要があるのであります。この保健税は現在我々が富の上下によりて収めている税に何%とかの課税をいたしたものでありまして、その収入税により国家が国民の「生命」に対する皇国的責任を全うすべきであると思うものであります。
(白土壽一・人的資源確保の為めの医療完遂上の保健税)

技工に幾多の時間が割かれ医療そのものに充分の努力を払い得ないものあれば技工師をして充分に技工方面を担当せしめ歯科医自身は完全に医師本然の姿に立還るべきである。
(佐藤峰雄・戦時下に於ける吾が職域)

大日本新歯会の主張は、多岐にわたっている。日本に健康保険制度を成立させる一助となった、いわゆる医療の社会化運動に歯科はほとんど関わらなかったというのが定説だが、大日本新歯会の主張には歯科医療の社会化運動の側面もある。だからこそ日本歯科医師会周辺に警戒されたのかもしれないし、医歯一元化に主張を搾れなかったことが仇となったのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争46 一元化問題の座談会

1942年12月発行「厚生時報」より、「一元化問題の座談会」。東京歯科医学専門学校(東歯)、日本大学歯科専門部(日大歯)、日本歯科医学専門学校(日歯)の各卒歯科医師が参加した座談会である。

記者
例の一元化問題は歯科医にとって最重要問題として論争され、従って最近の歯科界における話題の中心となっているようですが、これに対してA先生の御意見をお伺いいたします。


「A先生」は東歯卒。東歯といえば医歯二元論の牙城であったが、A先生は意外にも一元化に賛成なのである。

A氏
歯科医をなくして、医者を一元化するということは出来れば大変よいことで、これほど結構なことはないと思う。ただこの問題は事新しく今始まった問題ではなくて、もう既に10年も前から幾度か唱えられてきた問題で、論議は尽くされている。従って大日本新歯会とか連合同窓会とかの人達がさかんに声を高くして歯科医に呼びかけておるようだが、われわれはもうあのようなお談義は聞きたくない。すべからく実行だ、われわれが聞きたいのは如何にして一元化を実現せしめるかである。

記者
A先生は水道橋出身と聞きますが、水道橋の学校は一元化反対のようですが、先生は賛成ですね。

A氏
歯科医を普通医にすることにはなんら反対する理由がないと思う。だから私は歯科医を普通医にすること自体には賛成だ。ただその実行方法をどうするかが聞きたいのであって、今の歯科医を半年や一年の講習で医者にすることが出来るかどうかである。私自身が歯科医であって、歯科医を貶すのはどうかと思うが、世間は歯科医は普通医よりすべてにおいて劣っているとみておる。事実劣っていると思う。それは、防護団の救護班等でよくみることであるが、実にひどいもので、あれでは世間から医者の下位にみられるのは当然であって、身体各部の専門的名称すら知らないのが多い。これでは傷者救護に当っての報告書も書けないわけで、左大腿部負傷を左モモ負傷と書いたんでは普通医に笑われるばかりでなく、一般人にまで笑われはせんかと思う。しかし防護班の救護に関する限り歯科医も普通医なみに認められておるのであるから歯科医はこの際少し勉強しなくてはならんと思う。水道橋の同窓会が一元化に反対しておるということのいきさつについてはくわしいことは知らんが、水道橋の学校の同窓会をのぞいて各学校の同窓会が連合同窓会を結成したから自然こんな具合になったのではないか、この点はくわしく知らないから責任は負えないけれども。


歯科診療所も1次救急ぐらい担うべき、と主張する歯科医師が現在もいる。私もそう思う。だが医師会は反対するだろうし、歯科医師会は乗り気にならないだろう。戦時の医師不足対策とはいえ「防護班の救護に関する限り歯科医も普通医なみに認められて」いたことは画期的であった。
さて、日大歯卒の「B氏」の意見である。

B氏
今かりに歯科医が普通医なみの取扱いを受ける制度になってみたところで、内科何々医院、外科何々医院等の如く普通医がそれぞれ専門を標榜しておるように歯科何々医院と看板を書き替えてみても、歯科医はやはり歯科医に変りはない。「歯科何々医院」「何々歯科医院」も同じだ。すでに歯科医の看板にも普通医の看板のように、「歯科何々医院」式の看板を往々見かける。また普通医の中にも何々内科医院、何々外科医院と歯科医式の看板を掲げている者もある。こりゃ談ぢやが、流行ない歯科医や、人中に出て普通医より一歩引をとっておる人達が、普通医の歯科医ということになったら流行るかも知れん、歯科医も普通医ということになったら学位の権威も一層認められはせんかというような考えからの運動ではないかナ、流行る歯科医に聞いてみたまえ、一元化問題を笑ってほとんど問題にしておらんようだ。

A氏
そりゃ、そうかも知れない。歯科医が今直ちに普通医になったからといって、やはり注射がうてるものでもなし、耳鼻科の治療ができるものではない。またかりに半年や一年医者の講習を受けても、南方向けの一時的医者ならともかくも、日本内地で日本人向きの医者にはなれるものではない。2年も3年も講習を受けるのであったら、いっそのこと、医専の1年に入って新規巻き直しでやった方が、どれだけよいかも知れん、そのほうが権威もある、歯科医師が講習を受けてなった医者というのでは世間はやはり軽くみる。


C氏は日本歯科医専卒である。

C氏
僕は一元化に反対する理由はないと思う。歯科医も普通医なみの取扱いを受けてよい、また同じ人体を取扱う医者は普通医と歯科医に区別すべきではないと思うから医者の一元化は結構である。しかし現在開業中のいわゆる歯科医に一定期間の講習を受けさせて直ちに普通医にしたのではやはりどこまでも歯科医の痕跡が残る。歯科医の痕跡が残ったのでは完全なる医者の一元化とはいえない。私はこの運動の第一線に立っている人達に敬意を表する一人ではあるが、例の四羽烏といわれている人達の話も聞いたが、どうもこの人達の話を聞いただけでは、何故一元化しなければならないかの理念を掴むことが出来ない。運動目的がどこにあるのかをはっきり教えてくれないうらみがある。医者の一元化ということはよいことは判りきっているのであるから、正面切って反対する者はないはずで、ただ運動の第一線に立っている人達が、素直に言えば毀誉褒貶を度外してやっておるのであるかどうかということである。
この運動の一翼に携っている同窓の某教授に聞いたことであるが、もしこの運動の目的が達成されたならばそこに新しい機構の組織ができることになろうが、この場合今運動の第一線に立っている人達は、運動目的達成それ自体に満足して、後事は新人に委せて退場するかどうか、これははなはだ疑問だといっていたが、運動の第一線に立ったのだから、後で報酬をくれ方式では人がついて来ない。

A氏
一体この戦時下において、不平をいうのは食えるからだ。食えなくなったら不平を言っているはずがない。300年も続いた米問屋の主人が満洲開拓民の第一線に立たなければならん、一事は権利金3万円5万円といわれたマグロ問屋の主人公が80円で帳面付けをやらなければならんという世の中である。一体歯科医ほどもの判りのしない階級は少ないと思う。材料が配給制度になってから歯科医の隣組が出来ておるが、もの判りのしたのが少い。一元化は結構だがまづ歯科医の自覚というか、人格というか、世間から歯科医はもの判りのした階級だと思われることが先決ではあるまいか。


「もの判りのした」とは、融通がきく、とか、話がわかる、という意味のようだ。

記者
昔の歯科医ならともかくも、今の歯科医は中等教育をうけ、さらに専門学校で学校教育をうけた歯科医であるからそんなはずはないでしょう。

A氏
それがそうでない。むしろ昔の学校教育を受けない古い歯科医には人格者が多い。従ってもの判りがある。年齢別からみて大体40歳以上の歯科医はもの判りがよいが、それ以下の若い歯科医、特に32〜33歳前後の歯科医にはもの判りのせんのが多い。この年齢の人達は7、8年前に多くは開業している。つまり不況から稍々好況に立直った頃に開業したから苦労を知らん。やはり人間は苦労を知らなければ駄目だ。この点において学校出よりは検定医の方がづっともの判りがよい。学校別にすると水道橋等はもの判りのせん方だ。気ままというか、お高く止るというか校風が然らしむというか。とにかく私も水道橋出であるが、取扱いのむつかしいのが水道橋のようだ。順調に発展した学校の卒業生ほどもの判りがせん。反対に経営に苦労した学校の卒業生ほどもの判りがよいように思う。苦労をした者がその苦労を悪用する場合は別問題であるが。


A氏の東歯評「気ままというか、お高く止るというか校風が然らしむというか」が面白い。

記者
最近連合同窓会の支部結成を各地でさかんにやっているようですが、その成績といいますか、一元化問題に関連してどんな具合のようですか。

C氏
各地で盛んに連合同窓会支部を結成しているようだが、実際に同窓会を動かし得る者はその学校の卒業生ではないでしょうか。川上さんも高等歯科の卒業生ではない(引用者註:川上政雄、東京帝大卒)、沖野さんも日大歯科の卒業生ではない(引用者註:沖野節三、東洋歯科医学校卒)、柴田さんも日本歯科の卒業生ではないはずだ(引用者註:柴田信、日歯教授。出身校は?)。その学校の卒業生でない人達によって、同窓会が本当に動かされるものではない。また連合はどこまでも連合であって、結合でないからまた分かれることもあろう、この意味において、同窓会と動かしうる者が裸になって連合してこそ、真の力が出るのではあるまいか。私は同窓会等をこの場合持ち出さないで、大日本新歯会とかに各学校の卒業生が自由に参加して、共同の戦線を張った方が良かったと思う。そのほうが強力なる力を発揮することができる。連合では頭が連合の数ほどあるのであるから、自然連合内に小さな勢力争いがかもされる。この小さい勢力争いが馬鹿にならないことで、連合の脆弱性はここにあるのである。何事でもひとつの運動目的を結成するには指導力は一本に限る。


確かに。同窓会なん持ち出さなかったほうが、運動に東歯卒業生をも取り込めただろう。同窓会の連絡網を使いたかったのだろうが。

記者
歯科界の空気は一元化賛成が濃厚のようにうかがわれるようですが、ただその熱意と実行力が問題のようですが。

C氏
まだ運動の熱意が足らんネ。歯科医である以上一元化に反対する理由がないはずであるから、運動の第一線に立っておる人達に自我がなければ、今更同窓会の連合とか、支部の結成の必要はない。自我のない熱意さえあれば、全国3万の歯科医は自然についてくると思う。そしてその実行方法であるが、半年の講習を受けますから、一年の講習を受けますからでは絶対に駄目だ。普通医が6ヶ月の講習を受ければ歯科専門を標榜することができるのに歯科医にその制度がないのは片手落ちだという議論をする者があるが、それは手前味噌というものだ。
一元化は結構であるが、運動者自らが普通医に取り扱ってもらいたい、またおれも普通医並に取り扱ってもらいたいがための一元化賛成では運動目的の達成は仲々容易ではあるまい。この運動の衡に当っている者が、一元化運動完遂のためにどの程度まで掘下げて研究しておるかまたどれだけの決断と勇気を持ち合わせているかをわれわれは知りたいものだと思っている。

A氏
今までの歯科医は金冠ばかりたたいていればよかったのであるが、大東亜戦争になってから歯科医も医者と同様に救護の任務を負担されることになっている。この場合の取り扱いは歯科医も普通医並に取り扱われておるのであるから、自然普通医と歯科医との力量を比較される機会が多くなった。普通医が少しくらいヘマをやっても医者仲間ではもちろん世間もそれほど問題にもすまいが、もし歯科医がちょっとでもヘマをやると、あれは歯科医だから駄目だということになる。これがわれわれ歯科医にとって一番つらいことである。反対に歯科医の力量も普通医以上であるということを示すには今が絶好の機会でもある。われわれ歯科医はこの際めざめて大いに勉強すべきだ。

B氏
勉強の点では同感である。一体にわれわれ歯科医は勉強が足りなくはないか。学校を卒業して開業をして4年もすると技工技術は非常に巧くなっておるようだが、学校で修得した学問は驚くほど後退しておるということである。某校の教授などに言わせると学問の点では3年の学生にも及ばないほど後退しておるということである。学問は日進月歩である。雑誌等でも折角送ってきてもほとんど封を切らないで放ってあるのが多い。それではいけないと思う。一元化運動は結構である、しかし少なくともこの運動に賛成する者はすべからく医者として自信ある力量を養うべきことを忘れてはならんと思う。


3人ともマジメで前向きだ。どういう人選だったのだろう。
さて、やはり当時の歯科界は医歯一元派が大勢だったようである。それは「歯科医である以上一元化に反対する理由がないはず」だったからだろうが、にもかかわらず一元化できなかったのかといえば、歯科医師が「医者として自信ある力量を養う」には、歯科医師のみでは不可能だったからだろう。医師の協力や助言が不可欠であるのに、医師にそれを要請するまでには至らなかった。明治以来の二元制の壁は高かった、というところだろうか。

中国解放後の鑲牙師

日中戦争終了後も、中国大陸では鑲牙師(じょうやし、入歯師のこと)が活躍していたようだ。
昭和30年10月の、日本訪中医学代表団(堂森芳夫団長)の報告より。

当初の中国は中華人民共和国として社会主義国に生まれ変わった新時代であった。歯科事情については人口6億人に対し歯科医はわずか千余人で、官公庁や国家病院に勤務していた。一般市民の治療は技工士が行い、技工士は営業権を有し、実質的な社会的存在感を持っていた。歯科医師会は存在せず、医学会に包含されていた。医学全体の流れとしては漢方医学と西洋医学とが合流し、新しい中国医学を築こうとする過渡期といえた。
白川正順.戦後混乱期における日本訪中医学代表団の中国との国交外交の役割.日歯医史会誌26,56-7,2005

日本の医学代表団の訪中は昭和29年、日本赤十字社による中国紅十字会視察団の招聘をきっかけとする。翌30年に中華医学会から堂森芳夫・日本医師会副会長に中国視察の要請が来て、中共医学視察団が編成された。視察団の人選は日本学術会議と日医である。歯科関係者で参画したのは中原実・日本歯科大学学長ただひとりで、日本学術会議の推薦であった。推薦理由は不明。なお、堂森芳夫は当時、日本社会党の衆議院議員である。社会党代議士が日医の副会長をやっていたところが、時代(55年体制)である。
昭和30年――1955年といえば、中国も日本もまだ戦後の混乱期ではあろうが、中国はその後もっと混乱するので(文化大革命)、束の間の平和といえるのかもしれない。
医療行政的には、中国はその後、農村の医師(歯科医師含む)不足対策として農民に3ヶ月〜1年間の医学研修を行って医師とする「赤脚医生」(裸足の医師)をスタートしている。赤脚医生は人民公社の生産隊社員(つまり農民)として農業に従事しつつ、同僚に無料または安価(例えば、定額の年間費のみ)で医療を行っていた。赤脚医生は、戦前日本における医療互助制度「定礼」と似たような制度といえる。文革(1966〜1976年)期に最高の500万人に達した赤脚医生は、しかし、毛沢東の死とそれによる人民公社解体とともに、消えていく。だが、赤脚医生から正規の医師や医学部教授、さらに大臣になるものもあり、人材の流動性をあげるという効果は確かにあった。
さて、鑲牙師のその後は、どうなったのだろうか。「実質的な社会的存在感を持っていた」というから、しぶとく生き残っている可能性もある。

参考:
滿洲帝國に於ける鑲牙師問題
満州国に於ける歯科界の現状

戦時の医歯一元化闘争45 戦時の歯科用金属リサイクル

昭和13年に広島県、昭和15年に東京府の両歯科医師会は、国家管理のもとで遺体から歯科用金属を回収することを日本歯科医師会に要望した。

広島県歯は昭和13年11月25日に開催された第15回定時総会に、意見書を提出している。
広島県歯科医師会提出(昭和13年)
1.火葬場の設備を完全にし金の喪失を防止する事を法制化するの件
2. 屍体より金(金冠、インレー等)を除去なす事を法制化するの件
(理由)
歯科医師に最も影響ある金問題たるや国家経済上最重要条件たり。故にここに超非常時方策たる第1、第2の方法を建議して配慮を願うものなり。
昭和13年9月25日関西歯科医師会役員連合会の決議に基き提出仕りそうろう(抄)
山田平太.日本の歯科百年の様相 : 第1回.歯学史研究(2),27-29,1969)

昭和12年12月に、国は金使用規則を公布して金の消費を抑えようとしている。
同規則では「工業用、医療用等必要已むを得ぬものは大蔵大臣の許可を得て除外」するとされたが、装飾用(開面金冠etc)にも金を必要としていた歯科医師には大打撃であった。日本人はかねてから金歯好きではあったが、特に大正バブルの好景気で金歯が流行し、歯科関係者(入歯師含む)をも潤わせていたのである。遺体から金を取ればいいという要望は、この状況を受けてのものであろう。

1黄金づくり一切禁制
▲昭和13年8月7日付朝日新聞東京版朝刊

なお、山田によると日本での金の使用量は昭和35年には約6トンで、うち1.9トンを歯科用が占めていた。開戦以前には歯科用として年3.5トンが消費されたという。歯科における金資料量の減少は、健康保険制度発足と金使用制限、さらに同制限による代用合金の開発が関係していると考えられる。

昭和14年12月19日付朝日新聞東京版朝刊
▲昭和14年12月には金使用規則がさらに厳格化(昭和14年12月19日付朝日新聞東京版朝刊)

代用合金は昭和14年頃から「物凄い勢いで売り出され、昭和17〜18年には、その氾濫期をつくった」(山田)。

この状況を受け、今度は東京府歯が意見書を提出した。昭和15年12月7日の日歯第17回定時総会において、である。
東京府歯科医師会堤出(昭和15年)

歯科医療用済みの貴金属類を国家管理として回収するを当局に要望せられたし
(理由)
火葬若しくは土葬にする際歯科用として使用しある貴金属類をそのままとするは考えねばならぬ。これを国家管理の 下に回収すべきであると思う。かくするときは1ケ年に1千万円以上の回収を見るに至るべく時局下経済上是非実行す るよう国家に要望するものなり。(抄)


昭和15年9月14日付朝日新聞東京版夕刊
▲昭和15年は満州でも金使用禁止(昭和15年9月14日付朝日新聞東京版夕刊)

さて、昭和18年になるとゴールドに限らずあらゆる金属が貴重品となって、一般家庭ナベやカマ、さらに子どものブリキ製オモチャまでなくなった。金属類回収令である。

昭和19年12月15日付
▲戦争末期には歯科医師も“医療用”白金を供出(昭和19年12月15日付朝日新聞東京版朝刊)

戦争末期には兵士の使う水筒や食器にも金属が使われず、陶器製などになっていた。実物を見たことがあるが、重いし割れるし、こんなものを背負って日本の兵隊は中国を行軍していたのかと思うと涙が出そうである。開戦はやむを得なかったのかもしれないが、いつ終戦すべきかの判断は完全に間違っていたと思う。
なお、今や「歯科医療用済みの貴金属類」の換金はボランティア組織にもなっている。もしかすると、その原型は戦時にあるのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争44 佐藤運雄の手紙

佐藤運雄が東洋歯科医学校(現・日本大学歯学部)設立にあたって、その師である血脇守之助にあてた手紙より抜粋。大正5年4月7日付。
そうろう文を現代語訳した。【】内は引用者註。
佐藤運雄は明治12年11月生まれ、明治31年東京歯科医学院(現・東京歯科大学)卒。明治33年に渡米して歯学を学び、36年から東京歯科医学院の講師を務めている。

小生の今回の挙をもっていわゆる三崎町【=東京歯科医学専門学校】派にそむくものであるとする友もいます。
今田見信「東洋歯科医学校設立について 血脇守之助に送った佐藤運雄の手紙」

佐藤運雄は医歯一元論者であり、東歯創設者・血脇守之助は二元論者であった。そして佐藤は、一元論の立場から「今回の挙」、すなわち新しい歯科医育機関をつくろうとしていた。

このような党派の存否はおいておくとして、とにかく小生が大人【たいじん、成人男子――この場合は血脇に対する敬称】および周囲人物が今更何の必要があっていかなる動機によってそむくものとなすのか、いささか解釈にくるしむのでありますが、試みに顧みれば過去数年間小生が学校(専門学校)になんらの関係を有しないことや、大人等に接触する機会が多くなかったことや、はたまた、試験【文部省歯科医術開業試験】委員として働いていたことや、これらの諸点よりして推理できるのであろうといえども、ご承知の通りこれらの諸点はいずれも皆小生の外出のままならない健康状態に帰すべきもので、毫も他意のないことが、大人の熟知されている義と信じております。

佐藤運雄は明治41年に満州の大連医院歯科口腔科部長となっていたが、健康を害し、明治43年に帰国。同44年に歯科医術開業試験委員に就任。大正2年に養父が死去したため、歯科診療所を継いでいる。

小生が今回の挙によりいわゆる石原【=石原久。東京帝国大学歯科学講座教授、医歯一元論者】系と結ぶの愚を笑うという友もおります。ご承知のごとく、小生は15年以前より石原氏に師事しているものでその人物にいかなる程度まで敬服するかは別問題として、とにかく医局における5年、満鉄にあった4年、試験委員として5年、いまだかつて離れたことはなく、決して今新たに結ぶという次第にはありません。もし石原氏と結ぶことはよくないというものがあるなら、それは十余年以前に聞くべきであった忠告でありましょう。小生は一度師事した人物に対しては特別な理由があるのでなければ、そむくことは正しくないと信じているものであります。


佐藤運雄は帰国後すぐ東京歯科医学院の講師になるとともに、東京帝国大学医科大学歯科外来の傍観生となっていた。石原久は、東京帝大歯科学教室の主任教授である。なお、佐藤運雄が傍観生なのは、当時の東大が歯科医師を正規の医員としては受け入れなかったためである。明治37年に佐藤は講師に昇格、帝大初の歯科医師の職員となっている。

世間は往々、石原氏について人格の有無が疑わしいとするものがありますが、小生の観るところは少し世間一般とは異なるところがあります。従って大人に対すると同じく十余年間離れたことがない次第なのであります。


ここでいう世間とは、歯科界のこと。石原の歯科部では歯科医師が正規の医員となれなかったうえ、歯科技工師に補綴治療をさせたりで、歯科技工師撲滅にやっきになっていた歯科医師を激怒させていた。まあ、言ってみれば石原久とは、帝大教授版の花桐岩吉であろう。

今回小生の集め得た教師中、石原系のものがあって三崎町系のものはないとの疑念は、ムダ口を労する閑人の閑話のひとつと思います。これは単に自然の成り行きであること、ご承知の通りであります。
初め小生の学校経営を思い立つや、まず最初に相談したのは奥村【=奥村鶴吉。東歯における佐藤運雄の同僚。東歯創設者・血脇の懐刀】兄です(12月末)。第2回目に相談したのが石原氏であります(2月10日頃)。けだし小生は何事を計るにも大人および石原大人の両所に是非の指導を受けるを義務とし、また特権と思っているものであり、自然今回の挙についても御両所の賛同を得たことをもって同時に教師の選択について助力を希望したのであり、医局には一流の助手たちが特別な仕事もなく比較的閑散に存在するがゆえに、たちまちこれらの人士を小生の共働者として推挙された次第にあります。しかるに専門学校では一流二流の教授等はいずれも校務多忙で寸暇なく、従って奥村兄より話された人士はいずれもごく若手の仁で他者との関係上小生が迎えなかったまでのことであります。もし相応の教授を専門学校に求めることができれば即日これを歓迎すべきこと、もとよりでありますが、今のところ左様の無理な注文を致すほど厚顔になれない始末であります。


佐藤運雄は大正5年4月、東洋歯科医学校を創設している。今の日本大学歯学部である。この時佐藤運雄は38歳。
なお、奥村鶴吉は明治14年生まれ。
佐藤運雄の方が2歳年上であるが、奥村鶴吉は東京歯科医学院の前身・高山歯科医学院時代から血脇に関わっているから「兄」としているのか。ただの敬称かもしれないが(同僚を学兄と呼ぶ的な)。

世間閑人の閑話に耳を傾けられる大人とはもとより思っておりませんが、世に誤解はあって多年の友情を恐すような、ただでさえ台風多き歯科社会にさらに幾多の小台風を発生させることはないかと万一を危惧した寸暇を得て、辞令を無視して書き付けた次第であります。ご承知の通り拝趨【急ぎうかがうこと】御面晤【面会のこと】の上、口述することが難しい現下の状態を御憐察下されたく思います。
今後もし何等か大人のご不審に思われる点もあれば、一々電話あるいは奥村兄を通してご注意下されば幸甚至極に存じます。
ただし佐藤はもはや悔いるはずはないとされるのであれば、別問題にございます。
 暴言多罪 頓首々々
4月7日
佐藤運雄


血脇大人 梧下


全文はココで読める。
恩師に対する、精一杯の気配りと誠意をこめた手紙である。大正12年の歯科医師の医師資格獲得制度運動の際、佐藤運雄が沈黙していたのもわかろうというものである。
なお、佐藤の「集め得た教師中、石原系のものがあって三崎町系のものはない」とあるが、東洋歯科医学校が専門学校に昇格してから教授となった川合渉と中川大介は東歯卒。まあ、派閥などというものは大抵、砂上の楼閣である。

戦時の医歯一元化闘争43 日歯会長への辞職勧告書

大阪歯科医学専門学校校友会・生野会は、昭和17年10月23日付で日本歯科医師会(日歯)の会長と理事長(今の専務理事の地位)に辞職勧告書を公開した。当時の日歯会長は血脇守之助、理事長は奥村鶴吉である。

東歯同窓会会頭および奥村氏に対し同窓会の主眼者として、はたまた全日本歯科医師会会長および理事長としての公人的立場においてももっぱら全歯科界の円満のため大乗的に各関係者と懇談し善処せられん事を最大の敬意と友情と条理をつくし勧説したけれど骨の髄まで浸透せる「アメリカニズム」の奥村理事長の自由利己独善主義およびその理念に翻弄せらるる老血脇会長の無定見まったくいかんともなし難く、ついに調停の労を断念するのやむなきに至れり、実に本懐に反する痛恨事なり。
しかしてこの事情に鑑み諸般を観るに今日わが歯科界における不統合は正しく現会長および理事長の党派的暴政のいたす所にてすなわち彼等の不徳の因果なりと断定するも過言にあらざるを知る。
顧みるに三十有余年来の校友誠に情において切々たるものあれど他方全日本歯科界を思うの念やみ難く、ここに涙を呑み現会長および理事長の器に非ず宜しく辞職せられん事を公開状をもって勧告す。
以上
昭和17年10月23日
(大阪歯科医学専門学校校友会生野会「辞職勧告書」、1942年12月発行「厚生時報」)

翌年1月に判明した官選日歯会長は従来どおり血脇守之助であったが、理事長は奥村鶴吉ではなく西村豊治であった。奥村鶴吉は官制日歯となって以降は歯科医政から離れ、戦後初の日歯会長選挙でも候補者に挙げられたものの“手続き上の不備”で失格となっている(榊原悠紀田郎「歯記列伝」1995年)。勧告書が影響したのだろうか。
なお、この1942年10月の厚生時報には、新規の歯科医専同窓連合会支部が北陸、近畿、群馬、山梨、東海に設立されたことを報じており(「厚生点描」欄)、さらに京城歯科医学会において「歯医一元化」(ママ)のため朝鮮歯科医専連合同窓会を結成した、とある(「朝鮮通信」欄)。でもって生野会の辞職勧告書冒頭には「東京歯科医学専門学校同窓会(ただしごく少数幹部を除き大多数会員は連合会と同意見なり)」ともあって、これらを読んでいると一元派は結構な勢力を持っていたようであるが、不発に終った。なんでやか。

戦時の医歯一元化闘争42 歯科医専の廃校

厚生省監修の雑誌「厚生時報」論説部は、歯科医専の医専化を主張している。

われらは官立の歯科学校が開校された当時その必要を疑ったのである。もし政府管掌で歯科医を養成する必要ありとすれば官立の医大もしくは医専で養成すればよいので独立の学校の必要を認めなかったのであるが、今一元化運動が展開するに当り、運動の性質からすれば独立した歯科専門学校は当然不必要ということになるが、一元化運動に携わっている者は、このことを考慮しているかどうかである。
(厚生時報社論説部「歯科医専の廃校を提唱す」、1942年12月発行「厚生時報」)

厚生時報社論説部は「まづ歯科医学専門学校を普通医学専門学校に切替える運動を」、一元化運動と併行して行うべきではと問うのであった。

医者の一元化はよい、決して悪くはない、断じてやらなければならん問題である。しかしながら一定期間の講習の受講によって歯科医を医者にせよとか、口の神経も足の神経も連絡があるんだから歯科医を別扱いにするのは不可解だから歯科医を医者にせよとか、歯科医学専門学校で医者である歯科医を養成させよというのでは世間を首肯せしむるには少しく物足らなさを覚えざるを得ないのである。


もし一元化が実現していたら、一般的医学教育の後に、スペシャリティとして歯科を学ぶという過程になったのであろう。とすると、歯科医専はスペシャリストの養成機関――上級専門学校か、歯科大学院になったはず。しかし、残念ながら具体的に歯科医専をどうするかという議論は盛り上がらなかった。多くの歯科医専は、職業学校に過ぎなかったのだろう。

戦時の医歯一元化闘争41 地方の歯科経済

われらのような地方歯科医の生活費は補綴の工賃よりほかに恐らく得られぬと余は思惟する者である。
(稲生浚「歯科の補綴について」、1942年10月21日発行「歯科公報」)。

岐阜県揖斐郡在住の歯科医師・薬剤師である稲生浚は、補綴が地方歯科医師の経営的生命線であると赤裸々に書いている。

表看板に歯科一般、口腔外科とは書いてあるが、歯科の全生命がほとんど補綴で生きているのだ。歯科治療として歯髄に亜砒酸バスターを貼布するほか、根管治療と称してカルボル製剤あるいはフォモクレゾール製剤、ヨード製剤を再三反復貼用して疼痛が去れば、根管充填をしてのち補綴的工作に移るのだがいかに簡単なる作業なることよ。
口腔外科と大書してあるから顎骨切除、あるいは舌の切開でもできるかと思えば、関の山、抜歯あるいは歯髄アプセスの切開ぐらいのことで外科医から見たら噴飯の感に耐えぬほどの小外科である。だが何が歯科医をそうさせたのかといえば死亡診断書が事由に書けぬし、また社会の与論が許さぬからだ。
医師があやまって患者を死にいたらしめても胸腺リンパ体質だとか、糖尿病だ、または血友病だといわれて死亡診断書を書いて涼しい顔をして自他ともに認容するが、歯科医師が万一抜歯後患者が死の転帰でも取ったなら、病気のいかんを問わずことに田舎では二里四方くらいは、あの歯科医が歯を抜いて死亡させたとて喧々、実に悲惨の境遇に陥らねばならぬ。
従って老練の歯科医は抜歯は可及的行わずただ、補綴万能で実収入を掲げるのに邁進しているのが賢明のやり方である。要は患者本位にあらず自己(歯科医)本位にやれば患者も満足するし収入も増大するから心ひそかに微笑を禁じ得ぬのである。
しかし良心的立場から考えれば、抜去すべきものは抜去し、切開すべきものは切開するのが仁術であり、また吾人医人の望むところだが、越権行為によって医法の制裁を受けることを恐れて十分なる治療も躊躇するようになるのはやむを得ぬ現実だ。


「老練の歯科医は抜歯は可及的行わず」、その理由は「死亡診断書が事由に書け」ないから。しかし、これはどうだろう。死亡診断書は患者を死亡させたことの免罪符にはなるまい。

医歯二元論者のいうごとく、補綴は工学と理学すなわち理工学と医学とから組立てたものである。決して歯科医師以外の者の容認を許さぬ神秘的の技術のごとくいうが、決してそのような深遠な学理の必要は入らない物である。しかしすべての科学は、皆理工学ならざるはなしだ。よって重んずれば重く、軽んずれば軽し、またその中庸を取ることそもそも難きかなだ。
薬学の中に分析術、薬品鑑定、製薬化学、裁判化学、衛生試験法などという化学があるが、恐らく門外漢に説明しても了解できるものではないが、補綴すなわち技工などは小学卒業生で半ヶ年も見学すれば器用な者ならば結構できるし、上手あるいは下手などは各自の手腕で余らは人生五十路もすでに過ぎんとしているがすこぶる下手だが、小院にいる技工手のごときは小学校卒業だけの学歴なるが一日金属冠を20〜30本は楽に製作するし、また義歯も2釜くらいは平気で煮く手腕がある。そのできあがり具合はすこぶる巧妙にて余など遠く及ばぬ次第である。すべて技工の上手下手は労力ではなくて熟練によるものだ。二元論者の虎の巻も余に言わしむれば論拠はなはだ薄弱にして心細き極みである。


「上手あるいは下手などは各自の手腕」というのは、そうかも。センスはのばしたり磨いたりできるが、ナイものは磨けないのである。

余は毎日歯科医師たることを満足に感じて感謝の日を送っている者である。なぜならば、時計屋や印刷屋より容易な技工すなわち補綴で相当の技術料を申受けて生活のできるのを衷心喜んでいるからである。この上死亡診断書が平気で自由に書けたならなお幸福と思って、医歯一元化達成の一日も早からんことを後輩のため祈念する次第である。


稲生浚は大正12年1月25日に衆議院に「齒科醫師より醫師たり得へき特別法制定の件」を請願したひとりで、請願当時は東大歯科医局員。稲生俊の標記も散見される。

戦時の医歯一元化闘争40 日歯通知の波紋

昭和17年9月、医歯一元化運動に対し日本歯科医師会(日歯)は道府県歯科医師会長あてに通知を出した。その内容は厚生省、文部省、陸軍省医務局は同運動を関知していない、歯科医師会役員の官選にも影響はしない、というものである。
で、その影響。

日本歯科医師会長の名をもって道府県歯科医師会に牒達された「医歯一元化運動に関する件」は、果して各地方に大きな波紋を起し、右通牒を高度有利に医歯一元化運動の阻止に利用している関係上逆効果的に悪質なる対立を引き起こしつつある向きも多く、あるいはかえって冷静の態度を強化する向きもあり、あるいは一元論を捨てて東歯側に加担する等各地で喜悲劇の惹起を見せつけられていることは、歯科医師会改組前夜の出来事として一般の注目を引き、心ある者の心胆を寒からしめているところである。
(時報、1942年10月21日発行「歯科公報」)

「各地方に大きな波紋」を起したらしい。そんな大した内容とも思えなかったが。役人に聞いたら関知しないと言ったというが、役人なんて大抵、関知しないというものである。

現状維持に、必至の努力を払っている東歯同窓会側は、同窓聨合会の全国支部網完成に先じて各地支部会の結束を強化し、歯科医師会改組後の議員選挙に絶対多数獲得を期し、密かに指令を発し、10月12、13、14日は東京各区委員を分割召集して徹底を期する等昨今の暗躍には見るべきものがある。


医歯一元化推進組織「大日本新歯会」は声明を発表している。

日本歯科医師会の権力濫用について
大日本新歯会

先般日本歯科医師会より「医歯一元論に関する件」として道府県歯科医師会長に対し前後3回にわたり不可解なる通牒を発し、全国歯科界に波乱を起さんと試みたるは吾人の遺憾とするところである。同通牒の内容は厚生省当局、陸軍省三木医務局長、文部省永井専門学務局長に対し一元化論の賛否を問い、責任ある地位にある方々のご意見としては不偏不当至極御允なる言を敢て曲解し、これを利用して道府県歯科医師会長を強いてその会員に対し一元論に反対し二元論を強要せしめんとするものにして、日本歯科医師会長たるの言論を封鎖せんがための窮余の策に出たものに他ならざるは明らかなるところなるも、いやしくも歯科界の代表者としてあるまじき態度、公人として断じて許すべからざる行為である。
従って本会は全国歯科医人に代りその意図するところを明徴にし、その非を糺問のため日本歯科医師会長に対し内容証明郵便をもって次のごとく質問したるに、その非なることを全面的に承認することとなったゆえ、医歯一元化を要望する全国歯科医人は、かかるものに対しいささかの掛念なくこれに邁進することを望む次第である。


大日本新歯会の公開質問の内容は3つ。すなわち、

…鳴205号は、道府県歯科医師会会長に一元論に賛成しないようその会員に伝達させるのが目的か。
通牒207号は、文部省永井専門学務局長が一元論に対し賛否いずれの意思表示もしなかったのに、その言を曲解して同局長が一元論に不賛成だと道府県歯科医師会会長に言いたかったのか。
D鳴213号は――

陸軍省医務局長三木良英閣下は、例えばさる5月17日、歯科医学専門学校聨合同窓会報国大会に対する東京歯科医学専門学校同窓会ならびに日本歯科医師会の不法なる妨害あるいは「いわゆる歯科医学専門学校同窓聨合会に対する東歯同窓会の立場」と題する印刷物を全国的に配布して東歯同窓会が歯科界の紛糾を招きしがごとき事実に鑑み、貴会に対し今後かくのごとき暴挙を行わざるよう、また歯科医師全体は今回日歯発第205・207・213号をもって貴下より道府県歯科医師会長に対して発送いたされそうろう書信のごとき文意不徹底なる文書に接したる場合も動揺して争論を行わざるよう、自重を切望せられたるものと解釈せらるるにもかかわらず、あえて貴下はこれを自己に都合よく曲解して貴下より道府県歯科医師会長に対し一元化論に賛成せざるよう申し進めおるものと解釈して差し支えなきや。

で、日歯の答えはどれも「然り」。素直に認めている。意外。
日歯は「5月17日、歯科医学専門学校聨合同窓会報国大会に対する東京歯科医学専門学校同窓会ならびに日本歯科医師会の不法なる妨害」をも否定しなかった。この騒ぎは警察沙汰にもなり、否定しようにもできなかったのだろう。

戦時の医歯一元化闘争39 日歯の通知

昭和17年9月、医歯一元化運動に対し日本歯科医師会(日歯)は道府県歯科医師会長あてに通知を出している。
まずは昭和17年9月25日付で2本。そうろう文を要約した。

昭和17年9月25日、日歯発第205号「医師歯科医師一元化運動に関する件」(要約)
近時、歯科医師を医師にするべきとの議論があり、実行団体もできている。団体の中には歯科医師を医師とするのは厚生省当局の方針または諒解によるものとなどと流布して入会を勧誘し、あるいは一元化論に賛成しなければ歯科医師会長に推薦しないと唱え、あるいは現歯科医師会役員に対し一元論賛成を強要する行動があるようで、各地から照会がきている。
だが厚生省当局では一元化論に関しては今日まで全く考慮することも、質問を受けたことも、賛否の意見を洩したことすらもないと言明されている。当局支持の下に行われている運動ではないことは明白であり、また、歯科医師会長の官選は歯科医師会令の定めるところであり、一元論に対する賛否を条件としてその適不適を決定するものではない。国民医療法の精神に応じて、大政翼賛に至誠を期すべき今日において、選挙運動と紛らわしい行動に出ることは厳戒を要する。貴会々員各位に対し、時局柄ことに職域の重きに任じ、慎重な態度をとられるよう御伝達くだされたく申し上げる。
(日本歯科医師会史 第1巻、p492)

昭和17年9月25日、日歯発第207号「医師歯科医師一元化問題に関する件」(要約)
本件に付、本日文部省永井専門学務局長より「少くとも自分に関する限りこの問題は初耳にして右の運動は文部省の関知しないものである」との言明があったと申し上げる。
(時報、1942年10月11日発行「歯科公報」)

厚生省も文部省も医歯一元化運動は関知していないし、歯科医師会役員の官選にも影響はしない、という通知である。日歯として一元化をどう考えるか、については沈黙したままである。
さらに、その翌26日付。

昭和17年9月26日、日歯発第213号「医師歯科医師一元化問題に関する件」(要約)
本日、本会奥村理事長は陸軍省医務局長・三木良英閣下を訪問し、標記の件に関してその意図を訊ねたところ「この議論は雑誌に散見しているが、今日まで質問を受けたことも、意見を洩したこともなく、したがってその実行運動に諒解を与えたようなことはない」旨を明らかにされ、かつ「歯科医界においてこのような争議を続けているのは、重大時局下まったく支持できないところであり、自分個人として歯科医師全体の自重を切望せざるを得ない」旨を付言された。
(時報、1942年10月11日発行「歯科公報」)

軍医増産は陸軍の要請であり、昭和19年3月には歯科医師の医師転用制度が議会で採択されている。
よって、時の陸軍省医務局長が医歯一元化というか、歯科医師の医師への転用について質問すら受けたことがないというのはウソか白を切っているかのどちらかであろう。医師不足対策に帝大・官立医科大に附属臨時医学専門部が設置されたのが昭和15年、それでも予想される軍医不足に厚生省は“歯科医の短期訓練”を挙げていたのであるから、厚生省が「今日まで全く考慮することも」ないというのもウソかカマシか、レトリックである。歯科医師の医師への転用は、あくまで医歯一元化ではない、という。
実際に“日歯の要請で”実現した歯科医師の医師転用制度は、以下の内容であった。

・東京医学歯学専門学校医学科(4年制)の3年次に歯科医師を編入→医師に
・慶應大学、慈恵医科大学の附属医学専門学校に歯科医師用の特設科、臨時科を設置(医学科の3年次と4年次の内容を1年間で修了)、終了後→医師に
・歯科医師に計330時間の医学講習→医師試験合格→6ヶ月の臨床実習→医師に

本邦初、歯科医師が医師免許を取得できるダブルライセンス制度である。同制度はいかにも即席であり、一元論者が主張していたように、全身疾患と口腔疾患を双方向で治療することや、全身の健康の一貫としての予防歯科の実践、といった一元化の理想にはまだ遠いが、しかし、一元化には踏み込んでいる。制度による患者メリットがわかれば、医歯の医育統合→歯科専門医の誕生→コデンタルの業務拡大、といった一元化は遠い話ではない。

それはともかく、日歯は一元化を拒否しつつ、ダブルライセンス制度を国に要請した。

日歯はダブルライセンス制度を一元化の一貫とは、考えていなかったのか――ダブルライセンスの必要がどこからくるかを考えれば、一元化に帰結するのだが。
だが、日歯は一元化の議論には、乗る気配すら示さなかった。
だから現実的には、一元化の、いや二元制の定義すら、歯科界で共有されはしなかった。シカトすることで問題点を曖昧にし、現状維持するやり方は今も歯科界によくある(例:歯科衛生士の業務範囲、歯科技工の海外委託)。一度議論が始まれば、その矛先が歯科界のありようにまで波及する可能性は高かった。それを怖れたのだろうか。

一見医歯一元化運動は歯科医師会改組に無関係のようであるが、実は深刻な意義と魅力を持つもので、同窓聨合会の圧力は医・歯一元への飛躍と同時に、歯科医師会の機構と会員の心構えに、偉大なる浄化作用、賦活作用を与えるであろう。
(余禄、1942年10月11日発行「歯科公報」)

戦時の医歯一元化闘争38 大歯校友会の反撃

阪歯科医学専門学校校友会・生野会による、東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会「我等の主張」に対する反論。
阪神の若き東歯出身者の嘆息するを聞け。すなわち大井氏は講義講演等にては誇大に吹きまくるも、口腔顎の大手術患者はいつの間にか母校病院より姿を消し、牛込区開業の慈大出身某医師の手術室に現わると彼は内職なりとごまかすも、実は彼の能力努力の不足にあらず、医師資格なき二元制の悲哀を暴露するものなり。
(時報、1942年10月1日発行「歯科公報」)

「大井氏」=大井清。
大井清は大正12年東歯卒、当時は東歯の口腔外科教授。正木正と同期。

また歯槽膿漏症のごときも局所全身の総合審査および治療によりて、その完璧を期し得、その予防に至りてはなお然り。しかるに絶大なる努力精進にもかかわらず「局所療法」と限定せる不備なる著書を編せる花澤、杉山氏の例は二元制の欠陥にあらずして何にものぞや。


「花澤」=花澤鼎。
花澤鼎は明治15年生まれ、1902年東京歯科医学院卒。いわゆる検定組で、大正12年に歯科医師の医学博士第1号。東京歯科医学院では明治38年から病理組織と臨床実習を担当している。

「杉山氏」=杉山不二。
杉山不二は花澤鼎とともに昭和16年10月、「歯槽膿漏の局所療法」を上梓している(定価6円)。同書発行当時、花澤は東歯の病理学教授、杉山は保存学教授。

参考:花澤鼎「歯槽膿漏の局所療法」、臨牀歯科社編「歯槽膿漏の種種相」

傲慢なる奥村氏も過般の神戸大会にも前例なき悄然たる態度にて「もう一期だけ会長を勤めさせていただきます……」と挨拶せり、学校歯科医会長として深く反省せよ、過去において陛下の赤子、学童、口腔保健の完璧を期し得たりしか、予防はおろか早期治療さえできず。ただライオン歯磨の宣伝先棒をかつぎ彼我の利欲を満したるに過ぎざるなきか。また統率下の学校歯科医の聖職は開業利権の争奪の醜と化せる現状にて学校歯科医療は逐年行きづまりあり、よろしく会長の責任を痛感せよ、奥村氏は自己の利欲名誉のため、まさにまた東歯の党派拡大のため歯界多方面にのさばるのみ。狂奔し斯界に及ぼす罪むしろ功より大なるを遺憾とす。すべからく専一挺身もって奉公の実績を確たらしめよ。


「奥村氏」:奥村鶴吉。
奥村鶴吉は明治14年生まれ、明治31年高山歯科学院(後の東歯)卒、明治32年歯科医術開業試験に合格。東京歯科医学院の設立当初から院務にかかわり、昭和18年に東歯校長。この批判が書かれた当時は日本聨合学校歯科医師会理事長、日本歯科医師会(日歯)理事長(今の専務理事にあたる)。翌昭和18年発足の官制日歯では幹部からはずれ、以後日歯には関わっていない。戦後、昭和23年3月に開かれた社団法人日歯の最初の代議員会では会長選挙が行われ、候補者として奥村鶴吉も上げられていたが、「手続き上の不備」で失格となっている。

大西技師のごときも大分県時代より東歯派閥のためなら手段を選ばぬ輩なるに奥村氏がかかる党派根性の人物を推薦したるものは智謀といわんよりも旧政党型策士なる証なり。大西、花澤氏のためタイアップせし歯科材料問題に絡む醜聞は、単なる関西商人の噂の域を脱せるにあらずや、近来大西技師は関西方面にて公然と一元論を駁し、その論者を非国民たるがごとき言をもってこき下ろすは、官吏道を脱せるものにして、あるいは官吏と東歯出身者としての身分を混同せるものにして、我ら静観者も彼の言辞を聞きてむしろ一元論に燃えさるるに至れり。


「大西技師」:大西栄蔵。
大西栄蔵は昭和13年に設置された厚生省に嘱託で関わり、昭和17年に正式に厚生技官となった。昭和23年、厚生省に歯科衛生課が設置され、その課長となる。昭和30年制定の歯科技工法を書いたのは大西栄蔵といわれている。

単なる中傷としても「ライオン歯磨の宣伝先棒」「歯科材料問題に絡む醜聞」など、使われる言葉が今に通じるのは興味深し。

戦時の医歯一元化闘争37 二元制のデメリット

歯科医学専門学校同窓連合会――医歯一元化を目指す歯科医育機関同窓会の連合体。東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会以外の全同窓会が参加――は、医歯二元制下における歯科医師のデメリットとして、

〇猖歓巴能颪書けない
軍で活躍できない
9埓に関与できない
ぐ綮佞茲蟲詢舛低い
ゴ擬圓某糧配給券を出せない

を挙げている(時報、1942年10月1日発行「歯科公報」)。

〇猖歓巴能颪書けない
歯科医は歯牙と関係して起った死亡に対しては、死亡診断書を作成することを得るの事実らしい。しかし歯牙の治療に関係して起った死亡が果して歯牙だけに原因があったのか、ほかに原因があって死亡したのかということは、歯牙口腔だけに限局した審査では結論が出せないはずだ。


旧医師法第5条
医師は自ら診察せずして診断書、処方箋を交付しもしくは治療をなし又は検案せずして検案書もしくは死産証明書を交付することを得ず。ただし診療中の患者死亡したる場合に交付する死亡診断書についてはこの限りにあらず。

旧歯科医師法第5条
歯科医師は自ら診察せずして診断書、処方箋を交付しまたは治療をなすことを得ず。


昭和28年からは、歯科医師による死亡診断書の作成と交付が明確に可能となった――というか、義務である(死因は関係ない)。死亡診断書には直接死因のほか、その原因をさかのぼって記入しなければならない。ということはその能力が認められているということだが、にもかかわらず、歯科医師は死体検案書を出すことはできない。死亡診断書も死亡検案書も用紙は同一なのに。

軍で活躍できない
歯科治療に限局した奉公も結構であろうが、さらに医師資格のある歯科専門医として働くことができるならば、専門科目において得意の手腕を振い得ると同時に他の分科の専門科医とまったく同じような立場においても医療奉公の実を挙げることができて本人の本懐も一層大なるものがあるであろう。


9埓に関与できない
府県庁や大きな都市で仮に技師を採用する時に、医専の卒業生であれば何の方面の衛生事務にも、行政にも関与させることができるであろうけれども、歯科医では歯牙に関すること以外には使うことができないのである。同じ専門科として同じ年限の教育を受けて、その専門に必要な能力を持っておりながら歯科医は医師という資格がないばかりに、こういう結果になるのだ。


ぐ綮佞茲蟲詢舛低い
どの病院でも歯科医を同じ4年の教育を受けた医専の卒業生と比較するというと、第一初任給が安いし、俸給の昇り方が少いし、何年経っても院長なんかにはなれない。これも同じ医師というところの資格がないというだけの結果である。専門家としての能力については、他の専門の医師と少しも違ってはおらないのにこんな実情なのだ。


ゴ擬圓某糧配給券を出せない
歯科医であるがゆえに患者に牛乳や卵や米の配給券もやれない

1942年から重要医薬品、包帯、入院患者用栄養品などは医師会を通じて配給することになっていた。また、患者が自分の医療用品、粉乳、牛乳、氷などを購入するには担当医師が交付する証明書が必要になった。とはいえ、やがて証明書はあっても現物がないという事態になるのであるが。

さて、吉澤信夫によると、医師には可能で歯科医師に許されていないのは、

1)歯科病院を除く病院の管理者(病院長):総合病院、療養型病院等の院長職は医師に限定され、歯科医師は看護師等とともに資格を持たない。
2)保健所長:最近若干の道は開かれたが、事実上歯科医師の場合多くの障壁がある。
3)児童相談所
4)身体障害者福祉法第15条の指定医師
5)介護老人保健施設長
6)法務省法務技官(矯正医官)
7)生命保険会社の嘱託医
8)要介護認定申請に関わる意見書作成担当医
9訪問看護,訪問リハビリテーション事業所の提携医
10)厚労省関係公務員で課長を越える役職(参事官、医政局長等)
11)地方行政組織における公衆衛生業務もしくは審議会委員:一部には歯科医師、歯科衛生士も参画している
12)地方行政に関する医療福祉関係諮問会議の委員(一部を除く)
13)社会保険診療における差別:例えば禁煙指導、禁煙補助薬処方は歯科関係者にも充分実績があるが、社会保険では不可
14)死体検案書(医師のみ)、出生証明書(医師又は助産師のみ)、死産証書(死胎検案書、医師又は助産師のみ)の作成と医師法21条に関する報告
15)その他(検疫官など?)
(吉澤信夫「歴史に学ぶ歯科医療の打開(IV): 歯科医師の死亡診断書交付問題」、歯科学報、2011年

これだけあるという。
要介護認定審査委員の歯科医師はフツーにいるのだが、意見書を書けないとは。
なお、2009年の新型インフルエンザ流行の際には、歯科医師は同ワクチンの優先接種対象の医療従事者から外された。優先順位をつけること自体ムダであるうえ、官僚の歯科軽視があからさまとなった事件である。しかもその後ワクチンが余って結局廃棄されたのも実にやるせなく、世界に冠たる日本官僚の劣化のほうがパンデミックよりも恐ろしいと思わされるのであった。

戦時の医歯一元化闘争36 井中の蛙

医歯一元論はいまさら議論の余地がないにもかかわらず日本歯科医師会の幹部2、3を中心に反対論を唱え、崩れ落ちんとする牙城を守るに血眼になっている姿はむしろ憐慇に思う。
(中川一郎「臨床家の立場から医歯一元化を見る」、1942年10月発行「臨床歯科」)

著者は宇治山田市(現・伊勢市)の開業歯科医師。正木正「医歯一元論者の誤謬を正し新歯会、歯科医学専門学校同窓連合会の解散を勧告する」への批判である。

「我等の主張」「我等の態度」を読んでも少しもピンと来ない。正木氏のいわゆる日本歯科評論9月号の「医歯一元論者の誤謬を正し云々……」を読んでみても歯科界の学者である同氏の所論の貧困さを暴露し、哀れにも自ら墓穴を掘っている感が深い。さらに寺木村人氏の「お若えの…待ちなせえ」や臨床歯科9月号の「一、ニ元論談義」に到っては大東亜戦下の日本の歯科界によくもあんな骨董品的な言辞が横行できたものだと驚きの眼を瞠るのである。


「骨董品的な言辞」――一元論者は、二元論者を批判するのに旧体制、骨董品という言葉を用いた。一元化闘争はある意味、革命であった。

寺木氏のような過去の人間(そんな定評がある)の言う事はともあれ、われらの尊敬する正木氏のような新進の学者をもって自他共に任ずる者に於ては氏の将来のために悲しまざるを得ない。一元論が達成すれば慶應歯科の後釜が若井氏に奪われる杞憂から極力二元論を主張するのだとのデマも飛んでいる。


「慶應歯科」とは大正9年に設立された慶応大学医学部歯科学教室(岡田満教授)のこと。正木正は当時、その助教授だった。
「若井氏」とは、恐らく若井榮治郎のことだろう。当時は講師である。

参考:岡田と若井の共著「齒科代用合金の有害作用に關する生理衞生學的研究 (第一報)」
1940年の日本補綴歯科學會々誌に掲載された論文。動物実験によるNi-Cr合金の神経筋肉・心臓・血管・脊髄反射・発育に対する「害作用」が報告されていて興味深い。何を根拠に同合金を保険収載したのだろう。
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閑話休題。
二元論者がどんなにあせってもこの大勢を動かす事は絶対に不可能であると断言するに憚らない。毎年2000に近い歯科医専卒業者の中東歯200名くらいの力ではどうにもならないことは火を視るよりも明かである。
次代の歯科医人から先輩の切り開いてくれた一元化運動が必ずや感謝の涙を以て迎えられる日が来るのは必定である。一元論に動いているのは日本の歯科界中ごく少数のように思っているが認識不足も甚だしい。業種の拡張に誰が反対するものか。関東歯科医家の9割までは賛成している事実が判らないとは情けない次第である。一元化が実現すれば医者の軍門に降るなど思っている者も一人もあるまい。
医者が反対するのなら世間でもなるほどと肯かれるが、同じ仲間の歯科医人が反対するとはどう考えても合点がいかないのみならず世間の哄笑を買っている。歯科の社会には井中の蛙が多いようであるがそのサンプルがあたかも二元論者である。


「業種の拡張に誰が反対するものか」という意見は、まったくその通り。だが、反対したのは当の歯科医師であった。不思議である。

戦時の医歯一元化闘争35 国防医学

国防医学、という分野がある。平和時には、国民が病気になると働けず、貧乏になり、ひいては国家財政を圧迫する――その貧窮を防ぐ医学である。戦時にはさらに、戦傷治療や検疫・防疫、生物兵器などの被害の防御や除染が対象である。
昭和18年に出版された国防医学歯科講習会編「歯科医師に必要なる国防医学講座」の目次。
機シ蛙懍侖楜攘蛙懴鏖辺
1.軍陣醫學の一般・松本秀治
2.軍陣齒科學に就て・松本秀治
3.軍陣に於ける齒科的治療・松本秀治
4.顎及口腔戰傷の特殊治療に就て・松本秀治
5.軍陣齒科學・松木正直
6.顎戰傷治療に對する齒科學の關與・松木正直
7.顎骨々折處置の實際・佐藤正一郎

供ン鏖菩仍佞防要なる瓦斯防護
1.瓦斯防護・佐藤保定
2.瓦斯防護に就て・江幡廣松

掘ン鏖菩仍佞防要なる防疫
1.戰時防疫に就て・羽山良雄
2.防疫醫學の一般・南崎雄七

検バ防醫學及保險醫療
1.豫防醫學一般・高野六郎
2.社會保險醫療・黒田教慧


コレを見ると、戦時に医歯一元論が隆盛したのがよく理解できる。戦時には医科と歯科を区別する余裕がないからである。特に戦場では。
著者のうち、目を引くのが羽山良雄である。
羽山良雄はシンガポールの南方軍防疫給水部の部隊長で、軍医少将。細菌戦にもかかわり、戦後は血液銀行の相互ブラッドバンク(現ビー・エム・エル)に勤務した。
南崎雄七は厚生省防疫課長。著書に「農村の衛生と医療」(昭和8年)などがある。
高野六郎は内務省伝染病研究所技師、北里柴三郎研究所所長、慶応大学医学部教授、厚生省予防衛生局長などを歴任した予防医学の先駆者。
松本秀治は陸軍軍医学校口腔外科教官などを経て、軍医部長に。軍医学校教官時代には「出動地に於ける歯科診療」(昭和15年)を執筆している。
なお、陸軍軍医学校に口腔外科が設けられたのは明治39年、日露戦争勃発の翌年である。松本秀治は同科第4代目の教官であった。陸軍軍医学校は戦後、国立東京第一病院を経て、国立病院医療センターと改称して今に至っている。

戦時の医歯一元化闘争34 満洲の医歯一元化

1942年10月発行「臨床歯科」より、羽田宣男「満洲に於ける医歯一元問題に就いて」。1942年9月に新京で開催された「満州建国10周年記念歯科医学会」において、医歯一元化問題が「最も熱心な話題の中心」となったという。
著者は日本歯科医専卒、医学博士。専門は人類学で、在中国大陸期間は10年以上に及んだ。著書に「工場の歯科衛生」「生体計測・人類学の基礎」など。

満洲に於ては歯科医はすべて防疫予備員である。伝染病発生あるいはこの予防に対しては常に医師との間にその分担の業態について何等の差異もつけてはいないのである。このことはひとり満洲に限らず関東州に於ても同様である。ただし平時に於ては歯科医は歯科医としての専門科を担当するのである。また、歯科医がそのまま専門の防疫医として働いてもいる。あるいは行政官として医政に従事している。県立病院の副院長として他科の医師の上に立っている人もいる。


満洲の歯科医学部といえば、哈爾濱医科大学附設哈爾濱歯科医学院である。
医学部は予科1年、本科4年。歯科医学部は3年制だった。学長は植村秀一、主任教授兼附属医院長は福島秀策
さらに、泉孝英「外地の医学校」によると、医学部には歯科学講座もあったもよう。
歯科担当は歯科医学部と同じく福島秀策(東京歯科医専)。昭和14年1月就任。

また、佳木斯医科大学(昭和15年〜20年)にも歯科学講座があり、歯科担当は野田久雄(昭和9年九州歯科医専卒)だった。昭和18年2月就任。

南満医学堂時代に佐藤運雄が赴任していた満州医科大学(大正11年に大学昇格)には、少なくとも昭和9年までは歯科学講座の存在が確認できる(満州医科大学一覧、昭和9年)。

関東州の官立旅順医学専門学校(昭和18年〜20年)の歯科講座は石岡淳三が担当し、戦後は「神戸市三宮にて開業」と「外地の医学校」にあるが、歯科医師かどうかは不明である。

満州国陸軍に於ては歯科医も医師と一律に軍医学校の入学資格を持っている。これを卒業すれば軍医として任官し、その将来に就ては医師、歯科医師との間に何等の差異を認めないのである。
その他、歯科医として医大の解剖学、組織学等の講座を担当している人もある。


満洲国立満洲国陸軍軍医学校は、昭和13年開校。

満洲に於ては医、歯一元化はすでに実践せられている大国策であって、満洲に於ける同業はこの下に安居楽業して静かにその発令の時機を待っているに止まり、現在内地に於ていろいろに論議をかもしているこの問題に就ては対岸の火として関心をこそ持つが、これに動ぜられて満洲自体の国策をあやましむるが如き挙には出ないであろうということである。
なお、満洲はこの問題に関し独自の立場にあるといわれる方に対しては満洲の現状を敢て歪曲して考えることにより却って満洲の母体である日本の国策をも誤らしめないことを望むものである。


戦前は日本内地でも、大学医学部に歯科学講座があるところは結構あった。いわゆる歯科医業が歯科医師の独占業務ではなかったからである。満州の社会状況では医療従事者自体が貴重であり、医師と歯科医師をわける余裕もなかったことが医歯一元化をより推し進めたのだろう。

戦時の医歯一元化闘争33 「我等の主張」著者・正木正

東京歯科医学専門学校(東歯)「我等の主張」の著者、正木正。明治32年生まれ、昭和63年没。享年88歳。
著書に「新編 歯科医学概論」(1975年)がある。医学概論というより、歯科の歴史概観といった感じである。

・歯科学が医学から分離したのは、歯科医療の社会的評価が低かったアメリカで始まる(→ボルチモア歯科医学校、1840年)。
・アメリカでは1842年にアラバマ州で歯科医師の資格試験が開始(全米ではモグリ全盛)。
・第一次世界大戦後にナチスがユダヤ人を追放し、それらドイツ語圏ユダヤ人がアメリカに移住して歯科学を向上させる(ナチスの政権掌握は昭和8年)。
・1960年代、アメリカの歯科医師は技工作業の約3/4を商業的な歯科技工所へ出していた。
・1940年、ドイツの歯科医師数は約1万3000人、入歯師数は約2万2000人。1952年に歯科医療法が改正され、新規の入歯師は誕生しなくなる。
・オーストリアの歯科医療従事者:歯科専門医約1500人、入歯師2500人。
・デンマークの歯科医療従事者:歯科医師約2600人、歯科技工士600人。歯科技工士は補綴治療も可能。
・イギリスの歯科技工士:健康保険歯科診療が開始した1921年から免許制。養成は開業歯科医師の技工室か、商業的技工所での徒弟制。学校は同業組合が公認した技術学校化、イギリス外科技術学校、または軍などがあった。
・1970年代? スイスのある県では入歯師が患者の口腔内に可撤性義歯の装着が可能。
・1970年代? 歯科医師の女子率:リトアニア96%、フランス30%、ベルギーとスイス10%、アメリカ1%、スウェーデン25%。
・昭和50年代、日本で歯科技工指示書を書いている歯科医師は「ほとんどない」(歯科技工法第18条と第30条の空文化)。

などを、私はこの本で知った。歯科を無視する医療史がほとんどなので、実に助かった。
さらに、

非合法的な歯科診療は、口腔科医(歯科専門医)が開業しているイタリー、スペイン、ポルトガルなどの国のほかに、スイスにもみられる。


という、正木が「我等の主張」に到達した理由も同著にはほのみえて、興味深い。上記の「非合法的な歯科診療」とは歯科技工士の行う補綴治療のことであり、つまり正木は、医歯一元化=入歯師(or歯科技工師)の認可、と認識していたのだろう。
また、同著にはいろいろアヤシイ記述がある。例えば、

“医は算術である”という言葉の起源。
保険医の利益を擁護するために、共産党の外郭団体である保険医協会がある。京都府は保健診療の1件当たりの単価が、ほかの府、県に比べて、とくに高い。これは濃厚診療であるという。濃厚診療は患者にとっても歓迎される。
社会保険診療報酬の請求は、書類のうえで操作ができる。これは保険医の水増し請求を意味する。この水増し請求を指導する団体が保険医協会であるといわれている。
水増し請求の運動は、“三ケタ”の会からはじまった。この会の目的は診療の1件当たりの平均単価を“三ケタ”にしようというので、これから“医は算術”という言葉が生まれた。
京都は政治的に革新政党の勢力が強い地域として知られている。“いのち”と“くらし”を守ることを標語に、共産党は“いのち(健康)”と結びつけて診療活動を行ない、あるいは反税闘争を手がかりに“くらし(金)”に食い込んでいる。この保険医協会は医療事故が起こり、医師が訴えられてきたときに、それを支援し、さらに医師に対する医療金融公庫の融資をとりもつことに努力する。その目的は何か。深く考えさせられる。共産党は破壊活動防止法(破防法)の調査団体に指定されている。破防法では、過去に暴力主義的破壊活動を行なった団体、これからも引き起こすおそれがあるとみられる団体を指定し。公安調査官が調査したうえ必要とみれば、公安調査庁長官が公安審査委員会に対して、その団体の解散などを請求することができる。
(P322-323)

正木の認識では、「医は算術」の起源は保険医協会にあるそうである。どうだろう、長尾折三の「噫 医弊」の時代ではないかと思うが。それと「医療事故が起こり、医師が訴えられてきたときに、それを支援し、さらに医師に対する医療金融公庫の融資をとりもつ」などは医師会だってやっている。というわけで上記文章はかなり妄言くさいのだが、妄言は時代の鏡でもあるため、歴史的価値が実は高いのである。




戦時の医歯一元化闘争32 「我等の主張」の著者・正木正

平成のこの時代にもし医歯一元化運動が起こるとすれば、その主体は大学人になるのではないかと思う。
特に、診療領域問題で煮え湯を飲まされている口腔外科関係者である。医学部併設大学であれば統合も可能だし、少子化時代の生き残り策として積極的支持を打ち出す大学経営者もありそうである。反対するのは、つぶしの利かない単科の歯科大学と、日本医師会(日医)か。日医は開業医団体として、ライバルの増加を一貫して警戒しているからである。日本歯科医師会(日歯)は、まあ、日医に追随するだろう。または無視するか。
昭和の医歯一元化闘争での反対者は、東京歯科医学専門学校(東歯)と、その同窓会と、その幹部を役員とする日歯であった。
この時代は歯科医育期間が大学化していなかったから、大学関係者は圧倒的に少なかったけれども、その少ない大学関係者にはやはり一元派が多かった。佐藤運雄や川上政雄がその筆頭である。
一方、大学人でありながら、しかも予防歯科医学に関係していながら、一元化反対の先陣を切っていたのが正木正である。
正木正は、東歯同窓会「我等の主張」の著者である。医歯一元化闘争の頃は、全国を飛び回って一元化反対運動に邁進していた。花桐岩吉についても厳しく論難していた歯科医師である。
明治32年明石市生まれ、旧制同志社中学を経て大正8年、東京歯科医学専門学校に入学する。大正12年に卒業。

授業は充実し、最も優れた教授陣であったが、思想的背景のない自然科学的な技術教育であったので、なんとなく染めなかったし、学校経営の面でも、、いくらか学校屋のような感じさえ受け、心の底には学内の幼稚な物の考え方に対する不満が残っていた。
(新編歯科医学概論、1975年)

正木著の「新編歯科医学概論」(1975年)のあとがきには、東歯卒業後同校に残り、昭和4年助手から助教授になり、昭和7年2月に医学博士の学位を得て昭和15年1月に教授になる――とあるが、同じページで「万年助教授であった」と書くなど矛盾も。

わたしは、異端者とみられていたのか、専門学校と大学とを合わせて25年に及ぶいわゆる万年助教授であった。このようなことは、きわめて珍しいのではないかと思う。


助教授の期間は昭和4年から昭和15年までなのだから、助教授期間は11年程度のはず。いろいろ大丈夫なのか不安になるが(ちなみに76歳の時に発行された本である)、これは東歯という学閥のなかでは冷遇されたと、少なくとも本人は不満に思っているということか。
それはともかく――正木正は昭和30年4月に日本大学歯学部教授となり、口腔診断学を教えた。
昭和41年3月に日大を定年退職し、同年4月から日本歯科評論社主幹となり、昭和46年8月に退社している。
歯科医師会的には、昭和18年1月から昭和23年3月まで日歯の理事である。
占領下の昭和21年にはGHQの指示による歯科教育審議会委員、昭和23年と24年には歯科医師国家試験委員となり、国立公衆衛生院医学科非常勤講師を委嘱され、10年間口腔衛生学を講義した。
所属学会は大日本歯科医学会の理事と副会長、社会歯科医学会理事、日本口腔科学会理事、日本口腔外科学会理など。

歯科医学教育機関と個人歯科医師の集まりである歯科医師会は、まだ閉鎖社会の域を脱しきれず、絶えず動き、移り行く社会の変化に対応できていないように思う。それは半世紀前のわたしが学生であった頃に感じた歯科社会の幼稚な物の考え方と程度の違いはあるが、それがいまも残っている。世の中で無知ほど恐ろしいものはない。この歯科社会にみられる特殊な後進性は、何によるのであろうか。いつになった社会常識との差が縮められるのか考えさせられるものがある。この苦言は、いまの、あるいは、これからの若い人たちの努力によって打開されるのを期待している。


歯科界の「閉鎖社会」「特殊な後進性」を嘆く正木正には、しかし、歯科界の新体制運動であった医歯一元化運動は心に響かなかったようである。

ハロウィン2016

本日はハロウィンなので、気味の悪い話を(そういう日だっけ?)。

ある歯医者さんのもとに、こんな冊子が送られてきた。

P1530895
▲夢みるこども基金だより。

歯科医師に、送られる覚えは皆無であった。
歯科医師会には入ってないし、電話帳その他にも個人情報は載せていない。

P1530890
▲「約7万人余の歯科医師」全員に送ったらしい。

中を読んでみると。

P1530894
▲「全国67,000の歯科医院、診療所などのリストが入手できたので」

えっ、そんなリストが?

グーグル先生に聞いてみると、ドクターズファミリー「全国歯科医師名簿」なるものがヒットした。
が、
「原則として個人の方には販売致しておりません。
企業の場合も使用目的をお聞きする場合があります」
社団などには、使用目的も聞かずに販売するということか。
迷惑メールが蔓延するワケだ。

個人情報保護法的にはどうなのかと思うが、HPには「ご本人からの名簿削除の申し出があれば、速やかにデーターの削除を行います」とあり。
それで法的に問題がないのかどうかはナゾだが、気味の悪い郵送物などにお困りの医師・歯科医師は、ドクターズファミリーに削除依頼を出してみるのもいいかもしれない。
それはともかく。
同基金の基金活動とは、歯科医師が患者からはずした使用済み歯科金属を寄付し、その売却益でボランティア活動を行うというもの。

P1530898
▲現在の協力歯科医院数は全国計1086件。

全歯科診療所の2%足らずである。
で、そのうち福岡が2割を占める。

P1530900
▲1件のみという県も。

日本歯科医師会も似たような事業に協賛している。
その日本財団「TOOTH FAIRY」に参加している歯科診療所数は6296。
全歯科診療所の1割足らず……こちらも大して多いとはいえまい。そりゃそうだ、どこの歯科診療所も経営が厳しいのである。撤去冠や金属の削りカスは集めて、金属回収に出し、換金しているところがほとんどだろう。確か、このTOOTH FAIRYの発足時に日本財団のエライ人と当時の日歯会長の対談があって、日歯会長(当時)が「撤去冠はフツー捨てられている」的発言をしていたと記憶するが、撤去冠を捨てている歯科診療所なんて聞いたことがない。まあ、ボランティアもいいけれども、まずは歯科診療報酬のボランティア価格を何とかしてくれ――というのが、大多数の歯科医師の気持ちだと思う。

P1530891
▲顧問には臼田貞夫氏。

ワイロで歯科診療報酬点数を買おうとした元日歯会長を、顧問に。これは符丁か、メッセージか、それとも何かのメタファーなのか。
気味の悪い話である。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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