売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。
保険診療の範囲の拡大と療養費払いの採用について

飯塚
日本医師会では、歯科医師会はずるいといっていますね。歯科医は保険でとった上に自費診療で多額の医療費をとっているが、医師会は保険だけでやっているといっていますね。
しかし、私は逆に歯科医は損な立場だと思います。保険だけではとてもやっていけないので、大変な苦労をして保険外収入を得なければならないんですから。これに比べると、保険だけでやっていける医師会の方がうらやましいですね。何といっても保険で収入を得たほうが楽ですよ。
どんなザマでもよかったらそれは保険だけでもやっていけないことはありません。しかし、その場合は、もし私が患者なら「こんな治療をしてほしくない」というような治療をどうしてもせざるを得ません。そのようないい加減な手抜き治療をしないということになると、これはもう、どうしても経済的に成り立たない。

仲田
それは医者のモラルの問題で、これに反しない程度の医療ができるように点数の手直しもしたいということなんです。ただいっきょにできないから段階的にということですね。


その問題は、そういうことだと思いますが根本的な問題は保険制度をどうするかということで、今の保険制度は医療の質を落とせばもうかり、上げれば食っていけないという宿命がある。これは政治の問題だと思いますね。努力すれば報われないという職業は他にはないですね。
それを医の倫理で克服しろというのはどうですかね。まあ、1回ぐらい赤字がでてもいいですよ、しかしこれが10年も続いたら、私の診療所もかないません。

仲田
それは同意です。


だから、モラルだけでかたづく問題ではなく、そのモラルを荒廃させている根源は、平均的にしか評価しないこの保険制度に根本があるということです。
実は、特に医師会が今の保険制度を改めようとしないのは、その質を落として稼いでいる人の方が多いとか、あるいは組織の構造から来ることなんですよ。歯科医師会もその傾向がありますが……。

仲田
私も全く同じ気持ちですね。


でしょう、だから前に点数の引上げをやるなといったことがあるんです。

仲田
まあそれは、政治の介入するむずかしい問題ではありますね。ただ、数の上では保険診療に依存している人の方が多いということですよ。


だから、少数の良心的な医師が生き残り、保険に協力できる制度を作ることが、これからの課題ですね。
いつもいうんですが、1本の道ではいけない。今の保険制度はそのまま残しておきなさいと。そのかたわらにバイパスをつくりなさい。

仲田
私も昔からいっていましたが、保険制度に償還制の自由診療を補足し、2本建てにするべきだと考えています。


健保法の44条は、保険者が認めた時には療養費払いができることになっている。


第44条  
保険者は、特別の理由がある被保険者で、保険医療機関等に第42条又は前条の規定による一部負担金を支払うことが困難であると認められるものに対し、次の各号の措置を採ることができる。
(1)一部負担金を減額すること。
(2)一部負担金の支払を免除すること。
(3)保険医療機関等に対する支払に代えて、一部負担金を直接に徴収することとし、その徴収を猶予すること。

これを拡大解釈して「先生たちのグループと直取引きによる療養費払いをやりましょう」という健保組合の理事長さん方と話し合ったことがあります。政府管掌の方は、保険の建て前が崩れるとかいうかもしれませんが、現行法の44条の拡大解釈で、療養費払いも可能だと思うんですよ。
私のことをいうと、保険のなかで生きていけるのは、ここ1〜2年で限界がきそうに思っています。しかし、保険医はやめたくないんです。私は政府管掌保険の被保険者ですし、自分が病気になったら保険で診てもらっている。私は自由診療というのはやりたくない。
もう一つは、障害児の問題です。こういう患者がたくさん来ます。この人たちを保険で診てあげなかったら、困っている家庭をなお苦しめることになるので、保険医でがんばれるだけがんばりたい。今、障害者については300円の加算があるのですが、治療するのに3〜4人かかるのに、300円でどうなりますか。

仲田
やはり今後の保険のあるべき姿からすれば、全国1本でやることには無理があるんですよ。無医地区も大都会も同じでは無理ですよ。近代化した社会では、1本の制度で押えると、おかしくなってくるだろうと思います。その点PRが足りませんね。


極端なことをいいますと、上下4本の大臼歯、小臼歯を合わせて16本。これをちょっちょっとタービンで歯を削り、練ったアマルガムをちょっちょっとつめる。まず20分ぐらいでしょう。これが、私が先ほど1本につき1時間ぐらいかけるといったのと同じ評価になるわけです。即処1面のア充で1本167点として、20分ぐらいで26,720円にもなるわけです。
モラルを落とせばそこまでいけるわけです。しかし、1時間かかって1本と、1本については同じ評価ですからね。しかし、じゃ全員が1本に1時間をかけろ、というのは、これは無理だと思いますね。やはり努力すれば報いられる方向に行ける制度をつくらないとだめでしょう。

仲田
それと同時に、歯科医どうしのモラルの向上ということができないものか思うんですがね……。その辺は日歯なりに考えてもらいたい。


日歯による「モラルの向上」――現役会長が2回も逮捕されている組織による「モラルの向上」か。……まあ、犯罪者を取り締まるべき警察による犯罪が珍しくもなくなった時代だから、それもアリなのか。
ちなみに、山口組にも風紀委員があるらしい。モラルとか風紀とか、組織によって定義が違うのかも。

飯塚
日本中の歯科医の技術評価を、日歯が公平な立場でしたらどうかという話もありますが、これは患者が医師の技術を評価するのと同じようなもので、不可能でしょうね。
そもそも、日歯の役員が本当に民主的な手段で公平に選ばれ、それにふさわしい人々かどうかも疑問です。郡市歯科医師会の段階、県歯の段階の歯科医師会代議員が、まず選挙なんかでは選ばれていないところが全国的に多いですね。歯科医は4万人なんですから、日歯会長の選挙は、直接選挙でやったらいいと思います。
それなら、学閥だなんだという話はなくなって、日歯自体も変ってくるでしょう。

仲田
しかし、日歯だけがするというのではなく、歯科医どうしの技術評価というものは可能じゃないかと思うんですがね……。

飯塚
でも、歯科医の大多数は自分自身をAランクの歯科医だと思っていますよ。なかには、専門の知識や技術は不足しているが「患者の扱いは、君たちより上だよ」という発言をする歯科医も実際にいますね。これも技術の中にはいるとすれば、技術評価の基準をどこに置くかということで、またむずかしい問題があるんですよ。
ですから、歯科医どうしでも客観的にどこまでその力を正当に評価できるかというと、これはむずかしい。
それに、医療そのものにランクをつけることにも問題があると思うんです。医療に高級医療、低級医療という区別があると思うことがおかしいですよ。「通常必要とされる医療は保険でできる」という厚生省の発言は。その意味でもおかしいですね。医療は一つしかないんですから。


歯科の場合には、一般的に材料の違いが、ぜいたくか通常かという判断になっていますね。

飯塚
私は材料などはたいした問題ではないと思っています。とにかく、一つしかない医療をすべて保険でやってほしいわけです。
これならできるがこれは無理、というのはおかしいと思うんですよ。

仲田
ただ患者からしてみれば、よくいわれているように、治しているのかこわしているのかわからない、といった心配が、保険点数が低すぎるために起こるのでは、との心配があるんですね。

飯塚
確かに、保険制限内の医療を行う程度の技術もないのに上積み技術料をとっている医師もいるし、治しているのかこわしているのかわからない医師もいますよ。しかし、これは保険の問題とは関係ないと思うんですよ。
保険の点数をいくら上げても、問題の解決にはつながらないじゃないですか。最終的に、医師の教育の問題、レベルの問題は残ると思うんです。
だから保険の点数をいくらアップしていっても、それはレベルの低い医療を行う歯科医の収入を伸ばすだけだと思うんです。
だから現在の2本建ては、それでボカボカとかせぐ医者も作る反面、まじめな医者も育つという両面があることを知っていただきたいと思うんですね。


日歯の問題がでたところで、日歯執行部の役割ということに触れたいと思います。
今までの状況を外から見ると、執行部が材料費の差額ということで段階的に解消していく案に同意した。それで、去年(引用者註:1976年)8月の歯科医療の9.6%の診療報酬の引上げをとった。ところが、これをとった後にまたダタダガタして、そのうち川崎前執行部はやめてしまった。やめた後、現山崎執行部になったら、がらっと変ってしまったのではないか、という疑問があると思うんです。
ここで私がわからないのは、山崎現会長が1月28日の代議員会で当選した時、「差額の原点に帰る」といって、去年の3月21日の中医協の「差額は材料費に限る」は認められない、といった。ところが、最近は、原点に帰るということは、「歯科医のモラルの原点に帰る」ということに変ってきたと思います。そして、自分の方からは積極的に解決案を出すのではないようですね。1月時点での発言とは、何か変化してきているという感じです。

仲田
私も変ってきていると思いますね。


ですから、材料費の差額というのは、のんでいくと思います。

仲田
その方向でいくでしょう。


ただ、さい前からいっている4項目だけ決めても、差額の問題は解消しないといいましたが、この4項目以外のものには、まだ触れないと思います。
しかしさっきからの飯塚さんのお話のように、そこまで拡げなければ、保険だけではできない。もしまた、仮りに保険ですべてカバーしても、平均的にやったのでは、依然としてモラルの向上にはならない。ですから、範囲を拡げると同時に、療養費払いを導入することです。それと同時に、医科の方でも足切りがあってもいいような気がするんです。

仲田
個人的に私も、今であれば2,000円ぐらい自己負担を認める。そのかわりに入院等の重病には自己負担のないようにする、これは計算上は成り立ちます。
医療への要求は無限ですから、これを全部保険でみることには、限界があります。


私は財源に限界があれば、やはり選択が必要だと思います。予防も保険かというと、大変な問題になりますよ。


「保険の点数をいくらアップしていっても、それはレベルの低い医療を行う歯科医の収入を伸ばすだけ」(by飯塚哲夫)というのは、まさに現実。〇〇加算ができるたびにワッとその請求がなされるが(例:外来診療環境体制加算)、それにメリットを感じた患者が請求の数だけいるのかどうか。どんな義歯を入れようが認知症患者ならわかりゃしない、と言い放った歯科医師を点数UPで変えられるのかどうか。
点数UPで“保険で良い入れ歯を”とかいう運動もあった。が、その義歯を外注され、実際につくる歯科技工士に診療報酬点数の増減など無関係なのである。いまや9割以上の歯科医師が歯科技工士に義歯を外注していることを無視、診療報酬における歯科技工士の取り分を決めた「7:3の大臣告示」もガン無視、それで点数UPで歯科医療をどうにかできる、と言っている神経はまったく理解しがたい。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。

保険財源の問題と歯科医療の評価の問題

飯塚
それは、そう簡単にいかないと思うんです。保険財政の問題と歯科医療の評価の問題という2つの大問題がありますから……。
たとえば、今の歯科医の収入が100あるとします。このうち、50は保険収入、残りの50が保険外収入とします。
そこで、今までの保険の50に加えて、保険外の50も保険負担として、保険に組み入れてくれれば問題はないわけです。しかし、この50全部を保険に入れることは、財源がまずないということで、できない……。

仲田
今の話で、50全部を保険に入れるという話でしたが、材料差額があるので、仮りに40としても、これを全部入れる必要はないと思います。それは、自分で決めた差額で、うんともうけた人もいたのですから。

飯塚
50全部では財源的にむりだと……。

仲田
財源的にではなくて、今の保険外徴収全部のせるのは不必要なんですよ。

飯塚
つまり、現在、歯科医の収入は100あるが、本来はたとえば70でいいはずだということですね。こうなると、結局、保険に20をのせればいいと……。

仲田
そういうことです。

飯塚
そこなんですよ。そういうお考えの前提には、これまで保険でまかなってきた50の部分については、その評価が適正であったという事実がなければならない。そこではじめて、新たにとり入れる部分は50の必要がなくて、20で十分であり、合計70でよいのだというような議論が出てくると思うんですよ。
しかし、もしこれまで保険でまかなってきた50の部分が、実は100に評価するのが適正だということになると、新たにとり入れる部分を仲田さんがおっしゃるように20としても、合計が120にならなければならないということになります。
つまり歯科医療費を論ずる場合、歯科医療というものの評価が適正に行われているかどうか、ということをいいたいわけです。医療の質を問題にせず、ただ単に歯科医のふところ具合だけを見て、あといくらのせるかということを考えるのなら、20ものせる必要はないんです。今までどおり50でいい。
どういうことかというと、まともにやったら50ではとても無理でも、金もうけのみを考えて医療を行えば、50だけでも結構貯金がどんどんできるんですよ。

仲田 
それは自由診療でとるから……。

阪 
いや、やり方によっては保険だけで、笑いが止まらないほどの収入があるんです。

飯塚 
ですから、50だけでも結構なんです。技術料としての20のアップも不必要なんです。

仲田 
わかんないですね、その話は……。わたくしは、制限的なものを吸収するということと技術料のアップの両方で、いままでの保険外収入をカバーしようというんですよ。

飯塚
しかし、仲田さんのお話では、これまで保険でまかなってきたものは、依然として50と評価しています。技術料のアップということを言われるのなら、これをたとえば80してくださいよ。
そうすると、制限的なものの吸収が、仲田さんのおっしゃるとおりに20としても、合計で結局は100の財源が必要になります。つまり、50の自費診療をやめさせるかわりに、保険はこの50をすっかり負担すべきだということを言いたいのです。
でも、これまでのお話では、今まで保険外のものを保険に組み入れるというだけのであって、その意味では、保険外収入は増加しても、歯科医の収入は逆に減りますね。

仲田
でも、保険でとるか、自由診療でとるかの違いであって、大きな違いはないと思うんですがね……。

飯塚
とどのつまりはが、今の保険と自費の2本建てを、1本にしていこうということでしょう。

仲田
そうなんですよ。

飯塚
それなら、まず現在の保険部分を適正に評価して、それからその上に新たにとり入れる部分をのせてゆくということにしなければだめですね。現在の保険部分はそのままの不当に低い評価のままで、その上に制限部分をのせて1本にするというのでは、とても経済的に成り立つような医療はできないし、歯科医は食べていけない……。

仲田
食べていけるように手直しをしてですよ。

飯塚
でも、食べていけるような手直しというのは、結局、50を70にするということでしょう。これでは、今までより30少ないので、食べていけないんです。
つまり、ある種の歯科医にとっては50が70になることは収入のアップです。しかし、100でも足りないような診療をしている歯科医にとっては、100が70になることは致命的です。


ちょっと話がくい違っているようですが、「差額」の問題は一応、4項目だけなんですが、それを「材料費」だけにして、その分の技術料を保険に組み入れていくことは、当面やらざるをえないと思います。しかし、それだけではなしに、歯科には給付されていない分がたくさんあって、その行為をやらなければ、歯科医療の完全な給付はできないということです。
これが、今から15年ぐらい前だと、今の保険範囲内の技術でできた。ところが、ここ10年ぐらいの技術の進歩がめざましいので、これに保険は追いついていないんです。これが、今まで一切無視されてきた。
私の例で言えば、15年ぐらい前は、保険の患者が9割ぐらいで、収入も保険収入が9割ぐらいを占めていた。現在はどうかというと、やはり患者は保険の患者が9割ぐらいであることには違いないんです。
私の診療所は歯科医が5人、総人数で20人の人が働いていますが、1カ月の経費は約600万円かかります。ところが、保険収入は次第に減ってきて去年の保険収入は月平均150万円くらいでした。今年になったら、さらに落ちてきます。
歯科医が勉強して、努力すればするほど収入は減ってくるんです。私はお金の勘定をしないので1本の虫歯の治療に1時間ぐらいかけてしまうときがあるんです。虫歯を削って、そこへアマルガムをつめる。この即処が167点だと思いますが、1時間で1,670円では診療所が成り立っていかないことは明らかだと思うんですよ。
そうなってくると、技術的な内容の問題にかかわってくるのですが、質的な制限というものがどうしてもでてきてしまうんです。あるレベル以下でやれば困らないけれど、これ以上のことをやればマイナスになるのが当然で、努力すればするほど、保険収入は減っていく。
では、自由診療でそんなに金をとっているかといえば、日歯の目安料金よりも高かったものは1つで、あとは安い。あの目安料金のおかげで、少し上げることができたんです。ではそれでうまくやっていけるかというと、税理士は「どうしても昨年度は赤字になります」というんですね。大した赤字ではないと思いますが困ります。

飯塚
仲田さんは、自費診療をなくしてその分を保険にとり入れ、また現在の点数も手直しすれば歯科医はやっていけるはずだというご意見のようですけれど、ではそのやっていけるいけないの基準は、いったい何ですか。私のように、実際に臨床に従事しているものがやっていけないといっているんですから、やっていけるはずがない……。

仲田
それは、個人的なあなたの診療所がやっていけないということで、議論にならないんです。

飯塚
私だけがやっていけないといっているのではなく、日本の歯科医の大部分がやっていけないといっているんです。

仲田
それは点数が低いということで、やっていけるように直そうといっているんですよ。それから、個々の医療行為になると、この部分の点数は非常に低いじゃないかということがあると同時に、こんなものいらないじゃないかというものもあるので、マクロ的によい医療ができるようにすべきだと思います。技術評価ができればいいんですが、これが個別的にはできないんですね。


これはもう、保険の宿命ですね。保険でする以上は、このぐらいだと一定にみなさなければならないんです。
つまりこういうことなんです。医療の現物給付ということは、私達が雇われればいいんですよ(笑)。月給制にしてしまえば、文句なく現物給付になるんです。しかしそうでない限りでは、現物を給付するといっても現物でなく、ある一定の金額を給付するという形にならざるをえない。その結果、どういうことがおきるかといえば、わたしにいわせれば、安物買いの銭失ないをしていると思います。
それでも保険者としてみれば、マクロにみて、医療費は国民総生産の何パーセントになっているから単価を上げないということになる。すると、だれが一番困っているのかというとやはり国民で、またまじめな医者は育たないということになるんですね。

仲田
私見ですが、技術評価のためには、償還制をやることですね。


私は、全員やる必要はないから、一部償還制にすればいいと思うんです。
これは、現場の者にしてみれば、保険の方が楽なんですよ。紙に字を書けば金になるんだから(笑)。こんな職業はありませんよ。しかし自由診療や療養費払いは、患者にこれだけかかりますと、納得させなければならない。

償還制は救急には向かないが、義歯関係にはいいと思う。
保険の義歯を一度つくると半年は再製できないという保険上のルールがあるが、近所のヘタ歯医者にめちゃくちゃな保険義歯をつくられた患者が数週間ないし数ヶ月で音を上げてウチに来院してきた、という話はかなり聞く。で、そういうかわいそうな患者に、ヘタ歯医者に行って何とかしてもらってください、とは善良な歯科医師はなかなか言えないし(ヘタ歯医者がどうにもできないことは明らかだから)、とはいえ半年待ってくれとも言いがたく(義歯患者のほとんどは高齢)、しかし自費でしかやらないと言うのも心苦しく(悪いのは患者じゃないし)、だからってヘタ歯医者に電話をかけて「アンタこんな義歯で保険請求する気か、取り下げなければ厚生局に訴える」と言える強気な歯科医師は、まあマレであろう。だが、この手の使えないヘタ義歯は歯科医療費のムダの最たるものでもある。保険患者の満足を得られない保険診療で歯科保険医療費を浪費する歯科医師こそ指導にかけてムダをなくせよ厚生局と強く思うが、しかし、保険指導とは点数の多少しか見ない欠陥制度なのであった。よって、治療後に患者の同意を得なければ、保険負担分を償還できない制度にすれば、多少はこの手のトラブルも減り、医療費のムダも減ると思うのである。償還制の場合、治療に満足できなければサインをしないよう患者指導も徹底すべきである。
なお、償還制は歯技分業にもプラスである。歯科技工士が義歯をつくった場合は、保険負担分をその歯科技工士自身が保険者に直接請求するようにすればいいのである。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。

「差額」が問題のすべてではないことについて


それで差額については、“材料差額”とおっしゃっていましたが、“2本建”という自由診療のなかでも、材料についての4項目は、自由診療のほんの一部分でしかないんです。
これは意外に一般の患者も保険者も今まで知らなかったと思います。4項目を材料差額にしただけで、歯科が保険でカバーできるのかというと、ちっとも変っていない。つまり、4つだけ変ったというだけなんですよね。100のうち4つが保険でカバーできたに過ぎないといってもいいぐらいなんです。

飯塚
それはこういうことだと思うんですよ。現在のところ、中医協での議論も、国民やマスコミの関心も、「差額」「差額」ということで、差額の問題を一生懸命につついているわけですね。
そして「差額」の問題を解決すれば歯科の問題は全部「解決する」といった気分があるわけです。つまり差額は技術料を含んではいけない、材料費だけに限るということにすれば、歯科医療費をめぐるトラブルは全部解決すると思い込んでいるようにみえます。
しかし私は、「差額」の問題をいくらつついても歯科医療費の問題は絶対に解決しないと思っています。たとえば「差額は材料費に限る」という意見を日歯がのんだとして、国が「差額は材料費に限る」という通達を出したとしても、問題はいっこうに解決しないんです。
なぜなら、患者さんが保険外診療として自費で支払っている歯科診療というのたくさんあって、「差額は材料費だけ」という決定で規制できる部分はほんの一握りに過ぎないからです。
だから、歯科医の立場から考えても、また患者の立場や保険者の立場から考えても、歯科医療費の問題を何とか解決しようとしたら、「差額問題の解決」ではなく、歯科診療が保険診療と自費診療の2本建てで行われているという問題をどうするのか、ということを考えなければだめなんですよ。
つまり、保険診療はすべて保険でカバーできるのかできないのか。できないとすれば、それはなぜかということが問題の根本なんです。
自費診療というと、すぐ金だ、ポーセレンだと、材料の問題になるんですが、一臨床医としての私は、材料は保険できめられた材料だけで結構だと考えています。原則的には、金もポーセレンも、金属床もいりません。それである程度満足のいく治療をする自信があるんです。
ですから、「差額」だとか「自費診療」を論ずる場合、すぐ材料の問題になるのがどうしても解せない。しかし、日歯も材料の問題を前面に出しているわけですね。本当に困ったことです。
保険の材料も保険外の材料も五十歩百歩なんですよ。こういう考え方をしている歯科医は全国にたくさんいます。そこで、材料は保険の材料で問題ないということになると、では「歯科医療はぜんぶ保険でカバーできますね」ということをいわれそうですが、これが絶対にできないんです。問題はそこなんですよ……。

仲田
今のお話はもっとよくお聞きしないといけないのですが、昨年(引用者註:1976年)の8月から保険診療と自由診療の2本建てになったことについては、支払側も「おかしいじゃないか」と文句をいったんです。しかし、歯科差額を「材料費差額」にするには、条件整備が必要だということを言って、中医協の歯科部会を全員懇談会に切り換えてやったわけです。そこで、今歯科診療の項目を全部あげると、どういうものがあるか、そのうち保険でやっていくものはどれくらいあるかを見たんです。
そして、歯科のなかに“制限”と目されるものがかなりあるんです。それで、それらは保険に全部いれるとどうなるかというと、これは大したことないということになった。
では、今までそれを、どうして入れてなかったかということになった。それで一番問題になったのは材料で、14金を18金にしたら「これは大変な金額になります」と厚生省当局は説明した。それから、金属床も大変な金額になるという。
日医は、これも保険に入れることを主張、日歯は入れるべきでないとの主張で対立し、これは話がパーになった一つの原因なんです。
学問的に保険に入れるべきでないということで合意できた赤ちゃんの歯の問題など以外は、入れられるものは全部入れるということで、診療側と支払側も皆賛成した。大きな問題は金属床と金の問題だったわけですね。
そこで財源の問題が中心になるわけです。日医はいっきょに、支払側は点数の手直しをすることによってということで、この点数の手直しについて当局は諮問案を用意した状況もあったわけです。
制限は全部撤廃していこうということは国民の声でもあるでしょうし、厚生省もそういう方向にいくべきだといっているんです。日歯もそうです。ただ、いっぺんにはできないのじゃないか、ということです。個人的な意見としては、歯科診療は自由診療にして、償還制にするということも考えられます。

飯塚
そこのところが、日歯が支払側によく説明していない点だと思うんです。ここをよく理解してほしいんです。
先ほど、私は材料は保険できめられたものだけでもいいということを言いました。また、材料の問題が全くなくなった場合、それで歯科診療は2本建てでなくなるのかというと、そうではないということもお話しました。そこが問題なんですね。仲田さんも、歯科の診療をみると制限がたくさんあるのがよくわかった、とおっしゃった……。

仲田
いや、あったと……。

飯塚
あったから、保険で全部カバーできていないので、これまで2本建てでやってきたわけですね。しかし、今後は制限を完全に撤廃して、歯科診療のすべてを保険でカバーしようということでしょう。そして、現在制限されているものを全部保険にいれたって、経済的に問題はないとおっしゃったんですが……。ここが問題なんです。たしかに保険者側には問題がないかもしれない。ところが、歯科医の側にとっては大変な問題なんです。

仲田
それはどうしてでしょう……。

飯塚
歯科医療に対する評価が現在のままで、制限部分を全部保険にとり入れたら、日本中の歯科医は、皆経済的にやってゆけなくなります。つまり、診療ができなくなる、保険点数が非常識に低すぎるんです。
というような話をすると、患者さんやマスコミは「そんなこというけど、歯医者さんは皆、経済的にいい生活をしているじゃないですか」といいますね。つまり、経済的に困ってなんかいないじゃないか、ということなんでしょうが、困っていない理由は保険の点数が高いからではなくて、次の2つの理由によるんです。
1つは、保険外の自費診療収入があること。もう一つは、不満足な治療を行うことによって安上がりの医療にしていること。つまり「こんなものは医療じゃない」というような医療をすれば、現在の保険点数でも採算がとれる。
だから、もし2本建てをやめて保険だけにして、さらに、手抜き治療もしないということになると、日本中の歯科医は皆経済的にやっていけなくなることは明らかです。

仲田
今のお話はよくわかりました。差額と保険の療法の収入で生活しているというのは、そのとおりだと思うんです。だから、技術の評価など、保険点数を見直して、保険で十分できるようにしようということで、段階的にやっていこうということです。ですから、保険外を残しておく必要性はないのじゃないですか……。

飯塚
厚生省は現在の状態でも「通常必要な歯科医療は保険でできる」といっています。もしできるなら、現在以上に技術料を上げなくてもいいんじゃないですか。このままで、日本全国の歯科医にやらせればいいじゃないですか。
しかし、もしも今の保険の点数では「通常必要とする歯科医療」すらできないとしたら、厚生省の責任は重大じゃないか思いますね。できないものを「できる」と言い張って、その結果こうした大混乱を起したんですから……。

仲田
「できる」という意味に2通りあるんです。今の保険治療で十分という意味と、経済的に今の点数を上げなくてもできるということですね。今の点数ではやっていけないというのは、経済的な意味ですね。日歯の主張もこの経済的な意味のことなんです。

飯塚
それはわかるんですが、今、国民が問題にしているのはお金なんですよ。「歯科医療費は高すぎる」「不当な料金を請求された」ということでこれだけの混乱が起きているんですね。少なくとも現在のところまでは歯科医療には制限が多過ぎて、患者さんが保険以外にお金を払わなければならないことがしばしばあります。
それに加えて、一応カバーしているものの点数が非常識に低くて、事際にはできないというものもあります。
それを厚生省が「できるはずだからやれ」といい、「もしも保険以外にお金をとったら違法だ」ということでは、法律的に誰れの責任かということではなく、歯科医療が社会問題にまで発展したことに対し、厚生省は責任をとらなければならないということをいっているのです。

仲田
ですから私は、点数の手直しによって、今まで差額でとっていたものを保険点数でも十分カバーできるようにしますよと……。


「通常必要とする歯科医療」とはナニか。そもそも、そのコンセンサスが歯科界にあるのか。つまり、歯科的な健康とはどんな状態でそれにはナニが必要かというコンセンサスが。このコンセンサスがないことは、歯科衛生士や歯科技工士の評価が適切になされていない、そのひとつの理由でもあるのだが。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。初出は1977年6月発行の「社会保険―実務と法令」。
ココでも取り上げたのだが、武見太郎の批判に耐えられる歯科側の議論はこれくらいしかないと改めて思ったので、全文UPする。

出席者
飯塚哲夫
阪 初彦
仲田良夫(健保連)

阪(司会)
本日は、お忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。
本日のテーマは“歯科医療は何が変ったか”ということで、今までの経過等を振り返り、合わせて歯科問題解決への今後の提案もまとめてみたいと思います。
昨年(引用者註:1976年)3月23日に、中医協で「歯科の差額は材料に限る」ということが、歯科の代表のいない席で決ったわけです。その後、その答申の一部分をとり入れた形で“差額徴収の廃止”が行われた。それと同時に、4月1日に実施予定だった診療報酬の9.6%引上げが8月1日から実施された。その後、歯科問題が中医協でもさっぱり進展しない状況で今日まで来た、ということだと思うんです。
その辺で、一部には歯科は餌を食い逃げしたという意見が出、また歯科医にいわせれば「3月にあんなかっこうで答申したことがおかしい」ということになるんですね。
では実体はどうなんだということですが、飯塚さんには臨床面から、仲田さんからは保険者、非保険者の立場から発言していただきたいと思います。飯塚さんにまず、矢面に立つ“歯科医”としてどうみているのか、お話し願いたいと思います。

歯科診療における「2本建て」について

飯塚
「歯科問題は何が変ったか」ということと「保険、自費診療の2本建てになって果してうまくいっているのか」というのが、本日のテーマだと思います。まず2本建ての問題ですが、保険と自費診療の2本建てというのは何も去年の8月に初めてできた制度ではないんです。つまり、保険がカバーしている部分は保険診療、そうでない部分は自費診療ということで、この2つが併存していたんです。
ところが“差額徴収”という制度ができたために、この2本建てがはっきりしなくなったわけです。つまり、本来自費診療になるべき保険給付外の診療の費用の一部を保険が負担するという“差額徴収制度”ができたために、保険診療と自費診療がゴチャゴチャになってしまいました。
差額徴収制度というのは、保険診療の費用の不足分を自費で払うことではなくて、自費診療の費用の一部を保険が負担するということなんで、差額徴収の対象になっている診療は、本来自費診療なんですね。
ひとつ具体的な例を上げると、例えば保険の給付外の金冠であれば明らかに自費診療ということになります。この費用が仮りに1万円だとします。この費用は本来、全額を患者が自費で払うべきものです。
しかし、その費用の一部を保険が負担しようということで、金冠に類似した医療行為で保険給付の対象になっているもの、例えば銀合金の費用だけ保険からお金が出れば、患者さんの負担は軽くなるわけです。この費用が仮りに1,000円だとすると、結局、9,000円を患者さんが払うことになりますが、この9,000円は自費診療の費用であることに変りないわけですよ。結局、差額徴収制度のあった時代もずっと2本建てだったことはまちがいないんです。
ですから、「2本建てになって何が変ったか」と聞かれても、何も変るはずがない、ということだと思うんです。
強いて言えば、差額徴収制度を廃止した“2本建て”ということになって、患者の負担が増え、保険者の負担が減ったということでしょう。そのぐらいの変化しかなかったというところじゃないですかね。


飯塚さんのいうように、制度的には何も変っていないというのが現実じゃないかと思います。
歯科の場合は、最初から、全部を給付するという姿はとっていなかったんですね。私が開業した昭和25年ごろは、義歯は全部給付されていなかったんです。咀嚼能力が半分以上なくなる、8本ぐらいの歯がなくならないと、入れ歯はできなかったんです。それがだんだん拡大されてきているわけです。
しかし、どこまで保険で給付するのか、ということを、歯科の場合には決める基準というのが互いになかったような気がしますね。歯科医の側でも、何を根拠にどこまで給付範囲を拡げるか、また国民や保険者にしても、どういう理由でどこまでやるのかが全く論議されなかったですね。
あるシンポジウムでの能美厚生省歯科衛生課長の発言が載っていました。
つまり「むし歯というのは、国民の大多数がもっている。それは本人の不摂生、不注意に起因するものが大部分だ。これは個人の責任で保険になじまない。しかし、子供のむし歯は考えようでは保護者の不注意による災害だ。子供の時に治療や予防、教育などを公費負担でやるようにする。その代わり、おとなになってなったむし歯は本人の責任だから自費でやれ」ということをいっていました。これは、ニュージーランドあたりが、そうやっています。
厚生省でも医務局にはそういった考え方が前からあるんですが、保険局はまた別なんです。限りある財源をどこへどのように使うかが問題だというのです。これについて徹底的に討議したことはありません。
で、話しを元に戻しますが、「2本建て」で何が変ったのかといっても、差額の保険分がなくなったが、歯科医の自粛で大して変化はないというところでしょうか。

飯塚
ようするにこの「2本建て」の問題点は、自費診療の費用の大きさではなくて、「なぜ歯科治療は保険だけでできないんだ」という気持が国民の間に強いということだと思うんです。保険で全部をまかなう方法はないかということだと思いますね。

仲田
歯科の発展過程はよくわかるんですね。それで、皆保険以前は一般診療も自由診療。これをなるべく保険に吸収していく。一般診療も制限診療であったので、これを保険診療に入れていくというのが医療保障の方向ですよね。
歯科診療も、昔はだいぶ制限があった。しかし、制限すべきではない、というのが世論であり、現体制ですよ。昔のそういった沿革を知っている人はわかりますが、今の人は保険証を出せば、診療できると思っている。これは、一般診療でも歯科診療でも。にもかかわらず、歯科は別料金を取るのだ、という不信があるんですよ。
やはり今は、保険で全部を診てもらえるという建前をとっているんですね。しかし、金冠など特殊な材料を使う時は、経済的にまかなえない部分を保険外にしてもらう。ところが、その保険外のものと、保険診療との差を負担してもらうという差額徴収が、昭和30年にできたわけです。それが42年に拡大されたという沿革だと思っているわけです。42年には、今の山崎日歯会長が中医協の委員の時に「歯科診療の差額の範囲を拡大した方がよい」と発言したわけです。


速記録に残っていますね。

仲田
その時は、「14金を16金にすればいい」と言っているわけです。保険給付を16金にすれば、問題はないと発言していました。また、14金か16金かは、専門家の意見に従わざるを得ないわけなんですが……。
金の話でいえば、日本人は歯に対する金の作用を高く評価しているかどうか知りませんが、占領軍がその当時、「一般医は薬を売って、歯科医は金を売って生活して居るのはおかしいではないか」といっていました(笑)。この内容が事実かどうかは、知りませんが……。
ところで、中医協では支払側、診療側とも42年までは、差額というものを認めているんですよ。そして支払側としては、従来から「差額は材料費に限る」ということを主張しているわけです。その当時、日本医師会は何も言っていなかった。
それは、42年の通達によって差額が拡大してきた、という経過です。その後、歯科医師の姿勢は、差額の方が保険ベースよりも収入を増大しやすいという考えがあったんだと思うんです。42年の時もそうですが、支払側は、ことあるごとに「差額は材料費に限る」といってきているんです。そして、49年に、当時の斉藤厚生大臣に「いつまでも差額問題を放任すべきではない」と詰めよって、差額問題が諮問になったという経過があるわけですね。


そういう経過があって、今日まできているわけですが、その“差額”という感じは、受診者としては、9割ぐらいは保険でみてくれて、1割ぐらいを自分で払うという感じだったと思うわけです。

仲田
ええ、そうだと思います。


ところが、実際はそうではなくて、上乗せするものが大きくなってしまった。これが、材料だけの差なら、そんなに大きくはならないわけです。では、なぜそうなったかというと、ベースになるものが今日まで上がってこなかったのだと。
東大の新聞研究所の高木助教授が「歯科医は、差額があるから診療報酬点数の改定に努力しなかったのだ」といっていますが、そしてそれは今日のような問題を引き起こしたと……。しかし、これは歯科だけの責任じゃない。

仲田
その診療報酬うんぬんは、中医協でも私たち支払側がいっていると思うんですよ。


ええ。

坂田
差額というものがあるのだから、それに依存するというとことばが悪いですが、それによって一般の保険点数の改定を怠ってきた、ということはあると思うんですよ。
そのため、差額制度を材料費に限定するとなると、医者全体の収入が減るということになる。したがって、すぐ材料費というのもむずかしいだろうということで、逐次保険のなかに3年ぐらいでやっていったらどうかという考え方が生まれるわけですね。
そこで、日歯の幹部がいっていた、これに私も同感なんですが、中医協はいつも一般診療の問題ばかりやっていて、終りのちょっとの時間で歯科問題をやるわけですね。歯科についても、「この辺に不合理があります。もう少し議論しましょう」と発言しようとしても、一般診療の問題でごたごたして時間がない。この点はよくわかる。本来は、一般診療は一般診療でやる。歯科は歯科でやるということでしょうが……。
支払側にとっても、歯科の問題は難しいのに、簡単に終っていたと思うんです。


支払側にとっても1/10ですからね。

仲田
議論が尽くせなかったという点は、残念だったと思います。

中医協では「終りのちょっとの時間で歯科問題をやる」のは、今でもそうだ。歯科は明らかに軽視されている。その一方、歯科側から出される資料や提言も、圧倒的に医科より少ない。軽視されているという現状を変える努力、特に歯科的なエビデンスを積み上げる努力をあまりにもしていない。日医は独自調査をやっているではないか。

武見太郎、歯科の搾取構造を批判

高度の技術を社会保険ではどう取り扱っているかといいますと、医学の場合には、どんな高度な技術でも健康保険で扱うことになっています。これは日本医師会が20年来努力を重ねて、新しい開発技術を社会保険に導入する努力を一瞬たりとも忘れないでやってきた結果なのです。新しい技術が開発されれば必ず疑義解釈委員会で問題とし、それに対する適正な点数を与えられるということです。
ところが高度な技術導入する場合、新しい点数設定をしないで、古い設定された点数を準用する、技術は新しいが点数は古いものを準用するというのでは、技術と経済とがまったく裏表をなしていない行政措置で、これを行政権力によって推し進めていたところに、問題があったわけです。しかし、日本医師会が多くの犠牲を払ってでも新しい開発技術を保険に導入することを強力に進めてきたのは、実は新開発技術が国民の生命と直結するものであり、医療福祉の基本をなすものだからです。
では、歯科の場合はどうか。歯科は口の中のことです。歯科の特殊性といつもいわれますが、私がいいたいのは、口の中といえど人体の一部であり、神経支配も血管支配も筋肉も変わりがないわけです。それを歯科だけの特殊性と、特殊な技術があるようにいうならば、医科の技術もすべて、臓器ごとに特殊性があります。歯科だけの特殊性を、私は認める意思はありません。
(武見太郎「国民医療非常事態宣言 21世紀は慢性肝炎が国民病になる」1979年)

という武見太郎・日本医師会会長の、歯科差額徴収批判である。

歯科の技術料というのは、実は技工士がやって歯医者さんは何もタッチしていないのに、技術料という名目で、技工士さんの技術料よりもはるかに大きなものがプラスされる。それも技術者に対する診療報酬は、歯医者さんが自分で設定できることになっているわけです。これは昭和42年に保険局長および課長通知があり、健康保険法、ことに療養担当規則とはまったくそう反する通達を出したことに原因があります。これによって歯科の先生たちは、自分たちの技術にしたがって差額を取ることができるという、非常に安易な錯覚に陥って、最初はこまごまとした差額だったものが非常に大型化して、世論の反撃にあったというのが事実だと考えています。


ちなみにこの頃、医科でも室料差額(差額ベッド)が批判されていた。それについて武見は「医療の内容については差別がない」と言いわけしているが、大部屋だとナースがなかなか来ない、なんて話はゴロゴロあった。

歯科での新開発技術は医科ほどありません。そのかわり材料は新しいものが次々と出てくる。それを保険にわざと採用しないで積み残していったわけです。自分が患者さんに請求する種を、ますますふやしていこうという考え方です。
医科は新開発の技術を逐次導入していますが、歯科医師会は非常に怠慢で、ひたすら差額徴収の根を太らせることばかりを考えていた。これは社会保険の公共性とそう反する行動が歯科医師会に免許されていたといっても過言ではないと私は思います。局長通達、課長通達がこのような矛盾を免許したわけです。したがって、免許された以上、いくら取ろうとかまわないというむちゃくちゃなことになって、今日の大混乱をきたしたわけです。
(略)
36年以後の社会保険診療ではわれわれは保険医総辞退をもって闘い、制限診療を撤廃したのですが、歯科医師会は積み残しをわざとやっていたので、積み残された部分があまりに多くなったわけです。しかし、毎年の診療報酬の引揚に際しては、医科とは同率あるいはそれ以上の率で、しかも診療報酬の引き上げが行なわれてきました。それはあくまでも除外例である差額徴収を温存しながら、その他の部分で上げてきたということで、診療報酬の引き上げが正しくなかったことも、新しく指摘しなければならないと思います。


で、ちょうどこの本が出版された時期から、歯科の診療報酬改定率は医科のそれを下回るように↓

診療報酬改定率医科歯科

ブリッジの方法とか、その人の健康水準の維持に必要なものならば、歯だからといって自己負担を許しておくことは間違いだと思います。だいたい日本の歯医者は金を売って食べているということは、占領当時のリジウェイ歯科部長が指摘したところです。私は、金だけの問題ではない、次々と新しい材料が出ていますから、これらが全部導入されるか、あるいは材料だけに差額徴収が限定されるならば、国民は安心して自分の口の問題を、医科を信頼すると同じに信頼していけるようになると思うのです。
そのほかポーセレンの技術にしても、保険診療で給付されないということは、理に合わないと思います。ポーセレンというのは、つまり陶磁器をこしらえるような形で歯をこしらえるので、たしかに一つ一つが高度の技術で、レディーメイドの入れ歯ではないのですが、それらの点については、私は材料の差額を認めても差し支えないと思います。
しかし、技工士に全部委譲している今日の状態では、このやり方も変えなければなりません。医科の場合には、整形外科ではコルセットをコルセット屋がつくりますが、コルセット屋さんに支払う金額は健康保険で規定されており、医師はそれ以上のピンハネはしないようになっています。現在、歯科技工士がした技工料の何倍かを歯科医師が請求しているということは、医師の世界にはまったく見られません。整形外科のコルセットの例は非常にフェアないい例です。
歯科技工士の技工料を健康保険で定め、歯科医師が技工士に託した場合には技工料は健康保険で払う、一定に決めてピンハネはしないということになると、技工士の責任と歯科医師の責任が明確になると思います。もちろん技工士さんがどんなに優秀でも、すぐぴたりとはまるわけはないので、はめるにはいろんな操作が必要でしょうが、それは歯科の技術料として私は請求できると思うのです。


まともな意見だ。というか、フツーに考えればこういう意見になるのである。ピンハネが良くないなんて中医協で議論するまでもない、常識である。

私は公共経済学的な立場に立って、厚生省がこの問題を解決することが必要であると思います。具体的にいうと、差額徴収のすき間を通達で与えたという点を、監督官庁としても反省しなければなりません。また療養担当規則違反をみずから犯した厚生省の行政責任は、追及されなければならないと思います。同時にまた、この問題の解決のために大幅な技術料引き上げを歯科だけに許すということは、毎年医科と同じように引き上げを積み重ねてきたことに照らしても、私たちはこれを認めるわけにはいきません。
歯科が差額徴収を社会保険の場において正当化しようとすることは、やみ行為の正当化で、真実の行為ではないと私は考えます。そして、どうしても歯科の先生方には自分たちの使命を再確認してもらわなければなりません。


考えてみれば、差額徴収をOKしたのも、7:3の大臣告示を潰したのも、歯科技工の海外委託をOKしたのも、みんな課長通知という紙切れ1枚であった。官僚を嫌い抜いていた武見からすれば、身も蓋もなく官僚べったりの団体が歯科医師会であったろう。悲しいのは、だからって歯科が行政的に重んじられているかといえば完全に真逆でめっさ軽んじられていることである。それ見たことか、と天国の武見は思っているであろう。

日医、GHQより人体実験を打診される

昭和25年、日本医師会副会長だった武見太郎が、GHQから人体実験を持ちかけられたという話。

サムス准将のところへ行くと、彼はたいへんなごやかな顔をして、「発疹チフスは虱からくるという話があるが、ほんとうかどうか証拠があるか」と聞くので、私は「証拠はございません」。「アメリカにも証拠がないんだ。それならひとつ、医科大学の学生に虱をたからせて、発疹チフスになるかならないかやってみろ。厚生省はやってもいいといっているんで、実施段階は日本医師会がやれ。おれが命令するんだ」といいます。
(武見太郎「国民医療非常事態宣言 21世紀は慢性肝炎が国民病になる」1979年)

「厚生省はやってもいいといっている」って、マジか。全数把握の4類感染症だぞ。ふざけんな。
発疹チフスの致死率は10〜40%で若年者であれば低いといわれているが、「アンネの日記」のアンネ・フランク(享年15歳)の死因も確か発疹チフスである。高熱や嘔吐があり、幻覚も出て患者はすごく苦しいそうだ。

それで私は「それじゃ100%治る薬がございますか」と、ないことを知っていたが、しらばっくれて聞いてやった。そうしたら、「100%とはいかないけれども、オーレオマイシンならばたいてい治る」という。人権尊重などといって日本に乗り込んできた野郎が、ふざけた話をするにもほどがあると思って、私は腹の中がむかついたけれども黙って話を聞いていました。
「1人でも犠牲者が出ると相すまないから、私は学生を人体実験するわけにはまいりません」と答えたところが、今度は何をいうかと思ったら、「そんならば死刑囚でやれ」という。私は、「死刑囚でも生きている間は人権は守られなければならないから、できません」といいました。すると、テーブルの上に足をガタガタッと載せて、「おまえは戦争に負けたことを知っているか」という。「あれは軍人が負けたんで、ぼくらが負けたんじゃありませんよ。日本の医学は負けておりません」。そうしたら、「おまえは赤だ、おまえみたいなやつは出ていけ」というので、私は喜んで出ていった。

GHQはこの命令を厚生省の役人に直接、下したという。厚生大臣の頭ごしに。
当時の厚生大臣は林譲治。吉田茂のいとこで、武見とも親戚関係である。

実情を話したら林さんが、「それはとんでもないことだ。そんなばかなことをいったんなら、おれがこれから行って談判する」といいましたので、ある局長が「大臣、そんなことなさったらたいへんです」という。「サムスが怒りますし、通訳が怒ります」という。
これが役人の真骨頂です。私は、戦前、戦中、戦後を通じて、役人の正体をこれくらいはっきりつかんだことはない。国民を売り、国を売ることに平気なやつが、役人という生物です。


サムスはこの件により、日医会長の田宮猛雄と同副会長の武見を不信任とする意向を厚生省に伝えた。その後田宮と武見は、日医の会長・副会長をそれぞれ辞任している。
なお、同書によれば厚生省の役人はサムスに「女を世話し、料亭を世話する。あらゆる屈辱的なことをやって歓心をかい、役人の点数を上げていこうと」もしたという。まあ、それにはいまさら驚きはしないが、吐き気も納まらない。

武見太郎の内科助手時代

後の日本医師会長、武見太郎の回想録より。
武見は昭和5年に慶應義塾大学医学部を卒業し、内科の助手となった。新米の助手は「三等病室」か「施療病室」を受け持つことになっていた。

ある日、私は職員出入りの小使いさんに頼まれて四谷谷町へ往診したことがある。そこは荷馬車屋さんで、言ってみると馬が下から顔を出している。患者さんはどこにいるのかと思ったら、馬の上に板敷きの2階があってそこに寝ていた。馬の鼻をなでながら縄ばしごで2階に上がって診察すると、肺炎のまっ盛りで心臓も衰弱しており、動かすこともできない患者であった。熱も40度を越していた。薄いせんべいぶとんでシーツも汚れていて、見るに耐えるものではなかった。食事もおそらくとっていないのだろう。台所は私がさがしたところでは2階にはなかったし、下にもなかったように思う。どこか共同の場所に台所と称するものがあったのかも知れない。私ははじめての見聞で、目を丸くしたことが少し恥ずかしい思い出として記憶にある。壁はなし、すき間風はすうすう吹いている。おかみさんは案外でれんとして、積極的に看護をするような態勢もみせていない。
それで私が「直ちにかやを張ってその中で水蒸気を立てておきなさい」と注意すると、「かやはありません」とあっさり返答された。あとで聞くと、当然質屋にはいっているのが常識だそうである。
(武見太郎回想録、1968年)

東京の貧民街の様子がわかる。台所や水場がない家は珍しくなく、だから米もといだものが売っていたという。

この谷町周辺の人たちは、病気になるとたいていカード階級(生活保護世帯)の人たちであったので、いつも施療で入院していた。入院ベッドは三等病室と差がないので、この人たちにとっては天国かと思うと、自宅のほうがやはり天国であったらしい。この人たちが早期退院を希望する姿をみていると、やはり病院は窮屈な、あまり気分のいいところではなかったようである。私は小使いさんや掃除婦のおばさんに往診を頼まれて断ったことはないが、だいたいいつも手遅れであった。そして、入院するよりほかにどうしようもないくらいで頼まれることが多かった。もちろん、病院に勤めている人たちが病気の時は、外来のすんだ時にちょっとみて下さいといわれたけれども、この世界に住んでいる人にはおよそ医療とは縁遠いものであった。生命を大事にするという考え方に徹するところが少ないことと、これらの生活とは何らかの関係があるのではないかと思っていた。またこの世界には、その中に融け込んでほんとうにその人たちの生活を守ってやる組織ができていなかった。方面委員という制度が私の学生時代からできていたが、今日のような完備した制度にはなっていなかった。
わたしがいちばんしゃくにさわったのは、家族が本気になって養生させようとしないなまけ者の生態であった。かなり不愉快な思いもしたが、よく考えてみると、私のほうに仏心が足りなかったのであろう。そういう時、私は家へ帰ってくるとまず、シラミがたかっているといけないので、ズボンをはきかえる習慣になっていた。母はそのたびにズボンを片づけてくれて、「きょうもまた谷町通いかい」といっては、きまって「ほんとうに人を助けるということには仏心が必要なんだ、自分たちと同じと考えるのは間違いだよ」といつもさとされた。この母のさとしがなかったなら、私は谷町への往診を断わることがあったかも知れない。


武見の所属していた慶應大学医学部附属病院は、「小菅刑務所の委託患者」も引受けていた。学生の解剖実習のためである。刑務所で不治と診断されたものが「西病舎」で入院生活を送り、死亡すると解剖実習で使われた。この西病舎の患者は瀕死重態でも「悪党魂」を発揮するものがあり、また、みずから罪状をざんげして医師や看護婦を拝んでくるものもいた。「たまにはよくなるのもいて」脱走に及び、武見はその責任を問われて始末書を書いている。医師が患者を治すことが、まったくの是ではない世界がそこにはあった。

東京に佃政親分という人がいた。この人の子分がまた私の患者であった。そういう関係で大親分の家に出入りすることがたびたびあったが、江戸の侠客のなごりをとどめた生活が現代に残っていることをはじめて知った。いわゆる任侠の世界というものの存在した理由もわかるし、次第に消えていく理由もわかるような気がした。後の私は頭山満翁の主治医になったが、任侠の世界もこのへんまでいくと一国の大宰相に相当するものがあった。


武見の患者に著明人、特に政治家が多かったことはよく知られているが、政治家に限らず、リーダー的(親分的)存在に好かれる体質だったようだ。なお、武見がもっとも苦手とした患者は「一等病室にはいるおめかけさん」だったという。基本的に女嫌いだったのだろう。

子供の人格を形成する技法

フレッチャリズムとは、アメリカの元ビジネスマン、ホレス・フレッチャー(Horace Fletcher,1849-1919)がて開発した「咀嚼運動」である。20世紀初頭の十数年間、欧米には熱狂的な支持者がいた。当初はなんと社会改革の一環、特に子供の人格を形成する教育技法として導入されたらしい。

性格形成は環境によるものだと見ていたフレッチャーは、何を食べるかという古代から近代初期までの食餌法によってではなく、いかに食べるか、いかに噛むかによって(それによって栄養も左右される)自己が成型されると考えた。完全咀嚼法はいくつかの仕方によって行動を改善させる。例えば、噛んでいる時間の長さは忍耐と我慢強さを教える。フレッチャリズムを信仰する者の中には、子供だけではなく犯罪者も従順になると信じるものまでいた。
(鈴木晃仁・石塚久郎編「身体医文化論舷餌の技法」2005年)

確かに食べ方には人が出るとは思うが、よく噛むことで犯罪者をも正するというのは可能なんだろうか。警察沙汰になるほどヒドイ飲み方をする人がいるが、入院しても良くならない場合は多々あり。
なお、カフカヘンリー・ジェイムズもフレッチャリズムを実践していたそうである。両者、ヘルシーなイメージがまったくないんだが。

保険医療機関と保険医の二重指定について

武見太郎「医心伝真」より、保険医療機関と保険医の二重指定について。

これは京都府立医科大学病院での話である。もちろんここはれっきとした保険医療機関である。ここに名医といわれる有名な外科の教授がいた。ところが、その教授が保険医の登録申請をしていなかったために、過去数年間にわたって支払われた患者の手術料を当の医科大学病院は返還せざるをえなかったという、奇妙な話がある。
一流の大学教授でさえ「保険医」という法被を着なければ、保険診療は行なえないのだ。(略)
この保険医療機関と保険医、保健薬剤師、看護婦との関係は、まさに医療労働組合の形をとった共産国家方式そのものである。共産国家においては、医師選択の自由が国民にはない。日本では一応医師選択の自由はあるが、本質的な姿は、共産国家の医療体制と変らない。国民皆保険に備えた保険官僚の深慮遠謀といえば、その本質は見当がつくであろう。


歯科医師を雇用して、訪問歯科診療をさせている内科医がいる。訪問歯科診療なので、本来なら外来の歯科診療所は必要ない。しかし歯科診療報酬を請求するには歯科保険医、そして歯科保険医療機関の2つが必要なので、わざわざ使わない歯科診療所を設置しているのである。壮大なムダと言わざるを得ない。

保険医総辞退

武見太郎「医心伝真」より、保険医総辞退について。

日本医師会が保険医総辞退という挙に出たとき、ストライキと間違えたジャーナリストが、はなはだ多かった。医師が患者の診察を拒むのはストライキであり、これは人道に反する。しかし、患者のためにも、医師のためにもならず、患者と大企業、第労働組合にのみ奉仕する、不当な社会保険を、国民の手に奪還しようとする医師の保険医総辞退に対して、スト呼ばわりをするのは、全く無知な表現そのものである。
これは人為的なストライキとは全く異質のものであり、患者の診療を拒否した形跡は全くなかった。

これは詭弁。その日は健康保険が使えないのだから、保険加入者にとってはストと同じである。当時の日医および武見太郎会長が、庶民の理解を得られるよう心を砕いた形跡もない。武見は政治家を操るのには長けていたが、マスコミや庶民への対応は悪すぎたと思う。貴族趣味というか。

漁村の生活実態調査

後の日本医師会長、武見太郎の回想録より。武見は慶應の内科を辞めて理研に行くなど興味の幅が広かったが、歯科疾患にも注意を払っていたようだ。

昭和4年の夏休みのことである。寄生虫学の小泉丹教授に引率されて、漁村の生活実態調査のお手伝いをした。場所は新潟県出雲崎町で、良寛和尚の生地であった。ここは純漁村といえる数少ないところであるが、同時に肺結核と結核性脳膜炎の多発地として知られていた。小泉教授がこの土地を選んだのは、寄生虫を中心に純漁村の実態調査をする計画を持っておられたためである。
この時の調査はきわめて周到な用意のもとに行なわれた。たとえば、栄養の調査についてはあらかじめ用紙を配布して書き込んでもらっておき、どういうものを食べたかを宿屋で集計し、翌日は黙って食事の時間にのぞき込みに行く。そして、きのう食べたものと違いがあるかないかを調べる。私が最も驚いたのは、無知な人々がこういう調査に対してあまりにも真実を語ってくれないことであった。


食事内容を正直に申告できないのは、無知だからではなく恥ずかしいからだろう。何をどう食べているか、はその人の生活&経済状況を表すものだからである。小学生の頃、粗末なオカズが恥ずかしくてフタで隠しながら弁当を食べる同級生はいなかったか、と武見にいいたいが、いなそうだ。
さて、調査の結果、村民は「とりたての雑魚で売り物にならないもの」を山盛り、ごく少量の野菜、「非常にたくさんの」白米を食べていた。「この土地の耕地面積は非常に少なかった」という。小学生児童の身体検査の結果では、体位は都市児童よりも悪く、回虫がきわめて多かった。また、「特別な貧血」が非常に多かったという。
武見がこの出雲崎の調査結果を農政局長の石黒忠篤に見せたことをきっかけに、農林省が小泉教授に研究資金を出資し、農村の医療経済実態調査が実施されることになった。昭和8年ぐらい?

新潟県中魚沼郡真人村の近くの部落を選び、1年間各科の助手が行って実態を調査した。最初のマスタープランを作るときに私は参加したが、その時小学校で子供たちに聞いてみると、歯をみがいている子供は1人だけだった。それは村長さんの子供で、ほかには歯をみがいている子供がいない。そこで、ライオン歯磨に頼んで1ヵ年分の歯みがき粉と歯ブラシの寄贈を受け、歯科の医局員が出張して学校の校庭で毎日朝礼と一緒に歯みがきをやらせた。


慶應に「歯科の医局員」がいたとは。
ちなみに、武見の患者に朝永振一郎がいるが、初診の主訴は歯槽膿漏による発熱だった。歯周疾患に内科医が関心を向けるのは、珍しくないのかもしれない。在宅医療が発展する昨今では、歯科医を雇って訪問歯科をやらせている内科医もいるぐらいであるし。

この地域の健康度は非常に低かったし、平均余命も予想よりは数年短かった。また、老衰現象がはなはだしく、44〜45歳で東京の60歳以上の様相をしていた。村としての生産は農産物と林業以外にはなく、あとは出かせぎであったが、1軒1軒の生産力を調べるときにはおじいさんやおばあさんがそれに対してどのような役割をするかということまで調べた。成年男子を10とすれば、よぼよぼのおじいさん、おばあさんでも、また、そこの手伝いや子守りまで、人はすべて1とか2とかいう指数を与えられた。このような原始的な経済調査でも、やってみると案外スムーズにデータを処理できることが確かめられた。
1年間のこの地域の研究データがまとめられて農村経済厚生部に提出され、これによって産業組合の医療進出が実現することになった。当時の農林省の産業組合課長は田中長茂氏、担当事務官は蓮池公咲氏であった。これらの人々はたいへんな情熱をもって医療利用組合を指導し、農村に病院を作らせ、さらに無医地域の解消というだけにとどまらず、農民の健康管理指導にも尽力した。自然、私も情熱を燃やし、協力することになった。


当時の日本医師会は、産業組合の医療進出に真っ向から反対していた。で、その当時の日医会長は慶応大学医学部長の北島多一だったので「慶應内科の西野忠次郎博士は北島教授に遠慮して、私が農村医療に関与しているのをあまり快く思っていなかった」という。
しかし、後に武見は「北島学部長は大きな視野から医療利用組合の都市進出には反対していたが、無医地区の解消はそのような方式でなければできないとし、これを認めていた」と知り、「産業組合の医療経営という構想は、資本のない辺地では当然起こるべくして起きたものであり、北島学部長の人物の大きさを私はいまさらながら敬慕している」として、西野忠次郎博士をひとり悪者にして責めている。西野がビビッて北島と話し合いもしなかったのが悪かったんだ、と言いたいようである。が、医師会が産業組合や医療組合の病院進出におとなげなく反対しまくっていたことを考えれば、西野忠次郎が北島多一に遠慮するも当然であろう。大体、医師会は都市と「資本のない辺地」の区別なく、組合病院進出には強硬に、真っ向から反対していたのであり、戦後も地区医師会が官立病院設立に反対運動を繰り広げていた例はめっさある。まあ、医師会がそうだから武見もそうだったとは限らないし、その手の医師たちを武見は「欲張り村の村長」と呼んだのであろうが。
なお、この本は武見が日医会長在任中に書かれている。

医師会が全開業医からその存在の脚光を浴びたのは

後の日本医師会長、武見太郎の回想録より。
武見は昭和13年に銀座に診療所を開設し、京橋区医師会、東京市医師会、そして日本医師会の会員となった。日医の会長に就任するのは昭和32年4月である。

戦争にはいり、物質統制が行なわれると同時に、医師会は医薬品の配給機関となった。医師会で医薬品を配給することはたいへんな恩恵であり、医師会が全開業医からその存在の脚光を浴びたのは、戦争の物質欠乏の時の配給機構となったおかげであろう。


戦前から医師は学位をとるのが当たり前で、医局生活が長い。よって、医師会よりも医局や学会や医会のほうが重要性が高かった。

戦争が苛烈になるに従って、医師会は軍と官僚の司令を伝達する場所に変わっていき、昔の親睦機関的な性格は次第に薄らいでいった。地域の救護活動が組織的に行なわれはじめたのもこの時代のことである。戦争に突入してからの医師会は、改組を命ぜられて完全に軍の統制化に入った。戦時統制としてはやむをえなかったのであろうが、そうなった時に、私は大学卒業後10ヶ月間、近衛兵第3連隊で衛生部幹部候補生として軍医少尉に任官していたので、その時の知識がかなり役立った。町の開業医は親切で、患者の心理を理解することに秀でていたけれども、組織活動についてはきわめて不得手であった。私のように軍隊生活をし、軍医少尉になっている人間は多少その間で組織活動の経験をもっていたので、皆から重宝がられて使われることが多かった。
(略)
食糧の困難や物資の困難が次第に大きくなってくると、医師会の配給も次第に細くなってきて、それだけでは心もとなくなった。粗悪なヤミ物資が流れ、そのために医師が非常に困難をきたすことがあった。切れないメス、皮膚を通らない針、こわれやすい注射器……。日本の医療水準は全く医師の個人の努力で維持されるという悲惨な状態に陥った。この当時の医師会の人々は商魂ならぬ医魂がみなぎっていた。どんな苦労をしても自分の患者の家族に対しては最善を尽くすという努力が、涙ぐましく行なわれた。

日本医療団――医療国営を目指した組織が設立された頃なのであるが。

日本の人口は将来どうなる

労働者が減れば税収も減るのだから、「経済最優先」とは、まずは少子化の改善であろう。

推移
▲このままいけば日本人は絶滅。
出典:平成27年 人口動態統計月報年計(概数)

にもかかわらず、与野党ともに及び腰な少子化対策。出生数が右肩上がりになるまで国会議員を100人に減らして少子化対策財源つくりますよ! まずはウチが全員辞めます! ぐらい公約したらどうなのか。なお、国政選挙/回に600億円ほどかかるそうである。議員数を減らし、ネット選挙を実現して、妊娠・育児助成金の財源をつくればいいと思う。

産めよ増やせよの時代はどうやって産ませてたのか――を調べていたら、90年前にすでに人口減が懸念されていたので驚く。

昭和2年度の人口自然増加概数は

出生 205万9364人
死亡 120万9313人
差引増加 85万0051人
(内閣統計局)


昭和元年の増加94万3671に比べると、9万3620人を減少した――ということで、「日本の人口増加率も世界なみにこれから減少して行くようになったのでは」という昭和3年東京朝日新聞の記事である。なお、明治初年来の出生数の状況は、

明治5年 57万人
同16年 100万人
大正4年 150万人
同9年 200万人
昭和元年 210万人


と、どえらい勢いで増えている。昭和2年の出生率(人口1000人あたりの出生数)は33.6。2015年の出生率は8.0だから、今の約4倍の出産があったということである。
各国の出生率はというと、

イギリス 18.7
フランス 18.8
イタリー 27.2
ドイツ 19.5
スイス 18.2
オランダ 23.8
スェーデン 16.9
イスパニア 29.3
△カナダ 23.1
△アルゼンチン 32.1
△オーストラリヤ 23.2
▲1926年、△は1925年現在。

日本の子だくさんっぷりはラテンを超えていた。

問題は何故にかくも日本に出生数が多いかということになるが、これについては学者や為政家によって種々の説を唱えている。それ等の説を総合すると、大要次の如くいえる。

1、雑居主義のため
――日本人は西洋人と違って一家族が雑居するために、妊娠する場合が多い。

2、出生を結婚の前提とする思想から
――日本人は、結婚することは直ちに子供を生むということを習慣的に考えて、出産に対して人為的に制限を加えたり、全く子供を生まぬことを考えたりしない人が多い。

3、魚食するから
――魚油は繁殖率を多くする。その実例は港町と山間の町との出生率を比べると分る。西洋人が肉食を主とすることは出生率を少なくする一因である。

4、まだ外来思想の影響を受けることが少ない
――産児制限や避妊法を行うことが少ないからである。

5、文明病(神経系統の病気)や花柳病が割合に少ないため
――神経系統の病気は繁殖率を少なくし、花柳病が人口の減少を来たすことはアイヌ人を見ると分る。

「一家族が雑居するために、妊娠する場合が多い」ってどういう意味なんだ。部屋がないからナニもできない、というならわかるが。
明治初年以来の死亡数は、

明治5年 40万人
同41年 100万人
大正7年 150万人


で、死亡率(人口1000人あたりの死亡数)は19.7(朝鮮は20.7、台湾は23.7)。2015年は10.3だから、今の2倍近く葬式がある感じか。

各国の死亡率は、

イギリス 12.4
フランス 17.5
イタリー 16.8
ドイツ 11.7
スイス 11.7
ベルギー 13.0
オランダ 9.8
スェーデン 11.8
イスパニヤ 19.7
カナダ △9.8
アルゼンチン △13.9
オーストラリヤ △9.5
▲1926年、△は1925年現在。

日本はかなりの多産多死国であった。
自然増加率(出生率−死亡率)は、

日本 13.9(朝鮮17.6、台湾14.6)
イギリス 6.3
フランス 1.3
イタリー 10.4
ドイツ 7.8
オランダ 14.0
スェーデン 5.1
スイス 9.6


2015年の日本の自然増加率は−2.3である。

日本でかくも死亡数の多い原因としては、次の如きものが挙げられている。

1、乳児死亡率が多い
2、青年死亡率が多い

(1)は、遺伝梅毒、乳児脚気等による母体の不完全から起るものと、住宅が開放的なために起る呼吸器病、雑居主義によって起る授乳回数の正しくないためから起る胃膓疾患が原因となっている。(2)は、教育の過重による学生の死亡、せんい工業(製糸紡績等)の発達による女工の死亡が増加したためである。


この頃から、日本では若者の自殺が多かった。

フランスの如きは、1820年頃からその(註:人口減少の)傾向を現し、為政者学者はその対策に腐心しつつある。同国の人口減少の原因としては、男女平等に遺産を分割する遺産制度や国民の逸楽主義等が大いに与って力があるといわれている。これが対策として、3人以上の子持ちの家庭に対しては、出産奨励金、選挙権の拡張(複数投票)兵役免除等の特点付与が研究されている有様である。
今、主要国における人口減少の傾向が現れた年次を示すと、左の如くなる。ここで注意すべきことは、フランス統計学者ベルチオン等の主唱した併行率の法則で、出産が減少すると死亡数も減少することである。これは、死亡する根原である出生数によって起ることも明かであるが、これ以外に何等かの理由があるだろうといわれているが、まだ明かとなっていない。

フランス 1820年頃
ドイツ 1870年頃
イタリー 1890年頃
オランダ 1880年頃
デンマーク 1885年頃
オーストラリヤ 1870年頃
ニュージーランド 1880年頃

結局、日本の人口も近い内に、各国並に減少の傾向を取るようになるのではなかろうか。


子どもを多く産めば「出産奨励金」と「選挙権の拡張(複数投票)」が与えられるというのは、有効かもしれない。
なお、日本は出生率に加え死亡率も低下したので、世界一の高齢化率(65歳以上/総人口)となっている。早急に手を打たなければ、社会保障の維持も不可能だ。アベノミクスなんぞ経済最優先どころか、経済を完全に後回しにする策としか思えないのだが。

なんで創価学会は公明党は安倍さんとグルになって好き勝手やっているのでしょうか

動画:創価学会員が公明党に「無理」宣言
2016年7月2日、渋谷の三宅洋平選挙フェスで、4世代続く創価学会信者の創価大学生が、今の公明党がやっていることは創価学会の本来の教えに反していると批判し、創価学会員に、自分で考え行動しよう、と呼びかけました。


すごい勇気だ。
「権力を批判しない宗教は宗教じゃない!」
いや、まさしく。
コレを聞いて、知人の創価学会員がムチャクチャ言うのに慣れてしまっていた自分を、反省した。ムチャクチャとは、例えばシャカが唯一認めたのが日蓮である、とかである。釈迦と日蓮じゃ時代がまったく違うし、そもそも創価学会は日蓮正宗から破門されているのだが、反論するのにも疲労を感じる。というのも、実家の前の家が創価学会員で、選挙の際のうるささたるや大変であった。公明党候補の話から、いつの間にか池田大作の話になってるし。ホント、思い出すだに疲れる。しかし、上記の創価大生、創価学会男子部の竹原弘樹氏は「実家の前の家」どころか、一族郎党友人知人の冷たい視線を押し切って、反公明党宣言をしたのである。創価学会幹部からは「安保を批判すると地獄に落ちるぞ」と言われたそうだ。疲れている場合ではない。

日刊ゲンダイの記事:ハチ公前1万人 三宅洋平“選挙フェス”に創価大有志が参戦

それにしても、自民・公明が強い土地が「保守地盤」というのはもはやナゾである。
保守主義とは「現状維持を目的とし、伝統・歴史・慣習・社会組織を固守する主義」(岩波「広辞苑 第6版」)のことであるが、自民も公明も改憲派で、しかも日本の歴史も無視しているんだが。「とりあえず護憲」という三宅洋平氏が左派扱いなのもわからない。左派って、改革派のことじゃないの? いつのまにか「あべこべのくに」(by長田弘)にまぎれこんでしまった気分である。

「ねむりのもりのはなし」長田弘

いまはむかし あるところに
あべこべの くにがあったんだ
はれたひは どしゃぶりで
あめのひは からりとはれていた

そらには きのねっこ
つちのなかに ほし
とおくは とってもちかくって
ちかくが とってもとおかった

うつくしいものが みにくい
みにくいものが うつくしい
わらうときには おこるんだ
おこるときには わらうんだ

みるときには めをつぶる
めをあけても なにもみえない
あたまは じめんにくっつけて
あしで かんがえなくちゃいけない
きのない もりでは
はねをなくした てんしを
てんしをなくした
はねが さがしていた

はなが さけんでいた
ひとは だまっていた
ことばに いみがなかった
いみには ことばがなかった

つよいのは もろい
もろいのが つよい
ただしいは まちがっていて
まちがいが ただしかった

うそが ほんとのことで
ほんとのことが うそだった

あべこべの くにがあったんだ
いまはむかし あるところに

松井喜三郎、長井兵助、松井源水

かつて浅草観音裏で歯療入歯をなしていた香具師についてのあれこれ。

矢師
商人、一種の名製薬を売るはもっぱらこの党とするよしなれど、この党にあらざるものあり。この小売のうち種々あり、路上の商人多し、歯抜きもこの一種なり、大阪の松井喜三郎、江戸の長井兵助、源水等最も名あり、喜三郎と兵助とは人集めに箱三方を積み累ね、その上に立ちて太刀を抜き或は居合の学びをなし、玄水は独楽を廻して人を集め、歯磨粉および歯薬を売り、また歯療入歯もなすなり
守貞漫稿「類聚近世風俗志」1934年

和田信義「香具師奥義書」(1929年)によると、香具師のなかでも長井兵助や松井源水のように「広い場所を占領して、黒山の如き群集を集めて長広舌を振い、商品を捌くもの」を「大じめ」といった。大じめ師の売るものは「歯薬、眼薬、傷薬、この3種に限られている。その外に胃病薬、頭痛薬、インク消し等々と種々の薬品を売る者もあるが、これらは皆大じめ師の部類には入らない。すなわち小規模のものである」(同)。
大じめ師とはさしずめ、香具師の花といったところか。

昭和4年に東京市が行った露店調査では香具師の分類として一代限りの「コロビ」、親から子へと血縁で受け継がれる「古店(こみせ)」の2種類を設けている。

露店商人の内、いわゆる親分子分の関係を基礎として仲間を結び、一種不文律の掟に従って仲間の統制をつけて行くものは香具師に限られている。
コロビ及び古店の2組合がそれである。これらの組合の親分はいずれもそれぞれの家名を名乗っているが、香具師にとってこの家名は最も大切なものでいかに新進の親分が勢力をふるっても、古くから聞こえた家名に対抗することは到底でき得ないのである。
ことに古店の家名は親から子へ、子から孫へと伝えられるべきもので、古きは数代の長きにわたって家元を継続しているものもある。これを宗家と呼んでいるが、コロビは原則として親から子へと家名を伝えない。すなわち子分の内で最も顔の利くものが親分の跡目を継ぐ。けだしコロビは元来一代限りのもので二代にわたってコロブということは彼等の忌むところか、もし実子にしてコロビの家名を継がんとする場合には他の親分について修行し一人前のコロビ師となって始めてその親分の家名を継ぐのである。
(東京市を中心とする露店商とその組合組織並親分関係、東京市役所「露店に関する調査」1929年)

ちなみに、日本にも中国にも「家制度」はあるのだが、中国の同制度が血縁によるのに対し、日本は仕事(家業)によるという特徴がある。もちろん日本でも直系男子が家業を継ぎがちではあるが、例えば江戸の商家で男子がアホだった場合など、優秀な番頭を娘婿にしたりして“家業を絶やさない工夫”をする。香具師の世界の「実子にして家名を継がんとする場合には他の親分について修行」させるのもそれだ。この手の工夫をしないと家業は劣化していくのである――ということを如実に示しているのが、今の政治の世界である。現在の日中韓の政治トップは全員坊ちゃん嬢ちゃんなんだが、日本の美風はどこに行ったのか。
閑話休題。同調査によれば松井源水はコロビであり、神祖は豊家の家臣だったとある。稀代の香具師誕生のきっかけは、大坂の陣だった。

神祖豊家遺臣 長井長政 長女(曲柄十郎左衛門妻)徳川氏に反抗して香具師団を組織す。
23代 鈴木惣吉
初代 松井源水 右の家柄6代目より分家す。
15代 角川藤三郎 松井源水初代より15代目までの各代松井源水を名乗る。
16代 松井国太郎
17代 後藤松ニ郎 寄居家鹿島峯太郎より出ず。後に松井源水17代を継ぐ、鹿島2代前橋長次郎とは兄弟分。


しかし、松井源水の子孫だという某歯科大名誉教授は、松井姓だった。「他の親分について修行し一人前のコロビ師となって始めてその親分の家名を継」いだのだろうか。

薬価と診察料を分離

1939年5月15日、薬価と診察料を分離するという厚生省・医薬制度調査会案が報道されている。

1、現在の医療報酬は薬価と診療料の区別なく習慣的に定められているものであるから薬価と診察料を分けるという考え方に本づいて合理的に定める。薬価については薬価令を制定し、医薬の原価と調剤手数料をもって薬価を定める、薬価令は医師、薬剤師に適用する
1、診療報酬は委員会を設置してこれに諮問したうえ客観的に妥当と考えられる標準を定める。この標準はさしあたり最高標準のみを定める
薬価と診察料を分離、1939年5月16日付大阪朝日新聞)

厚生省は昭和13年1月11日、戦時下の国民体力増強を担う省として設置された。初代厚相は木戸幸一。同年7月に医薬制度の改善について審議する有識者会議「医薬制度調査会」が発足、歯科からは血脇守之助と奥村鶴吉が参加。

処方箋発行の改善

1、医薬の任意的分業を徹底させようという意味で処方箋の発行方法を改善する
1、医師は診察後必ず処方箋を患者に交付すること
1、処方箋料は取らないこと
1、患者はこの処方箋で医師のもとからあるいは薬剤師から薬価令による価格で薬を購入する
1、この処方箋発行方法の改善案はさしあたり六大都市と他の適当の都市に限って実施する


以上は昭和17年の国民医療法のベースになった。処方箋交付は医師の義務となったが、罰則規定がないために結局は空文化する。

スマトラの日本人歯科医師

吉見義明「草の根のファシズム」より、スマトラで1930〜1941年まで歯科医業を行っていた井田政吉氏についての記述。
井田氏は、歯科医師免許を持ってはいなかった。

井田は、1911年、鉄道員の子として埼玉県熊谷町に生まれ、高等小学校卒業後駅手として熊谷駅に就職していた。しかし、この仕事に満足することができず、スマトラで歯科医院をひらいていた佐川三千弥氏が、一時帰国して医院の助手を探していると聞き、自ら頼み込んで30年12月、パガルアラム(パゲララム)市に渡っていた。
パガルアラム市はスマトラ島の南西部に位置し、有名なパガルアラム・コーヒーの産地であった。周辺にオランダ人経営の大コーヒー農園が5つあり、その労働者は約5000人いた。市内の在留邦人は、雑貨屋兼写真館・質屋・歯科医院の3軒のほか住民と結婚している元小学校教師の女性をいれても10人くらいであった。佐川医院はオランダ人・インドネシア人・華人の患者をみたり、パスマ人の娘の歯を削り、上あごの6本の歯の全部または一部に金冠をかぶせたりするのが主な仕事であった。金冠をつけるのはパスマ人の「ダボン」という習慣にもとづくものであった。彼はマライ語をならいながら、佐川医師から歯科と薬物の学理と臨床についてきびしい指導をうけ、「無我夢中の3年間」をすごした。


インドネシアには1928年にスラバヤに歯科大学が設置されていた。しかし、一般人のほとんど(特に田舎は)「tukang gigi」と呼ばれる無資格の歯の治療師を頼っていたという(森本基「アジア歯科事情」)。井田氏が無資格でも無問題だったわけである。ちなみにこの頃は、日本でもドイツでも、義歯をつくりながら歯科治療をも行う歯科技工師が活躍していた。

34年1月13日、彼はラハトにある佐川分院をまかされて、歯科兼薬局兼家庭薬販売の分院をきりまわし「責任ある充実した日々を過ごすことができた」という。ラハト市の邦人は、ホテル2軒・理髪業1軒・歯科2軒の計10人で、ほかに台湾人経営の写真屋が1軒あった。彼はオランダ語の勉強もはじめ、パガルアラム農園にあるオランダ人経営の共立病院から歯科担当の委嘱をうけた。オランダ政庁から歯科独立営業の許可もうけた。地元の有力者であるムラピ村村長モハマット・アフマッから、長男ノォーの結婚式に招待された(ノォーは戦後南スマトラ防衛軍司令官になったという)。このように彼はラハトでゆるぎない地位を築きつつあった。

が、1940年9月には日本軍が北部仏印に進駐する。
1941年6月には第二次日蘭会商が決裂、翌月には日本軍が南部仏印に進駐し、蘭印と日本との経済協定は破棄される。そして、アジア太平洋戦争勃発し、日本とオランダは敵対国となった(蘭印作戦)。井田氏にとっては生活基盤、交友関係などすべてを失う「無念の開戦」であった。
井田氏は語学力を活かして陸軍軍政要員となり、1942年8月にはパレンバン軍政支部警務部に通訳として勤務する。
1942年11月にはスマトラ軍政実施要領が実行に移され、井田氏は軍からまわされる敵産品を住民に売るために設立されたパレンバン州立タバコ専売公社の理事兼監査役に任命された。1944年には徴兵され、陸軍衛生兵としてプキチンギの病院歯科室に配属された。この時、井田氏は30歳。そして1945年8月16日、日本の敗戦を知る。
プキチンギでは日本敗戦とともにミナンカボウ人の独立運動が公然化し、食糧調達で村に行った炊事班全員が住民に殺されるなど、対日感情は最悪であった。1946年4月末にシンガポールに赴き、そこで1週間抑留され、チャンギー刑務所で所持品検査を受けて、リバティ船で日本に帰国する。

46年5月頃、熊谷にかえり、市街の消失を知った。わが家の消失と弟のビルマでの戦死も知らされた。日本では免許がないので、歯科医院を開くことはできなかった。就職のあてもなく、稲わらから荷造り縄を作る仕事を始め、ついで塗装店を開くことになる。


戦争がなかったら、ラハトで歯科医師人生をまっとうできたのだろうか。しかし、民族独立運動は激化したであろうし。
井田氏は現地のお嫁さんをもらって現地に溶け込み、戦時中は裁判所の通訳をこなすほど語学にも長けていたコミュ力の高い人であったが、現地人を土人呼ばわりして日本語しか話そうとしない日本人移民も、少なからずいたようである。わざわざ移民に行ってその地を見下す、ってどういうメンタリティなんだと思うが。
なお、井田氏に歯科医業を教えた佐川三千弥氏は一時帰国の際に報知新聞の取材を受けている(1942年1月13日付報知新聞)。それによると当時、佐川氏はスマトラで26年間、歯科診療所を経営していたという。帰国後は、どうしたのだろうか。

御木本“真珠王”幸吉

乙竹岩造伝記 御木本幸吉」1950年より。御木本“真珠王”幸吉(1858-1954)は真珠の養殖に世界で初めて成功した実業家で、現ミキモトの創設者。著者の乙竹岩造は東京文理大教授で、その妻は御木本幸吉の四女だった。

第二次世界大戦が起って、金を政府に献納または買上げることが盛んに行われるようになった昭和14年に、幸吉もまた種々の金製品と共に金製の総入歯を献納し、その代りにゴムの総入歯にした。東京歯科医専の教授堀江ぐ博士の手許から、そのゴム歯が到達したのが昭和15年1月で、幸吉が82歳を迎えた新春のことであった。


御木本幸吉は96歳の生涯を現役で通した人で、その健康法も数々残されている。だが口のほうは頑健でもなかったらしく、結構早くから総義歯になったらしい。
82歳時には義歯ナシで演説したというエピソードもあり、

爺さん婆さんに話をするのに入歯は不用じゃ。
と開口一番、上下とも総入歯を取はずして、無造作に懐中にねじ込み、

顎堤は残っていたもよう。とすると齲蝕で抜歯したケースか。粗食で酒もタバコもやらず、日常的な運動もやっていたというが、歯みがきについての記載はない。

昭和22年6月27日アルモンド将軍の一行が来訪したときも、例の如く歓迎し、食事を共にして怪談したが、一行の中に、彼の年齢を尋ねる者があったから、90歳だと答えたところ、どうしても信じない。もっと若いのだろうという。これを聴いた幸吉は、すぐ指を口中に入れて総入歯を外ずして笑った。さすがの幸吉も上下共の入歯を外ずしてしまうと、全くの老顔となったので、かの将校の疑団は氷解して、たちまち歓笑となってうなずいた。


人前で義歯をはずしてみせることが、もはや芸である。

幸吉は比較的早くから歯が悪かったが、良い総入歯をしてから後は、胃腸も丈夫になった。それで、老人は金を内科にかけるよりは歯科にかけよと言っている。


胃腸が悪くて歯も悪いとなれば、当然栄養状態は悪くなる。がんなどで胃や腸を摘出した人で歯もない場合は、障害者手帳を発行してもいいと思うのだが。

さて、御木本幸吉の真珠販売は昭和15年の七・七禁令(奢侈品等製造販売制限規則)で大打撃を受け、さらに昭和15年には真珠養殖事業も停止が命じられる。この苦難を真珠王は真珠貝の食用転換で乗り越え、そして敗戦。銀座のミキモト真珠店も目黒の貴金属工場も空襲で消失していたが、幸吉は戦争終了と同時に即日真珠養殖を開始、早々に経済復興の波を起こし、それに乗った。敗戦のこの時、87歳である。で、89歳で英語を始め、90を超えても進駐軍と抜き手で泳いだりしていたという。スゴイ人である。

滿洲帝國に於ける鑲牙師問題

いわゆる「鑲牙師(註:じょうやし)」を、その業態および徳知育の観点から見ると、その大部分が、義歯製作を主体とする手工芸に、経験と模倣による医療類似操作を加味した特殊なる手工芸細工職人と見るべきが妥当である。
福島秀策、小林一「滿洲帝國に於ける鑲牙師問題に就て(1) 」1942年1月発行「臨床歯科」

鑲牙師(じょうやし)とは、中華圏に存在する入歯師のこと。
満洲における鑲牙師は鑲牙営業取締規則制定以降も既得権が認められ、主に辺境の歯科医療を担っていた。著者は哈爾濱医科大学の歯科医育者。この論考では鑲牙師の廃止が主張されているが、その主張に医学的根拠(鑲牙師による実際の患者被害とか)を期待すると肩透かしを食う。

日系歯科医師は康徳7年末において674名であるから、現在内輪に推定して700名とし、在満日本人を100ないし120万とすれば、1万に対し7名内外の歯科医師がいることになる。この比率は、昭和14年末現在厚生省調査の日本における歯科医師対人口比率、1万人に対し2.84人に比すれば、実に2倍半に達する高率である。この事実は日系歯科医師が、従来客観的必然の要請に基いて、その経済基礎を置き来った日系患者の診療以外に、十分に満洲帝国独自の歯科医学および医業の建設に対し、攻勢を取り得る余力を有するものと解して差し支えあるまい。


鑲牙師問題とは、経済問題であった。歯科医師の。
著者らは教師らしく鑲牙師の再教育に挑むのだが、あえなく失敗したともある。

康徳2年3月(昭和10年3月)、時の奉天市満人歯科医師会長候子麟氏(現在北京在住)名誉会長中島秀造氏(現在大連市在住)等は、非常な熱意をもってこの学に参加した吉田義満氏(現在北京在住)および周大成氏(現在奉天在住)等と協力し、中核となって、いわゆる鑲牙師の科学的教育を計画したことがある。この学は、当時の瀋陽警察署の後援の下で、6ヶ月間にわたり、大約140名を収容して教育を実施したのであるが、ついに見るべき効果をあげ得なかった。集る講習生140名中、30名は張作霖政府によりかつて歯科医師たるの資格を認許せられた当時の現地開業歯科医であり、残りの110名内外は、いわゆる鑲牙営業者ないし夫等の徒弟であり、全数中まったくの無学文盲者は10名を数え、口述筆記ないし作文可能のものはごく少数であり、大部分は、辛うじて講習用プリントの素読について来れたに過ぎなかったということである。これでは到底、科学的教育をほどこして、歯科医学の一端なりとも理解せしめるなどとは思いもよらないこととしなければならない。
(上)

日本の徳川時代みたいな状況だ。その時代の日本の医師は文盲無筆も多く、医療は科学的根拠というよりは伝統と経験に基づく技術であった。しかし、科学的根拠が不明であることは、科学的根拠がないということとイコールではない。

歯科医師と鑲牙師との間には、何等の直接的秩序関係を有せず、歯科医師は歯科医師とし、鑲牙師は鑲牙師として、全然独自の立場から、国民の口腔疾患および口腔機能の回復に関与しきたったことは、ここに説明を要しないであろう。
(滿洲帝國に於ける鑲牙師問題に就て(2) 、1942年2月発行「臨床歯科」

著者らも鑲牙師による口腔機能への貢献を認めつつ、

一つは、明確に口腔衛生保健の担当者として必要なる教育および研究を経てその担当者および指導者としての実力を涵養せる人士であり、他の一つは、全くその能力を欠き、わずかに金属加工職人たるの技能を有するのみ。
(同)

単なる「金属加工職人」と糾弾し、

我等は、我等の課せられたる国家的役割の完遂のために、また、我等は、我等こそが真の口腔医療の担当者であり、口腔の保健厚生の指導者たるの、光栄ある義務と責任とにおいて、明かに要求しなければならない。
「彼等を、我等の揮下に委ねらるべし」と。
(同)

鑲牙師を歯科医師の支配下に置くことを要求する。具体的には、

自由範囲以外の技工を行う場合は、歯科医師の製作および材料等必要事項を記載した処方を必要とし、処方箋なくしてこれを行う場合は、処刑せらるべきであり、また、従来の取締規則中に認めありたる(第3条)医療処置は、これを停止せしむべきである。
(同)

鑲牙師と患者の分断を図っている。

日本における歯科技工法成立のプロセスと同じ経路を示しているが、これは日本国内の情報が伝達されているからなのか。国内といえば、歯科医師を顧客とした歯科技工所や歯科技工士がバンバンもうけている頃だが。満洲でも外注技工はあったのかなあ。

それにしても――明治時代の西洋医はそのライバルである漢方医を根絶させたいと願ったが、支配下に置こうなどとは考えもしなかった。
それは西洋医にとって、漢方医を利用する価値がなかったからであろう。漢方医なんぞいなくとも医療は自分らで十分やれる、と西洋医は考えた。同じ医者でも内実はまったく別物、という意識もあった。まあ、完全に見下していたわけである。その点、鑲牙師や入歯師は歯科医師にとって支配するに足る、十分な利用価値があったし、自分ら歯科医師とはまったく別物、とも実は考えていなかった。むしろ、業務内容のバッティングは公式にも問題となっており、似た者同士という意識は歯科界の常識であったのである。逆にいえば、入歯師の価値を正しく理解していたのが歯科医師なのだろう。

医師確保対策の歯学部振替枠

医師確保対策として、2010年度から「3つの枠組」による医学科増員が図られているのだが、

◆医学部入学定員増員の3つの枠組(2010-2019年度)
|楼莽
都道府県が地域医療再生計画に基づく奨学金を設け、大学が地域医療を担う意思を持つものを選抜。

研究医枠
複数大の連携により研究医養成の拠点を形成する大学において、研究医の養成・確保に学部・大学院教育を一貫して取り組む各大学3名以内の定員増。

歯学部振替枠
歯学部の入学定員を削減する場合の定員増。


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▲現在の状況はこんな感じ……この「医師偏在対策、医学部定員に係る資料」の2ページにある。

赤い部分が「3つの枠組」分。

枠組別の増員数の累計は、
|楼莽592、研究医枠40、歯学部定員振替枠44

となっていて、^奮阿呂曚楜’修靴討い覆い隼廚Α
なかでもの歯学部振替枠は“歯科医師受給問題対策”の意味もあったようだが、そもそも低偏差値と定員割れと低国試合格率で苦しんでいるのは歯科単科大。

でもって、歯学部振替枠による増員44人の内訳は、

2010年度
北海道7、東京医科歯科5、大阪3、九州5、長崎5、岩手医科5

2011年度
東京医科歯科5、岡山3、徳島2、鹿児島2

2013年度
岩手医科2

以降はナシ。
国立の歯学部定員が減り、ますます歯学部人気が落ちたような気が、なきにしもあらず。

歯学部→医学部の転入、歯科医師の医師転用制度を認めれば、医科・歯科双方にメリットありと思うのであるが。

ソバカス、ニキビ、ワキガ

昭和2年11月、ソバカス、ワキガ、ニキビを健康保険の医療給付から外すという記事。労働に影響ないからというが、明治24年にはワキガで3300人が徴兵不合格になっているというのに。

健康保険法の改正についてはさきに内務省から労働保険調査会に諮問してその答申を求め、これを参考として法律ならびに附属勅令の改正案の作成に着手している、しかして右法律案は来議会に提出し勅令は改正法律案の通過後改正するはずであるが法令改正の要点は左の如し(東京電話)

一、業務上の事由によらざる傷病に関しては被保険者をして医療給付中薬価の一割を負担せしむる途を開くこと
一、業務上の事由による傷病については保険者において被保険者の報酬の六割以上の附加給付をなす途を開くこと
一、業務外の事由による傷病については傷病手当金は報酬の六割以下四割以上に減じ得る途を開くこと但し健康保険組合にありては主務大臣の認可を要すること
一、保険者は被保険者の家族に対しても医療給付の途を開くこと
一、被保険者の著しき不行跡による花柳病については傷病手当金の全部または一部を支給せざるを得る途を開くこと
一、業務上の事由によらざる疾病にして労働能力に影響を及ぼさざるソバカス、ニキビ、ワキガなどについては医療の給付をなさざることを得る途を開くこと
一、職員は主務大臣の認可ありたる場合は被保険者たらざることを得る途を開くこと
一、任意継続被保険者は保険組合には認めず政府直轄の被保険者のみとすること
一、被保険者の資格喪失後における保険給付の支給に関しては資格喪失の際業務上の事由によらざる傷病に関し傷病手当金の支給を受くるものはその喪失前継続して六十日以上被保険者たりし場合に限り引続きその支給を受け得ることにすること
被保険者の家族も医療給付の途を、1927年11月6日付大阪朝日新聞

被扶養者まで健康保険法の対象となったのは昭和15年からなのだが(5割負担で)、健保法がスタートした年の暮れには「保険者は被保険者の家族に対しても医療給付の途を開く」ことが同法改正案として検討されていた。13年もかかったのはなぜ。
それにしても「ソバカス、ニキビ、ワキガ」を除外しようとしていることに隔世の感あり。いまや顔面のホクロを取るのにも保険が効くのである(ソバカスの保険治療は無理だろうが、しかし、シミがふくれてイボっぽくなってるとOKなケースも?)。もちろんワキガの手術は保険が効くし、日本皮膚科学会が「ニキビはお肌の病気」と周知に努める時代である。

明治24年の帝国陸軍 

清水寛「日本帝国陸軍と精神障害兵士」(2006年)に掲載されていた「1891(明治24年)の徴兵不合格者の『病類』別順位」。咀嚼障害が第5位で少々驚く。

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▲「唇又は歯牙の疾病欠損にして咀嚼に妨あるもの」が第5位。

4000人が咀嚼障害で徴兵不合格。満20歳で、全不合格者の約5%が咀嚼障害。これは、ゆゆしき事態では。
第6位はワキガ。
ワキガは戦闘には影響しないんじゃないかと思うが……明治の日本帝国軍は、それだけ兵士を吟味していたということなのか。

臨床的に過ぎる

昭和14年の記事。今でも徴兵ならぬ徴農でニート問題を解決できる、とかいっている人がいるが。

「公私生活刷新に関する基本方策」を閣議に送った精動委員会では引続き「勤労の増進ならびに体力の向上に関する基本方策」に関する第3特別委員会案を審議するため、11日午後2時から文部省第3会議室に第8回総会を開き荒木委員長以下各委員出席、岡部特別委員長の報告にもとづく同委員会決定案を上程した。
この議題中には兵役義務の均霑をはかるため入営しない壮丁にも義務的に勤労奉仕制度を確立せよという青年勤労奉仕制度確立に関する方策、結婚までの適齢期を茶、花などのおけいこ三昧に過ごす中流以下の女性をも勤労動員せよという方策、臨床的に過ぎる医道を振作して体位向上の精動線に沿う「精動医」たらしめる方策等々、諸方策を協議の結果可決して5時散会した。今後この根本方策を内閣情報部内の精動部会に移して、各省ならびに各団体がいかに協力し、いかにして実行に移すかの具体策を考究することになったが、青年勤労奉仕制度確立策のような大きな革新案を閣議がいかに取上げるかはもっとも注目されるものがある。当日の決定事項ならびに論議の大要は左のごとくである。

勤労増進に関する方策

1、勤労報国精神の作興
2、勤労倍加
3、青年勤労奉仕制度の確立
これは一定年齢の男子青年に対し一定期間国民的義務として共同自営の勤労奉仕生活を体験せしめるもので勤労を単に収入を得る手段と見る精神を打破するとともに、兵役義務均霑のため入営せぬものにも入営したと同程度の勤労義務を負わせる案である。これに対し「労働力が不足の際、青年層の労働力を義務的に鍛錬に向けることは問題であるから義務的にという点を除かれたい」という意見も出たが多数が賛意を表したので「当を得た実行方法をもって」という条件付で可決。
4、学生、生徒、児童の集団的勤労作業を拡充強化する方策
これは師範教育、勤労慣性教育を徹底強化する集団的勤労作業をして臨時的なものから組織的なものへ強化することの2項を含む
5、婦人の勤労動員
竹内茂代女史から高女卒業生15万のうち上級学校へも行かず職業婦人ともならず家庭で茶、花、琴などのお稽古に憂身をやつしている都会の、しかも中流以上の未婚女性を対象とする意見の開陳があり、環境に従って銃後の勤労奉仕作業を行わしめる方法を婦人団体を通じて活溌に行うこととなった。
入営せぬ壮丁には勤労を義務制に、1939年7月12日付大阪朝日新聞

「青年勤労奉仕制度」に「集団的勤労作業」。ホントこのころの日本は、毛沢東時代の中国である。ファシズムとコミュニズムの相似なのか、いや、日本が悪い意味でアジアの手本になっているという可能性もあるのか? 北朝鮮の拉致は日本帝国の強制連行に範を取っていた、みたいな。
さて、医師制度の改善は「体力向上の方策」として議論された。

体力向上の方策
1、生活科学研究機関の設置
すなわち日本の国土に即した生活小泉委員のいわゆる"皇国ぶりの生活"の合理的、科学的生活確立の国立研究機関を設ける。
2、医道の振作、医師制度の改善
個人対象の治療のみに走らず、予防医学方面および体位向上の保健国策の線に沿うよう、医師会方面に働きかけていわゆる「精動医」に建直す。ここでも小泉中将から金儲け主義その他の悪徳医を鍛え直すべし、という痛論があった。
保険衛生に関する方策としては国民の衛生保健思想の徹底、母性、乳幼児の健康増進対策、入学試験制度改善の実行、禁酒禁煙、節酒節煙の励行、国民栄養の改善、結核撲滅の運動、また鍛錬に関する方策としては武道の振興、武道教師および体育講師の国家養成、工場会社に体育指導専任者を設置、農村にふさわしい鍛錬方法の考究ならびに都会における団体行進、団体体育、健全娯楽の振興などが決定された。


「団体行進、団体体育」って、これも共産主義国家のお家芸。極左と極右の違いって、なんじゃろ。

90にもなってまだ生きたいのですか

麻生太郎・副総理兼財務相の「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」発言が批判を浴びているが、このエピソードを思い出した。
「武見太郎回想録」より、麻生氏の祖父・吉田茂(1878-1967)、そして吉田茂を義理の叔父に持つ医師・武見太郎(1904-1983)の会話である。

昭和41年8月のことである。2日ほど胆石様発作のような右の季肋下部に激痛が起こり、3日目に左肩を貫通するような痛みが出て来た。この時、主治医の佐藤陽一郎博士から連絡を受け、私は急いで大磯に見舞った。その時はすでに声がかすれていて、呼吸もやや苦しそうであったが、私の顔を見るなり吉田さんは、「ご臨終に間に合いましたな」と言った。私も医者になってから、かけつけて行った先で、相手の患者から“ご臨終に間に合いました”という挨拶を受けたのはこの時が初めてであったが、おそらく今後もこんな例はないであろう。このくらい重篤な状態で、これだけの余裕を心の隅に持ちうるというのは、尋常一般の人ではない。
応急手当がすんで、私が「90にもなってまだ生きたいのですか」とにくまれ口をたたいたところ、「こんなだらしのない世の中では死にきれない」と言って、大いにファイトを燃やしておられた。その時に、3週間は絶対安静で横を向いてもいけないと言ったところ、完全にそれを守られたところをみると、国家のために生きなければならないという強い決意があったものと察せられる。


患者と医師、そして叔父・甥の痛快な応酬である。その場限りのウケねらいでなく、後でジワジワ来るこんなギャグを私は言いたい。なお、実際には吉田茂はこの時90歳にはなっていなかった(1878年9月22日生まれだから満87歳)というところも、イイ話である。

昭和13年、薬が公定価格に

昭和13年、国民健康保険法と国家総動員法が公布(4月1日)されて3ヶ月ほど経った頃の記事。1月には厚生省が発足している。

最近各種の医剤は急激に騰貴しつつあり、ことに輸入を仰いでいる高貴薬は輸入制限によって事変以来、5割7分方の昂騰を示しているが、厚生省では一般日用品の物価抑制と歩調を合せて薬価の抑制をはかることとなり、目下同省衛生局で研究を進めている。
薬にも公定価格、1938年6月30日付大阪朝日新聞 )

「輸入を仰いでいる高貴薬」とはサルファ剤とかか。

抑制の方法としては第一に輸入薬剤に代るべき国産品の製造を極力奨励する方針で、現に駆虫剤、乳糖の原料は東北地方、北海道で栽培されており、一両年後には相当莫大なる生産を見るはずであるが、今後は国産原料をもって自給自足し得るよう指導奨励する。
第二の方法としては主要医薬品につき公定価格を定めて統制し、国民負担の軽減をはかることに決定、現在日本薬局方として一般に販売されている700余種の医薬のうち需要量の多いものから順次価格を統制してゆく意向のもとに厚生省では企画院、商工省ならびに業者と協議したうえ省令によって公定価格を明示することとなった。


結局のところ「国民負担の軽減」などできるわけがなかった。
薬は不足の一途をたどるのである。
昭和14年の日本薬局方臨時改正では、蜜蝋の代わりに木蠟、消毒用アルコールにはメタノール、タンニン生薬としてゲンノショウコを推奨するなど、代用薬や代用原料の導入が計られた。
また、この改正でビオフォルム(ヨードクロールオキシヒノリン)がキノホルムの名称で普通薬として収載されたが、もとは劇薬指定の薬剤である。厚生省はビオフォルムを劇薬表から削除することなく、局法条文でキノホルムを普通薬として扱い、戦後のスモン薬害を引き起こすのである。7:3の大臣告示が厚生省の疑義解釈で空文化した例など、この手の行政の怠慢と傲慢には呆れるばかりである。

保険料に米や大根

昭和13年3月2日、国民健康保険法が可決された。

農山漁村、郡市中小商工業者の医療相扶共済を目ざして立案された国民健康保険法案はいよいよ2日、貴族院を通過成立、ここに同法は来る7月から10年計画で施行されることとなった。
(略)
保険料も従来の労働者健康保険法では一律に負担していたのが新法では都会、農村を通じそれそれ資力に応じ、お金がなくて金納できぬ場合は農村なら米だとか菜葉、大根などと物納でもよいという便法も考慮され、資力の足りない者が互に助け合ってまさかの用意をととのえよう――つまり共同で危険分散をしようというわけだ。
保険料に米や大根、1938年3月3日付大阪朝日新聞

健康保険料の物納がOKに。
実際に物納があったかはわからないが、保険料額とその徴収方法は組合の自治に委ねられていたのは事実である。しかし、この時代の医療問題の主因は社会の貧困であって、保険料の物納を許したところで解決するものではない。医療機関、とくに開業医の犠牲は必至の処置であるが、医師会もこれを阻止する力を失っていたのだろう。

団体契約の法文化問題

昭和12年、東京朝日新聞の論説委員・前田多門による国民健康保険法案の解説から。医師会は…秧芭妬鷭靴砲茲覦緡兎睛討猟祺次△よび∩塙臘沼阿良賊,箴託医制度の採用で開業医が患者を奪われること、などを理由に反対運動を繰り広げていた。なお国民健康保険法の公布は昭和13年4月1日、施行は7月1日より。

団体契約は現在、政府管掌の健康保険法関係において日本医師会と政府との間に事実上締結されている。しかるにこの契約事項協定に関し、毎年のように紛糾が繰り返され、政府当局は少からず迷惑を感じているのみか、現在の健康保険に関する諸種の非難不平、例えば診療内容の不良、濫診濫療、診療報酬の不当請求等がこの団体協約に胚胎しているとの批評さえあるのであるから、まして市町村単位の組合に対し、法制上必ず医師会と団体協約を結べと義務づけるのは余程考え物である。
この主張に関する医師会の理由は、かかる団体協約がなければ、被保険者をして自己の信頼する医師を自由に選択せしめることができないと言うのであろうが、自由選択の途は団体契約がなくても開かれ得るのである。もとより取り決め方は地方の実情に応じて全然自由であるから、組合のあるものが団体契約をするのを決して妨げないが、それを全国一律に強制すべきではない。
団体契約がないと個人の医師が組合に圧迫されるとの心配もあるようだが、医師の背後には立派な公法人たる医師会が控えている。もし一律に団体契約が強制されんか、町村組合は逆に圧迫を受けて、医療費その他の条件は全く開業医師団の頤使のままに定まられるという危険の方がむしろ多いようである。例えば保険医の指定権の如きは医師会が独占する結果、開業医以外の医療機関は迫害せられて、益々両者の対立抗争は激しくなるであろう。結局原案の如く自治的決定に委ねるのが至当と思考せられるのであって、団体契約の法文化には賛意を表しがたい。
国民保険法案の解説、1937年3月5日付東京朝日新聞

医師会の望んだ団体契約の法文化は、しかしなされなかった。
前年7月7日に起きた盧溝橋事件で、政府は粛々と国家総力戦の遂行体制を固めており、医師会も黙らざるを得ない情勢となっていた。国民健康保険法が成立した議会は、国家総動員法が制定された――陸軍省の説明委員が国家総動員法に反対する議員を「黙れ」と一喝した議会である。

内部留保

戦前の健康保険制度の利用率は、しかし低かった。
政府管掌健康保険は昭和2年の健保制度創設以来黒字を続け、その剰余金を留保した積立金は昭和14年に1年分の保険給費4000万円に達している。
被保険者数が戦前の最高記録である460万人になった昭和19年度には、2億円超の積立金が内部留保された。保険給付費8400万円の、実に2年半分である。それほど保険証は使われていなかった(身分証としては通用したのだろうか?)。
利用率が低かった理由のひとつが、健保組合の横槍である。

『三等院長のメモ』の著者三原七郎氏の体験によれば、今から20数年前(引用者註:1930年代)には疑いもなく虫垂炎(盲腸炎)の患者で入院手術を適当と認め、患者も手術を希望している場合でも、保険でやろうとすれば第一に許可をうけねばならず、手術の可否の判断にやってきた保険審査員が患者を診察した後に、この虫垂炎はまだ穿孔していないから手術せず冷やして経過を観察すべしということになり、入院手術が不許可になった。また、機械に右腕をまきこまれ、上腕の付け根から切断という時でも、緊急入院の許可を電話で要請すると、腕を切断しても足が残っていれば歩けるだろうから入院はできないと返事される有様であった。
(川上武「日本の医者」1967年)

現代アメリカの健康保険制度をテーマにしたマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画「シッコ」の世界は、かつての日本の姿でもあった。「腕を切断しても足が残っていれば歩けるだろう」って、歩けるかよ。

農村経済の疲弊と医療費

昭和11年の記事。昭和5年の農村恐慌後の農村医療について。

医療費は相当の経済的負担となっているが、特に貧しく、しかも現金に乏しい農村において不意に襲って来る医療費の一時的支出に際し、その金をどうして調達するのであろうか。その事情をも社会局の清水保険部長は丹念に調査しているからその大体を伝えよう。
まず借金をするのが通例で、親類縁者の融通を受くる場合も少くない。ある地方ではこの種の借金を恩金と称し、必ず返金すべきものとしている。これをみても如何に医療費の必要が切実であるかが察せられる。親類縁者に出捐能力のない場合には高利貸に走り、または質屋に通うことは勿論であるが、結局不動産の抵当売却が行われ、自己または家族の生命を護るため第2の生命たる田畑を消失するのである。質草となる調度衣類はほとんどないのであるから、収穫より得る金を質とすることが多い。さりながらかかる方法も限度のあることだし、打続く農村の不況は次第に医療費の調達を困難ならしめつつある。
農村では右のように医療費の重圧に苦しむのみならず、都市に比して著しく医療機関の分布に恵まれていない。ここに医療機関の問題が存するのであって昭和9年4月1日現在の社会局調査によると、医師の分布は都市にあっては人口1万人に対し医師10.1人であるが、町村にあっては4.5人に過ぎず、都市の半数にも達していない。都会地偏在の傾向は医師だけでなく歯科医、薬剤師、産婆についてもいえるのである。すなわち東京市の人口1万人当り医師10人、歯科医5人、薬剤師3人なるに青森県ではそれぞれ4人、1人、1人、沖縄県では3人、0.5人、0.1人でその分布は極めて不公平となっている。
さらに驚くべきは昭和11年5月末現在の内務省衛生局の調査によると「医者のない村」が全国3215村、その総人口816万4249人に達していることだ。つまり全国10万2000近い市町村のうち約3割が医者なしで暮しているわけで都会人の想像もつかぬことである。
国民保健国策、昭和11年7月12日付大阪毎日新聞)

農村が貧困化して医療費が払えず、医療機関も貧困化して農村から逃げ出すと説明しつつ、

大体医療費問題と医療機関の問題は相関している。すなわち医師の都市集中傾向に拍車をかけているものは農村における医療費支払の困難な事情で、これは主として農村経済の疲弊と医療費の比較的高価なるに原因している。

医療費が高いから農民が払えない、という展開に。貧困と医療費の高低は別問題なんだが。  

診療料金は薬剤が1日分平均20銭くらいで比較的低価のものも少くないが、往診料は大体高額となっている。社会局調査によると1回の往診料は2円以上を必要とするのが通例で、隣村その他多少遠隔の地から来診を求める場合には10円以上を要することとなっている。


1日の薬価20銭の時代に往診料2円、遠隔地10円は果して高額か。しつこいが、20銭なら農民も出せるが2円は無理ということ(=農村経済の疲弊)と、医療費の妥当性とは別問題である。

農村窮迫のために近時では医師に対する支払が著しく滞り勝ちで、一般に医療料金の未納はある程度まで普通というやむなき事態にまで立ち至っている。たまに金一封式の謝礼があってもその一封たるや医師会規定料金におよばざること甚だしいものがある。従って最近では指定健康保険医として多少低額の料金でも確実に収入しようとする傾向をさえ馴致し、医師の生活問題が社会問題化せんとしているほどである。


記事の趣旨は国民保健国策を遂行しよう、というもの。
しかし、労働環境改善と生産力向上による社会福祉のための税負担率アップ、などの具体性のある意見もナシだから、いきおい医療の充実には医療者をがんばらせれば(=搾取すれば)イイ的な話で終了している。いや、国の意向を伝えればOKという報道姿勢であれば、この書き方でいいのかもしれないし、現実はまさにそうなっていったわけだが。
なおこの記事が掲載された昭和11年は、天皇機関説の美濃部達吉が右翼に襲撃され、2.26事件が勃発した年。新聞ももうダメになっていたのかも。

健康保険医の内務省直営(案)

昭和11年の記事。内務省は健康保険医の直接雇用を検討し、医師会に圧力をかけている。

全国300の工場労働者に対し内務省が施行している健康保険状況に関し昨年来極秘裏に調査したところ、内務省が毎年日本医師会に対し健康保険費として手渡している約1500万円がさらに各府県に分配される際、その分配方法が公正でないせいか、いろいろ非難が起きているし、また不心得な医者があってインチキ請求書を出し実際に診療した以上の金額を府県より請求しているなど面白くない話が各方面で聞かれるので、内務省は医療報酬契約更改期の本月中、適当な機会に従来の無条件契約を断乎打破し、契約に一種の条件を附することとなった。つまり今までは文句なしに1500万円を医師会に手交していたが、今後は分配の公正を期するなどの制限をつけることになるのだが、これは明かに医師会に対して不信任を表明したことになるので、医師会としても容易に賛成せぬだろうから、結局内務省としては健康保険の医師会に対する請負制度を撤廃し、断然内務省の直営とすることになるものと見られる
健康保険医を内務省で直営か、昭和11年3月4日付大阪毎日新聞)

昭和17年、保険医は契約制から強制指定制になった。それまでは希望する医師が保険診療を担当していたが、地方長官が医師を保険医に指定し、医師はこれを拒否できなくなったのである。同時に、診療報酬も契約制から公定制になる。政府と医師会との契約により団体請負方式で支払われていた診療報酬が医師会を経由せず直接厚生大臣から保険医に支払われるようになり、保険医療に関する重要事項の主導権、決定権がすべて医師会から政府に移った。初の「点数単価表」は昭和18年2月に告示され、同年4月から実施。1点単価は医科は20銭、歯科は10銭である。保険医が遵守すべき診療方針「療養担当規程」も同時に告示された。すべてが「お国のため」一色の世相に、医師会も抗しきれなかったのだろう。

医療監督官(案)

昭和4年4月の記事。保険署に「医療監督官」の設置が検討されていたようだ。現在の指導医療官のヒナ形である。

内務省社会局では六大都市所在府県をはじめ全国の主要府県16ヶ所の直轄保険署に医療監督官(内務技師)を設置し医療給付の状況を調査監督することに決定し、近く内相の決裁を経て実施するはずである、しかして右監督官の任務は

1、保険医が医師会に請求する医療報酬の正当であるかどうかを判定すること
2、現行保健組合財政状態を調査すること
3、事業主の医療給付が正当に行われているや否やを調査すること
4、被保険者にあらざるもの、いわゆる替玉や作病などを調査すること
5、入院を要する病症なりや否やおよび入院患者の取扱いの適正なるや否やを調査すること
6、保健施設一般に関する指導および監督をすること

などである
健康保険法の実施を監督、1929年4月10日付大阪朝日新聞

要は、医療費抑制の一貫である。成立しなかったのは医師会が反対したからか。
実際には、健康保険署は昭和4年に廃止されている。その後健康保険に関する事務は各都道府県の警察部に設置された健康保険課が担当することになり、東京の警視庁管下に4、大阪府に3、愛知県に1の健康保険出張所が設置されたのが昭和10年5月(その後漸次各県に設置)。これが現在の年金事務所、かつての社会保険事務所の前身である。社会保険事務所に指導医療官が設置されたのは、昭和56年(現在は厚生局に移管)。

「湯屋」と「歯医者」

富士川游「富士川游著作集2」より、「独逸国に於ける非医医者の事を記す」。初出は明治34年2月発行「医談」第60号。
富士川のいう「非医医者」とは、「医学の素養なく、また医師としての政府の免許なくして、しかも治病の業を執るもの」を指す。ドイツでは非医医者が増加し、首都ベルリンにおいては1879年に医師34人に対し非医医者は1人の割合だったものが、1897年には医師4人に非医医者1人にまで増加したという(1879年:医師数962人・非医医者28人、1897年:医師数2196人・非医医者476人)。

ルブネル氏の説によれば非医医者は男子に多く、女子に少なく、その職業は湯屋、歯医者、機械、靴下業、産婆、製皮、牧畜業等なり、その教育程度ははなはだ低くして伯林のごときは全員の4分の1くらいがようやく中学第2級の知識を有し、女子のおおよそ3分の2は下婢のたぐいにして教育あるものは1%に過ぎずと言えり。


非医医者には「歯医者」も含まれていた。

1893年バイエルン王国の調査によれば、非医医者の身分は左の如くなりしと言う。
薬舗 19%
湯屋、歯医者 31.6%
農夫 19%
僧 1.9%
無職業 16.9%
産婆 2.4%
製皮工 5.4%
その他 21.45%

「湯屋」と「歯医者」が同じカテゴリーである。

ザクセン王国の調査によれば、
1896年、ザクセン王国には745人の非医医者あり、そのうち、
男子 582人
女子 163人

その種類は

自然医 220人
交感療法家 106人
ホメオパート 97人
按摩師 72人
歯科 64人
磁石治療家 46人
虫療家 19人
バウンシャイドチスムス 9人
(「バウンシャイドチスムス」とはバウンシャイド氏の創唱に係る治術にして、皮膚に針して薬液を用うるの法なり)

その職業を区別すれば、理髪師、職工、靴下業、靴工、治療助手、労働者、筆記者、湯屋主人、指物師等なり。


全部足しても「745人の非医医者」にならないのだが、ママ。また、「歯科」というのも歯科医師なのか、歯科技工師なのかは不明である。
ちなみにドイツにはフツーの歯科医師、歯科医師のために働く歯科技工士、患者に歯科治療をも行う歯科技工師がいた。で、ここで「非医医者」と糾弾されている「医学の素養」のない「歯医者」とは、歯科技工師か、もしくは口腔領域以外の治療も手掛ける歯科医師だろうか。
それと「虫療家」というのも激しく気になる。サナダムシ療法みたいなもの?

法的なことについては、ドイツでは1869年に営業の自由に関する法律が制定され、熟練を必要とする職業は政府の認可を得ずに自由に行うことができた。この時代は医業も営業とされ、医師は営業税を納めている。ヤヤコシイが、医業および歯科医業に関する資格がなかったのではなく、資格は存在していたが、営業の自由も認められていたために無資格でも医業を行うことが可能だった、ということである。
医業が営業の範疇から外されたのは、1933年12月に医師法が制定され、1936年4月に同法が施行されてから。
歯科医業の場合は、1939年5月5日から歯科医師法に相当する歯科医師会令が改正された結果として、営業ではなくなっている。しかし、従来から開業していた無資格の医師、歯科医師は、医業が営業でなくなった後も、既得権が認められて営業を続けることができたのがまたヤヤコシイ。以上は正木正「新編 歯科医学概論」(1975年)から。

江戸時代の医療従事者

蒔絵師源三郎人倫訓蒙図彙 7巻」(1690年)に描かれた、江戸時代の医療従事者。人倫訓蒙図彙は江戸元禄期に出版された生活図解百科。

医師
▲医師。

医師の外見はほぼ坊さん。左は脈を取り、右は薬を包んでいる。

小児按摩針師
▲小児(医師)、按摩、針師。

針師の外見は坊さんだが、按摩と小児(医師)は総髪。

外科歯医師
▲外科(医)、歯医師。

外科医は坊さんの格好だが、歯医師は総髪で髷を結っていない。

金瘡
金瘡(医)。

金瘡医(きんそうい)とは刀傷などの創傷治療を専門とする医師。左は頭巾をかぶった坊さんのようだが、右は五分刈りっぽい。服装も柄物の柔道着のようで異質。

なお、江戸時代の「歯医師」または「歯医者」とは、口中療治を兼業した入歯師のことを指す。というわけで、日本の歯科医師のルーツは入歯師だろう。明治、大正の歯科医師は、世間が歯科医師を入歯師視するといって嘆いているが、元が同じなのだから素人に区別がつくわけがないのである。

高収入世帯ほど歯科治療費が高い

鈴木晃仁「治療の社会史的考察」より、「滝野川区健康調査 傷病調査票」を元に作成された「家賃別(二分法)・疾病分類別の医師による治療と医師によらない治療の割合」。
滝野川健康調査は、東京・滝野川区(現在の北区の一部)の354世帯2215人を対象にした横断的コホート調査である。調査期間は昭和13年5月1日から翌年4月30日。

家賃別・疾病分類別
▲月額家賃:A=2.8-12.5円(87世帯)、B=13-20円(101世帯)、C=21-35円(91世帯)、D=40-300円(91世帯)
(出典:鈴木晃仁「治療の社会史的考察」、川越修編「分別される生命 二十世紀社会の医療戦略」2008年)

一般に高収入世帯(C+D)のほうが、低収入世帯(A+B)よりも「医師を含む治療」の利用率が高いが、そうじゃない疾病もあったことを示した表である。これを見ると、歯科治療における「医師を含む治療」利用率は高収入世帯86.5%、低収入世帯66.7%。高収入世帯の医師利用率では最高である。今も高収入世帯ほど歯科治療費が高い傾向があるが、この時代からそうだった。高収入世帯での歯科利用件数は第2位である。

気になるのは「医師を含まない治療」の内容で、売薬、調剤、民間療法、療術行為、信仰療法に分類されている。
歯科における「医師を含まない治療」に担い手といえば、歯科技工師(入歯師)だろうが、どの分類に入れられたのか。
鍼灸や接骨、指圧などは療術行為に分類されているが。
治療別タイプ費用

でまあ、出典元の調査票を入手できていないのでアレなのだが。

そもそも、調査者は義歯をつくって入れることを治療と捉えていたかどうか、である。
筆頭報告者は精神科医である(小峯茂之)。補綴で治る病気はないのだから補綴は治療ではない、と考える医者はいた(今もいる)。また、義歯をつくって入れることを治療と考えない庶民もいただろう。装飾品として前歯に金冠を入れたりしていた時代である。メガネも義歯も「つくる」というが、メガネが指輪や金ボタンとともに装飾品店で販売されていた時代である。
調査者or調査対象が、義歯を入れることを治療と考えていなかった場合、歯科技工師の存在はこの調査には現れない。また、調査対象が歯科医師と歯科技工師を区別したか、区別し得たかも、疑問である。

明治の一俵会

三原七郎「医療の内幕 ―続・三等院長のメモ―」(1965年)より、「一俵会」。

明治は遠くなりにけりなどという言葉につられて懐古情緒が浮かぶたんびに私は、少年のころ身近にみた一俵会というものを想い出す。患家は毎年米一俵だけを医者の家に納め、それで家族全部の医療を引受けてもらうのである。いわば家族ぐるみの医療請負い制度である。
(略)
一俵会には何等の強制的な意味合いがあるわけではなく、来たる者を拒まず去る者を追わずといった悠揚たるものであったらしい。おそらくその人(註:一俵会の主宰医師)は、患家の玄関先で、往診料は何ぼでっしゃろかと蟇口に手をかけられることもなければ、医療費の請求書を自らの手で書いたり、算盤珠をはじいてみるなどの経験は知らずにすんだろう。したがって診察のあと、頭を冷やして、隣の甲筋向かいの乙にす早く立ち返る努力もしなくてすんだことであろう。そういう環境と仕事と、そしてそれからくる習いが性となって、村の長然たる風格が出てきたものと思われる。

村民の自律的な医療相互扶助制度としては福岡県宗像郡の「定礼」が知られるが、他にもいろいろあったようだ。明治は、それほど暮らしにくい時代ではなかったのかも。

“赤ひげ”に近代医学の知と技と物を持たせたい

三原七郎「医療の内幕 ―続・三等院長のメモ―」(1965年)より、「開業医」。昭和30年代、国民皆保険発足前の開業医論である。

その頃は(註:大正〜昭和初期)、医者がいちばん医者らしく生きてゆくためには開業するのが最善であるという考え方があった。当時の医業経済というものは、こんにちに比べれば遙かに楽であった。3年流行れば倉が建つ……とか、10年働けば一生の食扶持は準備できるなどという俗諺も、必ずしもひどい的はずれではなかった。だから、開業する医者たちの中に、“医は喰らえば足る”といったストイックな信念の人がある一方、家計が楽になるからとか、金がたまるだろうからというようなことを楽しみの一つにする者があったろうことは、医者も生ま身の人間であるかぎり、否定するわけにはゆかなかった。しかし、ものごとの本筋としうては、やはり、医者が医者らしく生きられる――ということは、医者の良心の自由が確保できるということであるが――ことを第一義に考えたとみるべきであろう。逆に、医者らしくまともな仕事さえしていれば、家計の心配はいらない、ばあいによると倉も建つという安心感があったからこそ、仕事第一に考えられたのであるともいえる。
(略)
医療の社会化または民主化の名のもとにおける国家権力の介入と支配、医療の原材料費の増嵩、そのためにという理由で促進される官公立病院の整備強化等の事情から、医者が医者らしい仕事をするためには開業が最善であると豪語できる時代はすでに過ぎ去ったかのようにみえる。そして、開業医が、国民医療の中核的な立場から僅かずつながら後退を余儀なくされつつあることも否定できない事実であろう。
それならば、これからの開業医は、ただ後退没落の一路をたどるばかりの運命にあるのだろうか。これに対する答えは、今後わが国の国民が、どういう医療の姿を望むかということと、それが為政の場でどういうふうに扱われるであろうかとの見通しから引き出すのほかはない。医療というものを、単に薬を飲ませたり、手術したりすれば足りるとする唯物的なものとするならともかく、毎度くり返すように、複雑な“人間”の問題として捉えるならば、開業医的感覚と情緒とが最適の条件にあるといえる。したがって需要は絶対であるといえる。需要が絶対でさえあればそれがそのまま活かされるかとなると、為政の場はきびしい、それが人の世というものであろうか。


戦後〜皆保険発足までの開業医の生活は苦しかった。戦後の混乱期で何もかも不足し、インフレ物価のなか診療報酬も据え置かれていた。しかし、著者がこう書いた昭和30年代は必要経費が72%まで認められ、薬価差もまだ大きかった時代でもある。

“赤ひげ”に近代医学の知と技と物を持たせたいのが人々の願いではなかろうか。しかし私共には悪代官から50両、女郎屋の親方から30両の往診料を取り立てる自由はない。そして貧しい人たちから治療費を受け取らない自由もない。国家権力によって、“正当”と認印を捺された料金のために、飢え死にする懸念はないかもしれない。そして国民は、医者たちが“正当”に報いられているが故に“権利”あるものとしてその体を“見せ”にくるのである。そういう条件の中で、仁心の自由無限の発露が要請されるのである。歪まなければ不思議というものである。


「国民医療の主体」は、医科では病院と勤務医になったといっていいだろうが、歯科は依然として開業医である。だが、歯科診療所経営がドン詰まりになったという報道はあっても、総合病院に歯科や勤務歯科医が増えたという話は聞かない。開業医から病院に移行する、その過渡期にすら歯科はないのである。国民歯科医療は今後、一体どうなるのだろうかと思う。

エラい先生

三原七郎「医療の内幕 ―続・三等院長のメモ―」(1965年)より、「低医療費政策」。

健康保険法制定の発想が、貧困な労働者階級の医療救済ということであっただけに、制度運営の実態には、そういうニュアンスが当初から相当露骨に現れていた。国家の政策がすべてそうであるように、まず予算が先行した。(略)
山手のきれいな病院や診療所では、誰の目にもはっきりとわかる差別的取り扱いがあったり、そういうところの医者たち自身が、健康保険患者をたくさん取り扱う医者を、軽侮の眼で見やることさえもあった。そういうエラい先生のいる山手のきれいな病院には行けず、さりとて自費では医療が受けられないという被保険者たちは、多く下町や工場街の、あまりきれいでない病院や診療所に集まった。そこらに働らく医者たちは、たとえば良寛先生のように、ヒポクラテスの誓いを文字通りに実践することの使命感に生きるか、あるいはまた、十銭ストア的商魂に諦観を求めるかのいずれかであった。そうしてその、どちらのタイプの医者たちも、医師会の会合で活発に発言するような適性はもっていないというのが一般的な実情でもあった。
さらに当時は――今でもいくらか似たようなことがあるかもしれないが――医師会の主導的立場にある人たちは、概して裕福な階級であり、健康保険患者など、一種の施療患者ぐらいの感覚で処理していた。それだけに、この低医療費政策がその後に長く尾を引いて、わが国の医療を根底から歪めてしまうことになろうとは思い及ばなかったようである。

歯科医師会も同じなのだろう。

俺を金の多少によって治療の内容を変えるような医者だと思うのかッ

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「審査余滴」。昭和10年代の保険医療について。
著者は明治40年宮崎県生まれ。昭和7年九州大学医学部卒業、昭和12年神戸市兵庫病院外科医長、5年間奉職後に同市で独立開業したが空襲で丸焼けとなって3年で廃業。昭和22年大分県南海病院長就任、昭和30年社会保険宮崎江南病院長。

私が温室のような大学の教室を巣立ち、恩師の推挙ではじめて就職した病院は、その頃保険患者を扱うことでは全国でも有数のところだったが、実地にその診療に当ってみると制度の実態の惨めさは驚きに値するものだった。
山手の、いわゆる上流地帯に開業している知り合いの医者を訪ねると、「君ンとこの病院は保険患者ばかりだろう」と軽侮とも同情ともつかぬ複雑な微笑を示した。その後もあちこちの医者に会うたびに似たような経験をもった。経営経済という立場からみれば、十銭ストアよろしく零細な診療費を積み重ねてゆくものであり、僅かの給料で馬車馬のように働いている私の姿がひどく惨めに見えたのであろうか。


著者の担当する外科外来の患者は200名以上、そのうち保険患者は7割。

その頃なお何といっても社会の下積み的存在であったところの労働者たち――山手のきれいな病院などには気がひけて保険証はさし出せず、さればとて自費で診療を受ける余裕はない――をまともに診療してやるところに、一種の誇りにも似た熱情を覚ゆるようになった。熱意が湧けば湧くほど制度の不備に腹が立つ。役所とも渡り合うことがあるし、保険診療に不安をおぼえる患者があれば「俺を金の多少によって治療の内容を変えるような医者だと思うのかッ」と怒鳴りつけてみたり、保険では算盤の合わない薬を処方したところ「こんなバカな処方を出したのはどの医者だ」と事務長がおこっていると聞いて、そのバカな処方を出したのはこの私だッと事務長室にねじこんだりもした。


著者は宮崎江南病院の経営が軌道に乗った昭和47年6月ごろ、現職のまま64歳で亡くなっている。今でいう過労死ではないかと思う。
日本の保険医療サービスは世界一の質と量を誇る、このような医療従事者があったればこそだろう。

嘱託医

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「頭を下げたがらない」。昭和20年代の、プチ甘利のお話。

前任地の病院での話である。あるとき駅の助役がやってきて鉄道の嘱託医になってくれないかという。私どもの病院は政府の厚生保険特別会計から施設されたものであるけれども、元来が勤労者のための病院であるから喜んで引き受けましょうと答えておいた。それから半年たっても一年過ぎても何の音沙汰もない。その間にも始終鉄道職員がやってくる。元来鉄道職員は、鉄道直営の病院や嘱託医療機関にゆけば共済制度によって手軽に診療が受けられるが、それ以外の病院などでは診療費を一応自費で支払い、それを後で共済組合から補償してもらわねばならないので、職員としてはそれだけ面倒である。


この話の舞台は大分。鉄道病院もあったはず。

あるとき一人の鉄道職員が、
「この病院もわれわれの嘱託になってもらえないものですかね……」
と訴えた。そこで、以前にその話があったとき快く承諾しておいたことを話すと、
「……幹部の話だと、この病院の職員全部にパスを出せと要求したので、話がまとまらなかったんだとのことですが……」
「とんでもないことをいいなさんな。労働者のための医療機関の本質から、気持ちよく引受けようといったまでのことで、代償にパスを出せなんてそんなみみっちい話など持出す筈はないですがね」


あるある。私も「話がまとまらなかった」という話を鵜呑みにして失敗したのを思い出した。

間もなく、先方から申入れがあって私どもの病院も正式に鉄道嘱託ということになったが、あるとき鉄道労組の幹部が次のようなことを私にささやいた。
「われわれは職員皆んなが希望するお宅の病院をさしおいて、XやYが嘱託になったので、これは怪しいとニラんで徹底的に探ってみたんですよ。そして厚生係の連中とXの職員が何処でビールを何本飲んだかということまで調べあげて、労働組合の総意としてお宅の病院を嘱託にすることを幹部に迫り、もしこれが容れられなければXYをボイコットするときめつけてやったんです……」


ビール程度で釣り上げられる官僚なんてかわいいもんじゃない? と、思ってしまう今日この頃である。

医師会の憎まれ者

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「医師会の憎まれ者」。著者は昭和22年に大分県南海病の院長に就任している。大分県南海病院は、現・南海医療センター

このS市(註:大分県佐伯市)に新設される予定の健康保険病院というのは、土地建物、医療用機器など、病院の主な施設は国庫の厚生保険特別会計によって整備され、経営だけを民間の公益団体に委託するという、いわば国有民営の形をとるもので、問題は病院建設資金の出し元である厚生省(保険局)と、経営の受託予定者である周辺21ヶ町村対地元医師会との対立抗争の形になった。その間に保険課長は幾たびか医師会幹部と折衝を試みたが、開設反対の意向は微動だにしないようであった。


著者は厚生省保険局保険課長に「執拗頑強に」迫られて、院長就任に応じた。同保険課長は要請にあたり「21ヶ町村の町村長会を動員」したというのだから、地元は官民そろって新しい病院が欲しかったわけである。病院の周囲は「三方を高い山で、残りの一方を海で囲まれ、一種の陸の孤島的存在であり、開業医に優俊の人もヒトがあっても、ただ一つの総合病院すらなく、人口10数万の住民たちは少しばかりの難症となれば、1日2日を費やして遠いほかの都市まで出かけねばならず、健康保険の被保険者は、保険証をもって医師の門を叩くことは殆どない」という環境であったから、地元の熱意はもっともであった。しかし、医師会は反対する。そして厚生局は医師会との関係悪化を懸念して、同保険課長を更迭してしまうのである。

県当局の中でも衛生課長は、医師会の機嫌を損ずることが、その他の行政面に支障を来たす懸念もあってか微妙な立場にあり、同じく民生部に属する保険課長とは必ずしも同調的でない点なども加わって、抗争が表面化してからでも既に半年以上たっているのに、事態は一向に明るい面を見せなかった。
その行詰りを打開するためでもあったのか、厚生省は突如として保険課長を更迭した。これには私も唖然となった。


医師会は院長、つまり著者の更迭も要求した。その理由がすごい。

(1)院長受諾に際し地元医師会に挨拶しなかった
(2)医師会の反対する病院に赴任して来る院長の気持が了解できない、かかる院長とは協調できない、故にこれを排斥する

医師会も大人気なさすぎだろう。この件は当時ガンガン報道され、九州の開業医界を揺るがしたというから、地元医師会も引くに引けなかったという事情はわかるけれども。

抗争が表面化してから小1年、私が顔を出してから9ヶ月ぐらいして、ある日突如として認可が下りた。医師会との話合いはつかぬままである。
占領軍が介入して強圧したのだという噂もあったが、真偽のほどは知らない。
(略)
ともかく開院はしたものの以上のいきさつからして医師会(といっても実際は数名の人たちが当事者であるに過ぎなかったが)との関係が早急に円満にゆく筈がない。開院の挨拶に行って、初めて地元医師会長に会ったわけだがモノ一ついってくれず、その後、道で会って挨拶してもソッポ向かれるという有様で、気分的にはうっとうしいことであった。ただ長い間騒がれたために、宣伝の効果は大きかったとみえて、病院自体は開院早々から押すな押すなの盛況で、地元の有力者たちの大部分が、そしてだんだんには開業医の中にも一部の人が私に会う毎に、よいものを作ってくれたといってくれるようになったのはうれしかった。

保険病院

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「保険病院」。昭和30年代の保険医療のエピソードである。著者は社会保険宮崎江南病院院長。同病院は現在、全国に57ある独立行政法人地域医療機能推進機構の病院のひとつ。

終戦頃までは政府管掌の保険経済はいつも黒字で、毎年の剰余金の積立は相当な額となり、これを徒らに積んでおくだけでは能のない話であるから、何か被保険者の福利に積極的に利用しようということから発案されたのが、われわれの健康保険病院(社会保険病院と通称されることもあるが、これは同名を冠した民間の病院があって混同されがちである)である。
ところでこうして発足した保険病院はその目的として、

イ 保険診療を模範的に行うこと
ロ 保険医への協力期間であること
ハ 所在地域被保険者の健康管理上の拠点となること
ニ 保険診療に関する科学的資料を政府に提供すること

などを掲げたのであるが、その経営について、前期の医療の本質の特性からして、純粋の国営にするよりか、病院自体になるべき多くの自由を与えたほうがよいうという観点から、国有民営という形とすることになった。つまり施設は国費(厚生保険特別会計)で整備し、経営を民間の公益団体に委託することになったわけである。
当時の保険課長友納(註:友納武人・厚生省保険課長)氏は、満鉄があれほど伸びたのはあれが民営であったからで、もし国営の事業としていたならばあのような発展は望めなかったであろうということにヒントを得たと語り、国有民営の形にしたのは、国有の長所と民営の長所を併せ持つというのが狙いであり、

国有の長所は……施設力の強大
民営の長所は……院長の意志が端的に表現できる

ことであろうと説明した。そして宮崎局長(註:宮崎太一・厚生省保険局長)は院長たちに対して

医療が適正に行われること
病院従業員の労働条件が適正であること

の2条件を満たすことが当面の目標であり、この条件さえ満たされれば、他の一切のことは全部院長の良識と明断に委ねる、そしてこの2条件が満たされてしかも赤字となるならば、それは医療費の単価が悪いんだという判断をしたい……とまで強調した。
(三原七郎「三等院長のメモ」1959年)

城山三郎「官僚たちの夏」に描かれた高度経済成長期の通産官僚、佐橋滋を思い出した。佐橋は親分肌で部下思い、前例のない大胆な政策を粘り強く実現していく実力派で、しかも退官後は天下りを拒否する潔さがあった。戦後色も濃く、国全体が貧しかった時代には熱血官僚も珍しくなかったのかも。そんな当時の厚生省を武見太郎はアカ呼ばわりしていたが。

実際に事に当ってみると、聞くと見るとには大きな開きがあった。健康保険病院は、最初は殆んど全部民間の二流三流の、潰れかかったり腐れかかったりしている病院を買収したもので、“施設力の強大”を誇る国有にしては惨めなものであった。それでも以前から仕事を引続きやっていたところはまだしも、私どものように土地建物だけを買収して、中味は新たに整備しなければならないような病院を受持たされたところが特にひどかった。終戦後間もない物資の窮乏時代でもあり、予算は当然闇買いを許さないし、公定値で買えるものだけに廻しても不足は甚だしかった。こんにち盲腸炎手術で中髄を切断するには、たいていの病院で電気メスぐらい使っているが、当時私どもの病院では電気メスはおろか、ベンジンを白熱させて使う烙白金すら買えず、手術ともなれば七輪に炭火を起し、火鉢の先端に竹の柄をすげたものを2、3本くべて代用するといった有様で、看護婦が白い看護服を着けられるまでには2、3年かかり、それまではモンペに藁草履といういでたちであった。


この“宮崎友納構想”は保険医療を発展させ、保険医療が日本の医療をリードするようになっていくのである。

病院そのものは三流四流のオンボロでも、それまで保険証を出すのに気後れを感じていた被保険者たちが“われらの病院”として胸を張ってやって来られるし、そのことが周辺の医療機関を刺激して被保険者へのサービスを向上させたことも否めない。
(略)
両氏がこれを当初に見越し且つ織り込んでの発想であったかどうかは知る由もないが、もしそうであったならば行政家として驚くべき達識の士であったというべく、またもしそうでなかったとするならば、医療というものの本態をほんとうに摑み得た人であったといえよう。

悪夢の原子炉

国策であります。エネルギー基本計画において、この核燃料サイクル事業をしっかりやれと言われておる中で勧告を頂きました。児玉理事長(児玉敏雄)か青砥理事(青砥紀身、もんじゅ所長)、原子力規制委員会に対して何か言いたいことはありますか。1回も口を割らないので。別に何か恨みつらみを言えとか、そういう意味ではなくて。
(馳浩文部科学相の発言、4月27日、「もんじゅ」の在り方に関する検討会 第7回

原子力規制委員会は昨2015年11月13日に高速増殖炉原型炉「もんじゅ」について、日本日本原子力研究開発機構(JAEA)に代わる運営主体を特定するか、できない場合は「もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を抜本的に見直す」よう文部科学省に勧告を行った。1995年12月のナトリウム漏れ事故、2010年8月の燃料交換用機器落下事故、さらには多数の機器で重要度分類に誤りがあることが2015年8月に発覚。事故のたびに規制委は文科省に安全を図るよう要請してきたものの改善が見られず、JAEAにはもんじゅを安全に運転する資質ナシ、とついに最後通牒を突きつけたわけである。
勧告への回答期限は「おおむね半年」。で、そのおおむね半年が過ぎた2016年5月20日第8回のもんじゅ検討委員会報告書案が提示されたが、勧告された新たな運営主体の特定は同案にはなかった。まさかのスルーである。三条委員会の勧告を無視とか、やっていいものなの?

冒頭は、4月27日の会合(第7回)での馳文科相の発言である。それに対するJAEAの回答がまた驚きである。

【馳文科相】
原子力規制委員会がこのような文書を出してこられた。それを踏まえて検討委員会の皆さんにお願いして、本日を含めて7回、こういう議論をさせていただきました。最終的に私も大臣という立場である以上は、政府一体の中でエネルギー基本計画を進めていく重要な位置づけのある核燃料サイクル事業、これはやはり前人未到の域を行く部分もあるわけですから、これに対して原子力規制委員会という三条委員会として設置された委員会からこういう勧告が出たということに対して何か言いたいことはありますか。

【児玉理事長】
「もんじゅ」に関しては、何か原子力規制委員会にお願いするとか言いたいことがあるという以前に、自分たちがやるべきことをきっちりやるということが今は大事だと思います。まず自分たちのガードを固めてといいますか、やるべきことをやってからお願いするという段階だと私は認識しております。

【馳文部科学大臣】
青砥理事は。

【青砥理事】
いろいろなところでお話ししていますように、やはりここでも指摘されています、どうにかしてコミュニケーションをきちんと図るべきだろうと思います。決して、勧告が誤解の下に出たというつもりはありませんが、けれどもそれ以前、その以降も、自分たち、研究開発を行っている人間からすると、規制一つとっても、多分いろいろなところで新たなもの、新しく考えなければいけないものがあるときに、どのようにしてそれを共有できるか、それは何かやり過ぎても駄目だろうし、幾つかのやり方を考えなければいけないと思いますが、かなり緊張関係をもって、どうにかして、何らかのコミュニケーションの基盤を作りたい、あるいは作っていただきたい、そのように思います。
(第7回)

ここにきて、規制委とのコミュニケーショ不足が問題だというJAEAの認識には驚くしかない。やるべきことをやってから、というセリフが吐ける時期もとうに過ぎている。そして、こんなJAEAの態度を目の当たりにしてもなお、運営主体の特定に取り掛からない検討会にも怒りを覚える。この税金泥棒め。
検討会には、検討しましたよ〜というパフォーマンス、再稼動が既成事実化するまでの時間つぶしの意味しかない。そして文科省に指導力はなく、現状を認識する力すらないのだろう。問題は安全リスクだけではないのである。建設費1兆円、しかし臨界開始以降の20年間で発電できたのは1kw毎時のみ、しかも年間維持費200億円以上。さらに、同検討会がまさに象徴するようなダニがたかり、血税をバンバン吸い上げているのである。悪夢の原子炉、というほかない。

治療費の一部負担制導入

昭和2年の記事。
健康保険財政は、制度開始早々に行き詰まり、

健康保健に依る1ヶ年の保険給付額は4千万円(事業主と被保険者各折半負担)と見積り、この約10分の1の400万円を国庫が負担することとしているが、近年財界の不況で保険料収入著しく減少しために給付支出と相償わない状態に立至ったので、社会局はこの不足額を何れに求むべきかにつき講究したる結果、財界不況の折柄保険料率の値上げは到底不可能なので国庫負担額を増額する一面、療養給付の一部を被保険者をして負担せしむるの外なかろうということに大体方針を決したが、これについては、労働保険調査会において反対意見多く目下行き悩みの状態にある
健康保険が収支相償わぬ、1927年9月20日付中外商業新報

治療費の一部負担制導入が検討された。が、実際に導入されたのは昭和18年。16年も要したのはなぜ。労働者がそんなに強かったのか。ちなみに現在の医師会は患者減を恐れて負担額UPには強く反対しているが、この頃は医師会も一部負担導入を要求していたのだが。

無資格医師

かつてドイツには歯科医師の補助者としての歯科技工士と、患者に直接補綴物を制作・装着する歯科技工士の、2種類があった。医療行為においても憲法で保障されるところの“営業の自由”が適用されたからである。無資格医師まで存在していた。

1860年代末以降のドイツでは、自由主義的風潮の中で、医療においても営業の自由が保障されたため、医業資格をもたない者が医療行為をすることは、法律違反とはならず、ホメオパティーの無資格医師にも十分な活動の余地が与えられたのである。この状態は、ナチス政権下で、治療師の資格が認定されるまで続いた。
(服部伸「ドイツ『素人医師』団」1997年)

独逸で医療が営業ではなくなったのは、1936年4月の医師法施行以降である。歯科医業の場合は、1939年5月5日の歯科医師会令(歯科医師法に相当する)改正以降に営業からはずされている。
なお、わが日本国憲法でも営業の自由は保障されているが、「空証文」という指摘が歯科技工士の片岡太一からなされている。片岡の支持者は「歯科医の指示書に依り、歯科医の採得した型により義歯を作ればよいのであるならば、そんな仕事に免許は無意味である」とも言っていたが、その通りだと思う。

定礼

「定礼(じょうれい、常礼とも)」とは村民が費用(多くは米)を出し合って医師を雇い、地域の医療を確保した医療互助制度である。筑前国では江戸時代に始まり、第二次世界大戦ぐらいまで続けられていた。井上隆三郎「健保の源流 筑前宗像の定礼」(1979年)には福岡県宗像郡の各地で行われていた定礼について書かれている。著者は福岡県宗像郡で「東郷外科」を開業する医師。

常礼のない近くの村では死者があい次ぎ、石炭で焼く火葬場が間に合わず、火葬場では死体をつめた棺桶が順番を待っていたという。しかし、手光や津丸では死人はほとんど出なかった。いうまでもなく、常礼と診療所のおかげであった。それから、ここには、どこの村にも置いてある富山の売薬がなかった。人々が無料のため気軽に診療所を訪れたからである。
しかし、医師から見たら、常礼は診療の請負である。治療が長びけば長びくほど、薬代、往診など医師自身の負担になる。早く治ってもらわないと困る。そのためには、病気が軽いうちに早く受診してもらわねば困る。即ち医師は、
――早期発見、早期治療
を心がけた。しかし、村人は無料だからといって医師を酷使したり、無差別的な往診は頼まなかった。両区の人は、深夜でも、子供ならよくおんぶして連れてきた。自分たちの先生を疲れさせることは、とりも直さず自分たちにとって不利なことを知り抜いていたからである。
それでも、どうしても往診を頼まねばならぬことがある。こんなとき村人は、自分たちのためにきてくれた医師の労をねぎらうために、瓜で特別上等の漬物を作り、これに砂糖とお茶を添えてもてなした。


傍線は引用者。当初の健康保険制度が保険医の請負制度であったのは、傍線部のようなねらいがあったからなのだが。すなわち、早期発見・早期治療による医療費軽減策であったが、なぜうまくいかなかったのだろう。
以上は神興村の手光(てびか、今の福津市手光)と津丸(今の福津市津丸)の例。両区は明治32年、共同で小さな診療所「神興共立医院」をつくり、住民190戸のうち約170戸が計250俵以上の米(1戸平均1.5俵)を出して医者を雇っている。常々診てもらっている礼を欠かしてはならぬ、という意味で「常礼(ジョウレイ)」と呼ばれたという。

定礼医を顕彰し、碑が建てられたケースもある。宗像郡畦町宿(今の福津市畦町)、昭和15〜16年ごろ戦争で廃止されるまで定礼医を務めた高村直嗣医師のである。

「畦町では『病院に行く』とか、『医者に診せる』という言葉はなかったのですよ』
そして(註:古老は)言った。
「ここでは『高松に行く』という言葉しかなかったのです」


高村家は2代にわたる当地の定礼医で、直嗣の父親・登四郎は明治10年ごろに当地に夫婦で流れ着いたよそ者だった。もちろん無免許である。登四郎が後に移り住み定礼医も引受けた本木村では、この無免許であることと老齢を理由に定礼医を解雇されている。明治45年のことであるが、この時すでに、イナカであっても無免許医を許容しない世相となっていた。登四郎の子・直嗣は明治17年生まれ、明治40年長崎医専卒業。直嗣の学費は畦町の人々が工面している。直嗣は昭和12〜22年まで、福間駅前で開業していた弟が死んだためにその後を引き継ぐが、その後は畦町に安住し診療を続けた。昭和33年脳卒中で没、享年74歳。

定礼は家庭医制度としては理想的な面もある。しかし患者的には医師選択の余地はないし、難症だと都会に出なければならず、別途の出費が必要になった。医師的には食いはぐれはないものの、もうかりもしなかった。定礼医の年収は、大体三斗四升俵の100〜200俵強。現在の米価で200〜400万円程度、ここから薬品などの必要経費を引くのだから残りは高が知れている。しかも米相場は絶えず変動するうえ、薬品その他の物価の値上がりに追いつきはしなかった。諸物価の上昇や医療技術(機器、薬剤)の向上などは、村民から考慮されたのだろうか。
トラブルもあった。定礼医が数人いたところではダンピングがあったり、世話人が定礼医を嫌って定礼米を出さなかったり。医師1人を大切に扱う、全村民が家族のような小さな村――でないと、うまくいかないのかもしれない。
なお、歯科疾患をどうしたかについては触れられていない。まあ、まずはジョウレイ医が医科歯科の区別なく診たのだろう。そして多くの村民はギリギリまで歯痛をガマンし、結局はその多くが入歯師の戸を叩いて、抜歯→義歯セットというコースになったのではないかと思う。明治末ぐらいから地方の人々も無免許医より専門医、開業医よりも病院を好むようになっていくのだが、入歯師は戦後も長く生き残っている。それは入歯師の専門性が認められたためなのか、義歯は医療ではないと思われていたのか、歯科医師の義歯があまりに高価だったのか。まあ、その全部だったような気がするけれども。

自然療法士、Heilpraktiker

ドイツにはハイルプラクティカー(Heilpraktiker)という、ユニークな医療系国家資格がある。ハイルプラクティカーが業として行えるのは水治療法、食餌療法、日光浴・大気療法、薬草療法、鍼灸にヨガ、気孔にアロマテラピーなどなど、古今東西の自然療法すべて。開業OK、保険医療にも従事でき、採血や尿検査、心電図検査など医療機器を使っての診察・診断も可能だそうだ。医師に次ぐスーパー免許といっていい。

19世紀前半から20世紀初頭にかけて、自然療法の発展に重要な役割を果たした著明な人々は、国家によって認知された医療資格はもっていなかった。それでも、彼らはそれぞれ独自の治療施設をもち、遠方からも患者を集めて、事実上、治療行為によって生計を立てており、職業的な治療師となっていたのである。
帝政期の自然療法を支えていたのは、こうした、専門の医学教育を受けていない職業的治療師であった。
(望田幸男編「近代ドイツ=資格社会の展開」2003年)

ハイルプラクティカーの前身である自然療法士は、日本でいえば医師法制定以前の漢方医と同じような成り立ちであった。一方、正規の医師であって自然療法を行うものもいた。彼らは、西洋医学が万能でないことに気づいた医師であった。
自然療法士が国家資格となったのは、医療にも国家統制を強制したナチス政権時代。

帝政期の自然療法士協会は、自分たちの地位を守るために、国家による認知を勝ち取るのではなく、「治療の自由」の枠内で、あくまで私的な資格にとどまることを選んだ。正統医学の医師たちが「治療の自由」を撤廃して、自然療法士を含めた治療師を取り締まることを求めたときも、「治療の自由」を維持しようとしたのである。
ところが、ナチス期の管理強化によって、他の治療法とともに自然療法士もハイルプラクティカーとして統合されることになった。ハイルプラクティカー法によって、この職業には法的な根拠が与えられたが、この職業資格を得るために受ける試験は、医師によって実施されることになった。こうして、彼らは、自分たちの職業資格を得るのに必要な資格試験を、自ら実施する権利を喪失し、現在に至っている。


ハイルプラクティカー法の成立とその影響は、日本の歯科技工法のそれと似たところがある。

自然療法士からハイルプラクティカーへの道は、自然療法という、国家からは非正統と烙印を捺された治療法の担い手が、自分たちのサブカルチャーを維持しつつ、国家の中にしかるべき位置を見出してゆく過程であったといえる。自然療法士資格試験では、国家の認可を受けなかった代わりに、彼らの信ずる治療法の内容を反映させることができた。一方、国家公認のハイルプラクティカー資格試験では治療内容は問われず、非正統医療を公式には認めない国家による、治療内容への干渉は巧みに避けられているのである。


日本歯科技工師会(花桐会)が自ら資格試験を実施していたのは、エラかった。

昭和21〜28年の医師国家試験

坂井健雄編「日本医学教育史」(2012年)より。
戦前には有名無実化していた医師国家試験が戦後GHQにより復活するのだが、
医師国家試験受験者の推移


合格率が低い。混乱期で勉強どころじゃなかったのか。
なお、戦時の医師量産により、昭和24〜27年の国試は多くの医専卒が受験している。7208人が受験した昭和25年春は、昭和19年の医専入学者が5年間の医学教育後に昭和24年4月に卒業、1年間のインターンを経て、国試に挑んだ年である。昭和35年発足の国民皆保険には、この量生した医師の雇用確保という意味もあったのかも。
ちなみに、第1回の受験者は歯科医師で、慈恵医および慶應大の特設部卒業生である。受験者は258人、中年以降の人も多かったために合格率は低かった――とはよくいわれることだが、それでも51.5%である。昭和28年秋の試験など同率43.0%なのだから、たった1年の勉強で半数以上が合格したのは上出来だと思う。

さて、時代は飛んで今2016年第109回歯科医師国家試験における某私立歯科大学の合格率は新卒で78%だったが、「現実的」には40%だという話を聞いた。2015年5月時点での6年生在籍数は140人で、試験合格数は57人だからである。現実をより正しく認識するには、分母に受験者数ではなく在籍者数、特に当該受験学生の入学時点の在籍者数をもってくるべきではないかと思うのだが。

参考:医師国家試験の推移
昭和21年:第1回、年2回実施、筆記3日間、論述式
昭和28年:筆記1日、口頭試問導入
昭和47年:論述式から客観式へ
昭和50年:筆記1.5日、口頭試問廃止、出題数190題→260題
昭和60年:秋試験廃止、試験日数2日間に、出題数260→320題
平成13年:試験日数3日間に、出題数329→500題

▼歯科医師国家試験の推移
歯科医師国家試験の現況0005

医師会はずし

昭和2年の記事。健康保険制度発足後の危機的状況を伝えている。政府は医師会を通さずに直接健康保険医を雇用する、医師会はずしを画策していた。

健康保険は被保険者の医療給附が予想外の多数に上り、現状のまま推移すれば非常な危機に遭遇するので、内務省社会局健康保険部では連日会議を開き、左のごとく方針を決定し近く内務省議に附し、健康保険の根本的改革を断行することに決定し、万一実行不可能に陥った場合にはやむなく健康保険の趣旨を没却しても同保険の範囲を縮小することに内定している。しかし目下のところ医師の報酬激減の結果、場合によっては日本医師会が政府に対し被保険者1人1ヶ年7円42銭の診療代では同会が契約不能に陥るかもはかり難い実状にあるので、当局でもあらかじめ緊急対策凝議の結果、万一の場合には本年度内においても労資の負担する健康保険料を100分の3まで増徴し、健康保険特別会計法によって一時借入金の方法により国庫負担も増し、医師への報酬をも増して、一時的糊塗策によって弥縫することに決定している。

1、現行被保険者1人につき国庫の補給2円を6円または4円に増額すること
2、資本家ならびに労働者から徴集する健康保険料金日給の100分の2を法定最高限度の100分の3で増徴すること
3、被保検者の診断は現在日本医師会に1人1ヶ年7円42銭で請負わしているが、医療組織を改正し新たに医療の公定価格を決定し、診療実数に応じ政府が直接健康保険医に支払うこと

健康保険の将来を危み当局の緊急対策成る、1927年6月11日付大阪毎日新聞

昭和2年、健康保険法適用者は総人口の3%にすぎない(被保険者210万人/総人口6165万9000人)。それでもこの騒ぎである。
健康保険法が適用されない貧困階級は、鈴木梅四郎が創設した「実費診療所」など※を利用していた。鈴木によると、昭和2年11月1日-昭和3年10月末までに実費診療所を受診した患者数は236万184人(青柳精一「診療報酬の歴史」p541)。医師会は実費診療所の治療を“安かろう悪かろう”だと批判しているが、しかし、実費診療所が多くの患者から支持されていたのも事実である。そして、この実費診療所の実績に政府は注目し、“保険の患者も実費診療所程度の治療で可”と考えた。そのために政府は保険医を直接雇用して意のままに動かそうとし、日医はそれに反対したのである。

※昭和初期の貧困階級を受け入れる医療機関は、社団法人実費診療所5、地方自治体経営の実費診療所約40、公私立の施療病院で実費診療を兼営するもの約110、逓信省簡易保険局の健康相談所約60、恩賜財団済生会の病院7・診療所44(青柳精一「診療報酬の歴史」)。

豊島屋三代目「鳩のつぶやき」

豊島屋の鳩サブレーを久し振りに食べた。ミスターイトウのバターサブレのほうが好みではあるが、もらうのはいつも豊島屋のほう。缶入りで贈りやすいからだろうか。
それはともかく、豊島屋の創業は明治で、現在は3代目。缶の中に鳩サブレー誕生の由来を書いた小冊子が入っていたが、これが味わい深かった。

原料の砂糖など入手出来なくなり、初代は信念である「良い菓子」がつくれなくなったと、休業を宣して了ったのは昭和16年でございました。工場も、或る時は陸軍の食料製造所として徴用されるなど、私共特に初代にとっては絶望の暗黒時代でございました。
(豊島屋三代目「鳩のつぶやき」)

徴用、徴兵、強制連行。国家総動員法で一億総奴隷時代の「暗黒時代」。
なお、わたくし好物のおかきやさん、播磨屋の「憂国・警世メッセージ」「地球革命」さらに「挨拶」がすごいのだが、ここも創業1860年代の伝統企業である。おかきメーカーになったのは戦後だそうだが、「暗黒時代」を経験した真の保守企業だと思っている。

暗く長いトンネルを抜けて終戦の日が参りました。「平和」と云う実感を得るには尚日時がかかったと思います。何しろ飢えとの戦いの毎日でした。その私達を救ってくれたものの一つは進駐軍(古く、なつかしい言葉ですが)の放出食糧の配給でした。携帯食糧の箱に入っていた肉の缶詰、クラッカー、チョコレート、煙草などなど、そのどの一つも如何に美味しかったか。口にとろけるチョコレートに、本物の煙草に、改めて「平和」の有難さを知りました。その頃初代は千花紙に刷られた「日米会話集」を買いこんで帰って参りました。私達は驚きました。同時に改めて文明開化をささえた明治人の気骨、進取の気性に畏敬の念すら感じました。これあればこそ初代は「鳩サブレー」を創り上げたのだと。きっと初代は進駐軍と菓子について語り合いたかったに違いない、「日米会話集」を小脇に――。


平成の日本人に足りないのは、この「進取の気性」だろう。内向きなのを保守と勘違いしている人間が、多すぎる。

社団法人実費診療所に対する意見書

社団法人実費診療所の利用者数は医師会の妨害で一時期低落したが、大正6年度になってふたたび急増(大正6年度87万人→7年度99万人→8年度101万人)。これに危機感をいだいた大日本医師会は大正7年6月、「社団法人実費診療所に対する意見書」を発表している。意見書には大日本医師会の見解として、

^綮佞旅餡氾地位
医師の職分と医業の報酬
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Тむべき安価治療主義

の7項目がまとめられた。このなかで目を引くのは、医師だって庶民を結構診ており、医師としての生計があるのだ、という主張である。医師会は東京市内の「一般病院および診療所における取扱患者あわせて総計1499万7207人」/年を同市内医師総数2025人で割り、年間取扱患者数を/医師を4572人、1日平均12.5人と推計。同市の所得税納入者は「1割4厘」であることから、これを12.5人に割り当てて1.3人、残る11.2人を所得税を納入しない患者=「いわゆる中産階級」とした。

今、中産階級全部に対していわゆる低廉報酬制をしかないのか。その得るところは薬品材料の原価に過ぎず、上流患者1人3分の収得は、どうして生活を維持するに足りえよう。たとえこの1人3分の患者に対し1剤1日分金20銭の内服薬2剤を投ずるにしても、得るところわずかに金52銭であり、仮に1割の新患者があって初診料金1円を徴するものとしなければ、その料1日平均13銭であるのをもって合計金65銭の収入となるだろう。1日平均65銭の収入でいかにして医師一家の生計を維持することができるのか。まして施療に多少の出費を余儀なくさせられるにおいては。そうであれば、すなわち他に有力な財源を求めるのでなければ、医師は医師としての生計を支持できないだろう。
社団法人実費診療所の歴史及事業 第1巻

なお、このころまだ再診料は概念すらない。
以下は、実費診療所の創設者・鈴木梅四郎の反論である。

かれらは東京市年表に表れた1ヶ年間の患者数、すなわち医師の手にかかった患者数のみをもって立論の根拠とし、それ以外に庶民の疾病に悩むものがいかに夥しいか、換言すれば医師の手を煩わせない、もしくは煩わせることができない患者の数がいかに夥しいかに思い至らないのである。これしかしながら、「国民の生命を保護し、公衆の健康を増進す」ることを天職として、国家に特別の優待を要求するほどの医師諸君としてはあまりに公共心に乏しい浅薄皮相の観察というべきではないか。


さて、国が認めたのは医師会の言い分であった。医師会は国に実費診療所を潰してもらい、その代わりに貧民の救療を担うことになる。国は全国の開業医をそのまま、実費診療所に転換することに成功した。医師会を勝たせると見せて、実は鈴木梅四郎の説を採り、ついには世界に冠たる長寿国を実現するのである。なんだかんだいって、日本の官僚の優秀さは世界トップクラスといわざるを得ない。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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