売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

戦時の医歯一元化闘争 青年の心

「おまえたちがこの学校で教育を受けているのはなんのためか? 早野!」
と、第3小隊最前列の学生を指さす。
「はいっ、医者になるためであります」
「医者。――文科の学生はことごとく前線にたち、他の理科諸学校の生徒もほとんど動員で工場にいっているのに、おまえたちだけ許されて学校に来ているのは、たんに医者になるためか。――早野!」
とそのうしろを指さす。
「はいっ、国家に有用なる医者になるためであります」
(昭和19年6月27日、山田風太郎「戦中派虫けら日記」)

以上は昭和19年の東京医科専門学校(現・東京医科大学)における教練風景。怒鳴っているのは「奥野中尉」、医学生も「教練服ゲートル姿」で通学している。
ただし、医育は満州事変から敗戦にいたるまで授業を行えた、唯一の教育機関であった(陸軍士官学校や海軍兵学校など軍関係を除く)。医育には歯科医育も含まれている。歯科医学生は医学生と同じく、徴兵が延期された。初等科の児童ですら飛行場や掩体壕建設に動員されていた時代に、歯科医専は授業継続を許されたのである。だから歯科医師も、ぜひ医師並の報国を――という歯科医師の思い抜きに、この時代の医歯一元化運動は語れない。

二元を主張する人は歯科医業権の現実を熟知していない。衣を着せて世間を欺そうとしているように思える。しかも直ぐお隣の医師は不足に不足を重ね、全国に官立の臨時医専を増設し、私立医大を増設してこれを満たそうとしているありさまである。3年修行の臨時医専卒業者より、4年修業の歯科医専卒業者が、いざ鎌倉の最後の御奉公に後塵を拝せざるを得んということは、同じ医の道にいそしむ青年を失望させずには置かんであろう。青年の心は日本永遠の希望なのである。
(余禄、1942年7月21日発行「歯科公報」)

この「青年の心」に応えたのが、
・昭和20年4月から、歯科医師のダブルライセンス制度(慶應、慈恵、東京医歯に臨時科を設置→医師免許取得)
・同年6月から、歯科医師への医学講習(各地で開催)
であった。どちらも一応、日本歯科医師会の要請によるものである。
また、丈夫な兵士を確保するために医療で重視されるのが疾病予防なのだが、歯科では、

ムシ歯を治す病人および歯科医師はおっても、ムシ歯にならぬ方法を習う病人および教える歯科医師が少い。ムシ歯にならぬ正しい生活指導をなし得る歯科医師が幾人おるか。
(新田重松「天人迷語」その3、1942年7月21日発行「歯科公報」)

という状態でもあった。もちろん、歯科衛生士はいない。
学校教育においては、児童に口腔衛生を指導したのは教師か学校看護婦で、歯科医師は訓話と検診のみだったようである(学校歯科衛生視察報告書)。具体的には歯磨教練、含嗽教練、咀嚼教練の3点で、「正しい生活指導」まで至ったかについてはアレだそうだ(後述)。学校歯科医は訓話で触れたかもしれないが、その程度で効果があるほど生活習慣のア改善は簡単ではないであろう。
ちなみに、歯科公報では前述の批判――「ムシ歯にならぬ正しい生活指導をなし得る歯科医師が幾人おるか」――に続いて、

歯科医学は医学の一分科だと自己満足に陥っていても、実際は歯科医学と一般医学は個別的、対立的存在になっている。
歯科医師は医師でなければならないが、実際は歯科医師は歯医者であり、歯医者というものは、歯入屋、歯大工である。これでは、今日の歯科医学、明日の歯科医学は語れない。
(余禄、1942年7月21日発行「歯科公報」)

歯科医師が医師たりえないと非難するのだが、しかし、生活指導に関しては歯科医師のみならず、医師だって大した能力はなかった。だから保健婦制度をつくったのである。医学校は軍医養成所と化しており、医学生に生活習慣指導などを教える余裕も、またその意志もなかったと思われる。

教室で「発疹チフスの予防法」を、だれか生理の福田教授にきくと、簡単に「罹らないようにするんだな」といった。
(昭和19年6月11日、山田風太郎「戦中派虫けら日記」)

さて、大正から昭和初期における学校歯科保健教育活動小史 : II. 学校歯科医,学校看護婦の職務内容と歯科衛生教授,歯科衛生訓練によると「戦時体制における学校歯科保健教育は国家政策に沿って行われ、歯科衛生行動は個人の意志とは別の次元となった。(略)本来の正しい方法を習得、習慣化という口腔衛生訓練の目的からずれて団体的訓練、規律共同化などの精神修練重視となり、集団意識の高揚が強調される状況設定となっていた。したがって、訓練を行ったとしても実際に歯科衛生教育としての本質的な効果が期待できず、このような個を離れた教育が、児童生徒に学校歯科衛生についての教育的効果を十分与えることができたかは疑問といえる」そうである。この状況を歯科医師個人の努力や、歯科医育のみで超えるのは難しそうである。大体、戦争末期に歯ブラシがあったかも疑問であって(石鹸は不足しており、それが発疹チフス流行の原因のひとつともみなされていた)、食べ物も衛生用品もロクにないのに国から健康を強要された当時の人たちを思うと、ホント気の毒で仕方がない。

戦時の医歯一元化闘争 人事問題

歯科公報編集者のコラムでは、東歯の権力志向がディスられている。

歯科では一元論にカモフラーヂして歯科医師会的人事の動きは外表に現れていないが、それは外表に出ていないというだけで、実は深刻なものがあると想像してよろしいわけである。バスに乗遅れた東京歯科医専校が、一元論反駁に総力を挙げているのも要はここを狙っているからだ。
(医界思潮、1942年7月21日発行「歯科公報」)

「一元論にカモフラーヂ」することこそ良くなかった。歯科医師会改革にも、一元化にも。

医師会でも、現北島会長に官選の名誉が落ちさえせねばよいといっていると同様に、歯科医師会でも、現会長血脇氏、奥村氏等に日本歯科医師会の幹部が下命さえせねば、それで結構だという程度に、呑気な註文をつけているものもある。東歯が壇の浦に日増しに近づきつつありといわれながら相当な頑張りを見せているところに問題の根がある。いずれにしても会長の選定を見るまでは平静にはなるまい。従って新しき地■(=印刷潰れ)の根本構想に意を注いでいる余地は今の医政人にはないといってよい。一つの神経衰弱症状であるとも見られる所以である。


だが、血脇守之助の日歯会長続投が決まると医歯一元化運動は一気に冷えこんだ。医歯一元化闘争はただの内輪もめではなかったが、権力闘争に頼りすぎ、歯科医師とは何か――という肝心要の主張が曖昧になった面は、否めない。

戦時の医歯一元化闘争 東歯の主張

1942年7月21日発行「歯科公報」の時報に、東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会の声明「我等の主張」が掲載された。初出は同年7月発行の歯科学報である。

我等の主張

去る2月24日付で国民医療法が公布せられ、国家が、医師ならびに歯科医師に何を期待しているかが明らかにされ、今や、この法律の精神を具現するために、医療関係者も国民全体も一つにならねばならぬ時が来たのである。然るに、この法律案が議会を通過するや否や、にわかに、歯科医界の一部に、医師、歯科医師一元化運動が熾烈になってきた。
そこで、いわゆる一元論とは何かというと、歯科医師を抹消し、内科、眼科等のごとく医師にして歯科を行う者に歯科医療を任すべきであるというのであるが、これに対する我々の主張を明らかにする。

東歯は医歯二元論派。よって、東歯以外の歯科医育機関による医歯一元化組織「歯科医学専門学校連合会」と対立状態にあった。だが東歯は医歯一元化を完全拒否していたわけでもないらしく、「(東歯同窓会は)大阪歯科医専同窓会を介して連合会幹部と懇談を希望し、数回懇談したる模様であるが医・歯一元論の主旨に賛意を表しながら未だ釈然たらず」とも時報欄にあり。結局は決裂するようだが。

◇なぜ、医師、歯科医師二元論でなければならぬか◇

(イ)歯科医学および歯科医療の本質から見て
歯科医学および歯科医療で取扱う範囲は、歯牙を中心とし、口腔および顎の領域における疾患の予防と治療であって、他の医学の専門分科と著しく異なる点は、自然治癒を営むことのできない歯牙ならびに顎、口腔の欠損に対し、人工的の補綴を併せ行うことによってその機能を回復せしめ、それが同時に治療と予防の両目的を達成するにある。すなわち、歯科医術は、医学的要素と応用理工学的要素との2方面の結合から成り立っていて、決して、それらのいずれか一方だけで解決さるべき性質のものではない。ここにおいて、完全なる歯科医療を期待するために、医学的知識および技術のほかに、理工学的な特殊の知識と技術とを身につけた、歯科医師の存在が必要になって来る。東京高等歯科医学校のごときは、歯科理工学なる科目を設けて、1年生の時からその理論と実習とを課しているほどである。
独逸で医療制度を検討した場合においても、歯科に関してはこの特殊性に鑑み歯科医師制度を樹て、さらにナチス独逸の時になってからも、歯科医師が歯科医療を主宰し、医師にして歯科医業に従事する者は、少数の例外を除いてはすべて歯科医師たる資格を得ていて、そのために歯科医学に関する1ヶ年半の大学教育を要求されているのである。

まずは歯科の特殊性を主張している。補綴、歯科技工の存在である。ここは確かに正論かもしれない。
今では「人工の補綴」も医科でもフツーであるが、当時は人工内耳も人工皮膚も人工関節も眼内レンズもペースメーカーもない。内科で手術(血液内科におけるステント手術とか)が行われる時代が来るとは、想像もできなかったであろう。
ただし、義肢義足はあったし、義肢装具士もいた。そして医師は義肢製作はその技術者に任せた――つまり医業の範囲とは捉えなかった。現在では、脳外科等で頭蓋の欠損部分などを即重レジンで補綴したりもするようだが、医行為として扱われる「応用理工学的要素」はそれくらいで、その「応用理工学的要素」ですら観血的要素がなくなれば医行為としては扱われないだろう。科学の発展とは、クロウトからシロウトに技術が開放されることだからである。というわけで、歴史的にみれば歯科の「特殊性」はこの「応用理工学的要素」を医行為としたことであり、医学的にも「応用理工学的要素」があるから特殊なのでは決してない。

(ロ)歯科医療制度発達の歴史を顧みて
古くは文武天皇の御代に耳目口歯科が設けられ、平安の末期には口歯科が分立し、それが安土、桃山時代に至って口中科と改められて江戸時代まで続いたのであるが、この口中科医は今日の歯科医師とは異なり、医師に隷属する一部医療者であって、歯牙の補綴を伴わない破壊療法を主として行っていたのである。その後、明治7年に初めて医制が布かれ口中科の制度が設けられたのであるが、これも今日の歯科医師とは異なったもので、医師に対する按摩、針医のような存在であった。然るに、明治39年の歯科医師法制定によって、歯科医師独自の立場が確立され、あらゆる機会を通じて健全なる歯科医学、歯科医療の発達が擁護されつつ今日の隆盛を見るに至ったのである。社会に対する必要性が認められ、しかも、その立場が制度によって護られている学術あるいは職業が、これに反するものに較べて、その発達に有利であるのは当然のことであって、事実、諸外国の状況を見ても、歯科医師が認められている国においては、歯科医師が認められていない国よりも、歯科医学ならびに歯科医療がはるかに発達している。この点、日本の制度の根底は日本独特のものであって、世界のいずれの国の制度よりも優れたものである。かくて、歴史的現実を見てもまた二元制はこれを否定できないのである。


口中科医は「医師に隷属する一部医療者」という驚くべき見解である。どっちが上とか下とかではなく、各専門の医師は並列であろう。口中科医が「医師に対する按摩、針医のような存在」という認識もよくわからない。
それと、日本においては、少なくとも室町時代には現在の総義歯の形態が完成されている。これは入歯師による仕事だが、繊細かつ根気のいる手仕事で吸着法による義歯を世界に先がけて実現化したわけで、まったく大したものである。現在、疾病構造が感染症から慢性疾患に移行するとともに漢方医学が見直されつつあるが、歯科でもこの入歯師の伝統を再評価し、活用したらどうだろうか。

(ハ)臣道実践の立場から見て
臣道実践とは、国是にのっとり、おのれを空うして自己の職域をもって国家目的に献身することである。明治39年以来、歯科医師の立場は国法によって明徴にせられ、加うるに、先頃発布せられた国民医療法は、歯科医師の負うべき国家的新使命を明らかにしている。これが今の日本の国是である。この国民医療法に従い、これに盡瘁(じんすい;苦労を顧みることなく全力を尽くすこと)することが、真の臣道実践であり、新体制にのっとるゆえんである。


さすがに「新体制」ブームは意識しているもよう。しかし、この国民医療法の解釈はどうなんだ。

◇いわゆる一元論者はいかなる誤謬を犯しているか◇

(イ)歯科医学ならびに歯科医療の本質に対する曲解
歯科医学は独立したものではなく、医学の一分科としての歯科学であるが、ゆえに、歯科医師を廃してこれを医師にするという考えは、歯科医学の専門分科のうちの医学的な一部分だけに捉われて、全体としての歯科医学を忘れ、医学の知識、技術だけでは解決のつかないところの他の一部分を見損なっているか、あるいは故意にこれを抹殺しようとしているものである。これに反して技工偏重の非が挙げられていたのは補綴の技術は治療の手術と併せ行い、かつ連結して始めてその実を挙げ得るのだから、技術のみに偏しては歯科医療が完全しないという意味である。補綴はどうなってもよいということではない。

「補綴はどうなってもよい」と主張した一元派はいたのか? 歯科技工師を活用せよという人はいたが。

(ロ)新体制ということに対する曲解あるいは新体制の悪用
現在までの体系あるいは制度を全部否定することによってあたかも新体制が産れるがごとくに曲解しているか、さもなくば、新体制という言葉を用いさえすれば、どんな無理でも通るという風に考えているのははなはだ遺憾なことであって、この種の誤解あるいは主張の仕方が、今日の日本にとっては最も有害であることに思いを致さねばならぬ。すべての歯科医師が国民医療法の精神を正しく把握すれば、歯科医界の新体制は自ずから産れ出ることを忘れてはならない。


では「新体制」とは何なのか、という説明はなし。

(ハ)歯科医師の権能に対する事実歪曲
現行歯科医師法の束縛に依り歯科医師には全身的治療が許されていないとか、死亡診断書も書けないとかいう議論があるが、これは事実を歪曲するも甚だしい。このようなことは医療を行う者は医師以外にはないと考えるから生ずる単なる個人的意見であって決して今日の社会的通年でもなければ常識でもない。歯科医師が、その職域奉公を全うするに必要な業務上の権能は、現在の歯科医師に完全に与えられていて、これを活用するのは歯科医師の努力によるのである。


歯科医師は死亡診断書を書けたが、全身的治療が許されていたわけではない。実際、医師法違反で訴えられもしている。

(ニ)一元運動の矛盾
今日までに、歯科医師を医師にしようとする方法あるいは医師をして歯科医療を行わしめようとする方法に関していろいろな案が考えられている。しかしどれ一つとしてこれを具体化し得る見込がついていない。
その第一は、歯科を他の分科と同様に医学教育の中に包括せしめ、各医学校に歯科講座を設けることである。しかしかような方法によって歯科学が教えられる限り、補綴方面は必然的に下級な技術者に委ねられる結果を招来するに違いなく、従って、国民に対して適正な歯科医療が行われ得ないであろう。


「下級な技術者」――やはり、歯科技工師の隆盛は恐怖であったようだ。

第二は、いわゆる歯科大学を設立してその卒業生に医師の名目を与え、実際には歯科医療に従事せしめようとする案である。この方法によれば、同様に医師とはいいながら、その中に一般医療者と歯科医療者の2種類を生ずる矛盾をきたすことになる。歯科医療に従事するものに、その診療をまっとうするために必要な権能を与えようとするのに、単に医師たる名目さえくれて置けばよいとするのは、ただ表面を糊塗したに過ぎないことになる。


「一般医療者」も分科されていることを無視している。眼科医や小児科医と並列で歯科医を考えよう、というのが一元派の主張であろう。

第三案は、医師に対して専門の教育を与えて歯科専門医をつくろうとする考えで、かつて欧州の2、3の国で行われたのであるが、その結果は、決して歯科医療の普及向上にはならなかった。わが国において、他の医療の分科は医師の診療科名として取扱われ、歯科だけはさらに専門教育を受けなければならぬという制度がしけるかどうか。さらに考えなければならないのは、現在の2万数千の歯科医師をいかにして医師とするかである。1年間の短期講習をやるとか、5年以上開業の経験或る歯科医師には医師の資格を与えるというような案もあって「バス」に乗りおくれないようにとしきりに勧告している向きがある。しかし、その実現を誰が保証するのであろうか。その主張の中には多分の政治的意味が含まれているのを遺憾とする。かような便法によって医師たる名目を与えられたところで、歯科医師の地位向上になるであろうか。否、むしろ医師界における特殊的部落を形成するに過ぎない結末となるであろう。


まあ、確かに過渡期の混乱は必至であろう。
なお、『「バス」に乗り遅れないように』とは1940年、当時の首相・近衛文麿が提唱した新体制運動のスローガンである。連戦連勝のドイツにならって一党独裁・挙国一致の政治体制を目指したのが新体制運動であり、これにより新体制ブームが産まれるのである。

(ホ)歯科医師の地位向上に関して
歯科医師は医師よりも地位が低いとか、あるいはまた、社会が歯科医師を尊敬しないから、医師になればそれが解消するかのごとくにいう者があるが、これは自己を中心として考えたまったく旧体制的、自由主義的な観念であって、絶対に我等の組せざるところである。この問題は、現在の歯科医育の内容をさらに高め、歯科医師全体の内面的教養を向上せしめることによって解決せられるものである。
これを要するに、我々は、歯科医師を解消し医師に歯科医療を任せるという主張ならびにその運動に対しては断固として反対する。しかし、医師が一定の条件によって歯科専門を標榜できるのと同一の意味において、歯科医師からも医師に転ずる途が拓かれるべきであるということは、歯科大学の創設とともに、我々の年来主張するところであることを、改めてここに明記して置く。例えば、歯科医学専門学校卒業者に医学専門学校の3年あるいは4年に入学する途が与えられるべきであって、このために歯科医師を否定する理由は毫も存在しないのである。
医療制度の検討には、いかにすれば国民の間に普及して国民のために適正医療が行われ得るかを根本的に考うべきである。医療関係者があるいはその努力を厭い、あるいはその義務を怠り、自己に都合のよくなることばかり考えていたのでは、決して真の医療新体制は生れてこない。
昭和17年7月
東京歯科医学専門学校同窓会


以上、傍線は引用者。「歯科医学専門学校卒業者に医学専門学校の3年あるいは4年に入学する途が与えられるべき」は後年、日本歯科医師会が請願に及んでいる。

さて、一元化推進派である歯科公報はこの「我等の主張」に批判的なコメントを加え、さらにこう述べた。

新生日本歯科医師会長の問題は、昨今、自薦連の暗躍がクライマックスに達していると見られる情勢である。例えば老弱を押して血脇会長の活動も涙ぐましいものがあり、最近は医療団披露指揮を機会に上京した山田順策、杉山元治郎両代議士を厚生省その他関係方面に日参せしめ、その筋と約束なれりとして祝意を表するものある等の、取らぬ狸の皮算用に寧日なき向きもあるようである。


医歯一元化運動は派閥闘争化していた。歯科界内部では。
医界や政界でも医歯一元化の賛同者はいたにもかかわらず、尻すぼんだのは歯科界が派閥闘争に注力しすぎた、つまり内向きだったからではないのか。
なお、当時現職の日歯会長で東歯校長の血脇守之助は1870(明治3)年2月1日生まれで、この時72歳である。ホントに自身が政治活動をやっていたのだろうか、「老弱を押して」。権力亡者だったのか、または、東歯幹部にやいやい言われて辞めるに辞められなかったのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争 医界の与論

日中開戦日を知っている日本人はどのくらいいるんだろう、日米開戦日は結構人口に膾炙しているようだが。これもGHQの占領政策の一貫か、それとも冷戦の影響か。ちなみに、中国人はかなりの割合で日中開戦日を知っている(私の知人に限ると100%だ)。ヤラれた日というのは、忘れないものである。
土屋清三郎氏は厚生新聞(7月1日)社説に再び医歯一元論を次のごとく述べておられる。
「医師と歯科医師と対立並存する現在の二元性を、改めて一元性とする運動は、全国11校中官私10校同窓の奮起によっていよいよ真剣味を加えつつある。
しかし、これは歯科医師のみの問題ではない。国の政策の問題であり、同時に民の生活の問題である。医師だけで足りるのを、わざわざ医師と歯科医師と2つの制度を設けて各々その職分を分割制限し、これがため1人の歯と唇とを病む者をして歯のために歯科医に、唇のために普通医に二重に足を運んで、二重に支払をしなければならぬ制度は、民の生活のために歓迎できず、国の制度として良い制度ではない。かかる不合理なる制度のために育成機関も医科と歯科と二重に作らねばならず、業務関係も二種に造らなければならない。
今日は、すべてが統制である、しかし統制せんがための統制は不可、同時に統制の利あって害なきは統制すべきである。医歯を一元に統制するは、自然の理であり、而して今はその機会である」。
医歯一元論は、医界の与論となって一層慎重味と国策性を加う。(7・7)
(余禄、1942年7月11日発行「歯科公報」)

土屋清三郎は医薬制度調査会の委員である。医薬制度調査会は医薬制度の改革とそのために必要な調査研究を担う厚生大臣の諮問機関で、今の中医協みたいなものである。土屋委員は「今日は、あたかも支邦事変5周年に当る」として、日中開戦と医薬制度の改革をからめて述べている。いわく「支邦事変の使命」は「健全共栄的な、人類一家、世界一村」の建設であり、その「理念的情熱は国民医療法に大きな文字をもって期待され」、「旧態の夢をなお追っているやからは、満州事変、支邦事変の本質に自らの心を照らして反省することをここに要求したい」という起承転結である。当時の認識(というか常識)では「満州事変、支邦事変の本質」は“大東亜諸民族を米英の桎梏より解放し、わが皇国の大精神を彼等に光被し、大東亜の共存共栄を実現するという聖戦”(1942年7月7日付朝日新聞社説)であり、だから改革を進め新体制を構築しよう! という論法は、当時はかなりポピュラーである。この「与論」に与しなかった東京歯科医専、そして日本歯科医師会の面々は、実はすごいのかもしれない。

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戦時の医歯一元化闘争 戦場の非戦闘員

昭和15年に陸軍歯科医将校制度が、昭和17年に海軍歯科医科士官制度が発足する。
両制度は歯科界の長年の懸案であった。戦時にせめて医師並の奉公を、と願う歯科医師の思いは自然かつ切実なものであり、歯科医師会は少なくとも日露戦争の頃から請願を繰り返していた。
一方、軍医制度の歴史は長い。だが、軍において医師が、ひいては兵たちの医療や健康が重視されていたわけでは決してない。
昭和12年に中国戦線に従軍した医師、岡村俊彦の記録が今に残っている。岡村俊彦は当時27歳、病院勤務の外科医であった。日本に帰還したのは昭和15年。戦後は小田原市任天堂病院の院長となっている。

昭和12年10月7日14時召集令状に接す。
その日はちょうど亡父の命日のため母はじめ弟妹たちは法事のしたく、私は午前中3名の手術をし、外来患者多数の手当てのため13時昼食後、墓参をすませ応接間の長椅子で午睡無我の境にいた。
とつぜん玄関で「岡村さん岡村さん」と声高にさけぶ声に「ハッ」とする。瞬間、召集の予感が背すじをはしる。役所の人がやや緊張した面持ちで窓口の私に「令状です。時間がありませんよ」という。すでに覚悟はしていたというものの冷水をあびせられた感がした。というのは数年前の徴兵検査で第一乙種籤外7番のレッテルを貼られ、私のような若い医者(当時27歳)は戦争がはじまれば軍医としてすぐ必要の日がくるのではないかと感ぜずにはおられなかった。
(岡村俊彦「榾火」、「昭和戦争文学全集9 武器なき戦い」集英社1965年

「籤外(せんがい)」とはクジにはずれたという意味ではなく、クジ適用外という意味。
抽籤(ちゅうせん)は徴兵検査に合格した同兵種同体格等位の者に徴収順位を決めるために行われたクジ引きで、籤外者(せんがいしゃ)は抽籤権を放棄した者か、ない者を指す。前者は現役入隊の希望者であり、後者は在学猶予または徴兵忌避等の理由により抽籤券を剥奪された者である。

赤紙の令状をよくみもせず、受け取りの印をおしたとき、私の背後では看護婦一同が子供のように声を立てて泣いていた。入隊まで数時間、入院患者の処置のほか、病院への依頼、和田次郎氏に電話、母は仏間でうちふす。17時半見送りの人びとつづいてくる。門前にのぼり旗が立てられる。18時大橋理髪店にて坊主頭になる。髪の毛をすこし紙に包み渡されたときは少々淋しい気持ち。19時半医師会送別会に出席し、寄せ書きの国旗を頂戴して帰宅。23時横浜市立十全病院より岩本氏、曽我氏きたる。後事をたくす。川辺兄はじめ来訪者による壮行会、川辺武之助義兄と2時自宅における最後の寝床にはいる。

恐らく、軍医予備員制度による医師の召集例だろう。
軍医予備員制度の正式な発足は昭和12年(昭和8年には臨時特例として軍医候補生制度が発足しており、恐らくこれが前身)である。
軍医予備員制度とは、
^綮嫐筏所有者を“強制的に”軍医予備員に→
短期教育を施して予備役衛生軍曹に→
召集して部隊に編入する際に予備役見習士官に、
するという制度である。
軍医予備員を志願しなければ応召の際、一兵卒として徴兵され、教育と称するイジメとシゴキに遭い、戦場では衛生兵としてコキ使われた。軍医予備員制度は歯科医師には適用されなかったので、歯科医師が徴兵された場合はシゴキ→衛生兵というコースのみである。よって陸軍歯科医将校制度と海軍歯科医科士官制度――通称「歯科軍医制度」の創設を望む声が歯科医師からあがるのも、当然ではあった。この歯科軍医制度における歯科医師の最高階級(終戦時)は陸海ともに少将で、陸軍では医師・薬剤師・獣医よりも軽い扱いである。これはもちろん差別であり歯科医療の軽視だが、医師だって最高階級は中将である。結局のところ、兵士の医療や健康自体を軍は軽視していたと言わざるを得ない。以上、諸制度については百瀬孝「事典 昭和線前記の日本 制度と実態」(1990年)を出典とする。

さて、岡本俊彦は翌日、小田原の歩兵一連隊で「軍装一式受領」し「バケツにいれたサンマの配給をうけ食事をする」。階級は星1つの「未教育二等兵」、行き先は「上海で現在苦戦中の第101師団衛生隊」であった。

中学、大学と軍事教練はあったが、営内における日常の生活までは教えてくれなかった。それに学校をでて3年、医者としての生活は足を弱くしてしまっていた。
(10月14日)

神戸三宮の港を10月14日10時に出て、上海には19日8時着。ほぼ同じルートを通ったことが私はあるが、現在の客船では2泊3日の距離である。20日には「死臭充満」の包帯所(戦地の応急救護所)に配置される。

岡村が配置された「包帯所」のようす。昭和13年10月の記述で、杭州や彭沢などの江南の戦地を転々と行軍している時期である。

10月2日 曇天 李家山東南
8時半より友軍の砲声とどろく、収容中の兵1名死亡、包帯所内死臭充満して気持ちわるし。中隊より死体ひきとりにくる、ふきんで火葬にす。砲声ますますさかん、重砲到着し砲撃開始とどろきわたる。8時半傷者の後送をはじめる、いもにて立ち食。21時連隊機関銃隊長加藤少佐右膝関節部貫通で収容す、機関銃小隊長は重態、永島軍医が手伝ってくれ手術はやくおわる。13時いもにて食事す。16時、死亡せる兵を一時土葬にす、遺髪をとる。17時前進命令くだる、待機中の第一群ただちに出動、私は残留しぞくぞく来る傷者の手術手当にあたる、出血多量のうえ疲労でつぎつぎに死亡。20ccの注射器で応急輸血せる兵、100cc輸血せるに意識なかったのが、漸次眼をあけ口をひらき、語りはじめたのには周囲の衛生兵、戦友よろこびの声をあげる。担架兵前進す、日没より、充満せる傷者の後送を特務兵はじめる、残余の傷者はとどまる、銃声ややしずか、水牛を殺して一同たべる。将校4名少佐1、中尉、少尉2、兵30名くる、幹部将校の受傷戦死おおく全部重傷者なり。大腿部下肢の爆創おおし、手榴弾、迫撃、友軍の砲弾による。第一線は白兵戦なるため混乱している。17時敵逆襲、前方高地はふたたび敵の手中にはいる、腹部銃創の少尉1名高地中腹にて弾雨はげしきため収容できず。私たちの前進方向不明、夜襲ますますはげしく銃弾家屋をつらぬく、砲弾包帯所の屋根をぬく、とっさに横転くぼ地にふせる、たすかる、夜明けが待ち遠しい、2時より3時とくにはげしい、一睡もせず、「岡村軍医はここにいる」と叫ぶ。

日本に帰還したのは昭和15年1月11日、2年3ヶ月の召集であった。

ちなみに、この「昭和戦争文学全集9」は各種非戦闘員――軍医、病院船の看護婦、商船乗組員、俳優が本職の衛生下士官、従軍カメラマン――の記録が記載されており、興味深かった。巻末の阿川弘之による解説では、日本の商船乗組員の死亡率は43%で陸海軍軍人戦没者の2倍とあり驚く。でもってその商船乗組員(当時陸軍徴用船の一等機関士)の記述を読むと、

母島終結地において1隻だけはるか離れ停泊しているのがいて、この船はグァム島でも占領から2日おくれて入港してきた。陸上の施設が準備できてから上陸させたのだが、なんとこれは慰安婦の一隊であって、さすがに軍属とはいわずに、正式には陸軍要員と呼称していた。字をていねいに書かないと要具と間違えやすい。
(山下恒七「南海支隊」)

死亡率43%の航海に民間人の女を連れて行ったのである、わが皇軍は。むろん軍属扱いであっても軍属ではないから、たとえ女が爆撃で死んでも軍人恩給は出ない。恐らくは兵の性的健康の保持とかいう理由で女を連れて行くのだろうが、現実的には要具扱いであり、使い捨ても同然だった。使い捨てといや兵士もで、赤紙1枚で補充できるからと軍馬や軍犬のほうが大事にされたという話があるくらいである。兵の健康や人権に関わる軍医や歯科軍医の扱いが軽いのも、大いに納得である。

戦時の医歯一元化闘争 医歯両界境界線

医歯が一元化されて消えるのは歯科医師と、歯科医師会と、歯科医専だろう。その場合、歯科医師は歯科専門の医師として、歯科医師会は歯科専門医の団体・歯科医会として、歯科医専は医専として存続したと思われる。それではダメだというのが当時の日本歯科医師会(日歯)だったわけだが、何が一番ダメだったのかと考えるに、やはり政治力を失うことがダメだったのではないか。

最高歯会指導者は、歯科医師には死亡診断書まで認可されているのだから、口腔疾患の如何を問わず処置して可なりと説き、あたかも歯科医師に勇敢に現行法診療範囲の逸脱を押売しているようにも取れる。卑屈たるなかれと強調しても、医歯両界境界線の不明朗なる現状では、狂者または愚者たらざる限り卑屈たらざるを得んであろう。この境界を明朗なものとし、国民とともに安心して医を施し医に浴し得る機構に建直すべき体制を要求しているのが医歯融合化運動であると筆者は解する。
(余禄、1942年7月1日発行「歯科公報」)

日歯が現行法で「口腔疾患の如何を問わず処置して可」と主張する根拠も、政治力であろう。日歯に政治力は、あった。専門医として、学校歯科医および幼稚園歯科医制度を実現させたのは歯科のみである(昭和6年6月)。眼科も眼科学校医制度を請願していたのだが、取り上げられなかった。トラホームの蔓延で小学校に治療室が置かれるほどであったから当時の眼科医としては当然の要望であったにもかかわらず、である。ただし学校医と学校看護婦の制度化は学校歯科医よりも古く、前者は明治31年、後者は昭和4年だから、国としてはそれで医科の領域は包括できると考えていたのかもしれない。さらに学校医の使命は治療ではなくスクリーニングだから、専門医よりも総合医が望まれていた面もある。

19390419東京夕刊齲歯殲滅へ
▲昭和14年4月19日付朝日新聞夕刊、「齲歯殲滅へ」。

昭和14年5月には厚生省と文部省の両次官から「齲歯予防思想普及に関する通牒」が出された。この少し前には国民体力管理制度調査会が設けられ、歯科からは血脇守之助や奥村鶴吉ら日歯幹部が委員となっている。厚生省内には昭和10年東歯卒の高木圭二郎もおり、この高木が齲歯予防の重要性について厚生文部両省ほか関係者に働きかけたのだろう。高木は後の東京歯科大学教授、学長である。

19400222東京朝刊歯科軍医の実現
▲昭和15年2月22日付朝日新聞朝刊。

昭和15年には歯科軍医制度も実現させている。医歯一元派はまず日歯を説き伏せるべきだったのかもしれないが、しかしそれも結果論だ。一元派はそもそも歯科界の、ひいては日歯の改革派である。反日歯・反保守でまとまった革新派が革新・保守連合するというのも難しそうである。日本社会党だって結局分裂するし。

一元論は現行歯科医師を技工師に突き落すものだという議論は、歯科学が補綴をもってその全部としない限り、歯科学内容の跳躍を否定しない限り、なんら取るに足らない議論である。


日歯の懸念は政治力を失うことと、そして歯科技工師の存在であろう。「一元論は現行歯科医師を技工師に突き落す」というよりも、歯科技工師が歯科医師を追い越していく可能性は高かった――歯科医師が“歯科医師という名の歯科技工師”のままであれば、だが。花桐岩吉、大日本歯科技工師会の全盛期である。歯科医師の大半が歯科技工所を利用している時代でもある。一元化により歯科技工師への依存度が高まるという懸念が日歯にはあったし、当然そうなったであろう。その懸念は、現状の歯科医師が“歯科医師という名の歯科技工師”であって、世間からは入歯師視されているという懸念を軽く凌いだのかもしれない。とすると日歯は「歯科学内容の跳躍」など想像すらしていなかったのだろう。

戦時の医歯一元化闘争 我が闘争

医歯一元化闘争は学術の戦い(一元VS二元)であり、政治の戦い(東歯同窓会VSその他卒)であった。
後者のわかりやすい例が以下である。

医歯一元論を批評する人の中には、ただ単に旧体制の自由主義を謳歌し自由経済の夢を追う論の多いことを悲しむ。過去の自由経済機構下に生々発展し、結構な椅子を占めて今日の映画を満喫している人々のことだから、かかる人々が新体制の統制経済を自身のものと為することは決して容易ではない。従ってかかる人のはく意見なるものが自己の保身的問題であったり、体裁のよい歯科医師会擁護論であるのはまた止むを得まい
。(題言「医歯一元論の態度」、1942(昭和17)年7月1日発行「歯科公報」)

「旧体制の自由主義を謳歌し自由経済の夢を追う論」――反右派闘争みたいだが、この時期の天皇制社会主義下におけるありふれたプロパガンダではある。医歯一元化闘争とは、東歯の長期支配にウンザリした東歯以外の卒業者が時の世情に乗じ、医歯一元論を利用した派閥闘争という一面がある。そしてその敗因は、世情に乗じつつも世情に身を投じきれなかったところにあるのではないか。

昭和18年3月に発行された山崎清の「無医村と歯」という本がある。

P1530280
▲山崎清「無医村と歯」昭和18年、天佑書房。

P1530282
▲発行部数は2000部。定価1円60銭。

同書は日本歯科医学専門学校(日本歯科医専)の“報国隊文化部”による岩手県下の無医村で歯科診療を行った記録だが、島木健作が死ぬ直前に入手していることが日記でわかる。

2月13日 火
午後、久しぶりに散歩し、心身爽快であった。
山崎医博著、「無医村と歯」を買う。
(島木健作「昭和二十年日記」より2月13日の日記、「島木健作全集 第15巻」1981年)

この半年後、島木は死んだ。享年42歳。

島木健作は明治36年9月7日、札幌生まれのプロレタリア作家。大正時代から農民運動に関わり、昭和2年に日本共産党に入党。昭和3年2月14日に高松市内の連合会本部で拘束され、そのまま3.15事件と重なり、治安維持法違反容疑で起訴、収監された。求刑は懲役6年だが病(喀血しているので恐らく肺結核)もあって転向を声明し、懲役3年に減刑され、昭和5年3月から病監収容される。収容中は所内の健康な収容者には貸与されていた月3冊の書物も借りられなかったそうで(全集の年譜より)、これはツラい……。仮釈放は昭和7年3月。2年間も本ナシ。私なら発狂だ。
閑話休題。
仮釈後の島木は「更正の道」に入り、つまりは政治活動を一切やめて原稿書き一本となり、“転向作家”のひとりとなる。この時、島木健作30歳。34歳で日中戦争が、38歳で大東亜戦争が勃発。昭和16年11月には悪名高き文士徴用を受け、身体検査の結果、胸部疾患のために太宰治とともに即日帰還となった。で、真珠湾攻撃の日は、特高刑事から一切の左翼関係出版物を持ち去られる。年が明けた昭和17年1月に肺の痼疾が再発し、それ以降、死の床に。没したのは昭和20年8月17日。敗戦直後であった。

島木は、死ぬまで農民問題を忘れなかった。その島木が手に取った「無医村と歯」は、日本歯科医専“報国隊”の歯科診療記録であり、戦時ゆえの所産である。軍国主義に染まっていたであろう報国隊の学生も、戦時体制で弾圧された作家も、無医村に対しては同じ視点と態度を持っていた。その結論も同じ場所に着地したはずで、報国隊を率いた山崎清は無料診療班の「結論大意」のひとつとして、「歯科医学教育の根本的再検討、ことに歯科医育の精神的な部門と、歯科臨床内容の再考慮」を挙げている。これは医歯一元論の発想とかなり近い。医歯一元論者も自らの主張の社会的訴求力には気づいてはいただろう。が、その外部への発信は弱すぎたといわざるを得ない。

大東亜戦争の伝単

前日にちょっと触れた神経戦について。
神経戦とは、武力を用いずに相手の戦意を失わせたり操作したりする戦法である。そのひとつに、伝単(でんたん)があった。まあ、ビラである。
以下は平和博物館を創る会編「紙の戦争・伝単――謀略宣伝ビラは語る」(1990年)より、大東亜戦争中に日本陸軍がつくった伝単である。

1
▲豪軍向け。

右上の文章の訳:
ダブルでいこう
色男の米兵(メルボルン駐留)「オーストラリアの兵隊さんよ、前線で楽しくやってくれ。おれはいま、お前さんの女……で手いっぱい。だからな」


2
▲米豪軍向け。

中央の文章:
君たちはだまされて、自分が英雄だと思い込んでいた。本国にいる男たちのことを、ちょっと考えてみろ。あの弱虫たちは、君たちの女たちと遊びまわっているのに、君たちはなんのために戦っているのかも知らずに、無様な死をとげ、無名戦士になろうとしている。


3つ折りで3コママンガ風の伝単も。米豪軍向け。3コマ目を開くとガックリ、のオチがつく。

▼1コマ目:君たちのオーストラリアでの幸福を、
1

▼2コマ目:犠牲にして
2

▼3コマ目:アメリカの戦争屋たちはさぞ満足しているだろう!
3


内容はともかく、絵が非常に素晴らしい。名のある画家か、イラストレーターが書いたのだろう。
以下は東南アジアで撒かれた伝単で、
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▲ビルマ・タイ・ベトナム・フィリピンなどで撒かれた伝単。

モノクロだが地味ではなく、シャレオツにまとめているのが憎い。線だけで巧みな表情を出している。日本人の線描は世界一だなあ。

君の妻は君の生還を祈っている。


日本陸軍の米豪軍向け伝単は性欲や里心に訴えるものばかりだが、アジア向けは違った。

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▲インド軍の兵士とインド市民向け。

インド人を殺しておのれを生かさんとするイギリスの悪魔を忘れるな! 
独立しないかぎりインド人の幸福はない。


インド独立にからめた理性的な伝単である。アジア解放は大義名分でしかなかったのかもしれないが、しかし大義名分は大事なのである。

一方、米英軍も日本向けに伝単をつくっていた。
地味で絵もヘタクソ、描かれた日本人が全然日本人に見えないが、

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▲国家とは何ですか 農園ですか 工場ですか

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▲政府ですか

メッセージがうまい。

国民なくしては国家は存在しません


日本存続のために、降伏を訴えている。

中国軍が日本軍兵士に向けてつくった伝単もある。
戦争中に反戦を訴えているのが面白い。

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▲盲目戦争で戦線だけやたら長くなる。……確かに。

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▲我等の共同の敵を倒せ!
中国軍の伝単は地味でモノクロ、粗悪な紙にガリ版印刷でその内容は日本軍部批判がほとんどである。
愛国の美名の下に軍部は君等を犠牲にしているぞ!
平和を東洋と日本とにもたらす唯一の道はこれである

「暴力派に盲従する近衛、宇垣、板垣を自決させろ!」など、捕虜になった日本人兵士が協力したのだろう。
 
さて、日本陸軍の伝単、デザインとアイディアは素晴らしいが(さすがはCM大国よ)エロの多さにはドン引きであった。なぜこの機に欧米列強の覇権主義、アジア侵略を批判しないのか。米豪の先住民(アジア人である)虐殺の歴史とか、英蘭仏などのアジアにおける非道とか、言うべきことは他にあっただろうに。八紘一宇の説明ぐらいしたらどうなんだ。このあたりの理論武装の甘さが、戦後日本の外交にも響いている気がしてならないのである。 





戦時の医歯一元化闘争 東歯VS歯科医専10校

歯科医学専門学校同窓会連合会に乗り遅れた東歯同窓会からパンフレットが届けられた。これは同時に全国の歯科医に隈なく配布されたらしい。歯科医学専門学校の生徒にまで郵送して、予期しない大混乱を各所に起している。米英敵国の神経戦を手本にしたようなこの手段、日頃ひそかに敬意を表していた東歯同窓会の仕事であるだけに誠に遺憾の至りである。
(余禄、1942年6月11日発行「歯科公報」)

歯科公報は、医歯一元化運動を言論で支援した歯科雑誌である。

本誌が真剣な問題として取上げている医・歯一元化運動に対しても、東歯同窓会は右の小冊子で不賛成の意志表示をした。歯界一元化運動とともに、一笑放棄の形をとったところに注目すべき点がある。けだし東歯同窓会員中のおびただしい、医歯一元化賛成者の去就をいかにせん。名誉ある旧体制の牢守、けだし同会今後の動向刮目に値せんのみ。
(同)

東京歯科医学専門学校(東歯)は、孤高の二元派であった。

歯科医専10校同窓会はすでに起って医師歯科医師一元化運動を起したのである。歯科医専4年のうち技術1年半、学課2年半の現状にいま半年の学課を加うれば医学知識に於ては現行臨時医専卒業生と径庭はないから医師であって歯科を専門とする卒業生を出し得るというのが、かれらの理論である。しかるに東京歯科はこれに反対し学制を改めるなら歯科大学として予科制を採れ、歯科医はあくまで医師と対等、歯科医師会は医師会と並び立つ存在であらねばならぬとする。10対1校をもって抗争が巻き起したのは不思議でない。
(余禄、1942年6月21日発行「歯科公報」)

東歯がこだわったのは「歯科大学」と「歯科医師会」なのだろう。どちらも医歯一元化すれば、消えてしまうものである。歯科の単科大学設立は東歯の悲願であったし、日本歯科医師会(日歯)会長は大正8年から東歯創設者・血脇守之助であった。血脇が日歯会長の座を退くのは昭和21年だから、実に27年間も日歯会長だったわけである。長すぎだ。しかも明治3年生まれということはこの時、血脇は70歳を超えている。いくらなんでもトシを取りすぎではないのか。
話は突然飛ぶが、今、平成天皇の生前退位が問題になっている。で、生前退位反対派の意見(桜井よしこ等)を読むと、やはり死を持って交替するというところに意義があるらしいのである。ということを考えると、戦前の日歯会長も死を持って交替すべきと考えられていたのだろうか。というか、東歯は血脇をそのように考えていたのだろうか。神扱いといえば聞えはいいが、人権無視ではないのか。このあたりのメンタリティがよくわからない。
閑話休題。
歯科医専のうち医歯一元化に賛成したのは10校、反対は東歯1校のみであった。東歯幹部はすなわち日歯の幹部であって、その体制はすなわち東歯である。東歯の政治力は、他10校が連合しても叶わないものを持っていたのであろう。そのせいかどうか、東歯創設者の血脇は国民医療法後も日歯会長を続けている。国民医療法では医師会、歯科医師会の会長は官選であったが、日歯は従来の血脇守之助が国から指名され、変化はなかった。
一方、日本医師会(日医)は医師法廃止→国民医療法施行による影響を、日歯より強く受けている。
会長は北島多一から日本医療団総裁の稲田龍吉に代わり、日医は医療団に吸収されるかのごとく、敗戦の瞬間まで発言力を弱めていく。戦後の日医――特に武見太郎の会長時代――が反官僚を強く打ち出していたのも、この時期に由来している。
だが日歯は、戦時色が強まったぐらいで、国民医療法による変化といえるものはない。
これは、東歯の政治力なのだろうか。それとも、国策として歯科は置いてきぼりを食ったのだろうか。もしかすると歯科界の人材を国は知らず、メンドーだから変化ナシでいいだろ的な考えからか。そして以上の全部が原因になったのではないかと考えると、暗澹たる気持ちになるのは否めないのである。

戦時の医歯一元化闘争Α/靴靴「医」

1942(昭和17)年3月発行「臨床歯科」より、浦本政三郎の寄稿文。浦本政三郎は慈恵医大の教授で生理学者。同年2月に施行されたばかりの国民医療法について、解説を行っている。

現在厚生省では健兵健民主義ということを主張しておるがこの法案の第一条では、まづ総則として本法が国民医療の適正を期し、国民体力の向上をはかることを目的とすと成文化されている。すなわち国民医療を適正ならしめることは、従来のごとき単なる個人医学、治療医学の建前において適正ならしめるというのでなく、体力管理法の立法精神と並行的に、国民全体の体力向上を目指しているのである。これを医業の業態からいえば、個人主義、自由主義的な形から国家主義、全体主義的な方向に変るのであり、医業の技術的基礎たる医学からいえば、国家医学、全体医学の方向に変らなければならないことになる。医学の実際からいえば、応用範囲が著しく拡大される。すなわち治療医学から予防医学の方に、換言すれば臨床医学から生理衛生の方に拡大応用化されてくる傾向を持つといってよい。従来の医療という概念を通り越し、生活指導の面にまで医学が進むことにより、初めて国民体力の向上を期することができるという建前になってくる。


生活習慣病が社会問題化した今は「生活指導の面まで医学が進む」のは当たり前の概念ではあるが、当時の臨床家が理解できたかどうか。医育で教授していたのかも疑問である。当時の厚生省予防局長であった高野六郎は「身体検査をして国民を健者、弱者、病者に3大分類し、健者はこれを練成し、弱者はこれを強化し、病者はこれを医療するのであるが、これはすべて医術によって行われる」(「医術と医道」1943年)などと書いているが、あまりに総花的だ。まあ、この数年後には指導も何も生活自体がたちゆかない状態になって、日本人は一億総栄養失調なんだけれども。
なお、国民医療法は医師、歯科医師のみならず、保健婦、助産婦、看護婦もその範囲に含めている。保健婦の活躍で、特に農村での健康指導が奏効していたのは事実である(木村哲也「駐在保健婦の時代 1942-1997」2012年)。この時代にコメディカル、コデンタルの立場の改善がなされていればなあ。

医療関係者の責任は、対個人的よりも、対国家的に重くなるのである。この事は医療関係者の生活経済面においてもまた同じ関係になり、患者依存経済よりも俸給生活による事が多くなることになる。しかしこの事は他方において医療を受くるものにとっても同じ原理が成り立たなくてはならぬので、体力管理法の法的精神より明かなように、個人の健康なり、体力なりというものは、単に自己自身の責任であるのみでなく、国家に対する責任ということになって来る。


「患者依存経済よりも俸給生活」――つまりは個人診療所から公的病院へ、と。で、それまで医業広告でよく宣伝されていた学位の記載が禁じられるのである。

医療関係者に対する行政権が必然的に従来より強化され、日本医師会や日本歯科医師会等が強制設立に改められその会長や理事や監事が官選となって主務大臣がこれを命ずるほか、一方においては病院診療所その他の施設を臨検監督することなども強化され、他方医療関係者の再教育をするということである。なおまた初めて医療関係者となったものに対し2年以内指定する事務に従事せしめることができるようになっておる。大学を出た医者は今後卒業後2ヶ年は命令によって修業しなければならぬことになるのである。


完全にファシズムであるが、武見太郎・日本医師会会長は戦時の全体主義を“アカ”と捉えているのは面白い。確かに、新体制ブーム期の日本、文化大革命期の中国、現在の北朝鮮には共通点が多く、バカ国家的ではある。

戦時の医歯一元化闘争ァ‖臚本新歯会の誕生

昭和17年、医歯一元化を実現するための有志の会「大日本新歯会」が結成された。
同会中央委員・委員長は日本大学専門部歯科を昭和5年に卒業した白土壽一。その他の会員には、統計学および民族医学の研究者・尾崎安之助鹿田定(九歯卒?)、楢原六郎、松本政雄(高等歯科医学校<東京医科歯科大学の前身>卒)、法学士でもある佐藤峰雄(日歯卒)、菅章(日歯卒)、法学士の国澤利明(日大歯卒)などがいた。日大歯出身者が多かったようだが、まあ、東歯卒以外はいたのであろう。
なお、前年の昭和16年には、口腔保健協会が発足している。
口腔保健協会は「国民の歯科保健向上」を目的とした組織で、会頭には大政翼賛会顧問の安達謙蔵が、理事長には国立公衆衛生院初代院長の林春雄が就任している。理事には佐藤運雄金森虎男長尾優らがおり、今田見信が事務を引き受けている。口腔保健協会の設立も、大日本新歯会と同じく“新体制”樹立の一貫だったと思われる。大日本新歯会にしたって、医歯一元化によって「国民の歯科保健向上」を目指したのである。

さて、1942(昭和17)年3月発行「臨床歯科」には、同年2月22日に大阪府歯科医師会館で開催された「大日本新歯会関西講演会」の要旨が掲載されている。「臨床歯科」は森田齒科商店(現モリタ)が大正5年に刊行した歯科雑誌で、昭和7年6月号まで無料配布されていた。有料後の読者数は5600〜6000ほど。

国民医療ならびに保健衛生の完遂を期する意味におきましても従来の歯科医学教育を一般医学より独立して別個に行い、歯科医師という医にしてしからず、技工師にしてしからずのような変態的な存在はこの際廃止すべきであります。現在のような機構を永続する限り業域問題を惹起するばかりで、到底職域を通じて到底奉公できないと信ずるのであります。
(医学博士・船生秀夫「保健国策に関する一方策」)

演者らは「歯科医師という医にしてしからず、技工師にしてしからずのような変態的な存在」の廃止を異口同音に訴えている。

口腔および歯牙に疾患があっても、身体のどの場所にも影響するものではなく、これと反対にまた身体に病気があっても口腔には悪い影響を及ぼしたものではないから歯科医は歯牙および口腔疾患の治療を行う場合には、身体の他のいかなる場所にも治療を行ってはいかぬというふうに、昔の人がよってたかって、法律化したのがすなわち今日の歯科医師法である。皆様今日のごとき、予防医学および歯科医学の発達した昭和の御世においてさえ、また世界歴史に見たことのない大東亜戦争によって得た、共栄圏確立のため、人的資源不足の今日、医人でありながら医師の付随者のごとく取扱われているために、国民保健上必要なる医療を行い得る実力を持ちながら歯科医師法によって行うことのできないことは、時期が時期なるがためにことさら残念である。
(医学博士・江西甚良「歯科医育はいかにあるべきか」)

その主張は、大正12年の医師資格獲得運動とほぼ同じ。だが戦争という時局が彼らを勢いづかせている。いわく「共栄圏確立」「人的資源不足」などなど。当時、日本人の誰もが否定できなかった言葉を、医歯一元論者は楯とした。
なかでもこの時代、にわかに注目されたのが予防医学である。従来の医療が疾病治療偏重であることは、軍部からも批判される戦時医療の課題であった。戦時には、そもそも病気にならない健康で強い兵士が必要になるからである。

現在歯科医師に与えられた権限において歯科領域における医療が申し分なく行われるか。もしできるという者があれば、その歯をめぐり歯を養う血が全身をめぐる血である事を知らない馬鹿者である。
(医学博士・松本政雄「歯医者の否定」)

松本政雄は当時、東京医学歯学専門学校(今の東京医科歯科大学)の教授で、戦後は群馬大学医学部の生理学教授になっている。村上徹「わが修行時代」によると、かなりのキレ者で、しかも激しい性格だったようだ。いわく「大学でも変人で通っていたし、つねづね、ご自身、自分は気狂いだと称されていた」。

一般医学が進歩すればする程、局所の障害が全身的関係において現れることがますます明かになる。従って歯科領域においても今日一局部のみの処置によって一見満足しうるとするも明日はすでに全身的療法をより重視しなければならない結果となる場合の起ることは当然のことである。すなわち今日歯科医を訪れる患者も明日は外科医に行き内科医に行くこととなるだろう。
かくして歯医者の領域が日に日に狭められついに歯医者の存在はまったく否定せられ技工屋として残る日も遠くないであろう。
(医学博士・松本政雄「歯医者の否定」)

70年を経た今でももっともな主張だが、ただ一点、「技工屋として残る日も遠くない」というのはハズした。技工屋ですらなくなる時代が来るとは、誰も予想できなかったようである。

歯医者が入れ歯をいれることちょうどこれは外科医が義足をつくり、眼科医が眼鏡を入れることに何の変りはない。外科医はあらゆる可能な処置の末ついに足を切り義足をつくるのである。外科医がしばしば義足を作ることは決して名誉ではないのである。もしそれは医者にして義歯を入れることに専念し義歯を入れるからといって治療費をサービスする者がありとすれば義足を作るために治療費をサービスする外科医と同じことである。かかる外科医がこの世にあるであろうか。
(医学博士・松本政雄「歯医者の否定」)

実際、義歯をつくる場合は治療費を別に請求しなかった歯科医師は多かった。これは義歯料金に治療費を含めていたということで、今で言うマルメである。診断と治療という医師・歯科医師にしか許されない医行為を軽視する歯科界の慣行を、松本は批判する。

入れ歯を入れなければならないことは患者の責任であるとともに歯科医界の責任であり恥である。それにもかかわらず入れ歯に専念せんとする歯医者があるならば吾人は何をかいわんや。
(医学博士・松本政雄「歯医者の否定」)

「臨床歯科」の編集者・奈良隆之助(昭和3年日歯卒、1904-1981)の傍聴記も掲載されているが、いわく「全般を通じてすこぶる迫力にとんだ仲々感銘の深い講演だった」。で、こんな後日談もある。

あの講演があって間もなく、ある青年歯科医は次のような事を非常な情熱と感激とで語っていた。「私はこれから高槻の医専に入学しようと思います。これからひとつがんばりやってみますよ。そうすると、34〜35歳で立派な医者になれるのです。」
「お医者さんになったら、もう歯科などはどうでもいいというようになるし、それにまたやりたくなくなるのが人情ですが、それでも歯科を標榜するのですか」と私は反問すると、
「勿論ですよ。医者に逃避するのではなく、どこから観ても落ち度のない歯科標榜医になるためです」というのであった。
(奈良隆之助「大日本新歯会関西講演大会観傍記」)

医歯一元化運動に共鳴した歯科医師が全体のどのくらいを占めたのかは、わからない。しかし医歯一元論が説得力を持っていたのは確かであろう。今現在にも通用する正論だからである。それを主張した歯科医師たちがただ時局に押されていた、時機に便乗しただけであった、とも思われない。実際に、歯科医師は歯科医師法によって臨床上の不都合を感じていたからである。
なお、修行年限であるが歯科医専は3〜4年、医専は4〜5年で両方出るとなると7〜9年が必要だった。7〜9年も学費を払い続けられる学生はそういまい。医師になりたいなら医専に入りなおせ、という二元派の主張は非現実的であった。

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「健兵健民の経費として879万円」が昭和17年度の追加予算として計上されたという、昭和17年1月13日の記事。

17年度厚生省追加予算中、主なるものは軍事扶助費、軍人援護に関する経費ならびに健兵健民に関する経費で、なかでも健兵健民の経費として879万円が追加されたのは注目される。
即ち、本経費は医療法の施行と相俟って国民健康保険の画期的拡張を計り、国民体力法改正、乳幼児の体力手帳、妊婦の保健指導など国民の健康を確保し、長期にわたるべき大東亜戦争を永久に戦うべき民族増強策に資せんとするものである
1942年1月13日付大阪毎日新聞)

軍事費は188億3674万円、総予算の77.2%を占めたとココにある。しかし厚生省予算も軍事的だ。厚生省自体が軍の要請でつくられているのだから当然か。
それにしても――昭和17年1月にはすでに、戦争が「長期にわたる」という認識が新聞にあることは驚きだ。そもそも真珠湾攻撃は“半年や1年なら暴れてみせる”と短期決戦を考えていた山本五十六が計画したもので、だから奇襲なんだと思っていたのだが。しかし実際は開戦からひと月後の昭和18年1月には、日本人は「永久に戦うべき民族」となり、予算が組まれている。そしてこの戦争が「長期にわたる」という認識は、広く日本人に――特に一般庶民に共有されていくようなのである。

政府当局者がるる繰返し繰返し国民に要求している如く、われわれの目から見ても長期戦は必至であって、わが歯界人の重責は今後一段と期待されるのは必然で、さらにこの時に医界の中にわが歯界が内陣を作り、殻を堅くして一元連合せざるが如きことはあり得べからざるところで、軍政両略の一致、国民総力の結集の事実は医・歯界一元体制を当然の事として迎えたのであって、新医師会令の実施は旧体制を勇敢にかなぐり捨てる事をわれわれは約束せしめていると見てよいのであるから、新医師会の結成に向っては旧体制的心情を一掃し、全医界人は私を空しくしてまづ清新なる新医師会の建設を誓うべきである。
(題言、1942年9月21日歯科公報)

上記は歯科公報の主幹、今田見信が書いたもの(多分)。「新医師会令」「新医師会」とあるが、今田見信は歯科医師会の意味も含めている。もしかすると、医師会・歯科医師会を一本化すべきだという願いをも込めているのかもしれない。今田見信は大正12年の歯科医師の医師資格獲得運動からのしぶとい医歯一元論者で、彼が率いる歯科雑誌「歯科公報」は昭和の医歯一元化運動をリードした。この「題言」(編集後記、または社説的なコラム)は昭和17年2月に国民医療法が公布され(医師法と歯科医師法は廃止)、それをもとに新しい医師会令、歯科医師会令が8月に公布されたことを受けての文章である。
さて、新医師会・新歯科医師会令では両会のなすべき事業として、

^綟擦凌矯
医療および保健指導に関する医師の補修
0緡鼎よび保健指導の普及および向上
け卆源彖曚侶屡
グ緡鼎よび保健指導の調査研究
Π絛鳩弍弔硫善
Г修梁礁榲達成

医師会令・歯科医師会令第12条

を規定した。
旧医師会・歯科医師会は開業医の団体であったが、新しい会には「全医人」の加入が強制されている。大学や学会、病院に所属する医師・歯科医師がすべて医師会・歯科医師会の会員となるわけで、よって医師会・歯科医師会は学会や大学の業務も行うことになる。なすべき事業として教育や調査研究が含まれているのは、そういうことであった。医師会、歯科医師会は法的にも、医道に関する巨大組織となったのである。
大東亜戦争時期の日本は、巨大な帝国であった。
そして国民は“和をもって尊しとなす”伝統のもと「私を空しくして」、一億総火の玉ならんとした。ではいっそ歯科医師も医師と和合し、さらに巨大な組織になろうではないか、医育も医科と歯科で統一しようではないか、という意見が出るのも当然の世相であった。そして、この時には、大正12年の際に見られたような医師からの反対もなかったのである。昭和17年の医療界は予想される医師不足の解消がその課題であり、そのために新体制を目指すことが容認され、推進されたのである。

かりそめにも旧体制的な裏面工作や、情実に堕した行動の微塵にもないことを期すべきである。
かく清新にして逞しい新医師会の建設されることは大東亜建設へのわが職域の第一奉公であるのである。

戦時の医歯一元化闘争 宣戦の大詔

昭和16年12月16日(火)、日本歯科医師会は東京・九段下の軍人会館で「詔書奉載全国歯科医師報国大会」を開催、全国から3000人以上の会員が参集した。
8日(月)の真珠湾攻撃→対米英宣戦公布で、日本は最高に盛り上がっていた――いや、「恐懼感激」(ありがたさに恐れ謹み、 深く感じ入って心が奮い立つこと)し、あらゆる組織や団体が報国大会や祝賀会を開催して、気焔を上げていたのである。以下は開戦を受けて日歯が出した宣言。この高揚感、現代語訳は不可能である。

宣言

米英両国に対し、かしこくも宣戦の大詔を渙発せられたるはまことに恐懼感激にたえざるところなり。
わが誠忠勇武なる皇軍将兵は神速果敢なる行動により緒戦すでに敵国を膺懲失神せしめたり。
その勲功の偉大なる言語文章のよく尽すところにあらず。
しかりといえども大東亜戦争の前途なお重大なるを想うとき我等は御稜威の下不動鉄石の信念をもってあらゆる困難を突破せざるべからざるなり。
顧みて我等の職域を通し国民保健衛生の実情を察するに戦時下寒心に耐えざるもの少なからず。
我等進んで皇国の道にのっとる医界新体制を確立しこの新しき旗幟の下に職域御奉公の忠誠を戮さんか銃後の護りますます固く大東亜建設の前途に貢献するところ大なるものあるを確信して疑わざるなり。
ここに本大会を開催し、詔書を奉戴して全国歯科医師2万有余の総力を傾け心血を捧げてもって皇運を扶翼し奉らんことを誓う。
右宣言す。
(日本歯科医師会史 第1巻、下線は引用者)

「新体制」は当時の流行語。
新体制とは、聖戦を制して大東亜共栄圏を樹立せんがための新たな体制、を意味するが、今の感覚ではむしろ“改革”に近い感じか。当時の新聞には経済新体制、教育新体制、社会事業新体制、金融新体制などの言葉が踊っている。敗戦まで続くこの新体制ブームが日本の社会にもたらした変化はというと、例えば高度経済成長ほどではなかったろうが、明治維新ぐらいはあったかもしれない。言論統制は厳しくなっていくが、しかし、報国や天皇を楯にすればナニを言っても良かったという一面もまた、この時代にはあった。医歯一元論がまさにそれだ。この時機を逃さず新体制をつくろうとした歯科医師の主張、それが一元論であった。
さて、日歯が報国大会を開催した同日に、医療関係者徴用令が公布されている。これは医療関係者を軍需工場、無医村、医療団などに強制勤務させる勅令であった。以下の決議はこの徴用令を意識してのものだろうが、

決議
一、我等は万難を排し身命をなげうち、誓って敵性国家軍の壊滅を期す
一、我等は医界新体制を樹立し、至誠もって職域奉公の実を挙げんことを期す


同じ頃に盛り上がっていた医歯一元論は、全力で無視する日歯でもあった。日歯は戦時も一貫して、旧体制であり続けたのである。
ちなみに、開業医師はこんな感じで動員されていた。
小石川の後楽園に忠霊塔が建設されるので、そこの現場の救護班として、勤労奉仕に順番で目黒区医師会の人達がいっていましたが、今日は、高橋の出張する番でしたので、早起きをして、7時には出かけました。「戦争がまだ終りもしなければ、勝利の見込みだってたっていないのに、忠霊塔もないものだ。そんなお金があったら、今は、もっと使わなければならない方面に使ったらよさそうなものなのに――」と、ぶつぶつ言って出かけましたが、半日交替で、昼頃帰えってきました。
(1943年1月19日の記述、高橋愛子「開戦からの日記」1955年)

歯科医師の動員も、まあ似たようなものだったろう。国民体力法(昭和15年)を見ると、医師と歯科医師は対等の扱いである。今現在であれば日本医師会が文句(歯科医師の診療範囲は口腔内に限定すべき、とか)をつけてくる可能性が高いが、当時の日医は政治力を失くしていて諾々と――というよりも“寝耳に水”状態でさまざまな関連法規を飲まされた。日医は国から新体制となることを強制されていたといえる。
ちなみに、この日記に出てくる「高橋」氏はアメリカで教育を受けて医師となった人で、

「陸軍の少佐が現場監督をしているので、その人に、英語の国と戦争するのに、日本は今、英語廃止をするのに懸命になっているが、ばかばかしい矛盾な話であることを話したら、その将校は、私もそう思います――と案外すなおな返事をされたんで、ちょっと、びっくりしたよ。もっとも、本心はどうかわかったものではないが」と、高橋は、現場での話をしておりましたが、将校をつかまえてこんなことをぬけぬけと遠慮なくいったことは、ほかの人達をおどろかしたようでした。


その率直さ、物怖じしない態度がアメリカンである。日本の歯科界がアメリカを信奉していたことを考えれば、むしろ歯科医師にこういう人はいそうであるが。

戦時の医歯一元化闘争◆_浸も新体制

日中戦争勃発により、戦力増強を目指して体力向上や疾病予防に関する法律や規則が矢継ぎばやに出された。その多くが平和時に議員提出の形で法案が国会に提出され、審議未了で廃案になったものであった。したがって戦争が起らなければ、国民総生産の低いこの時代にこうした施策を直ちに実行に移す可能性は少ないはずである。それが戦争のおかげで実現したのは皮肉な巡り合わせとしかいえない。
(酒井シズ「日本の医療史」)

というわけで、平和時には顧みられなかった医療関係法が盧溝橋事件から続々と制定された。特に昭和13年5月に施行された国家総動員法以降は強い兵隊をつくるためなら何でもやるぞ、とばかりにそれまで軽く見られがちであった歯科疾患にも国家が注目するのである。実際、う蝕の多さは徴兵検査でも問題になっていた。
「ある医学徒の青春」の著者、渡部智倶人は「身長174センチ、体重70キロで、日本人の平均的体格以上」、しかも筋肉質で腕力には自信があったにもかかわらず、少年時代の中耳炎と乳嘴突起炎による聴力障害と「歯カリエスが多いこと」などが原因となって第一乙種となっている。
さて、当時制定された歯科の関係法令をピックアップしてみると、

昭和13年9月 医療関係者職業能力申告令制定
昭和14年5月 厚生・文部両次官発「齲歯予防思想普及に関する件通牒」
昭和15年5月 帝大7校、官立医科大6校の計13校に附属臨時医学専門部を設置


附属臨時医学専門部は定員150人/校、年間2000人の軍医を養成する計画であった。だがそれでも軍医は足りないと予想され、厚生省はその対応策として“歯科医の短期訓練”を挙げていた。で、これが昭和19年の歯科医師の医師資格取得制度(ダブルライセンス制度)につながるのである。
昭和15年6月には第2次近衛内閣近衛のもと、一党独裁・挙国一致を目指す新体制運動がスタートするが、医療界においても「医道精神作興運動」が盛んになる。

何事も新体制
▲当時の歯科用セメントの広告。

昭和15年9月 国民体力法施行

国民体力法は戦争完遂のための“強兵”を確保する必要性から、国が国民の体力を管理する法律である。不健康、病弱、病人、障害者は法的にも非国民なのであった。国民体力法の第9条には、実際に国民の体力を管理するのが医師、歯科医師であることが明記され、

第9条 検診、療養の指導その他体力管理に関する医務に従事せしむるため国民体力管理医を置く。
国民体力管理医は医師または歯科医師につきこれを選任す。
医師または歯科医師は正当の事由なくして国民体力管理医たることを拒むことを得ず。(国民体力法)


拒否権もなかった。さらに、拒否権ナシの医療関係者徴用令が追い討ちをかけるのである。

昭和16年12月16日 医療関係者徴用令

現在の保険医指導・監査における厚生技官の態度を聞くと、この医療関係者徴用令の意識が官僚にまだ残ってるんじゃないかと思うのだが、それはともかく。同日に、日歯は「詔書奉載全国歯科医師報国大会」を開催し、諸手を挙げて協力を誓っている。もはや徴用令に異を唱える医療関係者は皆無、大正デモクラシーは完全に過去のものとなっていた。

昭和17年2月 国民医療法公布

国民医療法は従来の医師法・歯科医師法を廃止し、医師会・歯科医師会を国策に協力する官制機構にする法律。後の医歯一元化運動勃発の契機となる重要な法律である。この頃には医療材料はほぼ配給制になり、配給を管理する医師会・歯科医師会の重要度も増している。

昭和17年9月 文部次官通牒「国民学校体錬科教授要項について」

体錬科とは昭和16年の国民学校令制定により、それまでの体操科が体錬科になったものである。この通牒により武道と並んで「衛生」領域が新設され、「口腔の清潔」の履修がマストとなった。
昭和18年8月には歯科医師補習教育計画が厚生省より指示され、

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▲“練成”風景

歯科医師も、ふんどし1枚で滝に打たれるのである。

明治の日本は官民上げての欧米崇拝があり、洋行帰りや欧米人から直接治療等を学んだ人が花形であった医療界は特にその傾向が強かった。日中戦争以降はこれが一転、天上天下唯我独尊の中華思想の時代になる。上のフンドシ姿もその一端である。で、その過剰なまでの愛国心に、私はむしろ鬱積した劣等感を感じるのである。この劣等感はドイツに顕著で、第一次世界大戦の敗戦国だったドイツがプライドをかけてブチ切れたのが第二次世界大戦であった。しかし日本にドイツのような屈辱はあったっけ――と考えるに、やはり明治であろう。明治の日本は欧米の植民地だったんじゃなかろうか、精神的に。大東亜戦争はアジアの解放を旗印にしていたけれども、本当は自らが解放されたかったのではないのか我が日本よ。現在、かつて植民地だった韓国や北朝鮮が日本にムカついているのと同様の状況が、大東亜戦争時代の日本にはあったと思うのである。

イタリア降伏

本日は第二次世界大戦で、イタリアが降伏した日(1943年9月8日)なり。
下は当時の日記。

9月9日 木曜日
9月4日に英国はイタリーに上陸したというニュースがありましたが、今日は、とうとう、イタリーが無条件降伏したことが午後レデオで放送されました。この報道を聞いて色を失って驚いている人がありましたが、もうそれは、一ヶ月半ばかり前に、ムッソリーニの政権が倒れて、パドリオ政権が建った時から、降伏は月日の問題となっていたはずであったと思うので、何にも今日イタリーの降伏を聞いたからといって、ちっとも驚く必要のないことではありませんか。でも、新聞には、イタリーが降伏したからといっても、ムッソリーニは北方にたてこもって、北イタリーというものを標榜し起っているので、三国同盟には何等ゆるぎなく変りはないと書きたてていました。ちかごろの新聞ニュースというものは、万事がこのような筆法なのですから、人間の五感はおろか、六感も七感も働かせて、自ら真相を見きわめることにつとめないと、とんでもないあやまちがあるように思われ、危険この上もない感じがいたしますのです。
いずれにしても、日独伊の三国同盟の一つの国がくづれ落ちてしまったことは、われわれとしては、いよいよ、心もとなさを感じさせられるのでした。城の一角が、くづれたことは、最早、挽回の見込みのない、敗戦を思わされますのですが、早く降伏しても、城の内の者が皆殺しになるまで戦っても、いずれは責任を問われるリーダー達にしてみれば、われわれ人民のおもわくはどうであっても、行く処まで行く気持になるのではないでしょうか。おそろしいいことだと思います。
(1943年9月9日の記述、高橋愛子「開戦からの日記」1955年)

傍線は引用者。実に鋭い観察である。清沢洌「暗黒日記」によると、イタリア降伏後の新聞報道はイタリア攻撃一色となり「昨日まで『イタリア、イタリア』と言っていたのが、今日文芸欄まで動員しての悪口だ」。その悪口が政権批判につながらなかったのは惜しい。
ちなみに、イタリアは第二次世界大戦の戦勝国である。1945年7月15日には、連合国側の一員として日本に宣戦布告もしている。でもって戦後は当然のように日本に賠償金を請求しているのだが(日本は無視)、まあ、軍事同盟なんてそんなものだと思う。

戦時の医歯一元化闘争 ‘歯豹変す

昭和20年、歯科医師が医師免許を取得できるダブルライセンス制度が発足した。
コレで医師免許を取得した歯科医師は137人。戦時の医師不足解消を目的とした臨時措置であった。

さて、日本歯科医師会(日歯)が歯科医専卒業者を医専の上級に編入させるよう、厚生・文部両大臣に上申したのは昭和18年5月28日である。以下、原文(そうろう文)を現代語訳した。

歯科医学専門学校卒業者を医学校の上級に入学させる件上申

歯科医学専門学校卒業者(歯科医専)にして歯科医療に挺身することはその当然の職域であるが、さらに医学校に入り、医師資格を得ることを希望する者もまた、少なくない。これは自己の資質に鑑みて他科診療に転じようとするものであり、あるいは一般医療の修習によりその診療能力を充実しようとするものであり、あるいは大東亜圏内に活動するために歯科医師であると共に医師である必要を感じる場合がある、等の理由によるものである。本会においてもこれに対処すべき方策を研究し、すでに昨年、国民医療法制定当時に意見を開陳した次第である。
現在歯科医専卒業者にして医師になるという途は、
一、医科大学に入学して4ヶ年の過程を終了して、医学士となること
一、2、3の私立医専上級(5年制医専では第4学年、4年制医専では第3学年)に編入して2ヶ年の過程を修め、卒業すること
であるが、前者では進学の門戸が極めて限定されるし、後者では歯科医専で既修した学科を生かすことはできるが入学を許可する学校はごく少数にとどまるのが実情である。本会の要望するところは全官公私立医専において、歯科医専卒業者に対しあまねく上級編入の機会を与えるよう、当局で適当な規定を設け、すみやかに実施していただきたいということである。
(日本歯科医師会史第1巻、傍線は引用者)

さらに昭和18年12月30日、日歯は歯科医師の医師への転用制度創設を、陸海軍および厚生・文部相に要請する。

医師の急速充実に関する件

大東亜戦争の決戦現段階において前線銃後を一貫し、人的資源の増強確保を図ることは完勝への唯一の途であることは論を俟たないところであり、特に広茫数千里にわたる酷寒炎暑疫癘の地に作戦を進め、日夜激闘を展開しつつある、凄愴苛烈な戦況に思いを致すの秋、軍医の充実は真に喫緊の要諦であることを痛感させられる。また銃後生産陣営の保健衛生に、はたまた防空、救護の対策に、寸時の休止を許さないということもある。この際、医療担当者の急速充実策を講ずることは、焦眉の急に迫られあるものと考えてられる。
政府に於ては医育機関の拡充、その他右対策に万全を期せられており、全幅の信頼を捧げるものである。しかしながら正規の医育機関に拠る補充には数年を要するものと思われ、この際、急迫している現状を打開する方策として、歯科医師に転医の途を拓かれることをここに建言する次第である。
わが国民歯科衛生の現状と歯科医師数より観て、歯科医療の完璧はなおいまだこれを期待し得ない儀にあるが、この国家危急存亡の重点主義の観点に於て、応急措置としてこの方法を採るもまた、やむを得ないことと考える。
よって、歯科医師を転医させるには歯科医学専門学校卒業者を官公私立医学専門学校の第3学年、または第4学年(5学年制医専の場合)に入学させることを、最も捷徑(引用者註:しょうけい。近道のこと)にしてしかも妥当の方法であると考える。もしこれにより、なおかつ所要を充足し得ない場合は、過渡期の便法として歯科医師に医師受験資格付与の途を拓かれることも、また一方法かと考える。
なお、前者に付ては従来、歯科医専卒業者にして医師になる資格を取得することを希望する者が少なくないにかかわらず、進学の途が閉鎖されている現状であることに鑑み、この打開策として本年5月に厚生、文部両大臣に上申書を提出している次第であり、ご参考までにその写しを別紙の通り、貼付申し上げる。
現時、男子歯科医専7校に於ける卒業生は毎年1200余名に達している状況であり、幸にして叙上の方策を速かに確立したならば一挙に所要の医師を充足でき、前線銃後を通し真に医療の完遂を期すことができることと確信している。


要するに、戦時の医師不足を歯科医師の活用で解決してほしい、というお願いである。
日歯はこの上申を議会にも請願として提出し、昭和19年3月にコレが採択されて、歯科医師の医師転用制度が具体化することになる。
その一方、日歯はこんな通知をその配下の歯科医師会に出している。

医師の急速充実に関する上申書提出に就いて
日本歯科医師会
昭和19年1月

本会は昨年12月30日付を以て厚生、文部、陸軍、海軍各大臣閣下に対し、医師の急速充実に関し末記のような上申書を提出した。本会が何故にこのような上申書を提出したか、その趣旨を説明して歯科医師諸君の了解を得て、併せて協力を切望する次第である。


前半は上申書提出に及んだ経緯を説明しているのだが――

現在、第一線に於ける医師は著しく不足を告げ、緊急増員の要があり、特にその対策として国家は医専の拡張または増設を企画され、着々と実現されているのであるが、この方法を以てしては数年後に目的を達成できることはもちろんであるが、現下の急迫している非常事態を打開することは出来得ない、よってその応急策として有志の歯科医師に転医の途を拓くことが焦眉の急に応じる国家の施策と信じるのである。歯科医師は相当の医学的教養を有し、国民中最もよく医師としての知識と技能を備えるものであるから、これに短期の補習教育を施せば医師として活動させることが最も捷径で、かつ妥当と考えられるのである。


この通知書のキモは、後半にある。
いわく、歯科医師は不足しているし必要なのだが、医師需要のほうが大きく急だから歯科医師を転医させる、というのである。

ここで誤解を避くるために一言しておきたいのは、歯科医師が不用であり、過剰であるから医師にするのではないのである。
歯科医師は現在に於ても不足の状態で、現に数千の無歯科医療町村に対し国家は補助金を交付して挺身診療を実施しつつあるのであって、これは国家自身が歯科医師の不足を深く認識している証拠である。しかしながら、国家の存亡を賭する決戦段階に於ける緊急的事態を大観し、重点的に考えれば、現に不足しつつある歯科医師を医師に振り向けねばならぬ事情は容易に諒解の出来るところであろう。現在それほどに医師の需要は大量でありかつ急を告げつつあるのである。かかる認識から本会は上申書を提出したのであって決して本会は歯科医師制度の否認に賛成するものでなく、あくまでも歯科医師制度の発達助長に寄与しようとするもので、本上申書のごときも、根本に於て歯科医師制度に立脚し、歯科医師たる資格を有する者に一定の方法により医師資格を得させようとするものであって、要するに歯科医師の力を結集して国策に協力しようとする緊急施策なのである。
諸君は叙上本会の意を諒とせられ、現制度の下に国家の要請に基きその課せられたる職域に於て国民保健衛生に精進し、その完璧を期せられんことを望む次第である。


ダブルライセンス制度は従来の歯科医師の否定ではない――ということを念押ししている。そしてこの転医制度は「あくまでも歯科医師制度の発達助長に寄与しようとするもの」と強調するのだが、同制度がどのように従来の歯科医師制度に寄与するのかは、全く触れないのであった。

日歯がクドクドと言い募るには、ワケがある。

国民医療法の制定で、歯科界には“医歯一元論”が盛り上がる。それは「歯科医師たる資格を有する者に一定の方法により医師資格を得せしめんとするもの」であったのだが、当初、日歯はこれを歯科医師制度を否定するものと一顧だにしなかった。

東歯のみが現行の規定の歯科医師である事を望むならば東歯出身者のみの歯科医師を養成したらどうでしょう。
(境信愛・関東大歯会理事「東歯同窓会の『我等の主張』を読みて」、1942年9月1日発行「歯科公報」)

昭和17年代の日歯、そしてその幹部を輩出していた東京歯科医学専門学校(東歯)は、歯科医師法に固執していた。歯科は医科の中の一科ではなく、医師とはまったく別個の医療を行う者であるという主張を繰り返していた。医歯二元論である。そんな日歯の態度を変えたのは、戦局であろう。昭和18年、学徒動員が始まる。国は臨時医専までつくって速成の軍医養成を図りつつ、その医専入学者を勉学よりも軍事教練で忙殺(山田風太郎「戦中派不戦日記」)する。

戦時期における医専の新増設
▲戦時下、医専の開設状況(坂井建雄編「日本医学教育史」)

歯科医師のみが変化を拒否することは、世相的に不可能となっていた。

「医は仁術なり」との言葉は、われわれのよく聞かされるところの言葉であるが、それは形骸的な言葉と化して、具体的には実践されなくなって既に久しい。思うにこれは、明治の文明開化以来、いわゆる米英思想の根底をなしている個人主義、功利主義がもともと仁術たるべきわが国の医道の中にも何時しか浸透して行って、医術が一種の営利と化した結果に他ならぬ。(略)しかしながら、医術が営利である時代はすでに終ったことを銘記しなければならぬ。医はその本道たる仁術にかえるべき時代が来たのである。
厚生研究会「国民医療法と医療団」1942年)

国民医療法下の新生・日本歯科医師会が発足したのは、昭和18年1月15日。
同月28日には新役員人事が厚生大臣より指定され、会長の座には従来どおり血脇守之助が収まった。
だが、日本医師会(日医)は国によって会長がすげ替えられている。日医は健保法等で国の主張に反対し、マスコミからも独善とと批判されるなど、厳しい時代を迎えていた。

「(日医、日歯の改組は)もちろん必要である、時代は移るものである。旧体制下のものが新体制下の今日そのまま通用すると思うことが根本から間違っている」
(昭和16年6月に成立した第3次近衛内閣の厚相・小泉親彦、その大臣就任後初の記者会見にて)

日歯が本心から、歯科医師の転医制度やダブルライセンス制度を望んだとは、私は思わない。「歯科医学専門学校卒業者を医学校の上級に入学せしむるの件」も「医師の急速充実に関する件」も国、恐らくは軍部からせっつかれて出したものではないか。それくらい、日歯は医歯一元論に抵抗していたし、東歯は医歯二元論者の牙城だった(後述)。日歯とその東歯卒幹部が望んでいたのは、従来の歯科医師制度の存続と、歯科医政の東歯卒幹部による独占である。後者は国により保障された。その後の新生歯科医師会は、国に逆らう余力をなくしたのだろう。

戦後の医師会 高橋松太事件

高橋が都医師会の方で、あのような卑怯なことをされてから、もう再び、こんな事にはたずさわらないと決心したのでしたが、自分の住んでいる、目黒区医師会の方で、終戦後作成された民主々義的会則によって、次年度会長に選ばれましたので、その職務を果さなければならない立場から、目黒区医師会の方でのごたごたに、再び巻き込まれることになったのでした。
(1943年9月9日の記述、高橋愛子「開戦からの日記」1955年)

東京都医師会に代議員資格を剥奪されたりしつつ、今度は目黒区医師会会長に選ばれた高橋松太。都医師会も手を出せない地位に上り詰めたわけである。コネも(恐らくカネも)なく、社会的地位にも恬淡だったろう彼が会長になったということは、それだけ純粋な期待が彼に集まったということである。推測するに、高橋松太はアメリカンなナイスガイだったんじゃないか。その明るさと行動力、英語力が敗戦後の暗い医師会でひときわ輝いたんじゃないだろうか。憶測だが。
閑話休題。高橋松太は目黒区医師会会長になったものの、しかし前会長の妨害が入る。目黒区医師会では定期総会にて会長の交替が行われるのだが、現会長がその定期総会を開かないのである。

前年度会長は腹心の者と密計をして、任期満了になっても職を辞さないで、依然として自分は会長であることを主張しながら、さかんに、会長の権限をふりまわして、会合を持ったり、同志を集めるのに奔走したりしているのでした。自分はいまだ会長の権限があって、次年度会長に選ばれた高橋には、いまだ会長たる資格はないことを、会員一同に声明した印刷書には「念のため一応本会々則を参照いたします」と書いて、
(1)次年度会長は定期総会開会直後会長に就任する。
(2)会長は次年度の総会の開会直後前年度会長となる。
という2項目を会則から抜き書きして、会員一同に通知しましたのでした。
自分が満期がきても、なお会長になっていたかったら、定期総会をいつまでも持たないことによって、会長の権限は無制限に保たれるものと、まことに古今東西無双の解釈をつけて行動しているのでした。


前会長は、会も会長職も私物化している人物であった。よくある話である。こういう公私混同タイプが会長になると、長期政権化しやすいのも日本の組織の特徴である。
高橋松太も対抗して総会の招集状を出したりするも、これにも妨害が入る。さらには「別な大同団結などという旗印をかざして現れてきた一隊」も出るありさまとなり、ついに「数を持たない高橋は数の上で敗北」する。

彼らは結局、医師会を民主化されたり、高橋のような異分子に、「会長の席」をのりとられるであろうことをおそれて、そのためには、ものごとの正邪善悪も考えてはいられないのでした。正義より人にひれふす日本の社会であるのでした。


「正義より人にひれふす日本の社会」――名言だ。川柳調なのもステキである。

さて、話は飛ぶが。

8月21日に第5回 健保法改正研究会シンポジウム in 九州(福岡)が福岡朝日ビルで開催されたので、行ってきた。同研究会は“保険医・保険歯科医の人権をガン無視した、現在の保険診療に関する指導・監査の改善”を目的とする弁護士と医師、歯科医師有志の会である。シンポジウムでは指導監査をめぐる各地の実態や、健保法改正案の実物が紹介されて面白かったのであるが、特に印象深かったのが、郷原信郎弁護士による「岐阜県警違法押収事件」の紹介である。

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▲郷原信郎弁護士。

この事件は健保法、ひいては保険医の指導・監査問題とも深くかかわっている。ざっくり説明すると、岐阜県笠松町と各務原市で介護施設と心療内科クリニックを兼営する「社会福祉法人徳雲会」が、医療法違反で岐阜県警により捜査および差押を受けたが、捜査内容に法もクソもなかったため、明るみに出た事件である。
徳雲会の容疑は、同会が経営する診療所の管理者が25日間「兼任状態」にあったというもの。これについては法定刑で20万円以下の罰金となっていて、ガサ入れする必要はない。しかし岐阜県警は容疑と何の関係もない押収を行った。介護記録やカルテ、処方箋などを一切合財(数千〜数万点)、しかも100人体制で持っていったのである。

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▲捜査の前には、執拗かつ“要領を得ない”監査があった。

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▲そして県警、厚生局、医師会の妙な動き。

郷原弁護士によると、この捜査や押収は“診療所の開設妨害”という刑事事件とは無関係の目的で行われ、それには地元医師会の“意向”が関係している疑いが濃厚という。なんでも、徳雲会の診療所の近くには各務原市医師会長で、岐阜県医師会会長でもある(7年も)内科医が開業しているそうだ。と聞けば、思い出すのは山梨県の保険医療機関指定取消処分等取消請求事件(溝辺訴訟)である。溝部訴訟の概要を読むと、県および地区の医師会がタッグを組んで原告の溝辺医師を監査に追い込んでおり、そして原告と、その所属する地区医師会会長は共に小児科の開業医であった。両者のクリニックは、実にご近所なのである。溝部訴訟は患者の支援があってなされたものであり、ということはその診療所は多くの患者さんから愛されていたというわけで、まあ、よくある話ではある。経営がらみの嫉妬とは恐いものだ。近所に新しくできた歯科診療所に、火をつけた歯科医師もいるくらいである。その放火した歯科医師の歯科診療所も患者が多かったにもかかわらず、彼は嫉妬を抑えられなかったのであった。
閑話休題。
郷原弁護士は岐阜県警違法押収事件を評して「19世紀に戻ったかのよう」と言っているが、戻ったのではなく昔も今もこの状態なのだ――と、高橋松太の事件を読んで思う。行政と癒着して指導・監査を恐怖政治の道具にしている医師会・歯科医師会は、今も存在している。医師会・歯科医師会の意向ではなく、医学的根拠に基いた指導・監査にするべきであるし、まずは臨床経験のない技官にギャアギャア言われることに保険医はもっと疑問を持つべきだと思う。




戦後の医師会 高橋松太事件

日本の医師会改革運動に身を投じて、私自身しみじみ感じたことは、日本では、帝国大学出身者で牙城を築き上げている場所には、絶対に他の者の侵入をゆるさないことと、勢力範囲を固めるには、財力がなければ不可能なことでした。
(高橋松太より1948年2月6日付総司令官厚生福祉局宛の手紙、高橋愛子「開戦からの日記」1955年)

「開戦からの日記」の著者、高橋愛子の夫の松太(しょうた)は4歳からアメリカで育ち、アメリカの医育機関を経て医師となった人物である。高橋松太はアメリカで開業し、アメリカ医師会にも9年間在籍していた。国籍は日本。日米開戦前に日本に帰国して開業し、目黒区医師会に所属した。年齢は明記されていないが、恐らく日本帰国時は40そこそこ、敗戦時は50代半ばと思われる。妻・愛子は日本生まれ、日本で教育を受け、成人以降に渡米して結婚、在米歴は15〜16年である。松太は日本語は話せるが書けず、この総司令部厚生福祉局宛ての手紙も、愛子が邦訳して自身の日記に転載したものである。
さて、敗戦後。
高橋松太は目黒区医師会選出の東京都医師会代議員となるが(1946年11月)、反対勢力により都医師会の総会? で代議員資格を剥奪される(1948年1月)。剥奪の理由は“目黒区医師会が社団法人に加入していないこと”であった。社団法人ではない医師会は目黒区以外にもあったのだが、都医師会は目黒区医師会だけにその措置を取った。つまりは目黒区医師会に対する難癖であり、高橋個人に対するイヤがらせである。愛子の日記によれば、反対派(戦時中の“隣組”の医師たちらしい)が連判状を持って、午前2時に高橋家に押しかけてきたりしている。迷惑。

目黒区医師会の人達も、決して私を全員が支持しているのではないのでした。それどころか、アメリカ出身である私を、時節柄、ふとした気まぐれから議員に選んだとでもいいましょうか、選んだあとでは、むしろとんでもない者を選んだと後悔している人達が大多数でもあるといった、まことに妙な選出議員でもあったのでした。それゆえに、あれほど社団法人は封建思想の温床となる危険があるので、加入しないことを、幾度か論じ合っていましたのに、私達の目黒区医師会が社団法人でないために、議員の資格喪失を宣言されると、直に暗躍して、社団法人に加入して、牙城に立てこもって勝利に祝杯を上げている人達に、奉仕的態度をとろうとしている連中もあるのでした。
(高橋松太の手紙、総司令官厚生福祉局宛)

高橋松太は占領軍が進駐するとすぐさま「委しい日本医師界の報告書」を、個人でGHQに提出している。いわく「自分はこの時こそ、両国間の代弁者たる地位に立って働かなければならない、ということを痛感しましたのです」。このあたり、アメリカ仕込みの民主主義と独立心、行動力だと思う。公権力に対して個人で行動を起こすということは、日本人はなかなかできないものである。
努力と奔走の甲斐なく、代議員資格を剥奪されてしまった高橋松太は、目黒区医師会の会員に「私の心境を語る」という声明を送った(1949年4月10日付)。

行き詰りになった今回の目黒区医師会の事件を、今私は静かに考えて居ります。これは全日本の現状の縮図でもあると思っています。
(高橋松太の手紙「目黒区医師会の皆さんに私の心境を語る」)

声明を読んだ会員からの反響は結構あったようだ。そのひとつには、こうあった。

ところで、「正義」についてですが。日本人の専売でもあるかのように言う、正義は、残念ながら人の正義です。神の正義ではありません。「まず、神の国と神の義とを求めよ」(マタイ6の33)の神の義については、全く無知であります。無関心であります。また、日本人の言う、神の観念は根本において、間違っておりまして、人間を神と考えて、安心できる人々であります。そこに大なる危険が生まれて来ます。ついに、現在の日本にまで没落するのやむを得ざるに至りました。
(1949年4月23日付、高橋松太への返信)

その後高橋松太は、しかし、目黒区医師会会長に選ばれるのである。支持者は確実にいたのであった。

第二次世界大戦終結の日

本日9月2日は、第二次世界大戦終結の日である。昭和20年は日曜日だった。
当時の日記より。まずは都内で学んでいた医学生。

悲壮なアナウンサーの朗読が聞える。
それは今日午前、東京湾上の米艦ミズリー号で、マッカーサー元帥を始めとする米支ソ蘭各代表と、わが重光外相と梅津参謀総長との間に調印された降伏文書の内容だった。
日本は今日より独立国としての存在を失ったのである。
風はなく、樹の葉も動かず、町は悪夢のような暗い雨もよいの光の中に沈んでいる。
沈鬱な顔で耳を傾けている人々。……しかしこの日の結果する恐るべき苦難と恥辱は、まだ各自の肉体には直接に迫ってはいない。みないずれかといえば、鈍い、ぼんやりとしたような感情が、暗い表情の奥からぼやけ滲んでいる。――すべてはこれから始まるのである。
(山田風太郎「戦中派不戦日記」)

で、最後の一文は「叔父は、降伏以来、落胆してあまり働かないそうである」。
次は都内在住の主婦。

9月2日 日曜日
ミゾリー艦上で、降伏調印の日でした。(略)
2階の日本間にいる山下夫妻は、陸軍士官学校にいる幸雄さんが、なかなか帰宅しないので、心配になって、今日は迎えにいってくると、2人揃って出かけて行きましたら、午後になって、幸雄さん1人が帰えってきました。私はとんで出て「ご両親が今朝あなたを迎えに行きましたが、お逢いになりませんでしたか」と、いいましたが、ふと彼の顔を見ると、何んとも名状しがたい、こわばった暗い表情で、返事をしないで無言で立っているではありませんか。おかしい、変だ。と、私は直感すると、帰ってきた悦びなんか、いう口を閉ざされて、引き込むように、座をはずしました。両親は、夕暮れ時、重い野菜をぎっしり詰めた、リックサックを背負って帰えってきました。私は玄関まで出迎えて「幸雄さんが帰えっていますよ。あなた達はお逢いにならなかったんですか」と、いいますと、「逢ったんですがね――」と、妙な返事をするのでした。いよいよ変な気持ちになってしまいましたが、あとで、両親が重い口調で話すことを聞きますと、こんなことでした。学校が陸軍士官学校であっただけに、日本の降伏に絶対反対で、同志が結束して叛乱を起して、それぞれに手配して、時の重臣を倒すことになって、終戦から今日まで、半月以上も内部はごったがえしをつづけていたので、同志は我が家に帰るところの話ではなく、命をかけて、日本男子の意気を発揮しようとしていたのだそうでしたが、時期を得ないでいるうちに、時期は、更に時期を失う方へときざまれて、ともかく今日は帰えってきたのだそうでした。両親が逢いに行きましたら「自分のそばにきてくれるな。帰るには帰るが」と、自分達がそばに行くことを拒んで、けわしい顔をするので、両親は、とりつくしまもなくなって、野菜などをリックサックに詰め込んで、夕暮れ時、とぼとぼと帰えってきたんだそうでした。この両親は、こうした我が子に対して、何んにも口がきけないような不安さであったらしい様子でした。
(高橋愛子「開戦からの日記」1955年)

ああ、かわいそうな「日本男子」。あれだけ本土決戦をやるやる言われていたら、そりゃ振り上げた拳も下ろしようがないであろう。当時の日本人の意識では、敗戦=日本人の絶滅(最後の1人になるまで戦え)なので、空襲と原爆で何人死のうが屁でもねえや的な態度は割とフツーであったのかもしれない。実際、本土決戦もやらずに降伏なんてだらしねえ、と怒っていた人の記録も多々あり。とすれば戦後、戦争が終った日(9月2日)が無視され、戦いを止めた日(8月15日)が記念されているのも納得ではある、が。

芸術の交換

林良材(はやしよしき)「町医三十年」(1954年)より、「名医の片影」。執筆時は昭和4年ごろ、「名医の片影」の時代背景は大正年間ぐらいか。著者は大正5年京都大学医学部卒の医師。同大医学部助教授を経て、大正14年に内科医として開業。

24、芸術の交換

M歯科医は京洛きっての悧巧者である。日本画壇の第一人者S画伯の困難な歯を、見事に仕上げて悦に入った。歯性の悪いS画伯はたまたま帝展審査の時に東京で歯痛を起した。そこで帝都髄一と称せらるるO氏を訪(と)うて最良の治療を乞うた。O氏S画伯の歯列を見て嘆じて曰く
「この技工は全く入神の出来栄である。帝都広しといえども恐らく斯様の名工は見出し難かろう。技工もこうなると、全く一つの立派なクンストである。私の如きは後でそんな達人に見られると思うと、恥かしくて手がつけられませぬ。お痛みを止めるだけにしておくから、後の技工は御帰洛の上M先生に御頼みなさって下さるよう」と、口を極めて褒めたものだ。
S画伯すっかり感心して帰洛の後、これまた心を込めてその霊筆を振い、一幅の白鷺を書いてM先生に贈って曰く
「君の技全く入神。一つの芸術品に外ならずと聞けば、金品を以ては酬い難し、すべからく芸術を以て酬いざるべからず、すなわち一筆を揮って君に贈る」と。
爾来M歯科医はT画伯に対して、芸術の交換と名づけて治療費を受けずという。ちなみにS画伯生物の一幅は優に三千金に値すという。よって口さがなき京童これを評して曰く
「M先生の技また貴いかな。されどその外交術の更に非凡なる事よ」と。
註:M歯科医は森田氏、S画伯は栖鳳


著者は戦後に京都府医師会医薬分業対策委員会委員長となり、昭和26年5月8日の参議院厚生委員会「医薬分業に関する公聴会」の公述人となった。そのあたりの事情(占領下の医薬分業事情)が書かれているというので同著を読んでみたが、あにはからんや戦前の医学生事情から医局のアレコレ、開業してからの患者エピソードなどなど、臨床的面白話が満載の楽しい本であった。同じ著者の「誤診百態」も自他の誤診エピソードが惜しげもなく開陳されており、名著である。
紹介した「名医の片影」は34の名医・迷医エピソードが集められている章だが、「芸術の交換」は歯科に関する貴重な1篇。そしてもっとも臨床状況がよくわからない1篇でもある。S画伯の症状は、
・義歯が入っていて、
・歯が痛い(技工処置が必要な痛み)
であるが、技工作業が必要になる痛みといえば、義歯が当たって口腔内が痛い場合がフツー考えられる。しかし、痛みが出る義歯はイイ義歯とはいえまい。そしてその場合、義歯を削らなければ痛みも消えないはず。ここでいう「お痛みを止めるだけ」とは、とりあえず腫れたところを切開してウミを出した、とかなのか。根本的な痛みの改善にはならなそうであるが。
それとも、S画伯が入れていたのは部分床義歯で残存歯が痛み出し、O歯科医師はその痛んだ歯を抜歯した、とかなのか。しかしその場合、「お痛みを止めるだけ」という表現を使うだろうか、歯科医師が抜歯に対して。どうもよくわからない。

昭和22年、佐藤運雄挨拶「一元化が急務」

昭和22年、日本大学医学部20周年記念祝賀会で、当時同大理事長だった佐藤運雄が述べた挨拶(速記録)。

私ほど医学科に対して関心を深くもっていた者は他にはないと思っている。私は若い時にアメリカに行き、アメリカのデンタル・カレッヂを出て歯科医になった。歯科の学校にいた時もそうであったが、歯科医学校を出てから痛切に感じたことは、現在アメリカでも歯科学というのは、別に教育されているが、一体歯科学というは医学だ、だからこれは医学方面から研究せねばならぬ、取り扱わねばならぬということを考え、私は歯科を卒業してから更にメディカル・カレッヂに入り卒業して帰ってきた。
一言にしていえば歯科学は医学なりという結論であるが、私が帰朝したのは25歳の時、その前から父が歯科医であったから、歯科のことは幾らか事情は知っていたけれど、帰ってきてみると尚更これが眼につく気になる、日本の歯科医歯医者とはちっとも関係がない。医者という頭をもっていない。又一方医者は歯科ということを一向知らない。そこで私が考えたのは日本の歯科学は、医学の内容がなさ過ぎるから、歯科の方に医学の要素を入れなければならぬ。また日本の医学は歯科のことを知らなさ過ぎる、これには歯科の知識を十分入れて、両方とも、これをそのまま発達させれば、どこかで究極に至って是が同じことになる。
そうして歯科学と医学を合体さすべきだというような、若い時であるから自分の著書の序文に、この事を書いたのである。そうすると、いろいろの非難を受けた、非難を受けたが、自分は一向かまわず、責任の軽い若い時であったから、その意見はどこでも発表していた。ところが、尚考えてみると、どうも自分がそういうことをいっても、人がこれを受けとってくれる任用してくれなければ何にもならない。そこで自分は、そういう心持で学生を教育してみたいと思い、そこで歯科医学校を設立したのである。これが日本大学の歯科の前身である。
しかし尚考えてみると、歯科の方面に於て医学の内容を増し、歯科学は医学なりという立場で歯科の学生を教育しても、医学の方で相手にしてくれなければならぬ、医学の方にも同情者、協力者ができなければ、自分の理想の実現はできない。それであるから大正8、9年の頃であるが、何とかできないでしょうかと山岡前総長に再三もちだし、医学科を設置してもらえるようになり、自分は非常によろこんだ。そういう意味で医学科ができたのだから、医学科の方でも自分の気持ちを汲んで、歯科をそういう気持ちで扱ってみてくれるようにと憎まれ口をきいたこともある。
医学で大和魂を創り出すことはできない、それゆえ今までの国家を目標とするのでなしに、人類を目標にするのであるから、教育の面においては医学の使命が、それだけ重大さを増した。これは大いに考えるべきで、こんなことも新しい医学部の建設、復興に当って考慮すべき特徴の一つであろうと思っている。それゆえ、いかに立派な臨床的考察ができても、大衆と結びつかない、公衆の福祉増進に役立たないものであるならば、これが余り価値はないのである。だから学校の特徴としては、そういうところに目標をおくというのも一つであろうと思っている。
(工藤逸郎「東洋歯科医学専門学校の日本大学への合併とその後の展開、1999年12月発行「日本大学紀要」)

医学部20周年記念の席なのに、歯科のことばかり述べている素晴らしい挨拶である。式典開催日がいつかわからないのだが、恐らく日本大学歯学部が大学昇格する(昭和22年6月18日)か、した直後なのだろう。挨拶のタイトルは「医師と歯科医――一元化が急務――」。佐藤運雄は67歳(or 68歳)。

國澤利明「所謂医・歯一元論の批判」

自然治癒を営まない臓器は歯科以外のほかの医学の専門内科においても存在する。しかもいわゆる補綴のみが歯科学(歯科医学)に非ざることは周知の通りだ。また予防の意義は広義の補綴に対して第二次的に疾病から予防することのみが予防に非ずして、全く疾病にかかる事を防ぐ事が真の意味の予防であることを明記しなければならぬ。
(國澤利明「所謂医・歯一元論の批判」、1942年9月発行「歯科公報」)

前日の渡辺源吾氏が言及していた国澤利明氏の主張より。国澤利明は大日本新歯会委員で、法学士。この文章は、東京歯科医専同窓会の「我等の主張」に反論したもの。

歯科医師の身分で人体なる全機に関与して何等支障なく歯科学に基底して歯科医療を法的にもなしうる歯科医師を求むれば、それはもはや医師の歯科専門医師と同じであって単に歯科医師なる名称のみを持つに過ぎないので、その述べられているところの内容は全くおなじであって、いわゆる二元論の主張の究極は帰するところ、われわれの望んでいる一元論になるのである。


まさに。実のところ、医歯一元・二元論の核心は、技工を誰がやるのか、だけなんである。

一元化運動は、医の本質的思考において二元制度の矛盾を是正しようとする運動である。本文に、

(1)これから歯科医行為者になる者をいかに育成するか。
(2)現在存在する歯科医行為者(介補的)をいかにして医師の専門医たらしむべきか。

の2つの方法を考えねばならぬ。
(1)については現在のごとき技工手にしては余りにも高き医学的教養と医師にしてはいまだ不完全なる教養である現行教育制度を革新して、医師の専門医師を育成する機関に改むべきことである。その教育をいかにするか、一元論者の中に全国8歯科医学専門学校の校長がおり、二元論者は単に1校一部幹部のみである事を考えれば、それは安心して可なりである。その具体案はその筋に向って進めているはずであり、政府の医学教育への希望は歯科医育を恐らく根本的に改変せしむるであろうこと火を見るよりも明なことである。


臨時附属医専設置(昭和15年5月実施)議論する際、厚生省は軍医不足への対応策として“歯科医の短期訓練”を挙げていた。それが昭和19年に実現した歯科医師の医師への転用策、ダブルライセンス制度である。歯科医育の根本的な改変を国が言い出すことは、ありえた。
なお、臨時附属医専は帝大7校&官立医科大6校の計13校に設置した医師養成機関。定員150人/校なので、約2000人の医師が新規に養成される予定であったが、陸軍は3〜5万人の軍医を要求していたのでこれでは全然足りなかった。そこで臨時が臨時ではなくなり、さらに新規の医専をガンガン建設し、歯科医師を医師に転用するのである。時期的にみて、歯科医師の医師への転用は本土決戦に備えたものだったのだろう。医師は戦地に出払っていた。

幸いに医療圏もでき、全国に総合病院もできるのであろう。そこを活用すれば完全な補習教育もできるではあるまいか。具体化の見込がないどころではないのだ。


一元化の火は消してはならない

昭和17年の医歯一元論運動について。文中の「大日本歯会」は大日本新歯会が正しい。

日華事変、続いて大東亜戦(太平洋戦)となり、医師は医学新体制のもとに、大東亜共栄圏建設に協力せねばならないということになったが、一方歯科医はこれに取り残された状態におかれた。
そこで、心ある者は憤慨し、歯科医の社会的地位および医療上の権限を医師同様の線までもっていこうということから、大日本歯会が発足、この念願実現のためには、医師法、歯科医師法、教育制度を改めねばということになり、それには議会請願より道なしという結論を得た。
そこで、請願団体として歯科医学専門学校同窓連合会が昭和17年5月、神田教育会館において、発会式を挙げ、請願に猛進したときの歯科出身の代議士は坂本一角先生で、掲げたスローガンは「医歯一元論達成」であった。そうした請願の成果の重なるものは、医師歯科医師を同一資格とするように医師法を改めるべきだということであった。
ときに、大東亜戦争はますます拡大され、医師不足をきたし、これに一元論は便乗したかのごとく東京医専、慶應、慈恵なども特に認められた歯科医師を上級編入させ、国立東京医科歯科大学も前者より半年多く、1年半の教育で医師の資格を与えられるようになった。
(略)
医歯一元化運動によって、多数の歯科医師が医師となる道が開かれたわけで、この運動のあったことおよび歯科医師の地位向上に大いに役立ったことは事実であります。しかし、いよいよ戦争に敗けたら、アメリカにやられたというわけだ。
歯科は歯科でいけばいいじゃないか。以来、何も一元でいく必要はないという形を今もとっているわけです。
終わりに、運動中故人となられた立役者、9回卒の国沢利明は「一元化の火は消してはならない。消さねば、いつの時代にか何人かが再び燃えあがらせて、目的が達成される日がくるであろう」と言ったことが思い出される。
(座談会「日本大学歯学部創立50周年を迎えて」(昭和42年)における渡辺源吾氏の発言、日本大学歯学部六十年史)

「歯科医学専門学校同窓連合会」には、東京歯科医専(東歯)以外の歯科医育機関がすべて参加した。だが当時の東歯は日本歯科医師会の幹部の多くを占めており、他10校をあわせても東歯の政治力には叶わなかったのであった。なお、東歯は警察まで動員して医歯一元派に圧力をかけた。東歯にとって、GHQ――というかアメリカ軍の歯科政策は、願ったり叶ったりのものであっただろう。


医師資格取得運動の中心は東洋出身者

今田見信(1897-1977)の佐藤運雄評。歯苑社を設立したのは大正10年。

私が雑誌をやって一番苦境の時でしたが、それはある歯科医専の学士会が、私のやっておりました「日本之歯科」(引用者註:正しくは「日本之齒界」)にそこの経営になる雑誌社の批判をした投稿記事を掲載したことで、怒って不買同盟を申し合わされまして、大変困ったことがあります。
私が信濃町のお宅に行ってたときに、それを佐藤先生に申し上げましたら、「君は信ずるわが道を行け」ということで、「君、血脇先生にそういうことを直接いった方がいいよ」といわれ、私は勇気を出して血脇先生の所に行ったんです。
おそらく私の顔は怒りに燃えていたと思います。血脇先生にその話をしたら、「若い者がそんなことをしたかもしらんが、よく判った。君は自分の道を行けばよい。君は信ずる道をやっておればよいじゃないか」と教えられ、あべこべに激励されて帰りました。佐藤先生にしても、血脇先生にしても、その処置は私の終生の指針になったわけです。
私はそのことを思い出して、キリストの言葉の「打てば開かれる」をしばしば訓話に引用しております。
それから歯科が低級扱いされていた大正14年ころに、歯科医が何も医専を全学年やらなくとも短期にして、医者の資格を取りたいというので、医師資格取得運動というものが起こった。これは東大の歯科医局の中から起こったんですけれども、そのときにはやはり当時の中心人物は皆東洋出身者です。それでその理論づけの文献は佐藤先生からいただいて、私が作文して、議会に請願書を出したり、雑誌などにも論説を書いたりしたのでした。
(略)
先生はまた一元論争の激しい折はずいぶん御迷惑されたかも知れませんが、これは元来石原久先生の門下でいられるからそういうことを無論おっしゃったし、また書いてもおられる。ご自身が歯科をやって、医科を終えられたので、石原先生の場合とは異なった体験がおありになったわけです。
あとで歯科教育の場に立たれて、医学的歯科教育が創案されたのは、当然であろうと考えます。
(追悼座談会「佐藤先生を偲んで」昭和39年、日本大学歯学部六十年史)

医歯一元化運動の際に組織された大日本新歯会も、日本大学専門部歯科がリードしていたんだろうか。

佐藤さんも奥村さんも頭の鋭い人

寺木定芳(1883-1977)の佐藤運雄評。

寺木定芳
佐藤さんも奥村さんも頭の鋭い人で、歯科界には珍しいと思うくらいです。今後ああいう人は出ないのではないかと思われます。
奥村さんはまことに即答的な、いわゆる歯に衣を着せずというタイプで、何でもいいたいことをいう。自分の思っておることに対しては、信念をもって突っ込んでいくという奥村さんでした。
そこにいくと佐藤さんはまことに温容で、その時から大人の風をなして、あのとおりにやにや笑うと、私はしょっちゅうものに書いたり、口でいったりしておるけれども、あなた方御承知のように目じりに無数のしわがよる。あのしわは何ともいえないやさしさで、人になつかしさを与えるしわで、佐藤さんが笑われるととろっとなる。


寺木は東京歯科医専で矯正学を教えていた。

そのうち佐藤さんと奥村さんは両雄ならび立たず、同じ頭を持ってどうしたってあそこで2人が併立というよりは、無理な状態が続いたらしい。
そういう関係で、ただ上に血脇守之助という偉大なる人がおりまして、この人が奥村さんは自分の子飼いの弟子ですし、まるで小僧時代から育て上げたんですから、何といっても奥村さんが可愛い。佐藤さんに対して表向きどうするということもないのですけれども、奥村さんに対するよりはやや冷淡な態度もあったためではないかと私は想像する。
それで佐藤さんは、憤然として三崎町を飛び出しました。そうして私は記憶していないが、その時分小さな講習会みたようなものを、お興しになったんではないのですかね。
(略)
その当時の佐藤さんは、私の知っている限りでは2年間くらい猛烈な神経衰弱をやって、そのころおられました大森のお宅からとにかく一人では弥左衛門町(引用者註:佐藤運雄の診療所があった)に来られなかったんです。ひどい神経衰弱でしたよ。すっかりやせ衰えて、私なんか佐藤さんという人は神経衰弱でだめになるのではないか、と思っておりましたが、いつの間にか健康になってあんな長命になられたんです。
(追悼座談会「佐藤先生を偲んで」昭和39年、日本大学歯学部六十年史)

「神経衰弱」。中傷も借金も平気の、図太いタイプではなかったようだ。
なお、昭和27年の暮れには、佐藤運雄と奥村鶴吉の間を日本大学歯学部と東京歯科大学の両同窓会幹部が取り持ち、食事をしたという。

帰るときちょうど雪になり、東京歯科大学からは学校の自動車が迎えにきたが、われわれは佐藤先生と一緒に駿河台までぬかる道を歩いてきた。
ここで、ナニが何でも佐藤先生に同窓会として自動車を差し上げようというので、昭和28年4月1日に、先生に自動車を贈呈することができた。これが歯学部の自動車第1号である。
(深沢竜之介「14年間を顧みる」、日本大学歯学部六十年史)

佐藤運雄と「歯科医師の医師資格獲得制度」運動

司会(鈴木勝
国会の方に、医師試験を歯科医が受けられるような便法を請願する運動が起きた。その後に起きた「医歯一元論」の前の型ですね。この運動では佐藤先生は表面にはもちろん出なかった。大鷹仁太郎先生あたりがやったのは、あれはいつ頃ですか、今田先生。

今田見信
大正12年1月25日に衆議院へ請願したんですよ。6回に分けて出しました。総計500名以上の署名でした。

司会
日本大学に合併してからですね。

今田
だから、あれはやっぱり佐藤先生が中枢じゃない。火つけ役でもないんです。どっちかというと協力者は東大歯科教室です。ちょうど大鷹仁太郎君だとか、ここの滝沢君などが、東洋歯科を出て東大歯科医局へ入りましてね。そして薬剤師から歯科へ入ってきた先輩格の稲生(旧姓長井)竣君の3人が中心でした。それで、まあ、石原先生から暗黙のうちに、佐藤先生はむろん、知っておられたと思います。かねてから佐藤先生の主張をわれわれはひそかに先生からお聞きしたんです。わたくしはちょうど開業したばかりだし、「日本之歯界」という雑誌の発行に骨身を砕いている頃です。稲生君、大鷹君らは毎日のように押しかけて来るんです。それでわたくしはどうしようかと迷って、信濃町の自宅に佐藤先生の意見を聞きにいきました。わたくしはいつの間にかトリコになって全面的に協力することになったのでした。わたくしが協力し始めたらいろんなものを書かされるんです。だから、国会に出した請願文なんて、全部わたくしが書きました。
(座談会「東洋歯科医学校の追憶」昭和42年、日本大学歯学部六十年史)

医師資格獲得期成同盟会の請願書を書いたのは、今田見信だったのか。

今田
裏面では佐藤先生は協力してくださったが、表に立たれるとかえって反対がはげしくなるからと川合先生(引用者註:川合渉)などの意見もあって、遠慮していただいた。「おれはひっこんでいるから、君たちやってくれ」ということであった。別に金もらいもしなかった。軍資金はどこからも出なかったけれども、東大医学部の教授連の中には、じつによく協力してくださった先生があった。
たとえば、今も記憶にあったのだが、片山国嘉入沢達吉宮元仲田代義徳木下正中中原徳太郎林春雄先生などだった。それは石原久先生から名刺を添えてもらって稲生君らが熱心に回ったからです。それで紹介代議士は、一人は稲生君の関係で志賀和多利、一人はわたくしが島根県選出の島田俊雄(親戚に近いものですから)のところへ行って、ぜひにといって請願人になってもらって請願文を出したんです。あれだけの政治運動をやったということは、歯科教育界に与えた影響も大きく、たしかに画期的だったと思いますね。それがいろんなところに尾を引いて、歯科教育は改善されています。やっぱり、裏面に佐藤先生の「医学的歯科教育(メジコデンタルシステム)」が澎湃として押し出てきた事前工作の意味ともなったし、背景になったとわたくしは思いますね。


しかし、歯科教育は戦後にいたるまで技工偏重であるが。

今田
ついこの間、長尾優先生に会った時の話に、佐藤先生は東京歯科から追い出された、それは追い出されたのか、出たか、ということを疑問に思っておられるんですね。結局それは奥村君(引用者註:奥村鶴吉)と仲が悪かったんで、出たんじゃないか……。出たということは石原先生の一元論の思想をもっておられたために、大学を中心に働かれたんで、ああいうふうに出られたんじゃないか、といっていましたね。そこで事実、わたくしがわからないのは、その頃、東京歯科と東大の両方に関係しておられるんだけど、どっちの月給で生活されていたのか、半日ずつ勤めておられたようだが。

横地秀雄
それは、やっぱり……。

今田
東京歯科で月給をもらって……? それで足りないから半日を東大ですか。その上お宅(引用者註:九州歯科医学専門学校)から持ち出しておられましたか?

横地
ええ、ええ。

今田
まあ、三者でしょうね。


現在、国公立大学などに籍を置く先生に仕事(講演や原稿執筆など)頼む際は、籍を置く大学に届出を出すなど私立に比べかなりシチメンドーなのであるが、戦前は国立私立を問わず大学人が副収入を得ることに大学も肝要だったようである(例:入沢達吉ら東大教授は講義のない日に開業し、独自に患者を診ていた)。なお、今や国立大学も法人化して厳密に言えばその職員は公務員じゃないのだが、むしろサイドビジネスに関する届出規定は厳しくなった感あり。利益相反には注意しなければならないが、大学人を象牙の塔に押し込めることは大学的にも社会的にももったいないと思う。中国は公務員はおろか軍人までサイドビジネスをやっていて、まあムチャクチャな部分も多いのだが、自由経済の日本経済よりも開放感というか、躍動感があり、一言でいうと非常に楽しそうである。
ちなみに、佐藤運雄は父親の病気、学校建設、そして2回の火事でかなりの借金があったようだ。借金のストレスでつぶれる人と、それをバネにして躍進する人がいるが、佐藤は後者だったのだろう。

佐藤運雄、38歳で学校を設立

日本大学百年史によると、佐藤運雄は明治12年、伊勢原市生まれ。同31年医術開業試験に合格、シカゴに飛んで同34年シカゴ歯科大学を卒業、DDS(doctor of dental surgery)を取得。同36年にはラッシュ歯科大学を卒業し、DDM(doctor of dental medicine)を取得し、帰国した。DDSとDDMの両方を取得することに、何か意味があったんだろうか。
帰国後は東京歯科医学院や帝大の講師をしていたが、同41年に石原久の医学部時代の同級生で当時大連医院長だった河西建次の要請で同医院の歯科口腔科部長となり、44年には南満医学堂教授となった。ちなみに、大連医院も南満医学堂も南満洲鉄道株式会社立。南満医学堂は大正11年に満州医科大学に昇格し、今では中国医科大学に吸収されている。
閑話休題。
佐藤運雄は満洲で健康を害し、明治43年に帰国する。
同44年には文部省から歯科医術開業試験委員を命じられた。一時帰国のはずなんだが、委員の命を拒否しなかったところをみると満洲に戻るつもりはこの頃からなかったのではないだろうか(憶測)。大連医院と南満医学堂を正式に退任したのは大正元年9月。大正2年には養父が死去したので、歯科診療所を継いでいる。
歯科養成機関の設立を考えたのは、歯科医術開業試験委員として歯科開業のための受験生に接したことがきっかけらしい。
いわく、
その第一の欠陥は、知識が歯科学のみ集中して、基礎医学が不足している。さらに一般的普通学、教養すら充分でない者、独学者の共通性格とでも言うか、偏狭で孤独的で、明朗闊達な陶冶に欠けている者が多数あることに気がついた。
(日本大学歯学部六十年史)

これら「欠陥」を除くため、東京は日本橋坂本町に東洋歯科医学専門学校を設立したのが大正5年4月である。この時、佐藤運雄38歳。大正の「歯科医師の医師資格獲得制度」運動は40代、昭和の医歯一元化運動の際には60代であり、まさに激動の歯科界を生き抜いた人であった。

>根管治療出来る医師はいますかね?

吾人が日常遭遇する口腔疾患、症候群、症候等を挙げてみても大体270種くらいあるといわれている。この中で口腔の内外に現はれる症候、疾患は約220種でその5分の3が非歯性であり、はるかに歯性よりも多い状態である。而して本邦医師の大半が歯、口、顎疾患状態に関する知識が皆無に近いのが現状である。
一般医師が歯口顎疾患に疎いという事情はことに職を総合病院に奉じている者のひとしく体験するところである。しからば以上の疾病を誰がこれを担当しなければならないか、もちろん我々歯科専門医がこれを担当するのが義務であり、われわれ歯科専門家がいかに一般医学的素養を必要とするかこの点で判明すると思う。
今後帝国が大東亜12億の医療ならびに保健を指導しなければならない立場より考えても歯科医師という医にして実際はしからず、むしろ技工師に近い変態的な機構は断然廃止すべきである。
現在のような機構では結局補綴第一主義となりやすく、歯科学がいくら医学的に進歩しても到底職域を通じて奉公の完遂は難しいと考えられる。ゆえに歯科医育を直ちに改変して医師としての歯科専門医をつくるなり、歯科医師より医師となり得る道を開拓するも良し、早急にできえないとすれば歯科医師にして一定の補習教育を受けたるものは歯口顎専門医として認めるような機構にすることが目下の急務であると信ずる次第である。
舟生秀夫「歯口顎科専門医を確立せよ」、1942年10月発行「臨床歯科」)

上は昭和17年(1942年)、医歯一元化運動の真っ最中に発表された文章である。数字はともかく、大意は今読んでも古びていない。ということは、当時から歯科をめぐる状況はほぼ変化がないということである。ちなみに、当時の歯科医育機関で一元化に反対していたのは東京歯科医学専門学校(今の東京歯科大学)のみで、他はすべて一元化に賛成であった。

今の20歳の子はもんじゅ事故のときには生まれてない

6月27日に開催された第16回原子力科学技術委員会より、八木絵香・大阪大学COデザインセンター准教授の発言。

この「もんじゅ」のあれこれに言いたいことは山のようにあるのですが、この文章の中身という意味ではなくて、やっぱり考えなければいけないのは、今、山口先生(引用者註:山口彰・東京大学大学院工学系研究科教授)がおっしゃったようなことも含めてなんですが、多分、そもそもナトリウムということを知っている人はまれですし、既に、今の20歳の子はもんじゅ事故のときには生まれてないわけですよね。学生はほとんどそもそも「もんじゅ」を認識させるのがもう既に大変な状況にあります、工学部の学生であっても。


もんじゅのナトリウム漏洩火災事故は1995年、ハタチの子には伝説レベルの話らしい。そりゃそうだろう――リアルタイムで事故を知っわたくしにしたって、雲をつかむような話なのだから。
もんじゅをどうすべきかは、20歳以下の人たちに判断してもらうほうがいいのかもしれない。カネを出すのは、若い人たちだろうから。維持するにしろ、廃炉にするにしろ、かなりの費用を長期間出し続けなければいけないのは確実なのだから。

圧迫

佐藤運雄は東洋歯科医学校(後の日本大学歯学部)の創設者である。

金井喜平治
佐藤先生は大正4年秋から5年春頃、試験委員(引用者註:文部省歯科医術開業試験委員)を辞任しましてから東洋歯科医学校を創められた。

横地秀雄
そこで佐藤先生が学校を創めたというので圧迫が始まった。

司会(鈴木勝
その“圧迫”というのはどういうことですか。たとえばその時には水道橋にも富士見町にも夜学があった。で、そういうなかで東洋を開いたことの反響は、どうだったんでしょう? 佐藤先生がつくられたことについては、なにか多少センセーションを起したんでしょうか。

横地
うん、向こうじゃ佐藤のやつ、きっと困っているんだから、いい気味だ、ぐらいのものですね。今日のような「世界の日本大学歯学部」の時代では想像さえできないことだが、なんたって両雄の谷間ではじめた学校だものね。意地悪さはひどいものだった。だから先生は怒っちゃったんだよ。

司会
それで、われわれが入学したのが大正12年ですけれど、その頃は、学則にも、いわゆる「医学的歯科教育」ということを唱っておられましたが、あれは創立当時から、そういうことがあったんですね。

横地
ええ、ええ、たいしたもんですよ。その意味においては。もう、なんていったらいいか説明しにくいんですが。その当時の新聞、雑誌を見てもらうとわかりますが、迷論の非常に多かった、やかましい時代でした。佐藤は手に負えないとなると、すぐ帝国大学へ行って今度は石原攻撃をやって話題をまきちらしたものです。歯科は「医学の1分科」だという論説も盛んなものでした。
(座談会「東洋歯科医学校の追憶」、日本大学歯学部六十年史)

大正12年の「歯科医師の医師資格獲得制度」運動では、帝大歯科部の石原久が「血脇守之助、中原市五郎両氏を中心とする団体」に攻撃され、早くから一元論を唱えていた佐藤運雄がまったく表に出ないことが奇妙ではあった。上記によれば、佐藤運雄は「手に負えない」印象を与えて難を逃れたようである。「当時の新聞、雑誌」をみると石原久は積極的に議論に参加して主張しているわけではなくむしろヘタレな印象があるのだが、批判の矢面に立っただけでもエラかったのかも。官僚学者にしてはだが。

佐藤運雄の医歯一元論

佐藤運雄(1879-1964)の医歯一元論。

明治38年3月:
義歯術とは歯冠の喪失によって生じる空間を人工材料で填塞する方法であり、一定の模型があればまた患者に直接触れることなくつくることができる。
充填術とは歯牙における欠損を補綴する方法にして直接に患者の口腔によるのでなければ施すことはできない。
前者は製造所あるいは技術室においても、またこれを調整することができるといえども、後者は病院あるいは治療室でなければこれを施行することはできない。前者は純粋工芸科学に近く、後者は純粋医学である。
しかるにこれを世の歯科医に照らし合わせるに充填術を単に一小技術となし、いたずらにその外貌あるいは維持にのみ焦慮し、あえて疾病の所置あるいは予防に苦心するものは少ない。またひるがえってこれを世の医師にみるに、抜歯を知っていても歯牙充填の何たるかを解するもの極めて多からず、これをどうして嘆かないでいられようか。
ゆえにこれを現時の状態より考えるに、歯科学はなお少しく医化し学理化する必要があり、一般医学はこれに歯化し技術科するの道を与えなければならない。
(「充填学」より自序)

明治40年3月:
考えるに医学的基礎を有せざる歯科学は浅はかにして技工に傾きやすく、同時に技術趣味を無視する歯科学もまた健全なるものとは称しがたく、特長を失っているものである。
医学的基礎と技術的趣味と相調和して初めて理想的歯科学を得ることに近づくだろう。
(「歯科学通論. 前」より自序)

大正3年初春:
吾人歯牙を観るに3法あり。歯牙を独立の一器官として視るのがその1、歯牙を口腔の一器官として視るのがその2、そして歯牙を身体の一器官として視るのがその3である。
第1法は歯科学のなお幼稚なる時代においてもっぱら行われていた観察であり、小豆大の齲窩をもって天地となし、その周囲関係あるいは全身的影響のごときは顧みなかったのである。
第2法は歯牙の周囲関係がようやく認識されて初めて実施された観察であり、極めて自然の数である。まさに歯科学における一段の進歩というべきであり、口腔外科学が歯科学の一要課目として承認されたのはまさにこの結果に他ならないのである。
しかし、吾人は歯牙をもって単に隣接組織に対して周囲関係を有するものとのみ考えることはできない、歯牙はさらに全身状態と至大の相互的関係を有するものであるのを知らなければならない、これすなわち第3法の観察である。
現時斯界の一般的趨勢を見るに小豆大の齲窩をもってわが領土となすものまた多からずといえども、口腔をもって独立した己が王国であると考え、全身的関係の如きはこれをおいて問わないものがかえって多いこと、憂うべき現象であろう。
考えてもみよ歯牙は全身の一器官ではないのか。歯科学は医学の一分科ではないのか。であれば、吾人の歯牙を観ることよろしく全身的にならなければならない、医学的にならなければならない理由は、自ずから明らかである。
(「歯科診断学」より自序)

佐藤運雄は、帝国大学初の歯科医師資格を持つ職員である。
帝大講師時代は東京歯科医専講師も兼業していて、奥村鶴吉と同僚であったが両者の仲は悪かった。で、結局奥村が残り、佐藤が去る。奥村は医歯二元論者で、昭和の医歯一元化運動の頃には二元論の牙城としての東歯を実質的に仕切っていた。佐藤運雄との不仲は、イデオロギー的なものだったのか。

検定出と歯科医専出とを差別する

大正12年1月25日に衆議院に「齒科醫師より醫師たり得へき特別法制定の件」を請願した東大歯科医局員・稲生浚は、“昭和の医歯一元化論争”の最中、こう記している。稲生浚は歯科医師で薬剤師。なお、稲生“俊”と標記している媒体もあり。

わが歯科医師を検定出と歯科医専出とを差別するかのごとき意味を言外に含めるような言辞をもらす輩があるはずはないが、万一あってはもってのほかだから一言する。
(稲生浚「検定試験」、1942(昭和17)年10月1日発行「歯科公報」より「明日への論題」)

そういう「輩」は、しかし多そうではある。血脇守之助が医歯一元論に反対するのは血脇が検定出だからだ――という文章も出た。

歯専出は中等学校卒業者に決っているが、検定出は小学尋常科あるいは高等科卒業、中等学校卒業または高等専門学校卒業者等各階級を請願していると同時に、苦学奮闘者である事は争われぬ事実である。
検定試験というものは歯科に限らず困難の伴うもので、中学卒業の検定試験は中学卒業免状所有者でも仲々困難だとされている。毎年徴兵検査の壮丁が大略、国民学校高等科卒業の免状を所有しているが、実力は尋常科卒業あるいはこれより劣る者も相当にあるとの事だから、いかに検定試験が困難であるかは想像できる。
わが医界でも、世界的医学者野口英世氏も小学校を卒業して医師検定試験に合格した事はあまねく吾人の知るところであり、また血脇守之助、花澤鼎、奥村鶴吉、遠藤至六郎、小野寅之助、佐藤運雄、中原市五郎、加藤清治の諸氏はわが国歯科界の重鎮なるが、皆検定試験合格者である。その他知名の士で検定出身者は枚挙に暇ななきほどである。

この時代の「歯科界の重鎮」はほとんど検定出であった。ここに名の出た「佐藤運雄」は早くからの一元論者であるし。

医師が歯科を標榜するには、たった1ヶ年間漢方医でも、検定出でも、また学校出でも歯科学を専攻すれば自由に起業ができる制度だ。わが歯科医師も医学の不足分を2ヶ年専攻して後「検定試験」を受けて医師となり得る道を拓き一般民衆に対して福利の増進を計ることができるようになれば、吾人の目的たる衛生報国はすでに足りるのではないか。


この時代にも「検定試験」はあるのだが、形骸化していた。文部省のお墨付きを得れば、医専や歯科医専卒業者は自動的に医師や歯科医師の免許が取得できたのである。ということは、医育機関の発言力も今より強かったのか。

昭和18年の「動物園非常処置要綱」

本日8月16日は、動物園非常処置要綱が東京都より、上野動物園に発令された日である。
同要綱は動物園で飼育されていた猛獣の処分方法を示したもので、方法自体は上野動物園が陸軍の要請により作製・提出していた(その後、その他動物園も上野動物園に続いて作製・提出)。実際に発令され、実施されたのは昭和18年。
当時上野動物園の園長代理であった福田三郎は、この殺処分について以下のように記録している。

一ヶ月以内に、毒殺せよということだった。銃殺は、音がするため、世間の人々を不安にさせるから禁じられた。公園課長は、「戦局が悪化したわけではないが、万一にそなえて……」と説明した。
翌朝、出勤後すぐ全員を集め、昨日の命令を伝え、秘密を守るために、このことは家族にも話さぬようにとつけくわえた。
この日から連日、閉園後に幾頭かの猛獣が毒殺された。薬は硝酸ストリキーネを使用した。始めにやったのは、ホクマンヒグマの雌で、ふかしたさつまいもに3gの薬をまぜて与えると直ちに食べた。1、2分で四肢にけいれんをおこし、立っていられなくなって倒れ、もがき苦しむこと22分間で息が絶えた。
夏の盛りなので腐敗を防ぐためにも、また、世間の人の目をさけるためにも、殺した動物は、陸軍獣医学校に運び、解剖された。
ところで、動物たちは、薬によって殺されたものばかりではなかった。いや、むしろ薬だけで死んだものは割合に少なく、多くは、なかなか毒物を食べようとしなかったり、意外に薬の量が少なすぎたりで、容易に死にきれなかった。それで、他のいろいろな方法で、殺さざるを得なかった。このことは、あまりにむごいことでもあるので今日まで、実は発表しなかった。

ニシキヘビ
生きているヤギ、ニワトリなどを常食としているので、餌に毒物を入れて与えることは不可能のため、絞殺することにした。まず、頭部に細紐を巻き(檻の鉄柵の間から入れて巻きつけようとしてもいやがって、首を動かすので容易には巻きつかなかった)、数人で引張ったら、柵のところまできた。そこで解剖刀で頸礎部を切断した10分後に呼吸が止まったが、その間頸を切られたのに、長く太い胴体は、ドジョウのように、くねくねと動きまわっていた。その後すぐ、心臓部を摘出し、解剖台の上に置いたが、その後1時間半鼓動をつづけていた。

◇ニホングマ
3日間絶食させたが、少しも疲労した様子がない。8月21日夕刻、寝ているところを、首にロープを巻こうとしたが、なかなかできず、30分以上苦心の末、やっと巻きつき、数人で引っ張って、窒息死させた。その間、15分。

◇クロヒョウ
先端がワイヤーロープになっている3m余りの棒のついたひっくくりわなで、首をしめ、4分30秒で絶命。

◇アカヒョウ、シロクマ
馬肉に硝ストをまぜて与えたが、食べようとしない。クロヒョウと同様、絞殺する。5分間で絶命。

ガラガラヘビ
8月26日午後6時半、針金で頭部を突き刺して後、灼けた針金を首に巻きつけて引張ったが、死なず、翌朝になって、頸部に細紐をぐるぐる巻いて、午前10時半ようやく死亡。

ライオン雌(エチオピヤ産)
16日絶食、17日半減、18日半減、19日から連日絶食の後、8月22日午後6時5分硝スト3gをウマの肉に入れて与える。にがいのかすぐ吐き出す。さらに12gを分与したが全然食べず。全量の半分は肉とともにのみこんだと思われる頃、40分に、第1回筋肉強直収縮の発作がおこり、42分転倒、四肢をふるわせて苦悶、45分再び発作3分間の後、起き上がる反射機能なく興奮する。58分、第2回強直発作あり、呼吸促進転倒、けいれん発作、苦悶甚だしかったので、7時33分、心臓部を槍で刺す。35分第2回穿刺、40分に反射機能停止、麻痺をおこし始め刺激に応ぜず、末梢神経麻痺、42分瞳孔散大、呼吸停止、絶命する。所要時間1時間37分。

ゾウ
当時、ゾウは、ジョン、花子、トンキーの3頭がいた。ジョンは性格が粗暴で、万一の場合は危険なので、前もって課長と相談し、絶食をさせていた。花子も処置せねばならぬ対象に含まれていたが、一番年齢が小さく、利口で芸が上手で、おとなしいトンキーだけは、なんとか殺さずにすなまいかと考えていた。ちょうどその頃、仙台動物園ではゾウ舎ができたが、ゾウがいないということだったので、トンキーを疎開させることになり、井下課長、古賀氏とそれに私の3人で会った16日に、承諾を得ていた。23日に田端駅へ行き、仙台までのゾウの運搬代130円、貨車内の修理は50円、付添人1人なら3円。夕刻上野駅を出発すれば翌日の正午に着くなど、打合わせをした。一方、上野警察署へ行って、ゾウを駅まで歩かせる許可をもらった。
仙台から引取りに石井是順氏が上京、一緒に都長官に会いに行くと、課長はその前に都長官に話したところ一蹴されたことを心苦しそうに語った。
じゃがいもを1個ずつ投げ与え、その次に青酸カリの入ったのを与えると、すぐわかって投げかえしてきた。何度くり返しても、ゾウは決して毒の入ったじゃがいもを食べようとしなかった。
注射は最も皮のうすい部分である耳のうしろにやっても、針が折れて、目的を達することができなかった。
動物園としては、もう絶食以外、つまり餓死させる以外に方法はなかった。ゾウの多量の餌が、他の動物たちの食糧にまわせることも、当時の動物園では重大なことの一つであったのだ。
ジョンは8月13日から絶食開始、17日目に左側横臥、肛門開口、瞳孔散大の状態で絶命。花子は絶食以来、2、3回便通があっただけだった。これは飲料水の欠乏のため頑固な便秘を来たし、糞として排泄されるべき体内の老廃物やガスが腸などの器官にたまり、これが血液中に吸収されて自家中毒をおこしたのだろう。トンキーよりも早く9月11日の午後9時25分についに死亡した。
一番かわいかったトンキーにも絶食の日がつづいた。ゾウ室へ入っていくと、空腹の体をおこし、両前肢を上げて、チンチンのかっこうをしてみせる。芸をやらせていたとき、上手にすれば、バナナなどをもらえたことを知っているのだ。体に触れると、肉のおとろえがはっきりとわかる。8月25日に花子と同じく絶食を開始したのに、トンキーは元気であった。ゾウの係の菅谷さんが、かくれて時々餌を与えていたようだ。ポケットの中に鼻をつっこんでくるトンキーに、せめて水でもと思い、ついのませてしまう彼の心を責めることはできなかった。
9月4日に処置した動物たちの慰霊祭が行われた。大達都長官も列席した。井下課長は私を呼んで、ゾウが2頭残っていることは、長官には内証にしろといわれた。くじら幕の後側に、やせたトンキーと花子が隠されていた。9月7日、2頭のゾウがあまり衰弱したので観覧させられず、この日から扉を閉めてしまった。
ゾウは健康なときは、ごろりと横臥する。しかし衰弱してくると、柵に寄りかかってでも立っている。
9月11日に花子が死亡すると、トンキーを早くしろと獣医学校の古賀氏から言われた。毒薬の入ったじゃがいもを投げたが食べない。14日に、青酸カリをとかした水を与えたが飲まず、処置を中止した。23日午前2時42分、トンキーは遂に餓死した。
都長官に提出した書類には、毒殺ということにしてあったので、どの猛獣も容易に薬をのんだような印象を受けるが、実際はそんなものではなかった。1カ月の間に8kg近く体重が減った。私だけでなく、当時動物園にいた者はみなそうだった。自分の係の動物が殺される当日、欠勤してしまう人もいた。眠っていても、動物たちが夢に出てきて熟睡できない日々がつづいた。25年経った今日でも、27頭の“あいつたち”のことは、決して忘れてはいない。
福田三郎「実録 上野動物園」 (1968年)

ひどい話で、号泣しながら読む。
ところで、戦争で人間がヒドイ目に遭う話よりも、動物がヒドイ目に遭う話のほうがツライんだがなぜなんだろうか。映画「戦火の馬」(スピルバーグ監督)も、戦争中に馬がヒドイ目に遭う話なので自分は全然楽しめなかった。子供向けの美談とかいう触れ込みだったが。DVDを見終わった後、泣きながら真心ブラザースの「人間はもう終わりだ」を大音量でかけ、人間なんて皆死ねばいいぐらいに思ったものである。

女と乱世

吉沢久子の日記より昭和20年8月15日の記録。著者は1918年生まれ、今も健在の評論家。
いわゆる玉音放送にショックを受けて、宮城を襲撃したり、集団自決をした人々もあったのだが。

8月15日
晴れ、5時20分、艦載機来襲警報。
7時21分、特別に今日正午より、天皇陛下の御放送あることを告げる。いよいよ、陛下おんみずからのお言葉として事態を解決せられるのだ。陛下のお心を思い、思わず涙が出る。
道をあるけば、ひそひそと話している声、なんとなく耳にいる。戦争が終ったらどうなるかということがそのすべてである。今朝おとなりのおばあさんが、「戦争が終ったら、甘いほんとのお砂糖をいれたお萩をつくってやるよ」とお孫さんにいっていたのが頭に浮かんでくる。
(吉沢久子「終戦まで」、昭和戦争文学全集14「市民の日記」1965

著者は当時都内に在住の主婦。この日記によると、いわゆる玉音放送が終戦の告知だということは一般都民には――おばあさんですら――わかっていたという。そうなのか。ちなみに、私の母方の祖父は軍(土浦)にいたので8月14日にはポツダム宣言受諾を知っており、その日に仲間と別れの盃を交したそうである。都内だと、軍経由の情報などが一部の人(疎開せず、残らねばならなかった人たちである)には伝わったりしたのかも。
一方、同じく東京在住の女性銀行事務員は、「戦争も『やめられる』ものであったのかという発見」に驚いている。

私には戦争という者が永久につづく冬のような(そんなものは実際にありはしないのだが)天然現象であり、人間の力ではやめられないもののような気がしていたのだ。それは愚かしい錯覚であったが、当時の私はそれほど政治について無知であり、国家には絶対に服従するものと考えていたからだ。
(北山みね「人間魂は滅びない」、同)

当時22歳であった著者が、戦争を「永久につづく」ものと感じていた、というのもわかる。なにせ日本は15年も戦争をやっていたのである。著者は「政治について無知」なのではなく、恐らくは、平和がどんな状態なのか知らなかった。時流に流されず、戦争が終れば甘いおハギがつくれる、とわかっていた「おとなりのおばあさん」の地に足の着いた感覚が素晴らしいし、こういう人こそ真の賢者だと思う。かくありたし。





昭和18年、歯科医師たちのみそぎ

昭和18年、日本歯科医師会は厚生大臣の命により、「皇国医人として責務と信念とを強からしめ」んとして、5ヵ年計画の補習教育を実施している。
補習教育は講義、そして「合宿制度の下、朝夕起居の間練成により心身を鍛錬し精神の修養を行い、真に皇国医人たるの人格を陶冶せん」とする練成とが、セットであった。
この練成――「福井県歯科医師会史に写真が掲載されていたが、とてもキツそうである。

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▲練成風景。出典:福井県歯科医師会史

明治、大正の頃の歯科医師の写真を見ると、整えられたヒゲにフロックコートなどのモダンでハイカラな人が多い。が、大東亜・太平洋戦争時代の歯科医師は、白ふんどしいっちょの裸体で滝に打たれたりしていたのであった。

補習教育は全国を11ブロックにわけて行われた。北陸ブロックでは、第6回補習教育講習会として昭和18(1943)年9月5日から8日まで、石川県石川郡河内村(現・石川郡鶴木町)の白山塾道場(白山比弯声境内)にて実施され、参加人数は計93人。

この間、心身の練成として神社境内斉館で連日行われた“みそぎ”は参加者を苦しめたが、冷水を浴びながらも懸命に修行につとめた。しかも食卓に出された食事は、困苦欠乏に耐えろとの意味から、毎食塩がゆ1ぱいと南瓜2切、梅干1個であった。
こうした3日間の講習で、ほとんどの講者者はやせ衰えたという。
(福井県歯科医師会史)

ほぼ断食道場。しかも、日中は講義がある。倒れた人はいなかったのか。

皇国医人としての厳しい補習教育講習は、国民医療法の趣旨にのっとって全国的に実施されていった。しかし、B29の本土空襲、米軍の進攻によって当初の計画は中断された。


とにかくイヤな時代だ。しかも、イヤそうな顔をしただけで非国民とかいわれる時代なのである。あーイヤだイヤだ。

血脇氏の優越感の始末の悪さ

歯科商業誌に掲載された血脇守之助評。

目下医・歯一元論と二元論の存在は結局一元論者の大局的忍耐と政治性の乏しさによるとはいえ、血脇氏の優越感の始末の悪さに帰せねばならぬ。血脇氏のこの自尊心さえ好処置を得れば事は済むのである。一元論の良策なることぐらいわかりきっている人である。世の中が単純に理論どおりに行かぬのもそこにある。宗教、道徳、法律がいかに発達しても、戦争の果てしないのもそこにある。
(歯界琴、1942年10月21日発行「歯科公報」)

東京歯科医専側はこの手の批判、挑発、いちゃもんの類はガン無視したもよう。「東京歯科大学百年史」にも一切触れられていないのには驚く。

長崎への原爆投下

1945年の本日8月9日午前11時、アメリカ軍により長崎市に原子爆弾が投下された。防空総本部は8月11日に「新型爆弾に対する心得」を発表、いわく「一、落下傘のようなものが降下するから、これを目撃したら確実に退避すること」……。

長崎、広島に急激に狂人が増加しつつある。広島もやはり一発だという。長崎の死者は一発で10万、残りの人間も、死者と狂人に変化しつつある模様、原子爆弾を使用された土地は70年間、植物も動物も存在を許されない。土中に放射能というものが残っていて、それが生物に悪く作用するのだそうである。アメリカでは、すでに3年前から試作ずみという。3年前から、――
(8月14日の日記、一色次郎「日本空襲記」)

一色次郎は西日本新聞社に勤務していた。情報は、しかし、一般には流さなかったようだ。流せなかったのか。
刊行されている当時の日記を見ても、長崎への原爆投下に関する記述は広島のそれよりも明らかに少ない。ほとんど無視である。ソ連参戦(9日未明)の衝撃に食われたか、ただ報道が極端に少なかったからか。

15日(水) 炎天
〇帝国ツイニ敵ニ屈ス。
(8月15日の日記、山田風太郎「戦中派不戦日記」)


歯科商業誌に掲載された血脇守之助評

歯科商業誌に掲載された血脇守之助評。
一体血脇会長が内務省以来歴代の衛生局長の信任を得ておられたことは想像以上のものがある。今日までの全歯界の向上は、日歯会長血脇氏の一身にかかっていたのであるから、あらゆる方面で氏の信用を高めるためにはけだし偉大なる努力が払われたものであって、筆舌に尽くせないであろう。だから「日本医師会長は代っても日本歯科医師会長はやはり血脇さんにお願いする」と噂されたのもむしろ当然であるが、惜しいかな、血脇さんの本心でなかったにせよ、聨合同窓報国大会を東歯同窓会会頭と日本歯科医師会長の2つの権力を濫用して、警察官を巧みに利用して開催を圧迫しようとしたことは一面関係者をあきれさせ、他面では東歯以外の同窓の結束を余儀なくせしめた。大阪歯科同窓会も東歯同窓会と同窓聨合会との調停に立たれたが、東歯の頑迷にあきれて調停の手を近くは引かれたというが、まさに血脇氏の一失であった。
(S・W生「医界思潮」、1942年10月21日発行「歯科公報」)

昭和17年に国民医療法が施行され、従来の医師法および歯科医師法が廃止されると、歯科界を医歯一元論が席巻する。医歯一元論とは、歯科医師を身分法としても医師の範囲とし、“歯科を専門とする専門医”にするべきだとする主張である。戦況の激しいなかで軍医の需要が増し、さらに国民皆兵政策により予防医学への注目が高まるなか、口腔に限定された歯科医師の業務範囲では「報国」不可能だ――とする声が社会に高まってきた、その結果が医歯一元化運動であった。
歯科医師を“歯科を専門とする専門医”たらしめるには、当然ながら教育段階からの刷新が必要である。東京歯科医専以外の全歯科医育機関が「聨合同窓会」を結成して論陣を張る一方、東歯はひとり現状維持を主張し、孤立した。しかし、当時の東歯役員は日本歯科医師会の中枢を占めており、東歯は歯科界屈指の権力機構ともいえる。聨合同窓会が一元化運動を推進するシンポジウム「聨合同窓報国大会」の開催を計画すると、東歯は警察を巻き込んでの妨害活動を行うのだが、それは日本歯科医師会という権力をカサにきたものであった。

血脇氏の威光が新日歯会長当然なりと過信せしめ、慶大教授岡田満氏すら同大学医科大学生講義に日歯会長は血脇氏に定っていると明言したり、その他るる公開および非公開の席で某局長の言葉(前記の)として発表されていたので、歯科界の新体制は全国的に進展するどころか、下部組織ないしは会員は強力に新体制に突貫したが、肝心な指導層が反対に旧体制を固守して、バスの乗損じを今さら哀嘆している始末である。かようにわが歯界の新体制認識ないし即応体制がはなはだ遅れたことならびに内部抗争の激化は、冒頭に書いたように加藤さんとの不思議な因縁が一つの起点となり、百千の結果を喚起したのだと断じている向きもあるが、うなずけないものでもない。


「某局長」「加藤さん」とは加藤於兎丸・元厚生省衛生局長のこと。加藤は当時、宮城県知事。加藤於兎丸の妻が血脇守之助の妻と同窓で、親しかったそうである。

広島への原爆投下

1945年の本日8月6日午前8時15分、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下された。
当時の一般市民がこれを知ったのは8月8日。

〇広島空襲に関する大本営発表。
来襲せる敵は少数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に委せて黙せし大本営が、今次少数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。「相当の窓外あり」といい「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。嘗てなき表現なり。いかなるものなりや。
(山田風太郎「戦中派不戦日記」)

8月10日夜、山陰本線で広島駅を通過した一色次郎の記録。

広島は不気味に静まりかえっていた。ここは6日だから福山より2日早い(引用者註:福山は8月8日午後10時30分ごろから空襲されている)。それでも、野火のような炎が、ところどころに光っていた。10分間停車なので、窓から降りてプラットホームを歩いてみた。駅のコンクリートの建物が空洞になり、なまぐさい、吐気の出そうな悪習が夜の空気の中に充満している。屍臭であった。(略)
私の席の近くから、広島でふたり降り、またふたり乗った。広島高師の学生であった。当日は広島市から1里半ばかりはなれた部落へ働きに出ていたので、思いがけない命拾いをしたのだそうだ。そのあたりですら、爆風は家々の窓ガラスを吹き抜け、その破片で負傷した人もすくなくなかったと言っていた。
学生の話を聞いている間に、川をふたつ渡った。川面には、銀河のかげが光っている。南の窓に、北がわの窓に、福山より2日早かったはずの炎はまだ血の色で燃えている。
「ここも、まだ広島ですか」
私は二度も、おなじことを学生に聞いた。これもやはり、たった一発の、原子爆弾の火なのかとおどろいたのだ。
(一色次郎「日本空襲記」)

一色次郎はこの後、下関で新聞を読み、「長崎に新型爆弾」が落とされたのを知る。

大本営発表でなく、西部軍管区司令部が9日の14時45分に発表したのを掲載しているのであった。
「一、8月9日午前11時ごろ敵大型2機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。ニ、詳細目下調査中なるも、被害は極めて僅少なる見込み」


ホントに被害を僅少と見込んでいたのか、それともパニックを恐れてそう発表したのかはわからない。

哀しみの血脇完之助

日本人が不足している!
共栄圏の指導者となるべき日本人はある学者にいわせると1億400万が必要であるという。これが大東亜共栄圏に適正に配置されなければならぬといわれている。けれども現在7千余万の日本人をこの大戦争遂行のうちに直ちに増加させることは困難である。そこで現在ある人口を増強して行く方策が講ぜられねばならぬのであって、今回提出された国民医療法案、体力法改正、健康保険法改正等はこの目的のためなのである。
議会に現われた「大東亜」の構想、1942年1月25日付東京日日新聞)

出生率UPはもちろんのこと、高死亡率を何とかしよう!
というわけで1942年、国民医療法により医療の公営化を目的とした特殊法人「日本医療団」が設立された。ちなみにニホン医療団ではなく、ニッポン医療団と読む(後述)。
日本医療団の主なミッションは、

500床の総合病院2件、250床の道府県病院47件、50床の地方総合病院588件、無医村(当時約3600あった)を中心に地方診療所または地方出張診療所を設置する
結核療養所を5年間で10万床増設する

などであった。これらをすべて国営でやるのである。

日本医療団設立委員(昭和17年4月17日任命発令)の名簿を見ると、

日本医療団設立委員
▲下から2番目……血脇完之助?

日本歯科医師会会長・血脇守之助の名前が間違っている(出典は日本医療団史)。
そして日本医療団の機関紙をみると、
日本医療団の名称と呼称について

名は本体を象徴するものである。
自ら自分の名前を間違って書いたり言ったりするとは、どんなに辱しいことか。他人からそれを誤られることは、どんなに悲しいことか。
(略)
ニホン医療営団などは、在りませんから御注意。(ま)
(日本医療団情報第2輯 昭和18年2月発行)

などとあって、思わず失笑。ニッポン医療団としては歯科なんざどうでも良かったのだろうか。もしくは、ニホン歯科医師会が国策協力に熱心でなかったか。ちなみにこの頃歯科界は“医療報国”のための医歯一元化運動が盛んであった時期であるが、日本歯科医師会および東京歯科医専はまったく聞く耳をもっていなかった。日本の全組織が国策のために奔走していた時期、日歯は昂然とわが道を行っていたといえるのかもしれない。

なお、日本医療団は昭和22年1月に解散が決定、11月に解散している。昭和22年10月31日時点で日本医療団が経営していた医療施設は51支部(消失した占領下の沖縄県支部を除く)、408ヶ所に及んでいた。

日本医療団解散時職員数
▲解散時の職員数(日本医療団史)。職員総数5330人のうち、「歯科医員」は20人――少ない。

日本医療団の解散による残務処理(財産処分など)が終ったのは、昭和52年。30年も後始末にかかったのであった。

哀しみの朱脇守助

松宮誠一「血脇守之助伝」(1979年)によると、

守之助は大正末期から昭和30年までの間、内務省衛生局後には厚生省所管の医療制度、医療行政に関連する各種審議会ないし調査委員会の有力メンバーとして活躍を続けていた。その中でも特に昭和13年6月30日、官制が公布、7月1日設置された医薬制度調査会は医育制度、医療制度の基本にかかわる重要問題を審議し、この調査会に同じく委員として列席していた奥村鶴吉と共に心労を重ねた。

ということなので、医薬制度調査会発足を伝える昭和13年7月1日大阪朝日新聞の記事を見る。
しかしメンバーの中に血脇守之助の名前は見当たらず。

委員
▲医薬制度調査会の委員。
ちなみに、委員中の「吉田茂」は内務官僚で、外務官僚かつ後の首相となる吉田茂とは別人であった。米内内閣で厚相、東条内閣で福岡県知事、小磯内閣で軍需相を勤めている。

朱脇
▲……朱脇守助?

血脇守之助――当時の日本歯科医師会会長の名前は、なぜかあちこちで間違われまくっているのであった。何ゆえだ。

血脇守之助が主張した医歯二元論

松宮誠一「血脇守之助伝」(1979年)より、明治28年6月の日本医事週報にて血脇守之助が主張した医歯二元論。

その(引用者註:歯科医術の)範囲の及ぶところ、多くは頸部以上を出ず、内外科、産科、眼科等の一般に通暁しなければ、歯牙の治療に従事することは出来ぬという憂はなく、一般医学の大体に通じて、歯科医術に精通すれば足るのである。


つまり歯科医師の診療範囲は首から上だけ、特にそのメインは「歯牙の治療」であるから一般医学はほぼ関係ない、よって養成課程も医師と歯科医師は別でいい――というわけであろう。
この伝記の著書は、血脇の主張の背景を以下のように解説するのだが、

明治28年6月当時では、実際の国民の歯科医療を担当していたものは、入歯、歯抜、口中療治、営業者の類が多く、いわゆる歯科医の社会的地位は極めて低く見られていたので、指導的立場に立つ人は、如何にしてその地位を上げるかについて苦慮していた。そのためにはどのような教育制度、教育内容が必要かということに識者の関心が集中し、この時から約10年後にまず最初の論争が行なわれ、歯科教育における医歯一元論、二元論の論争が始まった。この論争は歯科医師法制定の頃には一度下火となったが、大正時代、昭和時代にも再燃している。しかし時代が進むにつれて、歯科医の社会的地位を一般医と同等にあげるためというよりも、歯学の本来の在り方をめぐる論争、あるいは業務範囲の限界に関する論争、それに歯科界の政治的勢力圏が関与した論争の性格が強くなった。


血脇がなぜ、二元論こそ歯科医師の「地位を上げる」と判断したのかは結局、わからない。歯科医師と入歯師の違いはあるのか? という世間の疑問に対して、血脇は、そして歯科界は、納得できる答えを出しはしなかった。だからこそ医歯一元論・二元論は「大正時代、昭和時代にも再燃」するのである。大日本歯科技工師会(花桐界)あって政治力で潰すほかないわけである。
ただし、血脇が歯科医専経営者として二元論にこだわった理由、これはわかりやすい。医科歯科が統合されれば歯科医専はもちろん、廃止になるからである。血脇が目指していた歯科の単科大学の設立も実現できないからである。

本学は、守之助の志を継承して一貫して二元論の立場をとり続けてきた。その努力は、今日の歯科界繁栄の基礎をきずいたものとして興味深い。

二元論の立場こそ「今日の歯科界の繁栄の基礎」だそうだ。70年代はまだ、この種の言葉も通用したようである。

東京が空襲された際の緊急医療活動

米国戦略爆撃調査団報告書にて報告された、東京が空襲された際の緊急医療活動について。

職員――正規の救護所の編成は医師3、歯科医師2、薬剤師1および助手10(この大部分は看護婦と助産婦)であった。1944年11月1日現在の救護所の職員の数は次の通り。
医師……4,074
看護婦……5,330
歯科医師……2,018
薬剤師……1,168
助産婦……2,374
公衆衛生看護婦……8
その他……555
(東京地区の空襲防護と関連事項に関する現地報告、米国戦略爆撃調査団報告書No.4、東京戦災誌第5巻)

歯科医師の割合が高い。歯科医師を医師に転用する制度があったのは妥当であった。
「公衆衛生看護婦」とは、保健婦のことだろう。地方では戦場に行った医師の代わりに注射も打ってたらしいが、東京にはそれほどいなかったようだ。
ちなみに、この報告書の日本訳はエラくまずい(原文は英語)。手前で調査やってないから仕方ないのか、と卑屈な気持ちになりながら読む。降伏調印を行ったミズーリ号にはスペシャリスト・オブ日本もワンサと載せられていて、彼らがペラペラと日本を研究した成果のひとつがコレなんである。敵性言語とか言い出した時点で日本の負けは必須だったと痛感せざるを得ない。

これらの数字には警察管下のこの種職員(日常の救護活動として現場において直接応急手当を行なう)を含んでいない。医師が救護所任務に登録された程度の標示としての人数は東京都内の医師総数8905(その中の多数は年齢その他で不適格であった)に比して4074であった。空襲前の看護婦の総数は2万6200であったが、1945年9月1日の数は3600に減少し、一方開業医の数は8905から2176に減少、また歯科医師の数は5491から1632に減じていた。この差は死傷を示すものと推定すべきでなく、むしろより目標地域外の静穏な地方への疎開を示していた。
(略)
3月10日の大空襲における重傷者は5023、軽傷者は9万7033と報告されている。重傷者は本来病院のための問題であり、一方軽傷者は主として救護所の患者であった。数時間中に救護所に投げ込まれた巨大な数は、救護設備の思い切った削減、救護所員の減少およびすべての中における全くの混乱と共に、消耗疲労した救護関係部隊につきつけられた不可能な仕事を表現して居る。
しかしながら、45年9月1日と空襲開始以前との医師と看護婦とを比較した前出の数字は目標地域からの莫大な人数の脱出の証拠であるけれども、大震災の時においても一般大衆にも救護関係者にもヒステリーの状態を示すような証拠は全く見られなかった。
終戦後彼らは多数帰って来たといわれているが、どの程度までかを示す記録は何も残っていない。要するに、救護計画はかなりの程度の空襲に対応するにはまず適当であったが、あれ程大きな災害の前に対抗できる組織はないということは言えるであろう。



米国戦略爆撃調査団(United States Strategic Bombing Survey、通称ウズブーズ)は米軍の戦略爆撃(空爆、艦砲射撃)の効果を検証するための陸海軍合同機関。この報告書を読むと、米側が空襲を民間人の無差別殺戮であると認識していることがわかる。たとえば、こんな文章で。
「3月10日の空襲は人命の喪失の点から1923年の関東大震災に次ぐ史上最大の大災害であった。莫大な死亡者数は人びとが逃れる機会のない広大な地域にわたる焼夷弾攻撃であることによる」(傍線引用者)。

緊急医療活動の特徴を表わした「余りに少なくまた余りに遅れた」という言葉に、さらに破滅の道における余りに大きい混乱と余りに大きい物的破壊が加えられるであろう。


「破滅の道」――その通りなんだが、加害者が言うな加害者が。
東京における1945年の大空襲は全7回。各回の死者数は以下。

1月27日 533人
3月4日 659人
3月10日 7万9466人
4月4日 658人
4月13日 1611人
4月16日 839人
5月24日 580人
5月25日 3357人

計8万7703人だが、報告書では8万7753人になっていた。足し算もできないのかよ(逆切れ)。
なお、空襲自体は1944年11月24日を皮切りに、1945年8月13日まで計46回に及び、死者数は8万9419人だった。

渋沢栄一述「回顧五十年〔東京市養育院〕」

明治時代にあって早くも社会科学的見地を持っていた歯科医師・喜多見行正(1990-1967)。喜多見は東京市養育院の児童らに口腔検査を行っているが、

東京市養育院児童口腔検査
東京市養育院児童口腔検査1
▲喜多見行正、東京市養育院児童の口腔検査

検査対象の児童の素性について、調べてみた。

渋沢栄一述「回顧五十年〔東京市養育院〕」によると、同養育院は明治5年、東京市によって設立された「東京府養育院」が前身である。で、東京府養育院設立は明治3年頃、「ある外国の皇族」の来日をきっかけとするものだった。当時の東京にはこじきがワラワラ徘徊していたがこれを東京府は「貴賓に対して礼を欠くし、体裁もよろしくない」として、こじきを「狩り集め」る。狩ったこじきの数は約300人。外国の皇族は帰るのだが、こじきをそのまま解放するのもアレなので、非人頭の車善七に引渡し、その世話をさせた――これが、東京府養育院に進展するのである。人道的な見地、または宗教的な慈悲心から貧民を救おうとかいうたぐいのものでは全然なかったわけである。
なお、江戸時代には勝手に移動したり、宗門人別改帳から外れた人間の身分を落として「非人」としていた。それを明治になってもやっていたのか、と少々驚いたのであるが、身分解放令で非人という身分がなくなるのは明治4年になってからなのであった。「明治は暗い時代であった。その前の慶應も元治も文久もみな暗かったが、それは夜の明けぬ前の暗さで、明治の暗さは夜が明けてからの昏さであった」(島本久恵「明治の女性たち」)というのは、そうなんだろうと思う。
閑話休題。
渋沢栄一が養育院の経営にかかわり、院長として同院の存在意義を「窮民救療」と明確に定義するようになるのは明治7年からである。渋沢栄一といえば幕末生まれの偉人、徳川慶喜の家臣から大蔵省官僚になり、実業家となって500以上の企業を設立した稀代の大実業家である。次の1万円冊の肖像は渋沢になるとわたくしは予想しているが(現在は福沢諭吉)、それはともかく、渋沢は養育院院長となる前から社会活動に熱心な人であった。東京慈恵会や日赤、癩予防協会の設立にもかかわり、聖路加国際病院の初代理事長であるなど、わが国の医療史でも馴染み深い人物である。

さて、そんな渋沢の言を口述筆記した「回顧五十年」には、同養育院「創立以来の入院者累年比較」という図があるのだが、

IMG
▲モノクロでわかりにくい……。

入院者を6タイプに分けてカウントしていた。
すなわち、

窮民:
2年以上東京市の在住者で「廃疾、不具、疾病、心神耗弱および老衰」で生計を立てられない者。収容開始は設立当初の明治5年10月から。

行旅病人(こうりょびょうにん):
病気や飢餓により東京内にて行き倒れたホームレスで、引き取り手のないもの。収容開始は明治16年。収容者中最も多く、常に5割以上を占めていた。

棄児:
東京内にて捨てられた乳児。
明治18年〜大正11年には累計3171人が収容されており、うち出院者1668人(52.6%)、逃亡者122人(3.85%)、死亡者1044人(32.92%)。

遺児:
養育者の死亡または失踪などのため扶養者を失った、13歳未満の児童。明治18年〜大正11年の収容累計は1005人、うち出院者642人(63.88%)、逃亡者28人(2.79%)、死亡者266人(26.46%)。

迷児:
13歳未満で養育者なく、東京を徘徊していた児童ホームレス。明治18年〜大正11年の収容累計は3135人、うち出院者2267人(72.3%)、逃亡者720人(22.97%)、死亡者109人(3.48%)。

感化生:
東京市内の居住者で、8歳以上16歳未満で不良化するおそれのある者。扶養義務者がいるものと、いないものがあった。認知者・警察署長・区長の紹介、または扶養義務者の出願、さらに感化法の規定により府知事より入院を命じられ、収容した。感化法が公布された明治33年に収容開始、大正11年までの収容累計は1426人、うち出院者787人(55.19%)、逃亡者479人(33.59%)、死亡者41人(2.88%)。

喜多見が口腔検査を行ったのは明治41年には3〜20歳の318人、明治44年には3〜16歳の181人であった。従って、遺児、迷子、感化生が中心だったと思われる。明治41年の遺児+迷子+感化生の実際数は320人、明治44年は411人――明治44年は、さすがの喜多見も手が回らなかったのかもしれない。本件は、本来なら国がやるべき大きな社会福祉事業である。もし歯科医師会が主体として進めていれば、歯科医師の社会的地位を高める機縁となっただろうが、喜多見による本件関連の講演は日本歯科医学会で冷たい扱いを受けている。

さて、同養育院のデータでは、棄児や遺児の死亡率の高さが目を引く。
棄児では10人中3人、遺児では同2〜3人以上が死んでいる。高い死亡率は、やはり環境――医療や栄養の絶対的な不足にあったのではないかと思う。この点を見逃さなかった喜多見は、やはり素晴らしい歯科医師であった。

慶應義塾大学医学部歯科学教室

武見太郎が戦前の慶應義塾大学に「歯科の医局員」がいたと記しているので、調べてみた。

まず「慶應義塾百年史」をひもとくと、慶應の医学科は大正6年4月に2年制の予科が発足、その第1回生が大正8年4月に4年制の本科に進んでいる。で、慶應義塾が大学令によって総合大学となったのが、大正9年2月。その医学部の学科目をみると「歯科学及び臨床講義」が含まれ、歯科の「外来患者臨床講義」もある。

慶應義塾大學醫學部二十周年記念誌」(1940)によると、大正9年4月に医学部教授の岡田満が歯科学教室部長になっている。

その主要なる設備としては東部1室を患者控室および口腔衛生準備室とし、次の1室を治療室とし、治療椅子は鉄骨製昇降付7台とし、治療のためには各々治療椅子にはリッター電気エンジンを備え、配電盤ならびに圧搾空気を設置使用、次室はこれを3部に区画し抜歯ならびに口腔外科の手術室、部長診療室兼矯正手術室、印象採得室とし歯科技工作業室はこれに続く西部の1室を充てこれに隣接する1室を医局員室となした。
同年10月3日医学部附属病院の開院とともに外来患者の診療に従事し、特種治術の活用および学理の運用を遺憾なからしめんがために、左の6科に分類した。
第1 口腔衛生科、
第2 一般治療科、
第3 口腔外科、
第4 矯正歯科、
第5 一般歯科技工科、
第6 歯科レントゲン科
慶應義塾大學醫學部二十周年記念誌、1940)

初代歯科教室主任の岡田満は、昭和4年3月に医学博士の学位を取っている。昭和7年4月に大日本歯科医学会会長に就任。柔道もやっていたようで、柔道医学研究会委員とか、柔道高等教員養成所講師の嘱託にもなっている。榊原悠紀田郎「歯記列伝」によると、「110kgを超える巨漢」だったという。1962(昭和37)年2月没、享年75歳。

歯科教室患者統計表
慶應義塾大学医学部歯科学教室の患者統計表

昭和15年11月には「予防歯科医学研究所」も設立されていた。

慶應義塾大学医学部予防歯科医学研究所
慶應義塾大学医学部予防歯科医学研究所

このような研究所は世界においても最初のものといわれ、医学ならびに歯科医学のあらゆる知識を基礎として、歯牙の疾患およびそれの各種疾患との関連を明らかにし、かつその予防に貢献することを目的とする独自の研究機関であった。そして、予防医学教室の草間良男が所長となり、歯科学教室の教授岡田満が部長に、助教授正木正が研究主任にそれぞれ就任して業績を築きつつあったが、昭和20年5月、戦災にあって施設の全部を消失してしまった。ために、同研究員はその後、大学病院外来歯科で研究をつづけ、歯科学教室と協力して復興に邁進してきたが、昭和30年9月26日の第19期第6回評議員会でついにこの研究所の廃止を決定した。
(慶應義塾百年史、中巻<後>、1964)

もったいない。

なお、医学部の前身である「慶應義塾医学所」は明治6(1873)年10月に設立されている。
当時の日本はドイツ医学が主流であったが、福沢諭吉は「西洋のうちでも特に英米の文明を重んじ、敢然ここに英語による医学校をたてた」(慶應義塾百年史、上、1958)。そのせいか、医学所の教科課程には歯科学がない。なお、同好史談会編「漫談明治初年」(1927)によれば、福沢は「大の米国崇拝家」だったもよう。とすると、福沢先生は米国流の医科歯科二元制によって慶應義塾に歯学部をつくりたいと考えていたのかもしれない。
なお、同医学所は明治13年に閉鎖した。閉鎖時には、医学所にあるいっさいを売り払って得た800円ほどの金をすべて、本塾に寄付している。本塾は明治10〜13年に学生数が激減し、経営困難に陥っていたのであった(明治4年の入学者数377人→明治10年の同数105人)。

足きり償還制

健康保険制度で、歯科材料費と薬剤費の償還制が検討されたことは実際にあった。
1978(昭和53)年4月7日、小沢辰男厚相が、以下の健保法改正案を社会保険審議会に諮問している。

ヽ依茲7割給付案を引っ込めて入院、外来の別なく本人、家族とも10割給付とする。代わりに、薬剤費と歯科材料費は一定基準を超えた部分をいったん患者が払う償還制にする。具体的には、1世帯1カ月2万円以上または年間12万円を超える分を、保険から払い戻すことにする。これは足きり償還制と呼ばれた。J欷盈岨残蠅隆霑辰箸覆詈鷭靴縫棔璽淵垢盍泙瓩董∧欷盈僧┐1000分の80とする。政管健保は当分の間、政府主体で健保組合間で行い、将来は被用者保険全体に拡大する、というものだった。
(有岡二郎「戦後医療の五十年 医療保険制度の舞台裏」1997年、p347)

この改正案は小沢厚相が武見太郎日医会長と会談を重ね、合意にいたった――とされているが、後日になって武見は薬剤費の償還制を「聞いてない」と言い出し、代わりに薬剤費と歯科材料費の5割を患者負担とする健保法改正案が、5月26日に国会提出された。この改正案は継続審議扱いを繰り返しながら、1979(昭和54)年の国会で廃案になっている。
この「足きり償還制」(薬剤費と歯科材料費の、1世帯1カ月2万円以上または年間12万円を超える分を償還制にする)は、いわゆる薬漬け(特にいくつもの疾病を抱える高齢患者に対し、複数の医療機関が漫然と膨大な薬を処方する問題)の改善には悪くない制度と思う。もちろん、ガンの化学療法など医療上の必要性から薬剤費が高額になってしまう場合も多々あるが、その場合は高額療養費制度(療養費が一定額を超えた場合に、その超えた金額を支給する制度)の適用で対処できるし。武見がなぜ「薬剤費と歯科材料費の5割を患者負担」とするほうを選んだのかといえば、まさに薬剤費が抑制されるから、なのだろう。

座談会「医療保険制度を考える」ァ〆能回

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。
歯科における予防や生活指導の評価について

仲田
そう、その予防ですよ。最後に、その予防の問題でしめたいと思うんです。
歯科で一番大事なのは、予防だと思うんです。これは治療より優先すべきです。そして年齢的には20歳ぐらいまでが一番重要だと思います。そういうものはニュージーランドのように、公費で優先してやるべきものだと思うんです。
歯を悪くするのは、たぶんに本人に責任がありますから、この治療にはある程度の自己負担があってもいいと思います。国の政策として予防をとり入れていくべきですね。


この予防については、飯塚さんも私も相当の力を入れているわけです。歯ブラシを使うことだけでなく、食事のとり方などについても徹底してやっているわけです。これが保険外の収入源にもなっているんです。
とにかく予防や生活改善の指導がない歯の治療は、今までの生活の上でできた虫歯や膿漏ですから、治療してもまたすぐだめになってしまう。なんのことはない、年に2回収穫のある二毛作と同じですよ。国民の口のなかは。しかし今は、予防は保険の外になっている。これをどうするかが、大きな問題なんです……。

仲田
やはり私は、保険か保険外は別として、国の政策でやるべきでしょうね。


しかしこの予防も平均的な線で切りますね。仮りに5,000円の評価とします。すると「砂糖食うな、歯みがけ」5,000円、「砂糖食うな、歯みがけ」5,000円。これでは、笑いがとまらないですよね。

飯塚
この予防という医療行為の評価が、患者、厚生省、保険者の方々によくわからないところなんですね。予防処置とは何かということが具体的にわからない状態で、「財源はある。これを保険にいれる」と簡単にいうところにわれわれの不満があるわけなんです。
歯のみがき方を教えることにしても、「はい、これがローリング法です」という指導だけでは歯はきれいにならない。実際にきれいになるように教えるのは大変なことです。そのためにはまず、患者自身が心の底から「きれいにしよう」という意志を持つように患者をモチベイトしなければならないわけです。
そして、実際にきれいになるような方法を個別的に指導して、そのあと本当にきれいになったかどうか、ならなければどこがなぜいけないのかを来院のたびに考えて、個別的に指導しなければならないんです。
予防を保険にとり入れた場合、「はい、これがローリング法です」という1分間で終る指導も数ヵ月におよぶ指導も同じ点数で評価されるおそれがある……。

仲田
私が予防を国の政策として優先するというのは、あらゆる場所で指導するということです。


教育ですね。

仲田
全国民を強制的に予防するというのは不可能ですが、保健所のようなものを作って、そこへ行けば予防に関する知識が得られるようにする、そういったものも必要だと思うんですよ。


それは仲田さんのおっしゃる通りで、厚生省でも医務局が一生懸命に考えていますよ。それから日歯でも、う蝕予防の対策として、今は県に一つぐらいではどうにもならないので、せめて市町村に一つ、将来は中学校区に一つずつ作っていこうという話がでています。
まあ、将来の医療問題は、西暦2000年ぐらいになると医師は30〜40万ぐらい、歯科医も10万を超えますし、風向きも変ってくるのではないかと思います。
ただ当面の歯科問題の解決でには、まだ間に合いません。で、まあ結局、段階的な解決ということより仕方がないのではないでしょうかね。しかし、私達が不愉快に思うのは、日本の政治というものが、にっちもさっちも行かなくなってから、何とか打開されていく。将来展望を持ってやるということはあまりないですね。そして、力や数でものを解決する場面が多いのも特色で、医療の面についてもそうしたことが多いんです。
ですから一番不満なのは、昨年(引用者註:1976年)3月の答申です。診療報酬の引上げは歯科の代表がいない、ということでほったらかしといて、差額問題については、歯科の委員がいないのに答申してしまった。もし私が日歯の会長だったら、「今後はかってにやりなさい」といって、中医協には委員を2度と出席させません。そして、歯科中医協を別に作らせますね。歯科医療問題を一般医療とコミで絶対少数で審議している国はありませんよ。こんな審議のやり方では、歯科問題も決していい方向にいきませんね。

仲田
こちらとしても、段階的解消で考えていたんですが、昨年(引用者註:1976年)2月25日の日医意見が出て、日医から筋論を言われると「反対だ」とも言えないで、困ったんですよ(笑)。


筋論としてはその通りなんですが、やはり現実を見てもらわないと、都合のいい時だけ筋を通されても困るんですね。全体の筋を通すのでなければ、混乱を招くだけです。
そろそろ時間のようです。話は尽きませんが、これから健保制度も、歯科医療もその根本から洗い直して行くべき大切な時だと思います。余り枝葉末節の議論に終らないことを祈りたいと思います。本日はありがとうございました。


「歯科中医協」。
公益や学術側委員はもちろん、歯科衛生士および歯科技工士の代表も参加するのであれば、いいかもしれない。歯科医師のやり放題になると、結局歯科医師自身の首も締めることになるという自覚が歯科医師委員にあればだが。また、歯科中医協での決定事項が政官業癒着で雲散霧消することが恒例化しなければだが(例:7:3の大臣告示)。 




座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。
保険診療の範囲の拡大と療養費払いの採用について

飯塚
日本医師会では、歯科医師会はずるいといっていますね。歯科医は保険でとった上に自費診療で多額の医療費をとっているが、医師会は保険だけでやっているといっていますね。
しかし、私は逆に歯科医は損な立場だと思います。保険だけではとてもやっていけないので、大変な苦労をして保険外収入を得なければならないんですから。これに比べると、保険だけでやっていける医師会の方がうらやましいですね。何といっても保険で収入を得たほうが楽ですよ。
どんなザマでもよかったらそれは保険だけでもやっていけないことはありません。しかし、その場合は、もし私が患者なら「こんな治療をしてほしくない」というような治療をどうしてもせざるを得ません。そのようないい加減な手抜き治療をしないということになると、これはもう、どうしても経済的に成り立たない。

仲田
それは医者のモラルの問題で、これに反しない程度の医療ができるように点数の手直しもしたいということなんです。ただいっきょにできないから段階的にということですね。


その問題は、そういうことだと思いますが根本的な問題は保険制度をどうするかということで、今の保険制度は医療の質を落とせばもうかり、上げれば食っていけないという宿命がある。これは政治の問題だと思いますね。努力すれば報われないという職業は他にはないですね。
それを医の倫理で克服しろというのはどうですかね。まあ、1回ぐらい赤字がでてもいいですよ、しかしこれが10年も続いたら、私の診療所もかないません。

仲田
それは同意です。


だから、モラルだけでかたづく問題ではなく、そのモラルを荒廃させている根源は、平均的にしか評価しないこの保険制度に根本があるということです。
実は、特に医師会が今の保険制度を改めようとしないのは、その質を落として稼いでいる人の方が多いとか、あるいは組織の構造から来ることなんですよ。歯科医師会もその傾向がありますが……。

仲田
私も全く同じ気持ちですね。


でしょう、だから前に点数の引上げをやるなといったことがあるんです。

仲田
まあそれは、政治の介入するむずかしい問題ではありますね。ただ、数の上では保険診療に依存している人の方が多いということですよ。


だから、少数の良心的な医師が生き残り、保険に協力できる制度を作ることが、これからの課題ですね。
いつもいうんですが、1本の道ではいけない。今の保険制度はそのまま残しておきなさいと。そのかたわらにバイパスをつくりなさい。

仲田
私も昔からいっていましたが、保険制度に償還制の自由診療を補足し、2本建てにするべきだと考えています。


健保法の44条は、保険者が認めた時には療養費払いができることになっている。


第44条  
保険者は、特別の理由がある被保険者で、保険医療機関等に第42条又は前条の規定による一部負担金を支払うことが困難であると認められるものに対し、次の各号の措置を採ることができる。
(1)一部負担金を減額すること。
(2)一部負担金の支払を免除すること。
(3)保険医療機関等に対する支払に代えて、一部負担金を直接に徴収することとし、その徴収を猶予すること。

これを拡大解釈して「先生たちのグループと直取引きによる療養費払いをやりましょう」という健保組合の理事長さん方と話し合ったことがあります。政府管掌の方は、保険の建て前が崩れるとかいうかもしれませんが、現行法の44条の拡大解釈で、療養費払いも可能だと思うんですよ。
私のことをいうと、保険のなかで生きていけるのは、ここ1〜2年で限界がきそうに思っています。しかし、保険医はやめたくないんです。私は政府管掌保険の被保険者ですし、自分が病気になったら保険で診てもらっている。私は自由診療というのはやりたくない。
もう一つは、障害児の問題です。こういう患者がたくさん来ます。この人たちを保険で診てあげなかったら、困っている家庭をなお苦しめることになるので、保険医でがんばれるだけがんばりたい。今、障害者については300円の加算があるのですが、治療するのに3〜4人かかるのに、300円でどうなりますか。

仲田
やはり今後の保険のあるべき姿からすれば、全国1本でやることには無理があるんですよ。無医地区も大都会も同じでは無理ですよ。近代化した社会では、1本の制度で押えると、おかしくなってくるだろうと思います。その点PRが足りませんね。


極端なことをいいますと、上下4本の大臼歯、小臼歯を合わせて16本。これをちょっちょっとタービンで歯を削り、練ったアマルガムをちょっちょっとつめる。まず20分ぐらいでしょう。これが、私が先ほど1本につき1時間ぐらいかけるといったのと同じ評価になるわけです。即処1面のア充で1本167点として、20分ぐらいで26,720円にもなるわけです。
モラルを落とせばそこまでいけるわけです。しかし、1時間かかって1本と、1本については同じ評価ですからね。しかし、じゃ全員が1本に1時間をかけろ、というのは、これは無理だと思いますね。やはり努力すれば報いられる方向に行ける制度をつくらないとだめでしょう。

仲田
それと同時に、歯科医どうしのモラルの向上ということができないものか思うんですがね……。その辺は日歯なりに考えてもらいたい。


日歯による「モラルの向上」――現役会長が2回も逮捕されている組織による「モラルの向上」か。……まあ、犯罪者を取り締まるべき警察による犯罪が珍しくもなくなった時代だから、それもアリなのか。
ちなみに、山口組にも風紀委員があるらしい。モラルとか風紀とか、組織によって定義が違うのかも。

飯塚
日本中の歯科医の技術評価を、日歯が公平な立場でしたらどうかという話もありますが、これは患者が医師の技術を評価するのと同じようなもので、不可能でしょうね。
そもそも、日歯の役員が本当に民主的な手段で公平に選ばれ、それにふさわしい人々かどうかも疑問です。郡市歯科医師会の段階、県歯の段階の歯科医師会代議員が、まず選挙なんかでは選ばれていないところが全国的に多いですね。歯科医は4万人なんですから、日歯会長の選挙は、直接選挙でやったらいいと思います。
それなら、学閥だなんだという話はなくなって、日歯自体も変ってくるでしょう。

仲田
しかし、日歯だけがするというのではなく、歯科医どうしの技術評価というものは可能じゃないかと思うんですがね……。

飯塚
でも、歯科医の大多数は自分自身をAランクの歯科医だと思っていますよ。なかには、専門の知識や技術は不足しているが「患者の扱いは、君たちより上だよ」という発言をする歯科医も実際にいますね。これも技術の中にはいるとすれば、技術評価の基準をどこに置くかということで、またむずかしい問題があるんですよ。
ですから、歯科医どうしでも客観的にどこまでその力を正当に評価できるかというと、これはむずかしい。
それに、医療そのものにランクをつけることにも問題があると思うんです。医療に高級医療、低級医療という区別があると思うことがおかしいですよ。「通常必要とされる医療は保険でできる」という厚生省の発言は。その意味でもおかしいですね。医療は一つしかないんですから。


歯科の場合には、一般的に材料の違いが、ぜいたくか通常かという判断になっていますね。

飯塚
私は材料などはたいした問題ではないと思っています。とにかく、一つしかない医療をすべて保険でやってほしいわけです。
これならできるがこれは無理、というのはおかしいと思うんですよ。

仲田
ただ患者からしてみれば、よくいわれているように、治しているのかこわしているのかわからない、といった心配が、保険点数が低すぎるために起こるのでは、との心配があるんですね。

飯塚
確かに、保険制限内の医療を行う程度の技術もないのに上積み技術料をとっている医師もいるし、治しているのかこわしているのかわからない医師もいますよ。しかし、これは保険の問題とは関係ないと思うんですよ。
保険の点数をいくら上げても、問題の解決にはつながらないじゃないですか。最終的に、医師の教育の問題、レベルの問題は残ると思うんです。
だから保険の点数をいくらアップしていっても、それはレベルの低い医療を行う歯科医の収入を伸ばすだけだと思うんです。
だから現在の2本建ては、それでボカボカとかせぐ医者も作る反面、まじめな医者も育つという両面があることを知っていただきたいと思うんですね。


日歯の問題がでたところで、日歯執行部の役割ということに触れたいと思います。
今までの状況を外から見ると、執行部が材料費の差額ということで段階的に解消していく案に同意した。それで、去年(引用者註:1976年)8月の歯科医療の9.6%の診療報酬の引上げをとった。ところが、これをとった後にまたダタダガタして、そのうち川崎前執行部はやめてしまった。やめた後、現山崎執行部になったら、がらっと変ってしまったのではないか、という疑問があると思うんです。
ここで私がわからないのは、山崎現会長が1月28日の代議員会で当選した時、「差額の原点に帰る」といって、去年の3月21日の中医協の「差額は材料費に限る」は認められない、といった。ところが、最近は、原点に帰るということは、「歯科医のモラルの原点に帰る」ということに変ってきたと思います。そして、自分の方からは積極的に解決案を出すのではないようですね。1月時点での発言とは、何か変化してきているという感じです。

仲田
私も変ってきていると思いますね。


ですから、材料費の差額というのは、のんでいくと思います。

仲田
その方向でいくでしょう。


ただ、さい前からいっている4項目だけ決めても、差額の問題は解消しないといいましたが、この4項目以外のものには、まだ触れないと思います。
しかしさっきからの飯塚さんのお話のように、そこまで拡げなければ、保険だけではできない。もしまた、仮りに保険ですべてカバーしても、平均的にやったのでは、依然としてモラルの向上にはならない。ですから、範囲を拡げると同時に、療養費払いを導入することです。それと同時に、医科の方でも足切りがあってもいいような気がするんです。

仲田
個人的に私も、今であれば2,000円ぐらい自己負担を認める。そのかわりに入院等の重病には自己負担のないようにする、これは計算上は成り立ちます。
医療への要求は無限ですから、これを全部保険でみることには、限界があります。


私は財源に限界があれば、やはり選択が必要だと思います。予防も保険かというと、大変な問題になりますよ。


「保険の点数をいくらアップしていっても、それはレベルの低い医療を行う歯科医の収入を伸ばすだけ」(by飯塚哲夫)というのは、まさに現実。〇〇加算ができるたびにワッとその請求がなされるが(例:外来診療環境体制加算)、それにメリットを感じた患者が請求の数だけいるのかどうか。どんな義歯を入れようが認知症患者ならわかりゃしない、と言い放った歯科医師を点数UPで変えられるのかどうか。
点数UPで“保険で良い入れ歯を”とかいう運動もあった。が、その義歯を外注され、実際につくる歯科技工士に診療報酬点数の増減など無関係なのである。いまや9割以上の歯科医師が歯科技工士に義歯を外注していることを無視、診療報酬における歯科技工士の取り分を決めた「7:3の大臣告示」もガン無視、それで点数UPで歯科医療をどうにかできる、と言っている神経はまったく理解しがたい。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。

保険財源の問題と歯科医療の評価の問題

飯塚
それは、そう簡単にいかないと思うんです。保険財政の問題と歯科医療の評価の問題という2つの大問題がありますから……。
たとえば、今の歯科医の収入が100あるとします。このうち、50は保険収入、残りの50が保険外収入とします。
そこで、今までの保険の50に加えて、保険外の50も保険負担として、保険に組み入れてくれれば問題はないわけです。しかし、この50全部を保険に入れることは、財源がまずないということで、できない……。

仲田
今の話で、50全部を保険に入れるという話でしたが、材料差額があるので、仮りに40としても、これを全部入れる必要はないと思います。それは、自分で決めた差額で、うんともうけた人もいたのですから。

飯塚
50全部では財源的にむりだと……。

仲田
財源的にではなくて、今の保険外徴収全部のせるのは不必要なんですよ。

飯塚
つまり、現在、歯科医の収入は100あるが、本来はたとえば70でいいはずだということですね。こうなると、結局、保険に20をのせればいいと……。

仲田
そういうことです。

飯塚
そこなんですよ。そういうお考えの前提には、これまで保険でまかなってきた50の部分については、その評価が適正であったという事実がなければならない。そこではじめて、新たにとり入れる部分は50の必要がなくて、20で十分であり、合計70でよいのだというような議論が出てくると思うんですよ。
しかし、もしこれまで保険でまかなってきた50の部分が、実は100に評価するのが適正だということになると、新たにとり入れる部分を仲田さんがおっしゃるように20としても、合計が120にならなければならないということになります。
つまり歯科医療費を論ずる場合、歯科医療というものの評価が適正に行われているかどうか、ということをいいたいわけです。医療の質を問題にせず、ただ単に歯科医のふところ具合だけを見て、あといくらのせるかということを考えるのなら、20ものせる必要はないんです。今までどおり50でいい。
どういうことかというと、まともにやったら50ではとても無理でも、金もうけのみを考えて医療を行えば、50だけでも結構貯金がどんどんできるんですよ。

仲田 
それは自由診療でとるから……。

阪 
いや、やり方によっては保険だけで、笑いが止まらないほどの収入があるんです。

飯塚 
ですから、50だけでも結構なんです。技術料としての20のアップも不必要なんです。

仲田 
わかんないですね、その話は……。わたくしは、制限的なものを吸収するということと技術料のアップの両方で、いままでの保険外収入をカバーしようというんですよ。

飯塚
しかし、仲田さんのお話では、これまで保険でまかなってきたものは、依然として50と評価しています。技術料のアップということを言われるのなら、これをたとえば80してくださいよ。
そうすると、制限的なものの吸収が、仲田さんのおっしゃるとおりに20としても、合計で結局は100の財源が必要になります。つまり、50の自費診療をやめさせるかわりに、保険はこの50をすっかり負担すべきだということを言いたいのです。
でも、これまでのお話では、今まで保険外のものを保険に組み入れるというだけのであって、その意味では、保険外収入は増加しても、歯科医の収入は逆に減りますね。

仲田
でも、保険でとるか、自由診療でとるかの違いであって、大きな違いはないと思うんですがね……。

飯塚
とどのつまりはが、今の保険と自費の2本建てを、1本にしていこうということでしょう。

仲田
そうなんですよ。

飯塚
それなら、まず現在の保険部分を適正に評価して、それからその上に新たにとり入れる部分をのせてゆくということにしなければだめですね。現在の保険部分はそのままの不当に低い評価のままで、その上に制限部分をのせて1本にするというのでは、とても経済的に成り立つような医療はできないし、歯科医は食べていけない……。

仲田
食べていけるように手直しをしてですよ。

飯塚
でも、食べていけるような手直しというのは、結局、50を70にするということでしょう。これでは、今までより30少ないので、食べていけないんです。
つまり、ある種の歯科医にとっては50が70になることは収入のアップです。しかし、100でも足りないような診療をしている歯科医にとっては、100が70になることは致命的です。


ちょっと話がくい違っているようですが、「差額」の問題は一応、4項目だけなんですが、それを「材料費」だけにして、その分の技術料を保険に組み入れていくことは、当面やらざるをえないと思います。しかし、それだけではなしに、歯科には給付されていない分がたくさんあって、その行為をやらなければ、歯科医療の完全な給付はできないということです。
これが、今から15年ぐらい前だと、今の保険範囲内の技術でできた。ところが、ここ10年ぐらいの技術の進歩がめざましいので、これに保険は追いついていないんです。これが、今まで一切無視されてきた。
私の例で言えば、15年ぐらい前は、保険の患者が9割ぐらいで、収入も保険収入が9割ぐらいを占めていた。現在はどうかというと、やはり患者は保険の患者が9割ぐらいであることには違いないんです。
私の診療所は歯科医が5人、総人数で20人の人が働いていますが、1カ月の経費は約600万円かかります。ところが、保険収入は次第に減ってきて去年の保険収入は月平均150万円くらいでした。今年になったら、さらに落ちてきます。
歯科医が勉強して、努力すればするほど収入は減ってくるんです。私はお金の勘定をしないので1本の虫歯の治療に1時間ぐらいかけてしまうときがあるんです。虫歯を削って、そこへアマルガムをつめる。この即処が167点だと思いますが、1時間で1,670円では診療所が成り立っていかないことは明らかだと思うんですよ。
そうなってくると、技術的な内容の問題にかかわってくるのですが、質的な制限というものがどうしてもでてきてしまうんです。あるレベル以下でやれば困らないけれど、これ以上のことをやればマイナスになるのが当然で、努力すればするほど、保険収入は減っていく。
では、自由診療でそんなに金をとっているかといえば、日歯の目安料金よりも高かったものは1つで、あとは安い。あの目安料金のおかげで、少し上げることができたんです。ではそれでうまくやっていけるかというと、税理士は「どうしても昨年度は赤字になります」というんですね。大した赤字ではないと思いますが困ります。

飯塚
仲田さんは、自費診療をなくしてその分を保険にとり入れ、また現在の点数も手直しすれば歯科医はやっていけるはずだというご意見のようですけれど、ではそのやっていけるいけないの基準は、いったい何ですか。私のように、実際に臨床に従事しているものがやっていけないといっているんですから、やっていけるはずがない……。

仲田
それは、個人的なあなたの診療所がやっていけないということで、議論にならないんです。

飯塚
私だけがやっていけないといっているのではなく、日本の歯科医の大部分がやっていけないといっているんです。

仲田
それは点数が低いということで、やっていけるように直そうといっているんですよ。それから、個々の医療行為になると、この部分の点数は非常に低いじゃないかということがあると同時に、こんなものいらないじゃないかというものもあるので、マクロ的によい医療ができるようにすべきだと思います。技術評価ができればいいんですが、これが個別的にはできないんですね。


これはもう、保険の宿命ですね。保険でする以上は、このぐらいだと一定にみなさなければならないんです。
つまりこういうことなんです。医療の現物給付ということは、私達が雇われればいいんですよ(笑)。月給制にしてしまえば、文句なく現物給付になるんです。しかしそうでない限りでは、現物を給付するといっても現物でなく、ある一定の金額を給付するという形にならざるをえない。その結果、どういうことがおきるかといえば、わたしにいわせれば、安物買いの銭失ないをしていると思います。
それでも保険者としてみれば、マクロにみて、医療費は国民総生産の何パーセントになっているから単価を上げないということになる。すると、だれが一番困っているのかというとやはり国民で、またまじめな医者は育たないということになるんですね。

仲田
私見ですが、技術評価のためには、償還制をやることですね。


私は、全員やる必要はないから、一部償還制にすればいいと思うんです。
これは、現場の者にしてみれば、保険の方が楽なんですよ。紙に字を書けば金になるんだから(笑)。こんな職業はありませんよ。しかし自由診療や療養費払いは、患者にこれだけかかりますと、納得させなければならない。

償還制は救急には向かないが、義歯関係にはいいと思う。
保険の義歯を一度つくると半年は再製できないという保険上のルールがあるが、近所のヘタ歯医者にめちゃくちゃな保険義歯をつくられた患者が数週間ないし数ヶ月で音を上げてウチに来院してきた、という話はかなり聞く。で、そういうかわいそうな患者に、ヘタ歯医者に行って何とかしてもらってください、とは善良な歯科医師はなかなか言えないし(ヘタ歯医者がどうにもできないことは明らかだから)、とはいえ半年待ってくれとも言いがたく(義歯患者のほとんどは高齢)、しかし自費でしかやらないと言うのも心苦しく(悪いのは患者じゃないし)、だからってヘタ歯医者に電話をかけて「アンタこんな義歯で保険請求する気か、取り下げなければ厚生局に訴える」と言える強気な歯科医師は、まあマレであろう。だが、この手の使えないヘタ義歯は歯科医療費のムダの最たるものでもある。保険患者の満足を得られない保険診療で歯科保険医療費を浪費する歯科医師こそ指導にかけてムダをなくせよ厚生局と強く思うが、しかし、保険指導とは点数の多少しか見ない欠陥制度なのであった。よって、治療後に患者の同意を得なければ、保険負担分を償還できない制度にすれば、多少はこの手のトラブルも減り、医療費のムダも減ると思うのである。償還制の場合、治療に満足できなければサインをしないよう患者指導も徹底すべきである。
なお、償還制は歯技分業にもプラスである。歯科技工士が義歯をつくった場合は、保険負担分をその歯科技工士自身が保険者に直接請求するようにすればいいのである。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。

「差額」が問題のすべてではないことについて


それで差額については、“材料差額”とおっしゃっていましたが、“2本建”という自由診療のなかでも、材料についての4項目は、自由診療のほんの一部分でしかないんです。
これは意外に一般の患者も保険者も今まで知らなかったと思います。4項目を材料差額にしただけで、歯科が保険でカバーできるのかというと、ちっとも変っていない。つまり、4つだけ変ったというだけなんですよね。100のうち4つが保険でカバーできたに過ぎないといってもいいぐらいなんです。

飯塚
それはこういうことだと思うんですよ。現在のところ、中医協での議論も、国民やマスコミの関心も、「差額」「差額」ということで、差額の問題を一生懸命につついているわけですね。
そして「差額」の問題を解決すれば歯科の問題は全部「解決する」といった気分があるわけです。つまり差額は技術料を含んではいけない、材料費だけに限るということにすれば、歯科医療費をめぐるトラブルは全部解決すると思い込んでいるようにみえます。
しかし私は、「差額」の問題をいくらつついても歯科医療費の問題は絶対に解決しないと思っています。たとえば「差額は材料費に限る」という意見を日歯がのんだとして、国が「差額は材料費に限る」という通達を出したとしても、問題はいっこうに解決しないんです。
なぜなら、患者さんが保険外診療として自費で支払っている歯科診療というのたくさんあって、「差額は材料費だけ」という決定で規制できる部分はほんの一握りに過ぎないからです。
だから、歯科医の立場から考えても、また患者の立場や保険者の立場から考えても、歯科医療費の問題を何とか解決しようとしたら、「差額問題の解決」ではなく、歯科診療が保険診療と自費診療の2本建てで行われているという問題をどうするのか、ということを考えなければだめなんですよ。
つまり、保険診療はすべて保険でカバーできるのかできないのか。できないとすれば、それはなぜかということが問題の根本なんです。
自費診療というと、すぐ金だ、ポーセレンだと、材料の問題になるんですが、一臨床医としての私は、材料は保険できめられた材料だけで結構だと考えています。原則的には、金もポーセレンも、金属床もいりません。それである程度満足のいく治療をする自信があるんです。
ですから、「差額」だとか「自費診療」を論ずる場合、すぐ材料の問題になるのがどうしても解せない。しかし、日歯も材料の問題を前面に出しているわけですね。本当に困ったことです。
保険の材料も保険外の材料も五十歩百歩なんですよ。こういう考え方をしている歯科医は全国にたくさんいます。そこで、材料は保険の材料で問題ないということになると、では「歯科医療はぜんぶ保険でカバーできますね」ということをいわれそうですが、これが絶対にできないんです。問題はそこなんですよ……。

仲田
今のお話はもっとよくお聞きしないといけないのですが、昨年(引用者註:1976年)の8月から保険診療と自由診療の2本建てになったことについては、支払側も「おかしいじゃないか」と文句をいったんです。しかし、歯科差額を「材料費差額」にするには、条件整備が必要だということを言って、中医協の歯科部会を全員懇談会に切り換えてやったわけです。そこで、今歯科診療の項目を全部あげると、どういうものがあるか、そのうち保険でやっていくものはどれくらいあるかを見たんです。
そして、歯科のなかに“制限”と目されるものがかなりあるんです。それで、それらは保険に全部いれるとどうなるかというと、これは大したことないということになった。
では、今までそれを、どうして入れてなかったかということになった。それで一番問題になったのは材料で、14金を18金にしたら「これは大変な金額になります」と厚生省当局は説明した。それから、金属床も大変な金額になるという。
日医は、これも保険に入れることを主張、日歯は入れるべきでないとの主張で対立し、これは話がパーになった一つの原因なんです。
学問的に保険に入れるべきでないということで合意できた赤ちゃんの歯の問題など以外は、入れられるものは全部入れるということで、診療側と支払側も皆賛成した。大きな問題は金属床と金の問題だったわけですね。
そこで財源の問題が中心になるわけです。日医はいっきょに、支払側は点数の手直しをすることによってということで、この点数の手直しについて当局は諮問案を用意した状況もあったわけです。
制限は全部撤廃していこうということは国民の声でもあるでしょうし、厚生省もそういう方向にいくべきだといっているんです。日歯もそうです。ただ、いっぺんにはできないのじゃないか、ということです。個人的な意見としては、歯科診療は自由診療にして、償還制にするということも考えられます。

飯塚
そこのところが、日歯が支払側によく説明していない点だと思うんです。ここをよく理解してほしいんです。
先ほど、私は材料は保険できめられたものだけでもいいということを言いました。また、材料の問題が全くなくなった場合、それで歯科診療は2本建てでなくなるのかというと、そうではないということもお話しました。そこが問題なんですね。仲田さんも、歯科の診療をみると制限がたくさんあるのがよくわかった、とおっしゃった……。

仲田
いや、あったと……。

飯塚
あったから、保険で全部カバーできていないので、これまで2本建てでやってきたわけですね。しかし、今後は制限を完全に撤廃して、歯科診療のすべてを保険でカバーしようということでしょう。そして、現在制限されているものを全部保険にいれたって、経済的に問題はないとおっしゃったんですが……。ここが問題なんです。たしかに保険者側には問題がないかもしれない。ところが、歯科医の側にとっては大変な問題なんです。

仲田
それはどうしてでしょう……。

飯塚
歯科医療に対する評価が現在のままで、制限部分を全部保険にとり入れたら、日本中の歯科医は、皆経済的にやってゆけなくなります。つまり、診療ができなくなる、保険点数が非常識に低すぎるんです。
というような話をすると、患者さんやマスコミは「そんなこというけど、歯医者さんは皆、経済的にいい生活をしているじゃないですか」といいますね。つまり、経済的に困ってなんかいないじゃないか、ということなんでしょうが、困っていない理由は保険の点数が高いからではなくて、次の2つの理由によるんです。
1つは、保険外の自費診療収入があること。もう一つは、不満足な治療を行うことによって安上がりの医療にしていること。つまり「こんなものは医療じゃない」というような医療をすれば、現在の保険点数でも採算がとれる。
だから、もし2本建てをやめて保険だけにして、さらに、手抜き治療もしないということになると、日本中の歯科医は皆経済的にやっていけなくなることは明らかです。

仲田
今のお話はよくわかりました。差額と保険の療法の収入で生活しているというのは、そのとおりだと思うんです。だから、技術の評価など、保険点数を見直して、保険で十分できるようにしようということで、段階的にやっていこうということです。ですから、保険外を残しておく必要性はないのじゃないですか……。

飯塚
厚生省は現在の状態でも「通常必要な歯科医療は保険でできる」といっています。もしできるなら、現在以上に技術料を上げなくてもいいんじゃないですか。このままで、日本全国の歯科医にやらせればいいじゃないですか。
しかし、もしも今の保険の点数では「通常必要とする歯科医療」すらできないとしたら、厚生省の責任は重大じゃないか思いますね。できないものを「できる」と言い張って、その結果こうした大混乱を起したんですから……。

仲田
「できる」という意味に2通りあるんです。今の保険治療で十分という意味と、経済的に今の点数を上げなくてもできるということですね。今の点数ではやっていけないというのは、経済的な意味ですね。日歯の主張もこの経済的な意味のことなんです。

飯塚
それはわかるんですが、今、国民が問題にしているのはお金なんですよ。「歯科医療費は高すぎる」「不当な料金を請求された」ということでこれだけの混乱が起きているんですね。少なくとも現在のところまでは歯科医療には制限が多過ぎて、患者さんが保険以外にお金を払わなければならないことがしばしばあります。
それに加えて、一応カバーしているものの点数が非常識に低くて、事際にはできないというものもあります。
それを厚生省が「できるはずだからやれ」といい、「もしも保険以外にお金をとったら違法だ」ということでは、法律的に誰れの責任かということではなく、歯科医療が社会問題にまで発展したことに対し、厚生省は責任をとらなければならないということをいっているのです。

仲田
ですから私は、点数の手直しによって、今まで差額でとっていたものを保険点数でも十分カバーできるようにしますよと……。


「通常必要とする歯科医療」とはナニか。そもそも、そのコンセンサスが歯科界にあるのか。つまり、歯科的な健康とはどんな状態でそれにはナニが必要かというコンセンサスが。このコンセンサスがないことは、歯科衛生士や歯科技工士の評価が適切になされていない、そのひとつの理由でもあるのだが。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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