売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

矢部貞治の不愉快

昭和27年7月を最後に、3年ほど歯科受診から遠ざかっていた矢部貞治。
昭和30年8月、静養と原稿書きを兼ねての箱根強羅旅行で歯痛を起している。

今日とにかく文化と緑化の原稿を書かねばならぬ。どこにも出ず、一寸午睡したきりで、原稿と取組み、とにかく夕方書き上げた。
時間を集中できるから有難い。今日は又いやに早く夕食を持参した。歯痛は治らぬ。
女中さんに聞くと、歯科医は小田原まで行かねばない由。
(昭和30年8月12日)


この時、52歳。昭和30当時、強羅には歯科医院がなかったらしい。
なお、矢部貞治が書いている原稿は、国政同志会の機関誌「文化と緑化」5巻9号に掲載された「日本の政治はこれでいいか」。

歯痛があるので不快だが、爽涼さは快眠を誘うに好適で、朝など特に起きがたい。しかし5時半に起き、入浴、洗顔。机に向かう。(昭和30年8月15日)

歯痛でよく原稿が書けるものだ。私にはムリ。手首を骨折した時も原稿を書いたが、歯痛ではムリであった。アタマに近いからか。
8月19日に帰京しているが歯科受診はせず。帰郷即日、松下幸之助と「御成門のナショナル・ビル」で27年に発足した「新政経」(新政治経済研究会の機関紙、昭和41年10月にPHP研究所と合併)の対談をするなど、相変わらず多忙である。

箱根から持って帰った鱒と、早大のゼミナールの山本君が送ってくれたという素敵なたくあんで夕食していたら、参議院の法制局参事の池田文雄という人物がきて、木下広居君が講談社に頼まれて、中等学校か何かの教科書みたいなものを書くので、この監修者をやってくれという話し。
(昭和30年8月19日)


「素敵なたくあん」が食えるのであれば、大した痛みではなかったのかも。
この半年後、

按摩にやってもらって寝る。歯がうまくない。
(昭和31年2月19日)


拓殖大学関係者との信州、甲州旅行中に歯痛である。
旅行中に歯痛を起こすことが多いのはなぜなんだろうか。飛行機に乗ると歯痛を起こす知人がいるが、それは気圧との関係なのだろうが。なお、この時矢部貞治は53歳である。

夜の伊那の町をゆっくり歩いて帰宿。湯はやめて洗面所で顔を洗う。夜食をやって寝る。歯が痛い。
(昭和31年2月20日)


2月22日に帰京しているが、歯科受診は3月になってからであった。

原稿思うように進まず。夕食後はいよいよ懸案の歯医者にいく。左の方からはじめることにして、ダメになっている歯を2本抜いた。ブリッジの中にあったもの。固まるまで10日位かかるとのこと。気永にやらねばならぬ。
(昭和31年3月14日)

「左の方」を2本抜歯。左右両頬が痛んでいるらしい。

今朝は文字通り鶯の声で眼がさめた。昨夜は歯を抜いた直後だったので、酒も飲まずに寝たから、快い。
(略)
正午過ぎもう少しというところに、毎日の伊沢君から電話で自民党の選挙区案が今日の閣議で正式決定になるから夕方6時までに批評を書いてくれという。止むを得ず、指圧をやってから書く。要するに調査会案を無視するのはけしからんということを書いた。6時に伊沢君がきて注文。
夕食後夕刊を見て歯医者。1時間も待って一寸薬を塗っただけ。明日も来てくれというが夕方はいないので、朝行く事にした。
(昭和31年3月15日)


当時は鳩山内閣で、矢部貞治は昭和28年10月から選挙制度調査会委員を務めていた。

昭和30年5月26日
▲昭和30年5月26日付朝日新聞。

当時与党自民党は昭和30年の左右社会党統一&保守合同を受けて「小選挙区制導入」を計画しており、同調査会はそのためにできたものだが、

毎日の1面に僕の自民党案非難が出ている。
8時半一寸歯医者。
(昭和31年3月16日)


自民党はその選挙制度調査会案に党利党略を仕込みまくって自民党案とし、調査会から非難を浴びる。調査会案をそのまま出せば自民党内の意見も割れず、衆院を通過した可能性が高かった。

昭和31年3月16日
▲昭和31年3月16日付朝日新聞。

朝一寸歯医者。これで1週間位は固まるのを待つ。
(略)
昨日の読売夕刊「印象手帖」にも、今日の毎日朝刊「余禄」にも僕に言及し、僕が政府の党略案を憤慨しているのを大いに支持している。
(昭和31年3月17日)


なお、それまでの選挙制度は昭和21年4月の衆院選では大選挙区・制限連記制が採られ、昭和22年3月31日に中選挙区・単記制が施行されていた。鳩山一郎といえば憲法改正・再軍備・自主外交路線、でもって鳩山が小選挙区制導入に注力したのは憲法改正のため――というのが教科書的な定説である。で、昭和31年3月19日に自民党は公職選挙法改正案を出すのだが、

(「ショウジョウジのタヌキ」のメロディーで)ショーショー正気じゃない、正気じゃない証拠には、ひょうたん、飛び石、うなぎの寝床、鳩マンダーの区割りはポンポコポンノポン
(社会党「小選挙区反対の歌」)


これがいわゆる“鳩マンダー”であった。すなわち、基本を1人区としながら社会党が強くて自民党が勝てそうにない地域を2人区にするなど、あからさまに自民に有利な区割りだった。そんなこんなで党内からも批判の声が上がり、衆院は強行採決したものの参院で審議未了→廃案となるのである。鳩山一郎はこの3年後の昭和34年に死去するが、健康不良を自覚して焦ってしまったのかもしれない。健康不安は政策、いや人生をも誤らせるのである。

矢部貞治の不愉快

昭和28年は選挙イヤーであった。
3月14日に衆議院が解散し(バカヤロー解散)、4月19日(日曜日)に衆院選が行われた。
フリーの政治評論家、矢部貞治も引っ張りダコになる。

夕刊を見乍ら1盃。
無暗に方々から講義だの講演だのを申し込まれる。
一々受けていたらそれこそ脳溢血だ。
(昭和28年3月11日)

衆院選の結果、吉田茂の自由党重光葵の改進党も敗北。自由党はかろうじて与党の地位を維持したものの少数与党となり、左派政党が躍進した。無所属で出馬した尾崎“憲政の神様”行雄もこの選挙で落選しているが、94歳で出馬するというその意欲がすごい。尾崎行雄はこれを機に引退し、翌昭和29年10月6日に死去した。享年95。
辻政信も当選している。

昭和28年4月20日
▲昭和28年4月20日付朝日新聞号外。

辻政信を裁けなかったというだけでも、極東軍事裁判は公平とはいえまい。辻なんざ捕虜の人肉を食った鬼畜なのに。投票する人(約5万人!)の気が知れない。

左社が延びて、改進が不振なのも何か面白くない。
早川崇も落ちたし、清瀬幹事長も落ちている。それに植原悦二郎牧野良三砂田重政などという連中が落ちているのは、民同派というものに対する批判だろう。
(昭和28年4月20日)


とこういう矢部は社会党右派の三輪寿壮に投票している。

どうも広川に反対の投票もいいが、安井大吉という対抗馬に入れれば、つまり吉田自由党に入れることになって、僕にはできない。左社の鈴木は勿論いけない。割り切れない所もあるが三輪寿壮の他はない。
(昭和28年4月19日)


矢部はアンチ吉田茂で、毎日新聞に「吉田引退論」を書いたりしていた。また、アンチ岸信介でもあって、矢部いわく岸からも嫌われていたという。矢部貞治の信条は基本的に保守だがバランス重視のつまりは中道政治をよしとするもので、左翼も右翼も批判していた。今矢部貞治が生きていたら安倍晋三を嫌ったろうし、何より安倍一強という政治状況を批判しただろう。
その5日後、24日(金曜日)には参院選が行われ、

11時家を出て先ず参議院の投票。全国区は八木秀次、地方区は改進党の浅野均一にした。
(昭和28年4月24日)

矢部貞治は右派社会党と、改進党に投票。
矢部と改進党とは因縁浅からく、

正午丸の内ホテルに行く。今日は珍しく、澤田廉三谷正之有田八郎などという新顔も見えていた。重光さんほか常連出席。食事のあとで政局収拾につき、主として僕の発言を求められた。率直に意見を言う。賛成の様だった。
(昭和28年5月13日)


幹部会にも出席している。

帰ってから漸く朝刊を読む。改進党の動向大体僕が進言した様な方向になってきた。
(昭和28年5月16日)


昭和28年5月16日
▲昭和28年5月16日付朝日新聞。

なお、矢部は当時改進党に所属していた古井喜実とは幼馴染である。

帰ったと思ったらこんどは改進党の宮本君が来て、古井などの動き方に懸念を表していた。僕も注意していることを話しておく。
(昭和18年5月17日)


古井喜実、医療史的には医師会や厚生省の反対を押し切ってカナマイシンを保険収載させた厚生相として有名である。

少しゆっくり起きて新聞を見ていたら、三木武夫が来て、改進党大会での宣言文案を書いてくれというし、もう一度協同主義の旗を立てたいから前に僕の書いた「協同主義の政治理論」を書き直してくれという。後者は夏休みの仕事として承諾、宣言文もまあ試みに書くことにした。
(昭和28年6月3日)


「協同主義」とは全体でも個でもなく、“和の思想”に基づく人間関係のネットワークで近代の隘路を超え、しかも私有財産の否定をしないというもの。共産主義のいいとこ取りみたいな思想である。戦時中は大東亜共栄圏などの論拠ともなり、戦後は、例えば農協(農業“協同”組合)などに使用された。でまあ、経済成長率低迷の今、関係性の構築は世知辛い世の中を生き抜くための重要な手段だけれども、先ずは個を確立しないと議論も協同もできないし(ピラミッド型の人間関係=しがらみになると下層部に厄介ごとが押し付けられて終了)、カネと政治が絡めば森友・加計学園問題的なエコひいき・癒着・馴れ合い(=和の思想の悪しき面)が頻発して、最終的には経済も破綻する思う。

新聞を見てから正午に丸の内ホテルに行く。重光さんの例の会だが、重光さんは歯痛で来ず。
(昭和28年6月12日)


重光葵も歯科ギライだったようだ。この3日後の15日は改進党の党大会なのだが、歯痛は治まったのだろうか。
なお、この年末に日経新聞主催の座談会で矢部貞治は白洲二郎に会っているっぽいが、

5時半頃日本経済新聞から迎えで、座談会に行く。蠟山、白渕、小汀と僕。えらい豪華な御馳走で、謝礼も1万円貰った。車で送って貰って9時帰宅。白渕次郎という人、松本重治とよく似たタイプだ。挙措まで似ている。
(昭和28年12月18日)


日記では「白渕次郎」だ。
矢部貞治日記の原本をテキストデータ化した人が、読み間違えたのだろう。まあ、矢部先生の字のアレさを思えば止むを得まい。原本の写真を見たが、私など1行も読めやしなかった。索引がないなど不満はあるが、この日記の刊行が偉業であることは間違いない。ぜひ文庫化してほしい。

矢部貞治の不愉快

矢部貞治、47歳。
昭和25年9月に歯茎の腫れを自覚するが、

肩が凝って歯ぐきが腫れているので、午後指圧療法をやる。
(昭和25年9月9日)


放置する。
肩こりはともかく、歯痛に「指圧療法」は効くまい。
で、1年8ヶ月後にぶり返す。

歯が痛くて食事が不愉快だ。入浴し、新聞を見て、辛うじて明日の講義の下見。忙しくてやり切れぬ。
(昭和27年5月25日)


ここまで痛んでもなお歯科受診しない。多忙はわかるけれども、結局は行きたくないのである。
なお、この昭和27年4月から早稲田大学大学院政治学研究科の講師を務めている。14日が入学式で、約20人が矢部教室のニューフェイスとなった。科目名は「政治思想」である。
その講義内容は、

民主思想を中心にルソーモンテスキューミルグリーンを分担してやらせる。夏休みまでは僕が民主主義を講義する。ラスキーメリアムか、もっと新しいところかを学生と相談してきめる。博士コースはただ相談に乗るだけでよかろう。
(昭和28年4月18日)

てな感じである。オーソドックス。

歯が痛くてよく噛めないのに、肉のランチを御馳走になったせいか下痢気味で用便。
(昭和27年5月26日)


おごってくれたのは、早大政治経済学部長の中村佐一先生。「肉のランチ」とは、しょうが焼定食とかか。銀座の煉瓦亭のとんかつなら、昭和28年で130円(ライス別)だ。平成29年現在は1300円、ちょうど10倍。

決心して歯医者に行こうと思ったら、恰度旅行中だという。
(昭和27年5月31日)


翌6月1日には、「6月4日の衆議院の行政委員会で、警察法の改正案と、集団デモ取締法案に意見を言えと言って来たので」、矢部貞治はその準備に追われている。

昭和27年5月7日
▲昭和27年5月7日付朝日新聞。

このうち集団デモ取締法案(集団示威運動等の秩序保持に関する法案)は衆議院で可決されたものの、参議院では審議未了→廃止に。同法案は戦後活性化したデモなどの大衆運動にGHQがビビって自治体の公安委員会に規制を要求、各地にデモを規制する公安条例ができたことがその前段である。

毎日多忙で余裕がないので、夕方指圧を呼んでやって貰う。それから断然決心して中田歯科に行って、右の上歯のグラグラしているのを抜いて貰う。
鍋山についての一文を書いてくれと世民研に言われているのを書き始めて見たが、歯が気になって思うに任せず。
(昭和27年6月2日)


歯科受診にも「断然決心」が必要なのであった。大変にわかる。

6時に国策ビルに行く。同志会で同じ頃の連中が一度会おうというので、鈴木重郎がやっているこのビルの地下室で会合。(略)
9時頃どこかに行こうかというところを、僕だけ脱けて帰る。
歯のこともあるし、明日のこともあるので。
(昭和27年6月3日)

「鈴木重郎」は、戦前の企画院書記官で、総力戦研究所経済戦審判部の鈴木重郎か。
この「明日のこと」が、警察法改正と集団デモ取締法案について、衆院の公聴会で参考人として陳述することであった。矢部の他、田上穰治高橋雄豺牧野英一が陳述。参考人の日当は700円で、当時の歌舞伎座の観覧料(正月興行の桟敷席、オトナ1人分)と同額であった。今の貨幣価値で2万円くらいか。
「国策ビル」は千代田区有楽町国策ビルにあったビルで、森林資源総合対策協議会など農林行政関連の組織が入っていた。
「同志会」は国政同志会。「文化と緑化」という月間誌を刊行していた。

夕食後歯医者。
松下氏から民主主義の解説を簡単に書くことを頼まれ、急ぐといって来ているが、少しも気が乗らない。
(昭和27年6月4日)


「松下氏」=松下幸之助。デフレ不況の今、

薄利多売は、言い換えれば低賃金ということだ。低賃金で生産し、薄利で多く売れば、企業は一時的にもうかるかもしれないが、大勢の人びとを貧困にし、業界を混乱させ、国を貧しくする。厚利多売と高賃金が当然となったとき、わが国にも米国の繁栄と肩を並べ得る社会が実現する。
(松下幸之助、昭和27年1月の経営方針発表会での発言)


という言葉が重い。
7月2日には、工業クラブで松下幸之助らの「政治をよくする会」発起人会が行われた。百数十人が出席。7月3日には「松下氏は今度の会で、一緒に心中してくれという」。この会が後の松下政経塾なのか。

民主主義の解釈をいやいやながら書く。
夕食後入浴、歯医者、そして原稿。
(昭和27年6月5日)


敗戦直後の丸山眞男が自治体や市民集会に呼ばれて民主主義とは何かを講じたという話をラジオの放送大学で知ったが(原武史、日本政治思想史)、矢部貞治もか。

夕食後は歯医者に行って型をとって貰う。
(昭和27年6月17日)

6月17日に印象を採り、

夕食後歯医者に行く。
(昭和27年7月2日)

今日入歯ができるというので、それなら旅行前にと思ったのだが、行って見たら出来ていない。これも約束が当てにならぬ先生だ。
(昭和27年7月7日)

7月18日にセットしている。

入れ歯大体よい様だが、少しぎこちない。
(昭和27年7月18日)


「入れ歯」は、部分床義歯だろうか。セットまでひと月もかかっているのは、まだ歯科技工士が貴重な時代だからかもしれない。

矢部貞治の不愉快

左奥歯を治療中の矢部貞治。

朝歯医者に行く。帰って見たら寺田新六が神戸から上京したとて来ていて、灘の酒を持参したというので、それを飲んで夕方までつぶれる。
(昭和25年2月26日)


この日は日曜日。中田歯科、休日診療をやっている。

歯が痛くて食事が一つの苦しみだ。
(昭和25年2月27日)


自業自得である。歯痛を3ヶ月近くも放置したのだから。

栃木県の講演速記に手を入れねばならぬ。この速記は愚劣で手がつけられぬ。夕食後歯医者に行く。
(昭和25年2月28日)


3月1日、昭和24年1月の衆院選で惨敗した国民協同党の若き党首が、矢部を訪ねている。

午後2時頃三木武夫氏が来て、民主党と一緒になるについての条件を聞かれた。完全野党、社会保障、協同主義を新党の性格に加えること、党名変更。しかし大局は合同を可とすべき時機だと答う。
(昭和25年3月1日)


三木“バルカン政治家”武夫、この時42歳である。党首の役職が“書記長”であるところに時代を感じる。

昭和22年3月7日
▲昭和22年3月7日付朝日新聞。

で、国民協同党と民主党野党派が一緒になったのが国民民主党(最高委員長:苫米地義三、幹事長:三木武夫)である。

帰ってシュープのレニン伝を読む。夜歯医者。
(昭和25年3月3日)


「シュープのレニン伝」は、恐らくDavid Shub(ダヴィッド・シューブ)著「レーニンの生涯」。シューブはユダヤ人で英、露、イディッシュ語で執筆したが、矢部の読んだのは恐らく英語版。

一日シュープのレニン伝を読む。
夜は歯医者。
(昭和25年3月7日)


木村剛輔君が来て、翻訳の件で判らぬところを親切に調べてくれている。写真を撮るというので、一寸外出し、歯科大学で撮って、序でにコーヒーを飲んでから判れる。
(昭和25年3月6日)

矢部はこの頃、仕事場である「飯田橋の共済ビル」の後藤隆之助の事務所で、ハンス・ケルゼンの著作を翻訳するなどしていた。近衛文麿の伝記もここで書いている。「木村剛輔君」は木村篤太郎の息子で、後に自民党衆院議員となる。「歯科大学」は日本歯科大学か。

中曽根君が田中清玄という人物をつれて来た。共産党の背後にあるソ連攻勢が切迫していて、今度の電産ストなども破壊戦術に出る公算があるので、既に田中清玄らの防衛組織を作っているとの事で、主として猪苗代と利根川筋と木曽が問題の由。(略)
夜歯医者に行って今日で完了する予定であったところ、夕食後予告なしに鳥取から警察大学に来ている森田、植森の両警部補がやって来て、一本携帯、鳥取のかれいなど持参したので、静子も美智子も映画に行っていて弱ったが、飲んでしもう〔ママ〕。歯医者には行かず。
(昭和25年3月8日)


中曽根康弘は、反共運動に田中“昭和の怪物”清玄を使っていた。
田中正弦は安保闘争の全学連に「岸内閣打倒」行動の資金援助をしたことで有名な右翼の大物である。戦前は共産党員、しかも武装派であったが昭和5年に逮捕、獄中で転向して昭和16年に出所、戦後は徹底した反共主義者となる。が、中国で新聞を読んでいたら小平の記事があり、田中正弦と親しく付き合っていたなどと書いてあって驚いた。1980年以降何度も訪中しているとかで、好意的に書いてあったが。
矢部は中曽根康弘からこの件で「講演班」をつくるので協力をしてほしいと頼まれるのだが、

田中清玄の件、鍋山君は知らぬというし、明日の会にも出ぬという。日発から金でも取っていて、我々を動員しようとするので、不断〔ママ〕は何の関係もないのにいつでも動員されては堪らぬという。同感だ。僕もことわることにしよう。
(昭和25年3月10日)


断るつもりでいた。
で、その会合。

赤坂の松宝という家に行く。4時の約束に誰も来ておらず、遅れて中曽根君が来た。田中清玄自身は名古屋に行っているとて、三幸建設工業の伏見二郎、木下俊郎などというのが代理で来ていた。
先日の様な話が出たが、鍋山君などから問題は組合の幹部を獲得することで、それには経営者の方に識見のあるしっかりした者がタイ・アップしなければならず、その上でならということ。僕も全く同感でその筋で種々忠告。そうでないなら僕は御免ということを判然とさせておいた。
(昭和25年3月11日)


中曽根のムチャをいさめている。なお、田中清玄は当時三幸建設の社長だった。

原田日記を少し見て十時頃歯医者に行く。
(昭和25年3月12日)


「原田日記」は原田熊雄の日記。昭和5年から昭和15年まで、西園寺をめぐる政局を原田が口述、筆記させたもの。極東国際軍事裁判でも証拠として採用された。

静子を歯医者にやったが、どうしても代金を取らぬというそうだ。何か品物でもあげるほかない。
(昭和25年3月13日)

今回の歯科治療費はタダらしい。

矢部貞治の不愉快

唯一の心配は少し歯が痛むということだけだ。
(昭和24年12月31日)

ドッジ・ラインによるデフレ旋風で経済界は大変、しかし「食糧も、衣料も、燃料も、交通機関も格段の改善」を見ており、自身の生活状態も「昨年より遙かに改善された」と昭和24年晦日に書いた矢部貞治は、しかし歯が痛いのであった。

朝も午後も誰も来ないので、少し仕事ができた。子供も隣りに遊びに行って静かだ。
結構お蔭で静かに本を読み、胃の負担も、歯の痛みも軽くなった。
(昭和25年1月3日)


この頃の矢部貞治は共産主義および共産党を叩きまくっており、

共産党産別の新聞か何かで、排斥すべき5人の学者の中に僕も入っているそうで、他は小泉信三田辺忠男大野信三伊部政一の由。笑わせる。
校正。相当に共産党をこっぴどくやっつけているので、これも彼らにやんやと言われるだろう。かまわぬ。
(昭和25年2月2日)


講演では「共産党員と称する壮年の男が喰ってかか」られたり。楽しそうだ。
で、昨年末に痛んだ歯について、

夜中田氏のところで歯を見て貰う。
(昭和25年2月20日)

受診したのは2月20日であった。放置約3ヶ月。遅すぎないか。

夕食後歯医者。大分待たされて、左のブリッジを外した。
(昭和25年2月22日)


この「左のブリッジ」、昭和24年4月25日に入れたものだろう。

夕食後歯医者。どうも又型を新しく取り直したり、レントゲンで診たりと大げさだ。
(昭和25年2月23日)


ブリッジの鉤をかけていた歯がダメになったのだろう。ブリッジ、かなり高額だったのに。

5時から浅見氏のインチキ会社創立の会だというので桃園に行く。石渡荘太郎緒方竹虎、植木、門叶、古井、それに社長の田中一万、などという連中。僕は歯が痛くて喰べ物は余り行かず、専ら飲んだ。
(昭和25年2月25日)


「浅見氏」=浅見耕士。林野庁関係の人のようだが、「浅見さんの会社の女店員」などという記述もあって、企業家なのかも。昭和21年秋には佐々弘雄ともに「桃園会」という、神田の中華料理屋(桃園)で国政を論じる会などもつくり人脈をひろげたり。この浅見氏が「地方自治治安協会の企て」を立てて矢部を引っぱりだしたりと、どうもやることが羽織ゴロくさい。
で、この浅見耕士氏は1月23日に「何かボロ会社を作るので役員になってくれと」矢部に要請。
1月30日には「例のいんちきな会社の件」で「林野庁長官の三浦氏と、その後任になるという今は指導部長の横川信夫氏、それに、野中正勝という人」が一堂に会した。
横川信夫は昭和25年3月15日付けで林野庁長官になっている。昭和34年から栃木県知事、4期を務めた。
「浅見氏のインチキ会社」=大同商事?

弊社は、昭和31年4月初代林野庁長官(元)参議院議院三浦辰雄氏の提唱により林業関係者の有志が中心となって設立されました。設立当初は木材需要の拡大に対応して進められた国有林野業の体制の整備に協力し、林業関連の機材を同事業に納入しました。
その後、インドネシア・カリマンタン開発が進められるにあたり、我が国の林業技術の協力が要望され、この技術体系を支える資材の輸出を行って参りました。 昭和40年林業基本法の制定に伴い、林業経営の合理化、特に林業労働力の不足対策とあわせ重筋作業からの開放を目標に造林事業を中心に林業用薬剤の導入が進められることとなり、保土谷化学工業株式会社の御支援を受け林業用の除草剤を取り扱うこととなりました。


制定予定の法律を知っていた官僚が、金もうけに走ったんだろうか。

矢部貞治の不愉快

最近或る怪文書が出ていて、吉田首相に頼まれて、社会党を「育成」している一派という中に僕の名も出ており、あちこちで噂になっているし、今日も西村栄一氏からその写しを見せられた。鍋山が中心で、佐野学矢次水野成夫西尾松岡日労系の人々が書いてあり、僕や、矢次や、水野や、金正や佐野学などの上には二重丸が付いていて、芝の料亭で常時会談していると註が付いている。共産党か社会党左派から出たものだろう。怪文書で名前を広告して貰っているわけだ。
(昭和24年4月4日)


2大政党制を目指す「社会党育成論」を主張したもののコトはそう簡単ではなかった――と、徳川夢声との対談で笑いながら話す吉田茂の発言を読んだことがあるが(徳川夢声「問答有用」)、そもそも怪文書として出回っていたらしい。

さて、昭和24年1月に「左の奥に金の入れ歯」を入れた矢部貞治。4月に、昭和22年3月23日に抜いた右奥歯痕の処理にかかっている。2年以上放置していたわけだ。

右の奥歯を抜いてから空白のまま放置してあるのを、何とかしなければならぬと思いつつ既に一年位経つが夕食後思い切って中田医師のところに行く。億劫がるほどのこともなく、割に早く出来そうだ。
(昭和24年4月13日)


かかりつけ歯科医が「中田」先生に。右奥歯を抜歯した先生は「渡辺」であった。なお、自宅は東京都世田谷区松原である。

7時半と8時半2度歯医者に行って見たが帰っていないので、今夜はあきらめた。これだから嫌になる。入浴。
(昭和24年4月15日)


時代はアドルム禍の最中である。
アドルム、ヒロポン、カストリは戦後の退廃した世相を象徴する言葉である――というナレーションをテレビのドキュメンタリー番組で聞いたことがあるが、

昭和25年1月21日
▲昭和25年1月21日付朝日新聞。

そりゃ退廃(というか敗戦のヤケクソ)もあっただろうが、見逃せないのは生活苦だろう。日本経済が発展途上国並みだった時代、生きるために誇りも何もかなぐり捨てて日々の糧を得ていた人々のストレスはすさまじかったはず。彼らが安くて手軽な快楽にハマっていかなければ、アドルム“禍”という状況にはならないのである。アドルム中毒といえば太宰や安吾など廃的イメージの作家が有名だが、作家なんぞ時代を問わず依存症か神経症なのだから、一般化するのはムリというものであろう。

近頃は焼酎を飲んでいる。夕食後は歯医者に行く。ごりごり削られて神経が痛い。そしてしみる。
(昭和24年4月18日)

矢部の飲んでいる「焼酎」はカストリである。
ちなみに、この頃ニセ焼酎が出回っていた。工業用アルコールを脱色脱臭してサッカリン、ズルチンで味をつけ、モノホンのラベル(宝焼酎とかから剥がしたやつ)を貼られて売られていたそうな。

大部間をおいたので夕方歯医者に行ったが、まだ帰らぬと言い、もう一度行って見たが、帰っていなかった。どうもあてにならぬ。
(昭和24年4月22日)


夕食後歯医者に行き、入浴したが、それ以外はずっとこの2つの駄文に没頭して夜中の12時半になった。
(昭和24年4月23日)

「2つの駄文」は「山川草木の想い出」(石川警察編集委員会「いしかわ」48号に掲載)と、「パリの春夏」という随筆。「山川草木の想い出」は書きながら感情を昂ぶらせて「我ともなく涙がこぼれた」とあり、意外の感。

朝8時半に歯医者に行って、右の奥にとにかく金を入れて貰った。異質物が入ったようで不愉快だ。
(昭和24年4月25日)


右奥に「金」を入れている。ブリッジか。値段の記載はない。
この25日から、為替レートが1ドル=360円に固定化された。で、昭和46年8月27日まで続くのである。

矢部貞治の不愉快

昨夜右の奥歯が痛んで熟睡できなかったので、近く旅行することもあり渡辺さんに行って手当をして貰う。結局奥歯を抜いてしまった。ぽこんと穴ができた。
梅咲いて 四十六の春 奥歯抜く
(昭和22年3月23日)

矢部貞治満45歳、右の奥歯を失っている。
昭和23年2月の渋川行きでは、後に群馬県歯科医師会会長(昭和33年4月〜昭和37年3月)となる山川卯平宅に宿泊。医師、歯科医師といえば町の名士であった時代である。

2時に渋川に着き、丸山徳太郎校長(中郷小学校)に迎えられて、浅見さんの親類という山川卯平氏(下ノ町2472)方に行く。歯科のお医者だ。非常に気さくな奥さんで、よく世話してくれた。
ここの文化会の幹部の人々が10人位やって来た。佐々木とか北村とかレヴェルの高い人達で、社会党が多いとの事。
こうゆう座談なら極めて快く話せる。
(昭和23年2月4日)

小学校教員組合相手の講演である。
「浅見さん」=浅見耕士。
右奥歯を抜いた痕は何もせず放置していたが、今度は左奥歯のブリッジがダメに。

午後歯医者に行って見て貰ったら、左の奥歯のブリッジが夙くから破れていて内部に汚物が溜り、親知らずが既に腐蝕して、手遅れだとの事。右の奥歯も処理すると2万円位かかるらしい。しかしまだ容易に死にそうにもないから、矢張りこの際治療しておかねばなるまい。金より時間が惜しい。
(昭和24年1月8日)


「金より時間が惜しい」。わかる。カネはあるのに治療を先延ばしにする人の多くは、こういう理由からである。
それにしても「右の奥歯も処理すると2万円位かかる」とは。東京のタクシーが2kmで100円の時代である。もちろん、自由診療だろう。

十時頃歯医者に行く。入れる歯の型を取ってから左の奥歯の親知らずを抜く。抜くと言っても既に形なき迄に腐蝕していたので、根を掘り出しただけだ。
(昭和24年1月9日)


勤勉で秀才、戦前にモダンボーイといわれたシャレ男が歯を「既に形なき迄に腐蝕」させる。これが明治男のスタンダードである。
ちなみに、矢部貞治は米・英・独・仏に計2年の留学経験があり(昭和10年4月〜昭和12年5月)、留学当時、少なくともアメリカには歯科衛生士が存在していた(アメリカ歯科衛生士会の設立が大正12年)。歯科衛生の知識も結構普及していたんじゃないかと思うのだが、日本人留学生にはあまりピンと来なかったのだろうか。ただただ、わきめもふらず勉強三昧だったのだろうか。

帰途歯医者に寄ったがまだ帰宅しておらず。
夕食後又行く。
明日の研究会の「ファッシズム」の論題につき若干の準備。
(昭和24年1月10日)


矢部貞治、この時46歳である。「研究会」とは世界民主研究所。鍋山貞親が設立した研究所で、反共をテーマに本の出版などを行っている。

世民研。今日はみんなで「ファッシズム」問題を取扱う座談をやるということであった。4時まで。
バスで帰って序でに歯医者による。丁度いてよかった。
夜はビアード。
(昭和24年1月11日)


「世民研」=世界民主研究所。
「ビアード」=Beard, President Roosevelt & the Coming of the War.

夕方歯医者。
ずっとビアードを読む。
(昭和24年1月15日)


一旦受診すれば、マメに通っている。

歯医者は夕食後にする。今日はいやに立てこんでいて、僕も少し待たされた上、まだ型がうまく出来ていないとて直ぐ帰った。いんちきだ。
(昭和24年1月17日)


まだ予約制は一般的ではなかった。

歯医者が夕食後は混むので、4時半過ぎ行って見たら、まだ帰宅せず、5時過ぎ行っても尚不在で、結局夕食後にする。どうも歯医者通いはこれで困る。時間がみな半端になる。
(昭和24年1月18日)


翌19日には、また群馬行き。中曽根康弘の選挙応援である。昭和24年の衆院選に、中曽根康弘は民主党から出馬していた。

今日になって選挙本部のヒトが来て、青年を集めるのは選挙法に違反する虞もあるし、それだけ又運動の時間を取る事になるから、矢張りこれから、康弘を追かけて、街頭演説に応援してやってくれという。
どうも嫌だが仕方がないので、急いで支度し、車で康弘君を追かける。漸く古巻村の漆原というところで追つき、ここから街頭演説に一口づつ添えて、渋川までつき合った。つまらぬ。渋川では序でに昨年世話になった山川卯平氏に一寸敬意を表した。
康弘君は矢張り青年に話してくれと言い張り、迎えの車も着たので渋川からそれで高崎に帰る。車中で弁当を喰う。
高崎に帰って青年の会合かと思ったら、そうではなく、本部に集った運動員らの会で、まるで筋が違うが、桜井という爺さんがお義理で、僕に話してくれというから、少し話していると、側の男が、選挙の作戦会議をやるから、早くやめてくれという。止めると、今度は又あとは会議だからどうぞとのけものにする。選挙で気が狂っているとは言えひどく不愉快であった。
いつも選挙の応援は不愉快なので、やめようやめようと思うのだが、本人が頼みに来るので、やむなく引受けるが、今後はほんとうにやめようと思う。
(昭和24年1月20日)

昭和24年1月24日 (1)
▲昭和24年1月24日付朝日新聞。

「今後はほんとうにやめよう」といいつつ、その後も矢部は中曽根に引っ張り出されている。
昭和25年も群馬、渋川で講演、山川卯平氏も夫妻で面会。

夕食後歯医者。今日は運よく余り混んでいないので、左の奥に金の入れ歯を入れた。一応これで左は終わったがうまく行くかどうかはまだ判らぬ。うまく出来たようではあるが、旧い金を使って9260円という。相当の費用だ。
(昭和24年1月21日)


「旧い金」? 抜去冠のリサイクルか。
昭和24年の「9260円」は、例えば小学校教員の初任給(諸手当を含まない基本給)が3991円である。英国製の布地を使用したオーダーメイドの紳士スーツが、昭和25年で8000円(東京の場合)。確かに「相当の費用」である。「旧い金」を使ったブリッジが9260円、新しい金だといくらしたんだろう。
支払は翌々日で、「1万円近く」であった。最終日に治療費も補綴代もコミの一括払いなんだろうか。
なお、矢部は同日に衆院選の投票にも行っている。

新聞を見て歯医者に行く。今日で一方は終了。1万円近くを支払う。
(略)中食後松原小学校に行き投票。鈴木茂三郎に入れる。好かんけれども、ほかは徳田球一民自広川だから、どうにも仕方がない。
(昭和24年1月23日)


当時は中選挙区制で、矢部貞治は東京3区だった。鈴木茂三郎は当時日本社会党の書記長。「青年よ再び銃をとるな」という演説で有名。

なお、この第24回衆院選が最高裁裁判官国民審査が行われた最初である。

昭和24年1月24日 (2)
▲昭和24年1月24日付朝日新聞。

しかし、投票率が74.04%(白票、無効票を引くと72.66%)もあるとは、

衆院選投票率の推移
▲衆院選投票率の推移。

隔世の感がある。この頃の日本人は、今よりも政治的に真面目だったんだろうか。

矢部貞治の不愉快

矢部貞治は酒豪であったが、笹川良一とも飲み友であった。初出は敗戦間際の昭和20年7月6日である。

4時前に玉川電車で行く。矢次氏の辺りは残存している。彼の家に一寸上ったら国粋大衆党の笹川氏もいて3人でビールを飲み、5時過ぎ直ぐ近くの笹川氏の仮寓に行ったら、朝日新聞の航空部長の河内飛行士がいてチビリチビリと飲んでいた。これに飛び入り。
(昭和20年7月6日)


両者の出会いは、矢次一夫の紹介のもよう。矢次が、矢部の師匠であった小野塚喜平次、美濃部達吉らと立ち上げた民間の研究組織「国策研究会」で、矢部は矢次と出会ったらしい。
「河内飛行士」=河内一彦。大正14年7月、初の訪欧飛行に成功した朝日新聞社機「東風」の操縦士である。矢部貞治と飲んだ約3ヶ月後、河内氏は死亡している(昭和20年10月2日)。死因は動脈瘤破裂。
戦後、矢部は笹川良一から「代議士に出そう」といわれている。気に入られたようだ。酒豪だからか。

国策研究会を改組し、「新政研究会」というものを作るについての相談であったが、これは後日に廻し、大いに飲む。笹川良一が切りに僕を代議士に出そうと言う。この笹川が自分の家に来て泊れ泊れと言うが、結局やめて帰宅。
(昭和20年10月5日)


「新政研究会」とは、恐らく昭和20年10月13日発足の戦後政治経済研究会。

昭和20年10月14日
▲昭和20年10月14日付朝日新聞。

小日山直登、矢次一夫、笹川良一の3氏が来ていて、あとから中山伊知郎、小谷、それに遅れて大河内君が来た。小日山氏が新政研究会の顧問になってくれという意味での会合らしいが、酒が豊富の上、宮川静枝君の詩吟がよくて愉快になった。
(昭和20年10月31日)


宮川静枝は笹川良一の第2夫人。……いや、第3だっけ?
小日山直登は与謝野晶子の弟子で、南満州鉄道総裁や運輸大臣などを務めていた。中山伊知郎は経済学者。この頃は戦後通貨対策委員会の委員である。
「新政研究会」は多分、国策研究会のことだろう。

夕方から矢次のところに行く。集ったのは杉原、鍋山、草野に安岡正篤、笹川良一で、矢次夫人は病後なので笹川の静枝女史が世話してくれ、屢々びわを弾じ、詩を吟じてくれた。完全に酔う。
(昭和24年3月26日)


「杉原」=杉原荒太、「鍋山」=鍋山貞親、「草野」=草野文男か。
いわゆる黒幕と呼ばれる人たちからいち早く目を付けられている矢部貞治。戦犯指名が始まった昭和20年12月に、矢部は近衛文麿とのからみを考慮して自ら東京帝大を辞している。そもそも大学に安住するタイプではなかったのであろう。

矢部貞治の不愉快

ラヂオの報ずるところを小耳に挿んだ所によれば、明日文部省側と総長とが会見するらしいが、その中に蓑田胸喜の名があったのは、不愉快至極だ。益々狂気沙汰が正気を追放する。
(昭和13年8月25日)


矢部貞治といえば近衛文麿のブレーン、特に新体制運動を書きあげた張本人として名高い。だが、矢部は近衛への協力をノリノリでやっていたわけではなかった。むしろ現実の不愉快に押され、面倒がりつつも政治に関わっていった。
矢部を不愉快にさせたひとつに、右翼の台頭がある。

議会では国家総動員法案について斉藤隆夫牧野良三等が「違憲論」を振りかざして正論を吐いている。之に対して政府は首相が病気で、答弁が自信を欠いている。
(昭和13年2月25日)


昭和13年といえば国家総動員法公布だが、その審議と並行して、

昭和13年2月25日
▲昭和13年2月25日付朝日新聞。

右翼的言辞がアカデミズムを追い詰めている。

蓑田胸喜の一派は「帝大法経学部の排日学風」を演説会や、本で、騒ぎ立てている。新聞に大きな広告の出ているのを見ると「国家と大学」なる本の目次には、田中耕太郎横田喜三郎河合栄次郎末広厳太郎蠟山政道、の諸家と並んで僕も掲げられている。
(昭和13年2月25日)


昭和13年2月25日付朝日新聞
▲広告「国家と大学」、昭和13年2月25日付朝日新聞。

右翼の活動は、大学の自治を崩壊させつつあった。

僕自身も大学と学問を守るための闘争には職を賭し、生命を賭しても合流するが、学説に関して弁明をする気は今のところない。僕自身は議会で問題にされたわけでもないし、帝国新報と原理日本に1回づつ載っただけで、而もその材料は著書でも何でもない講義案に他ならぬ。これは講義と一緒にしてのみ独立した意味を持つのだから。
(昭和13年3月5日)


職場である大学、そして仕事道具である講義案もが右翼の攻撃対象である。

経済学部の問題でも、どうも総長が文部省との間に何等かの諒解を事前に行ったらしく、教授会で起訴前の休職を決したに拘らず、総長の態度は実にのらくらであるらしく、而も文部省全体が、文相を除いては、皆右翼的策動と結託しているらしいのである。
(昭和13年3月5日)

当時の東京帝大総長は長與又郎である。

昭和13年3月8日
▲昭和13年3月8日付朝日新聞。

長與は、矢部にとっては頼りにならない存在であったようだ。

夕刊によると総長と会見して進言するというのは文部省ではなく、三室戸敬光菊地武夫井田磐楠井上清純等で、悉くこれ札付きの連中だ。
何よりも総長が痴呆的で困る。
(昭和13年8月25日)


昭和13年8月26日
▲昭和13年8月26日付朝日新聞。

三室戸敬光、菊地武夫、井田磐楠は天皇機関説問題で美濃部達吉を辞職に追い込んだ貴族院議員。確かに「札付き」であった。この「札付きの連中」が利用していたのが蓑田胸喜が盛んに発表していた論文や著書で、三室戸らが蓑田の論文を元に貴族院で攻撃演説をすると、蓑田がその内容を自分の雑誌「原理日本」で詳報し、両者は車の両輪のような関係にあった。蓑田は学生を使って、矢部貞治ら教師の講義をスパイさせてもいる。
昭和14年8月に、矢部貞治は教授に昇格。
近衛文麿との面会を後藤隆之助から打診されたのは翌15年5月で、

後藤隆之助氏のところから近衛公が同曜日の午後会いたいと言っている由電話。行くことにはしたが面倒臭い。
(昭和15年5月30日)


矢部は面倒がりつつも、昭和15年6月1日に面会が実現する。場所は華族会館。後藤隆之助は近衛の京大時代の学友で、近衛のブレーンのひとりである。矢部との出会いは昭和塾であった。
昭和塾は昭和13年、後藤隆之助、平貞蔵笠信太郎蝋山政道佐々弘雄氏らが自由主義的な青年を育てることを目的につくられた。その前身は昭和研究会である。

4時半約束により華族会館で後藤隆之助氏と一緒に近衛文麿公に会見。昭和研究会で考えていた政治体制確立の研究を一応僕から話した。
その後で色々と三人で話したが、此の回向もあけすけに色んな大事を話してくれた。公の話しで要するに日本の政治の最大の難物は陸軍の不統一ということ。南京政府の不振も陸軍が近衛声明の趣旨を実行しないことにあることを示唆された。を立てる時の考えでは、重慶の連中も入ってくることを期待し、雲南の龍雲なども呼応する筈であったのだが、何しろ南京政府を陸軍が少しも自由にやらせないので、どうにも仕方がないこと、先日の陳公博が公に向ってさんざん不評を言って帰ったことなどを話していた。
それよりももっと重大なニュースは近い中に近衛公が新党運動に打って出る決意を明かにされたことだ。
(昭和15年6月1日)

ここで近衛がいう「近衛声明」は昭和13年12月22日の近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)だろう。

何れにしても近衛が出て新しい国民運動を展開して行くとなると、少しは政治も動くかも知れぬ。非常に嬉しい気がした。今日の会見も嫌であったが、結果としては、一つの光明を与えられた感じ。
後藤隆之助の話しでは、末次大将が名古屋で演説し、排英一本で行くべきで、この点から言えば満州事変も、支邦事変もやるべきではなかったと言って問題を起している由。又全国に闇取引の問題で県庁にプロテストし或は自殺し、或は帰還兵士が反軍的となりつつある由聞いた。
(昭和15年6月1日)


この頃、公定価格より高い値段で売買する「闇取引」が横行していた。というか、公定価格が実勢価格に比してメチャクチャ安かったのである。規則自体が異常なのだから、例外が一般化するのは当然であった。役人までもが闇取引に手を染めている。

昭和15年6月12日
▲昭和15年6月12日付朝日新聞。

あまりフランクに話がはずむので、六時半までいた。個人的な意味では近衛公の目は非常に鋭い。後藤隆之助の眼と好一対だ。近衛の眼は高貴で天成で、聡明。意思力なし。後藤の眼は座禅で敲き上げた意思力の眼だ。
(昭和15年6月1日)

矢部貞治、近衛にメロメロだ。「フランクに話がはずむ」――近衛、聞き上手で気取らない性格だったのだろう。この6月に、矢部貞治は海軍省調査課の嘱託になっている。
尾崎秀実と会い、朝食会への参加を求められたのは昭和15年6月24日。近衛が枢密院議長を辞めた日である。場所は神楽坂の榊という料亭であった。

尾崎の話しは、近衛公のブレーンと称される人々(岸、牛場、西園寺、佐々、笠、平、蠟山、渡辺等)で朝飯を喰う会があるので、そのメムバーになってくれということ、近衛公のところに各方面から、色々の献策が来ているので、それを僕に整理してくれないかということ、もう一つは新党の綱領の様なものを作るときにそれを僕にも見て貰いたいということ、で、僕は悉く快諾して置いた。
(昭和15年6月24日)


で、7月に第二次近衛内閣が発足。矢部は、新体制準備会での近衛声明文を書くのだが(昭和15年8月28日発表)。

尚昨日富田書記官長が、誰か文章の専門家に僕の書いた文案を見て貰ったと言っていたが、近公は今日それは蓑田胸喜だという。馬鹿の骨頂だ。二三文句を付けたそうだが、べら棒なものだ。あんなものと一緒にされては堪らぬ。


近衛、なんと蓑田胸喜に校閲させている。うわあ。近衛文麿、友人としてはイイ人なのかもしれないが。

矢部貞治の不愉快

昭和12年6月に歯痛を認めた矢部貞治。
実際治療に臨んだのは、9月も終わり頃であった。

医者に行ったお陰で歯痛は大体治った。
今日の講演の準備をする。午後は少し緑会雑誌のために随筆の様なものを書き初めた。「ナチスと大学教授」と題し、ケルロイターシュミットのことを書いてやろうと思う。
(昭和12年9月29日)


「緑会雑誌」は東京大学法学部の自治会・緑会の出していた機関誌。

夕食後もう一度渡辺さんに行って歯を掃除して貰って来た。
(昭和12年9月29日)


かかりつけ歯科医は自宅前の「渡辺さん」。自宅は東京都世田谷区松原にあった。

午後講義。どうも少し歯が痛くて困った。
(昭和12年11月24日)


11月にまた歯痛はぶり返すが(二次齲蝕?)、また放置。
次に記載があるのは、昭和15年6月である。

歯痛と偏頭痛で少し不快。
(昭和15年6月16日)


これでも歯科受診はせず、

ちょいちょい旅行に行くのに、歯が少しいかぬので、渡辺さんに行ってセメントをつめて貰う。
(昭和19年3月3日)


昭和19年3月にやっと受診している。

なお、矢部は昭和12年12月6日から13年1月1日まで、外務省の嘱託で満州を視察している。12月26日に関東軍参謀副長・石原莞爾の自宅で面会し、その際の石原の言。

北支事変そのものが初めから飛んでもない過誤だと言い、南京攻略など実に無定見で、畢竟するに日本軍に自信がないからだと痛烈に批判し、ソヴエト問題を考えれば日本は支邦とこそ心から提携しなければならぬのに、支邦の民族意識をあれだけ強化し得た蒋介石と国民党を否認して、如何にして支邦民族の魂を摑むことが出来ようかと言う。
(北支満州視察旅行記)


まあ、そうなのだが。満州事変の首謀者がソレを言って、特に軍部に対して説得力を持ちえたかが問題である。

英国を刺戟することを排斥し、ソブエトに集中すべきことを述べ、又蒙古を保護し、漢民族に退いて貰ってあそこに世界最強の騎兵隊を作るのだと言い、それがソヴエト及び印度に対する意味を示唆した。又満州に於ての五族協和の理想を力説し、之を妨げるものは日系官吏だとて之を痛罵し、建国大学でもこの協和の理想を生かすのだとて、暗に「神ながら」の筧先生を敬遠し、支邦の現在のやり方では失敗するの他なしと断言して、日本にも満州にも真の「政治」のないことを慨嘆された。
(北支満州視察旅行記)


「筧先生」とは国体明徴運動を推進した筧克彦で、東京帝大法学部教授である。「天子様の御徳は天照御神様の御徳であらせられる」(皇國精神講話)などという講義が東京帝大で講義されていたということには驚かざるを得ない。しかし、昨今の日本会議の勃興などみると、神がかり系右翼の戦後生存率は結構高いのかもしれないと思う。某国会議員が、日本および日本がかつて宗主国であった台湾との二重国籍であると非難(!)されていた件を見るにつけ。石原莞爾や中野正剛など、大東亜戦争で唯一の大義であった大アジア主義系右翼は、むしろ完膚なきまでに潰えたのであるが、これもWar Guilt Information Programとかいうもののせいなのか。

矢部貞治の不愉快

歯が痛くて不愉快だ。
(昭和12年6月15日、「矢部貞治日記 銀杏の巻」)


矢部貞治は(やべていじ、明治35年11月9日〜昭和42年5月7日)は、近衛文麿のブレーンとして新体制構想を立案した政治学者(東京帝国大学法学部教授)である。
戦後は戦犯容疑者となることを予想して東京帝大を自ら辞め、フリーの政治評論家に。早稲田大学大学院講師を経て拓殖大学総長、内閣憲法調査会や選挙制度審議会などの委員も務めた。著書に「近衛文麿」「民主主義の原理」、訳書にケルロイター「ナチス・ドイツ憲法論」、ウォルター・リップマン「公共の哲学」などがある――が、今でもよく読まれている&引用されているのは「矢部貞治日記」であろう。現在刊行されている矢部の日記は、2年間の欧州留学を経て帰国した昭和12年5月28日から、急逝3日前の昭和42年5月4日まで。日々のアレコレを洩らさず記録するその勤勉には驚くほかない。政治、社会、大学、生活、世相など、あらゆる面で参考になる長大な叙事詩、それが矢部貞治日記である。
しかし、残念なことには、この日記には人命索引がない。
1巻読み終わってからソレに気付き(全4巻)、危うく発狂しそうになったよ読売新聞社。索引は日記の命である。新たに索引アリのバージョンを文庫で出すことを切に希望する。OCRがある現在、索引づくりも簡単になっているはずだ。まずは著作権が切れた部分からやってみたらどうか。なんなら私がテキスト打ちしてもいい。頼む! 文庫で頼む!! 古本屋でもまるで高くて手が出ない!!! 全巻5000円くらいでぜひ!!!!

朝講義の支度。午後講義。中食後から歯が痛くなって講義が辛かった。
(略)
夕食後歯痛が耐えられぬので、前の渡辺さんに行って見て貰う。消毒しただけだ。乳歯が曲って空洞が出来たところに物が入り醗酵するせいだろうという。痛いのは大してよくならぬ。夜何もせず。
(昭和12年9月28日)


こう書いた矢部貞治、35歳。
勤勉でマメマメしい秀才も健康や医学には疎かったようで、歯科受診にも及び腰だ。この時も3ヶ月以上歯痛を放置している。何よりも歯のことが優先だ――と日記に書き出して間もなく亡くなっているのは、示唆的である。
受診こそなかなかしなかったが、矢部貞治は行動力のある人物であった。好き嫌いもハッキリしている。矢部貞治日記刊行会の会長であった東畑精一によると、日記の原文では「しばしば他人に対して余りにも忌憚なき批判や露骨といってよいほどの憤懣を洩らして」いた(東畑精一「刊行のことば」)。なので刊行の際には「私的感情の一切を削除した」そうだが、それでも人やモノ事に対する批判や不満は随所に出てくる。
例えば、こんな調子だ。

朝の朝日新聞に経済学部に於ける土方本位田の教授が時局に対し積極的国家的行動をとるべきことを教授会で長い論議の末決した旨の談話を発表し、総長が又例の軽率さで大いに之を支持し、時局に対する積極的な協力を既に、文部大臣にも「誓った」と言い、現下の様な時局では学者は研究室に止るべきではないなどということを公言し、新聞は「象牙の塔の180度の大転回」だなどと書いているので、眉をひそめた。経済学部も愚劣だが、総長の独善にはほとほと愛想が尽きる。
(昭和12年12月25日)


昭和12年11月25日
▲昭和12年11月25日付朝日新聞。

こう書かれた当時、東京帝大経済学部は内紛状態であった。
その一端が、いわゆる矢内原忠雄事件である。同事件は経済学教授の矢内原忠雄が中国侵略や国家精神総動員などを暗に非難し、国家の理想や国際正義について述べた論文(「国家の理想」、中央公論、昭和12年9月号)が内務省に問題視され、即刻発禁となった。この論文は文部省や警視庁、憲兵隊、国会議員、右翼思想家の間でも非難されることとなり、矢内原は辞職に追い込まれてしまう。大学の自治を守れず、矢内原を事実上追放したかたちになった総長・長與又郎に、当時法学部助教授だった矢部が批判的になるのも、まあ無理はないと思う。ただし、長與本人の日記(長與又郎日記)を読むと長與は矢内原を救おうと考慮を尽くし、奔走している。長與はどの派閥にもおもねることなく、いろいろな人の意見を積極的に聞いて回っているから、少なくとも「独善」は当らない。歯科学講座の人事問題にしても長與は一貫して公平な態度で、石原久とのいざこざで大学を出て行った島峯徹とも胸襟を開いて語り合い、結果として最善の人事を可能にしたのである。

中食の時、大内教授と隣り合せに座って矢内原教授の件を色々と聞いた。要するに橋爪あたりが策動したらしい。藤井武氏の追悼会で為した反戦論が一番の原因だとの事だ。
(昭和12年12月3日)


「橋爪」とは橋爪昭男・経済学部助教授。この昭和12年の春ごろから、思想の取り締まりを行っていた内務省警保局の嘱託となり、警保局長の顧問をしていた。昭和13年2月1日の第二次人民戦線事件で、美濃部亮吉・法政大学経済学部教授が検挙された際にも、橋爪の情報提供が関係していたという。
藤井武」は内村鑑三の弟子で聖書研究者、矢内原とは親戚関係でもあった(矢内原の先妻・愛子は、藤井武の妻の妹・喬子)。昭和5年に藤井が亡くなると、矢内原はその5人の子どもを引き取って育てている。奥さんも大変だ。
この藤井武の追悼会で、矢内原が「為した反戦論」は、

今日は、虚偽(いつわり)の世に於て、我々のかくも愛した日本の国の理想、或いは理想を失ったる日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、若し私の申したことが御解りになったならば、日本の理想を生かす為めに、一先ずこの国を葬ってください。
(矢内原忠雄全集18巻)


と結ばれていて、これが長與をして「余としても到底許容出来ぬ文言あり。自発的に辞職せしむる外に道なしと決心」させたという(長與又郎日記、昭和12年11月30日)。正直、この程度で? というのが戦後世代の感想ではあろう。ちなみに「国家の理想」も具体的な名称を出して非難しているわけではなく、抑制的である。矢内原忠雄はそれが危険であると理解してかなり抑制し、しかし書かざるを得なかった。殉教する覚悟だったのだろう。
矢内原が危険を承知で反戦論を公表しはじめたそのきっかけは、南京事件である。矢内原忠雄は、恐らくはキリスト教関係のルートでその悲惨を知っていた。南京攻略が開始されるとアメリカのミッション系スクールであった金陵女子大学が現地で女性や避難民の受け入れを行うのだが、同校の宣教師を通じて、日本兵による掠奪や住民への暴行・強姦の事実がアメリカに報告され、さらに海外に広く報道され、特にアメリカの排日感情に油を注ぐ。矢内原はこの事件に対して何の声も上げない、日本のキリスト教各派についても怒りをあらわにした(関口安義「評伝 矢内原忠雄」(10))。

参考:「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」

それにしても矢内原は、東大を辞職した後どうやって食べていたのだろう。前述の事情でたくさんの子を抱え(計7人?)、著書の発禁処分で印税収入も途絶えて。
と、探してみるとこんな記事が。
学生相手に、カフェつきの古本屋をやるという。

昭和12年12月20日
▲昭和12年12月20日付朝日新聞。

続報がないので、本当にやったのかはわからない。あとは自由が丘の自宅で土曜学校という私塾も開いていたのでその受講料と、発行していた個人誌の購読料ぐらいか。いずれにしてもかなり貧乏だろう。帝大をトップで卒業して教授になり、非国民だとののしられて追放され、古本屋になって(?)、警察に脅されながらも執筆をやめず、敗戦後は東大総長に。すごい人生である。

なお、矢部貞治もキリスト教徒であった。といっても信仰心は、少なくとも日記からは感じられないが。
学問的なルーツでは、矢部の師は小野塚喜平次(政治学、昭和3〜9年東大総長)である。
小野塚は天皇機関説が不敬であると社会問題化した際に貴族院議員で、同院で弁明演説を行った美濃部達吉を拍手したひとりであった(昭和10年2月25日)。このために小野塚は右翼から“学匪”“国賊”呼ばわりされ、二・二六事件では鎌倉の海浜ホテルに数日間避難している。よって、矢部もファッショに対する警戒心は充分あった。東京帝大は昭和12年から明治節に有志が明治神宮に参拝するようになったが、

大学では式があった後、学生が大挙して(或は一千名と言い、或は600人という)雨中を神宮に参拝した由。土方、橋爪等が先頭に立った由。正しく新聞の言う様に大学として未曾有だ。
(昭和12年11月3日)


矢部の書きっぷりは、まるで他人事である。矢部同様に参加しなかった大内兵衛は、土方成美・経済学部長から“愛国心に乏しい”と非難されているが、矢部貞治も非難されたクチだろう。蓑田胸喜の「国家と大学」では「日本人として日本人たることに対する無感激、これが矢部氏の思想の根本的、致命的欠陥である」などと批判されている。常にジャケットの胸からハンカチをのぞかせている欧州帰りのクールなモダンボーイだった矢部は、戦時の極右のカンに触ってよく攻撃され、実際に矢部は東大の辞職を真剣に考えている。“だから”か、“にもかかわらず”か――矢部貞治は近衛文麿の新体制や、軍の大東亜共栄圏政策に深く関わっていき、今ではむしろ右翼的イメージであるのは面白いというか、人生一筋縄ではいかないなと思う。

大川周明はいつ感染したか(完)

大川周明日記」から、松沢病院退院後の大川周明。
昭和24年5月に栗田女史との仲が復活。そしてこの5月で、大川周明の日記は途切れているので(最終日は昭和24年5月30日)、2人の仲がどうなったかはナゾである。
大川の体調は悪く、

佐藤君より貰った鉱石を用いて薬湯。4回入浴。
(日記、昭和24年5月16日)


「鉱石」を用いた薬湯に入っているが、この「鉱石」とはラジウム鉱石か。とすると、がんの疑いでもあったのかもしれない。
ちなみに、風呂に入れるだけでラドン温泉になるとかいう商品は今もあるが(コレとか)、入れたってその湯は水道水と変わらない。さらにネットでは関連商品をみると〇〇に効く的な表記が散見されるが、ごく控えめに言って薬事法違反である。かくいう私も肩こりと頭痛に苦しんでおり、見かねた知人がくれたのがこの手の石なのだが、人の親切にまで科学的に対応すべきかは悩ましいところであった。
閑話休題。
書簡を見ると、

月初めより胆嚢炎に罹り病床呻吟旬日に及び申候が、漸く快方に向い、月末には本復可仕候。
(書簡、昭和24年9月21日、神奈川県中津より大塚壽男宛)

昭和24年9月初旬に胆嚢炎になり、

私の病気尚全快に至らず。離床は月末ごろなるべし。
(書簡、昭和28年2月5日、神奈川県中津より大川龍太郎宛)


その後もたびたび体調を崩して、

私の病気も漸く全快21日に60日振りで入浴、
(書簡、昭和28年2月20日、津久井龍雄宛)


旧臘より新春に亘りての重病にて失費多かりしため嚢仲殆ど空しく
(書簡、昭和28年7月3日、神奈川県中津より原田幸吉宛)


「重病」で2ヶ月も寝込んで生活も貧しく、

小生自身の胃癌をも僅に3ヶ月にて全治せしめたる中村嘉蔵博士の処方薬を、早速服用するよう是非老兄より御奨め被下度願上候。
(書簡、昭和28年5月25日、神奈川県中津より池田正之輔宛)


昭和28年春ごろには「胃癌」を発症。大川周明、66歳の時である。「全治」したとあるが。

小生の眼は緑内障にて最早処置なしとの診断に御座候。知らぬ間に左眼はなし崩しに盲になりたる次第、吾ながら笑止此事に御座候。
(書簡、昭和29年5月12日、神奈川県中津より大塚義則(壽男)宛)

昭和29年には緑内障が進行し、左眼は失明の危機に瀕している。緑内障はだんだんと視野が欠けていく不可逆性の眼疾患。大川周明は若い頃から近眼だったが(写真を見ると眼鏡のレンズがかなり分厚い)、近視と加齢は緑内障の危険因子である。緑内障は進行性とはいえ失明までは10〜20年の時間を要するから、進行麻痺の診断が下った昭和21年5月にはすでに緑内障も発症していたのだろう。

東京に黒澤潤三博士其他の診察を受け候処、左眼は失明に対しては最早処置なく、専ら右眼の愛護に努むべしとのことにて、点眼洗眼によりて予防策を講ずることにし、毎週1回上京の際黒澤博士の診察を受くることと致し居候。
(書簡、昭和29年6月10日、神奈川県中津より大塚義則(壽男)宛)


「黒澤潤三」は当時の日本医師会会長。とすると、大川が通った眼科は湯島の小川眼科病院か。
昭和29年7月には緑内障治療のため、

眼病が緑内障との診断にて左眼は失明、右眼への蔓延を防ぐため明27日より東京台東区の佐久間病院に入院と相定め申候。
(書簡、昭和29年7月26日、神奈川県中津より中嶋久萬吉宛)


入院している。「佐久間病院」とあるが、これ、小川眼科病院の間違いではないか。

小生眼病と戦いながら9月も1日より約半月の予定にて東北農村行脚の途に上り可申候。
(書簡、昭和29年8月26日、神奈川県中津より鈴木喜與之宛)


眼を患いながらも、大川周明は農村復興(大川曰く「新瑞穂国の建立」)を期して全国を講演行脚していた。

私は過去の一切を亡国日本と共に棄て去り新しい大川として生き始めたので、日本の残骸には微塵の未練も残さず、唯々新瑞穂国の土台を農村に築こうと一心に努めて居るだけです。従って吉田が退き鳩山が出るというような出来事は、葬式の人足頭の更代としか感じません。
(書簡、昭和30年1月1日、神奈川県中津より中村武彦宛)


眼病の進行は止まらない。

目の方徐々に悪化し来候が、70年酷使せることなれバ止むなき次第と諦め居候。
(書簡、昭和30年6月26日、神奈川県中津より大塚壽男宛)


残暑連日の行事のため緑内障悪化し視力頓に衰退せる故、
(書簡、昭和30年10月30日、神奈川県中津より今野民彌宛)


昭和31年9月には肺炎に罹患し、

肺炎のため病臥2週間に亘りしも、幸い本復。(略)唯だ五体は健全なれど、緑内障次第に悪化して視力頓に衰え往くことは如何としても致し難く候。
(書簡、昭和31年10月3日、今野民弥宛)


昭和32年には手紙を書くことも苦痛になっている。

私の眼はその後次第に悪化し、今月に入りて急激に視力衰え、字を書くのが苦痛の為、今日迄返事遅れました。
(書簡、昭和32年(推定)2月18日、神奈川県中津より大塚壽男宛)


大川周明、70歳。
昭和32年5月に気管支炎をこじらせて喘息を誘発、

今年5月下旬昨冬から根治し得なかった気管支炎が重くなり、数日後には喘息を誘発し、其後喘息の発作は稍々少なくなったが甚だしく体力衰弱したるため肝臓や胃腸が悪くなり、更に肋膜炎を併発する等容易ならざる連続でありましたが、そうしてをる間に喘息の発作は止み肝臓も胃腸も恢復し、肋膜炎は徐々に快方に向い、7旬に亘る長い病魔のために極度に衰弱した体力は容易に恢復しませんが、気分は次第に良くなりつつある状態であります。
(書簡、昭和32年5月6日、柳澤一二宛)


胸膜炎も併発した。
昭和32年12月24日、大川周明は神奈川県中津村の自宅でとうとう息絶える。命日は71歳の誕生日であった。死因は急性心不全(内村祐之、吉益脩夫監修「日本の精神鑑定」)。

死去前に兼子夫人に「ぼくがもういいよ、といえば皆に知らしてくれ」といった。やがてそういって1時間後に死去した。蔵書は和漢洋にわたって広大な家屋を埋めるほどであったが、現金は800円しかなかった。葬儀は青山斎場で徳川義親元公爵の祭主で行われたが、参列者は3千人を越えた。
(中野雅夫「橋本大佐の手記」)


死亡当日の朝日新聞夕刊には大川の訃報が掲載されたが、

2017-09-24
▲昭和32年12月24日付朝日新聞。

まるで極東軍事裁判以降、ずっと精神障害者であったかのような書きっぷり。このテキトーさ、戦後メディアがどう大川周明を扱ってきたかを象徴していると思う。
なお、大川周明20年来の愛人であった栗田女史は、大川死去の3日後に死んだ(松本健一「大川周明」)。2人は恐らく、栗田女史の相武台の家で、死ぬまで逢瀬を重ねていたのだろう。


以下はおまけ。

2017-09-24 (1)
▲昭和31年7月10日付朝日新聞。

昭和31年7月に東京の元大川邸の庭から、陸軍の短銃(94式46丁と19年式1丁)が掘り出されている。短銃の製造月日は昭和20年2月。新聞には「掘り出されたピルトルは関係ないもので記憶にない」という大川の談話が載っているが、まあ、大川らしい話である。

大川周明はいつ感染したか(65)

大川周明日記」から、昭和24年3〜4月分。極東国際軍事裁判終結後の大川周明である。
財産税の支払のため、

2時半兼子帰る。品物なかなか高く売れず、苦心のてい。
7時のバスにて八木亀太郎君来泊。蔵書売払についての相談。
(日記、昭和24年3月5日)


大川兼子夫人は金つくりに奔走。大川周明も蔵書を売りに出している。

2時のバスにて八木君東海大学理事桜井匡氏を伴い来る。図書売渡の条件を話す。
(日記、昭和24年3月10日)


蔵書を購入してもらうべく東海大学と交渉するが、

兼子今日も病臥。
桜井氏より東海大学にて予の蔵書を購入せぬよし手紙。
(日記、昭和24年3月27日)

交渉決裂。まだどこも学校も貧乏だからだろう。太田耕造の日本経済専門学校あたり、購入しそうなものだが。
大川周明は庭の草取りなどして無為に過ごす日々であったが、

瀧井君より手紙、栗田予と会いたしと言い居る故連絡せよとあり。栗田に用事は手紙にてと書きやる。
(日記、昭和24年4月8日)


かつての愛人、栗田女史から接触が。

11時のバスにて石黒夫人帰る。そのバスにて栗田来訪。5時のバスにて帰る。
(日記、昭和24年4月13日)


栗田女史、入院中の大川周明の病室には入れなかったが、自宅には行けたようだ。

リスト作成。蔵書の貧弱を知る。
(日記、昭和24年4月21日)


蔵書はまだ売れていない。

会田・鷲見・萱葺・栗田諸氏より来信。
(日記、昭和24年4月22日)


栗田女史と手紙のやりとりが始まっている。

11時のバスにて石黒夫人来り、5時のバスにて帰る。石黒君2千円恵投。
(日記、昭和24年4月29日)


時々カンパをくれる人もいて、

兼子厚木まで同道し財産税完納。
(日記、昭和24年4月30日)


財産税は完納した。
大川周明は神経痛にも悩まされていた。結構、満身創痍かもしれない。

大川周明はいつ感染したか(64)

大川周明日記」から、昭和24年1〜2月分。極東国際軍事裁判終結後の大川周明である。大川は昭和23年12月24日に不起訴となり釈放され、30日に松沢病院を退院している。帰宅後は来客が続き、本ら書信などの「整理」に追われる大川周明。

梅津大将米病院にて死去。
(日記、昭和24年1月9日)


梅津美治郎は極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受け、服役中だった。享年67。死因は直腸がん。昭和53年、靖国神社に合祀されたA級戦犯14人のうちの1人である。

朝及び夕洗面の時鼻血。
鶴見茂君より消息あり、満洲引揚の経緯をのぶ。小木曽和上並岩崎君より。
兼子腎臓の病を訴う。
(日記、昭和24年1月22日)


夫婦ともども、体調は良くない。

川村狂堂翁より久振の消息あり。
(日記、昭和24年1月26日)


川村狂堂は日本人の回教徒で、満州国・新京の回教会会長だった。戦時は中国でムスリムとして防共活動をしていたもよう。

午後許斐、高橋両君、西川逆瀬川両生と共に来訪。
(日記、昭和24年1月30日)


許斐氏利との交流も早々に復活している。

兼子東京行。財産税調達のため時計・墨を売らんとするなり。
(日記、昭和24年2月14日)


財産税は内国債の償還のために全国民からすべからくその財産を収奪せんとした税法。税率は25〜90%の14段階で設定された。3年間も収入がないうえ、治療費を賄わなければならなかった兼子夫人の苦労が思いやられる。

一時のバスにて兼子帰る。売物思うように捌けず。
(日記、昭和24年2月18日)


兼子夫人、気の毒だ。預金封鎖にもひとりで対処したのだろうし。
しかも、

兼子風邪臥床。
(日記、昭和24年2月19日)


正月から体調を崩していた。

兼子臥床。
(日記、昭和24年2月22日)


兼子金つくりのため上京。
終日庭いぢり。
(日記、昭和24年2月28日)


庭いぢりはしても大川周明、家事はやらないのであろう。

大川周明はいつ感染したか(63)

大川周明日記」から、昭和23年12月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。

釈放か裁判かいずれにせよ病院成果中は永くなしと思えど、判決後3週間を経て何の音沙汰もなし。裁判ならば終身禁錮と肚を極めたり。いずれにせよ日々好日随処為主、不思議に何の屈託もなし。
(日記、昭和23年12月4日)


大川周明は「終身禁錮」どころか death by hanging だったろう。裁判されていたならば。
10日、国連総会で世界人権宣言が採択される。その第3条は「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」だが、13日以後にはA級戦犯7人が死刑となる。

巣鴨入りは昭和21年の明日なれば、家を出でで今日で満3年。
(日記、昭和23年12月11日)


大川周明の逮捕は昭和20年の12月12日である。もしかして大川、数字に弱い?

今年も2週間を剰すのみ。正月は中津で迎えるつもりなりしが、すべて「つもり」は駄目なり。どこで正月を迎えてもよしと思い定むべきなり。
(日記、昭和23年12月18日)


私も読書し放題で、原稿が書けて、タダメシが食えるなら入院したいぐらいである。が、3年間も外出できないのはツライかも。

米大審院訴願を却下。
(日記、昭和23年12月21日)


昭和23年12月21日
▲昭和23年12月21日付朝日新聞。

大川周明はまた下痢になっている。

今朝の真夜中に東条君以下処刑。
議会解散。
(日記、昭和23年12月23日)


23日、衆院が解散した。第2次吉田内閣の、いわゆる馴れ合い解散である。
東条英機らに死刑が下されてから、

松井・板垣・土肥原・東條のために読経。善かれ悪かれ世界史の上に其名を残す。男子以て冥すべし。
釈放との知らせあり。兼子喜び居ることならん。3時過ぎ石田君が喜びに来てくれ、6時ころ帰る。
(日記、昭和22年12月24日)


大川周明は不起訴処分となり、釈放された。社会的退院である。
なお、この24日は大川周明の誕生日で、満62歳になっている。

昭和23年12月24日
▲昭和23年12月24日付朝日新聞。

死刑後の遺体は、横浜市の久保山火葬場で荼毘に付されている。死刑は、しかし妥当だったんだろうか。

昭和23年12月25日
▲昭和23年12月25日付朝日新聞。

朝研究所生、日野月・片岡・秋子夫婦来る。午前9時西川大塚両君清水夫人・堀井君と2台の自動車にて出発11時帰村。
(日記、昭和23年12月30日)


昭和23年12月31日
▲昭和23年12月31日付朝日新聞。

というわけで大川周明、娑婆に戻る。
娑婆では、ルース・ベネディクトの日本文化論「菊と刀 日本文化の型」がベストセラーの兆しを見せていた。日本共産党が音楽と社交ダンスなどの舞踊を基本政策とする(昭和22年1月6日、全国協議会)ほどのダンスブームで、各地にダンス学校もできていた。帰国し始めたシベリア抑留者が、苦労しながら職探しに奔走する時代でもある。戦時とは一変した欲望うずまく社会に大東亜戦争の最大かつ最高のイデオローグが突如投げこまれるというこの状況は、かなり興味深い。衝撃のあまり愛人との仲を復活させてもおかしくないと思うが、どうだろう。

大川周明はいつ感染したか(62)

大川周明日記」から、昭和23年11月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。

トルーマン大統領再選。世界の予想を完全に裏切る。
昨日国際軍事裁判朗読開始。
(日記、昭和23年11月5日)


昭和23年11月5日
▲昭和23年11月5日付朝日新聞。

朝日新聞は妙にトルーマンを持ち上げているのだが、これもGHQの目を気にしていたためなのか。世界史上最悪の非人道的行為である原爆投下を行った人物に「人間トルーマン」「温い普通人の持ち味」。笑わせる。

孤峰将軍の近什が新聞に出て居る
七十有余事 回顧悔恨長
在青山到処 行楽涅槃郷
大きくも変り行く世を夢にして
ひとやに我は老い果つるかも
(日記、昭和23年11月11日)


「孤峰将軍」=松井石根。

昨日判決。東条・土肥原・板垣・松井・木村・武藤・廣田死刑。東郷20年、重光7年、其他悉く終身禁錮。
(日記、昭和23年11月13日)


昭和23年11月13日付
▲昭和23年11月13日付朝日新聞。

13日の朝日新聞にはパル判事のいわゆる日本無罪論も出ているが、

昭和23年11月13日
▲昭和23年11月13日付朝日新聞。

大川周明の感想はない。

一時ころ兼子来り、夕食後目黒に往く。やや昂奮の様子。女なれば無理もなし。
(日記、昭和23年11月15日)


マ元帥の最終決定判決通り。
(日記、昭和23年11月24日)


新聞に予も裁判されるように出てから、無事退院出来ると思い込んで居た兼子が、女のこととて非常に心配し始めたのがかわいそうだ。予は60年遊戯三昧に暮らした上、世界史の上に悪名を遺して死ねば、生き甲斐あり余る一生だから、何うなろうと頓斗屈託ないが、唯だ兼子だけが可憐。尤も家屋敷や蔵書や衣類を売払えば生活には困るまいから此点は気が軽い。
(日記、昭和23年11月27日)


妻を思いやる大川周明。愛人はやはり別腹だったのか。

大川周明はいつ感染したか(61)

大川周明日記」から、昭和23年9〜10月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。

馮玉祥米国よりソ舩に乗りてオデッサに迎う舩中に家族と共に焼死。
(日記、昭和23年9月7日)


馮玉祥は1924年11月、北京の故宮から溥儀を追い払った国民軍の将軍である。ソ連船上で息子とともに死亡し、モスクワで火葬されている。クリスチャンだった。
9日、朝鮮民主主義人民共和国樹立(首相:金日成)。

サンマ<ママ>・タイム今日で終り明日より正常時間。
古蘭校訂完了。
(日記、昭和23年9月11日)


昭和23年には日本で初めて、サマー・タイムが実施されている(5月2日〜9月11日)。で、驚いたことに当時はサンマータイムと呼ばれていたのである。

昭和23年4月28日
▲昭和23年4月28日付朝日新聞。

11日にはパキスタン建国の父、ジンナーが死亡している。インドから独立したイスラム教国家、パキスタンもいまや核保有国。北朝鮮の核技術もパキスタン由来といわれており、その北朝鮮が米国に歯向かっているという現在、大川周明ならこの事態をどう書いただろうか。

老子。
血液並脊髄液検査。
(日記、昭和23年9月30日)


検査結果の記載はナシ。進行麻痺が完治したのかも。
なお、大川周明は大正10年頃に出版した「宗教原理講話」で老子について書いているのだが(「預言者としての老子」)、入院中にまた読んでいる。訳者名を書いていないので、原著か。コーランも原著に挑戦すればよかったのに。
7日、芦田内閣総辞職。

今夜よりペニシリン注射開始、兼子病院に泊す。
(日記、昭和23年10月12日)


お、ついにペニシリン治療である。

ペニシリン注射朝8時・11時・2時・5時・8時。案外痛くなし。
(日記、昭和23年10月13日)


ペニシリン注射前日と同じ。
(日記、昭和23年10月14日)


ペニシリン注射。
(日記、昭和23年10月15日)


15日、吉田茂内閣成立。

ペニシリン注射。
(日記、昭和23年10月16日)


なお、この頃、昭和天皇の戦争責任を追及し続けたことで有名な雑誌「真相」が特集版第2集「ヒロヒト君を解剖する」を出して反響を呼んだ。

1
▲昭和23年発行の真相特集版「ヒロヒト君を解剖する」

発行者は佐和慶太郎で、昭和13年には労働雑誌での記述が治安維持法違反とされて検挙されている。戦後もアカといわれていたが、日本共産党も公然と批判していた。フツーに反骨のジャーナリストである。しかし、当時の言論界は、今よりよほど過激だったと思う。

今日でペニシリン注射了。250万単位。
(日記、昭和23年10月17日)


ペニシリン治療は、1回50万単位を5回/日のようである。

ペニシリン注射何の副作用なく、今日の体具合平日と異ならず。
(日記、昭和23年10月18日)


この間、ずっと兼子夫人は病室泊まりであった。帰村は19日。当時は家族による看護がフツーの時代。家族のいない入院患者は、どうしていたんだろうか。

今日の新聞に、東條以下の判決後に18名のA級戦犯と一緒に予をも引張りだすとあり。
(日記、昭和23年10月28日)


昭和23年10月28日
▲昭和23年10月28日付朝日新聞。

午ごろ清水夫人さんまとむろ鯵の干もの恵投。予の裁判のことを新聞で読んで心配して居る。
(日記、昭和23年10月30日)


気の毒。こういう記事に家族は一喜一憂させられるのである。

キーナン帰らず、判決また延期の模様。
(日記、昭和23年10月31日)


極東国際軍事裁判のキーナン主席検事は11月11日に帰任の予定であったが、判決発表の遅れのために帰任が延期となった。

大川周明はいつ感染したか(60)

大川周明日記」から、昭和23年6〜8月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。精神障害で免訴となった極東国際軍事裁判も、4月15日に最終弁論が終了。もはや釈放を待つばかりである。

伊達順之助君上海にて死刑宣告。
(日記、昭和23年6月3日)


大陸浪人といえば日本人馬賊の伊達順之助。中国に帰化し、軍を率いて山東省の自治を目指したが、最期は日本人戦犯として死刑になった。

東京裁判の判決は8月以降とあり。
(日記、昭和23年6月13日)


実際の判決は11月である。ヌカ喜びさせる新聞の残酷さよ。

脊髄液をとる。
(日記、昭和23年6月26日)


進行麻痺の検査はまだ行っている。

塩月という大学の精神科の医者来る。
(日記、昭和23年7月9日)


体重53.5瓩。もっと瘠せたかと思ったが、先月より1キロ増している。
(日記、昭和23年7月18日)


身長180cm近くで体重53.5kgというのは、しかし痩せすぎだろう。

TB注射。
(日記、昭和23年7月20日)


結核検査も行われている。

TB陽性反応。血圧右170、左165レントゲン写真。
(日記、昭和23年7月21日)


血圧が高すぎる。ツベルクリンは陽性だが。

昨日より約6週間の予定にて判決文和訳に着手せりとのこと。
(日記、昭和23年8月3日)


判決文の和訳に6週間か。裁判所側のチェックに時間がかかるのだろう。

体重52.8
(日記、昭和23年8月12日)


体重、減っている。夏バテか。

4回目の8月15日。日本の状態は想像したよりも佳。
(日記、昭和23年8月15日)

GHQは、まあ、理想的な占領政策を行ったといえる。くやしいが。それに比して日本がアジアで行った占領政策はクソレベルであったわけだが、そこをまず指摘すべきであったのが戦後の大川周明だろう。大川は欧米覇権主義への批判で立身してきた人間だからである。日本の帝国主義化は当時の世界情勢から擁護できなくもないが、日本のアジア統治が帝国レベルにも達していなかったことは糾弾すべき点で、そこを清算できていないことが今日のアジア外交の枷となっているのである。大川が戦時の言論を総括しなかったのは、進行麻痺の後遺症からなのだろうか。

大川周明はいつ感染したか(59)

大川周明日記」から、昭和23年3〜4月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱い。退院も許されなかった。

約1ヶ月を要して芦田内閣の閣僚漸くきまる。出来たものはお粗末至極。
(日記、昭和23年3月9日)


昭和23年3月10日
▲昭和23年3月10日付朝日新聞。

芦田均といえば、憲法9条2項へのいわゆる芦田修正が有名で、

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(下線部が芦田によって挿入された文言、日本国憲法第9条)


したたかな京都人という印象がある。が、したたかすぎたか、仲間がいなかったらしい。

アメリカ本気になりて日本復興に乗出す。
(日記、昭和23年3月24日)


アメリカは対日政策を転換し、賠償方針として主要軍事施設を除いた生産設備の撤去禁止を勧告する(ストライク報告書)。

昭和23年3月24日
▲昭和23年3月24日付朝日新聞。

米ソ間の緊迫化で、アメリカがとにかく日本の経済復興と政権安定を急ぐようになった結果であった。冷戦さまさまである。

全逓ゼネスト、またアメリカの声のまにまに中止。
全逓のゼネストもまたあめりかの声のまにまにうなだれにけり。
(日記、昭和23年3月30日)


全逓3月闘争も、GHQ経済科学局長マーカットの覚書により中止となる。

昨マツよりの電話にて、インコちゃんとうとう死んだとのこと。此鳥を栗田に貰ってから10数年になる。その栗田も何うして居ることやら。
(日記、昭和22年4月15日)


栗田女史とも会っていない。

今日で東京裁判結審。あとは判決を待つばかり。
(日記、昭和23年4月16日)


4月15日、2年の長期にわたった極東国際軍事裁判の最終弁論が終った。ニュルンベルク裁判の2倍もかかったのはGHQも意外だったろう。
17日、敗戦時の首相であった鈴木貫太郎が死亡している。享年80。
18日には鐘紡の第2代社長で、A級戦犯容疑者とされながら釈放された津田信吾が死亡。享年67。

病院も長くて6月一ぱい、丁度古蘭が完了するころだろう。戦犯に引っかかったのは古蘭をやらせるための天意。
(日記、昭和23年4月19日)


大川周明の退院(釈放)は東条英機ら死刑囚の処刑後である。退院は、まだまだ遠かった。
4月20日には、米内光政が死亡している。享年68。大川周明は、61歳である。

大川周明はいつ感染したか(58)

大川周明日記」から、昭和23年1〜2月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱いであった。

第5回サルバルサン注射。
(日記、昭和23年1月13日)

まだペニシリンではない。もしかしてこのサルバルサン、軍用だったのかも。戦後のヒロポン(覚醒剤)ブームは、大量の軍用が市場に出回ったものである。

午前歯科医。3週間かかるとのこと。
(日記、昭和23年1月14日)

義歯づくりに3週間は長い。陳先生、自分でつくるのだろうか。なお、当時はまだ現・歯科技工士は国家資格化しておらず、花桐岩吉ら入歯師(歯科技工師)がバリバリ活躍している時代である。

歯科医。型とり。
無歯2ヶ月。胃腸漸く弱る。
(日記、昭和23年1月29日)

もともと胃腸が丈夫でないうえに、2ヶ月も無歯。

歯科医。型とり直し。
(日記、昭和23年1月30日)


陳先生、印象採得を失敗している。

朝君が代斉唱。
片山内閣総辞職。
今日より検事の最終論告始まる。
(日記、昭和23年2月11日)


紀元節の朝に君が代を歌う大川周明。これをやらない右翼はエセ右翼である。
なお、片山内閣総辞職は2月10日。

新聞によれば3月に中津に帰れそう。
(日記、昭和23年2月17日)

「新聞」とは多分コレ。

昭和23年2月17日
▲昭和23年2月17日付朝日新聞「岸ら20被告A級裁判に付せず」。

極東国際軍事裁判は、2次もやる予定だった。
しかし「1次」が長びき、冷戦激化とともにアメリカの占領政策が変化したため「1次」で終結となる。で、GHQは岸信介や大川周明らをBC級で裁こうとするのだが(昭和23年1月13日付連合国軍最高司令部文書)、容疑を固められず、結果として釈放するのである。
しかし――大川周明はA級戦犯容疑者としてもビミョーであったが、BC級は残虐行為や捕虜虐待などの罪なので、さらに合致しない。岸信介は同裁判で除外された軍事産業への捕虜使用や中国人強制労働との関連が調べられており、2次裁判もしくはBC級裁判で有罪となっていたならば、戦後の日本政治はめっさ変わっていただろう。岸首相がなければ、安倍首相もなさそうであるし。

7週間以内に判決下るべしとキーナン声明す。予の退院も漸く近づけり。
(日記、昭和23年2月20日)


昭和23年2月20日
▲昭和23年2月20日付朝日新聞「判決は7週間以内 キーナン検事談」。

実際に大川周明が釈放されたのは、12月24日。東条英機ら7被告に死刑が執行された翌日である。判決が出た11月12日以降も拘留され続けた理由は、今もナゾである。

大川周明はいつ感染したか(57)

大川周明日記」から、昭和22年12月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱いであった。
11月に進行麻痺に対するマラリヤ熱療法が、今月は梅毒そのものを駆逐する治療が行われている。

体重57瓩800。先月より1キロ増。
(日記、昭和22年12月2日)


大川周明、身長は180ぐらいあったという。

今日よりまたサルバルサン注射第1回。
(日記、昭和22年12月8日)


駆梅療法開始であるが、まだペニシリンが使用されていない。

熱療法以来散歩を止めて居たが今日から再開。
歯の手入れを決心し、今夕陳先生に診て貰い上の方総入歯とすることにした。
(日記、昭和22年12月6日)


かかりつけ歯科医は「陳先生」だ。松沢病院まで往診してもらうらしい。

サルバルサン第2回注射。
夕上歯1本を残して全部取去る。
(日記、昭和22年12月9日)


サルバルサン治療中の抜歯はOKらしい。

夕歯医者。根の残り居りし歯を1本抜く。
(日記、昭和22年12月11日)


12月12日は大川周明の逮捕日である。拘留も丸2年となった。

夕抜歯終る。1月13日に型を取ることとす。3千円前払す。
(日記、昭和22年12月13日)


陳先生、印象ぐらいすぐ採ってやって。

歯がないため食事不便を極む。
(日記、昭和22年12月17日)


何うして食事すれば無歯で胃腸をこわさぬことが出来るか。これが当面の問題だ。2ヶ月間歯がないのだから。
(日記、昭和22年12月18日)


いづれにせよ、戦争は東條一人で始めたような具合になって了った。誰も彼も反対したが戦争が始まったというのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表するA級の連中、実に永久の恥さらしどもだ。
(日記、昭和22年12月20日)


極めてマトモな大川の戦争責任論。敗戦後、責任のなすりあいに終始した戦争指導者たちこそ国辱である。昭和天皇も占領終了後は速やかに退位すべきであった。それをしなかったことがキョービの右翼台頭の一因だと思う。
それはともかく――こういう境地に立てたことは、大川周明が理性を取り戻したということなのだろう。というのも、大川は極東国際軍事裁判開廷日初日に東条英機の頭を2度叩いて狂気をあらわにしてその結果免訴となるのだが、あの公の場で初めて見せた狂気こそ大川の真情だったと思うのである。なぜなら、東条英機の不明のために対中和平工作は失敗し、敬愛する石原莞爾も盟友の長勇も左遷されたからだ。長勇など勝算なしの苛酷な前線に飛ばされ、最後は沖縄とともに日本の捨石となったのだ。おい東条おまえだよ、おまえに石原さんや長君の言うことを判るアタマがあれば、無条件降伏なんつうことにはなってないんだよ――病で理性の枷をはずされた大川は、その私怨と義憤と皮肉をこめて、東条を裁いてみせた。全世界が注目する国際法廷で。

サル注射第4回。
午前GHQの米人が来て逆瀬川・加藤ら泰に居た連中をまた盤谷にやって働かせたいと言うて来た。大賛成した。
(日記、昭和22年12月23日)


「逆瀬川」=大川塾一期生の逆瀬川澄夫。かつてタイで日刊紙を発行していた。

歯無しの状態半月、胃腸に少しく障害が出来そうだ。
(日記、昭和22年12月27日)


歯ナシで固形物が食べられない大川周明にスープ缶を持って来てくれたのは、

午前此前のGHQの米人来る。スープの缶詰をくれた。研究所のことを聞くため。
(日記、昭和22年12月29日)


GHQの米国人だった。「研究所」とは大川塾のこと。

午前例の米人コールフィールドさんを伴いて来る。
(日記、昭和22年12月31日)


「コールフィールドさん」とは、

開戦前のタイで工業用ダイヤモンド獲得に動いた五嶋徳二郎を助けたアメリカ人女性である、大川がタイに派遣される一期生に対し「タイに行ったらこの人の真似をするように」と紹介した人物でもある。
(玉居子精宏「大川周明 アジア独立の夢」)


逆瀬川澄夫はGHQに6回にわたり取調べを受け、再びのタイ行きを求められたが、この要請を断ったという。
なお、帰国した大川塾生は「戦争犯罪人兼容疑者」として巣鴨に呼び出され、

知り由もない辻政信大佐の行方をしつこく尋ねられ、次にシンガポール行きの船に乗せられた。船内では殴る蹴るに加え、眠くても眠らせない“不眠競争”の仕打ちを受けた。
(一期生・岩崎陽二のケース、玉居子精宏「大川周明 アジア独立の夢」)


拷問に近い取り調べを受けたものもいた。どうも、当局は大川塾生を特殊技能を持つスパイだと思っていたらしい。
大川塾生はスパイではなく武器もあつかえなかったが、しかし、優秀なのは確かで、皆語学に堪能だった。そういう優秀な人材が入隊すれば重要な任務に就いたはず――と連合軍側が考えるのは当然である。実際の日本軍は完全な年功序列で、大川塾生だろうが学者だろうが、皆、馬の尻を洗わせられるのである。岩崎陽二は取り調べ担当官から「君の若いのに驚いたが、地位の低いのにもあきれた、日本が負けるはずだ」といわれているが(玉居子精宏)、この指摘の通りである。

大川周明はいつ感染したか(56)

大川周明日記」から、昭和22年11月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱いであった。

4日、平野力三農相が罷免される。理由は戦時中、皇道会(右翼団体)に属していたこと。戦後初の罷免閣僚である。

昭和22年11月4日付
▲昭和22年11月4日付朝日新聞。

大川周明もシャバにいれば真っ先に公職追放されただろうし、発狂しなければ極東軍事裁判で最悪、死刑である。飢えもせず、マスコミにも追われず、

宮澤賢治研究を読んで此人に興味を惹かれた。朝日評論の嘉冶君の尾崎秀実評を極めて適切と考えた。
(日記、昭和22年11月9日)


のんびり読書などしていられるのは入院のおかげ。
しかし、ホント運のいい人である。9月26日は三木清の命日なのだが、その不運を思うたびに切歯扼腕する。本邦最高の知性がシラミに食い尽くされ、獄中で死んだのだ。しかも敗戦後ひと月も経って。三木清こそ戦争の理不尽さの象徴ではないのか。合掌。

12日、進行麻痺に対するマラリヤ熱療法、再開。

今朝熱療の注射。悪寒ありしも熱上らず。午後3時37度4最高。
(日記、昭和22年11月12日)


第2回注射。悪寒猛烈。39度2分。3時38度2分。6時36度8分。
(日記、昭和22年11月14日)


注射第3回。正午38度1、午後平熱。
(日記、昭和22年11月16日)


マラリヤ熱療法はノーベル賞を受賞したこともあり、ゼンメルワイスの産褥熱と並んで医学系教科書によく出てくる医学上の分水嶺なのだが、

第4回注射。最高38度9分。
(日記、昭和22年11月18日)


第5回注射。今日は悪寒なし。最高37度8分。
(日記、昭和22年11月20日)


患者がこれほど苦しむものとは。

「ドストエフスキイの生活」驚くべき不健全な人間だ。読んで不快になる。
(日記、昭和22年11月21日)


大川が読んでいるのは、小林秀雄の著作である。
ドストエフスキー、あのすさまじいシベリア監獄(凍れば冷凍地獄、溶ければゲロ糞小便地獄)で発狂しなかった精神力は大したものだし、その苦悩こそ感動的なんだが、大川のお気には召さなかったようだ。しかし同著は小林秀雄の名文の中でも屈指の名文である。

一度注射して熱出でず11時追加注射 一時最高39度4分。夕5時尚38度。
(日記、昭和22年11月23日)


若干疲労の気味なれど体温脈搏共に平常。但し視力弱る。
(日記、昭和22年11月24日)


9時と11時に2回注射。午後1時最高43度3分。今日一番苦し。
(略)
発熱激しきため疲労甚だしく、6時就床、まもなく眠る。
(日記、昭和22年11月25日)


今朝は疲労稍々残り居りしが、夜に入りて完全に回復。
(日記、昭和22年11月26日)


今日も2度注射。中々苦し。但し此前より稍よし。
(日記、昭和22年11月27日)


今日最後の注射。2度相当に苦しむ。来週よりサルバルサン注射。
12月より煙草を止める。
あまり体力に影響なしに熱療法終る。健康になれり。
(日記、昭和22年11月30日)


まさに毒をもって毒を制す。ウツになりそうな療法だ。
あと、入院中かつ治療中でもタバコを辞めなくていいのも、時代である。

大川周明はいつ感染したか(55)

大川周明日記」から、今回は昭和22年8〜10月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱いであった。昭和22年5月には、20年来の愛人・栗田女史と別れている。

8月、9月は食事と古蘭(コーラン)の翻訳に没頭している大川周明。たまに院長回診はあるが、梅毒および進行麻痺の治療も一段落ついたようで、医療的にはほぼ何もやっていない。“社会的入院”は明らかである。栗田女史についても記載ナシ。忘れたか、忘れようとしているか。

10月17日、突然、検察側の医師が大川を訪ねている。

午後数名の軍医SCAPより来り、精神鑑定。今度の裁判に出られるようになるだろう。近いうちに巣鴨に帰ることになると思うから其の準備だ。
(日記、昭和22年10月17日)


大川周明は、裁判を受ける気マンマンであった。卑怯にも裁判を逃げたと思われたくなかったのだろう。

『古蘭』の序文を書こうと思ったが止める。数日中に巣鴨行となるだろうから、序文は他日出版の間際にする。若し巣行に行かぬようならば、訳注を最初から目を通す。
(日記、昭和22年10月22日)


「巣行」はママ。

脊髄液を採る。尚白濁あり。採血。
(日記、昭和22年10月21日)


進行麻痺はいまだ完治せず。並行して行う駆梅にペニシリンを使わないのが、まずいのでは。

午後村松副院長の室に往き、精神鑑定。
(日記、昭和22年10月22日)


SCAPより来た米医が数日中に取沙汰すると言ったが今以て何ともない。とにかく此の裁判には出ないことになり、若し更めて予だけが裁判されることになれば再び巣鴨入りとなるのだろう。
(日記、昭和22年10月25日)


内村院長回診。いま一度熱療法をやるとのこと。
(日記、昭和22年10月28日)


マラリヤ熱療法は11月から再開された。還暦過ぎた人に何度もやって、大丈夫なんだろうか。

大川周明はいつ感染したか(54)

大川周明日記」から、昭和22年6〜7月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。極東国際軍事裁判での審理は打ち切りになったが、相変わらず大川は戦犯容疑者扱いであった。

5月21日に20年来の愛人・栗田女史に別れの手紙を出した大川周明。その代わり兼子夫人との関係が良好になり、昼食を共にしたりと仲睦まじくなっている。モノ不足、ハイパーインフレ、新円切替をひとりで乗り越え、治療費を捻出し、兼子夫人は必死で大川周明を支え続けた。

午後兼子福岡女史と共に来り、GHQから予の退院不許可の通知があったとのこと。従って裁判のすむまで狂人扱いされることとなる。
(日記、昭和22年7月3日)


6月に、GHQは大川の主任弁護人による大川釈放の陳情に、応じないことを回答している。

派手なチャンチャンコの配給あり、
(日記、昭和22年7月15日)


還暦のチャンチャンコまで配給である。食べ物のほうが喜ばれるだろうに。

午後巣鴨監獄の米人医師来り、いろいろ訊ねる。
健康上乗なれど目弱る。読書を控えなければならぬ。
(日記、昭和22年7月17日)


目は読書のしすぎで青年時から悪かったが、晩年になってからは緑内障を患い、ついには失明することになる。この時すでに緑内障を発症していたのだらば、進行は食い止められたはず。

午後巣鴨監獄の医師米人来る。温良なる人物にて気持ちよし。
(日記、昭和22年7月22日)


呂運亨君共産党員のために暗殺せられたりとあり。何事そ<ママ>、何事ぞ
(日記、昭和22年7月24日)


呂運亨は朝鮮独立建国運動の中心人物で、中道派。90年代、北朝鮮最高人民会議の幹部であった呂鴛九はその娘である。呂を暗殺したのは親米で反共・反ソを掲げる李承晩派の韓智根によるという説が今では最有力だが、当時の新聞は“共産主義者は朝鮮の国権回復に反対している”という李承晩の発言というかデマゴーグを繰り返し報道していたため、大川周明も暗殺者が共産主義者であると考えたのだろう。呂運亨がその後の朝鮮指導者になっていたならば、朝鮮半島情勢はもちろん、現在の日韓関係も変っていたのではないか。

呂君が去る19日京城東大門で暗殺されたことが新聞によって明かになった。予は自分の半分を失った気がする。朝鮮の前途も暗澹たるものだ。28日午前10時から午後1時まで神田共立講堂で追悼会とのこと。予と朝鮮との縁も之で切れはてた。
(日記、昭和22年7月26日)


呂君のために読経。
(日記、昭和22年7月28日)


昨夜は終夜呂君の夢を見る
(日記、昭和22年7月29日)

大川周明は多分に帝国主義的傾向はありつつも、本気でアジア諸国の独立を望み、活動を実践していた。そのひとつが東亜経済調査局附属研究所、通称大川塾である。また、大川周明は三月事件の際、大衆デモの動員を社会民衆党亀井貫一郎に頼んでおり、左右両翼に顔がきいたことがわかる。というか、いわゆる超国家主義者には左右の別など無意味か。北一輝だって、初めは堺利彦や幸徳秋水と平民社運動をやっていたのである。

昭和7年4月15日
▲昭和7年4月15日付朝日新聞「左右雑居でファッショ研究」。顧問に大川のほか、日本フェビアン協会の島中雄三の名も。すごいメンツ。

左派右派およびアジア全域に人脈があるようなフトい保守、デカい右翼って、今存在し得るんだろうか。蓑田胸喜的な右翼が絶滅しないどころか増えている気もする。

大川周明はいつ感染したか(53)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(東京在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和22年5月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。

3日、日本国憲法が施行される。

昭和22年5月3日
▲昭和22年5月3日付朝日新聞。

新憲法今日より施行、但し10年以内に必ず根本的改訂を加うべし。
(日記、昭和22年5月3日)


当時は左右問わず、多くの人が上記のようなことを言っていた。でまあ、実際占領が終ってすぐに自民党主導で憲法調査会ができ、憲法が審査され、そして改憲しないという結論になるわけだが、新憲法施行後5年も占領が続くことがなければ、あるいは改憲もすぐ実現していたのかもしれない。

昼頃清水夫人白飯・ウド・煮魚・菓子など恵投。新宿駅にて栗田と会える由。忙しき故病院に行かれぬとの伝言なり。栗田も終に予より離れ去る。
(日記、昭和22年5月16日)


栗田女史とも別れの気配である。

久し振りの快晴にて気分より。よって早朝栗田への手紙を認む
『忙しいから来られないという伝言は随分あっさりした三行半だがしかと承知した。それでは自分からも簡単に挨拶して置く。間もなく此処を出るが、出れば死ぬまで忙がしい身の上だから生きて居るうちは君に会いに行かない。こうはっきりして置く方が君のために都合よかろう。
昭和22年6月20日花押』
明日おこうさんに投函して貰うため日付は20日にした。古蘭の翻訳を了えてからゆっくり栗田のことを考えて見よう。
(日記、昭和22年5月19日)


日付が「6月」なのはママ。しかし、栗田女史が忙しいというのは本当だったんじゃないのか。あの混乱の時代を、老母を抱えた元芸者が生きていこうとすれば想像を絶する“忙しさ”だろう。敗戦直後は女の就職先なんぞそれこそ特殊慰安施設協会しかなかったろうし、恐らく40代だろうから肉体労働もきついはず。大川周明は札ビラが紙くずに、神が神格放棄にいたるシャバの様相をわかっているのだろうか。

20日、吉田内閣総辞職。

栗田への手紙の投函を頼みたり。
(日記、昭和22年5月21日)


24日、片山哲内閣成立。
昭和22年5月24日
▲昭和22年5月24日付朝日新聞。

社会党7、民主党7、国民協同党2、緑風会1の4党連立内閣である。
12日に大川の主任弁護人である大原信一が大川釈放を求める陳情書をマッカーサー宛に出していたが、これに対し検察側は29日に大川釈放の陳情を承認しないよう、マッカーサーに求める申し立てを行っている。

八代大将が亡くなった時は父親を亡くした時より遙かに悲しかったが、母上の時は左程ではなかった。これは大学病院の白日夢で毎日会って居たのと、恐らく予の前途に対して安心して往生してくれたと信ずるからであろう。但し母上が居らぬと思うと荘内の天地は空白になったように思う。帰郷したいという気がなくなった。
(日記、昭和22年5月31日)


母に死なれ、愛人とも別れた大川周明、この時還暦であった。

大川周明はいつ感染したか(52)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(東京在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和22年4月分。大川周明は進行麻痺で松沢病院に入院中である。

新聞を見るとWebb裁判長が昨日法廷で予を精神病者として裁判から除外したと報告したとある。意外な話だ。
(日記、昭和22年4月10日)


昭和22年4月10日
▲昭和22年4月10日付朝日新聞。

28日にはウェッブ裁判長が大川周明に対する審理打ち切りを命じた。が、これで大川が戦犯容疑者でなくなったわけではない。

内村院長回診。米医の診断書を読む。ちゃんと予が自ら弁護する能力あることを認めて居るのに、裁判長は医師の診断によって除外すると言って居るのだ。
(日記、昭和22年4月15日)


アメリカ人の検察側精神科医は、大川の診断書をそのまま本人に渡したようだ。一方、弁護側精神科医の内村祐之が大川に診断書を見せた形跡はない。日本の医師に医療情報を患者にきちんと伝えようという習慣は、まだなかった。

サルバルサン注射。
(日記、昭和22年4月21日)


駆梅療法が開始されたのは昭和21年12月から。昭和22年4月の時点では、まだペニシリンは使用されていない。

今日の注射にてサルバルサン1クールを了る。
(日記、昭和22年4月28日)


30日には兼子夫人がGHQ/SCAP国際検事局および法務部を通じて、マッカーサー宛に夫・周明の釈放を求める嘆願書を出している。嘆願書には主治医である内村祐之(松沢病院院長)の文書も添えられていたが、結局、これはGHQに無視された。世間を騒がす可能性のある人間を閉じ込めておく必要性が、GHQにはあったのだろう。

大川周明はいつ感染したか(51)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(東京在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和22年3月分。

大川周明は、検察側の精神鑑定を受けるため、都立松沢病院から米軍361病院に転院していた。

午後アイゼンバーグ大尉の精神鑑定。
(日記、昭和22年3月3日)


午後7時フィンザー氏の室に医員全部相集まりて精神鑑定。
(日記、昭和22年3月6日)


6日に東条英機が急性肺炎で入院した、と大川は日記に書いているが、

昭和22年3月8日
▲昭和22年3月8日付朝日新聞。

朝日新聞は気管支炎としている。

フィンザー君より病気回復と診断せりとの報告にて安心す。
(日記、昭和22年3月7日)


検察側鑑定人の再鑑定の結果、大川周明は裁判能力アリと判定された。

進行麻痺型精神病の症状は治療によって改善している。同人は、自身についての裁判の本質を理解する能力をもつものと考えられる。彼は善悪を区別することができる。彼は合理的な手続きをふんで自分を弁護するに必要な知的能力と判断力をもつ。
(鑑定人:Herbert I.Posin、William G.Scweikertによる昭和22年3月13日付検察報告書、 大川周明の精神鑑定、内村祐之「日本の精神鑑定」)


午後4時半松沢病院に帰る。
(日記、昭和22年3月12日)


12日、トルーマン米大統領よりトルーマン・ドクトリンが宣言される。
世界の自由諸国民は自由を維持するため、私たちに援助を求めている。もし私たちがよろめいて指導力を失うならば、世界の平和が危険となる。
(トルーマン回顧録)

いわば、冷戦の開始宣言であった。
児玉誉士夫は巣鴨拘置所に拘留中、冷戦の到来を言い当てていたそうな。あの情報が限られていた場所で。
ついに古蘭を訳了す。この短期間に此の難解の書を訳了せる予を世人は狂人と思って居る。
(日記、昭和22年3月19日)


で、その児玉誉士夫は大川周明発狂との知らせを聞いて、天才に発狂はつきものと考え、あまり意外には思わなかったという。正しい世人の感覚である。

古蘭、初訳拙劣。
(日記、昭和22年3月31日)


書いた時は名文とうぬぼれていても時をおいて読み返すと稚拙であった、というのはよくある話。大川周明、極めてマトモである。
栗田女史、3月は1度も面会に来なかった。大川周明はフラれてしまうのだろうか。

大川周明はいつ感染したか(50)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(東京在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和22年2月分。大川周明は、進行麻痺で松沢病院に入院中である。

栗田に葉書。
(日記、昭和22年2月7日)


栗田女史は、正月3日に来たきりであった。

内村君アメリカに報告を出すためとて精神鑑定を行う。
(日記、昭和22年2月13日)


弁護側の精神科医、内村祐之によると、この頃の大川周明は「神の声」が聞えていたという。

即近来大川氏の謂う「神の声」の影響が又重要である。大川氏が述べる様に氏がこの「声」に従って或は言い、或は行うのが事実であるとすれば、氏の言動は最早健康なる意志によって行われる正常のものとは称し難い。氏はこれをを天来の声として至上のものと考えて居るが、医学的には病者の病的脳髄が作り出した異常思考の単なる反響を病者が聞いているに過ぎないのである。
(1947年2月23日付「大川周明の精神鑑定」、内村祐之「日本の精神鑑定」)


大川には「粗大な精神異常は最早認められない」が「病的白日夢や幻聴の如き病的症状」があり、

精神症状である妄想と幻覚とは相当深く大川氏の人格を侵襲して居るので、大川氏の判断力と行動とはこの症状によって影響される可能性が大である。したがって正鵠なる是非判別を必要とする裁判上の諸能力を未だ欠いて居る状態と見做さなければならない。
(1947年2月23日付「大川周明の精神鑑定」、内村祐之「日本の精神鑑定」)


裁判での答弁能力はないと内村は判定した(昭和22年3月23日付報告書)。

月曜午後2時米医の精神鑑定を受けるために同愛病院に往くことに決定。
(日記、昭和22年2月21日)


今度は検察側の精神鑑定である。で、24日から3月12日まで、米軍361病院に転院する。

今日米国病院に往くので兼子と清水夫人が午前から来て共に昼飯。午後2時終戦連絡事務所から回された自動車で同愛病院に往き、去年野須君の居た病室に収容された。主治医は独系スイス人系のフィンザー大尉。25日から血液・脊髄液・大小便・痰などの検査及び毎日フィンザー大尉と午後1時間位対談。予は最早裁判に堪える程度に回復したことを力説した。
(日記、昭和22年2月24日)


大川周明自身は、極東国際軍事裁判での裁きを受けたがっていた。で、大川の力説が効いたのか、検察側精神科医は大川の裁判能力を「アリ」とするのである。

大川周明はいつ感染したか(49)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(東京在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和22年1月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。

3日、栗田女史がやっと病室に来ている。

午前藤田君栗田と一緒に来てくれた。
(日記、昭和22年1月3日)


栗田女史、藤田勇と一緒でなければ病室に入れなかったようだ。気の毒。
7日、大川周明の弁護側(主任弁護人:大原信一、アルフレッド・ブルックス)が、検察側の証拠が不十分であるとして控訴棄却を求める(2月3日に却下)。

午後兼子来る。今日より注射を始む。サルバルサンとビズマス。夜ビズマス注射の腰部痛い。
(日記、昭和22年1月15日)


「ビズマス」=ビスマス。
駆梅にペニシリンではなく、サルバルサンを使用しているのはなぜだろう。昭和19年11月には陸軍主導でペニシリンの国内生産が開始され、昭和20年8月に厚生省が民間での生産を許可しているのだが。昭和21年1月には公定価格も決定。サルバルサンのほうが安かったのか。

朝岩崎君の小豆に栗田の砂糖を加えしる粉を満喫。
(日記、昭和22年1月20日)

松沢病院の入院患者は、病室に電気コンドなど持ち込んで調理をしていた。病院から出される食事が少なかったからである。よって、面会者のない病人は顔色も悪く、やせ細っていく。
29日から、2月5日までの日記はない。大川は、日記が書けないほどの激しい胃痛に苦しんでいた。
なお、1月31日にはマッカーサーが2月1日に予定されていた本邦初のゼネラル・ストライキ「2・1ゼネスト」の中止命令を出した。ゼネストは元日の吉田茂発言「労働組合不逞の輩」に反発してのものであったが、GHQによって潰されたうえ2・1ゼネストを計画した国鉄労働組合の伊井弥四郎が占領目的阻害行為処罰令で逮捕、懲役2年の刑に服した。執行猶予もナシとは、GHQも無慈悲である。

大川周明はいつ感染したか(48)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和21年12月分。進行麻痺で松沢病院に入院中である。

主治医の内村祐之によると、

12月中。病室に於ける起居も応対も最近は正常と言ってよくこれまで頑として頑ぜなかった駆梅療法をも受けるようになり、又血液脳脊髄液検査にも応ずることになった。(略)
自らに梅毒性疾患のあることを否認しなくなったが未だ真の病識は不十分の様である。例えば嘗ての昂奮中種々の憑依体験のあったことを物語るが、これを病的現象として正しく認識することが出来ない。
(大川周明の精神鑑定、内村祐之「日本の精神鑑定」)


自らが梅毒の有病者であることは認めつつも、進行麻痺についての病識は不十分だった。
栗田女史との仲は、一応続いている。

午後2時ごろ清水夫人来り、栗田が朝の10時から今まで門内の待合室で待って居たが、遅くなったから言伝を頼んで帰って往ったという。10日前後に引越とのこと。栗田のことを想うと涙が出るが、之も仕方ない。此の試練に打克てば見上げた女だから、出てから今苦しんだだけの埋合せをしてやる。
(日記、昭和21年12月5日)


栗田女史、なんで病室まで来れないのだろう。午前10時から午後2時まで、じっと大川周明が下りてくるのを待って居たんだろうか。

今朝虫1匹みみずほどのが喉から出た。此頃からの腹痛が寄生虫のためであることが分った。
(日記、昭和21年12月15日)


大川周明はずっと腹痛に悩まされていたが、寄生虫由来であることが判明。

母上の病状気にかかるが或は持返したのかも知れない。
(日記、昭和21年12月15日)


大川の母親の体調もずっと悪かったが、

午頃兼子来り、母上10日午前10時に長逝のことを告ぐ。学而が恐らく報道を遅らせたのだ。いろいろのことを考える。
(日記、昭和21年12月20日)


弟「学而」から母の死が知らされたのは、死後10日も過ぎてからであった。
なお、西丸四方先生は名著「狂気の価値」で、大川周明の勃起障害(推測)の原因をマザコンと分析している。

大川は、母を宗教的崇拝の対象としてさえしている。このことから、屁理屈のでっちあげともなるが、大胆に仮定して、母以外の女性とは関係できない人間となってしまったと解釈すれば、彼の陰萎の由来がわかる。この時点で彼が医者に治療を依頼するなら、ノイローゼと診断されるであろう。しかし彼は、この劣等性を克服するために、昇華して、右翼という勇ましい思想家になった。こうすれば、大川の精神分析的理解ができる。しかし、どうして梅毒にかかったのかはわからない。いかにも母性的な妻に対しては、母と同一視してしまって近親相姦をはばかるために陰萎となったが、娼婦に対してはそうでなかったのであろうから、そこで梅毒に感染したとすれば、理屈づけられる。
(西丸四方「狂気の価値」)


しかし、日記には母の死後、母への言及はアッサリと激減している。
確かに大川周明は母親に執着していたが(宗教は母への愛慕から生まれたものと自分の体験から主張していた)、それは早くに夫(つまり周明の父)を亡くした母へのいたわりと、自身長男であるがゆえの責任感が強く影響したのではなかろうか。書簡を見ると、父親との関係もそう悪くないのである。もちろん、医家の家系で医師であった大川の父親は、医師になることを拒否した少年・周明に「勝手にせー」などと怒鳴りつけてはいる。しかし、結局は周明が医学校ではなく熊本第5高等学校に進学するのを許しているし、周明は周明で無頓着に本を買いあさっては父親にカネを無心している。例えば、養父と不仲で医学校の学費も出して欲しいとなかなか言えず、ひとり悶々と悩む山田風太郎とは対照的ではないか。

かくして予にとりて実に異常なる年が暮れる。
(日記、昭和21年12月31日)

大川周明はいつ感染したか(47)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和21年11月分。

大川周明は昭和20年12月12日にA級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンに収容されていた。入獄はこれで3度目である。で、翌21年5月3日の極東国際軍事裁判開廷初日に法廷で東条英樹の頭を2度叩き、翌4日に米陸軍病院に入院。弁護側および検察側、双方の精神科医に進行麻痺と診断され、結局、免訴となった。
昭和21年の日記は、11月7日から始まっている(昭和20年12月7日から21年11月6日まで欠如)。当時の大川周明は入院加療中で、東京大学医学部病院を経て8月26日からは都立松沢病院(内村祐之院長)に転院している。
大川の精神が荒れ狂っていた時期の日記はないが、手紙は書けたようだ。昭和21年9月18日付母宛の書簡によると、

発熱最高度に達せる時、明治天皇及び英国王エドワード7世の姿、明かに私の面前に現れ、「かねあき」がんばれと大声疾呼せられ、「さあ生れ変れ」と鼓舞され、そのために啻に異常の高熱に堪えたるのみならず、身長も1寸5分のび、身体柔軟なること青年の如く、顔も若やぎて兼子も松やも驚くほどに相成申候。其後麻酔剤注射にて睡眠中も常に明治天皇及エドワード7世を中心とする実に興味ある夢を見つづけ、是非之を記録し置きたしと存じ候いしも、大学側の差金か兼子の心づかいか、病院内に筆も紙もなき故、夢の記憶術として私が屢々実行し来れる方法により目覚むれば直ちに発声して幾度となく之を繰返し且夢中のことを実際の如く行動して脳裏に刻み込むように致し候故、ただいまも明確に記憶仕居候。
(書簡、昭和21年9月18日、松沢病院より大川多代女宛)


完全に躁状態である。しかし主治医の内村祐之(松沢病院院長)によるとこれでも「鎮静に赴く傾向」だったそうで、

8月中の状態。大体に於いて東京帝国大学病院入院中と同様の昂奮状態を続け着衣態度は乱れ、誇大念慮強く病室の硝子を破壊する事があった。然し静穏なる環境の為に刺戟的でない状態が介入される様になり、殊に夜間の不眠は急速に改善されて来た。
(大川周明の精神鑑定、内村祐之「日本の精神鑑定」)


8月には病室のガラスを割るなど、暴れることもあったという。
昭和21年11月、日記を書き出す頃は、

11月中の状態。落ち着いた生活を続け、不自由な病院生活に不平を述べることもない。病前の状態と比較する為に、平素の大川氏を知悉する近親者と友人に面会せしめて意見を徴した所が「従前に比して冗舌の感があり、かつ物事の判断が楽観的に過ぎる」との所感が語られた。この批評には主治医たる余も全く同意することが出来た。
(大川周明の精神鑑定、内村祐之「日本の精神鑑定」)


大分落ち着いてはいたものの、異常なほど「物事の判断が楽観的」だったという。敗戦の現実に打ちのめされて自害した人もいた時代に「楽観的」とは、なかなかシアワセかつラッキーな人である。

午前栗田母子米兵弁当・煙草等を持参して面会に着たが玄関先で帰された。面会範囲の拡張を林医師に申込む。
(日記、昭和21年11月11日)


栗田女史、お母さんと一緒に見舞いに来ているが、なぜか「玄関先で帰され」ている。「面会範囲」とあるが、友人知人はしょっちゅう来ている。
それにしても「米兵弁当」とは? ホットドッグとか?

午前内科院長回診の時、栗田の面会のこと及び新聞閲読のことを頼んで承諾を得た。此旨栗田に手紙で通知する。
(日記、昭和21年11月12日)


午後から石川文庫のダレ血と土を借りる。岡上君の翻訳だ。ナチ的偏見が多いだけ面白い。駄々子の気焔を聞いてるようだ。
(日記、昭和21年11月15日)


本を読めるのは、精神が落ち着いた証拠である。

夕刻琴君来り、先度頼んだ栗田への手紙まだ出さずにあると聞いて驚いた。帰ったらすぐ出すように頼んだ。
(日記、昭和21年11月16日)


「琴君」は、大川周明の友人、清水常治郎の妻で、恐らく本名は琴子。清水常治郎は伊豆大島出身、大川周明が東大在学中に体調を崩し、伊豆大島に療養のため逗留していた時に出会った。清水夫妻は湯治、東京は中野区沼袋に「みはら」という喫茶店を営んでおり、毎日のように食糧を持参して大川を見舞っていた。

看護人ども廊下の電気コンロに炬たつを作って温まって居る。
(日記、昭和21年11月17日)


戦後すぐの病棟は、こういう状態であった。火事になりそうだが、スプリンクラー等もないのだろう。

午後村松副院長来診、病所についての説明並に予の希望を聞きたいとのことである。予は若し未だ全快せぬなら仕方がないが、治ったならば、此処を出て裁判を受けたいと言った。村松氏は未だ全快しないから、そのうち今一度脊髄液を検査し、その結果によって治療の方法を講じたいとのこと。従って予の退院は当分見込みなくなった。
(日記、昭和21年11月18日)


大川周明は、極東国際軍事裁判で裁かれることを望んでいた。

兼子から大学病院でのいろいろのことを聞く。覚えのないこともある。本当に病菌のための精神異状<ママ>なら此際もう一度マラリヤ療法を受けても徹底的治療の必要がある。それにしても1個月前後湯治して健康を十二分に鍛えてからでなければならぬ。一つ内村君に相談しよう。
(日記、昭和21年11月21日)


「大学病院」は東京大学医学部病院。
「マラリヤ療法」とは、人工的にマラリヤに罹患させて高熱を10回ほど出し、その熱で梅毒の病原菌・梅毒スピロヘータを殺すという脳梅毒治療法である。脳梅毒治療の画期的かつ唯一の治療法として1917年にヤウレッグが発明、その功績によってヤウレッグはノーベル賞を受賞する。精神疾患とみれば医師は真っ先に梅毒を疑っていた時代の受賞である。
大川周明は昭和21年6月11日から、このマラリヤ療法を受けた(西丸四方「狂気の価値」)。肺結核でもあった大川にはかなりの荒療治であるが、当時はそうするしか手はない。

午前10時兼子来る。昨夜大原君と会ったが、大原君は予の入湯に反対だとのこと。よって内村君に相談することをやめ、とにかく来春まで入院して居ることに決心する。A級の諸公は此頃は皆な独房に移され、丁度ニュルンベルグの連中のように厳重な監視を受けて居るとのこと。自殺防止を始めたと見える。
(日記、昭和21年11月22日)


大川周明、健康回復に湯治を考えている。なお江戸時代、梅毒治療に湯治はフツーであったらしい(福田真人、鈴木則子編「日本梅毒史の研究」平成17年)。梅毒患者の湯治場として人気を博したのが城崎温泉だそうだ。

竹内君の告別式。遙に心経観音経を供養す。朝藤田君が来てくれた。竹内君の告別式に往く途中とのこと。栗田の家が売れ近く東京に移るとのこと。
(日記、昭和21年11月23日)


「竹内君」=竹内賀久治は18日に死去した。死因は直腸がん。
栗田女史、疎開先の家を畳んで東京に戻るようだ。芸者に復帰するのだろうか。

午前平佐君来る。寮生の消息を聞く。帰国者40余名とのこと。山口杉野は安南に踏止まり、安南人のために働くとて帰国せず、庄司もスマトラにて同然とのこと。本間は行衛<ママ>不明。
(日記、昭和21年11月24日)


日本が敗戦しても、何人もの大川塾生がアジア独立の理想を実現せんがために、帰国を選ばなかった。彼らの崇高な魂を泥にまみれさせた罪をこそ、今の日本人は自問自答すべきである。――と思うが、つい最近も日本が宗主国であった時代の台湾籍の父親を持つ某国会議員が二重国籍だなどと責められていて、情けなさに死にそうになった。どこまでアメリカの属国なんだ。しかも責めているのは自称保守政党と民主党(!)の議員らで、擁護したのが志位和夫ほか共産党の面々なのである。真の保守政党が日本共産党のみという、この日本の現実。トホホホホ。

参考:立川京一「第二次世界大戦期のベトナム独立運動と日本」

大川周明はいつ感染したか(46)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年11月〜12月分、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容される直前である。昭和20年の日記は、12月7日で終っている。

さて、10月4日にマッカーサーは新しい憲法改正指導にあたるよう近衛文麿(当時は副首相格の無任所国務大臣)に指示するのだが、その後、内外から近衛の戦争責任を追求する声があがり、この11月1日にGHQは声明で憲法改正における近衛への信任を否定する。すなわち、マッカーサーは東久邇内閣閣僚としての近衛を信任したのであって、同内閣はすでに解散したのだから信任も反故である、という声明であった。近衛は恐らく、憲法改正で政治的地位を確立し、戦犯指定からも逃れられると考えていたのだろう。GHQから過剰な希望を与えられ、その後無残にも切り捨てられ、そして実際に戦犯指定されたことで、近衛の心は疲労し、ポッキリと折れてしまったのかもしれない。
時は政治の季節であった。2日、日本社会党(書記長:片山哲)が結成され、

6時半自転車にて相武台に出で、8時の小田急にて出京、金内君糟谷君片岡君及び珍しく天童の松田君。午後法政に竹内翁を訪いしも不在、2時50分の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年11月6日)


9日に日本自由党(総裁:鳩山一郎)が結成されて、

午後法政に竹内翁を訪い、2時50分の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年11月13日)


11日には日本共産党が新憲法の骨子を発表している。

昭和20年11月12日
▲昭和20年11月12日付朝日新聞。

2時50分の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年11月16日)


16日、日本進歩党(幹事長:鶴見祐輔)発足。

本庄大将は自盡。
(日記、昭和20年11月19日)


本庄繁の割腹自殺は20日とされているが、

昭和20年11月21日
▲昭和20年11月21日付朝日新聞。

大川周明は19日の日記にそれを書いている。報道が間違っているのか。

廣瀬君政治研究室を再開し且帝国新報を買収して日刊新聞を発行することとなり予の家の2室を使用することとす。(略)8時半新宿発の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年11月20日)


20日、ニュルンベルク国際軍事裁判開始。

午後4時玉利君永田君と共に自動車にて迎えに来る。田中の旧朝倉文夫の邸を買取れる小澤専七郎という人なり。豪華なる晩食。新宿まで自動車にて送られ、8時半の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年11月23日)


小澤専七郎」は昭和23年の昭電疑獄で、贈賄で有罪になった衆議院議員である。

3時半相武台。
(日記、昭和20年11月27日)


しかし大川周明、政党政治には全然興味を持っていない。

稲垣君に味噌醤油を静岡市栗田宛に発送を頼む手紙。
(日記、昭和20年11月28日)


「静岡市栗田」とは、栗田女史の実家だろうか。
30日から「ドストエーフスキの罪と罰」を読み出している。戦犯指定直前に「罪と罰」とは、ナイスチョイス。

帰郷すべく朝出立、相武台に立寄りて11時頃着京。然るに今朝10時マッカーサー司令部より59人の戦争犯罪者として梨本宮殿下以下の指名あり、其中に予も加わり居るを知る。(略)5時の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年12月3日)


戦犯指定は、栗田女史のところで知ったようだ。電話で? 朝日新聞での報道は4日である。

10時半帰村。兼子も予の知己の諸氏皆な同難なれば御附合と思えば仕方なしと元気よく諦め居る故大に安心す。
(日記、昭和20年12月4日)

栗田女史が何と反応したかは、書いていない。

昨日近衛木戸酒井大河内津田大嶋伍堂大達緒方須磨の9名にも逮捕命令。
(日記、昭和20年12月7日)


昭和20年の日記は、これで終わり。なお、「津田」=津田信吾の戦犯指定は2日なので、間違いである。
16日午前1時頃、近衛文麿が服毒自殺する。
大川周明がA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容されたのは、12日であった。

大川周明はいつ感染したか(45)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年10月分。

午後法政に往く。竹内翁不在。4時半相武台着。
(日記、昭和20年10月2日)


4日、自由を抑圧する制度を廃止する「自由の指令」がGHQより発令。これにより治安維持法など弾圧法規が撤廃され、政治犯も釈放される。内務省・警察の関係者約4000人も罷免され、これを政府への不信任と受け止めた東久邇内閣は翌5日に総辞職。

8時家を出で10時相武台。終日休息。栗田病気回復。
(日記、昭和20年10月6日)


9日、幣原喜重郎内閣成立。7日には報道されたようだ。8日には「幣原内閣閣僚の顔触れきまる。驚くの外なし」。

午後3時横浜廻りにて帰途につく。最後より1里の処にて泥濘に埋まり、車を棄て徒歩長後に引返し小田急にて相武台。既に8時なり。
(日記、昭和20年10月9日)


10日、府中の予防拘禁所に予防拘禁されていた徳田球一や志賀義雄らが出獄。
11日、GHQより五大改革(婦人参政権、労働改革、学校教育改革、司法改革、経済改革)が指示される。

自転車にて相武台に往き9時20分の小田急にて上京。佐野君在り。午後法政に行きしも竹内翁不在なりし故2時50分の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年10月12日)


なお、大命降下時の幣原喜重郎は明治5年生まれの73歳。高齢ながらその英語力と交渉技術は「日本外務省でも随一」といわれるほどで(五百旗頭真「日本の近代6」)、マッカーサーとの初会談でもその能力は遺憾なく発揮されたという。

5時半相武台。
(日記、昭和20年10月16日)


18日に、大川周明の叔母さんが亡くなり、

位牌に焼香頂礼したる後、喜藏君石山父子と同乗して厚木に帰り、3人と分れて相武台。
(日記、昭和20年10月19日)


翌19日に荼毘に付している。

朝自転車にて相武台。
(日記、昭和20年10月24日)


24日、国際連合発足。

5時の小田急にて6時半相武台。
(日記、昭和20年10月30日)


30日、インドが国連の原加盟国に。

終日相武台。
ラヂオにて連合軍総司令部が文部省に対し、日本の学校より軍国主義及び極端なる国家主義を抱く教師を即刻放逐すべしと命令せるを知る。
(日記、昭和20年10月31日)


GHQに不満を抱きつつも、大川周明は反GHQ運動的なものをやろうという気は一切なかったようだ。この時大川周明58歳、老け込むにはまだ早かろうに。

大川周明はいつ感染したか(44)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年9月分。

今日午前9時降伏文書調印。放送聞くに忍びず。
(日記、昭和20年9月2日)

ミズーリ号上での降伏文書調印、ラジオで放送されたようだ。なお、この時日本の全権代表が決まったのは8月27日の閣議でである(重光葵手記)。みんな嫌がってモメたらしい。

近衛副総理は断り抜いた。梅津大将は、私に行けというのは自殺せよというに等しいとまでいって抵抗したが、天皇よりとくに言葉を賜って恐懼してやっと受けた。
他方、重光は外交官らしく別のとらえ方をしていた。ポツダム宣言の内容を検討して、「今後の日本を建設する」指針たりうると判断し、その「忠実確乎たる実施によって国際信用の回復を期し」うると判断した(重光葵手記)。
(五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和」)


ちなみに重光葵が日本政府と天皇の代表で、梅津美治郎は大本営の代表である。
終日不快。今日よりアメリカの属国。
(日記、昭和20年9月3日)


2日午後4時、GHQはかの有名な「3布告」――公用語は英語とする、連合国最高司令官(SCAP)命令違反者を占領軍裁判所が処刑する、占領軍発行のB型軍票を日本法貨とする――を提示するのだが、3日に重光外相がマッカーサーを説得し、発効されなかった。

廣瀬君来り政治研究室再興の相談。中食後法政大学に竹内翁を訪いしも不在。6時半相武台。
(日記、昭和20年9月4日)


大川周明、栗田女史を訪問できるぐらいには落ち着いてきた。

3時半小田急の改札口にて藤田君と落合い約1時間話す。正路大佐海軍省に居残りて米軍との交渉の任に当り居る由にて、いろいろ内情を聴く。4時50分の電車にて相武台。栗田母子赤痢に罹りて就床中。
(日記、昭和20年9月7日)


この頃、各種の感染症が猛威をふるったといわれている(統計ナシ)。栗田女史、お母さんと住んでいたようだ。

7時50分の小田急にて相武台。母子の病気稍良し。
(日記、昭和20年9月11日)


11日、GHQが東条英機ら39人の戦犯逮捕を指令。午後4時にMPが東条拘引のため東条邸に訪れ、東条は玄関先にMPを待たせて午後4時20分、拳銃自殺を試みる。未遂。

最高司令官は、天皇、東条、近衛以外に、ほとんど政治家の名前も知らなかったようである。東久邇が何者であるかも知らなかったと思われる。また、9月12日に総司令部が発表した第2次の戦争犯罪人容疑者に、日中戦争が始まった年に死去した国家主義運動の内田良平と、東条の憲兵政治に抵抗して大戦末期に割腹自殺した東方会の中野正剛まで含まれていた。死人に逮捕令とは失笑ものであった。この戦犯リストには内閣書記官長の緒方も国竜会関係者として含まれていたが、内閣の要請を受けると停止された。
(五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和」)


9時相武台発、厚木にて鶏2羽を求めて帰る。明日中津にも米兵1千名進駐とのこと。
(日記、昭和20年9月12日)

13日正午、大本営が廃止される。午後、杉山元・本土防衛総軍司令官が司令部司令官室で拳銃自殺し、自邸でその知らせを受け取ったその妻もすぐに短剣で後を追った。短剣で女が死んでいるのに、拳銃で死に切れなかった元陸相というのは、やはりダサいと言わざるを得ない。午後11時半ごろ、小泉親彦・元厚相が愛用の軍刀で割腹自殺。

3時50分の小田急にて相武台。
戦争犯罪人の逮捕始まり、嶋田賀屋鈴木村田等米国憲兵隊に収容。橋田邦彦氏は自刃。小泉前厚相同断。
(日記、昭和20年9月14日)


14日午後3時55分、橋田邦彦・元文相が服毒自殺。

11時帰村。米兵は中津飛行場の設備不完全なりとして撤退に決定。好都合というべし。橋本欣五郎君戦争犯罪者として引張られたとの報道、パネー号事件のためなるべし。責任者の拘引数千人に及ぶとも言う。予も其の1人に入るやも知れず。一応万一のための準備をなす。
(日記、昭和20年9月15日)


パネー号事件は、南京陥落の直前に揚子江にいた米軍砲艦パネー号を日本海軍機が故意に誤爆して沈没させた事件。乗組員55人のほか、南京から避難した外交官や、民間人、ジャーナリストなど15人ほどが便乗していた。被害は水兵2人とイタリアの新聞特派員が死亡、12人が重傷、38人が軽傷。日本は中国艦と誤認したとして、賠償金だけで解決した。この事件で米国の対日不信感が高まる。
17日、GHQは横浜から皇居前お濠端の第一生命ビルに進出する。

8時の小田急にて上京。午後法政大学に竹内翁訪問。3時半の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年9月19日)


19日と20日の2日間、朝日新聞東京本社版がGHQにより発行停止。矢部貞治によると、20日は「ニッポン・タイムス」も発行停止になったという(矢部貞治日記)。

午後学習院に森田経理局長を訪い士官学校土地の件を頼みて快諾を得たり。次で徳川侯爵を訪い、4時新宿にて藤田君と落合い、代田橋に近き永田の家にて晩餐を御馳走になり、7時半の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年9月21日)

大川周明、23日からトルストイの「戦争と平和」を読み出している。時宜にかなったチョイスだ。
27日、第1回の昭和天皇&マッカーサー会談(全11回)。場所はマッカーサー公邸(旧アメリカ大使館)。

陸軍省に那須兵務局長を訪い対米工作文書のことを尋ねしに他の書類とともに焼却せりとのこと。銀座を一周し横浜・程ヶ谷を経て4時相武台。京浜国道自動車の西行東行するもの奔流の如く、その殆ど総てが米軍也、日本に在る心地せず。
(日記、昭和20年9月28日)

この頃、巷間では早くもデモクラシーへの関心が高まっていた。

10時から新日本とデモクラシーという問題で、座談会。出たのは安藤正純、賀川豊彦、大内兵衛、船田中、羽仁節子と僕。
(矢部貞治日記、昭和20年9月28日)


矢部貞治が出たこの座談会は読売新聞主催で、10月に5日間にわたって同紙に連載されている。

大川周明はいつ感染したか(43)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年8月分。

6時50分の電車にて相武台前。
(日記、昭和20年8月3日)


6日の午前8時過ぎ、広島に原爆が投下された。

東京の対応は信じがたいほど遅かった。原爆投下から確認までに2日、さらに最高戦争指導会議開催までにもう1日、計3日の遅延は、危機的状況においては犯罪的な緩慢さであった。危機の国際状況は、この3日間の遅延を許してはくれなかった。
(五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和」)


6日には中津飛行場にも機銃掃射が行われている。「村民の恐怖甚だし」。

相武台まで自転車。9時20分にて出京。新宿にて空襲警報。(略)3時の小田急で相武台。
(日記、昭和20年8月7日)


大川周明は広島に原爆が投下された情報を、

午前片岡君来り、広島空襲の情報を齎<もたら>す。使用せる爆弾は唯1個にして殆ど広島市を全滅せしめたる由。恐らく原子爆弾なるべく是にて戦争の勝敗は決したり。
(日記、昭和20年8月9日)


3日後の9日に入手している。
9日午前4時ごろにはモスクワ放送が対日宣戦布告を報じ、外務省ラジオ室と同盟通信がこれを受信する。午前11時近くに最高戦争指導会議が始まり、ポツダム宣言を受諾するか否かが討議された。国体護持のみを条件に同宣言を受諾すべきという東郷外相に対し、阿南惟幾陸相と梅津美治郎参謀総長が戦犯や武装解除、占領範囲などにも条件を付すべきと主張する。阿南陸相が「果して米国が続いてどんどんコレ(原子爆弾)を用い得るかどうか疑問ではないか」などと述べた直後、長崎に2個目の原爆が投下されたとの情報が入る。それでも譲らない陸相。昭和天皇による、いわゆる「聖断」が下されたのは翌10日午前2時。10日午前9時、外務省からスイスとスウェーデンに向け、ポツダム宣言受諾の正式英文が打電された。

早朝上溝に往き、佐川署長に武藤のことを頼み、相武台にまわる。(略)午後藤田君の使者として横山来村。政府は降伏に決せる故至急上京せよとのこと。上策なし、よって上京せず。
(日記、昭和20年8月11日)


11日正午、連合国の返書(バーンズ米国務長官名)がスイスに向け打電される。日本政府がサンフランシスコ放送によって、米政府の対日回答を知ったのは12日午前2時ごろ。
ソレを知ってか知らずか、

頭を坊主刈りにす。
(日記、昭和20年8月12日)


大川周明は頭を丸めている。
米政府の回答には、天皇統治の大権の保証がなく、日本政府は再度パニックとなった。13日午前9時から最高戦争指導会議、午後4時から閣議。結論は出ず、14日午前10時50分に再度の御前会議が開かれ、昭和天皇がまた受諾を決断する。

7時厚木発の小田急にて出立。海老名にて下車する人々を下ろすため車外に出ると、他人が押入りて取残さる。そのうち空襲警報。一旦厚木に帰り自転車にて相武台に赴き11時40分の小田急にて上京。(略)いよいよ無条件降伏の外なき様子。許斐君来りて阿南に進言するよう騒ぎ居る由なるも総て遅し。7時50分発9時半相武台。
(日記、昭和20年8月14日)


14日午後11時に日本政府は、天皇がポツダム宣言受諾に関する詔書を発したとの電報をスイスに向け打電。

正午陛下親しくラヂオにて詔勅を放送し給う。英米ソ3国共同宣言受諾。わが40年の興亜の努力も水泡に帰す。
(日記、昭和20年8月15日)

15日正午、玉音放送。阿南惟幾はこの日の早朝に割腹自決している。午後3時半、鈴木貫太郎内閣総辞職。

夜11時許斐君戦備課長の自動車に乗りて迎えに来る。予に殿下及び近衛公に或る進言をせよとの注文なり。予は石原将軍が同意ならば進言すべしと答う。石原将軍の東京在否は緒方氏が承知の筈なればとてとにかく上京す。運転手の兵士数日不眠なりとて極度に疲労の態なり。
(日記、昭和20年8月17日)


17日、東久邇宮稔彦内閣成立。インドネシア共和国、独立宣言。

8時首相官邸に至り緒方君に会い石原将軍の在否を問う。未だ上京せざるも殿下よりの仰せにて今明日中に電報にて上京を促す筈とのこと。よって再び上大崎に帰り中食後帰途に就き、2時相武台。
(日記、昭和20年8月18日)


18日、満洲帝国消滅。米軍、上海・広州・天津・青島に上陸。

東部軍司令部に高嶋少将を訪い、次で陸軍省に佐藤大佐を訪う。石原将軍未だ上京せずとのこと。(略)6時相武台着。
(日記、昭和20年8月21日)


21日に栗田女史のところに泊まり、明朝に連合軍の厚木到着予定をラジオで聞いている。連合軍は当初、26日に上陸予定であった。

9時相武台を出で高山君の処にて断部隊輸送隊の3将校と落合い横浜の神奈川県庁に藤原知事を訪い、貨車の件を相談。
(日記、昭和20年8月22日)


23日、フエで人民蜂起。バオダイ帝が退位を宣言。

午後部隊の自動車にて上京。野沢君に頼みたる絹を持帰る。相武台に着きたるは8時半。
昨日より小田急も省線も東京行の切符を売らず。部隊撤退後は上京当分不可能となる。
(日記、昭和20年8月23日)


中津は22日午後5時半ごろから、25日夕方まで停電であった。

今日より神奈川県に一兵無きこととなる。予て期したること乍らいざとなれば不快堪え難し。
(日記、昭和20年8月25日)


連合軍の到着は48時間延期となり、また停電。
28日は重慶で毛沢東と蒋介石が内戦回避で合意した日だが、

朝相武台。曽我君来り、偕行社住宅の至廉の払下ある由にて買入を頼む。栗田をまた移転せしめんためなり。
(日記、昭和20年8月28日)


大川周明は栗田女史の移転を考えていた。しかも、移転先は偕行社住宅だ。偕行社のアレコレはGHQに接収されたと思っていたが、民間に払い下げされたものもあったのか。秘密裏に?
30日、マッカーサーが厚木に到着する。

朝上京、竹内翁を訪問、3時半相武台。
(日記、昭和20年8月31日)


石原莞爾は結局上京せず。もはや日本は、一億総懺悔の時代になっている。

大川周明はいつ感染したか(42)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年7月分。
米英軍がベルリンの当該割当区域に進駐し(1〜4日)、

出京、10時着。正午佐治君の許に行き昼食。徳川候と会いたかりしが用事ありしと見えて不参。6時近くに相武台前。
(日記、昭和20年7月3日)


仏軍がそれに続き(8〜12日)、

中山君重慶との和平交渉のために帰朝し、陸相外相等と会見とにかく一応交渉を開く段取となれる由。
(日記、昭和20年7月7日)


オーストリアが4つに分割されている頃、日本では終戦工作への道が探られていた。
「中山君」とは、満洲国初代南京公使の中山優だろうか。

早朝自転車にて家を出で相武台に立寄る。此日早朝より艦載機の来襲あり、小田急動かず、3時帰村す。空襲解除は夕刻。数回の波状攻撃にて中津の民家にも機銃掃射を受けたるものあり。
(日記、昭和20年7月10日)


疎開先も機銃掃射されている。もはや安全な場所など日本には存在しなかった。京都だって原爆投下候補地のひとつである。

参考:吉田守男「京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実」

3時新宿発4時相武台前。夜B29、120機関東地区に来襲。
(日記、昭和20年7月12日)

15日にはポツダム会談がスタートし、その最中の16日にアメリカで初の原爆実験が成功する。

冨米野絹子氏より長君を悼める手紙。
(日記、昭和20年7月15日)


「冨米野絹子氏」は旧姓・内田で、橋本欣五郎が少尉時代(明治44年12月〜大正3年12月)に久留米で下宿していた米殻商・内田与三郎の長女である。内田はヒューストンのライス大学卒業後ボストンのフォーサイス病院で小児歯科を専攻し、10月事件当時は慶應義塾大学附属病院に勤めながら築地の自宅で歯科診療所を開業していた。診療所は築地警察から50 mほどの位置にあり、

関係略図
▲関係略地図(中野雅夫「昭和史の原点」)。

ここが橋欣らのアジトとなる。

内田絹子は吾人同志の為、内助的援助をなしたる女丈夫なり。
(中野雅夫「橋本大佐の手記」)


で、橋欣は昭和6年のクーデター計画(3月事件、10月事件)以後、それらクーデターに関する手記を書いて5部複写し、桜会の同志で生死を共にした参謀本部ロシア班の田中弥大尉、小原重孝大尉、天野勇中尉、さらに支那課員の長勇少佐の4人に手渡し、橋欣自身も1部を保存したが、それらはすべて消失の憂き目となる。しかし一時保管を頼まれていた内田絹子が手記全文を筆写して毛皮で包装し鉄製容器にいれて庭に埋め、これが戦中の消失のみならず戦後の極東軍事法廷の捜索の手も免れ、今日に伝えられることとなった(中野雅夫「橋本大佐の手記」)。

ちなみに、「橋本大佐の手記」によると、橋欣らがクーデターで発足させようとしていた新内閣閣僚の面子は、首相:荒木貞夫、内相:橋欣、外相:建川美次、蔵相:大川周明、警視総監・長勇、海相:小林省三郎、拓相:藤田勇となっている。ありあわせでテキトーな面子配分だ。大川周明の蔵相など、想像するだに眩暈。

上京、相武台前に下り英代ちかを伴い、豪徳寺下車、佐治君の家に立寄り味噌醤油を貰い受けてかえす。家に至れば佐治・日野月両君あり。日野月君より支邦に於ける第3運動についての相談。佐治君と共に徳川候を訪問せるも不在。4時の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年7月17日)


「日野月」=日野月末弘、神武会会員。「佐治」=佐治謙譲、国民精神文化研究所の所員で天皇主権説を主張した憲法学者。極右による「支邦に於ける第3運動」とは。
この頃大川周明は頭山満の評伝を書いているが、

朝日新聞社に頭山翁伝の出来上りし分をやる。5時半相武台。
(日記、昭和20年7月24日)


発行社は朝日新聞社である。朝日新聞社の主筆・緒方竹虎が玄洋社社員だったことからか。
26日には対日ポツダム宣言が発表されるが、

7時40分厚木発小田急にて丁度11時約束の時間に鶴見総持寺に到着。文部省主催の宗教報国会常会に講演。中食の饗応にあづかりて辞去、3時半の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年7月27日)


鈴木貫太郎総理大臣はこれに対し「何等重大な価値あるものとは蔽わない。ただ黙殺するだけである。われわれは断固戦争を完遂に邁進するだけである」と新聞記者団に述べ(28日)、外電で「ignore it entirely」(完全に無視する)と報じられた。で、その10日後、広島に原爆が投下されると。
なお、総持寺には、東京警備軍横浜警備隊が置かれていた。8月14日のポツダム宣言受諾を察知した同警備隊は戦争継続を主張して反乱を起こし、首相や重臣を襲う。岡本喜八監督の映画「日本の一番長い日」では同警備隊の佐々木隊長を天本英世が演じており、その狂気たるやすさまじく、同映画最大の見所である。

午後3時半町田にて藤田君と落合い陸軍第3病院黒江末彦大佐の家にて晩食の御馳走になり、9時半相武台。
(日記、昭和20年7月28日)


「黒江末彦大佐」は軍医。
28日、山陰線の大山口駅で列車が銃撃され、死者45人、負傷者31人を出す惨事となった。前2両には南方戦線から引き揚げてきた傷病兵ら、3両目以降は勤労学徒や国民義勇隊員らで満員のところをやられたという。列車への空襲としては、8月5日の八王子市(50人)に並ぶ大惨事である。
30日、政府はドングリの食糧化を決定。決定も何も、シモジモはドングリどころか茶殻だってとっくに食糧にしている。モスクワでは、佐藤尚武駐ソ使が終戦の仲介をソ連に頼んでいた。

自転車にて相武台前に至る途次座間の派出所に立寄りタイヤに空気を入れんとせしが江本君にせがまれ同君の官舎に上りて御馳走になる。上京も見合せ終日休養。
(日記、昭和20年7月31日)


食糧事情はワリと良さげであった大川周明はしかし、常に下痢で、いつも疲れている。終戦工作をしていたというが、自身敗戦は必至と感じていたのかもしれない。

大川周明はいつ感染したか(41)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(相武台前在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年6月分。
大川夫妻、そして愛人・栗田女史は神奈川県に疎開していたが、栗田女史は石川安一のイヤガラセにより、更なる引越を余儀なくされていた。

朝自転車にて相模川を昭和橋にて横切り相武台前の新居を訪い、直ちに小田急にて出京。研究所の焼跡を見て憮然たり。焼残れる旧宅を研究所・東亜会の連絡所とする。(略)3時新宿発の小田急にて相武台前に帰る。
(日記、昭和20年6月1日)


「相武台前の新居」が栗田女史の新居である。大川塾も、上大崎の旧大川周明宅に移転した。大川塾は、5月26日の空襲で焼失している。

相武台に許斐の光代さん来り疎開を頼む故承知す。妊娠中なり。
会田君鮎を届けてくれる。夕飯の時満喫。
(日記、昭和20年6月2日)

許斐氏利の妻の名は福喜子なので、「光代さん」は妹か。

許斐君が2度まで薩南の飛行場より戦闘機に乗りて出立せるも敵機のために妨げられて帰還し、今度は爆撃機に乗って往くと頑張り居る由。近来稀有の心がけなり。
(日記、昭和20年6月3日)

許斐は死を共にする約束を交わしていた盟友・長勇を追い、沖縄へ飛ぼうとしていた。日本帝国下の熱きブロマンスである。このあたり、映画化すればいいのに。スピルバーグ監督のドラマ「バンド・オブ・ブラザース」みたいなテイストで。

3時半の小田急にて相武台。
(日記、昭和20年6月5日)


自転車で、愛人のもとにマメに通う大川周明。

昼飯後に自転車にて家を出で、相武台前に至る。途中タイヤパンクせるため困難す。
(日記、昭和20年6月10日)


11日に山形に向け出発し、

11時鶴岡着。大泉村の菊地氏宅にて石原将軍と会談。夕食を御馳走になり6時半の汽車にて酒田に到着。
(日記、昭和20年6月12日)


12日に鶴岡で石原莞爾と会っている。日本必敗論は出たか否か。
19日に帰り、早速相武台前に。

9時半上野、11時相武台に帰着。(略)
今度の旅行で予は今日の如き国民指導の方法では、近く空襲が激化すれば、国民は戦意を喪失するだろうことを怖れる。日本軍隊は独逸軍隊の如く勝利の計算が立たなくなれば矛を捨てることはないであろうが、其前に国民が兜を脱がぬとは断言出来ない。新指導者の出現、その善導によっては国民の戦意を持続させることが可能であるとすれば、そのために努力せねばならぬとも考える。石原将軍との会談によって種々なる示唆を与えられた。上州の同志の意気込みも少なからぬ心強さを感ぜしめた。熟慮の上で予の進むべき途を確然と決めよう。竹内翁徳川候と相談せねばならぬ。
(日記、昭和20年6月19日)


石原莞爾との面会後も、大川周明は戦争続行派であった。この熱さが、学者に徹し切れなかったゆえんであろう。
23日未明、沖縄防衛軍(陸軍第32軍)の牛島満司令官、長勇参謀長が自決。沖縄陥落の責任をとっての腹切りである。5月末までの日本軍戦死者は6万4千人、民間人を合わせれば日本側犠牲者は20万人を超えた。

朝バスにて出京。(略)小川君来る。同道して第一ホテルに行き、首相官邸の自動車に迎えられ官邸にて迫水翰長と夕食。7時50分の小田急にて河原口。
(日記、昭和20年6月26日)


河原口の家もまだ保持しているのか。

牛島司令官・長参謀長割腹の屍体発見と桑港の放送。嗚呼長君も死んだか。さるにても許斐君は如何にせるならん。
(日記、昭和20年6月29日)


昭和20年7月1日
▲昭和20年7月1日付朝日新聞。

許斐氏利は長勇参謀長と生死をともにするため、16日に輸送用に改造した97式重爆撃機に便乗して沖縄に飛び立つが、天候不順で墜落。数ヶ所を骨折していたが、助かっている(牧久「特務機関長 許斐氏利 風淅瀝として流水寒し」)。しかし、よく民間人を載せたものである。

大川周明はいつ感染したか(40)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(河原口在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年5月分。

時は鈴木貫太郎内閣で、

3時より文部大臣官邸にて太田大臣、次官、教学局長らと談話。夕食を御馳走になり7時半の小田急にて河原口。
ヒムラーが米英に降伏提議、ムソリニは暴徒に逮捕との外電。
(日記、昭和20年5月1日)


文部相に太田耕造が着任していた。太田は終戦の詔勅の起草にも参画している。

徳川候と特攻隊となる約束をする。4時の小田急にて河原口。
(日記、昭和20年5月2日)


「徳川候」=徳川義親

ヒトラー戦死、ゲッペルス自殺。デーニッツ大統領となり、ヒムラーの家族逮捕。在伊独軍無条件降伏。
(日記、昭和20年5月3日)


ヒトラーは4月30日に自殺。しかし日本では当初「戦死」と伝えられたようだ。

ヒトラーが戦争指揮中死せりとラジオは伝う。
(清沢洌「暗黒日記3」、昭和20年5月3日)


昭和20年5月3日
▲昭和20年5月3日付朝日新聞。

昭和20年5月4日
▲「壮烈・ヒ総統の最期 武器を手に倒る」、昭和20年5月4日付朝日新聞。

武器は手に取らないだろう、大ドイツ国総統が。
で、何故「戦死」になったのかというと、どうもデーニッツがヒトラーの死を公表した際に「首都での英雄的な死」などと言ったせいらしい。
戦後の昭和20年末にヒトラーの遺書が発見されて、

昭和20年12月31日
▲昭和20年12月31日付朝日新聞。

自殺がほぼ定説となる。しかし遺体が発見されなかったので、生存説もしぶとく生存していた。自殺方法についてもピストル説、服毒説など複数出たが、東西ドイツ統一後に証言者が複数出てピストル自殺が確定している。また、ヒトラーの遺伝子は生きていた! という映画「ブラジルから来た少年」(フランクリン・J・シャフナー)とか、ヒトラーがタイムワープで現代に甦った! という小説「帰ってきたヒトラー」(ティムール・ヴェルメシュ著)などなど、ファンタジーの分野ではヒトラーは現在もバリバリの現役である。極悪非道の代名詞、地球規模の破壊者、史上最悪の著名人だからであろう。

からだ具合悪し。終日静養。
(日記、昭和20年5月6日)


一方、我が国の忘れられた天才、大川周明は相変わらず体調が悪かった。ちなみに大川周明とヒトラーはほぼ同世代で、ヒトラーは大川周明より3歳年下である(明治22年生まれ)。
7日にはドイツが連合国に無条件降伏し、

7時半の小田急にて河原口。
(日記、昭和20年5月8日)


8日にハリー・トルーマン米大統領が日本に無条件降伏を勧告する。

昭和20年5月8日トルーマン無条件降伏
昭和20年5月8日トルーマン無条件降伏1
▲昭和20年5月8日、日本にまかれたビラ。

出京。藤田君山本実彦君と共に有馬長太郎氏に昼食の御馳走になり4時の小田急にて河原口。
(日記、昭和20年5月9日)


有馬長太郎は横浜正金銀行取締役、交易営団副総裁。交易営団は昭和16年に設立、戦時中の貿易を管理統制する営団。なお、この9日には在日ドイツ大使館でヒトラーの告別式が行われている。

昭和20年12月31日
▲昭和20年5月10日付朝日新聞。

本国大ドイツ国はソレどころではないと思われるので、日本は恐らく世界で唯一ヒトラーの告別式をやった国であろう。ユニークなわが国である。
14日、最高戦争指導会議構成員会議、終戦工作のための対ソ交渉を決定。2月のヤルタ会談でルーズベルトがスターリンに対日参戦(ドイツ降伏後3ヶ月をメドに)を依頼し、

ソ連は伝統的に南下政策を採っており、極東における「不凍港」の獲得は悲願であった。そして地政学的状況から、「太平洋への通路の保証」を求めていた。それに対する答えの一つが、宗谷海峡に臨む「南樺太」の回復と「千島列島」の領有であった。
そこで、日露戦争で日本が獲得した「南樺太」はソ連に「返還」することになる。ヤルタ会談では“return”、つまりそもそもその人のものであったものを返す、という意味が使われた。しかしルーズベルトは、「千島列島」も同様に「返還」しようとはいっていない。千島列島については意味の違う“hand over”(引き渡す)、つまり、このたび新たにさし上げようという言葉を使って区別しているのである。
(五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和1941〜1955」)


その見返りに南樺太と千島列島のソ連領有が約束されたことなど、日本政府は知る由もなかった。

午後2時より放送会館にてレコード吹込み、終りて4時の小田急にて河原口。高山君の風呂を浴びる。武藤濱則という先度の周旋屋来り相武台の家のことを極め手金をやる。
(日記、昭和20年5月15日)


栗田女史の移転先は、相武台に決定。

朝上京。研究所にて糟谷君と話。原田1期生戦死の報知山口より来電。(略)6時45分の小田急にて河原口。
(日記、昭和20年5月18日)


「原田1期生」=原田俊明。原田は北部安隊で明号作戦に参加後、遊撃戦で日本軍に敵対しはじめたベトナム独立同盟会(ベトミン、明号作戦で樹立されたベトナム帝国を日本の傀儡政権として対日ゲリラ活動を継続する)を説得しようとしていたその最中、農民に竹槍で惨殺される。

午後高山君と共に石川に往き談判、借地を取極めることを承知さす。
(日記、昭和20年5月19日)


「石川」は、栗田女史にイヤガラセをしていた石川安一。

3時17分の小田急、河原口に着いたる頃より雨。
(日記、昭和20年5月22日)


歯も悪く、

河原口のうち3万円で売約済のよし。
歯医者に歯を診て貰う。旅行から帰ってから大手当をしなければならぬ。
(日記、昭和20年5月24日)


歯科受診している。
栗田女史の住んでいた河原口の家は、3万円で売れた。「旅行」とは故郷の酒田行きである。

明日午前11時より文部省にて宗教団体戦時報国中央常会のために講演する約束、明後27日朝東京発西下大阪の西川君京都の吉見翁を訪い、更に青森行きの汽車にて酒田に向う予定にて3時頃旅装を調えて村を出で河原口に泊す。
(日記、昭和20年5月25日)


宗教団体戦時報国中央会は、「勝つための信仰」を提唱していた。

昭和19年11月1日
▲昭和19年11月1日付朝日新聞。

キリストもブッダも、基本的に現世利益を否定していると思うのだが。
酒田行きは5月27日出立予定であったが25・26日にB29・250機が関東に来襲し、

朝上京せんとするに小田急は原町田まで省線は全部動かぬとのことにて見合す。東海道線は東京。大船間不通とのこと。よって午後4時河原口を出でで帰村。
(日記、昭和20年5月26日)


結局不可能となった。
26日の空襲では、宮殿はほぼ全焼、大宮御所は全焼している。昭和天皇は御文庫に非難していて無事だったが、大宮御所に住んでいた貞明皇后は間一髪の危機だった。
さらに、

研究所より寮生来り。研究所の消失を報告す。高橋子爵邸、牧野司郎氏邸も消失の由。予の家は助かれりとのこと。
(日記、昭和20年5月29日)


大川塾も焼失している。
なお、この頃米国でも戦争終結に対する動きがあった。日米開戦時の駐日米国大使であったジョゼフ・グルーは、ドイツ降伏の翌8日に、米国で開発中の原爆が2〜3ヶ月には使用可能であることを知り、親日家として危機感を持つ。日本が降伏しなければ、原爆の初投下地となることは明白であったからである。日本をよく知るグルーは、日本を降伏させるカギが“国体の護持”(=天皇制の保証)にあると国務省、大統領、軍部の説得にかかる。

1945年5月28日月曜日の朝、グルー長官代理(引用者註:当時グルーは国務次官)は、部下のドーマンが起草した対日声明案をもって国務省幹部会に臨んだ。日本に受諾可能な穏当な条件をあらかじめ提示すべきである。とくに天皇制の存続を保証してやれば、日本の降伏を促進することができる。グルーはそのように説いたが、2人の次官補アーチボルト・マクリーシュとディーン・アチソンが、この無条件降伏の実質的修正論に対して激しく反対した。
グルーは国務省の同意をとりつけるのに失敗したが、長官代理の職権を利用して、強引にその日の昼、トルーマン新大統領に直接働きかける。日本人は、すでに戦争に敗れたことを内心わかっている。必要なのは面子を与えてやることである。天皇制さえ保証すれば、日本人はきっかけをつかみ降伏するだろう。アメリカ人青年の人命の犠牲を少なくするため、早期終戦を可能にする対日条件を示す大統領声明を発するべきである。実務的政治家であったトルーマンも、やはり人命の犠牲を減らす早期終戦を求めており、「自分もその線に沿って考えている」と一般的同意を与えた。ただ、軍部の意見を確かめてほしいと留保した。「軍の指導者が同意するなら、対日声明を出そう」。
翌29日、グルーはペンタゴンに赴き、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長以下の将星を前に、同じ説得を試みた。スティムソンは真っ先に発言して議論の大勢を決した。彼は「浜口、若槻、幣原」の3名の名を挙げ、西洋社会おいても尊敬されうる人物であると語った。こうした人物を生むことのできる日本社会を根こそぎ破壊すべきでなく、穏当な条件のもとで早期に降伏させるべきだと、グルー案への支持を表明したのである(この3名の日本政治家、浜口雄幸、若槻礼次郎、幣原喜重郎は、スティムソンが国務長官として1930年にロンドン海軍軍縮を結んだときの日本政府指導者――首相、首席全権、外相――である)。軍人達はつぎつぎにスティムソンに同意した。政治・軍事の双方にまたがる問題についてのスティムソンの発言は、圧倒的な重みをももっていた。最初にスティムソンがこれほどに明確な判断を下した以上、陸海軍関係者の中に異を唱える者はいなかった。
しかし、そのタイミングについては、マーシャル陸軍参謀総長が、「ある軍事的理由から」、大統領による対日声明は時期尚早であると留保し、スティムソンも同意した。「ある軍事的理由」とは、スティムソンにとっては原爆であり、マーシャルにとっては日本上陸作戦であったろう。両者はともに、日本を降伏させるには軍事的手段と対日条件の声明との組み合わせが必要と考えた。誰一人として、「時期尚早」の理由を問う者はおらず、この言葉が会合の結論となった。
(五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和1941〜1955」)


戦没者記念日(5月30日)翌日に行う米大統領演説の際に、天皇制を保証した対日声明をも発表する――というのは、グルーの希望であった。その努力は実らず、棚上げとなったこの対日声明が、後のポツダム宣言である。

午前河原口に往く。トラック来り移転するところ。本厚木に往く小田急の定期券を求め一時帰村。
(日記、昭和20年5月30日)


栗田女史、引越しだ。転居先は相武台前である。

大川周明はいつ感染したか(39)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(河原口在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年4月分。
1日に米軍が沖縄本島に上陸、

今日も気分すぐれず早く就寝。少し運動すると極度に疲労するのは何故か。
(日記、昭和20年4月3日)


戦局同様に体調も思わしくない大川周明。
5日に小磯内閣が総辞職し、

午後4時帝国ホテルにて興亜総本部主催の新聞記者招待会に出席。全面和平の国民運動を起すべきことを主張す。内閣総辞職。
7時40分の小田急にて河原口。夜半喘息にて甚だしく苦しむ。
(日記、昭和20年4月5日)


「全面和平の国民運動」の内容はわからないが、連合軍との講和なのか。しかしそれはすなわち降伏なわけで、「興亜総本部主催の新聞記者招待会」で主張できたらそりゃすごいが。
7日に鈴木貫太郎内閣が成立する。

午後河原口を出でて帰村。呼吸苦しく死なんばかりなり。約2時間を要して帰る。
(日記、昭和20年4月7日)

呼吸困難はこの後も数日続いた。

夜8時半の小田急にて10時河原口着。石川の悪意に耐え兼ねて転居を要求す。承知す。
(日記、昭和20年4月17日)


栗田女史、同住所に住む石川安一からイヤガラセを受けている。贅沢は敵だの時代に、贅の象徴であったお妾さんに対する非難中傷が行われたんじゃないか。憶測だが。

上大崎4丁目目蒲線の両側50米疎開地域と決定。研究所も拙宅も取払わるる事と相成り可申候。拙宅は或いは居残り得るやも知れずと候えど、研究所の方はのがれ難く存候。
(書簡、昭和20年4月18日、神奈川県中津より大川多代女宛)


自宅および東亜経済調査局附属研究所(通称、大川塾)のあった上大崎も強制疎開地となり、類焼防止のため壊されることになる。

午後高山君に転宅のことを催促す。
(日記、昭和20年4月21日)


栗田女史は引っ越すようだ。

早朝自転車にて出立。河原口に立寄り居る間に空襲警報。B29百数十機立川を主として攻撃せるらし。そのため電車遅れ、正午すぎ研究所に到着。(略)京橋の支邦料理屋にて濱田・宇山・小野三中将、皆川治宏氏等と夕食、7時半の小田急にて河原口。此夜夥しく寝汗をかく。
(日記、昭和20年4月24日)


7時半の小田急にて9時帰京、10時外相官邸に東郷氏を訪う。支邦のことを話す。4時藤田君の令息が寄寓する市ヶ谷見附付近の岡田正美氏宅にて玉利・永見・藤田諸君と夕食。7時半の小田急にて河原口。今日より桑港会議
(日記、昭和20年4月25日)


午前厚木に往き材木の代金を支払、今後の配慮を頼む。河原口にて昼食、1時帰村。
(日記、昭和20年4月27日)

この27日にムッソリーニは逮捕され、翌28日に銃殺された。享年61、明治16年生まれだから大川周明とほぼ同世代である。父は鍛冶屋、母は小学校教員で1922年に首相就任。連合国軍のシチリア上陸と国民の離反で43年7月に逮捕され、ナチスに助け出されて北部サロにイタリア社会共和国を設立するも1945年4月28日にパルチザンによりミラノ近郊のコモ湖畔で処刑される。処刑はその愛人もだったようだ。エマニュエル・マクロンのフランス大統領就任でその夫人も一緒に賞賛されているのを見て、欧米の世間は何事もカップル単位で扱うのがスタンダードなんだなあと思ったが、処刑もか。

大川周明はいつ感染したか(38)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史(河原口在住)関連の記述をピックアップ。今回は昭和20年3月分。
1月16日から上海に滞在していた大川周明は3月9日に帰国した。朝8時半上海発、福岡乗り換えで、午後3時半羽田着。なお、仏印では明号作戦開始の間際であった。

4時半会社のバスで品川駅前まで往き其処から省線で新宿に出て、6時の小田急で7時半河原口に到着。研究所の無事なるを見て喜んで通過。
(日記、昭和20年3月9日)


翌10日は東京大空襲である。ギリギリのタイミングで帰国したわけだ。

昭和20年3月11日
▲昭和20年3月11日付朝日新聞。

汚れた顔に輝く闘魂
▲同、「汚れた顔に輝く闘魂」。

わが子が戦死しても悲しい顔すらできなかった――という戦時の状況がよくわかる紙面である。

一番のバスで出京。新宿より東京駅に出で銀行で金を受取り午すぎ研究所に往く。寮生は小平村の農場に行って留守。菅寮長また不在。郵便物を始末して3時17分の新宿発小田急で河原口。
10日の被害焼失戸数13万4千、被災者数百〇<ママ>4万5千。本所深川は殆ど全滅。
(日記、昭和20年3月12日)


この頃、大川周明は自転車を利用しはじめている。バスの便数が少なくなったからである。

安南帝国、カムボジャ王国独立。
(日記、昭和20年3月14日)

明号作戦は仏印の武力解放作戦である。
現地時間の9日夜半に開始され、11日に越南帝国のバオダイ皇帝が独立を宣言。13日にカンボジアのノロドム・シアヌーク国王が、4月8日にラオスのシーサワン・ウォン国王が相次いで独立を宣言し、仏印は解体された。独立といえど、実際は宗主国が代わっただけであるが。

昭和20年3月11日付
▲明号作戦の大本営発表、昭和20年3月11日付朝日新聞。

昭和20年3月15日付
▲作戦成功の報、昭和20年3月15日付朝日新聞。

午前初めて厚木まで自転車。約40分。河原口に立寄りて帰途につく。所要時間約1時間半。非常に疲れた。
(日記、昭和20年3月18日)


女に会うのにも自転車で。この時大川周明58歳。

午前午後2度自転車。漸く厚木往復の自信を生ず。
(日記、昭和20年3月17日)

午前初めて厚木まで自転車。約40分。河原口に立寄りて帰途につく。所要時間約1時間半。非常に疲れた。
(日記、昭和20年3月18日)


女の家まで、自転車で往復1時間半。坂がないならいいけれども。

朝7時半自転車で厚木に往き出京。日野月、夏目両君来訪。7時半の小田急で河原口。
(日記、昭和20年3月19日)


9時厚木発状況。電車の混雑甚だし。(略)省線で東京を一周し4時の小田急で河原口。
(日記、昭和20年3月20日)


8時自転車で河原口を出て9時半帰村。
(日記、昭和20年3月21日)


「河原口」に泊まりっぱなしにはしないのは、節操なのか。

朝自転車にて河原口に往き9時21分の電車にて出京、11時半研究所に着く。(略)
3時17分の小田急にて河原口。
(日記、昭和20年3月23日)

自転車で厚木、小田急の混雑甚だし。(略)5時の小田急で河原口。
(日記、昭和20年3月27日)


晴。9時の小田急にて上京。帝国ホテルに赴き、高木陸郎氏及び狩野・金内両君と中食を共にしたる後興亜総本部または興亜同志会が中心となりて強力なる対支和平運動を起すべきことを奨め、その承諾を得たり。3時17分の小田急にて河原口。疲労甚しく発熱38度3分。就寝。夜発汗してやや気分よくなる。
(日記、昭和20年3月28日)

高木陸郎は中日実業株式会社の副総裁で、大政翼賛会興亜総本部部長。
大川周明、また発熱している。

大川周明はいつ感染したか(37)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述「栗田」「河原口」(=栗田女史の疎開先)をピックアップ。
今回は昭和20年2月分だが、大川周明は上海滞在中で2人の逢瀬はない。そのかわり? 頻繁に会っているのが許斐氏利である。2月中に許斐と会った日は1、2、3、7、8、9、13、16、17、22、27と計11日に及んだ。2月は体調が悪く、10日あまりを寝込んだのにこれほど頻繁に会っているのは、

午後聞藍亭翁来駕、上海救済策についての相談。日本へは上海地区よりの撤兵、重慶へは米国との断絶を要求すること。数日中に相談を纏め、更めて来駕するとのこと。(略)
上海に来た意義が次第に明白となる。予は常に一の使命のために無意識に用いられている。慎め慎め。
(日記、昭和20年2月11日)


終戦工作のためだろう。
宮中でも、終戦工作は行われていた。14日、近衛文麿は昭和天皇に「1日も速に戦争終結の方途を講ずべき」と上奏する。が、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないと」と、この期に及んで一撃講和論に固執する。ここで“聖断”していれば、これ以降の空襲も沖縄戦も、2発の原発もソ連参戦もなかった――という反省は、

「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないこととわたくしは思っています」
1975年10月31日、日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」

戦後も昭和天皇にはまるでなかった。

夜読書。右側肋骨下部痛い、不快。
(日記、昭和20年2月17日)


肋骨だんだん痛くなり不快。
(日記、昭和20年2月18日)


肋膜痛く微熱あり終日不快。
(日記、昭和20年2月19日)

肋膜炎か。
19日は米軍が硫黄島に上陸した日。翌3月17日に日本軍の硫黄島守備隊が全滅する。

今日は起き兼ねて病臥。蔣・馬両先生来診。馬先生よりメタポリン及び漢薬拝受。
夕馬先生夫人見舞に来てくれる。肋部にエキホスを貼って貰う。
(日記、昭和20年2月20日)


朝馬夫人、豚の脳味噌を煮て持って来てくれた。美味。馬先生メタポリンをくれる。談與中博士が来て新薬ペニシリンを注射してくれる。左臀部に注射したのだが終日疼痛つづく。
(略)
夕方馬夫人。あまり話をしたためか、ペニシリンの反応か、夕方から発熱38度。夕食後直ちに就寝。
(日記、昭和20年2月22日)


昨夜は非常に寝苦しく、咳も痰も多く出た。今日も頭が重い。談博士第2回注射。
(日記、昭和20年2月23日)


昨夜寝汗をかく。朝の体温36.8度。10時より発熱。(略)体温38度8分。馬先生来り薬を2種持って来てくれる。
(日記、昭和20年2月24日)


洋薬漢薬の総攻撃に病勢漸く衰え初め、今日は体温余り昂らない。
(日記、昭和20年2月25日)


熱全く去り、痰が尚お出る程度に回復した。
(略)
8時頃許斐君来訪、飛行機とれたので明朝天津に向け出立、約半月の後帰滬して帰京するとのこと。東京に帰りて後のいろいろの打合せをなす。
(日記、昭和20年2月27日)


一応の恢復まで、10日あまり。入院しなかったのは終戦工作のためか。

大川周明はいつ感染したか(36)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述「栗田」「河原口」(=栗田女史の疎開先)をピックアップ。今回は昭和20年1月分。

いよいよ、日本敗戦の年が明けた。大川周明は神奈川県中津、愛人・栗田女史は河原口に疎開中である。

河原口。
(日記、昭和20年1月8日)


初栗田女史は8日。

原宿にボース君を見舞う。病勢重り最早助かりそうもなし。暗然たり。
(日記、昭和20年1月9日)


自由印度仮政府顧問のラス・ビハリ・ボースは、21日午前2時5分に死去した。死因は結核。まだ58歳の若さだった。

昭和20年1月22日
▲昭和20年1月22日付朝日新聞。

氏は1875年カルカッタに生れた、少年時代より独立運動に心を動かされ1905年時の印度総督カーゾンベンゴール州2分計画に端を発した革命運動に身を投じ、1915年にはその首に1万8千円の懸賞金をつけられて日本に亡命した、以来わが国に本拠をおき、世界各地の同志と連絡、革命の達成に邁進、一度は日本政府から国外退去を命ぜられたが、故頭山満翁の助力で新宿の相馬愛藏氏(中村屋)方にかくまわれ、同家の長女俊子さんと結婚し、大正12年には日本に帰化、印度名のラス・ビハリ・ボースをボース(防須)ラス・ビハリと日本名に改めた、
(昭和20年1月22日付朝日新聞)


朝日新聞記事には1875年生まれとあるが、それだと記事中の「享年60」と計算が合わない。中村屋HPにある1886年生まれというのが正しいのだろう。大川周明と同い年である。それにしてもこの時期の新聞は、校正もダメなのか。
大正7年に結婚した妻の俊子は同14年に2児を遺して病死(享年26)、長男の正秀は早大政経学部卒業後すぐの昭和17年に入隊し、

昭和17年9月15日
▲昭和17年9月15日付朝日新聞

陸軍戦車隊の一員として昭和20年6月に沖縄で戦死(享年25)。やるせない。

午後2時40分の小田急で河原口。
(日記、昭和20年1月10日)


夜田中隆吉君及び許斐君。対ソ工作について相談。
(日記、昭和20年1月11日)


大川周明、田中隆吉、許斐氏利で「対ソ工作」。ヤルタ会談を見越してのものか。
現在、旧満州地域から大規模な対日侵攻計画が伺われるソ連の陣地跡が発見されている。ノモンハン事件後の1940年代に建築された陣地らしい。その手の情報を、大川周明が入手していてもおかしくはない。

福岡は東京より温かい。8時過ぎ起床。午前京都の吉見氏、栗田及び兼に手紙を書く。許斐君より14日着くと来電。
(日記、昭和20年1月13日)


1月12日から福岡は雑餉隈の中島徳松邸に宿泊している。中島徳松は大徳炭鉱(飯塚炭鉱の前身)の経営者
許斐氏利は福岡に到着後、「サイド・カー」を大川周明の元に寄越している。

ゾクゾク寒気がし出したのでアスピリンを服ミ、オムナジンを注射して貰って就床、気分悪い。
(日記、昭和20年1月15日)


また体調悪化。安易な解熱はよくないんだが……。

薬の効能顕著で昨夜存分に発汗したため気分は爽快である。念のため更にオムナジンを1本注射して貰う。
(日記、昭和20年1月16日)


16日には日航機で上海に飛び、キャセイホテルに宿泊。キャセイホテルは外国人用の長期滞在型高級マンションで、戦後は和平飯店と呼ばれた。許斐氏利も18日に来滬。上海には許斐氏利を長とする“上海許斐機関”があった。中国側のテロ工作に対抗する機関で、許斐はここで日本軍が表立ってできない汚れ仕事を引き受けていた(牧久「特務機関長 許斐氏利 風淅瀝として流水寒し」)。慰安所の開設も許斐氏利が実行役だったらしい。
来滬した大川周明は許斐と行動を共にし、

午後許斐君が小切手で48万弗くれる。
(日記、昭和20年1月23日)


許斐から小切手を受け取っている。何のカネかは不明。この「弗」が中国元であるのならインフレで大した額ではなく(16日から泊しているキャセイ・ホテルの宿泊費は24日にチェックアウトして8万元)、工作費用とも思えないが、しかし米ドルだと15円/弗で720万円か。うーん。

夕5時半山武洋行に往き牛肉を御馳走になる。許斐君の案内で佐藤君も一緒。(略)許斐君の上海に於ける武勇談も面白く聞いた。9時寄宿。暫く許斐君と話す。
(日記、昭和20年1月24日)


同文書院の岡君同期生数人及び吉田海軍嘱託と寧波料理を御馳走になる。帰れば許斐君、長君と共に予を待って居た。
(日記、昭和120年1月28日)


大川と許斐は31日に南京に行った。大川周明は「清水中将の官邸」に泊まるが、許斐とはそこで別れている。

大川周明はいつ感染したか(35)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述「栗田」「河原口」(=栗田女史の疎開先)をピックアップ。今回は昭和19年12月分。

本土空襲は激しさを増している。

29日夜の東京盲爆の一端を聞く。神田美土代町から日本橋三越前にかけて幅1町余りが焼野原になったとのこと。午後菅君より電話で、研究所は何事もなかったという。
(日記、昭和19年12月1日)


大川周明の健康も思わしくなかった。本人の認識では風邪だが、長びきすぎる。結核ではないのか。

6時の小田急で7時半河原口に着き1泊。加藤政之助氏から送って来た鮭の味噌粕漬をやる。
(日記、昭和19年12月5日)


栗田女史には会っている。

大東亜戦争第4周年に入る。小磯氏の講演甚だ調子が低い。恥ずかしいほど貧弱な内容だ。(略)
4時新宿発の小田急で河原口。
(日記、昭和19年12月8日)


「第4周年」ではなく第3周年なのだがママ。小磯の演説放送のタイトルが「大詔奉戴3周年記念日を迎えて」なのに間違える大川周明。進行麻痺の症状に記憶力の減退があるが、これも……と考えるのは穿ちすぎなのか。なお、小磯国昭も山形出身で、大川周明とは同郷であった。宇垣一成を大川につなげたのも小磯国昭で、このつながりが3月事件の端緒となっていくのである。
以下は清沢洌の小磯演説評。

朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣。口調も、東条より遙かに下手である。全く紋切り型で、こうした指導者しか持たない日本は憐れというべけれ。
(昭和19年12月8日、清沢洌「暗黒日記 2」)


小磯国昭、演説はうまくなかったようだ。

昭和19年12月8日付朝日新聞「首相、補給戦必勝を力説」
▲昭和19年12月8日付朝日新聞「首相、補給戦必勝を力説」。

興亜総本部に出かけようとすると空襲。B29八十機位の来襲だが、東京は牽制で静岡、名古屋に主力を注いだらしい。3時半の小田急で河原口。
(日記、昭和19年12月13日)


今暁も空襲。直ちに興亜総本部に往ったが訪ねる人は誰も居ない。建川中将は熱海、橋本君は四国出張。高木氏は不在。狩野・金内両君も未出勤。よって銀座にまわりて市街の状況を視察し、正午帝国ホテルに許斐君を訪いて中食。2時調査局に往き用事をすまし、3時半の小田急で河原口。
(日記、昭和19年12月14日)


「許斐君」=許斐氏利。
興亜総本部の連中は、逃げたのでは。空襲が恐くて。

4時朝日新聞の佐藤君に迎えられ太平寮というに案内される。今度頭山翁伝を書くにつき鈴木文史朗氏が出版局長としての招待。(略)9時の小田急で河原口。
(日記、昭和19年12月19日)


午後許斐君、光代君と共に疎開荷物を携え自動車にて来る。同乗して厚木に至り一泊。
(日記、昭和19年12月21日)


正午翼壮本部に橋本欣五郎君を訪い、ホテルにて中食。国策問題を相談。興亜総本部に松井大将を訪いしも不在。許斐君をホテルに訪い、3時20分新宿発にて河原口。
(日記、昭和19年12月22日)


愛人と同じくらい許斐氏利と会っている。終戦工作か。

正午すぎ空襲。B29を品川湾上空にて襲撃するを目撃。4時の小田急にて河原口。夜発熱。
(日記、昭和19年12月27日)


また発熱。

4時の小田急で河原口。出立間際に空襲警報。大したことなく到着。
(日記、昭和19年12月28日)


年越しは兼子夫人の元で過ごしている。新年の挨拶をこなさなければならないからだろう。
中島みゆきの歌に「十二月」というのがあるのだが、

自殺する若い女が この月だけ急に増える
それぞれに男たち 急に正気に返るシーズン
大都会の薬屋では 睡眠薬が売り切れる
なけなしのテレビでは 家族たちが笑っている
何万人の女たちが あたしはちがうと思いながら
何万人の女たちと 同じと気がついてしまう月
(中島みゆき「十二月」)


名曲である。

大川周明はいつ感染したか(34)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述「栗田」「河原口」(=栗田女史の疎開先)をピックアップ。今回は昭和19年11月分。

朝9時半のバスで家を出で厚木に至り、河原口に立寄る。高山君を呼んでいろいろの事を頼む。昼飯を食ってから2時の小田急に乗り3時すぎ目黒の家に着く。
(日記、昭和19年11月3日)


「目黒の家」は東京での自宅である。
4〜6日には講演のため山形に行き、

松田君がくれた塩酸キニーネ錠を服んで就寝。
(日記、昭和19年11月6日)


4日から熱を出していた。キニーネは解熱剤として服用したようだ。22日にやっと全快。
7日、東京からそのまま郷里・酒田へ。8日昼に酒田で講演し、10日午後5時半酒田発の汽車に乗り、

朝5時半上野着。児玉君が迎えに出て居てくれた。目黒の家に落ち着く。(略)
午後新宿を出で河原口で一泊。
(日記、昭和19年11月11日)


10日には汪兆銘が名古屋で客死している。が、日記に大川周明の感想はない。

3時近く喜藏君が来た。石原将軍の身辺が危いというので田中君が寄越したのだ。田中君の話では東亜連盟理論が反逆思想だと騒ぎ立てて累を及ぼしそうだとのことであるが、実は角田少佐牛島辰熊等が東条・木戸暗殺を企てたという廉で軍法会議で審判中であり、石原将軍は21日証人として出頭することになって居るのだそうだ。法廷で将軍が激越な陳述をなし、そのために舌禍を買いはせぬかと東亜連盟の諸君は心配して居るとのことだ。とにかく緒方竹虎君に手紙を書き喜藏君に届けて貰うことにする。
(日記、昭和19年11月19日)


「角田少佐」とあるが、これは津野田知重だろう。

B29約70機来襲、焼夷弾や爆弾を投下したが大した被害はない様子。唯だ研究所北寮第4寝室の屋根に砲弾の破片が落ち屋根と2階の床板を貫いて湯殿に落ちた。 4時新宿発小田急にて河原口に至り一泊。
(日記、昭和19年11月24日)


24日、マリアナ諸島からのB29本土攻撃が開始された。この日の主目標は、零戦の製作所として知られる三鷹の中島飛行機武蔵製作所。同製作所は24日から計9回の空襲を受け、従業員220人の死者が出た。が、朝日新聞では被害の詳細は報道しなかったうえ、

昭和19年11月24日
▲昭和19年11月24日付朝日新聞。

空襲当日にこんな記事を出していた。この礼賛記事が出た当日に、空襲されたわけである。皮肉。
28日には長岡温泉で、

夕食に丁度来泉中の宇垣対象を招ぎ、牛肉、鯛ちり、鮪さしみの豪華なる御馳走。
(日記、昭和19年11月28日)


宇垣一成と宴会。3月事件で裏切られた恨みはないようだ。裏切られたとも思っていないのかも。

8時8分の電車にて三嶋に向い、三嶋で(ママ)省線で小田原まで。此処で約1時間待ち10時50分の小田急で12時河原口に着き一泊。
高山君を招き大工や畳のことを相談す。
(日記、昭和19年11月29日)


東京は27、29日も空襲されている。清沢洌は日記に、こう書いた。

この焼け出されたのに対し、政府は何事もできない。隣組で食料、衣服を取敢えず与え、後はいわゆる縁者疎開させるのだそうだ。隣組とても、しかし与えるべきものは、そんなにあるはずはない。そこで被害者は「身の不幸」として「お気の毒様」だけだ。
(昭和19年11月30日、清沢洌「暗黒日記2」)


この空襲で、被害家屋は9000戸に及んだ。だが焼き尽くされ、殺されようとそこは戦場ではない。死んで階級が上るわけでも、恩給がつくわけでもなく、持たざる庶民は焼け野原に抛られるのみ。それが日本にとって初めての総力戦の、結末である。

大川周明はいつ感染したか(33)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述をピックアップ。今回は昭和19年10月分。

沖縄が大空襲に遭った10日、

夕食を済ませた後6時20分発の小田急で河原口に帰り一泊。少し胃の具合が悪い。
(日記、昭和19年10月10日)


大川周明は「河原口」、栗田女史の家に泊まっていた。
なお、沖縄県下に来襲した米軍機は延べ900機。その被害は死者600人、負傷者900人、家屋の全壊焼1万1500戸である。

会田君より電話あり、家屋修繕の材料18日に届けるとのこと。飛行隊の兵士が守屋君を煩わして岡山か送って貰った畳表80枚をトラックで厚木から持って来てくれた。
(日記、昭和19年10月15日)


大川夫妻の疎開先、中津の豪邸は修繕中である。

6時20分の小田急にて西に往き泊る。
(日記、昭和19年10月24日)


この「西」は栗田女史の古巣(銀座)か、それとも栗田女史を指す隠語なのか。
24日はレイテ沖海戦で戦艦・武蔵と空母・瑞鶴(真珠湾攻撃に参加した最後の空母)が沈んだ。が、

ラヂオにて戦果を聞いて喜ぶ。
(日記、昭和19年10月26日)


報道されなかった。

昭和19年10月25日
▲昭和19年10月25日付朝日新聞。

25日には神風特別攻撃隊が、フィリピン沖で米艦隊に体当たりする。

7時のラヂオにて神風特別攻撃隊の報道。
(日記、昭和19年10月28日)


この最初の特攻の戦果は、護衛空母1隻の撃沈と数隻の損害であった。20日に編成されたこの特攻隊員は、マリアナの激戦を生き抜いた凄腕のパイロットたちであったという。皆「24歳以下の若桜」であった。

昭和19年10月29日
▲昭和19年10月29日付朝日新聞。

一体、当時の指導者たちの“勝利”とは、どんなイメージだったのだろう。有為な人材を次々に殺し、どんな“戦後”が来ると考えていたのか。

4時20分の小田急にて河原口に到り泊す。
(日記、昭和19年10月31日)

大本営発表の素晴らしい戦果を信じたのであれば、特攻など不必要と主張する人がいてもおかしくないと思うのだが……。

大川周明はいつ感染したか(32)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述をピックアップ。今回は昭和19年9月分。
8月17日に大川夫妻は、トラック2台で神奈川県中津に疎開した。愛人の栗田女史もほどなくして呼び寄せたようだ。。栗田女史の疎開先住所は、神奈川県高座郡海老名村河原口である。
疎開先、大川邸となった中津の家の内装や畳の手配を依頼する書簡に、以下の名前が出てくる。

就ては左の人名列挙仕候間御高配被下度候。
1、大川周明 神奈川県愛甲郡中津村
1、高山男也 同   高座郡海老名村河原口
1、栗田維人 同   同  同   同
1、石川安一 同   同  同   同
1、会田喜市 同   愛甲郡厚木町仲町
尚一番近い駅は、小田急線厚木駅に御座候
(書簡、昭和19年9月10日、守屋茂宛)


栗田女史、同住所に住んでいる「石川安一」氏と不仲になって結局は河原口を引っ越すことになるが、それはまた後の話。

健康思わしからず、直ぐ疲れる。午前散歩。
(略)
法政大学部<ママ>1学年通年勤労のため明年9月まで休業の通知。
(日記、昭和19年9月10日)


大川周明は当時、法政大学大陸部部長である(昭和14年4月開講)。第1学年の講義がなくなったのは、8月の学徒勤労令、女子挺身隊勤労令による措置だろう。なお、学生の軍需工場への動員が始まったのは昭和19年4月からである。

終日書物の整理。
夕栗田より電話。
何となく落つかぬ気持。
(日記、昭和19年9月12日)


無為に過ごす大川周明。パリではド・ゴールが帰還し、フランス共和国臨時政府を樹立した頃である(9日〜)。

厚木行バス不通とのことで航空隊のトラックに載せて貰い厚木に往き10時10分の小田急で上京。研究所で中食。(略)9時半の小田急にて河原口まで帰りて一泊。
(日記、昭和19年9月13日)


13日、「河原口」に宿泊している。
栗田女史も疎開したようだ。8月18日から9月9日まで日記がないので、そのあたりで引っ越させたのかも。

朝7時バスにて出立。才戸橋を渡りて往く。栗田に立寄り、11時研究所に着く。
(日記、昭和19年9月19日)


19日には、ソ連とフィンランドが休戦協定を結んでいる(モスクワ休戦協定)。で、16日には駐ソ大使の佐藤尚武がソ連のモロトフ外相に和平交渉のための特使派遣を提議するも、拒否される。

中食後自動車で御殿場に出で汽車で松田に出で、松田から小田急で4時20分厚木着、栗田に一泊。
(日記、昭和19年9月21日)


モスクワ休戦協定について当時の朝日新聞は、

昭和19年9月23日
▲昭和19年9月23日付朝日新聞。

今度の戦争は急行列車で疾走しているようなもので途中で飛び下りれば死あるのみ――これはゲッペルス宣伝相の言葉である、ともすれば正義人道を口にした小径の導くところ、結局滅亡以外にないことをバドリオの例で学び得なかった芬羅両国は今度こそ自ら身をもって味わっているわけである
(昭和19年9月23日付朝日新聞、芬羅“死刑”の報い 骨までしゃぶり尽す休戦協定)


感情的にフィンランドを罵っている。「バドリオ」はイタリアの軍人。昭和18年7月にムッソリーニを失脚させて臨時政府首相となり、同年9月8日連合軍に無条件降伏し、翌19年6月に首相を辞任した。イタリアの降伏で「バドリオ」は裏切り者の代名詞となっていた。イタリア無条件降伏時の朝日新聞社説は、

「圧倒的優勢なる米英軍を向うに廻して戦闘を継続することの不可能なるを認識した」というのがバドリオの国内に布告した、悲しむべき自殺の理由である。また「イタリア国民に対するこれ以上の惨害を回避するため」というのが、おためごかしの言いわけ草であった。
(朝日新聞社説、昭和18年9月10日)


イタリアを非難し、その降伏理由を「おためごかし」と断定している。しかし「国民に対するこれ以上の惨害を回避するため」というのは、これ以上ないほど真っ当な降伏理由だ。これも言論統制、新聞検閲の結果なんだろうか。

昭和18年9月10日
▲バドリオ非難号となった昭和18年9月10日付朝日新聞。

なお、休戦協定でフィンランドはカレリア地方のソ連への割譲や3億ドルもの賠償金支払、戦争犯罪人の処罰など苛酷な犠牲を余儀なくされたものの、占領はかろうじて免れている。羨ましい。

大川周明はいつ感染したか(31)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年8月分。

ナチス占領下のワルシャワで武装蜂起がスタートした頃(1日、午後5時)、

朝10時半新宿発の小田急に乗る。立錐の余地なきまでに満員。11時40分厚木に着き、石井会田両氏に迎えられ、会田氏の布袋屋で中食。(略)
2時打揃うて荻野の登記所に往った。1時間余り待って結局書類不整備のため駄目。中津に往って家を見る。綺麗に片付いている。最初見た時よりも善く見える。再び布袋屋に帰り一休ミして5時の小田急に乗り6時半帰宅。
(日記、昭和19年8月1日)


大川周明は新宿行きの小田急に乗っていた。
大川は疎開用の中津の住居を登記するために神奈川県の荻野村に行ったのだが、書類の不備で登記はできない。

朝永見君来る。李想白君緒方君に推挙することを頼む。11月に栗田のトラックの心配をも頼んだ。(略)
午後調査局。千原楠蔵君来る。石原将軍を鶴岡に訪い2日に亘りて意見を聞いてきたとて将軍の必敗論を取次いで聞かせた。
(日記、昭和19年8月2日)


千原楠蔵は中国問題を専門とする、元朝日新聞の記者。大正10年東亜同文書院卒、同年に大阪朝日新聞社支那部に入社。昭和元年に東京朝日に移り、支那部、欧米部に所属した。この間、漢口、南京特派員などを務め、昭和14年に勤続18年で朝日を辞める。
平成20年3月25日の朝日新聞に掲載された特集記事「封じ込められた「反東条」 元朝日記者・千原楠蔵と陸軍中将・石原莞爾」によると、 千原楠蔵は昭和19年の7月8〜9日の2日にわたって鶴岡で石原に面会、石原莞爾の“主張”に感激する。
石原莞爾の主張とは、

「東条らの施政を見るに、国民に対し卑劣にも戦局の真相を陰蔽し、言論を封殺し、ただ冷酷苛烈なる怒号叱た以外に大局的にいかなる措置をも講ぜず、単に戦線を拡大するというチヤンバラ本位の遣り口……」
「国民が総蹶起して軍閥を打倒し、政治革命を成就することだ。一気に東条、岸信介、当路責任者を軍法会議に付して処刑。……天皇陛下の御親政を回復する位の非常処置が出来ぬようではこの難局突破は覚束ない……国民の自由な魂を回復せずし天下のこと何ができるか」
(初出は高木清寿「東亜の父石原莞爾」、平成20年3月25日付朝日新聞)


政治改革であった。すなわち東条内閣と軍閥の打倒、戦争責任者の処刑、そして天皇による親政である。もっと簡単にいうと、“やり直そうぜ、原点に戻って”であろう。当時としてもまともな感覚である(国体変革などとは言ってないのだから、政治“革命”じゃあるまい)。恐らく石原のことだから、さらに終戦工作と戦後処理、講和の具体策ぐらいは考えていたと思う。あとは行政改革も。憶測ではあるが。
なお、石原が予備役となったのは太平洋戦争開戦前で、この頃はほぼフツーの一般人であった。「戦局の真相」を、一般人たる石原はどうやって入手し得たのだろうか。軍内部に通告者がいたか、従軍記者が書けない情報を石原に流したか、もしくは軍人としての経験と勘で状況判断したのか。まあ、昭和19年には一般人でもソレとわかるほどの「戦局」といえるのかもしれない。出征した息子や夫は帰ってこないし、サイパン陥落で本土空襲も決定的。女と子どもと老人しかいないのに主張される本土決戦という言葉に、リアリティを持てなかった一般庶民は結構いたであろう。だがその“もはや勝ち目はない”というリアリティが、“日本が敗戦する”というリアリティとイコールとも限らないのが人間の面白さである。認識したくないものは、目の前にあっても認識しないのである。そして認識したいものは、目の前になくても認識するのである。絶対国防圏を失った時点で大日本帝国は失われたというのに、多くの日本人がその幻を追い続けた。それは夢を見がちな政治家や軍人(文人統制がされていない軍人はとても夢見がちだ)のみではなく、教養ある文化人もそのくびきから逃れられなかった。あの教養高く、冷静で、常に懐疑的であった山田風太郎青年ですら。
閑話休題。
石原の言葉に感動した千原はそれをまとめ、ガリ版刷りで各方面に配布し、そのために8月に東京憲兵隊に逮捕される。昭和20年3月12日、獄中で病死。まだ40半ば、恐らくは拷問と虐待による死だろう。
石原莞爾は昭和18年に、千原とは別の朝日新聞社員(所武雄、朝日出版局編集部員)にこうも言ったという。

石原「(戦争は)このまま行ったら必ず負ける。止めるならまず今のうちだよ。どうだね。朝日新聞は全面を埋めて戦争反対をやらんかね。このままだったら今の村山(長挙)社長は一村山社長にすぎないね。全面をつぶして戦争反対をやってみろ、歴史上の村山になるよ」
所「そんなことをしたら、朝日新聞は潰されてしまいますよ」
石原はこう答えた。
「潰されたって、戦争が終ってみろ。……朝日新聞はまた復活するよ。従業員は帰って来る。堂々とした朝日新聞になる。どうだ。そう伝えて欲しいな」
(初出は所武雄「狂った時代」、平成20年3月25日付朝日新聞)


大きいなあ石原莞爾は。善も悪も超えたreal manだ。この石原を左遷したとはなあ。そりゃあ日本も必敗であろう。

午後銀座から調査局。4時半帰宅。
(日記、昭和19年8月3日)


大川周明は、しかし、千原楠蔵を介して聞いた石原の言葉に、何の感想も記していない。

午後銀座に往き4時帰宅。荷造りは9分通り出来た。
(日記、昭和19年8月4日)


この「荷作り」は兼子夫人の方だ。

片岡君の話でトラックは早くて8日、遅ければ10日にならなければ駄目とのこと。
(日記、昭和19年8月5日)


トラックの手配にてこずっている。

銀座に往き6時帰宅。留守中に西岡竹二郎氏及び茅真三の妹が来訪せる由。茅氏の妹はトラックを心配してくれという依頼だったそうだが出来ない相談だ。(略)
今日研究所の寮生が中津に掃除に行ってくれた。
(日記、昭和19年8月6日)


「西岡竹二郎氏」は元衆議院議員で、昭和15年6月23日に発足した外交転換国民時局懇談会(座長:末次信正)の実行委員。
厚木で疎開先の家を探していたのは大川周明だけではなく、

朝5時半に家を出でて新宿に至り、6時40分の小田急で、永見君及び笹川の主婦と共に厚木に往く。厚木に着いた頃から雨が激しくなる。駅で高山・会田両君に迎えられ、ほてい屋で休む。永見君と笹川の主婦は煤ヶ谷の売家を見に往き、予と高山氏とは中津に往くことにし、共に10時のバスに乗ることにした。煤ヶ谷行の方は出ないと分り、笹川の主婦は帰る。中津行のも出なかったが、折よく通った航空隊の自動車に便乗して昼頃中津に着いた。熊坂一家の人々及び村の主婦達が家を掃除してくれて居た。昼飯に熊坂家の行為で赤飯を御馳走になる。永見君は家の木材の見事なのに驚嘆して居る。3時のバスで帰路につき、6時帰宅。
(日記、昭和19年8月7日)

同時期に売り家を物色する東京人は少なからずいたもよう。
ちなみに、法的に疎開が位置づけられるのは昭和18年10月の防空法改正からで、当初は建物の分散疎開に重点を置かれていた。その後ほどなく、人員疎開も勧められる。

M2006050117033293526_0490-02
▲都市疎開問答、内閣情報局発行「週報」昭和18年12月22日号。

11時家を出て銀座にまわり3時帰宅。
(日記、昭和19年8月8日)

午後栗田に往く。荷造りが大抵出来て居る。4時ごろ帰宅。
(日記、昭和19年8月10日)


朝6時40分新宿発の小田急で厚木に往く。運よく腰かけられた。ほてい屋に休息し、高山・会田両君と10時の半原行バスで荻野の登記所に往く。熊沢一嘉氏が既に到着して待って居た。簡単に登記もすみ、タクシーを呼んで中津に到り、残額を熊沢氏に支払った。4時のバスで厚木に出で、またほてい屋に休んで高山・会田両君への御礼もすませ、7時近くの小田急で8時半帰宅、一風呂浴びて居るところに児玉誉士夫君がやって来た。上海でのいろいろの仕事のことを話して帰る。
(日記、昭和19年8月11日)


当時の児玉誉士夫はやまと新聞社社長で、7月17日に兄の今朝男を亡くしたばかりである。海軍の嘱託で、上海を中心に児玉機関をつくって「いろいろの仕事」=物資調達、を行っていた。
大森実「戦後秘史・日本崩壊」によると、終戦直後に児玉は上海で調達したダイヤモンドとプラチナが詰まったミカン箱大の箱・約20箱を海軍に返そうと、米内光政に会っている。米内は皇室に渡すべきだと児玉に答え、しかし宮内庁は受け取りを拒否したため、ついにGHQから提出命令が来る。そこで児玉はその半分をGHQに提出し、残りを鳩山一郎らが立ち上げようとしていた日本自由党に差し出した。これが日本自由党の結党資金になる。少なく見積もっても現在価格にして約30億円のそのダイヤとプラチナを売り捌いたのは、当時の同党幹事長・河野一郎だ――というのが児玉の話。

児玉誉士夫君来り、トラックを自分で世話してくれると言う。片岡君に頼んでもいつの事やら判らぬので欣こんで同君に依頼した。運賃は献納するという。
(日記、昭和19年8月12日)


さすがは児玉誉士夫、無法地帯でこそ輝くタイプである。また、こういうタイプは獄中でも強い。

一寸銀座によって2時半帰宅。
(日記、昭和19年8月13日)


児玉誉士夫君の斡旋にてトラック3台漸く来る。寮生付添い、午すぎ出立。銀座に往き3時半帰宅。法政の試験答案を見る。無知驚くべし。
(日記、昭和19年8月16日)


勤労動員と教練で、大学生も勉強するヒマなどなかったであろう。

約20年住んだ上大崎の茅屋も愈々今日でお暇だ。早朝厚木から電話があり、高山君が世話すると言ったトラックが当てにならぬから、此方で心配しろと言ってきた。永見君に依頼の手紙を書く。
(略)
午前10時トラックが2台来た。藤田君が来てくれた。大崎警察署の刑事が2人どさくさの最中に来て下らぬことを話す。予は急いで弁当を食い、12時半新宿発の小田急で先発、1時40分厚木着、出迎の会田君と2時のバスで中津に向う。航空隊の近くで予の荷物を運んで来た2台のトラックに追い越された。2時半着。寮生がいろいろ手伝ってくれる。会田君が紹介した大工に修繕工事を頼む。そうこうして居るうちに日が暮れた。
上大崎の家で3月事件・満州事変・10月事件・五・一五事件などを企んだのだが、まづ此処で一段落。中津の御殿でどんなことが起こるか。
(日記、昭和19年8月17日)


「中津の御殿でどんなことが起こるか」――それは、日本の敗戦である。この1年後に、日本は敗けた。連合軍にも、中国にも。
大川周明が疎開作業に追われていたこの8月、千原楠蔵が憲兵に逮捕されている。大川周明にもその情報は入ったはずだ。が、それに関する記載は日記にない。石原莞爾の「天皇陛下の御親政を回復する位の非常処置が出来ぬようではこの難局突破は覚束ない」という言葉にも心を動かされなかったのであれば、大川周明、すでに革命精神は捨て去っていたのだろう。これも脳梅毒ゆえなのだろうか。

大川周明はいつ感染したか(30)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年7月分。

午後銀座、3時半帰宅。
(日記、昭和19年7月5日)


7日にサイパンで日本の守備軍3万人が全滅。連合軍はこれで本土空襲が可能になり、

サイパン絶望。東京空襲も愈々切迫。
(日記、昭和19年7月7日)


この後の日本軍は防戦一色となった。東条内閣はだから瓦解したわけだが、ナゼこの時に講和に持ち込もうとしなかったのか。

厚木は小田急線沿線にて新宿より1時間10分を要し候が、調査局は同線玉川学園内に疎開することと相成申候えば、其処までは厚木より25分に御座候。
(書簡、昭和19年7月7日、東京上大崎より大川多代女宛)


東亜経済調査局も、疎開を決定している。

中津の家の話を決めるために10時半新宿発小田急で厚木に向う。満員で厚木まで立通しだ。降りて見ると誰も居ない。此前昼飯を食った若松屋に行って中食を頼んだが断られた。会田喜市氏のほてい旅館に往ったら留守。名刺に書残して12時50分の電車で帰途につく。此度は座間から腰かけられた。2時帰宅。お茶漬をかっこむ。
石井君の手紙によると中津の家は講談に出る相州の名人矢内丹後守(右兵衛尉)高光、其弟柳川善兵衛助光が13年の歳月を費やせる力作なりとのこと。但し此男の言葉あてにならず。
(日記、昭和19年7月10日)


大川周明の疎開先は、神奈川県愛甲郡愛川町中津である。家は熊坂半兵衛という豪農の屋敷を購入。

許斐君来り秀三君が内務大臣か無任所大臣になると言って居たと話す。誰かが秀三君をおだてたのであろう。之を真に受ける秀三君も余程どうかして居る。4時安井英二君を訪い、近衛平沼両翁会見の要を説き、近衛公を説得するよう頼む。安井君承知。
(日記、昭和19年7月11日)


「許斐君」=許斐氏利
頭山秀三は、新内閣で大臣に就任できると思ったらしい。真性のバカだ。しかし、この期に及んで近衛を推す大川周明もよくわからない。近衛なんざ日中戦争を拡大させた戦犯じゃないか。

10時半の小田急にて厚木に向い、11時40分着。石井・会田・茅三氏に迎えられて若松屋に至る。やがて熊坂一嘉氏も来る。中食後契約書に調印、契約金並に内金として4万円支払う。
2時のバスで中津に往く筈であったが、バス来ないので帰途につき相武台前で下りて石井君の話の百姓家を見に往ったが駄目。7時帰宅。
(日記、昭和19年7月14日)

「相武台前」の「石井君の話の百姓家」。愛人・栗田女史の疎開先探しである。

石井君に相武台はやめる。河原口見込みありや知らせと打電。
(日記、昭和19年7月15日)


「石井君」はこの後、栗田女史と仲が悪くなるのだが、それはさておき。
大命降下を近衛文麿にと望んでいた大川周明だが、

神保町の古本屋にて艸山集を求め銀座に立寄り、4時半帰宅。藤田君より電話あり、平沼翁の推挙にて大命は小磯大将に下るべしとのこと。驚き入りたる次第なり。
(日記、昭和19年7月19日)


平沼騏一郎は小磯国昭を推した。大川周明を宇垣一成に紹介したのがその当時陸軍省軍務局長であった小磯国昭で、これが後の3月事件の下地となる。

大命は小磯・米内両大将に降下せりとのラヂオ。是亦未曾有のことなり。此の内閣には如何なる期待もかけ難し。日本も往くところまで往く運命となれり。
(日記、昭和19年7月20日)


内閣組織の大命が2人に下ったという先例は、明治31年6月の隈板内閣がある(ので「未曾有」でもない)。今回の大命は、陸海軍は仲良くせよというわかりやすいメッセージだろう。にも関わらず、小磯は陸軍大臣を兼任しなかった。米内がわざわざ現役復帰して海軍大臣になったというのに。杉山元がゴネたのだろうか。

午前法政に往きしも生徒居らず、聞けば休ミとのこと。銀座に往く。
(略)
7時の放送にて新内閣の顔觸を知る。斯様なる政府にて此の国難が切抜け得ると思って居るのか。
(日記、昭和19年7月22日)


この新内閣を、新聞各社は「小磯・米内協力内閣」と名づけた。

昭和19年7月22日
▲昭和19年7月22日付新聞号外。

10時半の新宿発小田急にて栗田と共に厚木に往く。石井・会田・高山三君に迎えられ、河原口の家を取極め、厚木園にて鮎を満腹、6時半帰宅。
(日記、昭和19年7月24日)


24日、ついに栗田女史と疎開先を検分に行く。

午後銀座に往き、4時根津邸茶室にて有馬、岡、藤田、永見、玉利、三矢、小栗諸氏と夕食。6時緒方竹虎氏来り、組閣の経緯や政府の方針等について語る。9時半帰宅。
(日記、昭和19年7月29日)


「根津」=根津嘉一郎、東武鉄道の経営で知られる根津財閥の2代目である。
緒方竹虎は朝日新聞社内の抗争で副社長になっており、小磯内閣発足で入閣が決定した時はそれを幸いと飛びついたのかも。副社長は、実権まるでナシの閑職だからである。小磯内閣では国務大臣兼情報局総裁となり、繆斌工作を主導したともいわれるが、それ以外はナニもやれずに内閣総辞職となった。にもかかわらず、緒方は戦後、A級戦犯容疑者として指名される。所属していた朝日新聞が戦争協力していたことからかもしれないが、しかし、戦争に協力しなかった媒体は私費出版しかない時代であり、とすればA級戦犯指定は小磯内閣入閣のためかと緒方は後悔したかも、しれない。なお、GHQのA級戦犯指定はどうも根拠レスで影響力のありそうな人間をテキトーにしょっぴいた感が強いが(笹川良一とか)、緒方竹虎の場合は利用できると踏んでの容疑者指定だったのかもしれない。

久原翁からいろいろの話を聴く。重臣会議で木戸内府寺内を推薦したのは虚伝で、先づ岡田大将が木戸を推したが、それは重臣達に黙殺され、米内大将が小磯大将を推したのだという。米内・小磯連立の献立は和平を覗う近衛公の策謀だとの話があるとのこと。
(日記、昭和19年7月30日)


「木戸幸一日記」によると木戸は18日の重臣会議で小磯の他、寺内、畑を首相候補として挙げるが、寺内と畑は第一線にいるとして、まずは小磯に決定したという。で、久原房之助が言うごとく「米内・小磯連立の献立」が「近衛公の策謀」というのはそうなのだが、策謀の理由は「和平を覗う」ためではなく、米内の国民人気が高く、小磯はその足元にも及ばないので、結局「連立」ということになったらしい。
ちなみに、「矢部貞治日記」によると東条内閣打倒の動きは、少なくとも昭和19年2月には海軍方面(海軍省調査課内に設けられた政治懇談会)で明確になっていた。サイパン陥落が政局(東条打倒の大義名分)になってしまったことこそが、軍事的に不幸なことではなかったのか。

朝帝国ホテルに李想白君を訪い、呂先生の近況を尋ねた。同じくホテルに止宿中の梅路見鸞氏を訪い中食を共にしたる後銀座に往き、午後2時半再び李君を訪いて懇談、5時帰宅。
(日記、昭和19年7月31日)


首相就任時、小磯国昭は64歳である。敗戦後はA級戦犯として有罪となり(終身禁固刑)、服役中のまま昭和25年11月3日午前7時37分、米陸軍病院で死亡した。享年70、死因は「腹部のはれもの」(米陸軍病院当局談)と当時の朝日新聞にある。ガンだったのだろう。

大川周明はいつ感染したか(29)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年6月分。

午後法政大学1時より3時まで。竹内氏と暫く時局に就て語る。帰途銀座に立寄り、4時半新宿を発し横浜に至り基督教青年会の信徒懇話会に出席。
(日記、昭和19年6月1日)


キリスト教青年会(YMCA)は宗教団体法で日本基督教団に併合されたはずだが、敗戦間近にも独自の活動が残っていたようだ。
なお、この頃の食糧事情は、

永見君の瑞穂麺、苛性曹達入手難のため行悩みと聞き遺憾至極。目前の急務は国民を飢餓より救うに在り。戦局の利不利よりも国民の食糧不安を去ることが一層肝心なり。
(日記、昭和19年6月2日)


テロリストをして「戦局の利不利よりも国民の食糧不安を去る」べしと言わせるまでに至っていた。大川周明、日記に細かく「キャベツ及び胡瓜を貰う」(10日)などと入手した食品を逐一記している。芸者好きで宴会派と呼ばれた時代には、考えられないありさまである。
なお「瑞穂麺」とは、

昭和19年4月30日
▲昭和19年4月30日付朝日新聞。

藁でつくったウドンのようだ。ふすまパンみたいなものか。

西木にて昼飯を食い、12時55分新橋発の汽車にて平塚に向い2時すぎ着。平塚市教育会総会に大東亜精神について講演すること3時より5時まで2時間。(略)
平塚にて火薬厰工員に対する甚だ不公平なる配給の話、また防空隊の残飯不始末の話を聞き、いづこも同じ軍部に対する反感の台頭を見る。
(日記、昭和19年6月3日)


大川周明は、陸軍と結託してクーデターを画策したテロリストである。民衆の軍部への反感に、複雑な思いを抱いたのでは。近衛の新体制運動で政治も政治家も一掃されて世は軍事一色、ある意味、彼の思い通りになったわけであるが……。

米英軍いよいよフランスに上陸、茲半ヶ月の中に勝敗の見通しつくべし。
(日記、昭和19年6月8日)


6日、連合軍がノルマンディに上陸。

2時半銀座に往き、5時作田氏に招かれ、大東亜会館にて竹内佐瀬両氏と4人にて夕食。作田氏支配人と懇意のよしにて珍しき御馳走なり。
(日記、昭和19年6月9日)


特権階級は、しかし、まだ「御馳走」にありついていた。3月の、いわゆる「享楽追放」は特権階級がますます特権を行使するようになっただけか。

3時半銀座に出で5時より興亜総本部主催の宴会に帝国ホテルに出席。
(日記、昭和19年6月12日)


13日に厚木に赴いているが、

9時半家を出で小田急にて厚木に至る。石井君地方の有志2人と駅頭に待つあり、若松屋というに至りて昼飯を供に伴にしたる後、自動車にて中津村熊沢に至り売家を見る。余り気が進まず。3時半帰途に就き5時帰宅。
(日記、昭和19年6月13日)


疎開先を探しているようだ。
16日には千葉県柏市に来ているが、これは講演のため。

広池千九郎博士が創立せる学校の後身にて現在息千英氏校長なり。10万余坪の地に畑あり林あり、教室、寄宿寮、教師館、林間に散在す。珍しき学校なり。校長以下職員諸子と中食を伴にし、1時より3時まで講演3時44分小金発列車にて帰途につき、一寸銀座に寄りて5時半帰宅。
(日記、昭和19年6月16日)


この「珍しき学校」は、現在のモラロジー研究所の前身だろう。現在のモラロジー研究所は内閣府認定の公益法人で、内閣府の共生社会政策・子供若者育成支援の「青少年団体情報」にこの公益財団法人モラロジー研究所があげられているんだが、こんなを出しているので検索すると、やはり日本会議であった。自民党ともつながりが深いもよう。

敵サイパンに上陸せんとし、また千嶋を空襲す。東京空襲も遠からざるべし。
(日記、昭和19年6月17日)


15日、米軍がサイパンに上陸。

8時帰宅。差当たり2万円支払いて中津に移転と決定す。
(日記、昭和19年6月19日)


大川周明は早速、疎開先を確保した。神奈川県中津である。
19日、マリアナ沖海戦。ここで日本軍は空母と航空機の大半を失う。

サイパン嶋攻防激烈。此の成敗にて戦局略ぼ決定すべし。
(日記、昭和19年6月22日)

27日に大阪、29日に岡山医科大学で「大東亜精神」をテーマに講演。敗戦を予想しながらの講演は、つらくはなかったか。この後京都、大津を回って、7月2日に帰京している。

大川周明はいつ感染したか(28)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年5月分。

後1時半より興亜総本部にて講演。一寸調査局に立ち寄り銀座に往く。
夜法政、10時帰宅。
(日記、昭和19年5月5日)


4月に起きた歯痛を5月になって治療したようだが、

午前歯を抜いたら上歯全部が痛くなり午後就床。
(日記、昭和19年5月11日)


予後はよくない。薬や歯科材料もない頃である。

兵器行政本部に赴き法政大学予科教室徴用中止を交渉して承諾を得。銀座に回り4時帰宅。夜早く就寝。
(日記、昭和19年5月16日)


大川周明、陸軍と交渉して大学校舎の徴用を免れている。さすがは陸軍に顔がきく男。
慶應義塾大学で講演もしているが、

6時半より慶應にて亜細亜研究所の講習会に講演。
(日記、昭和19年5月25日)


これは同大亜細亜研究所の特設講座のようだ。

昭和19年1月8日
▲昭和19年1月8日付朝日新聞。

その「大亜細亜講座」の目的は「大東亜建設戦士の養成と日本国民たるの常識練成」で、対象は中等学校4年修了以上(今の中卒程度)の男女、定員200人。2月1日に開講し、期間は6ヶ月、毎週火・水午後6〜8時で聴講料30円。
講師は大川の他、加田哲二和田清松本信広高田保馬東畑精一山田文雄永田清など。山田文雄は河合栄治郎事件に連座して東大を辞めた経済学者だが、こういう就職先があったわけである。学生がどれくらい集まったかは、わからない。
Recent Comments
記事検索
Profile
鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
Amazonライブリンク
  • ライブドアブログ