売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より。
昭和21年10月ごろ、笹川良一は巣鴨拘置所内で虐待を受け、苛酷な使役を課されていた。虐待していたのは日系二世の米軍兵士で、巣鴨拘置所の主任である「黒崎」中尉で、通称「デブ」。笹川の体調は悪化するが、医療も受けさせてはもらえない。所内の医師が、診療を拒否したためである。

第四回目の診察を受く。看護兵二ヶ月位入院せなければならないかも知れぬと云いメモに予の診断要求を書き、胸のポケットへ入れ午後軍医の診察があると云うから心待ちに待つが、第三回目の時と同様往診してくれぬ。何故であろうか。黒崎が負傷せしめた事も看護兵から聞ているので少し良くなる迄診察しない積りであろうか。或は証人として出した時を慮ぱかりデブが診察せない様に頼んでいるのであろうか。朝食は同室の者が取ってくれる。食事半量しか食えず。それもむりに流し込んで。流石のデブも今日は使役を申付けない。午後監督の番兵見舞に来る。風呂も入らず、運動も休み臥しているとMPが無理に起して出す。運動の強制なしと入獄の時規則書にありたるに不都合である。フラフラする為に余り歩行せず。夕食後少し気分良くなる。正味十二日間二十八回の強制労働をせしめたデブも中止せり。余程心配し出したのであろう。病気でも休ますなとは世界第一の残虐者である。
(昭和21年10月26日)


看護兵は笹川に同情しているが、軍医は来ない。
この頃に黒崎は中尉に昇格し、巣鴨拘置所の主任になっている。

昨日は鶴首たる医者往診なし。午後十時消灯前看護兵来り、呼吸困難のマネを自らして如何と質問す。予曰くそんなに苦しくはないと。今日も軍医の往診なし。如何な事情にて二回もくると云て来てくれないのであろうか、疑わざるを得ない。毎食事食事、不味く半人分しか無理しても食えぬ。胃が小くなった理でもないのに。人間の身は巧妙に出来ているが破れ易い。今日も使役を申し付けぬが流石のデブさんも閉口したのであろう。デブさんの暴に報ゆるに徳を以てした予の勝ちであろう。胸の内に故障を生じたのであろうか。万が一にも彼の拳骨が因となりて入院でもせねばならなくなり事が公になって彼が処罰せられる様になっては、折角中尉となった彼に気の毒である。故に何とかして早く全治せしめ米陸軍の為に反省の資とせねばならぬが彼が処罰されない様にしたいものである。この予の気持ちは残忍酷薄なるデブさんには判るまい。この好機を逸せず改善せしめて米国の信用を挽回し日米親善の因としたいものである。予のこの日米を愛するが為の善意を米軍当局は諒解するであろうか。この気持ちが判らぬ様ではマ元帥の政策は完全に失敗しソ連にしてやられるであろう。この事一番心配である。
(昭和21年10月26日)


この期に及んで「日米親善」をいう笹川良一の気概に脱帽だ。かくありたいものである。わたくしも「世界は一家、人類は皆兄弟」の精神で今後の人生を送ろうと決意した。ありがとう笹川先生。一日一善!

それはともかく、軍医の診療拒否は続いた。

十時半二階へ石田中将、津田軍嘱(ママ)と三名で診察に行き、自分が一番先に行くと一番後になれと云う。故に後へ廻ると帰えれと云い薬もくれぬ。
(昭和21年10月28日)


敵味方の区別を付けない医療活動は、衛生兵と軍医の任務なんだが。

来てくれないと思って居た医者が昨夜八時半、大尉と佐々木通訳とを同伴往診してくれた。実に嬉しく安心した。痛くなってから幾日になるかと質問したから十六日目と答う。診察を願い出でから二週間も診察してくれぬとは如何なる理由であろうか。不可解である。自分の身体故ホーサンの湿布まで勝手して治療しているの余りにも怠慢である。
十一時半頃MP迎に来る。佐々木通訳と予と二人の身長と体重を計る。数日前強制労働の最中に診察してくれたならば軍医も驚くであろう。何故五回目に診察してくれたのであろうか。人皆血色悪しと云う。
(昭和21年10月29日)


左胸部の痛みは11月に入っても続いた。黒崎の横暴も。

毎日毎食前後の掃除を如此やらせるは清潔を通越して虐待である。
(昭和21年11月16日)

笹川の日記は11月20日で終わったため、その後の黒崎中尉の動向は不明だが、

日本タイムス十九日発行に当初の我々の扱いに関し弁護士より改善の要求があった由、当然の事である。むしろ遅〔き〕に失する。黒崎一人の罪なり。
(昭和21年11月20日)


最終日の記載から、笹川の粘り勝ちが想像できる。大したモノだ。笹川良一は、苛酷な収容所生活を生き抜いた。日記はその間、彼の心を支え続けたのだろう。書くことで人は冷静になり、苦痛も客体化できるのである。文字を発明し、文章を発達させた人類は偉大だ。
惜しい事には、昭和21年11月21日以降の日記がないことである。笹川良一は書く事に執着していたから、書くことを禁じられたか、書いた日記を取りあげられたかしたのだろう。巣鴨拘置所の収容者がシベリア抑留者ほど苛酷な生活だったとは思わないが、収容する側のメンタリティはほぼ一緒だったと思わざるを得ない。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より、巣鴨拘置所の医療関連の記載を抜粋。
巣鴨拘置所内の医療は、収容者が死なない程度には供給されていた(死にそうになると外に出した)。笹川良一は、診療拒否もあったことを日記に書いている。
診療拒否の発端は、黒崎という名の米軍兵士の「虐待」であった。

二生(ママ)のデブの少尉、室内検査で運動に渇を医す為に温存しありたるコーヒを見付け捨てさせる。勿体なき事よ。亦温存が不可なれば茶湯を与うべきなるにこの真夏に与えざるは残虐也。米人の云う残虐の言葉は他人に対して云う言葉にして、自らが残虐なす事を当然の権利と心得ているらしい。
(昭和21年7月25日)


黒崎は日系二世で、当初は「少尉」として登場。途中から中尉に昇進し、しかも拘置所の主任になっている。

二生(ママ)のデブの少尉なるも今日はと挨拶しても返事もせぬ男。日本人の二生なら非常識の奴。
(昭和21年7月29日)


脉百十。風邪気味咽渇き憶ゆ。故に茶を保存しおきたるに運動外出中に番兵捨てる。生水を飲めと云うのか。夏は茶をくれるのが真(ママ)とうなるにくれぬ。虐待なり。
(昭和21年8月4日)

昨夜夕刻より突然発熱。自覚によれば四十度以上。米番兵に医者に通報なす様茶をくれる様依頼せるも呼んでくれ〔ぬ〕のみか、馬鹿とかとかのきたない言葉で応答のみ。番兵は肺病三期の人の診断を受けさすなと云う。非人道の元帥なり(通称)。日本人が俘虜を虐待したとて裁判している米国は恥ずるなきや。戦時中と今日は違う。これが虐待に非ずして何ぞや。
(昭和21年8月5日)

そこで笹川は、収容者たちの窮状を巣鴨収容所所長に直訴する(昭和21年8月15日付、巣鴨収容所所長宛)。だがこれに気付いた黒崎は、笹川に暴力を振い、

運動中午前八時四十分頃、番兵が我等三名を呼びにくる。帰室すると室前に黒崎とか云うイジの悪い二世の少尉が立っているから今日はと丁重に挨拶すると、イキナリ予の服の襟の皮をぐつと一尺以上引張るなり拳骨で胸をウント云う程に強打し更に下駄を脱し畳の上に上げて又胸を拳骨の手で強打し座〔れ〕と云うから座すと又起立せよと云うから起立すると三度胸を強打し更に拳骨でゴツンとアゴを強打した。何か理由が判らぬから英語は判らぬと云うと僕が番兵に提出した原稿を示したので、僕が書いたと云った。少尉は軍人かと聞たから違うと答えた。通訳の佐々木氏を呼んで通訳してもらうと恐ろしい顔をして自分を見るな、もっとなぐってやろ〔う〕かと云う。止を得ぬから予は満足するまで殴打せよと答えた。殴打の目的で来ているから番兵に見せない為に扉を入るなり〆た。この少尉になってから我々の扱が侮辱的の残酷となったので皆が閉口している。殴打の原因は日米の為皆の為に所長に手紙を出した文中、復讐を恐れて所長に苦情を申出ないのであるから所長宛の手紙は途中開封下見せぬ様にしてほしいとあった為であろう。アゴは大して痛くなかったが胸は痛い。皆怒憤して曰く横ビンタ打った我々を厳罰する資格なしと。
(昭和21年10月12日)


苛酷な労働を課すのである。

予の拳骨事件を皆重視して米国の事故謝罪するものと予期していた処、謝罪どころか逆に九時半の散歩終了後予一人に懲罰の為九十坪のうちに三尺四方の凹のゴミ取りをさした。手に豆を出かして流汗。喜んで胸の痛みを我慢してやる予に驚たであろう。中食後予一人を二回より一階の階段を洗濯せしむる。番兵も驚であろう精励には。同室の〔者〕泣かんばかりに憤慨と同情とを寄せる。
午後佐々木氏に胸痛し右腕悪しを番兵に申入れてくれたが駄目。
証人佐々木、田草サリ。吉尾氏等同情大なり。
午後一時四十分より四時二十分まで東側で自分一人、西側は六七名壁コスリをやらせらる。予の使役は我方一人而巳。これは明に残虐と侮辱を加えた□も余り誠心誠意の精励に感動した番兵は向側よりも予を先に終らせた。
中食後も又一人一時半迄二階より一階までの階段をタハシに石鹸を付けて洗濯後タオルで拭く。番兵予が流汗して仕事するをステキネと嘲笑して見ている。
証人佐々木、吹田、寒河江。(懲罰仕三回)
九時半より十時四十分まで懲罰の為約九十坪の廊下一人にて掃除せしめらる。別の番兵が指令し来る。
(昭和21年10月13日)


脉朝八時七十八、臥しても痛し
昨夜八時吹田氏に検脉八十六
九時四十五分頃診察。四五日このままで見て苦痛の時には頓服薬をくれる。予曰く湿布薬を佐々木氏を通じてくれと頼むもくれず。佐々木氏衛生兵の質問に答え少尉の殴打を語る。監督のゼーラ来りその話を聞いていた。昨日使役を伝えに来た番兵来り、使役に出よと云うから胸を押えて痛いと云うも強て来いと云うから致し方なく両側の真鍮磨をする。(略)十一時四十分掃除終了□終らす。
四時二十分頃可愛い番兵が当室三名に掃除を命ず。故に予は、看護兵が左腕を四五日痛みを見るまで使用するな〔と〕云ったし痛いから困る、片手で出来る事ならする、と云うと手マネしてデブの将校が仕事をせしめよと云うから致し方なしと云うから、已を得ず片方で掃除をする。
(昭和21年10月14日)


使役は、計13日間に及んだ。

佐々木氏通訳を通し番兵曰く、誠に同情に堪えない、午前中の番兵も自分も将校の命令であるから気毒で堪まらないが已を得ず使役せしめているのであるから悪く思わないでくれ、自分は伍長になる処を貴様の使役が手ぬ〔る〕いと云うので伍長になり損じたがこれ以上の酷使は出来ない。予曰く万事承知して君等に迷惑が掛るといけないから一生懸命に流汗してやっている、決し〔て〕君等を恨んでいぬと答えた。一分の休みなし。煙草一本くれた。余りの酷使に食事が不味となり嘔吐を催した。
(昭和21年10月15日)


笹川の体調は悪化する。

過労の為小さくてボタンがはめられなかったズボンのボタンが腹数日にして一寸五分位痩せ楽にはめられる。
(昭和21年10月16日)

医務室の者来りたる為一寸一分程休みとなれる事をやれやれと思って嬉しかりき。通訳なき為頓服薬のみしかくれぬ。毎晩湿布してねる。ホーサンをくれと手まねしても通ぜぬ為くれぬ。
(昭和21年10月17日)


使役中の休憩は、医療班が見廻りに来る際にのみ与えられた。与えられても、1分程度である。

身体が虐待を何(ドノ)程度堪えられるか研究して見よう。
この虐待と侮辱は予の身に徳を積めり。風呂屋の三助になれば天下第一の者となろう。
(昭和21年10月18日)


医療の時一分間程休む。嬉しかりき。
(略)
衛生兵が午後軍医に診断してもらってやると云っていたが来てくれない。来にくいのであろう。もっと全治してから来る積であろう。問題になったときに参考人として引合に出される事を恐れてとの意見多し。
(昭和21年10月21日)


デブ暴言吐に来る。
(昭和21年10月22日)


朝食の時より頭痛がするので番兵に手まねして云うと、朝食後使役せずに寝ておれと云う。暫時にして監督小さい方の番兵が上森氏通訳を帯同して来り使役せずに寝ておれと親切に云ってくれた。ヘトヘトである為運動に出ず。横臥して運動より皆が帰えると大方の番兵が使役に出よと云うから已むなく出ると佐々木氏が顔色悪いのを見て番兵に、病気だから自分(ママ)使役を代ってさせ〔よ〕と交渉した処番兵曰く、将校が病気であっても働かせというから気の毒でも致し方なし、代人は不可と云う。
(略)
午後は使役を云付けない。その為督戦番兵も来なくなり一人となる。これにより如何に予を苦しめんとしたかが判明した。番兵が同情して喧しくなったので中止したのであろう。皆目が落ち込んで血色悪しと義憤を感じ同情する。
二十七回 一 合計二十八回
第十三日
(昭和21年10月24日)


これで強制労働は終わるが、イジメは終わらなかった。
医療を受けさせてもらえないのである。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より、巣鴨拘置所の医療関連の記載を抜粋。

横山君は肺病だから医者が臥よと厳命す。監督と番兵は起ろと云う。医者にその旨云った処医者から注意を受けたと見えて横山君を使役に出す通訳が注意したので代人として深堀大尉をと云う。同君午睡中。予代って出た。仕事は二階三階の金棒のペンキ塗りのペンキがコンクリの上に落ちるのを拭き取らせるが、拭う後から後から十人もで塗〔っ〕ているから落ちるから全くサイの河原の石積みの如し。一時から四時。予もフラフラになった。
(昭和21年5月13日)


「深堀大尉」=深堀真澄海軍大尉。
医療にしろ使役にしろ、辻褄の合わない指令があちこちから飛んでいる。
イラクのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件では、米連邦捜査局(FBI)と米中央情報局(CIA)、さらに軍事情報部(MI)の支持があったという。

彼がノートパソコンに入れた写真を示して、「ちょっとこれを見て欲しい。われわれはこんなことをしようとしているのだが」と言うと、彼らは「ああ、これは素晴らしい成果だ。この調子で続けるように。君たちはいい仕事をしている」と言ったのです。実際、彼はその行為を称賛される手紙まで受け取っています。アブグレイブ虐待で有罪になった米国女性兵士へのインタビュー

似たようなことが、巣鴨でも行われていたのかもしれない。つまり、虐待をGHQは支持するか、または黙認していた。

戦争中なら気も荒ているから薬を与えない事もあっただろうが戦争がすんだ今日番兵は肺病併も毎日発熱し咳(ママ)血している患者に臥てはいけない〔と〕仕事をさせたり、通訳が理由を述べ医者が動くなと命〔じて〕いるのにも不拘、毎朝診察の有無を訊きにくる人に対し診察を受けさせるなと命ずる。これ位残虐はない。今一人監督の伍長と二人でいじ悪をなすから義憤に堪えず、所長に願話すべく番兵の名を尋ねても佐々木海軍の通訳も恐れて教えない。獄も娑婆も卑怯者ばかり。
(昭和21年5月30日)


「佐々木海軍の通訳」=ササキ・フランシス・T。
そもそも、呼吸器感染症患者と健常者を同室に収容するのは異常。喀血しているなら開放性ではないのか。当時の結核は死病、しかも結核の感染力は弱くはないのである。

運動中急に神〔経〕痛起り一度の通便にて治る。
タムシ薬くれぬために誠に痒し。
 嗚呼痒し薬もくれず獄の医師
(昭和21年6月15日)


タムシを灸で焼くという荒療治も、奏効しなかったもよう。

軍医来る。佐々木通訳も来り通訳す。予の皮膚病の薬もくれないから薬を請求す。軍医曰く予の頭中鳥がいると云えり。何事か意味判明せざるも、予の大統領マ元帥への手紙その他承知する為五月蠅者との意と解せり。横山君に対し軍医大尉は日光に当る事も運動も不可と云い中尉の軍医は日光に当れと命ず。命を受くる横山君は一人、命ずる者は二人。果していずれに従うべきや。
 医者二人一人の患者をもて遊び
(昭和21年6月16日)


頭の中に鳥がいるというのは、頭がおかしいという意味じゃなかろうか。

さて、巣鴨拘置所の通訳は優秀ではなかったか、もしくはヤル気がなかったようである。
言葉の通じない相手に管理される収容者のストレスは、相当だっただろう。日本人の事情に通じた医師と通訳ぐらいは、日本側が提供すべきであった。収容者の医療については、後に所内の旧日本軍属医師が担うようになるのだが、しかし、通訳の件が改善した形跡はまだ見付けられず。人材はいたっでろうが、しかし、少なかった可能性が高い。
それにしても、英語圏の国と戦争しながら英会話に堪能な人材を国家的に養成しなかったことがよくわからない。
言葉ができなければ統治できないではないか。“勝利後”を想定していないということは、勝つ気がなかったとしか思えないのである。よく日本は科学力に負けたとか言われるが、科学云々以前の問題ではないかと思う。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より、巣鴨拘置所の医療関連の記載を抜粋。

医者に女房の差入れ頼むと云えば大笑せり。昨日の番兵君は御尤と答えり。これ等身分低きも、四十六才の者に五十年の懲役を云渡す□(様)な高級軍人の裁判官よりは遙に紳士なり。(略)医者に食事少き為痩せたる事を話したり。為にか今日夕食は相当多かりき。
(昭和21年3月14日)

この頃はまだ、占領軍軍医とも和気藹々である。
さて、笹川は白癬(タムシ)を灸で焼くという荒療治をし(場所は恐らく足指の股。いつしたのかはわからず)、

灸の跡が腐敗して大変な事になっているのに、痛さを感じない。十五年間レントゲン治療を始めあらゆる治療も無効であった頑痒を、一挙焼て全治するのであるから、簡単に全治せないのは当然である。然に一時間の運動をしても苦痛なし。高橋、横山両君不思議に思い、先生の身体には天下有縁無縁の霊が加護されているから痛まないのです。
(昭和21年3月23日)


その痕が腐っても痛まなかったというが、恐らく糖尿病性神経障害である。足病変をほっとけば最悪切断である。何が「有縁無縁の霊が加護されている」だ。「高橋、横山両君」はさらに、

私は衛生兵でありますから痛さの程度も存じて居ります。足駄の鼻緒づれでも痛くて困っておりますと云って驚嘆する。予曰く、加護するに非ずして、身体は予のものなるも魂は万霊のものなり。
(昭和21年3月23日)


……新興宗教の教祖に病気の人が多いというのも、納得。

今日は発疹チブスの予防の為、消毒薬を真白になる程撒布してくれた。
(昭和21年3月29日)


「消毒薬」とはDDTだろう。
ともに入所した大川周明は、昭和21年4月27日に顕著な精神疾患症状を見せた。

大川周明、頻りに番兵にどなっている。良くないのでなだめんとしても怒憤して答えない。同室の者に聞て見ると発狂したとの事。A組のA組として東条大将と一所に第一回の裁判を受けられ世界の視聴を集める檜舞台に立てるのに、一歩手前で発狂した事は同情に堪えぬ。思想界の大立物、法学博士大川周明氏もこれで事終れりと云うべし。六十年の人生、五・一五の立役者としての華〔々〕しい活動も一切が水泡に帰した。不運な人である。徳が足りなかった。これが欠点であった。
(昭和21年4月27日)


ただ、イカニモな症状だったからか、

昨夜副官が大川博士の室に来て、懲罰の為三食停止一週間の禁足を命じた。未決の者併も狂人に罰則に絶食を申付け運動を禁ずるなんかは人道に反する行為であり狂人以上の沙汰である。
(昭和21年4月28日)

どうも当局には演技を疑われていたようである。

愈大川博士は変になった。早朝より、木戸幸一内大臣を呼べと番兵に申付く。番兵閉口して笑っている。散歩時、隣室の予を呼び、自分は少し気が狂って来たから家へ返(ママ)えるから谷君を呼んでくれと云うから谷寿夫中将を呼んで上げると谷違いで元外務大臣の谷正之氏の事であったから同氏にその旨伝えると狂人さんにはかなわぬと云って相手にならぬ。首に白い毛布を巻き帽子をかむっていた。帰り支度は出来ていた。
(昭和21年4月29日)


この「帰り支度は出来ていた」の一文に、胸がつまる。もともとは優秀な人だったろうに、なんと哀れな。そして、そんな「狂人」の世話も厭わない笹川良一。毀誉褒貶の激しい人だが、男気があったのは確かだ。

大川博士に対しては偽狂人と米軍は見ているらしい。運動させ二階から副官その他が見ている。
(昭和21年5月1日)


大川周明は極東軍事裁判の開廷初日である5月3日に東条英機の頭を2度たたき、翌4日にはドイツ語で「インド人は来たれ、ほかは去れ」と法廷で叫ぶなどし、そのまま米陸軍病院に連れていかれて5日から出廷しなくなっている。後、松沢病院に転院。同病院院長で精神科医の内村祐之の診断は、進行性麻痺だった。金川英雄「大川周明と進行麻痺」によると、巣鴨拘置所に入所する前からすでに症状はあったのだという。1946年12月には改善がみられ、1951年正月には内村祐之も全快と認定。1957年12月24日に、大川周明は自宅で死亡した。享年71。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より。

渡辺、大川、予等が食事配給係り。大川、渡辺両君のめしが不足。副食物にて我慢すると云う。故に予は大川氏が歯が悪いからリンゴナシは食えない為にみかんと交□〔換〕することにしていたから取って置きのみかん一個進呈してめしなしを慰めた。
(略)
今朝より下痢をして閉口。
(昭和20年1月17日)


食事しか楽しみがない場所での「めしなし」。虐待である。

平手大尉裁判九日目と新聞に発表している。何を弁解しているのであろう。軽くなりたい助かりたいのさもしい根情〔ママ〕であろう。それなら虐待せぬが良〔い〕。戦っている時は敵味方であるが一度俘虜になって武器を捨てれば世界兄弟である。何故不足の物質〔資〕で彼等を満足せしめ、感謝させる事が不可能であれば何故精神的糧を与えて満足感謝せしめなかったか。精神的の糧を与えることは上司の許可も必要ない。それもせずしてこの場に臨んでぐづぐづ何を云うか。
(昭和21年1月24日)

「平手大尉」=平手嘉一(ひらてかいち)。昭和17年11月より函館第一俘虜収容所室蘭分所長。収容俘虜500人中53人の死者を出し、捕虜虐待の罪で絞首刑に。享年28。学生時代は野球に打ち込み、昭和8年の全国中等学校優勝野球大会で北海道・野付牛(のつけうし)中(現・北見北斗)のエースとして活躍。刑執行日は昭和21年8月23日、戦後復活した全国高校野球大会の2日後であった。

有馬頼寧氏がふらふらのカラダで訊問より帰えって来た。その姿は同情に価ある。心(ママ)経痛らしい。昨夜も軍医の往診した模様。
(昭和21年2月2日)


有馬頼寧の神経痛は、世間でも結構有名であった。

津田信吾氏病気の為タンカにて搬び出さる。寸刻も早く全治なす様神かけ祈る。皆病気になっても釈放されたい様な顔して病気の津田に同情せず羨ましい様な顔をして見ている。勝手なものである。人間とはかって気儘な動物かな。
(昭和21年2月15日)


当時、津田信吾は64歳。この2年後、昭和23年4月に脳出血で亡くなっている。収監で命を縮めたひとりだろう。

夜中中ドンドンドンドン一時間以上も叩く。皆喧しい喧しいの連発で憤慨す、安眠妨害として。番兵君寝ていたのであろう。やっと起きて見廻った。例に依って有馬頼寧氏神経痛で苦痛せるも注射は二本もすると身体に悪いと云って来ない。注射は打てぬ医者は来ぬと我慢せねばならないが、他人の迷惑なんか考える様な者なら大臣になって国を滅ぼさない。皆閉口する。予は前入獄の際は沢山の病気を持っていた為、検事も判事も執行停止で出所せしむると云ったが、死す共部下より早く出ないと云ってがん張り部下を皆先に出し最後に出で来たから今日になり得た。
(昭和21年4月4日)


ガマンができればいいのだが、有馬頼寧はアヘン中毒である。離脱症状が出たのだろう。ちなみに離脱にかかる期間は個人差があり、数ヶ月から数年間らしい。

さて、「他人の迷惑」なんぞ考えないのは有馬頼寧にとどまらなかった。この日記の最大の見所は、かつての指導者たちの堕ちっぷりなのである。例えば、

食事が不足したとて喧ましい事。番兵君岡田君を通訳させて、食事当番は上手に盛りせぬと食わずにおらねばならぬからとの注意。もっともである。不足する事は正に個人主義となり動物化した何よりの証拠である。大人物が真先に連(ママ)れ、食が無くなると困ると云うので順位の前に割込む。いやしいものである。こうした連中が今日まで日本を支配していたから負けたのだ。
(昭和21年1月22日)


俘虜収容所長の大佐と分所長の大尉の二人は我〔ママ〕鬼同様である。食事取りは監房順なるに食事取りの時に限て多数の人を飛び越えて前の方に行く。後になって不足する事を恐れて。こんな所長は責任を廻避〔す〕る奴である。自分さえ良ければよい主義の人である。亦食〔飯〕盛りが自分の室の者丈けには沢山併もかたまりを、然に他の者には米一粒づつバラバラバラバラと離して盛る故に約量にして半分。
(昭和21年1月23日)


松本〔井〕石根大将と大川周明の二人が大声を出して下手なお経を上げるので皆が喧く止めろと騒ぐ。昨夕天羽英二元情報局長総才<ママ>が予に注意伝言を依頼したからその旨伝言すると、歌っている者があるのにお経がどうしていけないと云う。
(昭和21年4月7日)

夜食事問題で所長に進言する事にして各室毎日上申を書く事にした。処が和知中将と平野大佐の二人はにくまれてはいやだから名前は書かぬと云って若い者一人に名前を書かした。(略)若い者以上に食いたい奴で若い者の為には食事を減せと食(ママ)盛りに申出るか、或いは自らが若い者の為に所長に交渉しなければならない立場の者。しかも両名共比島で俘虜虐待で死刑になる候補者であるにも拘らず、にくまれるから困る、そし若い者以上に食いたい、こんな奴が軍の上にいたから残(ママ)敗したのである。
(昭和21年4月11日)

「平野大佐」=平野庫太郎。バターン死の行進の指揮隊長。捕虜虐待の罪で有罪となり、絞首刑。

高橋三吉大将を始め老人連中は風呂の中でせっけんを顔一ぱいに付けて髪を剃り、剃った髪を風〔呂〕の中で洗い甚しきに至っては褌の洗濯までなす。自分さえよければ他人の迷惑の如き目中にない。これが敗戦第一の原因だと知った。こんな連中の講演を聞いたり、書を高い金出して表装して大事に掲げている人こそ憫れである。
(昭和21年4月25日)


今朝は向側の若い連中が、島〔嶋〕田大将の如きは特別食事が多い、敗け戦さの責任者を食<ママ>盛りが優遇するとは何事かと憤慨しつつ我の方の者に聴てくれと云わぬばかりに語りつつ食事を持ちかえる。ここにも敗戦の原因あり。陸海共に最高の人は個人主義であった。
(昭和21年4月26日)


高橋三吉大将が相変わらず風呂の中で髪を剃るから、向側の人が汚くて困ると憤慨しているから風呂の中を汚くする事を止めようじゃないかと提言するも止めず。予が上りかけて後、今日の若い者は駄目ですと俘虜虐待で近々首の飛ぶ大佐が高橋大将に語っている。(略)敬老主義者の予も閉口。
(昭和21年5月2日)


ザマない、の一言である。間近でその体たらくを見た者の幻滅はさぞ大きかったであろう。戦後の笹川良一は、国政に一切関わろうとしなかったが、その理由もわかろうというものである。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より。

以下はBC級戦犯容疑者、「沖縄宮古島にいた海軍士官十八名」についての記載。
宮古島には特攻基地があり、「昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた」。島民は軍に土地を奪われ、飛行場建設などにコキ使われたのみならず、連合軍の集中的な空爆で命を落とした。総務省の統計では民間人約3300人が空爆死したとされるが、正確な死者数は今もわからないという。

沖縄宮古島にいた海軍士官十八名は浜松の中野、浜(ママ)潟の渡〔辺〕君等、福岡〔に〕八雲で上陸した翌日勾引されてここに来たと云う。何も知らない調査の士官も君等悪い事ないから二三日で帰えすと云っている。この後に一週間たっても帰さぬと云う。如何にする積であろうか。米国の為に悲む。
中野勝平 医大尉 浜松市
渡辺利夫 中尉 飛行機制(ママ)備 新潟県新津
(昭和20年12月29日)


宮古島は、しかし、陸上戦はなかった。
日本軍は負けっぱなし、よって連合軍捕虜はいないし、B級C級、いずれの容疑も発生しようがない。
翌年1月5日の日記には「中野君等は福岡港へ到着するなり拘禁手錠をはめられて東京へ来た」とあるから、戦争犯罪人リストには上がっていたのだろう。何らかの犯罪によって、もしくは、情報入手のために。

中村(ママ)、渡辺、清水君等、に悪い事がないから近日帰えすと云っているが、悪い事ない事が判明すれば即時だしてやればいいのに。正月を娑婆でさせてやればよいのに。スピードの米国にもこんな事があるか。米人の人権を重んずるなら他国人の人権をも同様に尊重すべきである。
(昭和20年12月31日)


笹川の言うとおりである。しかも、辻政信みたいな“絶対悪”(by 半藤一利)には逃げられてるし。
これは憶測だが、極東軍事裁判の最大の目的は占領政策のスムースな遂行であったのだと思う。だから国外にいる辻なんぞはどうでも良かったし、天皇は占領政策に協力的であったから訴追せず、ジャマな人間は拘置所に押し込み、さらに公職追放もしたのだろう。

注射の為発熱した。気分至極悪し。
(昭和21年1月5日)


笹川良一いわく「瘰癧、肋膜、糖尿、肝臓の病気」を持っているという(昭和18年2月9日、第81回帝国議会予算委員会)。とすると肝代謝型の薬は要注意のはずだが、既往症などちゃんとチェックしたのか。

小坂銅山倉田衛生伍長は、米国軍医が俘虜病人に薬を与えたがらぬのを倉田は喧く交渉して多く薬を与えて肺炎患者を看護して助けたと高橋兵長が予に語る。その倉田が容疑者として拘禁中。功に報ゆるに罰を以てしている。
(昭和21年1月10日)


「倉田衛生伍長」=倉田政之助。仙台俘虜収容所第8分所虐待事件被告で、判決は懲役3年だった。

昨日の朝日新聞に海軍軍医大尉大滝紀雄氏が巣鴨獄中記を話(ママ)った。所長の事を賞賛しているが在獄中は憤慨ばかりしていた。一歩娑婆に出れば個人主義の阿諛迎合者になる。皆大憤慨。職業軍人はこんな者ばかりだか〔ら〕敗戦したのである。
(昭和21年1月16日)


重光葵は仮釈放時、“法務局の人”にマッカーサーへの感謝をマスコミに言うよう要請されて憤慨しているが、大滝紀雄氏も要請されたクチなのかもしれない。

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川良一「巣鴨日記」より、医療関連の記載を中心に抜粋。

昭和20年12月の入所当時、笹川良一は46歳であった。持病は糖尿病、頸部リンパ節結核、肝疾患など。容疑はA級戦犯で後に不起訴となり、昭和23年12月に釈放。裁判ナシで3年間の禁固刑を喰らったのと同じである。占領軍を非難する演説を大々的に行って自ら逮捕されることを要望していた笹川も、まさか3年も収監されるとは思わなかったのではないか(大体、占領期間が7年に及ぶなどと日本人の誰が予想できただろうか)。占領側にしてみれば、笹川良一の利用価値がそれほど高かった、ということなのかもしれない。

IMG_0006_NEW
▲念願かなっての入獄に、事務所前で万歳をする笹川一家

他戦犯たちの数ある巣鴨日記と比較した場合、笹川日記に特徴的なのはBC戦犯容疑者たちについての記載が多いことである。不安がる新参者に対して、笹川は親切で優しい。生来の親分肌だったのだろう。

以下は、俘虜収容所の医療担当者が敗戦後、俘虜に告訴されたケース。

秋田県小坂銅山の男下士四年で満期となり喜んでいたら一寸こい。医療の方の係。何故薬をやらなかったかと訊いたが無いからやれない。俘虜帰国に際し手紙出すと云って帰□□と。少しも悪い事はしていないと思っていると云う。当然である。参考人迄戦争犯罪容疑者と発表するは残酷である。名誉毀損せらるる。
(昭和21年12月24日)


小坂銅山は戦時中、仙台俘虜収容所第8分所であった。使役企業は藤田組。昭和20年2月から8月の間にアメリカ人捕虜8名が死んでいる。死因をみると4名が脚気、その他は食中毒、肺炎、血栓の化膿、リンパ性肉腫が各1名。脚気死亡の多さから、環境の劣悪さ(低栄養、重労働)が推測される。医療も不十分で、それ以上に説明不足も過ぎたのだろう。俘虜の怒りを買うほどに。

先日佐々木第三生(ママ)から頂たチ(ママ)コレート1/3を大川氏に頒けた。大変の喜び。その返礼として歯が悪いからリンゴが食えぬから残しておいたのでそれを三個くれたから又返礼として歯が悪くてもミカンなら食えるだろうから三個と、タバコも歯には無関係であるから六本与えた。
(昭和21年12月24日)


「大川氏」は大川周明。笹川良一とは1階の雑居房で一緒であった。この時59歳。

Okawa_Shumei
大川周明――歯は悪そうだ。いくつの時の写真かわからないが。

なお、日独伊三国軍事同盟締結時の駐イタリア特命全権大使、天羽英二も同室であった。笹川良一は、巣鴨拘置所を「人生最高大学」と呼んでいたが、確かに、ここで得たアレコレが出所後に大変役立ったであろうことは想像に難くない。

19950719笹川訃報
▲笹川良一の訃報記事(朝日新聞)

巣鴨プリズンの医療事情 笹川良一

笹川君が十八回も調べられたとか、軍の事をすっぱぬいているらしい。
(昭和21年3月11日、有馬頼寧日記 


昭和21年12月11日、笹川良一は巣鴨プリズンに収容された。

安藤紀三郎大倉邦彦池崎忠孝と他に俘虜虐待の三名の兵士と七名。その内一名の兵士は大阪港区の男。一ヶ月前に容疑者として新聞に発表されていたから拘引状も何も来ないが自首したと云う。これが日本人である。
(昭和21年12月11日、笹川良一「巣鴨日記」)


笹川良一は明治32年生まれの政治家、実業家、社会奉仕活動家である。
尋常高等小学校卒の学歴で衆議院議員になり、戦前は国粋大衆党党首、戦後は日本傷痍軍人会や日本船舶振興会(現・日本財団)の会長を務めた。一般によく知られているのは、「戸締り用心、火の用心」という日本船舶振興会のCMで「一日一善!」と叫んでいたアノおじいさんということだろうが、巣鴨プリズン収容当時は46歳である。ピチピチの男盛りであった。
過去の新聞記事などをみると、ケナされるかケチがつけられるかのどちらかなのが笑える。
昭和51年3月11日
▲CMに“お前が言うな”(昭和51年3月11日付朝日新聞)

昭和53年7月1日
▲叙勲にも抗議(昭和53年7月1日付朝日新聞)

昭和55年4月21日
▲競艇と金で固めた“人類愛”(昭和55年4月21日付朝日新聞)

昭和62年12月27日
▲侵略の道へ日本を導く(昭和62年12月27日付朝日新聞)

さて、わたくしは新聞を全然読まない。ので、笹川良一がA級戦犯容疑者だったのを知ったのはこの「巣鴨日記」からであった。
えっ、あんな小物が? 
と、まずは驚く。
戦前は国粋大衆党党首で衆議院議員、飛行機でイタリアに飛んでムッソリーニに会見したなど派手にやっていた笹川だが、戦時の国政には全然関与していない。笹川が衆議院議員になったのは翼賛選挙だし、それも東条内閣に批判的であったために非推薦であった。戦後は占領軍を盛んに批判して戦犯志願を表明し、それが奏効したわけでもないだろうが(笹川の戦犯指名は民間諜報局〔CIS〕の調査による)、見事にA級戦犯容疑者となり、今度は獄中で言うべきことを言い、やるべきことをやった。例えば、戦犯者の人権擁護、待遇改善などを要望する手紙を現在の指導者たち(例:マッカーサー、トルーマンetc)に盛んに出した。
笹川は、獄内でも意気軒昂であった。
シャバでは野蛮で下品で露悪的で敵も多かっただろうが(そのひとつがマスコミ)、学歴、地位、家柄などあらゆる虚飾が剥ぎ取られる獄内では笹川のような「純粋野人」(笹川良一「巣鴨の表情」)こそ輝いたのだろう。もっと具体的にいうと、全裸でよつんばいになって尻の穴をのぞかれてもプライドや屈託のなさを失わなかった男、それが笹川良一である。一方、かつてはエラそうだった連中――政治家、官僚、軍人、学者etc――は驚くほど憔悴し、ショボくれ、メシの多少に汲々とし、若い者から食事をかすめ取り、恨みを買いたくないといって占領者側にするべき要求をすることもなく、風呂の中でフンドシを洗ったり、庭で文字通りのヤケクソをたれたりと実にザマない。戦後の笹川が表立って国政に関わろうとしなかったのも、この日記を読めば推測できる。すなわち、笹川はエラそうな連中の裏を、もしくは本質を見て、嫌気が差したのである。

IMG_0003_NEW
▲ムッソリーニと並んで見劣りしない、この貫禄。

そんな意気軒昂な笹川良一だったが、病身でもあった。
昭和18年2月9日、第81回帝国議会予算委員会第一分科会における笹川良一の発言を見ると「私は瘰癧、肋膜、糖尿、肝臓の病気を持って居ります」とある。ちなみにこの発言は獄内医療の改善を訴えるもので、笹川は過去の投獄経験から、それを主張したのであった。
とすると、笹川は頸部リンパ節結核や肋膜炎、肝疾患、糖尿病を抱えて昭和20年12月〜昭和23年12月まで3年間にわたる獄中生活を送ったことになる。ちなみに、歯科のかかりつけは「大阪浜野歯科医」(自宅は西宮市)だったようだが、治療などについての記載はない。もっとも、残っている日記は昭和21年11月20日まで。96歳で亡くなった際には、ゴールドの総義歯を使用していた。

十二時半に昼食を御馳走になり、身体検査後種痘と予防注射二本をしてくれ、体温、血圧迄計ってくれたが体重と身長とは計らなかった。此点日本と違う処。亦一番不思議なのは大事な人身を拘禁するに当て聴取書一枚取らない。日本でさえ起訴状を読み聴かせ捺印後収容する。然に世界一人権を尊重する米国が此の様な方法で人身を拘禁しているとすれば正に日本以下である。若し我等に対して而已(のみ)この扱方をしたとすれば正義人道主義の米国の為に悲む。
(昭和21年12月11日)


初日に打たれた「予防注射二本」とは。インフルエンザ、日本脳炎、結核、破傷風、肝炎、肺炎……笹川の既往症から考えれば、どれもうかつには打てなさそうだが。
笹川良一は親米派であった。だが「正義人道主義の米国」などデマかプロパガンダであったと、獄中の笹川は思い知らされる。笹川は日系二世の米人兵士に暴力を振われ、苛酷な労働を課され、そして、この虐待を生き抜くのである。

風見章と歯痛

「風見章日記・関係資料 1936-1947」(2008年)より。
昭和20年2月には、歯痛から蜂窩織炎を発症した息子「三郎」がまた、済生会芝病院で眼の治療を受けている。そこで風見は、空襲で死んだ歯科医師の話を聞いた。

三郎済生会病院の山崎医師訪問、その折先日のB29来襲当時青山六丁目の小竹歯科医宅に被害あり、夫人死亡。主人顔面負傷の事を伝聞したりと報ず。
(昭和20年2月21日)


空襲があったのは、2月19日の午後である。
医療関係者は、疎開を許されなかった。空襲で死んだ者は多かったであろう。有馬頼寧の妾・福田次恵の兄は徳山市医師会会長も務めた引間正中・医師だが、引間医師も患者を避難させる最中に爆撃され、壮絶な死を遂げている。
さて、品川区東大崎に住んでいた風見家は3月18日、強制疎開の通告を受けた。
25日までに立ち退け、というのである。風見一家は風見章の郷里である水海道市に疎開し、そのまま敗戦を迎える。

中村歯科にて歯の治療開始。
(昭和20年8月30日)


水海道でのかかりつけは「中村歯科」である。

歯は十四日に全部手入ずみ。
(昭和20年9月13日)


「手入」とはメンテナンスだろうか。
次の日記は、例の「中村歯科」医師が訪問してきたという記載。風見章は、村の名士になっていたのかもしれない。

飯田老人(真瀬村)中村歯科医来訪。
(昭和20年11月3日)


なお、風見章は内閣書記官長時代(昭和12年6月〜昭和14年1月)には、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)で歯科治療を受けていた。
昭和22年2月26日、東京を訪れた風見はその「歯科専門学校の治療室」が焼失し、「コンクリート建の校舎だけが残っている」のを確認している。ただし同校は歯科診療を続けていたようで、緒方竹虎が「お茶の水の歯科専門学校へ歯の治療に行くというので同道」してもいる。緒方竹虎は、当時59歳。恐らく、もう義歯だったのだろう。




風見章と歯痛

「風見章日記・関係資料 1936-1947」(2008年)より。

七月 東条首相新潟に旅行し、例の如く朝の散歩に出て小学生を捉え、「よく書をよめよ」と訓えたるに、その子不機嫌そうに、「本はねいや」と答えたる由。地方にて本年度の教科書今尚お満足に配給されていない。印刷の遅延のためである。
(昭和17年7月)


昭和17年、日本は学童に教科書を配る経済力も失っていた。そして病は、貧しい時も容赦なく人を襲うのである。
昭和18年7月に、風見章は歯科に通いだす。この時、57歳。

佐々弘雄氏、加藤政治氏、塚原俊夫〔郎〕氏、川口美三夫氏来訪。
歯の治療開始。
(昭和18年3月23日)


来訪者は、みな新聞関係者のようである。
佐々弘雄は朝日新聞論説委員で、尾崎秀実らが主催した朝食会のメンバー。加藤政治は東京新聞記者で、横浜事件の被害者。塚原俊郎は同盟通信社の記者で、戦後は労働大臣にもなっている。

交詢社行、歯治療。
(昭和18年3月30日)


通っているのは、恐らく交詢社ビルの加藤歯科。
次の歯科受診は5月である。

歯医者行。
(昭和18年5月10日)


すでに極端な物不足となり、「水海道地方にて、犬を葬れば必ずその翌日は墓をあばくとの事なり。死犬の肉を市に売るなり」。日本人は死んだ犬の肉まで食っていた。
食うに食えない時代、歯科疾患は減ったのかどうか。

歯治療。
卵のヤミ相場一ケ四十銭以上なりという。
(昭和18年5月25日)


闇値は高騰。昭和19年の東京における卵の平均小売価格は、100匁(375g)で59銭である。100匁は小さめの卵7個程度だ。つまり、ヤミ相場は公称価格の5倍。
歯科治療費はどうだったのだろう。動力源がないので、義歯をつくるには患者に炭を持ってこさせたという話もあるが。
次は夏。

歯医者行。
とし子白服となる。
(昭和18年6月1日)


そして1年の間が空いて、ふたたびの夏。

歯医者に行く。
(昭和19年8月23日)


風見章は、58歳になっている。

歯医者に行く。
(昭和19年8月25日)


この時、すでにサイパンは陥落し、東条内閣は総辞職していた。

歯医者行。元気とみに回復。
(昭和19年8月28日)


「元気とみに回復」とあるのは、この1週間前の21日に受診しているからである。主訴は排尿時の疼痛で、尿を「瓶にとりみるに、ボロ屑の如きもの排出す」。尿には血液も交じっていた。膀胱炎か、前立腺炎か。

歯手入終了。
(昭和19年9月1日)


「歯手入」は、定期検査なのだろうか。それとも義歯の手入れ?
この頃の風見章は敗戦を予測し、ソ連の参戦まで見越している。

すでにナチスドイツ政権崩壊して独ソ戦終結を告ぐるにいたらば、ソ連は米英の味方として太平洋戦争に参加するとして、如何なる機会に、如何なる方途を以て参加を具体化するであろうか。
(昭和19年9月27日、論考「ソ連と太平洋戦争との関連についての若干の考察」)


この意見はもっともというか、フツーに常識的だと思う。独ソ戦が終わったらソ連が太平洋戦争に参加してくるぐらい、一般ピープルでも予想しそうなものではないか。況や政治家においておや。なんでソ連に米英との講和の仲立ちを頼めると、時の政府は考えたのだろう。いや、親ソ派はいた。しかしソ連の仲立ちを実現するのであれば、尾崎秀実らを処刑している場合ではなかった。

歯の手入れ終わる。
(昭和19年10月23日)


昭和19年の世相について、風見章はこう書いている。

この春、真壁郡紫尾村の酒寄利左衛門氏が訪ねて来た折、口に出していうべきことではないが内密に聴いて貰いたい。実は村内九割まではその心の中では、戦さはどうなろうと自分達の知ったことではない。勝っても敗けても、自分達には同じことだと考えている。これが偽らざる実情であるが、こんなことでは戦さは勝てるだろうかと、しみじみ述懐していた。いうまでもなく、彼等をしてかかる考えをいだかしめるのは、生活が苦しいからである。
(昭和19年10月〜11月、手記「随時随想(二)昭和十九年十月)


結城郡岡田村の「麦の供出割当に関する協議会」では、ひとりの老人が「小児にさえ満足に食べさせられないという有様では、戦争などやめてしまった方がいいと公然叫んだ」。地方事務所の官吏や警察署長が同席する会合で、である。戦時下最大の言論弾圧事件「横浜事件」の背景には、こんな背景もあった。

風見章と歯痛

「風見章日記・関係資料 1936-1947」(2008年)より。
戦後に風見章が書いた手記「昭和二十一〔二〕年二月末(1947年)G・H・Q行」の「余禄」に、息子「三郎」が歯痛から蜂窩織炎を発症した経緯に触れてある。

この看板を見て思い出したのは、昭和14年の末、三郎が歯の治療がもとで蜂窩織炎にかかり、ついにはい血症を起して九死一生の大病をわづらったことである。歯の治療をうけて帰って来た三郎が、治療あとがいたくてたまらぬと訴えるのを、まさか肺炎菌がその治療あとからはいって大病になりかけていようとは夢にも気がつかず、そのうちよくなるだろうと一晩辛抱させたが、どうやら苦み方がはげしいので邸前の阿万医師に来てもらったところ、これは一つ眼科の然るべき医者に見てもらってくれという。さては事容易ならず、だれか信頼出来る眼科医をと物色してみたが俄かには思い浮ばず、厚生省の勝俣氏に電話してその推せん方を依頼した。すると勝俣氏は、それこそ済生会病院の眼科部長の山崎順氏こそ一番だ、しかも茨城県出身である、自分がかけあってやろうというので直ぐに山崎氏に連絡をとってくれた。山崎氏は来宅しや〔ママ〕三郎を一眼見るや、これは即時入院が必要だとて用意した自動車に自分で抱きかかえてすぐに病院へ同行してくれた。


救急車は検討していない。東京市で救急車による救急業務が始まったのは昭和11年。が、一般的ではなかったのか。

恰かも予はその日午後三時に華族会館で近衛公と会見する約束であった上、その夜はたまたま支邦からかえって来た故柳町精氏歓迎のために、この料亭で佐々弘雅氏や林広吉氏などをも招き一会を催すことを約束していた。そこで三郎を入院させてから近衛公とあい、その歓迎会にのぞんでかえりに三郎の病室をたづねたのだが、今や九死一生の重態だとはこのとき始めて聞かされたのである。三郎が好きだからというので、かえりに折角この店から持参したこちのさしみも、ついに三郎は口に通す力もなくなっていた。今考えても、よくも助かったと思う。当時をかえりみると今でもぞっとする。


昭和14年末時点では、まだ社会状況がそれほどの逼迫を見ていなかったのも幸いしたのだろう。

その頃はまだ、自動車を走らすのに不自由でなかったことが思い出される。三郎の病中危険状態にあった何日間かは、毎日三台の自動車を玄関に用意して置けた。


参考:歯性感染症(慶應義塾大学病院 医療・健康情報サイト)

風見章と歯痛

「風見章日記・関係資料 1936-1947」(2008年)より。

三郎中途退け也。
午後二時目黒駅前にて三郎の帰りを待ち合わせて病院に同伴、山崎順博士に面会。三郎眼鏡出来し、これをかく。右近視につき作製せるなり。左目開閉自由なれども、尚お三四ミル高く、ために繃帯したまま也。山崎博士の言によれば、三月一杯位は繃帯の必要あるべしのこと也。又左眼は漸次低下する見込なりと。又左眼上の切開口は整形成りて切開口のみ目立つ。眼下の分は尚お少量膿汁を見る。鼻柱の左側の傷口も塞がり、その内部の膿は漸次内部組織に吸収せしむるの手当方針なりとのことなり。
夜寒つよし。
(昭和15年2月22日)


三郎の視力はまだ安定していない。メガネはつくり直しなのだろう。まだメガネは高価であり、貴金属や宝石とともに販売されたりしていた。

三郎登院。正午自動車にて学習院に行き、直ちに病院行。歯鼻及び眼ともに手当す。眼下切口より膿排出す、但し心配することはなき由也。経過順調也。よし子は午後一時より三郎のため父兄会に出席し、四時帰宅。
(昭和15年2月24日)


「歯鼻及び眼」で、別々の科にかかるのだろうか。大変だ。
しかし、風見章が息子を学習院に通わせていたのは少々意外であった。野人なのに。華族制度改革を遣ろうとしていた有馬頼寧は、息子の頼義を学習院に通わせなかったが。

よし子、山崎博士外済生会の歯科、耳鼻科、外各部長の私宅にお礼に廻る。
(略)
夜八時半頃、三郎元気なれども鼻柱少しはれたる模様に見うけられしため、一家驚いて山崎博士の来診を乞う。山崎博士九時五十分来訪、別に異状なしとのことに驚きたるも、馬鹿々々しけれども安堵就寝。風強し。
(昭和15年2月25日)


患者が、医師の「私宅」にお礼に行く時代であった。

今日はよし子、三郎を迎いに行き、病院に廻る。今日は外科部長島田氏診察手当す。
(昭和15年2月26日)


とし子、三郎をむかいに行く。左眼横鼻柱の旧手術口を山崎博士開切す。帰宅後三郎即時就寝。但し心配なしとのこと也。八時頃痛むやも知れずとて鎮痛剤を貰い来れるもその必要なく、よく眠れり。
(昭和15年2月28日)


山崎順博士は、自宅でも診察を行っている。勤務医だが。診察料は病院を通さずに受け取るのだろうか。

三郎全科を了えて元気にかえる。五時山崎博士自宅に行き、診察をうく。予同行
(昭和15年2月29日)


編者の註として「『三郎闘病記』は省略した。」とあるので、さらに詳しい原本があったもよう。歴史や政治への興味から読まれることが多いのだろうから、身辺雑記的なものが削除されがちなのは仕方なし。
さて、昭和15年といえば7月に近衛第2次内閣が発足している。風見章は司法相となり、9月には日独伊三国同盟に署名している。

風見章と歯痛

「風見章日記・関係資料 1936-1947」(2008年)より。

風見章の息子「三郎」は、大正15年生まれである。昭和14年には13歳で、学習院中等科に通っている。

九時頃かえる。三郎歯痛より眼の苦痛を訴う。阿万医師をよぶ。夜半三郎眼の苦痛を訴う。よし子徹宵看護す。
(昭和14年12月27日)


歯痛と眼痛。こういう場合、歯科と眼科のどちらに行けばいいのか。
「阿万医師」=阿万惣次郎医師。かかりつけの、多分内科医。風見家のすぐ前で開業していたらしい。なお、風見家は品川区東大崎にあった。
「よし子」は風見章の妻で、正しくは“よしの”。
よしの子、という記載もある。どうもこの頃は、女子の名前に子をつけると高貴な、いわゆる皇族感が出たようである。今やヨーコだのアキコだのミチコだのは、キラキラネームならぬシワシワネームなどと呼ばれているが、キラキラしていた時代もあったのである。

三郎眼の苦痛甚し。朝阿万医師来診、眼科医の立会診察を求む。即ち志富氏をして三廼博士をたづねしめしに不在也。厚生省の勝俣氏を煩わし、済生会の山崎順博士の来診を乞う。午後一時来診、即刻入院と決し、午後二時半頃家を出で、済生会病院に入院。よし子、まさ同道、午後三時病院着。余は先約ありて東京クラブに近衛公を訪問(病院より直行)。
三郎の病気は眼窩蜂窩〔窼〕織炎と判断され、直ちに重態となる。敗血症に陥れるなり。一家愕然。
(昭和14年12月28日)


「三廼博士」=三廼俊一・博士は、白木屋眼科の眼科医。白木屋は恐らく日本橋にあったデパートの白木屋だろう。風見章はこの白木屋眼科でメガネをつくっている。

参考:眼窩蜂窩織炎(がんかほうかしきえん)

以下は、後日まとめて書いた追記。

〔一九四〇年一月〕
三郎重態。一日全く危篤也。近親に打電す。二日益々危険状態となる。三時頃よし子、博太郎等と葬儀につき相談す。二日午後五時頃に至り、三郎生気をとりかえす。三日危険状態也。この夜右眼あやうしと宣告さる。博太郎と四日午前右眼手術とならば失明すべき危険ありとのことに後事を考慮するため、夜半帰宅。精二病院にて母を手伝う。丗一日夜来とし子、夜は精二と家に在り、三日夜は博太郎とねる。
四日午前病状より右眼手術中止す。爾来漸次生気をとり戻す。博太郎の血液を三郎に輸血す。第一回は二日午前也。第二回は四日午後、六日精二の血を輸血す。三郎はA型、予及博太郎A型、精二はB型也。
八日博太郎帰任の途につく。


「博太郎」は長男、「精二」は次男で、それぞれ23歳、18歳である。三郎は2月7日に退院し、2月19日には登校している。危機は脱したのであった。

ちなみに、この三郎が退院し快方に向かっている頃、有馬頼寧は政治評論家の木舎幾三郎より風見章の衆議院議員辞職の話を聞いている(昭和15年2月15日、有馬頼寧日記ぁ法が、風見章日記に関連の記載はナシ。ただのウワサだったのか。

風見章と歯痛

「風見章日記・関係資料 1936-1947」(2008年)より、日記から歯科受診部分を抜粋。

防空演習終了。
交詢社ビル加藤歯科にて右上奥歯治療開始。
(昭和14年10月30日)


第二次世界大戦が勃発したのは昭和14年9月、その翌月に風見章は歯痛を起していた。当時、53歳。第一次近衛文麿内閣は5月に総辞職しているが、風見は近衛と複数回会っており、情報収集など内閣書記官長的な仕事は続いていた。

沢藤氏に書信。昨日来遊を求むる電報あり、その返事也。歯の治療のため当分行けざる旨申送る。滝本三郎氏にも同様返書。
正午延寿春、細川嘉六山浦貫一岩淵辰雄尾崎秀実同席。
(昭和14年10月31日)


「滝本三郎」は、新東洋硝子労働組合の組合長。
「延寿春」は築地にあった中華料理屋。会合によく利用していた店だった。これらの人々は朝飯会のメンバーでもある。そのうちのひとり、細川嘉六は9月22日、風見の要請で行った農村視察の報告を日本クラブで行っている。細川の報告いわく「一、現在の経営形体における負担は限度に達したること。一、非戦的意識の発生漸く顕著にして、その傾向は漸次に昂まりつつあること。」。
物価高、日中戦争の泥沼化で農村の貧困は酸鼻をきわめ、厭戦、いや嫌戦ムードになっていた。この状態が嵩じれば共産主義革命が起こる懸念もあったわけである。危険を察知した風間は、細川嘉六が直接、近衛に報告する機会を設ける(9月30日、華族会館)。が、尾崎秀実より「細川嘉六氏の話はつまらなかった」と近衛が言っていたと聞き、風見はいたく失望する。

話術下手なりとも深刻なる細川氏の話がつまらぬとありては、政治的感覚を疑わざるを得ざるに至る。農村の事情は遂に近衛公をして斯くの如くんば、余は元より言うに足らざる也。国政の前途、ついに戦慄を禁じ得ざる也。
(昭和14年10月12日)

近衛文麿は強いもの(例:軍部)に流される政治家であったが、しかし、弱いものに優しいわけでもなかった。というか、弱いものに優しくあるには強靭でしたたかでなければダメなのだろう。

歯痛甚だし。食欲絶無なり。
交詢社にて杉浦真鉄、同息、及水海道中学校長中山氏と面会す。
志富氏かえる。
花見氏来訪。
夕刻歯痛緩和す。
(昭和14年10月31日)


野人も、歯痛にはかなわなかった。

杉浦真鉄は、国粋主義者の杉浦重剛の息子か。
杉浦重剛は日本中学校(現・日本学園)の創設者。
「志富氏」は、風見章の私設秘書、志富靭負

歯石犬歯ぬけあと入歯完了。
(昭和14年11月6日)


犬歯を抜いた後、差し歯をしたのか? いきなり義歯ができあがってる?
11月4日に交詢社に行っているので、ついでに歯科受診もした可能性もある。
その2日後に、歯科を受診している。

加藤歯科にて右上奥歯を一本抜く。
(昭和14年11月8日)


抜いたのは、10月30日に治療を開始した「右上奥歯」か。治療失敗?
その次の受診は、ひと月後。
この間、風見章は有馬頼寧や後藤隆之介らと新しい国民組織をつくることについて会談している(11月20日)。

午前十一時歯医者に行く。
(昭和14年12月15日)


義歯製作のための印象を採ったようだ。

入歯完成。
(昭和14年12月26日)


この翌日、息子「三郎」が歯痛を訴える。まさかこの歯痛が生死を脅かす大病に発展するとは、風見は夢にも思わなかった。

風見章と歯痛

風見章(1886〜1961)は昭和5年に衆議院議員(立憲民政党)に当選して政界に進出した政治家である。昭和12年近衛内閣の第1次で書記官長、昭和15年第2次で司法相を務めた。ニックネームは「野人」。百姓の家の出で、それを風見自身が誇りにしていたところからの自称である。気さくで、新聞記者連に大変人気があったという。
風見章自身、政治家になる前は新聞記者だった。
2008年に出た「風見章日記・関係資料 1936-1947」(みすず書房)を見ればなるほど、簡潔で要点を衝く記者的文章である。政治家時代――、例えば盧溝橋事件の戦争化や、新体制運動から大政翼賛会への過程etcを知りたくて手に取った同書であるが、信濃毎日新聞時代の回想も面白かった。
以下は、関東大震災における朝鮮人虐殺の風景である。

熊谷町役場の前にさしかかると、大道に何十となく菰をかけたままの死体がならんでいた。まことに凄惨な光景である。急いで通りぬけて、一目しか見なくとも気持が悪くなるほどなのに、その近くでオートバイが多分子供に前を横切られたためであったように思う、一寸止まったので後ろをふりむくと、子供を背に負った婦人達が二三人、その死体に唾を吐きかけながら、何というひどい鮮人めだと叫びあっているのを耳にした。
熊谷の町はづれで昼食をとった、その茶店の主人の話によると、昨夜朝鮮人が此の町へ押しかけて来たので、町民一同でそれをとらえ征伐したのだ、中には住民の家の下にもぐりこむものもあったので、その退治には相当骨が折れたといっていたが、まるで兎狩りで兎を見つけただけ捕えてやったといったような得意の口吻であった。
(手記「信毎時代」)

これはひどい。風見が見た朝鮮人の死体は、「鮮人狩り」で追われ、保護を求めてきた朝鮮人を警察署にかくまったものの、住民から引きずり出されてことごとく殺されたものたちという。

死刑に処せられたのは鮮人だけではない。自警団が宿屋を点検した折に怪しいと睨まれたものは、何の陳弁もゆるされず、同様の運命に陥ったのである。それがために日本人たる所学史絵や大学生などでも、ここで非業の最後を遂げたものが何人かあったことを聞いた。
土浦町でもそこへ避難した学生が九州弁なのを聞きなれぬところから、自警団員が鮮人だと思いこんでしまって、ついにこれを撲殺してしまった。
本所深川辺では捕えた鮮人を針金で電柱に括り付け、惨虐のかぎりを尽して死刑に処した例をいくるか目撃したものもあった。
荒川放水路の顆粒では惨殺した鮮人を川に投げこみ、群をなしたその屍体に油をかけて焼いたそうである。


いわゆる“不逞鮮人が井戸に毒を投げ込むといった”デマは、「朝鮮人問題」として新聞が報道するまでになっていた。

何処の新聞は鮮人を鏖殺すべしと堂々と論説をかかげて反鮮人熱を煽った。

当時信濃毎日新聞の主筆であった風見章は、この「朝鮮人問題」を取り上げなかった。記者連には不満を見せるものもいたが、風間は応じない。ここでも厄介なのは、「反鮮人熱」に浮かされた民衆である。

眼の色かえて、何故信毎は鮮人問題を取りあげて書かぬかと談判に来るものが、一日に一人や二人は必ずあった。説いても語っても反省の余裕を失っている連中なので手がつけられない。まかり間違えば、何を遣りだすか判らぬと思われるほど昂奮しきっている連中なので、もしかすると私の不在中に自宅に押しかけて談判を申込むかも知れぬとも想われたので、一時私は表札を外したほどである。


恐るべし日本民衆。これを読むと、年金や献金などなどの政治問題に対しておとなしい、今の日本人が不思議なのだが。福島原発事故による被害に対しても。関東一帯の人間が暴動を起してもいいくらいの大公害だろう、フクイチ事故は。

日本人は惨忍性に乏しいと人も信じ、自からも信じていたのであったが、鮮人騒ぎではそうでもないということを眼のあたりに見せつけられたので、いわゆる幻滅の悲哀を味わざるを得なかった。


日本人の惨忍性は、しかし、歴史上にそれを示す例は多々ある。戊辰戦争とか、島原の乱とか。特に戦争が民衆化(総力戦化)していくに従い、かつての殺しのプロが持っていた“武士の情け”(=一種の人権意識)がなくなっていく感がある。人権意識がなく、差別感情のあるシロウトのほうがプロよりも恐いし、タチも悪い。
次回は日記より、「歯痛」部分を抜粋。風見の息子は、歯科感染症で死ぬ目に遭っていた。歯痛は侮れない。

有馬伯爵の口腔事情・番外編 帝国水産と白洲次郎

昭和17年12月、有馬頼寧は帝国水産統制株式会社(以下、帝国水産)の社長となった
帝国水産は現・株式会社ニチレイの前身。国家総動員法に基づく戦時法規「水産統制令」により設立された会社のひとつで、水産物加工や冷蔵の中央統制機関である(あともう1社は海洋漁業株式会社)。その理事には時の農相・井野碩哉の肝煎りで白洲次郎が就任しており、白洲の「親米的」な発言を有馬はたびたび聞きとがめている。

専務も白洲君の事を心配して居た。私も先日来親米的な言辞が気になって居た。他へ移るのが本人の為めにもよい思う。
(昭和18年8月11日)

「専務」は、元日本水産専務の西村有作で、現帝国水産専務理事。日本水産は水産統制令により、冷蔵・販売部門を帝国水産に譲渡した。
白洲次郎は昭和12年4月に日本水産の取締役に就任しており、

04
▲1937年4月1日付朝日新聞
西村とは旧知の間柄だった。

白洲君は今のうちにやめたらという。此人のいうことよくわからず。
(昭和19年2月23日)


白洲君より空襲の危険迫った話あり。
(昭和19年2月28日)

昭和19年3月には台湾と九州の各都市が空襲されている。

白洲君相変らず面白くない話ばかり。
(昭和19年3月11日)

NHKのドラマ「白洲次郎」にも、帝国水産における有馬頼寧と白洲次郎の関わりが書かれていた。白洲次郎が形骸化した帝国水産理事会の必要性について同社社長の有馬頼寧に問う、みたいなシーンである。ほんのチラッとであり、このシーンの必要性をむしろ問いたいぐらいの軽さであった。
白洲次郎を演じたのは伊勢谷友介である。悪くはなかったが、線が細すぎた。これは役者の責任ではなく(いや、見た目も細すぎたが)、脚本の問題だろう。敗戦国・日本の権益を守るためにGHQと真正面から対峙し、講和を成し遂げた後はサラリと政界から身を引いた清廉潔白な人物っぽく描かれていたが、う〜む。実際の白洲次郎はカネにサトく、利用できるものはヒトでも情報でもコネでも利用しつくしたブットい、厚みのある男だろう。徴兵は回避しているし、なんで金持ちなのかナゾだし、スパイ容疑だってある男である。そしてそういう稀有な日本人が一億総火の玉時代にどう見えたのかといえば、有馬頼寧が日記に表現している通り、変人だろう。徹底したKY、唯我独尊傲岸不遜奇人変人、それが戦時の白洲次郎ではないか。まあ、90分×3回で描くには難しい人物ではあるが、しかしドラマは白洲正子に時間を割きすぎていたし、しかも白洲正子を演じた中谷美紀がウマイものだからますます次郎は薄いのである。女目線で語っちゃダメだろうこのドラマは。いくら白洲正子のほうが次郎より有名だとしても。
閑話休題。

白洲君と暫く話す。此人は何かの時に役に立つと思う。
(昭和19年6月21日)


「此人は何かの時に役に立つ」という有馬の読みは当たる。

午後は白洲君から又いろいろの話をきく。(略)大宮島もやられるし、テニアンにも上陸を試みる。独乙も国内に反戦運動が国防軍方面にも起ったとの事。どういうことになるのか。
(昭和19年7月24日)


昭和19年、ドイツではヒトラー暗殺未遂事件が現地時間7月20日に起きた。以降「国防軍方面」で事件の関連容疑者の粛清が始まる。砂漠の狐・ロンメル元帥もこの時疑われ、自殺に追い込まれている。

午後は、白洲君、日水梅渓氏と暫く話す。ルーマニアが停戦協定を結んだ由。小笠原諸島が大挙襲われたとの事。
(昭和19年8月24日)


「梅渓」通弘は、帝国水産の監査役。

白洲君の話に、大島大使が独乙ももはや一ヶ月位だとの事。英国では灯火管制を解いたという。どこ迄も英米的な人。
(昭和19年9月9日)


「大島大使」=大島浩。ナチスとヒトラーの心酔者として知られる。

それに相変らず白洲君に話し込まれる。どうして此人は日本の敗ける事を前提としてのみ話をするのであろう。
(昭和19年9月26日)


白洲次郎は、日本の敗戦を確信していた。
敗戦後の昭和20年12月3日、戦争犯罪人のリストが発表される。

昨夜近衛、木戸、平沼を始め百名との事で自分も危いとの事であったが、今日発表の結果五十九名。近衛、木戸は入らず、私もとうとうつかまった。少々不思議である。
午後出社、豊福に面会。夕錦水にて役員を招待。白洲より注意を聞く。
(昭和20年12月3日)


日本の敗戦後、白洲次郎は連絡中央事務局次長となった。GHQとの連絡係である。45歳の若さで、“吉田内閣即白洲内閣だ”と巷間囁かれるほどの重要人物に、白洲次郎はなったのだった。後年、白洲次郎は当時を回顧して「思い出すのも不愉快な毎日だった」と語っている。

白洲手記
▲昭和51年6月2日付朝日新聞
白洲次郎が有馬頼寧に与えた「注意」の内容が気になる。

有馬伯爵の口腔事情 58歳で無歯顎に

有馬頼寧は昭和17年5月5日、鹿毛俊吾の経営する歯科診療所にて「最後の一本の歯」を抜いた。

午前中宮崎君等来訪。午後外出、後楽園に行き野球を見て夕五時に鹿毛に行きとうとう最後の一本の歯を抜いてしまう。これで完全な総入歯となる。かへって工合がよい位だ。ところが帰途痛みがひどく水天宮に暫く休む。亀井さんにお通夜に行くつもりのところとうとう行かれず、帰宅して床に入る。痛みはやがて治まる。七十九になる母上が歯が完全で居れて、息子の私が総入歯とは随分おかしな話ではある。
(昭和17年5月5日、ァ


「最後の一本の歯」は下顎のもの。58歳で無歯顎、総義歯である。
「宮崎君」は、大正10年に柳原白蓮と駆け落ちした弁護士の宮崎龍介。この頃の宮崎は中野正剛率いる国家主義政党「東方会」の会員で、昭和17年4月30日の翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)に立候補して落選している(東京府6区)。

ちなみに。
有馬頼寧は昭和2年に柳原白蓮の前々夫である北小路資武(きたのこうじすけたけ)の訪問を受けているのだが、

北小路資武氏来訪、要件は安藤家の地所払下げに関する問題で、秀雄が誠意が無いから私に話しに来たというのであった。自分は知らぬ故お取次ぎだけはする旨答えた。華族だから働いて悪いことはなし、働かぬ者よりはよいにちがいないがこんなことを仕事にするのはあまり感心出来ぬ。白蓮夫人の先夫だと思うと何かうなづかれるような気がする。
(昭和2年5月4日、◆


印象は悪かった。
北小路資武は昭和9年に詐欺と恐喝容疑で検挙されており、

北小路資武
▲昭和9年6月16日付朝日新聞

素行は良くなかったもよう。結婚5年で早々に白蓮との離婚が成立したのもむべなるかな、である。
閑話休題。
「亀井さん」は伯爵家の亀井氏で、「お通夜」とは5月2日に亡くなった亀井茲常の通夜である。

今日も福田のところに行かれず、歯のはれたところが又痛む。いつまで治らぬのか、ハイ血症の事を考えると一寸心配になる。朝鮮はどう考えても行かぬ方がよいと思われるので断る。
(昭和17年5月8日、ァ


「歯のはれたところ」とあるが、すでに無歯顎。正確には“抜いたところ”が痛んだようだ。抜歯直後は旅行を取りやめるほど痛んでいるが、7日目には仮義歯を入れている。腫れが引いたのだろう。

それより風見君を自邸に訪問の後、中央会により文化協会に行き、五時鹿毛に行き仮義歯を入れ、五時半嵯峨錦の石橋君の招宴に出席、夜九時帰宅す。
(昭和17年5月12日、ァ


「風見君」は第2次近衛内閣で司法大臣を務めた風見章、近衛文麿の新体制運動をともに推進した仲間である。翼賛選挙には出馬しなかった。
「中央会」は産業組合中央会。有馬頼寧は大政翼賛会の事務総長に就任する前は、産組中央会の会頭であった。
「文化協会」は農山漁村文化協会で、これも有馬頼寧が初代会長。

すみ子と同行、鹿毛にいき歯の痛みを直してもらう。
(昭和17年5月14日、ァ


「歯の痛みを直してもらう」とは、義歯調整か。
「すみ子」は次女の澄子で、夫は足利惇氏。この時34歳。

午前中朝鮮の金融組合の人見えて是非きてくれとの事。歯の悪い事情を話して了解を求め又他日視察に行く事にして承諾してもらう。
(昭和17年5月15日、ァ


その5ヶ月後にはまた、義歯の不調を訴えている。

午後一時有楽座に行き、「東宮大佐」の劇の前に二十分程講演をする。ライトに照らされてやり難いし、それに歯の工合も悪くて困った。
(昭和17年10月21日、ァ


有馬頼寧が歯科医院に行った形跡は、この昭和17年10月21日が最後である。

A級戦犯として巣鴨監獄に収監されていた時期も歯が悪いという記載はあり、不調はずっと続いていたのだろう。にもかかわらず受診しなかったのは、歯科材料の不足で修理も望めない状況だったからかもしれない。材料も薬もなく、ガソリンもなかった。かかりつけ医師の喜多竝に往診を頼んでも、車がないと断られる始末である。

神経痛のため終日在宅。喜多さん車がないので来てもらえず、四面道の宿車を頼む。二十円の料金の上、馬鈴薯一貫目要求。それでも注射をやることが出来た。
(昭和20年8月14日、ァ


喜多竝医師は、次女の夫・足利惇氏とともに巣鴨拘置所の軍医に面会している。

今日貞子から七日附の手紙が来て、六日に喜多、足利同行、軍医に面会に来た由。少しはわかってくれたと思われるし、薬も受取ってくれたとの事。幾分安心である。足利さんが動いて下さるので助かる。
(昭和21年2月13日、 


喜多医師は恐らく有馬頼寧の持病(神経痛など)について拘置所所属の「軍医」に説明し、常用「薬」も伝えたのだろう。有馬頼寧はそれで「幾分安心」しているが、拘置所はそれほど甘いところではなかった。有馬頼寧が常用していたのは「パピヤート」「パビナール」という麻薬性鎮痛剤で、後者は太宰治が中毒していたことで有名なアヘン製剤である。息子の頼義の回想によると有馬頼寧も中毒になっていて、薬が切れると暴れて大変だったという。巣鴨の米軍医師はもちろんそんな劇薬は処方せず、アスピリンを与えて発作が自然に納まるのを待つ方法を取った(有馬頼寧「七十年の回想」)。その結果、有馬頼寧は麻薬中毒を脱し、精神の安定と神経痛症状の改善を得るのである。ムショに入ると大概の人間はシャバより健康になる――というのはここでも証明されているわけだが、しかし、そうはいかないのが歯科疾患である。

有馬伯爵の口腔事情 官邸への訪問歯科診療

昭和12年、第一次近衛内閣で農林大臣となった有馬頼寧。上顎は総義歯で、その具合は悪かった。頼寧のかかりつけ歯科であった鹿毛歯科診療所は、官邸にて頼寧の歯科治療を行っている。

午前十時出勤。今日は前に変った事もない。局、課長移動の発表をした。午後鹿毛が来て、三時半には兵庫県の災害につき代議士諸君来訪。大日本山林会の人々が山林国策につき来談。
(昭和12年10月7日、)


往診(&代診)担当は、恐らく歯科技工師だろう。訪問歯科診療は、たびたび官邸で行われた。

正午桑名に行き、三時半官邸に戻り、それより鹿毛の治療をし、五時になる。歯をいぢられて、くしゃくしゃして居たので人にをこって悪かったと思う。
(昭和12年10月11日、)


「歯をいぢられて、くしゃくしゃ」する気持ち。この不愉快さ、よくわかる。
昭和12年の歯科治療はこれで終わり、次は8ヶ月後である。義歯の具合は、一度はよくなったのか?

午前十時半出勤。十一時半大宮御所に御誕生御祝の記帳に伺候。午後一時頃まで馬政調査会の下相談をする。三時鹿毛に行き治療をして四時頃帰宅す。
(昭和13年6月25日、ぁ


当時、有馬頼寧は農相で馬政調査会会長だった。

十二時半より鹿毛に行き治療をして官邸に戻り、実吉君に面会。
(昭和13年6月27日、ぁ


「実吉君」=実吉雅郎、日揮の創設者。

午後は参議の会から官邸に戻る。三時鹿毛のところに行き、官邸に戻り、夕六時福田のところに行き十一時帰宅。今夜は新聞記者見えず。
国民組織の問題に関し新聞がいろいろ書くので仕事がし難くてこまる。記者に記者としての立場以外には考える余地はないのであろう。
(昭和13年11月15日、ぁ


国民組織昭和13年 11月 6日
▲新国民組織構想(昭和13年11月6日付朝日新聞)

10月には産業組合に、日本革新農村協議会も結成されている。戦時近衛内閣のバックたりうる強力な国民組織を、という有馬頼寧の提唱によるもの。

午前十時歯の治療に鹿毛に行き、十一時過ぎ本省に行き、間もなく官邸に行く。
(昭和13年11月17日、ぁ


昭和13年の歯科治療はこれで終わり。次に歯科的不調が書かれるのは約5ヶ月後である。

白木屋に行き歯の療治をし、紫紅会の展覧を見、服部にて蓄音機を買い、五時桑名に行く。
(昭和14年3月30日、ぁ


「服部」は銀座の服部時計店。買った蓄音機は、多分コレ。

コロムビア「ラヂオ電気蓄音機」
▲コロムビア「ラヂオ電気蓄音機」。

195円。昭和17年の東大授業料が年額120円なのだが、それ以上のお値段だ。さすがは華族。義歯も金キラにしたのだろうか。有馬頼寧と同様にA級戦犯容疑で巣鴨に拘留された平沼騏一郎の総義歯は金ピカで、どうも人工歯に開面金冠を施していたようである。
さて肝心の自前の歯は、約半年後に痛み出している。

峰竜に行く。賀屋氏の招待で、近衛青木蔵相等七人許りであった。
九時過ぎ帰る。歯が痛む。
(昭和14年10月17日、ぁ

「峰竜」は銀座にあった料亭。
歯はよほど痛んだようで、翌日に歯科を受診している。

午後鹿毛に行き治療をし、農相官邸に大臣を訪ね、福田のところに三十分程居て六時半帰宅。
(昭和14年10月18日、ぁ


この頃すでに第二次世界大戦は始まっていた。近衛内閣は1月に解散し、有馬頼寧は5月に産業組合中央会会頭に再任する。近衛内閣の次に発足した平沼内閣は8月に“複雑怪奇”解散し、時は阿部内閣となっていた。

中央会により山浦氏と話、四時半鹿毛のところに行き治療をし、六時帰宅。
(昭和15年3月30日、ぁ


「山浦君」とは、読売新聞記者で政治評論家の山浦貫一。新党運動の気配を感じ取ったのだろうか。6月に近衛文麿は枢密院議長を辞め、新体制運動推進の決意を表明する。そして7月に第二次近衛内閣が発足し、9月に有馬頼寧は貴族院議員と産業組合中央会会頭を辞して10月に大政翼賛会事務総長に。
なお、この昭和15年1月に後の有馬家継承者で小説家の頼義が入営、満州に行っている。有馬頼寧は公私にわたり多忙であり、そのためか次の歯科受診は10ヶ月後、年明け昭和16年1月である。

今日は御用始めなので出勤するつもりであったが、からだが痛くてをきられぬ。午後一時鹿毛に行き歯の破損を直してもらい、帰途八丁堀のところに火事あり。
(昭和16年1月4日、ぁ


「破損」とあるから、義歯修理だろう。即日直っている。
「火事」は強風で広がり、30戸が全焼する大火事となった。

八丁堀の火事
▲昭和16年1月5日付朝日新聞。

なお、1月6日に有馬頼寧は近衛邸を訪問しているが、近衛文麿は「風邪の気味にて臥床」していた。有馬も神経痛、腹痛、下痢である。新体制運動、大政翼賛会に対する攻撃の、そのストレスからだろうか。有馬頼寧はデマや中傷の嵐にさらされている。アカ呼ばわりされていたのである。

午後はラヂオをコタツの中で聞く。今日は何も物を言うので〔ママ〕嫌やであった。松前氏から女学校での話を聞かされ不愉快であった。農村や学校やあらゆるところへデマを飛ばしてヒキョウだ。僕を傷けて革新運動を阻止せんとする現状維持勢力の策をにくむ。
(昭和16年1月13日、ぁ


「松前氏」=松前重義、大政翼賛会の総務局総務部長。有馬とは、技術者の社会的地位の向上を目指した「技術者運動」の同志でもある。それにしても新体制運動や大政翼賛会といえば、今やファッショのイメージだ。だが、当初はアカといわれ、いわれ続けて変質し、有馬頼寧はついに脱会する。
歯科受診は、この後1年5ヶ月も間が空いた。歯どころではなかったのだろう。その間、下顎の歯の状態はどんどん悪化し、ついに抜歯→無歯顎になる。昭和17年5月5日のことであった。

有馬伯爵の口腔事情 歯が悪いので思う様にしゃべれぬ

午前十時本会議。(略)歯が悪いので思う様にしゃべれぬ。三十分位と思うたらやはり一時間かかる。新聞に物やさしい口調と書いてあったが、貴族院という場所柄を考え、悪感情を持たれぬため注意したのだ。
(昭和12年3月26日、)


昭和11年8月に完成した、有馬頼寧の上顎総義歯。しかし、義歯の具合は悪かった。12年4月には、また歯科通いが開始される。

大番町にて中食。午後、中金に行く。山浦君来て暫く話す。三時半鹿毛に行き、歯の治療をし、銀座の風月にて食事をし、六時大番町に行く。
(昭和12年4月30日、)


「山浦君」とは読売新聞記者で政治評論家の山浦貫一。「政治家よ何処に行く」「政界裏話」「国会・内閣・政党」など著書多数。
ちなみに貞子夫人は相変わらず病床にあり、心身ともに健康ではなかった。原因はもちろん夫・頼寧の不倫と性感染症で、ついに別居を願っている。

今日、貞子が又変な事を言い、私が不親切だとか、病気が癒ったら別居するとかいう。神経が高くなっているから仕方ないと思う。
(昭和12年5月1日、)


貞子夫人は皇族なので、別居の社会的ダメージは大きかった。妾を囲うこと以上に。

銀座を歩く。理髪をする。鹿毛に行き、夕帰宅。
(昭和12年5月4日、)

五時鹿毛の処により治療し、夕六時帰宅。婦人の入場無料とせし為めか、女の見物増加せし模様なり。
(昭和12年5月5日、)


「婦人の入場無料」とあるのは、職業野球である。この頃すでにレディースデーがあったのか。試合は東京セネタースVS大東京@上井草球場で、4-3でセ軍の勝ち。有馬頼寧はセ軍のオーナーである。

午前十時より閣議あり。南朝鮮総督と中食を共にし、本日の組閣ニュースと戴冠式の映画を見る。物価対策委員会の件につき吉野商相と打ち合せをして、官邸に戻り鹿毛に行き、官邸にて省議を開く。農林行政根本方針確立につき皆の意見をきく。
(昭和12年6月18日、)


当時、有馬頼寧は第一次近衛内閣の農相である。歯科受診も官邸から通い、義歯製作の段階では恐らく歯科技工師が官邸に来て調整やセットを行っている。
「南朝鮮総督」=南次郎。「吉野商相」=吉野次郎、政治学者・吉野作造の弟である。

二時より鹿毛に行く。二時間以上もかかってつかれる。
(昭和12年7月2日、)


この後、3ヶ月間歯科受診の記載はなし。有馬頼寧は国民健康保険法などの審議で忙しく(特別議会、7月25日〜8月8日)、しかも開院初日にハシゴから落ちて骨にヒビを入れたりしている。日記は官邸に宿泊しているのと、大腸カタルで入院したのとで(8月17日〜8月23日、麻布の額田病院)あまり書いていない。大腸カタルは今回で3度目という。額田病院退院後も足のしびれ、神経痛、便秘、体重減少に悩まされ、であるにもかかわらず妾以外の女とも盛んに遊ぶなど、弱いのか強いのかサッパリわからない。

どうも少し心がけが悪い様だ。少しつつしまぬと困った事になる虞れあり。いろいろ考えなければならぬ事があると同時に遊ぶくせがある。総てが反射的である。自分の気分が不思議だ。
(昭和12年9月9日、)


忙しいほど性欲が強くなるタイプがあるようだが、英雄色を好む、ってのはソレを言うのか。

なお、昭和12年の7月といえば、盧溝橋事件に通州事件である。
当時内閣書記官長だった風見章の手記によれば、8日に盧溝橋事件の第1報が入り、12日 or 14日 or 上旬(複数の手記で齟齬がある)に石原莞爾が戦争回避のための日中トップ会談を提案し、風見はそれを断った(北河賢三、他編「風見章日記・関係資料 1936-1947」)。が、同時期の陸軍は政府などお構いなしに華北への派兵を準備していたという。ヒドイものだ。
で、その頃の近衛文麿。

首相は又下痢の気味とかにて、休む。
(昭和12年8月6日、)


近衛総理は今日も出席されず。
(昭和12年8月7日、)


首相はとても弱っている。ほんとに弱いらしい。気の毒なことだ。あの様な気持ちでは、とても重責に堪えぬだろう。
(昭和12年8月9日、)


首相の近衛文麿は体調を崩していた。激務と軍の横暴と、圧力とで。8月9日には大山中尉射殺事件が勃発して、8月13日に第二次上海事変へ突入、日中全面戦争へとなだれ込んでいく。他に戦争回避の手段がなかったという意味でも、石原莞爾の提案は受けるべきだったと私は思う。これを拒否した風見章のその理由は、石原莞爾の陸軍統制能力も、蒋介石の国民革命軍統制能力も双方疑わしいから、というものであった。そして失敗した場合、近衛のダメージがデカイからである。後に風見は広田弘毅外相による日中会談を提案して近衛もこれに同意するが、広田外相が拒否して事態は八方塞になる。
有馬頼寧はというと、明らかにこの人は戦争には不向きであった。

夕六時半帰宅。今夜より防空演習にて火を消し、家の中暗く不愉快なり。
(昭和12年9月17日、)


福田のところに行く筈のところ防空演習にて都合悪き故中止す。
(昭和12年9月18日、)


「福田」は妾。時局のせいか、夜間の外出時には「お巡りさん」の監視の目も厳しかったようである。

北支、上海共に戦況甚だよろしいが、十月初旬でうまく終局されるか。又其終局の模様如何が問題だ。
(昭和12年9月19日、)


総理と午食を共にし、いろいろ話す。終局国策審議会の様なものを作るつもりらし。
(昭和12年9月20日、)


9月下旬、近衛はまだ「終局」を願っていた。

今日、近衛首相にて手紙を書き、事変に関する意見を述べる。
(昭和12年9月25日、)


近衛首相に意見書提出。これにて二回目なり。
(昭和12年10月2日、)


「意見」「意見書」の返答についての記載はない。

閣議は大本営の件につき陸海相より話ありし外何もなし。総理は閣僚よりの進言を少しも採用することなし。独裁もよいが、少し度が過ぎはせぬか。木戸氏の態度甚だ面白からず。閣内の空気を何となく不穏にして居る感あり。大衆から段々離れて行く様に思われる。何だかやめたくなった。
(昭和12年11月16日、)


「大本営の件」というのは、大本営条例の改正である。同条例は大本営の設置を戦争に限っていたため、戦争ではないとされていた盧溝橋事件等に対処できなかったことによる。で、11月には大本営政府連絡会議が設置される。同会議は情報共有のために設置された政府と大本営のトップ会議であったが、皆がお山の大将で、保身とセクショナリズムの権化と化して情報共有どころではなかったのは有名な話。中国の国共合作だって一筋縄ではなかったが、それでもなしとげた中国と比べると、日本は誰がリーダーかあいまいないのがアレだったのではないか。つまり、中国ではキーマンを説得すれば何とかなったが、日本は鍵穴ばかりでキーはなかった。もしくは、日本のキーマンは神なので説得するという発想すらなかった――のかもしれない。

有馬伯爵の口腔事情 火宅の人

50代の有馬頼寧は、鹿毛俊吾の経営する「愛歯歯科医院」に結構足しげく通っていた。51歳で職業野球団「東京瀬ネタース」の相談役に、52歳で2.26事件を経て産業組合中央会会頭に、53歳で第1次近衛内閣の農林大臣に――と、政治家として上り調子にあるこの頃、口腔環境は悪化し、上顎総義歯となっている。

鹿毛に行き療法をし、三時福田のところに行く。今夜は帰るつもりのところ、泊まりたくなってとうとう泊まる。福田は喜ぶが貞子の機嫌が又悪くていやな思いをすることであろう。此三角関係は将来どういう風に展開することか。何事もなり行きに任す外なし。
(昭和11年2月8日、)


「福田」は有馬頼寧の妾・次恵で、有馬邸のすぐ近くに妾宅を構えていた。「貞子」は正妻である。
有馬家を継いだ有馬頼義の回想によると、妻・貞子は有馬頼寧からうつされた淋菌で腎盂腎炎になっていたという(「母 その悲しみの生涯」)。
有馬頼寧日記では貞子も福田次恵もたびたび、しかもナゼか同時期に体調を崩して寝込み、頼寧を嘆かしているのだが、次恵も頼寧由来の性感染症だったのかもしれず、とすると次恵が起している不正出血や腹痛、腰痛は骨盤内炎症性疾患か。だが、にしては淋菌由来の症状が頼寧にはない。女に感染させて、自分はさっさと治ったのだろうか。

三時白木屋に行き、歯の治療をし、銀座に廻り、五時軍人会館に行く。満州移住協会の発会式あり、移民団長の話と活動写真面白く見る。
(昭和11年2月10日、)

「軍人会館」は今の九段会館
「満州移住協会」は移民事業の促進ならびに後援を行っていた財団法人。宣伝活動はその重要な任務であり、「活動写真」もその一貫であった。同協会設立以降、満州への移民が急増する。

午前九時、召集議会に行く。別に変った事なし。八部の部長に選ばる。年のいった事を感ず。昼、会館で伯爵議員の会あり。貴院改革に反対の声多し。世の中を知らぬ人の多いのは困ったものだ。
午後、鹿毛に行き金庫で肥料資金につき協議。年賦定期の既貸分も幾分引さげることにする。夕帰宅。
(昭和11年5月1日、)


「議会」=第69回帝国議会。斎藤隆夫(立憲民政党)の粛軍演説で知られる。
「金庫」は有馬頼寧が理事長となっていた産業組合中央金庫で、麹町にあった。今の農林中央金庫である。

鹿毛のところに行く。上の歯は殆んど全滅、右側に犬歯一本と奥歯一本あるきり、左側は全部駄目、入歯がもたぬ。
(昭和11年5月30日、)


この時有馬頼寧、52歳。「上の歯は殆んど全滅、右側に犬歯一本と奥歯一本あるきり」――歯周病か。

十一時近く起きる。歯が落ちそうで気持ちあしく食事も食べられぬ。
(昭和11年5月31日、)


部分床義歯もあわなくなってきて、

鹿毛に行く。上部総入歯となる。とても気持ち悪く話も出来ず食事も満足に出来ぬ。
(昭和11年6月1日、)


上顎総義歯を入れる。

昼鹿毛のところに行き治療入歯の工合悪く食事出来ぬ。(略)腹痛激しきため九時頃出て十時帰宅す。梅雨頃には又腸の病気が恐ろしい。どうかして腸が丈夫にならぬだろうか。
(昭和11年6月2日、)


腹痛と下痢はしょっちゅうである。慢性腸炎か。
義歯は結局、つくりかえたようだ。

午後鹿毛が来て入歯の治療をする。今度はよい様だ。今更に若い頃の不養生がくやまれる。歯の悪いのは損である。
(昭和11年6月5日、)


「鹿毛が来て」――歯科技工師が往診し、義歯のアレコレをしたのだろう。歯科技工師の代診がフツーであった時代である。
この白木屋本店4階にあった愛歯歯科医院には妻、さらには妾までかからせていた。妾と、頼寧の家族がニアミスしたり。

今朝九時半外出、福田のところにより、一所に出る。白木屋の鹿毛のところまで送り出勤。(略)中央会の役員会四時半に終り白木屋へ迎えに行き六時に帰る。途中静子の自動車とすれちがい百子に見られたらしい。しゃべってくれなければよいと思う。
(昭和11年7月9日、)


「中央会」=産業組合中央会。
「静子」は有馬頼寧の長女で、「百子」はその娘、頼寧にとっては孫娘である。妻と妾を同じ、しかも繁華街の歯科医院に通わせるのは神経が太いのか、粗雑なのか、いやいや愛歯歯科の歯科スタッフの腕が良かったのか。「しゃべってくれなければよいと思う」ぐらいなら妻と妾を同じところに通わせちゃイカンとは思うが、しかし、良い歯科医院だったのであれば、固執する気持ちはよくわかる。良い歯科医院に出会えるや否やは、今も昔も完全に運だからである。
ちなみに、昭和11年7月20日には「今夜から灯火管制で真暗である」とあって驚く。灯火管制って、そんな早い時期に始まっていたのか。

正午大番町に行き中食、学農連の会員二千九百に達せし由、一年で三千にはなると思う。鹿毛に行き歯の治療をしてもらう。三時半頃迄かかる。
(昭和11年8月26日、)


午前中出勤、午後一時より二時迄青年館に行き講和、入歯の工合悪く話しに困る。三時鹿毛のところに行き新しい入歯をする。少し痛むが工合はよし。
(昭和11年8月27日、)


昭和11年6月アタマに始まった上顎総義歯づくりは、8月末に一応の完了を見ている。ほぼ3ヶ月である。

有馬伯爵の口腔事情 かかりつけは鹿毛俊吾

夜間学校開設(大正8年9月1日付朝日新聞)
▲有馬頼寧35歳、労働者のための夜間学校「信愛中等夜学校」を開設(大正8年9月1日付朝日新聞)

有馬頼寧(明治17年12月17日〜昭和32年1月9日)は、戦前に活躍した政治家である。久留米藩主・有馬家の第15代当主であり、伯爵である。大正期には“左よりの華族”として名を馳せ、日中戦争後は近衛文麿とともに新体制運動を促進したことでも知られる。農務官僚出身で、第一次近衛内閣では農相を務めた。大政翼賛会の初代事務総長でもあり、そのため戦後はA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されてもいる(不起訴)。野球好きには「東京セネタースのオーナー」、競馬好きなら「有馬記念の創設者」といえば、多少は興味が湧くかもしれない。

貧民の為に診薬部(大正9年2月10日付朝日新聞)
▲35歳、貧民の為に診薬部(大正9年2月10日付朝日新聞)

東京セネタース
▲52歳、「東京セネタース」の相談役に(昭和11年1月19日付朝日新聞)

議員を辞任し新体制に邁進(昭和15年9月18日付朝日新聞)
▲56歳、貴族員議員と産業組合中央会会頭を辞任(昭和15年9月18日付朝日新聞)

さて、有馬頼寧は筆マメであった。現在刊行されている「有馬頼寧日記」(山川出版社)は、大正8年からA級戦犯として巣鴨監獄に収監されていた時期までの日記である※。ここに書かれた部落解放運動や農民組合運動、夜学校創設、政治活動、さらに次々に手を出している女たちのことなど実に興味深いが、ココでは有馬頼寧自身の健康、特に口腔事情をメインに取り上げたい。有馬頼寧は生来胃弱で腹痛と下痢と便秘と発熱を繰り返し、さらには神経痛や不眠にも悩まされていた。神経痛は31歳で初発し、その後40年の長きにわたり有馬頼寧を苦しめている。

夕方から又痛み出した。私の神経痛も大正四年以来だから随分長いものだ。
(昭和10年12月3日、)


3人の息子のうち2人を20代、30代で亡くし、たびたび生来の身体の弱さを嘆いた有馬頼寧だが、自身は73歳まで生きている。結婚したのは18歳(相手は15歳)。以降は使用人、芸者と、次々に女に手を出し、最期を看取ったのも元芸者の妾であった。

此年になっても性格は少しも減ぜず、常に婦人なければ睡眠もとれず元気もないという状態である。私にとって婦人は生活必需品なのであり、愛人は精神生活の糧なのである。
(昭和20年9月15日、ァ


こう書いた「此年」=61歳、無歯顎で総義歯でもこの色気である。近年、残存歯数と健康寿命の関係が盛んに言われているが、性欲とは関係ないのだろうか。
無歯顎となったのは、58歳だった。最後の歯は昭和17年5月5日、鹿毛俊吾の経営する歯科医院で抜いた。その「鹿毛歯科医院」が日記に登場するのは昭和3年3月19日で、それまでは(昭和2年、42歳時点)「桐村」がかかりつけ歯科医だったようだ(受診日:昭和2年1月14日、3月31日、4月2日)。

眼疾。
杉浦武雄君来訪。
午後鹿毛歯科医院に行く。帰途銀座に行き夕7時半帰宅。
(昭和3年3月19日、◆


有馬頼寧は、昭和3年の春に青山南町から浅草橋場に、秋に荻窪に引っ越した。橋場は、荻窪へ移転するための一時的な仮住まいである。

神経痛に悩まされて困る。方角を見てもらったところ青山からは方位悪く、一たん橋場へ移らねばならぬという。それも四月三日までの中にという。
(昭和3年3月8日、◆


とすると「桐村」は青山の歯科医院で、引越に伴い、かかりつけを変えたのだろう。「鹿毛歯科医院」は、日本橋のデパート「白木屋本店」4階にあった愛歯歯科医院である。

白木屋に行き鹿毛にて治療、
(昭和10年12月27日、)


有馬頼寧は大正13年5月の第15回総選挙で衆議院議員になり、昭和2年に爵位継承で同議員を失職、昭和3年時には東京学生消費組合の理事や産業組合中央金庫の監事となっている。昭和4年8月の貴族院伯爵議員補欠選挙に当選。日本橋であれば国会議事堂や官邸からも通いやすく、便利だったのだろう。
医科のほうのかかりつけでは、たびたび往診を頼んでいる自宅近くの喜多竝・医師のほか、昭和18年ごろから銀座にあった武見太郎の武見診療所(教文館ビル3階)にも妻ともども通いだしている。武見のほうは同僚議員からの紹介だろう。近衛文麿も武見太郎の患者である。

午後三時武見さんの診断をうける。大動脈がはれて居るのと、肝臓が少し悪いのと、血管の神経に故障ある等が神経痛の原因だという。
(昭和18年11月19日、ァ


歯科医師の鹿毛俊吾は早くから歯科医療における歯科技工師の重要性に着目し、自ら養成に着手したことで知られる。昭和15年に刊行した「日本精神に基づく歯科医業経営」では、「医技分業」を唱えていた。昭和17年に東亜歯科技工師養成所(愛歯技工専門学校の前身)を日本橋富沢町に設立している。

※尚友倶楽部・伊藤隆編「有馬頼寧日記」全5巻、山川出版社
〜祿獄中時代
大正8年〜昭和3年
昭和10〜12年
ぞ赦13〜16年
ゾ赦17〜20年

戦時の医歯一元化闘争70 これで十分間に合うジャないか

1943年2月発行「歯科公報」より論壇。東京帝国大学が発行していた「帝国大学新聞」(1943年1月18日号)に寄せられた金森虎男の論文「所謂医歯一元論を繞って」を掲載している。金森虎男は当時、東京帝大医学部歯科学教室の主任教授。歯科を専門とする医師の立場からの、医歯一元論・二元論の解説である。

医歯一元論の主張する点はどこにあるかという事をまず紹介したいとおもう。すなわちいわく「そもそも歯牙は人間の一部分であって、歯牙ならびにその周囲組織の疾患は全身状態と非常に密接な関係があるものである。従って身体の一局部である眼、耳、鼻などの治療を司るものがことごとく医師であるべきと同様に歯牙ならびにその周囲組織の疾患を取扱う者もまた医師であるべき事は判り切った事柄である」というのがこの一派の主張する主点である。予が思うになるほどこれは正論であるかも知れぬ。


しかし、この「正論」がなぜ今日まで実現されなかったのか。金森はこう考察する。なお、執筆時は「昭和18年正月中旬」。

そもそも歯牙の疾患のうち齲蝕と歯槽膿漏は極めて多発性の疾患であって、これに悩まされる者がほとんど無数であるといっても敢て過言ではないようなありさまである。従ってこれを手取り早く療治しなければならぬ術者を多数世間で要求していたからである。しかもこれらの疾患の最大多数は直接生命を脅かす場合が極めて僅少であることと、その多くは数回の治療によってとみに自覚的症状が軽減するのでたとえ間接的にはこれらの慢性疾患が全身的には極めて重大なる影響を及ぼすものであっても患者は一時の苦悩さえ除かれれば、敢て介しないことも、また速成的に養成せられた歯牙だけを扱う術者(歯科医師)で世間一般がかなり満足していた事も見逃す事のできない点である。
従って何もことさら医師が扱わなくともこれで十分間に合うジャないかという観念がこれまで世間一般を支配してきた観念であって、これすなわち医歯一元論の実現せられなかった最大の理由ではなかろうかと思う。


つまり、歯科疾患は世に溢れていたので世間はとにかく「歯牙だけを扱う術者(歯科医師)」を早く・多く欲しかった、そしても歯さえ治してくれれば皆満足であった、ということである。“歯科医師のツブシの効かなさ”が問題になろうとは、予想もしえない時代なのであった。
一方、二元論者の主張は、
歯科医師の仕事には医療的施術もあるけれども、技工的施術が歯科医の仕事の生命ともいうべきものであるから、敢て医師になる必要がないという点にあるらしい。

歯科医師たる能力は技工にあり、というものであった。

ところで議論は別としても、ここに注目すべきことは技術重点主義の主張する技工方面については、皮肉にも極めて矛盾した事実がある事である。すなわち歯科医師は流行すればするほど技工は自分で行わないようになるという事実と、歯科医師が技巧的に技工品を作ってもらうことが超速度に増加している事実である。その傾向は眼科医が義眼または眼鏡の製作を特種職工に任せ、整形外科医が義手義足をその製作所を指導して作らせている実情とはなはだ似通ってきた事実であって、この事は看過してはならぬ事柄である。


今や「歯科医師は流行し」ていなくても、「技工は自分で行わない」のがフツーとなっている。

今わが国においては、国民医療法が公布せられ医師および歯科医師の専門科名診断科名についても勅令が発令せられた事は衆知の事である。しかしてこの国民医療法では医師と歯科医師の両立を認めているが、医師で歯科の診療を行いたいという者に対しては、2ヶ年以上歯科医の修業を要求し、その許可を得なければならぬ事になっている。また医師の専門科名の内に口腔科というものがあり、歯科医師の専門科名の内にも歯科外科(または口腔外科)という名称が定められている。
すなわち医師の行う口腔外科と歯科医師の行う口腔外科とは自ら別問題であろうけれども、医師も歯科医師もその判然たる区別はできない事であり、ましてや素人には判るはずがない。すなわちここにも釈然たらざる問題が残されているも今の所やむを得ない次第かも知れない。これも今は過渡期であるから仕方のない事ではあろうけれどもこの状態を永続すべきものであるかどうかこれまたとくと考えねばならぬ事である。現在わが国においては約3万人の歯科医師があり、しかも毎年約2000人の歯科医師を世の中に送り出しているから遠からずして4万、5万という多人数に達するに違いない。


金森先生、予想的中。2014年末時点での歯科医師数は10万3972人、人口10万対歯科医師数は81.8人。2012年末と比較して1421人の増、人口10万対では1.4人の増。

しかるに従来のごとく、医師からも歯科をやれるように途を拓いてあるからといって自然に放擲して置いた過去数十年間においては、医師から歯科を専攻するものは実に少数であった。ましてや近頃制定せられた条件を叶えてまでもこれを専攻しようという者は恐らくさらにさらに少なくなる事と思う。今はドイツに併合せられた亡国であるが、かつてのオーストリア国において執られた制度は多少参考になる事と思う。すなわちこの国においては、医師に非ずんば歯科口腔科の診療を行えないという制度を作り、一旦医師になった上で所定の期間その科を専攻させたものである。当初はそんな苛酷な事をしたら歯科口腔科をやるものがなかろうと杞憂するものもあったけれども、事実はこれに反して尚10年後には、かかる専門家が充実したという事である。
医歯一元論に従えば、歯科口腔科専門医が最も長期間の修業年限を要する事になるわけであるが学科の性質上これもやむを得ない事かもしれないけれども、この点もかなり難点になるのではなかろうか。しかしてもしもかかる専門家だけの輩出を望むならば、左記の3点を断行せねば、その実現は到底覚束ないものであると極論する者のあることも大に注目すべき事である。すなわち、
1、向後現在のごとき歯科医師を造らない事
2、向後何年かのあとに歯科医師会を廃止して医師界に合流せしめる事
3、歯科口腔科専門医を養成する機関を設置する事である。

この「3点」を見れば、一元論を日本歯科医師会(=東京歯科医学専門学校)が無視した理由もわかろうというものである。

両者の主張するところをよく検討してこれを判断していただきたい事を願うとともに、この問題をいつまでもぐずぐずにして置いては国家的に考えても、直接また間接に大損失であるとおもうので、あえて与論に訴えすみやかに最も合理的の処置が講ぜられむ事をねがうものである。



戦時の医歯一元化闘争69 医歯一元化期成山陽大会

広島県歯科医師会史(昭和40年)によると、広島県は「医歯一元化の発祥の地」らしい。
昭和17年の項より。

医歯一元化の発祥の地という本県では各地に呼応して、9月20日午後0時半から広島県教育会館で「医歯一元化広島県期成会」結成式を挙行、広島、岡山、山口各県有志により引き続き山陽大会を開いた。中央から川合日大歯科部教授、稲見日本歯科医専教授、佐藤日本歯科医専助教授を初め、集るもの200余人、一元化への宣言決議を行なって気勢をあげ、続いて次のとおりの講演を聴取、6時閉会した。
「医、歯一元化の論拠」佐藤峰雄(日本歯専助教授)
「歯科界の情勢」川合渉(日大歯科教授)
「医、歯一元化について」熊谷鉄之助(本会会長)

決議
吾等は誓って大東亜共栄圏確立の聖業翼賛を期す
吾等は八紘為宇皇国医道の理念に則り日本医学の確立、新医界の建設のため医師、歯科医師の一元化を期す
(昭和17年、広島県歯科医師会史、昭和40年、p183)

当時の広島県歯科医師会会長・熊谷鉄之助は、大正の医師資格獲得運動も支援していたようだ。

大正11年4月、日本聨合歯科医師会総会に本会の決議たる「歯科医師にも医師同様売薬製剤権付与の件」をどうか医の決議を以て内務当局に建議するよう提出した際に、出席議員の曰く「歯科医であるから勿論製薬範囲も歯科領分に止まるものであるか」との問であったから、私や野坂代議員はそう言った「我広島県の同業者は歯医国の小さい国内だけをさまようているものでない。今少し着眼点の大きい四百四病いずれの製剤をも含むのである」と言った時は驚いたようであった。先年、医師資格獲得問題の議会に提出せられんとするや、日本聨合歯科医師会は烈火のごとく怒り巨大の金銭を費して大々的反対をした。かく歯科の発達向上を叫びつつある先輩および当事者は眼前の利欲に急にして吾人が最も要望する権利獲得のごときにいたりてはさらに顧慮しないのは実に憤慨に堪えない。
(p73、昭和3年2月27日稿、熊谷鉄之助)

熊谷鉄之助は明治24年2月から25年10月まで済生学者で学び、明治26年の第1回試験で医術開業試験に合格。後に高山歯科医学院に入学して3ヶ月ほど在学し、歯科医術開業試験にも合格している。大正6年4月から昭和19年12月まで、30余年にわたり広島県歯科医師会会長を務めた。昭和30年4月27日没。

師匠は無免許

昭和51年発行の新潟県歯科医師会史「座談会―思い出を語る――」より、昭和26年〜45年度の新潟県歯会長だった「高頭」憲二郎氏の修行時代について。
「高頭」氏は大正2年“日本歯科”卒、大正5年に新潟で開業するが、その前に四国の入歯師のもとに住み込みで修行したという。

手島
高頭先生は、大正何年の開業ですか。

高頭
新潟へ5年(大正)だ。

広瀬
すぐですか、それともどっかへ……。

高頭
いや、四国へ回ってきた。

広瀬
四国……。

高頭
ああ。

手島
武者修行ですか。どこか開業医の先生のところですか。

高頭
開業医の先生じゃない。入れ歯やらなにやら……。免許証のない奴のところへ住みこむことになって……。

清水
ああ、入歯師だな、俗にいう……。

手島
いわゆる看板貸しの代診式やるわけでしょ。

本間
ははあ……。

広瀬
今ならつかまるほうだ。(爆笑)


卒業したての歯科医師が無免許の入歯師に名義貸しをしながら、修行したケースのもよう。歯科医師は技術が学べるし、入歯師は名義を借りられるしで双方にメリットがあるわけである。

清水
何かおもしろいことあったでしょ?

高頭
そりゃあ、おもしろいことって、わたしも――、それでも蠟着なんていうものはたいしたものだね。とうしみ(燈心)でもって空気送って……。

清水
炭で……?

高頭
炭を……。

小林
「ふいご」があったものね。

高頭
堅炭があった。

広瀬
ああ、カンカンだもの。

高頭
それから、ろうそくのしん吹いて、ふうっと吹いてね。

小林
アルコールを細い管に入れて、チューッと吹きますね。あの細い管……。

高頭
あのやつをね。

広瀬
なる程、吹管というやつか。

高頭
それで結構技工をした。それがまたしょっちゅう故障してね。困ったもんだよ。

本間
サンプラなんかなかったんですか。

広瀬
金でしょ?

高頭
もちろん金です。

広瀬
金だからいいですよね。金のいいやつないの。今は、パラジュウムじゃ、とてもじゃないですよ。

手島
サンプラじゃ、きんきらきんに光ってね。

高頭
いちばんわたしども感心したのは、昔の技工士の方々が前歯金冠を盛んにいれてあったんで、純金を使うんだからね、あれ。純金を薄くして、パニッシュやってそして歯の形こしらえている。うまいもんだよ。われわれが作りゃあわんからなァ。(笑)

広瀬
やっぱり蠟着するんでしょ。

高頭
裏で蠟着するよ、裏へシワをもっていっちゃう。

小林
そう厚くないんだから。軟らかいはずなんだね。

高頭
軟らかい。純金ですものね。

小林
軟らかくて薄いんだ。

高頭
まあ、薄くするのが技術だったらしいんだね。

広瀬
まあ、それが腕のいいことになって……。

小林
ええ、そうです、そうです。

高頭
入れちまえばわからないと、こういうことになる……。

広瀬
入れちまえばわからない。

高頭
ありゃあ、とてもわれわれには、なんといわれてもできねえね。出はじめのレジンは駄目だったなァ。

小林
合成樹脂なんかはトクサでみがいてたものですね、相当あとまで……。

高頭
樹脂はトクサで磨いて、相当前から作っていましたよ。

清水
最後の仕上げは……。

高頭
トクサをむいて、丹念に。

広瀬
そして取られる患者は、むく鳥で……。むいて取っちゃう。(爆笑)いくらぐらいなものでした? あの当時。

高頭
値段がね、どうもわたし、はっきりせんのだがねえ。

手島
1円ぐらいなものですか、総義歯で。上下で。

高頭
どのくらいかかったものだったかね……、どうも記憶はないがね。値段というやつは。

広瀬
書生の時代はですね。

本間
それは先生、開業された頃のお話で、新潟県ではどうだったんですか。

広瀬
開業された頃どうですか。

手島
新潟で開業した時分には総義歯は……。

小林
わたしは、出るとすぐ開業したんだけど、5万だと思うがね。

広瀬
5万……? 5万円かな。

手島
5円じゃないですか。

小林
5円だろうな。どうも貨幣価値がちがってきたので……。


週刊朝日編「値段史年表 明治・大正・昭和」によると大正5年のモノの値段は、

江戸前寿司並1人前:12銭
学帽:3〜4円
カステラ:40銭
瓶ビール(大):22銭
包丁:60銭
理髪料金:20銭

日雇労働者の賃金は大正2年で59銭、大正6年で70銭。
義歯は、庶民にはかなり高価だったことがわかる。

歯科医師と練成

昭和51年発行の新潟県歯科医師会史「座談会―思い出を語る――」。戦時をリアルタイムで過ごした歯科医師、「高頭」憲二郎氏と「小林」十一郎氏を囲んでの座談会である。高頭憲二郎氏は昭和26年〜45年度の新潟県歯会長で、大正2年“日本歯科”卒。小林十一郎氏は昭和28年〜42年度、45年度の新潟県歯副会長で、大正14年“日本歯科”卒。

手島
“練成”なんていうものがあったそうじゃないですか。

小林
あ、“練成”があったよ。松川会長のときだったな。


松川第十郎氏は、昭和18〜21年に新潟県歯会長を務めた。国民医療法による国選会長であろう。

高頭
その写真をね、宇佐美君のとこにあるんだと思ったね。きわめて皆さん、ゲートルかなにかまいて、国民服みたいの着て、戦闘帽みたいのかぶってさ――国民帽か。それで、こんなかっこうして……。

小林
そう、そう。

高頭
いや、大騒ぎしたことさ。岡田君の帽子なんか、見る影もない。(笑)

小林
“練成”にはまいったわ。練成に行ったあそこは今、“かんばやしホテル”になりましてね。とてもいいホテルつくりました。この間わたし、行ってきましたけれどね。

手島
上林って?

小林
上林温泉さ。


上林温泉って、信州の? 野生のサルが温泉にはいっているというのに、ヒトは練成か。

清水
あんなところでやるんですか。

広瀬
“練成通り”とか……。

本間
どういうことするんです?

清水
合宿でしょうけど。

高頭
合宿で、食事から……。だから、並んでてはえがはいってくるんだよ。おつゆの中へ。それ、飲まないとしかられるんだからね。まあ、はえがはいったときのあの苦しみなんてないもんだ。全然、飯粒一つ残されないんだしね。


……読んだだけで吐きそう。チフスがはやるわけだ。日本人のやることかよ。

広瀬
ほう……。

高頭
ついたものは必ず食べるんだ。

手島、
なにか、朝起きると点呼でもするんですか。

小林
ああ、点呼はするし、まあ、精神修養が多かったですね。2時間くらい……。

広瀬
宣戦の詔勅なんて読んだりするんですか。

小林
詔勅は読ましたかどうか忘れましたけどね。

手島
それは県がやるんですか。

高頭
県じゃないな。

小林
県がやるんじゃないけど、ちゃんとやらせるようになってるんだな。

高頭
やらせられるように県に、歯科医師会にくるんだろう。

小林
くるんだ。

高頭
やらざるをえないんですな。

小林
で、信州といっしょになって、あそこでも、やったんだな。

高頭
そのときに、はよう行って駆け足させられたりさ、おれとうとう、倒れそうになった。

清水
馬鹿なことしたもんですね。

高頭
それから、新潟では、どこだっけな。

小林
“満蒙会館”でしたか。

高頭
そう。“満蒙会館”ってあった。

清水
元のあの辺じゃないですか。専売公社。あの付近。

小林
鉄道局の中みたいな、ちょうど……。木造のほうに、二階建ての建物かなんかの大きいのがあって……。

高頭
そうだ、そうだ。

小林
中央から講師が来て講義するんだ。

広瀬
精神訓話をやる……。

清水
あれ、“満蒙開拓会館”だからやっぱり、満州・支邦方面へ送り込むために教育してたんでしょう、きっと。

小林
最近まで“日本歯科医師会”の顧問されていた……。

高頭
山崎何とかという……。

小林
山崎という人?

広瀬
山崎佐か。

小林
弁護士でしょ?

高頭
弁護士だ。

小林
あれが一席ぶつんだ。

高頭
八紘一宇の精神を、一席ぶつんだな。

小林
やられたもんだよ。山崎さんにはまいったよ。おれ、あの人には苦しめられたな。すぐに“俺は帰る”って、怒っちゃって。

高頭
中途だったよね、あれ。

小林
ああ。“そんな、教え方ではわからん。帰る!”って。そいつをまたもどすのにほねおった、まったく。

高頭
いや、ときどき使う手だったって話だけど、こっちは……。

小林
喝を入れるべくね。

高頭
うん。

広瀬
弁護士だから手練手管は大得意。

小林
“練成”もいまとなればおもしろかったな。

高頭
いや、おもしろいんだか、苦しいんだかわからんな。(笑)


このほか、歯科医師会が主導していた配給も大変だったという(高頭「薪の山を買って薪割りさせられたり、さんざんだったなア」)。炭、ガソリン、石油、そしてなぜか“すけそうだら”も歯科医師会でわけ、配ったらしい。青年報国隊も結構忙しそうだし(鉄砲かついで歩かされたり)、歯科診療所経営には響かなかったのだろうか。まあ、患者もかなり減っていたのだろうけど。

戦時の医歯一元化闘争68 医歯一元化闘争の30年後

昭和51年発行の新潟県歯科医師会史に、医歯一元化闘争時代をリアルタイムで経験した歯科医師たちの座談会が掲載されている。

小林 
あれ、“一元論”と“二元論”で、あのお寺でやったのは、あれはどうなんだ? あれ、何年になるんですか。


「小林」十一郎氏は昭和28年〜42年度、45年度の新潟県歯副会長。大正14年“日本歯科”卒。

高頭
おれ、あれがわからないんだ。


「高頭」憲二郎氏は昭和26年〜45年度の新潟県歯会長で、この座談会では一番の古参である。
大正2年“日本歯科”卒。そして卒業後に、四国の入歯師のもとで修行したという。有免許の歯科医師が、無免許の入歯師を師匠とした時代もあったのである。

広瀬
昭和の14、5年じゃないですか。おれ、戦地にいって聞きましたよ。

小林
“一元論”かね……。

広瀬
17年くらい……。

手島
あれは、どういうことが出たんですか。

広瀬
イタリヤ軒で大騒ぎになったとか。

小林
イタリヤ軒でない。お寺。松川さんの。

高頭
どっかの、お寺だった。たしか……。

小林
“一元論”と“二元論”というのはけっきょく、医科に全部含まれて分科になるとか、それから、歯科は独立するか、こういうわけなんだよ。それで、“東京歯科”はこれ、“一元論”なんだ。

高頭
“一元論”だね。

手島
“一元論”じゃない、“二元論”だ。

清水
“一元論”でしょう……。

本間
“医科歯科”でしょう……。“一元論”は。

小林
いや……。

高頭
“われわれのほうは一元論だ”と、こういうわけなんだ。あの時分は学校、余計ないんだからね。

清水
“医科歯科”と……。

広瀬
“日大”が“一元論”じゃないんですか。

高頭
“一元論”は……、“日大”も“一元論”だったかい?

小林
そうだと思うな、あのとき、本間さんが、そんなことは詳しいんじゃないかい。

本間
いや……。


「本間」邦則氏は昭和31年“日本歯科”? 卒で、この座談会では一番の若手らしい。

手島
“日本歯科”は今、“一元論”ですか。

小林
“日本歯科”は“二元”じゃないですか。

清水
“東京歯科”と“日本歯科”は“二元論”で、“医科歯科”と“日大”かなにかが“一元論”じゃなかったんじゃないですか。

高頭
そうか。


記憶はかなり薄いようだ。無理もない。

広瀬
“医科歯科”と、――“医科歯科”ははじめから“一元論”ですね。

手島
“医科歯科”とそれから“日大”だ。

高頭
“日大”そうかもしれない。

広瀬
そうじゃないですか。

清水
その昔に、日歯の中原さんと、医科歯科の檜垣さんとが握手したら、またけんかになったとかなんとか……。(笑)

広瀬
けんかになった。離れたり、くっついたり、離れたり、くっついたりしてたんだね、あれ。

清水
いっとうはじめは?

高頭
なんだかわからんけど、もう……。

小林
なんだか、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、まあ、騒ぎだったよ。本間修二さんがあれ、こっちの一元論の有力者だったんだから、やっぱり、あれは“日大”が強かったんだな。

「本間修二さん」は、昭和22〜23年度の新潟県歯会長。

高頭
“日歯”はだめ。

手島
“医科歯科”だって、いくらもいないんだよ。

広瀬
そうだね。

小林
それだから、“日大”がとりしきっているんだな。

清水
二元論にすると“日歯”と“東歯”ということになる。


事実は、二元派は東歯のみ。日大も日本歯科も医科歯科も一元派である。

高頭
それは、“歯科”でもってきたんだから、それ以外、とりようがないんだな。

小林
あのとき、“医大”の学生なんかも来たように思うな。応援演説に。

高頭
医者のほうまで、応援演説にくるんだよ。


医者の応援演説。日大医学部か?

小林
なんだか、毎晩毎晩、なにかやってたね。

広瀬
しかし、おもしろい時代です、あれは。


そう「おもしろい時代」なのである。
戦時は暗くて、つまらない、声も出せない時代だったというイメージが強いけれども。蓑田胸喜とかね。

高頭
あれは、あの年度で終わっちもうたね。

小林
終わったね。

広瀬
そのうちに、18、9年に、歯科の将校制度ができましたからね。

高頭
そういうのかね。

広瀬
そうしたら、もはや、言っても……、既成事実ができちゃったから。

清水
なにも騒ぐことがなくなった。


陸軍歯科医将校制度は昭和15年、医歯一元化闘争よりも前である。海軍歯科医下士官制度は昭和17年。
しかしまあ、「歯科の将校制度」を一元化と捉えていた人もいたわけか。

手島
あれはたしか、17年ぐらいに、陸軍のほうが早かったんですよ、1年ばかり。海軍のほうは、妙にあれはおそかったですね。

広瀬
そして、“おまえ、行け”といっても、“おれは土方稼業が似合うから、いやだ”っていったんですわ。そのうちに、2年くらいたってから馬にけとばされましてね。そうだ、15年ぐらいにできたんですわ。

本間
15年ですね。歯科医将校というものは。


繰り返すが、15年は陸軍歯科医将校、17年は海軍歯科医下士官である。

手島
わたし、17年くらいにはいった。

広瀬
いや、これも、地方の面白い話もあって、歩兵の方がいいやなんて……、テクテクと歩くので……、あれ、いちばんすごいな。

手島
歯科医のくせして、歯科軍医にならず、みんな普通科の〇〇少尉になるわけなんだ。

広瀬
そう、そう。

高頭
それまではね。

広瀬
歩兵将校だ。

手島
戦争がそういう制度をつくりあげた。

本間
ところが、戦争がたけなわになってくると逆になってくるんですね。医学部を出ても軍医になれない人がいるんですね。

高頭
なるほど。


「医学部を出ても軍医になれない人」?
あの、軍医不足の時代に?

手島
いたけど、それよりも、戦争当時、歯科でもって、試験受けて医者になるなんていうのがあった。

広瀬
そうですね。

小林
あれも“一元論”のいい宣伝になったね。短期間の教育で……。

清水
1年くらいでね。

広瀬
そう、そう、1年ですね。

高頭
とにかく、戦争中はなにをしながら、戦争中の歯医者って何したんだか、実際わからんな。どうして食ってどうしてやってたんだか……。

いや、ホントに。材料も燃料もないのに「どうして食ってどうしてやってたんだか」。
それにしてもさすがは非売品、ユルさが大変貴重な歯科医師会史であった。というわけで、次回は「戦争中の歯医者って何したんだか」について。

戦時の医歯一元化闘争67 満州国の歯科医育

満州国の医師養成は、開拓医学院でも行われていた。
開拓医学院は康徳7(1940)年6月、龍井、斉々哈爾、哈爾浜の3ヶ所に設置された(1943年4月に哈爾濱開拓医学院は北安に移転)。修業年限は2年、入学資格は医学専門学校か“歯科医学専門学校の2年を終了したもの”、または満州国医師考試第2部考試または“歯科医師考試の学科考試に合格したもの”。卒業時に開拓地医師の資格が与えられ、現地での開業が許された。

満州国に於ては歯科医学専門学校の第2学年を終了せる者及び歯科医師考試の学科考試に及第せる者は医学専門学校の第2学年を修了し若くは医師考試の第2部考試に及格した者と同様既に基礎医師方面の教科課程を修了した者と見做して居る事が明らかである。
この他に前章で述べた哈爾浜医科大学医学部及び其の他新京医科大学等に於ても1、2年前迄は日系学生が僅少であった為に日系学生に限り歯科医学専門学校の卒業生を試験の結果第3学年若くは第4学年に編入せしめた実例もある。
之等は日本に於て歯科医学専門学校卒業生を単科歯科大に入学せしめたのとは異なり満州国に於ては歯科医師たるものの基礎医学的素養を医師たる者の夫と同様に認めたものとして歯医一元化問題に極めて重大な意義を有するものである。
茂田貫一「満州国に於ける歯医一元化問題に就て」、1943年5月発行「臨床歯科」)

ちなみに、満州国における医師および歯科医師の考試の内容は以下のとおり。

〔満州国歯科医師考試〕
第1部・学課試験:解剖生理、病理、薬物、保存、補綴、口腔外科
第2部・実地試験:保存、補綴、口腔外科

〔満州国医師考試〕
第1部・学課試験:解剖、生理、病理、薬物
第2部・学課試験:内科学、外科学、産婦人科学、防疫学
第3部・実地試験:内科、外科、産婦人科、眼科

第一部はほとんど同じであるが、だからといって、歯科医師が医師考試を受験する場合に第1部が免除されるということはなかった。

満州国には国内総有の科学者技術者の総力を結集し多岐方面に亘る専門知識の総合的動員体制を確立する目的を以て、本年(引用者註:1942年)6月5日満州帝国協和会科学技術連合部会なるものが結成せられ、凡ての保険衛生に関する部門は保健部会の名称の下に本連合部会の組織下に結合せられた。

満州国協和会とは、民族協和の実現を掲げた官民一体の政治組織。いわば、満州国の大政翼賛会である。

保健部会は更に事業部会と研究部会とに二分せられ、前者は主として国民保健衛生運動の実行に当り、後者は之が研究機関になって居るが本保健部会に於ける構成は医、歯、薬の完全な一元下に高度国防国家建設に於ける人的資源の確保に邁進する事になって居る。
未だ創立日浅く有機的な活動を示して居ないが、所謂歯医一元化問題も本保健部会の俎上に載せて研討せられるに至れば実現も極めて容易ならんと思惟せられ、我々歯医一元化促進運動に携る者に取って本保健部会の受容性を観過する事は出来ない。
従来の学会、其の他結核運動、齲歯予防の如き国民保健運動等も総て本保健部会の中に統合包含せられ、近く勅令に依る医師会令、歯科医師会令等が発布せられば医師会、歯科医師会等も本保健部会の機構下に属する模様である。


日本帝国は満州国を独立国家であると主張していたが、満州国の国籍を持った日本人はいなかった。つまりは日本の傀儡国家だったわけだが、一方で、医療行政などで独自路線を歩んでいたことは注目される。


戦時の医歯一元化闘争66 満州国の歯科医育

私は満州の国立大学医学部、歯科医学部の一元化に次のような私案を有して居る。
現在哈爾浜医科大学医学部及び歯科医学部の教科課程は第2及び第3表に占める通りであり、其の内国民道徳、日本語、体育、教練、物理化学等の一般課目は医学部、歯科医学部合同教育を行い、其の他の課目に就ては夫々の担当者が別個に教育して居るのであるが、此の医学部の教科課程に歯科学の講義及び実習時間を増加或は追加し、此の4ヶ年の課程を修了した者の中で選考の上数名を歯科学教室に於て1ヶ年間教育して歯科を専門とする医師を社界に送り出すのである。内科、外科等の各科に就ても同様1ヶ年の予科を於て基礎教育を施すよりも4ヶ年の医学教育を終って更に1ヶ年の専門科目に就て専攻せしめた方がより効果的ではなかろうか。
茂田貫一「満州国に於ける歯医一元化問題に就て」、1943年2月発行「臨床歯科」)

▼第2表 哈爾浜医科大学医学部各学年学科目及毎週教授時間数(矢印は臨床実習を示す)
第2表

▼第3表 哈爾浜医科大学歯科医学部各学年科目及毎週教授時間数
第3表


口腔衛生学は1時間なのに、軍事教練は18時間もある。時代である。

なお、著者いわく満州国の齲蝕罹患率は「極めて低位」という。
だから著者は「(日本の)轍を踏まない様に予防対策の確立こそ急務」と主張するわけだが、しかし、一方で鑲牙師(日本でいう入歯師、歯科技工師)は満州の大衆に親しまれていたわけで、とすれば齲蝕は少なくなさそうなのだが。歯周病が多かったのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争65 満州国の歯科医育

今般満州国に於ても歯科医学専門学校連合同窓会が結成せられ大東亜戦下の非常時局に対応して職域方向の完璧を期する事になった。此の歯科医学専門学校連合同窓会に課せられたる重大な使命の一は歯医一元化促進運動にあり、我々京城歯科医学専門学校校友会満州連合本部も単に母校校友会と軌を一にしたのみではなく、満州独自の見解に基づいて欣然之に参加したのである。
茂田貫一「満州国に於ける歯医一元化問題に就て」、1943年2月発行「臨床歯科」)

著者は哈爾浜医科大学に歯科医学部が発足した当時(昭和15年)の初代助教授。昭和25年岐阜県立大学医学部附属病院歯科部長、昭和31年岐阜大学医学部口腔外科学教室教授。

現在満州国に於ける唯一の歯科医育機関である哈爾浜医科大学歯科医学部は国立大学令に準拠した民生部直轄の教育機関であって修業年限3ヶ年、之に対して医学部は修業年限4ヶ年、孰(いず)れも明年度から満系学生には1ヶ年の予科を置いて基礎教育の補修を施す事になって居る。
医学部は日鮮満蒙露の男子に限って毎年約100名の学生を収容して居るが、歯科医学部に満系のみ50名而も女子の入学も許可して居る。
元来満州国に於ける大学教育は国家に枢要なる人材を国家が養成すると謂う根本方針を原則として私立大学の存在を許さず総て国費を以て教育し、卒業後はそれぞれ国家の指示する部門に於て職域奉公の義務を果すのが建前となって居るが、歯科医学部のみ医学部と異り日系を収容せずして女子の入学を許可して居る現状は満州国に於ては既に日人歯科医の過剰を意味し、歯科医術のみが女子にも適した医療行為なりと軽視せられた社界一般の認識不足に因るものである。


哈爾浜医科大学歯科医学部は、東京歯科医学専門学校と関わりが深かった。医歯一元化、さらには女子への門戸開放は、その頭越しになされたものなのだろうか。

事実満州国に於ては日人歯科医師のみならず国家の要求に依って養成せられた前記歯科医学部の満系卒業生すらも、現在の公営機関に於ける歯科施設の数では辛うじて毎年数名を収容し得るに過ぎず過半数は資材難の今日個人開業も出来ず無為に遊んで居るのは特に国立大学教育の本旨に悖る事甚だしい。
而して此の問題は決して一時的の現象ではなく例え全満の各公営機関に総て歯科施設が整備せられたとしても、其の数は限定せられ歯科方面のみにしか活用範囲を持たない歯科医学部の卒業生を毎年50名近く充当して行く事は困難である。然らば資材難が解消せられた暁に個人開業方面に振り向けて行く可きか、之も後述する鑲牙師なるものに大衆の殆んど総ての歯科的施術を占有せられ、且つ多少なりとも医学的療法を必要とする分野は之亦殆んど日人歯科医師の手に依って行われて居る現状では、此の方面への進路も非常に多難であるのみならず、国家として高度国防国家建設の立場から多分に自由主義的色彩の濃厚な個人開業医制度は早晩改正せられるべき運命にある時、斯かる方面へ国費を以て養成した卒業生の活路を期待する事は至当ではない。
女子に対しては未だ未だ良妻賢母の教育を第一義としなければならない現在の国情に徹して文科方面の女子大学の出現こそ望ましく時に技術方面の大学中、歯科医学部のみ女子の門戸を開いて居るのは其の真意が那辺にあるのか了解に苦しむ所である。


日本において女性の社会進出、職場進出が最も進んだのは戦時中である。男にカネがあれば畜妾は常識の時代にあって、それら妾たちを戦時にどう活用するか、なんて話も出ていた。

医学部に於ては国策的見知から一昨年度より女子の募集を廃止し出来る丈多数の男学生を日鮮満蒙露の五族から入学せしめて居るが卒業生は殆んど総て公営機関に配置せられて名実共に職域奉公の実を挙げ尚且つ医師の不足を嘆いている。
現に第1表に示す通り満州国に於ては医師歯科医師の待遇にも非常な懸隔があるが、之とても為政者に云わしむれば需要供給の関係に他ならないと謂うに到っては、我々は従来我々が踏襲してきた所謂歯科医界なるものを確かに再検討しなければならない事を痛感する。


▼第1表 満州国民生部康徳9年度技術官任用初任給
第1表


康徳9年は昭和17年、西暦1942年。「津貼」は手当の意。単位が書いてないが、恐らく円。
ちなみに、昭和16年の小学校教員の初任給は50〜60円(週刊朝日編「値段史年表」)。

田代次郎「重光葵さんと巣鴨の思い出」

田代次郎「重光葵さんと巣鴨の思い出」(昭和58年)より、巣鴨拘置所内の重光葵。
重光さんとは、半年以上の間、向い合った独房で、朝夕顔を合わせた。独房の鉄扉を開けば、お互いに飯を食べていることも、読書していることも、大小便をしていることも、手に取る様に見えた。


著者は九大生体解剖事件※に連座し、重労働15年に処された医師。大正6年生まれ、昭和14年九州医学専門学校卒業。巣鴨拘置所内では医師として、同ブロックの「彼等A級戦犯の人々の保健や疫病について、米軍医務室係の米人衛生兵等との間に、適宜に連絡処置をしなければならない立場」であった。A級戦犯はBC級戦犯と当初は隔離されていたが、「世相の推移と国際情勢の変遷に、米軍当局の管理取扱いも緩和され」、著者のいる15年有期刑グループのブロックに移動していた。

某日ある日、ふと重光さんの独房に眼をやると、机に向かったまま彼は動かない。私は異常な胸騒ぎを感じた。これはおかしいと駆けつけ、呼びかけると返事がない。独房に飛び込み、脈搏を触診すると、結滞して微弱である。「重光さん! 重光さん!」と肩を揺さぶり、声をかけると、ほーっとした顔貌で、「おーっ」と声が返ってきた。一過性の脳循環虚血症状だった。米軍管理下の聖露加病院での受診精密検査では、過喫煙のアリトミーで余り煙草は喫まない様にとの簡単な注意事項の通達があった。出獄数年にして、突然死で斃れた重光さんは、既に当時から血管循環系障害の病因を持っていた。


獄中でもタバコには不自由しなかったもよう。今はどうなんだろう。

重光さんは、訪問されたり、ポーカーを誘われたりした時に「ノー」と拒むことのない人だった。永年の外交官生活が第二の天性となったのか、或は身に備えた天性の美徳だったかも知れない。米軍将校が好意的に贈ったチョコレートやキャンデーを二人で頬張り、重光さんの折り重ねた蒲団に、顔をつき合わせて寄りかかり、何かとだべり語った。


同時期に収監されていた笹川良一は、重光の健康と無罪を祈って禁煙までしている(笹川良一「巣鴨日記」)。好かれる人柄だったようである。

重光さんは、A級戦犯の中でも、米軍将校等から特に好感を受け、暖い心で交際していた。頻々と、彼等の訪問を受け、独房で一時間も二時間も話し込んでいた。その折に、BC級戦犯の釈放や処遇に、峻烈な意見批判を吐露し――挙句のはてに、「全く同意見です。而るべく善処します」と畏敬窮屈し、彼等は独房を引き揚げていった。


獄中外交である。外交官は天職だったのだろう。
サンフランシスコ講和条約の成立後は、巣鴨拘置所は収監者の宿泊所と仮した。夜さえ帰ってくれば、昼間はシャバでナニをやっていてもいいのである。弁当まで支給され、しかもその弁当は「銀めし弁当」。まだ白米の不足していた時代に、である。著者は「獄外の大学で子宮、膣の発生学、殊にミューラー氏管と尿生殖洞の関係の研究探索に朝から晩まで没頭」したとある。「獄外の大学」とは日本大学らしい

ある日、米国務省に提出する九大生体解剖事件の死刑囚三名の除名減刑の嘆願書を「この英文でどうでしょうか?」と重光さんに補筆訂正を求めると、じっくり丹念に何回も読み返し、「ウン! 仲々うまく書けてるね!」と一応は私を喜ばせた。あれを訂正し、これを書き変えて、最後には殆ど鉛筆で真黒に塗り潰された五枚の嘆願書を、ポーンと机上に置いて、「そこでだ! 田代君! この助命嘆願書は、意味はチャーンと筋立っているが、これでは助命嘆願書ではなくて、米国務省に喧嘩の果し状を送る様なものだよ」と。要するに稚拙にして語学のセンスがないと、真綿でシンワリと首を締める様に宣告した。


重光は墨で書いた似顔絵(墨絵)がうまく、外交官時代にはパーティーなどので披露し、駐在官婦人らにも喜ばれていた。著者は重光に、墨絵をプレゼントされている。達筆でもあった。上海総領事時代に「江蘇第一の中国書家」から学んだのだという。芸達者である。
獄中の人物評には、平沼騏一郎もみえる。

A級戦犯の最高年齢で、胸を打診しても、ボコンボコン音がして肋骨が洗濯板の様に痩せて痛々しかったのは平沼騏一郎さんだった。検事総長として、明治の幸徳秋水らの大逆事件を裁き、枢密院議長、総理と歴任した人で、国家主義団体の国本社の総裁でもあった。
金の総入歯を、ガクンガクンさせながら、「精神修養団体の国本社が、A級戦犯の訴追原因となってね――」と味気のない言葉だった。


合わなくなった総入歯で獄中生活を送っていたようだ。そして、そのまま死んだのだろう。かわいそうに。

※九大生体解剖事件
1945年5月5日、米軍爆撃機B29が紫電改の体当たりを受けて熊本、大分の県境付近に墜落。捕虜になった米兵9人のうち、東京に送られた機長を除く8人が九州帝国大医学部に運ばれ、生体解剖されて死亡した事件。23人が有罪、うち5人は絞首刑を宣告されたが、後に減刑されている。
著者は事件当時、九大医学部第一外科の研究生だった。計4回の生体解剖手術のうち、第1回と2回に参加している。

九大生体解剖事件判決
▲著者は判決当時32歳(昭和23年8月28日付朝日新聞)。

巣鴨プリズンの重光葵I賊,糧畛瓦幣況

極東国際軍事裁判で禁固7年の刑を下された重光葵は、昭和25年11月21日に仮釈放となる。収監されたのは昭和21年4月29日。獄中生活は、4年7ヶ月に及んだ。
獄内の医療状況は、実に「悲惨」だったようだ。

原田巌君(刑5年)病院より退院して我々の一棟に入る。病院の悲惨な状況を語る。
結核患者は軽きも重きも一室に集め廊下の方は密閉し窓は開放す。寝具不足にて皆ふるえ上る。血を吐くものは同室の患者にて介抱せしめる。
精神患者2名(死刑)あり、騒ぐ時は袋に入れて天上に吊し上げて冷水を打ちかけ半死半生の状態にて静まるを俟っておろさる。見るに忍びなかった云々。
(昭和24年3月16日、重光葵「続巣鴨日記」昭和28年)

この「病院」は巣鴨プリズンに附属していたようで、戦犯として入所中の日本人医師が診療している。

A級戦犯の扱いはことのほか厳しかったようで、

今日2組に分れて午前午後運動会をやり、巣鴨人の英気を養う機会が与えられた。A級は参観を許されず。
数日前他棟に自殺未遂があった。肺を病める人で雑房にありし人。廊下の隅の窓側で自絞を計りて見付かり蘇生したとの事。彼は後に独房に移され、後手にして手錠をはめられ、食事の時のみ片手をはづされると。
巣鴨の外郭に鉄条網あり。ある日鉄条網近くの木屑を拾い集める為之に近づきし女あり、見張台の番兵之を射殺した。その為監視も一層厳重となった。
(昭和24年5月22日)

「巣鴨人の英気を養う機会」(=運動会)も見せてもらえない。
戦犯たちに対する世間の目も、温かくはなかった。無理もないが。

壁外野球見物許さる。柵外より子供
「小父さん、何でぼろを着て、愚図愚図して居るの? 早く逃げればいいじゃないか」
P服
「いや、逃げたり何かしないよ、この内には沢山偉い人も居るんだぞ」
子供
「偉い人なんか、皆殺されてしまったんぢゃないか」
(昭和25年5月14日)

ちなみに、女囚棟には「三、四十歳くらいの人で九大医科病院の看護婦長筒井順子さん」もいた。「順子」は間違いで、正しくはしず子。九大医学部生体解剖事件の被告である。1948年8月27日に重労働5年の判決が下された。

1948年8月28日付朝日新聞
▲1948年8月28日付朝日新聞。

さて、重光の仮釈放当日。「法務局の人」が来て、なんとマッカーサーへの感謝をマスコミに言うよう要請するのである。なにそれ。

待って居る間に法務局の人とか云うのが私に耳打ちして、新聞記者には保釈は全くマッカーサーの特別の恩典で、此の恩典に対して感泣して居ると云う趣旨を談して貰い度い。後の人の為にもなると云うのである。私は之を黙殺した。其の人は更に之を紙片に書いて私に渡した。私は之迄出所する人の言葉が一様にマッカーサーに対する感激の辞であったことを不思議に思って居たのであるが、其の原因は茲にあることが解った。之が日本政府の指導であるとすれば飛んでもないことである。私はポケットに入れた其の紙片ノートも素より完全に無視した。
(昭和25年11月21日)

武見太郎がマッカーサーから人体実験を要求され、それに厚生官僚が反対しないどころか追随したことに激怒していたが、法務局もか。そんな追従を断固拒否した重光はエライ。昭和30年8月、米国務省での会談で米軍完全撤退と、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止をダレスに果敢に主張したというのも納得である。
収監期間4年7ヶ月、58歳で収監された重光葵は、出所時には63歳になっていた。
64歳で公職追放が解除され、67歳で鳩山内閣で外相兼副総裁に。日本の国際連合再加盟が実現し、日本政府代表として国連総会で演説したのが69歳。その1ヶ月後、昭和32年1月26日に重光葵は狭心症で急死した。

巣鴨プリズンの重光葵◆―堽苛責なき方法

巣鴨から法廷に行く、其の出入は例に依って丸裸にされ、持ち物は一切其の都度検査される。二重の検査である。行き帰りの検査、法廷でも二重の網戸である。外部との連絡は斯様にして厳重に遮断されて居るのであるが、それでも巣鴨に帰る時は思い出した様に手荒い検査がある。肛門から、陰茎、足の裏、口腔等容赦なく検査する。巣鴨に帰ると一つの室で裸になり、順々に検査を受けて、他の質に実に一物も着けず素足の儘行く、此処で朝出がけに脱ぎ棄てた獄房用の衣服に着替えて、整列して房に帰るのである。眼鏡も入歯も書類と共に検査を受けねばならぬ。
(昭和22年2月17日、重光葵「巣鴨日記」昭和28年)

常に沈着冷静、泣き言を言わない重光葵が参っていたのが、検査だった。身体検査に室内検査。収監者が自殺する事件などがあり、国際的にも注目されていた重光ら要人の検査は苛烈を極めた。ほとんど強姦である。

先づ頭髪、腕下、股間と毛のある処を仔細に検査する。次に鼻、陰茎、肛門等苟くも穴のある処を、或は指先で或は機械で入念に検査し、それから口腔から歯を全部一々手荒く検査し、永い時間を費やした上で二階に返され、第硬錣貌ったが、今度は室変えで、廊下の反対側に移されて、房内は一、二の書類初め私有物は全部取り上げられ、P印のズボンとジャケットの上下と蒲団二枚及びバイブル一冊と洗濯物が投げ込まれてあった。日記等の書き物は引きちぎってある。本日記中欠けた部分は回復出来ぬ部分である。
(昭和22年6月24日)

房はたびたびアラされ、しかもモノが持ち去られている。
日記は証拠品として――なのかもしれないが、タオルや靴下まで消えるのがよくわからない。支給品だからいつ取り上げてもOKとかいう腹なのか。支給品は「タオル石ケン便箋便紙歯ブラシ歯磨」(笹川良一「巣鴨日記」)、取りあえず必要な品は支給されたようだ。しかし、必要品が必用時に支給されるかは、また別問題であった。

更衣室に置いてあった靴下等が何時の間に失くなった。困ると訴えれば主任大尉は何時でも別に配布しようと答える。用紙、鉛筆、状袋、石鹸等の日用品を要求すれば「明日配布する」と獄兵は云う。翌日も同じ返事である。それかと思うと思い出した様に先方から歯ブラッシを持って来たりすることもある。
(昭和22年5月24日)

「眼鏡、鉛筆」まで取り上げられている。

午前中全員引き出され、医務室に連れ行かれ一人一人長時間の検査をなす。検事論告も始まる際何事か起ると直感したのであった。検査は毒薬隠匿を防ぐ為め峻烈苛責なき方法を以てなされた。先づ頭部、胴部のX線光線撮影の後、次の室にて歯、口腔検査、第三室にて衣類全部を取り上げ、別の囚人服を着せられる。其の前に耳、陰茎、肛門等を入念に検査し正午過ぎ迄かかる。夫れから二組として雑居房に連れ込まれ、食事の後数時間其儘監視の下に放置せられ、午後4時過ぎ外出の際の更衣室に送られ、再び裸体となり、今度は明日の為めに全部検査洗濯せる外出用の個人洋服を点検、明日出発の用意に整理せしめらる。終りて一同元の独房に帰さる。独房は書籍類に至る迄全部一物残らず引き上げられ、畳も取り代え、夜具も全部取り代えらる。
之より夜は眼鏡、鉛筆も夜8時より朝6時迄取り上げられるとの命令、自殺予防の科学的方法の様である。
(昭和23年2月5日)

眼鏡と鉛筆を夜8時から朝6時まで取り上げることが、ナゼ「自殺予防の科学的方法」なのか。

市谷往復は水も洩さぬ監視の下に置かれることは勿論である。それに巣鴨に帰ると丸裸にされたうえに、眼鏡も入歯も除かれて、口腔も鼻孔も耳も尻の穴も最も非常識な検査を受ける。
(昭和23年2月21日)

医務室には歯科室も付属していた。

次に歯科室に連れ込まれた。口腔を入念に検査する為めである。
(昭和23年4月16日)

歯科医師は外部から来ている。常駐ではなかった。

手荒き歯医者来り口腔の検査をなす。其実スヴェニールの為めに写真にサインをなさしむる為めなり。
(昭和23年4月27日)

「スヴェニール」とあるからには、米人だろう。
GHQは日本の歯科医療を50年前の遺物とバカにしていたが、巣鴨プリズンに来ていた米人歯科医師の質は非常に低そうである。
判決前日には、米陸軍病院で仔細な身体検査を受けている。

簡単な食事の後に最も厳重な警護の下に、目かくしバスは市ヶ谷から市内を通って病院に向った。街の様子も少しは見えた。こみ合った町の通行人、夜店の寒むそうな陳列もちらちらと眼に止まった。
病院では、要するに自殺用の薬品を所持して居らないかを調べるもので、X光線で丸裸にした身体を仔細に検査し、更に口腔、鼻孔、肛門等一々手荒く検査するのである。検査は粗暴で痛味を感ぜしめるものであった。
(略)
4時に法廷が終り、直に食事をして病院に行き、病院を出たのが7時前、真暗であった。
巣鴨では幸にももとの房に入れられた。然し房にあるものは畳迄含めて全部、蒲団も毛布も衣類も石鹸も歯磨きようじも、一切の日常品は全部取り替えられて、其の他のものは、書物もバイブルも新聞片も全部完全に持ち去られて居た。
(昭和23年11月11日)

この翌日、昭和23年11月12日に重光葵は判決を受ける。有罪、禁固7年の刑だった。

重光葵の法廷スケッチ
▲重光の法廷スケッチ。重光葵は、絵もうまかった。

巣鴨プリズンの重光葵 \謬咾料人鉄獄に堕つ 

戦時の日本外交を担っていた重光葵(明治20年7月29日〜昭和32年1月26日)は昭和21年4月29日、A級戦犯容疑で起訴・即日逮捕された。事前勧告等一切ナシ。スーツケース1つに身の回りの品をまとめ、重光はジープに乗って鎌倉から巣鴨へ向う。そして、そのまま拘置所に収監される。この時重光葵、58歳。逮捕時、14歳のお嬢さんが涙を浮かべながらも取り乱さず、MPや憲兵に茶を出す態度は見上げたものである。
なお、名前がやたら難読だが(葵と書いてマモルと読む)、父親が漢学者らしい。重光葵自身も獄中でたびたび漢詩をつくっている。余裕である。

隻脚騒人鉄獄堕 家亡身滅両児飢
湘南日夜思風浪 勿愁方之国破時
(昭和21年4月29日、収監当日)

重光が隻脚となったのは14年前、巣鴨拘置所への収監日と同日(天長節)の昭和7年4月29日である。その上海天長節テロ事件で、重光は爆弾テロに遭い、右脚切断の重傷を負った。死線をさまよいながら重光は第一次上海事変の停戦交渉について外務省と連絡をとり合い、停戦協定調印を5月5日午後に行っている。調印を終えると、すぐさま右脚を切断。爆弾創による複雑骨折は、外科手術でも最も難しいもののひとつという。死線を越えたのは5月8日午後。その後船で九州大学医学部病院に運ばれて、再手術である(第二外科)。

参考:渡邉行男「隻脚公使(2) : 重光葵文書より」

昭和20年9月2日、戦艦ミズーリでの降伏文書調印式では、重光はステッキを使い、義足で歩いている。あの高い甲板まで、どうやって登ったのかと思う。4年7ヶ月に渡る監獄生活もさぞ不自由だっただろうが、意外に医療関係の記述は少ない。持病の神経痛に始終悩まされていた有馬頼寧とは対照的である。まあ、重光はそれどころではなかったのかもしれないが。有馬は被告席に立つことすらなかったが、重光は有罪となるのである。

食事時となれば、番兵大声
チャウ!
と叫ぶ。多くはどんぶり鉢の中に、飯に汁類を打ちかけたものなり。恰も飼犬に食事を給するが如し。
(昭和21年5月8日)

計5人が同室。

同室五名何れも俘虜関係なり。互に激励す。
(昭和21年5月8日)

重光クラスの要人でも相部屋なのか。
ニュルンベルク拘置所は、もちろん独房である。日本で雑居させたのは、GHQ側に人種差別的な意図があったからか、日本の人権意識が低くて収監施設が貧弱だからか。どうもその両方くさいけれども。
人種差別といえば、アメリカとカナダが製作したテレビドラマ「ニュルンベルク軍事裁判」を見たら、ヘルマン・ゲーリングが心理学者のグスタフ・ギルバートに、アメリカ人の人種差別意識を指摘する場面があった。いわく、米国内で強制収容したのは日系人のみでドイツ人やイタリア人にはそうしなかった、ヒロシマとさらにはナガサキにも原爆を落としたのはどうなんだetc。ナチスのユダヤ人差別への非難に対する、見事な切りかえしである。このドラマ、ゲーリングが輝きまくっていて他すべてを喰っていたが(役者はブライアン・コックス。実にうまい)、製作者側に右派のドイツ人でもいたのだろうか。一方、恐らく主人公設定なのであろう、主任検事のロバート・ジャクソンは不倫相手の秘書とイチャつく軽薄なヤンキーそのものでイラつくこと限りなし。いやしくもアメリカ合衆国代表をこんなアホに描いていいのか、と心配になったほどの軽さであった。死刑廃止論者なのに死刑判決がお約束の裁判の主席検事を引き受けるし、検事と判事は超ナアナアだし……って、これは事実か脚色か? まあ、ドラマとしては面白いのだが、こんな内容(極めて反連合軍的、親ゲーリング的)でエミー賞を取ったというのはちょっと驚きであった。同じくエミー賞受賞作でナチス政権下のユダヤ人家族を描いた「ホロコースト」も面白かったのでオススメである。
閑話休題。 

昨日平沼男病院より帰来、病院の待遇悪化の事を語る。又東郷は容態宜しきも、心臓発熱は歯より来るとて全部の歯を抜きたりと、
(昭和22年5月2日)

「病院」とは、蔵前にあった米陸軍病院(現・同愛記念病院)だろう。
「平沼男」=平沼騏一郎男爵。平沼は昭和22年4月16日に入院している。病状についての記載はないが、この時平沼79歳。拘禁自体が老体には酷だったと思われる。判決は、A級戦犯として終身刑。1952年に病気のため仮釈放されたが、その直後に死亡した。享年84。
ちなみに、平沼が夜半に重光の房にやってきて「軍部の横暴振りを述懐し、今日若し戦争が好結果に終りたらば、日本は如何なったか寒心の至りであると云」ったと重光は書いている(昭和23年9月12日)。
「軍部の横暴振り」――まあ、米内光政が戦後、原爆投下やソ連参戦を天佑と述べたのは有名な逸話だし、似たような感慨を抱く当時の閣僚・官僚は少なくなかったのかもしれない。しかし、お前が言うな平沼よ。帝人事件や企画院事件などのでっち上げで首相にまで成り上がった極右が、どの口で「軍部の横暴振り」というんだ。
「東郷」=東郷茂徳。無歯顎になったこの時、64歳だった。義歯は獄中でつくったのだろうか。米人の歯科医師と、歯科技工士によって?

巣鴨プリズンの歯科事情 有馬頼寧

ドンブリ一杯は茶碗で四杯はあると思うが、おかゆの様なものとか、汁の多いときはよいが、普通のお飯を喰べなければならぬときは、胸につかえて通らず、御茶をのんでも下らない。時間が短いので、あわてるためもあるが、どうも唾液が足りぬ。食欲が旺盛でないのだ。歯が悪いというためもある。
(昭和21年2月26日、「有馬頼寧日記〜祿獄中時代」1997年)

有馬頼寧には、軽度の嚥下障害があったようだ。
巣鴨拘置所の食事は肉や果物は少なくともシャバよりは豊富だったが、野菜不足だったようである。食糧はドコから調達していたのだろうか。

拘置所の我々のとりあつかいについてはいろいろ不平もあるが、戦犯のことだから、たいして我儘はいえず、此位ならよい方である。食事も悪いという人もあるが、量といい質といい、闇の生活でもしていない限り、上等である。私など家に居る時よりも遙かによいものを喰べている。肉も魚もあり、野菜こそないが、パンも上等だし、バタ、チーズ、ジャムから果物は期[季]節期節のものをとにかく喰べられるのだから文句はない。或人の計算では一人一日百円はかかるというていた。
(昭和21年6月11日)

「一人一日百円」とすると、3000円/月。昭和21年の巡査の初任給(基本給)は420円/月、国会議員報酬は1500円/月(諸手当含まず)、国家公務員の賞与は1080円だ。ホントならすごい食費である。

問題は医療である。松岡、大川、津田の三人も要するにドクターの腕のないのと不親切が元で、それはドクターの責任か、上の方針かしらぬが、とにかくなって居ない。裁判で俘虜の医療をやかましくいいながら、此ていたらくは何であるか。


松岡=松岡洋右、大川=大川周明、津田=津田信吾

松岡氏の病状の悪いのに驚いて司令部では拘置所のドクターを非難していたとか、松岡氏をここに入れたことが聊々間違いなのに、入ってからの取扱いは到底あの重病人の取扱いではない。そして今になって入院させたり何かして騒いでいる。裁判上からいうても大切な立役者なのだから、もっと大切にすべきであった。


松岡洋右は結核で、肺も腎臓も悪かった。極東国際軍事裁判公判中の昭和21年6月27日に死亡。享年66。
呼吸器感染症の患者をそうでない人と一緒の雑居房に入れるというのは、衛生的にいかがなものか。有馬のいうように、虐待と言われても仕方のない所業である。

将来戦犯者の取扱上非難さるべき問題があったとしたら、それは医療のことで、ドクターの態度であり、又所長の責任である。津田さんの事は私はよく知らぬが、あれとても、前以て多少の取扱上の注意はあるべきだったと思うし、殊に大川氏の如きは明かにドクターの怠慢である。又所長の無責任の結果だと思う。


大川周明は精神異常。裁判から外され、昭和32年まで生き延びた。享年71。
津田信吾の病状は不明だが、昭和23年4月に脳出血で死去している。享年67。公判中から、めまいや頭痛などの自覚症状があったのかもしれない。

私の病気についても、ドクターは殆んど知識がないし、又極めて不親切である。(略)医療のことを病人個人の問題と考えるところにあやまりがある。自分が病気をせぬから、医者などどうでもよいと考えるなら、それは根本観念がまちがっている。


有馬は神経痛であった。痛いうえに治りにくい、つらい病気である。獄中の有馬は、神経痛の誘因である隙間風などに戦々恐々としている。

前の主任ドクターは恐らく一度も診察ということも治療ということもしたことはないであろう。収容所の人達も、自分達は俘虜に対して、この様な冷酷なことはなかったというて居る。人種的蔑視も手伝っているのであろう。肉体に触れることをきらっているのであろう。


「人種的蔑視」とあるので、巣鴨プリズン内の医療はアメリカ人医師が担っていたのだと思われる。「恐らく一度も診察ということも治療ということもしたことはない」医師というのがよくわからないが。厚生技官みたいなものか。
ちなみにこの頃、シャバは医師過剰である。戦時に大量養成し、戦地や外地にいた医師が敗戦で大量に帰国したからである。日本人医師の調達など、GHQはいくらでもできたはずなのだが。


巣鴨プリズンの歯科事情 有馬頼寧

有馬頼寧の巣鴨プリズン獄中記は昭和20年12月12日に始まり、翌21年8月31日に終っている。有馬は起訴されることなく、釈放された。
A級戦犯の容疑をかけられた、その原因は不明である。
有馬頼寧は明治17年、久留米藩主・有馬頼万伯爵の長男として生まれ(出生地は東京)、明治43年に東京帝大農科大学を卒業後、農商務省に入り農政に携わる。大正6年に同省を辞職し、東京帝大で農政学を講じる一方、部落解放運動や農民組合運動を支援して注目された。“左より”の華族であったわけだ。昭和12年の第1次近衛内閣では農相を務め、さらに近衛とともに新体制運動を促進し、昭和15年に大政翼賛会の初代事務総長になっている。
というわけで、大政翼賛会初代事務総長という経歴がマズかったのか……と思われるが、獄中記によると、取り調べでは大政翼賛会的なことは一切聞かれなかったようだ。というか、取り調べ自体ほとんどなく、有馬はヒマを持て余して読書と歌ざんまいの日々である。巻末に付された伊藤隆の解説によると「証言者として利用できるかどうか調べるためであったらしい」というが、それにしては収監9ヶ月は長すぎないか。不起訴にはなったが、裁判なしで9ヶ月の禁固刑を喰らったのと同じではないか。
有馬と同時期に巣鴨プリズンに収監された容疑者には、太田正孝井野碩哉古野伊之助岡部長景などがいた。以上は皆不起訴で釈放されているが、岡部長景の収監期間は22ヶ月(1945年12月拘留〜1947年8月釈放)と、もはや制裁の域である。なお、岡部は東条内閣での文部大臣。任期中、学徒動員や学徒勤労動員を実施している。

岡部君と話したことだが、近衛君は健康も悪いから気毒だ。多分痔が悪いので入所せぬであろう。
(昭和20年12月14日、「有馬頼寧日記〜祿獄中時代」1997年)

近衛文麿は当時、54歳。昭和20年12月16日に近衛は服毒自殺し、18日に有馬頼寧は獄中で近衛の死を知る。有馬は「無理もない」と同情しつつ、「任務を果さずして死ぬのは臣道ではない」と憤った。

死んですべてをうやむやにしてしまうことは、陛下に対しても、国民に対しても、又友人に対して、総てに迷惑をかけることなのだから。
(昭和20年12月18日)

近衛が死んで最も迷惑がかけられた「友人」は他ならぬ自分だ――と、有馬は思ったのだろう。有馬は大政翼賛会の創設者のひとりで、ナンバー2であった。ナンバー1はもちろん近衛なので、現存する最もエライ大政翼賛会関係者は有馬となってしまった。

事務総長をやったものは、死刑になるのではないか。日本にナチなど出来もせず必要もないが、それをいえば陛下に累を及ぼすし、近衛公というかんじんの人が居なくなったので、自分の立場も甚だしく不利になった様だ。
(昭和21年1月10日)

「死刑になる」という懸念は杞憂に終わるが、有馬はさぞ気が重かったに違いない。気が弱い人であったら発狂してもおかしくない事態である。ここで彼の正気を保たせたのは、趣味や教養であった。有馬は読書し、歌を詠み、愛人に思いを馳せたりして獄中生活を優雅に生き抜くのである。

隣の八号室に松岡洋右氏が来た。一寸見てはわからぬ位変っているが、不相変強気である。近衛公の手記に対して不満であった。あれは自分で書いたものではあるまいという。私も同感である。あの人は自分で書いたことは殆んどない。松岡氏曰く、自決するなら終戦の大詔の時にすべきで、自分が引っぱられることになってから自決するのは間違っているという。あの人の態度のために自分は引っぱられたのだというて居た。
(昭和21年4月13日)

巣鴨プリズンで、近衛に対する評価は地に堕ちていた。近衛は最もひどい形で自分の人生に幕を引いたのである。首相の器ではなかったのだろう。そういう人を首相として全世界を敵に廻したのが、わが国か。悲惨としかいいようがない。
なお、「近衛公の手記」とは朝日新聞に12月20日から掲載された「日米交渉 近衛公手記」(全11回)だろう。書いたのは松岡洋右の指摘するとおり近衛文麿ではなく、朝日新聞記者の小坂徳三郎である。小坂は後に、第1次大平内閣の経済企画庁長官、鈴木改造内閣の運輸大臣を務めた。

巣鴨プリズンの歯科事情 有馬頼寧

昭和17年、有馬頼寧(明治17年〜昭和32年)の獄中記から。昭和20年12月12日にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された、その当日の記載である。

午後一時に荻窪を出発、巣鴨に着いたのは二時前、暫く連絡事務局で休憩の後刑務所の門を入ったのは二時半頃と思う。第一調室では荷物の検査と身分の調べがあり、第二室は身体検査で、第一室の検査の時衣服は全部脱ぎ、支給の衣服と着替え、健康診断も簡単に終って、第三の室に入り、何か知らぬが白い消毒粉を総てのものにふりかけられた。
(昭和20年12月12日、「有馬頼寧日記〜祿獄中時代」1997年)

「白い消毒粉」はDDTだろう。

今朝ドクターが来たので診断書を見せた。温かくする方法はないとの事。歯グキの痛いのは、歯医者が居らぬから、来たら何とかしてもらえるとの事。
(昭和20年12月12日)

歯科医師は常駐ではなかったようである。
この時、有馬頼寧62歳。有馬が無歯顎になったのは58歳で、収監時は総入れ歯であった。極東軍事裁判の、特にA級戦犯容疑者は皆高齢である。歯科医師ぐらい常駐させとけよと思うが、そこまでGHQの気が回らなかったのか。ちなみに、食事はシャバよりも良かったことを、多くの入獄者が証言している。

林檎やみかんを近頃は毎日の様にくれる。林檎はあまり好きではないし、刃物がなくて歯が危ないから他の人に譲っている。ミカンは上等で味い。
(昭和20年12月25日)

皮をむくナイフはもたず歯は入歯 林檎も梨もただ眺めいる
(昭和21年1月7日)

入歯で林檎も梨も喰べられぬ歌を書いたら二十四号の人がミカンを沢山わけてくれたので、林檎と梨を交換した。
(昭和21年1月12日)

ドンブリいっぱいのぜんざい、カレーライスなど当時の食糧事情からすればかなりのご馳走も出されている。ただし、波があったようで三食ともパンという日も。パンが好きな有馬は喜ぶが、他の容疑者は不満を言っている。当時、パンは代用食という意識が一般的であった。

カレーカレーほんとにカレーライスなり 汗をふいたり水をのんだり
(昭和21年2月16日)

死刑の恐怖に脅え、神経痛に悩まされつつ、有馬頼寧には獄中で歌を詠む余裕があった。このあたり華族のエレガンスであり、プライドなのだろう。

戦時の医歯一元化闘争63 お医者さんとソバ屋の新体制

新体制ブーム真っ最中の医療系記事。著者は下村海南(明治8年〜昭和32年)、初出は昭和16年6月号の「モダン日本」。

「夜ふけての往診は全く閉口しますよ。京都の茶屋街では夜12時すぎ、午前1時、2時、そうした頃にふんだんに電話がかかってくる」
「夜中急病が多いのでしょうか?」
「急病では無い、宵のうちから電話をかけてよいのだが、商売柄縁起をかつぐ気味もあろう、何よりもお客商売最中に医者がくる、病人のほうへかかわってるのは困る、まあ店が片付いてからの事だ。お客はかえる、店はしまう。夜の1時、2時、やれやれ一眠りという時、夜と昼と取りちがえている茶屋街では、それではお医者さんに来てもらいまほか、電話おかけやすえという、いと心安げな電話をかける段取りになるのですよ。」
(お医者さんとソバ屋の新体制、下村海南「日本の底力」昭和16年)

今でいうコンビニ受診である。

「それはたまらない。そうした夜更けの往診などは特別診察料をとってよいのですな」
「ドイツなどでは夜8時以後は時刻によりちゃんと診察料が割増しになっているが、日本ではそんな事をすると世間が承知しないでしょうね……だから自然新規はじめての家だからと足が運びにくい。御得意の方は仕方がない、床からはね起き、ぶるぶると身振いして寝巻を着かえる……」
「冬のさ中雪の夜などは感心しませんな……結局これも時節柄ドイツ式にでもしないといけないようですな。そうした特別割増料でもきまってると、遠慮なく夜中にもお医者さんへ電話をかけて見る気にもなるが、そうでもないと、よくよくの時でないと、そのうち夜の明けるまであと何時間だ、それまでまあ辛抱しよう、という事になりやすい。」
「ドイツではそればかりでない、薬瓶にしても患者の方で無駄をしたくないというのでよく古瓶を持参してくる。そうすると薬瓶代の3分の1をとる。古瓶の洗浄とレッテル貼付代として……」
「ハッキリしてますな」
「それから電話で容体をはなしその手当なりいろいろたづねる。時には郵便に託する事もある。そうしたときにはその電話なり郵便による返事に対し、なにがしか法定の料金もとる……」
「日本ならばいやに水くさいというところでしょうな……」
「日本ではそうしたいろいろの代金が、つつこみで薬価や診察料へコミにはいってると見てもよいですな」


傍線は引用者。まさに。マルメ、ダメ、ゼッタイ。
国会議員に一律支給される「文書通信交通滞在費」(月額100万円、領収書もいらないし使途も明らかにしなくてよい、つまり使わずに貯蓄してもOK)なんてのもマルメの一種かもしれない。

「いや同じような事が僕らの畠の物価問題へうつして見ると、早い話がソバ屋の出前持ち……あれが雨風の夜も雪の日も註文した家並にくばってくれる、又あとから空いた皿小鉢をあつめにまわる。そのソバやウドンの値段は、ソバ屋の店に見えるお客さんの分とかわりが無い。」
「そうですな」
「其の上店先でパクついてくれるお客は、その場で現金を払う、宅までくばったのは月末の延べ払いだから、まるでさかさまである」
「近頃ホテルでは部屋へとりよせると、食堂の分へなにがしかサーヴィス料をとる、あれがよいですな」
「述べ払いの商売はその延べの為めの金利、それも相当長くのびるのもあれば、結局不払いになるのもある、そうしたのをつつこみにしてるのだから、即時現金払いをする方が馬鹿げてるという事になる。結局こうした所にも革新建直しがあって然るべきでしょうね」
「どれもこれも新体制ですな」


著者の下村海南は本名・下村宏。官僚とジャーナリスト畑を行きつ戻りつした人である。東京帝国大学卒業後、逓信省に入省、台湾総督府総務長官と植民地行政にも携わり、大正10年には大阪朝日新聞社に入社、昭和5年に副社長に。朝日を退社すると貴族院議員になり、昭和18年には日本放送協会会長に就任、昭和20年4月には入閣(鈴木内閣)。内閣情報局総裁として、いわゆる玉音放送をプロデュースしたことで知られる(岡本喜八監督の映画「日本の一番長い日」では、志村喬が下村を演じた)。戦後は戦犯容疑者として拘留され、昭和21〜26年にかけて公職追放。戦中のエッセイなどを読むと、その視点の幅広さに感心する。情報源は豊富な人脈なのだろうし、であればダイナミックな経歴も納得だ。

戦時の医歯一元化闘争64 歯科医育のユニバーシチイ化

一元、二元論の歯界を観察しても高等歯科陣は医師であって歯科を専攻した教授陣であって、東京歯科は純然たる歯科医師教授陣である。
(京都哲人「杉山不二氏の所論を読みて」、1943年1月発行「臨床歯科」)。

著者は「歯専卒業後米国にて学びたる」歯科医師。

米国には「デンタルカレッヂ」は多数あるが日本のように名実共に単立しかも私立では無い。多くは「ユニバーシチイ」に附属している。したがって歯科の学長あるいは教授の如きもただ、我独存的なまたは独善的な我利我利では無い。総合的な識見をもっている。従って米国の歯科教育または制度を批判する資格は日本の如きお山の大将然たる歯科医専制の人物ではできないと思う。学長はもちろん、有能教授はM.D.、D.D.S.であって総合大学のいずれの科の教授にも押しも押されもしない。杉山氏は学校の総合に論及しているが、東歯と慶大、または慈大と総合すれば将来性が大になるではないか。

総合大学化では、佐藤運雄の日大歯学部の例がある。子ども自体が減っているし、将来性を大にする方向で何とかしなければ、歯科大のみならずすべての単科大学は厳しいんじゃないだろうか。
なお、松本歯科大学は「ユニバーシチイ」を名乗っている。単科大学だが。

米国でも口腔外科医 oral surgeon はもちろんのこと、抜歯専門医(Exodontist)でさえM.D.を持っている。教授においてはなおしかりである。口腔外科の教授になるために禿げ頭、白髪頭をしても、医科に通っている米国歯科外科医の真面目さにならっては如何? 東歯の外科陣の人々は――基礎学研究に境界がない安全地帯にいる正木氏の勝手な議論に比して診療範囲に束縛ある臨床地帯に立つ大井氏の心中察すべきものがある。


「大井」清は大正12年東歯卒で口腔外科教授。正木正と同期。

東歯同窓会大阪支部会研精会席上にて大井氏が大見得を切った話を友人の東歯同窓から聞いたが理屈は無い。大井氏はM.D.を持つべきである。東歯のため、また、日本歯科界のために。実際全身症候、ことに危険症候、さらに致死症候ある歯科口腔領域疾患の診療を受ける患者の身分になって見よ。医師資格ある口腔外科専門家に手術して欲しいのが人情ではないか。術者としてもまた同じ心持ちであるはずである。
医学博士の学位と附属医院外科部長という看板で腕を振うよりも自他共に明朗な心境で仁術をなすべきである。我々の知人、近親者に重症口腔外科患者があったとすれば、大井氏よりも大歯の原先生、また開業医では川上、織田先生に頼む気になるのが当然である。
医歯交流は東歯年来の主張であると今更になって申しているが、大正年代に青年歯科医が医師になる途を開けと運動した時には日本歯科医師会長血脇氏および同幹部の奥村氏が道府県歯科医師会長に指令して大弾圧した当時から観れば東歯幹部も時代に目覚めたのであって遅れながらも日本歯科界の為、慶賀すべきである。


ああ「医歯交流」。言うは安し、実際は難し。
そして著者は友人からの話として、官選日本歯科医師会(日歯)人事の裏話を披露する。

前加藤局長は日本歯科医師会は血脇、奥村の「コンビ」で旧来の通りやると定めておられたが瀬尾局長になってからは加藤局長の約束を無視する事もできず、さりとて校長や学監の委任では非難が多いから、東歯の校長は奥村氏にゆづって血脇氏が日歯会長になるならよいと、非常な同情を賜りまた、血脇氏に配するに広瀬氏と兄弟内閣ができることに了解済みであると(引用者註:奥村理事長が)明言せられた話である。


日歯に日医ほどの激震がなかったのは、官僚と日歯の癒着があったようだ。

戦時の医歯一元化闘争62 官選歯科医師会

官選歯科医師会について、福井県の場合。

己に任命された設立委員長、宇賀治民造氏以下11名、各地区代表設立総会議員7名が、今は惜しくも消え去った名物人絹会館に当時の地方長官永野若松知事以下の来賓を迎えて、設立総会のテーブルに着いたのは昭和17年、師走も押し迫った28日のこと、この日我福井県歯科医師会は、いわゆる官選歯科医師会へと変身したのである。外には冷い小雨が静かに降っていたが、戦線では第3次ソロモン海戦が演ぜられた時期、次第に戦争の影が皆の胸に拡って来ていた。会議は既設のレールに沿って走るのみである。
皇居遥拝から始り、会議は議題の会則案の審議に入ったが説明役の警察官の鼻息は荒い。その頃は保健所ならぬ警察が医療衛生業務の監督を担当していたのである。その解説をした県警部の顔をその時の人達は覚えているだろう。彼は誠によくしゃべった。そして条項毎に「この様に謳っているのであります」と結ぶのが癖であった。その警部両川速水氏も今は亡く只冥福を祈り度い。
会則の最も重要な点は、「国策に協力するを以って目的となす」の1項と伝える第3条である。官選とは主たる役員の任免権を所属官庁の長官が行うことであり、強力な業務の統制力を意味することになる。
斯くして新しい会則に拠る本会が成立し、記念撮影で総会は終った。半ば何とはなしに茶番劇をやっている様でもあり、一方ではひしひしと危機感が忍び寄って来るのである。
(細井達雄「官選歯科医師会」、「福井県歯科医師会史」昭和60年)

医療は国防の一貫であった。とくに防疫は犯罪の取締と同じように考えられていた。

さて翌18年1月9日には、早くも宇賀治会長は、だるまや講堂に第1回の臨時総会を召集し、臨戦下、新歯科医師会の設立を宣言した。各支部も又議員の選挙、支部常会式等結構に多忙なるを迎えていた。その上、この時期降雪も多く、日誌は処々に雪下しの記事を誌している。
当時、同時に支部長を委嘱された私は、1月6日支部常会を召集して議員、予備議員の選挙を行い、坂野、三好の両氏を臨時総会に送っている。然も、急を要したためか、7日、在郷軍人分会の行事を終えてから夜、雪の中を会長宅を訪問して名簿を提出している。我ながらいじらしい。
各支部も変りはなく、又会員諸君も後輩支部長をよく盛り立てて手馴れぬ行事を補佐した。車のない時代である。
本会の一行事として、敦賀陸軍病院に於て救護活動の訓練をやったのを覚えている(7月20日)。訓練とは程遠いものであったが、然し歯科の先生方の担架演習は戦時下、非常時意識昂揚に病院側を感服させた。昭和19年7月私は、再度戦争に召集されて会を離れたが、之より後の会員諸氏のご苦労は迫る空襲下大変なものであったに違いない。

官選の福井県歯は昭和18年2月12日に第2回の臨時総会を開いている。議題は「歯材配給制の問題を中心に、報国診療についての会の活動」であった。昭和17年には歯科材料のほとんどが配給制となっており、その後、材料“不足”は“欠乏”となって手も足も出ない状況になっていく。報国診療として「無歯科医村診療並に無歯科医校の検診」を行った、と会史にあるが、材料がなければ修復もできなかっただろう。予防が叫ばれたのは、そういう事情も反映したのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争61 歯科界の改革的興味

19420819
▲昭和18年8月19日付朝日新聞

顧れば我等の職域団体には、新法令による内閣任命の日本歯科医師会長の出現というまことに華やかな命題が越年した。この椅子によって3万の歯科医師に号令する当代第一人者決定の問題は、歯科界の大きな話題であり関心事である。
(三好泰「指導者よ立て」、1943年1月発行「臨床歯科」)

74年前の今頃、官選歯科医師会が誕生した(昭和17年11月1日施行「医師会および歯科医師会令」、勅令634号)。強制設立・強制加入、郡市区歯科医師会は廃止されて道府県歯の支部になった(例:富山市歯科医師会→富山県歯科医師会富山市支部)。中央集権化して、上意下達をスムーズに行うためである。
役員は官選。日歯会長は厚生大臣に、道府県歯会長に県知事に任命された。

推薦任命の手続きになるこの会長は既に旧臘6日に行われた府県歯科医師会設立議員の選出によって、基礎となるべき第一階梯の準備手続きを終り、目下第二階梯たる道府県歯科医師会長が、厚生大臣から続々任命せられて居るのだから、も早や大勢は定まったと見ても大過はあるまい。


19421225
▲昭和17年12月25日付朝日新聞

新歯科医師会の設立には、
‘刺楔歯をまず設立
△修涼罎ら官選された設立委員(5人以上)によって、日歯を設立
の2段階を経た。
以下は官選・広島県歯科医師会の設立スケジュールである。

昭和17年11月
14日 県衛生課で第1回設立委員会
16日 県医師会館で選挙執行者協議会
18日 選挙名簿縦覧に関する事項を新聞に広告
19日 29日の設立総会議員選挙執行の件を新聞に広告
24日 大分市で新会設立に関するブロック会議
26日 県衛生課で第2回設立委員会
29日 各支部一斉に設立総会議員選挙

昭和17年12月
12日 県社会館で設立総会開催
23日 設立認可、会長任命
26日 会長が新支部長を推薦、県知事の認可を得て嘱託

昭和18年1月
24日 各支部常会、支部規定および昭和17年度予算を附議

昭和18年2月
23日 官選会長のもと初臨時総会
(広島県歯科医師会史、昭和40年)

ちなみに、「県衛生課」は県警察の下部組織である。衛生行政は当時、警察の管轄であった。

医歯一元論の理念が歯科界に大凡そ浸透した頃、世間の苦労を積んだ方々によって、歯科医学専門学校同窓連合会が結成せられ、その会長は「……今ぞ正に新生歯科医師会設立のために勇敢に立上るべきである殊に強調したいことは、新生歯科医師会の幹部を求むるにあたり、歯科医業の本質に鑑み、その使命の重きを思い、又今日の国情に照し、医歯一元化の急務なるを理解し、その実現に対し真に挺身すべき者に嘱目すべきことである……」と呼びかけた。即ち歯科医師会役員詮衡の条件に一元論を結付けて、同窓を新興勢力となすべく立上がったのである。これに対し旧勢力側即ち東京歯科医学専門学校側では、医歯は素より二元制である。一元運動並に同窓連合会には与すべきではないとうけて立上がり、歯科医師会の動向はこちらの手のものだという膨らみをみせた形をとったのである。
ここに2つの派が出来て、明かに相対立し、歯科医師会幹部選出――究極は日本歯科医師会長推薦――の対抗となり、その名目として一元、二元の論をかつぎ出したかの如き観を呈するに至った。かくして歯科界の改革的興味は燎原の火の如く忽ちに広がり、しかもこの間に於ける一元側の不鮮明なる態度が人心を暗うしたが為めに、簡単な理念が却て複雑な印象を与え、疑義と不安に動揺しつつこの元旦を迎えた次第である。


新日歯は、昭和18年1月15日に発足。

19430129
▲昭和18年1月29日付朝日新聞

同月28日に、厚生大臣より設立が認可された。
会長:血脇守之助、副会長:加藤清治、専務理事:西村豊治。

日歯は大して代わり映えしなかった(日医会長は、日本医療団・稲田龍吉会長が兼任となる大変化)。東歯ががんばったか、同窓連合会がヘタレたか。取りあえずマスコミは無視というか、医師会を取り上げておけば歯科医師会は省略してもいいという程度の扱いであった。国もそういう態度で官選に臨んだのではないかという気がしてならない。

戦時の医歯一元化闘争60 狂乱の状態

昨日に引き続き、杉山不二「一元論者に与う」より。東京歯科大学百年史では医歯一元化闘争についてほぼ無視しているのだが、

昭和17年春同窓連合会なるものが組織せられるや、所謂一元論は一元化運動となり、今や殆ど狂乱の状態を呈し、これに関与する官私学校の長、教授以下東奔西走、筆舌を尽して殆ど目的のために手段を選ばない有様である。その間流言につぐ流言、デマにつぐデマを以てし、怪文書は縦横に乱れ飛び、人をして真偽の識別に惑わしめている。
(杉山不二「一元論者に与う」、1942年12月発行「臨床歯科」)

当時の東歯卒業者は苦労していたわけである。東歯側の記録(例えば奥村鶴吉など当時の指導者の言い分)も結構、あったのではないか。「百年史」では“黒歴史”として意図的に無視したのだろうが、医歯一元化闘争は日本の歯科医療史のエポックメーキングである。もったいない。

戦時の医歯一元化闘争58 一元論者は医技分離論者

1942年12月発行「臨床歯科」より、杉山不二「一元論者に与う」。
著者は後の東京歯科大学名誉教授で学長(昭和40年6月)、昭和58年7月に死去、享年83歳。東京歯科医学専門学校卒の、医歯二元論者である。

歯科医専を医専に改造すべしという論が医事雑誌によく出ているが、それは少し見当違いであろう。歯科医学教育の内容を医学教育の中に盛り込むことが出来ない以上、歯科医学教育に従事するものが、その天賦とするところを放棄する結果となるからである。現行法規にも明示する通り、保存、補綴及び矯正の3科は、医学校の課程中には含まれていない。これらは何れも国民医療上大切な部分であるが何処でも教えない。たとい教えても殆ど形があるばかりということになっては、大欠陥を来すことになるから、真面目な歯科医学校当事者は承知しないであろう。仮に承知して改造が行われたとする。幾年かの後には医師にして歯科を行うものは、どうしても技工師に頼らなければならない時代が来る。


その通り、いまや「どうしても技工師に頼らなければならない時代」となった。
それにしても、バイトも取れない歯科医師が現れるのはいつなのか。
歯科医師国家試験から技工実技がなくなった1982年以降だろうか。だが、歯科技工所は東京大震災後から隆盛となり、東京技工所同業組合(日本歯科技工士会の前身)ができたのは昭和9年、花桐岩吉による公認歯科技工師会(花桐会)の設立は昭和13年。丸山岩三郎によると、昭和16年頃の東京市には200軒を数える歯科技工所があったという。

これら技工所のお得意は、技工所の小なものは2、3の歯科医院、大きな技工所では数十軒の歯科医を得意としているのであります。平均技工所の得意が10軒といたしますと、約2000軒の歯科医が技工所を利用しているわけであります。昭和16年11月7日開催の「歯科技工所問題に就ての談話会」、1942年2月発行「日本口科学会雑誌」)


というわけで、昭和初期(戦前昭和)から技工をしない歯科医師は珍しくなく、歯科技工師も大いに食えたわけである。まあ、技工をしない=技工ができない、とはいえないけれども。

技工師もその地位を高めたいと思い、医師の方に技能が乏しいのだからこれに乗じて必然的に頭を擡(もた)げてくる。遂に欧州に見た如く独立の義務となる。こんな具合で、真の一元論者は結局は所謂医技分離論者ということになり、これが避くべからざる結論となるのである。


「真の一元論者は結局は所謂医技分離論者」という指摘も、その通りである。歯科技工師および歯科技工所をいかにせん、という歯科技工法成立まで続く議論の一貫として、医歯一元化闘争はあった。ということは、医歯一元化を選ばなかった時点で、歯科技工法の内容は決定されたのかもしれない。

昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と

本日は近衛文麿の命日なり。

僕は支邦事変以来多くの政治上過誤を犯した 之に対して深く責任を感じて居るが 所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は耐え難い(事である) 殊に僕は支邦事変に責任を感ずればこそ此事変解決を最大の使命とした そして此解決の唯一の途は米国との諒解(の外なし)にありとの結論に達し日米交渉に全力を尽したのである その米国から今犯罪人として指名を受ける事は誠に残念に思う
しかし僕の志は知る人ぞ知る 僕は米国に於てさえそこに多少の知己が存することを確信する 戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂与論なるものもいつかは冷静を取り戻し(正)常に復する時も来よう 其時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう
(近衛文麿の遺書、武田泰淳「政治家の文章」1960年。カッコ内は近衛自身の書き加え。引用に際し現代かなに直した)

近衛文麿は昭和20年12月16日午前1時ごろに上記の書をしたため、次男・道隆に渡した。遺書は近衛家の用箋に、鉛筆で書いたもの。2時ごろ道隆が就寝、近衛の遺体が発見されたのは午前6時。服毒(青酸カリ)自殺だった。家族は近衛の自殺を察して、深夜まであれやこれやと話したり、世話を焼いたりしたらしい。遺族の落胆を思うと胸が痛む。特に、文章を受け取った次男は自分を責めたのではなかろうか。

政治家としての近衛文麿の評価は、優柔不断で無責任――まあ、そんなものだろう。

威勢よくブチ上げては解散、を3度も繰り返した首相である。
当人も認めているように、特に「支邦事変」への対応はマズかった。盧溝橋事件では現地で停戦協定を結んでいるにもかかわらず――近衛と蒋介石のトップ会談で戦争を回避すべきという石原莞爾の提案を蹴って――華北に派兵。国内の戦争気分を盛り上げ(国民精神総動員運動)、挙国一致の戦争協力体制をつくる。同年12月の南京攻略前には、和平を唱える陸軍参謀次長に対し、なぜこの期に及んで弱気になるのかとつぶやいて軍部をあおりさえした。この南京攻略後の残敵掃討作戦中にいわゆる“南京大虐殺”が起こり、いまだに日中両国間の禍根となっていることを思えば、近衛は怨んでも怨みきれないアホ首相である。一方、中国共産党はひそかに近衛に感謝しているかもしれない。近衛は翌13年1月に「爾後国民政府を対手とせず」と声明して華麗に日中戦争を全面拡大しているが、この声明がなかったら中国の共産化はなかったor遅れた可能性が高いからである。それはともかく、第1次でまるで見るべきものがなかった近衛内閣が第2次、さらに第3次とあることには茫然とする。他に政治家はいないのか、と思いながらの第3次。って今現在もか。

そして、日本は敗けた。
史上初の敗戦、しかも無条件降伏という最悪の負け方である。
そこで近衛文麿は裁かれることに耐えられず、自ら死んでしまう。

近衛の遺書について武田泰淳は、「最後の文章のとっぱなに、過誤と責任を持ってきたのは、真に言いたかったのは中国問題の悩みでもなければ、支邦事変の反省でもなく、ただひたすら『米国から犯罪人として指名を受けることは誠に残念に思う』という、消しがたい強烈な感情を吐き出す前置き」と推定しているが、同感だ。遺書には近衛の知性(「戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と」の部分など実に名文)、気品(かなりの達筆)、そして弱気が感じられる。五摂家筆頭の家柄で父は公爵、京都帝国大学法科大学卒で師はマルクス経済学者の河上肇である。軍部の荒くれどもにバカにされないよう背伸びしていた貴族、それが近衛なのかもしれない。国民人気を背景に分不相応な地位にまつり上げられた気弱な男の悲劇、なのか。

近衛は、ゲーリングのように言いたいことを言ってから死ぬべきであったと思っていた。
この遺書を読むまでは。

ゲーリングは毅然として勝者の裁きに立ち向かい、言いたいことを言い、死刑判決を受け、服毒自殺した。米国は永遠に自分を吊るせない、と家族に言い残して。連合軍の厳重な警戒の裏をかいた、見事な自殺であった。近衛には、しかし、そんなしぶとさ、したたかさはなかったのだろう。この時代に生まれていなければ、平和な時代に生まれていれば、もっと幸せで、優雅で、知性と賞賛に満ちた人生を送った人だったのだろう。かわいそうな人であった。頭に来るけれども。

戦時の医歯一元化闘争57 旧体制歯科医師会の残骸

国民医療法施行せられ新たに歯科医師会は設立せられんとして東京府に於ては8名の設立委員(11月2日付)並に選挙執行者(11月7日付)が任命せられた処が左記通牒に依り会合があった。
(よみびとしらず「新生歯科医師会設立に汚点を印するもの」、1942年12月発行「臨床歯科」)

通牒は昭和17年11月10日付の「発東府歯第287号」。上田貞三・東京府歯科医師会長より支部会長に出された「歯科医師会設立総会議員選挙執行者に対する選挙執行上の注意並に打合会開催通知」である。

設立議員選挙執行者は地方長官の任命にかかり(設立議員選挙規則第3条)旧体制歯科医師会の残骸とは全く無関係のものである。
然るにこの府歯科医師会長の残骸が各区支部長の残骸を集めて設立議員の選挙打合せ会を開催し而も東京府の織田事務官が出席した由であるが、旧体制の残骸に如何なる権能ありてかかる会合を催したりや実に新生歯科医師会をして旧体制の連続たらしめんとするものであり何等権限なきものが新たに生れ出づるものを汚すもので許すべからざる行為である。而も此の狂的招集状に対しては又何をか云わんやである。


しかし、これは行政の怠慢だろう。それを歯科医師会に許したのだから。
Ni-Cr合金の保険収載歯科医師の需給過剰――国の歯科軽視が歯科医師会を助長させ、そのアホに加担してきた面は否めない。

戦時の医歯一元化闘争56 歯科医業とは何ぞや

歯科医業とは何ぞやと言うと私にもサッパリ判らない。
(田邉一郎「医界維新」、1942年12月発行「臨床歯科」)

著者は日本歯科医学専門学校(日歯専)卒の歯科医師。

歯科医師は歯科に関係ある死亡診断書が書けると云う事は、歯科に関係して起った死亡であるか又は全く別な所に原因があったのではないかどうかを全身に就て診察する能力が歯科医にあると云う事を当局が認めておるに他ならぬ。然らば死体の検案も出来てよさそうなもので法医学も現在歯専で教えておる。然るに事実は之に反す。


今でも歯科医師は死亡診断書を書くことが可能で、そして死体検案書は書けない。

我々には歯科疾患と何等の関係無く起った疾病や創傷の治療をする事は医・歯の区別ある限り到底出来得ない事であるが歯科的疾患を治療する為に必要とあらばあらゆる適切最上なる手段を講じ得べき権利(義務)ある事を主張する事は出来る筈である、然るに事実は必ずしも之をゆるさない。しかも歯科的疾患そのものが既にどの範囲を指すか解らないし、例え歯牙に関係するものと規定しても9月号で佐藤さんが述べられた様な問題が起る、又果して歯牙に関係しておるのかどうか解らぬ場合もあるし厳密に言えば全身之一貫性あるところ関係無いものはない、ここに又問題が起ってくるのである。

歯科心身症の患者は、歯科に行くべきか心療内科に行くべきか、精神科に行くべきか。
口内炎は歯科に行くべきか、内科に行くべきか、皮膚科に行くべきか。
結局は患者の自己診断と趣味で受診科が決められるのだろうが、それでいいのかとも思う。
静注は赦すが毒にも薬にもならぬ様な薬物でなければいけないと云う、そんな事で果して歯科医業が完遂され得るものであろうか、苦しむのは患者だ、手に負えなくなったら医師へ廻せというのでは医者としてあるまじき無責任極まる態度と申さなければならん、その様な事では無条件独立開業は赦さるべきではあるまい。


ホント、歯科医業とは何だろう。難しい問題である。

なお、話は飛ぶのだが。
著者の田邉一郎氏は、学生時代(日歯専)に「クラブ太陽堂の援助を受け在京各歯科医校学生会の講演部(又は有志団)と連合し」「西銀座森田ビル講堂で或る研究会を開いた事がある」。その際、「東歯だけは、校内団結を乱すと云う学校当局の意向で不参加であった」という。東歯の排他性は校風であって、医歯一元化闘争の際に限ったことではなかったようである。

戦時の医歯一元化闘争55 最初の一元論者

当時は恰も議会に歯科医師法改正案の現わるる以前であって、歯科医界の有力者は筆者の言に耳を貸さず、却って反対の態度でいた。今日それが全国歯科医界の与論となって燃え立ったのを見て、真に感慨に耐えないものがあり、同時に健民政策の為め深く之を欣快とするものである。
(土屋清三郎「医歯一元は歯界のみの問題に非らず」、1942年12月発行「臨床歯科」)

厚生新聞主幹の土屋清三郎は、「夙(はや)く医歯両制度の一元化を企てた恐らく最初の一元論者」らしい。

然るに昨今歯科医界を代表する日本歯科医師会会長が之に反対しているとの事である。凡そ団体生活に於ては会長は会員に従い、会員は会長に従い、相率いて合理的な生活が出来るのであって、会長が会員の意志を無視して服従を強るならばそれは会長の独裁専制であって、反対に会員が会長の意志を無視して行動するならばその団体は無政府状態に陥ったのである。而して会長の意志は総会の意志であって、日本歯科医師会は未だ医歯一元に就て総会の意志を決して居らざるが故に、会長は此の問題に就ては白紙である筈である。然も会長にして医歯一元に反対の意志を有しそれが歯科衛生の為に不都合であるとするならば、官府に向って運動する前に、先づ以て総会を招集して之を附議し、その決定を待って会長としての態度を決すべきである。

日本歯科医師会は「官府に向って運動」はしていた。

筆者は、会長血脇氏とは面識多年その人と成りに大して私かに経緯を表するのみならず、歯科医師会設立以来の功労者として会外の信望を繋ぐ事北島日本医師会長と甚だ似たるものあり、近く全会員より大にその功労を表彰さるべき地位にある。然るに今や多年に亘って率い来った医師会が数旬を出でずして終焉を告げんとするの時、澎湃として捲き挙った全国会員の熱望に対し、敢て之を抑えて、為に歯界有終の美を兄弟争牆の醜に終らしむるが如きは、光輝ある我歯界の名誉の為真に惜むべき事と云わざるを得ない。思うに血脇氏は徳の人である。左右あに知者なからんや。

土屋清三郎は明治15年、千葉県生まれ。医師、元衆議院議員。昭和21年3月3日、心臓麻痺で逝去。享年65歳。

戦時の医歯一元化闘争54 真の孤高派

大阪歯科医学専門学校(大歯)校友会は当初、歯科医学専門学校同窓連合会(以下、連合会)に参加していなかった。
大歯校友会は、医歯二元論派・東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会と、一元論派・その他る歯科医専との調整を図るつもりだったらしい。昭和17年6月28日に開かれた連合会総会において大歯校友会は、複数の役員に推薦されたものの「正式に加入していない関係上直ちに辞退取消し方を申し出」ている。
大歯交友会は、不参加の理由を7つ挙げているのだが、

森山氏等の在京委員は東歯及び連合会側と2、3回会合して話を進め極力円満和解に努力されたのであるが双方共に本会の切望している「まづ一丸一体となった上で一元、二元あるいはその他当面の問題を協議検討しては」という意見に対し「まづ一元か二元かを決定せねば」という意見が強く、なおその他にも相容れない複雑した問題もたまっている様子あるため本会が要望しているように簡単容易に妥協提携は実現しそうにも見えず、その後も依然として双方共対立の空気を濃厚にして摩擦を続けている現状である。
(大阪歯科医学専門学校校友会「歯科医学専門学校同窓連合会、東歯同窓会並に所謂医・歯一元化問題に対する本会の立場、1942年9月発行「臨床歯科」)

要は、連合会側の根回しが足りなかったようである。

某氏をある歯界の要地に推薦する場合にも協議機関設置陳情の場合にも連合報国大会に代表者を送る場合にも連合会側ではその一つ一つを以て本会が連合会に同意参加せるものとなしたのかもしれないが本会では何ら関連なきものとしてその一つ一つの事柄を別々に考えて善処したに過ぎなかった。

大歯交友会は同年10月に「本会は連合会に加入しないこと、一元化問題は独自の立場に於て研究すること、調停から手を引くことを決議しそこに到達するまでの経緯を校友会員及び他の関係方面へも声明」するのだが、その3日後には連合会から除名処分を受けることになる。加入していないのに除名とはこれいかに。

しかも電文によると三千余の会員を有する本会全体を除名するという考えらしく誠に以て驚き入った行き方と申す外はありません。


一方、大歯交友会は同時期に東歯と決裂しており、さらに日本歯科医師会(日歯)の会長と理事長に辞職勧告書を出すなど、二元派にも与していなかった。真の孤高派は東歯ではなく、大歯だったのかも。一元論については「独自の立場に於て研究する」という態度であったが、しかし、歯科医師の診療範囲や医師との社会的地位の格差については問題視し、「いろいろの『不都合』『不合理』を除去せねばならぬという点に就ては当然のこととして異論はない」。ここまで言わせておいて離反させてしまうのは、これは連合会の手落ちだろう。無党派層の取り込みいかんが戦を左右するのは、戦前もであった。

大詔奉戴日の清沢洌

昨日は大東亜戦争記念日〔大詔奉戴日〕だった。ラジオは朝の賀屋〔興宣〕大蔵大臣の放送に始めて、まるで感情的叫喚であった。夕方は僕は聞かなかったが、米国は鬼畜で英国は悪魔でといった放送で、家人でさえラジオを切ったそうだ。斯く感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。奥村〔喜和男〕情報局次長が先頃、米英に敵愾心を持てと次官会議で提議した。その現れだ。
東京市では、お菓子の格付けをするというので、みな役人が集まって、有名菓子を食ったりしている。役人がいかに暇であるか。
英米は自由主義で、個人主義で起てないはずだった。いま、我指導者達は英米の決意を語っている。
(略)
大東亜戦争一周年において誰もいったことは、国民の戦争意識昂揚が足らぬということだった(奥村、谷萩〔那華雄=大本営陸軍報道部長〕大佐ことごとく然り――『日々』12月9日)。これ以上、どうして戦争意識昂揚が可能か。
12月8日、陸軍に感謝する会が、木挽町の歌舞伎座であって、超満員だった。
「連続決戦」という文字が新たに出た。
(昭和17年12月9日、清沢洌「暗黒日記」機

清沢洌は74年前の本日――昭和17年12月9日から、“また”日記を書き出し、昭和20年5月5日で筆を置いた。同年5月21日に、急性肺炎で死んだからである。清沢洌、享年55歳。桐生悠々と同じく、日本の敗戦を確認はしなかったが、確信していたジャーナリストのひとりである。
若くして死んだもののヒヨワな文学青年タイプではなく、病気ひとつしたことのない頑健な男だったそうである。16歳で渡米して苦学、貿易会社に入社して国際的営業マンになるなど行動力もあり、人好きでコミュニケーションにも長けていた。心身ともに強靭なリベラリストだったのである。しかしこの丈夫さがわざわいし、体力が落ちていることに気付かず無理を重ね(39度の発熱中に2夜にわたって来客と時局を論じ合うなど)、肺炎をこじらせて急逝した、らしい。19日に聖路加病院に入院、21日午前1時過ぎに死亡。敗戦間際の物資不足も関係しているのかもしれない。

大戦争2周年廻り来たる。新聞も、ラジオも過去の追憶やら、鼓舞やらで一杯だ。外では盛んに訓練がある。
満2周年において明らかなことは、沢田〔謙蔵?〕も昨日いったように、国民はまだ戦い足らぬことである。2、3日前から12月号の『中央公論』を見ている。その「赴難(ふなん)の学」という座談会の如きは「京都帝大」教授連の談なのに、奇々妙々なものだ。「徳川慶喜にフランスが刃向かわせた」とか、征韓論はアメリカの謀略みたいに書いてある。『中央公論』を通して全部そうした調子だ。
大東亜戦争には(1)戦争そのものを目的な人と、(2)これを機会に国内改革をやろうという人と、(3)それによって利益する人とが一緒になっている。そしてその底流には武力が総てを解決するという考え、また一つの戦争不可避の運命感を有している民衆がある。戦争が徹底的に戦い通されねばならぬ。
2年に気付く現象は、コソ泥の横行である。物を盗まれない家とてない有様だ。玄関に置いた外套、靴、直ぐとられる。
この日の新聞はロ、チャ、スターリン3名のテヘラン会議の公報を発表した。「世界の全民族が圧制を蒙ることなく、かつまた独自の決意と良心に基づき、自由なる生活を営み得る日の到来を待望する」といっている。6日発表だ。「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそうだ。
(昭和18年12月8日、清沢洌「暗黒日記」機

『「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそう』――いや、まさに。「地域の平和と自由を促進するために働く」と演説しながら無差別爆撃を開始した国が、つい最近もあった。どう取り繕おうが、戦争は戦争なのに。

本日は大東亜戦争勃発の3周年である。朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣。口調も、東条より遥かに下手である。全く紋切り型で、こうした指導者しか持たない日本は憐れというべけれ。
昨日は午后6時に警報、今暁2時頃警報。起きて整服。記念日だから、この日に来るだろうというので、多くの平和産業は休んでいるとの事、「仇討ち」思想だ。当局者も、必らず来るだろうと予測している由。
小学校は11日まで休み。栄子の組は26名が8名しか来ていないという。いずれも8日の復仇を予期してのことだ。
これ等の事実は、日本人がいかに米国を「日本的」に観ているかを示すものだ。予は先頃、政府に駐米大使をやった者で、一つの情勢判断局をつくれと『東洋経済』に書いたが、そうすべきだと思う。
午后は、家の糞尿の汲みとりをなし、また落葉を集む。畠に堆肥をつくるためである。
(昭和19年12月8日、清沢洌「暗黒日記」供

いまだに死刑制度が支持されているのも、「仇討ち」思想なのかも。いまだに、年末に忠臣蔵やってるし。

日本の敗戦を確信していた清沢洌は、その次の段階をすでに考えていた。
つまり、敗戦で日本人が賢明になれるかどうかについて。清沢は、しかし、そのことについて悲観的な見通しを持っていたことが日記で伺われる。その慧眼が悲しいばかりの今日この頃である。

日米開戦75周年

本日12月8日は、日米開戦75周年なり。当日は月曜日で、快晴だった。

いよいよ日本は米英両国に戦線を布告した。来るべきものが来ただけの事であり却ってさっぱりした。九時前に出て省線で浜離宮に行く。天気がよくて鴨は余りとれない。零時半のニユースによると遠くハワイにまで爆撃に行っている。痛快だ。
(昭和16年12月8日の記載、入江相政日記第2巻1994年)

以上は昭和天皇の侍従、入江相政(いりえすけまさ、1905-1985)の当時の日記。とった鴨は食べており、当時の東京ののどかさがわかる。翌9日には「各新聞にはハワイの大戦果を大きな字で戴(ママ)げている。その嬉しいことといつたらない」。

日米開戦の新聞号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となり街頭商店の灯追々消え行きしが電車自動車は灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合うが中に金切声を張上げて演説をなす愛国者あり。
(昭和16年12月8日の記載、永井壮吉「永井荷風日記」第6巻、昭和34年)

永井荷風によると、開戦布告とともに「屠れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」というポスターが「街上電車飲食店其他到るところに掲示せられ」ていたという。大政翼賛会のポスターである。

23
▲昭和16年12月9日付朝日新聞の記事。

06
▲新聞広告。

開戦も祝! ワールドカップ開催、みたいな感じだったのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争53 歯科技工下士官

昭和17年の記事。歯科技工師がいかに医歯一元論の要であったかを示す記事である。

本年の4月21日付のある雑誌に
「陸軍に療工下士官制の確立さる?」という見出しで「わが陸軍の衛生陣に療工下士官制が去る3月30日勅令第580号を以て創設された。」歯科技工下士官制創設の希望されている折柄、一般の注目を引いている所であるが、この歯科技工下士官制は目下陸軍当局において鋭意検討中に属し、陸軍衛生下士官中に入るか、療工下士官中に入るべきかは不明であるが、いずれにしても歯科技工を専門とする特殊下士官制の実現する所は確かなる点で……と述べ、

勅令第580号(昭和17年3月30日)
昭和15年勅令第580号陸軍武官官等表の件中科医政の件を裁可しここにこれを公布せしむ
 御名御璽
  昭和17年3月30日
内閣総理大臣兼陸軍大臣 東条英機

勅令第297号
昭和15年勅令第580号中左の通改正す別表中経理部の項ないし軍楽部の項を左の如く改む

と記載し、次いで武官表を書いている雑誌があった。
坂本豊美「医歯一元化論と歯科雑誌の指導性」、1942年9月発行「臨床歯科」)

著者の指摘によれば「第580号」は間違いで、正しくは第297号だそうだ。でもって本勅令によって療工下士官制が創設されたのではなく、同制度は昭和15年の勅令第580号で創設され、同年9月15日に施行となっている。昭和17年の第297号勅令は、ただ経理部と軍楽部の武官官等表の改正を公示したものだという。その指摘にも間違いがあるのだが(後述)、それはさておき。

しかして現在のところ、療工下士官と歯科技工手とは全然関係のないものであって、あるいは雑誌の報ずるごとく、鋭意検討されているかもしれないが、それは本勅令とは全然無関係のものである。しかるにかくの如き誤った報道を敢えてするのは、医歯一元化論を叫び、歯科技工手の存在を昂然と認めんとする主張に興する雑誌社が、療工下士官制を取り上げ、軍当局者もまた自分らの主張と同様なる考えを抱いているが如く装い、一般に宣伝し、自分たちの主張があくまで正しいかの如く述べようとする実に低級なる態度であると考えられる。療工下士官とは従来の磨工兵を指すのである。かくの如き記事を臆面もなく掲載し、あらゆる事態に対して我田引水な解釈を下している雑誌が歯科医界に横行している事実は、歯科医界にとって喜ぶべき現象ではない。心ある人から見れば実に恥ずかしい話である。

著者のいう「従来の磨工兵」は、“昭和12年”に看護兵とともに衛生兵となる身分だが、その後も療工下士官という別区分が設けられていた(百瀬孝「事典 昭和戦前期の日本 制度と実態」p316)。というわけで著者も間違っており、当時の二元論派の余裕のなさをそこはかとなく感じさせる。現代風にいえば「必死だな」である。
ちなみに、療工下士官とは――

療工下士官の任務は衛生材料器械の製作、修理、検査、保全手入、衛生材料補給等を包含する衛生勤務に関し上官を補佐し兵を指導し以て上下の楔子となると共に自ら得たる学術を活用し之が実施に当るに在り
療工下士官候補者教程草案、総則の第2)

歯科技工師を下士官にするのであれば、ココに分類されそうではあった。なお、下士官とは軍部では最下位の地位にあるが、軍隊の強さは下士官の能力によるといわれているほど、重要な人材であった。
Recent Comments
記事検索
Profile
鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
Amazonライブリンク
  • ライブドアブログ