売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

大詔奉戴日の清沢洌

昨日は大東亜戦争記念日〔大詔奉戴日〕だった。ラジオは朝の賀屋〔興宣〕大蔵大臣の放送に始めて、まるで感情的叫喚であった。夕方は僕は聞かなかったが、米国は鬼畜で英国は悪魔でといった放送で、家人でさえラジオを切ったそうだ。斯く感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。奥村〔喜和男〕情報局次長が先頃、米英に敵愾心を持てと次官会議で提議した。その現れだ。
東京市では、お菓子の格付けをするというので、みな役人が集まって、有名菓子を食ったりしている。役人がいかに暇であるか。
英米は自由主義で、個人主義で起てないはずだった。いま、我指導者達は英米の決意を語っている。
(略)
大東亜戦争一周年において誰もいったことは、国民の戦争意識昂揚が足らぬということだった(奥村、谷萩〔那華雄=大本営陸軍報道部長〕大佐ことごとく然り――『日々』12月9日)。これ以上、どうして戦争意識昂揚が可能か。
12月8日、陸軍に感謝する会が、木挽町の歌舞伎座であって、超満員だった。
「連続決戦」という文字が新たに出た。
(昭和17年12月9日、清沢洌「暗黒日記」機

清沢洌は74年前の本日――昭和17年12月9日から、“また”日記を書き出し、昭和20年5月5日で筆を置いた。同年5月21日に、急性肺炎で死んだからである。清沢洌、享年55歳。桐生悠々と同じく、日本の敗戦を確認はしなかったが、確信していたジャーナリストのひとりである。
若くして死んだもののヒヨワな文学青年タイプではなく、病気ひとつしたことのない頑健な男だったそうである。16歳で渡米して苦学、貿易会社に入社して国際的営業マンになるなど行動力もあり、人好きでコミュニケーションにも長けていた。心身ともに強靭なリベラリストだったのである。しかしこの丈夫さがわざわいし、体力が落ちていることに気付かず無理を重ね(39度の発熱中に2夜にわたって来客と時局を論じ合うなど)、肺炎をこじらせて急逝した、らしい。19日に聖路加病院に入院、21日午前1時過ぎに死亡。敗戦間際の物資不足も関係しているのかもしれない。

大戦争2周年廻り来たる。新聞も、ラジオも過去の追憶やら、鼓舞やらで一杯だ。外では盛んに訓練がある。
満2周年において明らかなことは、沢田〔謙蔵?〕も昨日いったように、国民はまだ戦い足らぬことである。2、3日前から12月号の『中央公論』を見ている。その「赴難(ふなん)の学」という座談会の如きは「京都帝大」教授連の談なのに、奇々妙々なものだ。「徳川慶喜にフランスが刃向かわせた」とか、征韓論はアメリカの謀略みたいに書いてある。『中央公論』を通して全部そうした調子だ。
大東亜戦争には(1)戦争そのものを目的な人と、(2)これを機会に国内改革をやろうという人と、(3)それによって利益する人とが一緒になっている。そしてその底流には武力が総てを解決するという考え、また一つの戦争不可避の運命感を有している民衆がある。戦争が徹底的に戦い通されねばならぬ。
2年に気付く現象は、コソ泥の横行である。物を盗まれない家とてない有様だ。玄関に置いた外套、靴、直ぐとられる。
この日の新聞はロ、チャ、スターリン3名のテヘラン会議の公報を発表した。「世界の全民族が圧制を蒙ることなく、かつまた独自の決意と良心に基づき、自由なる生活を営み得る日の到来を待望する」といっている。6日発表だ。「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそうだ。
(昭和18年12月8日、清沢洌「暗黒日記」機

『「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそう』――いや、まさに。「地域の平和と自由を促進するために働く」と演説しながら無差別爆撃を開始した国が、つい最近もあった。どう取り繕おうが、戦争は戦争なのに。

本日は大東亜戦争勃発の3周年である。朝、小磯首相の放送があったが、例により低劣。口調も、東条より遥かに下手である。全く紋切り型で、こうした指導者しか持たない日本は憐れというべけれ。
昨日は午后6時に警報、今暁2時頃警報。起きて整服。記念日だから、この日に来るだろうというので、多くの平和産業は休んでいるとの事、「仇討ち」思想だ。当局者も、必らず来るだろうと予測している由。
小学校は11日まで休み。栄子の組は26名が8名しか来ていないという。いずれも8日の復仇を予期してのことだ。
これ等の事実は、日本人がいかに米国を「日本的」に観ているかを示すものだ。予は先頃、政府に駐米大使をやった者で、一つの情勢判断局をつくれと『東洋経済』に書いたが、そうすべきだと思う。
午后は、家の糞尿の汲みとりをなし、また落葉を集む。畠に堆肥をつくるためである。
(昭和19年12月8日、清沢洌「暗黒日記」供

いまだに死刑制度が支持されているのも、「仇討ち」思想なのかも。いまだに、年末に忠臣蔵やってるし。

日本の敗戦を確信していた清沢洌は、その次の段階をすでに考えていた。
つまり、敗戦で日本人が賢明になれるかどうかについて。清沢は、しかし、そのことについて悲観的な見通しを持っていたことが日記で伺われる。その慧眼が悲しいばかりの今日この頃である。

日米開戦75周年

本日12月8日は、日米開戦75周年なり。当日は月曜日で、快晴だった。

いよいよ日本は米英両国に戦線を布告した。来るべきものが来ただけの事であり却ってさっぱりした。九時前に出て省線で浜離宮に行く。天気がよくて鴨は余りとれない。零時半のニユースによると遠くハワイにまで爆撃に行っている。痛快だ。
(昭和16年12月8日の記載、入江相政日記第2巻1994年)

以上は昭和天皇の侍従、入江相政(いりえすけまさ、1905-1985)の当時の日記。とった鴨は食べており、当時の東京ののどかさがわかる。翌9日には「各新聞にはハワイの大戦果を大きな字で戴(ママ)げている。その嬉しいことといつたらない」。

日米開戦の新聞号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となり街頭商店の灯追々消え行きしが電車自動車は灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合うが中に金切声を張上げて演説をなす愛国者あり。
(昭和16年12月8日の記載、永井壮吉「永井荷風日記」第6巻、昭和34年)

永井荷風によると、開戦布告とともに「屠れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」というポスターが「街上電車飲食店其他到るところに掲示せられ」ていたという。大政翼賛会のポスターである。

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▲昭和16年12月9日付朝日新聞の記事。

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▲新聞広告。

開戦も祝! ワールドカップ開催、みたいな感じだったのだろうか。

戦時の医歯一元化闘争53 歯科技工下士官

昭和17年の記事。歯科技工師がいかに医歯一元論の要であったかを示す記事である。

本年の4月21日付のある雑誌に
「陸軍に療工下士官制の確立さる?」という見出しで「わが陸軍の衛生陣に療工下士官制が去る3月30日勅令第580号を以て創設された。」歯科技工下士官制創設の希望されている折柄、一般の注目を引いている所であるが、この歯科技工下士官制は目下陸軍当局において鋭意検討中に属し、陸軍衛生下士官中に入るか、療工下士官中に入るべきかは不明であるが、いずれにしても歯科技工を専門とする特殊下士官制の実現する所は確かなる点で……と述べ、

勅令第580号(昭和17年3月30日)
昭和15年勅令第580号陸軍武官官等表の件中科医政の件を裁可しここにこれを公布せしむ
 御名御璽
  昭和17年3月30日
内閣総理大臣兼陸軍大臣 東条英機

勅令第297号
昭和15年勅令第580号中左の通改正す別表中経理部の項ないし軍楽部の項を左の如く改む

と記載し、次いで武官表を書いている雑誌があった。
坂本豊美「医歯一元化論と歯科雑誌の指導性」、1942年9月発行「臨床歯科」)

著者の指摘によれば「第580号」は間違いで、正しくは第297号だそうだ。でもって本勅令によって療工下士官制が創設されたのではなく、同制度は昭和15年の勅令第580号で創設され、同年9月15日に施行となっている。昭和17年の第297号勅令は、ただ経理部と軍楽部の武官官等表の改正を公示したものだという。その指摘にも間違いがあるのだが(後述)、それはさておき。

しかして現在のところ、療工下士官と歯科技工手とは全然関係のないものであって、あるいは雑誌の報ずるごとく、鋭意検討されているかもしれないが、それは本勅令とは全然無関係のものである。しかるにかくの如き誤った報道を敢えてするのは、医歯一元化論を叫び、歯科技工手の存在を昂然と認めんとする主張に興する雑誌社が、療工下士官制を取り上げ、軍当局者もまた自分らの主張と同様なる考えを抱いているが如く装い、一般に宣伝し、自分たちの主張があくまで正しいかの如く述べようとする実に低級なる態度であると考えられる。療工下士官とは従来の磨工兵を指すのである。かくの如き記事を臆面もなく掲載し、あらゆる事態に対して我田引水な解釈を下している雑誌が歯科医界に横行している事実は、歯科医界にとって喜ぶべき現象ではない。心ある人から見れば実に恥ずかしい話である。

著者のいう「従来の磨工兵」は、“昭和12年”に看護兵とともに衛生兵となる身分だが、その後も療工下士官という別区分が設けられていた(百瀬孝「事典 昭和戦前期の日本 制度と実態」p316)。というわけで著者も間違っており、当時の二元論派の余裕のなさをそこはかとなく感じさせる。現代風にいえば「必死だな」である。
ちなみに、療工下士官とは――

療工下士官の任務は衛生材料器械の製作、修理、検査、保全手入、衛生材料補給等を包含する衛生勤務に関し上官を補佐し兵を指導し以て上下の楔子となると共に自ら得たる学術を活用し之が実施に当るに在り
療工下士官候補者教程草案、総則の第2)

歯科技工師を下士官にするのであれば、ココに分類されそうではあった。なお、下士官とは軍部では最下位の地位にあるが、軍隊の強さは下士官の能力によるといわれているほど、重要な人材であった。

戦時の医歯一元化闘争52 医科・歯科の境界診療症例

昭和17年の記事。
佐藤峰雄が、臨床で出会った「歯科と一般医学との境界診療症例、もしくは医師の領域に属するものと思わるる症例」は12年間で8例あったという。佐藤峰雄は日本歯科医学専門学部助教授、大日本新歯会委員。

すなわち第一例は、学童における麻疹経過年齢と齲蝕罹患率との関係であって、何歳に麻疹を経過したか、そしたら齲蝕はどうであるか、この関係を大数関係によって相関関係の釈明に努力したもので結局この成績は比較的幼年期に麻疹を経過した者の齲蝕罹患率は比較的成長期に麻疹を経過した者に比し齲蝕の罹患率が高かったのである。第二例は、固定架工義歯嚥下例ならびにこれが考察であって、救急の場合歯科医がいかにも無力であることを自ら暴露した例とも称するを得べく、内科医の適宜の処置を得て嚥下義歯は身体内に永く滞在することなくまた臓器その他に何等の障害を与えることなく排泄された例である。余はこの際痛切に歯科医の診療範囲の狭小とその無力とを感じた。
(佐藤峰雄「日本歯科学の研究」、1942年9月発行「臨床歯科」)

團伊玖磨のエッセイ「義歯」にも総義歯を丸飲みしたが、後日無事排泄された例が書かれている。しかも、取り出した後も使用し続けたという愛と勇気ある例である。 

第三例は熱性伝染病経過200例における口腔状態であって、第一例に相似の症例というべく歯科疾患と熱性伝染病との相関関係の発見に努めたものである。第四例は、齲蝕ならびに歯槽膿漏の発生頻度と血圧との関係についてであって、血圧の高きもの例えば腎臓疾患を持つ者にあっては歯槽膿漏に罹患することが多いのではないか、あるいは血圧の比較的低き者は齲蝕罹患率も低いのではないかとの常識的な考え方の科学的根拠を求めようとしたものだ。


日本で歯周病が生活習慣病のひとつとして公的に位置づけられたのは2000年の健康日本21からだが、戦前からそういう指摘はあったもよう。

第五例は、日歯専附属医院来院患者の一ヶ年間統計において歯科疾患の季節的、地理的関係など、即ち環境と歯科疾患、あるいは経済、社会動態的に歯科疾患を考察、最後に根管充填の成否すなわち歯科治療の効果を少しく検討した次第である。

季節と歯科疾患は、関係があるかもしれない。例えば精神疾患患者は口腔内の状況も悪い場合が多いが、なかでも冬季に悪化するタイプのうつ病の場合は、当然、冬季に口腔内の状況も悪化すると思われるのではないか。

第六例は、代償性月経としての歯齦出血症の一例である。本例において領域外の疾患すなわち婦人科医の協力にまたなければ充分にその治療効果を挙ぐることができない状態であって、いかに歯科医が努力しても普通医との完全な連絡がなくば到底その目的を達することはできないのである。


女で腹痛が主訴の場合は妊娠を疑えとよくいうが、女で定期的な出血がある場合は代償月経を疑え、か。

第七例は、癲癇児態症における口腔所見例である。本例もまた第六例同様興味ある症例であったが、内科医との連絡が途中遮断した事によって結果はついに判然しなかったのである。いかんとも残念な次第であった。


「連絡が途中遮断」。患児が来院しなくなったのなら、医師も追いようがない。来院しなくなった患児について、それは治療が奏効したからなのか、奏効しなくて他の医者にかかっているのか、わからないのがツライと小児科医に愚痴られたことがある。

第八例は、歯科常識の問題とし取り上げた一例で、本例のごときも婦人科的知識を保有することによって、あるいは婦人科医と協力し多数の例につき考察することによって相当な成績が求め得らるるものと信じている。

婦人科に関係する歯科疾患といえば、妊娠合併症(流産、早産、子宮内発育遅延、低出生体重児、妊娠高血圧etc)である。ある婦人科医は、最近はできちゃった婚で歯科疾患を抱えたまま妊娠する子が多くなった、と嘆いていた。昔は妊娠する前に歯を治すのが常識だったそうである。妊娠合併症と歯周疾患の関係がどのぐらい周知されていたかはわからないが、ツワリなどで歯が悪くなる(吐き気で歯が磨けない、嘔吐による酸蝕症、etc)のは結構母から娘へと伝えられる妊娠の常識であったのではないかと思う。

戦時の医歯一元化闘争51 医科・歯科の診療境界線

日本歯科医学専門学部助教授で大日本新歯会医委員の佐藤峰雄は、医科と歯科の境界線についての考察を発表している。昭和17年の記事。

某教授は医学の一分科として、また実際上口腔外科を取り扱う点より見ればとことわり、次のように分類している。
一、医師のみが行うべき場合
 例 悪性腫瘍、黴毒または結核性疾患、急性伝染病に伴う口腔疾患等
二、医師と歯科医師との協力の下に行うべき場合
 例 副木応用ならびに口腔外科手術等
三、歯科医師のみが行うべき場合
 例 歯根端切除術、口腔内畸形に対する義歯応用の補綴的処置等
四、医師が行う歯科医師が行うも何れにしても良き場合
 例 抜歯等
(佐藤峰雄「日本歯科学の研究」、1942年9月発行「臨床歯科」)

「某教授」については明記されていないが、多分医師なのだろう。
ちなみに、平成8年の「歯科口腔外科に関する検討会」で決定された歯科口腔外科の診療領域は、以下のようなものであった。

【歯科口腔外科の診療領域】
標榜診療科としての歯科口腔外科の診療領域の対象は、原則として、口唇、頬粘膜、上下歯槽、硬口蓋、舌前2/3、口腔底に、軟口蓋、顎骨(顎関節を含む)、唾液腺(耳下腺を除く)を加える部位とする。

【歯科口腔外科の診療領域における歯科と医科との協力関係】
歯科口腔外科の診療の対象は口腔における歯科疾患が対象になるが、特に、悪性腫瘍の治療、口腔領域以外の組織を用いた口腔の部分への移植、その他治療上全身的管理を要する患者の治療に当たっては、治療に当たる歯科医師は適切に医師と連携をとる必要がある。
日本耳鼻咽喉科学会「口のなかのがん(癌)は誰が診るの?」

訪問歯科の講習会で、摂食嚥下障害のための唾液腺マッサージを歯科医師が披露していた。耳下腺含む、である、当然だが。これぐらいはもはやフツーであって、得意な人は歯科医師でもやるし、興味のない人は医師でもやらないのである。わざわざ唾液腺から耳下腺を除く意味がわからない。「舌前2/3」などギャグの領域である。3/4まで来たら医師にバトンタッチしろって? バカバカしい。
さて、昭和17年に戻る。提示された医科・歯科の診療境界線について、佐藤峰雄は詳細に考察している。その一部を抜粋した。

一について。
黴毒の一般的治療はもちろん医師の範囲であるとするも、顎骨骨髄炎における歯牙の抜去または腐骨の摘出はどうかの問題が来る。かりに口腔内のあるいは歯科的な治療は黴毒の一症状にすぎないとするもその一症状は黴毒の一般的治療だけでは治癒するとは限らない。ここに歯科医と医師との連絡を必要とするのではあるまいか。また次の結核性のものにおいても同様である。結核性口内炎または潰瘍も歯科の口腔外科の治療とあいまって完全を期することができるのであると思う。


二について。
口腔外科手術は外科医で技工的方面は歯科ということになり一応もっともな連絡であり副木に関する材料ならびに操作の実際的知識は歯科医師に越すものではなかろうが、事実は歯科医師を越して医師、技工師の連絡となり終るのではなかろうか。歯科側の不安はここにもひそむ。


この時代の歯科医師は、医師にくわえて技工師にも脅えなければならなかった。技工師の存在感は歯科医師並であった。地方では特に。

三について。
骨室内の病巣の掻爬手術を主とするならばまづ歯根嚢腫が挙げられる。嚢腫の大小は種々あってその拡大方向も鼻腔へも上顎竇(引用者註、=上顎洞)にも接近し交通する場合もある。従って歯根端切除手術を歯科医だけの仕事とすることは取りもなおさず歯根嚢腫が歯科領域に編入さるる事になり顎骨外科になりうる理でもある。(略)義歯を応用する口腔内の畸形とは戦時の創傷に多く見らるる歯牙ならびに顎骨の実質欠損大なるものにして畸形形成をなせるものも考えられ、また一般抜歯後の普通の義歯ともまた考えられるが、義歯の問題なれば特別に口腔内の畸形といわずとも一般義歯といえばわかるはずである。ことに歯科医師のやる場合の例がかくのごとく不明瞭であるのは最も遺憾とすべきである。


四について。
抜歯を医師もやるということになると歯科のいわゆる口腔外科の中心を失うこととなり、歯科医はついに金属充填と根管治療と義歯の仕事だけとなり、いわゆる歯科の要求する口腔外科はやや完全に皆無ということになる時である。
かりに歯科医も抜歯を許すとせられても、他方においてかくのごとく医行為の一切を拒否されているのでは抜歯に伴う出血、感染等の際偶発症に対して何等施すことを得ず、実際には歯牙抜去すらできないということにされるのである。抜歯を許すならば抜歯に付随する口腔外科は当然許さるべき性質の物でなければならないということになるのである。


診療範囲を科で分けるのは無理だし、無意味である。どんな人間も自分の体は2つとないのである。
患者としては、得意な人にやってほしい、というのが本音だろう。個人の技量差が激しいのに、科別に診療圏争いをしたって無意味なのである。現実的かどうかを無視すれば、個人的にはヘタクソな有資格者よりも、ウマイ無資格者のほうがいいぐらいである。そして自分の得意と不得意を把握して、得意でなければ速やかに得意なヒトや診療科や病院に回すことができる医師や歯科医師こそ、私は名医であると思う。その手の名医が活躍できる方向に、なんとか持っていけないものだろうか。

戦時の医歯一元化闘争50 歯科医学専門学校同窓連合会初の評議員会

昭和17年6月28日、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)において歯科医学専門学校同窓連合会の第1回評議員会が開催された。司会と開会の辞:松本政雄(高歯)、氏名点呼:大橋忠(京北歯)、宣誓文朗読:森山賢一(大阪歯)、閉会の辞:小森忠三(京城歯)。

宣誓
われらは母校同窓会を代表し各同窓間の緊密なる連絡のもとに全職域を結集し医界新秩序の建設を図り以て国策施行に協力邁進せんことを期す
右宣誓す
 昭和17年6月28日
   歯科医学専門学校同窓連合会
代表 森山 賢一


同連合会には、東京歯科医学専門学校(東歯)卒業者も入会していた。歯科医術開業試験合格者や帝大卒、さらに実業家もいる。【】は引用者。役職名は当時。

役員名簿(イロハ順)

顧問
飯塚純一郎【大正6年、デンバー大学歯科卒、大阪歯専校長】
大久保通次【京北歯科医学校創設者】
加藤清治【日歯専校長
川合渉【明治39年、東京歯科医学院卒、日大歯教授】
柳楽達見【明治41年、歯科医術開業試験合格、京城歯専校長
長尾優【大正2年、東京帝大卒、東京高等歯教授】
中原實【大正4年、日本歯科医学専門学校卒、日歯専理事長
長澤富次郎
永松勝海【大正7年、日本歯科医学専門学校卒、九歯専校長
宇田尚【中央大学法科卒、東洋学園創立者
熊谷鉄之助【広島県歯会長】
佐藤運雄【明治31年、高山歯科医学院(後の東歯)卒】
島峰徹【明治38年、東京帝大卒、東京高等歯校長】
清水精一
清水盛樹


歯科医育関係者が多い。

会長
原房吉

理事 〇は常任理事
池田八郎
〇今田見信【大正5年、東京歯科医学校卒
〇伴長義
林了【昭和4年、日大歯卒、慶應大解剖学教室研究生
原田一幸
二ノ宮千代
〇本多武夫
豊田實
〇大澤勝人
〇大橋二郎
〇大橋忠
〇沖野節三【大正7年、東洋歯科医学校卒
〇渡邊源吾
〇川上政雄【大正9年、東京帝大卒】
川瀬もと
竹山厚
田口静雄
椿弥十郎
奈良碧
中澤勇
長尾スミヨ
延島幸三郎
国澤利明【日大歯卒】
〇窪山健吉
山村こう
真壁ナツ
〇松本政雄【東京高等歯卒】
〇小林シノブ
小菅朴二
〇小森忠三【東歯卒?】
青木貞亮
淡路隆一
笹田三信
齋藤辰之
三村浩三
境信愛
菊地武利
宮崎三雄
〇永島チヨ子
水野直隆
〇鹿田定
〇柴田信【日本歯科医学専門学校教授】
清水幸蔵
一ツ子邦夫
〇森山賢一
〇鈴木郁子
鈴木勝【昭和2年、日大歯卒、日大歯助教授


鈴木勝は、昭和23年に東京医学歯学専門学校医学科を卒業している(医師と歯科医師のダブルライセンス保持者)。
同校に医学科ができたのは昭和19年4月からで、歯科医師は4年制の医学科の3年次に編入できた。戦時における、歯科医師の医師転用制度の一環である。鈴木勝はこの制度を利用した可能性があるが、とすると、戦後しばらくは歯科医師の3年次編入は継続していたのか。制度を利用せず、医学科に入りなおしたのか。

幹事
原田一幸
西田信雄
尾崎安之助
吉井二郎
高橋良夫
高道孝
辻一
長井丈二
国澤利明
近藤三郎【東歯卒?
佐藤峰雄【日歯専卒】
鹿田定


戦前の歯科医師は、人材にも幅と奥行きが感じられる。純粋培養的人材育成が主流になるのは、戦後からである。



戦時の医歯一元化闘争49 一元論者は国際派

昭和16年11月に開催された大政翼賛会主宰「医界新体制協議会」。その1年後の歯科公報による回顧談。

11月26日、日刊新聞は日米外交戦のスリルを一斉に回顧して、国民の大東亜戦争への自覚喚起が強調された。記者は同時にあの緊張そのものであった大政翼賛会主宰の医界新体制協議会を思い出す。
1週間後、大東亜戦争の大緞帳が降らされるなどとは夢にも予想せず、医界新体制はかくあるべしと力説した場面を想起し感激を新にするものである。本誌の今田主幹は厚生歯科学会理事の立場において、推薦されて出場の機会を与えられ、年来の持論たる歯科医師の現行制度を改変して医師の資格に一元した口腔科専門医とせよと主張した島峰徹博士も、佐藤運雄博士も、加藤清治博士も同様に医歯一元とせねばならぬと叫ばれた。また埼玉の蓮見宏氏京都の寺尾幸吉氏もこの一元論を主張されたのであった。
(余禄、1942年12月1日発行「歯科公報」)

ここに名の出た歯科医師は、昭和16年7月に設立された口腔保健協会の役員である。島峰徹はベルリン大、佐藤運雄はシカゴ大、寺尾幸吉はカルフォルニア大のいずれも医学部卒。加藤清治はノースウェスタン大学歯学部卒で口腔外科医である。
変り種は蓮見宏で、日本歯科医専の学生時代にアントワープ五輪に選手として参加している(蓮見三郎名義)。参加したのは800mと1500m、本選出場はできなかったもよう。
なお、谷津三雄ほか『雑誌「口腔保健」と日本歯科医史学会々誌』によると、口腔保健協会の役員には「何故か東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)関係者の名がみられない」そうである。さらに口腔保健協会設立のきっかけともいえる皇紀2600年記念歯科医学会には、日本歯科医師会が関わっていないという。同論文いわく「本学会誌のどこにも日本歯科医師会の協賛、後援はみられず、歯科教育機関歯科研究機関のみが大同団結して行われたことが想像され、政治的意図が何らかの形であったことも考えられる」。皇紀2600年記念歯科医学会は全国から準備委員長780人を配して開催された初の全国的な歯科医学会で、時の文部大臣や東京帝大教授の緒方知三郎の講演なども行われている。会長は島峰徹。開催日は昭和15年11月7日から3日間、総演題数243、参加会員4500人。で、最終日には「計画其他一切」および残務整理で生じた余剰金が、学会委員の申し合せにより口腔保健協会に委譲されている。
これだけ大規模の学会を日歯抜きでやれた、というのはスゴイことだと思う。今のように民主主義でも、ネットのある時代でもないのである。これも、従来の政党を全滅させた新体制運動の影響なのだろうか。

<新体制運動のおさらい>
1940年6月にドイツ軍がマジノ線を突破、フランスが降伏。同年同月に日本で新体制運動が起こり、翌7月に全政党が解散、10月に大政翼賛会創立。昭和16年7月に第3次近衛内閣ができて10月につぶれ、東条内閣に。昭和17年4月に翼賛選挙、同年5月に翼賛政治会創立。


あの晴れの舞台で、歯界の意見が一元論と二元論とに対立したことは、医師側から見ると奇怪にさえ感ぜられたらしい。しかし筆者等の見方をもってすれば、この対立はむしろ当然のことであると思う。類似業態の一元化がすでに国策として近年明示されている以上、さらに天下の与論は現実に行詰っている歯界を好転せしむるためにあるいは職域奉公に功名を与うるためには、何をおいても医師と歯科医師との業間にある不必要な境界の撤廃が叫ばれるのは、当然過ぎるほど当然なことだったのである。しかるにあに計らんや反対せんがために無意味な反対をなすものが飛び出して、その結果は遂に今日われわれが目の当りに見せ付けられている、一元、二元の大きな全国的な論争となったのである。論理主義の遊戯を得意にしている論者がわが歯界に不幸にしてあったためにここに至った次第なのである。


「論理主義の遊戯」とあるが(数学でいうところの論理主義ではなさそうだが)、二元論者の文章は少ない。とりあえず、日本歯科医師会と東京歯科大学の会史では無視されている。

医者が足りなくて占領地域の文化工作に不自由であるとき、しかも日本人の分野が土地と時間的に無限に拡大されつつるとき、医歯の一元強化が悪いはずはないのである。


日歯や東歯が反戦・反軍国主義の立場から軍部が要求する医師増員に抵抗し、二元論を固持した――というのなら、わかりやすいんだが。

戦時の医歯一元化闘争48 大政翼賛会「医界新体制協議会」

大政翼賛会主宰の医界新体制協議会は昭和16年11月26・27日の両日、東京丸の内の大政翼賛会本部で開催された。議長は前厚生相、吉田茂である。
4つの分科会が設定され、歯科界からの代表者は22人だった。なかでも「歯科医師を医師とする提案は全体を通じて激しい論戦を巻き起こした」(島根県歯科医師会史、昭和51年)という。

第1分科会:医道高揚
委員長・高杉新一郎
歯科からは木村忠三、寺尾幸吉が出席。
医道理念明徴と実践方策につき意見を述ぶ
(島根県歯科医師会史)

第2分科会:医育刷新
委員長:熊谷岱蔵
歯科からは織田正敏、佐藤運雄、広瀬武郎、正木正、島峰徹、血脇守之助が出席。
医育機関の修業年限を短縮し、予防、治療方面の医学を専攻し、医療報国の万全を期す。歯科医育問題については「歯科医育の向上発展に関する件」 正木正「歯科医師をして医学校上級に編入し修学せしむる件」 熊谷鉄之助「歯科大学を設くるの件」「医育刷新の目標とその対策」 佐藤運雄の諸案について熱心な意見を述べ、医師と歯科医師の区別なく同一に医学を教育し、現在の歯科医師には医師の資格を付与することを強調したが、一部議員しかも歯科医師の中にも反対者があった。


第3分科会:医業改善
委員長:北島多一
歯科からは今田見信、岡田満、緒方終造、加藤東七、北村一郎、蓮見宏が出席。
社会保険の全面的拡充と厚生活動への組織体要望であったが、歯科問題については今田委員から「歯科医師のごとき末梢臓器専門意思の存在を廃し、医師に包含せしめ、眼科、耳鼻、咽喉科のごとく口腔科専門医とする件」の提案に対し、山口求俊委員は明治39年の医師法制定議会における高山紀斉の電報を引用して、歯科を分離した事情を明らかにし、初めの医師法案には歯科医を包含していたのだと説明した。


第4分科会:保険国策
委員長:広瀬久忠
歯科からは上田貞三、奥村鶴吉、小野豊、加藤清治、長屋弘が出席。
人的資源の培養強化に保険衛生国策の大道を画策せしむるもの。


で、その決議。

医界新体制確立のため吾等は医人として卒先挺身せんことを期す、それと同時に政府に於ては本議会の意見を充分斟酌せられ医界諸般の制度組織を急速に刷新せられんことを要望す、なお大政翼賛会に於てもその運動を通じて厚生問題を適切に処理すべき機構を整え、医人協力体制を確立すると共に健康に対する国民の自覚を促すため一層の努力を期待す


この後2週間足らずの12月8日に大東亜戦争が開始、12月15日に医療関係者徴用令が出され、年明けの1月22日に国民医療法が無修正で衆議院を通過、2月24日に公布される。日本歯科医師会は、よくこの世情に抗しきれたものだと思う。

低落社会歯科医療の打開

ココで紹介した大日本新歯会の中央委員・鹿田定は昭和14年、九州歯科学会雑誌に興味深い論文を発表している。タイトルは「低落社会歯科医療の打開に対する私見」。

空気は無尽蔵なる天恵物質であるが故にその人類生存に絶対不可欠要素であるに拘らず吾人はその真価について認識を敢えてせない。同様に歯牙もまた人類健康保持に絶対不可欠の重要機官であり生命と一連の連りを有する身体組織であるに拘らず、その異常の強固さ数量的多数存在および、これに加え吾人歯科医の歯牙に対する物質価格評価のあまりに低率であるが故に、現在に於て歯牙の真価は吾人の評価せる価値以上に何等の真価を認識されていないのである。しかも尚年々加算しつつある歯科医過剰現象、自由独善競争および国家経済の動向は混然合流して一層歯牙の真価の低落を来し終ったのである。
鹿田定「低落社會齒科醫療の打開に對する私見」九州歯会誌、1939、87-92

「歯牙の真価の低落」の原因として「歯科医の歯牙に対する物質価格評価」の低さを挙げているところが、興味深い。当時の歯科医師はホンモノの歯の治療費よりも、ニセモノの歯(義歯)の価格を高く設定していたのである。

現今一般的歯科医療を目して「疾病起源の製作者」であるかの如き非難の声を聞くも、これに向って断じてしからずと反駁断言し得る者いくばくありや、考うる時まったく心細い限りであり、神聖なるべき歯科医学を極端に侮辱するかかる非難にすらも屈服しなければならないのが現状の歯科医療であると言って最も当らずと言い得ないのである。


そんな鹿田の「低落歯科医療の打開の方策」は「歯科医療の国家経営」、もしくは「歯牙真価の物質価格的高価評定であり歯牙および人命尊重」である。

抜歯術および現在治療の名目下にある抜髄処置を抜髄手術としてこの両者の医療報酬額を歯牙の真価の割合に応じて高価に評定する事である。あるいは極端との非難を受くる恐れあるも、吾人の主張せんとする所は保存歯科および歯科外科に歯科医療の重点を置く事である。(略)かくする事により一時的には国民大衆の経済的皮層の感念より負担過重の悪印象を免れ得ずとするも、反面国民歯牙愛護思想の偉大なる啓発原動力となり齲歯予防実行の強制力となり、その結果必然起るべき生活改善となりここに於て家庭経済に充分の余力を生じ得ると信ずるものである。なおかくする事によって歯科医も現在のごとくその収益の充填を技工にのみ偏在せしむるを要せず、結局は現在高率歯科技工料金の材料および技術に応じたる減額を見るを得べく、さらにまた重要なるはかくて始めて歯科医療の分業的独立すなわち専門科独立の可能条件となり、数年を出ずして歯科外科、保存歯科、補綴歯科の専門的独立分業を来し、各専門医院に対して一定の患者の集中となり、ことに補綴科のごときは極低価格をもって何等の不安なく最も進歩せる技術および生理衛生的加工が自然可能となり、まったく国民医療費負担の軽減となり国家の低物価政策の真意に合流し、人的資源確保の大理想におのずから合致し得て君国に対し吾人歯科医も表面的ならざる充分のご奉公を果し得る事になるのである。

今日でも、歯科診療報酬点数の低さが、患者の歯科医療に対するモチベーションを下げているという意見はある。つまり、アメリカ並みに日本の歯科治療費が高くなれば、日本人もアメリカ人並みに予防に注力するだろうという意見である。
一理あると思うが、痛みが出るまで放っておく患者は、歯科治療費が安い=いつでも治療できる、という理由で痛みを放置しているのではないだろう。そういう患者はそもそも歯や口腔の健康を甘くみているのであって、むしろ現状の歯科治療費ですら高すぎると思っているのである。また、アメリカが皆保険制度になって保険で安価に歯科治療が受けられるようになったとしても、アメリカ人は予防や早期治療を軽視すまい。口腔内を清潔にして歯をキレイさを保つことは、もはや文化だからである。
なお、鹿田定の執筆当時の肩書は「山口県仙崎町齋木病院歯科」。齋木病院は今も健在だが、歯科はなくなったようだ。鹿田の問題提起から80年近く経過したが、歯科の価値が高まったとはとてもいえない現状である。

陸海軍に於ける願望神経症

昭和7年3月発行の「産業衛生協議会報」に「願望神経症」なる病が報告されている。
報告者は植村秀一、肩書きは大阪陸軍工廠診療所所長・陸軍二等軍医正である。植村は1938年、満州国の大学令により国立化した哈爾濱医科大学の校長に就任している。下線は引用者。

軍部に於きましては日清、日露の戦役に於きましては当時の病床日誌を調べると戦傷あるいは精神的外傷のために色々の神経症ことにOppenheimのいわゆる外傷性「ヒステリー」あるいは外傷性神経衰弱あるいはそれらの混合型というような型のものは相当発生しておりましたように見受けますが、StrumperやNaegeliのいわゆる戦時神経症(KriegsneuroseあるいはWar-neurose)と称すべきものすなわち、なるべく多額の年金を得て軍隊より除籍されんとし、あるいは戦争の危険より逃れんとする願望的観念を持ちこれが自己暗示として作用し症状を頑強に保持せしめ、また種々の運動障害を生ぜしむるものというようなものは見出され得なかったのであります。
植村秀一「陸海軍に於ける願望神経症」、産業衛生協議会報.第14 外傷性着款匹柾陲垢訃委員會報告1932)

当時軍部では「願望神経症」なる病気が問題になっていた。戦闘から逃れるための仮病である。
このレビュー(Crocq MA, Crocq L. From shell shock and war neurosis to posttraumatic stress disorder: a history of psychotraumatology. Dialogues Clin Neurosci. 2000 ;2(1):47-55.)によると、欧米においても戦争神経症を仮病と疑う意見はあり、激しい論争が第一次世界大戦中に始まっていた。当時の“嵐のような論争”において、エミール・クレペリンは“346人の連合軍兵士が最前線から逃亡したという理由で軍司令部から射殺されたが、殺された兵士の中には戦場での混乱と恐怖からくる急性ストレス障害の患者が確かに含まれていた”というコメントを述べており、殺された兵士には多分に同情的でありながら、しかし、仮病の完全否定もできなかったようである。でもってクレペリンによると、第一次世界大戦時の戦争神経症患者はフロイトにも大きな影響を与え、この時にフロイトはそれまでの“幼少期のトラウマに起因する心因性徴候”を柱とする精神分析理論に、精神外傷性夢(traumatic dreams)を含めるようになったのだという。
閑話休題。
日本では――というか日本軍では、仮病的な戦争神経症を「願望神経症」と呼び、より厳しくあたっている。外傷性着款匹柾陲垢訃委員會の経過報告書には、願望神経症が外傷性神経症の多数を占めている、とまであった。神経症なんてほとんど仮病だ、というのである。

外傷性神経症に関する決議
1、災害に端を発し、種々なる神経症状を呈するものを、従来、ひろく「外傷性神経症」と称せしが、この中には成因を異にせる諸種の病型含まるることは周知の事実にして、なかんずく、補償その他の欲求観念に由来するいわゆる「願望神経症」に属する症例の甚だ多きことは多数研究者の一致せる見解なり。
2、いわゆる「願望神経症」は直接災害により惹起せる疾病にあらざるをもって、補償は本症以外の外傷性神経症に限局するを合理的なりと認む。
昭和6年11月15日産業衛生協議会「外傷性神経症に関する決議」から抜粋)

第二次世界大戦時には、神経症が軍務に関係のない障害と診断されれば、傷痍軍人恩給の対象外となった。願望神経症の“創設”は精神論が幅を利かせ、精神疾患に冷たかった当時の風潮とともに、国が補償を回避するために敷いた布石の面もあったのかもしれない。
なお、産業衛生協議会は今の産業衛生学会の前身である。
その理事長は産業医学や労働科学の先駆者として知られる、暉峻義等(てるおかぎとう、1889-1966)である。ラジオ体操(元来は逓信省簡易保険局が制定した国民保健体操)の普及も、産業衛生協議会の答申が後押ししたもの。過去は、過去ではないのかもしれないと思う今日この頃である。

戦時の医歯一元化闘争47 歯科医療の社会化運動

さきに大政翼賛会の肝煎りで医界の新体制が発足され、歯科医師界でも実にこの線に沿って一段と高い溌剌たる新体制を確立しようと昨年の10月下旬、30代の新進学徒によって雄々しくも大日本新歯会が結成されることとなった。
(1942年1月発行臨床歯科

ココで大日本新歯会の結成を昭和17年と書いたが、昭和16年10月であった。ということは国民医療法制定以前の結成である。大政翼賛会の呼びかけに応えた組織らしい。

われわれの主張は、端的に、「吾人は皇国医道の確固たる理念に則り新歯界の建設、医道の宣揚実践、医の国家的使命を確認し、挺身皇国民生活進展の礎たらん事を期す」にある。
(佐藤峰雄「大日本新歯会の結成」、1942年1月発行臨床歯科)

一、歯科医道の振作
二、日本歯科学の明示
三、歯科医育刷新
四、医療の完遂
五、医界の有機的結合
(大日本新歯会実践要綱、1942年1月発行臨床歯科)

なお、大政翼賛運動とは第2次近衛文麿内閣の主導する全国組織で、昭和15年10月に発足。総力戦のための国民運動展開が、その目的であった。大政翼賛会総裁は内閣総理大臣。道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会、などがその下部組織である。ちなみに、昭和15年は皇紀2600年であり、日本人ナショナリズムが最高潮に達した年であった。同時に経済・文化・社会・生活の統制も強められるのだが。

紀元二千六百年記念観兵式(昭和15年11月6日発行アサヒグラフ)
▲紀元二千六百年記念観兵式(昭和15年11月6日発行アサヒグラフ)

現在中央委員の人達は医博入山秀氏、舟生秀夫氏、高橋利定氏、松本政雄氏、江西甚良氏、白土壽一氏、楢原六郎氏、岡部圭司氏であり、外に歯科出身であり、法科出身である佐藤峰雄氏、国澤利明氏、その他純粋学徒として尾崎安之助氏、鹿田定氏等でいかにも新鋭そのものの如き顔ぶればかりである。


当初の会員数は、約100人。昭和16年10月21日には東京水道橋の保生館で第1回講演大会を開催し、約300人を集めている。
講演者および演題は以下の通り。

松本政雄・医における歯道の振作について
栖原六郎・大学教育に於ける歯道の振作
尾崎安之助・独創的日本歯科学建設
岡部圭司・予防歯科学の確立
高橋利貞・歯科教育機関の再検討
白土壽一・人的資源確保の為めの医療完遂上の保健税
佐藤峰雄・戦時下に於ける吾が職域
江西甚良・国民体位向上の方策としての歯科学領域
鹿田定・皇国歯科医療の向途
入山秀・大陸に於ける歯科医師の立場に就て
国澤利明・アメリカ歯科学を排し日本歯科学を樹立実践の方策

どの講演もそのマクラは「大東亜戦争に於ける赫々たる偉勲に対して」とか「有史以来の大東亜戦争に際会したるわれわれは」「世界制覇の野望に燃えつつあったコミンテルン打砕の聖戦に」などとモノモノしいが、内容は今日的にも考えさせられるものが多い。
例えば、

医学教育に、精神科学の持ち来される必要がある。例えば、少くとも、哲学、歴史、民俗学、更に政治学等をも医学の分野に採り入れられなければならない。
(栖原六郎・大学教育に於ける歯道の振作)

療養費の国家的負担、病院および医薬製造の国家的設立等でありまして、その費用としての全国民に対する保健税の必要があるのであります。この保健税は現在我々が富の上下によりて収めている税に何%とかの課税をいたしたものでありまして、その収入税により国家が国民の「生命」に対する皇国的責任を全うすべきであると思うものであります。
(白土壽一・人的資源確保の為めの医療完遂上の保健税)

技工に幾多の時間が割かれ医療そのものに充分の努力を払い得ないものあれば技工師をして充分に技工方面を担当せしめ歯科医自身は完全に医師本然の姿に立還るべきである。
(佐藤峰雄・戦時下に於ける吾が職域)

大日本新歯会の主張は、多岐にわたっている。日本に健康保険制度を成立させる一助となった、いわゆる医療の社会化運動に歯科はほとんど関わらなかったというのが定説だが、大日本新歯会の主張には歯科医療の社会化運動の側面もある。だからこそ日本歯科医師会周辺に警戒されたのかもしれないし、医歯一元化に主張を搾れなかったことが仇となったのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争46 一元化問題の座談会

1942年12月発行「厚生時報」より、「一元化問題の座談会」。東京歯科医学専門学校(東歯)、日本大学歯科専門部(日大歯)、日本歯科医学専門学校(日歯)の各卒歯科医師が参加した座談会である。

記者
例の一元化問題は歯科医にとって最重要問題として論争され、従って最近の歯科界における話題の中心となっているようですが、これに対してA先生の御意見をお伺いいたします。


「A先生」は東歯卒。東歯といえば医歯二元論の牙城であったが、A先生は意外にも一元化に賛成なのである。

A氏
歯科医をなくして、医者を一元化するということは出来れば大変よいことで、これほど結構なことはないと思う。ただこの問題は事新しく今始まった問題ではなくて、もう既に10年も前から幾度か唱えられてきた問題で、論議は尽くされている。従って大日本新歯会とか連合同窓会とかの人達がさかんに声を高くして歯科医に呼びかけておるようだが、われわれはもうあのようなお談義は聞きたくない。すべからく実行だ、われわれが聞きたいのは如何にして一元化を実現せしめるかである。

記者
A先生は水道橋出身と聞きますが、水道橋の学校は一元化反対のようですが、先生は賛成ですね。

A氏
歯科医を普通医にすることにはなんら反対する理由がないと思う。だから私は歯科医を普通医にすること自体には賛成だ。ただその実行方法をどうするかが聞きたいのであって、今の歯科医を半年や一年の講習で医者にすることが出来るかどうかである。私自身が歯科医であって、歯科医を貶すのはどうかと思うが、世間は歯科医は普通医よりすべてにおいて劣っているとみておる。事実劣っていると思う。それは、防護団の救護班等でよくみることであるが、実にひどいもので、あれでは世間から医者の下位にみられるのは当然であって、身体各部の専門的名称すら知らないのが多い。これでは傷者救護に当っての報告書も書けないわけで、左大腿部負傷を左モモ負傷と書いたんでは普通医に笑われるばかりでなく、一般人にまで笑われはせんかと思う。しかし防護班の救護に関する限り歯科医も普通医なみに認められておるのであるから歯科医はこの際少し勉強しなくてはならんと思う。水道橋の同窓会が一元化に反対しておるということのいきさつについてはくわしいことは知らんが、水道橋の学校の同窓会をのぞいて各学校の同窓会が連合同窓会を結成したから自然こんな具合になったのではないか、この点はくわしく知らないから責任は負えないけれども。


歯科診療所も1次救急ぐらい担うべき、と主張する歯科医師が現在もいる。私もそう思う。だが医師会は反対するだろうし、歯科医師会は乗り気にならないだろう。戦時の医師不足対策とはいえ「防護班の救護に関する限り歯科医も普通医なみに認められて」いたことは画期的であった。
さて、日大歯卒の「B氏」の意見である。

B氏
今かりに歯科医が普通医なみの取扱いを受ける制度になってみたところで、内科何々医院、外科何々医院等の如く普通医がそれぞれ専門を標榜しておるように歯科何々医院と看板を書き替えてみても、歯科医はやはり歯科医に変りはない。「歯科何々医院」「何々歯科医院」も同じだ。すでに歯科医の看板にも普通医の看板のように、「歯科何々医院」式の看板を往々見かける。また普通医の中にも何々内科医院、何々外科医院と歯科医式の看板を掲げている者もある。こりゃ談ぢやが、流行ない歯科医や、人中に出て普通医より一歩引をとっておる人達が、普通医の歯科医ということになったら流行るかも知れん、歯科医も普通医ということになったら学位の権威も一層認められはせんかというような考えからの運動ではないかナ、流行る歯科医に聞いてみたまえ、一元化問題を笑ってほとんど問題にしておらんようだ。

A氏
そりゃ、そうかも知れない。歯科医が今直ちに普通医になったからといって、やはり注射がうてるものでもなし、耳鼻科の治療ができるものではない。またかりに半年や一年医者の講習を受けても、南方向けの一時的医者ならともかくも、日本内地で日本人向きの医者にはなれるものではない。2年も3年も講習を受けるのであったら、いっそのこと、医専の1年に入って新規巻き直しでやった方が、どれだけよいかも知れん、そのほうが権威もある、歯科医師が講習を受けてなった医者というのでは世間はやはり軽くみる。


C氏は日本歯科医専卒である。

C氏
僕は一元化に反対する理由はないと思う。歯科医も普通医なみの取扱いを受けてよい、また同じ人体を取扱う医者は普通医と歯科医に区別すべきではないと思うから医者の一元化は結構である。しかし現在開業中のいわゆる歯科医に一定期間の講習を受けさせて直ちに普通医にしたのではやはりどこまでも歯科医の痕跡が残る。歯科医の痕跡が残ったのでは完全なる医者の一元化とはいえない。私はこの運動の第一線に立っている人達に敬意を表する一人ではあるが、例の四羽烏といわれている人達の話も聞いたが、どうもこの人達の話を聞いただけでは、何故一元化しなければならないかの理念を掴むことが出来ない。運動目的がどこにあるのかをはっきり教えてくれないうらみがある。医者の一元化ということはよいことは判りきっているのであるから、正面切って反対する者はないはずで、ただ運動の第一線に立っている人達が、素直に言えば毀誉褒貶を度外してやっておるのであるかどうかということである。
この運動の一翼に携っている同窓の某教授に聞いたことであるが、もしこの運動の目的が達成されたならばそこに新しい機構の組織ができることになろうが、この場合今運動の第一線に立っている人達は、運動目的達成それ自体に満足して、後事は新人に委せて退場するかどうか、これははなはだ疑問だといっていたが、運動の第一線に立ったのだから、後で報酬をくれ方式では人がついて来ない。

A氏
一体この戦時下において、不平をいうのは食えるからだ。食えなくなったら不平を言っているはずがない。300年も続いた米問屋の主人が満洲開拓民の第一線に立たなければならん、一事は権利金3万円5万円といわれたマグロ問屋の主人公が80円で帳面付けをやらなければならんという世の中である。一体歯科医ほどもの判りのしない階級は少ないと思う。材料が配給制度になってから歯科医の隣組が出来ておるが、もの判りのしたのが少い。一元化は結構だがまづ歯科医の自覚というか、人格というか、世間から歯科医はもの判りのした階級だと思われることが先決ではあるまいか。


「もの判りのした」とは、融通がきく、とか、話がわかる、という意味のようだ。

記者
昔の歯科医ならともかくも、今の歯科医は中等教育をうけ、さらに専門学校で学校教育をうけた歯科医であるからそんなはずはないでしょう。

A氏
それがそうでない。むしろ昔の学校教育を受けない古い歯科医には人格者が多い。従ってもの判りがある。年齢別からみて大体40歳以上の歯科医はもの判りがよいが、それ以下の若い歯科医、特に32〜33歳前後の歯科医にはもの判りのせんのが多い。この年齢の人達は7、8年前に多くは開業している。つまり不況から稍々好況に立直った頃に開業したから苦労を知らん。やはり人間は苦労を知らなければ駄目だ。この点において学校出よりは検定医の方がづっともの判りがよい。学校別にすると水道橋等はもの判りのせん方だ。気ままというか、お高く止るというか校風が然らしむというか。とにかく私も水道橋出であるが、取扱いのむつかしいのが水道橋のようだ。順調に発展した学校の卒業生ほどもの判りがせん。反対に経営に苦労した学校の卒業生ほどもの判りがよいように思う。苦労をした者がその苦労を悪用する場合は別問題であるが。


A氏の東歯評「気ままというか、お高く止るというか校風が然らしむというか」が面白い。

記者
最近連合同窓会の支部結成を各地でさかんにやっているようですが、その成績といいますか、一元化問題に関連してどんな具合のようですか。

C氏
各地で盛んに連合同窓会支部を結成しているようだが、実際に同窓会を動かし得る者はその学校の卒業生ではないでしょうか。川上さんも高等歯科の卒業生ではない(引用者註:川上政雄、東京帝大卒)、沖野さんも日大歯科の卒業生ではない(引用者註:沖野節三、東洋歯科医学校卒)、柴田さんも日本歯科の卒業生ではないはずだ(引用者註:柴田信、日歯教授。出身校は?)。その学校の卒業生でない人達によって、同窓会が本当に動かされるものではない。また連合はどこまでも連合であって、結合でないからまた分かれることもあろう、この意味において、同窓会と動かしうる者が裸になって連合してこそ、真の力が出るのではあるまいか。私は同窓会等をこの場合持ち出さないで、大日本新歯会とかに各学校の卒業生が自由に参加して、共同の戦線を張った方が良かったと思う。そのほうが強力なる力を発揮することができる。連合では頭が連合の数ほどあるのであるから、自然連合内に小さな勢力争いがかもされる。この小さい勢力争いが馬鹿にならないことで、連合の脆弱性はここにあるのである。何事でもひとつの運動目的を結成するには指導力は一本に限る。


確かに。同窓会なん持ち出さなかったほうが、運動に東歯卒業生をも取り込めただろう。同窓会の連絡網を使いたかったのだろうが。

記者
歯科界の空気は一元化賛成が濃厚のようにうかがわれるようですが、ただその熱意と実行力が問題のようですが。

C氏
まだ運動の熱意が足らんネ。歯科医である以上一元化に反対する理由がないはずであるから、運動の第一線に立っておる人達に自我がなければ、今更同窓会の連合とか、支部の結成の必要はない。自我のない熱意さえあれば、全国3万の歯科医は自然についてくると思う。そしてその実行方法であるが、半年の講習を受けますから、一年の講習を受けますからでは絶対に駄目だ。普通医が6ヶ月の講習を受ければ歯科専門を標榜することができるのに歯科医にその制度がないのは片手落ちだという議論をする者があるが、それは手前味噌というものだ。
一元化は結構であるが、運動者自らが普通医に取り扱ってもらいたい、またおれも普通医並に取り扱ってもらいたいがための一元化賛成では運動目的の達成は仲々容易ではあるまい。この運動の衡に当っている者が、一元化運動完遂のためにどの程度まで掘下げて研究しておるかまたどれだけの決断と勇気を持ち合わせているかをわれわれは知りたいものだと思っている。

A氏
今までの歯科医は金冠ばかりたたいていればよかったのであるが、大東亜戦争になってから歯科医も医者と同様に救護の任務を負担されることになっている。この場合の取り扱いは歯科医も普通医並に取り扱われておるのであるから、自然普通医と歯科医との力量を比較される機会が多くなった。普通医が少しくらいヘマをやっても医者仲間ではもちろん世間もそれほど問題にもすまいが、もし歯科医がちょっとでもヘマをやると、あれは歯科医だから駄目だということになる。これがわれわれ歯科医にとって一番つらいことである。反対に歯科医の力量も普通医以上であるということを示すには今が絶好の機会でもある。われわれ歯科医はこの際めざめて大いに勉強すべきだ。

B氏
勉強の点では同感である。一体にわれわれ歯科医は勉強が足りなくはないか。学校を卒業して開業をして4年もすると技工技術は非常に巧くなっておるようだが、学校で修得した学問は驚くほど後退しておるということである。某校の教授などに言わせると学問の点では3年の学生にも及ばないほど後退しておるということである。学問は日進月歩である。雑誌等でも折角送ってきてもほとんど封を切らないで放ってあるのが多い。それではいけないと思う。一元化運動は結構である、しかし少なくともこの運動に賛成する者はすべからく医者として自信ある力量を養うべきことを忘れてはならんと思う。


3人ともマジメで前向きだ。どういう人選だったのだろう。
さて、やはり当時の歯科界は医歯一元派が大勢だったようである。それは「歯科医である以上一元化に反対する理由がないはず」だったからだろうが、にもかかわらず一元化できなかったのかといえば、歯科医師が「医者として自信ある力量を養う」には、歯科医師のみでは不可能だったからだろう。医師の協力や助言が不可欠であるのに、医師にそれを要請するまでには至らなかった。明治以来の二元制の壁は高かった、というところだろうか。

中国解放後の鑲牙師

日中戦争終了後も、中国大陸では鑲牙師(じょうやし、入歯師のこと)が活躍していたようだ。
昭和30年10月の、日本訪中医学代表団(堂森芳夫団長)の報告より。

当初の中国は中華人民共和国として社会主義国に生まれ変わった新時代であった。歯科事情については人口6億人に対し歯科医はわずか千余人で、官公庁や国家病院に勤務していた。一般市民の治療は技工士が行い、技工士は営業権を有し、実質的な社会的存在感を持っていた。歯科医師会は存在せず、医学会に包含されていた。医学全体の流れとしては漢方医学と西洋医学とが合流し、新しい中国医学を築こうとする過渡期といえた。
白川正順.戦後混乱期における日本訪中医学代表団の中国との国交外交の役割.日歯医史会誌26,56-7,2005

日本の医学代表団の訪中は昭和29年、日本赤十字社による中国紅十字会視察団の招聘をきっかけとする。翌30年に中華医学会から堂森芳夫・日本医師会副会長に中国視察の要請が来て、中共医学視察団が編成された。視察団の人選は日本学術会議と日医である。歯科関係者で参画したのは中原実・日本歯科大学学長ただひとりで、日本学術会議の推薦であった。推薦理由は不明。なお、堂森芳夫は当時、日本社会党の衆議院議員である。社会党代議士が日医の副会長をやっていたところが、時代(55年体制)である。
昭和30年――1955年といえば、中国も日本もまだ戦後の混乱期ではあろうが、中国はその後もっと混乱するので(文化大革命)、束の間の平和といえるのかもしれない。
医療行政的には、中国はその後、農村の医師(歯科医師含む)不足対策として農民に3ヶ月〜1年間の医学研修を行って医師とする「赤脚医生」(裸足の医師)をスタートしている。赤脚医生は人民公社の生産隊社員(つまり農民)として農業に従事しつつ、同僚に無料または安価(例えば、定額の年間費のみ)で医療を行っていた。赤脚医生は、戦前日本における医療互助制度「定礼」と似たような制度といえる。文革(1966〜1976年)期に最高の500万人に達した赤脚医生は、しかし、毛沢東の死とそれによる人民公社解体とともに、消えていく。だが、赤脚医生から正規の医師や医学部教授、さらに大臣になるものもあり、人材の流動性をあげるという効果は確かにあった。
さて、鑲牙師のその後は、どうなったのだろうか。「実質的な社会的存在感を持っていた」というから、しぶとく生き残っている可能性もある。

参考:
滿洲帝國に於ける鑲牙師問題
満州国に於ける歯科界の現状

戦時の医歯一元化闘争45 戦時の歯科用金属リサイクル

昭和13年に広島県、昭和15年に東京府の両歯科医師会は、国家管理のもとで遺体から歯科用金属を回収することを日本歯科医師会に要望した。

広島県歯は昭和13年11月25日に開催された第15回定時総会に、意見書を提出している。
広島県歯科医師会提出(昭和13年)
1.火葬場の設備を完全にし金の喪失を防止する事を法制化するの件
2. 屍体より金(金冠、インレー等)を除去なす事を法制化するの件
(理由)
歯科医師に最も影響ある金問題たるや国家経済上最重要条件たり。故にここに超非常時方策たる第1、第2の方法を建議して配慮を願うものなり。
昭和13年9月25日関西歯科医師会役員連合会の決議に基き提出仕りそうろう(抄)
山田平太.日本の歯科百年の様相 : 第1回.歯学史研究(2),27-29,1969)

昭和12年12月に、国は金使用規則を公布して金の消費を抑えようとしている。
同規則では「工業用、医療用等必要已むを得ぬものは大蔵大臣の許可を得て除外」するとされたが、装飾用(開面金冠etc)にも金を必要としていた歯科医師には大打撃であった。日本人はかねてから金歯好きではあったが、特に大正バブルの好景気で金歯が流行し、歯科関係者(入歯師含む)をも潤わせていたのである。遺体から金を取ればいいという要望は、この状況を受けてのものであろう。

1黄金づくり一切禁制
▲昭和13年8月7日付朝日新聞東京版朝刊

なお、山田によると日本での金の使用量は昭和35年には約6トンで、うち1.9トンを歯科用が占めていた。開戦以前には歯科用として年3.5トンが消費されたという。歯科における金資料量の減少は、健康保険制度発足と金使用制限、さらに同制限による代用合金の開発が関係していると考えられる。

昭和14年12月19日付朝日新聞東京版朝刊
▲昭和14年12月には金使用規則がさらに厳格化(昭和14年12月19日付朝日新聞東京版朝刊)

代用合金は昭和14年頃から「物凄い勢いで売り出され、昭和17〜18年には、その氾濫期をつくった」(山田)。

この状況を受け、今度は東京府歯が意見書を提出した。昭和15年12月7日の日歯第17回定時総会において、である。
東京府歯科医師会堤出(昭和15年)

歯科医療用済みの貴金属類を国家管理として回収するを当局に要望せられたし
(理由)
火葬若しくは土葬にする際歯科用として使用しある貴金属類をそのままとするは考えねばならぬ。これを国家管理の 下に回収すべきであると思う。かくするときは1ケ年に1千万円以上の回収を見るに至るべく時局下経済上是非実行す るよう国家に要望するものなり。(抄)


昭和15年9月14日付朝日新聞東京版夕刊
▲昭和15年は満州でも金使用禁止(昭和15年9月14日付朝日新聞東京版夕刊)

さて、昭和18年になるとゴールドに限らずあらゆる金属が貴重品となって、一般家庭ナベやカマ、さらに子どものブリキ製オモチャまでなくなった。金属類回収令である。

昭和19年12月15日付
▲戦争末期には歯科医師も“医療用”白金を供出(昭和19年12月15日付朝日新聞東京版朝刊)

戦争末期には兵士の使う水筒や食器にも金属が使われず、陶器製などになっていた。実物を見たことがあるが、重いし割れるし、こんなものを背負って日本の兵隊は中国を行軍していたのかと思うと涙が出そうである。開戦はやむを得なかったのかもしれないが、いつ終戦すべきかの判断は完全に間違っていたと思う。
なお、今や「歯科医療用済みの貴金属類」の換金はボランティア組織にもなっている。もしかすると、その原型は戦時にあるのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争44 佐藤運雄の手紙

佐藤運雄が東洋歯科医学校(現・日本大学歯学部)設立にあたって、その師である血脇守之助にあてた手紙より抜粋。大正5年4月7日付。
そうろう文を現代語訳した。【】内は引用者註。
佐藤運雄は明治12年11月生まれ、明治31年東京歯科医学院(現・東京歯科大学)卒。明治33年に渡米して歯学を学び、36年から東京歯科医学院の講師を務めている。

小生の今回の挙をもっていわゆる三崎町【=東京歯科医学専門学校】派にそむくものであるとする友もいます。
今田見信「東洋歯科医学校設立について 血脇守之助に送った佐藤運雄の手紙」

佐藤運雄は医歯一元論者であり、東歯創設者・血脇守之助は二元論者であった。そして佐藤は、一元論の立場から「今回の挙」、すなわち新しい歯科医育機関をつくろうとしていた。

このような党派の存否はおいておくとして、とにかく小生が大人【たいじん、成人男子――この場合は血脇に対する敬称】および周囲人物が今更何の必要があっていかなる動機によってそむくものとなすのか、いささか解釈にくるしむのでありますが、試みに顧みれば過去数年間小生が学校(専門学校)になんらの関係を有しないことや、大人等に接触する機会が多くなかったことや、はたまた、試験【文部省歯科医術開業試験】委員として働いていたことや、これらの諸点よりして推理できるのであろうといえども、ご承知の通りこれらの諸点はいずれも皆小生の外出のままならない健康状態に帰すべきもので、毫も他意のないことが、大人の熟知されている義と信じております。

佐藤運雄は明治41年に満州の大連医院歯科口腔科部長となっていたが、健康を害し、明治43年に帰国。同44年に歯科医術開業試験委員に就任。大正2年に養父が死去したため、歯科診療所を継いでいる。

小生が今回の挙によりいわゆる石原【=石原久。東京帝国大学歯科学講座教授、医歯一元論者】系と結ぶの愚を笑うという友もおります。ご承知のごとく、小生は15年以前より石原氏に師事しているものでその人物にいかなる程度まで敬服するかは別問題として、とにかく医局における5年、満鉄にあった4年、試験委員として5年、いまだかつて離れたことはなく、決して今新たに結ぶという次第にはありません。もし石原氏と結ぶことはよくないというものがあるなら、それは十余年以前に聞くべきであった忠告でありましょう。小生は一度師事した人物に対しては特別な理由があるのでなければ、そむくことは正しくないと信じているものであります。


佐藤運雄は帰国後すぐ東京歯科医学院の講師になるとともに、東京帝国大学医科大学歯科外来の傍観生となっていた。石原久は、東京帝大歯科学教室の主任教授である。なお、佐藤運雄が傍観生なのは、当時の東大が歯科医師を正規の医員としては受け入れなかったためである。明治37年に佐藤は講師に昇格、帝大初の歯科医師の職員となっている。

世間は往々、石原氏について人格の有無が疑わしいとするものがありますが、小生の観るところは少し世間一般とは異なるところがあります。従って大人に対すると同じく十余年間離れたことがない次第なのであります。


ここでいう世間とは、歯科界のこと。石原の歯科部では歯科医師が正規の医員となれなかったうえ、歯科技工師に補綴治療をさせたりで、歯科技工師撲滅にやっきになっていた歯科医師を激怒させていた。まあ、言ってみれば石原久とは、帝大教授版の花桐岩吉であろう。

今回小生の集め得た教師中、石原系のものがあって三崎町系のものはないとの疑念は、ムダ口を労する閑人の閑話のひとつと思います。これは単に自然の成り行きであること、ご承知の通りであります。
初め小生の学校経営を思い立つや、まず最初に相談したのは奥村【=奥村鶴吉。東歯における佐藤運雄の同僚。東歯創設者・血脇の懐刀】兄です(12月末)。第2回目に相談したのが石原氏であります(2月10日頃)。けだし小生は何事を計るにも大人および石原大人の両所に是非の指導を受けるを義務とし、また特権と思っているものであり、自然今回の挙についても御両所の賛同を得たことをもって同時に教師の選択について助力を希望したのであり、医局には一流の助手たちが特別な仕事もなく比較的閑散に存在するがゆえに、たちまちこれらの人士を小生の共働者として推挙された次第にあります。しかるに専門学校では一流二流の教授等はいずれも校務多忙で寸暇なく、従って奥村兄より話された人士はいずれもごく若手の仁で他者との関係上小生が迎えなかったまでのことであります。もし相応の教授を専門学校に求めることができれば即日これを歓迎すべきこと、もとよりでありますが、今のところ左様の無理な注文を致すほど厚顔になれない始末であります。


佐藤運雄は大正5年4月、東洋歯科医学校を創設している。今の日本大学歯学部である。この時佐藤運雄は38歳。
なお、奥村鶴吉は明治14年生まれ。
佐藤運雄の方が2歳年上であるが、奥村鶴吉は東京歯科医学院の前身・高山歯科医学院時代から血脇に関わっているから「兄」としているのか。ただの敬称かもしれないが(同僚を学兄と呼ぶ的な)。

世間閑人の閑話に耳を傾けられる大人とはもとより思っておりませんが、世に誤解はあって多年の友情を恐すような、ただでさえ台風多き歯科社会にさらに幾多の小台風を発生させることはないかと万一を危惧した寸暇を得て、辞令を無視して書き付けた次第であります。ご承知の通り拝趨【急ぎうかがうこと】御面晤【面会のこと】の上、口述することが難しい現下の状態を御憐察下されたく思います。
今後もし何等か大人のご不審に思われる点もあれば、一々電話あるいは奥村兄を通してご注意下されば幸甚至極に存じます。
ただし佐藤はもはや悔いるはずはないとされるのであれば、別問題にございます。
 暴言多罪 頓首々々
4月7日
佐藤運雄


血脇大人 梧下


全文はココで読める。
恩師に対する、精一杯の気配りと誠意をこめた手紙である。大正12年の歯科医師の医師資格獲得制度運動の際、佐藤運雄が沈黙していたのもわかろうというものである。
なお、佐藤の「集め得た教師中、石原系のものがあって三崎町系のものはない」とあるが、東洋歯科医学校が専門学校に昇格してから教授となった川合渉と中川大介は東歯卒。まあ、派閥などというものは大抵、砂上の楼閣である。

戦時の医歯一元化闘争43 日歯会長への辞職勧告書

大阪歯科医学専門学校校友会・生野会は、昭和17年10月23日付で日本歯科医師会(日歯)の会長と理事長(今の専務理事の地位)に辞職勧告書を公開した。当時の日歯会長は血脇守之助、理事長は奥村鶴吉である。

東歯同窓会会頭および奥村氏に対し同窓会の主眼者として、はたまた全日本歯科医師会会長および理事長としての公人的立場においてももっぱら全歯科界の円満のため大乗的に各関係者と懇談し善処せられん事を最大の敬意と友情と条理をつくし勧説したけれど骨の髄まで浸透せる「アメリカニズム」の奥村理事長の自由利己独善主義およびその理念に翻弄せらるる老血脇会長の無定見まったくいかんともなし難く、ついに調停の労を断念するのやむなきに至れり、実に本懐に反する痛恨事なり。
しかしてこの事情に鑑み諸般を観るに今日わが歯科界における不統合は正しく現会長および理事長の党派的暴政のいたす所にてすなわち彼等の不徳の因果なりと断定するも過言にあらざるを知る。
顧みるに三十有余年来の校友誠に情において切々たるものあれど他方全日本歯科界を思うの念やみ難く、ここに涙を呑み現会長および理事長の器に非ず宜しく辞職せられん事を公開状をもって勧告す。
以上
昭和17年10月23日
(大阪歯科医学専門学校校友会生野会「辞職勧告書」、1942年12月発行「厚生時報」)

翌年1月に判明した官選日歯会長は従来どおり血脇守之助であったが、理事長は奥村鶴吉ではなく西村豊治であった。奥村鶴吉は官制日歯となって以降は歯科医政から離れ、戦後初の日歯会長選挙でも候補者に挙げられたものの“手続き上の不備”で失格となっている(榊原悠紀田郎「歯記列伝」1995年)。勧告書が影響したのだろうか。
なお、この1942年10月の厚生時報には、新規の歯科医専同窓連合会支部が北陸、近畿、群馬、山梨、東海に設立されたことを報じており(「厚生点描」欄)、さらに京城歯科医学会において「歯医一元化」(ママ)のため朝鮮歯科医専連合同窓会を結成した、とある(「朝鮮通信」欄)。でもって生野会の辞職勧告書冒頭には「東京歯科医学専門学校同窓会(ただしごく少数幹部を除き大多数会員は連合会と同意見なり)」ともあって、これらを読んでいると一元派は結構な勢力を持っていたようであるが、不発に終った。なんでやか。

戦時の医歯一元化闘争42 歯科医専の廃校

厚生省監修の雑誌「厚生時報」論説部は、歯科医専の医専化を主張している。

われらは官立の歯科学校が開校された当時その必要を疑ったのである。もし政府管掌で歯科医を養成する必要ありとすれば官立の医大もしくは医専で養成すればよいので独立の学校の必要を認めなかったのであるが、今一元化運動が展開するに当り、運動の性質からすれば独立した歯科専門学校は当然不必要ということになるが、一元化運動に携わっている者は、このことを考慮しているかどうかである。
(厚生時報社論説部「歯科医専の廃校を提唱す」、1942年12月発行「厚生時報」)

厚生時報社論説部は「まづ歯科医学専門学校を普通医学専門学校に切替える運動を」、一元化運動と併行して行うべきではと問うのであった。

医者の一元化はよい、決して悪くはない、断じてやらなければならん問題である。しかしながら一定期間の講習の受講によって歯科医を医者にせよとか、口の神経も足の神経も連絡があるんだから歯科医を別扱いにするのは不可解だから歯科医を医者にせよとか、歯科医学専門学校で医者である歯科医を養成させよというのでは世間を首肯せしむるには少しく物足らなさを覚えざるを得ないのである。


もし一元化が実現していたら、一般的医学教育の後に、スペシャリティとして歯科を学ぶという過程になったのであろう。とすると、歯科医専はスペシャリストの養成機関――上級専門学校か、歯科大学院になったはず。しかし、残念ながら具体的に歯科医専をどうするかという議論は盛り上がらなかった。多くの歯科医専は、職業学校に過ぎなかったのだろう。

戦時の医歯一元化闘争41 地方の歯科経済

われらのような地方歯科医の生活費は補綴の工賃よりほかに恐らく得られぬと余は思惟する者である。
(稲生浚「歯科の補綴について」、1942年10月21日発行「歯科公報」)。

岐阜県揖斐郡在住の歯科医師・薬剤師である稲生浚は、補綴が地方歯科医師の経営的生命線であると赤裸々に書いている。

表看板に歯科一般、口腔外科とは書いてあるが、歯科の全生命がほとんど補綴で生きているのだ。歯科治療として歯髄に亜砒酸バスターを貼布するほか、根管治療と称してカルボル製剤あるいはフォモクレゾール製剤、ヨード製剤を再三反復貼用して疼痛が去れば、根管充填をしてのち補綴的工作に移るのだがいかに簡単なる作業なることよ。
口腔外科と大書してあるから顎骨切除、あるいは舌の切開でもできるかと思えば、関の山、抜歯あるいは歯髄アプセスの切開ぐらいのことで外科医から見たら噴飯の感に耐えぬほどの小外科である。だが何が歯科医をそうさせたのかといえば死亡診断書が事由に書けぬし、また社会の与論が許さぬからだ。
医師があやまって患者を死にいたらしめても胸腺リンパ体質だとか、糖尿病だ、または血友病だといわれて死亡診断書を書いて涼しい顔をして自他ともに認容するが、歯科医師が万一抜歯後患者が死の転帰でも取ったなら、病気のいかんを問わずことに田舎では二里四方くらいは、あの歯科医が歯を抜いて死亡させたとて喧々、実に悲惨の境遇に陥らねばならぬ。
従って老練の歯科医は抜歯は可及的行わずただ、補綴万能で実収入を掲げるのに邁進しているのが賢明のやり方である。要は患者本位にあらず自己(歯科医)本位にやれば患者も満足するし収入も増大するから心ひそかに微笑を禁じ得ぬのである。
しかし良心的立場から考えれば、抜去すべきものは抜去し、切開すべきものは切開するのが仁術であり、また吾人医人の望むところだが、越権行為によって医法の制裁を受けることを恐れて十分なる治療も躊躇するようになるのはやむを得ぬ現実だ。


「老練の歯科医は抜歯は可及的行わず」、その理由は「死亡診断書が事由に書け」ないから。しかし、これはどうだろう。死亡診断書は患者を死亡させたことの免罪符にはなるまい。

医歯二元論者のいうごとく、補綴は工学と理学すなわち理工学と医学とから組立てたものである。決して歯科医師以外の者の容認を許さぬ神秘的の技術のごとくいうが、決してそのような深遠な学理の必要は入らない物である。しかしすべての科学は、皆理工学ならざるはなしだ。よって重んずれば重く、軽んずれば軽し、またその中庸を取ることそもそも難きかなだ。
薬学の中に分析術、薬品鑑定、製薬化学、裁判化学、衛生試験法などという化学があるが、恐らく門外漢に説明しても了解できるものではないが、補綴すなわち技工などは小学卒業生で半ヶ年も見学すれば器用な者ならば結構できるし、上手あるいは下手などは各自の手腕で余らは人生五十路もすでに過ぎんとしているがすこぶる下手だが、小院にいる技工手のごときは小学校卒業だけの学歴なるが一日金属冠を20〜30本は楽に製作するし、また義歯も2釜くらいは平気で煮く手腕がある。そのできあがり具合はすこぶる巧妙にて余など遠く及ばぬ次第である。すべて技工の上手下手は労力ではなくて熟練によるものだ。二元論者の虎の巻も余に言わしむれば論拠はなはだ薄弱にして心細き極みである。


「上手あるいは下手などは各自の手腕」というのは、そうかも。センスはのばしたり磨いたりできるが、ナイものは磨けないのである。

余は毎日歯科医師たることを満足に感じて感謝の日を送っている者である。なぜならば、時計屋や印刷屋より容易な技工すなわち補綴で相当の技術料を申受けて生活のできるのを衷心喜んでいるからである。この上死亡診断書が平気で自由に書けたならなお幸福と思って、医歯一元化達成の一日も早からんことを後輩のため祈念する次第である。


稲生浚は大正12年1月25日に衆議院に「齒科醫師より醫師たり得へき特別法制定の件」を請願したひとりで、請願当時は東大歯科医局員。稲生俊の標記も散見される。

戦時の医歯一元化闘争40 日歯通知の波紋

昭和17年9月、医歯一元化運動に対し日本歯科医師会(日歯)は道府県歯科医師会長あてに通知を出した。その内容は厚生省、文部省、陸軍省医務局は同運動を関知していない、歯科医師会役員の官選にも影響はしない、というものである。
で、その影響。

日本歯科医師会長の名をもって道府県歯科医師会に牒達された「医歯一元化運動に関する件」は、果して各地方に大きな波紋を起し、右通牒を高度有利に医歯一元化運動の阻止に利用している関係上逆効果的に悪質なる対立を引き起こしつつある向きも多く、あるいはかえって冷静の態度を強化する向きもあり、あるいは一元論を捨てて東歯側に加担する等各地で喜悲劇の惹起を見せつけられていることは、歯科医師会改組前夜の出来事として一般の注目を引き、心ある者の心胆を寒からしめているところである。
(時報、1942年10月21日発行「歯科公報」)

「各地方に大きな波紋」を起したらしい。そんな大した内容とも思えなかったが。役人に聞いたら関知しないと言ったというが、役人なんて大抵、関知しないというものである。

現状維持に、必至の努力を払っている東歯同窓会側は、同窓聨合会の全国支部網完成に先じて各地支部会の結束を強化し、歯科医師会改組後の議員選挙に絶対多数獲得を期し、密かに指令を発し、10月12、13、14日は東京各区委員を分割召集して徹底を期する等昨今の暗躍には見るべきものがある。


医歯一元化推進組織「大日本新歯会」は声明を発表している。

日本歯科医師会の権力濫用について
大日本新歯会

先般日本歯科医師会より「医歯一元論に関する件」として道府県歯科医師会長に対し前後3回にわたり不可解なる通牒を発し、全国歯科界に波乱を起さんと試みたるは吾人の遺憾とするところである。同通牒の内容は厚生省当局、陸軍省三木医務局長、文部省永井専門学務局長に対し一元化論の賛否を問い、責任ある地位にある方々のご意見としては不偏不当至極御允なる言を敢て曲解し、これを利用して道府県歯科医師会長を強いてその会員に対し一元論に反対し二元論を強要せしめんとするものにして、日本歯科医師会長たるの言論を封鎖せんがための窮余の策に出たものに他ならざるは明らかなるところなるも、いやしくも歯科界の代表者としてあるまじき態度、公人として断じて許すべからざる行為である。
従って本会は全国歯科医人に代りその意図するところを明徴にし、その非を糺問のため日本歯科医師会長に対し内容証明郵便をもって次のごとく質問したるに、その非なることを全面的に承認することとなったゆえ、医歯一元化を要望する全国歯科医人は、かかるものに対しいささかの掛念なくこれに邁進することを望む次第である。


大日本新歯会の公開質問の内容は3つ。すなわち、

…鳴205号は、道府県歯科医師会会長に一元論に賛成しないようその会員に伝達させるのが目的か。
通牒207号は、文部省永井専門学務局長が一元論に対し賛否いずれの意思表示もしなかったのに、その言を曲解して同局長が一元論に不賛成だと道府県歯科医師会会長に言いたかったのか。
D鳴213号は――

陸軍省医務局長三木良英閣下は、例えばさる5月17日、歯科医学専門学校聨合同窓会報国大会に対する東京歯科医学専門学校同窓会ならびに日本歯科医師会の不法なる妨害あるいは「いわゆる歯科医学専門学校同窓聨合会に対する東歯同窓会の立場」と題する印刷物を全国的に配布して東歯同窓会が歯科界の紛糾を招きしがごとき事実に鑑み、貴会に対し今後かくのごとき暴挙を行わざるよう、また歯科医師全体は今回日歯発第205・207・213号をもって貴下より道府県歯科医師会長に対して発送いたされそうろう書信のごとき文意不徹底なる文書に接したる場合も動揺して争論を行わざるよう、自重を切望せられたるものと解釈せらるるにもかかわらず、あえて貴下はこれを自己に都合よく曲解して貴下より道府県歯科医師会長に対し一元化論に賛成せざるよう申し進めおるものと解釈して差し支えなきや。

で、日歯の答えはどれも「然り」。素直に認めている。意外。
日歯は「5月17日、歯科医学専門学校聨合同窓会報国大会に対する東京歯科医学専門学校同窓会ならびに日本歯科医師会の不法なる妨害」をも否定しなかった。この騒ぎは警察沙汰にもなり、否定しようにもできなかったのだろう。

戦時の医歯一元化闘争39 日歯の通知

昭和17年9月、医歯一元化運動に対し日本歯科医師会(日歯)は道府県歯科医師会長あてに通知を出している。
まずは昭和17年9月25日付で2本。そうろう文を要約した。

昭和17年9月25日、日歯発第205号「医師歯科医師一元化運動に関する件」(要約)
近時、歯科医師を医師にするべきとの議論があり、実行団体もできている。団体の中には歯科医師を医師とするのは厚生省当局の方針または諒解によるものとなどと流布して入会を勧誘し、あるいは一元化論に賛成しなければ歯科医師会長に推薦しないと唱え、あるいは現歯科医師会役員に対し一元論賛成を強要する行動があるようで、各地から照会がきている。
だが厚生省当局では一元化論に関しては今日まで全く考慮することも、質問を受けたことも、賛否の意見を洩したことすらもないと言明されている。当局支持の下に行われている運動ではないことは明白であり、また、歯科医師会長の官選は歯科医師会令の定めるところであり、一元論に対する賛否を条件としてその適不適を決定するものではない。国民医療法の精神に応じて、大政翼賛に至誠を期すべき今日において、選挙運動と紛らわしい行動に出ることは厳戒を要する。貴会々員各位に対し、時局柄ことに職域の重きに任じ、慎重な態度をとられるよう御伝達くだされたく申し上げる。
(日本歯科医師会史 第1巻、p492)

昭和17年9月25日、日歯発第207号「医師歯科医師一元化問題に関する件」(要約)
本件に付、本日文部省永井専門学務局長より「少くとも自分に関する限りこの問題は初耳にして右の運動は文部省の関知しないものである」との言明があったと申し上げる。
(時報、1942年10月11日発行「歯科公報」)

厚生省も文部省も医歯一元化運動は関知していないし、歯科医師会役員の官選にも影響はしない、という通知である。日歯として一元化をどう考えるか、については沈黙したままである。
さらに、その翌26日付。

昭和17年9月26日、日歯発第213号「医師歯科医師一元化問題に関する件」(要約)
本日、本会奥村理事長は陸軍省医務局長・三木良英閣下を訪問し、標記の件に関してその意図を訊ねたところ「この議論は雑誌に散見しているが、今日まで質問を受けたことも、意見を洩したこともなく、したがってその実行運動に諒解を与えたようなことはない」旨を明らかにされ、かつ「歯科医界においてこのような争議を続けているのは、重大時局下まったく支持できないところであり、自分個人として歯科医師全体の自重を切望せざるを得ない」旨を付言された。
(時報、1942年10月11日発行「歯科公報」)

軍医増産は陸軍の要請であり、昭和19年3月には歯科医師の医師転用制度が議会で採択されている。
よって、時の陸軍省医務局長が医歯一元化というか、歯科医師の医師への転用について質問すら受けたことがないというのはウソか白を切っているかのどちらかであろう。医師不足対策に帝大・官立医科大に附属臨時医学専門部が設置されたのが昭和15年、それでも予想される軍医不足に厚生省は“歯科医の短期訓練”を挙げていたのであるから、厚生省が「今日まで全く考慮することも」ないというのもウソかカマシか、レトリックである。歯科医師の医師への転用は、あくまで医歯一元化ではない、という。
実際に“日歯の要請で”実現した歯科医師の医師転用制度は、以下の内容であった。

・東京医学歯学専門学校医学科(4年制)の3年次に歯科医師を編入→医師に
・慶應大学、慈恵医科大学の附属医学専門学校に歯科医師用の特設科、臨時科を設置(医学科の3年次と4年次の内容を1年間で修了)、終了後→医師に
・歯科医師に計330時間の医学講習→医師試験合格→6ヶ月の臨床実習→医師に

本邦初、歯科医師が医師免許を取得できるダブルライセンス制度である。同制度はいかにも即席であり、一元論者が主張していたように、全身疾患と口腔疾患を双方向で治療することや、全身の健康の一貫としての予防歯科の実践、といった一元化の理想にはまだ遠いが、しかし、一元化には踏み込んでいる。制度による患者メリットがわかれば、医歯の医育統合→歯科専門医の誕生→コデンタルの業務拡大、といった一元化は遠い話ではない。

それはともかく、日歯は一元化を拒否しつつ、ダブルライセンス制度を国に要請した。

日歯はダブルライセンス制度を一元化の一貫とは、考えていなかったのか――ダブルライセンスの必要がどこからくるかを考えれば、一元化に帰結するのだが。
だが、日歯は一元化の議論には、乗る気配すら示さなかった。
だから現実的には、一元化の、いや二元制の定義すら、歯科界で共有されはしなかった。シカトすることで問題点を曖昧にし、現状維持するやり方は今も歯科界によくある(例:歯科衛生士の業務範囲、歯科技工の海外委託)。一度議論が始まれば、その矛先が歯科界のありようにまで波及する可能性は高かった。それを怖れたのだろうか。

一見医歯一元化運動は歯科医師会改組に無関係のようであるが、実は深刻な意義と魅力を持つもので、同窓聨合会の圧力は医・歯一元への飛躍と同時に、歯科医師会の機構と会員の心構えに、偉大なる浄化作用、賦活作用を与えるであろう。
(余禄、1942年10月11日発行「歯科公報」)

戦時の医歯一元化闘争38 大歯校友会の反撃

阪歯科医学専門学校校友会・生野会による、東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会「我等の主張」に対する反論。
阪神の若き東歯出身者の嘆息するを聞け。すなわち大井氏は講義講演等にては誇大に吹きまくるも、口腔顎の大手術患者はいつの間にか母校病院より姿を消し、牛込区開業の慈大出身某医師の手術室に現わると彼は内職なりとごまかすも、実は彼の能力努力の不足にあらず、医師資格なき二元制の悲哀を暴露するものなり。
(時報、1942年10月1日発行「歯科公報」)

「大井氏」=大井清。
大井清は大正12年東歯卒、当時は東歯の口腔外科教授。正木正と同期。

また歯槽膿漏症のごときも局所全身の総合審査および治療によりて、その完璧を期し得、その予防に至りてはなお然り。しかるに絶大なる努力精進にもかかわらず「局所療法」と限定せる不備なる著書を編せる花澤、杉山氏の例は二元制の欠陥にあらずして何にものぞや。


「花澤」=花澤鼎。
花澤鼎は明治15年生まれ、1902年東京歯科医学院卒。いわゆる検定組で、大正12年に歯科医師の医学博士第1号。東京歯科医学院では明治38年から病理組織と臨床実習を担当している。

「杉山氏」=杉山不二。
杉山不二は花澤鼎とともに昭和16年10月、「歯槽膿漏の局所療法」を上梓している(定価6円)。同書発行当時、花澤は東歯の病理学教授、杉山は保存学教授。

参考:花澤鼎「歯槽膿漏の局所療法」、臨牀歯科社編「歯槽膿漏の種種相」

傲慢なる奥村氏も過般の神戸大会にも前例なき悄然たる態度にて「もう一期だけ会長を勤めさせていただきます……」と挨拶せり、学校歯科医会長として深く反省せよ、過去において陛下の赤子、学童、口腔保健の完璧を期し得たりしか、予防はおろか早期治療さえできず。ただライオン歯磨の宣伝先棒をかつぎ彼我の利欲を満したるに過ぎざるなきか。また統率下の学校歯科医の聖職は開業利権の争奪の醜と化せる現状にて学校歯科医療は逐年行きづまりあり、よろしく会長の責任を痛感せよ、奥村氏は自己の利欲名誉のため、まさにまた東歯の党派拡大のため歯界多方面にのさばるのみ。狂奔し斯界に及ぼす罪むしろ功より大なるを遺憾とす。すべからく専一挺身もって奉公の実績を確たらしめよ。


「奥村氏」:奥村鶴吉。
奥村鶴吉は明治14年生まれ、明治31年高山歯科学院(後の東歯)卒、明治32年歯科医術開業試験に合格。東京歯科医学院の設立当初から院務にかかわり、昭和18年に東歯校長。この批判が書かれた当時は日本聨合学校歯科医師会理事長、日本歯科医師会(日歯)理事長(今の専務理事にあたる)。翌昭和18年発足の官制日歯では幹部からはずれ、以後日歯には関わっていない。戦後、昭和23年3月に開かれた社団法人日歯の最初の代議員会では会長選挙が行われ、候補者として奥村鶴吉も上げられていたが、「手続き上の不備」で失格となっている。

大西技師のごときも大分県時代より東歯派閥のためなら手段を選ばぬ輩なるに奥村氏がかかる党派根性の人物を推薦したるものは智謀といわんよりも旧政党型策士なる証なり。大西、花澤氏のためタイアップせし歯科材料問題に絡む醜聞は、単なる関西商人の噂の域を脱せるにあらずや、近来大西技師は関西方面にて公然と一元論を駁し、その論者を非国民たるがごとき言をもってこき下ろすは、官吏道を脱せるものにして、あるいは官吏と東歯出身者としての身分を混同せるものにして、我ら静観者も彼の言辞を聞きてむしろ一元論に燃えさるるに至れり。


「大西技師」:大西栄蔵。
大西栄蔵は昭和13年に設置された厚生省に嘱託で関わり、昭和17年に正式に厚生技官となった。昭和23年、厚生省に歯科衛生課が設置され、その課長となる。昭和30年制定の歯科技工法を書いたのは大西栄蔵といわれている。

単なる中傷としても「ライオン歯磨の宣伝先棒」「歯科材料問題に絡む醜聞」など、使われる言葉が今に通じるのは興味深し。

戦時の医歯一元化闘争37 二元制のデメリット

歯科医学専門学校同窓連合会――医歯一元化を目指す歯科医育機関同窓会の連合体。東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会以外の全同窓会が参加――は、医歯二元制下における歯科医師のデメリットとして、

〇猖歓巴能颪書けない
軍で活躍できない
9埓に関与できない
ぐ綮佞茲蟲詢舛低い
ゴ擬圓某糧配給券を出せない

を挙げている(時報、1942年10月1日発行「歯科公報」)。

〇猖歓巴能颪書けない
歯科医は歯牙と関係して起った死亡に対しては、死亡診断書を作成することを得るの事実らしい。しかし歯牙の治療に関係して起った死亡が果して歯牙だけに原因があったのか、ほかに原因があって死亡したのかということは、歯牙口腔だけに限局した審査では結論が出せないはずだ。


旧医師法第5条
医師は自ら診察せずして診断書、処方箋を交付しもしくは治療をなし又は検案せずして検案書もしくは死産証明書を交付することを得ず。ただし診療中の患者死亡したる場合に交付する死亡診断書についてはこの限りにあらず。

旧歯科医師法第5条
歯科医師は自ら診察せずして診断書、処方箋を交付しまたは治療をなすことを得ず。


昭和28年からは、歯科医師による死亡診断書の作成と交付が明確に可能となった――というか、義務である(死因は関係ない)。死亡診断書には直接死因のほか、その原因をさかのぼって記入しなければならない。ということはその能力が認められているということだが、にもかかわらず、歯科医師は死体検案書を出すことはできない。死亡診断書も死亡検案書も用紙は同一なのに。

軍で活躍できない
歯科治療に限局した奉公も結構であろうが、さらに医師資格のある歯科専門医として働くことができるならば、専門科目において得意の手腕を振い得ると同時に他の分科の専門科医とまったく同じような立場においても医療奉公の実を挙げることができて本人の本懐も一層大なるものがあるであろう。


9埓に関与できない
府県庁や大きな都市で仮に技師を採用する時に、医専の卒業生であれば何の方面の衛生事務にも、行政にも関与させることができるであろうけれども、歯科医では歯牙に関すること以外には使うことができないのである。同じ専門科として同じ年限の教育を受けて、その専門に必要な能力を持っておりながら歯科医は医師という資格がないばかりに、こういう結果になるのだ。


ぐ綮佞茲蟲詢舛低い
どの病院でも歯科医を同じ4年の教育を受けた医専の卒業生と比較するというと、第一初任給が安いし、俸給の昇り方が少いし、何年経っても院長なんかにはなれない。これも同じ医師というところの資格がないというだけの結果である。専門家としての能力については、他の専門の医師と少しも違ってはおらないのにこんな実情なのだ。


ゴ擬圓某糧配給券を出せない
歯科医であるがゆえに患者に牛乳や卵や米の配給券もやれない

1942年から重要医薬品、包帯、入院患者用栄養品などは医師会を通じて配給することになっていた。また、患者が自分の医療用品、粉乳、牛乳、氷などを購入するには担当医師が交付する証明書が必要になった。とはいえ、やがて証明書はあっても現物がないという事態になるのであるが。

さて、吉澤信夫によると、医師には可能で歯科医師に許されていないのは、

1)歯科病院を除く病院の管理者(病院長):総合病院、療養型病院等の院長職は医師に限定され、歯科医師は看護師等とともに資格を持たない。
2)保健所長:最近若干の道は開かれたが、事実上歯科医師の場合多くの障壁がある。
3)児童相談所
4)身体障害者福祉法第15条の指定医師
5)介護老人保健施設長
6)法務省法務技官(矯正医官)
7)生命保険会社の嘱託医
8)要介護認定申請に関わる意見書作成担当医
9訪問看護,訪問リハビリテーション事業所の提携医
10)厚労省関係公務員で課長を越える役職(参事官、医政局長等)
11)地方行政組織における公衆衛生業務もしくは審議会委員:一部には歯科医師、歯科衛生士も参画している
12)地方行政に関する医療福祉関係諮問会議の委員(一部を除く)
13)社会保険診療における差別:例えば禁煙指導、禁煙補助薬処方は歯科関係者にも充分実績があるが、社会保険では不可
14)死体検案書(医師のみ)、出生証明書(医師又は助産師のみ)、死産証書(死胎検案書、医師又は助産師のみ)の作成と医師法21条に関する報告
15)その他(検疫官など?)
(吉澤信夫「歴史に学ぶ歯科医療の打開(IV): 歯科医師の死亡診断書交付問題」、歯科学報、2011年

これだけあるという。
要介護認定審査委員の歯科医師はフツーにいるのだが、意見書を書けないとは。
なお、2009年の新型インフルエンザ流行の際には、歯科医師は同ワクチンの優先接種対象の医療従事者から外された。優先順位をつけること自体ムダであるうえ、官僚の歯科軽視があからさまとなった事件である。しかもその後ワクチンが余って結局廃棄されたのも実にやるせなく、世界に冠たる日本官僚の劣化のほうがパンデミックよりも恐ろしいと思わされるのであった。

戦時の医歯一元化闘争36 井中の蛙

医歯一元論はいまさら議論の余地がないにもかかわらず日本歯科医師会の幹部2、3を中心に反対論を唱え、崩れ落ちんとする牙城を守るに血眼になっている姿はむしろ憐慇に思う。
(中川一郎「臨床家の立場から医歯一元化を見る」、1942年10月発行「臨床歯科」)

著者は宇治山田市(現・伊勢市)の開業歯科医師。正木正「医歯一元論者の誤謬を正し新歯会、歯科医学専門学校同窓連合会の解散を勧告する」への批判である。

「我等の主張」「我等の態度」を読んでも少しもピンと来ない。正木氏のいわゆる日本歯科評論9月号の「医歯一元論者の誤謬を正し云々……」を読んでみても歯科界の学者である同氏の所論の貧困さを暴露し、哀れにも自ら墓穴を掘っている感が深い。さらに寺木村人氏の「お若えの…待ちなせえ」や臨床歯科9月号の「一、ニ元論談義」に到っては大東亜戦下の日本の歯科界によくもあんな骨董品的な言辞が横行できたものだと驚きの眼を瞠るのである。


「骨董品的な言辞」――一元論者は、二元論者を批判するのに旧体制、骨董品という言葉を用いた。一元化闘争はある意味、革命であった。

寺木氏のような過去の人間(そんな定評がある)の言う事はともあれ、われらの尊敬する正木氏のような新進の学者をもって自他共に任ずる者に於ては氏の将来のために悲しまざるを得ない。一元論が達成すれば慶應歯科の後釜が若井氏に奪われる杞憂から極力二元論を主張するのだとのデマも飛んでいる。


「慶應歯科」とは大正9年に設立された慶応大学医学部歯科学教室(岡田満教授)のこと。正木正は当時、その助教授だった。
「若井氏」とは、恐らく若井榮治郎のことだろう。当時は講師である。

参考:岡田と若井の共著「齒科代用合金の有害作用に關する生理衞生學的研究 (第一報)」
1940年の日本補綴歯科學會々誌に掲載された論文。動物実験によるNi-Cr合金の神経筋肉・心臓・血管・脊髄反射・発育に対する「害作用」が報告されていて興味深い。何を根拠に同合金を保険収載したのだろう。
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閑話休題。
二元論者がどんなにあせってもこの大勢を動かす事は絶対に不可能であると断言するに憚らない。毎年2000に近い歯科医専卒業者の中東歯200名くらいの力ではどうにもならないことは火を視るよりも明かである。
次代の歯科医人から先輩の切り開いてくれた一元化運動が必ずや感謝の涙を以て迎えられる日が来るのは必定である。一元論に動いているのは日本の歯科界中ごく少数のように思っているが認識不足も甚だしい。業種の拡張に誰が反対するものか。関東歯科医家の9割までは賛成している事実が判らないとは情けない次第である。一元化が実現すれば医者の軍門に降るなど思っている者も一人もあるまい。
医者が反対するのなら世間でもなるほどと肯かれるが、同じ仲間の歯科医人が反対するとはどう考えても合点がいかないのみならず世間の哄笑を買っている。歯科の社会には井中の蛙が多いようであるがそのサンプルがあたかも二元論者である。


「業種の拡張に誰が反対するものか」という意見は、まったくその通り。だが、反対したのは当の歯科医師であった。不思議である。

戦時の医歯一元化闘争35 国防医学

国防医学、という分野がある。平和時には、国民が病気になると働けず、貧乏になり、ひいては国家財政を圧迫する――その貧窮を防ぐ医学である。戦時にはさらに、戦傷治療や検疫・防疫、生物兵器などの被害の防御や除染が対象である。
昭和18年に出版された国防医学歯科講習会編「歯科医師に必要なる国防医学講座」の目次。
機シ蛙懍侖楜攘蛙懴鏖辺
1.軍陣醫學の一般・松本秀治
2.軍陣齒科學に就て・松本秀治
3.軍陣に於ける齒科的治療・松本秀治
4.顎及口腔戰傷の特殊治療に就て・松本秀治
5.軍陣齒科學・松木正直
6.顎戰傷治療に對する齒科學の關與・松木正直
7.顎骨々折處置の實際・佐藤正一郎

供ン鏖菩仍佞防要なる瓦斯防護
1.瓦斯防護・佐藤保定
2.瓦斯防護に就て・江幡廣松

掘ン鏖菩仍佞防要なる防疫
1.戰時防疫に就て・羽山良雄
2.防疫醫學の一般・南崎雄七

検バ防醫學及保險醫療
1.豫防醫學一般・高野六郎
2.社會保險醫療・黒田教慧


コレを見ると、戦時に医歯一元論が隆盛したのがよく理解できる。戦時には医科と歯科を区別する余裕がないからである。特に戦場では。
著者のうち、目を引くのが羽山良雄である。
羽山良雄はシンガポールの南方軍防疫給水部の部隊長で、軍医少将。細菌戦にもかかわり、戦後は血液銀行の相互ブラッドバンク(現ビー・エム・エル)に勤務した。
南崎雄七は厚生省防疫課長。著書に「農村の衛生と医療」(昭和8年)などがある。
高野六郎は内務省伝染病研究所技師、北里柴三郎研究所所長、慶応大学医学部教授、厚生省予防衛生局長などを歴任した予防医学の先駆者。
松本秀治は陸軍軍医学校口腔外科教官などを経て、軍医部長に。軍医学校教官時代には「出動地に於ける歯科診療」(昭和15年)を執筆している。
なお、陸軍軍医学校に口腔外科が設けられたのは明治39年、日露戦争勃発の翌年である。松本秀治は同科第4代目の教官であった。陸軍軍医学校は戦後、国立東京第一病院を経て、国立病院医療センターと改称して今に至っている。

戦時の医歯一元化闘争34 満洲の医歯一元化

1942年10月発行「臨床歯科」より、羽田宣男「満洲に於ける医歯一元問題に就いて」。1942年9月に新京で開催された「満州建国10周年記念歯科医学会」において、医歯一元化問題が「最も熱心な話題の中心」となったという。
著者は日本歯科医専卒、医学博士。専門は人類学で、在中国大陸期間は10年以上に及んだ。著書に「工場の歯科衛生」「生体計測・人類学の基礎」など。

満洲に於ては歯科医はすべて防疫予備員である。伝染病発生あるいはこの予防に対しては常に医師との間にその分担の業態について何等の差異もつけてはいないのである。このことはひとり満洲に限らず関東州に於ても同様である。ただし平時に於ては歯科医は歯科医としての専門科を担当するのである。また、歯科医がそのまま専門の防疫医として働いてもいる。あるいは行政官として医政に従事している。県立病院の副院長として他科の医師の上に立っている人もいる。


満洲の歯科医学部といえば、哈爾濱医科大学附設哈爾濱歯科医学院である。
医学部は予科1年、本科4年。歯科医学部は3年制だった。学長は植村秀一、主任教授兼附属医院長は福島秀策
さらに、泉孝英「外地の医学校」によると、医学部には歯科学講座もあったもよう。
歯科担当は歯科医学部と同じく福島秀策(東京歯科医専)。昭和14年1月就任。

また、佳木斯医科大学(昭和15年〜20年)にも歯科学講座があり、歯科担当は野田久雄(昭和9年九州歯科医専卒)だった。昭和18年2月就任。

南満医学堂時代に佐藤運雄が赴任していた満州医科大学(大正11年に大学昇格)には、少なくとも昭和9年までは歯科学講座の存在が確認できる(満州医科大学一覧、昭和9年)。

関東州の官立旅順医学専門学校(昭和18年〜20年)の歯科講座は石岡淳三が担当し、戦後は「神戸市三宮にて開業」と「外地の医学校」にあるが、歯科医師かどうかは不明である。

満州国陸軍に於ては歯科医も医師と一律に軍医学校の入学資格を持っている。これを卒業すれば軍医として任官し、その将来に就ては医師、歯科医師との間に何等の差異を認めないのである。
その他、歯科医として医大の解剖学、組織学等の講座を担当している人もある。


満洲国立満洲国陸軍軍医学校は、昭和13年開校。

満洲に於ては医、歯一元化はすでに実践せられている大国策であって、満洲に於ける同業はこの下に安居楽業して静かにその発令の時機を待っているに止まり、現在内地に於ていろいろに論議をかもしているこの問題に就ては対岸の火として関心をこそ持つが、これに動ぜられて満洲自体の国策をあやましむるが如き挙には出ないであろうということである。
なお、満洲はこの問題に関し独自の立場にあるといわれる方に対しては満洲の現状を敢て歪曲して考えることにより却って満洲の母体である日本の国策をも誤らしめないことを望むものである。


戦前は日本内地でも、大学医学部に歯科学講座があるところは結構あった。いわゆる歯科医業が歯科医師の独占業務ではなかったからである。満州の社会状況では医療従事者自体が貴重であり、医師と歯科医師をわける余裕もなかったことが医歯一元化をより推し進めたのだろう。

戦時の医歯一元化闘争33 「我等の主張」著者・正木正

東京歯科医学専門学校(東歯)「我等の主張」の著者、正木正。明治32年生まれ、昭和63年没。享年88歳。
著書に「新編 歯科医学概論」(1975年)がある。医学概論というより、歯科の歴史概観といった感じである。

・歯科学が医学から分離したのは、歯科医療の社会的評価が低かったアメリカで始まる(→ボルチモア歯科医学校、1840年)。
・アメリカでは1842年にアラバマ州で歯科医師の資格試験が開始(全米ではモグリ全盛)。
・第一次世界大戦後にナチスがユダヤ人を追放し、それらドイツ語圏ユダヤ人がアメリカに移住して歯科学を向上させる(ナチスの政権掌握は昭和8年)。
・1960年代、アメリカの歯科医師は技工作業の約3/4を商業的な歯科技工所へ出していた。
・1940年、ドイツの歯科医師数は約1万3000人、入歯師数は約2万2000人。1952年に歯科医療法が改正され、新規の入歯師は誕生しなくなる。
・オーストリアの歯科医療従事者:歯科専門医約1500人、入歯師2500人。
・デンマークの歯科医療従事者:歯科医師約2600人、歯科技工士600人。歯科技工士は補綴治療も可能。
・イギリスの歯科技工士:健康保険歯科診療が開始した1921年から免許制。養成は開業歯科医師の技工室か、商業的技工所での徒弟制。学校は同業組合が公認した技術学校化、イギリス外科技術学校、または軍などがあった。
・1970年代? スイスのある県では入歯師が患者の口腔内に可撤性義歯の装着が可能。
・1970年代? 歯科医師の女子率:リトアニア96%、フランス30%、ベルギーとスイス10%、アメリカ1%、スウェーデン25%。
・昭和50年代、日本で歯科技工指示書を書いている歯科医師は「ほとんどない」(歯科技工法第18条と第30条の空文化)。

などを、私はこの本で知った。歯科を無視する医療史がほとんどなので、実に助かった。
さらに、

非合法的な歯科診療は、口腔科医(歯科専門医)が開業しているイタリー、スペイン、ポルトガルなどの国のほかに、スイスにもみられる。


という、正木が「我等の主張」に到達した理由も同著にはほのみえて、興味深い。上記の「非合法的な歯科診療」とは歯科技工士の行う補綴治療のことであり、つまり正木は、医歯一元化=入歯師(or歯科技工師)の認可、と認識していたのだろう。
また、同著にはいろいろアヤシイ記述がある。例えば、

“医は算術である”という言葉の起源。
保険医の利益を擁護するために、共産党の外郭団体である保険医協会がある。京都府は保健診療の1件当たりの単価が、ほかの府、県に比べて、とくに高い。これは濃厚診療であるという。濃厚診療は患者にとっても歓迎される。
社会保険診療報酬の請求は、書類のうえで操作ができる。これは保険医の水増し請求を意味する。この水増し請求を指導する団体が保険医協会であるといわれている。
水増し請求の運動は、“三ケタ”の会からはじまった。この会の目的は診療の1件当たりの平均単価を“三ケタ”にしようというので、これから“医は算術”という言葉が生まれた。
京都は政治的に革新政党の勢力が強い地域として知られている。“いのち”と“くらし”を守ることを標語に、共産党は“いのち(健康)”と結びつけて診療活動を行ない、あるいは反税闘争を手がかりに“くらし(金)”に食い込んでいる。この保険医協会は医療事故が起こり、医師が訴えられてきたときに、それを支援し、さらに医師に対する医療金融公庫の融資をとりもつことに努力する。その目的は何か。深く考えさせられる。共産党は破壊活動防止法(破防法)の調査団体に指定されている。破防法では、過去に暴力主義的破壊活動を行なった団体、これからも引き起こすおそれがあるとみられる団体を指定し。公安調査官が調査したうえ必要とみれば、公安調査庁長官が公安審査委員会に対して、その団体の解散などを請求することができる。
(P322-323)

正木の認識では、「医は算術」の起源は保険医協会にあるそうである。どうだろう、長尾折三の「噫 医弊」の時代ではないかと思うが。それと「医療事故が起こり、医師が訴えられてきたときに、それを支援し、さらに医師に対する医療金融公庫の融資をとりもつ」などは医師会だってやっている。というわけで上記文章はかなり妄言くさいのだが、妄言は時代の鏡でもあるため、歴史的価値が実は高いのである。




戦時の医歯一元化闘争32 「我等の主張」の著者・正木正

平成のこの時代にもし医歯一元化運動が起こるとすれば、その主体は大学人になるのではないかと思う。
特に、診療領域問題で煮え湯を飲まされている口腔外科関係者である。医学部併設大学であれば統合も可能だし、少子化時代の生き残り策として積極的支持を打ち出す大学経営者もありそうである。反対するのは、つぶしの利かない単科の歯科大学と、日本医師会(日医)か。日医は開業医団体として、ライバルの増加を一貫して警戒しているからである。日本歯科医師会(日歯)は、まあ、日医に追随するだろう。または無視するか。
昭和の医歯一元化闘争での反対者は、東京歯科医学専門学校(東歯)と、その同窓会と、その幹部を役員とする日歯であった。
この時代は歯科医育期間が大学化していなかったから、大学関係者は圧倒的に少なかったけれども、その少ない大学関係者にはやはり一元派が多かった。佐藤運雄や川上政雄がその筆頭である。
一方、大学人でありながら、しかも予防歯科医学に関係していながら、一元化反対の先陣を切っていたのが正木正である。
正木正は、東歯同窓会「我等の主張」の著者である。医歯一元化闘争の頃は、全国を飛び回って一元化反対運動に邁進していた。花桐岩吉についても厳しく論難していた歯科医師である。
明治32年明石市生まれ、旧制同志社中学を経て大正8年、東京歯科医学専門学校に入学する。大正12年に卒業。

授業は充実し、最も優れた教授陣であったが、思想的背景のない自然科学的な技術教育であったので、なんとなく染めなかったし、学校経営の面でも、、いくらか学校屋のような感じさえ受け、心の底には学内の幼稚な物の考え方に対する不満が残っていた。
(新編歯科医学概論、1975年)

正木著の「新編歯科医学概論」(1975年)のあとがきには、東歯卒業後同校に残り、昭和4年助手から助教授になり、昭和7年2月に医学博士の学位を得て昭和15年1月に教授になる――とあるが、同じページで「万年助教授であった」と書くなど矛盾も。

わたしは、異端者とみられていたのか、専門学校と大学とを合わせて25年に及ぶいわゆる万年助教授であった。このようなことは、きわめて珍しいのではないかと思う。


助教授の期間は昭和4年から昭和15年までなのだから、助教授期間は11年程度のはず。いろいろ大丈夫なのか不安になるが(ちなみに76歳の時に発行された本である)、これは東歯という学閥のなかでは冷遇されたと、少なくとも本人は不満に思っているということか。
それはともかく――正木正は昭和30年4月に日本大学歯学部教授となり、口腔診断学を教えた。
昭和41年3月に日大を定年退職し、同年4月から日本歯科評論社主幹となり、昭和46年8月に退社している。
歯科医師会的には、昭和18年1月から昭和23年3月まで日歯の理事である。
占領下の昭和21年にはGHQの指示による歯科教育審議会委員、昭和23年と24年には歯科医師国家試験委員となり、国立公衆衛生院医学科非常勤講師を委嘱され、10年間口腔衛生学を講義した。
所属学会は大日本歯科医学会の理事と副会長、社会歯科医学会理事、日本口腔科学会理事、日本口腔外科学会理など。

歯科医学教育機関と個人歯科医師の集まりである歯科医師会は、まだ閉鎖社会の域を脱しきれず、絶えず動き、移り行く社会の変化に対応できていないように思う。それは半世紀前のわたしが学生であった頃に感じた歯科社会の幼稚な物の考え方と程度の違いはあるが、それがいまも残っている。世の中で無知ほど恐ろしいものはない。この歯科社会にみられる特殊な後進性は、何によるのであろうか。いつになった社会常識との差が縮められるのか考えさせられるものがある。この苦言は、いまの、あるいは、これからの若い人たちの努力によって打開されるのを期待している。


歯科界の「閉鎖社会」「特殊な後進性」を嘆く正木正には、しかし、歯科界の新体制運動であった医歯一元化運動は心に響かなかったようである。

ハロウィン2016

本日はハロウィンなので、気味の悪い話を(そういう日だっけ?)。

ある歯医者さんのもとに、こんな冊子が送られてきた。

P1530895
▲夢みるこども基金だより。

歯科医師に、送られる覚えは皆無であった。
歯科医師会には入ってないし、電話帳その他にも個人情報は載せていない。

P1530890
▲「約7万人余の歯科医師」全員に送ったらしい。

中を読んでみると。

P1530894
▲「全国67,000の歯科医院、診療所などのリストが入手できたので」

えっ、そんなリストが?

グーグル先生に聞いてみると、ドクターズファミリー「全国歯科医師名簿」なるものがヒットした。
が、
「原則として個人の方には販売致しておりません。
企業の場合も使用目的をお聞きする場合があります」
社団などには、使用目的も聞かずに販売するということか。
迷惑メールが蔓延するワケだ。

個人情報保護法的にはどうなのかと思うが、HPには「ご本人からの名簿削除の申し出があれば、速やかにデーターの削除を行います」とあり。
それで法的に問題がないのかどうかはナゾだが、気味の悪い郵送物などにお困りの医師・歯科医師は、ドクターズファミリーに削除依頼を出してみるのもいいかもしれない。
それはともかく。
同基金の基金活動とは、歯科医師が患者からはずした使用済み歯科金属を寄付し、その売却益でボランティア活動を行うというもの。

P1530898
▲現在の協力歯科医院数は全国計1086件。

全歯科診療所の2%足らずである。
で、そのうち福岡が2割を占める。

P1530900
▲1件のみという県も。

日本歯科医師会も似たような事業に協賛している。
その日本財団「TOOTH FAIRY」に参加している歯科診療所数は6296。
全歯科診療所の1割足らず……こちらも大して多いとはいえまい。そりゃそうだ、どこの歯科診療所も経営が厳しいのである。撤去冠や金属の削りカスは集めて、金属回収に出し、換金しているところがほとんどだろう。確か、このTOOTH FAIRYの発足時に日本財団のエライ人と当時の日歯会長の対談があって、日歯会長(当時)が「撤去冠はフツー捨てられている」的発言をしていたと記憶するが、撤去冠を捨てている歯科診療所なんて聞いたことがない。まあ、ボランティアもいいけれども、まずは歯科診療報酬のボランティア価格を何とかしてくれ――というのが、大多数の歯科医師の気持ちだと思う。

P1530891
▲顧問には臼田貞夫氏。

ワイロで歯科診療報酬点数を買おうとした元日歯会長を、顧問に。これは符丁か、メッセージか、それとも何かのメタファーなのか。
気味の悪い話である。

戦時の医歯一元化闘争31 医歯一元論者の誤謬を正す

医歯一元化の運動に踊る人達よパスタールが学問に国境がないけれども、しかし学者には祖国があると叫んだ言葉の意味をよく玩味し、われわれは日本人として、また歯科医師としての自覚に立ち歯科医学と歯科医術に於ける日本の精神、日本の歴史、日本の伝統、日本の現実がどれほどまでに自己の中に生きているかを意識し、反省せねばならぬ。
(正木正「医歯一元論者の誤謬を正し新歯会、歯科医学専門学校同窓連合会の解散を勧告する」、1942年10月発行「臨床歯科」、初出は日本歯科評論)

正木正(まさきただし)は明治32年生まれ、東京歯科医学専門学校(東歯)卒の歯科医師。
東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会「我等の主張」の著者である。

歯科医学が予防歯科学となって解決せられ、予防歯科学は、終局においては予防医学であり、歯科医学が医学の一分科でなければならぬように考えているのであろうが、しかし、医学に於ける予防医学は今日では医学から分離して独立的な存在になろうとさえしている傾向がみられる。ことに予防医学の重要な部門を形ち造っている衛生学や寄生虫学、あるいは栄養学などの担当者には医学博士の学位を持った多数の理学士、農学士、工学士などのあることを知らねばならぬ。そしてそれらの人達は決して医師ではない。それで現在の予防医学は医学だけではこれを解決することができないのであって、それと同様に歯科医学は予防歯科学だけで、解決せられるものでもなければ、また医学だけでも解決せられるものでもない。そしてこのことは歯科医療を行う者は医師であらねばならぬという理由にはならないし、歯科医師を否定する医歯一元化の根拠にもならぬ。


戦後生まれた歯科衛生士は、歯科予防処置や保健指導を担う資格である。しかし、この歯科衛生士制度は当初うまく活用できなかった。それは歯科医師の予防医学知識が不足していたからであり、その原因は予防軽視・補綴偏重の歯科医育にあるのだから、まず医師として教育した歯科医師を養成すべき――という医歯一元派の主張は、やはり正しい。今日、予防医療を担う職種は産業看護師に管理栄養士、運動療養士などあまたあるが、現状では医師の指示あってのものである。で、指示者に予防医療知識がなければ何にもならないのである。
とまあガチに反応してみたが、正木正の真髄はその下世話さにある。例えば、次の部分だ。

筆者は新歯会の幹部の人達と懇談したことがある。その際、新歯会の人達に聴いた。なぜ医師にならなかったのか? 医師になれなかったのか? と。医師になれなかったので歯科医師になったとの答を得た。医師になりたかったが、なれなかったので歯科医師になった、なんとかして医師になりたいと、これが彼等の本音であろう。彼らには医歯一元化の理念も、その論拠もあったものではない。


歯科医師は医師になりたくてなれなかった落伍者、というある意味でティピカルな歯科医師像の提供である。
しかし、なぜ「なんとかして医師になりたい」歯科医師がいるのかといえば、それこそ医歯一元論の論拠ではないか? 

歯科医師の職能団体は歯科医師会である。歯科医政に関する問題は歯科医師会に於て、また歯科医師会を通じて論議すべきで、同窓会としてすべき筋道ではない。それが学校外へ働きかけるとは。筆者は新歯会と同じ意味において政治的運動を目的とする歯科医学専門学校同窓聨合会は解散すべきものであることを主張し、それを勧告する。


歯科医政は歯科医師会の専売特許である論。歯科医師会の伝統的意見だろう。戦後の日本歯科医師会もそういって歯保連を潰そうとしていた。

国民医療法では好むと好まざるとをにかかわらず、歯科医療関係者はすべて歯科医師会の会員にならねばならない。それで今までは歯科医師会の会員にならなくともよかった者が、どうしても歯科医師会の改組に際しその勢力を獲得しなければならぬようになり、それに便乗して何かの役得にあり付きたいとか、私学の経営上からやむを得ずそれに反対することができず、仕方なく追従したり、あるいは迎合せざるを得ないからであると観測している向きもあるが、この見方もまたこの運動の真相に近い消息を伝えているのでなかろうか?


「今までは歯科医師会の会員にならなくともよかった者」とは開業歯科医師以外の歯科医師、例えば官僚や大学、病院勤務の歯科医師である。「それに便乗して何かの役得にあり付きたい」という言い方はアレだが、全員加入が義務になったので会務への興味が増したということはあったかも。そうであれば、この時期の歯科医師は政治的にマジメであったのである! 圧政下なのに。

戦時の医歯一元化闘争30 川上政雄の批判

国民皆兵の時代、「国民の体位向上」は国の悲願である。
その解決方法のひとつが、国民医療法であった。

全国3万の歯科医師を擁して、歯科医術は普及し、量に於てすでに飽和点に達したかと思わるるまでに到ったが一面皮肉にも歯牙疾患は年々累増の一途をたどりつつある事実は、今日歯科医術は果たして国民の体位向上に寄与するや否やの疑問を不可からしめる。
(川上政雄「医師・歯科医師一元論に就て」、1942年10月発行「臨床歯科」)

川上政雄は大正9年東京帝大卒の医学博士で、歯科専門医。執筆当時は東京高等歯科医学校の教官(歯牙解剖学、補綴学)である。

歯科医師の診療範囲の制限は、新国民医療法の規定下にも厳存する。歯科医学の内容は質的に向上したにも関わらず、歯科医師の職能は旧態依然として制限され、学と術との関連に於て、歯科医療の効果を軽減する。歯性疾患が、病理的に全身に有する因果関係の密接さを埒外に置いて行わるる場合、当然の結果として理解される。歯科医学の体系が確立されても、法に規定される歯科医師の職能の狭さは、歯科医学の学としての進歩を阻ばむ。医療に於ける歯科医師の特殊的存在を過去40年間にわたり、旧態のままに放置した事は、歯界為政者の怠慢に帰する以外に説明はない。


川上政雄はこう述べて、「国民保健に寄与しうる歯科医人の育成に就き、教育者の協力を仰ぎ、速やかに対策を樹立」するよう、歯科為政者――すなわち日本歯科医師会に要請するのである。

医学の進歩は歯性疾患のみを孤立的に取扱う事を許さぬ。歯科医師に許された診療範囲は明確ではないが、ほぼ歯牙ならびに歯槽骨と考えられている。歯牙疾患は歯牙あるいはその周囲組織に発病しても、疾病の常性として、かならずしも歯科医師に定められた診療範囲以内に止まらない。時には病勢は昂進して、その範囲を越して拡大し、あるいはその範囲内に減退して、消長は定まりがない。診療にあたり歯科医師は、施さんとする治療は法に触れぬかと良心に訴え、あるいは明かに法に反しても行わざるを得なかったと自認する。かような歯科医師制度のもたらす欠陥は、歯科医界に職を得た3万の歯科医師には、生涯逃れる事のできない桎梏となる。


さらに、川上はこの「桎梏」(手かせ足かせ)こそ、歯科の社会性を歪ませる元凶と指摘するのである。

派閥的色彩を持つ歯科医師が、長年この境涯に置かれた場合、その性格はいかなる影響を受けるか。かくして特殊の性格を余儀なく持たされたものが、組織する社会には、結果として自ら特殊性が作り出される。歯科界の出来事は、多くこの特殊性を基調として行われ、一般社会の通年では、いかんとも解釈がつかぬのではなかろうか。


歯科界の社会性のなさ、ひいては日歯の無責任さも、川上によると「法に規定される歯科医師の職能の狭さ」がしからしめたものという。
この社会を不幸の境地に置いたまま、歯科医師社会の為政者は、その責任を自覚せぬらしい。当然自覚すべき責任に無関心である事は、歯科医界の性格がしからしめる。


なお、当時はあらゆる組織や機構が報国のため刷新することがブームとなっていた。静かな天皇制社会主義革命とでもいえようか。そんな時代にあっての、歯科界批判である。

戦時の医歯一元化闘争29 医師法・歯科医師法の分化

医師と歯科医師が別個の資格となったのは明治39年、すなわち医師法と歯科医師法の成立による。それまで歯科は、医科の分科であった。

明治初年は眼科、産科等と共に医科の中の専門科として存在していた歯科が、専門科の統合に際して漏れたか抜け出したかしたことは、当時の歯科専門の状勢が医者の殻から抜け出したい希望があったのと、歯科担当者の教養が低かったということと、もう一つは養成機関に見るべきものがなく、しかも歯科を希望する者の質が遺憾ながら著しく低かったのだから当然の結果として、医者から切り離され独立した歩み方をするようになったのであって、これは明治38〜39年の言論と議会の速記録に明瞭に書かれていることである。すなわち当時は医者の仲間入りが出来ないような歯界一般の状勢だったのである。
(題言、1942年9月31日発行「歯科公報」)

歯科医師法制定当時の歯科医師は、医師から揶揄されたように入歯師同然だった面はあるが、しかし、それを排除しようとした医師も相当に低レベルである。法とは目指すべきものでもある――例えば、日本国憲法で規定される日本国がとても素晴らしい国であるように。医療法もそういう観点で制定すべきであった。鼻と口で法律が違うとか、わけがわからない。

爾来40年、歯科学の進歩発達には著しいものがあるにかかわらず、40年前昔のままで、今日なお仲間入りが出来ないようになっていることは、どう見ても遺憾の意を表さざるを得んではないか。歯科が発達するに従い日を追って医学との交渉は深くなる一方であり、医療の適正は一般医学の修得が絶対緊要であることはいうまでもないのであるから、国民医療法の遵法精神昂揚が叫ばれる以上、医歯一元化が高度に要望されるは当然である。


と書かれてから70年が経過したが「医者の仲間入りが出来ないような歯界一般の状勢」は相変わらず。
新聞クイントの10月10日号には掘憲郎・日本歯科医師会会長が中医協委員任期中「C2区分(新機能・新技術)と呼ばれる新しい技術が歯科では1件も申請がないこと、さらに改定時期以外でも新技術を保険収載する仕組みを歯科界は知らずにいたこと」に驚いたという談話が掲載されていたが(p4、今・躍動する日本の歯科学会)、歯科はいまだに医療界のガラパゴス諸島だ。医科、それに介護分野では歯科の重要性――例えば歯周病は糖尿病の合併症のひとつであること、口腔ケアが誤嚥性肺炎予防の有効な手段であること等々――の認知度は高まっている。もちろん歯科軽視の風潮は今も多々あるけれども(特に官僚サイドで)、しかし、この時機をとらえて壁を打破できない歯科側にも責任はある。訪問歯科を広めるには訪問歯科衛生士ステーションは必須、等々の重要な提言が医科から多々出されているにもかかわらず、無視しているのは歯科側である。歯科大の偏差値低下も当然ではないか。

医歯一元化闘争番外編 歯科医師の医科麻酔科研修問題

2003年3月29日付朝日新聞朝刊(北海道版)より。
2002年2月、歯科医師を対象に医科麻酔を指導していた松原泉医師が医師法違反で刑事告発された“事件”の結末である。

なお、“事件”の現場である市立札幌病院救命救急センターが歯科医師を対象にした麻酔科研修を開始したのは、1997年。その目的は「高齢化の中で合併症を持つ歯科患者も増え、歯科医も緊急の対応処置を身につけることが必要なことから、歯科医側の研修希望を病院として受け入れた」という(松原医師談)。まさに時代の要請であったわけである。松原医師の弁護団は、歯科医師研修は看護師や医学生が医師の指示で行う注射と同様、医師法上の「医業」に該当しないと主張していた。

有罪の医師「時代に逆行」 
歯科医師救急研修違法判決/北海道

歯科医師が救急研修の一環として医療行為をしたことが医師法違反にあたるかどうかが問われた裁判で、札幌地裁は28日、研修責任者の市立札幌病院救命救急センター部長、松原泉医師(52)に罰金6万円の有罪判決を言い渡した。全国で実施されている歯科医師による医科研修のあり方にも、今後、影響を与えそうだ。

松原医師は記者会見で「突っ込んだ司法判断を期待していたが、『医師法があるから医者以外はだめ』という内容で、あきれかえった。(医療行為にかかわる)参加型実習が否定されるようなもので、時代に逆行した判決だ」と批判。弁護人も「形式的な判決で不当。現場に与える影響は大きい」と訴えた。
今回の判決について、日本口腔外科学会の瀬戸三賤事長は「指導医の指導監督下であっても研修が医師法に違反するというのは、とんでもない判決と言わざるを得ない。歯科医師の研修そのものを否定し、患者の受ける不利益は計り知れない」と話している。
厚生労働省は「我々の主張が認められた」と、おおむね好意的に受け止めた。広く行われている歯科医師の救急研修への影響については「特にない」とし、「歯科医師の救急研修は、原則として見学」との立場も変えていない。
 
◆「違法」では研修困難<解説>

歯科医師の救急研修を「違法」としたこの日の判決は、医療関係者の間に大きな波紋を広げた。全国で行われている歯科医師の医科研修はもちろん、救急救命士や医学生の研修も違法になりかねないからだ。
裁判で争われたのは、歯科医師が研修として医科領域の患者に医療を行うことの是非だ。
厚生労働省は一昨年、札幌市に医師法違反を指摘し、公判でも医事課長が「現行法では見学までしか認められない」と言明した。歯科治療中に患者が急変した場合の気管内挿管などの救命処置は、「緊急避難としては許されるが、義務ではない」とした。
歯科治療中に麻酔でショック状態に陥る危険性は一般の歯科医院でも十分にある。特に歯科口腔(こうくう)外科では舌がんなどの手術も手がけ、高齢化の中で全身管理の必要性も増している。日本口腔外科学会の昨年6月の調査では、全国76の病院の口腔外科が救急研修を実施していた。
公判でも、検察側証人の外科医が「救急研修は必要。『参加型』でなければならない」と証言した。判決も、「歯科医師が患者の急変に対応する能力を修得することは、国民の健康な生活を確保することにつながる」と否定はしていない。
厚労省は事件を機に、歯科医師の医科研修のガイドラインづくりに着手した。麻酔科研修については昨年7月、参加型研修を一定程度認める指針を作成。救急研修も4月半ばにまとまる予定という。同じく看護師による静脈注射や救急救命士による気管内挿管についても、実態を追認する形で容認に転じた。
しかし、判決は指導医の監督下であっても、「医師でなければ、医業をしてはならない」という医師法17条が適用されるとした。いくら厚労省が指針や通知で認めても、同様の研修は法律上は許されないことになる。
「歯科医師の麻酔科研修も、救急救命士が心肺停止でない患者の静脈に点滴の針を刺すことも、医学生が患者の血圧を測ることも、すべて違法になるのか」。救急医療にかかわる医師らから、懸念の声が出ている。
(阿部八重子)


2009年6月の最高裁判決は上告棄却で、刑は確定した。
事件を機に策定されたガイドラインは、現在改定されて2版目となっている。

歯科医師の医科麻酔科研修のガイドライン

ガイドラインでは、歯科医師が医科の麻酔科研修を希望する場合、登録システムへの登録が義務となった。歯科医師が麻酔科研修を受けることは、取りあえず認められたわけである。
ただし、その研修目的は、
〇科患者の全身管理に関する知識と技能を身につけた歯科医師を育成するため。
∋科患者の麻酔管理に関する知識と技能を身につけた歯科医師を育成するため。
であり、研修後も歯科医師が医科の患者を対象に技術を使用することを禁じている。判決が影響したのだろう。
しかし――「全身管理」する患者に医科も歯科もないではないか。

戦時の医歯一元化闘争28 勤務歯科医の意見

医歯一元化に関して、勤務歯科医師の意見。勤務先は夕張炭鉱病院である。

われらは医師ならざるがゆえに自己領域である口腔疾患より転位して死亡せる者の死亡診断書を認め得ず、その全身的療法をさえ拒まれているに至っては、日本精神の責任を果すべき武士道教育の実践をこの医育の中に除外されておったことは真に由々しき大事といわねばならない。往診に当直に医局の一員でありながら傍観よりほかに術なきこともまた時局下いたずらに医師を繁忙ならしめ、その能力を過労せしむるばかりか、われらはよき同僚に申しわけない思いでいっぱいである。われら産業病院に勤務しているものは日夜医師諸君の多忙な労苦を目のあたりに見て焦燥の感にたえぬものを体験しているものである。
(富田習湖「実際的立場から医歯一元論を見る」、1942年9月31日発行「歯科公報」) 

近年再燃した勤務医不足問題でも、歯科医師を活用しようという意見はあったのであるが。

開業医師をのみ主体として考うる旧体制の誤謬から、このようなわれらの実際的立場を察知し得ぬ東歯同窓会指導者は、ここにも深き反省を要するではないか。


歯科医師の麻酔科研修問題(歯科医師に救急救命医療の研修を実施していた市立札幌病院救命救急センター部長が医師法違反に問われた事件)について、現在の日本歯科医師会は冷たい態度であった。冷たいというか、無視というか。
もっとも、事件地元の北海道歯、さらには愛知県歯は積極的に同問題にコミットしていた。なので、日歯の公式見解も出るだろうと待っていたのだが、出なかったのである。いつものパターンだ。これはやはり日歯が「開業医師をのみ主体として考うる旧体制」であることの証左かもしれない――が、開業歯科医師だって熱心な人はいる。愛知県歯の積極的な同問題への対応は、確か日本救急医学会の指導資格を持つ会員が主導してのものだったと思う。有為の人材はいるのであって、なんでそういう人物を中央に引上げてモノを言わせないのだろうか。いわゆる人材不足とは、人材を活用する能力のなさであると、しみじみ思うばかりである。

それと――開業歯科医の組織であれば、歯科技工の海外委託訴訟をも無視したのは、妙である。

歯科技工の海外委託問題は、“歯科診療報酬の差別的低さ”と“歯科医師のワープア化”である。つまり医学的問題ではなく、経済的問題である。であれば、経営者である開業歯科医師にはより重大な問題のはず。しかし、日歯はガン無視したのである。開業歯科医師の団体ですらない、というのが現実であって、「旧体制」と非難された戦前以上に使えない組織になっているのが今の日歯である。

戦時の医歯一元化闘争27 信仰告白

孤高の医歯二元派・東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会は、我等の主張に続く一元派への反論第2弾を発表した。
政治的にはともかく、医学的に医歯一元論は正論である。その正論に、東歯は何を武器に反論したかというと、

我が国には皇室中心の生活以外に生活なく、公生活はもちろんであるが、普通私生活と考えられている日常生活も、決して単なる私の生活ではない。一切は、天皇に帰一し奉るのである。すなわち、教育勅語の中に御諭し遊ばされたように、父母に孝養を尽すも、兄弟に友なるも、朋友相信ずるも、恭倹己れを持するも、公益を広め世務を開くも、一切臣民の道、すなわち天皇に帰一し奉る生活である。
(東京歯科医学専門学校同窓会「我等の態度」、1942年9月発行「臨床歯科」)

天皇であった。

去る2月24日公布せられた国民医療法は、天皇陛下の命により帝国議会において協賛の実を尽し、陛下の御裁可を得で公布せられた厳たる国法であって、皇国民として、これを遵奉するの光栄を有するものである。しかるに何ぞや、一部の者は尊厳なるべき国法に対し不満の意を洩し、あるいは歯科医療上不完全なる法律なりと称してみだりにこれを批判し、または進んで非難し、さらにこれを無視せんとするが如き暴挙に出つつあるのである。すなわちいわゆる一元論者ないし一元化運動者これである。


いや、当時の日本は立憲君主制なのだが、一応。実際は天皇制社会主義だけど。
それはともかくとして――東歯は、天皇を持ち出すことで、歯科医師法が信仰対象であると告白している。宗教であれば科学の発展や疾病構造の変化など問題ではないのである。
「我等の主張」は、もちろんレトリックに過ぎない。しかし、この程度のレトリックぐらい使いこなせなければ、圧政下の政治と言論を生き抜けるはずもなかった。
なお、天皇崇拝自体はこの時代の日常で、集会前の宮城遥拝、詔書奉読、英霊への感謝と出征将士の武運長久、さらに傷病軍人の平癒祈願はマナーのレベルである(=国民儀礼)。一方、医療制度改善方策(1940年)でガンガン医学・医療を戦争に動員しよう! という時代でもあり、臨機応変かつ自分に都合のいいように、以上のような時代の空気(天皇含む)を利用した文章が残されている。言論を封殺する圧政下ではあったが、いや、圧政下であったからこそ、たくましく、いじましく、空気を読んで時代を生き抜いた人々もいた。彼らを権力に迎合した日和見主義者と糾弾するのはたやすい。だが、彼らには、例えば吉岡彌生のような女権拡張論者がおり、彼らの敷いた道の先にわたしは立っているのである。

戦時の医歯一元化闘争26 一元化の具体的方法

昭和17年、医歯一元化を目指す有志の会「大日本新歯会」が結成された。同年9月の歯科雑誌「臨床歯科」にその主張である医歯一元化の解説が掲載されている。

眼科でも耳鼻科でも一用に応じ人体のどこを治療しても自由なのであるが、歯科医師はそうでない。これでは歯科の医療は完全に行われるはずがない。この点を是正して歯科医も一般医師と同様に必要に応じて人体のどこを治療しても差支えないような資格に改めるべきであるというのが、すなわち医歯一元論のよって起るゆえんである。
(大日本新歯会「医・歯一元論とは」、1942年9月発行「臨床歯科」)。

では、医歯一元化で今現在の歯科医師はどうなるか。

現在の歯科医が直ちに明日から内科や産婦人科等の医者になるというのではない。ただ歯科医が日常の治療を行う上に必要であり、普通の医師が行うことならなんでも心配なく施し得るような身分になり、歯科の医療をより完全にかつ自由な立場から思い切って施し得るようになるのが主眼である。一般医学が進歩すればするほど、病気というものが全身の状態に関係のあることが明らかになっていき、従って治療の範囲も広くし、新しい進歩した治療方法、例えば種々の薬物の注射等をどしどし応用していかなければならない。でなければ歯科医は単に義歯や金冠ばかり入れていなければならない状態になる。もちろん歯科医は義歯を具合良く入れ、良く噛めるようにしてやることが絶対に必要で、これが体位向上に寄与することに間違はない。
しかしそれはやむを得ない場合のことであって、義歯や金冠を入れなければならなくなったことは本人の責任であるとはいいながら、これが指導に当たるべき歯科医の責任であり、かかる状態に至らしめたことは、歯科医の恥であるといわなければならない。義歯や金冠を入れなくても済むようにすることが歯科医師なるものの国家的な重大使命なのである。


患者が義歯を必要とする状態になることは「歯科医の恥」と言い切っている。
さらに、大日本新歯会は畳み掛けるのである。
アンタは良くてもその子弟はどうなの、と。

諸氏の子供が、例えば医専と歯科医専の両方の入試に合格したとする場合にたとえ親父が歯科医だとしても、はたして医専をやめて歯科医専にやるでしょうか、また子供がよろこんで歯科医専に行くことを承知するでしょうか。


なぜ、医専は歯科医専より選ばれる、とされたのか。
1、歯科の診療圏が医科一部に過ぎないから
2、歯科医師は医師よりも学歴や社会的地位が低かったから
3、すでに勤務医時代に入っていたが(猪飼周平「病院の世紀の理論」)、歯科は開業メインだから
4、病院や軍で医師よりも扱いが低いから
とかか。
なお、経済的には、歯科開業医は医科開業医よりも有利であった。歯科診療報酬点数は今現在と同じく当時にあっても医科より差別的に低かったが、保険の患者が少なかった(戦時は1割以下)ので問題にはならないだろう。この時代から問題にすべきだったのではあるが。
閑話休題。
二元派のいう“一元化では歯科医師が不足する”という主張には、「適切なる対策」による齲歯の減少を指摘している。

将来適切なる対策が講ぜられるなら、齲歯の数は少くなり、歯科医はさらに余力を得ることに気付かるべきである。かくして歯科医が余力を得れば、歯科と耳鼻科、咽喉科等を兼ねることもでき、大局から見て、むだと思われるようなことまでしなくとも、収入の道は自然と解決され、満足な気持において職域の御奉公に邁進できる。


学校歯科医および幼稚園歯科医制度は昭和6年6月から発足しているが、齲蝕率にはほぼ貢献しなかった。やり方が不十分だったか、不適切だったのだろう。
なので、戦後は食糧事情が回復するにつれ子どもの齲蝕率が高まり、
齲蝕罹患率の推移
▲出典:学校保健統計調査・年次統計(昭和23年度〜平成27年度)

齲蝕対策に歯科医師が増やされる。治療経験者は昭和50年代には増加傾向にあり、それからは一貫して齲蝕経験率は下がっていく。

反対論者はいろいろの理由をあげ、歯科医師は現在の通りで良い。この制度が良いから数十年も続いたのであり、それを廃して一元論を主張するのは、一元論を看板に何か不純のことを内包する等といっている。


歯科医師数の推移
歯科医師数の推移

齲蝕罹患率と歯科医師数は反比例している。つまり、歯科大・歯学部の増設は「適切なる対策」だったようである。
しかし、齲蝕はコデンタル(特に歯科衛生士)の活用で何とかできたんじゃないか、という気も。

歯科医政の幹部にかような者がいるということは、政府当局をして一元化実現に向わしめる場合に障害となることは事実である。なんとなれば、かかる場合に政府当局が直接諮問すべき公的機関は日本歯科医師会であるからである。日本歯科医師会の幹部、これは現在東京歯科医専の幹部であるが、この方々が絶対多数の歯科医人の意に反し、なぜ一元化に反対せらるるやは、何人も理解し得ないのであり、知る人ぞ知るのみか。


ちなみに。
この学校保健統計調査、視力検査のデータは昭和54年からしかない。
日本人の近視率は世界でもズバ抜けて高いが、学校保健的(つまり国的)には重要視されていなかったようだ。戦前から問題視されていたう蝕とは大きな違いである。まあ、戦前の眼科医はトラホームなど感染症撲滅に忙しかったのだろうが。

歯科医が医療に忠実であればあるほど、遵法するに心苦しいという、奇異な現象を呈している。日常絶えず法を犯すような不安にかられて、医道の昂揚はあり得ないではないか。


歯科は生活の医療であり、生死には関係がなかった、だから戦時には国から軽視されたのだ――とよく聞く。
だが、ホントにそうか。感染症よりは軽視されていたが、しかし、機能障害や精神障害より軽視されていたとはとてもいえまい。実際、歯科でも補綴は軽視されていたが、予防については国は関心を持ち続けていた。その関心に、歯科は応えていただろうか。
社会情勢により疾病構造は変化するし、医学は進歩する。今日の医術が、明日の医術とは限らない。そんな明日を見すえた歯科医療従事者のあるべき姿について、歯科医師が主体的な理想と意見をもたなかったことこそ、現在山積する歯科医療問題の原因ではないか。

戦時の医歯一元化闘争25 歯科医師法撤廃を要望

1942年9月21日歯科公報より、素藤学人「医歯一元運動の実際」。著者は熊本市の歯科医師。

昭和12、13年頃と思うが、熊本県歯科医師会では学者等の提案で、ひとつ歯科医師法撤廃要望の件を満場一致で日本歯科医師会に提出したことがある。

花桐岩吉のお膝元、熊本県歯科医師会が歯科医師法撤廃の要望を出していた!
「学者等」って誰だろ?
しかし、日本歯科医師会は「例の通り、ひとつの意見書として軽く取扱われてしまった」という。ありがちだ。

今の医歯一元運動の一方法であった、この方法では大日本新歯会や同窓連合会の言うように、一元論者の日本歯科医師会長ができぬ限り、運動の効果はゼロである。このたびの一元運動で同窓連合会が組織されたことは、与論の徹底と同志糾合の安易さと、日本歯科医師会の拘束を受けない点で最良策であった。もちろん東歯の合流ができなかったことは残念であるが、何事にも1割くらいの不参者があるのは世間の通則であって致し方がない。まして日本歯科医師会の伝統となっている二元論の温床たる点において、合流を望むのは無理であろう。少々くらい反対者の存することが一元運動も力がついてよいと思う。願ってもない鞭撻者を得たと解して運動に精進すべきである。


「1割くらいの不参者」とはいえ、「東歯」はイコール日歯なのがアレであった。

一元運動としては、二元論者を論破して彼らを自己運動に合流させようという努力はよした方がよい、反対者はひとつの存在として放置して可なりである。今より以上に反対論者の減ずることはあっても増すことはないからである。それよりも彼らに対してなす努力を、他の方面に活用すべきだ、それは医界に合流者を得ることにせねばならぬ、一元論運動の政治性は医界および翼賛運動者あるいは関係当局にむかって全力を注ぐべきである。目下運動の中心が同窓連合会である関係上、各歯科医専校長がその主眼である。この際思い切って歯科医専廃止、医専転換請願を主張せしめては如何、これは医界の協力を要し、文部省に主力を注ぐべきであろう。而してこの運動は歯科医専校長の好題材でもある。


「歯科医専廃止、医専転換」はなかったが、医学科が併設された歯科医専は2校あった。
東京高等歯科医学校(現東京医科歯科大学)と九州歯科医学校(現九州歯科大学)である。
前者は官立、後者は公立だから、国策協力にも積極的だったと思われる。であれば「一元論運動の政治性は医界および翼賛運動者あるいは関係当局にむかって全力を注ぐ」とは、的を射た意見であった。力足らずだったのは残念だが。

戦時の医歯一元化闘争24 技工手と大差なき権能

1942年9月21日歯科公報より論叢、川上政雄「高津弌氏の公開状に答えて」。川上政雄は大正9年東京帝大での医学博士で歯科専門医、高津弌は歯科雑誌「日本歯科評論」の主幹。原文は候文だが格調が高すぎるので現代語訳した。カッコ内は引用者の註釈。

「我等の主張」もいわく「現行歯科医師法の束縛により歯科医師には全身的治療が許されていないとか、死亡診断書も書けないという議論があるが、これは事実を歪曲するも甚だしい」と。また足下(=貴殿)いわく「何故ここまできた特異の歯科医師制度の改革を叫ばないのか、診療範囲が狭かったら拡げたらいいではないか」と、等しく二元論者の診療範囲の問題を取り上げている。東歯同窓会は二元論を主張して二元論に徹せず、一元論を反駁せんとして一元論の後塵を拝するものにして首鼠両端(=どちらか一方に決めかねている、日和見)、結局「我等の態度」において「わが国民たるの自覚に立ちて遵法を誓い、歯科界の和衷協同(心を合わせ、互いに協力して事をすること)を期する」との安全地帯を求めて、論争の圏外に回避しながらも、なお「いわゆる一元論者ないし一元運動者」に余憤(おさまらず残っている怒り)の悲鳴を送る状景は、同情すべきものにある。この際、圏外にあるものは除外するとして、一元・二元論争の核心たる診療範囲の拡張を事もなげに勧説する(=するように説く)こと足下に釈問する。
「足下は二元制度下、診療範囲の拡張に、果たして如何なる成案を有するか」
と。


川上政雄は、二元論者も歯科医師の診療範囲の狭さを認識しているではないか、と指摘する。

二元論の帰着するところ、歯科医師の権能は歯科技工手の業権と相去る(=お互いに)遠からざる程度に限局され、医療の隣接領域を含む歯科医療の大分野は、別に医師の資格ある専門医に担当せしむる制度に帰する


そして、二元制である限り、歯科医師の診療範囲を拡大するには医師の強い反対があることは容易に想像できる。

歯科技工手と大差なき権能に安んじて、前記歯科専門医師の介補的存在として「ほとんど何等の不自由なく歯科医療によって職域奉公につとめ国民体位の向上に寄与していささかも遺憾とする点がない」ことを以て、歯科医師の最大限度の能力とするならば、等しく医療関係者として産婆、看護婦、保健婦等も国民体位の向上に寄与しつつあることを顧みて、ニ元論は極めて平凡なる真理に相違ない。


歯科医師は「歯科技工手と大差なき権能」でヨシとするのか――そう、川上政雄は説いた。医療関係者はそれぞれの職能をもって、「国民体位の向上に寄与」している。現行の歯科医師でももちろん寄与可能だ。だが、それで歯科医師はいいのか。「医療の隣接領域を含む歯科医療の大分野」に関与できない歯科医師のままでいいのか。
この川上政雄の問いを日本歯科医師会(日歯)は、よく理解できなかったのかもしれない。
日歯は開業歯科医師の団体であり、大学関係者は存在しなかった。会員は補綴で食っており、同じく補綴で食っている歯科技工師を潰すことしか頭にない。戦後の歯科系大学人の苦しみなど、想像すらつかなかったのだろう。

戦時の医歯一元化闘争23 歯科医師会の圏外 

歯科医師の医政への関心が薄いのはなぜなのだろうか。

従来東歯が政治指導方面を独占し約40年他の学派の侵入を許さず、それこそ寸分の隙を与えない政策をとって来た。他の学派に力がなかったともいえようが、関心もなかったであろう。また持たせるようにもしなかった。それが、今度国民医療法の創定となり、歯科医師会の圏外に置かれた教師も、官吏も矯正加入の新制度が布かれたので、好むと好まざるにかかわらずここに引きこまれる結果となった。さて歯科医政界を眺めると、あきれ果てたる指導理念の乱脈があり、各学派共栄の新秩序が必要となったことは正に英米の東亜における収奪の手管に是正を余儀なくしたと同様な環境である。指導者層の指導目標が功利を脱却せず自派の有意を必須条件として来た結果が取りも直さず一元論の結果であり、これに対する二元派の神経的な策動の企てられるゆえんで、昔ならひとたまりもなく一元派の総崩れは必定であるのだが、時代が一元論を強くしているのか、ともかく、ひた押しの推論でありまた迫力である。指導理念の脱線は畢竟するに、勝てば官軍が証明するというところかもしれない。官選会長に一切をかけている太公坊的指導理念だ、ともいえる。
(余禄、1942年9月1日発行「歯科公報」)

医療関連死における死因究明制度(いわゆる医療事故調)についてパブリックコメントが初めて募集された際、歯科界は何の反応も示さなかった。
医師会(日本医師会はもちろん地区医師会も)に医学会、看護協会に弁護士会、さらに患者団体や個人もパブコメを寄せていたのに、歯科医師からはゼロであった。インプラント手術中に患者が死亡する事故もあったというのに。
歯科技工の海外委託訴訟が起こった際にも、日本歯科医師会や日本歯科医学会、さらには日本歯科技工士会すら無視していた。自らの依って立つところが社会問題化しているのに、それを無視するという態度は一体何なのか。産婦人科や小児科がからむ社会問題に対し、当該学会や日本医師会が何も言わなかったことは今まで一切ない。しかし、歯科ではこれがありえるどころか、むしろフツーである。

二元派が一元派に浴びせている非難の声はあたかも根本精神を異にする英米の指導誤認と同様で、個人主義的な典型的主張であって取るに足らぬことだ。
近視眼的な歯科医療の見方、全身との関連に盲目な歯科医療施策、このスケールの超拡大にわが指導者は目を大きく開かねばならぬ。


初の官選日本歯科医師会会長は、しかし、従来どおり血脇守之助が指名される。
歯科界は、旧体制を維持したわけだ。そして実は、官選日歯発足とからんだ医歯一元化運動の際にも、誰それを血脇の代わりに、という要求はなかった。まあ、官選なので名前を出しても仕方がないといえば、そうだが。
日医の場合は違う。官選時に何人もの候補者が下馬評に上がり、前会長には会員からの公式な辞任要求がなされている。日医の政権交代は、具体的に要求され、そして交代はなされたわけである。

当時から今に至るまでの日歯と日医の決定的な違いは、社会性の有無であろう。

新体制ブームの時期には、日医は批判の矢面であった。日医は国民医療法を医療統制であるとして反対し、その姿勢をメディアから攻撃されている。そして国からも疎まれ、会長はすげかえられて、日本医療団の会長が日医会長を兼任することになって、独立性を失うのである。この時期の日医を知れば、戦後の日医会長・武見太郎が官僚とマスメディアを警戒し続けたのもわかろうというものだ。
一方、日歯は、旧体制を維持した。これはある意味、社会性を得るチャンスをこの時に失ったともいえる。
日歯は目立たず、発言せず、戦わず、唯我独尊とうそぶきながら、今に至っている。恐らく、社会を無視することによるメリットもあるのだと思う。何がメリットなのかは、まだよくわからないが。

戦時の医歯一元化闘争22 結核対策

1942年8月21日、政府は結核対策要綱を閣議決定した。
同要綱はスクリーニングを徹底して早期発見に努め、予防のため「健民政策の実施」、軽傷患者のため「健民修練所の設置」、重傷者のため「結核病床増設」を重視して、結核を撲滅しようという政策である。実際の稼動部隊は厚生省、大政翼賛会、医師を想定し、特に日本医師会については「日本医師会を総動員して日本医療団の外郭団的活動を促進し、特に平病患者の医療普及に挺身奉仕せしむること」と明記されていた。
同要綱の発表当時、厚生大臣は記者の前でこう語っている。

結核に対する国民の考え方は従来は万事お医者任せだったが、そういう消極的な態度はこの際一掃して自分が結核退治をするんだという自覚をもたなければならない。
(1942年8月21日、小泉親彦厚生大臣談)

歯科医師については一言もなかったがが、医歯一元派はさっそくこの厚相談話を取り上げた。医歯一元化を推進して、歯科医師も結核撲滅に参加しようという論調である。

医歯一元化の要望は歯科学の生々発展に重大な使命を持つものとして、当然なことであるのに、不思議な事は一元化に反対する総師中には予防歯科医学関係機関の首班があり、実践の元締である学校歯科医会の首班があることである。学者的良心のない指導者を将来の溌剌たるべきわが国歯科界にいただくとすれば、その結果たるや恐るべきものがありませんか。
事実の前にひざまづかぬ科学者、真理探究に懸命でない科学者は、いまの急転学界には与えられる椅子はないであろう。ここにも医界、いな科学界に新体制運動の澎湃として起るゆえんがある。けだし当然な一元化運動なのである。
「何の躊躇を要せんや」日本医師会の言葉を想起して感激を味う。
(S・W生「医界思潮」、1942年9月1日発行「歯科公報」)

積極的に社会・政治にかかわっていこうというその意気は、おおいに賞賛されるべきだろう。政治献金ばかりが政治活動だと思ったら大間違いである。
なお、1942年10月からは「口腔の清潔」が国民学校の正式な教科目になった(1942年9月29日、文部次官通牒「国民学校体錬科教授要項について」)。その目的は、もちろんう蝕予防であり、国が推進する健民政策の一翼を担うものでもあった。学校歯科医会が医歯一元論を無視したというのは、かなり意外である。

戦時の医歯一元化闘争21 東歯VS大歯

中央では歯科医学専門学校同窓連合会が医歯一元化期成をモットーとして立ち、その支部網を全国に張り廻すことを発表して以来、各地では期せずして日を追って支部の結成が成り、あるいは一元化期成同盟会、翼賛医会等々新体制結集は破竹の勢を示しつつある。地方歯科医師会においても役員および会員を挙げての一元化運動に参画しつつある状景を各所で見せられつつある事実は、
(題言、1942年9月1日発行「歯科公報」)

医歯一元化を目指す組織が、各地にできていた。
大阪では、大阪歯科医学専門学校(大歯)が、医歯一元化について東京歯科医学専門学校(東歯)と調整を図った。なぜ調整を図る必要があるのかはよくわからないのだが(政治的理由であろう)、とりあえず両者は決裂してしまう。

在京の大阪歯専校同窓会代表の斡旋で、東歯同窓会代表が本会代表と膝を交えて相互接捗の最中、突然東歯同窓会は「我等の主張」をひそかに印刷し東歯側の同窓会員ならびに他にも広く配布した。代表の対談中にもかかわらず暗に印刷物を用意して置いて無断で態度を豹変し、強調どころか猛烈な挑戦的態度をとられたことは我々も意外とするところであり、誠に東歯同窓会のために遺憾である。
(時報、1942年9月1日発行「歯科公報」)

決裂理由は、まあ、政治であろう。医政の主導権争いである。

東歯側の先輩が歯科医師会が興きて以来ずっと日本歯科医師会の幹部を独占し、今後もいろいろと医政を独占掌握することを信条としておられる関係上、石にかぢりついてでも旧体制を守ろうとされることは無理のないことだと思うが、しかし深く現下の諸情勢を考慮研究することなく一途に医政上の独占的地位の失脚を怖れて二元論を熱心にやっていられるのだと思われる。7月発表された「我等の主張」を見ても、二元論の根拠は決して国民のためを土台にした推論でないのを以てしてもこのことは十分に説明することができる。


この「時報」欄を書いているのは歯科公報の編集者だろうが、この回の書き手はどうも大歯関係者っぽい。

去る8月22日発行の「日本医事新報」は社説に次の如く述べている。
◇医界の対立抗争◇
医歯一元化と二元制の可否
他山の石として医界も戒めよ

医育の増強と資材の節約の一石二鳥を狙う案として、さきに吾人は歯科医学校を医専に改組して歯科を専門科として併置することを提唱した。
これは歯科医学校側でも熱望しているところであるが、独り東京歯科医専一派のみはこれを喜ばず、各両者は従来も絶えず暗闘を演じていたところ、日本歯科医師会の改組を前に、この暗闘は俄然明るみへ持出され、歯界は前者出身の歯科医学専門学校同窓会と水道橋系統の東京歯科医学専門学校同窓会との2派に別れて両々相対峙し、前者は医歯一元論を、後者は医歯二元論を振りかざし新会長の争奪を含めて目下さかんにしのぎを削っている。


医界も、医歯一元・二元論の議論が内部抗争化したのは「新会長の争奪」がからんでいると見ていた。医師も交えず歯科内のみでモメているのだから、そりゃ「はなはだ醜い狭量な内輪揉め」としかいいようがないのである。
両者対立の原因は実はそうした一元、二元の可否ではなく、一部幹部の対立抗争から来た感情問題の延長であって論ずるところはなはだ醜い狭量な内輪揉めであり蝸牛角上の争いに過ぎない。
もし一元化がよいか医歯二元制がよいかを真に決定せんとするならば、現在各国の置かれている情勢に照らし、その何れがよりよく時局の要請するところと合致するかに観点を置くべきであって、挙国一致の時局下に些少な見解の相違を取上げ誇大して、眼に角をたてて争うごときは、心なしの業である。しかしわが医界にもかかる例を絶無とせずもって他山の石として兄弟墻鬩ぐの愚を悟るべきであろう。


「他山の石」……そもそも医歯が二元化したのは医界の「心なしの業」ゆえなんだが。
さて、歯界公報の消息記事には、医歯一元化運動が全国的になったことともに「東歯系の正木正氏一行は一元化反対運動を講演会と併行して九州方面を奔走している」旨が報告されている。
戦後の日歯会長選と似たような状況だったのだろうか。実弾(高級背広のお仕立券など)も飛んだのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争粥仝犬両式賚参

孤高の医歯二元論派・東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会も、一枚岩ではなかった。
反旗を翻す「一部分子」が現れる。
昭一六会なる東歯同窓会一部分子からの寄書も掲載しておいたが、この昭一六会の怪文書が東歯同窓会の内面暴露であるというので、各方面で問題にされ、東歯昭和16年度卒業者の同窓会2つが声明書を出したり、右の文書は東歯に反対のものが故意に書いたのだといって奇怪な弁明をしている。8月号の歯科学報には「いわゆる一六会の怪文書はすでにその全文が(しかも燦志会および堅久会の決議および声明書などの発表された後において)歯科公報第3巻第19号に掲載され、また新歯会の入会勧誘ビラにも全文が掲げられている。ことに「歯科公報」には、怪文書中には墨で抹消されている文字まで、これを明瞭に印刷してある。そうしてこの怪文書の内容を真実であるかのごとくに取扱い、いろいろ歪曲した記事を出しているのはその悪どいやり方に対しむしろ気の毒に感ずる次第である。」
(余禄、1942年8月21日発行「歯科公報」)

「昭一六会」「燦志会」「堅久会」はいずれも東歯同窓会。
東京歯科大学同窓会創立100周年記念誌(以下、同記念誌)によると、前者2つの会はどちらも昭和16年卒である。

燦志会:12年4月入学、16年3月卒業
堅久会:13年4月入学、16年12月卒業

つまり、燦志会は「戦前の旧制専門学校の全教科を悉く履修して卒業し得た最後のクラス」であり、堅久会は「繰り上げ卒業第1期」(同記念誌)なのであった。昭和17年以降は9月卒業となり、半年間もの繰り上げとなっている。
以下、同記念誌より堅久会の記。

昭和16年我々が最終学年を迎える頃には戦況が膠着状態に陥り、若者は次々と戦地へ送り出されていた。夏休みが終わり学業に復帰した時、突然卒業を12月に繰り上げるという文部省通達が出た。当然17年3月と思っていた我々は国家試験、卒論と忙しい思いをさせられたが、12月8日ハワイ攻撃から大東亜戦争が勃発した。「卒業してすぐ戦場に赴く君たちが可哀そうだ」と壇上で泣いてくださった助教授もおられ、師走大晦日前の卒業式は悲壮感に満ちていた。
(小出修「堅久会」、東京歯科大学同窓会創立100周年記念誌、p199)

気の毒な……。あと、「卒論」があるのも興味深い。卒論を書かせる専門学校は、そう多くはなかったのではないか。東歯のレベルの高さが伺われる。
なお、「昭一六会」についての記載は、同記念誌にはなかった。
「昭一六会」は燦志会と堅久会がそれぞれ二元論支持の声明を出した後に一元論支持を表明し、それをまた一元論の推進組織「新歯会」――大日本新歯会――が喧伝して、騒動となる。で、この騒動を「歯科公報第3巻第19号」(1942年7月1日号)が面白おかしく報道したので、「8月号の歯科学報」(東歯の機関誌)が歯科公報を非難しているという図である。
以下は歯科公報の反論。
まず燦志会と堅久会の声明書が届いたのは7月12日で7月1日発行号に間に合わなかったこと、そして怪文書中には墨で消された部分などなかったこと、さらに――

三、怪文書の内容を真実であるが如く取扱い歪曲した記事を出しているのは悪どいやり方であるといっているが、まさか歪曲した原稿を歴史を誇る東歯同窓会員がわざわざ本誌に寄書することもあるまいと信ずるし、東歯幹部諸氏はかように重大なものならなぜ電話なり何なりを利用してもっと迅速に連絡してくれなかったか、本誌は旬刊新聞誌で、東歯側の寄稿も大いに歓迎するところの天下の公器なのだから、手間のかかった遠回りをするのはやめて率直に事情を語って欲しい。それをいかにも作為があって書いているように解し新聞誌の使命を認識しないような馬鹿なことをいっているのは誠に御気の毒なことである。


「作為」ではなかったとして、著者に確認もせずに投稿原稿を掲載した歯科公論の不手際は痛い。「なぜ電話なり何なりを利用してもっと迅速に連絡してくれなかったか」とか、プロがいう言葉じゃないだろう。「新聞誌の使命」が聞いてあきれる。実にゲスい。
で、「昭一六会」についてだが、

昭一六会なるものが貴校内に実在しないのは誠にあきれた昭一六会であって、東歯同窓会がかような卑怯な会員を持つことは遺憾なことである。同時にかような卑屈な境域に追込んだ会員の環境を叩きつける前に一応東歯同窓会は反省し、他と協力する事が自ら躍進するゆえんではあるまいか。


存在しないという結論になっている。
しかし、これはどうだろう。一元論者の昭和16年卒東歯同窓生が集い、支持を表明したものの、名乗り出る勇気はついぞ出なかった――というところではないのだろうか。憶測であるが。

戦時の医歯一元化闘争 米英的思想

とかく、旧体制の自由主義的な考をもって医歯二元を保守せんとする米英的思想はこの際一掃されねばならぬ。
(S・W生「医界思潮」、1942年8月21日発行「歯科公報」)

医歯二元制を死守したい東京歯科医学専門学校(東歯)幹部にとって、最もキツかったのは「米英的思想」という批判だったのではないか。
米英的思想も何も、日本の科学技術(と社会制度。例えば商法の起草もドイツ人に頼んでいる)の多くが欧米のマネではないか――などというまっとうな反論も許されない時代であった。雑誌や新聞を開けば、一億今ぞ敵は米英だ、米英撃滅国民大会、宿敵米英、米英よ今こそ思ひ知るがいい、米英撃つべし等々、鬼畜米英の嵐である。同時期(1942年8月)発行の日本医事新報をみると「日本医療団」特集号が組まれ、巻頭では時の厚生大臣・小泉親彦が「国民医療の適正を期し、国民体力の向上を図るは戦時下喫緊の要務であり、日本医療団の使命またそこに存する」と吠えている。その目次を見ると「本醫療團幹部の決意」「醫師會の協調」「有識者の期待」「衞生課長の期待」「健康院を作れ」……。完全に天皇制社会主義、戦時共産主義、文化大革命日本版の世である。東歯としては、嵐が過ぎるのをひたすら待つしかなかっただろう。

こんな状況だから、東歯同窓会も一枚岩ではいられない。
1942年6月14日に開催された東歯の第2回同窓会例会で大日本新歯会(一元派)VS東歯(二元派)の議論があり、東歯卒業生の「青海島」氏がその報告をしている。

全国に得体の知れないパンフレットを紙不足の非常時下に惜気もなく撒き散らして、我々は今まで漁獲には釣竿と投網しか用いないのが習慣であったからたとえ国民の食膳にイワシが十分に行き渡らなくても良いからあくまでイワシ網漁獲に反対すべしと大運動を起こしている。それにも飽き足らず6月14日には東京歯科医専第2回同窓会例会の名の下に、国政に専念すべき山田代議士までも引っ張り出して、いわゆる一元論を駁すなんて、とてつもない素晴らしい釣竿を持って海面乱打をさせている。
(青海島「医・歯の一元論―二元論に就て 青海島再び物申さん」、明日への論題、1942年8月21日発行「歯科公報」)

青海島氏の一元派への共感は明確だ。

驚き悲しまねばならなかったことは二元論者側の代表が自ら国民文化の指導的地位をかなぐり捨て、感情に物を言わせ、個人指名のもとに激罵を浴びせておった光影である。
ことに尾崎氏の「現在までの歯科学の進展には先輩の労に敬意を表するが、国民90%のムシ歯の撲滅には予防的施策を要し、それは当然一元化されたる予防医学的対策によるべきである」の論旨に対する某駁論がすこぶるふるっている。すなわち「学校歯科医は学童ムシ歯予防を十数年やっている。結核予防に対しても時々講演をやる。一般医は予防的に何をしているか! ムシ歯が減少せずに増率していることはムシ歯増率の傾向がしからしむるもので人為的には阻止することは不可能である」と断言している。青海島はこれを聞いて実に唖然たらざるを得なかった。よくも自ら歯科医であり学校歯科医であるものがかかる暴言失言を公衆の面前で成し得るとその度胸の程に敬服させられたのである。


ここでの「二元論者側の代表」は奥村鶴吉だろうか。
齲歯の予防が不可能かどうかは別として、当時の「一般医」が「予防的に」無策だったのは真実である。だから保健婦制度ができたのである。

誰か知らぬが技工手問題をエライ気に病んでいるようであったが、歯科医たるもの余りに狭いところばかり見つめていたんでは国策はおろか、自分はいつの間にか技工手のお化けに取りつかれてしまうことになる。もっと天下の体制と日本の将来を考えねばなるまい。
全体を通じて二元論を聞いていると歯科医は現症医療、ことに入歯作りに没頭していれば国策にそい新体制日本をいやが上にも隆盛にさせ得るようなことを言っており、現状維持が最もよいと賛意を表しているキンタマ取りも少々いるが、歯科医の負担能力を真剣に考えてから言っているのか、それとも自ら医者の介補的立場である技工手で満足する意味なのか、歯科医療の個人的負担過重から生ずる収益の少ない医療部面の軽視が現在までのように続いてこれが社会問題となり、一般医界から特種潜航艇が法規的に境界不明な歯科の医療部面にまでも深く侵入して来たらどうする考えか、それでも歯科医は補綴にのみ忠実であれば国策にそっているから満足だとうそぶいているつもりなのか、アメリカのように海岸線を砲撃されて国内波乱が起りますぜ。


東歯の最大の懸案事項が「技工手問題」であったのは事実だろう。東歯=日本歯科医師会にとって、「技工手問題」はノド元に突きつけられた現実の刃であった。

歯科医学の全部が歯科技工学でないものに、歯科医師の全生命が歯科技工にあるのではない。
くえさえすればよいとする商業歯科医療と、人間生命歯科医療とでケンケンゴウゴウ。
確固たる理念を把握して、現実を生きよ。
為政者は医学を、医療を、この本道に進ましめよ。
(新田重雄「天人迷悟」その5、1942(昭和17)年8月21日発行「歯科公報」)

正論だが、歯科医師による歯科技工師へのビビリは戦後、歯科技工法の成立まで解消されなかった。当時の一元論者にしても、歯科技工師の存在は恐ろしかったと思う。歯科医師の大半が補綴で食っていたのである。そして、実は歯科医療とは何か、というイメージを持つことさえ大半の歯科医師には難しかったのが現実だったのでは。
なお、、この1942年6月14日の東歯第2回同窓会例会では「大西厚生技師」が一元・二元論者の間に入って「まーまー」といっていたという。大西厚生技師とは、大西栄蔵――当時嘱託の厚生省技官である。大西はまた、後の歯科技工法を書いた厚生省医務局歯科衛生課課長(1948年8月〜)である。

戦時の医歯一元化闘争 戦時の九州帝大医学部

昭和14年の臨時附属医学専門部の設置について、九州帝国大学医学部の場合。

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▲出典。我が国で4番目の帝国大学が九州帝国大学で、明治44年設立。そして医学部はもと福岡藩の藩校なので、大学よりも歴史がある。

その前に――大学教育の軍事化の流れをザックリと。

臨時附属医専の設置は、軍事教練の必修化と不可分である。
軍事教練の開始は、大正14年。この時は、希望者のみが参加するものであった。大正14年といえば、いわゆる“アメとムチ”、治安維持法+普通選挙法が公布された年である。
で、昭和14年に軍事教練は必修科目になる。臨時附属医専の設置および軍事教練必修化は、日中戦争(12年)→国家総動員法(13年)という流れの一環なのである。

さて、九州帝大の臨時附属医専の場合。
定員は60人で修業年限4年、入学資格は中卒か専門学校入学者検定試験の合格者である。初年度の入学試験は5月31日から4日間。臨時附属医専設置が閣議決定(5月12日)されてから3週間足らずで入試なわけだが、インターネットとかない時代にどう受験生に告知したのかはわからない。よくわからないが、329人も受験しているので、その前に文部省や軍から一般に告知がなされていたのかもしれない。入学式は6月15日、その翌日には授業開始。なお、臨時附属医専の卒業生は原則として大学進学は認められていなかった。
教官は昭和16年には教授3、助教授1、講師52、助手2。医学部を主体に委嘱され、一部は他学部からも応援を受けている。
なお、軍事教練関係職員も増えている。
以前は計3人だったのが、昭和15年に計5〜6人となり、
(配属将校:1→2〜3人、学校教練教師:2→3人
昭和19年には計8人に。
(軍事教練:5人、学校教練教師:兼務2人+嘱託1人)

ちなみに、東大は臨時附属医専設置に最後まで反対し、軍に脅されて渋々認めたものの定員は他帝大よりも少なめの50人と抵抗を見せている。これはあくまで「臨時」の措置であると押し切られたのであろうが、しかし、こ5年後、昭和19年にはこの「臨時」が取れて常設になるのである軍部の要請で。この時、定員60人から160人にまで増加されてもいる。言うまでもなく、本土決戦に備えての措置であった。
昭和20年3月18日、国は国民学校初等科を除く全学徒を戦争に動員するため、授業を4月1日から1年間停止することを閣議決定する(決戦教育措置要項)。そして5月22日には戦時教育令が公布され、全教育法規が停止する。
軍学校をのぞき唯一授業を続けられたのが、医育である。
この頃九州帝大は空襲による火災を怖れて医学部の建物を取り壊し、空襲の標的にならないようにと木造以外の建物に迷彩を施している。そして6月19日、福岡大空襲――福岡市の1/4が炎上し、1万戸以上が焼失、5万6000世帯が被災した。7月3日に医学部疎開が決定され、17日に吉井町に移動している。そして8月15日に天皇より敗戦の報が伝えられる。

九州帝国大学医学部には歯科医師――歯科専門の医師もいた。九州帝国大学医学部には大正11年に歯科学講座が設置されている。
大正11年というと、東大帝国大学歯科学講座(明治35年3月)から20年後である。歯科学講座の設置とともに、附属医院で歯科外来も開始されている。
昭和2年に歯科学講座を、歯科学・口腔外科学講座に改名する。
そして昭和20年8月に敗戦→GHQ占領→歯科医育が大学化する。九州帝国大学は、九州大学になっていた。昭和42年6月1日に歯科学・口腔外科学講座が歯学部として再スタートし、同時に歯学部附属病院が成立し、今に至っている。
というわけで戦前の歯科医育は私学に依存していたけれども、官学から無視されていたわけでもなかった。ただ、歯科技工師という名の歯科医師を養成する気はなく、あくまで歯科専門の医師を求めていたのだろう。歯科技工師は日本の伝統業であり、近代化以降も順調な成長を見せていたからである。

戦時の医歯一元化闘争 医界の評価

1942(昭和17)年8月21日発行「歯科公報」の時報欄にて、医系誌に掲載された医歯一元論に関する社説が紹介されている。これだけを読むと、医歯一元論派が多数だったようであるが。

〇日本医事新報(昭和17年5月23日 1027号)
歯科医学校を医専に改組してはいかが

政府は戦争に対する応急処置として臨時医専を設置して医者の増産に努めきたったが、該医専は昭和16年限り廃止の予定のところ、17年度にいたって存置されて臨時が今は半永久的存在のかたちとなった。しかし果してこのままでよいのかどうか? 


軍医増産のために7帝大、6官立医大に臨時附属医学専門部13校を付設することが閣議決定されたのは、昭和14年5月12日である。
その5月末には初年度の入学試験が行われているのには驚くが、教室や教授の用意はできたのだろうか。入学試験は3日間で志願者は計5500人あまり、平均倍率6.6倍であった。で、13校合計で842人が入学している。当初は3年間の期間限定の予定だったが延長され、昭和19年には“臨時”ではなく常設の附属医学専門部になり、学生定員は計2080人になった。この定員数は、帝大医学部と官立医大を合わせた1学年の定員1200人を凌駕するものであった。

この際恒久的措置として歯科医専を医専に改組、もって資材の節約と医育増強の一石二鳥をねらってはいかが? 現在歯科医学校は全国に11校あり、1校115人の医者を養成するとすれば1年に1650人の医者が得られることになる。かくしては歯科医の不足をいかにするという不安が生ずるかもしれない、そのほうは歯科を専門科とすれば解決できるはずである。
現に日大のごときは医専部と歯科医専部を併置し、文部大臣の認可を得た校則において歯科医専部の卒業生に医専の4年に無試験編入を認めているが、ここの問題解決の示唆があるはずで、この改組は比較的簡単で少し施設を充実すれば目的を達しうるもので、実現すれば臨時医専の比ではなく、かつこの改組は歯科医学校側で熱望せることであるにおいておやである。(社説)


やはり「この改組は歯科医学校側で熱望せること」だったのだろうか。東京歯科医学専門学校(東歯)は以外は。
で、その「水道橋の東京歯科」に触れている医事公論。

〇医事公論(6月6日 1556号)
(前文略)歯科医界に、歯科医師、医師の一元化運動が持ち上っている。何でも水道橋の東京歯科だけが別行動で、あとの10校は一丸となって、この運動に熱を入れているということだ。
人間から歯だけを取外していられるか、と一元論者はいう。全くその通りで、近頃は医学をやるのに、今までの医専だけでは足りない、経済も必要だ、地質学も必要だ、気象学だ易経だと大いに総合を唱えているのであるから、医学の中において歯だけを別にしておくというのは絶対に理がない。
国民医療法では、まだ医師と歯科医師を一元に取扱っているが、できるだけ早く歯科医を歯科専門の医師にしてこれを一元化したいというのが運動の目的である。なかなか面白い(後文略)(編集後記)


医事公論社は医籍総覧で知られる出版社だが、「お隣の歯科医界」の内部事情にもくわしかったようである。

〇医事公論(6月27日 1559号)
医師、歯科医師一元論の抗争

国民医療法制定をきっかけに、かつてお隣の歯科医界にくすぶっていた問題がにわかに表面化し、甲派乙派の摩擦相剋すこぶる激烈なるものがあるようである。
歯牙といえども人体の一部分、しかるにこれを全体から分離して、歯だけを取扱うという現在の歯科医教育は不可である、歯科医師は根本においてよろしく医師たるべく、医師にして歯科専門医たるべきを可とするという医師、歯科医師一元論者がすなわち甲派、しこうしてこの派をなすは、男女歯科医専11校中東京歯科をのぞく10校の同窓会連合会である。乙派はいわずと知れた東京歯科派で、その主張は従って医師歯科医師一元論に反対するはいうまでもない。
学閥一致なるを要する、今日この際、僚友党をなして相争うは慎むべしとして、理非を問わずしていわしむれば、一元論は正に医学の本道であって、これが実現のために若干の抗争を伴ったところでやむを得ないのである。
今日、日本歯科医師会の牛耳を執っているのは、周知の通り東京歯科派であるゆえをもって一元論者は歯科医師会改組に際しては、一元論者をもってこれが新たな首脳者たらしめんとの意図を有し、抗争の革新派ここにあるもののごとくであるが、私心なく国民保健衛生のために相争うのである限りは、あくまで闘って黒白を新にすべきであろうと思われる。これ医学の総合に関する問題である。わが医界も成行を注観せねばならぬ。(社説)


日本医師会も今回の医歯一元化には「よろしく邁進すべき」。

〇日本医師会雑誌(昭和17年7月 266号第18巻第4号)
医歯一元論、何の躊躇を要せぬ、よろしく邁進すべきである。歯科医は畢竟医師上りだけでよいというようなことは歯科医に対する最大の侮辱であるばかりでなく、同時に医師にも兄弟の悪口のごとく聞えて、黙視するに忍びない気がする。「歯科医は全部医師であれ」(医政春秋欄)


医師会は、歯科医師の医師資格獲得運動@大正には反対していたのだが、今回は「歯科医は全部医師であれ」。180度の転換である。これも新体制ブームだからなのか。

〇厚生新聞(8月5日 3072号)
医師と歯科医師との一元化について

医療制度の画期的な改革に伴い、必然要請されるのは医育制度の改革である。ただこの問題が厚生省の医薬制度調査会の議に上った時、会のその必要を痛感しながら、問題が文部省の所管であり、かつ当時あたかも文部省の文政審議会において、医育問題が論ぜられつつある時であったので、これは文部当局の裁量に待つこととなった。
ところが、先月のこの歯科医専同窓会報国大会なるものが拓かれて、その席で「医師歯科医師の一元化」が協議されたとのことである。いわゆる一元化が、具体的にどういうものであるかは、知る事を得ないが、私はこれに深き関心をもつ、次第はこうである。
かつて、歯科医師側から、歯科医師法改正法律案を議会に出し、普通医師に対して歯科技術および歯科専門標榜を禁ぜんとした時、医界においては医学士会はこれを支持し、医師会は茫然これを見送ったため、ついにこれが成立した。当時、私は故内藤楽氏と謀って、医師と歯科医師の二元的存在を廃して将来これを一元化し、経過的に、現在の歯科医師は、すべて医師として歯科専門医たらしめ、歯科医専校は、適宜これを併合して医学校とすることを企てた。実現の機会なく今日に至ったが、歯科の保健が国民衛生上の大切なる問題なるにかかわらず、人身全体の保健治療の義務を負う医師が歯科の領域に限って、技術的治療を制限されている現状は、国民衛生のため不都合であり、一面歯科診療のためのみに、多数の歯科医をつくらねばならないということは、人物経済の上から観ても不都合である。
私の意見は、恐らく歯科側で反対すると思っていたのに、歯科側から一元論の決議されたことは結構である。現に歯科軍医の問題もあり、医界も、政府側も考うべきである。(社説)


医師が歯科専門を標榜したり、補綴・充填・矯正を行うには内務大臣の許可がいることとなったのは大正5年9月の歯科医師法第2次改正であるが、その際に医師側が一元化運動を起していたとは……。
東歯が一元化に反対しているのは、この経緯もあるから? 
その可能性はある。東歯は補綴にこだわり、歯科技工師の存在にビビっているからである。なお、補綴・充填・矯正が歯科医師の独占業務となったのはGHQ占領期になってからである。

〇厚生新聞(7月29日 第3068号)
医歯薬一元論

一、
歯科医界では今医歯一元化運動と、現状の二元維持論が対立している。もっとも一元論は圧倒的に多数で、二元論の現状維持は少数であるらしいが、道理は多数少数で極めるものでない。少数でも正しいことは正しい、多数でも間違っていることは間違いである。

ニ、
しかし、二元論は、どうも道理に合わない。二元論者といえども、歯牙が人体の一部であって、血管も神経もこれと相つらなり、よって栄養をここに運び、疼痛を中枢に伝えている事実を無視することはできない。しからば、歯牙が全身の栄養と不可分であり、全身の疾病に影響されて、従ってその本質的の治療は、結局人体全般の医療と不可分であることも、これまた否定し得まい。医歯一元論の根本はここから出発しているのである。

三、
あるいは、歯科は欠損した歯牙を補綴する特別の技術であるように主張しているが、何も歯科のみに限らない。歯科の学問技術は皆これであって眼科の義眼、外科の義肢足ともにこれ欠損組織の補綴である。のみならず、医学そのものは、広く理化学および生物学の応用そのものである。

四、
私は本来、医療の医師一元主義者である。薬制をドイツに真似て、医薬を分業し、歯科医制をアメリカに真似て、医歯を分業し、その結果、医師と薬剤師との間に、医師と歯科医師との間にわずらわしい権限争いの端を開いたのは、まったく当時の欧米崇拝病の余弊であり、今日ではふたつながら医療界の癌である。

五、
今日、歯牙口腔の疾病を診察すればそれが全身病の一徴候である場合もあり、歯牙口腔以外の他の臓器と併せて治療を要する場合もある。しかるに、法律は歯科医をして、他の臓器に及ぶを許さない。ここに歯科医制の悩みがあり欠陥がある。

六、
薬剤師にしてもその通りで薬剤師は薬局を開いて処方箋によって調剤するのを業務としている点は、ドイツと同じである。しかし、開業を制限してないため、無制限に同業者が開局し、一方医師は習慣によって投薬自在である。これでは、薬剤師は本来の職業をもって立って行けない。ここに苦しい混合販売があり、周期的に医薬分業運動が起る。

七、
医歯一元運動は結構である。医薬一元運動もなお結構である。こうして医歯薬の三者が協力して、制度の上において一元化する工夫をし、多年欧米の翻訳制度に煩わされた癌を切除して、明朗な新日本の医療制度を確立することは私が年来の希望である(社説)


「医薬一元運動」もあったのか? 詳細はよくわからないが、まあ、あってもおかしくはない。GHQの占領までは医歯の分離も、医薬の分離も厳密ではなかったし。
なお、この社説集のタイトルは「果たして国民医療の礎石 医歯一元論に対する医歯界の傾向 ――新秩序建設への逞しい進展――」である。意気軒昂だが「新秩序建設への逞しい進展」は言い過ぎであろう。実際、力が足らずポシャるのであるから。

戦時の医歯一元化闘争 歯科医専の医専化

歯科医専を医専にせよ――という主張が、医歯一元化闘争の最中に出されていた。軍医不足対策として。
今でいうと“歯学部を医学部に転換せよ”という感じだろう。

歯科医学専門学校の医学専門学校化、または併置説が医・歯一元論の副産物として台頭、医専不足、医師増産への挺身事業として一日増しに増強する。
(夏山坊「時窓断片」、1942年8月11日発行「歯科公報」)

戦時に医学科が併設された歯科医専は2校ある。東京高等歯科医学校と九州歯科医学校である。

東京高等歯科医学校:1928年に日本初の官立歯科医育機関として設立、1944年に医学科が併設されて東京医学歯学専門学校に。
九州歯科医学校:1914年に私立で設立、1944年に医学科が併設されて福岡県立医学歯学専門学校に。

東京高等歯科医学校は、1946年8月に現・東京医科歯科大学となった。もちろん歯学科が歯学部となり、医学科が医学部となっている。
一方、福岡県立医学歯学専門学校の医学科は1945年9月に第1期生を出しただけで廃科となっている。第1期生の修学機関は1944年4月から1945年9月までのたった1年半。果たしてモノになったのだろうかと不安になるほどの短期間である。この医学科唯一の卒業生には戦後に歯学科(1949年から現・九州歯科大学)に入り直し、ダブルライセンスとなった人もいたそうである。

歯科医専が医専化した例はない。
医学科の併設よりも、歯科医専の医専化のほうが、人事の面で難しかったのかも。つまり、歯科医専の教授らによる抵抗が考慮されたのかも。
しかし、一元化するとなれば歯科医専の医専化は不可避であって、バカスカ医専をつくっていた戦時であれば全歯科医専を医専として歯科部をつくり、さらに大学医学部に歯科学か口腔外科学の講座ができたのかもしれない。なお、京都帝国大学医学部に口腔外科学講座(主任教授は美濃口玄)ができたのも、歯科医専への医学科併設と同時期の1944年である(8月)。

医・歯一元論に対する東歯側必至の反撃、重慶や米・英そっくりのゲリラ戦術までやって一元化の洪水を手でささえんとしている。恨みを千歳に残さざるよう同窓の要望を考えてやったらよかろうものを。

ただまあ、やはり「東歯」としてはアメリカ流の歯科学、歯科医師を信仰していたのだろう――

畏れ多くも、天皇帰一論を医歯一元論の反対論に持ち出して旧体制死守に寧日なし、余りにも形式論にとらわれ、内容論の奥深きものの認識を欠くを如何とするもの多し、言うが如く何ぞ国策に反するところあらんや。

、都合よく天皇などを持ち出しているけれども、これこそカモフラージュであって。

「もと医・歯の道は一なり」とは東京女子歯専校長の言葉だがけだし金言である。
(夏山坊)

戦時の医歯一元化闘争 私の新構想

1942(昭和17)年8月11日発行の「歯科公報」は、「私の新構想」という特集を組んだ。
国民医療法の施行にあたって歯科界の5人――

北村一郎・名古屋帝大医学部
萩原竹夫・富士瓦斯紡績株式会社中央病院
大石勝人・吉林満鉄病院
町口貴夫・大阪市住吉区天王寺町
笹田三信・杉並区阿佐ヶ谷1-79

どういうラインナップなのか?――に対し、

1、新歯科医師会はかくありたい
2、歯科医療の新構図をかくしたい
3、医業生活をかく改めたい
4、医育をかく改めたい
5、医歯関係出版の図書および雑誌をかく改めたい
6、その他医界新体制下の希望

について「建設的意見」を求めた特集だが、読めば5人全員が多少の差こそあれ医歯一元化の支持者であった。掲載誌自体が一元化の支持媒体であるが、二元派を排除したのか、それとも一元派にしか意見を求めなかったのか、求めたけど拒否されたのかはわからない。

北村一郎・名古屋帝国大学医学部
医育は必らずしも一元たるを要しない、医科大学でも医専でもよいが、専門家として完成した結果は一元に帰するようにしたい、歯科出身の立派な博士なり医学士なりを皆医籍に登録しても弊害はなかろう。


医育は医科歯科別でもいいが、医籍は統一すべしという主張である。北村一郎は1910年東京帝大医学部卒の、歯科専門医師。

萩原竹夫・富士瓦斯紡績株式会社中央病院
医療団系統病院にはすべて歯科口腔科を設置して完全なる医療にはまづ歯科部の新設をモットーとさせ、歯科医専卒業生にはあえて一年といわず2ヶ月も3ヶ月でも修業させたが良い、一般医専卒業生が、あらゆる自由な診療に従事するのを見て羨望することなきように指導者は注意する。
なぜなら不完全な歯科医専の現行教育を受けた者の当然な結果であるがゆえに。
経済生活に対しては将来とも、治療費で生活し、補綴費を貯蓄と心がけ、補綴のためには治療費を犠牲とするがごとき矛盾せる非科学者的医業生活を打破せねばならない。


萩原竹夫は「医事全般を修めしめて、歯科学を修めしめるのが当然」とする一元論者であり、官僚機構にも歯科専門の医師の配置を要請している。いわく「歯科衛生技術官の出現多数を絶対希望する、ただし医師としての歯科専門医なる歯科教育せられたる新進気鋭の技術官を熱望する」「厚生省にも口腔科の一課くらいは新設して、民族口腔衛生に万全を期す熱意を要望する」。

大石勝人・吉林満鉄医院
医歯一元化の根本的改革には歯科医育の改善が最も必要であると思う、歯科医師にしてそのまま医師となし得るような有能な人も多くあるが、しかし不適当なるある種の歯科医師をそのまま医師に一元化する事は誰が考えても有害である。
(略)
この歯科専門医師のよき介補としての技工手をもってすれば実に堂々たる歯科口腔学の進軍は火を見るより明らかなるところである。


歯科技工師の活用や業務拡大に言及するのも、一元論の特徴である。歯科医師の仕事の重点は疾患予防に置くべき、という理由からである。

現在の大半以上の開業医は歯科技工も患者の歯牙治療もあるいは観血的手術もほとんど一同人の手によって細菌学的考慮もなく、同一の場所で盛んに行われている。技工をやって手の荒れた傷だらけの指先で果して満足な手術が行い得るであろうか。また今日の歯科医療は局所齲蝕の対症療法だけである。今少しく全身的保健指導を医学的に診療室にて行うべきである。自然療法の指導、食餌療法の指導、生活様式あるいは態度の改善等による齲蝕予防も行うべきである。而して今日までの技工編重の悪習を捨て、全歯科医師の齲蝕予防に対する発表を義務的に行わしむる事、すなわち自家患者の統計をあらゆる方向により観察して多角的報告をなさしめ、これを国家によって設立されたる歯疾予防研究所において全国的多角的研究を行わしめる。すなわちこの歯疾予防研究所は各基礎学者ならび統計学者をもって行わしむる事が必要である。今後の歯科医療は歯疾予防を目的とする事が根本的要諦であると思う。


歯科に疫学データが足りないことは政治方面からもたびたび指摘されるところだが、戦前からその必要性は主張されていた。大石勝人のこの意見を日本歯科医師会(日歯)が採用していたら、と思わずにはいられない。

野口貴夫・大阪医科大学附属病院歯科医長
当病院は歯科を医科の一分科として見做して余と同年齢の医師と同待遇にして迎えられ、余の最も感激したるは、その年(昭和12年)の秋から看護婦講習生に口腔外科および歯科の概念および看護法を教えることとなりたるが、かく歯科を医科の一分科として看護婦生徒に歯科学の一部たりとも講義し、しかも1学年3月末の学期試験および2学年末の卒業試験に歯科の問題を他の医科同様に出すは赤十字病院を除いては、他に例の少ないのを余は遺憾とする。


大阪医科大学附属病院のような「歯科を医科の一分科として見做」す病院が当時どれだけあったのかはわからないが、少数派ではあったろう。軍や行政の場合は、歯科医師は医師よりも待遇が悪く、給料も低かった。今は歯科診療報酬点数の低さから総合病院から歯科が消えつつある状況であり、歯科医師の待遇も冷え込んでいるのではないかと思う。今現在、医歯一元化を主張する運動が起こるとしたら、それは勤務歯科医師からかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争 青年の心

「おまえたちがこの学校で教育を受けているのはなんのためか? 早野!」
と、第3小隊最前列の学生を指さす。
「はいっ、医者になるためであります」
「医者。――文科の学生はことごとく前線にたち、他の理科諸学校の生徒もほとんど動員で工場にいっているのに、おまえたちだけ許されて学校に来ているのは、たんに医者になるためか。――早野!」
とそのうしろを指さす。
「はいっ、国家に有用なる医者になるためであります」
(昭和19年6月27日、山田風太郎「戦中派虫けら日記」)

以上は昭和19年の東京医科専門学校(現・東京医科大学)における教練風景。怒鳴っているのは「奥野中尉」、医学生も「教練服ゲートル姿」で通学している。
ただし、医育は満州事変から敗戦にいたるまで授業を行えた、唯一の教育機関であった(陸軍士官学校や海軍兵学校など軍関係を除く)。医育には歯科医育も含まれている。歯科医学生は医学生と同じく、徴兵が延期された。初等科の児童ですら飛行場や掩体壕建設に動員されていた時代に、歯科医専は授業継続を許されたのである。だから歯科医師も、ぜひ医師並の報国を――という歯科医師の思い抜きに、この時代の医歯一元化運動は語れない。

二元を主張する人は歯科医業権の現実を熟知していない。衣を着せて世間を欺そうとしているように思える。しかも直ぐお隣の医師は不足に不足を重ね、全国に官立の臨時医専を増設し、私立医大を増設してこれを満たそうとしているありさまである。3年修行の臨時医専卒業者より、4年修業の歯科医専卒業者が、いざ鎌倉の最後の御奉公に後塵を拝せざるを得んということは、同じ医の道にいそしむ青年を失望させずには置かんであろう。青年の心は日本永遠の希望なのである。
(余禄、1942年7月21日発行「歯科公報」)

この「青年の心」に応えたのが、
・昭和20年4月から、歯科医師のダブルライセンス制度(慶應、慈恵、東京医歯に臨時科を設置→医師免許取得)
・同年6月から、歯科医師への医学講習(各地で開催)
であった。どちらも一応、日本歯科医師会の要請によるものである。
また、丈夫な兵士を確保するために医療で重視されるのが疾病予防なのだが、歯科では、

ムシ歯を治す病人および歯科医師はおっても、ムシ歯にならぬ方法を習う病人および教える歯科医師が少い。ムシ歯にならぬ正しい生活指導をなし得る歯科医師が幾人おるか。
(新田重松「天人迷語」その3、1942年7月21日発行「歯科公報」)

という状態でもあった。もちろん、歯科衛生士はいない。
学校教育においては、児童に口腔衛生を指導したのは教師か学校看護婦で、歯科医師は訓話と検診のみだったようである(学校歯科衛生視察報告書)。具体的には歯磨教練、含嗽教練、咀嚼教練の3点で、「正しい生活指導」まで至ったかについてはアレだそうだ(後述)。学校歯科医は訓話で触れたかもしれないが、その程度で効果があるほど生活習慣のア改善は簡単ではないであろう。
ちなみに、歯科公報では前述の批判――「ムシ歯にならぬ正しい生活指導をなし得る歯科医師が幾人おるか」――に続いて、

歯科医学は医学の一分科だと自己満足に陥っていても、実際は歯科医学と一般医学は個別的、対立的存在になっている。
歯科医師は医師でなければならないが、実際は歯科医師は歯医者であり、歯医者というものは、歯入屋、歯大工である。これでは、今日の歯科医学、明日の歯科医学は語れない。
(余禄、1942年7月21日発行「歯科公報」)

歯科医師が医師たりえないと非難するのだが、しかし、生活指導に関しては歯科医師のみならず、医師だって大した能力はなかった。だから保健婦制度をつくったのである。医学校は軍医養成所と化しており、医学生に生活習慣指導などを教える余裕も、またその意志もなかったと思われる。

教室で「発疹チフスの予防法」を、だれか生理の福田教授にきくと、簡単に「罹らないようにするんだな」といった。
(昭和19年6月11日、山田風太郎「戦中派虫けら日記」)

さて、大正から昭和初期における学校歯科保健教育活動小史 : II. 学校歯科医,学校看護婦の職務内容と歯科衛生教授,歯科衛生訓練によると「戦時体制における学校歯科保健教育は国家政策に沿って行われ、歯科衛生行動は個人の意志とは別の次元となった。(略)本来の正しい方法を習得、習慣化という口腔衛生訓練の目的からずれて団体的訓練、規律共同化などの精神修練重視となり、集団意識の高揚が強調される状況設定となっていた。したがって、訓練を行ったとしても実際に歯科衛生教育としての本質的な効果が期待できず、このような個を離れた教育が、児童生徒に学校歯科衛生についての教育的効果を十分与えることができたかは疑問といえる」そうである。この状況を歯科医師個人の努力や、歯科医育のみで超えるのは難しそうである。大体、戦争末期に歯ブラシがあったかも疑問であって(石鹸は不足しており、それが発疹チフス流行の原因のひとつともみなされていた)、食べ物も衛生用品もロクにないのに国から健康を強要された当時の人たちを思うと、ホント気の毒で仕方がない。

戦時の医歯一元化闘争 人事問題

歯科公報編集者のコラムでは、東歯の権力志向がディスられている。

歯科では一元論にカモフラーヂして歯科医師会的人事の動きは外表に現れていないが、それは外表に出ていないというだけで、実は深刻なものがあると想像してよろしいわけである。バスに乗遅れた東京歯科医専校が、一元論反駁に総力を挙げているのも要はここを狙っているからだ。
(医界思潮、1942年7月21日発行「歯科公報」)

「一元論にカモフラーヂ」することこそ良くなかった。歯科医師会改革にも、一元化にも。

医師会でも、現北島会長に官選の名誉が落ちさえせねばよいといっていると同様に、歯科医師会でも、現会長血脇氏、奥村氏等に日本歯科医師会の幹部が下命さえせねば、それで結構だという程度に、呑気な註文をつけているものもある。東歯が壇の浦に日増しに近づきつつありといわれながら相当な頑張りを見せているところに問題の根がある。いずれにしても会長の選定を見るまでは平静にはなるまい。従って新しき地■(=印刷潰れ)の根本構想に意を注いでいる余地は今の医政人にはないといってよい。一つの神経衰弱症状であるとも見られる所以である。


だが、血脇守之助の日歯会長続投が決まると医歯一元化運動は一気に冷えこんだ。医歯一元化闘争はただの内輪もめではなかったが、権力闘争に頼りすぎ、歯科医師とは何か――という肝心要の主張が曖昧になった面は、否めない。

戦時の医歯一元化闘争 東歯の主張

1942年7月21日発行「歯科公報」の時報に、東京歯科医学専門学校(東歯)同窓会の声明「我等の主張」が掲載された。初出は同年7月発行の歯科学報である。

我等の主張

去る2月24日付で国民医療法が公布せられ、国家が、医師ならびに歯科医師に何を期待しているかが明らかにされ、今や、この法律の精神を具現するために、医療関係者も国民全体も一つにならねばならぬ時が来たのである。然るに、この法律案が議会を通過するや否や、にわかに、歯科医界の一部に、医師、歯科医師一元化運動が熾烈になってきた。
そこで、いわゆる一元論とは何かというと、歯科医師を抹消し、内科、眼科等のごとく医師にして歯科を行う者に歯科医療を任すべきであるというのであるが、これに対する我々の主張を明らかにする。

東歯は医歯二元論派。よって、東歯以外の歯科医育機関による医歯一元化組織「歯科医学専門学校連合会」と対立状態にあった。だが東歯は医歯一元化を完全拒否していたわけでもないらしく、「(東歯同窓会は)大阪歯科医専同窓会を介して連合会幹部と懇談を希望し、数回懇談したる模様であるが医・歯一元論の主旨に賛意を表しながら未だ釈然たらず」とも時報欄にあり。結局は決裂するようだが。

◇なぜ、医師、歯科医師二元論でなければならぬか◇

(イ)歯科医学および歯科医療の本質から見て
歯科医学および歯科医療で取扱う範囲は、歯牙を中心とし、口腔および顎の領域における疾患の予防と治療であって、他の医学の専門分科と著しく異なる点は、自然治癒を営むことのできない歯牙ならびに顎、口腔の欠損に対し、人工的の補綴を併せ行うことによってその機能を回復せしめ、それが同時に治療と予防の両目的を達成するにある。すなわち、歯科医術は、医学的要素と応用理工学的要素との2方面の結合から成り立っていて、決して、それらのいずれか一方だけで解決さるべき性質のものではない。ここにおいて、完全なる歯科医療を期待するために、医学的知識および技術のほかに、理工学的な特殊の知識と技術とを身につけた、歯科医師の存在が必要になって来る。東京高等歯科医学校のごときは、歯科理工学なる科目を設けて、1年生の時からその理論と実習とを課しているほどである。
独逸で医療制度を検討した場合においても、歯科に関してはこの特殊性に鑑み歯科医師制度を樹て、さらにナチス独逸の時になってからも、歯科医師が歯科医療を主宰し、医師にして歯科医業に従事する者は、少数の例外を除いてはすべて歯科医師たる資格を得ていて、そのために歯科医学に関する1ヶ年半の大学教育を要求されているのである。

まずは歯科の特殊性を主張している。補綴、歯科技工の存在である。ここは確かに正論かもしれない。
今では「人工の補綴」も医科でもフツーであるが、当時は人工内耳も人工皮膚も人工関節も眼内レンズもペースメーカーもない。内科で手術(血液内科におけるステント手術とか)が行われる時代が来るとは、想像もできなかったであろう。
ただし、義肢義足はあったし、義肢装具士もいた。そして医師は義肢製作はその技術者に任せた――つまり医業の範囲とは捉えなかった。現在では、脳外科等で頭蓋の欠損部分などを即重レジンで補綴したりもするようだが、医行為として扱われる「応用理工学的要素」はそれくらいで、その「応用理工学的要素」ですら観血的要素がなくなれば医行為としては扱われないだろう。科学の発展とは、クロウトからシロウトに技術が開放されることだからである。というわけで、歴史的にみれば歯科の「特殊性」はこの「応用理工学的要素」を医行為としたことであり、医学的にも「応用理工学的要素」があるから特殊なのでは決してない。

(ロ)歯科医療制度発達の歴史を顧みて
古くは文武天皇の御代に耳目口歯科が設けられ、平安の末期には口歯科が分立し、それが安土、桃山時代に至って口中科と改められて江戸時代まで続いたのであるが、この口中科医は今日の歯科医師とは異なり、医師に隷属する一部医療者であって、歯牙の補綴を伴わない破壊療法を主として行っていたのである。その後、明治7年に初めて医制が布かれ口中科の制度が設けられたのであるが、これも今日の歯科医師とは異なったもので、医師に対する按摩、針医のような存在であった。然るに、明治39年の歯科医師法制定によって、歯科医師独自の立場が確立され、あらゆる機会を通じて健全なる歯科医学、歯科医療の発達が擁護されつつ今日の隆盛を見るに至ったのである。社会に対する必要性が認められ、しかも、その立場が制度によって護られている学術あるいは職業が、これに反するものに較べて、その発達に有利であるのは当然のことであって、事実、諸外国の状況を見ても、歯科医師が認められている国においては、歯科医師が認められていない国よりも、歯科医学ならびに歯科医療がはるかに発達している。この点、日本の制度の根底は日本独特のものであって、世界のいずれの国の制度よりも優れたものである。かくて、歴史的現実を見てもまた二元制はこれを否定できないのである。


口中科医は「医師に隷属する一部医療者」という驚くべき見解である。どっちが上とか下とかではなく、各専門の医師は並列であろう。口中科医が「医師に対する按摩、針医のような存在」という認識もよくわからない。
それと、日本においては、少なくとも室町時代には現在の総義歯の形態が完成されている。これは入歯師による仕事だが、繊細かつ根気のいる手仕事で吸着法による義歯を世界に先がけて実現化したわけで、まったく大したものである。現在、疾病構造が感染症から慢性疾患に移行するとともに漢方医学が見直されつつあるが、歯科でもこの入歯師の伝統を再評価し、活用したらどうだろうか。

(ハ)臣道実践の立場から見て
臣道実践とは、国是にのっとり、おのれを空うして自己の職域をもって国家目的に献身することである。明治39年以来、歯科医師の立場は国法によって明徴にせられ、加うるに、先頃発布せられた国民医療法は、歯科医師の負うべき国家的新使命を明らかにしている。これが今の日本の国是である。この国民医療法に従い、これに盡瘁(じんすい;苦労を顧みることなく全力を尽くすこと)することが、真の臣道実践であり、新体制にのっとるゆえんである。


さすがに「新体制」ブームは意識しているもよう。しかし、この国民医療法の解釈はどうなんだ。

◇いわゆる一元論者はいかなる誤謬を犯しているか◇

(イ)歯科医学ならびに歯科医療の本質に対する曲解
歯科医学は独立したものではなく、医学の一分科としての歯科学であるが、ゆえに、歯科医師を廃してこれを医師にするという考えは、歯科医学の専門分科のうちの医学的な一部分だけに捉われて、全体としての歯科医学を忘れ、医学の知識、技術だけでは解決のつかないところの他の一部分を見損なっているか、あるいは故意にこれを抹殺しようとしているものである。これに反して技工偏重の非が挙げられていたのは補綴の技術は治療の手術と併せ行い、かつ連結して始めてその実を挙げ得るのだから、技術のみに偏しては歯科医療が完全しないという意味である。補綴はどうなってもよいということではない。

「補綴はどうなってもよい」と主張した一元派はいたのか? 歯科技工師を活用せよという人はいたが。

(ロ)新体制ということに対する曲解あるいは新体制の悪用
現在までの体系あるいは制度を全部否定することによってあたかも新体制が産れるがごとくに曲解しているか、さもなくば、新体制という言葉を用いさえすれば、どんな無理でも通るという風に考えているのははなはだ遺憾なことであって、この種の誤解あるいは主張の仕方が、今日の日本にとっては最も有害であることに思いを致さねばならぬ。すべての歯科医師が国民医療法の精神を正しく把握すれば、歯科医界の新体制は自ずから産れ出ることを忘れてはならない。


では「新体制」とは何なのか、という説明はなし。

(ハ)歯科医師の権能に対する事実歪曲
現行歯科医師法の束縛に依り歯科医師には全身的治療が許されていないとか、死亡診断書も書けないとかいう議論があるが、これは事実を歪曲するも甚だしい。このようなことは医療を行う者は医師以外にはないと考えるから生ずる単なる個人的意見であって決して今日の社会的通年でもなければ常識でもない。歯科医師が、その職域奉公を全うするに必要な業務上の権能は、現在の歯科医師に完全に与えられていて、これを活用するのは歯科医師の努力によるのである。


歯科医師は死亡診断書を書けたが、全身的治療が許されていたわけではない。実際、医師法違反で訴えられもしている。

(ニ)一元運動の矛盾
今日までに、歯科医師を医師にしようとする方法あるいは医師をして歯科医療を行わしめようとする方法に関していろいろな案が考えられている。しかしどれ一つとしてこれを具体化し得る見込がついていない。
その第一は、歯科を他の分科と同様に医学教育の中に包括せしめ、各医学校に歯科講座を設けることである。しかしかような方法によって歯科学が教えられる限り、補綴方面は必然的に下級な技術者に委ねられる結果を招来するに違いなく、従って、国民に対して適正な歯科医療が行われ得ないであろう。


「下級な技術者」――やはり、歯科技工師の隆盛は恐怖であったようだ。

第二は、いわゆる歯科大学を設立してその卒業生に医師の名目を与え、実際には歯科医療に従事せしめようとする案である。この方法によれば、同様に医師とはいいながら、その中に一般医療者と歯科医療者の2種類を生ずる矛盾をきたすことになる。歯科医療に従事するものに、その診療をまっとうするために必要な権能を与えようとするのに、単に医師たる名目さえくれて置けばよいとするのは、ただ表面を糊塗したに過ぎないことになる。


「一般医療者」も分科されていることを無視している。眼科医や小児科医と並列で歯科医を考えよう、というのが一元派の主張であろう。

第三案は、医師に対して専門の教育を与えて歯科専門医をつくろうとする考えで、かつて欧州の2、3の国で行われたのであるが、その結果は、決して歯科医療の普及向上にはならなかった。わが国において、他の医療の分科は医師の診療科名として取扱われ、歯科だけはさらに専門教育を受けなければならぬという制度がしけるかどうか。さらに考えなければならないのは、現在の2万数千の歯科医師をいかにして医師とするかである。1年間の短期講習をやるとか、5年以上開業の経験或る歯科医師には医師の資格を与えるというような案もあって「バス」に乗りおくれないようにとしきりに勧告している向きがある。しかし、その実現を誰が保証するのであろうか。その主張の中には多分の政治的意味が含まれているのを遺憾とする。かような便法によって医師たる名目を与えられたところで、歯科医師の地位向上になるであろうか。否、むしろ医師界における特殊的部落を形成するに過ぎない結末となるであろう。


まあ、確かに過渡期の混乱は必至であろう。
なお、『「バス」に乗り遅れないように』とは1940年、当時の首相・近衛文麿が提唱した新体制運動のスローガンである。連戦連勝のドイツにならって一党独裁・挙国一致の政治体制を目指したのが新体制運動であり、これにより新体制ブームが産まれるのである。

(ホ)歯科医師の地位向上に関して
歯科医師は医師よりも地位が低いとか、あるいはまた、社会が歯科医師を尊敬しないから、医師になればそれが解消するかのごとくにいう者があるが、これは自己を中心として考えたまったく旧体制的、自由主義的な観念であって、絶対に我等の組せざるところである。この問題は、現在の歯科医育の内容をさらに高め、歯科医師全体の内面的教養を向上せしめることによって解決せられるものである。
これを要するに、我々は、歯科医師を解消し医師に歯科医療を任せるという主張ならびにその運動に対しては断固として反対する。しかし、医師が一定の条件によって歯科専門を標榜できるのと同一の意味において、歯科医師からも医師に転ずる途が拓かれるべきであるということは、歯科大学の創設とともに、我々の年来主張するところであることを、改めてここに明記して置く。例えば、歯科医学専門学校卒業者に医学専門学校の3年あるいは4年に入学する途が与えられるべきであって、このために歯科医師を否定する理由は毫も存在しないのである。
医療制度の検討には、いかにすれば国民の間に普及して国民のために適正医療が行われ得るかを根本的に考うべきである。医療関係者があるいはその努力を厭い、あるいはその義務を怠り、自己に都合のよくなることばかり考えていたのでは、決して真の医療新体制は生れてこない。
昭和17年7月
東京歯科医学専門学校同窓会


以上、傍線は引用者。「歯科医学専門学校卒業者に医学専門学校の3年あるいは4年に入学する途が与えられるべき」は後年、日本歯科医師会が請願に及んでいる。

さて、一元化推進派である歯科公報はこの「我等の主張」に批判的なコメントを加え、さらにこう述べた。

新生日本歯科医師会長の問題は、昨今、自薦連の暗躍がクライマックスに達していると見られる情勢である。例えば老弱を押して血脇会長の活動も涙ぐましいものがあり、最近は医療団披露指揮を機会に上京した山田順策、杉山元治郎両代議士を厚生省その他関係方面に日参せしめ、その筋と約束なれりとして祝意を表するものある等の、取らぬ狸の皮算用に寧日なき向きもあるようである。


医歯一元化運動は派閥闘争化していた。歯科界内部では。
医界や政界でも医歯一元化の賛同者はいたにもかかわらず、尻すぼんだのは歯科界が派閥闘争に注力しすぎた、つまり内向きだったからではないのか。
なお、当時現職の日歯会長で東歯校長の血脇守之助は1870(明治3)年2月1日生まれで、この時72歳である。ホントに自身が政治活動をやっていたのだろうか、「老弱を押して」。権力亡者だったのか、または、東歯幹部にやいやい言われて辞めるに辞められなかったのかもしれない。

戦時の医歯一元化闘争 医界の与論

日中開戦日を知っている日本人はどのくらいいるんだろう、日米開戦日は結構人口に膾炙しているようだが。これもGHQの占領政策の一貫か、それとも冷戦の影響か。ちなみに、中国人はかなりの割合で日中開戦日を知っている(私の知人に限ると100%だ)。ヤラれた日というのは、忘れないものである。
土屋清三郎氏は厚生新聞(7月1日)社説に再び医歯一元論を次のごとく述べておられる。
「医師と歯科医師と対立並存する現在の二元性を、改めて一元性とする運動は、全国11校中官私10校同窓の奮起によっていよいよ真剣味を加えつつある。
しかし、これは歯科医師のみの問題ではない。国の政策の問題であり、同時に民の生活の問題である。医師だけで足りるのを、わざわざ医師と歯科医師と2つの制度を設けて各々その職分を分割制限し、これがため1人の歯と唇とを病む者をして歯のために歯科医に、唇のために普通医に二重に足を運んで、二重に支払をしなければならぬ制度は、民の生活のために歓迎できず、国の制度として良い制度ではない。かかる不合理なる制度のために育成機関も医科と歯科と二重に作らねばならず、業務関係も二種に造らなければならない。
今日は、すべてが統制である、しかし統制せんがための統制は不可、同時に統制の利あって害なきは統制すべきである。医歯を一元に統制するは、自然の理であり、而して今はその機会である」。
医歯一元論は、医界の与論となって一層慎重味と国策性を加う。(7・7)
(余禄、1942年7月11日発行「歯科公報」)

土屋清三郎は医薬制度調査会の委員である。医薬制度調査会は医薬制度の改革とそのために必要な調査研究を担う厚生大臣の諮問機関で、今の中医協みたいなものである。土屋委員は「今日は、あたかも支邦事変5周年に当る」として、日中開戦と医薬制度の改革をからめて述べている。いわく「支邦事変の使命」は「健全共栄的な、人類一家、世界一村」の建設であり、その「理念的情熱は国民医療法に大きな文字をもって期待され」、「旧態の夢をなお追っているやからは、満州事変、支邦事変の本質に自らの心を照らして反省することをここに要求したい」という起承転結である。当時の認識(というか常識)では「満州事変、支邦事変の本質」は“大東亜諸民族を米英の桎梏より解放し、わが皇国の大精神を彼等に光被し、大東亜の共存共栄を実現するという聖戦”(1942年7月7日付朝日新聞社説)であり、だから改革を進め新体制を構築しよう! という論法は、当時はかなりポピュラーである。この「与論」に与しなかった東京歯科医専、そして日本歯科医師会の面々は、実はすごいのかもしれない。

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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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