売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

ソバカス、ニキビ、ワキガ

昭和2年11月、ソバカス、ワキガ、ニキビを健康保険の医療給付から外すという記事。労働に影響ないからというが、明治24年にはワキガで3300人が徴兵不合格になっているというのに。

健康保険法の改正についてはさきに内務省から労働保険調査会に諮問してその答申を求め、これを参考として法律ならびに附属勅令の改正案の作成に着手している、しかして右法律案は来議会に提出し勅令は改正法律案の通過後改正するはずであるが法令改正の要点は左の如し(東京電話)

一、業務上の事由によらざる傷病に関しては被保険者をして医療給付中薬価の一割を負担せしむる途を開くこと
一、業務上の事由による傷病については保険者において被保険者の報酬の六割以上の附加給付をなす途を開くこと
一、業務外の事由による傷病については傷病手当金は報酬の六割以下四割以上に減じ得る途を開くこと但し健康保険組合にありては主務大臣の認可を要すること
一、保険者は被保険者の家族に対しても医療給付の途を開くこと
一、被保険者の著しき不行跡による花柳病については傷病手当金の全部または一部を支給せざるを得る途を開くこと
一、業務上の事由によらざる疾病にして労働能力に影響を及ぼさざるソバカス、ニキビ、ワキガなどについては医療の給付をなさざることを得る途を開くこと
一、職員は主務大臣の認可ありたる場合は被保険者たらざることを得る途を開くこと
一、任意継続被保険者は保険組合には認めず政府直轄の被保険者のみとすること
一、被保険者の資格喪失後における保険給付の支給に関しては資格喪失の際業務上の事由によらざる傷病に関し傷病手当金の支給を受くるものはその喪失前継続して六十日以上被保険者たりし場合に限り引続きその支給を受け得ることにすること
被保険者の家族も医療給付の途を、1927年11月6日付大阪朝日新聞

被扶養者まで健康保険法の対象となったのは昭和15年からなのだが(5割負担で)、健保法がスタートした年の暮れには「保険者は被保険者の家族に対しても医療給付の途を開く」ことが同法改正案として検討されていた。13年もかかったのはなぜ。
それにしても「ソバカス、ニキビ、ワキガ」を除外しようとしていることに隔世の感あり。いまや顔面のホクロを取るのにも保険が効くのである(ソバカスの保険治療は無理だろうが、しかし、シミがふくれてイボっぽくなってるとOKなケースも?)。もちろんワキガの手術は保険が効くし、日本皮膚科学会が「ニキビはお肌の病気」と周知に努める時代である。

明治24年の帝国陸軍 

清水寛「日本帝国陸軍と精神障害兵士」(2006年)に掲載されていた「1891(明治24年)の徴兵不合格者の『病類』別順位」。咀嚼障害が第5位で少々驚く。

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▲「唇又は歯牙の疾病欠損にして咀嚼に妨あるもの」が第5位。

4000人が咀嚼障害で徴兵不合格。満20歳で、全不合格者の約5%が咀嚼障害。これは、ゆゆしき事態では。
第6位はワキガ。
ワキガは戦闘には影響しないんじゃないかと思うが……明治の日本帝国軍は、それだけ兵士を吟味していたということなのか。

臨床的に過ぎる

昭和14年の記事。今でも徴兵ならぬ徴農でニート問題を解決できる、とかいっている人がいるが。

「公私生活刷新に関する基本方策」を閣議に送った精動委員会では引続き「勤労の増進ならびに体力の向上に関する基本方策」に関する第3特別委員会案を審議するため、11日午後2時から文部省第3会議室に第8回総会を開き荒木委員長以下各委員出席、岡部特別委員長の報告にもとづく同委員会決定案を上程した。
この議題中には兵役義務の均霑をはかるため入営しない壮丁にも義務的に勤労奉仕制度を確立せよという青年勤労奉仕制度確立に関する方策、結婚までの適齢期を茶、花などのおけいこ三昧に過ごす中流以下の女性をも勤労動員せよという方策、臨床的に過ぎる医道を振作して体位向上の精動線に沿う「精動医」たらしめる方策等々、諸方策を協議の結果可決して5時散会した。今後この根本方策を内閣情報部内の精動部会に移して、各省ならびに各団体がいかに協力し、いかにして実行に移すかの具体策を考究することになったが、青年勤労奉仕制度確立策のような大きな革新案を閣議がいかに取上げるかはもっとも注目されるものがある。当日の決定事項ならびに論議の大要は左のごとくである。

勤労増進に関する方策

1、勤労報国精神の作興
2、勤労倍加
3、青年勤労奉仕制度の確立
これは一定年齢の男子青年に対し一定期間国民的義務として共同自営の勤労奉仕生活を体験せしめるもので勤労を単に収入を得る手段と見る精神を打破するとともに、兵役義務均霑のため入営せぬものにも入営したと同程度の勤労義務を負わせる案である。これに対し「労働力が不足の際、青年層の労働力を義務的に鍛錬に向けることは問題であるから義務的にという点を除かれたい」という意見も出たが多数が賛意を表したので「当を得た実行方法をもって」という条件付で可決。
4、学生、生徒、児童の集団的勤労作業を拡充強化する方策
これは師範教育、勤労慣性教育を徹底強化する集団的勤労作業をして臨時的なものから組織的なものへ強化することの2項を含む
5、婦人の勤労動員
竹内茂代女史から高女卒業生15万のうち上級学校へも行かず職業婦人ともならず家庭で茶、花、琴などのお稽古に憂身をやつしている都会の、しかも中流以上の未婚女性を対象とする意見の開陳があり、環境に従って銃後の勤労奉仕作業を行わしめる方法を婦人団体を通じて活溌に行うこととなった。
入営せぬ壮丁には勤労を義務制に、1939年7月12日付大阪朝日新聞

「青年勤労奉仕制度」に「集団的勤労作業」。ホントこのころの日本は、毛沢東時代の中国である。ファシズムとコミュニズムの相似なのか、いや、日本が悪い意味でアジアの手本になっているという可能性もあるのか? 北朝鮮の拉致は日本帝国の強制連行に範を取っていた、みたいな。
さて、医師制度の改善は「体力向上の方策」として議論された。

体力向上の方策
1、生活科学研究機関の設置
すなわち日本の国土に即した生活小泉委員のいわゆる"皇国ぶりの生活"の合理的、科学的生活確立の国立研究機関を設ける。
2、医道の振作、医師制度の改善
個人対象の治療のみに走らず、予防医学方面および体位向上の保健国策の線に沿うよう、医師会方面に働きかけていわゆる「精動医」に建直す。ここでも小泉中将から金儲け主義その他の悪徳医を鍛え直すべし、という痛論があった。
保険衛生に関する方策としては国民の衛生保健思想の徹底、母性、乳幼児の健康増進対策、入学試験制度改善の実行、禁酒禁煙、節酒節煙の励行、国民栄養の改善、結核撲滅の運動、また鍛錬に関する方策としては武道の振興、武道教師および体育講師の国家養成、工場会社に体育指導専任者を設置、農村にふさわしい鍛錬方法の考究ならびに都会における団体行進、団体体育、健全娯楽の振興などが決定された。


「団体行進、団体体育」って、これも共産主義国家のお家芸。極左と極右の違いって、なんじゃろ。

90にもなってまだ生きたいのですか

麻生太郎・副総理兼財務相の「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」発言が批判を浴びているが、このエピソードを思い出した。
「武見太郎回想録」より、麻生氏の祖父・吉田茂(1878-1967)、そして吉田茂を義理の叔父に持つ医師・武見太郎(1904-1983)の会話である。

昭和41年8月のことである。2日ほど胆石様発作のような右の季肋下部に激痛が起こり、3日目に左肩を貫通するような痛みが出て来た。この時、主治医の佐藤陽一郎博士から連絡を受け、私は急いで大磯に見舞った。その時はすでに声がかすれていて、呼吸もやや苦しそうであったが、私の顔を見るなり吉田さんは、「ご臨終に間に合いましたな」と言った。私も医者になってから、かけつけて行った先で、相手の患者から“ご臨終に間に合いました”という挨拶を受けたのはこの時が初めてであったが、おそらく今後もこんな例はないであろう。このくらい重篤な状態で、これだけの余裕を心の隅に持ちうるというのは、尋常一般の人ではない。
応急手当がすんで、私が「90にもなってまだ生きたいのですか」とにくまれ口をたたいたところ、「こんなだらしのない世の中では死にきれない」と言って、大いにファイトを燃やしておられた。その時に、3週間は絶対安静で横を向いてもいけないと言ったところ、完全にそれを守られたところをみると、国家のために生きなければならないという強い決意があったものと察せられる。


患者と医師、そして叔父・甥の痛快な応酬である。その場限りのウケねらいでなく、後でジワジワ来るこんなギャグを私は言いたい。なお、実際には吉田茂はこの時90歳にはなっていなかった(1878年9月22日生まれだから満87歳)というところも、イイ話である。

昭和13年、薬が公定価格に

昭和13年、国民健康保険法と国家総動員法が公布(4月1日)されて3ヶ月ほど経った頃の記事。1月には厚生省が発足している。

最近各種の医剤は急激に騰貴しつつあり、ことに輸入を仰いでいる高貴薬は輸入制限によって事変以来、5割7分方の昂騰を示しているが、厚生省では一般日用品の物価抑制と歩調を合せて薬価の抑制をはかることとなり、目下同省衛生局で研究を進めている。
薬にも公定価格、1938年6月30日付大阪朝日新聞 )

「輸入を仰いでいる高貴薬」とはサルファ剤とかか。

抑制の方法としては第一に輸入薬剤に代るべき国産品の製造を極力奨励する方針で、現に駆虫剤、乳糖の原料は東北地方、北海道で栽培されており、一両年後には相当莫大なる生産を見るはずであるが、今後は国産原料をもって自給自足し得るよう指導奨励する。
第二の方法としては主要医薬品につき公定価格を定めて統制し、国民負担の軽減をはかることに決定、現在日本薬局方として一般に販売されている700余種の医薬のうち需要量の多いものから順次価格を統制してゆく意向のもとに厚生省では企画院、商工省ならびに業者と協議したうえ省令によって公定価格を明示することとなった。


結局のところ「国民負担の軽減」などできるわけがなかった。
薬は不足の一途をたどるのである。
昭和14年の日本薬局方臨時改正では、蜜蝋の代わりに木蠟、消毒用アルコールにはメタノール、タンニン生薬としてゲンノショウコを推奨するなど、代用薬や代用原料の導入が計られた。
また、この改正でビオフォルム(ヨードクロールオキシヒノリン)がキノホルムの名称で普通薬として収載されたが、もとは劇薬指定の薬剤である。厚生省はビオフォルムを劇薬表から削除することなく、局法条文でキノホルムを普通薬として扱い、戦後のスモン薬害を引き起こすのである。7:3の大臣告示が厚生省の疑義解釈で空文化した例など、この手の行政の怠慢と傲慢には呆れるばかりである。

保険料に米や大根

昭和13年3月2日、国民健康保険法が可決された。

農山漁村、郡市中小商工業者の医療相扶共済を目ざして立案された国民健康保険法案はいよいよ2日、貴族院を通過成立、ここに同法は来る7月から10年計画で施行されることとなった。
(略)
保険料も従来の労働者健康保険法では一律に負担していたのが新法では都会、農村を通じそれそれ資力に応じ、お金がなくて金納できぬ場合は農村なら米だとか菜葉、大根などと物納でもよいという便法も考慮され、資力の足りない者が互に助け合ってまさかの用意をととのえよう――つまり共同で危険分散をしようというわけだ。
保険料に米や大根、1938年3月3日付大阪朝日新聞

健康保険料の物納がOKに。
実際に物納があったかはわからないが、保険料額とその徴収方法は組合の自治に委ねられていたのは事実である。しかし、この時代の医療問題の主因は社会の貧困であって、保険料の物納を許したところで解決するものではない。医療機関、とくに開業医の犠牲は必至の処置であるが、医師会もこれを阻止する力を失っていたのだろう。

団体契約の法文化問題

昭和12年、東京朝日新聞の論説委員・前田多門による国民健康保険法案の解説から。医師会は…秧芭妬鷭靴砲茲覦緡兎睛討猟祺次△よび∩塙臘沼阿良賊,箴託医制度の採用で開業医が患者を奪われること、などを理由に反対運動を繰り広げていた。なお国民健康保険法の公布は昭和13年4月1日、施行は7月1日より。

団体契約は現在、政府管掌の健康保険法関係において日本医師会と政府との間に事実上締結されている。しかるにこの契約事項協定に関し、毎年のように紛糾が繰り返され、政府当局は少からず迷惑を感じているのみか、現在の健康保険に関する諸種の非難不平、例えば診療内容の不良、濫診濫療、診療報酬の不当請求等がこの団体協約に胚胎しているとの批評さえあるのであるから、まして市町村単位の組合に対し、法制上必ず医師会と団体協約を結べと義務づけるのは余程考え物である。
この主張に関する医師会の理由は、かかる団体協約がなければ、被保険者をして自己の信頼する医師を自由に選択せしめることができないと言うのであろうが、自由選択の途は団体契約がなくても開かれ得るのである。もとより取り決め方は地方の実情に応じて全然自由であるから、組合のあるものが団体契約をするのを決して妨げないが、それを全国一律に強制すべきではない。
団体契約がないと個人の医師が組合に圧迫されるとの心配もあるようだが、医師の背後には立派な公法人たる医師会が控えている。もし一律に団体契約が強制されんか、町村組合は逆に圧迫を受けて、医療費その他の条件は全く開業医師団の頤使のままに定まられるという危険の方がむしろ多いようである。例えば保険医の指定権の如きは医師会が独占する結果、開業医以外の医療機関は迫害せられて、益々両者の対立抗争は激しくなるであろう。結局原案の如く自治的決定に委ねるのが至当と思考せられるのであって、団体契約の法文化には賛意を表しがたい。
国民保険法案の解説、1937年3月5日付東京朝日新聞

医師会の望んだ団体契約の法文化は、しかしなされなかった。
前年7月7日に起きた盧溝橋事件で、政府は粛々と国家総力戦の遂行体制を固めており、医師会も黙らざるを得ない情勢となっていた。国民健康保険法が成立した議会は、国家総動員法が制定された――陸軍省の説明委員が国家総動員法に反対する議員を「黙れ」と一喝した議会である。

内部留保

戦前の健康保険制度の利用率は、しかし低かった。
政府管掌健康保険は昭和2年の健保制度創設以来黒字を続け、その剰余金を留保した積立金は昭和14年に1年分の保険給費4000万円に達している。
被保険者数が戦前の最高記録である460万人になった昭和19年度には、2億円超の積立金が内部留保された。保険給付費8400万円の、実に2年半分である。それほど保険証は使われていなかった(身分証としては通用したのだろうか?)。
利用率が低かった理由のひとつが、健保組合の横槍である。

『三等院長のメモ』の著者三原七郎氏の体験によれば、今から20数年前(引用者註:1930年代)には疑いもなく虫垂炎(盲腸炎)の患者で入院手術を適当と認め、患者も手術を希望している場合でも、保険でやろうとすれば第一に許可をうけねばならず、手術の可否の判断にやってきた保険審査員が患者を診察した後に、この虫垂炎はまだ穿孔していないから手術せず冷やして経過を観察すべしということになり、入院手術が不許可になった。また、機械に右腕をまきこまれ、上腕の付け根から切断という時でも、緊急入院の許可を電話で要請すると、腕を切断しても足が残っていれば歩けるだろうから入院はできないと返事される有様であった。
(川上武「日本の医者」1967年)

現代アメリカの健康保険制度をテーマにしたマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画「シッコ」の世界は、かつての日本の姿でもあった。「腕を切断しても足が残っていれば歩けるだろう」って、歩けるかよ。

農村経済の疲弊と医療費

昭和11年の記事。昭和5年の農村恐慌後の農村医療について。

医療費は相当の経済的負担となっているが、特に貧しく、しかも現金に乏しい農村において不意に襲って来る医療費の一時的支出に際し、その金をどうして調達するのであろうか。その事情をも社会局の清水保険部長は丹念に調査しているからその大体を伝えよう。
まず借金をするのが通例で、親類縁者の融通を受くる場合も少くない。ある地方ではこの種の借金を恩金と称し、必ず返金すべきものとしている。これをみても如何に医療費の必要が切実であるかが察せられる。親類縁者に出捐能力のない場合には高利貸に走り、または質屋に通うことは勿論であるが、結局不動産の抵当売却が行われ、自己または家族の生命を護るため第2の生命たる田畑を消失するのである。質草となる調度衣類はほとんどないのであるから、収穫より得る金を質とすることが多い。さりながらかかる方法も限度のあることだし、打続く農村の不況は次第に医療費の調達を困難ならしめつつある。
農村では右のように医療費の重圧に苦しむのみならず、都市に比して著しく医療機関の分布に恵まれていない。ここに医療機関の問題が存するのであって昭和9年4月1日現在の社会局調査によると、医師の分布は都市にあっては人口1万人に対し医師10.1人であるが、町村にあっては4.5人に過ぎず、都市の半数にも達していない。都会地偏在の傾向は医師だけでなく歯科医、薬剤師、産婆についてもいえるのである。すなわち東京市の人口1万人当り医師10人、歯科医5人、薬剤師3人なるに青森県ではそれぞれ4人、1人、1人、沖縄県では3人、0.5人、0.1人でその分布は極めて不公平となっている。
さらに驚くべきは昭和11年5月末現在の内務省衛生局の調査によると「医者のない村」が全国3215村、その総人口816万4249人に達していることだ。つまり全国10万2000近い市町村のうち約3割が医者なしで暮しているわけで都会人の想像もつかぬことである。
国民保健国策、昭和11年7月12日付大阪毎日新聞)

農村が貧困化して医療費が払えず、医療機関も貧困化して農村から逃げ出すと説明しつつ、

大体医療費問題と医療機関の問題は相関している。すなわち医師の都市集中傾向に拍車をかけているものは農村における医療費支払の困難な事情で、これは主として農村経済の疲弊と医療費の比較的高価なるに原因している。

医療費が高いから農民が払えない、という展開に。貧困と医療費の高低は別問題なんだが。  

診療料金は薬剤が1日分平均20銭くらいで比較的低価のものも少くないが、往診料は大体高額となっている。社会局調査によると1回の往診料は2円以上を必要とするのが通例で、隣村その他多少遠隔の地から来診を求める場合には10円以上を要することとなっている。


1日の薬価20銭の時代に往診料2円、遠隔地10円は果して高額か。しつこいが、20銭なら農民も出せるが2円は無理ということ(=農村経済の疲弊)と、医療費の妥当性とは別問題である。

農村窮迫のために近時では医師に対する支払が著しく滞り勝ちで、一般に医療料金の未納はある程度まで普通というやむなき事態にまで立ち至っている。たまに金一封式の謝礼があってもその一封たるや医師会規定料金におよばざること甚だしいものがある。従って最近では指定健康保険医として多少低額の料金でも確実に収入しようとする傾向をさえ馴致し、医師の生活問題が社会問題化せんとしているほどである。


記事の趣旨は国民保健国策を遂行しよう、というもの。
しかし、労働環境改善と生産力向上による社会福祉のための税負担率アップ、などの具体性のある意見もナシだから、いきおい医療の充実には医療者をがんばらせれば(=搾取すれば)イイ的な話で終了している。いや、国の意向を伝えればOKという報道姿勢であれば、この書き方でいいのかもしれないし、現実はまさにそうなっていったわけだが。
なおこの記事が掲載された昭和11年は、天皇機関説の美濃部達吉が右翼に襲撃され、2.26事件が勃発した年。新聞ももうダメになっていたのかも。

健康保険医の内務省直営(案)

昭和11年の記事。内務省は健康保険医の直接雇用を検討し、医師会に圧力をかけている。

全国300の工場労働者に対し内務省が施行している健康保険状況に関し昨年来極秘裏に調査したところ、内務省が毎年日本医師会に対し健康保険費として手渡している約1500万円がさらに各府県に分配される際、その分配方法が公正でないせいか、いろいろ非難が起きているし、また不心得な医者があってインチキ請求書を出し実際に診療した以上の金額を府県より請求しているなど面白くない話が各方面で聞かれるので、内務省は医療報酬契約更改期の本月中、適当な機会に従来の無条件契約を断乎打破し、契約に一種の条件を附することとなった。つまり今までは文句なしに1500万円を医師会に手交していたが、今後は分配の公正を期するなどの制限をつけることになるのだが、これは明かに医師会に対して不信任を表明したことになるので、医師会としても容易に賛成せぬだろうから、結局内務省としては健康保険の医師会に対する請負制度を撤廃し、断然内務省の直営とすることになるものと見られる
健康保険医を内務省で直営か、昭和11年3月4日付大阪毎日新聞)

昭和17年、保険医は契約制から強制指定制になった。それまでは希望する医師が保険診療を担当していたが、地方長官が医師を保険医に指定し、医師はこれを拒否できなくなったのである。同時に、診療報酬も契約制から公定制になる。政府と医師会との契約により団体請負方式で支払われていた診療報酬が医師会を経由せず直接厚生大臣から保険医に支払われるようになり、保険医療に関する重要事項の主導権、決定権がすべて医師会から政府に移った。初の「点数単価表」は昭和18年2月に告示され、同年4月から実施。1点単価は医科は20銭、歯科は10銭である。保険医が遵守すべき診療方針「療養担当規程」も同時に告示された。すべてが「お国のため」一色の世相に、医師会も抗しきれなかったのだろう。

医療監督官(案)

昭和4年4月の記事。保険署に「医療監督官」の設置が検討されていたようだ。現在の指導医療官のヒナ形である。

内務省社会局では六大都市所在府県をはじめ全国の主要府県16ヶ所の直轄保険署に医療監督官(内務技師)を設置し医療給付の状況を調査監督することに決定し、近く内相の決裁を経て実施するはずである、しかして右監督官の任務は

1、保険医が医師会に請求する医療報酬の正当であるかどうかを判定すること
2、現行保健組合財政状態を調査すること
3、事業主の医療給付が正当に行われているや否やを調査すること
4、被保険者にあらざるもの、いわゆる替玉や作病などを調査すること
5、入院を要する病症なりや否やおよび入院患者の取扱いの適正なるや否やを調査すること
6、保健施設一般に関する指導および監督をすること

などである
健康保険法の実施を監督、1929年4月10日付大阪朝日新聞

要は、医療費抑制の一貫である。成立しなかったのは医師会が反対したからか。
実際には、健康保険署は昭和4年に廃止されている。その後健康保険に関する事務は各都道府県の警察部に設置された健康保険課が担当することになり、東京の警視庁管下に4、大阪府に3、愛知県に1の健康保険出張所が設置されたのが昭和10年5月(その後漸次各県に設置)。これが現在の年金事務所、かつての社会保険事務所の前身である。社会保険事務所に指導医療官が設置されたのは、昭和56年(現在は厚生局に移管)。

「湯屋」と「歯医者」

富士川游「富士川游著作集2」より、「独逸国に於ける非医医者の事を記す」。初出は明治34年2月発行「医談」第60号。
富士川のいう「非医医者」とは、「医学の素養なく、また医師としての政府の免許なくして、しかも治病の業を執るもの」を指す。ドイツでは非医医者が増加し、首都ベルリンにおいては1879年に医師34人に対し非医医者は1人の割合だったものが、1897年には医師4人に非医医者1人にまで増加したという(1879年:医師数962人・非医医者28人、1897年:医師数2196人・非医医者476人)。

ルブネル氏の説によれば非医医者は男子に多く、女子に少なく、その職業は湯屋、歯医者、機械、靴下業、産婆、製皮、牧畜業等なり、その教育程度ははなはだ低くして伯林のごときは全員の4分の1くらいがようやく中学第2級の知識を有し、女子のおおよそ3分の2は下婢のたぐいにして教育あるものは1%に過ぎずと言えり。


非医医者には「歯医者」も含まれていた。

1893年バイエルン王国の調査によれば、非医医者の身分は左の如くなりしと言う。
薬舗 19%
湯屋、歯医者 31.6%
農夫 19%
僧 1.9%
無職業 16.9%
産婆 2.4%
製皮工 5.4%
その他 21.45%

「湯屋」と「歯医者」が同じカテゴリーである。

ザクセン王国の調査によれば、
1896年、ザクセン王国には745人の非医医者あり、そのうち、
男子 582人
女子 163人

その種類は

自然医 220人
交感療法家 106人
ホメオパート 97人
按摩師 72人
歯科 64人
磁石治療家 46人
虫療家 19人
バウンシャイドチスムス 9人
(「バウンシャイドチスムス」とはバウンシャイド氏の創唱に係る治術にして、皮膚に針して薬液を用うるの法なり)

その職業を区別すれば、理髪師、職工、靴下業、靴工、治療助手、労働者、筆記者、湯屋主人、指物師等なり。


全部足しても「745人の非医医者」にならないのだが、ママ。また、「歯科」というのも歯科医師なのか、歯科技工師なのかは不明である。
ちなみにドイツにはフツーの歯科医師、歯科医師のために働く歯科技工士、患者に歯科治療をも行う歯科技工師がいた。で、ここで「非医医者」と糾弾されている「医学の素養」のない「歯医者」とは、歯科技工師か、もしくは口腔領域以外の治療も手掛ける歯科医師だろうか。
それと「虫療家」というのも激しく気になる。サナダムシ療法みたいなもの?

法的なことについては、ドイツでは1869年に営業の自由に関する法律が制定され、熟練を必要とする職業は政府の認可を得ずに自由に行うことができた。この時代は医業も営業とされ、医師は営業税を納めている。ヤヤコシイが、医業および歯科医業に関する資格がなかったのではなく、資格は存在していたが、営業の自由も認められていたために無資格でも医業を行うことが可能だった、ということである。
医業が営業の範疇から外されたのは、1933年12月に医師法が制定され、1936年4月に同法が施行されてから。
歯科医業の場合は、1939年5月5日から歯科医師法に相当する歯科医師会令が改正された結果として、営業ではなくなっている。しかし、従来から開業していた無資格の医師、歯科医師は、医業が営業でなくなった後も、既得権が認められて営業を続けることができたのがまたヤヤコシイ。以上は正木正「新編 歯科医学概論」(1975年)から。

江戸時代の医療従事者

蒔絵師源三郎人倫訓蒙図彙 7巻」(1690年)に描かれた、江戸時代の医療従事者。人倫訓蒙図彙は江戸元禄期に出版された生活図解百科。

医師
▲医師。

医師の外見はほぼ坊さん。左は脈を取り、右は薬を包んでいる。

小児按摩針師
▲小児(医師)、按摩、針師。

針師の外見は坊さんだが、按摩と小児(医師)は総髪。

外科歯医師
▲外科(医)、歯医師。

外科医は坊さんの格好だが、歯医師は総髪で髷を結っていない。

金瘡
金瘡(医)。

金瘡医(きんそうい)とは刀傷などの創傷治療を専門とする医師。左は頭巾をかぶった坊さんのようだが、右は五分刈りっぽい。服装も柄物の柔道着のようで異質。

なお、江戸時代の「歯医師」または「歯医者」とは、口中療治を兼業した入歯師のことを指す。というわけで、日本の歯科医師のルーツは入歯師だろう。明治、大正の歯科医師は、世間が歯科医師を入歯師視するといって嘆いているが、元が同じなのだから素人に区別がつくわけがないのである。

高収入世帯ほど歯科治療費が高い

鈴木晃仁「治療の社会史的考察」より、「滝野川区健康調査 傷病調査票」を元に作成された「家賃別(二分法)・疾病分類別の医師による治療と医師によらない治療の割合」。
滝野川健康調査は、東京・滝野川区(現在の北区の一部)の354世帯2215人を対象にした横断的コホート調査である。調査期間は昭和13年5月1日から翌年4月30日。

家賃別・疾病分類別
▲月額家賃:A=2.8-12.5円(87世帯)、B=13-20円(101世帯)、C=21-35円(91世帯)、D=40-300円(91世帯)
(出典:鈴木晃仁「治療の社会史的考察」、川越修編「分別される生命 二十世紀社会の医療戦略」2008年)

一般に高収入世帯(C+D)のほうが、低収入世帯(A+B)よりも「医師を含む治療」の利用率が高いが、そうじゃない疾病もあったことを示した表である。これを見ると、歯科治療における「医師を含む治療」利用率は高収入世帯86.5%、低収入世帯66.7%。高収入世帯の医師利用率では最高である。今も高収入世帯ほど歯科治療費が高い傾向があるが、この時代からそうだった。高収入世帯での歯科利用件数は第2位である。

気になるのは「医師を含まない治療」の内容で、売薬、調剤、民間療法、療術行為、信仰療法に分類されている。
歯科における「医師を含まない治療」に担い手といえば、歯科技工師(入歯師)だろうが、どの分類に入れられたのか。
鍼灸や接骨、指圧などは療術行為に分類されているが。
治療別タイプ費用

でまあ、出典元の調査票を入手できていないのでアレなのだが。

そもそも、調査者は義歯をつくって入れることを治療と捉えていたかどうか、である。
筆頭報告者は精神科医である(小峯茂之)。補綴で治る病気はないのだから補綴は治療ではない、と考える医者はいた(今もいる)。また、義歯をつくって入れることを治療と考えない庶民もいただろう。装飾品として前歯に金冠を入れたりしていた時代である。メガネも義歯も「つくる」というが、メガネが指輪や金ボタンとともに装飾品店で販売されていた時代である。
調査者or調査対象が、義歯を入れることを治療と考えていなかった場合、歯科技工師の存在はこの調査には現れない。また、調査対象が歯科医師と歯科技工師を区別したか、区別し得たかも、疑問である。

明治の一俵会

三原七郎「医療の内幕 ―続・三等院長のメモ―」(1965年)より、「一俵会」。

明治は遠くなりにけりなどという言葉につられて懐古情緒が浮かぶたんびに私は、少年のころ身近にみた一俵会というものを想い出す。患家は毎年米一俵だけを医者の家に納め、それで家族全部の医療を引受けてもらうのである。いわば家族ぐるみの医療請負い制度である。
(略)
一俵会には何等の強制的な意味合いがあるわけではなく、来たる者を拒まず去る者を追わずといった悠揚たるものであったらしい。おそらくその人(註:一俵会の主宰医師)は、患家の玄関先で、往診料は何ぼでっしゃろかと蟇口に手をかけられることもなければ、医療費の請求書を自らの手で書いたり、算盤珠をはじいてみるなどの経験は知らずにすんだろう。したがって診察のあと、頭を冷やして、隣の甲筋向かいの乙にす早く立ち返る努力もしなくてすんだことであろう。そういう環境と仕事と、そしてそれからくる習いが性となって、村の長然たる風格が出てきたものと思われる。

村民の自律的な医療相互扶助制度としては福岡県宗像郡の「定礼」が知られるが、他にもいろいろあったようだ。明治は、それほど暮らしにくい時代ではなかったのかも。

“赤ひげ”に近代医学の知と技と物を持たせたい

三原七郎「医療の内幕 ―続・三等院長のメモ―」(1965年)より、「開業医」。昭和30年代、国民皆保険発足前の開業医論である。

その頃は(註:大正〜昭和初期)、医者がいちばん医者らしく生きてゆくためには開業するのが最善であるという考え方があった。当時の医業経済というものは、こんにちに比べれば遙かに楽であった。3年流行れば倉が建つ……とか、10年働けば一生の食扶持は準備できるなどという俗諺も、必ずしもひどい的はずれではなかった。だから、開業する医者たちの中に、“医は喰らえば足る”といったストイックな信念の人がある一方、家計が楽になるからとか、金がたまるだろうからというようなことを楽しみの一つにする者があったろうことは、医者も生ま身の人間であるかぎり、否定するわけにはゆかなかった。しかし、ものごとの本筋としうては、やはり、医者が医者らしく生きられる――ということは、医者の良心の自由が確保できるということであるが――ことを第一義に考えたとみるべきであろう。逆に、医者らしくまともな仕事さえしていれば、家計の心配はいらない、ばあいによると倉も建つという安心感があったからこそ、仕事第一に考えられたのであるともいえる。
(略)
医療の社会化または民主化の名のもとにおける国家権力の介入と支配、医療の原材料費の増嵩、そのためにという理由で促進される官公立病院の整備強化等の事情から、医者が医者らしい仕事をするためには開業が最善であると豪語できる時代はすでに過ぎ去ったかのようにみえる。そして、開業医が、国民医療の中核的な立場から僅かずつながら後退を余儀なくされつつあることも否定できない事実であろう。
それならば、これからの開業医は、ただ後退没落の一路をたどるばかりの運命にあるのだろうか。これに対する答えは、今後わが国の国民が、どういう医療の姿を望むかということと、それが為政の場でどういうふうに扱われるであろうかとの見通しから引き出すのほかはない。医療というものを、単に薬を飲ませたり、手術したりすれば足りるとする唯物的なものとするならともかく、毎度くり返すように、複雑な“人間”の問題として捉えるならば、開業医的感覚と情緒とが最適の条件にあるといえる。したがって需要は絶対であるといえる。需要が絶対でさえあればそれがそのまま活かされるかとなると、為政の場はきびしい、それが人の世というものであろうか。


戦後〜皆保険発足までの開業医の生活は苦しかった。戦後の混乱期で何もかも不足し、インフレ物価のなか診療報酬も据え置かれていた。しかし、著者がこう書いた昭和30年代は必要経費が72%まで認められ、薬価差もまだ大きかった時代でもある。

“赤ひげ”に近代医学の知と技と物を持たせたいのが人々の願いではなかろうか。しかし私共には悪代官から50両、女郎屋の親方から30両の往診料を取り立てる自由はない。そして貧しい人たちから治療費を受け取らない自由もない。国家権力によって、“正当”と認印を捺された料金のために、飢え死にする懸念はないかもしれない。そして国民は、医者たちが“正当”に報いられているが故に“権利”あるものとしてその体を“見せ”にくるのである。そういう条件の中で、仁心の自由無限の発露が要請されるのである。歪まなければ不思議というものである。


「国民医療の主体」は、医科では病院と勤務医になったといっていいだろうが、歯科は依然として開業医である。だが、歯科診療所経営がドン詰まりになったという報道はあっても、総合病院に歯科や勤務歯科医が増えたという話は聞かない。開業医から病院に移行する、その過渡期にすら歯科はないのである。国民歯科医療は今後、一体どうなるのだろうかと思う。

エラい先生

三原七郎「医療の内幕 ―続・三等院長のメモ―」(1965年)より、「低医療費政策」。

健康保険法制定の発想が、貧困な労働者階級の医療救済ということであっただけに、制度運営の実態には、そういうニュアンスが当初から相当露骨に現れていた。国家の政策がすべてそうであるように、まず予算が先行した。(略)
山手のきれいな病院や診療所では、誰の目にもはっきりとわかる差別的取り扱いがあったり、そういうところの医者たち自身が、健康保険患者をたくさん取り扱う医者を、軽侮の眼で見やることさえもあった。そういうエラい先生のいる山手のきれいな病院には行けず、さりとて自費では医療が受けられないという被保険者たちは、多く下町や工場街の、あまりきれいでない病院や診療所に集まった。そこらに働らく医者たちは、たとえば良寛先生のように、ヒポクラテスの誓いを文字通りに実践することの使命感に生きるか、あるいはまた、十銭ストア的商魂に諦観を求めるかのいずれかであった。そうしてその、どちらのタイプの医者たちも、医師会の会合で活発に発言するような適性はもっていないというのが一般的な実情でもあった。
さらに当時は――今でもいくらか似たようなことがあるかもしれないが――医師会の主導的立場にある人たちは、概して裕福な階級であり、健康保険患者など、一種の施療患者ぐらいの感覚で処理していた。それだけに、この低医療費政策がその後に長く尾を引いて、わが国の医療を根底から歪めてしまうことになろうとは思い及ばなかったようである。

歯科医師会も同じなのだろう。

俺を金の多少によって治療の内容を変えるような医者だと思うのかッ

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「審査余滴」。昭和10年代の保険医療について。
著者は明治40年宮崎県生まれ。昭和7年九州大学医学部卒業、昭和12年神戸市兵庫病院外科医長、5年間奉職後に同市で独立開業したが空襲で丸焼けとなって3年で廃業。昭和22年大分県南海病院長就任、昭和30年社会保険宮崎江南病院長。

私が温室のような大学の教室を巣立ち、恩師の推挙ではじめて就職した病院は、その頃保険患者を扱うことでは全国でも有数のところだったが、実地にその診療に当ってみると制度の実態の惨めさは驚きに値するものだった。
山手の、いわゆる上流地帯に開業している知り合いの医者を訪ねると、「君ンとこの病院は保険患者ばかりだろう」と軽侮とも同情ともつかぬ複雑な微笑を示した。その後もあちこちの医者に会うたびに似たような経験をもった。経営経済という立場からみれば、十銭ストアよろしく零細な診療費を積み重ねてゆくものであり、僅かの給料で馬車馬のように働いている私の姿がひどく惨めに見えたのであろうか。


著者の担当する外科外来の患者は200名以上、そのうち保険患者は7割。

その頃なお何といっても社会の下積み的存在であったところの労働者たち――山手のきれいな病院などには気がひけて保険証はさし出せず、さればとて自費で診療を受ける余裕はない――をまともに診療してやるところに、一種の誇りにも似た熱情を覚ゆるようになった。熱意が湧けば湧くほど制度の不備に腹が立つ。役所とも渡り合うことがあるし、保険診療に不安をおぼえる患者があれば「俺を金の多少によって治療の内容を変えるような医者だと思うのかッ」と怒鳴りつけてみたり、保険では算盤の合わない薬を処方したところ「こんなバカな処方を出したのはどの医者だ」と事務長がおこっていると聞いて、そのバカな処方を出したのはこの私だッと事務長室にねじこんだりもした。


著者は宮崎江南病院の経営が軌道に乗った昭和47年6月ごろ、現職のまま64歳で亡くなっている。今でいう過労死ではないかと思う。
日本の保険医療サービスは世界一の質と量を誇る、このような医療従事者があったればこそだろう。

嘱託医

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「頭を下げたがらない」。昭和20年代の、プチ甘利のお話。

前任地の病院での話である。あるとき駅の助役がやってきて鉄道の嘱託医になってくれないかという。私どもの病院は政府の厚生保険特別会計から施設されたものであるけれども、元来が勤労者のための病院であるから喜んで引き受けましょうと答えておいた。それから半年たっても一年過ぎても何の音沙汰もない。その間にも始終鉄道職員がやってくる。元来鉄道職員は、鉄道直営の病院や嘱託医療機関にゆけば共済制度によって手軽に診療が受けられるが、それ以外の病院などでは診療費を一応自費で支払い、それを後で共済組合から補償してもらわねばならないので、職員としてはそれだけ面倒である。


この話の舞台は大分。鉄道病院もあったはず。

あるとき一人の鉄道職員が、
「この病院もわれわれの嘱託になってもらえないものですかね……」
と訴えた。そこで、以前にその話があったとき快く承諾しておいたことを話すと、
「……幹部の話だと、この病院の職員全部にパスを出せと要求したので、話がまとまらなかったんだとのことですが……」
「とんでもないことをいいなさんな。労働者のための医療機関の本質から、気持ちよく引受けようといったまでのことで、代償にパスを出せなんてそんなみみっちい話など持出す筈はないですがね」


あるある。私も「話がまとまらなかった」という話を鵜呑みにして失敗したのを思い出した。

間もなく、先方から申入れがあって私どもの病院も正式に鉄道嘱託ということになったが、あるとき鉄道労組の幹部が次のようなことを私にささやいた。
「われわれは職員皆んなが希望するお宅の病院をさしおいて、XやYが嘱託になったので、これは怪しいとニラんで徹底的に探ってみたんですよ。そして厚生係の連中とXの職員が何処でビールを何本飲んだかということまで調べあげて、労働組合の総意としてお宅の病院を嘱託にすることを幹部に迫り、もしこれが容れられなければXYをボイコットするときめつけてやったんです……」


ビール程度で釣り上げられる官僚なんてかわいいもんじゃない? と、思ってしまう今日この頃である。

医師会の憎まれ者

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「医師会の憎まれ者」。著者は昭和22年に大分県南海病の院長に就任している。大分県南海病院は、現・南海医療センター

このS市(註:大分県佐伯市)に新設される予定の健康保険病院というのは、土地建物、医療用機器など、病院の主な施設は国庫の厚生保険特別会計によって整備され、経営だけを民間の公益団体に委託するという、いわば国有民営の形をとるもので、問題は病院建設資金の出し元である厚生省(保険局)と、経営の受託予定者である周辺21ヶ町村対地元医師会との対立抗争の形になった。その間に保険課長は幾たびか医師会幹部と折衝を試みたが、開設反対の意向は微動だにしないようであった。


著者は厚生省保険局保険課長に「執拗頑強に」迫られて、院長就任に応じた。同保険課長は要請にあたり「21ヶ町村の町村長会を動員」したというのだから、地元は官民そろって新しい病院が欲しかったわけである。病院の周囲は「三方を高い山で、残りの一方を海で囲まれ、一種の陸の孤島的存在であり、開業医に優俊の人もヒトがあっても、ただ一つの総合病院すらなく、人口10数万の住民たちは少しばかりの難症となれば、1日2日を費やして遠いほかの都市まで出かけねばならず、健康保険の被保険者は、保険証をもって医師の門を叩くことは殆どない」という環境であったから、地元の熱意はもっともであった。しかし、医師会は反対する。そして厚生局は医師会との関係悪化を懸念して、同保険課長を更迭してしまうのである。

県当局の中でも衛生課長は、医師会の機嫌を損ずることが、その他の行政面に支障を来たす懸念もあってか微妙な立場にあり、同じく民生部に属する保険課長とは必ずしも同調的でない点なども加わって、抗争が表面化してからでも既に半年以上たっているのに、事態は一向に明るい面を見せなかった。
その行詰りを打開するためでもあったのか、厚生省は突如として保険課長を更迭した。これには私も唖然となった。


医師会は院長、つまり著者の更迭も要求した。その理由がすごい。

(1)院長受諾に際し地元医師会に挨拶しなかった
(2)医師会の反対する病院に赴任して来る院長の気持が了解できない、かかる院長とは協調できない、故にこれを排斥する

医師会も大人気なさすぎだろう。この件は当時ガンガン報道され、九州の開業医界を揺るがしたというから、地元医師会も引くに引けなかったという事情はわかるけれども。

抗争が表面化してから小1年、私が顔を出してから9ヶ月ぐらいして、ある日突如として認可が下りた。医師会との話合いはつかぬままである。
占領軍が介入して強圧したのだという噂もあったが、真偽のほどは知らない。
(略)
ともかく開院はしたものの以上のいきさつからして医師会(といっても実際は数名の人たちが当事者であるに過ぎなかったが)との関係が早急に円満にゆく筈がない。開院の挨拶に行って、初めて地元医師会長に会ったわけだがモノ一ついってくれず、その後、道で会って挨拶してもソッポ向かれるという有様で、気分的にはうっとうしいことであった。ただ長い間騒がれたために、宣伝の効果は大きかったとみえて、病院自体は開院早々から押すな押すなの盛況で、地元の有力者たちの大部分が、そしてだんだんには開業医の中にも一部の人が私に会う毎に、よいものを作ってくれたといってくれるようになったのはうれしかった。

保険病院

三原七郎「三等院長のメモ」1959年より、「保険病院」。昭和30年代の保険医療のエピソードである。著者は社会保険宮崎江南病院院長。同病院は現在、全国に57ある独立行政法人地域医療機能推進機構の病院のひとつ。

終戦頃までは政府管掌の保険経済はいつも黒字で、毎年の剰余金の積立は相当な額となり、これを徒らに積んでおくだけでは能のない話であるから、何か被保険者の福利に積極的に利用しようということから発案されたのが、われわれの健康保険病院(社会保険病院と通称されることもあるが、これは同名を冠した民間の病院があって混同されがちである)である。
ところでこうして発足した保険病院はその目的として、

イ 保険診療を模範的に行うこと
ロ 保険医への協力期間であること
ハ 所在地域被保険者の健康管理上の拠点となること
ニ 保険診療に関する科学的資料を政府に提供すること

などを掲げたのであるが、その経営について、前期の医療の本質の特性からして、純粋の国営にするよりか、病院自体になるべき多くの自由を与えたほうがよいうという観点から、国有民営という形とすることになった。つまり施設は国費(厚生保険特別会計)で整備し、経営を民間の公益団体に委託することになったわけである。
当時の保険課長友納(註:友納武人・厚生省保険課長)氏は、満鉄があれほど伸びたのはあれが民営であったからで、もし国営の事業としていたならばあのような発展は望めなかったであろうということにヒントを得たと語り、国有民営の形にしたのは、国有の長所と民営の長所を併せ持つというのが狙いであり、

国有の長所は……施設力の強大
民営の長所は……院長の意志が端的に表現できる

ことであろうと説明した。そして宮崎局長(註:宮崎太一・厚生省保険局長)は院長たちに対して

医療が適正に行われること
病院従業員の労働条件が適正であること

の2条件を満たすことが当面の目標であり、この条件さえ満たされれば、他の一切のことは全部院長の良識と明断に委ねる、そしてこの2条件が満たされてしかも赤字となるならば、それは医療費の単価が悪いんだという判断をしたい……とまで強調した。
(三原七郎「三等院長のメモ」1959年)

城山三郎「官僚たちの夏」に描かれた高度経済成長期の通産官僚、佐橋滋を思い出した。佐橋は親分肌で部下思い、前例のない大胆な政策を粘り強く実現していく実力派で、しかも退官後は天下りを拒否する潔さがあった。戦後色も濃く、国全体が貧しかった時代には熱血官僚も珍しくなかったのかも。そんな当時の厚生省を武見太郎はアカ呼ばわりしていたが。

実際に事に当ってみると、聞くと見るとには大きな開きがあった。健康保険病院は、最初は殆んど全部民間の二流三流の、潰れかかったり腐れかかったりしている病院を買収したもので、“施設力の強大”を誇る国有にしては惨めなものであった。それでも以前から仕事を引続きやっていたところはまだしも、私どものように土地建物だけを買収して、中味は新たに整備しなければならないような病院を受持たされたところが特にひどかった。終戦後間もない物資の窮乏時代でもあり、予算は当然闇買いを許さないし、公定値で買えるものだけに廻しても不足は甚だしかった。こんにち盲腸炎手術で中髄を切断するには、たいていの病院で電気メスぐらい使っているが、当時私どもの病院では電気メスはおろか、ベンジンを白熱させて使う烙白金すら買えず、手術ともなれば七輪に炭火を起し、火鉢の先端に竹の柄をすげたものを2、3本くべて代用するといった有様で、看護婦が白い看護服を着けられるまでには2、3年かかり、それまではモンペに藁草履といういでたちであった。


この“宮崎友納構想”は保険医療を発展させ、保険医療が日本の医療をリードするようになっていくのである。

病院そのものは三流四流のオンボロでも、それまで保険証を出すのに気後れを感じていた被保険者たちが“われらの病院”として胸を張ってやって来られるし、そのことが周辺の医療機関を刺激して被保険者へのサービスを向上させたことも否めない。
(略)
両氏がこれを当初に見越し且つ織り込んでの発想であったかどうかは知る由もないが、もしそうであったならば行政家として驚くべき達識の士であったというべく、またもしそうでなかったとするならば、医療というものの本態をほんとうに摑み得た人であったといえよう。

悪夢の原子炉

国策であります。エネルギー基本計画において、この核燃料サイクル事業をしっかりやれと言われておる中で勧告を頂きました。児玉理事長(児玉敏雄)か青砥理事(青砥紀身、もんじゅ所長)、原子力規制委員会に対して何か言いたいことはありますか。1回も口を割らないので。別に何か恨みつらみを言えとか、そういう意味ではなくて。
(馳浩文部科学相の発言、4月27日、「もんじゅ」の在り方に関する検討会 第7回

原子力規制委員会は昨2015年11月13日に高速増殖炉原型炉「もんじゅ」について、日本日本原子力研究開発機構(JAEA)に代わる運営主体を特定するか、できない場合は「もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を抜本的に見直す」よう文部科学省に勧告を行った。1995年12月のナトリウム漏れ事故、2010年8月の燃料交換用機器落下事故、さらには多数の機器で重要度分類に誤りがあることが2015年8月に発覚。事故のたびに規制委は文科省に安全を図るよう要請してきたものの改善が見られず、JAEAにはもんじゅを安全に運転する資質ナシ、とついに最後通牒を突きつけたわけである。
勧告への回答期限は「おおむね半年」。で、そのおおむね半年が過ぎた2016年5月20日第8回のもんじゅ検討委員会報告書案が提示されたが、勧告された新たな運営主体の特定は同案にはなかった。まさかのスルーである。三条委員会の勧告を無視とか、やっていいものなの?

冒頭は、4月27日の会合(第7回)での馳文科相の発言である。それに対するJAEAの回答がまた驚きである。

【馳文科相】
原子力規制委員会がこのような文書を出してこられた。それを踏まえて検討委員会の皆さんにお願いして、本日を含めて7回、こういう議論をさせていただきました。最終的に私も大臣という立場である以上は、政府一体の中でエネルギー基本計画を進めていく重要な位置づけのある核燃料サイクル事業、これはやはり前人未到の域を行く部分もあるわけですから、これに対して原子力規制委員会という三条委員会として設置された委員会からこういう勧告が出たということに対して何か言いたいことはありますか。

【児玉理事長】
「もんじゅ」に関しては、何か原子力規制委員会にお願いするとか言いたいことがあるという以前に、自分たちがやるべきことをきっちりやるということが今は大事だと思います。まず自分たちのガードを固めてといいますか、やるべきことをやってからお願いするという段階だと私は認識しております。

【馳文部科学大臣】
青砥理事は。

【青砥理事】
いろいろなところでお話ししていますように、やはりここでも指摘されています、どうにかしてコミュニケーションをきちんと図るべきだろうと思います。決して、勧告が誤解の下に出たというつもりはありませんが、けれどもそれ以前、その以降も、自分たち、研究開発を行っている人間からすると、規制一つとっても、多分いろいろなところで新たなもの、新しく考えなければいけないものがあるときに、どのようにしてそれを共有できるか、それは何かやり過ぎても駄目だろうし、幾つかのやり方を考えなければいけないと思いますが、かなり緊張関係をもって、どうにかして、何らかのコミュニケーションの基盤を作りたい、あるいは作っていただきたい、そのように思います。
(第7回)

ここにきて、規制委とのコミュニケーショ不足が問題だというJAEAの認識には驚くしかない。やるべきことをやってから、というセリフが吐ける時期もとうに過ぎている。そして、こんなJAEAの態度を目の当たりにしてもなお、運営主体の特定に取り掛からない検討会にも怒りを覚える。この税金泥棒め。
検討会には、検討しましたよ〜というパフォーマンス、再稼動が既成事実化するまでの時間つぶしの意味しかない。そして文科省に指導力はなく、現状を認識する力すらないのだろう。問題は安全リスクだけではないのである。建設費1兆円、しかし臨界開始以降の20年間で発電できたのは1kw毎時のみ、しかも年間維持費200億円以上。さらに、同検討会がまさに象徴するようなダニがたかり、血税をバンバン吸い上げているのである。悪夢の原子炉、というほかない。

治療費の一部負担制導入

昭和2年の記事。
健康保険財政は、制度開始早々に行き詰まり、

健康保健に依る1ヶ年の保険給付額は4千万円(事業主と被保険者各折半負担)と見積り、この約10分の1の400万円を国庫が負担することとしているが、近年財界の不況で保険料収入著しく減少しために給付支出と相償わない状態に立至ったので、社会局はこの不足額を何れに求むべきかにつき講究したる結果、財界不況の折柄保険料率の値上げは到底不可能なので国庫負担額を増額する一面、療養給付の一部を被保険者をして負担せしむるの外なかろうということに大体方針を決したが、これについては、労働保険調査会において反対意見多く目下行き悩みの状態にある
健康保険が収支相償わぬ、1927年9月20日付中外商業新報

治療費の一部負担制導入が検討された。が、実際に導入されたのは昭和18年。16年も要したのはなぜ。労働者がそんなに強かったのか。ちなみに現在の医師会は患者減を恐れて負担額UPには強く反対しているが、この頃は医師会も一部負担導入を要求していたのだが。

無資格医師

かつてドイツには歯科医師の補助者としての歯科技工士と、患者に直接補綴物を制作・装着する歯科技工士の、2種類があった。医療行為においても憲法で保障されるところの“営業の自由”が適用されたからである。無資格医師まで存在していた。

1860年代末以降のドイツでは、自由主義的風潮の中で、医療においても営業の自由が保障されたため、医業資格をもたない者が医療行為をすることは、法律違反とはならず、ホメオパティーの無資格医師にも十分な活動の余地が与えられたのである。この状態は、ナチス政権下で、治療師の資格が認定されるまで続いた。
(服部伸「ドイツ『素人医師』団」1997年)

独逸で医療が営業ではなくなったのは、1936年4月の医師法施行以降である。歯科医業の場合は、1939年5月5日の歯科医師会令(歯科医師法に相当する)改正以降に営業からはずされている。
なお、わが日本国憲法でも営業の自由は保障されているが、「空証文」という指摘が歯科技工士の片岡太一からなされている。片岡の支持者は「歯科医の指示書に依り、歯科医の採得した型により義歯を作ればよいのであるならば、そんな仕事に免許は無意味である」とも言っていたが、その通りだと思う。

定礼

「定礼(じょうれい、常礼とも)」とは村民が費用(多くは米)を出し合って医師を雇い、地域の医療を確保した医療互助制度である。筑前国では江戸時代に始まり、第二次世界大戦ぐらいまで続けられていた。井上隆三郎「健保の源流 筑前宗像の定礼」(1979年)には福岡県宗像郡の各地で行われていた定礼について書かれている。著者は福岡県宗像郡で「東郷外科」を開業する医師。

常礼のない近くの村では死者があい次ぎ、石炭で焼く火葬場が間に合わず、火葬場では死体をつめた棺桶が順番を待っていたという。しかし、手光や津丸では死人はほとんど出なかった。いうまでもなく、常礼と診療所のおかげであった。それから、ここには、どこの村にも置いてある富山の売薬がなかった。人々が無料のため気軽に診療所を訪れたからである。
しかし、医師から見たら、常礼は診療の請負である。治療が長びけば長びくほど、薬代、往診など医師自身の負担になる。早く治ってもらわないと困る。そのためには、病気が軽いうちに早く受診してもらわねば困る。即ち医師は、
――早期発見、早期治療
を心がけた。しかし、村人は無料だからといって医師を酷使したり、無差別的な往診は頼まなかった。両区の人は、深夜でも、子供ならよくおんぶして連れてきた。自分たちの先生を疲れさせることは、とりも直さず自分たちにとって不利なことを知り抜いていたからである。
それでも、どうしても往診を頼まねばならぬことがある。こんなとき村人は、自分たちのためにきてくれた医師の労をねぎらうために、瓜で特別上等の漬物を作り、これに砂糖とお茶を添えてもてなした。


傍線は引用者。当初の健康保険制度が保険医の請負制度であったのは、傍線部のようなねらいがあったからなのだが。すなわち、早期発見・早期治療による医療費軽減策であったが、なぜうまくいかなかったのだろう。
以上は神興村の手光(てびか、今の福津市手光)と津丸(今の福津市津丸)の例。両区は明治32年、共同で小さな診療所「神興共立医院」をつくり、住民190戸のうち約170戸が計250俵以上の米(1戸平均1.5俵)を出して医者を雇っている。常々診てもらっている礼を欠かしてはならぬ、という意味で「常礼(ジョウレイ)」と呼ばれたという。

定礼医を顕彰し、碑が建てられたケースもある。宗像郡畦町宿(今の福津市畦町)、昭和15〜16年ごろ戦争で廃止されるまで定礼医を務めた高村直嗣医師のである。

「畦町では『病院に行く』とか、『医者に診せる』という言葉はなかったのですよ』
そして(註:古老は)言った。
「ここでは『高松に行く』という言葉しかなかったのです」


高村家は2代にわたる当地の定礼医で、直嗣の父親・登四郎は明治10年ごろに当地に夫婦で流れ着いたよそ者だった。もちろん無免許である。登四郎が後に移り住み定礼医も引受けた本木村では、この無免許であることと老齢を理由に定礼医を解雇されている。明治45年のことであるが、この時すでに、イナカであっても無免許医を許容しない世相となっていた。登四郎の子・直嗣は明治17年生まれ、明治40年長崎医専卒業。直嗣の学費は畦町の人々が工面している。直嗣は昭和12〜22年まで、福間駅前で開業していた弟が死んだためにその後を引き継ぐが、その後は畦町に安住し診療を続けた。昭和33年脳卒中で没、享年74歳。

定礼は家庭医制度としては理想的な面もある。しかし患者的には医師選択の余地はないし、難症だと都会に出なければならず、別途の出費が必要になった。医師的には食いはぐれはないものの、もうかりもしなかった。定礼医の年収は、大体三斗四升俵の100〜200俵強。現在の米価で200〜400万円程度、ここから薬品などの必要経費を引くのだから残りは高が知れている。しかも米相場は絶えず変動するうえ、薬品その他の物価の値上がりに追いつきはしなかった。諸物価の上昇や医療技術(機器、薬剤)の向上などは、村民から考慮されたのだろうか。
トラブルもあった。定礼医が数人いたところではダンピングがあったり、世話人が定礼医を嫌って定礼米を出さなかったり。医師1人を大切に扱う、全村民が家族のような小さな村――でないと、うまくいかないのかもしれない。
なお、歯科疾患をどうしたかについては触れられていない。まあ、まずはジョウレイ医が医科歯科の区別なく診たのだろう。そして多くの村民はギリギリまで歯痛をガマンし、結局はその多くが入歯師の戸を叩いて、抜歯→義歯セットというコースになったのではないかと思う。明治末ぐらいから地方の人々も無免許医より専門医、開業医よりも病院を好むようになっていくのだが、入歯師は戦後も長く生き残っている。それは入歯師の専門性が認められたためなのか、義歯は医療ではないと思われていたのか、歯科医師の義歯があまりに高価だったのか。まあ、その全部だったような気がするけれども。

自然療法士、Heilpraktiker

ドイツにはハイルプラクティカー(Heilpraktiker)という、ユニークな医療系国家資格がある。ハイルプラクティカーが業として行えるのは水治療法、食餌療法、日光浴・大気療法、薬草療法、鍼灸にヨガ、気孔にアロマテラピーなどなど、古今東西の自然療法すべて。開業OK、保険医療にも従事でき、採血や尿検査、心電図検査など医療機器を使っての診察・診断も可能だそうだ。医師に次ぐスーパー免許といっていい。

19世紀前半から20世紀初頭にかけて、自然療法の発展に重要な役割を果たした著明な人々は、国家によって認知された医療資格はもっていなかった。それでも、彼らはそれぞれ独自の治療施設をもち、遠方からも患者を集めて、事実上、治療行為によって生計を立てており、職業的な治療師となっていたのである。
帝政期の自然療法を支えていたのは、こうした、専門の医学教育を受けていない職業的治療師であった。
(望田幸男編「近代ドイツ=資格社会の展開」2003年)

ハイルプラクティカーの前身である自然療法士は、日本でいえば医師法制定以前の漢方医と同じような成り立ちであった。一方、正規の医師であって自然療法を行うものもいた。彼らは、西洋医学が万能でないことに気づいた医師であった。
自然療法士が国家資格となったのは、医療にも国家統制を強制したナチス政権時代。

帝政期の自然療法士協会は、自分たちの地位を守るために、国家による認知を勝ち取るのではなく、「治療の自由」の枠内で、あくまで私的な資格にとどまることを選んだ。正統医学の医師たちが「治療の自由」を撤廃して、自然療法士を含めた治療師を取り締まることを求めたときも、「治療の自由」を維持しようとしたのである。
ところが、ナチス期の管理強化によって、他の治療法とともに自然療法士もハイルプラクティカーとして統合されることになった。ハイルプラクティカー法によって、この職業には法的な根拠が与えられたが、この職業資格を得るために受ける試験は、医師によって実施されることになった。こうして、彼らは、自分たちの職業資格を得るのに必要な資格試験を、自ら実施する権利を喪失し、現在に至っている。


ハイルプラクティカー法の成立とその影響は、日本の歯科技工法のそれと似たところがある。

自然療法士からハイルプラクティカーへの道は、自然療法という、国家からは非正統と烙印を捺された治療法の担い手が、自分たちのサブカルチャーを維持しつつ、国家の中にしかるべき位置を見出してゆく過程であったといえる。自然療法士資格試験では、国家の認可を受けなかった代わりに、彼らの信ずる治療法の内容を反映させることができた。一方、国家公認のハイルプラクティカー資格試験では治療内容は問われず、非正統医療を公式には認めない国家による、治療内容への干渉は巧みに避けられているのである。


日本歯科技工師会(花桐会)が自ら資格試験を実施していたのは、エラかった。

昭和21〜28年の医師国家試験

坂井健雄編「日本医学教育史」(2012年)より。
戦前には有名無実化していた医師国家試験が戦後GHQにより復活するのだが、
医師国家試験受験者の推移


合格率が低い。混乱期で勉強どころじゃなかったのか。
なお、戦時の医師量産により、昭和24〜27年の国試は多くの医専卒が受験している。7208人が受験した昭和25年春は、昭和19年の医専入学者が5年間の医学教育後に昭和24年4月に卒業、1年間のインターンを経て、国試に挑んだ年である。昭和35年発足の国民皆保険には、この量生した医師の雇用確保という意味もあったのかも。
ちなみに、第1回の受験者は歯科医師で、慈恵医および慶應大の特設部卒業生である。受験者は258人、中年以降の人も多かったために合格率は低かった――とはよくいわれることだが、それでも51.5%である。昭和28年秋の試験など同率43.0%なのだから、たった1年の勉強で半数以上が合格したのは上出来だと思う。

さて、時代は飛んで今2016年第109回歯科医師国家試験における某私立歯科大学の合格率は新卒で78%だったが、「現実的」には40%だという話を聞いた。2015年5月時点での6年生在籍数は140人で、試験合格数は57人だからである。現実をより正しく認識するには、分母に受験者数ではなく在籍者数、特に当該受験学生の入学時点の在籍者数をもってくるべきではないかと思うのだが。

参考:医師国家試験の推移
昭和21年:第1回、年2回実施、筆記3日間、論述式
昭和28年:筆記1日、口頭試問導入
昭和47年:論述式から客観式へ
昭和50年:筆記1.5日、口頭試問廃止、出題数190題→260題
昭和60年:秋試験廃止、試験日数2日間に、出題数260→320題
平成13年:試験日数3日間に、出題数329→500題

▼歯科医師国家試験の推移
歯科医師国家試験の現況0005

医師会はずし

昭和2年の記事。健康保険制度発足後の危機的状況を伝えている。政府は医師会を通さずに直接健康保険医を雇用する、医師会はずしを画策していた。

健康保険は被保険者の医療給附が予想外の多数に上り、現状のまま推移すれば非常な危機に遭遇するので、内務省社会局健康保険部では連日会議を開き、左のごとく方針を決定し近く内務省議に附し、健康保険の根本的改革を断行することに決定し、万一実行不可能に陥った場合にはやむなく健康保険の趣旨を没却しても同保険の範囲を縮小することに内定している。しかし目下のところ医師の報酬激減の結果、場合によっては日本医師会が政府に対し被保険者1人1ヶ年7円42銭の診療代では同会が契約不能に陥るかもはかり難い実状にあるので、当局でもあらかじめ緊急対策凝議の結果、万一の場合には本年度内においても労資の負担する健康保険料を100分の3まで増徴し、健康保険特別会計法によって一時借入金の方法により国庫負担も増し、医師への報酬をも増して、一時的糊塗策によって弥縫することに決定している。

1、現行被保険者1人につき国庫の補給2円を6円または4円に増額すること
2、資本家ならびに労働者から徴集する健康保険料金日給の100分の2を法定最高限度の100分の3で増徴すること
3、被保検者の診断は現在日本医師会に1人1ヶ年7円42銭で請負わしているが、医療組織を改正し新たに医療の公定価格を決定し、診療実数に応じ政府が直接健康保険医に支払うこと

健康保険の将来を危み当局の緊急対策成る、1927年6月11日付大阪毎日新聞

昭和2年、健康保険法適用者は総人口の3%にすぎない(被保険者210万人/総人口6165万9000人)。それでもこの騒ぎである。
健康保険法が適用されない貧困階級は、鈴木梅四郎が創設した「実費診療所」など※を利用していた。鈴木によると、昭和2年11月1日-昭和3年10月末までに実費診療所を受診した患者数は236万184人(青柳精一「診療報酬の歴史」p541)。医師会は実費診療所の治療を“安かろう悪かろう”だと批判しているが、しかし、実費診療所が多くの患者から支持されていたのも事実である。そして、この実費診療所の実績に政府は注目し、“保険の患者も実費診療所程度の治療で可”と考えた。そのために政府は保険医を直接雇用して意のままに動かそうとし、日医はそれに反対したのである。

※昭和初期の貧困階級を受け入れる医療機関は、社団法人実費診療所5、地方自治体経営の実費診療所約40、公私立の施療病院で実費診療を兼営するもの約110、逓信省簡易保険局の健康相談所約60、恩賜財団済生会の病院7・診療所44(青柳精一「診療報酬の歴史」)。

豊島屋三代目「鳩のつぶやき」

豊島屋の鳩サブレーを久し振りに食べた。ミスターイトウのバターサブレのほうが好みではあるが、もらうのはいつも豊島屋のほう。缶入りで贈りやすいからだろうか。
それはともかく、豊島屋の創業は明治で、現在は3代目。缶の中に鳩サブレー誕生の由来を書いた小冊子が入っていたが、これが味わい深かった。

原料の砂糖など入手出来なくなり、初代は信念である「良い菓子」がつくれなくなったと、休業を宣して了ったのは昭和16年でございました。工場も、或る時は陸軍の食料製造所として徴用されるなど、私共特に初代にとっては絶望の暗黒時代でございました。
(豊島屋三代目「鳩のつぶやき」)

徴用、徴兵、強制連行。国家総動員法で一億総奴隷時代の「暗黒時代」。
なお、わたくし好物のおかきやさん、播磨屋の「憂国・警世メッセージ」「地球革命」さらに「挨拶」がすごいのだが、ここも創業1860年代の伝統企業である。おかきメーカーになったのは戦後だそうだが、「暗黒時代」を経験した真の保守企業だと思っている。

暗く長いトンネルを抜けて終戦の日が参りました。「平和」と云う実感を得るには尚日時がかかったと思います。何しろ飢えとの戦いの毎日でした。その私達を救ってくれたものの一つは進駐軍(古く、なつかしい言葉ですが)の放出食糧の配給でした。携帯食糧の箱に入っていた肉の缶詰、クラッカー、チョコレート、煙草などなど、そのどの一つも如何に美味しかったか。口にとろけるチョコレートに、本物の煙草に、改めて「平和」の有難さを知りました。その頃初代は千花紙に刷られた「日米会話集」を買いこんで帰って参りました。私達は驚きました。同時に改めて文明開化をささえた明治人の気骨、進取の気性に畏敬の念すら感じました。これあればこそ初代は「鳩サブレー」を創り上げたのだと。きっと初代は進駐軍と菓子について語り合いたかったに違いない、「日米会話集」を小脇に――。


平成の日本人に足りないのは、この「進取の気性」だろう。内向きなのを保守と勘違いしている人間が、多すぎる。

社団法人実費診療所に対する意見書

社団法人実費診療所の利用者数は医師会の妨害で一時期低落したが、大正6年度になってふたたび急増(大正6年度87万人→7年度99万人→8年度101万人)。これに危機感をいだいた大日本医師会は大正7年6月、「社団法人実費診療所に対する意見書」を発表している。意見書には大日本医師会の見解として、

^綮佞旅餡氾地位
医師の職分と医業の報酬
0絛畔鷭靴竜豐
な鷭卦定の必要
グ絛畔鷭靴慮従
Π族措N甜腟舛僚亳
Тむべき安価治療主義

の7項目がまとめられた。このなかで目を引くのは、医師だって庶民を結構診ており、医師としての生計があるのだ、という主張である。医師会は東京市内の「一般病院および診療所における取扱患者あわせて総計1499万7207人」/年を同市内医師総数2025人で割り、年間取扱患者数を/医師を4572人、1日平均12.5人と推計。同市の所得税納入者は「1割4厘」であることから、これを12.5人に割り当てて1.3人、残る11.2人を所得税を納入しない患者=「いわゆる中産階級」とした。

今、中産階級全部に対していわゆる低廉報酬制をしかないのか。その得るところは薬品材料の原価に過ぎず、上流患者1人3分の収得は、どうして生活を維持するに足りえよう。たとえこの1人3分の患者に対し1剤1日分金20銭の内服薬2剤を投ずるにしても、得るところわずかに金52銭であり、仮に1割の新患者があって初診料金1円を徴するものとしなければ、その料1日平均13銭であるのをもって合計金65銭の収入となるだろう。1日平均65銭の収入でいかにして医師一家の生計を維持することができるのか。まして施療に多少の出費を余儀なくさせられるにおいては。そうであれば、すなわち他に有力な財源を求めるのでなければ、医師は医師としての生計を支持できないだろう。
社団法人実費診療所の歴史及事業 第1巻

なお、このころまだ再診料は概念すらない。
以下は、実費診療所の創設者・鈴木梅四郎の反論である。

かれらは東京市年表に表れた1ヶ年間の患者数、すなわち医師の手にかかった患者数のみをもって立論の根拠とし、それ以外に庶民の疾病に悩むものがいかに夥しいか、換言すれば医師の手を煩わせない、もしくは煩わせることができない患者の数がいかに夥しいかに思い至らないのである。これしかしながら、「国民の生命を保護し、公衆の健康を増進す」ることを天職として、国家に特別の優待を要求するほどの医師諸君としてはあまりに公共心に乏しい浅薄皮相の観察というべきではないか。


さて、国が認めたのは医師会の言い分であった。医師会は国に実費診療所を潰してもらい、その代わりに貧民の救療を担うことになる。国は全国の開業医をそのまま、実費診療所に転換することに成功した。医師会を勝たせると見せて、実は鈴木梅四郎の説を採り、ついには世界に冠たる長寿国を実現するのである。なんだかんだいって、日本の官僚の優秀さは世界トップクラスといわざるを得ない。

裏書人に利用する

鐘淵紡績総裁“紡績王”武藤山治(1867-1934)の回想より、健康保険法案要綱の審議に関するエピソード。武藤は共済組合を設置して鐘紡社員の福利厚生を向上させたことで知られる。
私は鐘紡共済組合を潰すのは残念と存じまして、健康保険法の命ずるところはこれに従い、共済組合はその基金だけを残してある程度の救済を行うことにしてその名と形を継続しました。これについて一事申し上げておきたいのは当時健康保険法の審議委員会なるものが設けられ、私もその委員の一人として農商務省に開会せられた委員会に出席し、その際私は委員会に一つの修正意見を提出しました。それは今日まですでに立派に成立しきたった民間の共済組合のごときはしいてこれを潰す必要はないではないか、現に鐘紡共済組合のごときは、あきらかに政府がこの法律に従って実行を命ぜんとするものより、より以上の救済を行っている。他にも同様のものもあるであろう。ゆえに本法の中に一条を追加し、現に民間会社において成立している救済機関にして、本法の命ずる以上のことをなしているものと、監督官庁の認むるものは本法より除外することを得とし、何もかも一律の下に行わしめんがため、長年折角発達しきたった民間会社の共済組合を廃せしむるがごときことなく、そのまま存立せしむるが可ならずやとの意見を述べたるところ、その席には故江木君などのような官僚政治家が多かったが、少数の御用委員のほかは私の提議に賛成し直に採決すれば、私の提出せる修正案が通過することが明らかであった。しかるに、議長はモヂモヂとして中々採決しようとしないで時を移し漸く決を採った。ところが1、2名私の修正案賛成者が少ないと宣告した。そこで私は意外に思って段々出席委員を改めて見ると議長が採決を延ばしていた間に、政府側はかかる場合に御用を勤めさせるため何々局長とかいう連中を任命して置きイザという時に臨期召集す伏兵を持っていて、それを急に呼集める。私の提案が明らかに1、2名多数であったものが、反対に1、2名負けになったのは、この手にかかったのであることを発見した。かような次第で政府が時々色々の委員会とか調査会などこしらえるのは、多くは初めから出席者の意見を聞いて改めようというのではなく、いきなり政府案として提出する前に、各方面の意見をも徴したという、言わば裏書人に利用するために過ぎないものであることを発見し、爾来いかに政府から求められてもこの種の審議会とか調査会とかいう会の委員は一切請けぬことにしました。
武藤山治「私の身の上話」

傍線は引用者。今の政府による「審議会とか調査会」、パブコメの使用方法も同じである。もはやお家芸である。

超ギリギリ

健康保険法:大正11年4月22日公布
同法施行:大正15年7月1日から(ただし保険給付および費用負担に関する規定は16年1月1日施行)
同法施行令:大正15年6月30日公布
同法施行細則:大正15年7月1日公布

医師会と契約をするについては、医師会の要望をいれて、しかも法も制定され、施行令と施行規則が決定したあとから、法の実施を目前にひかえた大正15年11月に契約しているのは、どうしたことであろうか。
(佐口卓「日本社会保険史」p128)

政府が、健康保険の療養給付について日本医師会と契約したのは大正15年11月4日。で、実施まで2ヶ月足らずの間に、会員に健康保険のアレコレや診療担当者としての心得について周知しなくてはならないのである。今のようにメールもFAXもない時代に。
日本歯科医師会との契約については、医師会よりさらに遅い大正15年12月16日であった。

もしいささかの想像をするならば、政府が医師会側との紛争をおそれたのではあるまいかとおもわれる。一方に開業医制度に無干渉の態度をとりながら、他方において社会的に医療を提供する社会保険=健康保険を制定したという矛盾を、あえて遂行したというのが、当局の妥協的態度であったろう。


政府が「無干渉」だったわけではなく、

医師を国営または公営とすべきであるが、医療制度を根本的に改革することは至難であるから次善の策として現在の開業医制度の欠陥を補正しなければならぬというにあり、その具体策としては

医師の開業には人口または地域的の制限を設くること▲一定の人口および地域内に医師なき町村が医師を嘱託する場合には国庫から一定の補助金を交附すること▲医療の資金なき者のために現在の公設実費(または無料)診療所の如きものを増設すること

などが案出されているが、医師の地域的制限は実行すこぶる困難の模様で、結局改善の骨子は町村の医師嘱託と公設実費診療所の増設にあって町村の医師嘱託は全国的に、実費診療所は差し当たり六大都市に限定する意向
大正15年11月29日付大阪毎日新聞

開業制限の検討がなされたようである。これでモメて、ギリギリの契約となったのだろうか。それにしても今では考えられないギリギリさである。歯科医師会は、医師会に追随していたので遅くなったのかもしれないが。

闘うものとしてのみの存在

労働組合、共済組合はギルド(職業別の組合)が発展したものといわれる。でもってこの労働者が持っていた自助的な生活保障の組織が後の社会保険のベースになる、という説明がよくなされるのだが、日本の社会保障はそういう発展の仕方をしなかったのはなぜか。

参考:友愛組合
工場制工業が確立され、いわゆる賃労働者が出現するにおよんでも、労働組合組織は相互扶助制度を整備した形態においてもつことはなく、むしろ明治政府の弾圧策とともに、雇主側が労働運動の緩和策として、企業内での日本的美風たる主従関係を強める役割をになわせた共済組合をつくりあげていったわけである。それは一つに労働者自らが共済組合を組織しても低賃金は運営を破綻せしめたであろうし、二つには低賃金なるがゆえに雇主側の大幅な負担がなければならず、自主的なものとはなりえなかったであろう。その範を外国の制度に学ぼうと、友子同盟からの共済会への転化であろうと、おなじだったわけである。この点はここにのべるまでもなく鐘紡や国鉄において如実にみうるとおりである。労働組合は明治期の弾圧策に抗する、闘うものとしてのみの存在となり、大逆事件いごはその息の根を停止されるほどの運命であったことをおもえば、わが国の社会保険は、共済組合においても労働組合においても、その制度化の基礎をもとめることは不可能であったにちがいない。
(佐口卓「日本社会保険史」p102)

つまり、低賃金が労働者の自律を奪い、政府の弾圧が相互扶助の深化を阻んだと。
それだけなんだろうか。カネがなくても自律する組織体はあるし(健保の源流といわれる定礼とか)、カネがあっても自律しない組織もゴマンとあるんだが。

医師会規定の歯科診療報酬点数

戦前は、医師会に所属する歯科医師もいた。なので、健康保険法制定時に定められた「日本医師会健康保険診療点数」には歯科治療に関する項目がある。

抜歯術 2点
(日本医師会健康保険診療点数、昭和2年、青柳精一「診療報酬の歴史」p548)


これのみであるが。

点数表に示された2点の技術には、処方箋料、マッサージ、熱気浴、ワッセルマン氏反応、尿中化学物質定量検査、皮下注射、筋肉内注射、治療用ワクチン注射などがあった。抜歯の評価が低すぎる感なきにしもあらず。平成28年度診療報酬点数では処方箋30〜68点、皮内および筋注20点であり、抜歯は乳歯130点・前歯150点・臼歯260点・埋伏歯1050点である。抜歯以外の技術は、まあ、自費だったのであろう。ちなみに、初診料は3点。
昭和14年の医師会点数では、抜歯術は3〜5点。衂血(はなぢ)止血術と一緒だった。平成28年度診療報酬では、鼻咽腔止血法(ベロック止血法)は440点。昭和15年分だと衂血止血術は3〜15点にアップしているが、抜歯術は変化なし。
日本歯科医師会健康保険診療点数における抜歯術は、昭和14年で臼歯8点、前歯6点だった。点数単価が医科の半分程度なので、実際の報酬は医師会所属の歯科医師と大差はなかったのかもしれないが。初診料は3点である。

被保険者証を自由に使わせなかった健保組合

政府の被保険者受診予定数は、月平均18万8500人。
昭和2年1〜12月までの実際の受診者数は、月平均28万100余人。予想より10万人近くオーバーしていたが。

岡山県医師会からの報告で、同県内の会社の健保組合は、組合員の被保険者証を組合本部が預かり、組合員が病気にかかって診察を受けるため被保険者証をもらいにゆくと、本部の係員が病状によりできるだけ組合の診療所にゆくようにといって被保険者証を渡した。このため、岡山県下には倉紡の従業員が約7000人もいるのに、医師会の保険医に診療を受けた患者は、わずかに20人から30人にすぎなかったという。
こうした事例は単に岡山県だけではなかったようで、内務省社会局の一事務官の報告のなかにも「被保険者証は之を当人に交付すべしと規定してあるに拘らず(施行規則第23条)之を交付していぬ組合が中々多い。寄宿舎は之を当人に付てのみならず通勤者に付ても工場、組合事務所、世話係等に預かっているのがある。之は甚しき違法である。
(略)
次に被保険者証は交付しているが、別に診療証と云う様なものを組合又は事業主が発行し之なくば医療を受けられぬ様にしている組合も相当ある様である。
(青柳精一「診療報酬の歴史」p529)

被保険者証を自由に使わせなかった健保組合が多々あった。にもかかわらずの予想オーバー、政府予想は甘かった。で、健保開始から3ヶ月にして6万円の赤字を出すのだが、赤字ならば医療費抑制が必要ということで、保険医は診療行為を制限される(例:「右腕を切断したって足が残っているだろうから入院は許されない」(三原七郎「医療の内幕」1965年)。保険医に裁量権なしの伝統は健保制度スタート時点で生まれ、いまも続いている。

俺達の病院

無産者中央病院設立を訴えるアジビラ。昭和8年ごろ、日本無産者医療同盟のもの。

俺達の病院
無産者中央病院をたてよう

その日もロクに食べないのに病気になった時、そこらの病院は高い金をとる。やっと金を工面して行くと服装をヂロヂロみて金は持っていますかと聞く所さえある。
治療を受けて金を払う段になって健康保険証を出そうものなら、コレを持っているものは薬が違うのだから、先に出すものだと文句までいう。俺達が給料の2%を掛金に出しているのに!
こんな事は皆病院が俺達が力をあわせて作った俺達の病院ぢゃないからだ。
こんな事のないようにするには安い、親切な俺達の病院を作ればいいのだ。

俺達の力で、俺達の無産者中央病院を作ろう

坪50円で建坪100坪で建築費5000円、器械、薬品、設備費用3000円を合わせて合計8000円で建つんだ。入院設備もあり、各専門医が各科専門に診てくれる病院が出来上がるのだ。
皆で力を合わせて8000円基金を集めよう!
バット代、湯銭を設立費用に投げ込もう
(川上武「現代日本医療史」p389)

これ1枚読んでも健康保険制度がどれほど待たれていたかがわかるのだが、制度ができて病院や医療者の質が上がっても、庶民はイイ病院や医者探しに悩むのであった。この世の人民ことごとく因業なり。
さて、無産者診療所は、患者と同じ目線で医療の社会化を推進しようとする医療者の参加によって成り立っていた。歯科医師の泉盈之進もそのひとり。無産者診療所の全数はわかっていないが、「20以上に達することは確実である。それらは全部が同時的並列的に存在していたのではなく、絶えざる弾圧、検挙、診療不能、閉鎖の繰り返えしのなかで、人民の不屈の努力によって設立されたものの数である」(川上)。
なお、日本無産者医療同盟は民主医療機関連合会(民医連)の前身。

原産セミナー2016

日本原子力産業協会は2006年から毎年、原子力産業セミナーを開催している。同セミナーは、原子力関連企業への就職を希望する学生向けの合同就職説明会。
主催者の速報によれば今年、2017年3月卒業見込みの学生を対象に行われたセミナー来場者数は東京188人(13日)、大阪149人(20日)で計337人だった。
なお、セミナーのちょい前(3月9日)には、関西電力高浜原発3・4号機の運転差し止め仮処分が大津地裁で決定されている状況である。

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▲福島原発事故以来、減り続ける来場者。

事故から5年、院生なら在学中に事故勃発という学生、しかも専攻がモロにバッティングした学生もいたのでは。気の毒な……。

nis2016_report0002
▲来場学生の学科別人数の推移。

軒並み減ってはいるが、事故後ガクンと減ったのは機械系、文系、その他(って何?)、数学・物理系、化学系に土建系か。原子力・エネルギー系は、むしろ持ちこたえている。ツブシがきかないのかもしれないが。

でもって、3月17日には原子力科学技術委員会・原子力人材育成作業部会第5回が開催された。所管は文部科学省研究開発局原子力課。

五十嵐道子・フリージャーナリスト】 
先日の大津地裁の決定を見ても、原子力に関する一般への社会的受容が進んでいないと思います。この作業部会でもずっとそこの部分が不明確なまま議論をしているとともに、どのような人材がどれくらい必要かというところがはっきりしていない状況に、私としては議論に参加しづらい部分を感じています。


来馬克美・福井工業大学工学部教授
「原子力はちょっとクエスチョンだね」というネット社会等を通した世間や社会の考えから学生は影響を受けていると思います。(略)学生にとっては、原子力に関するネガティブな情報がたくさんありますが、やはりプラントが必要だ、海外との連携が必要だ、もっと人材が必要だということをアピールする方法を考えていく必要もあるのではないかと思います。


「原子力に関する一般への社会的受容が進んでいない」とか「ネット社会等を通した世間や社会の考え」とか。就職希望者の減少は風評被害、とでも言いたいようだ。
ちなみに、この原子力科学技術委員会は原子力ありきの委員会なので、廃炉だの再生エネルギーへの転換などといったことは一切触れられない。その子部会である核不拡散・核セキュリティ作業部会が2011年6月2日、福島原発事故後初めて開催されているのだが、

中込良廣・原子力安全基盤機構理事長代理※】
原子力委員会で長い間かけて、原子力というのは必要だということって、国策レベルとよく言われますけれども、そういうふうにやってきたのが、ここへ来て事故が起こったときに、よくないよねというので、急にそれはだめみたいな話をされると今までの議論は何だったのかということになるので、そういうのは今回議論しないということでよろしいんですか。というのは、原子力はあって、ただし保障措置と核セキュリティとか余分なのが、余分というか特別に考えなくちゃいけないのがあるので、これをどう評価するか、どう研究を進めていくかということだけに絞るということでよろしいんですか。そもそも論が入ってしまうと、ちょっと何か、今までの政策は何だったのかとなってしまいますので。


「今までの政策」をチャラにしたくないがために、「そもそも論」を拒絶。見事なまでの日本行政の典型的態度だ。

やはり原子力は必要だと思っているんです。それをだめにするような評価というのは、しにくいだろうなと。してはならないという方針があれば、わかりやすいと思います。やっぱり原子力は必要だと。その中でどういう研究の必要性があるかと。緊急にやらなくちゃならない研究は何かとか。メリット・デメリットもあろうかと思うんですけれど、そういったことをちゃんと議論を……。基本的には必要だというのがないと、そういうのを含めて全部を考えると、やっぱり必要でないよなとなったら、本末転倒のような気がするんです。ですから皆さん、評価される方は、いろんな立場で評価されるのはごもっともなんですけれど、やはり結論から言うと原子力はないほうがいいな、なんてなってしまったら、意味がないのかなという気がしていまして。


こうやって無条件降伏までいったんだろう。ああ。

原子力安全基盤機構
原発の安全検査を担っていた――はずの独立行政法人。しかし原発の安全検査内容を、なんと対象の電力事業者に作成させていたことが2011年11月に発覚。2014年3月には原子力規制庁と合併し、現在の原子力規制委員会に。

保険医の罷業の続出

昭和2年の記事。
健康保険法による療養給付が開始されてから医科の3ヶ月間の1点単価は、
2月:12.32銭
3月:9.41銭
4月:8.94銭
と、予定していた単価20銭から下がるばかりであった。しかも、最高額の山梨(51.26銭)と最低額の長崎(8.54銭)の開きは6倍と、地方差も激しかった。受診率が高いほど1点単価が低くなる人頭式請負制を、現在のような定額制に改めたいという声があがるのは当然なのだが、

日本医師会は果然秘密裏に内務省社会局に対し、明年度から被保険者の治療の範囲から業務上の負傷、疾病を除き且つ入院および20円以上を要する手術、注射及び治療を除き右の費用は更に政府より実費を申受くという、事実上医師報酬の約5割方の増額案を提示したが、内務省社会局はこれを拒絶し、元来被保険者1人年額7円42銭という受負制度によるため患者の増加は必然診療費の低下を来たし、保険医の満足を欠き、被保険者も診療が粗雑になるといって不満を抱いているのであるから、従来の人頭手当て式による受負制度を廃止し、診療代を公定し実費を支払うという定額式に改めたいと内務省の方針を正式に指示したが、日本医師会はこの合理的な解決策に応諾し難いので健康保険の医療問題は相当紛糾を免れ難い情勢である。
健康保険の診療を定額制度に改めたい、1927年7月1日付大阪毎日新聞

日本医師会はなぜか定額制に反対するのである。一方の日本歯科医師会は定額式を採用(昭和2年10月1日から実施)。現実的な対応である。

全国では保険医のストライキが続出。

健康保険医は被保険者の罹病が予想外多いため、労多くしてかえって個々の診療単価は約半減する趨勢にあるので、実利主義から健康保険医を脱退するという最後的手段に出る険悪な空気が全国各地方にみなぎり、さきには青森県下全体の健康保険医が同盟罷業の挙に出る情勢になったので、健康保険医を統制する日本医師会の幹部は東奔西走これが鎮撫につとめた結果ようやく事なきを得たが、つづいて長崎県北松浦郡下の保険医が罷業をなし被保険者に多大の迷惑をこうむらしめたが、最近日本医師会幹部の斡旋である種の条件で辛うじて妥協が成立した模様で、さらに富山県西礪波郡下の保険医は罷業の挙に出るべく秘密裏に協議しているなど、健康保険医の罷業の続出は注目すべき現象である。


1点単価が全国最低だった長崎県は、比較的罹病率の高い炭坑夫が多かった。長崎の被保険者1万2000人のうち炭坑夫が占める割合は約6割(7100人)、北松浦郡は8割にも及んでいた。しかも北松浦郡のヤマは規模が小さいものが多く、自動車が使えない山間部にあったため往診もままならない。保険医総辞退も納得の悪条件であった。この手の地方差については今も未解決であるが。

羊頭狗肉の民衆偽瞞策

昭和2年5月に成立した「日本銀行特別融通及損失補償法」「台湾の金融機関に関する資金融通に関する法律」にからめ、国の社会保障軽視を非難している記事。金融恐慌の際、日本政府は銀行貸出に対する政府補償という名目で大規模な財政資金の投入を行っている。

我国にはいわゆる社会立法ないし労働立法がすこぶる不備である。失業保険法もいまだない。最低賃銀法ももちろんない。改正工場法は昨年7月から漸く施行せられたが、肝腎の労働時間の制限が不徹底で、国際労働会議の席上において年中行事のように攻撃されている始末である。今日の如き永続的不景気の際にはいわゆる産業の整理と共にますます多くの失業者が街上に投出され、労賃はますます下落する。政府は資本家救済のためには、5億7億の金を即座に投げ出すほど太っ腹であるにもかかわらず、失業苦、生活苦に悩む民衆のためには、何等の救済、何等の保護をも与えない。かく見きたれば、健康保険法は我国において、なけなしの社会立法で、これあるに依りてようやく体面を繕うているものである。さればこそ政府は本法を施行するに当って、その有難さを大に宣伝したわけである。

不徹底なる健康保険法、1927年6月30日付万朝報)

この記事で注目されるのが、「健康保険による療養の給付」が保険医の犠牲に負っていることを指摘している部分。

現在、健康保険による療養の給付は、大日本医師会が、被保険者1人1年間7円42銭で請負うている。被保険者が病気負傷すれば直接任意の健康保険医について治療を受けるのであるが、これに対して医師の受ける報酬は普通の報酬に比して著しく少い。これにくわえ、報酬の総額は一定しているのであるから、治療を受ける者が多ければ多い程それだけ、頭割りの治療代は少くなる勘定である。即ち医師にとって見れば、健康保険加入の患者が多く来れば来る程損をする訳である。大阪の某医師が声明したように、これでは満足な治療が出来そうな筈がないのである。治療を受ける者にとって見ても、健康保険の患者なるが故に特別に粗末に取扱われはしまいかと思うのはもっともである。この欠陥を補うためには、先ず、相当なる治療の単位価格を一定し、治療数に応じて医師に報酬を与うる事とすべく、もし、経費が不足なる場合には、現在被保険者1人1年につき2円の割合になっている国庫負担金を増額すべきである。7億の金を惜しげもなく投げ出そうとする政府に、それくらいの金がないとは言わせぬ。徹底して改正するに非ずんば、健康保険法もついに羊頭狗肉の民衆偽瞞策たるにとどまるであろう。


いつの世にも「羊頭狗肉の民衆偽瞞策」は耐えない。社会保障と税の一体改革、とか。
ところで、このころの日本は今と似ているような気がしてならない。このころとはつまり、大正バブル→慢性不況(低成長と低デフレ)→昭和金融(ゼロ成長と急激デフレ)→高橋財政(高成長でデフレ脱却)→戦争で高インフレ→敗戦(経済破綻と社会の破滅)、の流れであるが。TPPなんてほとんど大東亜共栄圏構想だし。アベノミクスの先が戦争→破滅、なんてことにならなきゃいいが。

技工は政府の直轄

昭和2年、健康保険制度における診療契約更新を伝える記事。
健康保険制度発足直後、判明した利用者数は医科では予想の約2倍、歯科ではなんと3倍に。まさに望まれた制度だったわけだが、問題は財源である。歯科では早々に給付範囲の縮小と請負額の減額がなされた。とくに歯科技工部分が会を介さず、政府から歯科医師に直接支払う形式になったことは注目される。この時代からすでに、歯科技工は政府案件だった。

日本医師会の分
被保険者の診療は当初の予想数に対し約2倍の増加を来しているが予算の関係上請負額の増加を図ることは困難のため、昨年通り1ヶ年1人7円42銭6厘となす、ただし
1、官公立病院、日本薬剤師会に対する支払額が、日本医師会に交付すべき被保険者請負総額の100分の5以上に達する場合はその超過分につき政府において支出すること
2、同上100分の5以下の場合は日本医師会に返金すること

日本歯科医師会
歯科医療は当初予想せる約3倍に増加し、昨年契約せる1ヶ年1人68銭の請負額をもってしては到底契約に応じ難い状況にあるので左の如く更改すること
1、1ヶ年1人の請負額は61銭に減じ、その代りに医療の範囲を縮少し歯の治療、充填抜歯に止め、最も経費を要する技工にわたる点は除外すること
1、技工は政府の直轄とし、一定の公示料金によって政府より各歯科医師に支払うこと
1、被保険者が技工を求むる場合は保険署長の認可を得て
 イ、業務上の疾病による技工
 ロ、咀嚼能力を著しく減殺される場合
 ハ、一般的被保険者
 の順位をもって診療することとし、かつ、右診療契約は4月より7月までの暫定契約とし、さらに考慮すること

日本薬剤士会
昨年通り薬品原価表、調剤手数料に基いて支払うこと

健康保険の医療契約の更改、1927年4月1日付中外商業新報

歯科医師は「歯の治療、充填抜歯」の評価を下げることで、技工による利益を確保した。入歯師の存在が、補綴外しをとどめたのだろう。また、治療技術もそれだけ軽視(技工>治療)されていた。
なお、社会民衆党健保法改正案では、健康保険署および保険組合直属の診療所を設置し、日本医師会との団体契約を廃止することなどが主張されている。

健保法施行:ひとつ今月は歯を直してやろう

大正15年11月9日の記事。
初の健康保険制度は労働者のみを対象とした疾病保険である。日本医師会が政府と保険診療に関する契約を結んだのは、大正15年11月4日(日本歯科医師会との契約日は12月16日。日医にしろ日歯にしろ、年明けから制度スタートというのにありえない遅さだ)。各地の健康保険署は11月1日から活動を開始している。

神戸に新設された健康保険署はいよいよ本月1日から仕事を始めた。これをまず神戸市のみについていえば市内約850の工場に従業する5万3273名(男377,891、女15,382)の職工と年収1200円以下の事務員は強制的に健康保険に加入せしめることになったが、その附帯事業として加入者(その家族には及ばぬ)の疾病は180日以内まで保険署の方で医療費を出してくれることになった。その方法は加入者が病気になった際は保険加入証を証拠にして開業医の治療を乞う、開業医に対してはかねて政府から日本医師会に交渉してあるからこころよく本人からは金をとらずに応じてくれる。保険署対医師会との交渉は治療費支弁の方法を点数によって決めてある、すなわち点眼は何点、切開手術は何点、水薬は何点、散薬は何点というふうに治療投薬をすべて点数に割り当て、1点の単位を何銭(多分10銭くらい)と決めてその合計を保険署の方から支払うという方法をとっている。しかしここに問題となるのは、加入者がしばらく保険金の掛けっぱなしになっているからひとつ今月は歯を直してやろうというふうに、例えば余り痛くもないのに歯痛を訴え歯科医から入歯、金篏入等をやってもらうという類の悪風を助長し保険署が破産?をするような結果になりはしないかという一事である。これはすでに英国にも例があって健康保険の「悩み」の一つとなっているそうである。
耳寄りな救いの手、1926年11月9日付大阪朝日新聞

当時からコンビニ受診が懸念されていた。しかもその例が「余り痛くもないのに歯痛を訴え」。医者にかかるまでもない病気の例として虫歯をあげている記事は珍しくないが、これを批判した歯科医師は当時いたのかどうか。

この方法が完全に行われ出すと神戸市約6万のプロレタリア階級にとっては確かに偉大な救いの手となる半面、各開業医にとっては影響するところが大きい。何となれば特殊な医師、特殊な病院は何の打撃もないが、俗に町医と称せられるプロ階級相手の一般開業医(特に500何名もおる神戸市の如きは)はさらぬだに不景気のおりから健康保険の実施によって一層患者が減り、もし健保による患者が来ても保険署から補償される代価は目糞ほどから一層やりにくくなるという説と、健保加入者でも患者が来てくれさえすればよい、現今は補償金の多寡を問うている場合でないという説と、楽悲2通りの説があり、一方超然派は健保何するものぞ、我等は医師としての尊い天分を守っておればよい、天分の前には補償金の心配も何もやるものかと唱えている。健保が隅々まで実施されたあかつき、はたして一般開業医にどう響くかは興味ある問題というべきだ。


保険診療は低額で、その患者が自由診療の患者と区別されることは政府と診療側の了解事項だった。低点数を大前提としてテキトーに手を抜いて稼げ、というのが政府側の隠された指示である。階級社会でもあり、医療者も患者をその経済状況で差別診療することに抵抗がなかったのだろう。そしてこの状況を、国民健康皆保険の時代になっても引きずっていたのが、歯科であった。

学位

歯学博士が生まれるのは昭和31年だが、

大正9年(1920年)学位令が改正されて学位を授与される範囲が拡大し、これは医学にたずさわる者の研究への熱情を燃え上らせたほか、資本投下として学位獲得のための研究を行おうとの動きもあって、大学医学部卒業後医局に数年間居残って研究をすすめ、学位を得ることがひろく行われるようになった。これは言うまでもなく従来の医学教育の延長であり、日本の医学の水準を向上させるのに大きな役割を演じたが、一方これは学生に重い経済的負担を課するものであった。それにもかかわらず、この風潮が一般的になったのは、当時の日本の経済情勢の好景気がその基盤になっていたのである。学生はその経済的負担に耐えることができたし、医者にかかる患者の数が増大して開業医の収入が豊かになっていった当時の事情は、その経済的負担を開業してから充分回収する見込を与えたし、又事実回収できたのである。負担がかかっても、学位を持っていた方が開業医制という自由競争の世界で、はるかによい条件で競争に参加できたし、収入も増したのである。
(「日本医学百年史」1961年、p151)

学位があれば収入が増した、という話は歯科医師にあるのか。歯科大御三家をみると、むしろ世間一般の偏差値信仰からも乖離している世界だが。しかも医師よりも開業者が多い「自由競争の世界」なのだが。

教育の国家統制

「型にはまった医者」とは、恐らく森林太郎のような融通の利かない官僚主義の医師を指している。

政府は公立医学校を禁じて官立医学校の発展を促進することを目的として、中学校令公布の翌年明治20年(1887年)府県立医学校の費用を地方税によってまかなうことを禁止した。明治5年(1872年)の学制公布以来各府県はあらそって医学校を設立したが、明治17年(1884年)頃から経済界の不況と共に学校経営が困難になっていった。そこで政府は、府県立では設備が不完全で医学教育の進歩をさまたげることが少くないという理由で、設備不十分の府県立医学校を廃止して、設備の完全な官立の医学校を拡充することにしたのである。このため、府県立医学校はわづかに京都府・大阪府・愛知県の3校を残すのみとなり、他は廃校にして生徒は官立高等中学校部に入学した。
この措置により、医学の専門学校教育でも官学が主導権を握り、国家主義的教育をうけた型にはまった医者をつくり出す結果になるのである。
(「日本医学百年史」1961年、p140)

確かに戦前の医学界はドイツ医学一色で学理第一、研究優先、患者無視の傾向があったが、しかし現在に至るまで私立優勢の歯科だって「型」はあろう(アメリカ医学一色で技工第一、自費優先、EBM無視)。官学か私学か、という以上に、右倣え・臭いモノにフタ・出る釘は打たれるという日本の国民性が業界やヒトの均一化を進めるのではなかろうか。

芝八事件

歯科医師会が歯科技工師に対しエゲツなかったと同様に、医師会も薬剤師に対して非常にエゲツなかった。例えば芝八事件など。

大正5年(1916)、東京・芝区に於て、あらかじめ擬装客を使って区内8軒の薬局へ行かせ、症状を告げ、示された売薬をことわって個別の薬品を指名し、それを混合させて買い求めさせ、同区医師会幹事がこれを薬律違反として告訴するという、いわゆる芝八事件がおきた。
(「日本薬学会百年史」1980)

「東京・芝区」は日医会長・北里柴三郎のおひざもとで、北里は芝区医師会の会長でもあった。

同事件は、区裁判所および地方裁判所無罪、大審院有罪、再度の大審院無罪という判決であった。最終判決では、本県が作為的に犯罪を誘発し、実在しない患者の虚構の疾病であったから罪を構成しないのであって、混合販売行為そのものは薬律14条に違反する、との内容であった。
この判決は薬剤師にとって大きなショックとなり、身分法つまり薬剤師法制定へ向けての運動開始、大正14年(1925)公布への契機になった。

「薬律」とは明治23年3月施行の「薬品営業並薬品取扱規則」のこと。
「薬律14条」は“薬剤師は患者の氏名、年齢、薬名、分量、用法、用量、処方の年月日および医師の氏名を自記し、または調印したる処方箋により調剤すべきものとす”。
「混合販売」とは、薬剤師が患者の訴えから複数以上の薬を調合して販売すること。まあ、歯科でいうと、歯科医師を介さずに歯科技工師が患者に義歯を製造・販売するようなものだろう。

なお、当時の処方箋料は高額※で、薬局における処方箋調剤は皆無に等しかったという。薬局や薬剤師は、経済的に混合販売に頼らざるを得なかったわけである。これを嫌った各地の医師会が大正4年から5年にかけて全国で混合販売を告発し、薬剤師側は下級裁判所では無罪とされたものの大審院ではいずれも有罪となり、混合販売は薬律違反であるとの司法解釈が定着することになった。

※福岡市医師会:大正4年、30銭以上。「宮崎県医史」:大正2年、1円以上。
「値段の明治大正昭和風俗史」によると大正3年ごろの30銭はうな重の並が食え、1円あれば日本酒の上1.8Lが買えた。初任給が巡査15円、小学校教員10〜13円、東京の大学の手間賃/日1円18銭である。

深く重い崇高な理想主義

伊東光晴といえばアベノミクスをけなしていた経済学者だが。
豊かな国になることと、軍需に支出しないということは大きく関係します。
この点は福祉国家スウェーデンもしかりでしょう。19世紀末、北欧の辺域の国で、冬食べるものにこと欠き、種いもまで食べざるを得ず、多くの人がアメリカに移民となって移った貧しい農業国家が、100年のちアメリカをこえる豊かな国になり、しかも、アメリカでは考えられない福祉国家になることができた大きな要因は、2度の世界大戦に加わらなかったことを抜きにして考えられません。豊かさと平和、福祉と平和とは密接な関係を持っています。
戦後日本が世界に誇れるものがあるとするならば、この平和憲法と徴兵のない国家であります。
にもかかわらず、私には、元東京大学総長南原繁氏の言葉を忘れることができません。『朝日ジャーナル』での連載「昭和史の瞬間」での座談会が終ったあとで、言われたことです。
「政治学者としては、軍隊を持たない近代国家というのは異常です。日本国憲法のこの異常さは、深く重い崇高な理想主義によって支えられているのです。今、日本人はこの憲法を支持しています。しかし、日本人はその理想主義の重みを支え続けることができるとは思いません。その時初心忘るべからずです」と。
(伊東光晴「日本経済の変容 倫理の喪失を超えて」2000年)

「初心」とは、

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
日本国憲法第9条

であるが、2016年3月29日から完全に空文化した(改正安全保障関連法の施行で)。南原繁はこの状況を見抜いていたわけである。そして伊東光晴が指摘するように、今後は軍需支出が増えるとともに、社会保障費が減らされていくのだろうし、すでにその片鱗はみえるのであった。例えば、社会保障費確保が名目の消費税UPだったのに診療報酬がマイナス改定だった、などである。

緊急 4/18夕方まで、熊本の助産院へ直接届けてくださる方

福岡の産前産後サポーター協力心ゆるりさんが、熊本の助産院へ直接届けられるそうで、
◎紙オムツ
◎おしりふき
◎ミルク
◎離乳食
◎水
◎赤ちゃん用ガーゼ
◎フェイスタオル
を集めていらっしゃいます。
以上を直接心ゆるりさんへ送って頂ける方よろしくお願い致します!
小郡市乙隈506-3
0942-65-6510
4/18夕方までで締め切り。

追記:早速届けてきた。よく水がありましたね、といわれる。周辺の店からは一掃されているもよう。
現地の状況についても話を聞いた。いわく、
・乳幼児を持つ親は周囲に気を使って避難所にもいられず、畑の中などで過ごしている。
・その結果、支援物資も受け取れず、同物資は避難所で腐っているありさま。
・被災者1組が現在心ゆるりで避難中。
などなど。
避難所ではお湯はあるのかミルクはつくれるのかと心配していたが、そんな私の心配を超える現地の乳幼児とその親の状況であった。昨夜など雨と強風(+余震)だったが、乳幼児を抱えた母親が畑の車中で過ごさなくてはならなかったのである。情報も物資も届かない、孤立している親子を救うすべはないのか? 乳幼児専用の災害用トレーラーハウスでも用意しておけばいいではないか、物資もガンガン積み込んで。これだけ災害が多い国でそれぐらいやっておけよと強く思う。国防とは軍事だけではないのだから。
なお、支援物資はイオンですべて入手できた。前日にはスーパーの棚から水が一掃されていたので数店舗廻ることを覚悟していたが、さすが全国展開企業である。水は個数制限があったが、それ以上に買っても文句を言われなかったのは支援物資とわかったのだと思う(領収書の品名が“支援物資”だし)。上に記した支援物資は今後も受け付けているので、可能な方はぜひ。生理用品もいるそうなのでお願いしますお願いします。



熊本地震とベルツの演説

福岡在住だが、地震警報で寝不足だ。熊本市在住の元同僚からはパニクった電話がかかってくる。離乳食と粉ミルクが欲しいというが月例も送り先もいわないし、「お湯が使えなかったかも」と電話は切れてその後連絡なし。ドラッグストアにいくと、離乳食はあるがペットボトルの飲料水はすでにない。現地では役所や病院などの防災拠点自体が倒壊し、ライフラインも交通網もめちゃくちゃになっている。
この状態にプラスして、原発事故が起こったら?
想像するだに寒気がする。少なくとも、地方自治体が策定を強要されている原発事故の際の避難計画など一切役に立つまい。どこぞの市が住民の緊急輸送にバスやタクシーを使うという計画を立てていたが、笑えないジョークだ。道路が使えると思っている時点でアウトだし、放射能汚染された地域に民間人がボランティアで来れると考えているお目出度さには声もない。
で、コレを思い出した。明治33年11月2日、ベルツの東京大学在職25周年記念式典の演説である。ベルツは明治時代にドイツから招聘された、いわゆるお雇い外国人の医師。

西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の機構、一定の大気が必要なのであります。
(略)
西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの精神を日本に植えつけ、これを日本国民のものたらしめようとしたのであります。しかし、かれらの使命はしばしば誤解されました。もともと彼等は科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしようとしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず新しい、しかもますます美しい実を結ぶものでもあるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果をかれらから引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。
(ベルツの日記第一部下、1952年p50-54)

日本の原発技術は「西洋各国」からの借り物だそうだが(小出裕章「原発のウソ」)、日本はその借り物の技術に福島原発事故後もしがみついた。かたや、ベルツの出身国ドイツは同事故後早々に脱原発を表明。この違いは何なのか、116年前のドイツ人が言い当てている。

東京大学医学部付属病院歯科の患者数/年

東京大学医学部付属病院歯科の患者数/年。
歯科患者数

(患者数統計、東京大学医学部百年史1967年)

大正4年から昭和2年まで、なんと2ケタである、年間で。月で0〜5人――臨床はまずやっていなかった、と言っていいレベルだ。歯科標榜を希望する医師の歯科研修もやっていたはずだが、臨床研修をやらずに標榜を許したのか?
この間の教授は石原久。石原は定年まで勤め上げている(大正4年1月25日-昭和2年1月7日)。この患者数でよく講座がお取り潰しにならなかったと思う。

アメリカの金輸出禁止

昭和8年の記事。

繁栄を誇ったアメリカが4日間の金輸出禁止だ、話だに非常時の日本に手痛く響くことである。6日東京市内の地金屋さんを訪ねて見ると「いやどうにもこうにも全く闇(相場が立たぬこと)ですよ、こんなことはこの商売はじまって以来です」と嘆じている。
為替相場が立たないから無論「金」の相場の立ちようがないというのだ。勿論日銀は9円29銭で6日も依然買上げを中止したわけではない。けれどもこれは産金会社を目標にしたもので素人筋は「アメリカ危うし」の声に先ず円為替相場の騰貴を思い、ついで金価格の下落に思い至っていささか狼狽気味で手持の金を売りに出した。
インフレを見越して金を思惑していたような人々だから無理はない、相場は立たぬながら8円から8円50銭くらいまでで取引した店もある。天賞堂なども200-300匁から金塊が持込まれて6月1日で1万2000-3000円の商売が出来た。神田の徳力地金店では多い時は300-400人の客が午前9時から午後6時まで混雑して30-40貫の金が売買されているのに、6日は相場が立たないから金の買取はやりませんと商売を休んで折角押寄せたお客を帰した。同店では最近市内の貴金属商は金の騰貴から商売あがったりで仕方なくお客さんの持込む金製品を買取っては私どものところへ運んでその間の値開きを思惑的に儲けていたのですが、こうなったら一寸困るでしょう、今日も金歯や金鎖など持って来て「金はもっともっと高くなるかと待っていたのに」 と残念がっていましたよと笑えぬ悲喜劇を紹介する。しかし玄人筋の見るところでは為替の変動から多少の金価格の下落はあっても、もしアメリカが兌換停止にまで行くなら結局世界中で頼りになるのは「金」だけになるだろう、とに角「金」にさえかじりついていれば間違いあるまいと落ついて駆引するそうだから、金塊、金鎖、金指環、さては金歯の所有者もまずあわてずにゆっくり「金」の非常時に善処することだ。
相場は『闇』に鈍る黄金の光、1933年3月7日付大阪朝日新聞
翌9年には銀が高騰してシルバーラッシュになる。11年の日本銀行による金買上げの大幅引上げまで、「金歯の所有者」は所有し続けただろうか。

ゴールドラッシュ

昭和8年の記事。歯の修復に金が使われていた時代だが、

金!金!金! あそこでもここでも大金山発見、ある人達が2億円近くの黄金を積んだまま沈んで居るだろう所の軍艦を対馬沖から引揚げようとすると、どっこいそれは自分等が海面使用権を有する領海内に沈んで居るのが本当だといって、同じ軍艦目当てに他の人達が引揚げ計画を発表する。かと思うと、イヤ蔚山沖にも大金を積んだまま沈んで居る軍艦があるといったように、最近海に陸に実に荒っぽいゴールドラッシュ、一方ではくず屋さんまでが、各家庭を訪れて「金杯のお払いはありませんか」、「金歯のお払いはありませんか」と、隅から隅まで漁って回るという熱心振り、今や我国は全くの黄金狂時代である。何しろ『金1匁は5円也』と常識づけられて来たのに昨年3月にはそれが7円25銭に飛び上り、8月末には8円46銭、最近では政府の買あげ値段さえ9円44銭にもなって、僅々1年足らずの間に金の値段が約倍になったんだから、金!金!金と血眼になって捜し求めるのも無理じゃない
いつまで続く?『金』の狂想曲、1933年1月24日付東京朝日新聞)

金は高騰→暴騰し、金歯を入れることには投機的な意味合いも加わっていた。実際、獄中の囚人が自身の金歯を換金して飢えをしのいだりしており(久保田栄吉「赤露二年の獄中生活」)、社会の混乱期には紙幣より役立つものではあっただろう。スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」で、シンドラーに救われたユダヤ人たちが自らの金歯を抜き、指輪をつくってシ氏に贈るエピソードも感動的だった。しかし、歯科材料が治療以外で重宝されてしまうという状況は、歯科医療にとっては不幸なのかもしれない。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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