売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

悪夢の原子炉

国策であります。エネルギー基本計画において、この核燃料サイクル事業をしっかりやれと言われておる中で勧告を頂きました。児玉理事長(児玉敏雄)か青砥理事(青砥紀身、もんじゅ所長)、原子力規制委員会に対して何か言いたいことはありますか。1回も口を割らないので。別に何か恨みつらみを言えとか、そういう意味ではなくて。
(馳浩文部科学相の発言、4月27日、「もんじゅ」の在り方に関する検討会 第7回

原子力規制委員会は昨2015年11月13日に高速増殖炉原型炉「もんじゅ」について、日本日本原子力研究開発機構(JAEA)に代わる運営主体を特定するか、できない場合は「もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を抜本的に見直す」よう文部科学省に勧告を行った。1995年12月のナトリウム漏れ事故、2010年8月の燃料交換用機器落下事故、さらには多数の機器で重要度分類に誤りがあることが2015年8月に発覚。事故のたびに規制委は文科省に安全を図るよう要請してきたものの改善が見られず、JAEAにはもんじゅを安全に運転する資質ナシ、とついに最後通牒を突きつけたわけである。
勧告への回答期限は「おおむね半年」。で、そのおおむね半年が過ぎた2016年5月20日第8回のもんじゅ検討委員会報告書案が提示されたが、勧告された新たな運営主体の特定は同案にはなかった。まさかのスルーである。三条委員会の勧告を無視とか、やっていいものなの?

冒頭は、4月27日の会合(第7回)での馳文科相の発言である。それに対するJAEAの回答がまた驚きである。

【馳文科相】
原子力規制委員会がこのような文書を出してこられた。それを踏まえて検討委員会の皆さんにお願いして、本日を含めて7回、こういう議論をさせていただきました。最終的に私も大臣という立場である以上は、政府一体の中でエネルギー基本計画を進めていく重要な位置づけのある核燃料サイクル事業、これはやはり前人未到の域を行く部分もあるわけですから、これに対して原子力規制委員会という三条委員会として設置された委員会からこういう勧告が出たということに対して何か言いたいことはありますか。

【児玉理事長】
「もんじゅ」に関しては、何か原子力規制委員会にお願いするとか言いたいことがあるという以前に、自分たちがやるべきことをきっちりやるということが今は大事だと思います。まず自分たちのガードを固めてといいますか、やるべきことをやってからお願いするという段階だと私は認識しております。

【馳文部科学大臣】
青砥理事は。

【青砥理事】
いろいろなところでお話ししていますように、やはりここでも指摘されています、どうにかしてコミュニケーションをきちんと図るべきだろうと思います。決して、勧告が誤解の下に出たというつもりはありませんが、けれどもそれ以前、その以降も、自分たち、研究開発を行っている人間からすると、規制一つとっても、多分いろいろなところで新たなもの、新しく考えなければいけないものがあるときに、どのようにしてそれを共有できるか、それは何かやり過ぎても駄目だろうし、幾つかのやり方を考えなければいけないと思いますが、かなり緊張関係をもって、どうにかして、何らかのコミュニケーションの基盤を作りたい、あるいは作っていただきたい、そのように思います。
(第7回)

ここにきて、規制委とのコミュニケーショ不足が問題だというJAEAの認識には驚くしかない。やるべきことをやってから、というセリフが吐ける時期もとうに過ぎている。そして、こんなJAEAの態度を目の当たりにしてもなお、運営主体の特定に取り掛からない検討会にも怒りを覚える。この税金泥棒め。
検討会には、検討しましたよ〜というパフォーマンス、再稼動が既成事実化するまでの時間つぶしの意味しかない。そして文科省に指導力はなく、現状を認識する力すらないのだろう。問題は安全リスクだけではないのである。建設費1兆円、しかし臨界開始以降の20年間で発電できたのは1kw毎時のみ、しかも年間維持費200億円以上。さらに、同検討会がまさに象徴するようなダニがたかり、血税をバンバン吸い上げているのである。悪夢の原子炉、というほかない。

治療費の一部負担制導入

昭和2年の記事。
健康保険財政は、制度開始早々に行き詰まり、

健康保健に依る1ヶ年の保険給付額は4千万円(事業主と被保険者各折半負担)と見積り、この約10分の1の400万円を国庫が負担することとしているが、近年財界の不況で保険料収入著しく減少しために給付支出と相償わない状態に立至ったので、社会局はこの不足額を何れに求むべきかにつき講究したる結果、財界不況の折柄保険料率の値上げは到底不可能なので国庫負担額を増額する一面、療養給付の一部を被保険者をして負担せしむるの外なかろうということに大体方針を決したが、これについては、労働保険調査会において反対意見多く目下行き悩みの状態にある
健康保険が収支相償わぬ、1927年9月20日付中外商業新報

治療費の一部負担制導入が検討された。が、実際に導入されたのは昭和18年。16年も要したのはなぜ。労働者がそんなに強かったのか。ちなみに現在の医師会は患者減を恐れて負担額UPには強く反対しているが、この頃は医師会も一部負担導入を要求していたのだが。

無資格医師

かつてドイツには歯科医師の補助者としての歯科技工士と、患者に直接補綴物を制作・装着する歯科技工士の、2種類があった。医療行為においても憲法で保障されるところの“営業の自由”が適用されたからである。無資格医師まで存在していた。

1860年代末以降のドイツでは、自由主義的風潮の中で、医療においても営業の自由が保障されたため、医業資格をもたない者が医療行為をすることは、法律違反とはならず、ホメオパティーの無資格医師にも十分な活動の余地が与えられたのである。この状態は、ナチス政権下で、治療師の資格が認定されるまで続いた。
(服部伸「ドイツ『素人医師』団」1997年)

独逸で医療が営業ではなくなったのは、1936年4月の医師法施行以降である。歯科医業の場合は、1939年5月5日の歯科医師会令(歯科医師法に相当する)改正以降に営業からはずされている。
なお、わが日本国憲法でも営業の自由は保障されているが、「空証文」という指摘が歯科技工士の片岡太一からなされている。片岡の支持者は「歯科医の指示書に依り、歯科医の採得した型により義歯を作ればよいのであるならば、そんな仕事に免許は無意味である」とも言っていたが、その通りだと思う。

定礼

「定礼(じょうれい、常礼とも)」とは村民が費用(多くは米)を出し合って医師を雇い、地域の医療を確保した医療互助制度である。筑前国では江戸時代に始まり、第二次世界大戦ぐらいまで続けられていた。井上隆三郎「健保の源流 筑前宗像の定礼」(1979年)には福岡県宗像郡の各地で行われていた定礼について書かれている。著者は福岡県宗像郡で「東郷外科」を開業する医師。

常礼のない近くの村では死者があい次ぎ、石炭で焼く火葬場が間に合わず、火葬場では死体をつめた棺桶が順番を待っていたという。しかし、手光や津丸では死人はほとんど出なかった。いうまでもなく、常礼と診療所のおかげであった。それから、ここには、どこの村にも置いてある富山の売薬がなかった。人々が無料のため気軽に診療所を訪れたからである。
しかし、医師から見たら、常礼は診療の請負である。治療が長びけば長びくほど、薬代、往診など医師自身の負担になる。早く治ってもらわないと困る。そのためには、病気が軽いうちに早く受診してもらわねば困る。即ち医師は、
――早期発見、早期治療
を心がけた。しかし、村人は無料だからといって医師を酷使したり、無差別的な往診は頼まなかった。両区の人は、深夜でも、子供ならよくおんぶして連れてきた。自分たちの先生を疲れさせることは、とりも直さず自分たちにとって不利なことを知り抜いていたからである。
それでも、どうしても往診を頼まねばならぬことがある。こんなとき村人は、自分たちのためにきてくれた医師の労をねぎらうために、瓜で特別上等の漬物を作り、これに砂糖とお茶を添えてもてなした。


傍線は引用者。当初の健康保険制度が保険医の請負制度であったのは、傍線部のようなねらいがあったからなのだが。すなわち、早期発見・早期治療による医療費軽減策であったが、なぜうまくいかなかったのだろう。
以上は神興村の手光(てびか、今の福津市手光)と津丸(今の福津市津丸)の例。両区は明治32年、共同で小さな診療所「神興共立医院」をつくり、住民190戸のうち約170戸が計250俵以上の米(1戸平均1.5俵)を出して医者を雇っている。常々診てもらっている礼を欠かしてはならぬ、という意味で「常礼(ジョウレイ)」と呼ばれたという。

定礼医を顕彰し、碑が建てられたケースもある。宗像郡畦町宿(今の福津市畦町)、昭和15〜16年ごろ戦争で廃止されるまで定礼医を務めた高村直嗣医師のである。

「畦町では『病院に行く』とか、『医者に診せる』という言葉はなかったのですよ』
そして(註:古老は)言った。
「ここでは『高松に行く』という言葉しかなかったのです」


高村家は2代にわたる当地の定礼医で、直嗣の父親・登四郎は明治10年ごろに当地に夫婦で流れ着いたよそ者だった。もちろん無免許である。登四郎が後に移り住み定礼医も引受けた本木村では、この無免許であることと老齢を理由に定礼医を解雇されている。明治45年のことであるが、この時すでに、イナカであっても無免許医を許容しない世相となっていた。登四郎の子・直嗣は明治17年生まれ、明治40年長崎医専卒業。直嗣の学費は畦町の人々が工面している。直嗣は昭和12〜22年まで、福間駅前で開業していた弟が死んだためにその後を引き継ぐが、その後は畦町に安住し診療を続けた。昭和33年脳卒中で没、享年74歳。

定礼は家庭医制度としては理想的な面もある。しかし患者的には医師選択の余地はないし、難症だと都会に出なければならず、別途の出費が必要になった。医師的には食いはぐれはないものの、もうかりもしなかった。定礼医の年収は、大体三斗四升俵の100〜200俵強。現在の米価で200〜400万円程度、ここから薬品などの必要経費を引くのだから残りは高が知れている。しかも米相場は絶えず変動するうえ、薬品その他の物価の値上がりに追いつきはしなかった。諸物価の上昇や医療技術(機器、薬剤)の向上などは、村民から考慮されたのだろうか。
トラブルもあった。定礼医が数人いたところではダンピングがあったり、世話人が定礼医を嫌って定礼米を出さなかったり。医師1人を大切に扱う、全村民が家族のような小さな村――でないと、うまくいかないのかもしれない。
なお、歯科疾患をどうしたかについては触れられていない。まあ、まずはジョウレイ医が医科歯科の区別なく診たのだろう。そして多くの村民はギリギリまで歯痛をガマンし、結局はその多くが入歯師の戸を叩いて、抜歯→義歯セットというコースになったのではないかと思う。明治末ぐらいから地方の人々も無免許医より専門医、開業医よりも病院を好むようになっていくのだが、入歯師は戦後も長く生き残っている。それは入歯師の専門性が認められたためなのか、義歯は医療ではないと思われていたのか、歯科医師の義歯があまりに高価だったのか。まあ、その全部だったような気がするけれども。

自然療法士、Heilpraktiker

ドイツにはハイルプラクティカー(Heilpraktiker)という、ユニークな医療系国家資格がある。ハイルプラクティカーが業として行えるのは水治療法、食餌療法、日光浴・大気療法、薬草療法、鍼灸にヨガ、気孔にアロマテラピーなどなど、古今東西の自然療法すべて。開業OK、保険医療にも従事でき、採血や尿検査、心電図検査など医療機器を使っての診察・診断も可能だそうだ。医師に次ぐスーパー免許といっていい。

19世紀前半から20世紀初頭にかけて、自然療法の発展に重要な役割を果たした著明な人々は、国家によって認知された医療資格はもっていなかった。それでも、彼らはそれぞれ独自の治療施設をもち、遠方からも患者を集めて、事実上、治療行為によって生計を立てており、職業的な治療師となっていたのである。
帝政期の自然療法を支えていたのは、こうした、専門の医学教育を受けていない職業的治療師であった。
(望田幸男編「近代ドイツ=資格社会の展開」2003年)

ハイルプラクティカーの前身である自然療法士は、日本でいえば医師法制定以前の漢方医と同じような成り立ちであった。一方、正規の医師であって自然療法を行うものもいた。彼らは、西洋医学が万能でないことに気づいた医師であった。
自然療法士が国家資格となったのは、医療にも国家統制を強制したナチス政権時代。

帝政期の自然療法士協会は、自分たちの地位を守るために、国家による認知を勝ち取るのではなく、「治療の自由」の枠内で、あくまで私的な資格にとどまることを選んだ。正統医学の医師たちが「治療の自由」を撤廃して、自然療法士を含めた治療師を取り締まることを求めたときも、「治療の自由」を維持しようとしたのである。
ところが、ナチス期の管理強化によって、他の治療法とともに自然療法士もハイルプラクティカーとして統合されることになった。ハイルプラクティカー法によって、この職業には法的な根拠が与えられたが、この職業資格を得るために受ける試験は、医師によって実施されることになった。こうして、彼らは、自分たちの職業資格を得るのに必要な資格試験を、自ら実施する権利を喪失し、現在に至っている。


ハイルプラクティカー法の成立とその影響は、日本の歯科技工法のそれと似たところがある。

自然療法士からハイルプラクティカーへの道は、自然療法という、国家からは非正統と烙印を捺された治療法の担い手が、自分たちのサブカルチャーを維持しつつ、国家の中にしかるべき位置を見出してゆく過程であったといえる。自然療法士資格試験では、国家の認可を受けなかった代わりに、彼らの信ずる治療法の内容を反映させることができた。一方、国家公認のハイルプラクティカー資格試験では治療内容は問われず、非正統医療を公式には認めない国家による、治療内容への干渉は巧みに避けられているのである。


日本歯科技工師会(花桐会)が自ら資格試験を実施していたのは、エラかった。

昭和21〜28年の医師国家試験

坂井健雄編「日本医学教育史」(2012年)より。
戦前には有名無実化していた医師国家試験が戦後GHQにより復活するのだが、
医師国家試験受験者の推移


合格率が低い。混乱期で勉強どころじゃなかったのか。
なお、戦時の医師量産により、昭和24〜27年の国試は多くの医専卒が受験している。7208人が受験した昭和25年春は、昭和19年の医専入学者が5年間の医学教育後に昭和24年4月に卒業、1年間のインターンを経て、国試に挑んだ年である。昭和35年発足の国民皆保険には、この量生した医師の雇用確保という意味もあったのかも。
ちなみに、第1回の受験者は歯科医師で、慈恵医および慶應大の特設部卒業生である。受験者は258人、中年以降の人も多かったために合格率は低かった――とはよくいわれることだが、それでも51.5%である。昭和28年秋の試験など同率43.0%なのだから、たった1年の勉強で半数以上が合格したのは上出来だと思う。

さて、時代は飛んで今2016年第109回歯科医師国家試験における某私立歯科大学の合格率は新卒で78%だったが、「現実的」には40%だという話を聞いた。2015年5月時点での6年生在籍数は140人で、試験合格数は57人だからである。現実をより正しく認識するには、分母に受験者数ではなく在籍者数、特に当該受験学生の入学時点の在籍者数をもってくるべきではないかと思うのだが。

参考:医師国家試験の推移
昭和21年:第1回、年2回実施、筆記3日間、論述式
昭和28年:筆記1日、口頭試問導入
昭和47年:論述式から客観式へ
昭和50年:筆記1.5日、口頭試問廃止、出題数190題→260題
昭和60年:秋試験廃止、試験日数2日間に、出題数260→320題
平成13年:試験日数3日間に、出題数329→500題

▼歯科医師国家試験の推移
歯科医師国家試験の現況0005

医師会はずし

昭和2年の記事。健康保険制度発足後の危機的状況を伝えている。政府は医師会を通さずに直接健康保険医を雇用する、医師会はずしを画策していた。

健康保険は被保険者の医療給附が予想外の多数に上り、現状のまま推移すれば非常な危機に遭遇するので、内務省社会局健康保険部では連日会議を開き、左のごとく方針を決定し近く内務省議に附し、健康保険の根本的改革を断行することに決定し、万一実行不可能に陥った場合にはやむなく健康保険の趣旨を没却しても同保険の範囲を縮小することに内定している。しかし目下のところ医師の報酬激減の結果、場合によっては日本医師会が政府に対し被保険者1人1ヶ年7円42銭の診療代では同会が契約不能に陥るかもはかり難い実状にあるので、当局でもあらかじめ緊急対策凝議の結果、万一の場合には本年度内においても労資の負担する健康保険料を100分の3まで増徴し、健康保険特別会計法によって一時借入金の方法により国庫負担も増し、医師への報酬をも増して、一時的糊塗策によって弥縫することに決定している。

1、現行被保険者1人につき国庫の補給2円を6円または4円に増額すること
2、資本家ならびに労働者から徴集する健康保険料金日給の100分の2を法定最高限度の100分の3で増徴すること
3、被保検者の診断は現在日本医師会に1人1ヶ年7円42銭で請負わしているが、医療組織を改正し新たに医療の公定価格を決定し、診療実数に応じ政府が直接健康保険医に支払うこと

健康保険の将来を危み当局の緊急対策成る、1927年6月11日付大阪毎日新聞

昭和2年、健康保険法適用者は総人口の3%にすぎない(被保険者210万人/総人口6165万9000人)。それでもこの騒ぎである。
健康保険法が適用されない貧困階級は、鈴木梅四郎が創設した「実費診療所」など※を利用していた。鈴木によると、昭和2年11月1日-昭和3年10月末までに実費診療所を受診した患者数は236万184人(青柳精一「診療報酬の歴史」p541)。医師会は実費診療所の治療を“安かろう悪かろう”だと批判しているが、しかし、実費診療所が多くの患者から支持されていたのも事実である。そして、この実費診療所の実績に政府は注目し、“保険の患者も実費診療所程度の治療で可”と考えた。そのために政府は保険医を直接雇用して意のままに動かそうとし、日医はそれに反対したのである。

※昭和初期の貧困階級を受け入れる医療機関は、社団法人実費診療所5、地方自治体経営の実費診療所約40、公私立の施療病院で実費診療を兼営するもの約110、逓信省簡易保険局の健康相談所約60、恩賜財団済生会の病院7・診療所44(青柳精一「診療報酬の歴史」)。

豊島屋三代目「鳩のつぶやき」

豊島屋の鳩サブレーを久し振りに食べた。ミスターイトウのバターサブレのほうが好みではあるが、もらうのはいつも豊島屋のほう。缶入りで贈りやすいからだろうか。
それはともかく、豊島屋の創業は明治で、現在は3代目。缶の中に鳩サブレー誕生の由来を書いた小冊子が入っていたが、これが味わい深かった。

原料の砂糖など入手出来なくなり、初代は信念である「良い菓子」がつくれなくなったと、休業を宣して了ったのは昭和16年でございました。工場も、或る時は陸軍の食料製造所として徴用されるなど、私共特に初代にとっては絶望の暗黒時代でございました。
(豊島屋三代目「鳩のつぶやき」)

徴用、徴兵、強制連行。国家総動員法で一億総奴隷時代の「暗黒時代」。
なお、わたくし好物のおかきやさん、播磨屋の「憂国・警世メッセージ」「地球革命」さらに「挨拶」がすごいのだが、ここも創業1860年代の伝統企業である。おかきメーカーになったのは戦後だそうだが、「暗黒時代」を経験した真の保守企業だと思っている。

暗く長いトンネルを抜けて終戦の日が参りました。「平和」と云う実感を得るには尚日時がかかったと思います。何しろ飢えとの戦いの毎日でした。その私達を救ってくれたものの一つは進駐軍(古く、なつかしい言葉ですが)の放出食糧の配給でした。携帯食糧の箱に入っていた肉の缶詰、クラッカー、チョコレート、煙草などなど、そのどの一つも如何に美味しかったか。口にとろけるチョコレートに、本物の煙草に、改めて「平和」の有難さを知りました。その頃初代は千花紙に刷られた「日米会話集」を買いこんで帰って参りました。私達は驚きました。同時に改めて文明開化をささえた明治人の気骨、進取の気性に畏敬の念すら感じました。これあればこそ初代は「鳩サブレー」を創り上げたのだと。きっと初代は進駐軍と菓子について語り合いたかったに違いない、「日米会話集」を小脇に――。


平成の日本人に足りないのは、この「進取の気性」だろう。内向きなのを保守と勘違いしている人間が、多すぎる。

社団法人実費診療所に対する意見書

社団法人実費診療所の利用者数は医師会の妨害で一時期低落したが、大正6年度になってふたたび急増(大正6年度87万人→7年度99万人→8年度101万人)。これに危機感をいだいた大日本医師会は大正7年6月、「社団法人実費診療所に対する意見書」を発表している。意見書には大日本医師会の見解として、

^綮佞旅餡氾地位
医師の職分と医業の報酬
0絛畔鷭靴竜豐
な鷭卦定の必要
グ絛畔鷭靴慮従
Π族措N甜腟舛僚亳
Тむべき安価治療主義

の7項目がまとめられた。このなかで目を引くのは、医師だって庶民を結構診ており、医師としての生計があるのだ、という主張である。医師会は東京市内の「一般病院および診療所における取扱患者あわせて総計1499万7207人」/年を同市内医師総数2025人で割り、年間取扱患者数を/医師を4572人、1日平均12.5人と推計。同市の所得税納入者は「1割4厘」であることから、これを12.5人に割り当てて1.3人、残る11.2人を所得税を納入しない患者=「いわゆる中産階級」とした。

今、中産階級全部に対していわゆる低廉報酬制をしかないのか。その得るところは薬品材料の原価に過ぎず、上流患者1人3分の収得は、どうして生活を維持するに足りえよう。たとえこの1人3分の患者に対し1剤1日分金20銭の内服薬2剤を投ずるにしても、得るところわずかに金52銭であり、仮に1割の新患者があって初診料金1円を徴するものとしなければ、その料1日平均13銭であるのをもって合計金65銭の収入となるだろう。1日平均65銭の収入でいかにして医師一家の生計を維持することができるのか。まして施療に多少の出費を余儀なくさせられるにおいては。そうであれば、すなわち他に有力な財源を求めるのでなければ、医師は医師としての生計を支持できないだろう。
社団法人実費診療所の歴史及事業 第1巻

なお、このころまだ再診料は概念すらない。
以下は、実費診療所の創設者・鈴木梅四郎の反論である。

かれらは東京市年表に表れた1ヶ年間の患者数、すなわち医師の手にかかった患者数のみをもって立論の根拠とし、それ以外に庶民の疾病に悩むものがいかに夥しいか、換言すれば医師の手を煩わせない、もしくは煩わせることができない患者の数がいかに夥しいかに思い至らないのである。これしかしながら、「国民の生命を保護し、公衆の健康を増進す」ることを天職として、国家に特別の優待を要求するほどの医師諸君としてはあまりに公共心に乏しい浅薄皮相の観察というべきではないか。


さて、国が認めたのは医師会の言い分であった。医師会は国に実費診療所を潰してもらい、その代わりに貧民の救療を担うことになる。国は全国の開業医をそのまま、実費診療所に転換することに成功した。医師会を勝たせると見せて、実は鈴木梅四郎の説を採り、ついには世界に冠たる長寿国を実現するのである。なんだかんだいって、日本の官僚の優秀さは世界トップクラスといわざるを得ない。

裏書人に利用する

鐘淵紡績総裁“紡績王”武藤山治(1867-1934)の回想より、健康保険法案要綱の審議に関するエピソード。武藤は共済組合を設置して鐘紡社員の福利厚生を向上させたことで知られる。
私は鐘紡共済組合を潰すのは残念と存じまして、健康保険法の命ずるところはこれに従い、共済組合はその基金だけを残してある程度の救済を行うことにしてその名と形を継続しました。これについて一事申し上げておきたいのは当時健康保険法の審議委員会なるものが設けられ、私もその委員の一人として農商務省に開会せられた委員会に出席し、その際私は委員会に一つの修正意見を提出しました。それは今日まですでに立派に成立しきたった民間の共済組合のごときはしいてこれを潰す必要はないではないか、現に鐘紡共済組合のごときは、あきらかに政府がこの法律に従って実行を命ぜんとするものより、より以上の救済を行っている。他にも同様のものもあるであろう。ゆえに本法の中に一条を追加し、現に民間会社において成立している救済機関にして、本法の命ずる以上のことをなしているものと、監督官庁の認むるものは本法より除外することを得とし、何もかも一律の下に行わしめんがため、長年折角発達しきたった民間会社の共済組合を廃せしむるがごときことなく、そのまま存立せしむるが可ならずやとの意見を述べたるところ、その席には故江木君などのような官僚政治家が多かったが、少数の御用委員のほかは私の提議に賛成し直に採決すれば、私の提出せる修正案が通過することが明らかであった。しかるに、議長はモヂモヂとして中々採決しようとしないで時を移し漸く決を採った。ところが1、2名私の修正案賛成者が少ないと宣告した。そこで私は意外に思って段々出席委員を改めて見ると議長が採決を延ばしていた間に、政府側はかかる場合に御用を勤めさせるため何々局長とかいう連中を任命して置きイザという時に臨期召集す伏兵を持っていて、それを急に呼集める。私の提案が明らかに1、2名多数であったものが、反対に1、2名負けになったのは、この手にかかったのであることを発見した。かような次第で政府が時々色々の委員会とか調査会などこしらえるのは、多くは初めから出席者の意見を聞いて改めようというのではなく、いきなり政府案として提出する前に、各方面の意見をも徴したという、言わば裏書人に利用するために過ぎないものであることを発見し、爾来いかに政府から求められてもこの種の審議会とか調査会とかいう会の委員は一切請けぬことにしました。
武藤山治「私の身の上話」

傍線は引用者。今の政府による「審議会とか調査会」、パブコメの使用方法も同じである。もはやお家芸である。

超ギリギリ

健康保険法:大正11年4月22日公布
同法施行:大正15年7月1日から(ただし保険給付および費用負担に関する規定は16年1月1日施行)
同法施行令:大正15年6月30日公布
同法施行細則:大正15年7月1日公布

医師会と契約をするについては、医師会の要望をいれて、しかも法も制定され、施行令と施行規則が決定したあとから、法の実施を目前にひかえた大正15年11月に契約しているのは、どうしたことであろうか。
(佐口卓「日本社会保険史」p128)

政府が、健康保険の療養給付について日本医師会と契約したのは大正15年11月4日。で、実施まで2ヶ月足らずの間に、会員に健康保険のアレコレや診療担当者としての心得について周知しなくてはならないのである。今のようにメールもFAXもない時代に。
日本歯科医師会との契約については、医師会よりさらに遅い大正15年12月16日であった。

もしいささかの想像をするならば、政府が医師会側との紛争をおそれたのではあるまいかとおもわれる。一方に開業医制度に無干渉の態度をとりながら、他方において社会的に医療を提供する社会保険=健康保険を制定したという矛盾を、あえて遂行したというのが、当局の妥協的態度であったろう。


政府が「無干渉」だったわけではなく、

医師を国営または公営とすべきであるが、医療制度を根本的に改革することは至難であるから次善の策として現在の開業医制度の欠陥を補正しなければならぬというにあり、その具体策としては

医師の開業には人口または地域的の制限を設くること▲一定の人口および地域内に医師なき町村が医師を嘱託する場合には国庫から一定の補助金を交附すること▲医療の資金なき者のために現在の公設実費(または無料)診療所の如きものを増設すること

などが案出されているが、医師の地域的制限は実行すこぶる困難の模様で、結局改善の骨子は町村の医師嘱託と公設実費診療所の増設にあって町村の医師嘱託は全国的に、実費診療所は差し当たり六大都市に限定する意向
大正15年11月29日付大阪毎日新聞

開業制限の検討がなされたようである。これでモメて、ギリギリの契約となったのだろうか。それにしても今では考えられないギリギリさである。歯科医師会は、医師会に追随していたので遅くなったのかもしれないが。

闘うものとしてのみの存在

労働組合、共済組合はギルド(職業別の組合)が発展したものといわれる。でもってこの労働者が持っていた自助的な生活保障の組織が後の社会保険のベースになる、という説明がよくなされるのだが、日本の社会保障はそういう発展の仕方をしなかったのはなぜか。

参考:友愛組合
工場制工業が確立され、いわゆる賃労働者が出現するにおよんでも、労働組合組織は相互扶助制度を整備した形態においてもつことはなく、むしろ明治政府の弾圧策とともに、雇主側が労働運動の緩和策として、企業内での日本的美風たる主従関係を強める役割をになわせた共済組合をつくりあげていったわけである。それは一つに労働者自らが共済組合を組織しても低賃金は運営を破綻せしめたであろうし、二つには低賃金なるがゆえに雇主側の大幅な負担がなければならず、自主的なものとはなりえなかったであろう。その範を外国の制度に学ぼうと、友子同盟からの共済会への転化であろうと、おなじだったわけである。この点はここにのべるまでもなく鐘紡や国鉄において如実にみうるとおりである。労働組合は明治期の弾圧策に抗する、闘うものとしてのみの存在となり、大逆事件いごはその息の根を停止されるほどの運命であったことをおもえば、わが国の社会保険は、共済組合においても労働組合においても、その制度化の基礎をもとめることは不可能であったにちがいない。
(佐口卓「日本社会保険史」p102)

つまり、低賃金が労働者の自律を奪い、政府の弾圧が相互扶助の深化を阻んだと。
それだけなんだろうか。カネがなくても自律する組織体はあるし(健保の源流といわれる定礼とか)、カネがあっても自律しない組織もゴマンとあるんだが。

医師会規定の歯科診療報酬点数

戦前は、医師会に所属する歯科医師もいた。なので、健康保険法制定時に定められた「日本医師会健康保険診療点数」には歯科治療に関する項目がある。

抜歯術 2点
(日本医師会健康保険診療点数、昭和2年、青柳精一「診療報酬の歴史」p548)


これのみであるが。

点数表に示された2点の技術には、処方箋料、マッサージ、熱気浴、ワッセルマン氏反応、尿中化学物質定量検査、皮下注射、筋肉内注射、治療用ワクチン注射などがあった。抜歯の評価が低すぎる感なきにしもあらず。平成28年度診療報酬点数では処方箋30〜68点、皮内および筋注20点であり、抜歯は乳歯130点・前歯150点・臼歯260点・埋伏歯1050点である。抜歯以外の技術は、まあ、自費だったのであろう。ちなみに、初診料は3点。
昭和14年の医師会点数では、抜歯術は3〜5点。衂血(はなぢ)止血術と一緒だった。平成28年度診療報酬では、鼻咽腔止血法(ベロック止血法)は440点。昭和15年分だと衂血止血術は3〜15点にアップしているが、抜歯術は変化なし。
日本歯科医師会健康保険診療点数における抜歯術は、昭和14年で臼歯8点、前歯6点だった。点数単価が医科の半分程度なので、実際の報酬は医師会所属の歯科医師と大差はなかったのかもしれないが。初診料は3点である。

被保険者証を自由に使わせなかった健保組合

政府の被保険者受診予定数は、月平均18万8500人。
昭和2年1〜12月までの実際の受診者数は、月平均28万100余人。予想より10万人近くオーバーしていたが。

岡山県医師会からの報告で、同県内の会社の健保組合は、組合員の被保険者証を組合本部が預かり、組合員が病気にかかって診察を受けるため被保険者証をもらいにゆくと、本部の係員が病状によりできるだけ組合の診療所にゆくようにといって被保険者証を渡した。このため、岡山県下には倉紡の従業員が約7000人もいるのに、医師会の保険医に診療を受けた患者は、わずかに20人から30人にすぎなかったという。
こうした事例は単に岡山県だけではなかったようで、内務省社会局の一事務官の報告のなかにも「被保険者証は之を当人に交付すべしと規定してあるに拘らず(施行規則第23条)之を交付していぬ組合が中々多い。寄宿舎は之を当人に付てのみならず通勤者に付ても工場、組合事務所、世話係等に預かっているのがある。之は甚しき違法である。
(略)
次に被保険者証は交付しているが、別に診療証と云う様なものを組合又は事業主が発行し之なくば医療を受けられぬ様にしている組合も相当ある様である。
(青柳精一「診療報酬の歴史」p529)

被保険者証を自由に使わせなかった健保組合が多々あった。にもかかわらずの予想オーバー、政府予想は甘かった。で、健保開始から3ヶ月にして6万円の赤字を出すのだが、赤字ならば医療費抑制が必要ということで、保険医は診療行為を制限される(例:「右腕を切断したって足が残っているだろうから入院は許されない」(三原七郎「医療の内幕」1965年)。保険医に裁量権なしの伝統は健保制度スタート時点で生まれ、いまも続いている。

俺達の病院

無産者中央病院設立を訴えるアジビラ。昭和8年ごろ、日本無産者医療同盟のもの。

俺達の病院
無産者中央病院をたてよう

その日もロクに食べないのに病気になった時、そこらの病院は高い金をとる。やっと金を工面して行くと服装をヂロヂロみて金は持っていますかと聞く所さえある。
治療を受けて金を払う段になって健康保険証を出そうものなら、コレを持っているものは薬が違うのだから、先に出すものだと文句までいう。俺達が給料の2%を掛金に出しているのに!
こんな事は皆病院が俺達が力をあわせて作った俺達の病院ぢゃないからだ。
こんな事のないようにするには安い、親切な俺達の病院を作ればいいのだ。

俺達の力で、俺達の無産者中央病院を作ろう

坪50円で建坪100坪で建築費5000円、器械、薬品、設備費用3000円を合わせて合計8000円で建つんだ。入院設備もあり、各専門医が各科専門に診てくれる病院が出来上がるのだ。
皆で力を合わせて8000円基金を集めよう!
バット代、湯銭を設立費用に投げ込もう
(川上武「現代日本医療史」p389)

これ1枚読んでも健康保険制度がどれほど待たれていたかがわかるのだが、制度ができて病院や医療者の質が上がっても、庶民はイイ病院や医者探しに悩むのであった。この世の人民ことごとく因業なり。
さて、無産者診療所は、患者と同じ目線で医療の社会化を推進しようとする医療者の参加によって成り立っていた。歯科医師の泉盈之進もそのひとり。無産者診療所の全数はわかっていないが、「20以上に達することは確実である。それらは全部が同時的並列的に存在していたのではなく、絶えざる弾圧、検挙、診療不能、閉鎖の繰り返えしのなかで、人民の不屈の努力によって設立されたものの数である」(川上)。
なお、日本無産者医療同盟は民主医療機関連合会(民医連)の前身。

原産セミナー2016

日本原子力産業協会は2006年から毎年、原子力産業セミナーを開催している。同セミナーは、原子力関連企業への就職を希望する学生向けの合同就職説明会。
主催者の速報によれば今年、2017年3月卒業見込みの学生を対象に行われたセミナー来場者数は東京188人(13日)、大阪149人(20日)で計337人だった。
なお、セミナーのちょい前(3月9日)には、関西電力高浜原発3・4号機の運転差し止め仮処分が大津地裁で決定されている状況である。

nis2016_report0001
▲福島原発事故以来、減り続ける来場者。

事故から5年、院生なら在学中に事故勃発という学生、しかも専攻がモロにバッティングした学生もいたのでは。気の毒な……。

nis2016_report0002
▲来場学生の学科別人数の推移。

軒並み減ってはいるが、事故後ガクンと減ったのは機械系、文系、その他(って何?)、数学・物理系、化学系に土建系か。原子力・エネルギー系は、むしろ持ちこたえている。ツブシがきかないのかもしれないが。

でもって、3月17日には原子力科学技術委員会・原子力人材育成作業部会第5回が開催された。所管は文部科学省研究開発局原子力課。

五十嵐道子・フリージャーナリスト】 
先日の大津地裁の決定を見ても、原子力に関する一般への社会的受容が進んでいないと思います。この作業部会でもずっとそこの部分が不明確なまま議論をしているとともに、どのような人材がどれくらい必要かというところがはっきりしていない状況に、私としては議論に参加しづらい部分を感じています。


来馬克美・福井工業大学工学部教授
「原子力はちょっとクエスチョンだね」というネット社会等を通した世間や社会の考えから学生は影響を受けていると思います。(略)学生にとっては、原子力に関するネガティブな情報がたくさんありますが、やはりプラントが必要だ、海外との連携が必要だ、もっと人材が必要だということをアピールする方法を考えていく必要もあるのではないかと思います。


「原子力に関する一般への社会的受容が進んでいない」とか「ネット社会等を通した世間や社会の考え」とか。就職希望者の減少は風評被害、とでも言いたいようだ。
ちなみに、この原子力科学技術委員会は原子力ありきの委員会なので、廃炉だの再生エネルギーへの転換などといったことは一切触れられない。その子部会である核不拡散・核セキュリティ作業部会が2011年6月2日、福島原発事故後初めて開催されているのだが、

中込良廣・原子力安全基盤機構理事長代理※】
原子力委員会で長い間かけて、原子力というのは必要だということって、国策レベルとよく言われますけれども、そういうふうにやってきたのが、ここへ来て事故が起こったときに、よくないよねというので、急にそれはだめみたいな話をされると今までの議論は何だったのかということになるので、そういうのは今回議論しないということでよろしいんですか。というのは、原子力はあって、ただし保障措置と核セキュリティとか余分なのが、余分というか特別に考えなくちゃいけないのがあるので、これをどう評価するか、どう研究を進めていくかということだけに絞るということでよろしいんですか。そもそも論が入ってしまうと、ちょっと何か、今までの政策は何だったのかとなってしまいますので。


「今までの政策」をチャラにしたくないがために、「そもそも論」を拒絶。見事なまでの日本行政の典型的態度だ。

やはり原子力は必要だと思っているんです。それをだめにするような評価というのは、しにくいだろうなと。してはならないという方針があれば、わかりやすいと思います。やっぱり原子力は必要だと。その中でどういう研究の必要性があるかと。緊急にやらなくちゃならない研究は何かとか。メリット・デメリットもあろうかと思うんですけれど、そういったことをちゃんと議論を……。基本的には必要だというのがないと、そういうのを含めて全部を考えると、やっぱり必要でないよなとなったら、本末転倒のような気がするんです。ですから皆さん、評価される方は、いろんな立場で評価されるのはごもっともなんですけれど、やはり結論から言うと原子力はないほうがいいな、なんてなってしまったら、意味がないのかなという気がしていまして。


こうやって無条件降伏までいったんだろう。ああ。

原子力安全基盤機構
原発の安全検査を担っていた――はずの独立行政法人。しかし原発の安全検査内容を、なんと対象の電力事業者に作成させていたことが2011年11月に発覚。2014年3月には原子力規制庁と合併し、現在の原子力規制委員会に。

保険医の罷業の続出

昭和2年の記事。
健康保険法による療養給付が開始されてから医科の3ヶ月間の1点単価は、
2月:12.32銭
3月:9.41銭
4月:8.94銭
と、予定していた単価20銭から下がるばかりであった。しかも、最高額の山梨(51.26銭)と最低額の長崎(8.54銭)の開きは6倍と、地方差も激しかった。受診率が高いほど1点単価が低くなる人頭式請負制を、現在のような定額制に改めたいという声があがるのは当然なのだが、

日本医師会は果然秘密裏に内務省社会局に対し、明年度から被保険者の治療の範囲から業務上の負傷、疾病を除き且つ入院および20円以上を要する手術、注射及び治療を除き右の費用は更に政府より実費を申受くという、事実上医師報酬の約5割方の増額案を提示したが、内務省社会局はこれを拒絶し、元来被保険者1人年額7円42銭という受負制度によるため患者の増加は必然診療費の低下を来たし、保険医の満足を欠き、被保険者も診療が粗雑になるといって不満を抱いているのであるから、従来の人頭手当て式による受負制度を廃止し、診療代を公定し実費を支払うという定額式に改めたいと内務省の方針を正式に指示したが、日本医師会はこの合理的な解決策に応諾し難いので健康保険の医療問題は相当紛糾を免れ難い情勢である。
健康保険の診療を定額制度に改めたい、1927年7月1日付大阪毎日新聞

日本医師会はなぜか定額制に反対するのである。一方の日本歯科医師会は定額式を採用(昭和2年10月1日から実施)。現実的な対応である。

全国では保険医のストライキが続出。

健康保険医は被保険者の罹病が予想外多いため、労多くしてかえって個々の診療単価は約半減する趨勢にあるので、実利主義から健康保険医を脱退するという最後的手段に出る険悪な空気が全国各地方にみなぎり、さきには青森県下全体の健康保険医が同盟罷業の挙に出る情勢になったので、健康保険医を統制する日本医師会の幹部は東奔西走これが鎮撫につとめた結果ようやく事なきを得たが、つづいて長崎県北松浦郡下の保険医が罷業をなし被保険者に多大の迷惑をこうむらしめたが、最近日本医師会幹部の斡旋である種の条件で辛うじて妥協が成立した模様で、さらに富山県西礪波郡下の保険医は罷業の挙に出るべく秘密裏に協議しているなど、健康保険医の罷業の続出は注目すべき現象である。


1点単価が全国最低だった長崎県は、比較的罹病率の高い炭坑夫が多かった。長崎の被保険者1万2000人のうち炭坑夫が占める割合は約6割(7100人)、北松浦郡は8割にも及んでいた。しかも北松浦郡のヤマは規模が小さいものが多く、自動車が使えない山間部にあったため往診もままならない。保険医総辞退も納得の悪条件であった。この手の地方差については今も未解決であるが。

羊頭狗肉の民衆偽瞞策

昭和2年5月に成立した「日本銀行特別融通及損失補償法」「台湾の金融機関に関する資金融通に関する法律」にからめ、国の社会保障軽視を非難している記事。金融恐慌の際、日本政府は銀行貸出に対する政府補償という名目で大規模な財政資金の投入を行っている。

我国にはいわゆる社会立法ないし労働立法がすこぶる不備である。失業保険法もいまだない。最低賃銀法ももちろんない。改正工場法は昨年7月から漸く施行せられたが、肝腎の労働時間の制限が不徹底で、国際労働会議の席上において年中行事のように攻撃されている始末である。今日の如き永続的不景気の際にはいわゆる産業の整理と共にますます多くの失業者が街上に投出され、労賃はますます下落する。政府は資本家救済のためには、5億7億の金を即座に投げ出すほど太っ腹であるにもかかわらず、失業苦、生活苦に悩む民衆のためには、何等の救済、何等の保護をも与えない。かく見きたれば、健康保険法は我国において、なけなしの社会立法で、これあるに依りてようやく体面を繕うているものである。さればこそ政府は本法を施行するに当って、その有難さを大に宣伝したわけである。

不徹底なる健康保険法、1927年6月30日付万朝報)

この記事で注目されるのが、「健康保険による療養の給付」が保険医の犠牲に負っていることを指摘している部分。

現在、健康保険による療養の給付は、大日本医師会が、被保険者1人1年間7円42銭で請負うている。被保険者が病気負傷すれば直接任意の健康保険医について治療を受けるのであるが、これに対して医師の受ける報酬は普通の報酬に比して著しく少い。これにくわえ、報酬の総額は一定しているのであるから、治療を受ける者が多ければ多い程それだけ、頭割りの治療代は少くなる勘定である。即ち医師にとって見れば、健康保険加入の患者が多く来れば来る程損をする訳である。大阪の某医師が声明したように、これでは満足な治療が出来そうな筈がないのである。治療を受ける者にとって見ても、健康保険の患者なるが故に特別に粗末に取扱われはしまいかと思うのはもっともである。この欠陥を補うためには、先ず、相当なる治療の単位価格を一定し、治療数に応じて医師に報酬を与うる事とすべく、もし、経費が不足なる場合には、現在被保険者1人1年につき2円の割合になっている国庫負担金を増額すべきである。7億の金を惜しげもなく投げ出そうとする政府に、それくらいの金がないとは言わせぬ。徹底して改正するに非ずんば、健康保険法もついに羊頭狗肉の民衆偽瞞策たるにとどまるであろう。


いつの世にも「羊頭狗肉の民衆偽瞞策」は耐えない。社会保障と税の一体改革、とか。
ところで、このころの日本は今と似ているような気がしてならない。このころとはつまり、大正バブル→慢性不況(低成長と低デフレ)→昭和金融(ゼロ成長と急激デフレ)→高橋財政(高成長でデフレ脱却)→戦争で高インフレ→敗戦(経済破綻と社会の破滅)、の流れであるが。TPPなんてほとんど大東亜共栄圏構想だし。アベノミクスの先が戦争→破滅、なんてことにならなきゃいいが。

技工は政府の直轄

昭和2年、健康保険制度における診療契約更新を伝える記事。
健康保険制度発足直後、判明した利用者数は医科では予想の約2倍、歯科ではなんと3倍に。まさに望まれた制度だったわけだが、問題は財源である。歯科では早々に給付範囲の縮小と請負額の減額がなされた。とくに歯科技工部分が会を介さず、政府から歯科医師に直接支払う形式になったことは注目される。この時代からすでに、歯科技工は政府案件だった。

日本医師会の分
被保険者の診療は当初の予想数に対し約2倍の増加を来しているが予算の関係上請負額の増加を図ることは困難のため、昨年通り1ヶ年1人7円42銭6厘となす、ただし
1、官公立病院、日本薬剤師会に対する支払額が、日本医師会に交付すべき被保険者請負総額の100分の5以上に達する場合はその超過分につき政府において支出すること
2、同上100分の5以下の場合は日本医師会に返金すること

日本歯科医師会
歯科医療は当初予想せる約3倍に増加し、昨年契約せる1ヶ年1人68銭の請負額をもってしては到底契約に応じ難い状況にあるので左の如く更改すること
1、1ヶ年1人の請負額は61銭に減じ、その代りに医療の範囲を縮少し歯の治療、充填抜歯に止め、最も経費を要する技工にわたる点は除外すること
1、技工は政府の直轄とし、一定の公示料金によって政府より各歯科医師に支払うこと
1、被保険者が技工を求むる場合は保険署長の認可を得て
 イ、業務上の疾病による技工
 ロ、咀嚼能力を著しく減殺される場合
 ハ、一般的被保険者
 の順位をもって診療することとし、かつ、右診療契約は4月より7月までの暫定契約とし、さらに考慮すること

日本薬剤士会
昨年通り薬品原価表、調剤手数料に基いて支払うこと

健康保険の医療契約の更改、1927年4月1日付中外商業新報

歯科医師は「歯の治療、充填抜歯」の評価を下げることで、技工による利益を確保した。入歯師の存在が、補綴外しをとどめたのだろう。また、治療技術もそれだけ軽視(技工>治療)されていた。
なお、社会民衆党健保法改正案では、健康保険署および保険組合直属の診療所を設置し、日本医師会との団体契約を廃止することなどが主張されている。

健保法施行:ひとつ今月は歯を直してやろう

大正15年11月9日の記事。
初の健康保険制度は労働者のみを対象とした疾病保険である。日本医師会が政府と保険診療に関する契約を結んだのは、大正15年11月4日(日本歯科医師会との契約日は12月16日。日医にしろ日歯にしろ、年明けから制度スタートというのにありえない遅さだ)。各地の健康保険署は11月1日から活動を開始している。

神戸に新設された健康保険署はいよいよ本月1日から仕事を始めた。これをまず神戸市のみについていえば市内約850の工場に従業する5万3273名(男377,891、女15,382)の職工と年収1200円以下の事務員は強制的に健康保険に加入せしめることになったが、その附帯事業として加入者(その家族には及ばぬ)の疾病は180日以内まで保険署の方で医療費を出してくれることになった。その方法は加入者が病気になった際は保険加入証を証拠にして開業医の治療を乞う、開業医に対してはかねて政府から日本医師会に交渉してあるからこころよく本人からは金をとらずに応じてくれる。保険署対医師会との交渉は治療費支弁の方法を点数によって決めてある、すなわち点眼は何点、切開手術は何点、水薬は何点、散薬は何点というふうに治療投薬をすべて点数に割り当て、1点の単位を何銭(多分10銭くらい)と決めてその合計を保険署の方から支払うという方法をとっている。しかしここに問題となるのは、加入者がしばらく保険金の掛けっぱなしになっているからひとつ今月は歯を直してやろうというふうに、例えば余り痛くもないのに歯痛を訴え歯科医から入歯、金篏入等をやってもらうという類の悪風を助長し保険署が破産?をするような結果になりはしないかという一事である。これはすでに英国にも例があって健康保険の「悩み」の一つとなっているそうである。
耳寄りな救いの手、1926年11月9日付大阪朝日新聞

当時からコンビニ受診が懸念されていた。しかもその例が「余り痛くもないのに歯痛を訴え」。医者にかかるまでもない病気の例として虫歯をあげている記事は珍しくないが、これを批判した歯科医師は当時いたのかどうか。

この方法が完全に行われ出すと神戸市約6万のプロレタリア階級にとっては確かに偉大な救いの手となる半面、各開業医にとっては影響するところが大きい。何となれば特殊な医師、特殊な病院は何の打撃もないが、俗に町医と称せられるプロ階級相手の一般開業医(特に500何名もおる神戸市の如きは)はさらぬだに不景気のおりから健康保険の実施によって一層患者が減り、もし健保による患者が来ても保険署から補償される代価は目糞ほどから一層やりにくくなるという説と、健保加入者でも患者が来てくれさえすればよい、現今は補償金の多寡を問うている場合でないという説と、楽悲2通りの説があり、一方超然派は健保何するものぞ、我等は医師としての尊い天分を守っておればよい、天分の前には補償金の心配も何もやるものかと唱えている。健保が隅々まで実施されたあかつき、はたして一般開業医にどう響くかは興味ある問題というべきだ。


保険診療は低額で、その患者が自由診療の患者と区別されることは政府と診療側の了解事項だった。低点数を大前提としてテキトーに手を抜いて稼げ、というのが政府側の隠された指示である。階級社会でもあり、医療者も患者をその経済状況で差別診療することに抵抗がなかったのだろう。そしてこの状況を、国民健康皆保険の時代になっても引きずっていたのが、歯科であった。

学位

歯学博士が生まれるのは昭和31年だが、

大正9年(1920年)学位令が改正されて学位を授与される範囲が拡大し、これは医学にたずさわる者の研究への熱情を燃え上らせたほか、資本投下として学位獲得のための研究を行おうとの動きもあって、大学医学部卒業後医局に数年間居残って研究をすすめ、学位を得ることがひろく行われるようになった。これは言うまでもなく従来の医学教育の延長であり、日本の医学の水準を向上させるのに大きな役割を演じたが、一方これは学生に重い経済的負担を課するものであった。それにもかかわらず、この風潮が一般的になったのは、当時の日本の経済情勢の好景気がその基盤になっていたのである。学生はその経済的負担に耐えることができたし、医者にかかる患者の数が増大して開業医の収入が豊かになっていった当時の事情は、その経済的負担を開業してから充分回収する見込を与えたし、又事実回収できたのである。負担がかかっても、学位を持っていた方が開業医制という自由競争の世界で、はるかによい条件で競争に参加できたし、収入も増したのである。
(「日本医学百年史」1961年、p151)

学位があれば収入が増した、という話は歯科医師にあるのか。歯科大御三家をみると、むしろ世間一般の偏差値信仰からも乖離している世界だが。しかも医師よりも開業者が多い「自由競争の世界」なのだが。

教育の国家統制

「型にはまった医者」とは、恐らく森林太郎のような融通の利かない官僚主義の医師を指している。

政府は公立医学校を禁じて官立医学校の発展を促進することを目的として、中学校令公布の翌年明治20年(1887年)府県立医学校の費用を地方税によってまかなうことを禁止した。明治5年(1872年)の学制公布以来各府県はあらそって医学校を設立したが、明治17年(1884年)頃から経済界の不況と共に学校経営が困難になっていった。そこで政府は、府県立では設備が不完全で医学教育の進歩をさまたげることが少くないという理由で、設備不十分の府県立医学校を廃止して、設備の完全な官立の医学校を拡充することにしたのである。このため、府県立医学校はわづかに京都府・大阪府・愛知県の3校を残すのみとなり、他は廃校にして生徒は官立高等中学校部に入学した。
この措置により、医学の専門学校教育でも官学が主導権を握り、国家主義的教育をうけた型にはまった医者をつくり出す結果になるのである。
(「日本医学百年史」1961年、p140)

確かに戦前の医学界はドイツ医学一色で学理第一、研究優先、患者無視の傾向があったが、しかし現在に至るまで私立優勢の歯科だって「型」はあろう(アメリカ医学一色で技工第一、自費優先、EBM無視)。官学か私学か、という以上に、右倣え・臭いモノにフタ・出る釘は打たれるという日本の国民性が業界やヒトの均一化を進めるのではなかろうか。

芝八事件

歯科医師会が歯科技工師に対しエゲツなかったと同様に、医師会も薬剤師に対して非常にエゲツなかった。例えば芝八事件など。

大正5年(1916)、東京・芝区に於て、あらかじめ擬装客を使って区内8軒の薬局へ行かせ、症状を告げ、示された売薬をことわって個別の薬品を指名し、それを混合させて買い求めさせ、同区医師会幹事がこれを薬律違反として告訴するという、いわゆる芝八事件がおきた。
(「日本薬学会百年史」1980)

「東京・芝区」は日医会長・北里柴三郎のおひざもとで、北里は芝区医師会の会長でもあった。

同事件は、区裁判所および地方裁判所無罪、大審院有罪、再度の大審院無罪という判決であった。最終判決では、本県が作為的に犯罪を誘発し、実在しない患者の虚構の疾病であったから罪を構成しないのであって、混合販売行為そのものは薬律14条に違反する、との内容であった。
この判決は薬剤師にとって大きなショックとなり、身分法つまり薬剤師法制定へ向けての運動開始、大正14年(1925)公布への契機になった。

「薬律」とは明治23年3月施行の「薬品営業並薬品取扱規則」のこと。
「薬律14条」は“薬剤師は患者の氏名、年齢、薬名、分量、用法、用量、処方の年月日および医師の氏名を自記し、または調印したる処方箋により調剤すべきものとす”。
「混合販売」とは、薬剤師が患者の訴えから複数以上の薬を調合して販売すること。まあ、歯科でいうと、歯科医師を介さずに歯科技工師が患者に義歯を製造・販売するようなものだろう。

なお、当時の処方箋料は高額※で、薬局における処方箋調剤は皆無に等しかったという。薬局や薬剤師は、経済的に混合販売に頼らざるを得なかったわけである。これを嫌った各地の医師会が大正4年から5年にかけて全国で混合販売を告発し、薬剤師側は下級裁判所では無罪とされたものの大審院ではいずれも有罪となり、混合販売は薬律違反であるとの司法解釈が定着することになった。

※福岡市医師会:大正4年、30銭以上。「宮崎県医史」:大正2年、1円以上。
「値段の明治大正昭和風俗史」によると大正3年ごろの30銭はうな重の並が食え、1円あれば日本酒の上1.8Lが買えた。初任給が巡査15円、小学校教員10〜13円、東京の大学の手間賃/日1円18銭である。

深く重い崇高な理想主義

伊東光晴といえばアベノミクスをけなしていた経済学者だが。
豊かな国になることと、軍需に支出しないということは大きく関係します。
この点は福祉国家スウェーデンもしかりでしょう。19世紀末、北欧の辺域の国で、冬食べるものにこと欠き、種いもまで食べざるを得ず、多くの人がアメリカに移民となって移った貧しい農業国家が、100年のちアメリカをこえる豊かな国になり、しかも、アメリカでは考えられない福祉国家になることができた大きな要因は、2度の世界大戦に加わらなかったことを抜きにして考えられません。豊かさと平和、福祉と平和とは密接な関係を持っています。
戦後日本が世界に誇れるものがあるとするならば、この平和憲法と徴兵のない国家であります。
にもかかわらず、私には、元東京大学総長南原繁氏の言葉を忘れることができません。『朝日ジャーナル』での連載「昭和史の瞬間」での座談会が終ったあとで、言われたことです。
「政治学者としては、軍隊を持たない近代国家というのは異常です。日本国憲法のこの異常さは、深く重い崇高な理想主義によって支えられているのです。今、日本人はこの憲法を支持しています。しかし、日本人はその理想主義の重みを支え続けることができるとは思いません。その時初心忘るべからずです」と。
(伊東光晴「日本経済の変容 倫理の喪失を超えて」2000年)

「初心」とは、

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
日本国憲法第9条

であるが、2016年3月29日から完全に空文化した(改正安全保障関連法の施行で)。南原繁はこの状況を見抜いていたわけである。そして伊東光晴が指摘するように、今後は軍需支出が増えるとともに、社会保障費が減らされていくのだろうし、すでにその片鱗はみえるのであった。例えば、社会保障費確保が名目の消費税UPだったのに診療報酬がマイナス改定だった、などである。

緊急 4/18夕方まで、熊本の助産院へ直接届けてくださる方

福岡の産前産後サポーター協力心ゆるりさんが、熊本の助産院へ直接届けられるそうで、
◎紙オムツ
◎おしりふき
◎ミルク
◎離乳食
◎水
◎赤ちゃん用ガーゼ
◎フェイスタオル
を集めていらっしゃいます。
以上を直接心ゆるりさんへ送って頂ける方よろしくお願い致します!
小郡市乙隈506-3
0942-65-6510
4/18夕方までで締め切り。

追記:早速届けてきた。よく水がありましたね、といわれる。周辺の店からは一掃されているもよう。
現地の状況についても話を聞いた。いわく、
・乳幼児を持つ親は周囲に気を使って避難所にもいられず、畑の中などで過ごしている。
・その結果、支援物資も受け取れず、同物資は避難所で腐っているありさま。
・被災者1組が現在心ゆるりで避難中。
などなど。
避難所ではお湯はあるのかミルクはつくれるのかと心配していたが、そんな私の心配を超える現地の乳幼児とその親の状況であった。昨夜など雨と強風(+余震)だったが、乳幼児を抱えた母親が畑の車中で過ごさなくてはならなかったのである。情報も物資も届かない、孤立している親子を救うすべはないのか? 乳幼児専用の災害用トレーラーハウスでも用意しておけばいいではないか、物資もガンガン積み込んで。これだけ災害が多い国でそれぐらいやっておけよと強く思う。国防とは軍事だけではないのだから。
なお、支援物資はイオンですべて入手できた。前日にはスーパーの棚から水が一掃されていたので数店舗廻ることを覚悟していたが、さすが全国展開企業である。水は個数制限があったが、それ以上に買っても文句を言われなかったのは支援物資とわかったのだと思う(領収書の品名が“支援物資”だし)。上に記した支援物資は今後も受け付けているので、可能な方はぜひ。生理用品もいるそうなのでお願いしますお願いします。



熊本地震とベルツの演説

福岡在住だが、地震警報で寝不足だ。熊本市在住の元同僚からはパニクった電話がかかってくる。離乳食と粉ミルクが欲しいというが月例も送り先もいわないし、「お湯が使えなかったかも」と電話は切れてその後連絡なし。ドラッグストアにいくと、離乳食はあるがペットボトルの飲料水はすでにない。現地では役所や病院などの防災拠点自体が倒壊し、ライフラインも交通網もめちゃくちゃになっている。
この状態にプラスして、原発事故が起こったら?
想像するだに寒気がする。少なくとも、地方自治体が策定を強要されている原発事故の際の避難計画など一切役に立つまい。どこぞの市が住民の緊急輸送にバスやタクシーを使うという計画を立てていたが、笑えないジョークだ。道路が使えると思っている時点でアウトだし、放射能汚染された地域に民間人がボランティアで来れると考えているお目出度さには声もない。
で、コレを思い出した。明治33年11月2日、ベルツの東京大学在職25周年記念式典の演説である。ベルツは明治時代にドイツから招聘された、いわゆるお雇い外国人の医師。

西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の機構、一定の大気が必要なのであります。
(略)
西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの精神を日本に植えつけ、これを日本国民のものたらしめようとしたのであります。しかし、かれらの使命はしばしば誤解されました。もともと彼等は科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしようとしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず新しい、しかもますます美しい実を結ぶものでもあるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果をかれらから引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。
(ベルツの日記第一部下、1952年p50-54)

日本の原発技術は「西洋各国」からの借り物だそうだが(小出裕章「原発のウソ」)、日本はその借り物の技術に福島原発事故後もしがみついた。かたや、ベルツの出身国ドイツは同事故後早々に脱原発を表明。この違いは何なのか、116年前のドイツ人が言い当てている。

東京大学医学部付属病院歯科の患者数/年

東京大学医学部付属病院歯科の患者数/年。
歯科患者数

(患者数統計、東京大学医学部百年史1967年)

大正4年から昭和2年まで、なんと2ケタである、年間で。月で0〜5人――臨床はまずやっていなかった、と言っていいレベルだ。歯科標榜を希望する医師の歯科研修もやっていたはずだが、臨床研修をやらずに標榜を許したのか?
この間の教授は石原久。石原は定年まで勤め上げている(大正4年1月25日-昭和2年1月7日)。この患者数でよく講座がお取り潰しにならなかったと思う。

アメリカの金輸出禁止

昭和8年の記事。

繁栄を誇ったアメリカが4日間の金輸出禁止だ、話だに非常時の日本に手痛く響くことである。6日東京市内の地金屋さんを訪ねて見ると「いやどうにもこうにも全く闇(相場が立たぬこと)ですよ、こんなことはこの商売はじまって以来です」と嘆じている。
為替相場が立たないから無論「金」の相場の立ちようがないというのだ。勿論日銀は9円29銭で6日も依然買上げを中止したわけではない。けれどもこれは産金会社を目標にしたもので素人筋は「アメリカ危うし」の声に先ず円為替相場の騰貴を思い、ついで金価格の下落に思い至っていささか狼狽気味で手持の金を売りに出した。
インフレを見越して金を思惑していたような人々だから無理はない、相場は立たぬながら8円から8円50銭くらいまでで取引した店もある。天賞堂なども200-300匁から金塊が持込まれて6月1日で1万2000-3000円の商売が出来た。神田の徳力地金店では多い時は300-400人の客が午前9時から午後6時まで混雑して30-40貫の金が売買されているのに、6日は相場が立たないから金の買取はやりませんと商売を休んで折角押寄せたお客を帰した。同店では最近市内の貴金属商は金の騰貴から商売あがったりで仕方なくお客さんの持込む金製品を買取っては私どものところへ運んでその間の値開きを思惑的に儲けていたのですが、こうなったら一寸困るでしょう、今日も金歯や金鎖など持って来て「金はもっともっと高くなるかと待っていたのに」 と残念がっていましたよと笑えぬ悲喜劇を紹介する。しかし玄人筋の見るところでは為替の変動から多少の金価格の下落はあっても、もしアメリカが兌換停止にまで行くなら結局世界中で頼りになるのは「金」だけになるだろう、とに角「金」にさえかじりついていれば間違いあるまいと落ついて駆引するそうだから、金塊、金鎖、金指環、さては金歯の所有者もまずあわてずにゆっくり「金」の非常時に善処することだ。
相場は『闇』に鈍る黄金の光、1933年3月7日付大阪朝日新聞
翌9年には銀が高騰してシルバーラッシュになる。11年の日本銀行による金買上げの大幅引上げまで、「金歯の所有者」は所有し続けただろうか。

ゴールドラッシュ

昭和8年の記事。歯の修復に金が使われていた時代だが、

金!金!金! あそこでもここでも大金山発見、ある人達が2億円近くの黄金を積んだまま沈んで居るだろう所の軍艦を対馬沖から引揚げようとすると、どっこいそれは自分等が海面使用権を有する領海内に沈んで居るのが本当だといって、同じ軍艦目当てに他の人達が引揚げ計画を発表する。かと思うと、イヤ蔚山沖にも大金を積んだまま沈んで居る軍艦があるといったように、最近海に陸に実に荒っぽいゴールドラッシュ、一方ではくず屋さんまでが、各家庭を訪れて「金杯のお払いはありませんか」、「金歯のお払いはありませんか」と、隅から隅まで漁って回るという熱心振り、今や我国は全くの黄金狂時代である。何しろ『金1匁は5円也』と常識づけられて来たのに昨年3月にはそれが7円25銭に飛び上り、8月末には8円46銭、最近では政府の買あげ値段さえ9円44銭にもなって、僅々1年足らずの間に金の値段が約倍になったんだから、金!金!金と血眼になって捜し求めるのも無理じゃない
いつまで続く?『金』の狂想曲、1933年1月24日付東京朝日新聞)

金は高騰→暴騰し、金歯を入れることには投機的な意味合いも加わっていた。実際、獄中の囚人が自身の金歯を換金して飢えをしのいだりしており(久保田栄吉「赤露二年の獄中生活」)、社会の混乱期には紙幣より役立つものではあっただろう。スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」で、シンドラーに救われたユダヤ人たちが自らの金歯を抜き、指輪をつくってシ氏に贈るエピソードも感動的だった。しかし、歯科材料が治療以外で重宝されてしまうという状況は、歯科医療にとっては不幸なのかもしれない。

奢侈の気分

大正10年の記事。1貫=1000匁=3.75kg。

大正8年中、大阪府下の貴金属細工業者と歯科医で金銀を使用した数量を生活状態の一部を知る史料として府産業課の手で調査中だったが、その結果が分った。
(略)
歯科医の使った金の原料は80万1984円、この数量21貫717匁、外国貨幣(註:で鋳潰されたものが)136貫844匁、銀原料3490余円、地金28貫771匁に上っている。さらにこれを細別して歯科医の使用した量を大阪市内の人口に割当てると大正8年現在、市内人口約125万3000人中15万470人がソノ患者で、金1匁に対し使用人員は8人3分強
光る金歯と細指に嵌めた指輪や其のほか色々の細工に潰された金の量、1921年2月2日付大阪朝日新聞

8人で金1匁(3.75g)。
続いて地区別に金の使用料が出ているのだが、

仔細に4区の奢侈模様を鑑別すると、何といっても南地五花街道頓堀等を控えた南区の全体が総じて奢侈の気分の濃厚なのを知る事が出来、北区がソレに次いでいる。


歯科患者の金使用を完全に「奢侈」扱いしている。しかし、日本聨合歯科医師会が横浜正金銀行から金を払い下げてもらう時の条件は、歯科治療用に限るというものだったのだが。

金の濫用

大正6年の記事。第一次世界大戦勃発により欧米は禁輸出を禁止したため、大正6年ごろには金価格が暴騰。日本連合歯科医師会は大正6年9月に大蔵省と折衝のうえ、大正8年6月の金地金割当制限解除まで会員に金地金購入券を配布している。

時局以来、到る所大小成金続出し、金製装飾品および装身具需要著しく増加し、平時の6-7倍に上ったのみならず、戦争で邦人の歯が悪くなったのでもあるまいに歯科医師の充填用の金需用額が10倍以上という驚くべき増加を示している。すなわち成金時代の表象として津々浦々まで金歯の男女がウヨウヨするに至るべき形勢となった。これは申すまでもなく、以前は比較的富有なる中流階級以上の人が金歯を光らして喜んだのに、近来は成金職工や賞与金成金、さては気の利いた女中君まで金歯に成金ぶりを発揮せんとてさてこそ歯科医の門前市をなすに至ったので、従来一般歯科医は1ヶ月5-6匁ないし15-16匁の金を金属商に註文しいたるに、今日では1日に5-6匁も使用するという素晴らしい景気。今日の金の昂騰も全く原因はこの金の濫用にある
引張り凧の米国金貨、1917年9月30日付大阪毎日新聞

大正5年には“装飾目的の金歯も歯科医業の範囲”として入歯師が有罪になるという判例〔大正5(れ)1763〕があるくらいだから、金歯でもうけていたのは歯科医師だけではなかった。むしろ、この成金ブームの際に非歯科医師(歯科技工師)が増えたのだろうと憶測する。装飾目的で金歯をいれる世の風潮を非難する真っ当な歯科医師の文章もこの時期にみられるが、歯科医師会から公式の金歯反対声明などが出なかったのも歯科技工師の存在があったからだろう。歯科医師が金歯を拒否しても、客は歯科技工師に流れるだけなのだから。金歯差益は薬価差益どころの騒ぎじゃなかったであろうし。

藤田恒太郎「歯の話」

藤田恒太郎「歯の話」は名著であるが、

歯ならびの矯正を「病気をなおすのではない」「美醜の問題であるから医術ではない」などといって医学の邪道であるかのように考える人たちもいるが、それは人の心の病気――精神衛生――をおもく考えない人たちである。歯ならびを矯正することは、隆鼻術や二重まぶたの形成手術などとはちがって、美醜の問題を解決すると同時に、機能の改善がえられることを忘れているのである。
歯ならびをととのえる学問と技術を歯科矯正学といって、歯科学の一分科になっていることは、その重要性が認められているからにほかならない。


絶版である。初版は1965年、岩波新書。

ほんとうの矯正は、生きた歯を骨のなかで動かし、正しい位置にもってくる技術で、それによって歯の位置をかえたり、あごの形を改善するのであって、考えてみるとずいぶん面白い技術といわなければならない。
このような技術がおこなわれるのは、生きた骨というものが、わずかの力で形を変えることができる、という証拠で、歯が骨のなかでらくに移動することができるのは、歯にくわえられた力で、骨が一部分吸収されたり、逆に増生したりすることができるからである。この事実は、動物の歯で実験をし、組織学的にもたしかめられたことがらである。ではどうして歯にくわわった弱いしげき(力)で骨を溶かしたり、新しくつくったりする細胞ができてくるか、という機構はまだわかっていない。おそらくは将来、組織化学とか、生化学の力をかりなければ解決できない問題だと思われる。


請う復刻or再販。

公衆衛生や公害にはとんと無とんちゃく

都内のセメント工場から放射性物質が放出?――福島原発由来なのか」を読んで、この一節を思いだした。

歯科医で治療代にあがると、日本人はやたらにうがいをしたがって、その潔ぺき癖をしめすが、西洋人は治療がおわるまでうがいをしないで平気でいる、といった鈍重さをもっている。
これは、潔ぺきで風呂好きの日本人が、不潔のエッセンスのような銭湯方式の風呂を用い、茶室のような清楚な住居をこのみながら、公衆衛生や公害にはとんと無とんちゃくな点とよく似た問題をふくんでいる。
藤田恒太郎「歯の話」1965年)

まさに。福島原発による放射能&汚染水問題は史上最大の公害であり、公衆衛生的にもアウトなのだが、なぜ環境省も消費者庁も厚労省もそろってガン無視なのか。受動喫煙どころの騒ぎじゃないと思うのだが。

物価の優等生

経済学者の伊東光晴は、昭和40年代半ばから8年間、中央社会保険医療協議会の公益代表委員を務めた。

私が中医協の委員であったとき、この医科の薬価差益は医科にという考えに反対した。私の記憶に誤りがなければ、反対したのは私一人であった。医師会を代表しているY委員は、これに答えて、このことは歯科医師会と話し合い、同意をえている事項であると言い、歯科の委員の方を見た。反論はなかった。会の終了後、私はY氏に事の経過をただした。すると、中医協とは関係なく、当時の歯科医師会長が医師会の申し出に、あまり考えることもなく、軽く合意していたのである。中医協の歯科を代表する委員も、同会長のこの合意を医師会から知らされ、反対することはできなかったというのである。私は、Y委員に、この決定は誤りであることと、私は公益委員として認めないことを再度述べて、Y委員も私が反対したことを了承した。私は今も、80年代以後の診療報酬体系をゆがめた責任は、当時の歯科医師会長の軽い気持ちでの合意――結果的には組織の関係者としての独断的行動――にあると思っている。
(伊東光晴「供給過剰時代の歯科医療」、日本歯科医師会「歯科医療白書」2003年)

ナニを考えていたのか、山崎数男日歯会長は……。

医師会のとった戦術は、つねに技術重視の医療の主張であり、それに基づく診療報酬体系の実現である。これに対しては、支払側も積極的に反対することができなかった。新技術を健康保険に入れ込んでいくと、当初、その単価は低い。ある程度、普及した時のことを考えて点数を決めるからである。こうした導入期をまず作り、次いでこれがある程度普及すると、適正な単価を求めて強い主張を行い、単価の引き上げを実現させていくのである。これが診療報酬体系を、診療所から病院へとシフトさせると同時に、財政事情から高次医療の点数が低く、高次医療を行う病院の赤字と不満、診療科間における格差と医師・歯科医師の所得格差を生み出していったのである。
だが歯科医師会の行動は異なっていた。金属床とかメタルボンド等の健康保険への制度導入を自ら要望しながら、歯科医師会内部の反対のために、導入を阻止するという行動をとった。費用の増大をきらう財務当局は、これにのり、導入を停止しつづけた。
制度上は、普及率が増大すれば保険導入をしなければならないものが、こうして導入されることなく放置され、いつしか、白ら導入を要望したことすら忘れられ、中医協の公益委員が導入を強制しているかのようなことを公然と言う歯科医師の主張が活字になってあらわれる始末であった。
この結果は、新技術の導入によって医療費を増大させる医師会とは対照的に、歯科診療報酬は停滞し続けたのである。


以上、歯科診療報酬が物価の優等生である所以である。

政治家の思惑

2016年3月8日に発表された第109回歯科医師国家試験の合格率は、63.6%だった。某歯科大学の関係者によると、普段できる学生が落ち、合格が危ぶまれていた学生が受かるサプライズな試験結果だったそうな。まあ、10人中9人が受かる学校にも不合格者があり、10人中7人が落ちる学校にも合格者はあるのだから、試験にサプライズな要素は常にあるともいえるが。
なお、第110回医師国家試験の合格率は91.5%だった。医学部と歯学部の偏差値を考えれば合格率の差も妥当なのかと思いつつ、“政治的判断”を感じずにはいられない。
16年前の本だが、経済学者の伊東光晴は歯科医師の数とその収入の関係についてこう述べている。

1960年――日本が高度経済成長時代に入ろうとしたとき――、わが国の歯学部数は7校で、入学定員は合計690人であった。ところが1980年になると、29校、入学定員3360人になったのである。なにゆえこれだけ歯学部が増加したか、その大きな理由は、歯科医師の恵まれた収入の時代が続いたからである。私は、1967年12月から81年6月までの診療報酬の改訂率からその上昇を計算してみた。歯科の診療報酬はこの間2.5倍になっている。これに対して医科は2.42倍であるが、医科は高次医療の病院へのシフトが大きく続いていることから、一般診療所医師の所得の上昇率は歯科に及ばない。この恵まれた時代を背景に歯学部の増加が続くのである。1983年以後の医療費抑制政策は、逆に歯科の診療報酬が医科にくらべ大きく落ち、冬の時代が出現する。
(伊東光晴「日本経済の変容 倫理の喪失を超えて」2000年)

「1983年以後」に「歯科の診療報酬が医科にくらべ大きく落ち」たのは、薬価基準の引き下げ財源を診療報酬本体に充当したためであり、さらにいえばここでも医科歯科の区別をつけたからだという(伊東光晴「供給過剰時代の歯科医療」、日本歯科医師会「歯科医療白書」2003年)。つまり、医科の薬価差益は医科に充て、歯科の薬価差益を歯科に充てるのだが、歯科は医科よりも薬を使わないので薬価基準の引き下げ財源も医科より少なかった、と。

1990年WHO(世界保健機関)は「口腔保健医療関係者に対する教育上の重要課題――変容か衰退か」(森本基・宮武光吉監訳、口腔保健協会、1991年。以下邦訳による)を発表し、その第10章「勧告」の中で「いくつかの国での歯科医学校の乱増は非難さるるべきであり、この種の無計画な活動によって生ぜしめられた資源の浪費を認めざるを得ない」と述べている。
この一節は、具体的には日本の歯学部の無計画的増設を指しているのであり、逆に欧米では虫歯、歯槽膿漏の減少に対処して、歯学の入学定員の削減、歯学部の閉鎖を計画的に進めたのである。ボン大学では、保健・衛生思想の定着とともに、受診率の低下がおこっているのを予見して、入学定員70人であった歯学部を36人と51%に縮小しているし、アメリカでも歴史ある歯学部を廃止し、医師過剰問題を事前に防いでいる。
日本でも社会的必要をはるかにこえる歯科医師供給になることは、関係者の間でよく知られていた。にもかかわらず、歯学部の増設が政治家の思惑と受験生の増大によって推し進められた。その結果、医科の一般診療所の医師の収入を100としたとき、歯科のそれは、1981年の10月調査時点の100.7から87年11月には61.5に落ちたのである(いずれも中医協調査資料による)。


「政治家の思惑」については、以下の付記がある。

将来の歯科医師過剰が明確であるのに、なにゆえ、これほどの数の歯学部増設を文部省が認めたかについて、歴代の責任者はすべて、その新設に与党の実力政治家がからんでおり、その力の前に受つけざるをえなかったと述べている。これが政治家の利益によって動く“政治主導”なるものの実態である。


歯科医師会はその政治力(=献金力だろう)で、自らの首を締めたようだ。歯科医師過剰問題にしろ、7:3の大臣告示問題にしろ。

川西事件の意趣返し

史上初の保険医指導・監査は、川西事件の意趣返しだったようだ。昭和11年の記事。

内務省社会局では全国の鉱山工場その他の労働者の診療に当っている健康保険医のうちにインチキ診療を行っているものがあるとのことに係員を東京、福井、新潟、岐阜、宮城、福岡6府県に特派、146名を調査の結果

1、手術、投薬等で違法と認められるもの114件
1、被保険者から不法に費用を徴収したもの119件
1、その他18件
1、不当治療をやっていた保険医は60余名

そこで社会局では右の保険医については数日中に警視庁ならびに関係府県に理由書を送致し、府県医師会と協議の上、保険医の取消その他適当に処分させることになり、一方かかる状態では保険医を信用できないので来月中に契約を締結することになっている明年度の医療報酬(年額約1600万円)の契約に当り、この医療事業を請負っている日本医師会に対し医療内容の根本的改革を要求し、もし医師会が応ぜざる場合は医師会と手を切り、一挙内務省直属の保険医制度を設ける方が良策であるとの強硬論も出ている
全国保険医から夥しい不正事実、1936年2月13日付東京朝日新聞)

まさに倍返し。内務省は、医師会の一番の弱点を突いたわけである。なお、歯科医師は指導の対象から外したようだ。いろいろな意味で、歯科は国から無視されている。

川西事件

昭和10年、社会局保険部長の“保険に不服があるなら保険医やめれば”発言に怒った日本医師会が、当該部長を更迭しようとした、いわゆる川西事件についての報道である。

日本医師会では、内務省社会局から年額約1000万円で請負っている工場鉱山労働者の健康保険料について昨年来値上げを要求し、この値上問題の不調にからんで社会局の川西保険部長の不信任を決議して後藤内相につきつけ、同医師会と社会局はついに正面衝突を見るに至った。両者は何れも強硬な態度を持し、その結果は請負の解約を見ることになるかも知れぬ情勢にあるので成行きを注目されている。
すなわち医師会では昨年現在の1人当り保険料7円44銭余では完全な治療も出来ず医師の収支も償わぬので9円53銭に値上げしてもらいたいと社会局に要求し、社会局は右要求は不当であると応ぜず、紛糾を重ねていたが、たまたま値上問題について川西保険部長が現在の制度に不服の医師は保険医をやめてもらいたい、また社会局としては労働者がだしている保険金であるから正当の理由がなければこの保険金を流用するわけに行かぬといったことが、値上問題の不調に業を煮やしていた医師会を刺戟し、医師会は昨年末の総会で「川西保険部長の言動は健康保険の発達を阻害す、同部長の反省を望む」との不信任決議をなして後藤内相等に提出した。医師会はあくまで川西部長の更迭を要求し、医師会長は後藤内相等と会見して折衝を重ね、とおらねば請負を拒絶するといきまいているが、一方社会局は医師会の川西部長弾劾は理由のないことで、かかることで挑戦的に出れば社会局も請負を解約し、他に適当な方法を講ずるから何等の支障もないとすこぶる強硬である。

川西實三(1889-1978)は健康保険法の立案者である。

川西保険部長談

日本医師会が何のために私を弾劾しているのかどうもわからぬ。いろいろ想像はしているが、ただ今は私から何も言えぬ。しかし、医師会が請負を辞退すればこちらは解約して他の方法で事業をやるから心配はない。

日本医師会幹部談

川西保険部長は余りに医師に対し無理解過ぎるので、反省を求める決議をしたのだが、医師会としては請負問題その他をどうするかについては役員会を開いて決定することになろう。
日本医師会と社会局遂に正面衝突、1935年1月9日付東京朝日新聞)

政府と開業医団体、両者が激しく対立したかに見える川西事件だが。
実費診療所に対するえげつなさに比べれば、川西事件での医師会の「弾劾」は生ぬるい。赤化防止のための救貧事業を、資本主義経済のもとでやろうというのである。資本主義をベースに医療人が医療の本質を貫くにはどう制度をつくるべきか、取りあえずこんな鼻クソみたいな点数じゃダメだろう――ということを医師会は「弾劾」すべきであったと思うが、まあ、医師会は自由診療のほうで何とかしようと考えていたのだろう。階級社会で差別は当たり前の時代であり、保険の患者の赤はいわゆる経営トータルバランス論で乗り切ってくれ、というのが政府の意向であった。戦前の健康保険法時代の医師会は、戦後の差額徴収で突き上げられる歯科医師会と似たところがある。
さて、職務を自覚しない職業団体に国民の目は冷たく、特にメディアは医師会の言い分(低点数すぎる)に理解を示しつつも批判的であった。そして保険医も国のビンボーと無策の犠牲者であるというその理解は、日本の軍国主義化でだんだん失われていくのである。

公益を害するもの

昭和7年、内務省が医師会報酬規定を「強行規定としない」と発表したという記事。

(註:内務省は)各府県ならびに郡市区医師会の医療薬価報酬規定は強行規定を認めず、単なる標準規定と認定することに決し、各府県衛生課長に秘かに厳命を下した。この結果、従来は郡市区医師会所属の全国の開業医が自由競争からあるいは社会政策的に医療費を値下げしようとしても医師会の決議に拘束されて実行し得ず、たまたま潜行的にこれを行ってもし発覚すると共同の制裁として過怠金を徴収されていたが、今度はこれを強行規定としないのだから、開業医の任意で医療代を値下しても共同の制裁がおよばず、もし制裁を加えるものがあれば公益を害するものとして各地方長官は制裁の取消しを命ずることになるわけである。(「医療薬価を社会政策的に値下」1932年10月28日付大阪朝日新聞
 

というわけで、医師会の報酬規程は「標準規程」となった。事実上の空文化である。

社会の一員として大いに賛成 内ヶ崎日本医師会書記長談

内務省が医療報酬規定を標準規定と認めることについて未だ医師会に対し正式に通牒はないが、それは事実である。われわれ医師も社会の一員としてこれに賛成し、経済的能力の稀薄なものは医療薬価を安くし、いわゆる社会政策的の値下をして従来の医療薬価の画一制を打破するが、それには自ら最少限度があって一定範囲内で各開業医の自由裁量により値下げしたいと思う。またこれは全国を通じて近く実現されることになろう。

八王子事件であれだけモメたというのに、アッサリ認めているのは意外。

個々的に減額

開業医の苦境を伝える昭和5年の記事。

医療社会化の第一歩として内務省衛生局が安達内相の内命を受け、全国各府県の医薬報酬規定を調査し、まず官公立病院の医療薬価値下げを断行せしめ、ひいて一般開業医を誘導すべくひそかに攻究していたところ、すでに大阪の公立病院、宮城の日本赤十字病院支部等は率先して値下げを行い、他の府県も続々これに追随する情勢にある。この企画ならびに趨勢を聞知した全国開業医を統制する日本医師会は非常に驚き、事前にこれを阻止せんと早くも同会の幹部が内務当局を訪問し牽制運動を開始している。
(略)
日本医師会側の意向は開業医の医薬値下げはもちろん、官公立病院の医療薬価引下げには絶対反対の態度をとっている。その論議は現時の深刻な不況に遭遇し開業医の収入は概して5割ないし2、3割減という実状にあって特殊技能のない一般の医者の生活苦は相当甚だしい、この医師の不景気難に陥っている場合に一般物価と同一視して医薬報酬の値下げを断行することは出来ない、しかし各府県に派生する郡市区医師会の医薬報酬規定は単に標準を定めたものであるから、経済的の負担能力の少ない患者に対しては医療社会化をはかる意味で個々的に減額している、国体的には東京四谷日本医師会所属開業医は最近の社会状態に鑑み減額診療券を発行し相当の効果を収めているというにある。
「医療薬価の値下げ日本医師会早くも反対」、1930年7月25日付東京日日新聞

「個々的に減額」というのは、実は今でも行われている。療養担当規則違反だが。温情で患者負担金をツケにしたら、そのまま逃げられたり。

多くの開業医の中には往々患者から金をしぼるため不必要な投薬注射を施すものがあり、同会幹部もこれを自認しているから、日本医師会は内務省衛生局の今回の企てには極力反対するが、これに刺戟され、かつ社会的批難を深く念慮し、自ら内省して医療の合理化を計り、たがいに相いましめて、ぼるための不要な医療を慎み、医療の社会化を企てるため減額診療券を警察方面委員、町世話人の手を通じて無産者に交付し、社会政策を加味するとのことである。


無産者に診療券を配った地方歯科医師会もあったようだが、歯科医師会史など見ても非歯科医師(入歯師)対策のほうが圧倒的に記載が多い。榊原悠紀田郎など、医療の社会化に対する歯科の関心は薄かったとしているが、そうなのか。「開業医の収入は概して5割ないし2、3割減」というほどの不況が、歯科に影響しなかったとは思えないが。
なお、世界恐慌の影響で、昭和5年には健康保険の被保険者数が制度はじまって以来最低の154万人(創設時は220万人)まで減少している。保険料の計算基準となった賃金が低下したうえに保険料の滞納も増加したため、昭和6年には診療報酬の人頭割単価が4分引き下げられた。この健保制度崩壊の危機を脱するきっかけは満州事変である。軍需景気(軍事費の増額、軍需品の増産)により、日本の健保制度は持ち直すのである。

約6割を増額要求

昭和2年、中外商業新報の記事。始まったばかりの健康保険を議論する、日本医師会評議員会についての報道である。なお、中外商業新報は日本経済新聞の前身。

医師会側の態度は団体自由選択主義という現状維持案で契約は日本医師会が団体としてなし、被保険者すなわち患者は保険医を自由に選んで診療を受けることにするものであるが、社会局側では現在3万の保険医があるがこれまで実際に患者に接しているのが約半数しかない事実から保険医を制限し、かつ一部の保険医が患者を独占するなどの弊を除くため、保険医を地域的にも制限するため個別契約にしようとしているものである。
「健保契約の条件 意見続出の日本医師会」、1927年10月30日付中外商業新報

保険医3万のうち「実際に患者に接しているのが約半数」。歯科はもっと低かったのかも。しかし歯科医師会に関する一般メディアの報道は少ない。今の歯科医師会のように一般報道関係者を締め出しているのか、それとも単にメディアから無視されていたのか、その両方なのか。
ちなみに、この頃国に保険料の強制徴収権はなく、滞納されても打つ手はなかった。保険料を滞納された場合に限り政府に強制徴収権が認められたのは、昭和4年の健保法改正からである。

医師会ではこれに対して絶対反対し現状維持を主張し、なお本年度の診療単価約20銭の予想が全く裏切られて事実は12〜13銭から7〜8銭台を前後しているので、来年度は入院料を除外した診療費を6割増額し、別に事務費として被保険者1人当り60銭を附加して、結局本年度額の約6割を増額要求することとし、これら医師会案が政府の承諾を得なければ断然契約を締結しないとまで強硬意見が支配し、29日からの総会に付議することとした。


国が見込んでいた受診者数は、18万8500人/月。しかしフタを開けてみると実際の受診者数は28万100余人と1.5倍、よって患者1人当たり診療費も予定:50銭/日→実際:22銭7厘/日と、半額を割り込んでいる(1928年3月8日付中外商業新報)。しかもこれらの患者は不調を溜めまくって受診に及んだものたちだろうから、医者は経済的にも肉体的にも大変だったと思われる。今なら厚労省や医師会あたりが“症状悪化前に早期受診を”などと広告を打つだろうが、この時の国は“軽微な症状で医者にかかるな”というお触れを出すのであった。
さて診療費の分配方法について日医評議員会では、

1、被保険者中多数の炭坑坑夫を有する地方に就ては一定の増率分配を認むるの可否
2、入院料に就て所謂生活費と治療費とを分離するの可否
3、単価を全国的均一主義にするの可否


が議論されたが、1以外は否決。3の否決理由は「尚早」だった。今以上に地方差が激しかった時代であるのだが。

歯できく聴音器

昭和7年の記事。歯科医師で医学博士の星野行恒氏が発明した「歯牙伝導聴音器」を紹介している。

星野氏は歯科医としての立場から患者がもっとも厭う歯の鑿孔に伴う震動音を軽減する目的で昭和2年以来「歯牙による音伝達」について研究を重ねついに「音の骨伝導中で歯牙によるものが最も強い」ことを電気音響学的装置を用うる写真によって科学的に立証し、その研究の副産物たる歯牙伝導聴音器は聾唖教育上すこぶる貴重な発明であると認められ、本年5月京大医学部より医学博士の学位を授けられたが、氏はさらに航空機への応用に研究を進め、ついに同一機の搭乗者同士が空中で極めて容易に通話し得る歯牙伝導聴音器の発明を完成した。
この装置はラッパ形の送話器とその中に挿入された魚形水雷形の受話器よりなり、受話器の先端には象牙の聴話桿が突出して通話者が銘々これを胸部に取付け、一方のものが話をすると音波が低周波増幅器によって増幅され、他方のものの聴話桿を震動させ受話者がこれを口にくわえれば震動は歯を通じて内耳に達し、全然鼓膜の機能を欠く場合にも通話することができる。
「翼に乗る鳥人の耳 歯できく聴音器」、1932年12月9日付大阪朝日新聞

同装置は「鼓膜の機能を欠く場合にも通話することができる」ため、聾唖者用にも応用しようとしていたようだ。

従来飛行機搭乗者間の通話はチューヴまたは電話機によっていたが、プロペラーの爆音と空気の急激な移動、耳を蔽う防寒具の3障碍のために極めて困難であったが、これによれば歯牙伝導は談話音階を最もよく伝える特殊な性質があるので爆音は妨げとならないこと、口の直前に送話ラッパがあるので音波伝達が容易なこと、歯牙伝導は耳栓が完全なほどよく行われることで以上の3障碍が完全に除去せられ、通話は非常に容易となる。
この装置はすでに工場の騒音内で実験され、非常な好成績を得たので特許出願をなすとともに、星野氏の同郷同窓の友人西岡竹次郎代議士の尽力で軍事上すこぶる重要な発明として8日、書類をまとめ陸外軍省に紹介されることとなったが、大阪工業大学内航空研究会でも近く発明者を招いて説明を聴くはずである。
発明者星野行恒氏は長崎市波平町の出身、大正7年日本歯科医専卒業後、しばらく東大歯科教室に勤務し、のち郷里長崎で開業したが、昭和2年、京大耳鼻科教室星野教授指導の下に研究を積み、私学での歯科医としては珍らしい医学博士である。

関連論文はコレ。続報がなく、この「ホシノフォン」が実際に軍で使われたかどうかはわからない。

東京だけが悪い

昭和2年1月1日、健康保険法がスタートした。同法の対象は工場法等の適用を受ける工場労働者。というわけで、起案も内務省ではなく農商務省であった。

全国50ヶ所の健康保険署が手ぐすね引いて待つ健康保険法実施の1月1日を目の前にして、続々と各工場会社の保険組合が設置され、中には保険料負担額にからんで争議までも起している工場があるが、一方保険医薬剤師等の中には保険料が安いために商売にならぬところから引受けを渋っている者が多い。


「健康保険署」とは健康保険法の事業所への適用・認可や保険料の徴収などを行う地方の実施機関である。この健康保険署は昭和4年に廃止され、その後は各道府県の警察部に設置した健康保険課がその職を担うこととなった。健康保険事業は警察行政、治安行政の一環だったのである。
なお、記事中の「保険料」とは、保険医に支払う診療報酬の意味のようだ。

まずこの保険法の内容をわかり易く説明すると年収1200円以下の者は強制的に加入することになっており、その数は全国に210万人ある。この中140〜150万人は保険署直営、他の50〜60万人は保険組合の組織によって疾病、傷害、分娩死亡の場合の保険制度を受けるので、1月1日から病気になったり怪我をしたりすると被保険証さえ持って行けば、自由に保険医を選択して診察や投薬や手術や入院等が無料でできるのである。ただ往診は半里以内は無料だが半里以上4里までは車代だけ払うということになっているが、医者の中歯科は診察、治療、充填の外に義歯、つぎ歯、金冠までが無料で引受けるというようなわけなので被保険者は非常な便利を受けるのである。


「年収1200円」、すなわち月給100円は所得税の課税最低限(1926年の税制改正時)だが、当時は所得税納税がステータス(岩瀬彰『「月給百円」のサラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』2006年)。昭和ヒトケタ時には、大体月収50円で夫婦のみ世帯が生活できたという。

保険医としては被保険者1人当り年額7円42銭6厘7毛、保険歯科医は1人当り68銭5厘ずつを保険署から支給されることになっており、保険薬剤師も薬品原価表、調剤手数料、容器代を併せて薬価とし、かつ薬価公定のため、ほとんど営利にならぬのでついに保険医、保険薬剤師が引き受けを渋り出したわけだが、全国の医師4万人歯科医薬剤師各1万2000人の中の大部分はまだ引受けを承認していない状態である。最もはなはだしいのが東京府の6320人という医師連で、まだ1人の承諾も無く医師会の決定意思も保険署に申出ていない。わずかに薬剤師3400人の半数程が承認を届出ているがごく少数の特別事情のある医師、薬剤師以外は保険医、保険薬剤師を引受けねばならぬ法規があり、かつ医師、薬剤師の完全な選択の自由を210万の被保険者に与えることになっているので、実施の暁は医療組織の革命ともなり保険法実施と共に医界の一問題となることと見られている。

健康保険法発足時の保険医療従事者は、医師:3万2155人(/4万5900人=70.0%)、歯科医師:1万143人(/1万2548人=80.8%)、薬剤師:6692人(/1万4826人=45.1%)。

これについて東京保険署の巨勢医療課長は語る。
保険法実施も来年1ヶ年は試験時代と見ねばならぬ。労働者の保険料負担問題もさることながら一方の問題は保険医保険薬剤師が果して快く引受けるかどうかで、殊に東京の医師たちがどんな態度に出るかは注目すべき点である。しかし大阪市を初め他の府県では続々と引受けてくれるので、今のところ東京だけが悪いのだ。


歯科医師は医師以上に保険医を引き受けていた。歯科が医師以上にもうけていた時代に、しかも診療報酬が医師の約10分の1という屈辱的な制度なのに。それくらい入歯師が脅威だったのか。

麻酔の歴史

R.H.シュライオック「近代医学発達史」より。1840年代、アメリカの2人の歯科医師によって麻酔法が発見されるが、

40年代の麻酔剤の紹介は、従来一般に想像せられている程、人類に対する完全な恩恵ではなかった。全身麻酔剤は著しく苦痛を防いだが、その使用によって手術が頻繁に行われるようになり、その結果間接に、病毒感染による死亡率の上昇を来した。個々の外科医で、こうした実情に多大の関心を示す者が折々現れた。中には清潔と、傷面を特別に洗浄することによって、死亡率の低下を図る者もあったが成功しなかった。ホームズとゼンメルヴァイスの産褥熱感染防止の仕事は、進むべき途を示してはいたが、それは彼等の特殊な分野に基くだけのものであったために、一般外科医には大きい印象を与えなかった模様である。
(R.H.シュライオック「近代医学発達史」、p277)

外科手術の生存率を上げたわけではまったくないのであった。で、1870年の普仏戦争でフランスの軍医が手掛けた切断手術1万3000人のうち、創傷感染で死んだのは1万人以上。南北戦争(1861-1865)が舞台の映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」でケビン・コスナー演じる北軍中尉が、足の切断手術から逃げ出す意味が今やっとわかった。当時の切断手術は10人中7〜8人が死に転帰するのである。
歯科はそこまで考える必要性がなかったから、実用化できたのかも?

麻酔の歴史

R.H.シュライオック「近代医学発達史」より、麻酔法の発達について。亜酸化窒素(笑気ガス)を初めて手術に応用したのは1844年、歯科医師のホレース・ウェルズによってである。ウェルズの着想を受け継いだ歯科医師のウィリアム・T・G・モートンは1846年にマサチューセッツ総合病院でエーテル麻酔を使用し、これにより欧米の外科医療にエーテルが普及する。傍線は引用者。

ウェルズとモールトンが2人ながら歯科医であった事実は、麻酔法の実験がはじめて成功したのが、ヨーロッパでなくてアメリカであった理由を探る手掛りとなるものである。アメリカの歯科医たちは、後に説くように、外国の歯科医に比べて目覚しい躍進振りを示していた。そうして歯科医が苦痛防止の手段を発見する緊急の必要に迫られていたことは、外科医以上であった。外科医は普通、ただ一度患者に接するだけで、次には恐ろしいのっぴきならぬ場所へ臨めばよかった。しかるに歯科医は患者に繰り返し面接して、絶対必要ともいえない処置を受けるように説得しなければならなかった。もしも苦痛なしに手術ができれば、患者は処置を続けて受けるであろうし、医業は繁昌して、社会と歯科医と両方ともに利益をこうむることになるであろう。歯根の抜去を伴う金冠の蠟付の新技術が始まったために、モールトンは、この手術を苦痛なしに行う方法をもとめることになったのであった。
(p173-174)


ウェルズとモールトンが治療に怖気づく患者を非難する(例:デンタルIQが低い)歯科医師であったならば、麻酔法は普及しなかったわけである。
で、なぜヨーロッパでなくアメリカで歯科医学が発達したかというと、

アメリカの歯科学が比較的迅速に進歩したのは、アメリカでは「一般人」が早くも高度の生活水準を享受していたためであった。彼は黄金充填術を受ける余裕があり、そのために歯科医はこの資材を用いる作業を進歩させることができたのであった。それはそれとして、アメリカの歯科医には別の有利な条件があった。この国では外科医に対して何ら職業上の差別待遇が加えられていなかったために、歯科医の地位はしばらくの間に職業的、社会的に向上していった。やがて彼等は海外でもその地位を認められて、大陸の主要都市の需要が大きくなった。これらの人々の移住のありようは――文化伝来の通常の方向とは逆であるが――ナポレオン三世の歯科侍医であった、フィラデルフィアのトマス・W・エヴァンズ博士の興味深い経歴に見ることができる。
(p178)


「一般人」にカネがあったことと、そして医療における(多くは内科医による)外科医蔑視がなかったから、という。しかし、今のアメリカで歯科医のステイタスが外科医並みにあるかといえば、ないと思うのだが。

ビルマの入歯師

大正15年、ラングーン領事・内藤啓三氏の話。当時のビルマはイギリス統治下である。大正末期の1000円は今の400万円ぐらい?

月給取の日本人はせっかく来てもいつ帰るか判らないのであてになりませんが土になりますという決心をして来ているいわゆる土着の日本人ははなはだたのもしい。それらの人々の生活状態はどうかというと小さい雑貨店を開いたり、または医師や歯科医をやってはなはだいい収入を得ている。ことに医者と歯医者は如何に収入が少いといっても4000〜5000円、よくはやれば8000円位はあります。歯科医もはなはだ少数の上に間に合せの偽歯科医が多いのではなはだ困るがほんとうの歯科医が来てくれればいいと思う。
内藤啓三の講演要旨、1926年11月12日付大阪毎日新聞)

当時のビルマ在住日本人数は450人。1910年代には三井物産日本棉花横浜正金銀行、千田商会、華南銀行の支店がラングーン置かれていた。ビルマの対日輸出品は米、綿花、鉛、豆類。一方、日本の対ビルマ輸出品は綿布、絹布、石鹸などの雑貨、薬品、そして娼婦に医療従事者。第2次世界大戦以前は、ビルマ国内での医師・歯科医師養成は行われていない(森本基「アジア歯科事情」1997)。「間に合せの偽歯科医」とは恐らく、日本人入歯師だろう。

アルマイト義歯

泉盈之進(いずみえいのしん、1904-1983)は歯科医術開業試験を経て歯科医師となった社会主義者。大正13年、馬島(まじまゆたか)の労働者診療所開設に協力し、昭和4年共産党に入党、同年4・16事件で検挙されている。
この昭和11年の記事では「日大」中退となっているが、東京歯科医学校中退という情報もあり。

かつては無産者診療所の医師として貧しき人々の治療をしている中、左翼運動にまで進んで4・16事件に連坐、囹圄(れいぎょ:牢屋のこと)に捕われの身となったが、やがて更生の身となって出所、過去を精算して今までの情熱を専門の歯科の分野に傾け、ついに画期的な特殊義歯の完成に成功し斯界を圧倒させている青年がある。
この青年は淀橋区東大久保3ノ504泉盈之進(33)氏で、日本大学歯科に在学中、左翼運動に興味を覚え馬島岨瓩量技瑳埒芭貼蠅亡愀犬垢襪たわら、歯科開業医の試験に合格したので、日大を退学同診療所の歯科主任として働くうちに昭和4年、4・16の再建共産党事件に連坐して市谷刑務所に収容され、懲役2年に処せられたが執行猶予となって昨年(註:昭和10年)出所すると、世は6年前と異って非常時の色濃く、泉氏はここに翻然と悟るところがあった。
(転向の一青年義歯の発明に成功、1936年2月10日付時事新報

判決前に6年間(昭和4-10)も収容所生活。暗黒時代である。

そして何等かの社会的貢献をして過去の罪を償わんと決意し、専門の歯科の診療に従事しているうち、ゴム義歯の臭気と金属義歯の重さについて屡々患者からうったえられたので、この研究により更生の実を示そうと爾来研究を続けたところ、最近理研で発明されたアルマイトなる化合金属がアルミニウムの最大欠点とされていた酸に対する抵抗力を防ぎ、かつ絶対に磨耗せずという絶大の性能を有しているのに眼を着け、昨年5月以来研究に没頭した結果、漸くアルマイト義歯の製造に成功、理研所長大河内正敏博士からも画期的発明と折紙をつけられたのでこれに「特殊理研アルマイト義歯」なる名称を冠して目下特許出願中であるが、近くこれを工業化し尖端的義歯として斯界にデビューすることとなった。

泉盈之進氏は語る
「暫く社会と絶縁していましたが、6年前の社会情勢と今とは非常に異っているのを知りました。私の前後6年間のブランクを埋めて何等か社会的に貢献したいと考えて研究の結果が今度の特殊義歯です。アルミニウムは学校等の研究用として使用されるが、腐蝕磨滅するので実用にはならなかったが、アルマイトはアルミニウムの欠点を100パーセントに除去しているのでこれに着目した訳です。目下試験中ですが、最初はアルマイトなんて鍋や釜じゃあるまいしなぞと軽蔑していた人達もはめて見ると案外具合がいいので評判はまあいいようです」


泉盈之進は1928(昭和3)年に設立された解放運動犠牲者救援会に参加、戦後は同会の再建に尽力して書記長にもなった。解放運動犠牲者救援会は3・15事件など治安維持法違反で検挙された者の救援と名誉回復を目的に結成された組織で、共産党系である。

金歯の為に金塊480貫を要求

1919(大正8)年4月28日付時事新報「金歯の為に金塊四百八十貫を要求」より。

世間の好景気につれて贅沢に流れた結果は、金歯が益々流行する。最近一年間に全国4000余人の歯科医が費った金塊は驚くなかれ、480貫という多数に達した。


480貫は1.8t(1貫=3.75kg)。歯科医師1人あたり、年間450gぐらいの使用量である。

血脇守之助は、今度日本連合歯科医師会を代表して、高橋蔵相を訪問し、金塊払下を要求した。
氏の談によれば「金歯の流行は4、5年来の事だが、半実用以外の虚栄から来るようだ。これが都会ばかりでない、山間僻地にも及んでいる。殊に北海道の某地の如きは、歯の強い事を誇る青年男女間に、金歯が非常に流行って金歯のない者は肩身を狭くするという、実に苦々しさの限りである。一方、近頃の金塊の騰貴は恐ろしいもので、現在の市価は1匁6円40〜50銭、函館などは7円の高価を唱えている。歯科医もこれではやりきれないので全国連合会を催し、政府当局に向って年額480貫の特価払下を要望した。ところが当局は不思議そうにそれはあまり大袈裟ではないかというので私は現状をよく説明したすえようやく許可となり、1匁5円10銭の割合で、払下許可となった。然るに歯科医会加入者以外の者がこれを聞いて続々加盟を申し出るので困っている。というのは今まで各歯科医は自分で金塊を買っていた、それを今度一纏めにしたら何のくらいになるか見当が付かぬ、大づかみに200貫ぐらいかと思っていると、意外にも480貫という素晴らしい額になった。これを時価1匁6円50銭で見積ると310余万円となるわけだ。この分で押進むと、来年度は550貫くらいな事になるかも知れぬ」


前半で「金歯のない者は肩身を狭くするという、実に苦々しさの限り」と言いつつ、後半は大量の金を特価で払下げられてウハウハ感のある日歯会長談。話の中間で非歯科医師(入歯師)批判をしたが、記者にはしょられたか。
なお、この頃の庶民の状況は、

子供が誤って5厘銅貨を嚥下し、眼をパチクリして苦しんでいる。これを見た母親は狂気せんばかりに驚き、声を限りに亭主を呼び。
「子供が5厘銅貨を飲みました。大変ですヨ、早くお医者サンを呼んで来てくださいヨ」
と連呼すれば、亭主は納まり反って
「馬鹿をいえ、医者を呼べば3円もかかるワ」
渡辺房吉「竹林雀語」大正6年)

好景気とはいえ、この程度だった。

処方せん交付義務

保険医の処方せん交付義務は昭和4年度から。

健康保険医の監督は従来日本医師会が自治的にやっていたため兔角寛大に過ぎ種々不都合の点があったので、最近内務省社会局と日本医師会幹部の間で協議の結果、昭和3年度以降においては内務省社会局が積極的にこれが監督に関与することになったので、社会局保険部では保険法施行規則(内務省令)を改正して新に保険医の義務に関する規程を挿入するに決し、その改正案を立案中であるが、内容は左の通りである。

1、保険医は被保険者より処方箋の要求あるときは正当の理由なくしてこれを拒否し得ざること
2、保険医が右の規程に違反したる場合は50円以下の罰金に処すること
3、被保険者が入院または20円以上の手術、治療、処置、看護等を受けたるときは保険証ならびに病名等を記載したる報告書を保険署長に提出すること

右の中、保険医の処方箋の義務はある意味において、医薬分業の前駆を為すものとしてすこぶる注目されている。
健康保険医に処方箋の義務、1928<昭和3>年3月26日付国民新聞)

この頃はほとんど院内処方だろう。よって「被保険者より処方箋の要求」はほぼないだろうし、「医薬分業の前駆」とは言いがたい。処方を院外にするか院内にするかは、今も医療機関の自由だし。

健康保険制度発足からひと月

診療報酬点数は、健康保険制度発足当初から予算ありきで減額査定していた。

被保険者は、資本主と半々の保険料を支払う関係から、軽微の病気でも医師の手を煩わし、特に従来等閑にしていたむし歯、欠歯等の治療、義歯、されては慾深くも金箝などまで所望する者殺到するありさまで、極端の例を挙げれば二列縦隊の女工20名に乗り込まれた市内目白の某歯科医など義歯材料もなく、悲鳴を憤慨にかえて日本歯科医師会に訴えて来たほどである。
こうした騒ぎは到るところにあり、医師と被保険者との悲喜劇が繰り返えされている。特に保険歯科医の損害は莫大とあって、先の御大葬当時、全国から有志が上京したのを幸い、日本歯科医師会では協議の上「診療報酬を値上するか、診療個所の制限を行われたい」という意見に一致し、本月14日頃内務省に陳情の手筈だったが、さらに全国的に完全な連絡をとる都合上、本月末に延引陳情する事になっている。
「診療報酬が安いとわずか1ヶ月間に手摺り抜いて歯科医師会から陳情を」、1927<昭和2>年2月20日付国民新聞)

ちなみにこの記事の副題は「この時とばかり、むし歯、歯かけ入れ歯の患者がぞろぞろ」。どうも“この程度の軽微な、死なない病気”で受診する不届きな患者、というニュアンスが感じられるのだが。

政府側では、全国50ヶ所の保険署の成績報告を本月末までまとめて、ただちに具体策をとることになり、既に社会局健康保険部では著々その準備を進めているが、年度中途にして年額400余万円の政府補助、4000万円の総予算を増額することもならず、歯科医師会の抗議とこれにつぐ医師会(4万人)薬剤師会(1万3000人)の不平をどうさばくかが注目されている。これについて古瀬医療課長は語る。
173組合、200万の被保険者がどしどし押しかけるので景気がよいと喜ぶ医者もあるが、何処でも喜悲劇続出のありさまで、歯科医はもとより、山梨県下の薬剤師は薬品原価、調剤料、容器代の3つを合せて、規定の薬価を作ることが面倒と不平を言って来ています。医師の診療1点20銭、歯科医10銭という標準で、東京は1月中だけで医師60万点の予定を遥かに突破しているが、医師会内の審査会で、不用と見る診療点数をどしどしはぶいて仕舞うので予定の報酬額に大して狂いも生ぜぬが、被保険者の保険料負担のこともさることながら、医師の報酬額問題は実施後第一の難礁です。


結局「政府側」の「具体策」とは、「医師会内の審査会で、不用と見る診療点数をどしどしはぶいて仕舞う」ことなのであった。

教育施設と職業団体の改善

シュライオック「近代医学発達史」より。アメリカでは歯科の教育施設・職業団体・医療技術が三位一体で発達したという。

この年(註:1840年)は歯科学史上運命的な年であった。すなわちボルチモア大学が建設せられた同じ年に、その市の歯科医師団体はニューヨーク、フィラデルフィアの団体と協同して、アメリカ歯科医師協会を組織した。画期的な刊行物「アメリカ歯科学雑誌」はその発行第1年にあり、地方歯科医師会が他の都市で組織せられつつあった。
教育施設と職業団体の改善が、歯科技術の発達と相伴うていたことは当然であった。
(R.H.シュライオック「近代医学発達史」昭和26年、p176-178)

医師会-医学会-医会の連携っぷりに比べて、歯科では互いに無視しあっているように見える。Ni-Crやフッ素論争で顕著だったが、歯科医師会は「歯科学」に準じる気があるのだろうか。そして診療報酬ルールに医学的根拠ナシとはよく言われるが、根拠のなさは医科よりも歯科でよりひどく、歯科系の大学や学会はなぜ黙っているのかと思う。歯科医師会の歯保連に対する冷たい態度も、ワケがわからない。連携して発言力を高めようという気が歯科にはないのだろうか。
Recent Comments
記事検索
Profile
鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
  • ライブドアブログ