売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

大川周明はいつ感染したか(33)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述をピックアップ。今回は昭和19年10月分。

沖縄が大空襲に遭った10日、

夕食を済ませた後6時20分発の小田急で河原口に帰り一泊。少し胃の具合が悪い。
(日記、昭和19年10月10日)


大川周明は「河原口」、栗田女史の家に泊まっていた。
なお、沖縄県下に来襲した米軍機は延べ900機。その被害は死者600人、負傷者900人、家屋の全壊焼1万1500戸である。

会田君より電話あり、家屋修繕の材料18日に届けるとのこと。飛行隊の兵士が守屋君を煩わして岡山か送って貰った畳表80枚をトラックで厚木から持って来てくれた。
(日記、昭和19年10月15日)


大川夫妻の疎開先、中津の豪邸は修繕中である。

6時20分の小田急にて西に往き泊る。
(日記、昭和19年10月24日)


この「西」は栗田女史の古巣(銀座)か、それとも栗田女史を指す隠語なのか。
24日はレイテ沖海戦で戦艦・武蔵と空母・瑞鶴(真珠湾攻撃に参加した最後の空母)が沈んだ。が、

ラヂオにて戦果を聞いて喜ぶ。
(日記、昭和19年10月26日)


報道されなかった。

昭和19年10月25日
▲昭和19年10月25日付朝日新聞。

25日には神風特別攻撃隊が、フィリピン沖で米艦隊に体当たりする。

7時のラヂオにて神風特別攻撃隊の報道。
(日記、昭和19年10月28日)


この最初の特攻の戦果は、護衛空母1隻の撃沈と数隻の損害であった。20日に編成されたこの特攻隊員は、マリアナの激戦を生き抜いた凄腕のパイロットたちであったという。皆「24歳以下の若桜」であった。

昭和19年10月29日
▲昭和19年10月29日付朝日新聞。

一体、当時の指導者たちの“勝利”とは、どんなイメージだったのだろう。有為な人材を次々に殺し、どんな“戦後”が来ると考えていたのか。

4時20分の小田急にて河原口に到り泊す。
(日記、昭和19年10月31日)

大本営発表の素晴らしい戦果を信じたのであれば、特攻など不必要と主張する人がいてもおかしくないと思うのだが……。

大川周明はいつ感染したか(32)

大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述をピックアップ。今回は昭和19年9月分。
8月17日に大川夫妻は、トラック2台で神奈川県中津に疎開した。愛人の栗田女史もほどなくして呼び寄せたようだ。。栗田女史の疎開先住所は、神奈川県高座郡海老名村河原口である。
疎開先、大川邸となった中津の家の内装や畳の手配を依頼する書簡に、以下の名前が出てくる。

就ては左の人名列挙仕候間御高配被下度候。
1、大川周明 神奈川県愛甲郡中津村
1、高山男也 同   高座郡海老名村河原口
1、栗田維人 同   同  同   同
1、石川安一 同   同  同   同
1、会田喜市 同   愛甲郡厚木町仲町
尚一番近い駅は、小田急線厚木駅に御座候
(書簡、昭和19年9月10日、守屋茂宛)


栗田女史、同住所に住んでいる「石川安一」氏と不仲になって結局は河原口を引っ越すことになるが、それはまた後の話。

健康思わしからず、直ぐ疲れる。午前散歩。
(略)
法政大学部<ママ>1学年通年勤労のため明年9月まで休業の通知。
(日記、昭和19年9月10日)


大川周明は当時、法政大学大陸部部長である(昭和14年4月開講)。第1学年の講義がなくなったのは、8月の学徒勤労令、女子挺身隊勤労令による措置だろう。なお、学生の軍需工場への動員が始まったのは昭和19年4月からである。

終日書物の整理。
夕栗田より電話。
何となく落つかぬ気持。
(日記、昭和19年9月12日)


無為に過ごす大川周明。パリではド・ゴールが帰還し、フランス共和国臨時政府を樹立した頃である(9日〜)。

厚木行バス不通とのことで航空隊のトラックに載せて貰い厚木に往き10時10分の小田急で上京。研究所で中食。(略)9時半の小田急にて河原口まで帰りて一泊。
(日記、昭和19年9月13日)


13日、「河原口」に宿泊している。
栗田女史も疎開したようだ。8月18日から9月9日まで日記がないので、そのあたりで引っ越させたのかも。

朝7時バスにて出立。才戸橋を渡りて往く。栗田に立寄り、11時研究所に着く。
(日記、昭和19年9月19日)


19日には、ソ連とフィンランドが休戦協定を結んでいる(モスクワ休戦協定)。で、16日には駐ソ大使の佐藤尚武がソ連のモロトフ外相に和平交渉のための特使派遣を提議するも、拒否される。

中食後自動車で御殿場に出で汽車で松田に出で、松田から小田急で4時20分厚木着、栗田に一泊。
(日記、昭和19年9月21日)


モスクワ休戦協定について当時の朝日新聞は、

昭和19年9月23日
▲昭和19年9月23日付朝日新聞。

今度の戦争は急行列車で疾走しているようなもので途中で飛び下りれば死あるのみ――これはゲッペルス宣伝相の言葉である、ともすれば正義人道を口にした小径の導くところ、結局滅亡以外にないことをバドリオの例で学び得なかった芬羅両国は今度こそ自ら身をもって味わっているわけである
(昭和19年9月23日付朝日新聞、芬羅“死刑”の報い 骨までしゃぶり尽す休戦協定)


感情的にフィンランドを罵っている。「バドリオ」はイタリアの軍人。昭和18年7月にムッソリーニを失脚させて臨時政府首相となり、同年9月8日連合軍に無条件降伏し、翌19年6月に首相を辞任した。イタリアの降伏で「バドリオ」は裏切り者の代名詞となっていた。イタリア無条件降伏時の朝日新聞社説は、

「圧倒的優勢なる米英軍を向うに廻して戦闘を継続することの不可能なるを認識した」というのがバドリオの国内に布告した、悲しむべき自殺の理由である。また「イタリア国民に対するこれ以上の惨害を回避するため」というのが、おためごかしの言いわけ草であった。
(朝日新聞社説、昭和18年9月10日)


イタリアを非難し、その降伏理由を「おためごかし」と断定している。しかし「国民に対するこれ以上の惨害を回避するため」というのは、これ以上ないほど真っ当な降伏理由だ。これも言論統制、新聞検閲の結果なんだろうか。

昭和18年9月10日
▲バドリオ非難号となった昭和18年9月10日付朝日新聞。

なお、休戦協定でフィンランドはカレリア地方のソ連への割譲や3億ドルもの賠償金支払、戦争犯罪人の処罰など苛酷な犠牲を余儀なくされたものの、占領はかろうじて免れている。羨ましい。

大川周明はいつ感染したか(31)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年8月分。

ナチス占領下のワルシャワで武装蜂起がスタートした頃(1日、午後5時)、

朝10時半新宿発の小田急に乗る。立錐の余地なきまでに満員。11時40分厚木に着き、石井会田両氏に迎えられ、会田氏の布袋屋で中食。(略)
2時打揃うて荻野の登記所に往った。1時間余り待って結局書類不整備のため駄目。中津に往って家を見る。綺麗に片付いている。最初見た時よりも善く見える。再び布袋屋に帰り一休ミして5時の小田急に乗り6時半帰宅。
(日記、昭和19年8月1日)


大川周明は新宿行きの小田急に乗っていた。
大川は疎開用の中津の住居を登記するために神奈川県の荻野村に行ったのだが、書類の不備で登記はできない。

朝永見君来る。李想白君緒方君に推挙することを頼む。11月に栗田のトラックの心配をも頼んだ。(略)
午後調査局。千原楠蔵君来る。石原将軍を鶴岡に訪い2日に亘りて意見を聞いてきたとて将軍の必敗論を取次いで聞かせた。
(日記、昭和19年8月2日)


千原楠蔵は中国問題を専門とする、元朝日新聞の記者。大正10年東亜同文書院卒、同年に大阪朝日新聞社支那部に入社。昭和元年に東京朝日に移り、支那部、欧米部に所属した。この間、漢口、南京特派員などを務め、昭和14年に勤続18年で朝日を辞める。
平成20年3月25日の朝日新聞に掲載された特集記事「封じ込められた「反東条」 元朝日記者・千原楠蔵と陸軍中将・石原莞爾」によると、 千原楠蔵は昭和19年の7月8〜9日の2日にわたって鶴岡で石原に面会、石原莞爾の“主張”に感激する。
石原莞爾の主張とは、

「東条らの施政を見るに、国民に対し卑劣にも戦局の真相を陰蔽し、言論を封殺し、ただ冷酷苛烈なる怒号叱た以外に大局的にいかなる措置をも講ぜず、単に戦線を拡大するというチヤンバラ本位の遣り口……」
「国民が総蹶起して軍閥を打倒し、政治革命を成就することだ。一気に東条、岸信介、当路責任者を軍法会議に付して処刑。……天皇陛下の御親政を回復する位の非常処置が出来ぬようではこの難局突破は覚束ない……国民の自由な魂を回復せずし天下のこと何ができるか」
(初出は高木清寿「東亜の父石原莞爾」、平成20年3月25日付朝日新聞)


政治改革であった。すなわち東条内閣と軍閥の打倒、戦争責任者の処刑、そして天皇による親政である。もっと簡単にいうと、“やり直そうぜ、原点に戻って”であろう。当時としてもまともな感覚である(国体変革などとは言ってないのだから、政治“革命”じゃあるまい)。恐らく石原のことだから、さらに終戦工作と戦後処理、講和の具体策ぐらいは考えていたと思う。あとは行政改革も。憶測ではあるが。
なお、石原が予備役となったのは太平洋戦争開戦前で、この頃はほぼフツーの一般人であった。「戦局の真相」を、一般人たる石原はどうやって入手し得たのだろうか。軍内部に通告者がいたか、従軍記者が書けない情報を石原に流したか、もしくは軍人としての経験と勘で状況判断したのか。まあ、昭和19年には一般人でもソレとわかるほどの「戦局」といえるのかもしれない。出征した息子や夫は帰ってこないし、サイパン陥落で本土空襲も決定的。女と子どもと老人しかいないのに主張される本土決戦という言葉に、リアリティを持てなかった一般庶民は結構いたであろう。だがその“もはや勝ち目はない”というリアリティが、“日本が敗戦する”というリアリティとイコールとも限らないのが人間の面白さである。認識したくないものは、目の前にあっても認識しないのである。そして認識したいものは、目の前になくても認識するのである。絶対国防圏を失った時点で大日本帝国は失われたというのに、多くの日本人がその幻を追い続けた。それは夢を見がちな政治家や軍人(文人統制がされていない軍人はとても夢見がちだ)のみではなく、教養ある文化人もそのくびきから逃れられなかった。あの教養高く、冷静で、常に懐疑的であった山田風太郎青年ですら。
閑話休題。
石原の言葉に感動した千原はそれをまとめ、ガリ版刷りで各方面に配布し、そのために8月に東京憲兵隊に逮捕される。昭和20年3月12日、獄中で病死。まだ40半ば、恐らくは拷問と虐待による死だろう。
石原莞爾は昭和18年に、千原とは別の朝日新聞社員(所武雄、朝日出版局編集部員)にこうも言ったという。

石原「(戦争は)このまま行ったら必ず負ける。止めるならまず今のうちだよ。どうだね。朝日新聞は全面を埋めて戦争反対をやらんかね。このままだったら今の村山(長挙)社長は一村山社長にすぎないね。全面をつぶして戦争反対をやってみろ、歴史上の村山になるよ」
所「そんなことをしたら、朝日新聞は潰されてしまいますよ」
石原はこう答えた。
「潰されたって、戦争が終ってみろ。……朝日新聞はまた復活するよ。従業員は帰って来る。堂々とした朝日新聞になる。どうだ。そう伝えて欲しいな」
(初出は所武雄「狂った時代」、平成20年3月25日付朝日新聞)


大きいなあ石原莞爾は。善も悪も超えたreal manだ。この石原を左遷したとはなあ。そりゃあ日本も必敗であろう。

午後銀座から調査局。4時半帰宅。
(日記、昭和19年8月3日)


大川周明は、しかし、千原楠蔵を介して聞いた石原の言葉に、何の感想も記していない。

午後銀座に往き4時帰宅。荷造りは9分通り出来た。
(日記、昭和19年8月4日)


この「荷作り」は兼子夫人の方だ。

片岡君の話でトラックは早くて8日、遅ければ10日にならなければ駄目とのこと。
(日記、昭和19年8月5日)


トラックの手配にてこずっている。

銀座に往き6時帰宅。留守中に西岡竹二郎氏及び茅真三の妹が来訪せる由。茅氏の妹はトラックを心配してくれという依頼だったそうだが出来ない相談だ。(略)
今日研究所の寮生が中津に掃除に行ってくれた。
(日記、昭和19年8月6日)


「西岡竹二郎氏」は元衆議院議員で、昭和15年6月23日に発足した外交転換国民時局懇談会(座長:末次信正)の実行委員。
厚木で疎開先の家を探していたのは大川周明だけではなく、

朝5時半に家を出でて新宿に至り、6時40分の小田急で、永見君及び笹川の主婦と共に厚木に往く。厚木に着いた頃から雨が激しくなる。駅で高山・会田両君に迎えられ、ほてい屋で休む。永見君と笹川の主婦は煤ヶ谷の売家を見に往き、予と高山氏とは中津に往くことにし、共に10時のバスに乗ることにした。煤ヶ谷行の方は出ないと分り、笹川の主婦は帰る。中津行のも出なかったが、折よく通った航空隊の自動車に便乗して昼頃中津に着いた。熊坂一家の人々及び村の主婦達が家を掃除してくれて居た。昼飯に熊坂家の行為で赤飯を御馳走になる。永見君は家の木材の見事なのに驚嘆して居る。3時のバスで帰路につき、6時帰宅。
(日記、昭和19年8月7日)

同時期に売り家を物色する東京人は少なからずいたもよう。
ちなみに、法的に疎開が位置づけられるのは昭和18年10月の防空法改正からで、当初は建物の分散疎開に重点を置かれていた。その後ほどなく、人員疎開も勧められる。

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▲都市疎開問答、内閣情報局発行「週報」昭和18年12月22日号。

11時家を出て銀座にまわり3時帰宅。
(日記、昭和19年8月8日)

午後栗田に往く。荷造りが大抵出来て居る。4時ごろ帰宅。
(日記、昭和19年8月10日)


朝6時40分新宿発の小田急で厚木に往く。運よく腰かけられた。ほてい屋に休息し、高山・会田両君と10時の半原行バスで荻野の登記所に往く。熊沢一嘉氏が既に到着して待って居た。簡単に登記もすみ、タクシーを呼んで中津に到り、残額を熊沢氏に支払った。4時のバスで厚木に出で、またほてい屋に休んで高山・会田両君への御礼もすませ、7時近くの小田急で8時半帰宅、一風呂浴びて居るところに児玉誉士夫君がやって来た。上海でのいろいろの仕事のことを話して帰る。
(日記、昭和19年8月11日)


当時の児玉誉士夫はやまと新聞社社長で、7月17日に兄の今朝男を亡くしたばかりである。海軍の嘱託で、上海を中心に児玉機関をつくって「いろいろの仕事」=物資調達、を行っていた。
大森実「戦後秘史・日本崩壊」によると、終戦直後に児玉は上海で調達したダイヤモンドとプラチナが詰まったミカン箱大の箱・約20箱を海軍に返そうと、米内光政に会っている。米内は皇室に渡すべきだと児玉に答え、しかし宮内庁は受け取りを拒否したため、ついにGHQから提出命令が来る。そこで児玉はその半分をGHQに提出し、残りを鳩山一郎らが立ち上げようとしていた日本自由党に差し出した。これが日本自由党の結党資金になる。少なく見積もっても現在価格にして約30億円のそのダイヤとプラチナを売り捌いたのは、当時の同党幹事長・河野一郎だ――というのが児玉の話。

児玉誉士夫君来り、トラックを自分で世話してくれると言う。片岡君に頼んでもいつの事やら判らぬので欣こんで同君に依頼した。運賃は献納するという。
(日記、昭和19年8月12日)


さすがは児玉誉士夫、無法地帯でこそ輝くタイプである。また、こういうタイプは獄中でも強い。

一寸銀座によって2時半帰宅。
(日記、昭和19年8月13日)


児玉誉士夫君の斡旋にてトラック3台漸く来る。寮生付添い、午すぎ出立。銀座に往き3時半帰宅。法政の試験答案を見る。無知驚くべし。
(日記、昭和19年8月16日)


勤労動員と教練で、大学生も勉強するヒマなどなかったであろう。

約20年住んだ上大崎の茅屋も愈々今日でお暇だ。早朝厚木から電話があり、高山君が世話すると言ったトラックが当てにならぬから、此方で心配しろと言ってきた。永見君に依頼の手紙を書く。
(略)
午前10時トラックが2台来た。藤田君が来てくれた。大崎警察署の刑事が2人どさくさの最中に来て下らぬことを話す。予は急いで弁当を食い、12時半新宿発の小田急で先発、1時40分厚木着、出迎の会田君と2時のバスで中津に向う。航空隊の近くで予の荷物を運んで来た2台のトラックに追い越された。2時半着。寮生がいろいろ手伝ってくれる。会田君が紹介した大工に修繕工事を頼む。そうこうして居るうちに日が暮れた。
上大崎の家で3月事件・満州事変・10月事件・五・一五事件などを企んだのだが、まづ此処で一段落。中津の御殿でどんなことが起こるか。
(日記、昭和19年8月17日)


「中津の御殿でどんなことが起こるか」――それは、日本の敗戦である。この1年後に、日本は敗けた。連合軍にも、中国にも。
大川周明が疎開作業に追われていたこの8月、千原楠蔵が憲兵に逮捕されている。大川周明にもその情報は入ったはずだ。が、それに関する記載は日記にない。石原莞爾の「天皇陛下の御親政を回復する位の非常処置が出来ぬようではこの難局突破は覚束ない」という言葉にも心を動かされなかったのであれば、大川周明、すでに革命精神は捨て去っていたのだろう。これも脳梅毒ゆえなのだろうか。

大川周明はいつ感染したか(30)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年7月分。

午後銀座、3時半帰宅。
(日記、昭和19年7月5日)


7日にサイパンで日本の守備軍3万人が全滅。連合軍はこれで本土空襲が可能になり、

サイパン絶望。東京空襲も愈々切迫。
(日記、昭和19年7月7日)


この後の日本軍は防戦一色となった。東条内閣はだから瓦解したわけだが、ナゼこの時に講和に持ち込もうとしなかったのか。

厚木は小田急線沿線にて新宿より1時間10分を要し候が、調査局は同線玉川学園内に疎開することと相成申候えば、其処までは厚木より25分に御座候。
(書簡、昭和19年7月7日、東京上大崎より大川多代女宛)


東亜経済調査局も、疎開を決定している。

中津の家の話を決めるために10時半新宿発小田急で厚木に向う。満員で厚木まで立通しだ。降りて見ると誰も居ない。此前昼飯を食った若松屋に行って中食を頼んだが断られた。会田喜市氏のほてい旅館に往ったら留守。名刺に書残して12時50分の電車で帰途につく。此度は座間から腰かけられた。2時帰宅。お茶漬をかっこむ。
石井君の手紙によると中津の家は講談に出る相州の名人矢内丹後守(右兵衛尉)高光、其弟柳川善兵衛助光が13年の歳月を費やせる力作なりとのこと。但し此男の言葉あてにならず。
(日記、昭和19年7月10日)


大川周明の疎開先は、神奈川県愛甲郡愛川町中津である。家は熊坂半兵衛という豪農の屋敷を購入。

許斐君来り秀三君が内務大臣か無任所大臣になると言って居たと話す。誰かが秀三君をおだてたのであろう。之を真に受ける秀三君も余程どうかして居る。4時安井英二君を訪い、近衛平沼両翁会見の要を説き、近衛公を説得するよう頼む。安井君承知。
(日記、昭和19年7月11日)


「許斐君」=許斐氏利
頭山秀三は、新内閣で大臣に就任できると思ったらしい。真性のバカだ。しかし、この期に及んで近衛を推す大川周明もよくわからない。近衛なんざ日中戦争を拡大させた戦犯じゃないか。

10時半の小田急にて厚木に向い、11時40分着。石井・会田・茅三氏に迎えられて若松屋に至る。やがて熊坂一嘉氏も来る。中食後契約書に調印、契約金並に内金として4万円支払う。
2時のバスで中津に往く筈であったが、バス来ないので帰途につき相武台前で下りて石井君の話の百姓家を見に往ったが駄目。7時帰宅。
(日記、昭和19年7月14日)

「相武台前」の「石井君の話の百姓家」。愛人・栗田女史の疎開先探しである。

石井君に相武台はやめる。河原口見込みありや知らせと打電。
(日記、昭和19年7月15日)


「石井君」はこの後、栗田女史と仲が悪くなるのだが、それはさておき。
大命降下を近衛文麿にと望んでいた大川周明だが、

神保町の古本屋にて艸山集を求め銀座に立寄り、4時半帰宅。藤田君より電話あり、平沼翁の推挙にて大命は小磯大将に下るべしとのこと。驚き入りたる次第なり。
(日記、昭和19年7月19日)


平沼騏一郎は小磯国昭を推した。大川周明を宇垣一成に紹介したのがその当時陸軍省軍務局長であった小磯国昭で、これが後の3月事件の下地となる。

大命は小磯・米内両大将に降下せりとのラヂオ。是亦未曾有のことなり。此の内閣には如何なる期待もかけ難し。日本も往くところまで往く運命となれり。
(日記、昭和19年7月20日)


内閣組織の大命が2人に下ったという先例は、明治31年6月の隈板内閣がある(ので「未曾有」でもない)。今回の大命は、陸海軍は仲良くせよというわかりやすいメッセージだろう。にも関わらず、小磯は陸軍大臣を兼任しなかった。米内がわざわざ現役復帰して海軍大臣になったというのに。杉山元がゴネたのだろうか。

午前法政に往きしも生徒居らず、聞けば休ミとのこと。銀座に往く。
(略)
7時の放送にて新内閣の顔觸を知る。斯様なる政府にて此の国難が切抜け得ると思って居るのか。
(日記、昭和19年7月22日)


この新内閣を、新聞各社は「小磯・米内協力内閣」と名づけた。

昭和19年7月22日
▲昭和19年7月22日付新聞号外。

10時半の新宿発小田急にて栗田と共に厚木に往く。石井・会田・高山三君に迎えられ、河原口の家を取極め、厚木園にて鮎を満腹、6時半帰宅。
(日記、昭和19年7月24日)


24日、ついに栗田女史と疎開先を検分に行く。

午後銀座に往き、4時根津邸茶室にて有馬、岡、藤田、永見、玉利、三矢、小栗諸氏と夕食。6時緒方竹虎氏来り、組閣の経緯や政府の方針等について語る。9時半帰宅。
(日記、昭和19年7月29日)


「根津」=根津嘉一郎、東武鉄道の経営で知られる根津財閥の2代目である。
緒方竹虎は朝日新聞社内の抗争で副社長になっており、小磯内閣発足で入閣が決定した時はそれを幸いと飛びついたのかも。副社長は、実権まるでナシの閑職だからである。小磯内閣では国務大臣兼情報局総裁となり、繆斌工作を主導したともいわれるが、それ以外はナニもやれずに内閣総辞職となった。にもかかわらず、緒方は戦後、A級戦犯容疑者として指名される。所属していた朝日新聞が戦争協力していたことからかもしれないが、しかし、戦争に協力しなかった媒体は私費出版しかない時代であり、とすればA級戦犯指定は小磯内閣入閣のためかと緒方は後悔したかも、しれない。なお、GHQのA級戦犯指定はどうも根拠レスで影響力のありそうな人間をテキトーにしょっぴいた感が強いが(笹川良一とか)、緒方竹虎の場合は利用できると踏んでの容疑者指定だったのかもしれない。

久原翁からいろいろの話を聴く。重臣会議で木戸内府寺内を推薦したのは虚伝で、先づ岡田大将が木戸を推したが、それは重臣達に黙殺され、米内大将が小磯大将を推したのだという。米内・小磯連立の献立は和平を覗う近衛公の策謀だとの話があるとのこと。
(日記、昭和19年7月30日)


「木戸幸一日記」によると木戸は18日の重臣会議で小磯の他、寺内、畑を首相候補として挙げるが、寺内と畑は第一線にいるとして、まずは小磯に決定したという。で、久原房之助が言うごとく「米内・小磯連立の献立」が「近衛公の策謀」というのはそうなのだが、策謀の理由は「和平を覗う」ためではなく、米内の国民人気が高く、小磯はその足元にも及ばないので、結局「連立」ということになったらしい。
ちなみに、「矢部貞治日記」によると東条内閣打倒の動きは、少なくとも昭和19年2月には海軍方面(海軍省調査課内に設けられた政治懇談会)で明確になっていた。サイパン陥落が政局(東条打倒の大義名分)になってしまったことこそが、軍事的に不幸なことではなかったのか。

朝帝国ホテルに李想白君を訪い、呂先生の近況を尋ねた。同じくホテルに止宿中の梅路見鸞氏を訪い中食を共にしたる後銀座に往き、午後2時半再び李君を訪いて懇談、5時帰宅。
(日記、昭和19年7月31日)


首相就任時、小磯国昭は64歳である。敗戦後はA級戦犯として有罪となり(終身禁固刑)、服役中のまま昭和25年11月3日午前7時37分、米陸軍病院で死亡した。享年70、死因は「腹部のはれもの」(米陸軍病院当局談)と当時の朝日新聞にある。ガンだったのだろう。

大川周明はいつ感染したか(29)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年6月分。

午後法政大学1時より3時まで。竹内氏と暫く時局に就て語る。帰途銀座に立寄り、4時半新宿を発し横浜に至り基督教青年会の信徒懇話会に出席。
(日記、昭和19年6月1日)


キリスト教青年会(YMCA)は宗教団体法で日本基督教団に併合されたはずだが、敗戦間近にも独自の活動が残っていたようだ。
なお、この頃の食糧事情は、

永見君の瑞穂麺、苛性曹達入手難のため行悩みと聞き遺憾至極。目前の急務は国民を飢餓より救うに在り。戦局の利不利よりも国民の食糧不安を去ることが一層肝心なり。
(日記、昭和19年6月2日)


テロリストをして「戦局の利不利よりも国民の食糧不安を去る」べしと言わせるまでに至っていた。大川周明、日記に細かく「キャベツ及び胡瓜を貰う」(10日)などと入手した食品を逐一記している。芸者好きで宴会派と呼ばれた時代には、考えられないありさまである。
なお「瑞穂麺」とは、

昭和19年4月30日
▲昭和19年4月30日付朝日新聞。

藁でつくったウドンのようだ。ふすまパンみたいなものか。

西木にて昼飯を食い、12時55分新橋発の汽車にて平塚に向い2時すぎ着。平塚市教育会総会に大東亜精神について講演すること3時より5時まで2時間。(略)
平塚にて火薬厰工員に対する甚だ不公平なる配給の話、また防空隊の残飯不始末の話を聞き、いづこも同じ軍部に対する反感の台頭を見る。
(日記、昭和19年6月3日)


大川周明は、陸軍と結託してクーデターを画策したテロリストである。民衆の軍部への反感に、複雑な思いを抱いたのでは。近衛の新体制運動で政治も政治家も一掃されて世は軍事一色、ある意味、彼の思い通りになったわけであるが……。

米英軍いよいよフランスに上陸、茲半ヶ月の中に勝敗の見通しつくべし。
(日記、昭和19年6月8日)


6日、連合軍がノルマンディに上陸。

2時半銀座に往き、5時作田氏に招かれ、大東亜会館にて竹内佐瀬両氏と4人にて夕食。作田氏支配人と懇意のよしにて珍しき御馳走なり。
(日記、昭和19年6月9日)


特権階級は、しかし、まだ「御馳走」にありついていた。3月の、いわゆる「享楽追放」は特権階級がますます特権を行使するようになっただけか。

3時半銀座に出で5時より興亜総本部主催の宴会に帝国ホテルに出席。
(日記、昭和19年6月12日)


13日に厚木に赴いているが、

9時半家を出で小田急にて厚木に至る。石井君地方の有志2人と駅頭に待つあり、若松屋というに至りて昼飯を供に伴にしたる後、自動車にて中津村熊沢に至り売家を見る。余り気が進まず。3時半帰途に就き5時帰宅。
(日記、昭和19年6月13日)


疎開先を探しているようだ。
16日には千葉県柏市に来ているが、これは講演のため。

広池千九郎博士が創立せる学校の後身にて現在息千英氏校長なり。10万余坪の地に畑あり林あり、教室、寄宿寮、教師館、林間に散在す。珍しき学校なり。校長以下職員諸子と中食を伴にし、1時より3時まで講演3時44分小金発列車にて帰途につき、一寸銀座に寄りて5時半帰宅。
(日記、昭和19年6月16日)


この「珍しき学校」は、現在のモラロジー研究所の前身だろう。現在のモラロジー研究所は内閣府認定の公益法人で、内閣府の共生社会政策・子供若者育成支援の「青少年団体情報」にこの公益財団法人モラロジー研究所があげられているんだが、こんなを出しているので検索すると、やはり日本会議であった。自民党ともつながりが深いもよう。

敵サイパンに上陸せんとし、また千嶋を空襲す。東京空襲も遠からざるべし。
(日記、昭和19年6月17日)


15日、米軍がサイパンに上陸。

8時帰宅。差当たり2万円支払いて中津に移転と決定す。
(日記、昭和19年6月19日)


大川周明は早速、疎開先を確保した。神奈川県中津である。
19日、マリアナ沖海戦。ここで日本軍は空母と航空機の大半を失う。

サイパン嶋攻防激烈。此の成敗にて戦局略ぼ決定すべし。
(日記、昭和19年6月22日)

27日に大阪、29日に岡山医科大学で「大東亜精神」をテーマに講演。敗戦を予想しながらの講演は、つらくはなかったか。この後京都、大津を回って、7月2日に帰京している。

大川周明はいつ感染したか(28)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年5月分。

後1時半より興亜総本部にて講演。一寸調査局に立ち寄り銀座に往く。
夜法政、10時帰宅。
(日記、昭和19年5月5日)


4月に起きた歯痛を5月になって治療したようだが、

午前歯を抜いたら上歯全部が痛くなり午後就床。
(日記、昭和19年5月11日)


予後はよくない。薬や歯科材料もない頃である。

兵器行政本部に赴き法政大学予科教室徴用中止を交渉して承諾を得。銀座に回り4時帰宅。夜早く就寝。
(日記、昭和19年5月16日)


大川周明、陸軍と交渉して大学校舎の徴用を免れている。さすがは陸軍に顔がきく男。
慶應義塾大学で講演もしているが、

6時半より慶應にて亜細亜研究所の講習会に講演。
(日記、昭和19年5月25日)


これは同大亜細亜研究所の特設講座のようだ。

昭和19年1月8日
▲昭和19年1月8日付朝日新聞。

その「大亜細亜講座」の目的は「大東亜建設戦士の養成と日本国民たるの常識練成」で、対象は中等学校4年修了以上(今の中卒程度)の男女、定員200人。2月1日に開講し、期間は6ヶ月、毎週火・水午後6〜8時で聴講料30円。
講師は大川の他、加田哲二和田清松本信広高田保馬東畑精一山田文雄永田清など。山田文雄は河合栄治郎事件に連座して東大を辞めた経済学者だが、こういう就職先があったわけである。学生がどれくらい集まったかは、わからない。

大川周明はいつ感染したか(27)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和19年4月分。

4月1日に乗車規則が改正されてから、目黒駅にも長い行列が出来ることになった。銀座に立寄り、神田に往きて古本屋をまわり6時帰宅夜原稿。
(日記、昭和19年4月3日)


1日より1等車、寝台車、食堂車が全廃に。急行列車も削減されている。

朝7時より新東洋精神放送。第3回の原稿と第4回とを取違えて出かけたので変な事になった。午前原稿。西木に行き海保君の来り訪うに会す。海保君の好意万謝。調査局に行けば佐治君在り、政局のことを語る。
(日記、昭和19年4月4日)


「海保君」は北京で大川周明を女郎屋に案内し、阿片を吸わせた友人である。

夜歯痛のため早く就寝。
(日記、昭和19年4月24日)


中旬に風邪を引くが(はたみづ止度なく不快、10日)、歯痛も起している。

銀座に往き2時帰宅。
政治学講義草案。歯痛止みたれど気分悪し。
(日記、昭和19年4月25日)


歯科受診はせず。
「政治学講義」は法政大学政治経済専門部の1年生を対象に行っていたもの。

銀座に往き、3時吉田庄七君の家に赴き田川大吉郎翁天野辰夫君と歓談会食。8時半帰宅入浴就寝。
(日記、昭和19年4月29日)


田川大吉郎は翼賛選挙に非推薦で立候補した政治家で(落選)、田川のためになした尾崎行雄の応援演説が不敬とされた事件で知られる。

昭和19年6月28日
▲昭和19年6月28日付朝日新聞。

田川はキリスト教徒でもある。昭和10年5月に基督教文化協会の理事長となり、日本基督教連盟を代表して中国をたびたび訪問、そこで得た見聞を公の場で語ったがために逮捕されている。で、陸軍刑法第99条(戦時又は事変に際し軍事に関し造言飛語を為したる者は7年以下の懲役又は禁固に処す)違反で有罪に。

昭和15 (1940) 年1月23日、 東京の経済倶楽部で中国視察談を語り、続く2月15日には大阪で、6月17日には名古屋で、 その他の地方でも、 中国で日本軍が行なっている残虐な行動について事実を語った。 このことが軍機違反になる理由から6月20日、 検挙され、 翌16年1月15日、 陸軍刑法違反により禁固4ヵ月、 執行猶予2年の有罪判決を受けた。田川は陸軍の行動を抑えるには宇垣一成を政治の表舞台に出すしかないと考え、 こうした中国事情をはじめ、 様ざまな情報と画策を宇垣に伝えているが、 勿論、 こうした行動が当時表に出ることはなかった。
(遠藤興一執.筆活動からみた田川大吉郎.研究所年報.no.37,2007.p3‒31)


事実を語っても、造言蜚語と断罪される時代だ。なお、そんな田川が推した宇垣一成は、3月事件で大川周明らを土壇場で裏切ったヘタレ陸相である。
で、天野辰夫は神兵隊事件の首謀者で、右翼の弁護士であった。
神兵隊事件は昭和8年、軍用機から首相官邸と警視庁に爆弾を投下し、さらに地上部隊が一斉に行動して斎藤実首相ら要人を襲撃したクーデター未遂事件(決行前夜に全員逮捕。恐らく、五・一五事件により設置された特高が、右翼諸団体内部に食い込んで情報を得ていたためだろう)。この天野辰夫が戦争末期に、田川大吉郎とつるんでいたとは……。動乱の時代とはいえ。

昭和8年10月7日
▲昭和8年10月7日付朝日新聞。

大川周明はいつ感染したか(26)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。昭和19年1〜2月はまったく会っておらず、それは講演ざんまいで忙しかったか、

晴。終日支邦史研究。午後横浜高工名誉教授鈴木達治氏来り講演を求めしも、渡のため断る。歯の具合悪し。
(日記、昭和19年2月6日)

体調が悪かったか(「滬」は上海のこと。コと読む)、

永安・新々・先施・大新等の百貨店を素見す。貨物の貧寒驚くべし。
(略)
時局の重大の痛感す。
(日記、昭和19年2月28日)


山形行き(1月2日〜15日)+関西行き(1月22日〜25日)+上海行き(2月21日〜3月17日)と東京にいなかったからか、その全部である。
在京外国人にも不穏な動きがあった。

研究所に午前第一書房齋藤君、佐治謙譲君、安南人阮、範父子来訪。南一雄氏の事に就て、不可解の点多い。
(日記、昭和19年1月18日)


「佐治謙譲」は京都帝大出身、佐々木惣一門下の憲法学者。
「南一雄氏」とはベトナム皇族で日本に亡命していたクォン・デ公。日本敗戦必至の情勢に、在京のアジア革命家たちも身のふりどころに苦慮したことだろう。クォン・デ公は故国ベトナムへはついに帰れず、昭和26年4月6日に日本で客死する。亡命生活は45年に及んでいた。

昭和26年4月7日
▲昭和26年4月7日付朝日新聞。

死因は肝臓ガンだった。享年69。
さて、2月19日に改造内閣人事が発表されるが、

海軍豊田、運通五嶋、農相内田、大蔵石渡との事。東条内閣のたれ死の前奏曲。
(日記、昭和19年2月19日)


大川周明による評価は低い。なお、海軍大臣は豊田副武ではなく、嶋田繁太郎の続投である。

川俣君より東条が参謀総長を兼ねたるを聞く。驚くに堪えたり。
(日記、昭和19年2月21日)


で、3月。
17日に上海から帰京し、

11時半銀座に至り、2時調査局。
(日記、昭和19年3月18日)


早速栗田女史に会いに行っている。

午後西木に行き、4時機外会館に竹内氏を訪い時局を談じ、6時藤田永見両君に招かれて神田神保町の中華第一楼にて夕食。
(日記、昭和19年3月19日)


印度独立連盟のラス・ビハリ・ボースは病気だった。大川周明は電話で請われて、22日に面会に行く。ボースは血痰と微熱が続いていた。結核なのだろう。

5時半ながたにて夕食、藤田・安倍・小松・永見諸君。西木も陪食。
(日記、昭和19年3月23日)


「ながた」は料亭だろう。しかし、5日には高級料理店や飲み屋が警視庁により閉鎖されたはず。いわゆる「享楽追放」であるが、「ながた」は料亭とはいえない大衆店なのか?  


昭和19年3月1日
▲昭和19年3月1日付朝日新聞。

なお、この時閉鎖されたのは「高級料理店850店、待合芸妓屋4300店、バー・酒店2000店」(総務省)に及んだ。清沢洌も、帝国ホテルの洋食部が閉鎖になったため、知人の結婚式が中止になった旨を日記に書いている(昭和19年3月8日、清沢洌「暗黒日記2」)。

銀座に往き午後3時帰宅。放送「新東洋精神」の準備。
(略)
甘粕君に支邦工作費のことで相談の手紙。
(日記、昭和19年3月24日)


ラジオ講演「新東洋精神」は28日、朝7時20分に第1回が放送された。

中嶌宗一君近く東京を引上げ福山に疎開すとて挨拶に来り暫く懇談。それより銀座に往き先生伝原稿の初校を了す。
(日記、昭和19年3月31日)


「中嶌宗一」は満鉄社員で、昭和16年7月に発足した大日本興亜同盟の発起人のひとり。

大日本興亜同盟発起人
▲大日本興亜同盟発起人。

昭和14年時点で満鉄東京支社調査室主事に就任している。
大日本興亜同盟は石原莞爾が提唱した東亜聯盟運動を潰さんがために、アジア関連諸団体を大政翼賛会の外郭団体として抑圧・統制しようという団体で、事実、石原が目指す「五族協和」「王道楽土」はガン無視されて、東亜新秩序という名の日本を盟主としたアジアの統一(=日本帝国主義)に同同盟は突き進むのである。大日本興亜同盟は昭和18年5月に大政翼賛会興亜総本部に吸収される――が、そもそも大日本興亜同盟総裁は大政翼賛会総裁(=首相)の兼任だから、体制も体質も何ら変化はないと考えていいと思う。
43
▲昭和18年5月19日付朝日新聞。

大川周明はいつ感染したか(25)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年12月分――だが、大川周明の上海行き等々で2人は1回しか会っていなかった。

上海行きは、大政翼賛会興亜総本部が興亜使節として大川周明を派遣したもの。大久保伝蔵が随伴している。

昭和18年12月4日
▲昭和18年12月4日付朝日新聞。

大川周明は1日に出立、2日に福岡で博多ホテルに宿泊、3日12時半に雁ノ巣空港発の飛行機で、午後5時半に上海飛行場着。
上海ではパークホテルに泊まるが、

上海の物価は此夏に倍せり、唯だ驚くの外なし。ホテルも暖房せず。石炭1噸1万弗にても入手困難とのこと。
(日記、昭和18年12月4日)

物価は数ヶ月で倍になっていた。このハイパーインフレの一端は、日本軍のつくった大量のニセ札による。
6日には「中国東亜連盟総会上海支部長劉仰山君」が来訪し、7日に飛行機で南京に発って国際倶楽部にて「連盟総会関係者」と会っている。東亜連盟は石原莞爾の提唱した五族協和・王道楽土の実現を目ざす組織で昭和14年10月発会、外地にも幅広く共鳴者を集めていたが、日本の国家的エゴイズムに優しくないという点で昭和16年に弾圧され、縮小を余儀なくされていた(石原莞爾は左遷)。が、昭和18年末には大政翼賛会興亜総本部とつるんでいる。

昭和18年10月19日
▲昭和18年10月19日付朝日新聞。

で、大川周明は9日に中央大学(現・南京大学)で講演し、まさに東亜連盟中国総会を発会した汪兆銘が列席してもいるのだが、

今回の使節は予想通り何等の効果なき御祭騒ぎ。東亜連盟中国総会なるものは全然無力、また何等の熱意なし。
(日記、昭和18年12月9日)


大川は絶望を覚えていた。正しくも。
10日に上海に戻り、11日からは上海にある大川周明のアパートに移っている。12日に震旦大学で講演、14日はラジオで講演。15日には税警学校で講演、その後国際飯店にて日本倶楽部座談会に出席するも、

今日の座談会、初めは10数人の積りなりしが、出席希望者多くして100名に垂んとせり。よって講演会の形式となりしが、予は説法の意図なき故簡単に感想を述べ、中日関係は行詰りなるが何とか打開の妙案なきかと質問せしに2、3の人意見を陳べんとせるも臨席の警官発言を拘束せり。即ち止む。
(日記、昭和18年112月15日)


自由な意見交換は官憲により阻まれている。なお、東亜連盟は“マルキシズム的”などと右翼から非難されているのだが、自由な意見交換などというものも当時は左翼思想的であったのだろう。
講演のほか社交も活発にこなし、大川周明は21日に福岡経由で帰京。精力的だ。

朝栗田に往き昼食後銀座大倉組に赴き上海より託されたるシガーを大倉喜七郎氏に届け、次で東京駅に杉山車掌区長を訪い、1月2日山形行夜行列車の乗車券並に急行券の手配を頼み3時半帰宅。
(日記、昭和18年12月31日)


大晦日に栗田女史の元へ。大川周明は57歳になったばかりである。

大川周明はいつ感染したか(24)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年11月分。
5〜6日には帝国議会議事堂で大東亜会議が開催されるが、

大東亜会議開かる。
(日記、昭和18年11月5日)

大川周明は大した感想を持たなかった。

昭和18年11月5日
▲昭和18年11月5日付朝日新聞。

大東亜会議はアジア首脳が一堂に会した国際サミット――参加国は日本、タイ、満州、フィリピン、ビルマ、中華民国<南京政府>――だが、日本の占領下であったマレーやインドネシアは参加しなかった(ビルマとフィリピンは日本の占領下で独立を宣言しての参加)。大川周明は、日本の戦争目的を喧伝する&正当化するという同会議の偽善をわかっていたのだろう。

昭和18年11月5日1
▲昭和18年11月5日付朝日新聞。

なお、同会議で採択された大東亜共同宣言は大川周明、そして矢部貞治がそれぞれ原案を作成し、その内容が前文に盛り込まれた。同宣言は「共存共栄、自主独立、文化昂揚、経済繁栄、世界進運貢献(人種差別撤廃など)」との5原則を打ち出しており、それは今でも通用する普遍的な真理だろうが、今見ると前文「然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し」が完全に天唾だ。
同会議に陪席した自由印度仮政府首班・スバス・チャンドラ・ボースは、14日に東京で講演を行っている。講演は大政翼賛会興亜総本部、大日本翼賛壮年団財団法人日印協会の共催で、題目は「スバス・チャンドラ・ボース閣下大講演会『聴け 印度独立デリー進軍烈々の雄叫び!!」。

10時より日比谷公会堂にてのチャンドラ・ボース君講演会に行く。到着せるは9時40分なりしか(ママ)、聴衆は既に長蛇の陣を作りて開場を待ちつつあり。ボース君も満足なるべし。10時開会、約1時間ボース君の演説あり、気焔思いしより上がらず、何となく寂しそうなり。予は簡単に激励の辞を述べて退場す。
銀座にまわり5時帰宅、夜は先生伝
(日記、昭和18年11月14日)


昭和18年11月15日
▲昭和18年11月15日付朝日新聞。

午後銀座、4時半帰宅。
先生伝
(日記、昭和18年11月16日)


27日には言論界有志により設立された「史談興亜会」の発会式が上野精養軒であったらしいが、

昭和18年11月27日
▲昭和18年11月27日付朝日新聞。

大川周明は出席しなかった。

今日は全部防空訓練のため室内不出。
(日記、昭和18年11月27日)


「史談興亜会」の設立趣旨は「米英本位の古い歴史感の仮面を脱いで、わが国体の本義に基く興亜史観をあきらかにし、この新しい史観に立って各種の研究を行うこと」(朝日新聞)。歴史修正は右翼のお家芸だ。

11時銀座に往き3時帰宅。和田憲兵准尉来り拓大生のテロ事件の外廓を話す。(略)李想白君もまた来り9時まで歓談。フレーネ君遅く来り生活の窮状を訴う。
(日記、昭和18年11月30日)


「李想白君」は昭和初期のバスケットボール界で活躍した朝鮮人で、昭和5年の大日本バスケットボール協会創設の立役者である。
「フレーネ君」はドイツ人の日本研究家。戦時、在日外国人の生活は大変だったろう。

大川周明はいつ感染したか(23)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年10月分。

フレーネ君来訪、在京東亜諸民族の深刻なる対日反感について語る。
(日記、昭和18年10月1日)


アジア新秩序がフツーに日本帝国主義であることは、「東亜諸民族」ならフツーに気づくことである。で、そこで問題となるのはそれに気づいた日本人がナニをしたかである。が。
なお、「フレーネ君」は政教社発行の雑誌「日本及日本人」の寄稿者で、ドイツ人。中野正剛の息子にドイツ語を教えていた。

午後2時出局。やがて開かるべき大東亜会議のために「大東亜宣言」の起草を頼まる。
西木にて夕食、6時法政大学に赴き、政経学会主催の講演会にて「大西郷を語る」を講演すること1時半<ママ>、9時帰宅。
(日記、昭和18年10月5日)


「政経学会」の正式名称は法政大学報国政経学会。同大法学部政経学科を中心に設立された学会である。

午後理髪。西木。
夜鉄道省国際課の諸君に招かれ丸ノ内会館に夕食。不味驚くに堪えたり。
(日記、昭和18年10月6日)


食材入手も困難に。

西木に立寄り、5時山水楼にて葛生翁主催のボース君歓迎会。早く切上げて研究所に帰り、当方学生会のために8時より10時まで話す。
(日記、昭和18年10月9日)


印度独立連盟のラス・ビハリ・ボースはこの頃、

昭和18年10月20日
▲昭和18年10月20日付朝日新聞。

浅間温泉にいた。湯治だろうか。この翌年には、26歳の若さで死んでしまうのである。

南一雄君来り、瑞光寮内の安南青年3名寮長に叱咤せられ、帰寮を欲せずとて善後策を相談に来る。適当の家を見つけて別居させる外なし。
西木に往き7時帰宅。
(日記、昭和18年10月12日)


「南一雄君」は、ベトナムは阮朝の皇族、クォン・デか。クォン・デは明治39年、フランス圧政下のベトナムから日本へ密航、祖国独立を目的とする組織「維新会」を設立する。昭和26年4月6日、日本で客死。20代で来日したクォン・デは、69歳になっていた。
「瑞光寮」とは東亜経済調査局付属研究所の寮。「安南青年」は、ベトナムからの留学生だろう。

午後西木に往き5時半帰宅。
(日記、昭和18年10月13日)


15〜20日は、靖国神社の臨時大祭だった(大祭長:陸軍大将・土肥原賢二)。14日は招魂式で、この間は学校も官庁も休みになる。この靖国神社臨時大祭に合祀される新祭神1万9992柱の遺族約4万人に対しては、8〜22日に「遺族列車」も運行された。

昭和18年10月3日
▲昭和18年10月3日付朝日新聞。

午後3時より興亜総本部主催の留日中華学生との懇談に臨む。いろいろ談合、夕食を伴にして6時半解散。銀座に立寄り8時帰宅。
遠田富之助翁の訃あり。
靖国神社御参拝の陛下の写真。龍顔甚だ老。悲しいかな哀しいかな。
(日記、昭和18年10月16日)


朝日新聞には陸軍の軍装に身を包んだ、参拝中の昭和天皇の写真が掲載されていたが、姿が小さいうえにうつむいているので、表情などとてもわからない。望遠レンズで撮ったのだろうが、もっと近づいて撮った新聞もあったのだろうか。
遠田富之助は酒田の実業家。薬業主として財をなした。

斎藤良衛氏調査局長として就任、挨拶に来る。
夕銀座に立ち寄り8時帰宅。
(日記、昭和18年10月18日)


戦後に発表された近衛文麿の手記によると、斎藤良衛は第二次近衛内閣時に外務省顧問にして外相・松岡洋右の腹心で、両者は結託して日米交渉に反対したのだという。戦後は会津短期大学の学長ともなった。

銀座にまわりて7時帰宅、放送原稿。
(日記、昭和18年10月23日)


午後正久さんに往き入歯を完成、銀座によりて6時帰宅。
(日記、昭和18年10月25日)


義歯をつくっていたようだ。この時大川周明、56歳。
27日に中野正剛が割腹自殺し、

銀座にまわり3時半帰宅。
(日記、昭和18年10月30日)


31日に青山斎場にて「極めて盛大」に葬式が行われた。享年57。

大川周明はいつ感染したか(22)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」「西木」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年9月分。

帰省していた大川周明。7日の夜行で酒田から上京し、8日朝7時に上野着。

午後銀座に赴き夜は花蝶に許斐君より招かる。
(日記、昭和18年9月8日)


早速栗田女史の元へ。

西木にまわりて6時帰宅。
(日記、昭和18年9月9日)


午前9時読売講堂に於けるオッタマ顕彰会並びに追悼会に臨む。(略)帰途西木に寄り昼飯、2時帰宅。
(日記、昭和18年9月10日)


ウー・オッタマはイギリス植民地であったビルマの独立運動家であり、仏僧である。日露戦争での日本の勝利に衝撃を受け、明治40年、30歳で初来日して以降、ビルマ−日本間を複数往復し、日本で学んだアジア主義をもってビルマ国民を指導した。イギリス官憲に迫害されながら昭和14年9月10日に死去、享年62。

昭和18年8月19日
▲昭和18年8月19日付朝日新聞。

3時より西木に往き6時より東拓2階にて開催の国際日本協会の講演会に出講、演題亜細亜及び亜細亜人の道。8時帰宅。会場に梅津勘兵衛氏在り。
(日記、昭和18年9月12日)

「梅津勘兵衛」は侠客的右翼団体、大日本国粋会の会長。同会は土建業と博打打ちをメインに発足、現在の暴力団・国粋会に続いている。

朝9時30分東久邇宮家に参上し殿下に言上すること1時間、御聡明に驚嘆す。(略)西木に往き4時陸軍省に佐藤軍務局長を訪ひ第三勢力の件について相談す。極めて消極的態度なり。
(日記、昭和18年9月13日)

「第三勢力」=反蒋和平運動。
この頃、雲南省政府主席・龍雲を中心とする第三勢力が全面的和平実現運動を提唱、雲南の省都・昆明には運動に共鳴した重慶国民政府の要人が続々と集まってきていた。同様の反重慶派は四川など中国各地にも勃興しつつあり、中華民国の命運に自らの思想を重ねていた大川周明はかなりの危機感を持っていたようだ。なお、龍雲は彝族で、南方軍閥・雲南派を率いる軍人として日中戦争の勝利に多大な貢献をした。

午後西木、6時よりながたにて中山・安倍・坪田・山内諸君と会食。
(日記、昭和18年9月18日)


「ながた」は西銀座にある料亭らしい。

午前10時より法政大学卒業式。昼食後銀座にまわり夕刻帰宅。
(日記、昭和18年9月25日)


卒業式は、昭和17年に半年早められた。9月に卒業、10月に入隊。これは旧制高校と大学予科も同じである。

午前大村君来り高松宮殿下拝趨の経緯を談る。午後銀座に往く。
(日記、昭和18年9月26日)


この頃、「銀座」表記も復活。

西木にて昼食し、午後1時出局。宮田光雄氏、廣瀬健一君、控訴院判事佐瀬昌三君、法政大学学生来訪。
(日記、昭和18年9月28日)


宮田光雄は当時、大政翼賛会興亜総本部審議室の総本部長。

11時西木。(略)4時より5時まで重光外相と懇談。
(日記、昭和18年9月30日)


重光葵と、恐らくは大東亜会議開催について話し合ったのではなかろうか。

大川周明はいつ感染したか(21)

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年8月分。
大川周明は8月5日に飛行機で朝9時上海発、福岡経由で夕5時半に羽田に着いている。

晴。歯の手入。
(日記、昭和18年8月8日)


まずは歯科受診してから13日に栗田女史と会っているのだが、

西木に寄りて7時帰宅、夕食後直ちに就寝。
(日記、昭和18年8月13日)


なぜか表記が「西木」に。栗のアナグラムである。

兼子午後3時上野発列車にて茨城に帰省。
(日記、昭和18年8月18日)


兼子夫人は18日に里帰りし、

銀座にまわり6時帰宅。
(日記、昭和18年8月19日)


翌日、栗田女史のもとへ。

午前茨城の兼子より電話あり、梅太郎氏長男戦死せるにつき帰京遅るとのこと。午後歯科医。
(日記、昭和18年8月21日)

歯科受診は続けている。かかりつけ歯科医の名は「正久」先生。
24日夜行で郷里の酒田に行き、28日夜に鶴岡で石原莞爾と会談している。当時の石原莞爾は予備役、つまり引退させられて郷里に引っ込んでいた。当時、石原莞爾54歳。

昭和18年10月30日
▲昭和18年10月30日付朝日新聞、同期は陸大校長に。

有能な人ほど支社勤務、さらにコネ入社がかなりの数にのぼる企業を知っているが、ニュースで数回その名を見た。もちろん不祥事でだが、まったく意外ではなかった。戦時の日本もそうだったのかもしれない。石原莞爾を引退させるとは、そりゃボロ負けも意外ではない。

大川周明はいつ感染したか

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年7月分。

上海滞在中の大川周明は上海行きの船で同室した人により、

舩中に同室せる画家石河光哉をブロードウェー・マンションに招ぎ、有三君と同道して帰寓、夕食を共にす。石河君の話により26日夜舩中にてウィスキーを強飲せる時の酔態を初めて知る。
(日記、昭和18年7月1日)


自身の酒乱を初めて知った。

過去15、16年間にごく少量のアルコールに対する彼の特異な反応に気づいていた。それが次第に顕著になり彼の態度や好意が私たちを恐がらせるよう変わってきたので酒を飲まないよう説得に努めた。当時は年齢や酒乱のせいだと思っていたが、今にして彼は精神に異常を来たしていたことが分かるし、振り返ると現在の状態によく似た以上行為の数々を思い出す。彼は頭がはっきりしないとぼやき、過去10年間は就寝後にしょっちゅう起き上がっていた。


進行麻痺とアルコールの関係は、よくわからないが。
なお、当時の上海は狂乱物価で、

永安公司を一巡して殺人的物価に驚倒し4時半帰寓。
(日記、昭和18年7月2日)


それは日本軍が偽造紙幣を乱発していたためである。

江君の意見は上海の物価昂騰は紙幣濫発を主因とするというに在り。
(日記、昭和18年7月4日)


偽造紙幣の製造は、昭和13年7月26日の五相会議で決定された日中戦争打開のための対支謀略活動の一貫であった。謀略活動は親日派中国人による政権を樹立するという政治謀略、そして経済を混乱させて蒋介石政権を崩壊させるという経済謀略を2本の柱としており、紙幣偽造は後者の一貫であった。渡辺賢二「陸軍登戸研究所と謀略戦」によると、紙幣偽造は「杉工作」といって陸軍・登戸研究所が担当し、偽造紙幣を中国大陸で使用する機関は「松機関」といって上海にあった。紙幣の偽造は昭和14年8月に始まり、昭和17年夏には大量の偽造紙幣が製造されて毎月1〜2億円が長崎経由で上海に運ばれた。

皆川・栗田・兼子に帰京遅るる旨の電報、岩田君遺族に弔電。
(日記、昭和18年7月11日)


「岩田君」は大化会会長の岩田富美夫。大化会は、大杉栄の遺骨を強奪したりなど数々の奇行で知られる極右団体である。

大正12年12月26日
▲大正12年12月26日付朝日新聞、遺骨を携へて出頭した岩田富美雄。

極右というか、ただのヤクザかヤンキーかというぐらいのアホ団体だったのだが、

昭和16年5月8日
▲昭和16年5月8日付朝日新聞。興亜諸団体の代表と懇談

日中戦争以後は大政翼賛会が「興亜諸団体」のひとつとして懇談したりしていてちょっと呆れた。まあ、これは昭和16年1月に興亜諸団体の指導統一を図るという閣議決定がされたことによるので(アジア主義者・石原莞爾が提唱した東亜連盟もコレで日本本部がアレになり、壊滅。石原の主張は中国でも共感を呼び、各地に支部ができていたぐらいであったのに、日本は自ら親日派を失ったわけである)、団体の質は問わなかったのだろうけれども(全体主義)。なお、岩田は昭和7年に娯楽新聞であった「やまと新聞」を買収して大化会の機関紙としており、少々の発言力はあったもよう。岩田死後のやまと新聞は、児玉誉士夫が継承している。

夜読書。
小日山・吉田両氏に祝賀の手紙。栗田。
(日記、昭和18年7月19日)


この「栗田」は手紙を書いたという意味なのか、会いたいという意味なのか、ただ思い出しただつぶやいたのか、わからない。まだ上海滞在中である。

大川周明はいつ感染したか

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年6月分。

午後銀座に往き5時より南氏の招待にて延寿春にて夕食。
(日記、昭和18年6月6日)


大川周明はこの頃、郷里・鶴川にある清河八郎像の台座に彫る「回天倡始清河八郎先生」という題字を書いている。
大日本言論報国会主宰の思想戦大学も開講し、「国民運動の中堅分子及び学生」相手に大川周明も講義していた。開講の目的は「皇国思想を徹底し、内外思想戦に勝利を得るため」である。

昭和18年5月15日
▲昭和18年5月15日付朝日新聞。

思いがけずボース君より電話あり、昼食後往訪す。先月27日帰京のよし、痩せて骨露われたり。最近は印度兵を以て軍隊編成に努力し来れりという。それより銀座に往き夜帰宅。
(日記、昭和18年6月8日)


昭和18年6月20日
▲昭和18年6月20日付朝日新聞、着物姿のラス・ビハリ・ボース。ガリガリだ。

西にまわりて帰宅。腹工合悪し。
(日記、昭和18年6月11日)


夜銀座に往き、9時につばめにて東上せる西川君を東京駅に迎う。
(日記、昭和18年6月12日)


6月18日に大阪に出立。21日大阪港発で渡航し、27日に上海着。
大川周明は、上海に家を持っていた。

小生は今年に入りてより東京上海半々に暮らす事と相成り、一家を上海に構えたり。
(書簡、昭和18年以前7月23日、佐山貞雄(推定)宛)


講演旅行、愛人、上海。兼子夫人は、孤独だった。

大川周明はいつ感染したか

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年5月分。

3時より銀座に往き、西川君と夕食を共にす。帰れば謹子予を待ちつつあり、茅崎に好個の売家あるを知らせんとて也。
(日記、昭和18年5月1日)


先月より疎開先を探している大川周明。兼子夫人とともに茅ヶ崎に赴き、

兼と共に茅ヶ崎に往く。思わしき家なし。
(日記、昭和18年5月5日)


夫婦で疎開できる家を探している。
愛人の栗田女史は、どうするつもりだったのか。有馬頼寧の場合、愛人と正妻で疎開をめぐる熾烈な戦いがあった。有馬自身は愛人と家族を疎開させたいが、妻も愛人も有馬の側を離れたほうが負けだとしてなかなかウンといわないのである。
さて、大川周明は7日に講演のため郡山へ出立し、伊達市保原、福島市、米沢などで計5回の講演を行った。12日に帰京、13日にまた出立して京都、神戸で講演、15日に帰京。数時間の講演を1日2回するなど、ハードな講演旅行を繰り返している。

銀座に回りて帰宅読書。
(日記、昭和18年5月19日)


20日には「鹿児島学生の同学会」で講義し、22日には「鳥居坂メソヂスト教会にて、からしだね会のために講演」。

朝銀座に往き正午帰宅。午後夜読書。
(日記、昭和18年5月23日)


慶應や慈恵など大学でも講演を行っている。
なお、昭和18年5月29日には、アッツ島で山崎保代陸軍大佐率いる日本軍守備隊2500人が全滅しているが、

アッツ嶋の吾が将士全滅の報道あり。
(日記、昭和18年5月29日)


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▲写真週報276号、昭和18年6月16日号。

大川周明自身の感想は、日記には書かれなかった。

大川周明はいつ感染したか

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をピックアップ。今回は昭和18年4月分。

午前10時より一ツ橋商大講堂に於て大東亜民族講座の概説を講ずること2時間、如水会館にて小倉中西両氏等と中食を終え、歩して日比谷公会堂に至る。興亜同盟の講演会に出講のためなり。3時より約1時間半講演、銀座にまわりて6時帰宅。疲労甚だし。
(日記、昭和18年4月5日)


昭和18年4月6日
▲昭和18年4月6日付朝日新聞。

日本の味方として日中戦争に参戦した中華民国を称える、という趣旨で開催された講演会であった。この中華民国の存在こそ、日中戦争時の大川周明の思想のよすがである。日本は“中国”と戦争しているが、対戦相手は汚くて間違った中国であり、キレイで正しい中華民国は日本とともに英米の帝国主義と戦うのだ――。

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▲写真週報256号、昭和18年1月27日号。

なお、この頃の大川周明は「過度の疲労のため眠を成さず」という状態である。大川周明は、彼の“新たな”アジア主義の周知に命をかけていた。

朝雨を冒して荻窪に至り、海外同胞中央訓練所に至りて講演せんとせしに、駅頭同書の馬車の御者あり、今日の講師は丸山鶴吉氏なりとの事なりしかば直ちに帰宅す。
午後調査局に行き銀座に回りて帰り夜は原稿。
(日記、昭和18年4月7日)


講演日を間違えている。これも進行麻痺のせいか。

午後2時調査局に赴き外務省松井課長と会談、研究所卒業生の事に就て相談す。帰途銀座に回り午後6時帰宅。
夜金子少将来訪遅くまで談る。金子君の意図は東條を支援して戦争を完遂せんとするに在り。
(日記、昭和18年4月10日)


「研究所卒業生」とは東亜経済調査局附属研究所(大川塾)の卒業生のこと。卒後の就職先(任務)は外務省も絡んでいた。大川塾、ほぼ国家機関である。

午後銀座に往き6時帰宅。夜原稿。
(日記、昭和18年4月15日)


忙しさと疲労で、栗田女史ともご無沙汰になっている。

午後原稿、夕食後銀座に往き10時帰宅。
(日記、昭和18年4月24日)


午前11時有明館に赴き西川君と共に鵠沼に往き家屋を物色す。千歳及び謹子より聞きたる家は両ら跡形もなき話に等し。得る処なくして帰りたるも好き散歩せり。
(日記、昭和18年4月30日)


自らの? 疎開先探しを始めたもよう。

大川周明はいつ感染したか

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をしつこくピックアップ。今回は昭和18年3月分。

3時銀座に往き5時半帰宅。清話会の山川雅美氏来訪、同倶楽部にての講演を頼まれて承知す。
(日記、昭和18年3月1日)


清話会は昭和13年にできた出版社だが、

昭和18年8月4日
▲昭和18年8月4日付朝日新聞。

当時からセミナーや講演事業も盛んにやっていたようだ。

久振にて齋藤貢君来訪、話題多端なり。5時西に往き7時帰宅。
(日記、昭和18年3月3日)


「齋藤貢」は「転換日本の人物風景」の著者。国民会館が発行していた「公民講座」では大川周明論も書いている。国民会館は武藤山治が劇や映画を利用して国民に政治教育を行うために設立した会館、社団法人(当時)。

午後西に往き夕5時より政治研究室の津久井、廣瀬両君に招かれ橘翁と共に待月荘に夕食。(略)8時半帰宅。
慶應書房の岩崎夫人来り、岩崎君が治安維持法にて令状を執行せられ三田書に拘禁中とのことを知る。何とかせねばなるまじ。
(日記、昭和18年3月6日)


慶應書房は岩崎書店の前身。岩崎書店は「モチモチの木」など滝平二郎シリーズでおなじみの児童書出版社でわたしも大変お世話になったのだが、戦前は社会科学専門の出版社だった。あ、今は安野光雅の本なども出してるのか……嗚呼ほしすぎる。
それはともかく、大川周明の「回教概論」や、東亜経済調査局編「南洋叢書」も慶應書房発刊で大川周明とは少なからぬ縁があった。そのほか慶應書房の発刊物には崔虎鎮「近代朝鮮経済史」、ソヴェート聯邦科学アカデミヤ世界経済世界政治研究所編「世界経済恐慌史」、白柳秀湖「太平洋争覇時代」、木下半治「日本国家主義運動史」などなどがある。素晴らしいセンスだ。

正午佐々木武行君に招かれまた鶴之江に至る。江上、頭山秀三安岡吉川兼光山田元逓信次官等々雑然たる顔触れなり。西にまわりて5時半帰宅。
(日記、昭和18年3月7日)


午後横浜に赴き記念会館に催されたる印度独立連盟主催の講演会にて講演。(略)帰途西に立寄り6時半帰宅。夜有三と語る。
ラジオにて戦時特別刑事法が議会を通過せるを知る。
(日記、昭和18年3月8日)


戦時刑事特別法は昭和17年3月21日に施行。

昭和17年8月30日
▲昭和17年8月30日付朝日新聞、「タマネギの隠匿」などで八百屋さんが有罪になる戦時社会主義。

昭和18年に「議会を通過せる」は改正案で、

昭和18年2月16日
▲昭和18年2月16日付朝日新聞。

鳩山一郎はコレで翼賛政治会を脱会。
戦時刑事特別法の改正は敗戦まで計3回行われ、検察官や裁判官の権限がどんどん強化された。なお、戦時中の刑法改正が最初に行われたのは昭和16年である。

朝湯村栄一君来り、岩崎君拘引に関する種々なる推量を話す。同業者の嫉視より来れる策謀ならんとのこと。午後満鉄にて再会を約す。
午後出局。坪田君製薬会社の山内社長を伴いて来る。倉長君岩崎君のことに就て情報を齎らせるも不得要領なり。依て来局せる湯村君を喜藏君に紹介し、赤羽特高部長に同伴面会せしむる事とす。(略)西に往き8時半帰宅。
(日記、昭和18年3月10日)


湯村栄一は社会学者。「民族的世界観の研究」などの著書を慶應書房から出していた。

留守中高橋君より電話あり、岩崎君の事件内容も略ほ分明す。埒もなき事なり。
(日記、昭和18年3月10日)


が、岩崎徹太の拘留は8ヶ月にも及んだ。出版活動はしないと誓約させられてやっと釈放され、慶應書房は潰されるのである。「埒もなき事」で拘留する治安維持法の恐ろしさよ。

午後川崎マツダ支社の講堂にて川崎厚生会のために講演すること2時間、帰路西に立寄りて6時帰宅。
(日記、昭和18年3月11日)


マツダはこの頃、オート三輪を製造していた。

帰途久振にて丸ビルに寄る。商品の貧弱驚くべきものあり。更に西に往きて6時帰宅。
(日記、昭和18年3月13日)


90年代初頭までの中国のデパートは「商品の貧弱驚くべきもの」であった。この時代の日本も、ほぼ社会主義体制だ。

改造社の若槻君来訪。
午後銀座に往き6時帰宅。守屋茂君来訪。
(日記、昭和18年3月17日)


法政に往き久々にて竹内君と談る。今度総長になれるなり。弁当を食い、丸ビルにまわり、更に銀座に往きて4時半帰宅。
(日記、昭和18年3月20日)


「竹内君」=竹内賀久治は上杉慎吉の弟子で国本社の創立者。法政大学、まずます右翼の牙城に。

午後西に往き6時帰宅。
(略)
研究所の卒業証書に署名、また彼等に贈るべき書を認む。
(日記、昭和18年3月27日)


「研究所」とは東亜経済調査局附属研究所(大川塾)。

銀座にまわりて6時半帰宅。興亜同盟に於ける原稿を作る。
(日記、昭和18年3月29日)


「原稿」は大日本興亜同盟主催の講演用である。

昭和18年3月24日
▲昭和18年3月24日付朝日新聞。

午後美松に往きて移転先の室を見る。銀座にまわりて6時帰宅。
(日記、昭和18年3月31日)


「美松」は大川塾の疎開先のようだ。

大川周明はいつ感染したか

大川周明日記」から、「銀座」「栗田」(=栗田女史の部屋)に寄っている日をピックアップしてみた。

後藤隆之助氏の大東亜研究所にて海軍少将藤森清一郎氏と会談。帰途栗に寄る。
(日記、昭和18年1月22日)


藤森清一郎、昭和18年には退役して諏訪市市長のはず。

朝市川君来りて満鉄調査部の改革について話す。
午後銀座に往き6時帰宅。
(日記、昭和18年1月23日)


晴。友部にて風邪を引く。頭痛く喉痛し。午前調査局に往き次に銀座に回り、4時帰宅。6時家を出で7時の列車に乗る。
(日記、昭和18年1月27日)


「友部」は茨城県の友部町、満州農業移民の訓練所“内原研究所”があった。大川周明は1月25日、同研究所にて“満洲諸会社指導者訓練生”相手に講演を行っている。
同日、夜行で青森県に赴き、翌28日に新町国民学校でも講演。29日に郷里の酒田に行き、2月1日の夜行で帰京、2日朝に帰宅。
体調悪化で、

終日うとうとし眠れば盗汗、痰に混血。
(日記、昭和18年2月2日)


「痰に混血」している。結核?

病勢依然、終日腹立つ。
(日記、昭和18年2月4日)


看病しているのは兼子夫人なのだろう。
服用するのは“喘息の薬ユナルゲン”。
医師にはかからず、

午後喜藏夫人昨日の療術師堤崎至彦という人を伴い来る。
(日記、昭和18年2月11日)


神武会の会員、高橋喜藏夫妻が信仰している療術師に治療を頼んでいる。

病気略ぼ全快、午後例の堤崎氏来診、左半身尚は一分の病気あるも大体に於て本復、明日は入浴しても可なりとの事。今夜は左腹及び左肩に湿布。
(日記、昭和18年2月15日)


療術(湿布)は効いたようだ。

午後久振にて銀座に行き、5時帰宅。疲労を覚ゆ。留守中、甘粕君来訪とのこと。
(日記、昭和18年2月18日)


2月18日に銀座詣でを復活。

午後武田信近君来る。近くビルマに赴くとのこと。理髪して銀座に往き5時半帰宅。
(日記、昭和18年2月19日)


中嶋翁に送られて満銕に往く。5時銀座に往き7時帰宅。
(日記、昭和18年2月22日)


「中嶋翁」は中嶋徳松、筑豊地方の炭坑主。「満銕」は鉱山会社・日満鉱業?

河本幸村氏来り、戦時刑法阻止に就て話す。フレーネ君来訪、短編2つを置いて帰る。4時半銀座に往き6時帰宅。(日記、昭和18年2月24日)

「河本幸村氏」は恐らく東亜興行の重役。

午後会社に往く。実川君来り北君の墓の話あり賛成す。政治研究室の廣瀬君、東亜文化圏の藤村・窪田両君来る。銀座に回りて5時半帰宅、神戸市役所の松本折茂両君と共に7時40分の記者にて西下す。上京中の福田虎亀君も同車なり。福田君は昨年10月より神戸市助役たり。
(日記、昭和18年2月25日)


「実川君」は大亜細亜通信の社長、実川時次郎か。

午後雑誌を読む。日本評論の長與氏の三絶面白し。銀座に往き6時帰宅。
(日記、昭和18年2月27日)


「三絶」は幸田露伴、西田幾多郎、鈴木大拙の3人を描いた長与善郎の小説。

午前より午後にかけて「大東亜に呼ぶ」という今晩のラジオ放送の原稿を書く。夕刻高橋夫人来り、安藤君の手紙を持って帰る。放送前に銀座に往き、放送を終えて8時帰宅。
(日記、昭和18年2月28日)


大川周明、売れっ子である。

大川周明はいつ感染したか

昭和18年、大川周明は頻繁に“第4の女”栗田女史の元に通っていた。

午後1時銀座に往く。夕、蒋君川又君来り晩食を共にす。巌邃君朝より来りて此夕も陪食す。蒋君巌君の日本化に驚嘆す。いろいろ支邦の実情を聞く。石原将軍在鶴ならば打連れて訪問する事とし、将軍に手紙を認む。
(日記、昭和18年1月2日)


「銀座」に栗田女史の部屋があった。

夕銀座に行き7時半帰宅。
(日記、昭和18年1月3日)


大川周明の自宅は東京都品川区上大崎4-231。最寄り駅は目黒である。

8日午後1時より3時まで石原将軍と会談することに取極む。銀座に回り7時帰宅。
(日記、昭和18年1月6日)


ほぼ毎日の銀座詣でだ。風邪になっても。

午後銀座に行く。風邪全快せず気分悪し。
(日記、昭和18年1月7日)


が、律儀に自宅に戻ってもいる。

午後読書。夕刻より銀座に行き、帰りて晩酌を傾けつつあるし時。喜藏君より電話、会意の人間に逢いたりと見え、之を今夜予に紹介せんという。
(日記、昭和18年1月9日)

晩酌も自宅で。

午後銀座に往き5時帰宅。斬髪。
(日記、昭和18年1月10日)


兼子夫人によると、この昭和18年頃から大川周明は変ったという。

東京を離れた1943年に夫の態度が変わったため私が非常に不幸だったことをよく覚えている。彼は次第に無分別で気難しくなり、機嫌がよくなったり悪くなったり早変わりし、物忘れがひどくなり、作法や服装について注意を払わなくなった。もともと作法や服装についてはきちんとするよう努めていたし、記憶も正確だったたけに極めて異常だった。
(細野徳治. GHQ/SCAP文書に見る大川周明. 拓殖大学百年史研究12,191-218,2003)


実際に「東京を離れた」=神奈川県中津に疎開した、のは昭和19年だが、昭和18年に「夫の態度が変わったため私が非常に不幸だった」のは事実だろう。大川周明、銀座に入り浸っている。なお、進行麻痺の症状には「記憶力の減退、注意力の欠如、批判力の消失、道徳観念の減退」などがある(福田真人、鈴木則子「日本梅毒史の研究」平成17年)。思想的にも、五・一五事件の頃と昭和18年では間逆で、アジアの解放・独立を目指す革命家から、権力に迎合する帝国主義者へ変化してしまった。この節操のなさは「記憶力の減退、注意力の欠如、批判力の消失、道徳観念の減退」があったからとしか思えない。

午後読書、夕銀座。病臥中なり。
(日記、昭和18年1月11日)


栗田女史も病気に。大川周明にうつされたんじゃなかろうか。

午後銀座に往く。病未だ治らず。
(日記、昭和18年1月15日)


2時銀座に至る。病気やや佳き様子。
(日記、昭和18年1月17日)


栗を訪う病勢稍佳。
(日記、昭和18年1月18日)


栗田女史、10日間ほど寝込んだようだ。

栗を見舞いて花蝶に赴き警視庁の青木・赤羽両君と会食す。
(日記、昭和18年1月19日)


栗より不快なる静岡の出来事を聞く。
(日記、昭和18年1月21日)


お、「不快なる静岡の出来事」とは浜松の聾唖者大量殺人事件のことかも。
同事件は、昭和16年8月から1年間にわたり、聾唖の青年・木村幸作が刺身庖丁からつくった短刀のような凶器で9人を即死させ、6人に重軽傷を負わせたというもの。大事件ながら戦時下で報道が控えられたために一般には知られなかったが、被害者に芸妓やその関係者が含まれており、そのスジから栗田女史は情報を得たのではないかと思われる。木村幸作の精神鑑定を行ったのは、大川周明の鑑定も行った内村祐之先生で、

彼の精神状態は、生来的性格の方面と聾唖教育の方面とに欠陥がある。これら両者は相まって徳性の欠陥を増強させ、その結果、この稀有な犯罪を構成したと理解される。そして聾唖教育による欠陥は明らかに責任能力に影響を与えるほどのものであるから、もしその程度につき、私たちの意見を求められるならば、従来の司法精神医学的経験に基づき、心神耗弱を至当とすることを確信をもって応えたい。
(内村祐之・吉益脩夫編「日本の精神鑑定」)


として責任能力ナシとしたにも関わらず、木村幸作は死刑となった。

裁判長は、精神鑑定人が幸作を心神耗弱と考えた理由を正しく理解していないことがわかる。また耳鼻咽喉科専攻の鑑定人の鑑定をも採用していない(引用社註:裁判長は、幸作は聾唖ではなく難聴であるとした)。大審院もまた幸作の上告を理由なきものとして棄却した。つまり裁判官は死刑という、完全責任能力のあるものに対してのみ与えるべき刑を、この聾唖者幸作に科したのである。これはあるいは戦時の影響もあってのことかと推測するが、しかし理論上から、われわれはこの判決に大きな疑問を抱かざるを得ない。
人権擁護の立場から廃止論さえある死刑が、われわれの精神鑑定にもかかわらず、また再鑑定の措置もとられずに強行されたことに対して、私たちは限りない遺憾を感ぜずにいられなかった。
(略)彼をこの犯行に追いやったものが、不幸な聾唖と不完全な教育とであったとするならば、当人のみがその責任のすべてを負わねばならぬ理由はない。(略)ちなみに幸作の父文〇は、幸作が逮捕された直後、天竜川に身を躍らして自殺した。悲劇はまことに深い。
(同)


内村ほか編「日本の精神鑑定」には戦前の事件が5件取りあげられているが、例えば心神喪失との鑑定を“採用しながら”、被告を心神耗弱者として判決を下す(昭和11年、電気局長刺殺事件)など司法の精神医学に関する無知、さらに、

精神病状態にあると鑑定された元男(引用者註:大本教弾圧事件被告の出口元男、警察の拷問によって発狂、昭和12年)の予審判事調書が、理路整然としており、判事の作為であることが疑われたからである。大本側は判事らを公文書偽造で告発した。これは不起訴となったが、裁判所は取調にあたった警官や検事を証人として召還して、拷問や作為の有無を調査した。


旧憲法下における裁判の不公平・不公正・人権無視をも伝えていて、医学書としてはもちろん歴史書としても名著である。

大川周明はいつ感染したか

昭和16年12月8日、日本帝国海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を攻撃した。
日米開戦である。
その6日後の12月14日午前6時半、大川周明はラジオ放送で米国東亜侵略史を講義している。全6回シリーズのこのラジオ講義は評判を呼び、人気を受けて放送された英国東亜侵略史全6回シリーズとあわせて「米英東亜侵略史」という本になり、ベストセラーとなった。この本、日本が戦争へと向かう過程が外交、経済、軍事など多面的に解説されていて、今読んでも面白い。当時の世界情勢を抑えるには大変いい教科書である。と思って読んでいると、

此のアメリカの後援を頼み、南京政府の排日政策に呼応せる満洲政権は、遂に暴力を以て日本に挑戦し来ったのであります。それは取りも直さず1931年9月18日の柳条溝事件であります。


ウソを書いている。あちゃー。
そもそも当時満洲を率いていた張学良がなぜ日本から離反し、アメリカと通じるようになったかといえば、それは父親の張作霖を日本軍に惨殺されたからだが、その手の日本に都合の悪いことは一切、大川は書かない。大川は張学良と知己であったから(昭和3年の張作霖事件の直後、2人は会談している)、満洲事件が日本軍の自作自演であることも十二分に承知していただろう。にもかかわらず、ウソを喧伝している。ラジオで。

我々日本人の魂は、直ちに是れ三国魂であります。日本精神とは、やまとごころによって支邦精神と印度精神とを総合せる東洋魂であります。従って東亜新秩序の真個の基礎たるべき魂は、すでに厳然として存在し且つ活躍しつつあるのであります。足かけ5年、我々は此の魂を基礎とせる秩序を、先づ支邦に於て実現するために、此の実現を妨げるものと善戦健闘して来ました。(略)我等の心理に潜む此の三国を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、即ち大東亜戦であります。


ああ、あの革命家・大川周明が平凡かつ陳腐な帝国主義者に。ガックリだ。
「東亜新秩序」は新アジア主義ともいわれ、まるで従来の大川が主張していた「アジア主義」が発展したような語感があるが、実際は180度違う。アジア主義はアジア諸国を西欧列強の抑圧から解放し独立させよという主張だが、新アジア主義や東亜新秩序、または大東亜共栄圏構想は日本がアジアの盟主となってアジアを率いるというもので、つまりは日本帝国主義である。大川周明は30代、大正半ばに叫んでいたアジア主義を日中戦争以降は完全に捨て去り、新アジア主義(東亜新秩序、大東亜共栄圏構想)に転向することで思想界のスター、時代の寵児の道を維持していた。これでは満蒙独立を叫んで左遷された石原莞爾のほうが、まだアジア主義者の名に恥じないではないか。
ガックリだ。
それにしてもこの大東亜共栄圏構想、今でいうと“岩盤規制を改革のドリルで突き破る”みたいな話である。そう考えると、満洲帝国は戦前の国家戦略特区。満洲国籍を取った日本人はひとりもいないのだから、満州が独立国であろうはずがない。

朝10時まで学而と閑談。それより西に行き午後4時帰宅。
夜、英米東亜侵略史加筆。
歯ぐきの腫れ引かず不快なり。就寝甚だしく寒けを催す。
(日記、昭和17年1月2日)

「西」。栗田女史だ。大川の家は上大崎なので、皇居の西ということだろう。

軍医増産の教育社会史_NEW
▲関係略地図(中野雅夫「昭和史の原点」)。

「学而」は、大川周明の弟。

歯ぐきの腫れ甚しく不快、医者に往かんと思い居るうち午後に膿出でて稍気持よくなる。4時より西に行き出井にて晩食、8時帰宅。
(日記、昭和17年1月4日)


「出井」は銀座にあった割烹の老舗。というか、まだあるらしい。

回教概論続稿に着手す。
歯殆ど平常に復す。
(日記、昭和17年1月5日)


歯科受診すべきと思うんだが。

夕一寸西に立寄り、福原男の招待にて待月荘に往く。
(日記、昭和17年1月6日)


夕西に寄り9時帰宅。
(日記、昭和17年1月7日)


西に寄りて6時帰宅。回教研究。
(日記、昭和17年1月8日)


「西」ざんまい。お盛んだ。が、

西に寄り、校正を行い、9時帰宅。
(日記、昭和17年1月10日)


西に行き、校正を了して7時帰宅。
(日記、昭和17年1月11日)


妾宅は仕事場でもあったらしい。

一寸西に寄り5時半帰宅。
(日記、昭和17年1月13日)


昭和17年の日記は2月で終わっている。忙しかったようだ。

昭和17年6月24日
▲昭和17年6月24日付朝日新聞。

中国と戦争しながら「アジア民族に告ぐ」「日本に集れ」もあるまい。

大川周明はいつ感染したか

5・15事件で有罪となり昭和11年6月16日、市ヶ谷刑務所に下獄した大川周明。
昭和12年10月13日には仮出所し、昭和13年4月に法政大学大陸部長に就任している。さらに、徳川義親を会長とする国家主義団体“大和倶楽部”も結成、白鳥敏夫松井石根建川美次などが参加した。5月には東亜経済調査局附属研究所を開設、所長に着任している。犯罪歴(テロへの武器供与、禁錮5年)は就職その他の社会活動に、なんらの悪影響を与えていない。むしろ事件後に大川周明の交友関係は広がり、地位は向上し、発言力も増していた。
母上と栗田に手紙。
(日記、昭和13年10月27日)


「栗田」は、文麿という源氏名を持つ新橋芸者である。
この時、大川周明は福岡空港から北京に飛んだ。日中戦争の早期終結を目的とした工作のためである。
北京で女郎屋を覗いているが、

海保が行きつけの北京第一の青楼に往く。そこで海保の狎奴の部屋に案内され、初めて阿片を吸って見た。焦げ臭い香がするだけでいくら吸っても何ともない。支邦の青楼の内部も始めて見たが実に不潔だ。
(日記、昭和13年11月2日)


阿片を吸ったぐらいで女を買った様子はない。しかし「支邦の青楼の内部も始めて見た」とあるが、大正11年の満州旅行でも覗いたではないか。

11月5日に朝鮮に飛んで、6日に釜山から夜行の連絡船で7日に福岡着。7日朝9時25分発の汽車で東上し、6時に目を覚ます。微雨。7時新橋で下車栗田に寄る。
(日記、昭和13年11月8日)


帰国後すぐに女のもとに行っている。

夜酒を飲み過ごし栗田のところに泊まってしまった。
(日記、昭和13年11月9日)


この昭和13年は東亜経済調査局附属研究所(通称、大川塾)ができた年であるが(5月)、

10時出局、太田耕造君が来て政局について相談する。予は万難を排して来年4・5月まで近衛内閣を存続させたいという希望及び其の理由を述べ、太田君も賛成した。いま誰が代ってもそれは必ず短命内閣で、事変の善後に幾多の支障を生ずる。ここ数個月の間に同志が直毘のむすびを固くし終るまで現内閣を続けるのが最上策と考える。平沼の諸公が出たところで何も出来るものではない。わけても陸相に梅津が復活するようなことがあっては総てが叩き壊しだ。梅津の消極政策が板垣の積極政策と変って現在の戦果を収めたのだ。然るに今梅津が代って陸相となれば、支邦及び列強は必ず日本が消極政策に逆戻りしたものと判断し事変の処理が至難となるであろう。
(日記、昭和13年11月14日)


大川塾とよく似た設立趣旨(大東亜共栄圏建設のための人材養成)の興亜専門学校の中心人物、太田耕造が大川のもとを訪れている。太田耕造は東大法学部生が大正8年に設立した右翼組織「興国同志会」の学生幹部で、岸信介の4年先輩にあたる。興国同志会は森戸事件をきっかけに瓦解するが、その一部メンバーが平沼騏一郎を迎えて発足したのが国本社である。大田耕造は国本社の幹部であった。大川周明とは同じ年に法政大学教授に就任しており、親しくなったようだ。それにしても法政大学は戦後にアカの大学と呼ばれたりしているのだが、戦前は右翼の巣窟だったとは。
さて、昭和13年末、大川周明は郷里の酒田で過ごしている。帰省のため上野駅に行くと「スキー客雲霞の如し」。人心にもまだ余裕があった。

正午斉藤市長に迎えられて相馬屋に荒木彦助氏武田助役と高工問題について相談会。帰途歯医者によりて治療。
(日記、昭和13年12月31日)


大川周明は郷里に「折居」というかかりつけの歯科医がいた。大晦日まで治療しているのは、当時としては珍しいんじゃなかろうか。
相馬屋」は相馬屋事件の舞台となった料亭。同事件は明治26年、酒田の豪商が相馬屋で宮中を模したコスプレ大新年会を開き、これが不敬罪に問われた事件である。豪商たちは天皇や首相、大臣に扮し、皇后役は相馬屋の娘が務めた。料理を運ぶ女性も女官のコスプレだったというから、本格的である。コスプレを不敬とはヤボな話だが、これも時代だ。
「高工」とは高等工業学校、または高等工芸学校のことで、工業関連の教育を行う旧制専門学校である。その多くが、戦後の学制改革で大学工学部になっている(例:米沢高等工業学校→山形大学工学部)。この高工を鶴田と酒田のどちらに建設するかでモメていたようで、翌年には鶴岡市市長が東亜経済調査局にまで押しかけてきている。大川は同局でまずは酒田市市長と相談し、その結果「山形県知事に運動を依頼し、位置は文部省側に一任」と鶴岡市市長に提案し、了承されている。なかなかのコーディネーターぶりだ。
大岡周明は元日にも折居歯科に行き、

予のために開かれる宇八の歓迎会に行く。出席者約50名、1時間に亘って支邦事変に対する意見を述べた後に宴会に移る。8時半切上げ折居歯科に寄って歯を治療してから相馬屋で開かれる行地社関係の二次会に出る。
(日記、昭和14年1月1日)


治療を受けている。「宇八」は酒田の老舗料亭。

折居歯科で歯の治療をしてから本間光勇氏の宅に回り、夕食を御馳走になってから停車場に行き大勢の人に見送られて5時40分発の上野行の列車に乗る。
(日記、昭和14年1月2日)


折居先生、大川周明のため特別に三が日も診療所を開けたようだ。大川周明もそれだけ、名士だったのだろう。
夜行列車で東京に戻った大川周明は、

荘内とはうって変った晴天である。時間も遅れずに6時40分上野に着く。駅頭に栗田が出迎えていた。一緒に栗田の家に落つく。
(日記、昭和14年1月3日)


栗田女史に迎えられ、そのまま妾宅へ。自宅に戻ったのは翌々日の5日の朝7時。兼子夫人には4日まで酒田にいたとウソをついたか、それとも男女の仲などすでに超越していたか。

今日は頭山秀三君から相撲見物の招待を受けたが少し腹具合が悪いので見合せ、栗田のところで休養。
(日記、昭和14年1月14日)


夕渡辺君が予を国本社竹内賀久治氏に紹介するために一夕の宴を瓢亭に張ってくれた。竹内氏は頑固一徹らしい気持のよい人だ。快く飲んだので久振に泥酔、吉原下谷を駆けまわって栗田のところに沈没。
(日記、昭和14年1月22日)


「瓢亭」は築地にあった料亭。大川の行きつけであった。下田実花いわく大川は自分が嫌いな芸者にはスグ帰れなどといったそうで(松本健一「大川周明」、初出は「安岡正篤とその弟子」での下田実花の発言)、そうだとすると芸妓に嫌われる野暮な客である。

銀座で夕飯を食い9時帰宅。
(日記、昭和15年2月1日)


「銀座」。栗田女史だろう。この時大川周明53歳。
その2年後、

歯ぐき腫れ熱あり不快。
(日記、昭和17年1月1日)

また、正月に歯が悪くなっている。
他人の日記を読んでいると、大川に限らず正月に健康を害する人が多いような気がするのだが、気のせいだろうか。

大川周明はいつ感染したか

5・15事件で禁錮5年の大審院判決が下り、大川周明が市ヶ谷刑務所に下獄したのは昭和11年6月16日。2・26事件から、3ヶ月半後であった。6月26日には豊多摩刑務所に移動し、翌12年10月13日には仮出所している。
獄中で、女のことを思い出す大川周明。

北君(引用者註:北一輝)のことを思うと自然田邊のことを想い出す。北君が支邦から帰って来た大正9年の夏、神楽坂の橋本で鰻を食った時に予は初めて田邊を見たのだった。足かけ3年に亙る絵巻物がこれから書かれ初<ママ>めた。其年の暮か、又は翌年の春、とにかく寒い寒い冬の日に、田邊を初めて其頃予が寓居であった大船の常楽寺に寄越したのも北君であった。その田邊とも大正12年の正月に一度会ったきりだから、尓来足かけ15年にもなる。齢も42になる筈だが、何処に何うして居ることやら。
(昭和11年8月11日)



北一輝に女を紹介されたのか。
こう書いた大川周明は満49歳で、「田邊」さんはその7つほど年下らしい。2人が出会ったのは「大正9年夏」、大川周明33歳の頃。それから「足かけ3年に亙る絵巻物」=本郷弥生町にて同棲、大正11年末あたりまでか。

大正4年 28〜29歳 後の兼子夫人と同棲(肉体関係なし)
大正5年5月 29歳 榊原弥生と婚約
大正8年夏 32歳 上海の風俗店で童貞卒業
大正9年 33歳 梅毒発症、榊原弥生との婚約解消
大正9年夏〜大正11年末 33〜36歳 田邊と同棲
大正14年2月16日 38歳 兼子夫人と結婚

「田邊」さんとの同棲は、後の兼子夫人との同棲と並行していたんだろうか。
なお、北一輝は2・26事件の首謀者として昭和12年8月14日に死刑判決を受け、その5日後の19日に銃殺刑となった。

今日は荐りに栗田のことを考える。栗田は予に取りて第4人目だが、人物は4人のうちで一番信頼が出来る。いろいろな境遇を経たにも拘らず、境遇に傷われざる魂の美しさを有って居る。予と相知ったのは予のためにも彼のためにも幸福である。予は今後彼よりも好き伴侶を見出だし得るとは思わない。是はおそらく彼とても同然であろう。ただ彼が長く予と共に歩み得るか否かが問題である。予の往く道はいばらの道なるが故に、心弱き者は久しく之に耐ゆべくもない。況んや彼は最も誘惑多き地位に在るのだから、予を離れて安易なる道に就くかも知れない。而も其道は、初めは安易にして後には必ず嶮奇であろうから、彼は之によって本当の幸福たり得る運命をもって生れて来たかのように思われる。そう言えば他の3人も同様だ。予を去って幸福を得たのは無さそうだ。脇本も多幸ではないらしい。気の毒だが今となっては総て後の祭りだ。
(日記、昭和11年8月14日)


栗田さんは「文麿」という源氏名を持つ新橋芸者で、

(大川の)新橋での根拠地は金竜亭から瓢亭を用いた。そこで結ばれたのが、文麿というフランス人形みたいなカギ鼻の美人であった。無声映画時代の八雲恵美子は彼女の親友であった。大川周明死去の後3日後に文麿は死んだ。自然死である。知人に「文ちゃんは仕合者だ」といって、羨ましがられた
(金内良輔「革命児・大川周明」、松本健一「大川周明」掲載)


大川周明の最後の女となったようだ。妻は別として。
「脇本」はこれも新橋芸者“吉丸”の姓で、3月事件頃の大川周明の愛人。大川が収監されている間に芸者から足を洗い、神戸の男性と結婚していた(松本健一「大川周明」)。

大川周明はいつ感染したか

5・15事件で逮捕され、市ヶ谷刑務所に入獄中の大川周明。
獄中で、

私事先月は入歯をこわし申候為胃腸を損じ候いしも、只今は快く相成申候。目下獄中にて大々的に歯の治療に取りかかり申候。
(書簡、昭和7年11月1日、市川刑務所より大川多代女宛)


義歯をつくっている。
46歳で義歯。さすがに総義歯じゃないだろう。ブリッジか、部分床か。

胃腸の方も順調にて入歯も今月中には出来可申
(書簡、昭和7年11月16日、市ヶ谷刑務所より大川多代女宛)


生来胃腸が弱い上、義歯がこわれ、しかも食事は獄中食。めざしにたくわん、とかか(イメージ)。

先月初め入歯をこわして、そのために胃腸を悪くしましたが、それも只今は快くなり、寒さにも拘らず、極めて元気にまたのびやかな気持で、毎日読書と思索とに送って居ります。いろいろと好い学問をしました。
(書簡、昭和7年11月18日、牛込区市ヶ谷富久町112よりラス・ビハリ・ボース宛)


この書簡を受け取ったラーシュ・ビハーリ・ボースは、インド人の独立運動家である。イギリス政府より過激派として指名手配され、日本に逃れてインド独立運動を続けた。日本滞在中、これも日本に逃れていた孫文とあっている。新宿中村屋にかくまわれ、そこで作ったインドカレーが日本全国に広まり、今日に至るらしい。インドカレーはインド独立革命戦士の味なわけだ。わたくしも欧州風のネットリしたカレーより、辛くてシャワシャワしたインドカレーのほうが好きである。

入歯も今月末に出来ました。2週間慣れたら此方もよかろうと思います。とにかくまた少しづつ肥え初めました。
(書簡、昭和7年12月3日、市ヶ谷刑務所より大川多代女宛)


大川周明、書簡では肥ったことをよく強調している。実際はヤセギスで、背も高いので学生時代のあだなはキリンだった。容貌も日本人バナレしていて、

あるとき二人(引用者註:大川周明と古賀清志)で道を歩いていると犬がほえた。大川はインドベンガル人そっくりの顔をしている。犬にほえられた大川は道路に四つんばいになって、犬と同じに「わん、わん」とほえかえした。犬が閉口して逃げた。それいらい古賀はいっそう大川が好きになった。
(中野雅夫「五・一五事件 消された真実」昭和49年)


ベンガル人ぽかったらしい。ベンガル人というと、サタジット・レイみたいな感じだろうか。

Satyajit_Ray
▲映画監督サタジット・レイ、1955年。

閑話休題。母宛の書簡には義歯ができて栄養状態が良くなった、と書簡に書くものの、

入歯も漸くなれました。どうしても自分の歯のようには参らず余程用心せぬと胃腸をそこないますが、一生懸命注意して居りますから大丈夫です。此頃は余程肥えました。
(書簡、昭和8年1月24日、市ヶ谷刑務所より大川多代女宛)


実際は義歯は不調であったようで、

歯が悪く従って胃腸が悪かったので久しい間粥だけ食べて居ましたが、先月中頃から普通のご飯にしました。
(書簡、昭和8年9月4日、市ヶ谷刑務所より大川多代女宛)


胃腸を悪くしている。なお、獄中でもごはんは粥に変更できるらしい。

義歯が完成して以来胃腸もよくなったし、夜は十分に熟睡するし、心身ともに些かも衰えない。
(書簡、昭和8年12月18日、市ヶ谷刑務所より大川学而宛)


さすがはテロリスト、常に強気だ。大言壮語しても弱音は絶対に吐かない。日記に愚痴を連ねるようなタイプは、革命家には向かない。
昭和9年11月12日に保釈となり、

本日大審院判決にて反乱罪幇助禁錮5年と決定仕候。家事整理並に歯の治療に暫く執行延期を求め、然る後下獄可仕候。
(書簡、昭和10年10月24日、大川多代女宛)


昭和10年10月24日に反乱罪で禁錮5年の大審院判決が下る。そして、相変わらず歯は悪い。これは獄中での治療がダメだったのか、それとも他部分が新たに悪くなったのだろうか。

大川周明はいつ感染したか

兼子夫人は大川周明より2歳年下で、結婚時には36歳であった。芸者稼業でひと財産築いていたようで、

大川周明の自宅は目黒上大崎であった。600坪の敷地をもち、財界の藤山愛一郎の貸家であったが、大川の妻兼子が金を工面して買った。家は兼子の名義である。
(中野雅夫「昭和史の原点」、昭和47年)


上大崎の邸宅も兼子夫人が買ったものだった。大川周明も昭和3年8月には満鉄東亜経済調査局長となっており、この頃には結構裕福だったと思われる――が、もしかするとせっかくの高給も革命につぎこんでいた可能性もある。大川夫妻には子どもはいないし、大川周明は家庭を顧みるタイプでもなさそうだから、もしかすると兼子夫人は偉大な革命家の支援者にならんという理由で結婚したのかもしれない。
さて、大川周明は結婚後6年で2度クーデターを企て(昭和6年3月と10月)、それは未遂に終ったが、

昭和8年5月17日恐怖の瞬間 語る4君
▲昭和8年5月17日付朝日新聞。

5・15事件で遂に実行に関与し(武器供与)、

昭和8年5月17日黒幕の大物登場
▲昭和8年5月17日付朝日新聞。

逮捕される。

昭和8年7月25日大川周明
▲昭和8年7月25日付朝日新聞。

大川周明は、超国家主義者たちの思想的支柱であった。
――のであるが、

昭和7年3月18日陳述は夢物語り 「大川周明氏も狙っていた」
▲昭和7年3月18日付朝日新聞。

血盟団事件では、なんと暗殺対象になっていたという。暗殺者のテキトーかつ幼稚さに驚くばかりである。
この頃、大川には吉丸という源氏名を持つ芸者を愛人にしており、

吉丸は大川の愛人で、新橋に住んでいたが、大川が毎朝千駄ヶ谷の馬場で乗馬の練習をする時に、彼と会うため、新橋から原宿までの国電の定期券を買うほどの仲であった。
(中野雅夫、昭和47年)


吉丸の姓は脇本といった(松本健一「大川周明」)。
某落語家は女郎買いに早稲田から定期券を買っていた――というマクラを談志が語っていたのを聞いた事があるが、よくある話だったのか。しかも、大川周明の場合、女のほうが定期券を買っていた(=熱を上げていた)。革命家というのは、モテるようである。

大川周明はいつ感染したか

大正8年夏、32歳で上海の風俗店で童貞を卒業し、すぐさま梅毒にかかった大川周明(仮説)。
ここで気になるのは、

夫人によると、「夫は女に接することのできる人ではなかった。夫と私との関係は、ずっと兄と妹のようなものであった。それゆえ、他の女から梅毒を移されたとは思えない」とのことであった。
(西村四方「狂気の価値」昭和54年)


という、戦後になってからの大川夫人の言葉である。
大川周明は本当に「女に接することのできる人ではなかった」のか。
大正10年の日記には、こんな記載もあった。

舩に女を売りに来り、デパートメント・ストアに裸体画を売る。而して薄暮公園に白人の街頭女悠々彷徨す。毫も偽善的束縛を得ず。
金を沢山持って2、3週間香港に遊びたしと思う。
(香港旅行中の日記、大正10年10月15日)


以上は香港旅行中の日記である。フツーの男ではないか。アジア解放を掲げた禁欲的な国粋主義者のイメージが、崩れる程度には。

我等の任務は西欧民族に虐げられつつある国民を救済することで、決して西欧民族に代って彼等を虐げることではない。我等は総ての民をして人類に付与せられたる最も尊き権利の一つなる自由を得せしめ、彼等をして何等外部の不当なる抑圧なくして其の本来の文化を長養せしむるに在る。我等が『亜細亜人の亜細亜』と叫ぶのは、亜細亜が欧羅巴人の支配の下に在る限り、本来の亜細亜を発揮することが出来ぬからである。
(大川周明「君国の使命」、大正5年)


こう書いた大川周明は、しかし、イギリスの植民地である香港に毫も疑問を感じない。大川周明はアジア、中国にたくさんの友人を持ち、南京事件の情報も入ったはずであるが、にもかかわらず松井石根を糾弾することもなかった。戦後も巣鴨プリズンで松井と仲良しである。自らクリスチャンで恐らくはキリスト教関係のルートから南京の悲惨を知った矢内原忠雄が昭和14年、「宣教80年基督教連合信徒大会」が松井石根を招いて挨拶させたことに激怒し、自らの講演で公然と批判して(昭和14年11月26日、駿河台女子基督教青年会での講演、矢内原忠雄全集第12巻)、東大を追われることになるのとは対照的に。大川周明の名を一躍高めたアジア主義にしても、大東亜戦争期にその主張は180度転換し、むしろ先鋭的な帝国主義者になっている。大川も加藤弘之のようなご都合主義であったのか、それとも、この変節も病気ゆえなのだろうか。神経麻痺の症状に、道徳観念の減退があるが……。
閑話休題。

茶までまた昼寝をした。気が暢びりしたのは可いが、何もせずに居ると、性欲が驚くべき勢を以て台頭する。詩人とか芸術家が、美しい心を有って居り乍ら、女にだらしないのも無理がないと思った。僕の心は、舩に乗ってから、陸上に居るときよりは遙かに美しく清い。それだのに、此の美しい清い心とは没交渉に、性欲が一方で跋扈する。
(満州旅行中の日記、大正11年7月24日)


満洲旅行でも「性欲が驚くべき勢を以て台頭」。いよいよもって、フツーの35歳男性である。

夜になって浪漸く収まり、気分も常に復した。舩は暴風と濃霧のために針路を失い、12時間も無駄をしたので、大連着は明後日とのこと。
母と根岸に手紙を書いた。
(満州旅行中の日記、大正11年7月25日)


「根岸」。女か。
大川周明には妻以外に4人の愛人がおり、早い順から「まつ子」、田邊(源氏名:老松)、脇本(同:吉丸)、栗田(同・文麿)という(松本健一「大川周明」平成16年)。このうちまつ子さんと田邊さんは神楽坂芸者、脇本さんと栗田さんは新橋芸者である。「根岸」はこのうち誰かの自宅だろうか。大正9〜12年頃、大川周明は田邊さんと本郷弥生町で同棲していたと松本健一「大川周明」にあるが。
この大正11年の満州旅行では、女郎屋も覗いている。満州里と哈爾浜の特務機関所属軍人が大川周明を案内している。

食事が終ってから、連れ立って公園に散歩に行き、それから日本の女郎屋を覗いた。そこを出て、数軒先には、支邦人の経営して居る露西亜女郎屋がある。それにゾロゾロと入り、腰を下ろして紅茶を飲む。ここは田所大尉が時々遠征すると見え、女の品定めをやったりなんぞして聞かせる。(略)一人の女が出て来て座った。依田少佐が、これは何うかと聞くと、田所大尉曰く、此奴は非常に技術巧妙な先生ですとすまして云う。みんな大笑いをしたが、女は何の事か判らないからキョトンとして居る。
(満州旅行中の日記、大正11年7月25日)


女郎を買った気配はない。
その2年半後、大川周明は結婚する。

16日午後5時、八代大将御夫婦の非常なる御芳情に浴し、大将邸にて結婚の式を畢り、廣瀬兼子を妻と致し候間、謹で御知らせ申上度如是御座候。
(書簡、大正14年2月16日、大川多代女宛)

大川周明、38歳であった。晩婚だ。そして相手は榊原やよいではなく、廣瀬兼子である。兼子夫人は茨城県筑波郡今鹿島(現・つくば市)の出身。仲人は、海軍大将の八代六郎である。

大川は反体制的な生活に馴染むようになった。よく酒を飲み、しばしばアヘンを吸った。神楽坂の花街にも頻繁に足を運び、気に入った何人かの芸者のもとを回った。彼がよく通った芸者たちのなかには嫉妬心を抱く者もいて、大川はそんな一人から1923年に他の芸者と縁を切るよう迫られた。
(エリック・ヤッフェ「大川周明と狂気の残影」平成27年)


1925年2月に大川が懇意にしていた芸者と結婚すると、海軍大将の八代六郎が仲人を努めた(妻の名前は兼子という。あの嫉妬に駆られた芸者だ)。
(同)


出典がよくわからないが、まあ、上記を信ずるに大川周明は結構、浮名を流していた。「女に接することのできる人ではなかった」という感じではない。兼子夫人の言葉はウソか、それとも――彼女にとってのみ、事実であったのか。つまり、大川周明は兼子夫人の兄のような存在で、夫ではなかったのかもしれない。

大川周明はいつ感染したか

大川周明が「初めての性体験で性病にかかった」という33歳は、大正8年12月6日〜翌9年12月5日間である。
しかし、大川周明にもし“潜伏期間”という感染症の基礎知識がなかった場合、この「性病にかかった」は、症状が現れて治療した、という意味もありうる。とすると、潜伏期間コミで大正5年ぐらいから見るべきだろう。梅毒の症状、特に特徴的なバラ疹や発熱、倦怠感が出るのは第挟、感染から3ヶ月〜3年後だからである。大川周明のような寝食を忘れて仕事や勉強に打ち込む“神経衰弱になりがちな”タイプは、痛みのない第鬼の症状(感染部のコリコリ、足の付け根のリンパ節の腫れなど)は気付かないか、無視しそうでもある。

参考:国立感染症研究所「梅毒」

しかし、当時の日記は残念ながらない。日記は明治37年6月28日〜大正10年10月4日までないが、これもナマナマしいので刊行されなかった可能性はある。というわけで書簡をチェックすると、大正8年の夏に上海、年末に満洲を旅行していた。
満洲から帰国直後の書簡には、

帰京後直ちに流行性□感冒に罹り年末頃に漸く快方に赴き、元旦より一週間外房の□所々を散歩がてらに泊まり歩き見事に退治仕り候が、
(大正9年1月13日、東京より石田馨宛)


という気になる記載が。第挟梅毒の症状は、流行性感冒に似ていなくもない――発熱、頭痛、倦怠感、赤い発疹、リンパ節の腫れ……。
さらに同じ書簡には、

今度の満洲行は夏の上海行の如くロマンチックな出来事が皆無なりし代り、


「ロマンチックな出来事」とは、いわゆる筆下ろしなんじゃなかろうか。
大正8年夏、32歳の大川周明は上海で「ロマンチックな出来事」を体験、童貞卒業と同時に梅毒に感染し、同年末に症状が現れたがインフルエンザだと思って放置する(早期顕症梅毒第鬼)。梅毒第鬼は無治療でも数週間〜数ヶ月で症状は軽快するから、完全に体調を復したと思った大川周明は大正9年6月、33歳で榊原やよいと婚約。しかし早期顕症梅毒第挟の症状が出現し、感染を自覚して婚約を解消する……。
まあ、憶測であるが。

大川周明はいつ感染したか

大川周明の弟・学而が大正9年に結婚するが、

学而の結婚式は小生渡満以前に挙げるよう願上候。
学の結婚は小生に一と安心を与えるものに御座候。いずれその内小生も良縁ならば家内を迎え申すべく候故、小生の結婚は当面の仕事完全に目鼻がつく見込立ちたる後と御信望下され度候。
(書簡、大正9年2月28日、大川多代女宛)


大川周明自身はまだ、結婚する気はなかった。この時、大川周明33歳。「初めての性体験で性病にかかった」(エリック・ヤッフェ、平成27年)頃だ。
母への手紙で結婚する気はまだないと書いたその約4ヶ月後、

私は嫁を貰うことにした。結婚はいつかもとより未定であるが、兎に角約束だけはした。いつかも話した事があったと思うが、長い間の懸案であったのに、解決をつけたわけだ。私を決心させた理由は、此頃その相手の身辺に起った大打撃です。私を思う其の心も憐れであるし、境遇の激変も私の同情を惹いたので、承知することになったのです。赤貧を嘗めることも、罷り間違えば牢に入ることも承知と云うから先づ安心です。
(書簡、大正9年6月20日、東京より石田馨宛)

大川周明は結婚する旨を母に伝えている。
「罷り間違えば牢に入ることも承知」したという結婚相手は恐らく榊原政雄の妹、榊原やよい。「此頃その相手の身辺に起った大打撃」とは、大正9年2月28日の母向けの手紙にうかがい知れる。すなわち、

榊原の貸金訴訟は半年延期と相成申候。その間に無事片付可申候間、御安心下され度候。借金の計算表もどうぞお忘れなくお送り下され度候。
(書簡、大正9年2月28日、大川多代女宛)


訴訟沙汰である。兄の事業が危うくなっている榊原やよいに同情し、大川周明は結婚を決意していた。ちなみに、後の兼子夫人とはまだ同棲中である。
しかし、結局、大川は榊原弥生と結婚しなかった。
その理由こそ、「33歳のころ初めての性体験で性病にかかった」からだろう。
相手は兼子夫人でもなく、そして榊原やよいでもない。誰だったのか。

大川周明はいつ感染したか

紳士富豪など云う動物、鼻毛を抜いて貰いたいなら千円万円払って態々女に抜かせなくても、眼鏡さえかければ僕でも抜くことがやさしい。僕ならばタダで抜いてやる。其金を以てナゼ社会の為を図らないか。
(書簡、明治37年月日不明 熊本より本間光三宛)


芸者遊びや妾を持つことをこう揶揄した大川周明、18歳の頃である。後に陸大出のエリート将校と芸妓をはべらせながら陰謀を画策して“宴会派”と呼ばれたり、複数の愛人を持ったりするようになろうとは、人生わからないものである。
日記や書簡からは、大川周明が生来胃腸と眼が弱かったことがわかる。さらに勉強のしすぎで神経衰弱になり、肺結核にも罹患していた。その治療のため、明治40年末から翌41年4月まで伊豆大島で静養している。当時、大川周明21歳ぐらい。
その5年後にも、

私事正月よりレウマチスに罹り、次で神経痛となり、2月の中頃より神経衰弱の気味なりしも格別の事なからむと思い居りしに、今月始めに相成り図書館にて勉強中激しき眩暈を感じて床に倒れ漸く帰宅致し候なりしが、其後は毎日頭痛致し夜間は2時間乃至4時間位しか眠れず、医師のすすめにより勉強も翻訳も全廃致居候。
(書簡、明治45年3月<推定>、東京本郷元町より大川周賢宛)

体調を崩している。リウマチ、神経痛、神経衰弱で、原因はやはり勉強のしすぎ。25歳頃、大川周明は宗教学者を目指して猛勉強中であった。
女性関係の初出は大正5年5月、「夫婦約束」をした女性がいたことが書簡から知れる。大川は、29歳だった。

弥生君とは押川先生の前で、僕の方から言い出すまで1年でも10年でも100年でも決して弥生君の方から結婚の催促をせぬと云う約束の下に夫婦約束した。僕は当分結婚する気がないが、そのうち気が向いて来たら一緒になろう。今のところではいつの事やら一寸見当がつかぬ、売薬もの、内職もの余計の心配をせぬよう頼む。
(書簡、大正5年7月18日 青山原宿166、根岸方より大川学而宛)

「弥生君」。
大川周明あての来簡に“榊原やよい”という差出人があり、手紙の内容から察するに恐らく榊原政雄の妹である。
榊原政雄は大正2年頃、満州・奉天に「759町9反5畝」(約700平方km、東京23区ぐらいの広さ)の土地を獲得して榊原農場を開いた事業家である。大川周明と同郷で、仙台神学校(現・東北学院)卒のキリスト教牧師として熊本草葉町教会で布教活動を行っており、大川周明が第五高等学校の学生であった際に知り合っている。
この仙台神学校の創設者が、「押川先生」こと押川方義だ。大川周明は明治43年7月10日に、キリスト教団「日本教会」――後の道会に入会している。
なお、大川の家は酒田で代々医業を営んでいた医家で、父親も医師だった。長男であった大川周明は当然のように医師になることを強制されているが、自分は医師に向かないと突っぱね、父親から「勝手にせー」などと怒鳴られても頑として譲らなかった。さすがは大川周明、自分をよくわかっている。しかしその父親は大正3年5月、診察していたチフス患者から自らも感染して急死し、大川周明は学者になる夢を諦めた上に自ら2人の弟の父親代りにならざるを得なくなる。大川周明、27歳の頃だ。大川周明は自分の生活費はもちろん、弟2人の学費(外国語学校と早稲田大学)も稼いだ。アルバイトは参謀本部のドイツ語翻訳と、道会の機関誌「道」の編集である。で、この苦しい時に月々の生活費を援助してくれたのが榊原政雄であった。この親切な榊原の満洲での事業「榊原農場」は失敗してしまうのだが、日中戦争敗戦で満洲における全アレコレが水泡と帰すことを思えば、もしかすると傷は比較的軽度であったといえるのかもしれない。敗戦時、満洲から日本への途上で病没したり、殺されたりした人も多かったからである。

ちなみに、大川周明は大正4年には後の兼子夫人と同棲していたという情報もある。

本郷の下宿で、のちの大川夫人廣瀬兼子と知り合った。夫人の方が大川にひかれたらしい。まもなく築地に部屋を借りて一緒に住んだが、大川は同時に別に一室を借りるという、変則的な同棲生活であった。ところが、大川の尊敬する八代六郎(海軍大将で大隈内閣の海相)に知られ、10年後に正式に結婚させられた。
(西丸四方「狂気の価値」昭和54年)


大川周明の結婚は、大正14年2月16日。であれば同棲開始は大正4年、大川周明28〜29歳。父親が死んで1年後に築地で同棲を始め、関係を続けながら榊原やよいと「夫婦約束」をしたようだ。今だとゲス不倫などといわれるだろうが、当時は妾を持つことが男のステイタスであった時代である。しかもエリック・ヤッフェ「大川周明と狂気の残影 アメリカ人従軍精神科医とアジア主義者の軌跡と邂逅」によると、兼子夫人は芸者だった。芸者を妾にすることは、むしろ王道である。
それにしても、西丸四方に兼子夫人は大川周明と「本郷の下宿」で知り合ったといっているが、妙である。フツーに考えれば兼子夫人の職場、恐らく料亭などのはずだ。
さらに、エリック・ヤッフェ著によると「33歳のころ初めての性体験で性病にかかったがもう性器に異常はないと大川は言った」。
28〜29歳で兼子夫人と同棲を開始したが、肉体関係はなかったのだろうか。
とすると、

「夫は女に接することのできる人ではなかった。夫と私との関係は、ずっと兄と妹のようなものであった。それゆえ、他の女から梅毒を移されたとは思えない」
(兼子夫人談、西丸四方「狂気の価値」昭和54年)


という兼子夫人の言葉は、真実なのかもしれない。
とすれば、大川周明の梅毒は垂直感染なのだろうか。

大川周明はいつ感染したか

東京大学医学部付属病院で、大川周明の担当医であった西村四方。西村は大川周明の妻、兼子夫人から「夫は女に接することのできる人ではなかった」と聞き、先天性梅毒の可能性を検討している。

大川の梅毒は先天的なものであろうか。すなわち、母の胎内で感染したものであろうか。一般に先天梅毒の児は20歳までに脳梅毒になるのが普通であるが、47歳で発病という記録もあるにはある。大川は60歳で発病した。
先天梅毒児は、多くは知能が低いものであるが、時には高い場合もある。ある大学の数学の助手をしていて非常に頭の良い人がいたが、簡閲点呼(予備兵、補充兵を召集して点検し、訓練、訓示を与えること)のときに、突然、司令官の壇上に駆け上がり、号令をかけ始めた。捕えられて調べようとしても、興奮して戯言ばかりいっているので、病院へ連れて来られた。狂気を見れば梅毒と思えの時代であるし、一見、顔に先天梅毒の徴があるので調べると、果たして脳の梅毒による精神病であった。すぐ治療したが、やはり優れた数学者のままでいることができた。マラリア療法のない時代ならば、やがてひどい痴呆の廃人となり、痩せ衰えて死んでしまったはずである。
(西村四方「狂気の価値」昭和54年)

大川周明、垂直感染(母子感染)で梅毒になった可能性も否定しきれないようだ。
また、あの完璧としかいいようのないタイミングで大川周明が発症したことについても、西村は考えている。

脳の梅毒にもとづく、精神的動機によらない脳病による精神病の症状も、脳の病変のみによって規定されたものとは限らない。実際、大川の狂気の症状には、そのときの症状、過去の経歴、心の底に隠れていそうな希望などを、奇妙な形で露呈させているものが多い。死は免れたい、敵の情けは受けたい、自分は罰せられるような人間ではないということが、狂気のグロテスクな表現をまとって表出してくる。これはいかにも人間らしいことで、右翼の大物でも勇敢な兵士でえも、死ぬ間際には「天皇陛下万歳」とはいわず、「お母さん」などというものである。ちなみに、かのキリストも、最期に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし)と叫んだ。これはキリストらしからぬ言葉なので、教会の講義では、それは聖書「詩編」のダビデの歌を歌ったのだとしている。(略)しかし、人の子イエスの人間らしい最期の言葉として、そのまま受け取った方がよい。
(西村四方、昭和54年)


つまり、ストレスが発症に寄与したと。これはありそうだ。裁判から除外されなければ、大川周明の死刑は確実だったろうから。
さらに西村は、斬新な説を展開した。大川周明はスピロヘータを利用し、自身を守ったというのである。

もう一つの問題として、人間の体が生の本能で身を守ろうとするときに、偶然持っていたスピロヘータを利用して、脳内への侵入を許可するのではあるまいか、ということがある。これは科学的なお伽噺かもしれない。しかし、そのように思えることにときどき出会うのである。
(西村四方、昭和54年)


その例として西村は、コッホがコレラ菌を発見した際、これはコレラ菌ではないという反対者がそのコレラ菌の培養液を飲んだが、コレラにかからなかったことなどをあげた。“信じるものは救われる説”である。確かに、病は気から、ということはある。想像妊娠(偽妊娠)もこの類だろう。想像妊娠は、精神力(希望や恐怖)でホルモンの分泌を変化させてしまうのである。

しかし、こういうお伽噺のようなことがあったとしても、これは大川の意識した心のなせるわざではない。大川は、幸いにも精神病に偶然かかって生命をまっとうし、なおかつ精神病によって霊感を受けて、コーランを約1年半で全訳してしまったのである。脳梅毒では、わずかにしても脳の神経細胞が壊れるはずであるから、少しは知能も下がったはずなのに、こういう大業を大川が果せたのは、もともとすばらしい知能の持ち主であって、少しくらい痴呆になっても普通人よりはずっと優れた知能であったのであろうか。あるいは、梅毒性の病変が脳に刺激を与え、活動を増加させるということがあるのであろうか。精神病になると、平生は隠れている能力が露呈されて、普通以上の才能を現出させることがときとしてある。これも狂気の価値である。
(西村四方、昭和54年)


大川周明を精神鑑定した極東軍事裁判弁護側の精神科医、内村祐之もこの点(精神障害が大川周明の活動を活発化した可能性)について言及している。いわく、

進行麻痺の経過中に、このような幻覚や意識状態が現われ、それに影響されて著しい業績を残した珍しい例としては、作曲家ローベルト・シューマンと哲学者ニーチェとを挙げることができる。ことにニーチェと大川周明氏とが似通っている点の多いことに興味を惹かれる。
(内村祐之「わが歩みし精神医学の道」昭和43年)

これも、ありそうだ。病気・障害と芸術家は親和性が高い。ドストエフスキーのてんかん、萩原朔太郎の強迫観念、ゴッホや夏目漱石の統合失調症、躁鬱病で統合失調症だった草間弥生。山下清の驚異的な空間記憶力も、自閉症と知的障害があったればこそだろう。以上を踏まえつつ、日記と書簡で大川周明の感染および発症経路を探ってみた。まずは、女性関係である。

大川周明はいつ感染したか

進行麻痺発症後の大川周明は昭和21年6月11日から8月25日まで、東大病院神経科に入院した。これは米軍361病院(現同愛記念病院)からの転院で、当時進行麻痺の唯一の治療法であったマラリア療法を行うためである。
東大病院での担当医師には、精神科医の西村四方が就いた。

大川は無遠慮、多弁で、調子がいいが、少しでも反対すると暴力に訴えようとする。入院時にも、担当医に英語で話しかけ、英語で答えよという。医者が英語はできないというと、怒って殴りかかり、付き添いの刑事が手錠をかけてしまった。やむをえず英語で答えると、機嫌を直した。一般的に次から次へとまとまりのない大きなことをいって威張り、少しでも逆らえばすぐ不機嫌になるが、またじきにもとの機嫌のいい状態に戻る。これは躁病的な状態であり、同時に荒唐無稽な大ぼら(誇大妄想)を次から次へと述べる。
「私はマッカーサーの弟で、キリストの弟だ」「ガンジーに習って幻覚をつくれる。キリストやマホメットが空から私を招く姿が見え、声が聞える」「東京とワシントンの間にトンネルがあるので、一気にワシントンにいける」「空気中から栄養をとれるから、食わなくても平気だ」
(西村四方「狂気の価値」昭和54年)


妄想の内容に、大川周明の宗教への執着を感じる。平和な時代に生まれていたなら、優秀な宗教学者として一生を終えたろうに。気の毒な人である。

この気の毒さは、例えば、1957年、人種差別真っ盛りのアメリカはアーカンソー州の高校で、黒人女学生エリザベス・エックフォードを罵る白人女学生ヘイゼル・ブライアントに感じる気の毒さと、同種である。エックフォードは人種隔離政策を取り続けていた町リトルロックで、それまで白人限定だった高校に黒人として初めて入学を許された9人の黒人学生のひとりである。彼らの入学の際、白人学生の悪意と罵声を浴びせられながら歩むエックフォードの写真は今や教科書に載るほど世界的にも有名であるが、そのエリザベスの背後から怒鳴りつけている白人女学生が、ヘイゼル・ブライアントであった。ブライアントの形相は人種差別の象徴となるが、一方で、ブライアントは黒人差別は当然と考えていた当時の白人のひとりでしかない。写真を撮られたばかりに15かそこらで重い十字架を背負わされるハメとなったヘイゼル・ブライアント。気の毒としか言いようがない。
大川周明も善人とはいわないが(テロリストだし)、辻政信や源田実だってアレな人物である。しかし前者の業績(例えばイスラム研究など)はほぼ顧みられず、後者は国会議員にまでなっているというこの差は何か。戦前に目立ちすぎたとか、極東軍事裁判で目立ちすぎたとか、とにかく目立ったというだけではないのか。

閑話休題。

マラリア療法は、東大病院の入院初日からスタートしている。同療法は人工的にマラリアに罹患させ、高熱を10回ほど出して脳にいる梅毒の病原菌、トレポネーマ・スピロヘータを殺すという荒療治である。まさに毒をもって毒を制する療法だ。しかも大川には「重い肺結核があるにもかかわらず」(西村四方、昭和54年)、治療が実行された。「放置すれば、3、4年で著しい痴呆に陥り、諸神経にも麻痺が来、全身が衰弱して死亡してしまう」からである。

梅毒病原菌トレポネマ(スピロヘータ)が皮膚から脳に潜入するようになったのは、文明が開けて脳をよけい酷使するようになったせいであるという人が多く、シビリゼーション(文明化)はシフィリゼーション(梅毒化)であるという標語もできたほどであった。しかし事実は、皮膚病の梅毒を治そうとして妙な薬を使いまくり、菌がそれに抵抗して体内深く潜行するようになったためらしい。梅毒の治療などしない未開国には、脳の梅毒はほとんどなかった。
(西村四方、昭和54年)


頭脳労働者に脳梅毒が多い、という話は戦前の医学書によく出て来る。太田母斑にその名を残す皮膚科医の太田正雄も以下のように書いた。太田正雄は、木下杢太郎というペンネームで知られる文学者でもある。

(引用者註:進行麻痺は)もはや純然たる気狂である。しかも精神病のうちでも多きを占むるものである。30歳から50歳ぐらいの、主として男子に来る。しかも頭を使う職業の人に多い。誇大妄想或は微小妄想、記憶力減衰、精神力衰退等の精神症状も他に言語の障碍、歩行困難などの肉体的の特徴を現わす。
(太田正雄「保健教本 性病の常識」大政翼賛会文化部、昭和19年)


とすると、33歳で性病に罹患した大川周明が皮膚に現れた梅毒を治療し、それが中途半端な治療だったがために梅毒スピロヘータが脳に行ってしまった、という可能性もあるのだろうか。

脳梅毒の精神病のもう一つの問題は、梅毒に感染してから何年も経た後に精神病が起こるということである。普通は10年から15年後ということになあっている。早くて3年、遅ければ30年から40年も経ってから起こる。そのため医者は、いつ、どこで感染したかも問題にする。これは人間の機微に触れることなので調べにくいが、たいていは若いときに売春婦からということになるので、誰でもそうであろうと想像して、無理に詮索しないのが常である。
(西村四方、昭和54年)


と言いつつ、西村先生は「詮索」する。というか、妻への感染があるか否かは医師としてきちんと確認すべき事柄だろう。

大川夫人は気さくな人なので、こんな問いを出しても気を悪くするような人ではなかった。夫人によると、「夫は女に接することのできる人ではなかった。夫と私との関係は、ずっと兄と妹のようなものであった。それゆえ、他の女から梅毒を移されたとは思えない」とのことであった。
(西村四方、昭和54年)


大川周明は「女に接することのできる人ではなかった」?
ED(勃起障害)なのか?

こういう問いは、大川自身にはばかるので出せなかった。ここで詮索の糸は断たれてしまった。
(西村四方、昭和54年)


……にわかには信じがたい。
というのも、大川周明は桜会という陸軍エリートたちとの超国家主義的な秘密結社に所属し、そこで昭和6年の3月事件と10月事件も計画しているのだが、桜会は料亭で芸妓をはべらせて陰謀をめぐらしていたので、清廉かつ潔癖な青年将校から“宴会派”と揶揄されていたからである。でもって、大川周明の評伝などをアレコレ渉猟してみると、やはりその手の愛人話も散見されるのである。EDの症例には、自宅ではEDだが風俗では症状が出ないというケースがあるが、大川周明も自宅EDだったのではないだろうか。夫人の話が事実とすればだが。

大川周明はいつ感染したか

昭和21年12月17日、大川周明の妻・兼子は極東国際軍事裁判の検察側に、以下の宣誓供述を行った。この時大川周明は米軍361病院(現同愛記念病院)、東京大学医学部付属病院神経科を経て、松沢病院に入院中である。

大川が28歳の頃から彼および彼の家族を知っていた。彼の40歳の時に結婚し現在彼は61歳である。
細野徳治. GHQ/SCAP文書に見る大川周明. 拓殖大学百年史研究12,191-218,2003

兼子夫人の言う年齢は数え年。大川周明は明治19年12月6日生まれだから、昭和21年12月17日現在の大川周明は満60歳である。結婚したのは大正14年2月16日で、大川周明は38歳。とすると兼子夫人と知り合ったのは周明27歳で、大正2年末〜翌3年12月頃だろう。

1946年9月29日に面会した際、彼は私であることがわかったようだったが、奇妙に振る舞い、大声で笑い、歌や踊りについて騒々しくしゃべりまくった。
細野徳治、平成15年

この時大川周明は米軍361病院(現同愛記念病院)、東京大学医学部付属病院神経科を経て、松沢病院に入院中である。

過去15、16年間にごく少量のアルコールに対する彼の特異な反応に気づいていた。それが次第に顕著になり彼の態度や好意が私たちを恐がらせるよう変わってきたので酒を飲まないよう説得に努めた。当時は年齢や酒乱のせいだと思っていたが、今にして彼は精神に異常を来たしていたことが分かるし、振り返ると現在の状態によく似た以上行為の数々を思い出す。彼は頭がはっきりしないとぼやき、過去10年間は就寝後にしょっちゅう起き上がっていた。最近病院を訪れた際に彼は数回私に襲いかかり、医師が彼をベッドにしばりつけたのは私のせいだとして、私の首をしめ私の髪をつかんで引き倒そうとした。東京を離れた1943年に夫の態度が変わったため私が非常に不幸だったことをよく覚えている。彼は次第に無分別で気難しくなり、機嫌がよくなったり悪くなったり早変わりし、物忘れがひどくなり、作法や服装について注意を払わなくなった。もともと作法や服装についてはきちんとするよう努めていたし、記憶も正確だったたけに極めて異常だった。
細野徳治、平成15年

以上の情報をまとめると、

大正8年末〜翌9年12月頃(33歳頃) 初の性体験で性病に罹患
※大正14年2月16日結婚
昭和5〜6年頃(44歳頃) アルコールに対する異常反応
※昭和6年3月・10月にクーデター未遂
昭和11年 50歳頃 夜間の不眠
※昭和11年6月16日〜昭和12年10月13日は入獄
昭和18年 57歳頃 無分別で気難しい、気分の激動、記憶力減衰、作法や外見に注意を払わなくなる
※昭和19年7月上大崎より中津に疎開
昭和21年5月 59歳 精神科医・内村祐之により、進行麻痺の診断下る

こんな感じか。
ただし、兼子夫人及び近親者の申告には、不安な点もある。まず「東京を離れた」のは1943年ではなく1944年7月である。また、内村祐之の報告では「大川氏の妻及び近親者の陳述によると、氏は明治19年12月6日の出生以来、発育期、青年期、壮年期を通じて大体健康であり、神経痛、「風邪」等を覗いて著患はなかった」となっているが、大川周明は明治40〜41年、20〜21歳ごろに神経衰弱および肺結核となって静養している(大塚健洋「大川周明 ある復古革新主義者の思想」平成7年)。肺結核は明らかに「著患」だ。これを申告しないのは、兼子夫人と近親者が大川の健康状態をよく把握していなかったか、いい加減に報告したかだろう。

大川周明はいつ感染したか

大川周明は大正期半ばにアジア主義を掲げてアジア諸国の独立を歌い、満州事変頃には帝国主義者に転向した代表的国粋主義者である。明治19年12月6日山形県酒田市に生まれ、昭和32年のクリスマスイブに神奈川県愛甲郡中津の自宅で死亡した。
享年71。
死因は心臓衰弱である。
71年の生涯で2回の逮捕歴があり、1回目は5.15事件における反乱者として、2回目は極東軍事裁判におけるA級戦犯容疑者としてであった。
まず初回。大川周明は5.15事件の前哨戦である3月事件と10月事件に参画、それらは未遂に終わるが5・15事件でついに実行、逮捕され、入獄する。
以上のクーデターは一応未遂もしくは失敗とされているが、実際はその後の日本の右傾化・軍国化の端緒となったわけで、結果的には大成功であった。だから出獄した大川周明は政治の腐敗に悲憤慷慨し遂に立ち上がった国士として扱われ、大学や大企業にも諸手を挙げて迎えられたのである。大川周明は、敗戦まで――いや、2回目の逮捕により極東軍事裁判公判で発狂するまで、日本の精神的支柱であり続けた。思想界のスターであったといってもいい。民間人で唯一、極東軍事裁判でA級戦犯容疑者となったのはダテではないのである。
その極東軍事裁判冒頭で、大川周明は東条英機を頭を2度叩くという狂態を見せ、精神鑑定の結果により裁きを免れている。
弁護側の精神科医による診断は、

余は大川氏の示す状態に対して、些かの疑もない診断を下すことが出来る。それは、梅毒性脳疾患である進行麻痺(別名麻痺性痴呆)の躁型又は誇大型と称するものである。余は大川氏に於いて、この疾患を診断するに足る全ての徴候を確認できた。
(内村祐之、吉益脩夫監修「日本の精神鑑定」平成2年)


進行麻痺であった。梅毒由来の器質性精神障害である。検察側から依頼された精神科医ダニエル・S・ヤッフェの診断も同様であった。
診断の決定打は、

最も重要な身体所見は、血液の梅毒反応(カーン氏反応)が強陽性であること、脳脊髄液に種々なる病的変化が認められ、殊にここでも梅毒反応(ワッサーマン反応)が強陽性に表れて居ることである。爾多の脳脊髄液所見としては、琳巴細胞の増加(1立方粍中18個)、総蛋白量の増加(0.68%)、パンディー氏反応及びノンネ氏反応共に強陽性。高田荒氏反応の強陽性等である。就中高田荒氏反応は定型的な麻痺方であって、進行麻痺症に最も屢々表れることの広く容認されて居る反応型である。その他診断に資し得る重要な所見は、瞳孔の対光反応の緩徐なること、膝蓋腱反射が左右不同で、事に右側で欠如して居ること、アヒレス腱反射が両側共に欠如して居ること等である。何れも進行麻痺症に屢々出現する症状として周知のものである。
(内村祐之、平成2年)


血液検査(血清反応検査)の結果であった。
ヒトは罪を逃れるためにウソをつき、あるいは疾病利得のために狂態を演じる可能性があるが、血液や瞳孔はウソをつけないので「些かの疑もない診断」というわけである。

参考:国立感染症研究所「変遷する梅毒の血清学的検査方法に関して」

そこで気になるのは、感染時期と感染経路だ。

大川氏の妻及び近親者の陳述によると、氏は明治19年12月6日の出生以来、発育期、青年期、壮年期を通じて大体健康であり、神経痛、「風邪」等を覗いて著患はなかった。東大文学部印度哲学科を卒業して以来の其の社会的活動が、不健康のために障碍されたことはないとのことである。ただ30才を越ゆる頃より女性との接触があったらしく、この頃花柳病に感染したものと思われる。妻との結婚が41歳という晩いものとなった一因も淋疾にあったものと言われる。
(内村祐之、平成2年)


「30才を越ゆる頃」。
検察側の精神科医、ダニエル・S・ヤッフェの孫、エリック・ヤッフェが書いた本にはもうちょい詳しい感染時期が載っていた。

33歳のころ初めての性体験で性病にかかったがもう性器に異常はないと大川は言った。
(エリック・ヤッフェ「大川周明と狂気の残影 アメリカ人従軍精神科医とアジア主義者の軌跡と邂逅」平成27年)


自己申告ではあるが、33歳には何等かの性感染症に罹っていたようである。33歳が満年齢なら、大正8年末〜翌9年12月頃。
なお、「花柳病」は広義の性感染症で梅毒も含むが、「淋疾」だと淋菌感染症だ。
33歳の大川周明には梅毒の症状が出なかった、だから淋菌に対する治療(スルファミンなど)しか行わなかったが、しかし、実際は潜伏梅毒であった――のかもしれない。梅毒を治療しなかった場合、約3分の1が晩期梅毒になる。数年から、数十年の潜伏期間を経て。進行麻痺も、晩期梅毒のひとつである。

参考:国立感染症研究所「梅毒とは」

河合栄治郎のストレスと病

若年のバセドウ病は急ではないが、ハルトネッキッヒだそうで武見氏に通う数も多かった。之により自分の健康に対する手心も自ら理解して来て却って長命の摂理と見ているのではあるが、寒さ、食料の不足、非常の場合などを考えて、充分健康をいたわる方針にて之が為には金を惜しまない積りであった。
(昭和18年12月31日)


「ハルトネッキッヒ」はドイツ語で頑固の意(hartnackig)。
河合栄治郎は自身の身体に金は惜しまなかったのかもしれないが、肝心要の休養は惜しんだ。命を削って本を読んでいる。大西祝ミルコーヘン和辻哲郎シュテルンなどなど。
ミルといえば、河合栄治郎の数々の艶聞を知って自分はジョン・スチュワート・ミルとハリエットの大恋愛を思い出した。出会った当初、ハリエットは人妻であったからミルとは不倫の仲である(後に結婚)。社会活動家であったハリエットは、ミルの思想に多大な影響を与えた。例えば、コレなどは恐らく。

2つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が2つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満が伴うことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられても元の快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的に優れていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。
( J・S・ミル著、伊原吉之助訳「功利主義論」)


閑話休題。

出て武見(太郎)氏。少し脚気の気味があるらしい。
(昭和19年1月7日)

昭和19年1月13日から23日まで箱根に滞在しているが、ここでも調子は悪い。

何だか頭が疲れていて睡いし足が倦い。
(昭和19年1月14日)


脚のダルサはそれほどでないが動悸がひどい。
(昭和19年1月15日)


典型的なバセドウ病の症状である。病状の悪化は明らかであった。

此の2、3日健康が良かったが、昨夜晩く眠った為か今朝は足がひどく倦いし少し動悸もし手が震える。
(昭和19年1月21日)


今日あたりからひざの辺で骨が痛む。リューマチか脚気か。何となく嫌な気持がする。
(昭和19年1月22日)


23日には、河合研究所設立の祝を虎ノ門の晩翠軒で開いている。

やはり疲れていて何をする気も起こらず、午前は空しく暮らす。武見(太郎)氏に行くのも止めにした。本当は今夜の報告の準備をしなければならないのだが。
(昭和19年1月24日)


疲労感はバセドウ病の症状のひとつ。しかし、治療の意欲すら後退させてしまうとは……。

武見氏に行くのを止めた。一体に疲れているが、特にどう云う所もないから。
(昭和19年1月26日)


午後海野(普吉)邸に赴き、木村(健康)君の来るまで相談し、相変わらず豊富な饗応を受け、その後は自分から木村君に苦言を言い、時局を論じたりして9時半辞し戻る。途中気分が悪化して辛うじて戻る。
(昭和19年1月29日)


1月30日に武見太郎の診察を受けて、

午後武見氏に行く予定であったが、疲れているし物臭いので止めてパン。
(昭和19年2月4日)


今朝は昨夜晩く疲れた為か鼻風を引き起き辛く、床上で朝食をとる。9時前起きたが頭がボンヤリして何をする気力も起こらない。
(昭和19年2月5日)


まだ鼻風が続く。
(昭和19年2月6日)


次は2月7日に受診。

朝7時に起きたが、武見氏に行くのが嫌で、パンを食べ午前は川村氏の「判断力批判」をよみ続け、出て武見氏に行き、一時間まったが空腹で我慢出来ないので戻り御茶をとる。
(昭和19年2月7日)


2月13日、河合は53歳となった。

43才帰航の途次、もう死んでもよいと思ったことのあるのを思い出した。あれから10年生きていた。
(昭和19年2月13日)


翌14日が、最期の日記になる。

昨夜は11時頃に起床したが中々眠れず、12時頃起きて喫煙した。今朝は美事な青空、去るのは惜しい位だ。(略)今日は動悸が殊に酷い。一時前に戻り、パンが間に合わないので少しイライラし、「序曲」の今朝の分を記録す。3時の御茶の後にリーゲン、眠れず。S(斎藤暹)が来たが会わずにコタツに当たって夕食を待つ。
(昭和19年2月14日)

これで日記は終わっている。昭和19年2月15日午後9時15分、河合栄治郎はバセドウ病による心臓麻痺で死んだ。享年53。
昭和37年、当時朝日新聞論説委員だった土屋清は、河合栄治郎の晩年をこう書いている。

起訴されてから、亡くなるまでの5年間、一切社会との交わりを絶った先生は、初めて門下生の少数グループにとって、「われらの先生」となった。もはや昔の「こわい先生」ではなくなり、灯火管制下の暗い応接間で定期的に開かれた演習では、先生は快活に人生と恋愛を論じ、芸術と哲学を談じて、尽くるところがなかった。「人格の成長」を中核とする先生の思想が、そのまま先生に円熟した形で具象化したように思われた。しかもその間先生は日本の敗戦を予想し、その後に来るものに備えて、「河合研究所」を創設し、ぼつぼつたる気はくを示していたのである。それなのに研究所創設後、わずか20日足らずで亡くなられたのは、先生にも、日本の思想界にも遺憾至極というほかない。
(土屋清、昭和37年9月3日付朝日新聞)


河合栄治郎は「日本の敗戦を予想し、その後に来るものに備えて」、出版法裁判ではできる限りの極刑を望んですらいた。戦時の罰が厳しいほど、敗戦後はそれが聖痕となって社会にアピールする、そう考えていた。そもそも、若い頃から机上の学問よりも社会活動、政治活動を指向していたアクティブ男である。実際、河合門下生の多くが戦後に河合栄治郎が生きていたら政界進出していただろうと述べている。門下生ではないが立花隆など、「昭和22年の片山内閣ができたあたりの政治展開では、河合内閣が生まれていた可能性すらある」とまで書いている。

社会民主主義者グループで、共産党の獄中18年組に対してもいささかもひけをとらないくらい名前が売れかつ闘志まんまんのイメージを持った人といったら、河合に及ぶ人は誰一人いなかったろう。河合が政治の世界に乗り出していたなら、河合は、その闘争経歴の輝き、ならびに政治的行動力、闘争心、バイタリティ、理論闘争能力、政治的策謀能力などをいかんなく発揮して、たちまち社会民主主義グループの中では比類ない政治指導者になっていたにちがいない。
(立花隆「天皇と東大 大日本帝国の生と死」下巻)

そうかもしれない。河合栄治郎は右派社会党の偉大なる指導者になり、とすれば今の政治状況もかなり違っていたのかもしれない。しかし槿花一朝、夢のまた夢だ。それも、河合が武見に指示された“休養”を無視したばっかりに、だ。このあたりを勘違いしている患者は今もフツーにいるが、“休養はときに最上の治療法で、経過観察こそ医療技術の粋である”と断言して、この項を終わる。合掌。

河合栄治郎のストレスと病

昭和18年の7月23日から9月中旬(多分、15日。記載なし)まで、河合栄治郎は軽井沢に滞在していた。体調は不良である。

石上君が応召とのこと。驚き石上君に速達を書く。午前は何もする勇気なく、石上君に会う必要もあり、S(斎藤暹)が召集するかも知れず、軽井沢の残りの生活がよく行けるとも思えず、足がだるいし、歯の工合もよくないから、明日皆で引き揚げようかと思った。
(昭和18年9月14日)


足のだるさはかなり続いている。バセドウ病でも足がつる症状があるが、脚気かもしれない。河合は甘党で、毎日の菓子を楽しみにしていた。好物はパン、甘い紅茶である。

今朝6時起く。パンが旨い。太田(歯科医)に電話をかけて明日にし、出て東京駅で石上君、酒井母子に会い同君と暫く話す。君は寂しそうであった。気の毒だ。
(昭和18年9月16日)


翌日の日記はないので、歯科治療の内容は不明である。
なお、この頃の河合栄治郎の生活。

6時30分 起床、外出、小散歩
7時-7時30分 喫茶、思索
7時30分-8時 朝食
8時-12時 読書
12時-12時30分 中食
12時30分-1時30分 散歩
1時30分-3時 仮睡
3時-3時30分 読書
3時30分-4時 御茶
4時-5時 読書
5時-5時30分 入浴
5時30分-6時 読書
6時-6時30分 夜食
6時30分-10時30分 読書
11時 就床
(昭和18年10月17日)


勉強しすぎである。であるのに、河合に博士号はないのである、意外なことに。そして読んでいる本はカントなど思想書ばかりで、経済学関係のものはない。元経済学部教授なのだが。
11月25日から12月3日まで河合は箱根(仙石)に滞在しているが、動悸と足のだるさが再発、さらに心臓発作を起した。
東京に戻り、12月8日に武見太郎の診察を受けている。

今日は大東亜戦争の二周年だ。ひどく疲れて弱っていたが、7時過ぎ出る。ひどい靄で倫敦を思い出させる程だ。電車が徐行するので時間が掛かった。武見(太郎)氏に行ったが、第一番であった。今日は階段を上るにも息が切れた。帰途は大森から人力車に乗った。(略)2時から「二十八人集」をよみ夜まで続けた。
(昭和18年12月8日)


昭和18年末に、人力車がまだあった。タクシーと共存できたのはスゴイ。「二十八人集」は明治41年、新潮社から刊行された小説集。

明治40年頃の日本が思い起こされる。何か急速に世相が変わって行くさまが色々の文章に窺われる。日本の変わった時としては明治初年以来ではないかと思われる。夜の7時頃土井夫人が来て御菓子とリンゴとを持って来て呉れたが、玄関で帰られた。久し振りで菓子が口に入る。今朝武見さんが仕事をしないで温泉に浸っていればなおりますと云われた。それが耳に残る。つくづく今日は弱った。「二十八人集」の花袋の「一兵卒」を読んで同感した位だ。
(昭和18年12月8日)


「土井夫人」は、土屋清の夫人だろう。
「一兵卒」は、日露戦争の際、脚気で野戦病院に収容されるもその汚さに耐えられず、脱走して死ぬ兵士の話である。

渠(かれ)は歩き出した。
銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまった。
(田山花袋「一兵卒」)


これほどつらい症状がありながら、河合栄治郎は休もうとしなかった。
「仕事をしないで温泉に浸っていればなおります」――武見太郎の言うとおりである。休養に優る薬はない。しかも、あと2年我慢すれば戦争だって終わった。復職その他も可能だったのである。

河合栄治郎のストレスと病

昭和18年6月、52歳の河合栄治郎。昭和15年1月から始まった出版法違反訴訟で大審院に上告していたが、

午前は西田氏の「論文集」第2巻をよみ出して50頁。然し判決が今朝の11頃にあるので、その結果が別にどうと云うことの程のものではないが、未定と云うものは落ち着かないもので進み方が少し鈍った。電話が中々ないので外出の支度をしていたら上告棄却の旨を海野氏から通知あり、まあ之で確定したと思った。
(昭和18年6月25日)


棄却される。有罪確定である(裁判長:三宅正太郎)。

有罪の判決を受けたのだから辞表を出そうかと思う。
(昭和18年6月26日)


東京帝大教授の職は、昭和14年1月に休職処分となっていた。いわゆる平賀粛学である。

9時森(荘三郎)学部長来訪。昨夜の話をする。自分に花を持たせて呉れと云うことを云っていたが、つまらぬことを云う人だと思う。その当時は自分としては辞表を出そうかと思っていた。だが今日人々に相談してみようと思っている。11時10分有楽町に着きコーヒー2杯を飲み、糖業会館に行く。割合に早く人が集まり、11時25分席に就く。
(略)
席に就く前南原〔引用者註:南原繁〕、高木〔同:高木八尺〕の2氏と辞表の話をしてみたら、出さない方がよいと云うことであり、散会後高田〔同:高田正〕、梶村、山田〔同:山田文雄〕、木村、石上〔同:石上良平〕の諸氏に話したら出した方がよいとの事であった。(略)結局出さないことにして11時森君に電話をかけた。総長の意志らしい。森君は明朝今一度と云うことであったが之で腹は定まった。大学の好意は有難いが、自分は恩恵を受くべきでないと思った。
(昭和18年6月27日)


森荘三郎は当時の東京帝大経済学部長。
河合は東京帝大に辞表を出さず、休職期間の2年延長で話がまとまっている。これは平賀総長の温情であり、大学としての教員確保策でもあったのだろう。河合は学者としても教師としても優秀で(学生にも熱烈なファンがいたし、多数の門下生もいた)52歳と若く、教授復帰も十分に可能性があった。とにかく、まだ死ぬような年齢ではなかったのである。
有罪による罰金は300円だが、

南原(繁)氏から電話。検事局から電話あり、罰金納付を暫く待って呉れとのことであった。
(昭和18年7月1日)

なぜか罰金納付を待てと検事局。なぜだ。
昭和18年7月12日から9月15日までは、軽井沢の別荘に滞在している。毎年恒例のバカンスである。

今朝のS(斎藤暹)の手紙も伊太利の政変を重視していた。ファッショ崩壊の時が来るか。
(昭和18年8月4日)


斎藤暹は河合の弟子で、河合の長女・純子の夫である。昭和19年に外地で戦死。もちろん、河合がその死を知ることはなかった。
ムッソリーニが失脚したのは昭和18年7月25日である。で、9月8日にイタリアは無条件降伏する。

今朝の新聞で伊太利が脱落した。
(昭和18年9月10日)


イタリアは10月13日に連合国軍の一員としてドイツに宣戦布告するが、河合栄治郎はもはや日記に何も記していない。
ちなみに、河合門下生のひとりであった猪木正道によると、河合は盧溝橋事件後に華北作戦真っ最中の現地を視察し、そこでの見聞から日本敗戦を予測、昭和13年にはなんとそれを公言していた。

1938年1月工業クラブで、華北から帰京された直後の先生が時局について一場の講演を行われた。その中で先生は「この戦争の結果日本は、満州、朝鮮はもとより、台湾、琉球をも失うことになろう。」と述べて、満座の実業家を震駭せしめられた。
(猪木正道「リベラリスト・ミリタント」河合栄治郎・伝記と追想、1952年)


河合の予想は的中したが(しかし無謀というか勇者というか。あの言論弾圧の時代によく言ったものである)、とすると河合には枢軸国VS連合国の勝敗も自明の理であったのかも。これも門下生であった土屋清(朝日新聞論説委員)によると、河合は「日本の敗戦を予想し、その後に来るものに備えて、「河合研究所」を創設」したという(昭和37年9月3日付朝日新聞)。惜しい人を早くに亡くしてしまったものである。

河合栄治郎のストレスと病

昭和17年7月、武見太郎によりバセドウ病と診断された河合栄治郎。この病が最終的に彼の命を奪うのだが、一時は回復基調にあった。

1時半出て武見(太郎)医師に行く。大変回復したとの事、当分注射せず2週間、間を置いて来るようとの事であった。
(昭和17年11月25日)


「注射」は恐らくヨードの皮下注射。
ちなみにこの頃はスターリングラード戦の真っ最中で、ドイツの敗けがほぼ確実になっていた。

11時過ぎに有楽町に着き武見医師に行く。大変よいそうで、もうバセドウ病の徴候は殆ど消えた。此の上は一般の体力の回復に俟つのみだと云うことであった。
(昭和17年12月11日)


このまま養生に努めたら、新日本建設に少なからず関わったであろうに。
昭和17年には、印税収入がなくなっている。すべての発表の道が閉ざされたため原稿は書かず、読書ざんまいの河合栄治郎である。本を買いまくっている。

武見(太郎)師は2時から4時まで待った。バセド−(氏病)は大変よいようだ。平和な健康な勉強の日が続く。有難いと思う。
(昭和18年1月8日)


体調はまずまず。だが、動悸を感じる日もあった。心臓は確実に弱ってきている。1月19日から26日までは、発熱して床に臥していた。

ずっと床にいて熱は37から38の間を上下していた。21日迄は研究会〔23日〕に出て報告が出来ると思って居たが、21日の午後に38度なので諦めて木村君(健康)に電報を打ち「国家観」をやって貰うことにした。此の間寝付きが悪く、又少し動悸がし、歯に物がつまって気持がよくない。
(昭和18年1月19日〜26日)


「研究会」は、河合門下生とともに月2回、自邸で開催していた社会思想の研究会。昭和16年に河合の門下生が月1回糖業会館で会合していた「青日会」が発展したものである。昭和19年には河合研究所と改称。
木村健康も河合の門下生で元東京帝大経済学部助手。河合栄治郎事件で師とともに大学を辞め、裁判では河合栄治郎の特別弁護人を努めた。

新橋からタキシで理研に着き、武見(太郎)氏の外に文理大の藤岡氏あり、外に助手の人と話し、機械にて新陳代謝を検べ、酸素の吸入多過ぎ、炭酸瓦斯の排出少なく、それでやせるのだと云う。
(昭和18年1月30日)


「機械」とは間接熱量計だろうか。
1月下旬に放置した齲蝕(歯に物がつまって気持がよくない)は、2月に入って痛みだし、

起きたら歯が痛んだ。
(昭和18年2月9日)


治療した記載はないが、歯科には通ったもよう。やはり刊行時に削除されているのだろうか。
昭和18年2月13日に、52歳の誕生日を迎えている。

昨日はカントの死んだ日で今日は自分の生まれた日だ。之で52歳になる。動悸もなくなったし、歯の治療も片付きそうだし、何よりも健康で、カントの研究に没頭出来るのが嬉しい。麗らかなよい日であった。8時起き、直ちにカント。「永遠平和の為に」はそれほど感動しないのは、自分の方に予備知識があるからか。一時半大井の方へ出て、バルト神学の本を買い、日の当たる往来を歩いて歯科医、喫茶。戻ってからカントを読了した。
(昭和18年2月13日)


5月には京都、山陽、奈良を旅行した河合栄治郎。出版法違反裁判は昭和18年6月に大審院で上告棄却となり、有罪確定となる。そして、病状は悪化するのである。

河合栄治郎のストレスと病

昭和16年3月に出版法違反の控訴審が始まり、4月には印刷製本まで完了していた自著「国民に愬う」が出版差し止めに遭う――そんな激動の日々を送る河合栄治郎。
歯も悪くなっており、

今日から歯の療治に掛かる。仕事としては「哲学史」の原稿に着手した。散歩の時愛山の「徳川家康」下巻を買いよみ出した。実に興味津々だ。
(昭和16年7月17日)


歯科受診している。河合栄治郎、この時すでにバセドウ病を発症しているはず。麻酔などで交感神経作動薬(エピネフリン、エフェドリンetc)を使われなかったか気になる。ヘタすると甲状腺クリーゼだ。

9時歯医(者)から10時に丸善に行き、外国書を見る。本当に久し振りだ。
(昭和16年7月25日)


昭和16年における河合栄治郎の歯科受診記録は、2回のみである。2回しか受診しなかったのか、受診しても書かなかったのか、書いたが日記刊行の際に削除されたのかは不明。河合の日記原本を参照して書かれた江上照彦「河合栄治郎伝」(河合栄治郎全集別巻)と照会すると、刊行の際に削除された部分はかなり多そうである。削除部分は主に恋愛や不倫関連だそうだが、歯科受診云々も削除された可能性はある。ツマラナイという理由で。
裁判は昭和16年7月に結審し、10月に判決を受けた。有罪判決である。ただちに上告、裁判の舞台は大審院となった。12月には日米開戦。
昭和17年の歯科治療は2回である。5月と8月に1回ずつ。

3時半戻り、歯科医に行き、喫茶店に寄る。
(昭和17年5月12日)


この頃の体重は「12貫800」(=48kg)。「19貫(=71.25kg)のこともあったのに」。
2月には河合のベストセラーシリーズ「学生叢書」が絶版となった。
体重減少など体調が思わしくないので、

10時聖路加に行く。橋本博士深切に診察され、結局内村氏と同じく心臓に故障なしと。色々の機械で調べられた。
(昭和17年6月30日)


聖路加病院に行くも、

今朝聖路加に電話をかけ、肺にも異状なく蛋白も糖も出ないことを聞き更に安心す。
(昭和17年7月2日)

異常を見付けることができなかった。河合栄治郎の病を見抜いたのが武見太郎、後の日本医師会会長である。

7時に起き鶴見(祐輔)氏を太平洋協会に訪い、共に武見(太郎)氏に行き診察を乞う。バセドウ病なりという。鶴見氏の好意感謝すべし。
(昭和17年7月8日)

武見太郎は、医師としてもすこぶる優秀だったようだ。今でこそバセドウ病は大きな専門病院があるぐらいポピュラーな病気だが(ジョージ・ブッシュ“父”元米大統領が罹患したことで世界的に周知された気がするが、気のせいかも)、この時代には大学病院でも診断がついていない。聖路加病院でも血液検査(甲状腺機能検査)をやったと思うが、ホルモンの数値まではみなかったのか。
ちなみに、今はどこの診療所でも甲状腺機能検査は行っている(多分。内科か婦人科、循環器科なら確実)。保険も効いて、同検査のみなら3割負担かつ初診で2500円くらい。また、フツーの定期的健康診断の血液検査でも甲状腺刺激ホルモン(TSH)、甲状腺ホルモン(FT3、FT4)の数値を出すところもある。バセドウ病の療は薬物、手術、放射線の3種があり、第一選択は薬物治療。なお、明治31年の吉松文治「万国新治療年報」には、胸腺食用法なる治療法もあった。胸腺はフレンチじゃポピュラーな食材だが(いわゆるシビレ)、どういう機序で甲状腺機能を安定させると考えられたのかはわからない。
閑話休題。診断確定後の河合栄治郎は、健康を取り戻しつつあるかのようであった。

2時美作(太郎)君、桑名二君来たり、文献批評に就いて中止すと云う。学者の約束と外来の力には屈しないと宣告す。調子の強かった為か美作君大分狼狽したらしい。歯医。
(昭和17年8月15日)


河合栄治郎の自宅は東京府荏原郡大井町庚塚4948(現・品川区大井7-15)にあり、かかりつけの歯科医院もご近所であったと思われる。歯科医の名は「太田」。

6時半起き武見(太郎)氏に行き、大変良く此の分なら案外早く直ると云われた。
(昭和17年8月17日)


この時河合栄治郎、51歳6ヶ月。昭和18年10月には奈良、南紀地方を旅行するほど体調は回復するのだが。

河合栄治郎のストレスと病

53歳という河合栄治郎の寿命は、戦前の日本でも若死だろうと思う。戦争と感染症の蔓延で平均寿命は40代ではあったが。

彼は日本人としては、普通の高さであった。五尺三四寸であったろう。学生時代はそうでなかったが、大学教授時代は少し肥満していた。運動はほとんどしなかったようであるが、天与の体力は非凡であった。中年以降は軽井沢でテニスを家庭の人としていたが、彼の最も好きな運動は散歩であったろうと思う。
(鶴見祐輔「交友三十三年」、河合栄治郎・伝記と追想、1952年)


学生時代からの親友であった鶴見祐輔によると、河合栄治郎は生来頑健だったそうだ。「五尺三四寸」というと、162cmくらいの身長である。

わたくしも相当体力では自信のある方であるが、河合君との夜のつき合いには弱らされた。彼の徹夜力というものは、驚くべきものであった。原稿など書くときは四百字詰の原稿百枚くらいを、徹夜して一気に書き上げるという精力ぶりであった。それが自分の体力に対する過信を生み、遂にあの頑健な身をもって早死する結果となったのだと思う。
(同)


バセドウ病との診断が確定したのは昭和17年7月8日で、武見太郎による。河合を銀座にあった武見の診療所に連れて行ったのも、鶴見祐輔である。

その診断は今までの他の医師の診断とは全然違っていた。今までは神経衰弱といわれていたのである。しかるに武見博士の診断では、紛れもなきパセイドウ氏病であるというのである。その手当の結果、河合君の食欲も増し、睡眠も楽になり且体重が増加したと言った。
(同)


鶴見は河合が東大をやめさせられた後も、経済的に河合を支えた。
周囲の目にも見えるほど、また河合が自覚するほどにその体調が悪化したのは昭和16年半ばで、出版法違反の控訴審の最中であった。

5月8日から病床に就き、公判を3回休んで貰った。稲垣氏は糖尿病と胃腸と云い、中原氏は冷えて排泄がよくない、もう少しで肺炎になる所だ、少し小脳に来ているといい、糖は15、30、21、23、13、77、40という滴数を上下した。
(昭和16年5月8日〜29日、河合栄治郎全集 第23巻)


河合は裁判を休み、昭和16年5月21日に慶應義塾大学病院に入院した。これもストレスからだろうか。この時慶應大学病院で下された糖尿病という診断は間違いであったが、入院で一時、河合の体調は回復する。しかし、それは対症療法と、入院による休息の結果に過ぎない。
歯も悪くなっていた。

23日に原稿が10枚進んだ。24日には第二の弁論、25日には歯医者に行ったり岩波の藤川君が来たりしたが、原稿は73枚になって完了した。
(昭和16年6月22〜29日)


「原稿」とは『学生と哲学』の「自然主義・経験主義」。
この時、河合栄治郎50歳。あと3年の命である。

河合栄治郎のストレスと病

河合栄治郎は、戦前の東京帝国大学経済学部教授で社会思想家。2.26事件で軍部を直接批判したただ一人の大学人で、自由主義の立場からその後台頭するマルクス主義もファシズムも批判、右翼からも文部省からも迫害されてついには東大を追放された戦闘的自由主義者である。
さらには精力絶倫で恋愛対象は性別人種を問わず、

河合栄治郎
▲イケメン(竹内洋「大学という病 東大紛擾と教授群像」2001)。

あまり日本人の男の風采をほめない西洋人の間でも、河合君の風采は高く評価されていたらしい。強い意志力と頭脳の聡明との表われを男性美の条件とする静養の女性たちの眼には、その端麗な風姿と相俟って、河合君は好男子という印象を与えたらしかった。
(鶴見祐輔「交友三十三年」、河合栄治郎・伝記と追想、1952年)


クラスメートから教え子、同僚夫人まで相手にし(江上照彦「河合栄治郎伝」)、さりながら“結婚って処女と童貞が式で初めて互いの顔を合わせるようなのがイイよね”的なことも日記に記してしまうところは、まあ、明治男である。河合の著作中人気が高い「学生に与う」の「学生」も、エリートの男子学生であって女はその埒外であるところも時代の限界であろう。なお、出版法違反裁判の公判中には「マルキシズムの如きは、此の項目で取り締まらるべきではないか」などと言論弾圧を支持していて驚愕したが(公判の記)、これも時代の限界なんだろうか。河合夫人(金井延の次女)は河合をエゴイストと呼んだりもしているが(日記)、実生活では結構な独裁者だったのであろう。ちなみに、経済学部教授であるが経済学の論文はひとつもない。浅田彰的?

河合教授への公開状
▲戦前右翼の代名詞的存在、蓑田胸喜も攻撃しまくっていた。

さて、河合は明治24年2月13日東京生まれ、実家は千住の裕福な酒屋だった。大正4年に東大法科を卒業後(銀時計組)、農商務省の役人として初のILO(国際労働期間)に日本政府方針案を起草するが、受け入れられずに上司とケンカして役人を辞める。大正9年に東大経済学部助教授、昭和11年に経済学部長。軍国主義攻撃などにより昭和13年10月に著書「社会政策原理」「ファッシズム批判」「時局と自由主義」「第二学生生活」が発禁となり、

昭和13年10月6日
▲昭和13年10月6日付朝日新聞。

13年12月末より警視庁の取調べが始まる。ちなみに、同年6月には国家総動員法が公布されている。
昭和14年1月に検事局の取調べがはじまって、

昭和14年1月8日
▲昭和14年1月8日付朝日新聞。

31日付けで東京帝大から教授休職が命ぜられる。いわゆる平賀粛学であるが、本人に言渡される前に新聞で報道されている始末。ひどいものだ。
昭和14年1月29日
▲昭和14年1月29日付朝日新聞。

昭和14年2月には、鈴木利貞・日本評論社社長とともに出版法違反(第27条、安寧秩序紊乱の罪)で起訴され、

昭和15年4月24日
▲昭和15年4月24日付朝日新聞。

7月から公判となる。昭和15年10月、東京地裁にて無罪判決(裁判長は石坂修一)。検事局はただちに控訴し、

昭和15年10月 8日
▲昭和15年10月8日付朝日新聞。

昭和16年3月から控訴審(裁判長は小中弘毅)がはじまり、7月に結審して10月に有罪判決となる。
大審院に上告するも棄却となり、

昭和18年6月26日
▲昭和18年6月26日付朝日新聞。

昭和18年6月25日に有罪が確定した(裁判長は三宅正太郎)。罰金300円なり。それから1年もたたない昭和19年2月15日午後9時15分、河合栄治郎は自宅で亡くなっている。死因は、バセドウ病による心臓麻痺。享年53。
バセドウ病は甲状腺ホルモンが過剰に作られる自己免疫性甲状腺疾患で、過度なストレスや過労が原因との仮説もある。日記を読むと昭和13年の著書発禁を契機に取調べ、休職、起訴、法廷闘争と強いストレス要因があり、

今朝あたりの新聞をよんで、総長や学部長を支持している論調をみて寂しく思った。そして今日の午前に分限委員会が開かれるを知り、1、2日の寿命だと思った。明後日の講義には出られるかと思ったが、検事局で今日で終了すると聞いて、或いは明朝の講義には出られるかと思った。今日で取調べが済んだ。12日間掛かった。やはり疲れたように思う。
出て夕刊をみたら、休職の辞令が出ていた。その時丈は寂しい気持がした。急いで帰宅し(佐藤)千恵子さんの電報や、2、3の手紙を見ている時には何となく涙が流れた。戦いの後の哀しみとも云うのであろう。
(昭和14年1月31日、日記、河合栄治郎全集 第23巻)


これらが病を引き起した可能性もなきにしもあらず(特に家族歴のない場合には)。河合門下生による昭和15年末時点での河合の様子は、

ひどく変わられたな、と先ず思った。頬骨が飛び出し、顎が光り、目の光が異様にキラキラして、顔色がいやに黄色っぽいのだ。先生は座られると、御苦労でしたね、無事で何よりでしたね、といつもの口調で仰言った。しかしその声音は以前のハリがないように思われた。私は、先生は随分お変わりになりましたね、と幾度か言いかけては口をつぐんだのであった。
(略)あの気取ったような独特の歩き方は変わりはなかったは、やはり大分お疲れの様子で二人とも殆ど無言の銀ブラであった。
水野勳「追憶」、河合栄治郎全集第21巻月報22、1969年)

病的であった。眼球突出、色素沈着、痩身、疲労感――どれもバセドウ病の症候である。

Weekly Bulletinによる“crown-maker”関連文書

GHQ/PHW(公衆衛生福祉局) Weekly Bulletin復刻資料に、“crown-maker”に関する以下の文章があった。なお、Weekly BulletinはGHQ/SCAPの公衆衛生福祉局(PHW)がまとめた府県軍政チームへの連絡文書である。

1946年2月25〜27日に、中国および満州から本国に送還される朝鮮人歯科医師12人のため、ソウル歯科大学で試験が行われた。


「朝鮮人歯科医師12人」の原文は“12 Korean dentists”。 この文書が発行された当時の朝鮮半島は国連軍の占領下で、その国連は大韓民国臨時政府の政府承認を否定している。というわけで“Korean”を「朝鮮」としてみた。

この計画の実行、歯科医師らの登録、以前日本側で免許された“crown-maker”に関する指示が、各地方の衛生管理官に出された。開始される地方歯科医師会の編成を指導している地方衛生官に手紙が送られ、職業に関係する問題が健康福祉局歯科課に提起された。


「各地方の衛生管理官」の原文は“each provincial health officer”。保健所か、警察の衛生管理課か、GHQ/PHWの地方部署か不明。
“problems relating to the profession”を「職業に関係する問題」としてみたが、ここでいう“profession”は専門という意味かも。What is your profession? だと“あなたの専門は何ですか”。ちなみに、professionは医師や弁護士、教師などの専門性の高い職業を一般的に指す。

この1週間で、歯科課主任はソウル歯科医師会と面会し、金の流通に関連した問題が議論された。


歯科課はGHQ/PHWの「Dental Affairs Section」。

流通問題解決のために委員会を選ぶことが提案された。また、歯科医師をその仕事の規模により3区分(A、B、C)に区別することも提案された。例えば、歯科医師個人が購入可能な金の量をその歯科医師が置かれた区分により決定する、というように。水銀と銀の流通に関しても同様に計画が開始される。
以下のプレスリリースが、3月8日につくられた:
朝鮮でクラウン製作を免許されたいわゆる“crown-makers”はすべて、各地方の公衆衛生管理官を通じて、歯科課、公衆衛生局、本部、軍政府、ソウル、朝鮮に登録しなければならない。
登録は1946年の3月15日から4月15日まで。
彼らは軍政府によって新しい免許が与えられ、免許は彼らにクラウンの製作の権限を保証する。軍政府に登録ができなかった“crown-makes”や、1946年5月15日以後に免許なく冠の製作を行った者は逮捕され、思い罰金か禁固、またはその両方の処罰を受ける。
“crown-maker”が登録する際には、所在地の地方公衆衛生管理官に以下を提出すること:
1.以前に発行された“Crown-makers”免許
2.履歴書
3.戸籍謄本
4.写真
5.登録費用50円
歯科免許と登録に関する朝鮮委員は軍政府の支援の下、以前に免許された“crown-makers”のみが軍政府によって新しい免許を与えられると布告した。1946年5月15日以降、無免許の“crown-maker”によるcrown製作は非合法とする。

「戸籍謄本」の原文は“Official family record”。
「歯科免許と登録に関する朝鮮委員」の原文は“The Korean Board of Dental License and Registration”。

さて、この10数行の短文が以上のようにマトモに訳せないのは、当時の事情が把握できていないからである。
特に、
 crown-maker”とはナニか。
◆崢鮮人歯科医師12人」には試験を課しているのに、“crown-maker”は無試験で免許を与えたのはナゼか。
が、大きなナゾである。
以下は憶測だが、

 crown-maker”は歯科衛生士と院内歯科技工士を足したような、いわば臨床歯科技工士だったのではないか。

Professionという単語を用いているところから、“crown-maker”は専門技術職であろう。また、ラボワークのみの歯科技工士であれば、国連軍も問題にしなかったはず。臨床に関わる技術職だったからこそ、米本国(国連軍はほとんど米軍である)には存在しないけれども、彼らの既得権を尊重し、免許したのではないか。
しかし、“crown-maker”が診療歯科技工士なのであれば、なぜdenturistといわないのか、との疑問は残る。
彼ら“crown-maker”は日本人歯科医師がつくった職業で、とすれば歯科衛生士業務もこなしていた可能性があり(当時の日本に歯科衛生士は存在しない)、そこらあたりから米本国におけるdenturistとの混同を避けたのかもしれない。で、実際にcrown製作が“crown-maker”のメインワークだったのではないか、dentureではなく。当時のcrownはサンプラ冠でかなりの技術と時間を要したから、臨床でそれらをこなす専門職がいると都合が良かった――のかもしれない。憶測だが。

次に、なぜ「朝鮮人歯科医師12人」に試験を課したか。

◆崢鮮人歯科医師12人」は、限地開業歯科医だったのではないか。

戦前の限地開業医制度は、特に医師の不足する離島、へき地に限定して開業を許された医師、歯科医師の制度である。沖縄の医介輔も限地開業医の一種である。一方、米本国の医師・歯科医師はへき地云々に関係なく、すべからく限地開業医師・歯科医師である。つまり、免許を得たA州ではなく、B州で医業・歯科医業を行おうとすると、新たにB州の医師試験・歯科医師試験に合格しなければならない制度に米国はなっている。国連軍は、米本国のこの例にならって、「朝鮮人歯科医師12人」に試験を課した――のかも、しれない。
憶測だが。

敗戦直後の山田風太郎 作家・山田風太郎の誕生

敗戦後も感染症、特に結核は蔓延していた。

高須氏肋膜炎と医者から言われたよし悲観して帰る。
(昭和22年8月18日)


山田風太郎が下宿する高須家主人も、一時肋膜炎と診断されている。後に誤診と判明するが。

午前中、第一講堂にて教授学生の懇談会。第2回国家試験の成績表貼らる。我校に未だ受験生なきもこの表を見るに台北帝大の100%、東京帝大の99%などにくらべ日本医大、各大学附属医専etc、評判香ばしからぬ学校は20%以下、殆ど2%すらある。惨たる成績なり。皆粛然たり矣。
(昭和22年9月1日)

第2回医師国家試験は昭和22年5月15〜17日に行われ、受験者数1464人、うち合格者数1364人で合格率は82.9%であった。この合格率は戦後10年間ではそう悪くもないのだが(第3回は60.2%、第4回は55.4%)、学校別で見るとその差は歴然としていたようだ。修業年限が一律ではないうえに勤労動員も課されているので、当然ではある。
山風はこの頃、著しい倦怠を覚えてサア結核かとビビるも、

朝より恐ろしい倦怠、横たわりたるまま起つ気せず。食欲全然なし。朝、無理にパンの小塊ひとつ食いたるまま毫も空腹を感ぜず、夕、全身の倦怠著しけれど熱はあっても微熱の程度、頭痛盗汗全くなし。T・B〔肺結核〕の試験当日よりT・Bになるとは滑稽なれど、他に思いあたる症状なきによってT・Bの疑いあり。しかれどもこの数日、これを発すべき生活上の転機に覚えなし。ただ金甚だ乏しくパンと馬鈴著のみ食うこと長時日にしてEiweiss、Fett、Vitamin etcに大いに欠乏しいたることは事実なり。
(昭和22年9月23日)


これも違った。食事内容を見るに炭水化物ばかり、脚気の可能性が大である。また、こんな食糧事情では、感染症の蔓延も当然だろう。
さて、この昭和22年10月、歯科医師国家試験(学説:1〜3日、実地:6〜15日)の根管を揺るがす大事件が起こっている。
問題漏洩事件である。第2回目にして。

昭和22年12月28日
▲昭和22年12月28日付朝日新聞。

新聞報道によると、日本歯科医専(現日本歯科大学)の校長で日本歯科医師会会長でもあった加藤清治が、とある試験委員から試験問題を不正に入手。試験後は同試験委員に菓子、果物、煙草など約2000円分を贈り、合格の折はさらに「1人につき1万円」の報酬を支払う約束になっていたという。関わった日本歯科医専幹部らは26日付で歯科医師免許取消となり、同日に加藤清治は日本歯科医師会会長を辞任している。
不肖わたくし、かつて日本歯科医師会を“2回も現職会長が逮捕されている組織”などと書いてしまったが、3回であった。不明を恥じるとともに、現職会長の3回もの逮捕という金字塔を打ち立てた日歯に、もはや魅力すら感じるものである。2度あることは3度ある、3度あるなら4度ある。今後の記録更新はあるのか、凶報が待たれる。
さて、われらが山風。昭和24年3月に東京医大を卒業している。

本日卒業式、つまらぬ式なりき。
(昭和24年3月20日)

卒業後の4月、山風はインターン生となった。インターンとは、医師国家試験の受験資格の要件として1年以上の実地修練を課すもので、当初は医専卒業者のみが対象である(昭和21年8月、国民医療法施行令)。インターンは23年7月に公布された医師法に引き継がれるが、この時は学校教育法により専門学校制度が廃止されて新制大学が発足していたため、インターンは医師国試受験者すべてに課される要件となった。昭和43年の医師法改正で廃止。

午前10時より淀橋病院臨床講堂にてインターン入所式。60人余。このうちのは東京女子医大生5人ばかりまじる。加藤院長のアメリカ留学の話。緒方学長のドイツ留学の話。この1年映画もみるなという。(略)早速、安西と米映画『ジキルとハイド』観る。
(昭和24年4月11日)


しかし、山風のインターン生活はひと月も持たなかった。
山風の筆によるインターン生活が見られないのは残念ではあるが、

決意す。余が医者たるは肉体的に精神的に性格的に適せず。乾坤一擲作家たらんとす。
(昭和24年5月8日)

しかし、作家・山田風太郎の誕生は喜ばしい。これ、井上陽水と園田直が歯科医師にならなかったことに匹敵する僥倖といえよう。

敗戦直後の山田風太郎 医療制度改革

さて、昭和22年2月には医療制度審議会が設置され、28日に第1回総会が開催される。

昭和22年2月28日
▲昭和22年2月28日付朝日新聞。

そこで出ているのが医療公営論であった。しかし、今に至るまで日本の医療が民間に頼っているのはご承知の通り。この時期の医療制度審議会で医療公営論が出たのは、日本医療団の解散後の処理が念頭にあったからだろう。
6・3制が閣議決定されたのは昭和22年2月26日で、

昭和22年2月27日
▲昭和22年2月27日付朝日新聞。

あわせて、官立の5医専(青森、前橋、松本、米子、徳島)の大学昇格も決定されている。
3月29日に文部省で開催された全国医専校長会議では、医専51校の処置が発表され、

昭和22年3月30日
▲昭和22年3月30日付朝日新聞。

6校の廃校が伝えられた。廃校に在学する学生数は1568人。移行措置が付けられたとはいえ、少なからぬ時間を無駄にされたのは気の毒だ。戦争で若い命が消費された直後だから社会的に不問に付されただけで、今なら大問題であろう。
歯科医専の措置が決ったのは昭和22年6月で、

昭和22年6月17日
▲昭和22年6月17日付朝日新聞。

歯科医専8校中3校がB級校と判定された。
このうち福岡県立医学歯学専門学校は、医学科と歯学科を持つ公立学校である。で、医学科は特設高校(福岡県立高等学校)へ転換した後に廃校となるも、歯学科は大学昇格までこぎつけている(昭和24年、九州歯科大)。医学科は昭和19年4月に開校した、まさに戦時のタケノコ医専のひとつであったのだが、歯学科は30年の歴史を持つ伝統校であり(大正3年、私立九州歯科医学校)、設備や教員その他が確保されていたことが大学昇格につながったのではなかろうか。
なお、歯科医育が6年制に決ったのは昭和22年6月20日の歯科教育審議会第15回総会で、同審議会委員の投票によるものであった。
その票差は1票(4年制:14票、6年制:15票)。
かなりモメたであろうことが伺われる。

敗戦直後の山田風太郎 A級・B級の判定結果

文部省は1947年3月29日に全国医学専門学校長会議を開催し、A級・B級の判定結果を発表した。これは3月22日にGHQより発令された「医学専門学校の生徒取り扱いに関する計画承認についての要望」に基づいたものである。
判定の結果、A級と判定されたのは45校で、これらには大学昇格が一応許されることとなった。
B級と判定されたのは長崎医大附属医専、福岡と山梨の両県立医専、高知、山梨、秋田の県立女子医専の計6校である。廃校6校のうち半数が公立の女子医専であるが、これには戦災の不幸もあるだろうが、さらに戦前の女子教育のおざなりさが強くわざわいしたのではないだろうか。明治33年に初の女医養成所として設立された東京女医学校(現東京女子医科大学)の第1期生卒業式で、まさに卒業生の前で来賓客が女医亡国論をぶち、大隈重信が「10年ないし15年の歳月をもって事実に現れた成績の如何によって、女医が適当か不適当かという結果がわかる」と無礼かつ不見識な来賓を牽制したエピソードが有名だが、それほどに戦前の女子教育レベルは低く抑えられていたからである。

午前本校地下室にて全学生大会。Bクラスの医専学生を救えの決議。
(昭和22年1月31日)


B級校の措置としては、
・試験を経て高等学校(廃校となるB級の施設を利用する特設高校)または同程度の大学の1学年下に転校させる。懸案事項であった1年生は、1級下がって高校、大学かの1年に転入。
・昭和22年4月以降、試験を経てA級校に転校させる。学年は、今年進級する予定の学年より1年下に転入する。
GHQが昭和21年に示していた案とは違い、医専在校生のほとんどに移行措置が取られることになっている。この措置に影響したかはわからないが、山田風太郎ら医専在校生達はB級校救済を訴える運動を展開していた。大学昇格のための、涙ぐましい努力も続けられている。

午後学生大会、病院の清掃修繕費に尚20万円ばかり要す、学生発起して先輩の間を巡り、ここ1週の間に各自1千円ずつ調達し来るべきことを決す。余にはそんな手腕も見込みもなし。
(昭和22年2月3日)


全学生、寄附金集めに先輩を求めて地方に散る。
(昭和22年2月4日)

医学校視学委員会が視察する際、昭和医専がその接待に「1、2時間の間に3万円投じた」とあるが、ホントか。

13日に進駐軍のジョンソン軍医などが視察に来る。すでに終った昭和医専などではその接待の装飾、料理などわずか1、2時間の間に3万円投じたという。余が学校でも硝子をはめ換えるの、ペンキを塗りたてるの宛もパンパンガールの夜化粧ごとし。当日は皆選択した白衣、磨いた靴、油をつけた髪を必要として、4年は実習の予行練習を繰り返し、われわれは当日の臨床講義に際して教授との応答をしめし合わせることになった。まるでお芝居である。アメリカ兵にお芝居を見せるのは愉快であるが、情けない方が強い。これでは中学時代の査閲以上だ。余は断然当日は登校しない決心をする。
(昭和22年2月10日)

東京医専では、視察時に教授と学生によるサル芝居を容易していた。

学生本部(看護婦長室)にて、各部屋の扉の上に貼る案内札を書く。英語で書くのである。勿論外人の病人など入院しはせぬ。進駐軍大明神お通りの為に書き奉るのである。――東京の米の遅配今日で11日間。
(昭和22年2月11日)


だが東京医専の場合、実際に視察に来たのは慶應義塾大学の草間良夫のみ。東京医専は昭和21年中に大学昇格が決定しており、視察は形式的なものだったようである。サル芝居を見せたのかどうかは不明である。

進駐軍既に病院より去りたる時刻見はからいて、病院にゆく、4時頃也。然るに教室を一寸覗くに未だ授業中の模様、驚きて町に出で芋を喰いてまた病院に戻る。漸く終りたると見え学生三々五々帰り来る。慶應の草間教授のみ形式的に来れるのみと。他校にはたいてい進駐軍来りて相当厳重なる検査したる話なるにこは如何なることぞと皆思いしが、結局吾が校の内容は検査するまでもなく定評にしたがえることのごとしと安堵せる由なり。
(昭和22年2月13日)


なお、医学校視学委員会のメンバーは、
                                 
小池敬事(千葉医大、解剖学)
橋本喬(新潟医大、皮膚・泌尿器)
遠藤忠節(岡山医大、法医学)
木村廉(京大、微生物学)
三浦百重(京大、精神医学)
佐藤彰(東北大、小児科)
田宮猛雄(東大、内科)
柿沼昊作(東大、内科)
東龍太郎(東大、薬理学)
戸田忠雄(九大、細菌学)
柳壮一(北大、外科)
吉松信宝(阪大、産婦人科)
木下良順(阪大、病理学)
久野寧(名大、生理学)
齋藤真(名大、外科)
上野一晴(金沢医大、生理学)
勝義孝(京都府立医大、解剖学)
阿部勝馬(慶應、薬理学)
大森憲太(慶應、内科)
草間良男(慶應、公衆衛生)
永山武美(慈恵医大、医化学)
草間弘司(日本医師会書記長、公衆衛生)

の計22人である。各地方、専門分野、国公私立から満遍なく採用したようだ。

学校にゆく。校舎白きペンキ塗り立て、海岸のホテルのごとし、トウキョウ・メディカル・カレッジといわんよりトウキョウ・メディカル・キャバレエとしたる方がよき眺めなり。校長の大熱弁。Aクラスほぼ確実、医学の大殿堂たらしめるための新発足の日は来れりと。生理学の久保教授まで飛び上ってワメキ立てる。
(昭和22年2月17日)


GHQが医育界に与えた影響は甚大かつ強烈であった。ある意味、敗戦で呆然としていた人たちにはカンフル剤となったのかもしれない。
なかでも発奮したと思われるのは、文部省だろう。そもそも医専の大量設置は軍部の意向で、当初軍部は千葉医科大学の接収を望んでいたが、さすがに文部省は認めず、その代わりに“臨時”医学専門部を帝大7と医科大6の計13校に設置したのが始まりである(昭和15年5月)。やがて“臨時”という冠ははずされ、昭和17年度:1校、昭和18年度:7校、昭和19年度:18校、昭和20年度:6校と雨後のタケノコの如く医専は増えた。敗戦時に51校となっていた医専のうち、明治〜昭和初頭開校の8校以外は、すべて臨時医専以降に設置されたものである。この状況に従わざるを得なかった文部省は、しかし、占領軍に対しては粘り強い抵抗を見せ、譲歩を勝ち取っている。戦時の文部省が、これほどの抵抗を旧日本帝国軍に見せたかは、大いに疑問である。

敗戦直後の山田風太郎 医学教育に関係する地方長官及び専門学校長会議

午前病院の掃除、余は事務所の硝子拭く。午後一時より臨床講堂にて学生大会、昨日学校にて行われたる会合に於ける校長の談話を納富報告すること左のごとし。
校長の言に依れば高専校長会議に於て決せられたる日本医学教育改正案は次のごときものなり。即ち全国の医学校をA級B級の2に区別す、A級に指定せられたる学校の現在2年以上の医学生は教育年限を夫々1ヶ年延長せらる。現在の1年は、入学以来の勉強は総て無益なるものとし、改めて入学試験を課することとす。B級に指定せられたる学校はその学校に於て4年乃至5年修学したる後改めて1年補修教育を課せられ、更に他の医科大学予科に入学せしめらると。――而して、A級となりしものは悉く医科大学となり、B級となりたるものはその値なしとして現在在学中の学生を送り出したる後は自然廃校となるなり。校長は本校はA級ならんと楽観しあり、A級とならば、2年以上は1年伸びるだけにて損害最も少なし、憐れなるは1年にして入学権全く空に帰す。即ちA級に指定せられたる医専は本年4月より予科1年生を募集せざるべからざるも、これは普通80名、如何に多くとも120名なり、然らば現在1年をこれに編入するとするも悉くこれを入るるを得ず、必ず数十名の犠牲者を出ださざるべからず。B級校は更に悲惨にして医者となるまで合計13年乃至14年間の教育を受けざるべからず。実際問題として年齢上経済上これは殆ど不可能なり。況んや爾後廃校たるべき運命にあるB級校が如何なれば学生を教育し得るや。
(昭和22年1月30日)


「高専校長会議」とは昭和22年1月29日に開催された「医学教育に関係する地方長官及び専門学校長会議」である。
同会議において、以下のGHQの意向が医専校長らに伝えられた。

・昭和26年以降の医学教育は予科3年、本科4年、臨床1年程度の形態をとる医科大学でのみ行い、卒業生は国家試験を受ける
・医専をA級とB級に判定する
・A級は1年間の補習教育を加え、大学昇格させる
・B級は廃校し、在校生はA級医専に転校させる

このB級校の在学生をA級校に転校させるという移行措置は、文部省が提案し、昭和22年1月24日に開催された第22回教育刷新委員会でGHQ/PHW(公衆衛生局)とCME(医学教育審議会)に了承されたものである。この時点ではまだ、B級校の1年生(昭和21年4月入学)の救済措置は認められていない。

――尚、校長の言う所に依れば、本案は文部省の決したるものにあらずして、G・H・Q(総司令部)の提出せしめたるものなり。即ち、医学教育を悉く米式に切り換えんとするものにて、文部省は全くこれに対して無力なり。左様なる残酷なる案は施行し難しと文部省対えたるに対し、G・H・Qはさらば当方にて之を施行すべしといえる由、云々。
(昭和22年1月30日)


GHQが「医学教育を悉く米式に切り換えんとする」というのはその通り。だが、移行措置を主張し続けたのは文部省で、GHQは廃校後の運命なんぞ当初は1ミリも考えていなかった。あくまで文部省および日本側委員が、移行措置を講ずるようGHQに譲歩させたのである。
ただ、文部省は現実に医専校長らに、そう述べたのだろう。医学教育の改正はGHQの圧力により、やむを得ないのであると。昭和21年末まで医専に大学昇格するよう指示したのは文部省だし、今更それがダメになりましたなどといえば自分らに批判が集まるからである。いや、そもそもGHQが糾弾する医師の粗製濫造は、戦時の軍医量産政策の結果である。医専は、国や軍部に奨励されて増加した。医学教育のカリキュラムには軍部の意向が強く反映され、その結果が医師の粗製濫造なのである。言うとおりにしたのに今更ナニが廃校だ、負けやがって! というのが廃校医専の言い分であろう。その批判を避けるために、文部省は“GHQの圧力”を楯にしたのだと推測する。

又曰く「本案の内報せられてより、最も清掃に努力せるは1年生なること諸君の見らるるところなり。1年は真意母校をAクラスたらしむべく死力をそそげり、電灯のグローブ、硝子、ペンキ代、カーテン、電球その他修繕改築費として彼等は既に、自ら11万円の金を集む、病院に於て3年、4年は2万数千の金を集めたるに過ぎず、われら顧みて慙愧に耐えず、然るに何ぞや、その1年はBクラスとなればもとよりAクラスとなるもその苛酷なる運命を免るる能ず。然るに昨日地下室の会に於て1年の代表者曰く、われらの運命は如何ともし難し、されど本校に籍を置きたるものとして光栄ある東京医大をAクラスたらしむべく在学中は尚全力をあげて努力すべし。校長慨然として曰く、余は諸君を断じて見捨てることなし、余は諸君の将来に対し血の一滴までも責任を持つべし、諸君は余が双腕にぶら下がれ、諸君とスクラム組みて余は断じて1年をも犠牲者たらしめざるべく渾身の努力を捧げん。ここに於て校長、教授、上級生、下級生、愛擁して涙流せり、而して皆一せいに叫びて曰く、戦いは負くべきものにあらず! これ昨日の会に於て、われらが永遠に忘るべからざる光景なりき」と。
(昭和22年1月30日)


「」の位置が妙だが、ママ。

これより、夕4時半まで互に議論激論して次のごときことを決す。
1、兎も角本校をAクラスたらしむべく全力をあぐること。
進駐軍は来月1日調査に来る予定にして本校は午前の日本医大に続き午後行わるる筈なりしが、丁度土曜にして彼等は半休なるため東京都中の医学校最後の13日と決す、故にこの日まで学生委員本部を設け、この指揮下に全員奮起すること。またその資金として学校にて30万円、病院にて20万円を要す、この金学校になし。故に吾ら分担して先輩に頼み父兄に願い何とかして調達すること。
2、Aクラスたるを得たる時、1年の救済に努力すること。
3、不運にしてBクラスたりし時は、事実問題として、更に10年内外の教育を受くること不可能なる故、本校卒業のみにて何とか糊口の資を得る様な資格を貰うこと、etc。
(昭和22年1月30日)


GHQはB級校の1年生をなぜ救済しようとしなかったか。
モートン博士(PHW病院管理課)は、昭和22年2月7日の医学教育審議会総会で次の見解を表明している。

モートン博士(PHW病院管理課)は、46年度は新入生の受け入れは許可されていないはずだったが、実際にはいくつかの私立医専ではそれが反故にされたこと、また、医専の統廃合に関しては、どこかに線引きをしなくてはならない、医専1年生は1年を無駄にするだろうが、彼らは十分若くその分のロスをやり直せるだろう、と述べた。

つまり、若いからやり直しがきく、ということであった。若いといっても、当時の日本人の平均寿命は40そこそこなのだが。それに、学校が勝手に学生を受け入れたのだとしても、その罪を学生に着せるのはフェアではない。
以下はB級にランクされ、廃校となった山梨医専の教授の話。

学校が廃校になるということは如何に学生を苦しめるかということを、筆者は当時の教官としてまのあたりに見て涙を流した。筆者をふくむ何人かの教官が地区や中央に向って存続運動をしたが、ついに成功せず、大きな力の前には数人の教官の力が如何に無力であるかを知らされた。当該学生の犠牲が大きかったことを世人は忘れないでほしいと思う。


実際は、「世人」は廃校医専学生のことなど忘れ去ってしまった。記録がないからである。
占領時の医専の苦境の記録といえば大学に昇格できた学校の大学史ぐらいで、そこでは当然ながら廃校医専のことなど気にもされていない。文部省の学制百年史も戦時〜占領中のゴタゴタをほぼ無視しているが(戦時に増えまくった医育機関の数、戦後の廃校数すら把握していない)、日本医育史におけるエポックメーキングなこれらの事情を一切無視する態度は一体何なのか。まさか、黒歴史をなかったことにしようという目論見なのであろうか。屈辱感を忘却で清算できるかといえば、実際は傲慢な厚顔無恥を生産するだけであって、その証左が今の劣化内閣なのかもしれないと思うと、本当にわたくしは憂鬱である。

敗戦直後の山田風太郎 医専の命運

医専の運命は、昭和21年末時点で、以下の3つにわけられていた。

☆帝大・官立医大の附属医専
卒業生(1947〜1949年)は教養課程と若干の基礎医学学科からなる1年のコース、その後の1年間のインターンで国試受験できる。全学生が卒業後、廃校。

その他の医専:
☆Aクラス:医学校視学委員によって13帝大附属医専と同等またはそれ以上のレベルと判断された医専の卒業生は,汎韻諺蔀屐△靴し昭和21年入学の1年生は放校。2学年以上が卒業後、大学昇格。
☆Bクラス:医学校視学委員によって帝大附属医専以下のレベルと判断された医専は廃校し、教養課程の高校あるいは大学に移行する。

登校、「Aクラスとなるか? Bクラスとなるか? 母校の運命はかかって吾らの双肩にあり。下級生に恥ずることなきや。諸君の精励を切に望む」などの紙貼り出し、皆病院の掃除に血眼也、吹き出したくなる。進駐軍を迎うるに如何に母校と吾らの死命制すとはいえ、この醜態は呆れかえりて唯苦笑い浮かぶるのみ。
(昭和22年1月25日)

医学校視学小委員会は昭和21年10月から活動し始め、昭和22年1月16日の段階で医専52校中視学済みは24校という進捗状況であった。
ただし、東京医学専門学校は昭和21年時点で大学昇格を認可されているので、昭和22年になってもまだ大学昇格対策を学生に講じさせているというのは少々奇異である。昭和21年の大学昇格認定は概括的なもので、後は教員の確保などが残っていたが、しかしそれは学生が云々するたぐいのものではない。
占領軍だからナニをされるかわからない、という危機感と焦りが東京医専の教師にも学生にもあったということなのだろうか。

皆、依然掃除に大童。
(昭和22年1月26日)


文部省は昭和21年末まで、各医専に大学昇格のために寄附金集めなどの準備をするよう指示を出していた。掃除もその一貫だったのだろう。GHQは医専の多くを切り捨てるつもりであったが、文部省は多くを救済するつもりで、特にGHQが切り捨てを主張していた廃校医専に在学する1年生の救済も実現させている。廃校医専救済を訴える学生運動も、影響したのかもしれない。

敗戦直後の山田風太郎 医学教育の大改革


東京医学専門学校の大学昇格が認可されたのは、昭和21年5月15日であった。
朝日新聞では同年8月10日に医専の大学昇格を報道しているが、

昭和21年8月10日
▲昭和21年8月10日付朝日新聞。

廃校となる学校もあることはサラリと触れているだけで、大学昇格する医専のほうが多いような書き方である。
GHQ/PHWのサムス准将は当初、医専52校(官立19校、公立20校、私立13校)中、大学昇格させるのは10校のみとし、大半を廃校させる意向だった。
一方、文部省は医専の大半を大学昇格させる意向であったから、新聞は文部省よりの報道をしていたことになる。ちなみに、この頃はGHQによる新聞の事前検閲があった(昭和23年7月15日まで)。医専関係者のパニックを恐れ、真実を報道させなかった可能性もある。

一昨日の<読売>紙上に医学教育の大改革との大見出と共に全国60数校の医大、医専を徹底的に調査し、内容不十分なるものは廃校乃至転向せしめて厚生専門学校乃至看護婦養成所となす、残れる優秀校はA級(8年制)B級(6年制)に年限を延長し、少数ながら優秀なる医者を生み出さんとするの意向当局にあり、医専中現在迄に文部省に認められたるは東京医専他6校にして既に大学に昇格ありと報ぜられる。
(昭和22年1月22日)


東京医専はすでに大学昇格が決っている。よって、在校生たる山田風太郎にとって最大の関心事は年限の延長であった。

年限延長に愕然として登校するに松柳、藤井教授に聞きたりとて本制度の適用さるるは本年度よりの新入生にして吾らに適用されずと。
(昭和22年1月22日)


新制度の適用は新たに入学する医学生からで、在学生ではない。

昨日休めり、本日病院に行くに友人皆全院の大掃除に大童なり、何事なりやと怪しむに大変なりと言いて上中来りて曰く、「緒方校長の言に依れば学制改革は文部省よりもマッカーサー司令部の意向なり、小国日本の中に不十分なる医学校過多なり、整備すべしとの内命ありしに拘わらず、各医専の運動猛烈にして文部省怠慢なりし為、近くマッカーサー司令部より直接に視察員来りて調査し、その結果不良ならば本校も廃校を免れず、学校半ば焼け、病院も松原病院は焼失す、必ずしも安心を許さざれば、この週一ぱい学業をやめて大掃除することにす」と。また曰く、「楽天主義なるは校長と、西川病院長のみにして岩男教授は悲観派なり、あとの教授は沈黙を守るのみ、唯米国に長らく留学せし加藤教授の顔色を伺うのみ」と。又曰く「本事態はあらゆる点に於て日本人を他の亜細亜諸国民の水準以下に置かんとすいる米国秘密政策の一なり、即ち日本人の知的水準を低下せしめんとするマッカーサーの手段なりと思惟す。日本はかくて真綿にて頸しめらるるがごとく次第に沈下せしめられ再び起つ能わざるごとく追いこまる。日本の前途は絶望なり」と。
各方面に吹きまくるマッカーサー旋風は遂に吾々医学生の上にも吹き来れり、吾人もまたマッカーサーの鼻息を伺わずんば医者たるを得ざらんとす。
(昭和22年1月22日)


「学制改革は文部省よりもマッカーサー司令部の意向」なのはその通りであるが、「文部省怠慢なりし為、近くマッカーサー司令部より直接に視察員来りて調査し」というのは間違いである。
実際は、医学教育審議会傘下の、日本人の大学教授級の専門医で形成された医学校視学小委員会が医専を視察し、52校の医専のうち6校を廃校とした。CMEはPHWサムス准将肝煎り機関でGHQの意向が強く反映されたけれども、文部省はCMEおよびGHQにそう安々と丸め込まれはしなかった。文部省の健闘がなければ6校程度の廃校では済まなかったし(サムスは医専52校中42校を廃校にする気だった――大学基準協会十年史、1957)、廃校される医専に在学中の医学生たちにも一切救済措置が取られず、多くの若者とその親の怒りを買っただろう。
また、GHQ/PHW/CMEが導入した医育や医療の制度は世界でも最高レベルで、それらが世界屈指の医療大国、長寿国たる現在の日本の源泉となったことも間違いない。傲岸で高圧的、人体実験を日医に申し付けるなど差別的でもあったが、GHQ/PHWは大国の威信をかけて日本の公衆衛生の改善に尽くしたのだと思う。ただ、限界はあった。それは、彼らがアメリカ人ということである。

国際的比較としての医学教育の国家負担率については、アメリカ以外に比較することは不可能である。イギリス、西ドイツ、フランス、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、イタリア、スイスなどは、いずれも医学教育は国立大学または、私立であっても、ほとんど全学を国庫負担によっているからである。中川米造.医学教育費.医学教育Vol.3(1972)No.1,39-41

社会保障政策に世界規模で影響を与えたベヴァリッジ報告が出たのは1942年、第二次世界大戦後の先進国では国家負担による医師養成がスタンダードになりつつあった。その潮流を一顧だにしなかったのがアメリカで、連合国軍とは言いながらほぼアメリカ軍であったGHQでも、医学教育の国庫負担率をどうするかなんて話は一切出てこない。
もちろん、当時の日本経済はドン底で発展途上国以下の状態だから、専門教育費の国庫負担など、まあ、無理だったろう。しかし、将来の為に道筋をつけておく、ぐらいのことはできたはずである。占領軍がイギリス軍主体であれば違った結果になっただろうとも思うが、しかし、それを言うのは奴隷根性である。経済大国となった今現在においても、高校の教育無償化すらできていないのはGHQのせいでも、その“押し付け”憲法のせいでもなく、日本人自らの怠慢のためである。

兎に角吾人は唯拱手して、この旋風の結果を俟つの他なきに至る。校長、長嘆息して「戦争には負くべきものにあらず」と述懐せる由、せめて吾人に傷つかざらんとして皆汲々としてハタキを振い硝子を洗うのみ、戦時中軍人の視察を迎えたる工場が斯くのごとかりき、今や外国の手のふり下さるるに教授学生戦慄して鼠のごとく働くのみ、痛恨極まり暗然たるの他なし。
マッカーサー司令部の調査に合格する可能性は60%なりといわる、地方の医専は悉く廃校必至なり。廃校とならば吾人はその去就を知らず、また存続を認められたりともそのあとが問題なり。8年制6年制の大学とはその中に予科含められてありや否や、もし含められていざれば11年、9年となる、中学を卒業するが既に18、9才なり、然らば即ち医者になるには殆ど30才たるを要す。
(昭和22年1月22日)


当時の医学生としては、ビビるほかなかっただろう。ナニをされても従わなければならない、それが無条件降伏である。

敗戦直後の山田風太郎 医師国家試験制度の開始

皆一大恐慌を来せる「医師国家試験」本年より適用かと<朝日新聞>に報ぜらる。
(昭和21年3月19日)


昭和21年3月19日
▲昭和21年3月19日付朝日新聞。

医師国家試験の受験は当初、2回が限度であったが、

それによれば目下日本の開業医6万、これに復員軍医約2万加わる上、本年の医学卒業生6千、来年は8千、明後年は1万となり、国土狭く、設備薬品不足の上に粗製濫造の医者氾濫してはヤリクリつかず為に本年よりブレーキを兼ねて基礎医学、臨床医学の国家試験を行い、落第2回は資格なしとする由。
これ悦ぶことなり。されど毎年落第する者、合格する者に比して2倍、4倍、5倍となりては、長き月日と大いなる学費をかけて医学を学びつつ遂に職能を有せざる者巷に溢る。その腕にメスあり、その頭に医学知識あり。これ虎を野に放つがごとく本人の不幸なるのみならずまた社会の不幸なり。しかず、今、各学校を調査してその不完全なるものを廃せんには。その方が遙かに本人と社会のためなり。
(昭和21年3月19日)


結局は何度受験してもOKになる。

今朝の<読売新聞>に医師国家試験施行の旨発表さる。今秋より行う。何回受くるも制限なしと。学校は、内科よりこの話で持ちきる。(略)夜、馬橋松葉の下宿を訪ねる。松葉は関東医学徒連盟に出席していて夜遅く帰って来る。国家試験の事につき討論ありし由。東大は大讃成で日大医は大不讃成なりし由なり。
(昭和21年3月28日)


昭和21年3月29日
▲昭和21年3月29日付朝日新聞。

GHQも山田風太郎と同じく「今、各学校を調査してその不完全なるものを廃せん」としたのだが、実際に医専を視察した医学校視学小委員会の面々が情に流されたのか、内地の医育機関計70校のうち廃校は6校のみという結果に終わった。結局は、出口で搾るしかなくなったのである。
昭和21年5月11日には保健婦を養成する東京保健女子学院が東京医専校内に開校するが、

学校には学生がいない代り、妙齢の女の子がうようよしている。聞けばもと航空医学研究所だった建物を使用し打て保健婦養成所つくり今日がその開校式なのだそうな、道理でそっちの方には紅白のマン幕なんぞ張りめぐらしてある。何の為かジープも1台来てとまっている。校門を見たら「東京医学専門学校」の標札は去年の5月(4月?)焼け失せたまま、今は「東京保健女子学院」なる白木の大看板のみぶら下がる。どちらが附属なのか分らない。
(昭和21年5月11日)


同学院は昭和26年3月31日、大学予科とともに閉鎖されている。卒業生は23人のみであった。
預金封鎖も続いており、

薄冷、関宮にカネオクレの電報打つ。預金封鎖の為、家に金乏しく且農家は一銭も金下りず農村の医科として今オイソレと数百の金自由にならざるがごとし。余帰京に際し出発後直ちに送金すべしといわれたるに未だ不来ほとほと困却す。
(昭和21年5月12日)

まとまったカネが下せないので仕送り頼みの下宿者もキツい生活を強いられていた。預金封鎖の解除は昭和23年7月である。

午前10時より学友会結成式。4年より医師国家試験反対運動の為、各人より10円ずつ集金するとの動議あり。
(昭和21年5月25日)


学生は医師国家試験に対する反対運動を行っていたが、結局は行われる。医科大・医学部などは試験に賛成だった。修業年限がそもそも違うので、医専が医大よりも不利なのは間違いない。
昭和21年6月には東京医専の大学昇格祭が行われているが、

ひる、高田馬場に行き徒歩にて早稲田大学大隈講堂に入る。地下にて、東医の大学昇格祭演芸行われつつあり、ひる皆菓子を喰い、酒呑みたりと。酒は甲府より入手せる葡萄酒5樽に医化学三坂教授の作れるアルコール混えたるもの激烈にして学生頗る多く騒ぎ且倒れたるものありと。
(昭和21年6月23日)


ワインにエタノールをぶち込んだ合成酒を飲んでいる。身体に悪そうだ。
なお、東京医専の大学昇格は概括的には認められているが、詳細はまだまだ詰めなくてならなかった。大体、医学制度もこの先どうなるか未定の時期である。この段階で祝典を行う呑気さは、緒方知三郎校長由来のものであろう。

敗戦直後の山田風太郎 大学昇格決定

大学昇格の内定が東京医学専門学校(東京医専)に伝えられたのは2月20日。調査して即日である。

大学昇格内定せる旨発表。(本日文部省より人来る)
(昭和21年2月20日)


視察したのは、医学教育審議会(Council on Medical Education、以下CME)傘下の医学校視学小委員会(Subcommittee on School Inspection、委員は大学教授クラスの専門医)である――といいたいが、CMEの発足(第1回総会)は昭和21年2月27日、さらに医学校視学小委員会の活動開始は同年10月から。山田風太郎の日記によれば東京医専の視察は昭和21年2月20日だから、CME発足前である。東京医専はCMEではない別組織(文部省単独?)が視察し、大学昇格GOサインを出したのか。

大学昇格に対しては図書館の整備が最も要求されたので、原館長は全国の校友に檄を飛ばし、書籍や雑誌等の寄贈を求め、辛うじて規定の1万冊を整えることができた。論文別冊等を1冊の書籍として計算せねばならぬような状態であったが、その後次第に巻数を充実した。
(東京医科大学初期、東京医科大学五十年史)


大学(現・東京医科大学)の設立が認可されたのは、昭和21年5月15日である。この認可は大学設立の概括的なもので、

予科及び学部の設置は更に詳細に文部省と交渉をなし、その具体的且つ詳細なる申請を要した。
(東京医科大学初期、東京医科大学五十年史)


教職員の認可など細部は後回しにされていた。東京医専が医育機関としてAクラスに判定されたのは昭和22年3月末で、4月1日に予科の開設が認可されている。
なお、この頃、東京医専の学生大会で緒方校長の排斥論が出ているが、

ひる学生大会あり。校長排斥論4年より提出、3年これに対し絶対支持を唱う。
(昭和21年5月15日)


大学民主化運動の一環であったのだろう。

昨日また学生大会あり。校長出席して4年の説を一々徹底的に論駁せりという。
(昭和21年5月18日)


熱血だが所詮はエエとこのお坊ちゃまで頼りない、というのが緒方校長に対する学生評だったらしい。
しかし、PHWのモールトンは評価に値する世界的水準の大学教授のひとりとして「東京帝国大学の緒方知三郎」を挙げており(堀籠崇、実地修練(インターン)制度に関する研究―新医師臨床研修制度に与える示唆ー、2010)、東京医専の大学昇格も緒方校長の知名度なくしてありえなかった可能性はある。施設は焼けまくっていて「せめてB級に入らんとしたが、戦災が余りにも大きく、それさえもかなりの危険が予想された」(東京医科大学五十年史)のだから、人材面で救われたと考えるのが妥当ではないだろうか。であれば、敗戦直後の医専の危機においても、緒方校長は大いに頼れる存在であったということになる。
さて、話は飛ぶが、この時期の日記に登場する緒方富雄の話が興味深い。

血清―緒方富雄教授。大川周明完全なる黴毒第3期なりしとの事。
(昭和21年5月24日)


大川周明は極東軍事裁判の開廷初日である5月3日に東条英機の頭を2度たたき、翌4日に米陸軍病院に入院してそのまま出廷しなくなった。緒方富雄は、梅毒血清反応検査の“緒方法”で知られる血清学者である。米陸軍病院で大川の梅毒検査を行ったのは、緒方富雄なのかもしれない。

敗戦直後の山田風太郎 新円切替

大学昇格か、廃校か。
すったもんだしていた医専・歯科医専にさらに打撃を与えたと思われるのが、経済危機緊急対策――いわゆる“新円切替”である。
新円切替は昭和21年2月16日の夕方に突如ラジオで発表され、翌17日限りで預貯金は一切引き出せなくなり、10円以上のカネは3月2日限りで通用しなくなった(2月22日には5円も追加でダメに)。3月3日以降は“新円”が登場して、旧円はゴミと化すのである。日本は一気に玉音放送以来の大騒ぎとなり、皆が皆5円以下の小銭集めに奔走、使えなくなるカネは使ってしまえとヤミ市がごった返すことになる。

切符売場など10銭20銭のものに百円千円出すものありと。本日煙草配給4円20銭なれ10円札以上ばかりで買う能わず。高須さんは3円の電車定期券買うに10円札出せど売ってくれず、2組買って4円ツリくれといいても駄目、3組買うから1円くれといいても駄目。泣く泣く10円で3組買って来た由、新円引換は10円以上にて5円以下は旧来通りなればこの騒ぎなり。これでは電車にも乗れず、夕刊も買えざるようにならん。
(昭和21年2月17日)


新円切替は、国民の現金所有を制限して進行するハイパーインフレを抑制する目的があった。よって、庶民が手持ちできる現金は100円/人に制限し、あとはすべて銀行or郵便局に預けさせた。給料は500円/月までを新円で支払い、預貯金からの新円の引き出しは月に世帯主300円、世帯員100円/人に制限された。あとの預貯金はすべて封鎖である。これで3月3日以降の金融資産はすべて金融機関にあるという理屈が成り立つから、3月3日午前0時現在で財産調査が行われ、この調査結果が財産税算定の基礎となった。預金封鎖が解除されたのは昭和23年7月である。なお、当時の大蔵大臣の月給が540円なので、金持ちはともかく、ビンボー人の苦しい生活がさらに苦しくなったわけではないとは思う(そもそもその苦しさはドン底である)。しかし、これが山風のような仕送り生活を送る学生や、学校建設というデカい話になると、また別である。

午後より学生大会があって、校長が演説していた。大学昇格も、貧乏な学校の上に、今度の預金凍結で大口寄付者の口が怪しくなったので、どうも危ういとのこと。
(昭和21年2月18日)


寄附を募っている最中に預金封鎖、これはイタイ。東京医科大学五十年史には、大学昇格への預金封鎖の影響には触れられていないが、寄附金集めはかなり難航したと思われる。
なお、東京医専は昭和17年11月に大学昇格を申請しており、当時すでにその準備も万端ではあった。昇格できなかったのは「戦争苛烈の事情」による(東京医科大学五十年史)。しかし、空襲によりその準備は灰燼に帰したどころか、建物もかなりの部分焼けてしまった。ゼロからの出発どころか、マイナス状態でGHQの査察を受けなければならなくなったのである。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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