売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

医師資格取得運動の中心は東洋出身者

今田見信(1897-1977)の佐藤運雄評。歯苑社を設立したのは大正10年。

私が雑誌をやって一番苦境の時でしたが、それはある歯科医専の学士会が、私のやっておりました「日本之歯科」(引用者註:正しくは「日本之齒界」)にそこの経営になる雑誌社の批判をした投稿記事を掲載したことで、怒って不買同盟を申し合わされまして、大変困ったことがあります。
私が信濃町のお宅に行ってたときに、それを佐藤先生に申し上げましたら、「君は信ずるわが道を行け」ということで、「君、血脇先生にそういうことを直接いった方がいいよ」といわれ、私は勇気を出して血脇先生の所に行ったんです。
おそらく私の顔は怒りに燃えていたと思います。血脇先生にその話をしたら、「若い者がそんなことをしたかもしらんが、よく判った。君は自分の道を行けばよい。君は信ずる道をやっておればよいじゃないか」と教えられ、あべこべに激励されて帰りました。佐藤先生にしても、血脇先生にしても、その処置は私の終生の指針になったわけです。
私はそのことを思い出して、キリストの言葉の「打てば開かれる」をしばしば訓話に引用しております。
それから歯科が低級扱いされていた大正14年ころに、歯科医が何も医専を全学年やらなくとも短期にして、医者の資格を取りたいというので、医師資格取得運動というものが起こった。これは東大の歯科医局の中から起こったんですけれども、そのときにはやはり当時の中心人物は皆東洋出身者です。それでその理論づけの文献は佐藤先生からいただいて、私が作文して、議会に請願書を出したり、雑誌などにも論説を書いたりしたのでした。
(略)
先生はまた一元論争の激しい折はずいぶん御迷惑されたかも知れませんが、これは元来石原久先生の門下でいられるからそういうことを無論おっしゃったし、また書いてもおられる。ご自身が歯科をやって、医科を終えられたので、石原先生の場合とは異なった体験がおありになったわけです。
あとで歯科教育の場に立たれて、医学的歯科教育が創案されたのは、当然であろうと考えます。
(追悼座談会「佐藤先生を偲んで」昭和39年、日本大学歯学部六十年史)

医歯一元化運動の際に組織された大日本新歯会も、日本大学専門部歯科がリードしていたんだろうか。

佐藤さんも奥村さんも頭の鋭い人

寺木定芳(1883-1977)の佐藤運雄評。

寺木定芳
佐藤さんも奥村さんも頭の鋭い人で、歯科界には珍しいと思うくらいです。今後ああいう人は出ないのではないかと思われます。
奥村さんはまことに即答的な、いわゆる歯に衣を着せずというタイプで、何でもいいたいことをいう。自分の思っておることに対しては、信念をもって突っ込んでいくという奥村さんでした。
そこにいくと佐藤さんはまことに温容で、その時から大人の風をなして、あのとおりにやにや笑うと、私はしょっちゅうものに書いたり、口でいったりしておるけれども、あなた方御承知のように目じりに無数のしわがよる。あのしわは何ともいえないやさしさで、人になつかしさを与えるしわで、佐藤さんが笑われるととろっとなる。


寺木は東京歯科医専で矯正学を教えていた。

そのうち佐藤さんと奥村さんは両雄ならび立たず、同じ頭を持ってどうしたってあそこで2人が併立というよりは、無理な状態が続いたらしい。
そういう関係で、ただ上に血脇守之助という偉大なる人がおりまして、この人が奥村さんは自分の子飼いの弟子ですし、まるで小僧時代から育て上げたんですから、何といっても奥村さんが可愛い。佐藤さんに対して表向きどうするということもないのですけれども、奥村さんに対するよりはやや冷淡な態度もあったためではないかと私は想像する。
それで佐藤さんは、憤然として三崎町を飛び出しました。そうして私は記憶していないが、その時分小さな講習会みたようなものを、お興しになったんではないのですかね。
(略)
その当時の佐藤さんは、私の知っている限りでは2年間くらい猛烈な神経衰弱をやって、そのころおられました大森のお宅からとにかく一人では弥左衛門町(引用者註:佐藤運雄の診療所があった)に来られなかったんです。ひどい神経衰弱でしたよ。すっかりやせ衰えて、私なんか佐藤さんという人は神経衰弱でだめになるのではないか、と思っておりましたが、いつの間にか健康になってあんな長命になられたんです。
(追悼座談会「佐藤先生を偲んで」昭和39年、日本大学歯学部六十年史)

「神経衰弱」。中傷も借金も平気の、図太いタイプではなかったようだ。
なお、昭和27年の暮れには、佐藤運雄と奥村鶴吉の間を日本大学歯学部と東京歯科大学の両同窓会幹部が取り持ち、食事をしたという。

帰るときちょうど雪になり、東京歯科大学からは学校の自動車が迎えにきたが、われわれは佐藤先生と一緒に駿河台までぬかる道を歩いてきた。
ここで、ナニが何でも佐藤先生に同窓会として自動車を差し上げようというので、昭和28年4月1日に、先生に自動車を贈呈することができた。これが歯学部の自動車第1号である。
(深沢竜之介「14年間を顧みる」、日本大学歯学部六十年史)

佐藤運雄と「歯科医師の医師資格獲得制度」運動

司会(鈴木勝
国会の方に、医師試験を歯科医が受けられるような便法を請願する運動が起きた。その後に起きた「医歯一元論」の前の型ですね。この運動では佐藤先生は表面にはもちろん出なかった。大鷹仁太郎先生あたりがやったのは、あれはいつ頃ですか、今田先生。

今田見信
大正12年1月25日に衆議院へ請願したんですよ。6回に分けて出しました。総計500名以上の署名でした。

司会
日本大学に合併してからですね。

今田
だから、あれはやっぱり佐藤先生が中枢じゃない。火つけ役でもないんです。どっちかというと協力者は東大歯科教室です。ちょうど大鷹仁太郎君だとか、ここの滝沢君などが、東洋歯科を出て東大歯科医局へ入りましてね。そして薬剤師から歯科へ入ってきた先輩格の稲生(旧姓長井)竣君の3人が中心でした。それで、まあ、石原先生から暗黙のうちに、佐藤先生はむろん、知っておられたと思います。かねてから佐藤先生の主張をわれわれはひそかに先生からお聞きしたんです。わたくしはちょうど開業したばかりだし、「日本之歯界」という雑誌の発行に骨身を砕いている頃です。稲生君、大鷹君らは毎日のように押しかけて来るんです。それでわたくしはどうしようかと迷って、信濃町の自宅に佐藤先生の意見を聞きにいきました。わたくしはいつの間にかトリコになって全面的に協力することになったのでした。わたくしが協力し始めたらいろんなものを書かされるんです。だから、国会に出した請願文なんて、全部わたくしが書きました。
(座談会「東洋歯科医学校の追憶」昭和42年、日本大学歯学部六十年史)

医師資格獲得期成同盟会の請願書を書いたのは、今田見信だったのか。

今田
裏面では佐藤先生は協力してくださったが、表に立たれるとかえって反対がはげしくなるからと川合先生(引用者註:川合渉)などの意見もあって、遠慮していただいた。「おれはひっこんでいるから、君たちやってくれ」ということであった。別に金もらいもしなかった。軍資金はどこからも出なかったけれども、東大医学部の教授連の中には、じつによく協力してくださった先生があった。
たとえば、今も記憶にあったのだが、片山国嘉入沢達吉宮元仲田代義徳木下正中中原徳太郎林春雄先生などだった。それは石原久先生から名刺を添えてもらって稲生君らが熱心に回ったからです。それで紹介代議士は、一人は稲生君の関係で志賀和多利、一人はわたくしが島根県選出の島田俊雄(親戚に近いものですから)のところへ行って、ぜひにといって請願人になってもらって請願文を出したんです。あれだけの政治運動をやったということは、歯科教育界に与えた影響も大きく、たしかに画期的だったと思いますね。それがいろんなところに尾を引いて、歯科教育は改善されています。やっぱり、裏面に佐藤先生の「医学的歯科教育(メジコデンタルシステム)」が澎湃として押し出てきた事前工作の意味ともなったし、背景になったとわたくしは思いますね。


しかし、歯科教育は戦後にいたるまで技工偏重であるが。

今田
ついこの間、長尾優先生に会った時の話に、佐藤先生は東京歯科から追い出された、それは追い出されたのか、出たか、ということを疑問に思っておられるんですね。結局それは奥村君(引用者註:奥村鶴吉)と仲が悪かったんで、出たんじゃないか……。出たということは石原先生の一元論の思想をもっておられたために、大学を中心に働かれたんで、ああいうふうに出られたんじゃないか、といっていましたね。そこで事実、わたくしがわからないのは、その頃、東京歯科と東大の両方に関係しておられるんだけど、どっちの月給で生活されていたのか、半日ずつ勤めておられたようだが。

横地秀雄
それは、やっぱり……。

今田
東京歯科で月給をもらって……? それで足りないから半日を東大ですか。その上お宅(引用者註:九州歯科医学専門学校)から持ち出しておられましたか?

横地
ええ、ええ。

今田
まあ、三者でしょうね。


現在、国公立大学などに籍を置く先生に仕事(講演や原稿執筆など)頼む際は、籍を置く大学に届出を出すなど私立に比べかなりシチメンドーなのであるが、戦前は国立私立を問わず大学人が副収入を得ることに大学も肝要だったようである(例:入沢達吉ら東大教授は講義のない日に開業し、独自に患者を診ていた)。なお、今や国立大学も法人化して厳密に言えばその職員は公務員じゃないのだが、むしろサイドビジネスに関する届出規定は厳しくなった感あり。利益相反には注意しなければならないが、大学人を象牙の塔に押し込めることは大学的にも社会的にももったいないと思う。中国は公務員はおろか軍人までサイドビジネスをやっていて、まあムチャクチャな部分も多いのだが、自由経済の日本経済よりも開放感というか、躍動感があり、一言でいうと非常に楽しそうである。
ちなみに、佐藤運雄は父親の病気、学校建設、そして2回の火事でかなりの借金があったようだ。借金のストレスでつぶれる人と、それをバネにして躍進する人がいるが、佐藤は後者だったのだろう。

佐藤運雄、38歳で学校を設立

日本大学百年史によると、佐藤運雄は明治12年、伊勢原市生まれ。同31年医術開業試験に合格、シカゴに飛んで同34年シカゴ歯科大学を卒業、DDS(doctor of dental surgery)を取得。同36年にはラッシュ歯科大学を卒業し、DDM(doctor of dental medicine)を取得し、帰国した。DDSとDDMの両方を取得することに、何か意味があったんだろうか。
帰国後は東京歯科医学院や帝大の講師をしていたが、同41年に石原久の医学部時代の同級生で当時大連医院長だった河西建次の要請で同医院の歯科口腔科部長となり、44年には南満医学堂教授となった。ちなみに、大連医院も南満医学堂も南満洲鉄道株式会社立。南満医学堂は大正11年に満州医科大学に昇格し、今では中国医科大学に吸収されている。
閑話休題。
佐藤運雄は満洲で健康を害し、明治43年に帰国する。
同44年には文部省から歯科医術開業試験委員を命じられた。一時帰国のはずなんだが、委員の命を拒否しなかったところをみると満洲に戻るつもりはこの頃からなかったのではないだろうか(憶測)。大連医院と南満医学堂を正式に退任したのは大正元年9月。大正2年には養父が死去したので、歯科診療所を継いでいる。
歯科養成機関の設立を考えたのは、歯科医術開業試験委員として歯科開業のための受験生に接したことがきっかけらしい。
いわく、
その第一の欠陥は、知識が歯科学のみ集中して、基礎医学が不足している。さらに一般的普通学、教養すら充分でない者、独学者の共通性格とでも言うか、偏狭で孤独的で、明朗闊達な陶冶に欠けている者が多数あることに気がついた。
(日本大学歯学部六十年史)

これら「欠陥」を除くため、東京は日本橋坂本町に東洋歯科医学専門学校を設立したのが大正5年4月である。この時、佐藤運雄38歳。大正の「歯科医師の医師資格獲得制度」運動は40代、昭和の医歯一元化運動の際には60代であり、まさに激動の歯科界を生き抜いた人であった。

>根管治療出来る医師はいますかね?

吾人が日常遭遇する口腔疾患、症候群、症候等を挙げてみても大体270種くらいあるといわれている。この中で口腔の内外に現はれる症候、疾患は約220種でその5分の3が非歯性であり、はるかに歯性よりも多い状態である。而して本邦医師の大半が歯、口、顎疾患状態に関する知識が皆無に近いのが現状である。
一般医師が歯口顎疾患に疎いという事情はことに職を総合病院に奉じている者のひとしく体験するところである。しからば以上の疾病を誰がこれを担当しなければならないか、もちろん我々歯科専門医がこれを担当するのが義務であり、われわれ歯科専門家がいかに一般医学的素養を必要とするかこの点で判明すると思う。
今後帝国が大東亜12億の医療ならびに保健を指導しなければならない立場より考えても歯科医師という医にして実際はしからず、むしろ技工師に近い変態的な機構は断然廃止すべきである。
現在のような機構では結局補綴第一主義となりやすく、歯科学がいくら医学的に進歩しても到底職域を通じて奉公の完遂は難しいと考えられる。ゆえに歯科医育を直ちに改変して医師としての歯科専門医をつくるなり、歯科医師より医師となり得る道を開拓するも良し、早急にできえないとすれば歯科医師にして一定の補習教育を受けたるものは歯口顎専門医として認めるような機構にすることが目下の急務であると信ずる次第である。
舟生秀夫「歯口顎科専門医を確立せよ」、1942年10月発行「臨床歯科」)

上は昭和17年(1942年)、医歯一元化運動の真っ最中に発表された文章である。数字はともかく、大意は今読んでも古びていない。ということは、当時から歯科をめぐる状況はほぼ変化がないということである。ちなみに、当時の歯科医育機関で一元化に反対していたのは東京歯科医学専門学校(今の東京歯科大学)のみで、他はすべて一元化に賛成であった。

今の20歳の子はもんじゅ事故のときには生まれてない

6月27日に開催された第16回原子力科学技術委員会より、八木絵香・大阪大学COデザインセンター准教授の発言。

この「もんじゅ」のあれこれに言いたいことは山のようにあるのですが、この文章の中身という意味ではなくて、やっぱり考えなければいけないのは、今、山口先生(引用者註:山口彰・東京大学大学院工学系研究科教授)がおっしゃったようなことも含めてなんですが、多分、そもそもナトリウムということを知っている人はまれですし、既に、今の20歳の子はもんじゅ事故のときには生まれてないわけですよね。学生はほとんどそもそも「もんじゅ」を認識させるのがもう既に大変な状況にあります、工学部の学生であっても。


もんじゅのナトリウム漏洩火災事故は1995年、ハタチの子には伝説レベルの話らしい。そりゃそうだろう――リアルタイムで事故を知っわたくしにしたって、雲をつかむような話なのだから。
もんじゅをどうすべきかは、20歳以下の人たちに判断してもらうほうがいいのかもしれない。カネを出すのは、若い人たちだろうから。維持するにしろ、廃炉にするにしろ、かなりの費用を長期間出し続けなければいけないのは確実なのだから。

圧迫

佐藤運雄は東洋歯科医学校(後の日本大学歯学部)の創設者である。

金井喜平治
佐藤先生は大正4年秋から5年春頃、試験委員(引用者註:文部省歯科医術開業試験委員)を辞任しましてから東洋歯科医学校を創められた。

横地秀雄
そこで佐藤先生が学校を創めたというので圧迫が始まった。

司会(鈴木勝
その“圧迫”というのはどういうことですか。たとえばその時には水道橋にも富士見町にも夜学があった。で、そういうなかで東洋を開いたことの反響は、どうだったんでしょう? 佐藤先生がつくられたことについては、なにか多少センセーションを起したんでしょうか。

横地
うん、向こうじゃ佐藤のやつ、きっと困っているんだから、いい気味だ、ぐらいのものですね。今日のような「世界の日本大学歯学部」の時代では想像さえできないことだが、なんたって両雄の谷間ではじめた学校だものね。意地悪さはひどいものだった。だから先生は怒っちゃったんだよ。

司会
それで、われわれが入学したのが大正12年ですけれど、その頃は、学則にも、いわゆる「医学的歯科教育」ということを唱っておられましたが、あれは創立当時から、そういうことがあったんですね。

横地
ええ、ええ、たいしたもんですよ。その意味においては。もう、なんていったらいいか説明しにくいんですが。その当時の新聞、雑誌を見てもらうとわかりますが、迷論の非常に多かった、やかましい時代でした。佐藤は手に負えないとなると、すぐ帝国大学へ行って今度は石原攻撃をやって話題をまきちらしたものです。歯科は「医学の1分科」だという論説も盛んなものでした。
(座談会「東洋歯科医学校の追憶」、日本大学歯学部六十年史)

大正12年の「歯科医師の医師資格獲得制度」運動では、帝大歯科部の石原久が「血脇守之助、中原市五郎両氏を中心とする団体」に攻撃され、早くから一元論を唱えていた佐藤運雄がまったく表に出ないことが奇妙ではあった。上記によれば、佐藤運雄は「手に負えない」印象を与えて難を逃れたようである。「当時の新聞、雑誌」をみると石原久は積極的に議論に参加して主張しているわけではなくむしろヘタレな印象があるのだが、批判の矢面に立っただけでもエラかったのかも。官僚学者にしてはだが。

佐藤運雄の医歯一元論

佐藤運雄(1879-1964)の医歯一元論。

明治38年3月:
義歯術とは歯冠の喪失によって生じる空間を人工材料で填塞する方法であり、一定の模型があればまた患者に直接触れることなくつくることができる。
充填術とは歯牙における欠損を補綴する方法にして直接に患者の口腔によるのでなければ施すことはできない。
前者は製造所あるいは技術室においても、またこれを調整することができるといえども、後者は病院あるいは治療室でなければこれを施行することはできない。前者は純粋工芸科学に近く、後者は純粋医学である。
しかるにこれを世の歯科医に照らし合わせるに充填術を単に一小技術となし、いたずらにその外貌あるいは維持にのみ焦慮し、あえて疾病の所置あるいは予防に苦心するものは少ない。またひるがえってこれを世の医師にみるに、抜歯を知っていても歯牙充填の何たるかを解するもの極めて多からず、これをどうして嘆かないでいられようか。
ゆえにこれを現時の状態より考えるに、歯科学はなお少しく医化し学理化する必要があり、一般医学はこれに歯化し技術科するの道を与えなければならない。
(「充填学」より自序)

明治40年3月:
考えるに医学的基礎を有せざる歯科学は浅はかにして技工に傾きやすく、同時に技術趣味を無視する歯科学もまた健全なるものとは称しがたく、特長を失っているものである。
医学的基礎と技術的趣味と相調和して初めて理想的歯科学を得ることに近づくだろう。
(「歯科学通論. 前」より自序)

大正3年初春:
吾人歯牙を観るに3法あり。歯牙を独立の一器官として視るのがその1、歯牙を口腔の一器官として視るのがその2、そして歯牙を身体の一器官として視るのがその3である。
第1法は歯科学のなお幼稚なる時代においてもっぱら行われていた観察であり、小豆大の齲窩をもって天地となし、その周囲関係あるいは全身的影響のごときは顧みなかったのである。
第2法は歯牙の周囲関係がようやく認識されて初めて実施された観察であり、極めて自然の数である。まさに歯科学における一段の進歩というべきであり、口腔外科学が歯科学の一要課目として承認されたのはまさにこの結果に他ならないのである。
しかし、吾人は歯牙をもって単に隣接組織に対して周囲関係を有するものとのみ考えることはできない、歯牙はさらに全身状態と至大の相互的関係を有するものであるのを知らなければならない、これすなわち第3法の観察である。
現時斯界の一般的趨勢を見るに小豆大の齲窩をもってわが領土となすものまた多からずといえども、口腔をもって独立した己が王国であると考え、全身的関係の如きはこれをおいて問わないものがかえって多いこと、憂うべき現象であろう。
考えてもみよ歯牙は全身の一器官ではないのか。歯科学は医学の一分科ではないのか。であれば、吾人の歯牙を観ることよろしく全身的にならなければならない、医学的にならなければならない理由は、自ずから明らかである。
(「歯科診断学」より自序)

佐藤運雄は、帝国大学初の歯科医師資格を持つ職員である。
帝大講師時代は東京歯科医専講師も兼業していて、奥村鶴吉と同僚であったが両者の仲は悪かった。で、結局奥村が残り、佐藤が去る。奥村は医歯二元論者で、昭和の医歯一元化運動の頃には二元論の牙城としての東歯を実質的に仕切っていた。佐藤運雄との不仲は、イデオロギー的なものだったのか。

検定出と歯科医専出とを差別する

大正12年1月25日に衆議院に「齒科醫師より醫師たり得へき特別法制定の件」を請願した東大歯科医局員・稲生浚は、“昭和の医歯一元化論争”の最中、こう記している。稲生浚は歯科医師で薬剤師。なお、稲生“俊”と標記している媒体もあり。

わが歯科医師を検定出と歯科医専出とを差別するかのごとき意味を言外に含めるような言辞をもらす輩があるはずはないが、万一あってはもってのほかだから一言する。
(稲生浚「検定試験」、1942(昭和17)年10月1日発行「歯科公報」より「明日への論題」)

そういう「輩」は、しかし多そうではある。血脇守之助が医歯一元論に反対するのは血脇が検定出だからだ――という文章も出た。

歯専出は中等学校卒業者に決っているが、検定出は小学尋常科あるいは高等科卒業、中等学校卒業または高等専門学校卒業者等各階級を請願していると同時に、苦学奮闘者である事は争われぬ事実である。
検定試験というものは歯科に限らず困難の伴うもので、中学卒業の検定試験は中学卒業免状所有者でも仲々困難だとされている。毎年徴兵検査の壮丁が大略、国民学校高等科卒業の免状を所有しているが、実力は尋常科卒業あるいはこれより劣る者も相当にあるとの事だから、いかに検定試験が困難であるかは想像できる。
わが医界でも、世界的医学者野口英世氏も小学校を卒業して医師検定試験に合格した事はあまねく吾人の知るところであり、また血脇守之助、花澤鼎、奥村鶴吉、遠藤至六郎、小野寅之助、佐藤運雄、中原市五郎、加藤清治の諸氏はわが国歯科界の重鎮なるが、皆検定試験合格者である。その他知名の士で検定出身者は枚挙に暇ななきほどである。

この時代の「歯科界の重鎮」はほとんど検定出であった。ここに名の出た「佐藤運雄」は早くからの一元論者であるし。

医師が歯科を標榜するには、たった1ヶ年間漢方医でも、検定出でも、また学校出でも歯科学を専攻すれば自由に起業ができる制度だ。わが歯科医師も医学の不足分を2ヶ年専攻して後「検定試験」を受けて医師となり得る道を拓き一般民衆に対して福利の増進を計ることができるようになれば、吾人の目的たる衛生報国はすでに足りるのではないか。


この時代にも「検定試験」はあるのだが、形骸化していた。文部省のお墨付きを得れば、医専や歯科医専卒業者は自動的に医師や歯科医師の免許が取得できたのである。ということは、医育機関の発言力も今より強かったのか。

昭和18年の「動物園非常処置要綱」

本日8月16日は、動物園非常処置要綱が東京都より、上野動物園に発令された日である。
同要綱は動物園で飼育されていた猛獣の処分方法を示したもので、方法自体は上野動物園が陸軍の要請により作製・提出していた(その後、その他動物園も上野動物園に続いて作製・提出)。実際に発令され、実施されたのは昭和18年。
当時上野動物園の園長代理であった福田三郎は、この殺処分について以下のように記録している。

一ヶ月以内に、毒殺せよということだった。銃殺は、音がするため、世間の人々を不安にさせるから禁じられた。公園課長は、「戦局が悪化したわけではないが、万一にそなえて……」と説明した。
翌朝、出勤後すぐ全員を集め、昨日の命令を伝え、秘密を守るために、このことは家族にも話さぬようにとつけくわえた。
この日から連日、閉園後に幾頭かの猛獣が毒殺された。薬は硝酸ストリキーネを使用した。始めにやったのは、ホクマンヒグマの雌で、ふかしたさつまいもに3gの薬をまぜて与えると直ちに食べた。1、2分で四肢にけいれんをおこし、立っていられなくなって倒れ、もがき苦しむこと22分間で息が絶えた。
夏の盛りなので腐敗を防ぐためにも、また、世間の人の目をさけるためにも、殺した動物は、陸軍獣医学校に運び、解剖された。
ところで、動物たちは、薬によって殺されたものばかりではなかった。いや、むしろ薬だけで死んだものは割合に少なく、多くは、なかなか毒物を食べようとしなかったり、意外に薬の量が少なすぎたりで、容易に死にきれなかった。それで、他のいろいろな方法で、殺さざるを得なかった。このことは、あまりにむごいことでもあるので今日まで、実は発表しなかった。

ニシキヘビ
生きているヤギ、ニワトリなどを常食としているので、餌に毒物を入れて与えることは不可能のため、絞殺することにした。まず、頭部に細紐を巻き(檻の鉄柵の間から入れて巻きつけようとしてもいやがって、首を動かすので容易には巻きつかなかった)、数人で引張ったら、柵のところまできた。そこで解剖刀で頸礎部を切断した10分後に呼吸が止まったが、その間頸を切られたのに、長く太い胴体は、ドジョウのように、くねくねと動きまわっていた。その後すぐ、心臓部を摘出し、解剖台の上に置いたが、その後1時間半鼓動をつづけていた。

◇ニホングマ
3日間絶食させたが、少しも疲労した様子がない。8月21日夕刻、寝ているところを、首にロープを巻こうとしたが、なかなかできず、30分以上苦心の末、やっと巻きつき、数人で引っ張って、窒息死させた。その間、15分。

◇クロヒョウ
先端がワイヤーロープになっている3m余りの棒のついたひっくくりわなで、首をしめ、4分30秒で絶命。

◇アカヒョウ、シロクマ
馬肉に硝ストをまぜて与えたが、食べようとしない。クロヒョウと同様、絞殺する。5分間で絶命。

ガラガラヘビ
8月26日午後6時半、針金で頭部を突き刺して後、灼けた針金を首に巻きつけて引張ったが、死なず、翌朝になって、頸部に細紐をぐるぐる巻いて、午前10時半ようやく死亡。

ライオン雌(エチオピヤ産)
16日絶食、17日半減、18日半減、19日から連日絶食の後、8月22日午後6時5分硝スト3gをウマの肉に入れて与える。にがいのかすぐ吐き出す。さらに12gを分与したが全然食べず。全量の半分は肉とともにのみこんだと思われる頃、40分に、第1回筋肉強直収縮の発作がおこり、42分転倒、四肢をふるわせて苦悶、45分再び発作3分間の後、起き上がる反射機能なく興奮する。58分、第2回強直発作あり、呼吸促進転倒、けいれん発作、苦悶甚だしかったので、7時33分、心臓部を槍で刺す。35分第2回穿刺、40分に反射機能停止、麻痺をおこし始め刺激に応ぜず、末梢神経麻痺、42分瞳孔散大、呼吸停止、絶命する。所要時間1時間37分。

ゾウ
当時、ゾウは、ジョン、花子、トンキーの3頭がいた。ジョンは性格が粗暴で、万一の場合は危険なので、前もって課長と相談し、絶食をさせていた。花子も処置せねばならぬ対象に含まれていたが、一番年齢が小さく、利口で芸が上手で、おとなしいトンキーだけは、なんとか殺さずにすなまいかと考えていた。ちょうどその頃、仙台動物園ではゾウ舎ができたが、ゾウがいないということだったので、トンキーを疎開させることになり、井下課長、古賀氏とそれに私の3人で会った16日に、承諾を得ていた。23日に田端駅へ行き、仙台までのゾウの運搬代130円、貨車内の修理は50円、付添人1人なら3円。夕刻上野駅を出発すれば翌日の正午に着くなど、打合わせをした。一方、上野警察署へ行って、ゾウを駅まで歩かせる許可をもらった。
仙台から引取りに石井是順氏が上京、一緒に都長官に会いに行くと、課長はその前に都長官に話したところ一蹴されたことを心苦しそうに語った。
じゃがいもを1個ずつ投げ与え、その次に青酸カリの入ったのを与えると、すぐわかって投げかえしてきた。何度くり返しても、ゾウは決して毒の入ったじゃがいもを食べようとしなかった。
注射は最も皮のうすい部分である耳のうしろにやっても、針が折れて、目的を達することができなかった。
動物園としては、もう絶食以外、つまり餓死させる以外に方法はなかった。ゾウの多量の餌が、他の動物たちの食糧にまわせることも、当時の動物園では重大なことの一つであったのだ。
ジョンは8月13日から絶食開始、17日目に左側横臥、肛門開口、瞳孔散大の状態で絶命。花子は絶食以来、2、3回便通があっただけだった。これは飲料水の欠乏のため頑固な便秘を来たし、糞として排泄されるべき体内の老廃物やガスが腸などの器官にたまり、これが血液中に吸収されて自家中毒をおこしたのだろう。トンキーよりも早く9月11日の午後9時25分についに死亡した。
一番かわいかったトンキーにも絶食の日がつづいた。ゾウ室へ入っていくと、空腹の体をおこし、両前肢を上げて、チンチンのかっこうをしてみせる。芸をやらせていたとき、上手にすれば、バナナなどをもらえたことを知っているのだ。体に触れると、肉のおとろえがはっきりとわかる。8月25日に花子と同じく絶食を開始したのに、トンキーは元気であった。ゾウの係の菅谷さんが、かくれて時々餌を与えていたようだ。ポケットの中に鼻をつっこんでくるトンキーに、せめて水でもと思い、ついのませてしまう彼の心を責めることはできなかった。
9月4日に処置した動物たちの慰霊祭が行われた。大達都長官も列席した。井下課長は私を呼んで、ゾウが2頭残っていることは、長官には内証にしろといわれた。くじら幕の後側に、やせたトンキーと花子が隠されていた。9月7日、2頭のゾウがあまり衰弱したので観覧させられず、この日から扉を閉めてしまった。
ゾウは健康なときは、ごろりと横臥する。しかし衰弱してくると、柵に寄りかかってでも立っている。
9月11日に花子が死亡すると、トンキーを早くしろと獣医学校の古賀氏から言われた。毒薬の入ったじゃがいもを投げたが食べない。14日に、青酸カリをとかした水を与えたが飲まず、処置を中止した。23日午前2時42分、トンキーは遂に餓死した。
都長官に提出した書類には、毒殺ということにしてあったので、どの猛獣も容易に薬をのんだような印象を受けるが、実際はそんなものではなかった。1カ月の間に8kg近く体重が減った。私だけでなく、当時動物園にいた者はみなそうだった。自分の係の動物が殺される当日、欠勤してしまう人もいた。眠っていても、動物たちが夢に出てきて熟睡できない日々がつづいた。25年経った今日でも、27頭の“あいつたち”のことは、決して忘れてはいない。
福田三郎「実録 上野動物園」 (1968年)

ひどい話で、号泣しながら読む。
ところで、戦争で人間がヒドイ目に遭う話よりも、動物がヒドイ目に遭う話のほうがツライんだがなぜなんだろうか。映画「戦火の馬」(スピルバーグ監督)も、戦争中に馬がヒドイ目に遭う話なので自分は全然楽しめなかった。子供向けの美談とかいう触れ込みだったが。DVDを見終わった後、泣きながら真心ブラザースの「人間はもう終わりだ」を大音量でかけ、人間なんて皆死ねばいいぐらいに思ったものである。

女と乱世

吉沢久子の日記より昭和20年8月15日の記録。著者は1918年生まれ、今も健在の評論家。
いわゆる玉音放送にショックを受けて、宮城を襲撃したり、集団自決をした人々もあったのだが。

8月15日
晴れ、5時20分、艦載機来襲警報。
7時21分、特別に今日正午より、天皇陛下の御放送あることを告げる。いよいよ、陛下おんみずからのお言葉として事態を解決せられるのだ。陛下のお心を思い、思わず涙が出る。
道をあるけば、ひそひそと話している声、なんとなく耳にいる。戦争が終ったらどうなるかということがそのすべてである。今朝おとなりのおばあさんが、「戦争が終ったら、甘いほんとのお砂糖をいれたお萩をつくってやるよ」とお孫さんにいっていたのが頭に浮かんでくる。
(吉沢久子「終戦まで」、昭和戦争文学全集14「市民の日記」1965

著者は当時都内に在住の主婦。この日記によると、いわゆる玉音放送が終戦の告知だということは一般都民には――おばあさんですら――わかっていたという。そうなのか。ちなみに、私の母方の祖父は軍(土浦)にいたので8月14日にはポツダム宣言受諾を知っており、その日に仲間と別れの盃を交したそうである。都内だと、軍経由の情報などが一部の人(疎開せず、残らねばならなかった人たちである)には伝わったりしたのかも。
一方、同じく東京在住の女性銀行事務員は、「戦争も『やめられる』ものであったのかという発見」に驚いている。

私には戦争という者が永久につづく冬のような(そんなものは実際にありはしないのだが)天然現象であり、人間の力ではやめられないもののような気がしていたのだ。それは愚かしい錯覚であったが、当時の私はそれほど政治について無知であり、国家には絶対に服従するものと考えていたからだ。
(北山みね「人間魂は滅びない」、同)

当時22歳であった著者が、戦争を「永久につづく」ものと感じていた、というのもわかる。なにせ日本は15年も戦争をやっていたのである。著者は「政治について無知」なのではなく、恐らくは、平和がどんな状態なのか知らなかった。時流に流されず、戦争が終れば甘いおハギがつくれる、とわかっていた「おとなりのおばあさん」の地に足の着いた感覚が素晴らしいし、こういう人こそ真の賢者だと思う。かくありたし。





昭和18年、歯科医師たちのみそぎ

昭和18年、日本歯科医師会は厚生大臣の命により、「皇国医人として責務と信念とを強からしめ」んとして、5ヵ年計画の補習教育を実施している。
補習教育は講義、そして「合宿制度の下、朝夕起居の間練成により心身を鍛錬し精神の修養を行い、真に皇国医人たるの人格を陶冶せん」とする練成とが、セットであった。
この練成――「福井県歯科医師会史に写真が掲載されていたが、とてもキツそうである。

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▲練成風景。出典:福井県歯科医師会史

明治、大正の頃の歯科医師の写真を見ると、整えられたヒゲにフロックコートなどのモダンでハイカラな人が多い。が、大東亜・太平洋戦争時代の歯科医師は、白ふんどしいっちょの裸体で滝に打たれたりしていたのであった。

補習教育は全国を11ブロックにわけて行われた。北陸ブロックでは、第6回補習教育講習会として昭和18(1943)年9月5日から8日まで、石川県石川郡河内村(現・石川郡鶴木町)の白山塾道場(白山比弯声境内)にて実施され、参加人数は計93人。

この間、心身の練成として神社境内斉館で連日行われた“みそぎ”は参加者を苦しめたが、冷水を浴びながらも懸命に修行につとめた。しかも食卓に出された食事は、困苦欠乏に耐えろとの意味から、毎食塩がゆ1ぱいと南瓜2切、梅干1個であった。
こうした3日間の講習で、ほとんどの講者者はやせ衰えたという。
(福井県歯科医師会史)

ほぼ断食道場。しかも、日中は講義がある。倒れた人はいなかったのか。

皇国医人としての厳しい補習教育講習は、国民医療法の趣旨にのっとって全国的に実施されていった。しかし、B29の本土空襲、米軍の進攻によって当初の計画は中断された。


とにかくイヤな時代だ。しかも、イヤそうな顔をしただけで非国民とかいわれる時代なのである。あーイヤだイヤだ。

血脇氏の優越感の始末の悪さ

歯科商業誌に掲載された血脇守之助評。

目下医・歯一元論と二元論の存在は結局一元論者の大局的忍耐と政治性の乏しさによるとはいえ、血脇氏の優越感の始末の悪さに帰せねばならぬ。血脇氏のこの自尊心さえ好処置を得れば事は済むのである。一元論の良策なることぐらいわかりきっている人である。世の中が単純に理論どおりに行かぬのもそこにある。宗教、道徳、法律がいかに発達しても、戦争の果てしないのもそこにある。
(歯界琴、1942年10月21日発行「歯科公報」)

東京歯科医専側はこの手の批判、挑発、いちゃもんの類はガン無視したもよう。「東京歯科大学百年史」にも一切触れられていないのには驚く。

長崎への原爆投下

1945年の本日8月9日午前11時、アメリカ軍により長崎市に原子爆弾が投下された。防空総本部は8月11日に「新型爆弾に対する心得」を発表、いわく「一、落下傘のようなものが降下するから、これを目撃したら確実に退避すること」……。

長崎、広島に急激に狂人が増加しつつある。広島もやはり一発だという。長崎の死者は一発で10万、残りの人間も、死者と狂人に変化しつつある模様、原子爆弾を使用された土地は70年間、植物も動物も存在を許されない。土中に放射能というものが残っていて、それが生物に悪く作用するのだそうである。アメリカでは、すでに3年前から試作ずみという。3年前から、――
(8月14日の日記、一色次郎「日本空襲記」)

一色次郎は西日本新聞社に勤務していた。情報は、しかし、一般には流さなかったようだ。流せなかったのか。
刊行されている当時の日記を見ても、長崎への原爆投下に関する記述は広島のそれよりも明らかに少ない。ほとんど無視である。ソ連参戦(9日未明)の衝撃に食われたか、ただ報道が極端に少なかったからか。

15日(水) 炎天
〇帝国ツイニ敵ニ屈ス。
(8月15日の日記、山田風太郎「戦中派不戦日記」)


歯科商業誌に掲載された血脇守之助評

歯科商業誌に掲載された血脇守之助評。
一体血脇会長が内務省以来歴代の衛生局長の信任を得ておられたことは想像以上のものがある。今日までの全歯界の向上は、日歯会長血脇氏の一身にかかっていたのであるから、あらゆる方面で氏の信用を高めるためにはけだし偉大なる努力が払われたものであって、筆舌に尽くせないであろう。だから「日本医師会長は代っても日本歯科医師会長はやはり血脇さんにお願いする」と噂されたのもむしろ当然であるが、惜しいかな、血脇さんの本心でなかったにせよ、聨合同窓報国大会を東歯同窓会会頭と日本歯科医師会長の2つの権力を濫用して、警察官を巧みに利用して開催を圧迫しようとしたことは一面関係者をあきれさせ、他面では東歯以外の同窓の結束を余儀なくせしめた。大阪歯科同窓会も東歯同窓会と同窓聨合会との調停に立たれたが、東歯の頑迷にあきれて調停の手を近くは引かれたというが、まさに血脇氏の一失であった。
(S・W生「医界思潮」、1942年10月21日発行「歯科公報」)

昭和17年に国民医療法が施行され、従来の医師法および歯科医師法が廃止されると、歯科界を医歯一元論が席巻する。医歯一元論とは、歯科医師を身分法としても医師の範囲とし、“歯科を専門とする専門医”にするべきだとする主張である。戦況の激しいなかで軍医の需要が増し、さらに国民皆兵政策により予防医学への注目が高まるなか、口腔に限定された歯科医師の業務範囲では「報国」不可能だ――とする声が社会に高まってきた、その結果が医歯一元化運動であった。
歯科医師を“歯科を専門とする専門医”たらしめるには、当然ながら教育段階からの刷新が必要である。東京歯科医専以外の全歯科医育機関が「聨合同窓会」を結成して論陣を張る一方、東歯はひとり現状維持を主張し、孤立した。しかし、当時の東歯役員は日本歯科医師会の中枢を占めており、東歯は歯科界屈指の権力機構ともいえる。聨合同窓会が一元化運動を推進するシンポジウム「聨合同窓報国大会」の開催を計画すると、東歯は警察を巻き込んでの妨害活動を行うのだが、それは日本歯科医師会という権力をカサにきたものであった。

血脇氏の威光が新日歯会長当然なりと過信せしめ、慶大教授岡田満氏すら同大学医科大学生講義に日歯会長は血脇氏に定っていると明言したり、その他るる公開および非公開の席で某局長の言葉(前記の)として発表されていたので、歯科界の新体制は全国的に進展するどころか、下部組織ないしは会員は強力に新体制に突貫したが、肝心な指導層が反対に旧体制を固守して、バスの乗損じを今さら哀嘆している始末である。かようにわが歯界の新体制認識ないし即応体制がはなはだ遅れたことならびに内部抗争の激化は、冒頭に書いたように加藤さんとの不思議な因縁が一つの起点となり、百千の結果を喚起したのだと断じている向きもあるが、うなずけないものでもない。


「某局長」「加藤さん」とは加藤於兎丸・元厚生省衛生局長のこと。加藤は当時、宮城県知事。加藤於兎丸の妻が血脇守之助の妻と同窓で、親しかったそうである。

広島への原爆投下

1945年の本日8月6日午前8時15分、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下された。
当時の一般市民がこれを知ったのは8月8日。

〇広島空襲に関する大本営発表。
来襲せる敵は少数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に委せて黙せし大本営が、今次少数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。「相当の窓外あり」といい「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。嘗てなき表現なり。いかなるものなりや。
(山田風太郎「戦中派不戦日記」)

8月10日夜、山陰本線で広島駅を通過した一色次郎の記録。

広島は不気味に静まりかえっていた。ここは6日だから福山より2日早い(引用者註:福山は8月8日午後10時30分ごろから空襲されている)。それでも、野火のような炎が、ところどころに光っていた。10分間停車なので、窓から降りてプラットホームを歩いてみた。駅のコンクリートの建物が空洞になり、なまぐさい、吐気の出そうな悪習が夜の空気の中に充満している。屍臭であった。(略)
私の席の近くから、広島でふたり降り、またふたり乗った。広島高師の学生であった。当日は広島市から1里半ばかりはなれた部落へ働きに出ていたので、思いがけない命拾いをしたのだそうだ。そのあたりですら、爆風は家々の窓ガラスを吹き抜け、その破片で負傷した人もすくなくなかったと言っていた。
学生の話を聞いている間に、川をふたつ渡った。川面には、銀河のかげが光っている。南の窓に、北がわの窓に、福山より2日早かったはずの炎はまだ血の色で燃えている。
「ここも、まだ広島ですか」
私は二度も、おなじことを学生に聞いた。これもやはり、たった一発の、原子爆弾の火なのかとおどろいたのだ。
(一色次郎「日本空襲記」)

一色次郎はこの後、下関で新聞を読み、「長崎に新型爆弾」が落とされたのを知る。

大本営発表でなく、西部軍管区司令部が9日の14時45分に発表したのを掲載しているのであった。
「一、8月9日午前11時ごろ敵大型2機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。ニ、詳細目下調査中なるも、被害は極めて僅少なる見込み」


ホントに被害を僅少と見込んでいたのか、それともパニックを恐れてそう発表したのかはわからない。

哀しみの血脇完之助

日本人が不足している!
共栄圏の指導者となるべき日本人はある学者にいわせると1億400万が必要であるという。これが大東亜共栄圏に適正に配置されなければならぬといわれている。けれども現在7千余万の日本人をこの大戦争遂行のうちに直ちに増加させることは困難である。そこで現在ある人口を増強して行く方策が講ぜられねばならぬのであって、今回提出された国民医療法案、体力法改正、健康保険法改正等はこの目的のためなのである。
議会に現われた「大東亜」の構想、1942年1月25日付東京日日新聞)

出生率UPはもちろんのこと、高死亡率を何とかしよう!
というわけで1942年、国民医療法により医療の公営化を目的とした特殊法人「日本医療団」が設立された。ちなみにニホン医療団ではなく、ニッポン医療団と読む(後述)。
日本医療団の主なミッションは、

500床の総合病院2件、250床の道府県病院47件、50床の地方総合病院588件、無医村(当時約3600あった)を中心に地方診療所または地方出張診療所を設置する
結核療養所を5年間で10万床増設する

などであった。これらをすべて国営でやるのである。

日本医療団設立委員(昭和17年4月17日任命発令)の名簿を見ると、

日本医療団設立委員
▲下から2番目……血脇完之助?

日本歯科医師会会長・血脇守之助の名前が間違っている(出典は日本医療団史)。
そして日本医療団の機関紙をみると、
日本医療団の名称と呼称について

名は本体を象徴するものである。
自ら自分の名前を間違って書いたり言ったりするとは、どんなに辱しいことか。他人からそれを誤られることは、どんなに悲しいことか。
(略)
ニホン医療営団などは、在りませんから御注意。(ま)
(日本医療団情報第2輯 昭和18年2月発行)

などとあって、思わず失笑。ニッポン医療団としては歯科なんざどうでも良かったのだろうか。もしくは、ニホン歯科医師会が国策協力に熱心でなかったか。ちなみにこの頃歯科界は“医療報国”のための医歯一元化運動が盛んであった時期であるが、日本歯科医師会および東京歯科医専はまったく聞く耳をもっていなかった。日本の全組織が国策のために奔走していた時期、日歯は昂然とわが道を行っていたといえるのかもしれない。

なお、日本医療団は昭和22年1月に解散が決定、11月に解散している。昭和22年10月31日時点で日本医療団が経営していた医療施設は51支部(消失した占領下の沖縄県支部を除く)、408ヶ所に及んでいた。

日本医療団解散時職員数
▲解散時の職員数(日本医療団史)。職員総数5330人のうち、「歯科医員」は20人――少ない。

日本医療団の解散による残務処理(財産処分など)が終ったのは、昭和52年。30年も後始末にかかったのであった。

哀しみの朱脇守助

松宮誠一「血脇守之助伝」(1979年)によると、

守之助は大正末期から昭和30年までの間、内務省衛生局後には厚生省所管の医療制度、医療行政に関連する各種審議会ないし調査委員会の有力メンバーとして活躍を続けていた。その中でも特に昭和13年6月30日、官制が公布、7月1日設置された医薬制度調査会は医育制度、医療制度の基本にかかわる重要問題を審議し、この調査会に同じく委員として列席していた奥村鶴吉と共に心労を重ねた。

ということなので、医薬制度調査会発足を伝える昭和13年7月1日大阪朝日新聞の記事を見る。
しかしメンバーの中に血脇守之助の名前は見当たらず。

委員
▲医薬制度調査会の委員。
ちなみに、委員中の「吉田茂」は内務官僚で、外務官僚かつ後の首相となる吉田茂とは別人であった。米内内閣で厚相、東条内閣で福岡県知事、小磯内閣で軍需相を勤めている。

朱脇
▲……朱脇守助?

血脇守之助――当時の日本歯科医師会会長の名前は、なぜかあちこちで間違われまくっているのであった。何ゆえだ。

血脇守之助が主張した医歯二元論

松宮誠一「血脇守之助伝」(1979年)より、明治28年6月の日本医事週報にて血脇守之助が主張した医歯二元論。

その(引用者註:歯科医術の)範囲の及ぶところ、多くは頸部以上を出ず、内外科、産科、眼科等の一般に通暁しなければ、歯牙の治療に従事することは出来ぬという憂はなく、一般医学の大体に通じて、歯科医術に精通すれば足るのである。


つまり歯科医師の診療範囲は首から上だけ、特にそのメインは「歯牙の治療」であるから一般医学はほぼ関係ない、よって養成課程も医師と歯科医師は別でいい――というわけであろう。
この伝記の著書は、血脇の主張の背景を以下のように解説するのだが、

明治28年6月当時では、実際の国民の歯科医療を担当していたものは、入歯、歯抜、口中療治、営業者の類が多く、いわゆる歯科医の社会的地位は極めて低く見られていたので、指導的立場に立つ人は、如何にしてその地位を上げるかについて苦慮していた。そのためにはどのような教育制度、教育内容が必要かということに識者の関心が集中し、この時から約10年後にまず最初の論争が行なわれ、歯科教育における医歯一元論、二元論の論争が始まった。この論争は歯科医師法制定の頃には一度下火となったが、大正時代、昭和時代にも再燃している。しかし時代が進むにつれて、歯科医の社会的地位を一般医と同等にあげるためというよりも、歯学の本来の在り方をめぐる論争、あるいは業務範囲の限界に関する論争、それに歯科界の政治的勢力圏が関与した論争の性格が強くなった。


血脇がなぜ、二元論こそ歯科医師の「地位を上げる」と判断したのかは結局、わからない。歯科医師と入歯師の違いはあるのか? という世間の疑問に対して、血脇は、そして歯科界は、納得できる答えを出しはしなかった。だからこそ医歯一元論・二元論は「大正時代、昭和時代にも再燃」するのである。大日本歯科技工師会(花桐界)あって政治力で潰すほかないわけである。
ただし、血脇が歯科医専経営者として二元論にこだわった理由、これはわかりやすい。医科歯科が統合されれば歯科医専はもちろん、廃止になるからである。血脇が目指していた歯科の単科大学の設立も実現できないからである。

本学は、守之助の志を継承して一貫して二元論の立場をとり続けてきた。その努力は、今日の歯科界繁栄の基礎をきずいたものとして興味深い。

二元論の立場こそ「今日の歯科界の繁栄の基礎」だそうだ。70年代はまだ、この種の言葉も通用したようである。

東京が空襲された際の緊急医療活動

米国戦略爆撃調査団報告書にて報告された、東京が空襲された際の緊急医療活動について。

職員――正規の救護所の編成は医師3、歯科医師2、薬剤師1および助手10(この大部分は看護婦と助産婦)であった。1944年11月1日現在の救護所の職員の数は次の通り。
医師……4,074
看護婦……5,330
歯科医師……2,018
薬剤師……1,168
助産婦……2,374
公衆衛生看護婦……8
その他……555
(東京地区の空襲防護と関連事項に関する現地報告、米国戦略爆撃調査団報告書No.4、東京戦災誌第5巻)

歯科医師の割合が高い。歯科医師を医師に転用する制度があったのは妥当であった。
「公衆衛生看護婦」とは、保健婦のことだろう。地方では戦場に行った医師の代わりに注射も打ってたらしいが、東京にはそれほどいなかったようだ。
ちなみに、この報告書の日本訳はエラくまずい(原文は英語)。手前で調査やってないから仕方ないのか、と卑屈な気持ちになりながら読む。降伏調印を行ったミズーリ号にはスペシャリスト・オブ日本もワンサと載せられていて、彼らがペラペラと日本を研究した成果のひとつがコレなんである。敵性言語とか言い出した時点で日本の負けは必須だったと痛感せざるを得ない。

これらの数字には警察管下のこの種職員(日常の救護活動として現場において直接応急手当を行なう)を含んでいない。医師が救護所任務に登録された程度の標示としての人数は東京都内の医師総数8905(その中の多数は年齢その他で不適格であった)に比して4074であった。空襲前の看護婦の総数は2万6200であったが、1945年9月1日の数は3600に減少し、一方開業医の数は8905から2176に減少、また歯科医師の数は5491から1632に減じていた。この差は死傷を示すものと推定すべきでなく、むしろより目標地域外の静穏な地方への疎開を示していた。
(略)
3月10日の大空襲における重傷者は5023、軽傷者は9万7033と報告されている。重傷者は本来病院のための問題であり、一方軽傷者は主として救護所の患者であった。数時間中に救護所に投げ込まれた巨大な数は、救護設備の思い切った削減、救護所員の減少およびすべての中における全くの混乱と共に、消耗疲労した救護関係部隊につきつけられた不可能な仕事を表現して居る。
しかしながら、45年9月1日と空襲開始以前との医師と看護婦とを比較した前出の数字は目標地域からの莫大な人数の脱出の証拠であるけれども、大震災の時においても一般大衆にも救護関係者にもヒステリーの状態を示すような証拠は全く見られなかった。
終戦後彼らは多数帰って来たといわれているが、どの程度までかを示す記録は何も残っていない。要するに、救護計画はかなりの程度の空襲に対応するにはまず適当であったが、あれ程大きな災害の前に対抗できる組織はないということは言えるであろう。



米国戦略爆撃調査団(United States Strategic Bombing Survey、通称ウズブーズ)は米軍の戦略爆撃(空爆、艦砲射撃)の効果を検証するための陸海軍合同機関。この報告書を読むと、米側が空襲を民間人の無差別殺戮であると認識していることがわかる。たとえば、こんな文章で。
「3月10日の空襲は人命の喪失の点から1923年の関東大震災に次ぐ史上最大の大災害であった。莫大な死亡者数は人びとが逃れる機会のない広大な地域にわたる焼夷弾攻撃であることによる」(傍線引用者)。

緊急医療活動の特徴を表わした「余りに少なくまた余りに遅れた」という言葉に、さらに破滅の道における余りに大きい混乱と余りに大きい物的破壊が加えられるであろう。


「破滅の道」――その通りなんだが、加害者が言うな加害者が。
東京における1945年の大空襲は全7回。各回の死者数は以下。

1月27日 533人
3月4日 659人
3月10日 7万9466人
4月4日 658人
4月13日 1611人
4月16日 839人
5月24日 580人
5月25日 3357人

計8万7703人だが、報告書では8万7753人になっていた。足し算もできないのかよ(逆切れ)。
なお、空襲自体は1944年11月24日を皮切りに、1945年8月13日まで計46回に及び、死者数は8万9419人だった。

渋沢栄一述「回顧五十年〔東京市養育院〕」

明治時代にあって早くも社会科学的見地を持っていた歯科医師・喜多見行正(1990-1967)。喜多見は東京市養育院の児童らに口腔検査を行っているが、

東京市養育院児童口腔検査
東京市養育院児童口腔検査1
▲喜多見行正、東京市養育院児童の口腔検査

検査対象の児童の素性について、調べてみた。

渋沢栄一述「回顧五十年〔東京市養育院〕」によると、同養育院は明治5年、東京市によって設立された「東京府養育院」が前身である。で、東京府養育院設立は明治3年頃、「ある外国の皇族」の来日をきっかけとするものだった。当時の東京にはこじきがワラワラ徘徊していたがこれを東京府は「貴賓に対して礼を欠くし、体裁もよろしくない」として、こじきを「狩り集め」る。狩ったこじきの数は約300人。外国の皇族は帰るのだが、こじきをそのまま解放するのもアレなので、非人頭の車善七に引渡し、その世話をさせた――これが、東京府養育院に進展するのである。人道的な見地、または宗教的な慈悲心から貧民を救おうとかいうたぐいのものでは全然なかったわけである。
なお、江戸時代には勝手に移動したり、宗門人別改帳から外れた人間の身分を落として「非人」としていた。それを明治になってもやっていたのか、と少々驚いたのであるが、身分解放令で非人という身分がなくなるのは明治4年になってからなのであった。「明治は暗い時代であった。その前の慶應も元治も文久もみな暗かったが、それは夜の明けぬ前の暗さで、明治の暗さは夜が明けてからの昏さであった」(島本久恵「明治の女性たち」)というのは、そうなんだろうと思う。
閑話休題。
渋沢栄一が養育院の経営にかかわり、院長として同院の存在意義を「窮民救療」と明確に定義するようになるのは明治7年からである。渋沢栄一といえば幕末生まれの偉人、徳川慶喜の家臣から大蔵省官僚になり、実業家となって500以上の企業を設立した稀代の大実業家である。次の1万円冊の肖像は渋沢になるとわたくしは予想しているが(現在は福沢諭吉)、それはともかく、渋沢は養育院院長となる前から社会活動に熱心な人であった。東京慈恵会や日赤、癩予防協会の設立にもかかわり、聖路加国際病院の初代理事長であるなど、わが国の医療史でも馴染み深い人物である。

さて、そんな渋沢の言を口述筆記した「回顧五十年」には、同養育院「創立以来の入院者累年比較」という図があるのだが、

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▲モノクロでわかりにくい……。

入院者を6タイプに分けてカウントしていた。
すなわち、

窮民:
2年以上東京市の在住者で「廃疾、不具、疾病、心神耗弱および老衰」で生計を立てられない者。収容開始は設立当初の明治5年10月から。

行旅病人(こうりょびょうにん):
病気や飢餓により東京内にて行き倒れたホームレスで、引き取り手のないもの。収容開始は明治16年。収容者中最も多く、常に5割以上を占めていた。

棄児:
東京内にて捨てられた乳児。
明治18年〜大正11年には累計3171人が収容されており、うち出院者1668人(52.6%)、逃亡者122人(3.85%)、死亡者1044人(32.92%)。

遺児:
養育者の死亡または失踪などのため扶養者を失った、13歳未満の児童。明治18年〜大正11年の収容累計は1005人、うち出院者642人(63.88%)、逃亡者28人(2.79%)、死亡者266人(26.46%)。

迷児:
13歳未満で養育者なく、東京を徘徊していた児童ホームレス。明治18年〜大正11年の収容累計は3135人、うち出院者2267人(72.3%)、逃亡者720人(22.97%)、死亡者109人(3.48%)。

感化生:
東京市内の居住者で、8歳以上16歳未満で不良化するおそれのある者。扶養義務者がいるものと、いないものがあった。認知者・警察署長・区長の紹介、または扶養義務者の出願、さらに感化法の規定により府知事より入院を命じられ、収容した。感化法が公布された明治33年に収容開始、大正11年までの収容累計は1426人、うち出院者787人(55.19%)、逃亡者479人(33.59%)、死亡者41人(2.88%)。

喜多見が口腔検査を行ったのは明治41年には3〜20歳の318人、明治44年には3〜16歳の181人であった。従って、遺児、迷子、感化生が中心だったと思われる。明治41年の遺児+迷子+感化生の実際数は320人、明治44年は411人――明治44年は、さすがの喜多見も手が回らなかったのかもしれない。本件は、本来なら国がやるべき大きな社会福祉事業である。もし歯科医師会が主体として進めていれば、歯科医師の社会的地位を高める機縁となっただろうが、喜多見による本件関連の講演は日本歯科医学会で冷たい扱いを受けている。

さて、同養育院のデータでは、棄児や遺児の死亡率の高さが目を引く。
棄児では10人中3人、遺児では同2〜3人以上が死んでいる。高い死亡率は、やはり環境――医療や栄養の絶対的な不足にあったのではないかと思う。この点を見逃さなかった喜多見は、やはり素晴らしい歯科医師であった。

慶應義塾大学医学部歯科学教室

武見太郎が戦前の慶應義塾大学に「歯科の医局員」がいたと記しているので、調べてみた。

まず「慶應義塾百年史」をひもとくと、慶應の医学科は大正6年4月に2年制の予科が発足、その第1回生が大正8年4月に4年制の本科に進んでいる。で、慶應義塾が大学令によって総合大学となったのが、大正9年2月。その医学部の学科目をみると「歯科学及び臨床講義」が含まれ、歯科の「外来患者臨床講義」もある。

慶應義塾大學醫學部二十周年記念誌」(1940)によると、大正9年4月に医学部教授の岡田満が歯科学教室部長になっている。

その主要なる設備としては東部1室を患者控室および口腔衛生準備室とし、次の1室を治療室とし、治療椅子は鉄骨製昇降付7台とし、治療のためには各々治療椅子にはリッター電気エンジンを備え、配電盤ならびに圧搾空気を設置使用、次室はこれを3部に区画し抜歯ならびに口腔外科の手術室、部長診療室兼矯正手術室、印象採得室とし歯科技工作業室はこれに続く西部の1室を充てこれに隣接する1室を医局員室となした。
同年10月3日医学部附属病院の開院とともに外来患者の診療に従事し、特種治術の活用および学理の運用を遺憾なからしめんがために、左の6科に分類した。
第1 口腔衛生科、
第2 一般治療科、
第3 口腔外科、
第4 矯正歯科、
第5 一般歯科技工科、
第6 歯科レントゲン科
慶應義塾大學醫學部二十周年記念誌、1940)

初代歯科教室主任の岡田満は、昭和4年3月に医学博士の学位を取っている。昭和7年4月に大日本歯科医学会会長に就任。柔道もやっていたようで、柔道医学研究会委員とか、柔道高等教員養成所講師の嘱託にもなっている。榊原悠紀田郎「歯記列伝」によると、「110kgを超える巨漢」だったという。1962(昭和37)年2月没、享年75歳。

歯科教室患者統計表
慶應義塾大学医学部歯科学教室の患者統計表

昭和15年11月には「予防歯科医学研究所」も設立されていた。

慶應義塾大学医学部予防歯科医学研究所
慶應義塾大学医学部予防歯科医学研究所

このような研究所は世界においても最初のものといわれ、医学ならびに歯科医学のあらゆる知識を基礎として、歯牙の疾患およびそれの各種疾患との関連を明らかにし、かつその予防に貢献することを目的とする独自の研究機関であった。そして、予防医学教室の草間良男が所長となり、歯科学教室の教授岡田満が部長に、助教授正木正が研究主任にそれぞれ就任して業績を築きつつあったが、昭和20年5月、戦災にあって施設の全部を消失してしまった。ために、同研究員はその後、大学病院外来歯科で研究をつづけ、歯科学教室と協力して復興に邁進してきたが、昭和30年9月26日の第19期第6回評議員会でついにこの研究所の廃止を決定した。
(慶應義塾百年史、中巻<後>、1964)

もったいない。

なお、医学部の前身である「慶應義塾医学所」は明治6(1873)年10月に設立されている。
当時の日本はドイツ医学が主流であったが、福沢諭吉は「西洋のうちでも特に英米の文明を重んじ、敢然ここに英語による医学校をたてた」(慶應義塾百年史、上、1958)。そのせいか、医学所の教科課程には歯科学がない。なお、同好史談会編「漫談明治初年」(1927)によれば、福沢は「大の米国崇拝家」だったもよう。とすると、福沢先生は米国流の医科歯科二元制によって慶應義塾に歯学部をつくりたいと考えていたのかもしれない。
なお、同医学所は明治13年に閉鎖した。閉鎖時には、医学所にあるいっさいを売り払って得た800円ほどの金をすべて、本塾に寄付している。本塾は明治10〜13年に学生数が激減し、経営困難に陥っていたのであった(明治4年の入学者数377人→明治10年の同数105人)。

足きり償還制

健康保険制度で、歯科材料費と薬剤費の償還制が検討されたことは実際にあった。
1978(昭和53)年4月7日、小沢辰男厚相が、以下の健保法改正案を社会保険審議会に諮問している。

ヽ依茲7割給付案を引っ込めて入院、外来の別なく本人、家族とも10割給付とする。代わりに、薬剤費と歯科材料費は一定基準を超えた部分をいったん患者が払う償還制にする。具体的には、1世帯1カ月2万円以上または年間12万円を超える分を、保険から払い戻すことにする。これは足きり償還制と呼ばれた。J欷盈岨残蠅隆霑辰箸覆詈鷭靴縫棔璽淵垢盍泙瓩董∧欷盈僧┐1000分の80とする。政管健保は当分の間、政府主体で健保組合間で行い、将来は被用者保険全体に拡大する、というものだった。
(有岡二郎「戦後医療の五十年 医療保険制度の舞台裏」1997年、p347)

この改正案は小沢厚相が武見太郎日医会長と会談を重ね、合意にいたった――とされているが、後日になって武見は薬剤費の償還制を「聞いてない」と言い出し、代わりに薬剤費と歯科材料費の5割を患者負担とする健保法改正案が、5月26日に国会提出された。この改正案は継続審議扱いを繰り返しながら、1979(昭和54)年の国会で廃案になっている。
この「足きり償還制」(薬剤費と歯科材料費の、1世帯1カ月2万円以上または年間12万円を超える分を償還制にする)は、いわゆる薬漬け(特にいくつもの疾病を抱える高齢患者に対し、複数の医療機関が漫然と膨大な薬を処方する問題)の改善には悪くない制度と思う。もちろん、ガンの化学療法など医療上の必要性から薬剤費が高額になってしまう場合も多々あるが、その場合は高額療養費制度(療養費が一定額を超えた場合に、その超えた金額を支給する制度)の適用で対処できるし。武見がなぜ「薬剤費と歯科材料費の5割を患者負担」とするほうを選んだのかといえば、まさに薬剤費が抑制されるから、なのだろう。

座談会「医療保険制度を考える」ァ〆能回

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。
歯科における予防や生活指導の評価について

仲田
そう、その予防ですよ。最後に、その予防の問題でしめたいと思うんです。
歯科で一番大事なのは、予防だと思うんです。これは治療より優先すべきです。そして年齢的には20歳ぐらいまでが一番重要だと思います。そういうものはニュージーランドのように、公費で優先してやるべきものだと思うんです。
歯を悪くするのは、たぶんに本人に責任がありますから、この治療にはある程度の自己負担があってもいいと思います。国の政策として予防をとり入れていくべきですね。


この予防については、飯塚さんも私も相当の力を入れているわけです。歯ブラシを使うことだけでなく、食事のとり方などについても徹底してやっているわけです。これが保険外の収入源にもなっているんです。
とにかく予防や生活改善の指導がない歯の治療は、今までの生活の上でできた虫歯や膿漏ですから、治療してもまたすぐだめになってしまう。なんのことはない、年に2回収穫のある二毛作と同じですよ。国民の口のなかは。しかし今は、予防は保険の外になっている。これをどうするかが、大きな問題なんです……。

仲田
やはり私は、保険か保険外は別として、国の政策でやるべきでしょうね。


しかしこの予防も平均的な線で切りますね。仮りに5,000円の評価とします。すると「砂糖食うな、歯みがけ」5,000円、「砂糖食うな、歯みがけ」5,000円。これでは、笑いがとまらないですよね。

飯塚
この予防という医療行為の評価が、患者、厚生省、保険者の方々によくわからないところなんですね。予防処置とは何かということが具体的にわからない状態で、「財源はある。これを保険にいれる」と簡単にいうところにわれわれの不満があるわけなんです。
歯のみがき方を教えることにしても、「はい、これがローリング法です」という指導だけでは歯はきれいにならない。実際にきれいになるように教えるのは大変なことです。そのためにはまず、患者自身が心の底から「きれいにしよう」という意志を持つように患者をモチベイトしなければならないわけです。
そして、実際にきれいになるような方法を個別的に指導して、そのあと本当にきれいになったかどうか、ならなければどこがなぜいけないのかを来院のたびに考えて、個別的に指導しなければならないんです。
予防を保険にとり入れた場合、「はい、これがローリング法です」という1分間で終る指導も数ヵ月におよぶ指導も同じ点数で評価されるおそれがある……。

仲田
私が予防を国の政策として優先するというのは、あらゆる場所で指導するということです。


教育ですね。

仲田
全国民を強制的に予防するというのは不可能ですが、保健所のようなものを作って、そこへ行けば予防に関する知識が得られるようにする、そういったものも必要だと思うんですよ。


それは仲田さんのおっしゃる通りで、厚生省でも医務局が一生懸命に考えていますよ。それから日歯でも、う蝕予防の対策として、今は県に一つぐらいではどうにもならないので、せめて市町村に一つ、将来は中学校区に一つずつ作っていこうという話がでています。
まあ、将来の医療問題は、西暦2000年ぐらいになると医師は30〜40万ぐらい、歯科医も10万を超えますし、風向きも変ってくるのではないかと思います。
ただ当面の歯科問題の解決でには、まだ間に合いません。で、まあ結局、段階的な解決ということより仕方がないのではないでしょうかね。しかし、私達が不愉快に思うのは、日本の政治というものが、にっちもさっちも行かなくなってから、何とか打開されていく。将来展望を持ってやるということはあまりないですね。そして、力や数でものを解決する場面が多いのも特色で、医療の面についてもそうしたことが多いんです。
ですから一番不満なのは、昨年(引用者註:1976年)3月の答申です。診療報酬の引上げは歯科の代表がいない、ということでほったらかしといて、差額問題については、歯科の委員がいないのに答申してしまった。もし私が日歯の会長だったら、「今後はかってにやりなさい」といって、中医協には委員を2度と出席させません。そして、歯科中医協を別に作らせますね。歯科医療問題を一般医療とコミで絶対少数で審議している国はありませんよ。こんな審議のやり方では、歯科問題も決していい方向にいきませんね。

仲田
こちらとしても、段階的解消で考えていたんですが、昨年(引用者註:1976年)2月25日の日医意見が出て、日医から筋論を言われると「反対だ」とも言えないで、困ったんですよ(笑)。


筋論としてはその通りなんですが、やはり現実を見てもらわないと、都合のいい時だけ筋を通されても困るんですね。全体の筋を通すのでなければ、混乱を招くだけです。
そろそろ時間のようです。話は尽きませんが、これから健保制度も、歯科医療もその根本から洗い直して行くべき大切な時だと思います。余り枝葉末節の議論に終らないことを祈りたいと思います。本日はありがとうございました。


「歯科中医協」。
公益や学術側委員はもちろん、歯科衛生士および歯科技工士の代表も参加するのであれば、いいかもしれない。歯科医師のやり放題になると、結局歯科医師自身の首も締めることになるという自覚が歯科医師委員にあればだが。また、歯科中医協での決定事項が政官業癒着で雲散霧消することが恒例化しなければだが(例:7:3の大臣告示)。 




座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。
保険診療の範囲の拡大と療養費払いの採用について

飯塚
日本医師会では、歯科医師会はずるいといっていますね。歯科医は保険でとった上に自費診療で多額の医療費をとっているが、医師会は保険だけでやっているといっていますね。
しかし、私は逆に歯科医は損な立場だと思います。保険だけではとてもやっていけないので、大変な苦労をして保険外収入を得なければならないんですから。これに比べると、保険だけでやっていける医師会の方がうらやましいですね。何といっても保険で収入を得たほうが楽ですよ。
どんなザマでもよかったらそれは保険だけでもやっていけないことはありません。しかし、その場合は、もし私が患者なら「こんな治療をしてほしくない」というような治療をどうしてもせざるを得ません。そのようないい加減な手抜き治療をしないということになると、これはもう、どうしても経済的に成り立たない。

仲田
それは医者のモラルの問題で、これに反しない程度の医療ができるように点数の手直しもしたいということなんです。ただいっきょにできないから段階的にということですね。


その問題は、そういうことだと思いますが根本的な問題は保険制度をどうするかということで、今の保険制度は医療の質を落とせばもうかり、上げれば食っていけないという宿命がある。これは政治の問題だと思いますね。努力すれば報われないという職業は他にはないですね。
それを医の倫理で克服しろというのはどうですかね。まあ、1回ぐらい赤字がでてもいいですよ、しかしこれが10年も続いたら、私の診療所もかないません。

仲田
それは同意です。


だから、モラルだけでかたづく問題ではなく、そのモラルを荒廃させている根源は、平均的にしか評価しないこの保険制度に根本があるということです。
実は、特に医師会が今の保険制度を改めようとしないのは、その質を落として稼いでいる人の方が多いとか、あるいは組織の構造から来ることなんですよ。歯科医師会もその傾向がありますが……。

仲田
私も全く同じ気持ちですね。


でしょう、だから前に点数の引上げをやるなといったことがあるんです。

仲田
まあそれは、政治の介入するむずかしい問題ではありますね。ただ、数の上では保険診療に依存している人の方が多いということですよ。


だから、少数の良心的な医師が生き残り、保険に協力できる制度を作ることが、これからの課題ですね。
いつもいうんですが、1本の道ではいけない。今の保険制度はそのまま残しておきなさいと。そのかたわらにバイパスをつくりなさい。

仲田
私も昔からいっていましたが、保険制度に償還制の自由診療を補足し、2本建てにするべきだと考えています。


健保法の44条は、保険者が認めた時には療養費払いができることになっている。


第44条  
保険者は、特別の理由がある被保険者で、保険医療機関等に第42条又は前条の規定による一部負担金を支払うことが困難であると認められるものに対し、次の各号の措置を採ることができる。
(1)一部負担金を減額すること。
(2)一部負担金の支払を免除すること。
(3)保険医療機関等に対する支払に代えて、一部負担金を直接に徴収することとし、その徴収を猶予すること。

これを拡大解釈して「先生たちのグループと直取引きによる療養費払いをやりましょう」という健保組合の理事長さん方と話し合ったことがあります。政府管掌の方は、保険の建て前が崩れるとかいうかもしれませんが、現行法の44条の拡大解釈で、療養費払いも可能だと思うんですよ。
私のことをいうと、保険のなかで生きていけるのは、ここ1〜2年で限界がきそうに思っています。しかし、保険医はやめたくないんです。私は政府管掌保険の被保険者ですし、自分が病気になったら保険で診てもらっている。私は自由診療というのはやりたくない。
もう一つは、障害児の問題です。こういう患者がたくさん来ます。この人たちを保険で診てあげなかったら、困っている家庭をなお苦しめることになるので、保険医でがんばれるだけがんばりたい。今、障害者については300円の加算があるのですが、治療するのに3〜4人かかるのに、300円でどうなりますか。

仲田
やはり今後の保険のあるべき姿からすれば、全国1本でやることには無理があるんですよ。無医地区も大都会も同じでは無理ですよ。近代化した社会では、1本の制度で押えると、おかしくなってくるだろうと思います。その点PRが足りませんね。


極端なことをいいますと、上下4本の大臼歯、小臼歯を合わせて16本。これをちょっちょっとタービンで歯を削り、練ったアマルガムをちょっちょっとつめる。まず20分ぐらいでしょう。これが、私が先ほど1本につき1時間ぐらいかけるといったのと同じ評価になるわけです。即処1面のア充で1本167点として、20分ぐらいで26,720円にもなるわけです。
モラルを落とせばそこまでいけるわけです。しかし、1時間かかって1本と、1本については同じ評価ですからね。しかし、じゃ全員が1本に1時間をかけろ、というのは、これは無理だと思いますね。やはり努力すれば報いられる方向に行ける制度をつくらないとだめでしょう。

仲田
それと同時に、歯科医どうしのモラルの向上ということができないものか思うんですがね……。その辺は日歯なりに考えてもらいたい。


日歯による「モラルの向上」――現役会長が2回も逮捕されている組織による「モラルの向上」か。……まあ、犯罪者を取り締まるべき警察による犯罪が珍しくもなくなった時代だから、それもアリなのか。
ちなみに、山口組にも風紀委員があるらしい。モラルとか風紀とか、組織によって定義が違うのかも。

飯塚
日本中の歯科医の技術評価を、日歯が公平な立場でしたらどうかという話もありますが、これは患者が医師の技術を評価するのと同じようなもので、不可能でしょうね。
そもそも、日歯の役員が本当に民主的な手段で公平に選ばれ、それにふさわしい人々かどうかも疑問です。郡市歯科医師会の段階、県歯の段階の歯科医師会代議員が、まず選挙なんかでは選ばれていないところが全国的に多いですね。歯科医は4万人なんですから、日歯会長の選挙は、直接選挙でやったらいいと思います。
それなら、学閥だなんだという話はなくなって、日歯自体も変ってくるでしょう。

仲田
しかし、日歯だけがするというのではなく、歯科医どうしの技術評価というものは可能じゃないかと思うんですがね……。

飯塚
でも、歯科医の大多数は自分自身をAランクの歯科医だと思っていますよ。なかには、専門の知識や技術は不足しているが「患者の扱いは、君たちより上だよ」という発言をする歯科医も実際にいますね。これも技術の中にはいるとすれば、技術評価の基準をどこに置くかということで、またむずかしい問題があるんですよ。
ですから、歯科医どうしでも客観的にどこまでその力を正当に評価できるかというと、これはむずかしい。
それに、医療そのものにランクをつけることにも問題があると思うんです。医療に高級医療、低級医療という区別があると思うことがおかしいですよ。「通常必要とされる医療は保険でできる」という厚生省の発言は。その意味でもおかしいですね。医療は一つしかないんですから。


歯科の場合には、一般的に材料の違いが、ぜいたくか通常かという判断になっていますね。

飯塚
私は材料などはたいした問題ではないと思っています。とにかく、一つしかない医療をすべて保険でやってほしいわけです。
これならできるがこれは無理、というのはおかしいと思うんですよ。

仲田
ただ患者からしてみれば、よくいわれているように、治しているのかこわしているのかわからない、といった心配が、保険点数が低すぎるために起こるのでは、との心配があるんですね。

飯塚
確かに、保険制限内の医療を行う程度の技術もないのに上積み技術料をとっている医師もいるし、治しているのかこわしているのかわからない医師もいますよ。しかし、これは保険の問題とは関係ないと思うんですよ。
保険の点数をいくら上げても、問題の解決にはつながらないじゃないですか。最終的に、医師の教育の問題、レベルの問題は残ると思うんです。
だから保険の点数をいくらアップしていっても、それはレベルの低い医療を行う歯科医の収入を伸ばすだけだと思うんです。
だから現在の2本建ては、それでボカボカとかせぐ医者も作る反面、まじめな医者も育つという両面があることを知っていただきたいと思うんですね。


日歯の問題がでたところで、日歯執行部の役割ということに触れたいと思います。
今までの状況を外から見ると、執行部が材料費の差額ということで段階的に解消していく案に同意した。それで、去年(引用者註:1976年)8月の歯科医療の9.6%の診療報酬の引上げをとった。ところが、これをとった後にまたダタダガタして、そのうち川崎前執行部はやめてしまった。やめた後、現山崎執行部になったら、がらっと変ってしまったのではないか、という疑問があると思うんです。
ここで私がわからないのは、山崎現会長が1月28日の代議員会で当選した時、「差額の原点に帰る」といって、去年の3月21日の中医協の「差額は材料費に限る」は認められない、といった。ところが、最近は、原点に帰るということは、「歯科医のモラルの原点に帰る」ということに変ってきたと思います。そして、自分の方からは積極的に解決案を出すのではないようですね。1月時点での発言とは、何か変化してきているという感じです。

仲田
私も変ってきていると思いますね。


ですから、材料費の差額というのは、のんでいくと思います。

仲田
その方向でいくでしょう。


ただ、さい前からいっている4項目だけ決めても、差額の問題は解消しないといいましたが、この4項目以外のものには、まだ触れないと思います。
しかしさっきからの飯塚さんのお話のように、そこまで拡げなければ、保険だけではできない。もしまた、仮りに保険ですべてカバーしても、平均的にやったのでは、依然としてモラルの向上にはならない。ですから、範囲を拡げると同時に、療養費払いを導入することです。それと同時に、医科の方でも足切りがあってもいいような気がするんです。

仲田
個人的に私も、今であれば2,000円ぐらい自己負担を認める。そのかわりに入院等の重病には自己負担のないようにする、これは計算上は成り立ちます。
医療への要求は無限ですから、これを全部保険でみることには、限界があります。


私は財源に限界があれば、やはり選択が必要だと思います。予防も保険かというと、大変な問題になりますよ。


「保険の点数をいくらアップしていっても、それはレベルの低い医療を行う歯科医の収入を伸ばすだけ」(by飯塚哲夫)というのは、まさに現実。〇〇加算ができるたびにワッとその請求がなされるが(例:外来診療環境体制加算)、それにメリットを感じた患者が請求の数だけいるのかどうか。どんな義歯を入れようが認知症患者ならわかりゃしない、と言い放った歯科医師を点数UPで変えられるのかどうか。
点数UPで“保険で良い入れ歯を”とかいう運動もあった。が、その義歯を外注され、実際につくる歯科技工士に診療報酬点数の増減など無関係なのである。いまや9割以上の歯科医師が歯科技工士に義歯を外注していることを無視、診療報酬における歯科技工士の取り分を決めた「7:3の大臣告示」もガン無視、それで点数UPで歯科医療をどうにかできる、と言っている神経はまったく理解しがたい。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。

保険財源の問題と歯科医療の評価の問題

飯塚
それは、そう簡単にいかないと思うんです。保険財政の問題と歯科医療の評価の問題という2つの大問題がありますから……。
たとえば、今の歯科医の収入が100あるとします。このうち、50は保険収入、残りの50が保険外収入とします。
そこで、今までの保険の50に加えて、保険外の50も保険負担として、保険に組み入れてくれれば問題はないわけです。しかし、この50全部を保険に入れることは、財源がまずないということで、できない……。

仲田
今の話で、50全部を保険に入れるという話でしたが、材料差額があるので、仮りに40としても、これを全部入れる必要はないと思います。それは、自分で決めた差額で、うんともうけた人もいたのですから。

飯塚
50全部では財源的にむりだと……。

仲田
財源的にではなくて、今の保険外徴収全部のせるのは不必要なんですよ。

飯塚
つまり、現在、歯科医の収入は100あるが、本来はたとえば70でいいはずだということですね。こうなると、結局、保険に20をのせればいいと……。

仲田
そういうことです。

飯塚
そこなんですよ。そういうお考えの前提には、これまで保険でまかなってきた50の部分については、その評価が適正であったという事実がなければならない。そこではじめて、新たにとり入れる部分は50の必要がなくて、20で十分であり、合計70でよいのだというような議論が出てくると思うんですよ。
しかし、もしこれまで保険でまかなってきた50の部分が、実は100に評価するのが適正だということになると、新たにとり入れる部分を仲田さんがおっしゃるように20としても、合計が120にならなければならないということになります。
つまり歯科医療費を論ずる場合、歯科医療というものの評価が適正に行われているかどうか、ということをいいたいわけです。医療の質を問題にせず、ただ単に歯科医のふところ具合だけを見て、あといくらのせるかということを考えるのなら、20ものせる必要はないんです。今までどおり50でいい。
どういうことかというと、まともにやったら50ではとても無理でも、金もうけのみを考えて医療を行えば、50だけでも結構貯金がどんどんできるんですよ。

仲田 
それは自由診療でとるから……。

阪 
いや、やり方によっては保険だけで、笑いが止まらないほどの収入があるんです。

飯塚 
ですから、50だけでも結構なんです。技術料としての20のアップも不必要なんです。

仲田 
わかんないですね、その話は……。わたくしは、制限的なものを吸収するということと技術料のアップの両方で、いままでの保険外収入をカバーしようというんですよ。

飯塚
しかし、仲田さんのお話では、これまで保険でまかなってきたものは、依然として50と評価しています。技術料のアップということを言われるのなら、これをたとえば80してくださいよ。
そうすると、制限的なものの吸収が、仲田さんのおっしゃるとおりに20としても、合計で結局は100の財源が必要になります。つまり、50の自費診療をやめさせるかわりに、保険はこの50をすっかり負担すべきだということを言いたいのです。
でも、これまでのお話では、今まで保険外のものを保険に組み入れるというだけのであって、その意味では、保険外収入は増加しても、歯科医の収入は逆に減りますね。

仲田
でも、保険でとるか、自由診療でとるかの違いであって、大きな違いはないと思うんですがね……。

飯塚
とどのつまりはが、今の保険と自費の2本建てを、1本にしていこうということでしょう。

仲田
そうなんですよ。

飯塚
それなら、まず現在の保険部分を適正に評価して、それからその上に新たにとり入れる部分をのせてゆくということにしなければだめですね。現在の保険部分はそのままの不当に低い評価のままで、その上に制限部分をのせて1本にするというのでは、とても経済的に成り立つような医療はできないし、歯科医は食べていけない……。

仲田
食べていけるように手直しをしてですよ。

飯塚
でも、食べていけるような手直しというのは、結局、50を70にするということでしょう。これでは、今までより30少ないので、食べていけないんです。
つまり、ある種の歯科医にとっては50が70になることは収入のアップです。しかし、100でも足りないような診療をしている歯科医にとっては、100が70になることは致命的です。


ちょっと話がくい違っているようですが、「差額」の問題は一応、4項目だけなんですが、それを「材料費」だけにして、その分の技術料を保険に組み入れていくことは、当面やらざるをえないと思います。しかし、それだけではなしに、歯科には給付されていない分がたくさんあって、その行為をやらなければ、歯科医療の完全な給付はできないということです。
これが、今から15年ぐらい前だと、今の保険範囲内の技術でできた。ところが、ここ10年ぐらいの技術の進歩がめざましいので、これに保険は追いついていないんです。これが、今まで一切無視されてきた。
私の例で言えば、15年ぐらい前は、保険の患者が9割ぐらいで、収入も保険収入が9割ぐらいを占めていた。現在はどうかというと、やはり患者は保険の患者が9割ぐらいであることには違いないんです。
私の診療所は歯科医が5人、総人数で20人の人が働いていますが、1カ月の経費は約600万円かかります。ところが、保険収入は次第に減ってきて去年の保険収入は月平均150万円くらいでした。今年になったら、さらに落ちてきます。
歯科医が勉強して、努力すればするほど収入は減ってくるんです。私はお金の勘定をしないので1本の虫歯の治療に1時間ぐらいかけてしまうときがあるんです。虫歯を削って、そこへアマルガムをつめる。この即処が167点だと思いますが、1時間で1,670円では診療所が成り立っていかないことは明らかだと思うんですよ。
そうなってくると、技術的な内容の問題にかかわってくるのですが、質的な制限というものがどうしてもでてきてしまうんです。あるレベル以下でやれば困らないけれど、これ以上のことをやればマイナスになるのが当然で、努力すればするほど、保険収入は減っていく。
では、自由診療でそんなに金をとっているかといえば、日歯の目安料金よりも高かったものは1つで、あとは安い。あの目安料金のおかげで、少し上げることができたんです。ではそれでうまくやっていけるかというと、税理士は「どうしても昨年度は赤字になります」というんですね。大した赤字ではないと思いますが困ります。

飯塚
仲田さんは、自費診療をなくしてその分を保険にとり入れ、また現在の点数も手直しすれば歯科医はやっていけるはずだというご意見のようですけれど、ではそのやっていけるいけないの基準は、いったい何ですか。私のように、実際に臨床に従事しているものがやっていけないといっているんですから、やっていけるはずがない……。

仲田
それは、個人的なあなたの診療所がやっていけないということで、議論にならないんです。

飯塚
私だけがやっていけないといっているのではなく、日本の歯科医の大部分がやっていけないといっているんです。

仲田
それは点数が低いということで、やっていけるように直そうといっているんですよ。それから、個々の医療行為になると、この部分の点数は非常に低いじゃないかということがあると同時に、こんなものいらないじゃないかというものもあるので、マクロ的によい医療ができるようにすべきだと思います。技術評価ができればいいんですが、これが個別的にはできないんですね。


これはもう、保険の宿命ですね。保険でする以上は、このぐらいだと一定にみなさなければならないんです。
つまりこういうことなんです。医療の現物給付ということは、私達が雇われればいいんですよ(笑)。月給制にしてしまえば、文句なく現物給付になるんです。しかしそうでない限りでは、現物を給付するといっても現物でなく、ある一定の金額を給付するという形にならざるをえない。その結果、どういうことがおきるかといえば、わたしにいわせれば、安物買いの銭失ないをしていると思います。
それでも保険者としてみれば、マクロにみて、医療費は国民総生産の何パーセントになっているから単価を上げないということになる。すると、だれが一番困っているのかというとやはり国民で、またまじめな医者は育たないということになるんですね。

仲田
私見ですが、技術評価のためには、償還制をやることですね。


私は、全員やる必要はないから、一部償還制にすればいいと思うんです。
これは、現場の者にしてみれば、保険の方が楽なんですよ。紙に字を書けば金になるんだから(笑)。こんな職業はありませんよ。しかし自由診療や療養費払いは、患者にこれだけかかりますと、納得させなければならない。

償還制は救急には向かないが、義歯関係にはいいと思う。
保険の義歯を一度つくると半年は再製できないという保険上のルールがあるが、近所のヘタ歯医者にめちゃくちゃな保険義歯をつくられた患者が数週間ないし数ヶ月で音を上げてウチに来院してきた、という話はかなり聞く。で、そういうかわいそうな患者に、ヘタ歯医者に行って何とかしてもらってください、とは善良な歯科医師はなかなか言えないし(ヘタ歯医者がどうにもできないことは明らかだから)、とはいえ半年待ってくれとも言いがたく(義歯患者のほとんどは高齢)、しかし自費でしかやらないと言うのも心苦しく(悪いのは患者じゃないし)、だからってヘタ歯医者に電話をかけて「アンタこんな義歯で保険請求する気か、取り下げなければ厚生局に訴える」と言える強気な歯科医師は、まあマレであろう。だが、この手の使えないヘタ義歯は歯科医療費のムダの最たるものでもある。保険患者の満足を得られない保険診療で歯科保険医療費を浪費する歯科医師こそ指導にかけてムダをなくせよ厚生局と強く思うが、しかし、保険指導とは点数の多少しか見ない欠陥制度なのであった。よって、治療後に患者の同意を得なければ、保険負担分を償還できない制度にすれば、多少はこの手のトラブルも減り、医療費のムダも減ると思うのである。償還制の場合、治療に満足できなければサインをしないよう患者指導も徹底すべきである。
なお、償還制は歯技分業にもプラスである。歯科技工士が義歯をつくった場合は、保険負担分をその歯科技工士自身が保険者に直接請求するようにすればいいのである。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。出席者は歯科医師の飯塚哲夫と阪初彦、健保連の仲田良夫の各氏。

「差額」が問題のすべてではないことについて


それで差額については、“材料差額”とおっしゃっていましたが、“2本建”という自由診療のなかでも、材料についての4項目は、自由診療のほんの一部分でしかないんです。
これは意外に一般の患者も保険者も今まで知らなかったと思います。4項目を材料差額にしただけで、歯科が保険でカバーできるのかというと、ちっとも変っていない。つまり、4つだけ変ったというだけなんですよね。100のうち4つが保険でカバーできたに過ぎないといってもいいぐらいなんです。

飯塚
それはこういうことだと思うんですよ。現在のところ、中医協での議論も、国民やマスコミの関心も、「差額」「差額」ということで、差額の問題を一生懸命につついているわけですね。
そして「差額」の問題を解決すれば歯科の問題は全部「解決する」といった気分があるわけです。つまり差額は技術料を含んではいけない、材料費だけに限るということにすれば、歯科医療費をめぐるトラブルは全部解決すると思い込んでいるようにみえます。
しかし私は、「差額」の問題をいくらつついても歯科医療費の問題は絶対に解決しないと思っています。たとえば「差額は材料費に限る」という意見を日歯がのんだとして、国が「差額は材料費に限る」という通達を出したとしても、問題はいっこうに解決しないんです。
なぜなら、患者さんが保険外診療として自費で支払っている歯科診療というのたくさんあって、「差額は材料費だけ」という決定で規制できる部分はほんの一握りに過ぎないからです。
だから、歯科医の立場から考えても、また患者の立場や保険者の立場から考えても、歯科医療費の問題を何とか解決しようとしたら、「差額問題の解決」ではなく、歯科診療が保険診療と自費診療の2本建てで行われているという問題をどうするのか、ということを考えなければだめなんですよ。
つまり、保険診療はすべて保険でカバーできるのかできないのか。できないとすれば、それはなぜかということが問題の根本なんです。
自費診療というと、すぐ金だ、ポーセレンだと、材料の問題になるんですが、一臨床医としての私は、材料は保険できめられた材料だけで結構だと考えています。原則的には、金もポーセレンも、金属床もいりません。それである程度満足のいく治療をする自信があるんです。
ですから、「差額」だとか「自費診療」を論ずる場合、すぐ材料の問題になるのがどうしても解せない。しかし、日歯も材料の問題を前面に出しているわけですね。本当に困ったことです。
保険の材料も保険外の材料も五十歩百歩なんですよ。こういう考え方をしている歯科医は全国にたくさんいます。そこで、材料は保険の材料で問題ないということになると、では「歯科医療はぜんぶ保険でカバーできますね」ということをいわれそうですが、これが絶対にできないんです。問題はそこなんですよ……。

仲田
今のお話はもっとよくお聞きしないといけないのですが、昨年(引用者註:1976年)の8月から保険診療と自由診療の2本建てになったことについては、支払側も「おかしいじゃないか」と文句をいったんです。しかし、歯科差額を「材料費差額」にするには、条件整備が必要だということを言って、中医協の歯科部会を全員懇談会に切り換えてやったわけです。そこで、今歯科診療の項目を全部あげると、どういうものがあるか、そのうち保険でやっていくものはどれくらいあるかを見たんです。
そして、歯科のなかに“制限”と目されるものがかなりあるんです。それで、それらは保険に全部いれるとどうなるかというと、これは大したことないということになった。
では、今までそれを、どうして入れてなかったかということになった。それで一番問題になったのは材料で、14金を18金にしたら「これは大変な金額になります」と厚生省当局は説明した。それから、金属床も大変な金額になるという。
日医は、これも保険に入れることを主張、日歯は入れるべきでないとの主張で対立し、これは話がパーになった一つの原因なんです。
学問的に保険に入れるべきでないということで合意できた赤ちゃんの歯の問題など以外は、入れられるものは全部入れるということで、診療側と支払側も皆賛成した。大きな問題は金属床と金の問題だったわけですね。
そこで財源の問題が中心になるわけです。日医はいっきょに、支払側は点数の手直しをすることによってということで、この点数の手直しについて当局は諮問案を用意した状況もあったわけです。
制限は全部撤廃していこうということは国民の声でもあるでしょうし、厚生省もそういう方向にいくべきだといっているんです。日歯もそうです。ただ、いっぺんにはできないのじゃないか、ということです。個人的な意見としては、歯科診療は自由診療にして、償還制にするということも考えられます。

飯塚
そこのところが、日歯が支払側によく説明していない点だと思うんです。ここをよく理解してほしいんです。
先ほど、私は材料は保険できめられたものだけでもいいということを言いました。また、材料の問題が全くなくなった場合、それで歯科診療は2本建てでなくなるのかというと、そうではないということもお話しました。そこが問題なんですね。仲田さんも、歯科の診療をみると制限がたくさんあるのがよくわかった、とおっしゃった……。

仲田
いや、あったと……。

飯塚
あったから、保険で全部カバーできていないので、これまで2本建てでやってきたわけですね。しかし、今後は制限を完全に撤廃して、歯科診療のすべてを保険でカバーしようということでしょう。そして、現在制限されているものを全部保険にいれたって、経済的に問題はないとおっしゃったんですが……。ここが問題なんです。たしかに保険者側には問題がないかもしれない。ところが、歯科医の側にとっては大変な問題なんです。

仲田
それはどうしてでしょう……。

飯塚
歯科医療に対する評価が現在のままで、制限部分を全部保険にとり入れたら、日本中の歯科医は、皆経済的にやってゆけなくなります。つまり、診療ができなくなる、保険点数が非常識に低すぎるんです。
というような話をすると、患者さんやマスコミは「そんなこというけど、歯医者さんは皆、経済的にいい生活をしているじゃないですか」といいますね。つまり、経済的に困ってなんかいないじゃないか、ということなんでしょうが、困っていない理由は保険の点数が高いからではなくて、次の2つの理由によるんです。
1つは、保険外の自費診療収入があること。もう一つは、不満足な治療を行うことによって安上がりの医療にしていること。つまり「こんなものは医療じゃない」というような医療をすれば、現在の保険点数でも採算がとれる。
だから、もし2本建てをやめて保険だけにして、さらに、手抜き治療もしないということになると、日本中の歯科医は皆経済的にやっていけなくなることは明らかです。

仲田
今のお話はよくわかりました。差額と保険の療法の収入で生活しているというのは、そのとおりだと思うんです。だから、技術の評価など、保険点数を見直して、保険で十分できるようにしようということで、段階的にやっていこうということです。ですから、保険外を残しておく必要性はないのじゃないですか……。

飯塚
厚生省は現在の状態でも「通常必要な歯科医療は保険でできる」といっています。もしできるなら、現在以上に技術料を上げなくてもいいんじゃないですか。このままで、日本全国の歯科医にやらせればいいじゃないですか。
しかし、もしも今の保険の点数では「通常必要とする歯科医療」すらできないとしたら、厚生省の責任は重大じゃないか思いますね。できないものを「できる」と言い張って、その結果こうした大混乱を起したんですから……。

仲田
「できる」という意味に2通りあるんです。今の保険治療で十分という意味と、経済的に今の点数を上げなくてもできるということですね。今の点数ではやっていけないというのは、経済的な意味ですね。日歯の主張もこの経済的な意味のことなんです。

飯塚
それはわかるんですが、今、国民が問題にしているのはお金なんですよ。「歯科医療費は高すぎる」「不当な料金を請求された」ということでこれだけの混乱が起きているんですね。少なくとも現在のところまでは歯科医療には制限が多過ぎて、患者さんが保険以外にお金を払わなければならないことがしばしばあります。
それに加えて、一応カバーしているものの点数が非常識に低くて、事際にはできないというものもあります。
それを厚生省が「できるはずだからやれ」といい、「もしも保険以外にお金をとったら違法だ」ということでは、法律的に誰れの責任かということではなく、歯科医療が社会問題にまで発展したことに対し、厚生省は責任をとらなければならないということをいっているのです。

仲田
ですから私は、点数の手直しによって、今まで差額でとっていたものを保険点数でも十分カバーできるようにしますよと……。


「通常必要とする歯科医療」とはナニか。そもそも、そのコンセンサスが歯科界にあるのか。つまり、歯科的な健康とはどんな状態でそれにはナニが必要かというコンセンサスが。このコンセンサスがないことは、歯科衛生士や歯科技工士の評価が適切になされていない、そのひとつの理由でもあるのだが。

座談会「医療保険制度を考える」

飯塚哲夫「現代歯科医療への提言」(1979年)より、座談会「医療保険制度を考える」。初出は1977年6月発行の「社会保険―実務と法令」。
ココでも取り上げたのだが、武見太郎の批判に耐えられる歯科側の議論はこれくらいしかないと改めて思ったので、全文UPする。

出席者
飯塚哲夫
阪 初彦
仲田良夫(健保連)

阪(司会)
本日は、お忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。
本日のテーマは“歯科医療は何が変ったか”ということで、今までの経過等を振り返り、合わせて歯科問題解決への今後の提案もまとめてみたいと思います。
昨年(引用者註:1976年)3月23日に、中医協で「歯科の差額は材料に限る」ということが、歯科の代表のいない席で決ったわけです。その後、その答申の一部分をとり入れた形で“差額徴収の廃止”が行われた。それと同時に、4月1日に実施予定だった診療報酬の9.6%引上げが8月1日から実施された。その後、歯科問題が中医協でもさっぱり進展しない状況で今日まで来た、ということだと思うんです。
その辺で、一部には歯科は餌を食い逃げしたという意見が出、また歯科医にいわせれば「3月にあんなかっこうで答申したことがおかしい」ということになるんですね。
では実体はどうなんだということですが、飯塚さんには臨床面から、仲田さんからは保険者、非保険者の立場から発言していただきたいと思います。飯塚さんにまず、矢面に立つ“歯科医”としてどうみているのか、お話し願いたいと思います。

歯科診療における「2本建て」について

飯塚
「歯科問題は何が変ったか」ということと「保険、自費診療の2本建てになって果してうまくいっているのか」というのが、本日のテーマだと思います。まず2本建ての問題ですが、保険と自費診療の2本建てというのは何も去年の8月に初めてできた制度ではないんです。つまり、保険がカバーしている部分は保険診療、そうでない部分は自費診療ということで、この2つが併存していたんです。
ところが“差額徴収”という制度ができたために、この2本建てがはっきりしなくなったわけです。つまり、本来自費診療になるべき保険給付外の診療の費用の一部を保険が負担するという“差額徴収制度”ができたために、保険診療と自費診療がゴチャゴチャになってしまいました。
差額徴収制度というのは、保険診療の費用の不足分を自費で払うことではなくて、自費診療の費用の一部を保険が負担するということなんで、差額徴収の対象になっている診療は、本来自費診療なんですね。
ひとつ具体的な例を上げると、例えば保険の給付外の金冠であれば明らかに自費診療ということになります。この費用が仮りに1万円だとします。この費用は本来、全額を患者が自費で払うべきものです。
しかし、その費用の一部を保険が負担しようということで、金冠に類似した医療行為で保険給付の対象になっているもの、例えば銀合金の費用だけ保険からお金が出れば、患者さんの負担は軽くなるわけです。この費用が仮りに1,000円だとすると、結局、9,000円を患者さんが払うことになりますが、この9,000円は自費診療の費用であることに変りないわけですよ。結局、差額徴収制度のあった時代もずっと2本建てだったことはまちがいないんです。
ですから、「2本建てになって何が変ったか」と聞かれても、何も変るはずがない、ということだと思うんです。
強いて言えば、差額徴収制度を廃止した“2本建て”ということになって、患者の負担が増え、保険者の負担が減ったということでしょう。そのぐらいの変化しかなかったというところじゃないですかね。


飯塚さんのいうように、制度的には何も変っていないというのが現実じゃないかと思います。
歯科の場合は、最初から、全部を給付するという姿はとっていなかったんですね。私が開業した昭和25年ごろは、義歯は全部給付されていなかったんです。咀嚼能力が半分以上なくなる、8本ぐらいの歯がなくならないと、入れ歯はできなかったんです。それがだんだん拡大されてきているわけです。
しかし、どこまで保険で給付するのか、ということを、歯科の場合には決める基準というのが互いになかったような気がしますね。歯科医の側でも、何を根拠にどこまで給付範囲を拡げるか、また国民や保険者にしても、どういう理由でどこまでやるのかが全く論議されなかったですね。
あるシンポジウムでの能美厚生省歯科衛生課長の発言が載っていました。
つまり「むし歯というのは、国民の大多数がもっている。それは本人の不摂生、不注意に起因するものが大部分だ。これは個人の責任で保険になじまない。しかし、子供のむし歯は考えようでは保護者の不注意による災害だ。子供の時に治療や予防、教育などを公費負担でやるようにする。その代わり、おとなになってなったむし歯は本人の責任だから自費でやれ」ということをいっていました。これは、ニュージーランドあたりが、そうやっています。
厚生省でも医務局にはそういった考え方が前からあるんですが、保険局はまた別なんです。限りある財源をどこへどのように使うかが問題だというのです。これについて徹底的に討議したことはありません。
で、話しを元に戻しますが、「2本建て」で何が変ったのかといっても、差額の保険分がなくなったが、歯科医の自粛で大して変化はないというところでしょうか。

飯塚
ようするにこの「2本建て」の問題点は、自費診療の費用の大きさではなくて、「なぜ歯科治療は保険だけでできないんだ」という気持が国民の間に強いということだと思うんです。保険で全部をまかなう方法はないかということだと思いますね。

仲田
歯科の発展過程はよくわかるんですね。それで、皆保険以前は一般診療も自由診療。これをなるべく保険に吸収していく。一般診療も制限診療であったので、これを保険診療に入れていくというのが医療保障の方向ですよね。
歯科診療も、昔はだいぶ制限があった。しかし、制限すべきではない、というのが世論であり、現体制ですよ。昔のそういった沿革を知っている人はわかりますが、今の人は保険証を出せば、診療できると思っている。これは、一般診療でも歯科診療でも。にもかかわらず、歯科は別料金を取るのだ、という不信があるんですよ。
やはり今は、保険で全部を診てもらえるという建前をとっているんですね。しかし、金冠など特殊な材料を使う時は、経済的にまかなえない部分を保険外にしてもらう。ところが、その保険外のものと、保険診療との差を負担してもらうという差額徴収が、昭和30年にできたわけです。それが42年に拡大されたという沿革だと思っているわけです。42年には、今の山崎日歯会長が中医協の委員の時に「歯科診療の差額の範囲を拡大した方がよい」と発言したわけです。


速記録に残っていますね。

仲田
その時は、「14金を16金にすればいい」と言っているわけです。保険給付を16金にすれば、問題はないと発言していました。また、14金か16金かは、専門家の意見に従わざるを得ないわけなんですが……。
金の話でいえば、日本人は歯に対する金の作用を高く評価しているかどうか知りませんが、占領軍がその当時、「一般医は薬を売って、歯科医は金を売って生活して居るのはおかしいではないか」といっていました(笑)。この内容が事実かどうかは、知りませんが……。
ところで、中医協では支払側、診療側とも42年までは、差額というものを認めているんですよ。そして支払側としては、従来から「差額は材料費に限る」ということを主張しているわけです。その当時、日本医師会は何も言っていなかった。
それは、42年の通達によって差額が拡大してきた、という経過です。その後、歯科医師の姿勢は、差額の方が保険ベースよりも収入を増大しやすいという考えがあったんだと思うんです。42年の時もそうですが、支払側は、ことあるごとに「差額は材料費に限る」といってきているんです。そして、49年に、当時の斉藤厚生大臣に「いつまでも差額問題を放任すべきではない」と詰めよって、差額問題が諮問になったという経過があるわけですね。


そういう経過があって、今日まできているわけですが、その“差額”という感じは、受診者としては、9割ぐらいは保険でみてくれて、1割ぐらいを自分で払うという感じだったと思うわけです。

仲田
ええ、そうだと思います。


ところが、実際はそうではなくて、上乗せするものが大きくなってしまった。これが、材料だけの差なら、そんなに大きくはならないわけです。では、なぜそうなったかというと、ベースになるものが今日まで上がってこなかったのだと。
東大の新聞研究所の高木助教授が「歯科医は、差額があるから診療報酬点数の改定に努力しなかったのだ」といっていますが、そしてそれは今日のような問題を引き起こしたと……。しかし、これは歯科だけの責任じゃない。

仲田
その診療報酬うんぬんは、中医協でも私たち支払側がいっていると思うんですよ。


ええ。

坂田
差額というものがあるのだから、それに依存するというとことばが悪いですが、それによって一般の保険点数の改定を怠ってきた、ということはあると思うんですよ。
そのため、差額制度を材料費に限定するとなると、医者全体の収入が減るということになる。したがって、すぐ材料費というのもむずかしいだろうということで、逐次保険のなかに3年ぐらいでやっていったらどうかという考え方が生まれるわけですね。
そこで、日歯の幹部がいっていた、これに私も同感なんですが、中医協はいつも一般診療の問題ばかりやっていて、終りのちょっとの時間で歯科問題をやるわけですね。歯科についても、「この辺に不合理があります。もう少し議論しましょう」と発言しようとしても、一般診療の問題でごたごたして時間がない。この点はよくわかる。本来は、一般診療は一般診療でやる。歯科は歯科でやるということでしょうが……。
支払側にとっても、歯科の問題は難しいのに、簡単に終っていたと思うんです。


支払側にとっても1/10ですからね。

仲田
議論が尽くせなかったという点は、残念だったと思います。

中医協では「終りのちょっとの時間で歯科問題をやる」のは、今でもそうだ。歯科は明らかに軽視されている。その一方、歯科側から出される資料や提言も、圧倒的に医科より少ない。軽視されているという現状を変える努力、特に歯科的なエビデンスを積み上げる努力をあまりにもしていない。日医は独自調査をやっているではないか。

武見太郎、歯科の搾取構造を批判

高度の技術を社会保険ではどう取り扱っているかといいますと、医学の場合には、どんな高度な技術でも健康保険で扱うことになっています。これは日本医師会が20年来努力を重ねて、新しい開発技術を社会保険に導入する努力を一瞬たりとも忘れないでやってきた結果なのです。新しい技術が開発されれば必ず疑義解釈委員会で問題とし、それに対する適正な点数を与えられるということです。
ところが高度な技術導入する場合、新しい点数設定をしないで、古い設定された点数を準用する、技術は新しいが点数は古いものを準用するというのでは、技術と経済とがまったく裏表をなしていない行政措置で、これを行政権力によって推し進めていたところに、問題があったわけです。しかし、日本医師会が多くの犠牲を払ってでも新しい開発技術を保険に導入することを強力に進めてきたのは、実は新開発技術が国民の生命と直結するものであり、医療福祉の基本をなすものだからです。
では、歯科の場合はどうか。歯科は口の中のことです。歯科の特殊性といつもいわれますが、私がいいたいのは、口の中といえど人体の一部であり、神経支配も血管支配も筋肉も変わりがないわけです。それを歯科だけの特殊性と、特殊な技術があるようにいうならば、医科の技術もすべて、臓器ごとに特殊性があります。歯科だけの特殊性を、私は認める意思はありません。
(武見太郎「国民医療非常事態宣言 21世紀は慢性肝炎が国民病になる」1979年)

という武見太郎・日本医師会会長の、歯科差額徴収批判である。

歯科の技術料というのは、実は技工士がやって歯医者さんは何もタッチしていないのに、技術料という名目で、技工士さんの技術料よりもはるかに大きなものがプラスされる。それも技術者に対する診療報酬は、歯医者さんが自分で設定できることになっているわけです。これは昭和42年に保険局長および課長通知があり、健康保険法、ことに療養担当規則とはまったくそう反する通達を出したことに原因があります。これによって歯科の先生たちは、自分たちの技術にしたがって差額を取ることができるという、非常に安易な錯覚に陥って、最初はこまごまとした差額だったものが非常に大型化して、世論の反撃にあったというのが事実だと考えています。


ちなみにこの頃、医科でも室料差額(差額ベッド)が批判されていた。それについて武見は「医療の内容については差別がない」と言いわけしているが、大部屋だとナースがなかなか来ない、なんて話はゴロゴロあった。

歯科での新開発技術は医科ほどありません。そのかわり材料は新しいものが次々と出てくる。それを保険にわざと採用しないで積み残していったわけです。自分が患者さんに請求する種を、ますますふやしていこうという考え方です。
医科は新開発の技術を逐次導入していますが、歯科医師会は非常に怠慢で、ひたすら差額徴収の根を太らせることばかりを考えていた。これは社会保険の公共性とそう反する行動が歯科医師会に免許されていたといっても過言ではないと私は思います。局長通達、課長通達がこのような矛盾を免許したわけです。したがって、免許された以上、いくら取ろうとかまわないというむちゃくちゃなことになって、今日の大混乱をきたしたわけです。
(略)
36年以後の社会保険診療ではわれわれは保険医総辞退をもって闘い、制限診療を撤廃したのですが、歯科医師会は積み残しをわざとやっていたので、積み残された部分があまりに多くなったわけです。しかし、毎年の診療報酬の引揚に際しては、医科とは同率あるいはそれ以上の率で、しかも診療報酬の引き上げが行なわれてきました。それはあくまでも除外例である差額徴収を温存しながら、その他の部分で上げてきたということで、診療報酬の引き上げが正しくなかったことも、新しく指摘しなければならないと思います。


で、ちょうどこの本が出版された時期から、歯科の診療報酬改定率は医科のそれを下回るように↓

診療報酬改定率医科歯科

ブリッジの方法とか、その人の健康水準の維持に必要なものならば、歯だからといって自己負担を許しておくことは間違いだと思います。だいたい日本の歯医者は金を売って食べているということは、占領当時のリジウェイ歯科部長が指摘したところです。私は、金だけの問題ではない、次々と新しい材料が出ていますから、これらが全部導入されるか、あるいは材料だけに差額徴収が限定されるならば、国民は安心して自分の口の問題を、医科を信頼すると同じに信頼していけるようになると思うのです。
そのほかポーセレンの技術にしても、保険診療で給付されないということは、理に合わないと思います。ポーセレンというのは、つまり陶磁器をこしらえるような形で歯をこしらえるので、たしかに一つ一つが高度の技術で、レディーメイドの入れ歯ではないのですが、それらの点については、私は材料の差額を認めても差し支えないと思います。
しかし、技工士に全部委譲している今日の状態では、このやり方も変えなければなりません。医科の場合には、整形外科ではコルセットをコルセット屋がつくりますが、コルセット屋さんに支払う金額は健康保険で規定されており、医師はそれ以上のピンハネはしないようになっています。現在、歯科技工士がした技工料の何倍かを歯科医師が請求しているということは、医師の世界にはまったく見られません。整形外科のコルセットの例は非常にフェアないい例です。
歯科技工士の技工料を健康保険で定め、歯科医師が技工士に託した場合には技工料は健康保険で払う、一定に決めてピンハネはしないということになると、技工士の責任と歯科医師の責任が明確になると思います。もちろん技工士さんがどんなに優秀でも、すぐぴたりとはまるわけはないので、はめるにはいろんな操作が必要でしょうが、それは歯科の技術料として私は請求できると思うのです。


まともな意見だ。というか、フツーに考えればこういう意見になるのである。ピンハネが良くないなんて中医協で議論するまでもない、常識である。

私は公共経済学的な立場に立って、厚生省がこの問題を解決することが必要であると思います。具体的にいうと、差額徴収のすき間を通達で与えたという点を、監督官庁としても反省しなければなりません。また療養担当規則違反をみずから犯した厚生省の行政責任は、追及されなければならないと思います。同時にまた、この問題の解決のために大幅な技術料引き上げを歯科だけに許すということは、毎年医科と同じように引き上げを積み重ねてきたことに照らしても、私たちはこれを認めるわけにはいきません。
歯科が差額徴収を社会保険の場において正当化しようとすることは、やみ行為の正当化で、真実の行為ではないと私は考えます。そして、どうしても歯科の先生方には自分たちの使命を再確認してもらわなければなりません。


考えてみれば、差額徴収をOKしたのも、7:3の大臣告示を潰したのも、歯科技工の海外委託をOKしたのも、みんな課長通知という紙切れ1枚であった。官僚を嫌い抜いていた武見からすれば、身も蓋もなく官僚べったりの団体が歯科医師会であったろう。悲しいのは、だからって歯科が行政的に重んじられているかといえば完全に真逆でめっさ軽んじられていることである。それ見たことか、と天国の武見は思っているであろう。

日医、GHQより人体実験を打診される

昭和25年、日本医師会副会長だった武見太郎が、GHQから人体実験を持ちかけられたという話。

サムス准将のところへ行くと、彼はたいへんなごやかな顔をして、「発疹チフスは虱からくるという話があるが、ほんとうかどうか証拠があるか」と聞くので、私は「証拠はございません」。「アメリカにも証拠がないんだ。それならひとつ、医科大学の学生に虱をたからせて、発疹チフスになるかならないかやってみろ。厚生省はやってもいいといっているんで、実施段階は日本医師会がやれ。おれが命令するんだ」といいます。
(武見太郎「国民医療非常事態宣言 21世紀は慢性肝炎が国民病になる」1979年)

「厚生省はやってもいいといっている」って、マジか。全数把握の4類感染症だぞ。ふざけんな。
発疹チフスの致死率は10〜40%で若年者であれば低いといわれているが、「アンネの日記」のアンネ・フランク(享年15歳)の死因も確か発疹チフスである。高熱や嘔吐があり、幻覚も出て患者はすごく苦しいそうだ。

それで私は「それじゃ100%治る薬がございますか」と、ないことを知っていたが、しらばっくれて聞いてやった。そうしたら、「100%とはいかないけれども、オーレオマイシンならばたいてい治る」という。人権尊重などといって日本に乗り込んできた野郎が、ふざけた話をするにもほどがあると思って、私は腹の中がむかついたけれども黙って話を聞いていました。
「1人でも犠牲者が出ると相すまないから、私は学生を人体実験するわけにはまいりません」と答えたところが、今度は何をいうかと思ったら、「そんならば死刑囚でやれ」という。私は、「死刑囚でも生きている間は人権は守られなければならないから、できません」といいました。すると、テーブルの上に足をガタガタッと載せて、「おまえは戦争に負けたことを知っているか」という。「あれは軍人が負けたんで、ぼくらが負けたんじゃありませんよ。日本の医学は負けておりません」。そうしたら、「おまえは赤だ、おまえみたいなやつは出ていけ」というので、私は喜んで出ていった。

GHQはこの命令を厚生省の役人に直接、下したという。厚生大臣の頭ごしに。
当時の厚生大臣は林譲治。吉田茂のいとこで、武見とも親戚関係である。

実情を話したら林さんが、「それはとんでもないことだ。そんなばかなことをいったんなら、おれがこれから行って談判する」といいましたので、ある局長が「大臣、そんなことなさったらたいへんです」という。「サムスが怒りますし、通訳が怒ります」という。
これが役人の真骨頂です。私は、戦前、戦中、戦後を通じて、役人の正体をこれくらいはっきりつかんだことはない。国民を売り、国を売ることに平気なやつが、役人という生物です。


サムスはこの件により、日医会長の田宮猛雄と同副会長の武見を不信任とする意向を厚生省に伝えた。その後田宮と武見は、日医の会長・副会長をそれぞれ辞任している。
なお、同書によれば厚生省の役人はサムスに「女を世話し、料亭を世話する。あらゆる屈辱的なことをやって歓心をかい、役人の点数を上げていこうと」もしたという。まあ、それにはいまさら驚きはしないが、吐き気も納まらない。

武見太郎の内科助手時代

後の日本医師会長、武見太郎の回想録より。
武見は昭和5年に慶應義塾大学医学部を卒業し、内科の助手となった。新米の助手は「三等病室」か「施療病室」を受け持つことになっていた。

ある日、私は職員出入りの小使いさんに頼まれて四谷谷町へ往診したことがある。そこは荷馬車屋さんで、言ってみると馬が下から顔を出している。患者さんはどこにいるのかと思ったら、馬の上に板敷きの2階があってそこに寝ていた。馬の鼻をなでながら縄ばしごで2階に上がって診察すると、肺炎のまっ盛りで心臓も衰弱しており、動かすこともできない患者であった。熱も40度を越していた。薄いせんべいぶとんでシーツも汚れていて、見るに耐えるものではなかった。食事もおそらくとっていないのだろう。台所は私がさがしたところでは2階にはなかったし、下にもなかったように思う。どこか共同の場所に台所と称するものがあったのかも知れない。私ははじめての見聞で、目を丸くしたことが少し恥ずかしい思い出として記憶にある。壁はなし、すき間風はすうすう吹いている。おかみさんは案外でれんとして、積極的に看護をするような態勢もみせていない。
それで私が「直ちにかやを張ってその中で水蒸気を立てておきなさい」と注意すると、「かやはありません」とあっさり返答された。あとで聞くと、当然質屋にはいっているのが常識だそうである。
(武見太郎回想録、1968年)

東京の貧民街の様子がわかる。台所や水場がない家は珍しくなく、だから米もといだものが売っていたという。

この谷町周辺の人たちは、病気になるとたいていカード階級(生活保護世帯)の人たちであったので、いつも施療で入院していた。入院ベッドは三等病室と差がないので、この人たちにとっては天国かと思うと、自宅のほうがやはり天国であったらしい。この人たちが早期退院を希望する姿をみていると、やはり病院は窮屈な、あまり気分のいいところではなかったようである。私は小使いさんや掃除婦のおばさんに往診を頼まれて断ったことはないが、だいたいいつも手遅れであった。そして、入院するよりほかにどうしようもないくらいで頼まれることが多かった。もちろん、病院に勤めている人たちが病気の時は、外来のすんだ時にちょっとみて下さいといわれたけれども、この世界に住んでいる人にはおよそ医療とは縁遠いものであった。生命を大事にするという考え方に徹するところが少ないことと、これらの生活とは何らかの関係があるのではないかと思っていた。またこの世界には、その中に融け込んでほんとうにその人たちの生活を守ってやる組織ができていなかった。方面委員という制度が私の学生時代からできていたが、今日のような完備した制度にはなっていなかった。
わたしがいちばんしゃくにさわったのは、家族が本気になって養生させようとしないなまけ者の生態であった。かなり不愉快な思いもしたが、よく考えてみると、私のほうに仏心が足りなかったのであろう。そういう時、私は家へ帰ってくるとまず、シラミがたかっているといけないので、ズボンをはきかえる習慣になっていた。母はそのたびにズボンを片づけてくれて、「きょうもまた谷町通いかい」といっては、きまって「ほんとうに人を助けるということには仏心が必要なんだ、自分たちと同じと考えるのは間違いだよ」といつもさとされた。この母のさとしがなかったなら、私は谷町への往診を断わることがあったかも知れない。


武見の所属していた慶應大学医学部附属病院は、「小菅刑務所の委託患者」も引受けていた。学生の解剖実習のためである。刑務所で不治と診断されたものが「西病舎」で入院生活を送り、死亡すると解剖実習で使われた。この西病舎の患者は瀕死重態でも「悪党魂」を発揮するものがあり、また、みずから罪状をざんげして医師や看護婦を拝んでくるものもいた。「たまにはよくなるのもいて」脱走に及び、武見はその責任を問われて始末書を書いている。医師が患者を治すことが、まったくの是ではない世界がそこにはあった。

東京に佃政親分という人がいた。この人の子分がまた私の患者であった。そういう関係で大親分の家に出入りすることがたびたびあったが、江戸の侠客のなごりをとどめた生活が現代に残っていることをはじめて知った。いわゆる任侠の世界というものの存在した理由もわかるし、次第に消えていく理由もわかるような気がした。後の私は頭山満翁の主治医になったが、任侠の世界もこのへんまでいくと一国の大宰相に相当するものがあった。


武見の患者に著明人、特に政治家が多かったことはよく知られているが、政治家に限らず、リーダー的(親分的)存在に好かれる体質だったようだ。なお、武見がもっとも苦手とした患者は「一等病室にはいるおめかけさん」だったという。基本的に女嫌いだったのだろう。

子供の人格を形成する技法

フレッチャリズムとは、アメリカの元ビジネスマン、ホレス・フレッチャー(Horace Fletcher,1849-1919)がて開発した「咀嚼運動」である。20世紀初頭の十数年間、欧米には熱狂的な支持者がいた。当初はなんと社会改革の一環、特に子供の人格を形成する教育技法として導入されたらしい。

性格形成は環境によるものだと見ていたフレッチャーは、何を食べるかという古代から近代初期までの食餌法によってではなく、いかに食べるか、いかに噛むかによって(それによって栄養も左右される)自己が成型されると考えた。完全咀嚼法はいくつかの仕方によって行動を改善させる。例えば、噛んでいる時間の長さは忍耐と我慢強さを教える。フレッチャリズムを信仰する者の中には、子供だけではなく犯罪者も従順になると信じるものまでいた。
(鈴木晃仁・石塚久郎編「身体医文化論舷餌の技法」2005年)

確かに食べ方には人が出るとは思うが、よく噛むことで犯罪者をも正するというのは可能なんだろうか。警察沙汰になるほどヒドイ飲み方をする人がいるが、入院しても良くならない場合は多々あり。
なお、カフカヘンリー・ジェイムズもフレッチャリズムを実践していたそうである。両者、ヘルシーなイメージがまったくないんだが。

保険医療機関と保険医の二重指定について

武見太郎「医心伝真」より、保険医療機関と保険医の二重指定について。

これは京都府立医科大学病院での話である。もちろんここはれっきとした保険医療機関である。ここに名医といわれる有名な外科の教授がいた。ところが、その教授が保険医の登録申請をしていなかったために、過去数年間にわたって支払われた患者の手術料を当の医科大学病院は返還せざるをえなかったという、奇妙な話がある。
一流の大学教授でさえ「保険医」という法被を着なければ、保険診療は行なえないのだ。(略)
この保険医療機関と保険医、保健薬剤師、看護婦との関係は、まさに医療労働組合の形をとった共産国家方式そのものである。共産国家においては、医師選択の自由が国民にはない。日本では一応医師選択の自由はあるが、本質的な姿は、共産国家の医療体制と変らない。国民皆保険に備えた保険官僚の深慮遠謀といえば、その本質は見当がつくであろう。


歯科医師を雇用して、訪問歯科診療をさせている内科医がいる。訪問歯科診療なので、本来なら外来の歯科診療所は必要ない。しかし歯科診療報酬を請求するには歯科保険医、そして歯科保険医療機関の2つが必要なので、わざわざ使わない歯科診療所を設置しているのである。壮大なムダと言わざるを得ない。

保険医総辞退

武見太郎「医心伝真」より、保険医総辞退について。

日本医師会が保険医総辞退という挙に出たとき、ストライキと間違えたジャーナリストが、はなはだ多かった。医師が患者の診察を拒むのはストライキであり、これは人道に反する。しかし、患者のためにも、医師のためにもならず、患者と大企業、第労働組合にのみ奉仕する、不当な社会保険を、国民の手に奪還しようとする医師の保険医総辞退に対して、スト呼ばわりをするのは、全く無知な表現そのものである。
これは人為的なストライキとは全く異質のものであり、患者の診療を拒否した形跡は全くなかった。

これは詭弁。その日は健康保険が使えないのだから、保険加入者にとってはストと同じである。当時の日医および武見太郎会長が、庶民の理解を得られるよう心を砕いた形跡もない。武見は政治家を操るのには長けていたが、マスコミや庶民への対応は悪すぎたと思う。貴族趣味というか。

漁村の生活実態調査

後の日本医師会長、武見太郎の回想録より。武見は慶應の内科を辞めて理研に行くなど興味の幅が広かったが、歯科疾患にも注意を払っていたようだ。

昭和4年の夏休みのことである。寄生虫学の小泉丹教授に引率されて、漁村の生活実態調査のお手伝いをした。場所は新潟県出雲崎町で、良寛和尚の生地であった。ここは純漁村といえる数少ないところであるが、同時に肺結核と結核性脳膜炎の多発地として知られていた。小泉教授がこの土地を選んだのは、寄生虫を中心に純漁村の実態調査をする計画を持っておられたためである。
この時の調査はきわめて周到な用意のもとに行なわれた。たとえば、栄養の調査についてはあらかじめ用紙を配布して書き込んでもらっておき、どういうものを食べたかを宿屋で集計し、翌日は黙って食事の時間にのぞき込みに行く。そして、きのう食べたものと違いがあるかないかを調べる。私が最も驚いたのは、無知な人々がこういう調査に対してあまりにも真実を語ってくれないことであった。


食事内容を正直に申告できないのは、無知だからではなく恥ずかしいからだろう。何をどう食べているか、はその人の生活&経済状況を表すものだからである。小学生の頃、粗末なオカズが恥ずかしくてフタで隠しながら弁当を食べる同級生はいなかったか、と武見にいいたいが、いなそうだ。
さて、調査の結果、村民は「とりたての雑魚で売り物にならないもの」を山盛り、ごく少量の野菜、「非常にたくさんの」白米を食べていた。「この土地の耕地面積は非常に少なかった」という。小学生児童の身体検査の結果では、体位は都市児童よりも悪く、回虫がきわめて多かった。また、「特別な貧血」が非常に多かったという。
武見がこの出雲崎の調査結果を農政局長の石黒忠篤に見せたことをきっかけに、農林省が小泉教授に研究資金を出資し、農村の医療経済実態調査が実施されることになった。昭和8年ぐらい?

新潟県中魚沼郡真人村の近くの部落を選び、1年間各科の助手が行って実態を調査した。最初のマスタープランを作るときに私は参加したが、その時小学校で子供たちに聞いてみると、歯をみがいている子供は1人だけだった。それは村長さんの子供で、ほかには歯をみがいている子供がいない。そこで、ライオン歯磨に頼んで1ヵ年分の歯みがき粉と歯ブラシの寄贈を受け、歯科の医局員が出張して学校の校庭で毎日朝礼と一緒に歯みがきをやらせた。


慶應に「歯科の医局員」がいたとは。
ちなみに、武見の患者に朝永振一郎がいるが、初診の主訴は歯槽膿漏による発熱だった。歯周疾患に内科医が関心を向けるのは、珍しくないのかもしれない。在宅医療が発展する昨今では、歯科医を雇って訪問歯科をやらせている内科医もいるぐらいであるし。

この地域の健康度は非常に低かったし、平均余命も予想よりは数年短かった。また、老衰現象がはなはだしく、44〜45歳で東京の60歳以上の様相をしていた。村としての生産は農産物と林業以外にはなく、あとは出かせぎであったが、1軒1軒の生産力を調べるときにはおじいさんやおばあさんがそれに対してどのような役割をするかということまで調べた。成年男子を10とすれば、よぼよぼのおじいさん、おばあさんでも、また、そこの手伝いや子守りまで、人はすべて1とか2とかいう指数を与えられた。このような原始的な経済調査でも、やってみると案外スムーズにデータを処理できることが確かめられた。
1年間のこの地域の研究データがまとめられて農村経済厚生部に提出され、これによって産業組合の医療進出が実現することになった。当時の農林省の産業組合課長は田中長茂氏、担当事務官は蓮池公咲氏であった。これらの人々はたいへんな情熱をもって医療利用組合を指導し、農村に病院を作らせ、さらに無医地域の解消というだけにとどまらず、農民の健康管理指導にも尽力した。自然、私も情熱を燃やし、協力することになった。


当時の日本医師会は、産業組合の医療進出に真っ向から反対していた。で、その当時の日医会長は慶応大学医学部長の北島多一だったので「慶應内科の西野忠次郎博士は北島教授に遠慮して、私が農村医療に関与しているのをあまり快く思っていなかった」という。
しかし、後に武見は「北島学部長は大きな視野から医療利用組合の都市進出には反対していたが、無医地区の解消はそのような方式でなければできないとし、これを認めていた」と知り、「産業組合の医療経営という構想は、資本のない辺地では当然起こるべくして起きたものであり、北島学部長の人物の大きさを私はいまさらながら敬慕している」として、西野忠次郎博士をひとり悪者にして責めている。西野がビビッて北島と話し合いもしなかったのが悪かったんだ、と言いたいようである。が、医師会が産業組合や医療組合の病院進出におとなげなく反対しまくっていたことを考えれば、西野忠次郎が北島多一に遠慮するも当然であろう。大体、医師会は都市と「資本のない辺地」の区別なく、組合病院進出には強硬に、真っ向から反対していたのであり、戦後も地区医師会が官立病院設立に反対運動を繰り広げていた例はめっさある。まあ、医師会がそうだから武見もそうだったとは限らないし、その手の医師たちを武見は「欲張り村の村長」と呼んだのであろうが。
なお、この本は武見が日医会長在任中に書かれている。

医師会が全開業医からその存在の脚光を浴びたのは

後の日本医師会長、武見太郎の回想録より。
武見は昭和13年に銀座に診療所を開設し、京橋区医師会、東京市医師会、そして日本医師会の会員となった。日医の会長に就任するのは昭和32年4月である。

戦争にはいり、物質統制が行なわれると同時に、医師会は医薬品の配給機関となった。医師会で医薬品を配給することはたいへんな恩恵であり、医師会が全開業医からその存在の脚光を浴びたのは、戦争の物質欠乏の時の配給機構となったおかげであろう。


戦前から医師は学位をとるのが当たり前で、医局生活が長い。よって、医師会よりも医局や学会や医会のほうが重要性が高かった。

戦争が苛烈になるに従って、医師会は軍と官僚の司令を伝達する場所に変わっていき、昔の親睦機関的な性格は次第に薄らいでいった。地域の救護活動が組織的に行なわれはじめたのもこの時代のことである。戦争に突入してからの医師会は、改組を命ぜられて完全に軍の統制化に入った。戦時統制としてはやむをえなかったのであろうが、そうなった時に、私は大学卒業後10ヶ月間、近衛兵第3連隊で衛生部幹部候補生として軍医少尉に任官していたので、その時の知識がかなり役立った。町の開業医は親切で、患者の心理を理解することに秀でていたけれども、組織活動についてはきわめて不得手であった。私のように軍隊生活をし、軍医少尉になっている人間は多少その間で組織活動の経験をもっていたので、皆から重宝がられて使われることが多かった。
(略)
食糧の困難や物資の困難が次第に大きくなってくると、医師会の配給も次第に細くなってきて、それだけでは心もとなくなった。粗悪なヤミ物資が流れ、そのために医師が非常に困難をきたすことがあった。切れないメス、皮膚を通らない針、こわれやすい注射器……。日本の医療水準は全く医師の個人の努力で維持されるという悲惨な状態に陥った。この当時の医師会の人々は商魂ならぬ医魂がみなぎっていた。どんな苦労をしても自分の患者の家族に対しては最善を尽くすという努力が、涙ぐましく行なわれた。

日本医療団――医療国営を目指した組織が設立された頃なのであるが。

日本の人口は将来どうなる

労働者が減れば税収も減るのだから、「経済最優先」とは、まずは少子化の改善であろう。

推移
▲このままいけば日本人は絶滅。
出典:平成27年 人口動態統計月報年計(概数)

にもかかわらず、与野党ともに及び腰な少子化対策。出生数が右肩上がりになるまで国会議員を100人に減らして少子化対策財源つくりますよ! まずはウチが全員辞めます! ぐらい公約したらどうなのか。なお、国政選挙/回に600億円ほどかかるそうである。議員数を減らし、ネット選挙を実現して、妊娠・育児助成金の財源をつくればいいと思う。

産めよ増やせよの時代はどうやって産ませてたのか――を調べていたら、90年前にすでに人口減が懸念されていたので驚く。

昭和2年度の人口自然増加概数は

出生 205万9364人
死亡 120万9313人
差引増加 85万0051人
(内閣統計局)


昭和元年の増加94万3671に比べると、9万3620人を減少した――ということで、「日本の人口増加率も世界なみにこれから減少して行くようになったのでは」という昭和3年東京朝日新聞の記事である。なお、明治初年来の出生数の状況は、

明治5年 57万人
同16年 100万人
大正4年 150万人
同9年 200万人
昭和元年 210万人


と、どえらい勢いで増えている。昭和2年の出生率(人口1000人あたりの出生数)は33.6。2015年の出生率は8.0だから、今の約4倍の出産があったということである。
各国の出生率はというと、

イギリス 18.7
フランス 18.8
イタリー 27.2
ドイツ 19.5
スイス 18.2
オランダ 23.8
スェーデン 16.9
イスパニア 29.3
△カナダ 23.1
△アルゼンチン 32.1
△オーストラリヤ 23.2
▲1926年、△は1925年現在。

日本の子だくさんっぷりはラテンを超えていた。

問題は何故にかくも日本に出生数が多いかということになるが、これについては学者や為政家によって種々の説を唱えている。それ等の説を総合すると、大要次の如くいえる。

1、雑居主義のため
――日本人は西洋人と違って一家族が雑居するために、妊娠する場合が多い。

2、出生を結婚の前提とする思想から
――日本人は、結婚することは直ちに子供を生むということを習慣的に考えて、出産に対して人為的に制限を加えたり、全く子供を生まぬことを考えたりしない人が多い。

3、魚食するから
――魚油は繁殖率を多くする。その実例は港町と山間の町との出生率を比べると分る。西洋人が肉食を主とすることは出生率を少なくする一因である。

4、まだ外来思想の影響を受けることが少ない
――産児制限や避妊法を行うことが少ないからである。

5、文明病(神経系統の病気)や花柳病が割合に少ないため
――神経系統の病気は繁殖率を少なくし、花柳病が人口の減少を来たすことはアイヌ人を見ると分る。

「一家族が雑居するために、妊娠する場合が多い」ってどういう意味なんだ。部屋がないからナニもできない、というならわかるが。
明治初年以来の死亡数は、

明治5年 40万人
同41年 100万人
大正7年 150万人


で、死亡率(人口1000人あたりの死亡数)は19.7(朝鮮は20.7、台湾は23.7)。2015年は10.3だから、今の2倍近く葬式がある感じか。

各国の死亡率は、

イギリス 12.4
フランス 17.5
イタリー 16.8
ドイツ 11.7
スイス 11.7
ベルギー 13.0
オランダ 9.8
スェーデン 11.8
イスパニヤ 19.7
カナダ △9.8
アルゼンチン △13.9
オーストラリヤ △9.5
▲1926年、△は1925年現在。

日本はかなりの多産多死国であった。
自然増加率(出生率−死亡率)は、

日本 13.9(朝鮮17.6、台湾14.6)
イギリス 6.3
フランス 1.3
イタリー 10.4
ドイツ 7.8
オランダ 14.0
スェーデン 5.1
スイス 9.6


2015年の日本の自然増加率は−2.3である。

日本でかくも死亡数の多い原因としては、次の如きものが挙げられている。

1、乳児死亡率が多い
2、青年死亡率が多い

(1)は、遺伝梅毒、乳児脚気等による母体の不完全から起るものと、住宅が開放的なために起る呼吸器病、雑居主義によって起る授乳回数の正しくないためから起る胃膓疾患が原因となっている。(2)は、教育の過重による学生の死亡、せんい工業(製糸紡績等)の発達による女工の死亡が増加したためである。


この頃から、日本では若者の自殺が多かった。

フランスの如きは、1820年頃からその(註:人口減少の)傾向を現し、為政者学者はその対策に腐心しつつある。同国の人口減少の原因としては、男女平等に遺産を分割する遺産制度や国民の逸楽主義等が大いに与って力があるといわれている。これが対策として、3人以上の子持ちの家庭に対しては、出産奨励金、選挙権の拡張(複数投票)兵役免除等の特点付与が研究されている有様である。
今、主要国における人口減少の傾向が現れた年次を示すと、左の如くなる。ここで注意すべきことは、フランス統計学者ベルチオン等の主唱した併行率の法則で、出産が減少すると死亡数も減少することである。これは、死亡する根原である出生数によって起ることも明かであるが、これ以外に何等かの理由があるだろうといわれているが、まだ明かとなっていない。

フランス 1820年頃
ドイツ 1870年頃
イタリー 1890年頃
オランダ 1880年頃
デンマーク 1885年頃
オーストラリヤ 1870年頃
ニュージーランド 1880年頃

結局、日本の人口も近い内に、各国並に減少の傾向を取るようになるのではなかろうか。


子どもを多く産めば「出産奨励金」と「選挙権の拡張(複数投票)」が与えられるというのは、有効かもしれない。
なお、日本は出生率に加え死亡率も低下したので、世界一の高齢化率(65歳以上/総人口)となっている。早急に手を打たなければ、社会保障の維持も不可能だ。アベノミクスなんぞ経済最優先どころか、経済を完全に後回しにする策としか思えないのだが。

なんで創価学会は公明党は安倍さんとグルになって好き勝手やっているのでしょうか

動画:創価学会員が公明党に「無理」宣言
2016年7月2日、渋谷の三宅洋平選挙フェスで、4世代続く創価学会信者の創価大学生が、今の公明党がやっていることは創価学会の本来の教えに反していると批判し、創価学会員に、自分で考え行動しよう、と呼びかけました。


すごい勇気だ。
「権力を批判しない宗教は宗教じゃない!」
いや、まさしく。
コレを聞いて、知人の創価学会員がムチャクチャ言うのに慣れてしまっていた自分を、反省した。ムチャクチャとは、例えばシャカが唯一認めたのが日蓮である、とかである。釈迦と日蓮じゃ時代がまったく違うし、そもそも創価学会は日蓮正宗から破門されているのだが、反論するのにも疲労を感じる。というのも、実家の前の家が創価学会員で、選挙の際のうるささたるや大変であった。公明党候補の話から、いつの間にか池田大作の話になってるし。ホント、思い出すだに疲れる。しかし、上記の創価大生、創価学会男子部の竹原弘樹氏は「実家の前の家」どころか、一族郎党友人知人の冷たい視線を押し切って、反公明党宣言をしたのである。創価学会幹部からは「安保を批判すると地獄に落ちるぞ」と言われたそうだ。疲れている場合ではない。

日刊ゲンダイの記事:ハチ公前1万人 三宅洋平“選挙フェス”に創価大有志が参戦

それにしても、自民・公明が強い土地が「保守地盤」というのはもはやナゾである。
保守主義とは「現状維持を目的とし、伝統・歴史・慣習・社会組織を固守する主義」(岩波「広辞苑 第6版」)のことであるが、自民も公明も改憲派で、しかも日本の歴史も無視しているんだが。「とりあえず護憲」という三宅洋平氏が左派扱いなのもわからない。左派って、改革派のことじゃないの? いつのまにか「あべこべのくに」(by長田弘)にまぎれこんでしまった気分である。

「ねむりのもりのはなし」長田弘

いまはむかし あるところに
あべこべの くにがあったんだ
はれたひは どしゃぶりで
あめのひは からりとはれていた

そらには きのねっこ
つちのなかに ほし
とおくは とってもちかくって
ちかくが とってもとおかった

うつくしいものが みにくい
みにくいものが うつくしい
わらうときには おこるんだ
おこるときには わらうんだ

みるときには めをつぶる
めをあけても なにもみえない
あたまは じめんにくっつけて
あしで かんがえなくちゃいけない
きのない もりでは
はねをなくした てんしを
てんしをなくした
はねが さがしていた

はなが さけんでいた
ひとは だまっていた
ことばに いみがなかった
いみには ことばがなかった

つよいのは もろい
もろいのが つよい
ただしいは まちがっていて
まちがいが ただしかった

うそが ほんとのことで
ほんとのことが うそだった

あべこべの くにがあったんだ
いまはむかし あるところに

松井喜三郎、長井兵助、松井源水

かつて浅草観音裏で歯療入歯をなしていた香具師についてのあれこれ。

矢師
商人、一種の名製薬を売るはもっぱらこの党とするよしなれど、この党にあらざるものあり。この小売のうち種々あり、路上の商人多し、歯抜きもこの一種なり、大阪の松井喜三郎、江戸の長井兵助、源水等最も名あり、喜三郎と兵助とは人集めに箱三方を積み累ね、その上に立ちて太刀を抜き或は居合の学びをなし、玄水は独楽を廻して人を集め、歯磨粉および歯薬を売り、また歯療入歯もなすなり
守貞漫稿「類聚近世風俗志」1934年

和田信義「香具師奥義書」(1929年)によると、香具師のなかでも長井兵助や松井源水のように「広い場所を占領して、黒山の如き群集を集めて長広舌を振い、商品を捌くもの」を「大じめ」といった。大じめ師の売るものは「歯薬、眼薬、傷薬、この3種に限られている。その外に胃病薬、頭痛薬、インク消し等々と種々の薬品を売る者もあるが、これらは皆大じめ師の部類には入らない。すなわち小規模のものである」(同)。
大じめ師とはさしずめ、香具師の花といったところか。

昭和4年に東京市が行った露店調査では香具師の分類として一代限りの「コロビ」、親から子へと血縁で受け継がれる「古店(こみせ)」の2種類を設けている。

露店商人の内、いわゆる親分子分の関係を基礎として仲間を結び、一種不文律の掟に従って仲間の統制をつけて行くものは香具師に限られている。
コロビ及び古店の2組合がそれである。これらの組合の親分はいずれもそれぞれの家名を名乗っているが、香具師にとってこの家名は最も大切なものでいかに新進の親分が勢力をふるっても、古くから聞こえた家名に対抗することは到底でき得ないのである。
ことに古店の家名は親から子へ、子から孫へと伝えられるべきもので、古きは数代の長きにわたって家元を継続しているものもある。これを宗家と呼んでいるが、コロビは原則として親から子へと家名を伝えない。すなわち子分の内で最も顔の利くものが親分の跡目を継ぐ。けだしコロビは元来一代限りのもので二代にわたってコロブということは彼等の忌むところか、もし実子にしてコロビの家名を継がんとする場合には他の親分について修行し一人前のコロビ師となって始めてその親分の家名を継ぐのである。
(東京市を中心とする露店商とその組合組織並親分関係、東京市役所「露店に関する調査」1929年)

ちなみに、日本にも中国にも「家制度」はあるのだが、中国の同制度が血縁によるのに対し、日本は仕事(家業)によるという特徴がある。もちろん日本でも直系男子が家業を継ぎがちではあるが、例えば江戸の商家で男子がアホだった場合など、優秀な番頭を娘婿にしたりして“家業を絶やさない工夫”をする。香具師の世界の「実子にして家名を継がんとする場合には他の親分について修行」させるのもそれだ。この手の工夫をしないと家業は劣化していくのである――ということを如実に示しているのが、今の政治の世界である。現在の日中韓の政治トップは全員坊ちゃん嬢ちゃんなんだが、日本の美風はどこに行ったのか。
閑話休題。同調査によれば松井源水はコロビであり、神祖は豊家の家臣だったとある。稀代の香具師誕生のきっかけは、大坂の陣だった。

神祖豊家遺臣 長井長政 長女(曲柄十郎左衛門妻)徳川氏に反抗して香具師団を組織す。
23代 鈴木惣吉
初代 松井源水 右の家柄6代目より分家す。
15代 角川藤三郎 松井源水初代より15代目までの各代松井源水を名乗る。
16代 松井国太郎
17代 後藤松ニ郎 寄居家鹿島峯太郎より出ず。後に松井源水17代を継ぐ、鹿島2代前橋長次郎とは兄弟分。


しかし、松井源水の子孫だという某歯科大名誉教授は、松井姓だった。「他の親分について修行し一人前のコロビ師となって始めてその親分の家名を継」いだのだろうか。

薬価と診察料を分離

1939年5月15日、薬価と診察料を分離するという厚生省・医薬制度調査会案が報道されている。

1、現在の医療報酬は薬価と診療料の区別なく習慣的に定められているものであるから薬価と診察料を分けるという考え方に本づいて合理的に定める。薬価については薬価令を制定し、医薬の原価と調剤手数料をもって薬価を定める、薬価令は医師、薬剤師に適用する
1、診療報酬は委員会を設置してこれに諮問したうえ客観的に妥当と考えられる標準を定める。この標準はさしあたり最高標準のみを定める
薬価と診察料を分離、1939年5月16日付大阪朝日新聞)

厚生省は昭和13年1月11日、戦時下の国民体力増強を担う省として設置された。初代厚相は木戸幸一。同年7月に医薬制度の改善について審議する有識者会議「医薬制度調査会」が発足、歯科からは血脇守之助と奥村鶴吉が参加。

処方箋発行の改善

1、医薬の任意的分業を徹底させようという意味で処方箋の発行方法を改善する
1、医師は診察後必ず処方箋を患者に交付すること
1、処方箋料は取らないこと
1、患者はこの処方箋で医師のもとからあるいは薬剤師から薬価令による価格で薬を購入する
1、この処方箋発行方法の改善案はさしあたり六大都市と他の適当の都市に限って実施する


以上は昭和17年の国民医療法のベースになった。処方箋交付は医師の義務となったが、罰則規定がないために結局は空文化する。

スマトラの日本人歯科医師

吉見義明「草の根のファシズム」より、スマトラで1930〜1941年まで歯科医業を行っていた井田政吉氏についての記述。
井田氏は、歯科医師免許を持ってはいなかった。

井田は、1911年、鉄道員の子として埼玉県熊谷町に生まれ、高等小学校卒業後駅手として熊谷駅に就職していた。しかし、この仕事に満足することができず、スマトラで歯科医院をひらいていた佐川三千弥氏が、一時帰国して医院の助手を探していると聞き、自ら頼み込んで30年12月、パガルアラム(パゲララム)市に渡っていた。
パガルアラム市はスマトラ島の南西部に位置し、有名なパガルアラム・コーヒーの産地であった。周辺にオランダ人経営の大コーヒー農園が5つあり、その労働者は約5000人いた。市内の在留邦人は、雑貨屋兼写真館・質屋・歯科医院の3軒のほか住民と結婚している元小学校教師の女性をいれても10人くらいであった。佐川医院はオランダ人・インドネシア人・華人の患者をみたり、パスマ人の娘の歯を削り、上あごの6本の歯の全部または一部に金冠をかぶせたりするのが主な仕事であった。金冠をつけるのはパスマ人の「ダボン」という習慣にもとづくものであった。彼はマライ語をならいながら、佐川医師から歯科と薬物の学理と臨床についてきびしい指導をうけ、「無我夢中の3年間」をすごした。


インドネシアには1928年にスラバヤに歯科大学が設置されていた。しかし、一般人のほとんど(特に田舎は)「tukang gigi」と呼ばれる無資格の歯の治療師を頼っていたという(森本基「アジア歯科事情」)。井田氏が無資格でも無問題だったわけである。ちなみにこの頃は、日本でもドイツでも、義歯をつくりながら歯科治療をも行う歯科技工師が活躍していた。

34年1月13日、彼はラハトにある佐川分院をまかされて、歯科兼薬局兼家庭薬販売の分院をきりまわし「責任ある充実した日々を過ごすことができた」という。ラハト市の邦人は、ホテル2軒・理髪業1軒・歯科2軒の計10人で、ほかに台湾人経営の写真屋が1軒あった。彼はオランダ語の勉強もはじめ、パガルアラム農園にあるオランダ人経営の共立病院から歯科担当の委嘱をうけた。オランダ政庁から歯科独立営業の許可もうけた。地元の有力者であるムラピ村村長モハマット・アフマッから、長男ノォーの結婚式に招待された(ノォーは戦後南スマトラ防衛軍司令官になったという)。このように彼はラハトでゆるぎない地位を築きつつあった。

が、1940年9月には日本軍が北部仏印に進駐する。
1941年6月には第二次日蘭会商が決裂、翌月には日本軍が南部仏印に進駐し、蘭印と日本との経済協定は破棄される。そして、アジア太平洋戦争勃発し、日本とオランダは敵対国となった(蘭印作戦)。井田氏にとっては生活基盤、交友関係などすべてを失う「無念の開戦」であった。
井田氏は語学力を活かして陸軍軍政要員となり、1942年8月にはパレンバン軍政支部警務部に通訳として勤務する。
1942年11月にはスマトラ軍政実施要領が実行に移され、井田氏は軍からまわされる敵産品を住民に売るために設立されたパレンバン州立タバコ専売公社の理事兼監査役に任命された。1944年には徴兵され、陸軍衛生兵としてプキチンギの病院歯科室に配属された。この時、井田氏は30歳。そして1945年8月16日、日本の敗戦を知る。
プキチンギでは日本敗戦とともにミナンカボウ人の独立運動が公然化し、食糧調達で村に行った炊事班全員が住民に殺されるなど、対日感情は最悪であった。1946年4月末にシンガポールに赴き、そこで1週間抑留され、チャンギー刑務所で所持品検査を受けて、リバティ船で日本に帰国する。

46年5月頃、熊谷にかえり、市街の消失を知った。わが家の消失と弟のビルマでの戦死も知らされた。日本では免許がないので、歯科医院を開くことはできなかった。就職のあてもなく、稲わらから荷造り縄を作る仕事を始め、ついで塗装店を開くことになる。


戦争がなかったら、ラハトで歯科医師人生をまっとうできたのだろうか。しかし、民族独立運動は激化したであろうし。
井田氏は現地のお嫁さんをもらって現地に溶け込み、戦時中は裁判所の通訳をこなすほど語学にも長けていたコミュ力の高い人であったが、現地人を土人呼ばわりして日本語しか話そうとしない日本人移民も、少なからずいたようである。わざわざ移民に行ってその地を見下す、ってどういうメンタリティなんだと思うが。
なお、井田氏に歯科医業を教えた佐川三千弥氏は一時帰国の際に報知新聞の取材を受けている(1942年1月13日付報知新聞)。それによると当時、佐川氏はスマトラで26年間、歯科診療所を経営していたという。帰国後は、どうしたのだろうか。

御木本“真珠王”幸吉

乙竹岩造伝記 御木本幸吉」1950年より。御木本“真珠王”幸吉(1858-1954)は真珠の養殖に世界で初めて成功した実業家で、現ミキモトの創設者。著者の乙竹岩造は東京文理大教授で、その妻は御木本幸吉の四女だった。

第二次世界大戦が起って、金を政府に献納または買上げることが盛んに行われるようになった昭和14年に、幸吉もまた種々の金製品と共に金製の総入歯を献納し、その代りにゴムの総入歯にした。東京歯科医専の教授堀江ぐ博士の手許から、そのゴム歯が到達したのが昭和15年1月で、幸吉が82歳を迎えた新春のことであった。


御木本幸吉は96歳の生涯を現役で通した人で、その健康法も数々残されている。だが口のほうは頑健でもなかったらしく、結構早くから総義歯になったらしい。
82歳時には義歯ナシで演説したというエピソードもあり、

爺さん婆さんに話をするのに入歯は不用じゃ。
と開口一番、上下とも総入歯を取はずして、無造作に懐中にねじ込み、

顎堤は残っていたもよう。とすると齲蝕で抜歯したケースか。粗食で酒もタバコもやらず、日常的な運動もやっていたというが、歯みがきについての記載はない。

昭和22年6月27日アルモンド将軍の一行が来訪したときも、例の如く歓迎し、食事を共にして怪談したが、一行の中に、彼の年齢を尋ねる者があったから、90歳だと答えたところ、どうしても信じない。もっと若いのだろうという。これを聴いた幸吉は、すぐ指を口中に入れて総入歯を外ずして笑った。さすがの幸吉も上下共の入歯を外ずしてしまうと、全くの老顔となったので、かの将校の疑団は氷解して、たちまち歓笑となってうなずいた。


人前で義歯をはずしてみせることが、もはや芸である。

幸吉は比較的早くから歯が悪かったが、良い総入歯をしてから後は、胃腸も丈夫になった。それで、老人は金を内科にかけるよりは歯科にかけよと言っている。


胃腸が悪くて歯も悪いとなれば、当然栄養状態は悪くなる。がんなどで胃や腸を摘出した人で歯もない場合は、障害者手帳を発行してもいいと思うのだが。

さて、御木本幸吉の真珠販売は昭和15年の七・七禁令(奢侈品等製造販売制限規則)で大打撃を受け、さらに昭和15年には真珠養殖事業も停止が命じられる。この苦難を真珠王は真珠貝の食用転換で乗り越え、そして敗戦。銀座のミキモト真珠店も目黒の貴金属工場も空襲で消失していたが、幸吉は戦争終了と同時に即日真珠養殖を開始、早々に経済復興の波を起こし、それに乗った。敗戦のこの時、87歳である。で、89歳で英語を始め、90を超えても進駐軍と抜き手で泳いだりしていたという。スゴイ人である。

滿洲帝國に於ける鑲牙師問題

いわゆる「鑲牙師(註:じょうやし)」を、その業態および徳知育の観点から見ると、その大部分が、義歯製作を主体とする手工芸に、経験と模倣による医療類似操作を加味した特殊なる手工芸細工職人と見るべきが妥当である。
福島秀策、小林一「滿洲帝國に於ける鑲牙師問題に就て(1) 」1942年1月発行「臨床歯科」

鑲牙師(じょうやし)とは、中華圏に存在する入歯師のこと。
満洲における鑲牙師は鑲牙営業取締規則制定以降も既得権が認められ、主に辺境の歯科医療を担っていた。著者は哈爾濱医科大学の歯科医育者。この論考では鑲牙師の廃止が主張されているが、その主張に医学的根拠(鑲牙師による実際の患者被害とか)を期待すると肩透かしを食う。

日系歯科医師は康徳7年末において674名であるから、現在内輪に推定して700名とし、在満日本人を100ないし120万とすれば、1万に対し7名内外の歯科医師がいることになる。この比率は、昭和14年末現在厚生省調査の日本における歯科医師対人口比率、1万人に対し2.84人に比すれば、実に2倍半に達する高率である。この事実は日系歯科医師が、従来客観的必然の要請に基いて、その経済基礎を置き来った日系患者の診療以外に、十分に満洲帝国独自の歯科医学および医業の建設に対し、攻勢を取り得る余力を有するものと解して差し支えあるまい。


鑲牙師問題とは、経済問題であった。歯科医師の。
著者らは教師らしく鑲牙師の再教育に挑むのだが、あえなく失敗したともある。

康徳2年3月(昭和10年3月)、時の奉天市満人歯科医師会長候子麟氏(現在北京在住)名誉会長中島秀造氏(現在大連市在住)等は、非常な熱意をもってこの学に参加した吉田義満氏(現在北京在住)および周大成氏(現在奉天在住)等と協力し、中核となって、いわゆる鑲牙師の科学的教育を計画したことがある。この学は、当時の瀋陽警察署の後援の下で、6ヶ月間にわたり、大約140名を収容して教育を実施したのであるが、ついに見るべき効果をあげ得なかった。集る講習生140名中、30名は張作霖政府によりかつて歯科医師たるの資格を認許せられた当時の現地開業歯科医であり、残りの110名内外は、いわゆる鑲牙営業者ないし夫等の徒弟であり、全数中まったくの無学文盲者は10名を数え、口述筆記ないし作文可能のものはごく少数であり、大部分は、辛うじて講習用プリントの素読について来れたに過ぎなかったということである。これでは到底、科学的教育をほどこして、歯科医学の一端なりとも理解せしめるなどとは思いもよらないこととしなければならない。
(上)

日本の徳川時代みたいな状況だ。その時代の日本の医師は文盲無筆も多く、医療は科学的根拠というよりは伝統と経験に基づく技術であった。しかし、科学的根拠が不明であることは、科学的根拠がないということとイコールではない。

歯科医師と鑲牙師との間には、何等の直接的秩序関係を有せず、歯科医師は歯科医師とし、鑲牙師は鑲牙師として、全然独自の立場から、国民の口腔疾患および口腔機能の回復に関与しきたったことは、ここに説明を要しないであろう。
(滿洲帝國に於ける鑲牙師問題に就て(2) 、1942年2月発行「臨床歯科」

著者らも鑲牙師による口腔機能への貢献を認めつつ、

一つは、明確に口腔衛生保健の担当者として必要なる教育および研究を経てその担当者および指導者としての実力を涵養せる人士であり、他の一つは、全くその能力を欠き、わずかに金属加工職人たるの技能を有するのみ。
(同)

単なる「金属加工職人」と糾弾し、

我等は、我等の課せられたる国家的役割の完遂のために、また、我等は、我等こそが真の口腔医療の担当者であり、口腔の保健厚生の指導者たるの、光栄ある義務と責任とにおいて、明かに要求しなければならない。
「彼等を、我等の揮下に委ねらるべし」と。
(同)

鑲牙師を歯科医師の支配下に置くことを要求する。具体的には、

自由範囲以外の技工を行う場合は、歯科医師の製作および材料等必要事項を記載した処方を必要とし、処方箋なくしてこれを行う場合は、処刑せらるべきであり、また、従来の取締規則中に認めありたる(第3条)医療処置は、これを停止せしむべきである。
(同)

鑲牙師と患者の分断を図っている。

日本における歯科技工法成立のプロセスと同じ経路を示しているが、これは日本国内の情報が伝達されているからなのか。国内といえば、歯科医師を顧客とした歯科技工所や歯科技工士がバンバンもうけている頃だが。満洲でも外注技工はあったのかなあ。

それにしても――明治時代の西洋医はそのライバルである漢方医を根絶させたいと願ったが、支配下に置こうなどとは考えもしなかった。
それは西洋医にとって、漢方医を利用する価値がなかったからであろう。漢方医なんぞいなくとも医療は自分らで十分やれる、と西洋医は考えた。同じ医者でも内実はまったく別物、という意識もあった。まあ、完全に見下していたわけである。その点、鑲牙師や入歯師は歯科医師にとって支配するに足る、十分な利用価値があったし、自分ら歯科医師とはまったく別物、とも実は考えていなかった。むしろ、業務内容のバッティングは公式にも問題となっており、似た者同士という意識は歯科界の常識であったのである。逆にいえば、入歯師の価値を正しく理解していたのが歯科医師なのだろう。

医師確保対策の歯学部振替枠

医師確保対策として、2010年度から「3つの枠組」による医学科増員が図られているのだが、

◆医学部入学定員増員の3つの枠組(2010-2019年度)
|楼莽
都道府県が地域医療再生計画に基づく奨学金を設け、大学が地域医療を担う意思を持つものを選抜。

研究医枠
複数大の連携により研究医養成の拠点を形成する大学において、研究医の養成・確保に学部・大学院教育を一貫して取り組む各大学3名以内の定員増。

歯学部振替枠
歯学部の入学定員を削減する場合の定員増。


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▲現在の状況はこんな感じ……この「医師偏在対策、医学部定員に係る資料」の2ページにある。

赤い部分が「3つの枠組」分。

枠組別の増員数の累計は、
|楼莽592、研究医枠40、歯学部定員振替枠44

となっていて、^奮阿呂曚楜’修靴討い覆い隼廚Α
なかでもの歯学部振替枠は“歯科医師受給問題対策”の意味もあったようだが、そもそも低偏差値と定員割れと低国試合格率で苦しんでいるのは歯科単科大。

でもって、歯学部振替枠による増員44人の内訳は、

2010年度
北海道7、東京医科歯科5、大阪3、九州5、長崎5、岩手医科5

2011年度
東京医科歯科5、岡山3、徳島2、鹿児島2

2013年度
岩手医科2

以降はナシ。
国立の歯学部定員が減り、ますます歯学部人気が落ちたような気が、なきにしもあらず。

歯学部→医学部の転入、歯科医師の医師転用制度を認めれば、医科・歯科双方にメリットありと思うのであるが。

ソバカス、ニキビ、ワキガ

昭和2年11月、ソバカス、ワキガ、ニキビを健康保険の医療給付から外すという記事。労働に影響ないからというが、明治24年にはワキガで3300人が徴兵不合格になっているというのに。

健康保険法の改正についてはさきに内務省から労働保険調査会に諮問してその答申を求め、これを参考として法律ならびに附属勅令の改正案の作成に着手している、しかして右法律案は来議会に提出し勅令は改正法律案の通過後改正するはずであるが法令改正の要点は左の如し(東京電話)

一、業務上の事由によらざる傷病に関しては被保険者をして医療給付中薬価の一割を負担せしむる途を開くこと
一、業務上の事由による傷病については保険者において被保険者の報酬の六割以上の附加給付をなす途を開くこと
一、業務外の事由による傷病については傷病手当金は報酬の六割以下四割以上に減じ得る途を開くこと但し健康保険組合にありては主務大臣の認可を要すること
一、保険者は被保険者の家族に対しても医療給付の途を開くこと
一、被保険者の著しき不行跡による花柳病については傷病手当金の全部または一部を支給せざるを得る途を開くこと
一、業務上の事由によらざる疾病にして労働能力に影響を及ぼさざるソバカス、ニキビ、ワキガなどについては医療の給付をなさざることを得る途を開くこと
一、職員は主務大臣の認可ありたる場合は被保険者たらざることを得る途を開くこと
一、任意継続被保険者は保険組合には認めず政府直轄の被保険者のみとすること
一、被保険者の資格喪失後における保険給付の支給に関しては資格喪失の際業務上の事由によらざる傷病に関し傷病手当金の支給を受くるものはその喪失前継続して六十日以上被保険者たりし場合に限り引続きその支給を受け得ることにすること
被保険者の家族も医療給付の途を、1927年11月6日付大阪朝日新聞

被扶養者まで健康保険法の対象となったのは昭和15年からなのだが(5割負担で)、健保法がスタートした年の暮れには「保険者は被保険者の家族に対しても医療給付の途を開く」ことが同法改正案として検討されていた。13年もかかったのはなぜ。
それにしても「ソバカス、ニキビ、ワキガ」を除外しようとしていることに隔世の感あり。いまや顔面のホクロを取るのにも保険が効くのである(ソバカスの保険治療は無理だろうが、しかし、シミがふくれてイボっぽくなってるとOKなケースも?)。もちろんワキガの手術は保険が効くし、日本皮膚科学会が「ニキビはお肌の病気」と周知に努める時代である。

明治24年の帝国陸軍 

清水寛「日本帝国陸軍と精神障害兵士」(2006年)に掲載されていた「1891(明治24年)の徴兵不合格者の『病類』別順位」。咀嚼障害が第5位で少々驚く。

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▲「唇又は歯牙の疾病欠損にして咀嚼に妨あるもの」が第5位。

4000人が咀嚼障害で徴兵不合格。満20歳で、全不合格者の約5%が咀嚼障害。これは、ゆゆしき事態では。
第6位はワキガ。
ワキガは戦闘には影響しないんじゃないかと思うが……明治の日本帝国軍は、それだけ兵士を吟味していたということなのか。

臨床的に過ぎる

昭和14年の記事。今でも徴兵ならぬ徴農でニート問題を解決できる、とかいっている人がいるが。

「公私生活刷新に関する基本方策」を閣議に送った精動委員会では引続き「勤労の増進ならびに体力の向上に関する基本方策」に関する第3特別委員会案を審議するため、11日午後2時から文部省第3会議室に第8回総会を開き荒木委員長以下各委員出席、岡部特別委員長の報告にもとづく同委員会決定案を上程した。
この議題中には兵役義務の均霑をはかるため入営しない壮丁にも義務的に勤労奉仕制度を確立せよという青年勤労奉仕制度確立に関する方策、結婚までの適齢期を茶、花などのおけいこ三昧に過ごす中流以下の女性をも勤労動員せよという方策、臨床的に過ぎる医道を振作して体位向上の精動線に沿う「精動医」たらしめる方策等々、諸方策を協議の結果可決して5時散会した。今後この根本方策を内閣情報部内の精動部会に移して、各省ならびに各団体がいかに協力し、いかにして実行に移すかの具体策を考究することになったが、青年勤労奉仕制度確立策のような大きな革新案を閣議がいかに取上げるかはもっとも注目されるものがある。当日の決定事項ならびに論議の大要は左のごとくである。

勤労増進に関する方策

1、勤労報国精神の作興
2、勤労倍加
3、青年勤労奉仕制度の確立
これは一定年齢の男子青年に対し一定期間国民的義務として共同自営の勤労奉仕生活を体験せしめるもので勤労を単に収入を得る手段と見る精神を打破するとともに、兵役義務均霑のため入営せぬものにも入営したと同程度の勤労義務を負わせる案である。これに対し「労働力が不足の際、青年層の労働力を義務的に鍛錬に向けることは問題であるから義務的にという点を除かれたい」という意見も出たが多数が賛意を表したので「当を得た実行方法をもって」という条件付で可決。
4、学生、生徒、児童の集団的勤労作業を拡充強化する方策
これは師範教育、勤労慣性教育を徹底強化する集団的勤労作業をして臨時的なものから組織的なものへ強化することの2項を含む
5、婦人の勤労動員
竹内茂代女史から高女卒業生15万のうち上級学校へも行かず職業婦人ともならず家庭で茶、花、琴などのお稽古に憂身をやつしている都会の、しかも中流以上の未婚女性を対象とする意見の開陳があり、環境に従って銃後の勤労奉仕作業を行わしめる方法を婦人団体を通じて活溌に行うこととなった。
入営せぬ壮丁には勤労を義務制に、1939年7月12日付大阪朝日新聞

「青年勤労奉仕制度」に「集団的勤労作業」。ホントこのころの日本は、毛沢東時代の中国である。ファシズムとコミュニズムの相似なのか、いや、日本が悪い意味でアジアの手本になっているという可能性もあるのか? 北朝鮮の拉致は日本帝国の強制連行に範を取っていた、みたいな。
さて、医師制度の改善は「体力向上の方策」として議論された。

体力向上の方策
1、生活科学研究機関の設置
すなわち日本の国土に即した生活小泉委員のいわゆる"皇国ぶりの生活"の合理的、科学的生活確立の国立研究機関を設ける。
2、医道の振作、医師制度の改善
個人対象の治療のみに走らず、予防医学方面および体位向上の保健国策の線に沿うよう、医師会方面に働きかけていわゆる「精動医」に建直す。ここでも小泉中将から金儲け主義その他の悪徳医を鍛え直すべし、という痛論があった。
保険衛生に関する方策としては国民の衛生保健思想の徹底、母性、乳幼児の健康増進対策、入学試験制度改善の実行、禁酒禁煙、節酒節煙の励行、国民栄養の改善、結核撲滅の運動、また鍛錬に関する方策としては武道の振興、武道教師および体育講師の国家養成、工場会社に体育指導専任者を設置、農村にふさわしい鍛錬方法の考究ならびに都会における団体行進、団体体育、健全娯楽の振興などが決定された。


「団体行進、団体体育」って、これも共産主義国家のお家芸。極左と極右の違いって、なんじゃろ。

90にもなってまだ生きたいのですか

麻生太郎・副総理兼財務相の「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」発言が批判を浴びているが、このエピソードを思い出した。
「武見太郎回想録」より、麻生氏の祖父・吉田茂(1878-1967)、そして吉田茂を義理の叔父に持つ医師・武見太郎(1904-1983)の会話である。

昭和41年8月のことである。2日ほど胆石様発作のような右の季肋下部に激痛が起こり、3日目に左肩を貫通するような痛みが出て来た。この時、主治医の佐藤陽一郎博士から連絡を受け、私は急いで大磯に見舞った。その時はすでに声がかすれていて、呼吸もやや苦しそうであったが、私の顔を見るなり吉田さんは、「ご臨終に間に合いましたな」と言った。私も医者になってから、かけつけて行った先で、相手の患者から“ご臨終に間に合いました”という挨拶を受けたのはこの時が初めてであったが、おそらく今後もこんな例はないであろう。このくらい重篤な状態で、これだけの余裕を心の隅に持ちうるというのは、尋常一般の人ではない。
応急手当がすんで、私が「90にもなってまだ生きたいのですか」とにくまれ口をたたいたところ、「こんなだらしのない世の中では死にきれない」と言って、大いにファイトを燃やしておられた。その時に、3週間は絶対安静で横を向いてもいけないと言ったところ、完全にそれを守られたところをみると、国家のために生きなければならないという強い決意があったものと察せられる。


患者と医師、そして叔父・甥の痛快な応酬である。その場限りのウケねらいでなく、後でジワジワ来るこんなギャグを私は言いたい。なお、実際には吉田茂はこの時90歳にはなっていなかった(1878年9月22日生まれだから満87歳)というところも、イイ話である。

昭和13年、薬が公定価格に

昭和13年、国民健康保険法と国家総動員法が公布(4月1日)されて3ヶ月ほど経った頃の記事。1月には厚生省が発足している。

最近各種の医剤は急激に騰貴しつつあり、ことに輸入を仰いでいる高貴薬は輸入制限によって事変以来、5割7分方の昂騰を示しているが、厚生省では一般日用品の物価抑制と歩調を合せて薬価の抑制をはかることとなり、目下同省衛生局で研究を進めている。
薬にも公定価格、1938年6月30日付大阪朝日新聞 )

「輸入を仰いでいる高貴薬」とはサルファ剤とかか。

抑制の方法としては第一に輸入薬剤に代るべき国産品の製造を極力奨励する方針で、現に駆虫剤、乳糖の原料は東北地方、北海道で栽培されており、一両年後には相当莫大なる生産を見るはずであるが、今後は国産原料をもって自給自足し得るよう指導奨励する。
第二の方法としては主要医薬品につき公定価格を定めて統制し、国民負担の軽減をはかることに決定、現在日本薬局方として一般に販売されている700余種の医薬のうち需要量の多いものから順次価格を統制してゆく意向のもとに厚生省では企画院、商工省ならびに業者と協議したうえ省令によって公定価格を明示することとなった。


結局のところ「国民負担の軽減」などできるわけがなかった。
薬は不足の一途をたどるのである。
昭和14年の日本薬局方臨時改正では、蜜蝋の代わりに木蠟、消毒用アルコールにはメタノール、タンニン生薬としてゲンノショウコを推奨するなど、代用薬や代用原料の導入が計られた。
また、この改正でビオフォルム(ヨードクロールオキシヒノリン)がキノホルムの名称で普通薬として収載されたが、もとは劇薬指定の薬剤である。厚生省はビオフォルムを劇薬表から削除することなく、局法条文でキノホルムを普通薬として扱い、戦後のスモン薬害を引き起こすのである。7:3の大臣告示が厚生省の疑義解釈で空文化した例など、この手の行政の怠慢と傲慢には呆れるばかりである。

保険料に米や大根

昭和13年3月2日、国民健康保険法が可決された。

農山漁村、郡市中小商工業者の医療相扶共済を目ざして立案された国民健康保険法案はいよいよ2日、貴族院を通過成立、ここに同法は来る7月から10年計画で施行されることとなった。
(略)
保険料も従来の労働者健康保険法では一律に負担していたのが新法では都会、農村を通じそれそれ資力に応じ、お金がなくて金納できぬ場合は農村なら米だとか菜葉、大根などと物納でもよいという便法も考慮され、資力の足りない者が互に助け合ってまさかの用意をととのえよう――つまり共同で危険分散をしようというわけだ。
保険料に米や大根、1938年3月3日付大阪朝日新聞

健康保険料の物納がOKに。
実際に物納があったかはわからないが、保険料額とその徴収方法は組合の自治に委ねられていたのは事実である。しかし、この時代の医療問題の主因は社会の貧困であって、保険料の物納を許したところで解決するものではない。医療機関、とくに開業医の犠牲は必至の処置であるが、医師会もこれを阻止する力を失っていたのだろう。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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