売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編21

鳩山一郎はレタスに白菜、大根、人参、サトイモ、ネギ、サツマイモ、トマト、ジャガイモ、インゲンマメ、キャベツなどなどの作物を自作しており、食糧には困らなかった。
一方、都会は飢えていた。百姓生活は、鳩山一郎の健康に良い影響を与えたのかもしれない。
以下、清沢洌の日記から。

午后坂本直道君を訪問し、共に鳩山一郎氏を訪問す。1回しか逢ったことがないので、忘れていたが、名乗るとすぐ思い出した。午后2時半くらいから午后8時頃まで、種々の話を聞く。ことに東条首相就任までの事情が面白かった。僕は重臣会議が、多数決制度になると何人も責任を負わなくなる、これが内大臣が、飽くまで責任を負う組織とせねば駄目だといった。
その話しの内容は別に書くが、東条内閣に対しては重臣がまず失望して動き出したのである。これに対し軍部では、これに反対した。赤松秘書官は、もしこの際、東條をかえる如きことあらば、折角1本になった軍部がまた紛糾する。その責任は、貴方が負わなければならぬといったことを木戸〔幸一〕内府にいった。
鳩山は自から時局収拾の衝に当る抱負を有しているようだ。また事実、従来、便乗連に一切背を向け来たり、翼政会からは脱退して自由の立場を有して来たので、立場がはっきりして居り、重臣――殊に近衛などが目をつけえて協力しているのである。
鳩山が検挙されたという噂は、しばしば聞くところだ。鳩山のいうところでは、かつて塚本(?)という憲兵隊の課長が来て、「自由主義者」といったことについて問答した。その結果、かれはことごとく感心して「自分が職にいる間は断じて指一本でも指させません」といった。爾来、しばしば噂に上ったが、全く安全である。「先生のことを再々投書して来ますよ」と憲兵が言っているという。その塚本という中佐は「鳩山は偉い男だ、他日必ず総理大臣になるよ」と誰の前でもいうという。
(昭和19年8月12日、清沢洌「暗黒日記」)


憲兵隊に総理の器と言わしめる鳩山一郎。鳩山一郎の政治的な功績って戦後の日ソ国交回復ぐらいしか思いつかないんだが、戦前、しかも翼賛政治の真っ最中に島流しに遭っていた政治家がこう言われるというのは、やはりナニモノかがあった、ということなのだろう。それは一体ナニか。
鳩山一郎がこうホメそやされていた当時、同じく翼賛会脱会組であった中野正剛は自殺に追い込まれ、尾崎行雄は不敬罪で逮捕の憂き目に遭っている。その一方で鳩山一郎は軽井沢で悠々自適だったわけで、帝都から逃げ得たということだけでも鳩山には運があったし、タイミングをつかむ才もあった。そしてカネも。
中野正剛は質屋の息子、尾崎行雄は漢方医の息子で、どちらも貧乏庶民だ。鳩山家は戦時でも余裕ある暮しができた、その余裕こそが貧乏庶民(憲兵なんぞは貧乏な木っ端役人である)をして総理の器と言わしめた――のかもしれない。貧乏人の人生に選択肢は少ない。だから余裕のなくなる戦時ともなれば追い詰められ、弱り、真っ先に死んでいくのである。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

鳩山一郎は、昭和18年6月19日に翼賛政治会を脱会する。

現在、世の中に幅をきかしている者は馬鹿か便乗主義者である。
(昭和18年6月19日、清沢洌「暗黒日記」)


この脱会、新聞では埋め草であった。反「馬鹿」、反「便乗主義」、すなわち反東條の扱いである。

昭和18年6月23日
▲昭和18年6月23日付朝日新聞。

鳩山一郎自身の日記がないので、以下は清沢洌の日記から。

翼政会より中野正剛、鳩山一郎、白鳥敏夫等脱会。一時、好まなかった中野、鳩山等も参加せざるを得なかった空気だったのに、今はそれも不思議でなくなった。
不思議なのは「空気」であり「勢い」である。米国にもそうした「勢」があるが、日本のものは特に統一的である。この勢が危険である。あらゆる誤謬がこのために侵されるおそれがある。
(昭和18年6月27日、清沢洌「暗黒日記」)


清沢洌は鳩山一郎と同じく軽井沢に疎開しており、

朝ゴルフ、夕方旧軽井沢に赴く。嶋中君(引用者註:中央公論社社長の嶋中雄作)と2人で。鳩山一郎の別荘の前を通る。すばらしいものなり。邸内に鳥、魚、何でもあり。
(昭和18年8月4日、清沢洌「暗黒日記」)


清沢によれば鳩山一郎は軽井沢でも優雅に暮らしていたようではある。養蜂や養鱒に勤しんだり、

温室のレタス、仏国白菜大黍菜を畑に定植。雪われに手をやる。近衛君と面晤。
(昭和20年6月10日)


近衛文麿と会ったり。
日記では鳩山一郎は散々近衛を批判しているが、現実世界では愛想良くしていたらしい。金持ちケンカせずか。共にポピュリストで軽く明るいお坊ちゃんというところ、両者よく似ている。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦を境に日本の敗色が濃くなっていく。
で、ガダルカナル上陸の頃に、

自転車2つに折れる。左足の膝関節と親指に怪我せじのみにて他に異状なかりしは不幸中の幸なりき。
(昭和17年8月6日)


鳩山一郎は自動車事故に遭った。

膝の関節だんだんよくなり自転車に乗れる様になる。あせもにはまだ苦しむ。軽井沢であせもを出すことを不思議がられるも事実なれば致方なし。
(昭和17年8月9日)


強運だ。自転車が折れるほどの自動車事故で死なないのであるから。

あせも漸くよくなる。ラヘンデ、ハリバ軟膏、あかちん等々色々試みたるも、きんかんが尤も有効なりし。
(昭和17年8月14日)


「ラヘンデ」=ラベンダー油。

大正12年8月17日
▲大正12年8月17日付朝日新聞。

「ハリバ軟膏」はビタミンA・D軟膏で家庭常備薬の一つだが、

昭和16年6月26日
▲昭和16年6月26日付朝日新聞。

抜歯創にもイイらしい(福岡縣 蒲地非漏志蒲地非漏志「拔齒創面ニ對スル肝油製劑『ハリバ』軟膏ノ應用ニ就テ」、福岡県歯科医師会,九州歯科医学大会々誌 第22回、昭和16年)。
 
鈴木4段。前夜12時頃急に下痢し出し、朝迄20回。午後1時迄休み、とにかく起きて対極す。
(昭和17年12月8日)

運は強くとも、胃腸は弱かった。
鳩山一郎、昭和17年は大晦日(ガダルカナルから撤退した日である)まで日記をつけているが、昭和18〜19年は丸々記載なし。昭和20年は6月10日からの記載となっている。
記載のない昭和18〜19年の間は、翼賛政治会を脱会し、政治を離れて軽井沢に隠遁を余儀なくされていた頃である。同時期、鳩山と同じく東條に批判的であった中野正剛が憲兵隊による厳しい取調の末に自殺。この時期の日記は書かれなかったのか、それは書けなかったからなのか、もしくは書いたが残らなかったのか――は、わからない。

昭和18年10月27日
▲昭和18年10月27日付朝日新聞。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

翼賛選挙で非推薦ながら当選した鳩山一郎だが、その心は晴れない。

8時10分上野発で軽井沢に行く。7時40分の臨時出て夫れに乗る。11時3分軽井沢に着く。
同憂の士殆んど全部枕を並べて討死致し急に疲労を覚えた為め。
君が代の安けかりせばかねてより 身は花守となりけんものを 平野国臣の歌を想い起す。
(昭和17年5月10日)


昭和17年5月13日に軽井沢より帰京し、翌14日に落選者と会食。同日、同交会は解散している。

一国一党を期して政治力を結集して新党成らんとす。政治力は上陛下に結集さる。臣下の下に結集さるるは吾が国体に反し憲法に背く、而かも公事結社としての大政翼賛会は此の新党の手足として働かんとす。何故に一人の立って之れを阻止するものなきか。
吉田松陰の『上は天子の明勅に違い下は幕府の大義を害い、内は列侯士民の望に背き、外は虎狼渓壑の欲を飽かしむ。 極天窮地、俯仰容るるなし、然り而して天下の士夫安然黙然として一礟(※石+駮)一艦の往いて其罪を問うなし。神州の正気已に邪気の消蝕する所となれるか』の句を想起す。
(昭和17年5月16日)


17日にまた単身で軽井沢の別荘に行くが、

東京より深沢、森田両氏から電話かかり、新党に加入すべしと説く。特に深沢氏熱心なり。森田氏は寧ろ意見をきく方なり。
(昭和17年5月17日)


翌日には東京にトンボ帰りする。

新党加入問題八釜しき為め残念なれど3時40分にて帰京する。3時、山王ホテルにて同交会連中協議するとの事。7時10余分上野につくや、赤坂のなにはやに会合ありとて其処に行く。斎藤、川崎星島田中氏あり、加盟問題を協議する。軟論多し。
(昭和17年5月18日)


翼賛会への勧誘が凄まじかったからである。

二世会、5時紅葉館。
11時山王ホテル、3時頃迄協議。芦田、星島両君涙を流して全員一致して入会を勧む。どうしても入会の理由なきを苦しむ。交詢社に古島、植原両氏を訪い意見を聞く。共に入会の不可を言う。去って吉田氏を訪う。同君も同意見なり。
林兄弟来訪。三宅君午前中来訪、入会をすすむ。小石川区議連来訪。夜、星島、田中、朝日の松尾、浅草の兼藤、大塚諸氏深更に至る迄入会問題を論ず。
(昭和17年5月19日)


昭和17年5月20日、翼賛政治会結成。

結局同交会落選組全部に入会勧誘状を出すなれば自説を固持せずと考うるに至る。
(昭和17年5月20日)


古島君と矢野君に手紙、入会の詫状なり。
(昭和17年5月22日)


昭和17年5月23日にまた、軽井沢へ。

昨夜浅間に降雪多かりしと。併し既に消える。今朝霧深しと。3日3夜の加入問題協議の後の不愉快の気持を一掃せん〔と〕する目的は達せらるるならん。
(昭和17年5月23日)


すったもんだして入会した翼賛政治会だが、昭和18年6月に鳩山一郎は中野正剛らと共に脱会。以降は敗戦まで軽井沢にこもることになる。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

鈴木君の話の中、左の2点は耳を傾くるに足る。
(略)
一、行列しても物が買えない時に井野やは何故に選挙に出るか。
(昭和17年3月3日)


「鈴木君」=鈴木正吾。井野碩哉も岸信介も現職閣僚のまま昭和17年4月30日の衆院選に出馬、初当選している。岸信介がわざわざ出馬した理由は、

東条内閣の大臣になった当時から、政治家というのは国民の信頼を受けなければいけないと思っていた。(略)それで東條さんに立候補の話をすると、やれといって賛成してくれて、親しい仲の農林大臣の井野碩哉と話し合って、一緒に出ようやということになったのです。
(「岸信介の回想」)


ということである、が――翼賛選挙の推薦候補者が当選して、それが「国民の信頼」を受けたことになるのかどうか。
非推薦だった鳩山一郎らは、

昨夜芦田君より選挙郵便発行禁止を受くとの電あり。原田君に検事局、警保局に問合せ貰いたる処、政府の施策に対しての非難は許さず、推薦制度に対する批評を除けばよしとの事。元来首相は推薦制度は政府と干渉なしと議会で答弁せしに非らずや。誠に暗黒の世の中と言うべし。
(昭和17年4月8日)


東條にイヤガラセを受けながら戦っていたのである。

最高点19087にて当選。安藤君も15000点以上にて当選。併し田川君500票にて敗れ、若宮宮脇大野大石植原等、皆枕を並べて討死にす。政府の干渉憎むべし。
(昭和17年5月1日)


非推薦候補者への政府干渉はヒドイものだったようだ。

だんだんと乱暴の干渉をきく。憲法は実質的に破壊さる。選挙にして選挙に非らず。当局は蓮月尼の歌でもよく味え。
討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民ならずや
(昭和16年5月7日)


ちなみに矢次一雄の東條評は、

東條さんという人は、戦後は評判の悪い人物だけれども、私はよく知っていて、いいところもある人物です。人に惚れっぽいところがあって、岸さんのような人物をみると惚れる。その代り愛憎が激しいから、彼に嫌われた人間は気の毒なくらい嫌われる。東條さんに好かれた人で、彼を恨む人はないけれど、憎まれ嫌われた人は、そのへんに立っていられないほどのひどい目にあるのです。
(矢次一雄の発言、「岸信介の回想」)


「いいところもある」と言いつつ、ヒドイところしか言っていない(笑)。それはともかく、東條英機はエコヒイキと攻撃性の激しい、大人気ない人物であったようだ。しかもその攻撃は憲兵を私兵化する卑怯なもので、その犠牲者のひとりが中野正剛だった(纐纈厚「憲兵政治 監視と恫喝の時代」)。中野正剛は自殺ではあるが、東條の命による憲兵の拷問(「そのへんに立っていられないほどのひどい目」)がその原因である。

◆鳩山夫妻の体調管理 一郎編

昭和17年は戦勝ムードで年が明け、

ハワイ空襲の写真各紙紙上に載る。感慨深し。
(昭和17年1月1日)


昭和17年1月1日
▲昭和17年1月1日付朝日新聞。

2日にはマニラ占領でさらに盛り上がった。

11時鈴木歯科医。
(昭和17年1月6日)


鳩山一郎は旧年中からの宿題となっていた歯科治療を、6日に再開。

2時半鈴木歯科医。(略)
珍しく威一郎よりハガキ来たる。人に遅れをとる様な事は絶対にしませんから御安心下さいと書いてある。彼は常に中々張り切って居る。香港降伏の日に認めたものである。
(昭和17年1月8日)


当時の鳩山一郎にとって12月25日は基督生誕日ではなく、香港降伏の日であった。しかし、賛美歌を日常的に歌うような人なんだが。

11時半鈴木歯科医。
(昭和17年1月10日)


12日には華族会館で、小玉呑象の「発表会」を聞いている。今年の運勢か。

1時半鈴木歯科医。
(昭和17年1月15日)


昭和16年11月19日から続いていた歯科受診は、1月15日に終了した。
そして、

下痢だんだん激しくなり、絶食に近し。
(昭和17年1月24日)


腹が下る鳩山一郎。医師による診断は、

1時南病院に診察を受けに行く。大腸カタルにて、医師が頭をひねる病気に非らずとの事。
(昭和17年1月26日)


大腸カタルであった。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

昭和16年11月26日、海軍のハワイ作戦部隊が択捉島ヒトカップ湾を出撃した当日、

午後1時半鈴木歯科医。(略)
長野君の話に南京政府動揺、重慶に通ずるものあり、又南京の軍にて敵と通牒して日本軍に反逆せんと企てたるものあり、南方に事起これば支邦派遣軍窮地に陥る虞なしとせず、畑司令官日米戦を恐る、と。過般小林大将の話と符合す。
夕食後岩淵君、東條内閣継続する限り日米戦争ありとの意見なり。
(昭和16年11月26日)


鳩山一郎は歯科治療に通いながら、日米開戦を憂慮していた。「岩淵君」=岩淵辰雄は吉田茂ら早期終戦工作を図ったいわゆるヨハンセングループの一員である。
翌27日には吉田茂とも会っているが、

発送電。付近町会の有志連と会食、6時、12名。1時半鈴木歯科医。11時吉田氏訪問。岡田(伊太郎氏)来訪。
(昭和16年11月27日)

吉田茂、日米交渉について何かを鳩山一郎に知らせに来たのかも。
27日早朝、ハル米国務長官との会談で日米交渉は決裂する

華北東亜タバコ。9時半、真崎氏を訪問。午後吉田氏訪問。
真崎氏は日米戦争は最早避け難し、阻止する方法なしとて悲観す。吉田氏は何処迄も避けざれば累を皇室に及ぼすとて大に熱意を示す。
(昭和16年11月29日)


歯科治療とともに、日米開戦阻止に熱意を示す鳩山一郎。
が、昭和16年12月1日の御前会議で日米開戦が決定される。
3日、海軍機動部隊へ「ニイタカヤマノボレ」。

11時、対米英宣戦布告さる。ハワイ海戦、空前の戦勝。
(昭和16年12月8日)


東久邇宮稔彦の日記には、蒋介石政府に頭山満を派遣して日中戦争の収束を図る計画が出てくる。該計画が出てくるのは昭和16年9月8日〜、橋本欣五郎の提案であったが、東条内閣成立でパー。で、結局は日中戦争収束どころか日米開戦にまで突入して日本帝国は壊滅、戦前権益全部パーでほぼ全都市焼け野原に。
ついに対米英宣戦布告となった昭和16年12月8日には、しかし鳩山一郎は大した感慨を記してはいない。
が、

4時新橋演舞場、文楽。6時同交会、山王ホテル。夜は通交は危険、夕刊に暗すぎると批評があった位なり。
(昭和16年12月9日)


街は確実に暗くなっていた。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

昭和16年11月19日から歯科受診している鳩山一郎、

二世会、5時紅葉館。1時半鈴木歯科医。閉院式11時。
(昭和16年11月21日)


58歳。

10時半鈴木歯科医。朝、大久保市長来訪。夕、大石君来訪、新党結成を勧む。
(昭和16年11月22日)


義歯をつくっているっぽい。

午前10時半鈴木歯科医。
(昭和16年11月24日)


昭和16年12月1日から新聞協同販売制度が発足するが、

日糖総会。午後2時鈴木歯科医。(略)11時、正力氏訪問。
(昭和16年11月25日)

その直前に正力松太郎が訪問している。同制度は全国新聞社の販売機関を整理統合して販売競争を停止させ、情報統制の効率化を図ろうという“新聞新体制”の一貫。掲載内容への指導はそれまでにも行われていたが、同制度では用紙の供給権が商工省から内閣に設置された新聞雑誌用紙統制委員会に移管され、営業面への統制が本格化した。日本の新聞がプラウダ化していく一因である。正力松太郎は、鳩山一郎に愚痴でも言いに行ったのだろうか。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

東條の翼賛会に於ける発<ママ>訓示中に、更に一段の前進発展に移り、以て強力なる政治力と実践力とを結果し、万民翼賛運動の推進機関たる実体を整え、云々とある。予想した通り翼賛会は政治団体となり、一国一党を目的とするのである。憲法無視の行動が公然首相の口より発表せらるる様になった。
(昭和16年10月30日)


昭和16年10月31日
▲東条翼賛会総裁訓示内容、昭和16年10月31日付朝日新聞。

昭和16年11月10日、同交会が発足する。

法曹議員同盟世話人よりの通知。午前中来訪者、滝沢(七郎)世耕、中野、植田諸氏。正午いけだにて森田君と会談。夕方世耕君再び来訪。
民族若返り法の施術で対抗する以外国難打開出来ぬ、明治維新は夫れであった、と書いてあった。現在、国民の若返り方が何処にあるか?
(昭和16年11月10日)


昭和16年11月11日
▲昭和16年11月11日付朝日新聞。

どこに「民族若返り法の施術で対抗する以外国難打開出来ぬ」と書いてあったのかは不明なのだが、本邦の社会システムが一気に若返ったのは占領下の公職追放によってであろう。
14日、日比谷の中華料理屋・陶々亭にて同交会の第1回総会が開催される。ここで尾崎行雄と鳩山一郎の入会が正式に承認された。

4時頃芦田君東京クラブに行く。小林大将に逢う。3人鼎座して日米問題を語る。
広田氏は大島君披露宴にて米との交渉は必しも行詰って居る訳でない、戦争必至と思わぬと語っていた。
(昭和16年11月17日)


昭和16年11月19日、歯科受診を再開。3月22日以来である。

10時鈴木歯科医。日本棋院。6時星ヶ丘同交会
宮沢代議士、自分の演説を自ら取消し信念なき演説を為したりとて除名されんとし議員を辞職す。翼同の連中概ね比類の者共なり。日本危うき原因茲に存す。
(昭和16年11月19日)


宮沢胤勇は予算委での演説がもとで、議員を辞職する。演説は全文が議事録から削除されていて、ナニが失言だったかは不明である。議事録からの発言削除はよくあるが(たとえば斉藤隆夫の粛軍演説など)、公文書の改竄と一緒ではないのだろうか。後世の人間(たとえば、わたくし)が地味に困るのである。

昭和16年11月20日
▲昭和16年11月20日付朝日新聞。

此頃河鱒成熟の見当、15日再調査の結果月末との認定。四〇会、午餐会。1時半鈴木歯科医。
(昭和16年11月20日)


鳩山一郎は、軽井沢で養鱒もやっていた。議員を辞めても十分食える資産家が議員をやる、のは今もである。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

薪割りでドジを踏む鳩山一郎。

鋸で薪を作って居た際後の2、3本の木につまづき、後向きに倒れる。右の横腹が夫れから痛む。昨日も同じ様になりかかったのに足もとを整えずに続けたのは不注意だった。
上野山氏北海道空知郡滝川町の種羊場にて羊の写生をしてるとの通信を寄す。呑気なものだ、今頃は茲に来る約束をして居るのに。
(昭和16年10月6日)


「上野山氏」=上野山清貢、和製ゴーギャンといわれた画家である。北海道出身。
東条内閣は昭和16年10月18日に発足するが、東久邇宮稔彦の日記では前日夕方には号外が出ていた。

夕方号外で、東条陸軍中将に内閣組織の大命が降下したことを知る。私は、東条陸相に大命が降下したと聞いて、意外に感じた。東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ、開戦論者の東条を後継内閣の首班に推薦し、また陛下がなぜこれを御採用になったか、その理由が私にはわからない。私は登場に組閣の大命が降下したことに失望し、国家の前途に不安を感ずる。
(昭和16年10月17日、東久邇宮稔彦「一皇族の戦争日記」)


近衛文麿の話では、第一候補は東久邇宮稔彦だったという。

午後4時、近衛前首相来たり、次の話をする。
「先夜お話したように、陛下のお考えは、はじめは自分の後任に殿下がよいだろうとのことで、ほとんど御決定になっていたが、木戸内大臣の上奏により、臣下のものに内閣を組織させるように御変更になった。はじめは海軍大臣及川古志郎海軍大将がよかろうということだったが、けっきょく東条陸軍大臣になった。(略)原田熊雄が東条内閣になったときいて、『これは必ず戦争になる』といって、オイオイ泣いた」といっていた。
(昭和16年10月19日、東久邇宮稔彦「一皇族の戦争日記」)


重臣会議で木戸内大臣に東条を推薦したのは、阿部信行陸軍大将である(原田熊雄の話、昭和16年11月7日東久邇宮稔彦「一皇族の戦争日記」)。
この東条への大命降下の際に「白紙還元の御諚」(9月6日の御前会議の決定事項に捉われず、平和へ努力せよという御沙汰)があったことが、昭和天皇=平和主義者説の根拠のひとつになってる、が。

東條に大命降下せりと。近衛は逆賊と歴史は断ずる乎。東條は陸軍の移動によりて其の手腕には定評あり。彼れに外交、内政に対して何の識見、何の信念、何の勇気あるや。近衛、木戸の所謂ブロックは遂に日本を何処迄引きするであろう。又所謂重臣なるものの微力、寔に遺憾に堪えず。
(昭和16年10月18日)


「近衛、木戸の所謂ブロック」とは当時の右翼がよく使っていた言葉(=重臣ブロック)で、二二六の将校たちのいう“君側の奸”とほぼ同義。すなわち、重臣達が宮中で天皇を囲い込み、恣(ほしいまま)に操っているのだ――という、昭和10年頃の政友会久原派が盛んに主張していた重臣陰謀説である。

昭和10年6月23日
▲昭和10年6月23日付朝日新聞社説。

陰謀説の大半がそうであるように、この重臣ブロックという言葉にも実体はない。印象操作である。しかし、これが敗戦後の“何も知らなかったお可哀想な陛下”イメージにもつながるわけで、根は深い。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

鳩山一郎、昭和16年に岸信介と碁を打っている。

午後我妻、岸(信介)氏来訪。夕食後迄碁を囲む。
関山氏と2局、1勝1芇、岸氏に4目で2戦2勝。
(昭和16年8月29日)


当時の岸信介は商工次官を辞任(昭和16年1月)して東京駐在満州国経済顧問となっており、このひと月半後には入閣している(昭和16年10月、商工大臣、東條英機内閣)。ナゼ鳩山一郎と囲碁を打つにいたったかよくわからないが、政界入り後の人脈づくりの一貫か。後に両者とも反東條になるが、岸信介は翼賛選挙の推薦組だからまだこの時は反東條ではない。なお岸信介は器用で趣味多彩、笹川良一によると戦犯容疑で勾留された巣鴨プリズンでもイキイキしていた稀有な官僚だったという。
傲岸不遜で知られる孤高の宰相・吉田茂も、

2時吉田氏訪問、吉田夫人癌を病む。元気の吉田君もいつもの調子なし、気の毒に堪えぬ。
(昭和16年9月10日)


この時は夫人の病気で大変であった。吉田茂の妻、雪子夫人は乳がんで、

1時天主教会、吉田令夫人告別式。
(昭和16年10月10日)


10月にあえなく死去している。この時、吉田茂は外務省を退官(昭和14年3月)して浪人中である。

8時半上野発、軽井沢に行く。列車中鈴木文四郎氏の話に、丸ノ内ホテル裏、中央ビル内、岡部医院の特別の光線療法はゼンソク、其他に特効ありと。
(昭和16年10月4日)


「特別の光線療法」=紫外線療法だろう。藤浪剛一「紫外線療法」(昭和16年)には糖尿病や「歯牙ならびに口腔疾患」にも効くとあった。そういう時代。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

昭和16年7月2日に南北二正面作戦が決定され、

兎に角大動員して南北に派兵する事は暴挙と言わざるを得ない。近衛に如何なる確信あるか。
(昭和16年8月4日・月)

7月28日に仏領インドシナ南部に進駐する。米国がこの報復に日本への石油禁輸を決定したのが8月1日で、日本によるその報復が12月8日の真珠湾攻撃だ。「確信」なんぞあるわけがなく、すべての戦争は外交の失敗である。
南仏印進駐については、昭和天皇も「御不満」をもらしていた。

時局についてお話があったが、次のように陸海軍統帥部のやりくち、軍の将来に対する決心につき、御不満の点をもらされた。
「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことを言って困る。ことに南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、なんら各国に影響するところはない。作戦上必要だから進駐致しますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を下し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかりいって、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」
(昭和16年8月5日、東久邇宮稔彦「一皇族の戦争日記」)


ガソリン不足で陸運統制令が強化される(例:なるべく歩け)が、

夕方石坂君見舞に来訪。富山の黒部の西瓜、鉄道は輸送せず波を打って腐敗を待つと。政府は無きに如かず。
(昭和16年8月5日)


早速物資輸送がアレに。貨物車両も不足していたのであろう。
「石坂君」=石坂養平、当時は衆議院議員。翼賛選挙では推薦議員で当選している。

夕食のとき威一郎より電話あり。明日10時の急行で伊勢鈴鹿の飛行隊に行くとの事。子供達代る代る出て威一郎の声をきく。夕食後又威一郎を呼び出して卒業式の模様を聞く。経理局長の話の後、代表答辞をやらされて大に困ったと。
(昭和16年8月11日)


鳩山一郎の長男・威一郎は東京帝国大学法学部を首席で卒業後大蔵省に入ったが、入省後すぐに海軍に召集され、海軍経理学校に入学していた(昭和16年4月17日)。後に総理大臣となる鳩山由紀夫の父ちゃんである。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

58歳の夏に鳩山一郎は腹痛を起こしているが、

昼食後間もなく胃壁が爆発しそうな苦痛を感ず。池田博士3回の注射をしたが中々治まらず、4時半、6時頃2階吐いて漸く堪えらるる苦となる。(略)朝旧ゴルフにて激しく練習せる事と、ハムの脂肪を多食せるとが直接の原因になったらしい。単純な胃痙攣ではなく、胆嚢炎の発作であった。
(昭和16年7月20日)

急性胆嚢炎だった。しかし、「脂肪を多食せる」(=胆石の原因)はともかく、「朝旧ゴルフにて激しく練習せる」は関係あるのか。

病臥中。よく医師の命に服して居ても中々回復遅し。少し癪に障る。
有島武郎の「生れ出づる悩み」を読む。
(昭和16年7月26日)


「生れ出づる悩み」……胆石をイメージして手に取ったか(多分違う)。
29日には病床から巨人軍にハガキを出している。鳩山一郎は巨人の初代後援会長。時の文相であった昭和7年には、野球統制令を出しているのだが。

食物は未だに変わらざるも漸く庭に出でても疲れなくなる。
(昭和16年8月1日)


発作から12日目に、やっと回復の兆し。

発病より本日にて2週間、大体回復す。
(昭和16年8月2日)


この頃の軽井沢はずっと雨続きで、

畑の馬鈴薯腐り出した。稲作の被害推測するに難からず。森田君の言うが如く近衛内閣に対する天の制裁か。
(昭和16年8月3日)


自慢のジャガイモも腐りだしている。全国的にも多雨と日照不足、低温で米の不作が心配されていた。

昭和16年8月2日
▲昭和16年8月2日付朝日新聞。

「森田君」=森田福市。翼賛選挙を非推薦で勝ち抜き、広島原爆で爆死した衆議院議員である。なお、7月18日に第3次近衛内閣が成立している。
農作物の不作まで近衛のせいにしようとする鳩山一郎。心底嫌っている。同属嫌悪か。近衛文麿も鳩山一郎も金持ち・お坊ちゃん・ポピュリストと似たもの同士である。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

午前中、小玉呑象氏安藤君来訪。(略)
4時華族会館に小玉氏の易断をききに行く、芦田名川両君と共に。内閣は元龍有悔にて近く亡ぶると。
(昭和16年1月14日)


小玉呑象高島易断の創始者、がたびたび登場する。占いに頼る政治家は多いと聞くが、鳩山一郎もか。「元龍有悔」は亢龍有悔の間違いだろう。
3ヶ月後に歯科通いが復活、

1時、鈴木歯科医。
(昭和16年3月13日)

11時鈴木歯科医。
(昭和16年3月15日)


義歯の不調かと思われる。鳩山一郎、58歳。

6時築地2丁目延寿春、小玉氏と。
(昭和16年3月21日)


小玉呑象とは個人的に会食もしている。

1時鈴木歯科医。
(昭和16年3月22日)


次の歯科受診は11月である。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

2時山田医院に山浦氏を見舞う。2時半、鈴木歯科医。
(昭和15年12月30日)


鳩山一郎の旅日記「外遊日記 世界の顔」(昭和13年)を編集したのが「山浦氏」=山浦貫一である。同著は敗戦後、政界に復帰しようと開いた記者会見上で記者たちに糾弾され、

6時半プレスクラブ、米記者団と会見、世界の顔に関し辛辣の質問を受く。1937当時ヒットラーを少々褒めたとて責むは酷ならん。
(昭和21年4月4日)


公職追放の一因となったとされる。
鳩山一郎はこのことを恨みがましく自叙伝に書いているが、

正直者の正直に書いた日記だから私が書いた通り出版されたならば、決してあんな問題にまき込まれる性質の本ではない。(略)
実をいえばあの旅日記の原文は、見ようによると私の「米欧ゴルフ武者修行記」と呼んでも差しつかえぬほど、ゴルフの記事が多いのである。日支事変の勃発で、国民諸氏が貴い血を流している最中、悠々とゴルフ行脚でもあるまいといった気兼ねやら思いやりやらから、これも山浦氏の裁量でだいぶ削られているのであって、本当はもっと沢山ゴルフ日誌が書かれてある。
(鳩山一郎「私の自叙伝」昭和26)


原本どおりのゴルフ日記でも追放は免れなかったと思う。なにせ組閣当日の追放だ。政治家に対するものとしては最強最悪のいやがらせであり、どんな根拠でも、また根拠がなくともやられていたと見るべきである。ここで心が折れなかった鳩山一郎の精神力たるや見上げたものだ。しかも、追放解除直前に病で倒れても、である。
それはともかく、鳩山の外遊は当時のメディアでもじゃんじゃん報じられていて、

昭和12年12月3日
▲日本の武士道とナチスの精神は似通ったものと考える__昭和12年12月3日付朝日新聞。

昭和13年1月3日
▲昭和13年1月3日付朝日新聞。

昭和13年1月4日
▲昭和13年1月4日付朝日新聞。

まあ、後のGHQ左派による鳩山糾弾の材料は山ほどあった。さらに鳩山一郎には統帥権干犯問題や瀧川事件などの前科があり、少なくとも石橋湛山の追放とか、大川周明のA級戦犯容疑よりはよほど納得がいく。ゴルフ日記が削られたから追放されたと鳩山一郎が本気で考えていたのだとしたら、バカである。
その著書「世界の顔」では、わたくし的にはヒトラー云々よりも、日中戦争に対する認識の甘さが気になった。

支邦は果して生存なし得る国家であるか?
(略)
支邦はソ連邦の赤色勢力の下に生存するか、日本の保護の下に生存するか、2つに1つよりない。
(帰朝して想う、「外遊日記 世界の顔」)

鳩山一郎は中国が内乱状態であることも、

支邦人は国家を護る事よりも私の為めを計る事に急であります。
(愛国心は国家の基である、「外遊日記 世界の顔」)


五四運動もわかっていないか、もしくはわかってないフリをしているのか。
日貨排斥(五四運動)はリッチ貧乏シチズン農民かかわらずの全土運動だと日本で報道されたし、何より頭山満に宮崎滔天ら日本人がバンバン参加していたではないか――と考えれば、やはり国粋意識を高めて支持を高めんという、さもしい保守政治家のアオリなのかと思うが、一方でこんな話もある。ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」を見たら、まさにベトナム戦争に介入した当時の米国防トップであるマクナマラが“当時は中越が長年戦争していた歴史を全然知らなかった”と告白していた。その程度の認識で戦争やったのか! と、わたくしはのけぞったのであるが、その程度の認識だからこそ戦争ができるのかもしれない。
閑話休題。
鳩山一郎はパネー号事件後の米国人の反日感情はかなり気にしているが、中国人の対日感情にはただの一言もなく、なんと国民政府より日本のほうが中国人民の信頼を得られるとまで言い切っている。鳩山一郎言うところの「愛国心」とは、すなわち同調性の高さを指している。なので、鳩山は中国をバッサリやりつつ、日本の国民精神総動員運動を手放しで礼賛しているのである。翼賛会脱会の一事のみでこの人を自由主義者と呼ぶのはアレであるし、フツーに右翼であると思う。なお、今でこそ日本の右翼といえば権力ベッタリの主張だが、戦前右翼のスタンダードはむしろ反権力である。
訪英時には当時の大物財界人が鳩山一郎に助言をしているが、

一、日本は征服をやって居る。日本は世界列国が外の仕事に没頭して居る時に支邦を攻撃して居る。
二、日本は小事件を利用して大事件にした。
三、英支間の交友関係は日本と同様に長い。
四、蒋介石、宋子文、其他、宋財団が、反共産主義である事は種々の点から、証拠立てられている。然るに日本は無理に支邦をボルシェヴィズムにした。斯様な訳で、ロンドン市で日本のために1志(シリング)を集めるのも不可能だ。
(Lazard. Brothers and Co.会長Robert Kindersleyの発言、昭和12年11月3日)


完全に援蒋ルートの伏線であった。が、そういう警告を感じ取ったふうもなく、鳩山一郎はヘラヘラと戦争を楽観視し続ける。鈍感であるが、しかしむしろこの鈍感さが鳩山一郎を救ったのかもしれない。この時のロバート・キンダースレーとの面会をセッティングし、同席もしていた吉田茂は後に反戦運動のかどで検挙され、塀の中にブチこまれるのだが、一方で同時期の鳩山一郎は軽井沢で悠々自適の生活を送っていた。当局にとっちゃザコだったわけだ。

ディーキン氏(R. Deakin, Esq.,Foreign News Editor,“Times”)『タイムス』外交通信員。若い記者だ。蒋は共産主義者でない。之れを打倒すれば却て共産主義を盛ならしめずやと頻りに聞いた。本人の真意如何に不拘、共産主義者にをどらされて居れば共産主義者と同様ではないかと僕はいった。
(昭和12年11月23日、鳩山一郎「外遊日記 世界の顔」)

日中戦争は再度の国共合作を誘引し、ついには中国大陸全土の共産化を招いた。毛沢東が後年、「日本は中国共産化の最大の功労者」と感謝している通りである。

昭和13年2月3日
▲帰朝の鳩山使節語る、昭和13年2月3日付朝日新聞。

なお、「世界の顔」ではシュペーアが演出したニュルンベルグのナチス党大会など、ドイツ見物記が面白かった。ミトロッパ(寝台車)村に泊まるとか、うらやましいのう。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

4ヶ月ぶりに歯科通いを再開する鳩山一郎、57歳。

日本製鉄1株につき12・50払込。小田原急行1株につき12・50払込。一英会。11時半歯医者。
(昭和15年4月1日)


鳩山一郎の資金源は、株か。

午後1時三縁亭、常時顧問会。3時半鈴木歯科医。
(昭和15年4月5日)


「三縁亭」は芝公園にあった西洋料理屋。鳩山一郎の所属する政友会久原派がよく会合に使っていた。

鈴木歯科。
(昭和15年4月12日)


歯科通いは一端終わり。
昭和15年秋には大政翼賛運動がスタートし、

昭和15年9月17日
▲昭和15年9月17日付朝日新聞。

松野氏より午前中電話あり。全議員を翼賛会に分属せしめたる際、直に拒絶状を出さぬ様にと勧告す。
(昭和15年10月11日)


政友会も対応に追われている。
ちなみに、満州事変までは政友会も民政党も対米協調路線だった。だが昭和6年9月に満州事変が勃発し、12月に政権を取った政友会総裁・犬養毅は世論もあって軍の行動を追認、翌7年3月に満州国が“独立”する。この間、昭和7年2月の総選挙で政友会は大勝しているから、やはり政友会の満州事変支持は日本国民に支持されていたのである。イケイケドンドン、戦争で景気が良くなる! と日本人の多くが思い、そして「民主的に」戦争に突入していった。で、気が付けば鳩山一郎らが命をかけていたはずの政党もなくなり、思想信条もクソもない一緒くたの戦争協力組織(大政翼賛会)になったのが昭和15年である。コミュニズムを嫌い抜いていたはずの鳩山一郎が、むしろ統帥権干犯問題等々で自ら政党政治の首を締め上げ、天皇制共産体制を招いたのは皮肉というか、自業自得というか。

此頃の政治を見ると知はなく、行を伴わぬに驚く。近衛に日本を引き廻されては堪えきれない。
(昭和15年10月15日)

ここで近衛ひとりに責任を押し付ける厚顔さがなければ、政治家なんぞやってられないのかも。後藤基夫の「政治家は皆ビョーキ」は至言なり。

9〜9時半、鈴木歯科医。10時頃鈴木正吾氏。8時笹川氏
(昭和15年10月25日)

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

体調とは関係ないが、

10時代行会。正午午餐会。6時辻君と清水君。5時岡田君。9時肥田君
清水国治君は南京上海路合群新村5号を本拠として陳班〔青幇〕と深き関係あり、最高顧問として治安の任を掌る。支邦人を治むる道、軍部の現況、揚子江の航行権を是非ともとる事など3時間余り尽きぬ話をきき益する事尠からず。塩野法逓相の内閣成立の行動を肥田君より聞く。
(昭和14年1月9日)


鳩山一郎は政界の黒幕・辻嘉六と戦前からめっさ親しく、日記によく名前が出てくる。なお、「清水国治」は遼東新報の記者。著書に「満州駐屯守備兵の思ひ出」がある。

夜、浜田、辻両君、ガソリン発明の件にて相談に来たる。又、肥田君も来訪。
(昭和14年1月12日)


「ガソリン発明」。昭和10年9月29日の朝日新聞に「アメリカの新進化学者アドルフ・プレシン博士は16年間粒々苦心研究の甲斐あって、ここに固形ガソリン、新しい呼称「ソリーン」(solene)の製法を完成し世界注視の的となっている」とあるが、それか?

昼夜3万。辻宛手形2万。
(昭和14年2月25日)


辻嘉六といえば児玉源太郎大将の秘書で政友会院外団、政界の黒幕として自由党の結党資金源となったことは有名だが、戦前はその辻宛に2万も手形を切っている。出て来るカネの額もバカでかいので驚き。一人当たりGNPが500円くらいの時に万単位でカネをやっている。「昼夜」は日本昼夜銀行。
で、その約2ヶ月後に、

11時検事局橋本検事、辻氏保釈の件。
(昭和14年4月17日)


「保釈」。
辻、戦後の隠退蔵物資事件の前にも前科が。

昼夜、3万、2万辻の分、3万5千。
(昭和14年4月27日)


昭和14年の1万円――
・東京大学の年間授業料:120円→平成29年度:53万5800円=4465倍
・総理大臣月給:800円→平成29年度:205万円=2562.5倍
・1人当たりGNP512円(昭和15年)→平成29年度:417万円(実質GDP)=8144.5倍
まあ、今の5000万円ぐらい? とすると、鳩山一郎は辻嘉六に億単位でカネをやってたわけか。ナニやらせてたんだろう。

10割すべて歯科技工士にやれ

昨日の続き。

雑感
会場で配布された資料に、
「日本の歯科技工を守ろう」
があった。「2016年保団連歯科技工所アンケート」をもとに「歯科技工をめぐる問題の現状とその背景、問題解決の提案を示して、公的保険としての歯科医療の充実のための議論に役立てたいと作成」した冊子らしい。
ここで「歯科技工士の長時間労働と低い収入の背景」として挙げられているのが、第一に「低歯科医療政策」。
第二に「政府が決める歯科技工の歯科保険点数は、市場価格である技工料を基準として公定価格(保険点数)が決定される特殊な仕組み」。
……「特殊」。
診療報酬点数は、基本的に市場価格がベースである。特殊でもなんでもない。

2018-03-05 (1)
▲労働実態・原価計算に基づかない保険点数の評価

第三に、

歯科技工物の外注委託に関する取引ルールがないことが原因です。「7:3」大臣告示がありますが、法的拘束力がないために自由競争に任され、歯科技エアンケートに寄せられたように過度な価格競争にさらされて歯科技工料金は低い状態におかれています。


2018-03-05 (3)
▲7:3の大臣告示

「7:3の大臣告示」は診療報酬ルールのひとつだし、健康保険制度を守らない保険医などありえない。じゃあなぜ「7:3」を保険歯科医が守らないかといえば、指導監査に関係ないからである。技官に怒られないから守らない、というだけだ。
で、守る気がサラサラないのに、

2018-03-05 (2)
▲わずか1,300億円で「7:3」に準ずる引き上げが可能

点数UPだけは要求するというね……。

診療報酬アップが技工料のアップにならないことは、すでに証明されている。すなわち、1992年の診療報酬改定で総義歯の点数が1220点から2050点と倍近くになったが、委託技工料は上がらなかったのである。歯科医師の搾取分が増えただけ。なお、この義歯点数アップはテレビ報道をきっかけに自治体が「歯科技工士の窮状」を救おうと陳情し、国会に取り上げられて実現したものである。その時も保団連は絡んでおり、点数アップの経緯もよくご存知のはずだが、肝心の歯科技工士は置き去りにされてしまったという悲しい結果は気にならなかったようである。
さらにこの保団連、アベノミクスおよびトリクルダウンを否定しているのだが、

狢膣覿箸潤えば国民も豊かになる瓩箸いΑ屮肇螢ルダウン」論の破綻は明らか


シャアシャアと“歯科医師が潤えば歯科技工士も豊かになる”と述べる神経には驚くばかりだ。いやはや、むしろ歯科医師・歯科技工士の関係はトリクルダウン論の破綻を表す好例として政経の教科書にでも載せるべきであろう。利潤を確実に分配する制度がなければ利潤は上層階級にとどまる、という例として。すなわち、
「7:3の大臣告示という制度がなければ、歯科診療報酬点数が上がろうが、歯科技工士には何ら益はない」
のである。
なお、この冊子の後半には歯科技工士の意見――診療報酬が正当な点数として評価されていないのが問題だと思います、とか――が載っているのだが、コレを載せるならなぜ、脇本征男さんの寄稿を載せない。それこそ保団連歯科代表・宇佐美宏氏が、脇本氏に7:3の大臣告示が出された経緯について依頼した原稿があるではないか。月刊保団連に載せると聞いてから(2017年5月)、もうすぐ1年経つがこのままお蔵入りにする気ですか宇佐美さん。脇本氏の原稿はギャアギャアわめきがちなわたくしの文章とは違い、シンプルな“真実”の羅列である。これすら認められずに歯科医療を改善するなどできるわけがない。

日歯が歴然と代議員会で決議した3原則「制度化はしない、拘束力は持たせない、実害を及ぼさない」は、大臣告示がなされ30年、一定の法的拘束力があり、歯科医師が技工士と手を携えて「7:3」を守り、国民歯科医療の信義を全うする責任がある現在、公益法人たる日歯は社会的に正式にこれらを撤回し、国民、患者に今日までの不作為を詫びるべきではないでしょうか。
これらを蛮勇をもって実現できなければ、国民歯科医療の充実・発展等決して有り得ないばかりか、残念ながらデンタルファミリーもその存亡の危機を招くものと確信致します。
口先だけの将来展望や絵空事では国民は騙されないと私は思います。

(脇本征男、『「7:3」の発端』から抜粋、未発表)


7:3の大臣告示が出されたのは1988年5月、もうすぐ30年になる。この間、歯科医師の歯科技工能力は落ち続け、補綴は歯科技工士に丸投げされているのが現状だ。義歯の設計からやっている歯科医師は、1割いるかどうか。義歯作成を依頼してきてるのに対合歯の印象を寄越さない、などという歯科医師も出ている始末だ。もはや3割分を歯科医師が取るという根拠すら不明である。
10割すべて歯科技工士にやれ! 
歯科医師は「歯科技工指示書料」だけで十分! 
補綴物が高ければ高いほど歯科医師の取り分が増える制度は健康保険制度の趣旨に反する! 
搾取の固定化、奴隷制をやめろ!
以上をわたくしは主張したい。 

医療・介護フォーラム2018

3月4日13〜17時、博多の九州ビルにて市民公開講座「医療・介護フォーラム2018 Let's チームケア“生きる”を支える」が開催された。
主催は福岡県歯科保険医協会、参加費無料。
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基調講演:
二ノ坂保喜 (医療法人にのさかクリニック院長)「いのちを受けとめる町づくり 〜在宅ホスピスの現場から〜」

シンポジウム:
岩永悦子(NPO法人老いを支える北九州家族の会会員)「夫を支えて。私の思い。」
川端貴美子(歯科医師、みずほ内科・歯科クリニック院長)「口から食べるよろこびを…」
来田時子(社会福祉士)「豊かで活力ある生き方をするために」
黒木みよ子(施設管理者、有限会社時輪代表取締役)「あなたとの出会いに感謝」
杉本みぎわ(暮らしの保健室 in 若松代表、福岡県立大学看護学部助手)「専門職の鎧を脱いで、地域に出よう」


面白かった。以下、雑感。

雑感
基調講演演者、二ノ坂保喜先生は
「病院の務めは患者を家に帰すこと」
「人生の最期は住み慣れた家で、豊かな生活の中で迎えるべき」
という在宅原理主義者。その「にのさかクリニック」では100人/年ほどの看取りを行い(2016年7月〜2017年6月の在宅患者数は344人、うち死亡患者数は100人で自宅での死亡:46人、自宅以外の死亡:29人、医療機関(含ホスピス)での死亡:25人)、週1で地域住民向け健康教室を開催、月1で広報誌発行、毎週水曜日に多職種が集まるカンファレンスを行い、さらには不定期にコンサートや講演会も開くほか、スタッフは全国各地で講演、かててくわえて自身は海外ボランティア(バングラデシュで看護学校を設立)するなど凄まじい行動力である。さらに特筆すべきはその類まれな人柄で、在宅ケアの患者さんとその家でお酒を飲み、4日後にその患者さんが亡くなられたという症例報告でソレを実感した。自宅に招いて一緒に酒を飲みたいと思える医療従事者を、少なくとも現状の医学教育システムで養成することは無理である。そしてそういう余裕が今の保険医療制度にあるかどうかも、難しい。この辺も今後の在宅医療の課題ではないのか。大体にして、在宅ホスピスケアは負け戦なのである。100%死ぬ人間に対する負け戦の医療、しかしその負け方もイロイロだ――という哲学領域に医学が踏み込めるか否かであろう。現実問題、人文系の教養をバカにしている医師は結構多そうである。動物実験やin vitroのほうが疫学よりもエビデンスレベルが高いと思っている医師もいるくらいなのだから。
なお、二ノ坂先生は第3回日本医師会の赤ひげ大賞受賞者。超納得。

雑感
質疑時間にて、
「参院予算委でもデイサービスにおける訪問歯科診療の需要について質問が出されたが(3月3日、公明党・熊野せいし議員)、現場の需要はどうか」
という質問に対し、歯科医師の川端貴美子先生が答える。

川端氏「デイサービスにはその時間にやることがあり、訪問歯科診療はデイサービスの運営を圧迫するだろう。評価も平成30年度から1時間あたりとなった。相手方施設の単価まで考えるべき。診療所からの送り迎え機能などで対応したらどうか」

これ、背景に施設入居者とデイサービス利用者が活動する場が一緒で、入居者に訪問歯科治療をしているとデイサービス利用者が「私もお願い」と言ってくる、ということがある。現状ではできない(健康保険では)ので歯科医師は断らざるを得ないわけだが、納得できるデイ利用者は少ないだろう。ちょっとばかりついでに診てくれてもいいじゃないの、というわけだ。
で、川端先生の答えだが、これが正論なのだろう――街では。
だが、イナカでは10〜20km離れていて日中は家に誰もいない、とか珍しくない。家人はデイサービスに高齢者を預け、その間に仕事に行くのである。歯科診療所が送り迎えするにしても、日中家に誰もいない場合ソレができるかどうか。家族に、仕事のない日に連れてきてと言うのも酷じゃないか。遠いし、一度で済む話でもない。
以上を考えると、デイ利用者への訪問歯科診療は解禁すべきと思う。ひとりで通えない患者に何らかの手を打つのは、当然ではなかろうか。また、この件に限らず高齢者の移動手段への公的補助をもっと考えるべきである。認知症ドライバーの事故が問題になっているが、イナカの過疎化はすごいので、とにかく車は必要である。
ちなみに、川端先生は内科と歯科を融合した診療所「みずほ内科・歯科クリニック」の院長で、デイサービスや訪問看護ステーションなども経営している。調理師免許を持ち、午前中はほとんど料理しているという。つくる料理は嚥下機能などに配慮してあり、しかも美しくおいしそう。フレンチのフルコースまであった。

雑感
会場で配布された資料に、
「日本の歯科技工を守ろう」
があった。
――のだが、長くなるので明日。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

56歳の鳩山一郎、歯科にも通っている。

2時鈴木歯科医。
(昭和14年6月1日)

半年飛んで、

11時半、鈴木歯科医。
(昭和14年11月24日)

再開。

10時と午後1時半、鈴木歯科医。
(昭和14年11月29日)


若尾氏結婚披露、5時半帝国ホテル。10時半、歯医者。
(昭和14年11月30日)

義歯をつくったか。
12月、葬式会場で「脳貧血」を起こし、

本願寺にて脳貧血を起し友人に迷惑をかけた。帰宅して就床。
(昭和14年12月15日)

倒れている。起立性低血圧だろう。寺は寒いし、長時間立ったままだから。

血行の悪い為め貧血になったと断じて上田君の妻の行く医者、田中吉左衞門博士に注射して貰う。今日から20回連続注射をする約。
(昭和14年12月16日)

何の注射なんだ、20回も。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

現在翻刻されている鳩山一郎の日記――伊藤隆、季武嘉也編「鳩山一郎・薫日記」は一郎篇(上巻)が昭和13年2月2日から脳溢血で倒れる6月11日まで、脳溢血の後遺症で手が不自由になったため妻にバトンタッチした薫篇、昭和27年1月31日から昭和34年3月31日までの2部からなっている。
日記の出鼻はパリで開催される列国議会同盟会議に出席&欧州旅行――

昭和12年6月18日
▲行きたいから行くだけで特に意味ないけど? と語るブルジョワ議員・鳩山一郎さん_昭和12年6月18日付朝日新聞。

――から帰国した日で、

数百の出迎人誠に恐縮す。
(昭和13年2月2日)


昭和13年2月3日
▲昭和13年2月3日付朝日新聞。

と華々しいが、

6時政友会歓迎会、紅葉館。(略)紅葉館より帰宅後頭痛や吐き気で入浴する元気なく臥床。とうとう流感にやられる。
(昭和13年2月2日)


早速流感に感染している。
東京ではインフルエンザが流行っていた。なお、外遊中には歯痛と腹痛に悩まされている。

昭和13年1月11日
▲昭和13年1月11日付朝日新聞。

10時三縁亭、幹部政調連合会。3時帝大25番教室講演、1時間半。2時政務調査総会、本部。4時首相官邸。11時歯科医。
(昭和13年4月19日)


歯科にも通っているが、

9時より小金井、交詢社ゴルフ。11時歯科医。
(昭和13年4月23日)


当時鳩山一郎は55歳。義歯を使用していたのかも。

星ヶ丘其他にて寒いかと思って居たが其間に風邪に罹り、夜発熱38度になった。全身だるく閉口、よく眠れぬ位であった。
(昭和14年3月27日)


よく風邪に罹っているうえに、

口中より咽喉にかけ疼痛未だ癒えず、中々風邪と絶縁出来ず閉口なり。
(昭和14年4月4日)


一度罹ると中々治らない。
昭和14年4月8日に立憲政友会の長老会議が開かれ、

正午星ヶ丘、長老会。
(略)
雑談中に、濃茶7分、薄茶3分の一服を朝、午後喫すべし、長寿を保ち元気を失わずと。又、スルーハニールアーミド、三共の製薬は肺炎其他植物性黴菌による病気には一服直に効果ありと聞く。
(昭和14年4月8日)


鳩山一郎はメインテーマである総裁問題以上に、雑談中に出た健康情報に関心を持ったようである。健康情報に敏いのは、ワリと体が弱かったからだろうか。なお、「スルーハニールアーミド」はSulfanilamide、サルファ剤のことだろう。抗菌薬である。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

さて、鳩山一郎は明治16年元日生まれで、北一輝と同い年である。
明治40年に東京帝大英法科を卒業後、まずは弁護士となった。
大正元年に東京市会議員に、大正4年に衆議院議員となり、政友会に加わって大正15年に幹事長となる。
昭和2年に田中義一内閣の書記官長、昭和6年に犬養毅内閣で文部大臣に就任。これが初入閣で、ときに鳩山一郎48歳であった。次の斉藤実内閣でも文部大臣で留任し、瀧川事件を起こしている。昭和9年3月、帝人事件への関与疑惑で大臣辞任、昭和11年に政友会の総裁代行に。
昭和17年の翼賛選挙では非推薦で当選し、昭和18年には戦時刑事特別法案に反対して東條内閣を激しく論難、東條英機が動員した憲兵と特高にイヤガラセを受けている。同法成立により議会においてですら自由に議論できなくなったため、鳩山一郎は議会終了翌日に翼賛政治会を脱退、以後は敗戦まで軽井沢で農業に勤しんだ。ひきこもったわけだ。
敗戦後は自由主義者・鳩山一郎の時代が来るであろう――と清沢洌は期待した。
が、どっこいGHQの弾圧が待っていた。公職追放である。追放理由はアレコレあるが後述するとして、追放指令はさきの総選挙(昭和21年4月10日)で鳩山率いる日本自由党が第一党となり、首相指名を待つばかりという日(昭和21年5月4日)に下され、しかもその追放は5年以上に及んだ。追放期間は昭和21年5月4日〜昭和26年8月6日まで、年齢にして63〜68歳という政治家としての円熟期をまるでムダにした鳩山一郎。不幸は後を絶たず、なんと追放解除直前に倒れてしまう。脳卒中(脳溢血)を起こした昭和26年6月11日、鳩山一郎は68歳であった。

主な死因別にみた死亡率の年次推移
▲主な死因別にみた死亡率の年次推移
出典:厚生労働省政策統括官(統計・情報政策担当)「平成29年 我が国の人口動態」

昭和26年は、脳血管疾患が結核を抜いて日本人の死因第1位になった年である。人口10万対死亡率は125.2。
特に男性の死亡率は高く、

主な死因別にみた性別年齢調整死亡率の年次推移
▲主な死因別にみた性別年齢調整死亡率の年次推移

昭和40年代までは日本人の国民的死病であった。病を生き抜き後遺症(片側麻痺)を克服し、69歳で議員復帰、71歳で内閣総理大臣となった鳩山一郎はかなりの医学的成功例であろう。さらに72歳で保守合同を成して政治を安定させ、日ソ国交回復と国連加盟を花道に内閣総辞職したのが73歳。75歳でも選挙で勝ち(15回目)、76歳で逝去する。衆議院議員の在職期間は、35年9ヶ月であった。鳩山一郎は政友会領袖時代のアレな行為を、戦後の長生きで相殺したのである。まさに「量は質を凌駕する」を体現した政治家といえよう。
とまれ、鳩山政権は丸2年続いている(昭和29年12月10日〜昭和31年12月23日)。2年も政権を維持するとは鳩山を担いだ人々も予想し得なかったのではないだろうか。しかも医療事情の最悪な戦中〜敗戦直後、本人はもちろん家族もかなり鳩山一郎の健康維持に邁進したのではないか――という予想のもとに伊藤隆、季武嘉也編「鳩山一郎・薫日記」を読んだのであるが、予想はほぼ当たっていたと思う(まだ読んでる最中)。一方、意外なこともわかった。鳩山一郎およびその賢婦人たる薫は、医学のみならず新興宗教にも頼っていたのである。日曜日には賛美歌を歌う家なのに。

鳩山夫妻の体調管理 一郎編

鳩山は人なつこい、開放的で好感が持てる。智的でもある。この人の舞台が来るであろう。大胆で、度胸もある。右翼に対し「戦争は勝てると思わん」と平気でいっているらしい。人徳がある。彼には、兎に角、良心的な人々――例えば芦田植原その他――がついている。場合によれば、百人ぐらいは集まるだろうという人もあると自からいっている。
(昭和19年8月12日、清沢洌「暗黒日記」)


上は敗戦後の鳩山ブームを予見したかのような清沢洌の鳩山一郎評だが、意外である。
清沢洌が統帥権干犯問題や、

昭和5年4月26日
▲昭和5年4月26日付朝日新聞。

瀧川事件や、

昭和8年5月21日
▲昭和8年5月21日付朝日新聞。

はたまた議員食堂でライバル政党の代議士を殴る――、

大正11年1月28日
▲大正11年1月28日付朝日新聞。

などなどの鳩山一郎の愚行を知らないわけがないからである。特に統帥権干犯問題と瀧川事件はただでさえ強い日本の同調圧力を極限まで高めたわけで、鳩山一郎がいかに翼賛選挙を非難しようと自業自得としか思えない。戦後に書かれた回顧録でも盛んに自由主義者をアピールしているが、自由主義者どころか政治の優位を自ら否定して軍部を独走させ、大学自治を死滅させた立役者だと思う。清沢先生、これら愚行を相殺せしむるほどに鳩山一郎は輝かしかったのですか――と清沢洌には聞きたいが、まあ、輝かしかったのだろう。それぐらい、真っ暗な時代だったのであろう。

昭和17年5月2日
▲翼賛選挙を非推薦で勝ち抜いた輝かしき鳩山一郎さん_昭和17年5月2日付朝日新聞。

なお、鳩山一郎は名家のぼんぼんで明朗快活、教養もオカネも豊かで頭脳明晰、しかも清沢と同じくゴルフ好きであった。

昭和6年年1月21日
▲議会に備えてゴルフを控え、令嬢のピアノで体調と精神を整えるらしい鳩山一郎さん_昭和6年1月21日付朝日新聞。

軽井沢で清沢洌が鳩山一郎と面会した昭和19年当時は総力戦の真っ最中、両者はその天皇制全体主義に似つかわしくなく、また、馴染めない2人であった。言論弾圧の対象となって窮屈な思いをしていた清沢洌は、同じく軽井沢に追いやられた反骨の政治家・鳩山一郎に希望を見たのであろう。恐らくは。

矢部貞治の不愉快34

最晩年の矢部貞治は仕事がなければ朝から飲むし、

10時までに時事通信の長谷川君の部屋に行く。「フォト」に載せる対談。朝に飲んだシェリーがバカに利いて陶然として話した。
(昭和42年2月2日)


仕事があっても飲むし、

近頃は原稿を書くのが億劫だし、ペンがうまく動かないと水割りをやるので、酔払って書くことになる。
(昭和42年2月5日)


仕事のためにも飲む始末であった。飲みながらよく書けるものだ。
飲み過ぎは高血圧と中性脂肪増加と動脈硬化のリスクであるが、矢部貞治の血圧は「180と90」(昭和42年2月4日)。完全に高血圧である。

今日は朝から炬燵で新聞。雪見酒。うたた寝。
(昭和42年2月12日)


飲み過ぎ。
(昭和42年2月13日)


一応、飲み過ぎとの自覚はあるが、

渋谷で靴を磨いて3時過ぎ帰宅。あとはまた水割りを飲んでジダラクだ。
(昭和42年2月16日)


やめられない。アル中である。

朝からシェリーや水割り。
(昭和42年2月24日)


腰痛もひどく、

1時から3時まで日通の中央業研で講義。
腰は痛いし、眼はおかしい。辛かった。
(昭和42年3月1日)

眼にも異常があった。血圧異常からだろう。

新聞を見てから11時前に静子もいっしょに伊藤という眼医者に行く。前の借家にいた人だ。眼底血圧が高いと、よくこういうことがあるということで、眼薬とネリ薬をくれた。
(昭和42年3月3日)

この頃はしょっちゅう下痢になっているようで、「近頃は帰宅すると先ず便所に飛び込み、あとは炬燵で水割りだ」(昭和42年3月2日)という毎日であった。

素男野田に行った。朝僕を送って「あまり酒は飲まないでネ」と言った。
夕方から雨になった。酒を相変わらず飲む。
(昭和42年3月30日)


「素男」は矢部貞治の次男? で、野田市のキッコーマンに入社したばかりであった。日記を読む限り、矢部の家族が矢部の飲酒に対して何かを言ったのはこれぐらいである。まあ、言ったとしても聞くような男じゃなかったのだろう。それをおしても小言を言った「素男」氏はこの時、何かを予兆していたのかもしれない。
4月15日は統一地方選挙で、

新聞を見て、水割り1、2杯やってから投票に行く。こんどの投票所は二階堂の体育館で近い。都知事は松下正寿、都議、区議は民社党に入れた。
(昭和42年4月15日)


矢部貞治は都知事選でも民社党推しである。松下正寿は自民党・民社党の推薦候補だったが、当選したのは社会党・共産党が立てた美濃部“東京に青空を”亮吉だった。反自民共闘が成功した例である。
5月2日に秋田に行き、翌3日、産業会館のホールにて「憲法記念日の記念講演」を講演している。

1時間ほど僕が「日本国憲法の成り立ち」という講演。
社会党も共同主催で、社会党秋田県本部執行委員長長谷部七郎という人もきていたが、みんな清聴していた。
(昭和42年5月3日)


講演日の夜、夜行で出発。ウイスキーを車内に持ち込み、飲みながらの夜行列車である。これ、夜行が減った今ではかなりのゼイタクかもしれない。寝台に寝転がって見上げる車窓、深夜のホームで旗を振る駅員、夜のしじまに響くガタンゴトン、夜行列車は走る鉄のゆりかごであった。

7時5分発の急行「羽黒号」に乗る。ウィスキーを持ちこんだので、それを飲んでから寝た。
4日(木)6時48分上野着。タクシーで帰る。だいぶ水割りをやって、新聞など。
(略)
旅行中の新聞、雑誌に目を通す。
(昭和42年5月4日)


これで矢部貞治の日記は終っている。
この3日後――昭和42年5月7日午前9時ごろ、矢部貞治は東京都世田谷区松原の自宅で脳溢血で倒れ、その日の午後11時55分に死去した。
享年64。
5月5日に家族とともに那須に旅行し、6日夜に帰宅、7日が日曜日であったのでまとめて日記を書くつもりが、ウッカリ死んでしまったらしい。死因は、まあ、大酒である。しかし、矢部貞治はタダのアル中ではなかった。飲みながら仕事をし、勉強もこなし、記録し続けた、真面目なアル中である。乗った列車の発着時間まで分刻みで書く記憶力もすごい。関わった人物もほとんどフルネームで記録しているのだから、版元はぜひ人名索引をつけて文庫化してほしいものである(明治150周年記念事業の一環としてやったらどうか、明治生まれだし。近衛篤麿日記とかも。著作権が切れているものから)。なお、葬儀は5月10日、築地本願寺で行われ、会葬者は2000人余だった。

P1180497
▲矢部貞治の出身校、旧制鳥取中学(現鳥取西高校)。

P1180507
▲矢部貞治が通ったカトリック教会――ここで矢部は英語を学んだ。日記からはクリスチャンとしての信仰生活はうかがえないが、信仰と英語の師であった宣教師ミス・コーには生涯、敬愛の心を持っていた。

矢部貞治の不愉快33

1時半までに総理府。選挙制度の第一委員会。入口に共産党がピケを張って、「小選挙区反対」とシュプレッヒ・コールだ。
(昭和41年7月29日)


小選挙区制で一番ワリを食ったのが、共産党だろう。

昭和41年8月7日
▲選挙制度審議会「小選挙区比例代表併用」多数意見と了承――昭和41年8月7日付朝日新聞。

午後は翻訳の仕事。タバコは節したが、水割りはやった。
(昭和41年8月15日)


タバコは節制したりしているが、

どうも少し身体が弱っているし、食欲もないが、飲む方は一向に減らない。
(昭和41年8月16日)


酒は相変わらずであった。
9月3日、第5次選挙制度審議会の委員の辞退を、自治省に電話で要請している。辞退の理由は健康上のものということだったが、

もっと本心は、佐藤首相にも自民党にもやる気のないことで、時間と精力をつぶす愚かさを考えてのことだ。野党側の態度にもあきたりないが、根本はそこにある。のみならず、今の状況では審議会の今後に殆んど期待は持てない。
(昭和41年9月4日)


だが結局矢部貞治は委員辞退を辞退する事態となった。

昭和41年11月11日
▲昭和41年11月11日付朝日新聞。

「自治省の方では、どうしてもこまるといって、時間や局長が来るし、東畑さんまでやってきたので、役職をはずすという条件で委員には残った」(昭和41年12月30日)からである。

夕方、昨夜外国から帰ったばかりの三木通産相が電話してきて、荒船運輸相の更迭など、どう思うかというから、至急粛清委員会を作って、綱紀を粛正し、なるべく早く解散せよといっておいた。
(昭和41年10月12日)


荒舩清十郎は自身の選挙区にあった深谷駅に急行を止めさせた当時の運輸大臣(我田引鉄事件)。糾弾されて「ひとつぐらいいいじゃないか」の名セリフを吐いたことで有名である。この他、昭和41年は田中“政界のマッチポンプ”彰治事件、上林山栄吉・防衛庁長官の自衛隊私物化事件、松野頼三農相の海外観光を官費旅行として申請していた事件など政治家の公私混同スキャンダルが相次ぎ、佐藤内閣は年末の改造に至るが、結局それもダメで解散になる。

ベトナム反戦デモとかいって早大校内がうるさくて仕方がないので、少し早めにゼミを終って帰る。
(昭和41年10月14日)


時はアメリカによる北爆の真っ最中である。世界中の学生や市民が反戦抗議活動をしていた。
12月18日、矢部は「音羽の奥村医院」で健康診断をしている。「奥村医院」は国際政治学者の奥村房夫・拓殖大学教授(後に秋田経済法科大教授)の弟が経営していた診療所のようだ。

診断の結果の概要は、
糖尿は殆んどない。胃は極めて健全。ジン臓も良く機能している。
しかしすべてが動脈硬化の様相を呈しており、血圧も200を超えている。肺が伸びて、上部に鬱血がある。
そこで先ずタバコをやめること、ダイクロSとコレレスという薬品を用いること、
というのだ。
終ってから水割りで、ご馳走になった。
(昭和41年12月18日)


「ダイクロS」とは万有製薬の降圧・心不全薬、ダイクロトライドのことだろうか。コレレスは高脂血症薬だろう。矢部貞治は血痰が出ていたが、これも「肺が伸びて、上部に鬱血がある」がためという。気管支拡張症だろうか。しかし、抗菌薬は処方されていない。

歯が痛いし、鼻がつまるので、早く起きた。独りで一杯やり雑煮。
(昭和42年1月2日)


相変わらず歯痛がある。神経痛で腰が痛いとも書いているが、酒のせいもありそうだ。用事がない日は朝から酔っ払っている。また、便秘とまではいかないが朝の排便にも苦労している。時間がかかるらしい。

6時半に起きるはずが、8時少し前だ。
通じのこと、最悪事態だ。
しかし遅れるわけに行かないので、9時に出て早大。
(昭和42年1月19日)


1月29日に衆議院議員総選挙があり、矢部貞治は幼馴染の古井喜美の選挙応援のため鳥取に行っている。しかし、投票したのは民主社会党だった。

昭和42年1月30日
▲昭和42年1月30日付朝日新聞。

早めに起き、総選挙の開票結果をきく。自民党が思ったより成績よく社会党不振。民社と公明の伸び。
(昭和42年1月30日)

昭和42年1月30日付
▲渦中の人も当選――昭和42年1月30日付朝日新聞。

自民党は結局、安定多数を維持。公明党は衆議院に初の議席を持った。

矢部貞治の不愉快32

11時前に歯医者。割にすいていた。いよいよ上の歯を抜いた。これ1本でいいそうだ。従って義歯も割に早くできるらしい。しかし出血がなかなか止らぬ。
(略)
歯の出血が完全に停らないので、ビールも飲まず、原田ジョフレのバンタム級世界選手権の仕合を見た。
(昭和41年5月31日)


6月4日にカラーテレビを取り付けている。当時、大衆車、カラーテレビ、クーラーが新三種の神器だった。

昭和41年7月10日
▲カラーテレビ月間3万台を突破――昭和41年7月10日付朝日新聞。

朝は医者に行ったが、さんざん待った上、まだ型をとるのには早いというのでむだだった。
安倍能成先生今朝死す。
(昭和41年6月7日)


安倍能成は哲学者で学習院院長だが、

日立製作所海岸工場に成らせられ、この時お上のすぐお後にいたる1MP、同僚に煙草を請求し、続いて火を求めようとすると扈従していた安倍能成氏厳然として相当の大声にて「ノースモーキング」と一喝し、同MPの煙草を持っていた手を打った。そのMPは一旦真青になり続いて真赤になり昂奮して手に持っている棒で安倍氏を打たうとして黒田実君一生懸命にこれをなだめ、これは老人の一徹より云った事で、その理由はエムペラーがスモークされないからであると説いてやっと釈然とした。
一時はどうなることかと思ったが、これは誠に痛快であった。そして又反省して見て予にはこれだけの勇気の無いのを恥ぢざるを得なかった。
(昭和21年11月18日、入江侍従長日記)


拳銃持ったMPに臆しない、戦勝国に忖度しない、ペコペコしない人であった。
正午前に歯医者。今日はいつもの医師が休んでいて、弟さんがやっていたが、型をとって貰った。
(昭和41年6月13日)

「歯がすべてに優先」という境地に達しただけあって、

朝のうち歯医者に行く。一応義歯を入れてくれた。様子を見ることにする。
(昭和41年6月16日)


マメに歯科受診している。

4時半ごろ帰宅。歯医者。今日はおやじさんの先生がやってくれた。先日の義歯を調節。楽になった。
明朝早く韓国に飛ぶので、早目に寝る。
(昭和41年6月20日)


6月21日、矢部貞治は韓国に行っている。羽田空港からノースウェストで、金浦空港へ。フライトは2時間かかっている。公安審査会持ちの旅行で、韓国の中央情報部(CIA)長官などと面会。24日には板門店に行き、

米軍の施設のところで小憩し、将校の食堂で、カフェ・テリア式の中食をとる。ここからバスに同乗する。そこからは非武装地帯で、板門店までバスで15分くらいだが、胸にバッジをつけ、米軍と共産軍の検問所を通る。
直ぐ目の下に国連軍と共産軍の建物が7つほど並んでおり、青い色のが国連側が建てたもので緑色のが共産側の建物だという。直ぐ向うの右手の丘には共産軍の赤い徽章をつけた歩哨が立っており、左の小高い所の建物には、共産側の軍人が監視している。
青い建物の一つが停戦委員会の開かれる建物で、入ってみると、まん中に長いテーブルがあり、国連側から右に国連旗、左に共産旗が立っており、そのまん中が停戦ラインだということで、電線のようなもので区画されている。
(昭和41年6月21日)


8ミリで録画もしている。板門店の共同警備区域内が完全非武装化されたのは80年代だったはずだが、この時すでに観光地化していたらしい。ちなみに、昭和41年といえば中国で文化大革命が始まった年なので、北朝鮮側への影響の有無が気になるが、関連記載はない。
26日に韓国から帰国し、

新聞を一通り見て、11時前に歯医者に行ったが帰ったのは実に1時であった。2時間以上を要している。しかしこれでもう当分は最後だ。
(昭和41年7月2日)


7月2日に歯科受診した。この歯科受診は「当分は最後」ではなく、本当に最後となる。

矢部貞治の不愉快31

63歳、晩年の矢部貞治は、

10時ごろ歯医者。混んでいたが僕の歯は順調なので診る必要がないので、この次のことを打合わせて直ぐ帰る。9日ごろ来てくれというが、9日は終日忙しいので、7日に行くことにする。
(昭和41年4月30日)


歯の治療に注力していた。

僕は少しカゼを引いたらしく頭が痛い。それに歯を抜いてものを噛む負担が全部右側の歯にかかるので、右側は上下ともに痛む。下の歯ぐきははれている。
(昭和41年5月1日)


この頭痛はカゼではなく歯由来ではないかと思われるが、

どうも少し熱気があるようだし、頭痛もする。歯痛と関係があるのだろう。
(昭和41年5月4日)


本人もそれと自覚しだす。

10時過ぎ歯医者に行く。1時間以上待たされた。本格的な義歯をつくるのは、まだ1ヶ月くらいかかるので、その間臨時の義歯を、今までのを土台にして作るという。とにかく型をとった。長期持久戦の覚悟だからかまわぬ。
(昭和41年5月7日)


「今までの」旧義歯は重要だ。場合によっては再製より修理のほうがうまくいくこともある。壊れてもすぐ棄てず、歯科診療所に持ち込んでアレコレ相談する、歯科医師側も手がかりをつかみやすくなる。
それにしても「1ヶ月くらい」は長いかも。まだ歯科技工士が希少だからか。
仮義歯は、

4時半ごろ歯医者に行く。思ったより空いていた。今日で一応下歯の義歯を入れてくれた。多少違和感はあるが、仕方がない。あまり堅いものは噛めないが、ものを言うのには差支えなくなった。次は上歯の治療だ。この際肝を据えて徹底的にやるつもりだ。
(昭和41年5月10日)


3日でできている。
13日には早稲田大学に初出勤している。客員教授で月給は税込11万円、手取りで9万9000円。国際情勢研究会の月給は10万円弱だった。このほか公安審査委員会と選挙制度審議会の謝礼(っていうのか)、原稿料や講演料などの不定期収入がある。

12時半から総理官邸で明治百年記念準備会議というものがあるので、地下鉄で行く。
(略)
佐藤首相以下全閣僚が出て、団体代表だの学識経験者だの80数名という会議だから、むろん突っこんだ話しなどできない。
1時半過ぎに終ったので、赤坂プリンスまで歩き、昨日義歯が入ったので久しぶりに食事した。
(昭和41年5月11日)


矢部貞治は「内閣から明治百年の記念事業の委員になってくれというので」(昭和41年4月13日)、明治百年記念準備会議委員になっていた。

10時半ごろ歯医者に行く。割にすいていた。今日は先日の義歯を調節するにとどめた。上歯を抜くのは来週にする。
(昭和41年5月14日)


矢部貞治は明治百年事業のテーマとして――

朝、明治百年記念事業のことを書いて内閣官房に送る。「第二の開国と第二の廃藩置県」をやれという趣旨。
このあと歯医者に行ったが、今日は上の歯を抜かなかった。
(昭和41年5月18日)


「第二の開国と第二の廃藩置県」を内閣官房に提出している。いいテーマである――矢部は同事業の結果を見ることなく世を去ってしまうが。なお、同事業で実際行われたのは二宮尊徳像の復活など、回顧調イベントが多かったようである。当時はまだ戦災を免れた明治から続く町並みが各地に残っていたと思われるが(東海道新幹線開通から4年目だけど)、結局はガンガン開発されて今に至る。
なお、来る平成30年は明治150周年で、現在「明治150年」関連施策各府省庁連絡会議なるものができているが、

政府では、内閣官房副長官を議長とする「「明治150年」関連施策各府省連絡会議」を設け、
1「明治以降の歩みを次世代に遺す施策」、
2「明治の精神に学び、さらに飛躍する国へ向けた施策」、
3「明治150年に向けた機運を高めていく施策」の3つを柱として、政府一体となって「明治150年」関連施策を推進しているところです。国だけでなく、地方公共団体や民間も含めて、日本各地で、「明治150年」に関連する多様な取組が推進されるよう、ロゴマークの使用促進や広報などを通じて、「明治150年」に向けた機運の醸成を図っています。
(政府広報)


まあ、「広く会議を興し万機公論に決すべし」とか「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」とかいう方向にはいきそうにない。福澤諭吉や森有礼が今の森友学園・加計学園疑惑を聞いたら、大いに悲憤慷慨すること間違いなしである。

朝、歯医者に行くつもりだったが、やめた。パロチンという薬を飲んでみると、浮いていた歯がしまって、抜く必要もないらしい。
(昭和41年5月24日)


パロチンは唾液腺ホルモンだが、

昭和41年10月25日
▲帝国臓器製薬パロチン錠の広告、昭和41年10月25日付朝日新聞。

当時の錠剤の適応症に白内障とある。臨床試験やったのかコレ。

矢部貞治の不愉快30

昭和41年4月20日から23日、矢部貞治は秋田、山形、米沢、福島へ講演旅行に行っている。齢63歳。

昨夜うまく眠れなかった。アルコールが少なかったのと、蒲団が暑かったのと、口から血が出ることがあって気になったからだ。
(昭和41年4月22日)


酒ナシには眠れなくなっている。「口から血が出る」のは、恐らく歯周病だ。重度の。

腰が痛く、茶色の小便が出る。さすがに疲れているようだ。歯の不自由さを忍んでこういう講演をしているのも辛い。帰ったら何より歯だ。
(昭和41年4月22日)


歯もさりながら「茶色の小便」と腰痛。泌尿器系は大丈夫なのか。

暖かくなってきた。バカに肩が凝っている。
かねてマークしていた日だから10時ごろ歯医者にいく。たいへんな混みようだ。11時ごろやっと番が回ってきた。
3本のうち今日は2本抜いた。まだ義歯が使えるので助かる。しかし何も喰べず、茶を呑んだだけで公安審に行く。
(昭和41年4月25日)


2本抜歯。「まだ義歯が使える」とあるから支柱の歯ではないのだろう。この日はさすがに酒を絶っている。

僕は昨夜アルコールがない上に、夜どおし抜いた歯の所から血ノリのようなものが出てきて、口に溜るので、殆んど眠れなかった。
(略)
歯医者。割にすいていたが、出血のことを話したら、取り残しがあったらしいということで、またやり直しだ。しか出血は収まったようだ。用心して飲まず食わずに数時間。
(略)
一日中何も喰べぬというわけにもゆかないので、スープでトーストを煮て喰べた。
寝椅子で少しウトウトしたら、気分が快くなった。歯の出血も止ったらしい。
(昭和41年4月26日)


出血が止まったからと夜にビールを1〜2杯飲み、翌日は朝からシェリーを飲んでいる。アル中だ。

今日選挙の調整委があると電話があったが、国際情勢研究所と歯の治療とかち合うので欠席する。歯がすべてに優先だ。
(略)
地下鉄で正午前に赤坂溜池の白亜ビル10階、国際情勢研究会に行く。
大平善梧、平沢和重、林健太郎、佐伯喜一、大来佐武郎、小倉謙、杉江一三の諸氏のうち佐伯君だけ欠席。平沢と大来君は今夕アメリカに発つ由。これらを皆理事、審議員になってもらって僕が会長ということに正式に決定。
弁当が出たが歯がダメなので牛乳とバナナで済ませた。
終ってバスで帰宅。今朝喰べ残しのオジヤを喰べる。少し休んで歯医者。暑い。
1時間ほど待たされ、下歯の残っていたもう1本を抜く。これで下歯は全部抜いたわけだ。合計5本。あとは歯ぐきが固まってから型をとる。それから上歯だ。
(昭和41年4月27日)


「国際情勢研究会」……名前はよく聞くが、内実がよくわからない機関のひとつ。矢部貞治は同研究会の初代会長で、この昭和41年4月27日が初会合だった。同研究会、ウィキには「2億円程度の収入の90パーセント以上が内閣官房から情報調査委託費で、役員には元警察官僚が名を連ねている」とあって資金潤沢のようだが、そのわりにホームページがなつかしのHomepage Builder。外注せず、超エライ学者がシコシコ手作りしたのかと思うと愉快である。
矢部貞治が上げているメンバーを調べると、
大平善梧:国際法学者で当時は一橋大学教授。60年安保で法学者グループによる安保改定支持声明の起草者の1人。青山大学の大学長時代には学内に機動隊を導入、「学長は秩序維持の仁王様」と名乗った人物である。
平沢和:ロッキード事件の際に三木武夫がキッシンジャー米国務長官のもとに密使として派遣した元外交官、NHK解説員も務めた。昭和34年のIOCで名演説を行い、東京五輪誘致を実現させた立役者。
林健太郎:ドイツ近現代史の東大教授で、保守系月刊誌「諸君!」の常連寄稿者として知られる。
佐伯喜一:野村総合研究所の初代所長、後に野村総研社長、防衛庁防衛研修所長。
大来佐武郎:日本経済研究センター初代理事長。
小倉謙:元警視総監で、浅沼稲次郎暗殺事件、嶋中事件などの責任を取って昭和36年に辞職。
杉江一三:海上幕僚長、統合幕僚会議議長を経て退官した元自衛隊制服組。
みな経歴はすごいが天下りっぽくもあり。矢部会長時代の同研究会は「米国の中共政策を論じて答申をまとめ」(昭和41年5月19日)たりしている。
そして「歯がすべてに優先」という境地に達した矢部貞治は、

昨夜もアルコールを飲まないのに熟睡した。
歯を全部抜いて安心したせいかも知れぬ。
(昭和41年4月28日)


あと1年の命だった。

矢部貞治の不愉快29

歯が悪くてうまく噛めない場合、

僕は今健康だが、歯がいかん。しかし歯医者に通い出すと非常に拘束されるので、富山から帰ってからやるつもりだ。
(昭和41年3月20日)


矢部貞治はこれをビョーキではなく身体障害ととらえている。このこと自体は医学的に正しいが、

今日は決心して歯医者に行く。いろいろ問題があるが、とりあえず下の前歯2本を抜く。
空気が抜けて声が出しにくい。中食は牛乳だけ。
(昭和41年3月28日)


障害は健康に無関係と考えているのがアレだ。よく日本人の口腔衛生がなっていないのはキスの習慣がないからなどと言われたりするが、青年期に海外生活を送ったモダンボーイですらこの認識である。昭和30年代という人間ドック黎明期にいち早くドック入りしていることからも、健康に無関心なタイプではないのだが。

歯はもっと抜かねばならぬようだ。しかし4月16日から23日までぎっしり講演と放送の日程になっていて、これ以上抜かれたら講演はダメになる。先に延ばすよりほかない。
(昭和41年3月29日)


この時、矢部貞治63歳。憲法調査会は昭和39年7月にほぼ活動終了となったが、選挙制度審議会調整委員会副会長や内外情勢調査会など相変わらず忙しい。

帰ったら聖教新聞社岡安博司君が来て創価学会池田会長から謹呈の「人間革命」という本を持ってきた。
そのあとテレビをやってみたら昨日のビジョン討論会をやっていた。歯抜けはあまり影響ないようだ。
(昭和41年4月16日)


「ビジョン討論会」はフジテレビの番組で、テーマは「自民党にもの申す」。時は第1次佐藤栄作(第1次改造)内閣であった(昭和40年6月3日〜昭和41年8月1日)。
この頃の自民党は、

昭和41年3月22日
▲昭和41年3月22日付朝日新聞。

党内から「首相は右寄り」という批判が上っていたらしい。「“世襲”は厳しく規制」ともあるが規制しとけば今の世襲内閣もなかったのに。

昭和41年4月12日
▲昭和41年4月12日付朝日新聞。

健康保険法改正では、国庫定率負担25%から40%になっている。
前40年には山一證券など大手証券会社が軒並み赤字となる証券不況となり、田中角栄蔵相の指示で戦後初めての赤字国債発行が決定されるが(日銀特融)、

短波放送の車で茅場町の証券ホールに行く。不況だといい乍らぜいたくなビルだ。
証券業者に政局の動向を1時間話す。29日に短波で放送するという。連合会の会長は福田千里という人だったが、石光栄が高井証券の社長ということで来ていた。
(昭和41年4月19日)


翌41年には持ち直していたっぽい。なお、日銀は融資額の9割以上の担保を確保し、金利もキチッと取るなど経済合理性を貫徹した救済だったという。特融を受けた山一證券と和光証券(旧・大井証券)は、当初18年かかるといわれていた返済(山一:282億円、大井:53億円)を4年ちょっとで完済している。いざなぎ景気の恩恵である。

昭和44年7月15日
▲昭和44年7月15日付朝日新聞。

さて、平成11年に山一證券が特融を1111億円も焦げ付かせて破産したのは記憶に新しい。焦げ付き分は国民負担である。時の運というものはあろうが、昭和40年代と比して銀行や企業の慢心と劣化は否めないのでは。

矢部貞治の不愉快28

例の高柳さんの「合作論」がテーマの中心なので、僕が議長をやる。5時までたっぷりかかった。しかし高柳さんのしつこくてくどいのに嫌になる。
(昭和39年3月25日)

憲法調査会にて“日本国憲法原案は連合軍の押しつけ憲法か、もしくは日本政府との合作なのか”を喧々諤々やっていたころ、

昭和39年3月17日
▲昭和39年3月17日付朝日新聞。

くたびれて帰宅したが、急いで食事して、歯医者。これが又2時間も待たされて、やっと9時に済んだ。
(昭和39年3月25日)


矢部貞治は歯科通いを余儀なくされていた。歯の不具合によるつらさが、歯科通いのつらさを超えたのである。

3時富田の車でヒルトン・ホテルに行く。佐藤栄作のパーティー。例のごとくなかなかデラックスで、今日は知った人もいくらか来ていた。
30分で失敬して帰宅。歯医者。割にすいていたが、治療は少しも進展したように思えない。
(昭和39年3月27日)


当時、佐藤栄作は国務相である。

11時に拓大。予算編成の経営委員会。こういう問題はしんが疲れる。2時過ぎ迄かかってうんざりした。その上竪山君が企画部のことで建言。
3時半ごろ帰宅。暫く休んで歯医者。超満員で、1時間半待たされ、6時半ごろ帰る。しかし型をとったからもうそんなにはかかるまい。
(昭和39年3月28日)


3月28日に印象採得し、

4時に帰宅。歯医者からまだ連絡が来ない。
(昭和39年4月1日)


ブツができあがるのを待つ。なお、抜歯したのは3月18日である。歯茎は10日で固まったのだろうか。
矢部貞治のかかりつけ、中田歯科は繫盛していた。歯科患者が世に溢れていた時代である。

一時に拓大。39年度予算の評議員会だ。
今日も教授選出の評議員の連署で文書を出し僕の答えられないことの判っていることを質問し、反対意見を述べているので、僕に答えろというなら僕は能力がないから退席するといってやった。そういうわけではないというから最後まで我慢したが、成るべく早く辞めたい。
不愉快なので帰宅して直ぐシェリーを1杯やる。庭の桜がもう綻びかけている。急テンポだ。僕が原稿を書いている1時間の間にも、次々綻びて行く。
静子に歯医者に電話で聞かせたら、明晩来てくれという。
(昭和39年4月3日)


矢部貞治、かなり前から拓殖大学を辞めたがっていた。恐らく、経営的なアレコレに興味を持てなかったのと、竪山利忠のような左翼と話が合わなかったのとで。

早目に夕食して、6時に歯医者に行く。割にすいていた上、継ぎ歯が入った。僕は初めてだが、きれいに出来るものだ。義歯はまだそれからだ。7時に帰宅。
(昭和39年4月4日)


4月4日にポストクラウンが入る。

6時ごろ歯医者。義歯ができているかと思ったのに又型をとった。そして1週間もかかるという。
(昭和39年4月7日)


今度はブリッジ用の印象採得。

夕食後夕刊を見ていたら、7時過ぎ中田歯科から電話だというので、直ぐ行ってみた。まだ型をとっている。
(昭和39年4月13日)


また印象採得。前回は失敗か。

夕食後夕刊を読んでいたら、中田歯科から義歯ができたというので、7時前に行く。出来ていてはめてくれた。いいようだけれど、妙な異物が口の中に入った感じで、まだこれでいいのかどうか判らない。
(昭和39年4月15日)


何もないところに歯やクラウンが入ると、たいていの人は異物感を感じる。高いと感じれば削って調節できるが、馴染んでくる可能性大なのでちょっと間を置くのがベター。削ってしまうと高くすることは難しいので(つくりなおしである)、義歯やクラウンを入れた患者は慎重な判断を。
4月15日、ブリッジが入るが、

夕食後義歯のバネが尖っていて舌を刺すところがあるので調節して貰うつもりで歯医者に行ったら、本日は臨時休診と札がかかっていた。
(昭和39年4月17日)


違和感アリで要調整。

夕食後歯医者に行って義歯の調節をして貰う。
大体これで一応完了だ。やっと安心だ。
(昭和39年4月18日)


4月18日の義歯調整で落ち着いたようだ。
が、このひと月後にポストクラウンが割れる。

昨夜歯を洗っていたら、こないだ作った継ぎ歯が半分割れて落ちたので、夕食後歯医者に行く。1時間半も待たされたが、しかし一度でセメントで継いでくれたので助かる。
しかしもう何をする時間もない。
(昭和39年5月21日)


この5月21日の新聞各紙は、憲法調査会起草委員会による「日本国憲法の改正の要否」草案を大きく紙面に掲載した。

昭和39年5月21日
▲昭和39年5月21日付朝日新聞。

昭和39年5月21日(1)
▲最終報告書草案、昭和39年5月21日付朝日新聞。

翌22日の朝日新聞社説は、改正派が多数だし改正すべきなのかもしれないが与党は3分の2以上の議席を持ってないし、

昭和39年5月22日
▲昭和39年5月22日付朝日新聞社説。

「憲法を改正しなければ、国家的、国民的生活が危機にひんするというような緊急事態に直面しない限り、改憲は不可能に近い」と述べる。まあ、そうであろう。というわけで、現在の自民党の改憲草案をみると「緊急事態条項」なるものがあって(強調は引用者)、

(緊急事態の宣言)
第98条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。


(緊急事態の宣言の効果)
第99条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。


緊急事態時には首相権限で国民の人権や財産権の制限も可能にするというのだが、この緊急事態条項自体が改憲を可能にする条件であり、改憲目的でもあるのかもしれない。なお、この自民党の改憲草案には現憲法の第10章最高法規の第97条が削除されているのだが、

↓コレを削除
現憲法第10章最高法規、第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


自民党は“日本国憲法が基本的人権に由来するがゆえに最高法規であること”を否定したいのであろう。

矢部貞治の不愉快27

昭和38年8月23日に入れた義歯のデキが上々で、それっきり歯科受診をやめていた矢部貞治。

歯がダメになっているが、医者通いは辛いので延している。
(昭和38年12月14日)


3ヶ月ちょいでまた「歯がダメになっている」。そして歯がダメになったつらさが、「医者通い」のつらさを上回らなければ受診しないのである。
矢部が委員長を務める憲法調査会起草委員会の議論も、

昭和39年1月17日
▲昭和39年1月17日付朝日新聞。

佳境である。この忙しさが「医者通い」のつらさを増している。

歯が痛くて気分がよくない。
明日の評議員会のことで頭が痛い。
(昭和39年3月16日)


「明日の評議員会」は拓殖大学のものである。この昭和39年の6月に矢部は拓殖大学総長兼教授を辞任するので、それまでのガマンと思っていたフシもあろう。

午後には決心して歯医者に行き、かねて義歯のかかっていた上歯でグラグラしているのを抜いてもらう。1時半ごろ行ったら2時まで休みというので、2時に行ったら先客がすでに5、6人いて、3時半までかかった。
今日はアルコールはだめだ。4時ごろから相撲。
(昭和39年3月18日)

抜いたのは恐らく右上の奥歯。

今日は3時過ぎに歯医者に行ってみたら、工合よくすいていたし、バネをかける歯をレントゲンにとっただけで直ぐ帰る。
(昭和39年3月21日)

支柱にする予定の歯のレントゲンを撮るが、

帰宅したのは5時だったが直ぐ歯医者に行く。義歯のバネのかかる歯が虫喰いでダメだというので継ぎ歯にするという。根元から切ってしまった。
(昭和39年3月24日)

内部はすでに齲蝕にやられていたようだ。
この昭和39年3月24日昼に、

今日ライシャワーを刺した変態青年のこと、大きく報道している。バカと気狂いは絶えない。
(昭和39年3月24日)


アメリカ大使館のロビーで、ライシャワー米大使が19歳の少年にナイフで刺される。

昭和39年3月24日
▲昭和39年3月24日付朝日新聞。

ライシャワー米大使の右モモを刺した少年は、統合失調症で入院歴もあった。
この事件を機に精神疾患患者の「野放し」反対キャンペーンが勃発、治安当局は厚生省に対し「最近精神障害者による重大な犯罪が発生し、治安上これを放置することができないので貴省の検討をわずらわしたい」と申し入れる。その結果精神衛生法が改正され、精神病棟・病床を増やして「野放し」に対応することになる(昭和40年)――が、成立当時すでに、\鎖西祿下圓猟蟲繊僻楼蓮砲不明確、∩蔀崙院患者以外の入院患者、通院患者に対する医療費補償の欠如、D綿鸚度の拡大にともなう人権侵犯のおそれの増大に対する配慮にとぼしい、などが指摘されていた(福島章「ライシャワー大使刺傷事件」、日本の精神鑑定)。

昭和39年5月4日
▲昭和39年5月4日付朝日新聞。

事件は医療界にも大きな影響をもたらした。
刺されたライシャワー米大使は命に別状はなかったが、この時に受けた輸血がもとで肝炎に感染、以後死ぬまでこの不治の病に苦しめられる。これにより売血に頼っていた日本の医療用血液のあり方も見直されることとなるのだが、しかし、手術時の輸血が原因で肝炎に感染した人はライシャワー事件以前にもいたのである。それらの医原性肝炎患者は放置され、医療従事者も「輸血したのだから」と半ば当然のように考え、あるいはあきらめていた。自国民に対してはそっけなく、冷たい傾向が国にもシモジモにもあるが、なぜなのだろうと思う。

矢部貞治の不愉快26

矢部貞治は、旅行直前または旅行中によく、歯痛や義歯のトラブルを起こしている。

中食のとき義歯の金が折れて使いものにならなくなった。しかも明後日から那須に行く。これはこまる。
カメラは5時ごろ来た。2分間ほどテープで録音し、あとは映画に撮る。
この人達が帰るのを待って中田歯科に行く。1時間も待たされ、インターンの学生に義歯の型をとって貰う。
(昭和38年8月13日)


中田歯科に「インターンの学生」が。歯科にもインターン制度が?
那須旅行中は、

歯抜けの状態なので、食堂ではオールドーブルとエビのグラタンにしてビールを1本やる。
(昭和38年8月15日)


洋食は歯ナシのカバー力絶大だ。
旅行中だが、仕事もしている。

ゆっくり新聞を読んで、又憲法調査報告に向う。3時過ぎ書き上げた。
(昭和38年8月18日)


真面目である。書いているのは中南米憲法調査報告。
帰京してすぐに歯科受診している。

東京は暑い。ビールで軽い食事をして、床屋に行く。床屋から帰って歯医者に行く。大分待たされ、結局まだ義歯はできていない。すこぶるルーズだ。
(昭和38年8月21日)


首相(池田勇人)の全国遊説演説のためのアイディアを出し、

一時半海運クラブに移って起草委員会。あと総会調整のこと。専門委員に対し気を使う。
終ってからも又専門委員と協議。
明日も調査会で協議してくれというが、歯のことで断る。
6時前に帰宅し、直ぐ歯医者に行く。義歯をはめるのだが、一度で大体文句がない。上手なのかも知れない。
帰宅して入浴。食事をしてみても歯はよろしいようだ。とすると明日午前はらくになる。
鮎を焼いたり煮たりして賞味。しかし暑い。
夜水割りをやっていたら、三木武夫氏がやって来て、党組織調査会で石田博英の担当していた「自民党憲章」を僕に書いてくれという。
自民党の目ざす社会の素描をというが、そんなものが独りで簡単にできるものではない。まあ考えて見ようと答えただけだ。
(昭和38年8月23日)


「自民党憲章」も相談されていた。昭和38年10月8日に発表された自民党基本憲章草案のことか。

昭和38年10月9日
▲自民党基本憲章草案、昭和38年10月9日付朝日新聞。

今朝予定されていた起草委がなくなった上、歯医者に行かねばならぬと思っていたのに、調節を必要としない状況なので、朝すっかり暇になった。ゆっくり寝ていた。
(略)
三木さんの秘書の竹内君が、「わが党の基本方針」というパンフレットを持ってきた。こんなもので間に合うまい。
(昭和38年8月24日)


義歯を「調節を必要としない状況」と自己判断し、受診も中止した昭和38年8月の矢部貞治、還暦。再び痛くなるのは、冬であった。

矢部貞治の不愉快25

昭和38年5月、矢部貞治は聖路加国際病院の人間ドックを体験している。還暦になっていた。
4月26日に予備診察を受けた(血圧が210!)その9日後に、

前から右下の奥歯がぐらついていて、抜こう抜こうと思いつつ延び延びになっていたのを、今日は思い切って中田に行って抜いた。何の痛みもない。
(略)
歯を抜いた日によくないとは思うが、夕食に晩酌1本。
(昭和38年5月4日)

抜歯している。右下の奥歯である。

どうも腸の工合が悪い。歯医者。
(昭和38年5月6日)


胃腸と歯の良し悪しは相関関係にある。現状では胃ナシも歯ナシも身体障害として認定されないが、少なくとも胃全摘で歯が悪い人には身体障害者手帳を交付すべきである。

NHKは急に今夜のニュースの焦点をというが断わる。そう忙しくては血圧が上る。
(略)
そろそろ聖ルカに持って行くもの準備しなくてはならぬ。
(昭和38年5月7日)


高血圧を、一応気にしてはいる。
憲法調査会の討議は昭和38年5月8日に全項目を終了し、

高柳会長がまた3時半ごろ帰ってしまったので、僕が議長席につく。とにかく今日で1月からの討議を終らした。神川さんが、討議の時間が足りないなどというから、それはあんたのせいだと一矢報いておく。一人でいつも1時間ぐらいしゃべり、それも下らぬレクチュアばかりで、誰も聴いてはいないのだ。独りで興奮しているだけだ。それも今日で解放される。思えば寛容と忍耐の仕事だった。肉体的苦痛すら感じ通しだった。
(昭和38年5月8日)


矢部貞治は最終報告書の起草委員長に。

昭和38年5月13日
▲昭和38年5月13日付朝日新聞。

この頃の、憲法に対する「各政党の態度」。

昭和38年5月3日
▲昭和38年5月3日付朝日新聞。

社会党は「憲法の完全実施」を全面に押し出しつつ、

現行憲法を「ブルジョア憲法」と規定し、将来「社会主義憲法」を想定していることを明らかにしたが、このことについて民社党は、逆に社会党の憲法擁護は“ニセ物”だ、との感を深めている。
(昭和38年5月3日付朝日新聞)


部分的な改正を目論んでいた。恐らく人権規定を強化しようとしたのだろう。わたくしとしては「憲法の完全実施」に完全同意である。現憲法制定から70年を経た今も、日本人は日本国憲法を使いこなしていない。
憲法調査会は米学会にもお伺いを立てているのだが、

昭和38年4月18日
▲昭和38年4月18日付朝日新聞。

天皇制や9条改正については慎重論が大勢を占めたという。一方、調査会が同じくお伺いを立てた欧州では改正論が多数派だった。恐らく、君主制に関しては人権規定をしっかりしておけば問題ナシ、と欧州は考えたんじゃなかろうか、その歴史と伝統から察するに。特にイギリスとか。
矢部貞治自身は、

当初は、米軍に押しつけられた憲法と考えていたので、大はばな改正論者であった。しかし調査が進むにつれて、思い違いだとわかった。また日本人の偉さというのか、現実には「生きた憲法秩序」を作って来ている。現憲法がどう生かされているかを見るべきで、9条にしても、国論を二分してまで改正の要はないと考えている。参議院の制度、非常事態の規定がない点、民主政治の基礎としての政党と選挙の基準がほしい点などについての、部分的改正論者である。
(鳥取一中 新・人国記、昭和38年8月29日付朝日新聞)


いわゆるリベラルであった。このゴリゴリの改憲派→部分的改正論への“変節”で、矢部貞治は護憲派に加え改憲派からも攻撃される。改憲派の急先鋒であった中曽根康弘もたいがいブウブウ言っていた。だが矢部本人は変節したのでも、はたまた右でも左でもなく、根っからの現実主義者なのだと思う。

昭和38年8月29日
▲昭和38年8月29日付朝日新聞。

5月13日に聖路加国際病院の人間ドックに。主任は日野原重明先生である。

食事を2時過ぎ持ってきた。喰べ終わらないうち、体温や脈を計りにくるし、直ぐ歯科に行く。歯石をあとでとるとのこと。
(昭和38年5月13日)


聖路加国際病院は、日本における人間ドックのパイオニア病院らしい(昭和29年)。

昭和40年7月19日
▲昭和40年7月19日付朝日新聞、日野原先生53歳。

2時前歯科に行く。歯石をとるというのだが、要するに歯の汚れを徹底的に除去するので、血も出た。
(昭和38年5月15日)


人間ドックで、歯石も。

6時前日之原先生が部屋に来て、判定の話し。要するに他はよいが、糖尿は警戒を要するし、血圧も注意を要するということ。詳細は(ノート)。
6時過ぎ下の食堂でドックの人たちと日之原氏と会食。予防医学のこと、医者と患者の態度等でよい話だった。
(昭和38年5月17日)


「日之原先生」=日野原重明先生。当時51歳。
18日に退院、6日間の入院で費用は計6万2千円であった。国家公務員(大卒、国家公務員上級試験合格)の初任給が2万7100円の時代である。

血圧は少し高いが、これは糖尿と関係があるようで、血圧の薬としてCentylとSerpasilを毎食後1錠ずつとることにした。重点はやはり糖尿でこれは用心を要するということで、食事の調理について詳しく説明をきいたし、Rastiononという薬を、朝食と中食の前に1錠づつ飲むことになった。
そこでこれらの薬と食餌療法のほか、アルコールはウィスキーの水割りに限ること、タバコは1日15本くらいにすることを指示された。
タバコは既に入院中に決めたように
1、タバコからタバコに火を移すことをやめる
2、便所にタバコをつけて入ることをやめる
3、外出のときポケットには1箱だけ入れる
ことを実行するつもりだ。
(昭和38年5月18日)


血圧は「176-93」。高血圧だ。肥満はないが血糖値が高くて喫煙者とくれば、脳血管疾患予備軍である。
5月22日には憲法調査会の起草委員会メンバーが決まり、

昭和38年5月23日
▲昭和38年5月23日付朝日新聞。

血圧は下がりそうになかった。

矢部貞治の不愉快24

昭和37年3月15日、矢部貞治は拓殖大学第一高等学校の卒業式に出席して(矢部は拓大総長である)、

終ってビールと弁当が出た。しかし式の途中から朝から痛かった歯が痛みを増し、不快を覚えやっと義歯を外して少し楽になったところで、食べ物はあまり行かぬ。
12時半ごろ雨の中を帰路につく。その足で総理官邸に行き、憲法第二部会に出るつもりであったのだが、歯痛で不快のなので失敬し、家に帰った。
(略)
歯医者に行くと抜けというに決っているが、義歯を支えている歯なので困る。少し様子を見ることにする。いつかは抜いてやり直さねばならないが、痛みが除けば暫くは辛抱できる。
(昭和37年3月15日)


左側のブリッジを支える歯に疼痛を覚えている。
ひとたびは止んだその痛みはひと月後、

静子といっしょに新宿御苑に行く。池田勇人の招待で桜をみる会。
(略)
今朝から歯が痛くて、左の義歯を外したままだが、どうもだんだん痛くなる。抜かねばなるまい。
(昭和37年4月19日)


ぶり返す。時は第2次池田・第1次改造内閣であった。池田内閣は長い。
矢部貞治は59歳、あと半年ちょいで還暦である。

義歯はやはり痛くてはまらぬので、三鷹の平山に電話をかけて貰い、明日午後行くことにした。
(昭和37年4月20日)


ちなみに、この頃の輸血用血液は売血で賄われていた。

昭和37年11月16日
▲昭和37年11月16日付朝日新聞。

昭和36年2月21日
▲朝日新聞記者による体当たりの売血ルポ、面白い。昭和36年2月21日付朝日新聞。

ライシャワー駐日米大使が輸血で肝炎に罹患したことが社会問題化し、献血の推進が閣議決定されるのが昭和39年8月。
だが、違法な売血は、

平成10年10月28日
▲平成10年10月28日付朝日新聞。

平成に入ってからも続くのであった。必要な血液を必要ぶん確保できていない状況は今も続いており、深刻な医療問題である。

車で三鷹まで送って貰い、平山に行く。暫らく御夫婦と話してから雄健君に歯を抜いて貰う。車で家まで送ってくれた。義歯の型をとるまで2週間かかるという。なかなか早急に行かない。飲むといけないから入浴と酒はやめてくれというから、晩酌はやめるが、夜のウィスキーはやるつもりだ。
(昭和37年4月21日)


平山先生、珍しく飲酒を戒めている。腫れたのか。そして「ウィスキー」を酒に含めない矢部貞治。まぎれもないアル中である。

昨日入浴しなかったので、午後焚き直しで入浴し、5時ごろ鯛の浜焼でビールを1本やる。酔生夢死の感。
(昭和37年4月21日)


後の首相である三木武夫や中曽根康弘と親しくしつつ、

都道府県会館に出かける。例の「民社党を励ます会」で、僕も発起人の一人なので、責任を感じて行ったわけだ。
蠟山、徳川夢声、菊田一夫、平林たい子なども来ていた。
(昭和37年4月23日)

民社党を応援。

昭和38年12月17日
▲昭和38年の「民社党を励ます会」、昭和38年12月17日付朝日新聞。

4月27日から29日、憲法公聴会で仙台に行っている。28日、県会議事堂にて10時から憲法公聴会が開催された。

外ではデモで気勢をあげていたが、公聴会は順調に進んだ。しかし山形県農業会議会長の山県市長大久保伝蔵氏の後述中から傍聴席の学生がヤジを飛ばし、宮城県教育委員長高野是太郎氏のころ最もうるさかった。この間僕がしばしば静かにするようにいったが、止めないので、結局守衛につまみ出させた。4人の学生で、中1人は江田三郎の息子だそうだ。
(昭和37年4月28日)


「江田三郎の息子」というと、五月か。
憲法調査会の公聴会は昭和33〜36年に全国で計46回、37年は2〜8月に全国9地区で開催された。抗議デモが会場を取り巻いたり、

昭和37年9月28日
▲昭和37年9月28日付朝日新聞。

全学連が警察とモメたりなど、反対運動もあった。
翌38年に報告書がまとめられたが、

昭和38年2月25日
▲昭和38年2月25日付朝日新聞。

やはり国民の最大の関心事は、自衛権および自衛隊であった。

三鷹の平山に行き、義歯の型をとってもらう。
(昭和37年5月2日)


約2週間後に印象採得。

4時に帰宅、少し雑用をやって、5時に出かけ三鷹。歯のためだ。岡山からきた浜焼を持って行く。一応型をとった義歯をはめて貰って、父君と一緒にハイボールのごちそうになる。ビフテキなど出された。その結果もう一度歯を調整して貰って、8時ごろになった。雄健君が井の頭まで送ってくれた。
9時前帰ったら、東京新聞の青木君が待ち構えていて、参議院選挙その他で10時までねばられた。
(昭和37年5月7日)


義歯は5日でできている。「ビフテキ」を出された結果、「もう一度歯を調整」とあるから、最初はよく噛めなかったのだろう。義歯調整のためにビフテキとは、豪華である。

矢部貞治の不愉快23

憲法調査会の南米旅行(昭和36年1月18日〜3月19日)で、義歯をなくした矢部貞治。右上の奥歯の義歯らしい。
帰国後、早速三鷹の平山歯科に行っている。

三鷹の平山に入れ歯を作って貰うためいく約束をしたので、却って早いと思い、地下鉄、帝都線と択んだが、東松原の火災で帝都は不通ということで、下北沢から小田急に乗り換えた。そこで、酒井義孝に会った。新宿から国電
午休みだったのですぐ型をとってくれた。そのあと又例によって、オールド・パーと寿司を出された。アルゼンチンのワニ皮細工とブラジルの紫水晶を呈しておく。帰りは帝都も動いていて、2時半に帰宅。
(昭和36年3月23日)


なお、矢部が南米行きに使用した空港は羽田である。行きの航空会社は日航とアメリカン・エアライン、帰りはパン・アメリカンとレアルレアルは昭和35年、日本へ初めて乗り入れたブラジルの航空会社である。このレアル、ロスからホノルルまで12時間かかっている。今の倍だ。

少しまごまごして、4時半三鷹の平山に行く。義歯を合わせにだ。
(略)
平山では又オールド・パーを出してきて御馳走になり、返りは雄健君が自動車で送ってくれた。歯の方は少しぎこちない。
(昭和36年3月25日)


平山家は矢部貞治にとって息子の嫁の実家なのだが、受診のたびに飲まされている。

何もないと思うとつい眠っていて、10時に起きた。義歯も馴れるといいようだ。
(昭和36年3月26日)


矢部貞治の南米旅行の感想は「外国旅行を通じて修練させられたことは、忍耐、辛抱、我慢ということであった」。旅行はかなりのハードスケジュールで、仕事とはいえツラそうであった。パンナムに乗れるのはうらやましいが。
この頃、朝日新聞に憲法調査会4年間の総括が掲載されている。

昭和36年7月31日
▲昭和36年7月31日付朝日新聞。※クリックで拡大

「権利・義務 基本権乱用が焦点」――権利は義務とセットではないし、基本権が確保されていない事例は世に溢れている。むしろ、生まれながらにして持つ権利とは何か、基本権が侵害されたらどうすべきか、小学校低学年から教え込むべきだと思う。

昭和36年7月31日2
▲いわゆる押し付け憲法か否かについては「後世の判断に待つ」。

それから半世紀以上が経過したが、まだ判断はつかないようである。

矢部貞治の不愉快22

昭和36年正月、矢部貞治は中南米旅行のために健康診断と予防注射を受けている。

10時過ぎ憲法調査会の車が来たので、田村町の日産館まで乗り、7階の診療所で注射と健康診断を受ける。
注射は種痘とチブス。早かったが、レントゲンがあるので明後日でないとできないという。これはブラジル用だ。
(略)
入歯の調節に行く時がない。明日は何とかして行こう。
(昭和36年1月5日)


「田村町の日産館」は現港区西新橋1丁目にあった物産館。受けている予防接種が「種痘とチブス」なのに時代を感じる。中南米旅行だと今なら黄熱、肝炎、破傷風、狂犬病ぐらいか。

そこそこに中食して、三鷹の平山歯科に行く。工合よく空いて義歯を調節、コンドこそはいいようだ。あとで皆さんに挨拶。お茶をよばれてから帰る。
(略)
中南米の勉強。
昨日は禁酒で今日は酒がこたえた。浅見さんがきて古井植木の大臣祝賀をやりたいという話し。僕はあいた晩は殆んどない。
中南米をもっと勉強したい。
(昭和36年1月6日)


矢部貞治は生涯、勉強を怠らなかった。食事を取るがごとくに勉強している。息抜きも結局は酒ぐらいである。

中食も喰べずに歯医者(平山)に行く。(略)
平山家に着いたのは恰度12時半ごろで、患者もいなかったので、義歯を、スペアの分も一緒に調節。更に義歯に挟まれて盛り上った歯ぐきの部分を、マスイをかけて切りとることもやって貰った。これで当分は歯医者の方は済んだようだ。
終ったら、又父君がウィスキーを支度して待っており、マスイが覚めるのを待って2、3杯馳走になった。もう旅行まで会う機会がないので、家の人たちに挨拶して帰る。
(昭和36年1月12日)


歯肉切除後に酒。麻酔が覚めりゃいいってもんじゃないだろう平山歯科。
1月18日から3月19日までは、憲法調査会海外調査団団長として南米を旅行している(北米、メキシコ、ペルー、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル)。後の総理大臣である中曽根康弘も同道。
その旅行中、

又義歯について不幸なことが起った。寝る前に例の如く、義歯をはずして洗面所で洗っていたら、アッという間に洗面器についている穴の中に入ってしまったのだ! そんな穴があることさえ知らなかったが、相当深い狭い穴で、指を入れても届かない。飛んでもないことだが、これは助からないようだ。朝針金でもあればやってみるが、まあダメと諦めて寝た。
どうも外国旅行と義歯については僕に宿命的なものがあるようだ。でも、こんどは右上ので最悪ではない。
(昭和36年2月2日)


義歯を洗面所の排水口? に落としている。ペルーである。

義歯が洗面器の穴に落ちたことを告げたら、早速分解して探してくれたが、出てこない。こんなにして見ても無いのなら諦め易い。しかしこの義歯紛失と、出がけに便所の水が出なかったことが、何かペルー最後の印象を暗くした。
(昭和36年2月3日)


義歯をなくして旅の印象が悪くなるというのは、とてもよくわかる。私は義歯を使ったことはないが小学生からの眼鏡使用者で、海外旅行中は眼鏡の紛失や破壊に戦々恐々である。強度の乱視なのでつくるにしてもすぐできないし、眼鏡がないと字が読めず、活字中毒なので発狂する可能性は高い。で、2個以上持っていくのである。

矢部貞治の不愉快21

矢部貞治の長男「哲男」は昭和35年11月9日に結婚し、藤沢に住んでいた。

田子さんの家に行って哲男の媒介のお礼をいい、少し雑談。
それからタクシーを捉えて三鷹の平山家に行く。僕は初めてだ。ウィスキーや酒を出されて歓待された。
帰るとき歯科をやっている長男がスバルという小型車で送ってくれ、本願寺の所で静子をおろし、僕は新宿の紀伊国屋までやって貰う。
(昭和35年11月13日)


相手「平山」の実家が三鷹にあり、その長男は歯科医師であった。で、この長男・平山雄健先生が、その後の矢部貞治のかかりつけ歯科医になる。
平山家に行った翌日、矢部貞治は文部省東南アジア教育調査団団長として東南アジアに出張しているのだが(11月15日〜12月19日、カンボジア、タイ、マラヤ、インドネシア)、

ホテルに帰る。手を洗って食事。ここで日本にいるときから心配していたことが生じた。入れ歯が折れたのだ!
食事を了えて部屋に帰って点検。左の下の奥歯の義歯が2つに折れたのだが、やってみると、奥の方は何とかはまる。最悪の事態ではないようだ。たとえ最悪であっても、今更どうできるものでもない。とにかく我慢して押し通すほかない。
(略)
昼には入れ歯が折れたが、こんどは腕時計のネジが汗で回らなくなった。いちいち故障がおこる。
(昭和35年11月18日)

カンボジアで義歯が壊れている。現地に歯科はなかったのだろうか。国持ちの旅行なので、海外旅行保険には加入がマストだと思うが……歯科、特に補綴はカバーされなかった可能性も高い。
12月19日に帰国し、

自民党の対外経済協力委にも行くつもりだったが、時間の工合が悪いので、これは真山氏に任せ、僕は地下鉄で一度帰宅。少し休んで三鷹の平山家に行く。入れ歯を作って貰うためだ。
(略)
3時少し前に平山に行く。患者がこんでいて暫く待った。入れ歯の型をとってもらい、壊れたのも修理して貰うことにして帰る。
(昭和35年12月21日)


21日、土曜日に平山歯科へ。トラブル用に、2個つくるようだ。親戚価格だったのかも。

正午久しぶりに指圧。凝結していた身体がいくらかほぐれたようだ。中食後、原稿を仕上げる。
4時半に出かけ、三鷹の平山に行く。いろいろ調節して入れ歯がはまった。1ヶ月半ぶりだ。早く帰るつもりだったら、黒松白鷹があるからと、御馳走になった。雄健君が自動車で送ってくれて帰宅。
(昭和35年12月24日)


受診のたびに飲酒がマストとなった。

ゆっくり寝ていた。入れ歯は大体よいが、少しぎこちない。
(昭和35年12月25日)


晦日にも平山歯科に行き、

三鷹に行く。恰度患者が終ったところで、ゆっくり義歯を調節して貰う。スペアの方はうまくないので、明年回しにした。終ったら平山のお父さんがすしをとったからというので、御馳走になる。さらに入歯を調節してもらって、自動車で送って貰う。帰ったのは1時半だ。
(昭和35年12月30日)

義歯を調節。「スペアの方はうまくない」とあるのが不思議だ。同じ歯科技工士が、同じ型で、同じようにつくったのだろうに違いが出るとは。

矢部貞治の不愉快

57歳の矢部貞治。

3時ごろ帰宅。直ぐ歯医者に行く。運よく誰もいなかったので、右上の義歯のバネを締めてもらい、左下の歯ぐきの痛かったところを見て貰う。ちょっと洗っただけだが、もう一度きてくれという。
(昭和34年11月10日)


診断はすぐつかなかったのか。

歯医者に行くので、待たされた場合のことを用意して行ったら、不思議に今日は一人もいなかった。消毒して直ぐ帰る。お陰で助かった。原稿その他大分仕事ができた。
(昭和34年11月11日)


この時はあまり治療はしなかったようで、次に歯科診療所を訪れるのはその1年後である。
14日には盛岡の自治会館にて10〜16時、憲法調査会公聴会に臨んでいる。詳細が書かれていないので、内容は不明。

憲法調査会の運営委員会と総会。総会では牧野英一先生田辺繁子女史。久し振りに牧野先生と会ったが、目が殆んど見えず、歯も全部入れ歯だといい乍ら、往年の牧野先生のベランメーは変っていない。
(昭和34年11月18日)


牧野英一は刑法学者で、この時81歳。「ベランメー」口調が可能な総義歯なら、すこぶる優秀である。

井上孚麿の憲法無効論につき、今は不適当で、第三の段階で取上げるという運営委員会の意向に対し、富田健治神川彦松の両委員から文句があり、会長が専らその相手を僕にやってくれというので、少し渡り合う。富田氏は最後まで諒解せぬという。委員が少いので決はとらなかったが、非常識なことをいい出すものだ。
(昭和34年11月18日)


井上孚麿は元台北帝大の教授で、いわゆる憲法無効論の祖(多分)。東京維新代表者であったころの石原慎太郎が憲法無効論派で、そうではない自主憲法制定派の橋下徹と対立・分裂していたのだが、改憲派の主張する改憲すべき理由もいろいろである。現憲法無効・明治憲法復元論支持で有名なのは、日本会議だろうか。しかし、日本会議関係者であっても橋下のような法曹関係者だと「憲法無効論の無効論」者が多そうである。現憲法を根拠にした多くの判例を否定することは難しい。

昭和35年4月7日
▲昭和35年4月7日付朝日新聞。

昭和35年4月6日には、憲法調査会総会に憲法無効論者3人を参考人招致しているが、

▽神川(引用者註:神川彦松・東大名誉教授)氏=連合国が強制した無条件降伏はいままでの国際法規や慣例を無視したものである。したがってこの無条件降伏はハーグ条約に違反し、大西洋憲章、ポツダム宣言にも抵触する疑いがある。ハーグの陸戦法規に「占領軍に絶対的な支障のない限り被占領国の現行法規を尊重すべし」という規定があるのに、占領軍は帝国憲法はじめ広範に法律を改廃している。軍事的独裁下にあって作られた新憲法には主権者であるわが国民の意思が現れていない非民主的なものだから効力はない。

▽井上(引用者註:井上孚麿・亜細亜大学教授)氏=新憲法は帝国憲法第73条に基づいて改正されたものだが、第73条は条項の改正を規定しただけで、新憲法の様に全面的な改正をすることはできないと解すべきだ。特に帝国憲法の第1条から第4条(天皇の統治権に関する規定)までを含めて改正したのは改正の限界を超えている。

▽菅原(引用者註:菅原裕・弁護士)氏=新憲法は占領軍の権限によって強制された時限的なもので、わが国の永久的憲法にはなり得ない。占領軍の占領管理法の一種であるから講和条約が発効してすでに占領が終わった現在は失効したと解釈すべきだ。一日も早く“新憲法”の失効を宣言し、日本国民固有の憲法を制定すべきだ。これは帝国憲法の復活を意味するものではなく、現状に合うように改正することが好ましい。
(昭和35年4月6日憲法調査会第45回総会@全国町村会館、昭和35年4月7日付朝日新聞)


意外や意外、天皇主権に言及しているのは、井上孚麿のみであった。戦争末期、時の指導者達が泣きながら国体の護持にこだわり続けたのがウソのような事態である。
神川彦松(明治22年生まれ)は新憲法を「非民主的なものだから効力はない」と現憲法のテーゼ「主権在民」を支持しているのだが、明治憲法だって非民主的ではないか。菅原裕は明治27年生まれ、極東国際軍事裁判で荒木貞夫を弁護した弁護士だが、現憲法無効論というよりは失効論、明治憲法を復活させるのではなく「現状に合うように改正することが好ましい」――いたってフツーの改憲論である。憲法無効論を聞くなら井上孚麿だけで良かったんじゃないのか、この参考人招致。

昭和37年2月17日
▲昭和37年2月17日付朝日新聞。

昭和37年9月8日
▲昭和37年9月8日付朝日新聞。

憲法無効論、少なくとも憲法調査会での議論は尻すぼんだようだ。
12月16日には在日米軍が違憲か否かなどを争った砂川裁判の最高裁判決が出るが、

砂川判決の最高裁判決は、原判決京都地裁へ差しもどしで、米駐留軍は「戦力」ではない、自衛権はある、安保条約のような高度に政治的な問題に司法裁判所が決断を下すべきでない(条約審査権なし)といった趣旨で大体満足な判決だ。
(昭和34年12月16日)


在日米軍は合憲との判断だった(田中耕太郎裁判長)。でもって「安保条約のような高度に政治的な問題」には司法権を放棄するというのだから、もはや改憲の必要があるのかよくわからない。まあ、基本的にわたくしは天皇制にこだわらない改憲論が理解できないのである。

矢部貞治の不愉快

拓殖大学の入学式で、

10時から入学式。沢山きて講堂に一杯だった。10分余の告示。11時過ぎ式終了。あと教職員の会食で、おこわを頬張ったら、入歯がとれて、これを思わず噛んだらバネが折れてしまった。弱った。
(昭和33年4月10日)


矢部貞治の義歯は、クラスプが壊れてしまった。

朝のうち歯医者に行こうと思っていたのに、右のようなことで駄目になり午後電話をかけたら、これから外出するので明日にしてくれという。不自由なことだ。
歯医者がダメときまったので、落着いて、古井にたのまれた「都邑」の原稿と、中部日本に頼まれた原稿とを書く。
(昭和33年4月11日)


「右のようなこと」とは、憲法調査会坂西志保をアメリカ視察に行かせるかで蠟山政道細川隆元がモメ、細川が「いきなり憤慨して
口汚く罵った事件」(昭和33年4月10日)を、矢部貞治が仲裁した(4月11日)件である。細川隆元といえばビートルズを乞食芸人などと罵ったことで有名だが、普段から口汚かったようだ。

10時に歯医者に行ったら、長く待たされ、拓大行きがおそくなったので、新宿からタクシーで行く。
(昭和33年4月12日)


これでクラスプは直ったようだが、

9時半ごろ床屋に行く。幸い誰も待たず。引続いて中田歯科に行く。ここは1時間かかった。入歯のバネがゆるんだのを締めてもらった。
(昭和33年6月18日)


その2ヶ月後にはゆるんで、

3時ごろ歯医者に行って義歯のバネを締めてもらい、序でに下の前歯の見苦しい歯石をとってもらう。ほんの2、30分のことで歯の方も安心できる。
(昭和33年11月15日)


その5ヶ月後にはまたゆるんでいる。クラスプではなく、歯に動揺があるのでは。
さらにその5ヶ月後には、

寝るとき義歯を洗ったら、左の奥歯のバネが折れかけている。これで又暫く歯医者に通って、不自由しなければならぬ。
(昭和34年4月6日)


またクラスプが折れかけている。

10時前床屋に行ったら満員なので、一度家に帰り、こんどは歯医者に行く。幸い空いていて直ぐ型をとってくれた。早ければ明後日ぐらいにはできるという。早いのは有難い。
(昭和34年4月7日)


結局、作り直すもよう。

義歯ができたと連絡があったというので、夕食後に歯医者に行く。どうも異質物が口の中に入ってきたようで工合が悪い。しかし慣染しむように嵌めておく。
明後日ごろ調節して貰う。
(昭和34年4月9日)


中田歯科、ブリッジを中1日でつくっている。

10時半歯医者。大分待たされたが、今日で調節を一応終り、タバコの歯石もとって貰って、3千円払って帰る。
(昭和34年4月11日)


部分床義歯、3000円。
その5ヶ月後、

歯が痛い。
(昭和34年11月7日)

歯痛である。
広島、大阪へ講演旅行でまた調子が悪くなっているが、

歯痛は歯槽膿漏らしい。義歯を外したまま寝る。
(昭和34年11月8日)


恐らくクラスプをかけていた歯が限界になったのだろう。

わがいのち満57にけふなりぬ
その朝とみに歯の痛む哀れ
10時半ごろ出かけて産経ホールに行く。沖縄の文教局長に会ってくれという用件。どういうものか歯の痛み殆んどなくなった。
産経会館2階のリリーという小部屋に行ったら、東恩納先生がきておられ、やがて沖縄文教局長の小波蔵<おはくら>政光という人も見えた。入江会長がおくれ、理事長は30分も遅れてきた。
(略)
4時半過ぎ帰宅。歯医者に行くつもりだったが、もう遅いのと、痛みがなくなったのとで、明日にする。
(昭和34年11月9日)


矢部貞治、57歳の誕生日であった。

矢部貞治の不愉快

昭和32年12月17日、新長期経済計画が閣議決定された。経済の自立と完全雇用の達成を目標とする、経済5ヵ年画である(昭和33〜38年)。計画期間中の年平均成長率は6.5%が想定されていた。
ちなみにこの経済5カ年計画、日本導入の嚆矢は石原莞爾らしい。石原はソ連が第一次5カ年計画により戦力を増大させたことを知り、ソ連式の計画経済(重要産業の5カ年計画)導入を目論んだのだと、岸信介がその回想録(岸信介の回想)で書いている。岸は昭和11年に満州国国務院産業部次長として渡満しているが、それは石原莞爾の策定した5カ年計画を実行するためであったという。
閑話休題。
昭和32年は高度経済成長期で景気はいいが、

生活保護率
生活保護率

生活保護率は2.16%と高かった。社会保障も救貧から防貧にシフトすべく、健康皆保険の達成も同計画で目指されている。当時の健康保険未適用者は、約2600万人だった。
ちなみに、朝日訴訟――生活保護を受けながら岡山療養所で結核治療を受けていた朝日健二・君子さん夫妻の養父、朝日茂さんが憲法25条が保障する「人間らしく生きる権利」を求めて国を訴えた訴訟――が提訴されたのも、昭和32年である。

どうも咳が出て弱る。それでもタバコはやめられない。
(昭和32年12月19日)


医療とは、わかっちゃいるけどやめられない、という人間性との戦いではないか。そしてそういう人間の弱点を前にして、善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、と言える医療従事者に当たりたいものである。

NHKで26日解散のことで放送討論に出てくれというので引き受けたが、咳が治らぬと困る。
(略)
夕食後歯医者。実に運よく間一髪で、僕が先で、直ぐ大きな先生が見てくれ、型をとってくれた。年内に間に合うやも知れぬ。
(昭和32年12月19日)

この頃、岸内閣にはいわゆる解散風が吹いていたようだ。

昭和32年12月25日付朝日新聞。自民党内の“一月解散”論
▲昭和32年12月25日付朝日新聞。

「放送討論」は放送討論会というNHKラジオ番組。昭和21年4月に番組開始。なお、NHK-FMはまだない。

拓大で増田君に咳の薬を頼んでくれたということで西郷さんが持参してくれたのを、飲んでみる。よく利くらしい。今日は咳はよほどよい。
朝のうち歯医者。もう義歯ができていて嵌めてくれた。まだちょっとぎこちないがためしてみることにした。これで済めば有難い。
(昭和32年12月22日)


この「咳の薬」は「よく利く」ものの、矢部は便秘になってしまう。リン酸コデインと思われる。

朝歯医者。昨日はめた義歯、少しぎこちないのをちょっと削ってもらったら、完全によくなった。おやじさんがいないので勘定は判らぬという。
(昭和32年12月23日)

矢部貞治のかかりつけ、中田歯科は父と息子の2代でやっているもよう。

朝食し、新聞を見、それから歯医者に行って8千円勘定し、帰ると又もう中食だ。それから新聞をみて、近衛伝に向うともう12時半頃だ。しかし歯の治療一応済んだので有難い。
(昭和32年12月24日)


義歯代は8千円。昭和31年の雇用者の平均賃金は約2万円だから、かなり高額だ。なお、朝日訴訟では生活保護者に日用品費として支給される600円/月が妥当かが焦点であった。

5時NHKの迎えがきて、下谷公会堂に行く。雨は降るし夕刻ではあるし、1時間かかった。福田赳夫三宅正一の両氏もきていて、一緒に鰻めしを喰べ、6時半から「解散をどう考えるか」という放送討論。歳末だし雨だし、3、40人しかおらず、しかも右翼が動員したような連中が多くて僕にもつっかかってきたが、とくに三宅さんに質問を集中していた。
(昭和32年12月26日)


福田赳夫は日航機ハイジャック事件の時の首相。身代金16億円を払って「人命は地球より重い」と言ったのは有名である。三宅正一は右派社会党の衆院議員。大正13年日本農民組合新潟県連結成に参加し、のち中央委員となる。
矢部貞治は元日に解散すると予想していたが、予想ははずれる。

昭和32年12月31日
▲昭和32年12月31日付朝日新聞。

歯医者に行って少し調節してもらう。健康保険証を返してくれといったら、前の1本まだ完全につめてないなどいう。どうもルーズで弱る。
(昭和32年12月28日)


健康保険証、診療所に預けっぱなしか。当時は1世帯に1枚のみだったのに。

犬歯に穴をあけたのを、まだつめてないと昨日になってからいい出すので、朝又歯医者に行ったが、これは一つの修養だ。汚い椅子でごたごたといる患者の間で1時間も待たされ、その揚句は又明日もきてくれという。とても太い長い神経でないと堪えられない。まあ修養と思って我慢する。
(昭和32年12月29日)


「修養」……まあ確かに。最初に治療計画を説明してくれると、気分もラクなんだが。

「市政」の原稿を一応書いて歯医者。犬歯の穴に金を埋めて、2500円とられた。しかも保険証はまだ記入していないといって返してくれない。どうもルーズだ。しかしまあこれで一応歯医者からは解放された。
(昭和32年12月31日)

大晦日まで営業し、夜は8時過ぎまでやっている中田歯科。当時の歯科診療所としては、フツーだったんだろうか。

矢部貞治の不愉快

歯を抜いたあと順調らしい。朝のうち歯医者に行く。抜いた方は問題ないが、1本おいて隣りの犬歯の根が犯されているのをどうするかが問題。一応穴を開けてうみをとる手当てをやってくれた。どうしても駄目ならこれも抜くことになる。
(昭和32年12月1日)


歯根嚢胞か。

夕食後歯医者に行ったら、玄関に下足が散乱して満員なので、一度帰宅。又出かけたがこれも小1時間待たされた。しかし犬歯が極めて順調で、助かるかも知れぬという。
(昭和32年12月2日)


なかなか受診しないが、受診したとなればマメに受診する矢部貞治。なお、憲法調査会や選挙制度調査会のほか、公安審査委員会の委員や中東調査会の理事も務めていて、多忙である。

11時に出かけて首相官邸。憲法調査会の運営委。1時半から総会で、金森さんの話をきく。老獪というのが印象。大分皆が質問し、これに対する金森さんの答弁が、くねくねと持って廻った長広告で、終ったら5時半に近かった。
(昭和32年12月4日)


昭和32年12月5日
▲昭和32年12月5日付朝日新聞。

憲法調査会総会で、金森徳次郎・元国務大臣(第1次吉田内閣)は憲法第9条について「自衛戦争はできるが戦力は持てない」との意見を述べた。いわく「自衛戦争はできるが、戦力は持ち得ないものと思う。ただし戦力の程度や分量についてはいろいろの解釈もあり得ると考える。自衛のための戦争はできるが、飛び道具のようなものは持ち得ないと解釈すべきだ」。
――「飛び道具」なくして自衛戦争ができるというのは、理解しにくい。ただし、ロシアとエストニア間で起きたサイバー戦争などみると、今後は「戦力」の意味も変わりうるのかも。サイバーの世界は、たったひとりの天才が一瞬で旧来のモロモロを無化してしまう世界だからである。

中曽根委員 衆議院で第9条第2項に「前項の目的を達するため」と文句を追加したことによって、同項の戦力不保持の原則は第1項同様自衛戦争の場合を除く、と解釈されるべきだと思わないか。

金森氏 私はあの追加の文句が入っても戦力不保持の原則に影響はなかったと思う。

中曽根委員 金森氏は第9条第1項について自衛戦争なら出来ると解釈していたというが、当時吉田首相は衆院で「自衛戦争も出来ない」と明言している。この点閣内不一致ではないか。

金森氏 実は私もあの答弁をきいていて、これは困ったことをいったものだ、と思った。
(昭和32年12月5日付朝日新聞)


冷たい雨。歯医者に行かねばならぬが、時間が窮屈なので、あと回しにする。
(略)
2時近く憲法調査会総会。芦田均、安倍能成両氏の話をきく。安倍さん率直に、押しつけだといっていた。
(略)
中東調査会の理事会ということで、理事長の井上清一、山名義鶴、村田五郎、関為之祐、小林元岩永博の諸氏。いろいろ会のことを話し合った上、赤坂の「一条」という家に案内され、夕食。
僕が歯医者に行くと急いだので、井上氏の車で渋谷まで送って貰う。8時20分頃中田歯科に行く。小1時間も待たされたが、犬歯は助かるらしい。
(昭和32年12月5日)


昭和32年12月6日
▲昭和32年12月6日付朝日新聞。

芦田均は憲法制定当時の衆院憲法改正特別委員長で、

芦田氏はまず当時のメモを引用しながら関係者の動きを解説し、その中でとくに
一、憲法第9条の原案では、第1項で自衛権を認めている一方、第2項では戦力を持てないとなっていた。私は自衛権を認めるからには絶対に戦力を持てないとするのはおかしいと思い、衆院で第2項に「前項の目的を達するため」の文句を追加したのだ。つまり原案では日本は無条件で軍備を持てないことになっていたが、修正されたいまの憲法では条件つきなら軍備は持てると解釈すべきだ。(注=金森徳次郎氏は4日の総会で「いまの憲法では戦力は持てない」と説明している)
一、アメリカ側は当初政府に憲法改正原案を示した際「これを日本に強制するつもりはないが、極東委員会の空気からいってこれをのむことが天皇の存在を守る唯一の方法で、日本はこれによって国際社会に進出できるだろう」と力説した。
(昭和32年12月6日付朝日新聞)


「条件付きなら軍備を持てる」との立場である。
安倍能成は同じく憲法制定当時の貴族院憲法改正特別委員長で、

一、いまの憲法はアメリカが日本に強制したものだということは否定できない事実だ。アメリカは日本の勢力を弱めるためにああいうものを押しつけたのだと信じている。
一、したがって屈辱的であるという意味において憲法改正には賛成であるが、その内容は別だ。
(略)
一、憲法の改正は日本国民の意思で作られたものではなかった。その憲法を改正の内容は別にしても改正しようという動きそのものはよいことだと思う。
(昭和32年12月6日付朝日新聞)


「アメリカが日本に強制したもの」として改憲に賛成している。

ところで中田歯科、夜8時過ぎまでやっている。
歯科患者が多く、長く営業せざるを得なかったのだろう。過当競争で長く営業せざるを得ない今とは違って。
関為之祐は関書院の社長。小林元は中東研究者で、中東調査会の創設者である。それにしてもこの中東調査会、大川周明が理事でも不思議ではない感じだ。大川周明はこの年の12月24日に死亡、享年71。

午後崎山君が迎えにきて、その車で中政連本部に行く。
(略)
夕方歯医者。運よく割に早く済んだ。世民研に頼まれた「マルクス主義の国家論」に向う。
(昭和32年12月7日)


「世民研」は昭和21年9月、鍋山貞親らを中心に設立された反共活動団体“世界民主研究所”。

朝のうち歯医者。午後は出かけなければならぬが、それまで少し世民研の原稿。これは「マルクス主義の階級国家論」というパンフレットになるので、100枚というからちょっと骨が折れる。
(略)
久しぶりに藤森の第二月曜会に行く。福良、平岡君に経済企画庁の徳永、伊藤、大蔵省の酒井、厚生省の高田の諸君。
(昭和32年12月9日)


「第二月曜会」は改憲に向けての民間の研究会で、メンバーは高柳賢三など元貴族院議員の有志がメイン。高柳は憲法調査会の委員長でもある。改憲派有志の盛り上がりを見ると、この時期に改憲されなかったことが不思議である。

朝、歯医者。文化放送だのNHKだのと又忙しいので、「石筆」を一つ書いておく。世民研の原稿も少し。
3時20分頃日本クラブ長野朗氏と会う。農民運動をしていられる由で、その話しであった。日本クラブに年末寸志として千円払っておく。
(昭和32年12月11日)


「石筆」は東京新聞のコラム。大川周明は死んだが、大川らと共に革命路線を突っ走った長野朗はまだ存命であった。大川周明の2つ下だから、69歳ぐらいだろう。

洋服に着替えて9時半に歯医者。早く済んだので、一度帰宅して新聞。
10時半前出かけ11時まで文化放送。(略)
1時にNHKの解説室。「社会党の運動方針案」を「今日の問題」で論評。そのあと正月の郷土への年賀で3分ほど録音。
車で送って貰って東京駅。「いこい号」3等に乗る。
(昭和32年12月14日)


この後、湯河原に1泊旅行。

朝から新聞も水、共同通信に正午までという約束をした「圧力団体の限界」という原稿に没頭、しかし夕方までとりにこない。
ラジオ東京も同じ圧力団体の問題なので、序でに放送用の原稿を作る。
それから産経時事の「政治の派閥と解消」という論文。
(略)
夕食後新聞を見て歯医者。小1時間待たされた。
帰って原稿の推敲。
(昭和32年12月16日)


矢部貞治がたびたび講演などしていた中政連はこの翌年の参院選で“推薦料”をバラまいて逮捕者を出し、

昭和34年6月16日
▲昭和34年6月16日付朝日新聞。

その「限界」を見抜いた矢部は先見の明があったのかも、しれない。

矢部貞治の不愉快

矢部貞治は憲法や民主主義について、よく講演しているのだが、

タクシーで築地の本願寺に行く。
特殊布教研修会というもので、3、40人の僧に政治の話をする。
(昭和32年11月25日)


坊さん相手のものもあった。

11時に終って、あと1時間質問、鰻丼を弁当に出され、布教研究所長の川野三暁さんと、龍谷大学教授の瓜生津隆雄さんとで、会食。あと、川野さんから宗団のことでいろいろ相談を受けた。
(昭和32年11月25日)


川野三暁は浄土真宗本願寺派の僧侶で、昭和37年の参院選で当選、1期を務めた。
それにしても、寺で出される食事が生グサとは。

山陰日日と、大因伯と、朝日新聞鳥取支局と鳥取婦人新聞とから、新年用の原稿を頼んできているので、歯医者に行くのもやめて、矢継早にこれらを書いて送る。
(昭和32年11月25日)


「山陰日日」は昭和21年9月に米子市で創刊された新聞で、昭和38年に日本海新聞に吸収合併されている。矢部貞治は日本海新聞にも寄稿していた。「大因伯」は鳥取県人連絡機関雑誌。「鳥取婦人新聞」は、正しくは鳥取県婦人新聞で鳥取県連合婦人会の機関紙。すべて鳥取がらみなのは、矢部貞治が鳥取出身だから。くわしくは、鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現・鳥取市向国安)出身である。向国安はわかめがおいしいようで、矢部はよく送ってもらっている。美保小学校、鳥取中学校(旧制、現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒。

1時半首相官邸。選挙制度。(略)
タクシーで渋谷まで。直ぐ夕食で入浴で、出たら歯医者。どうも時間がない。
(昭和32年11月26日)


「明峯君」は、元同盟通信の明峰嘉夫か。

朝、歯医者。その足で郵便局や時計屋に行き、少ししたら指圧がきて、食事したら、こんどは卍聖会というものをやっている長沢九一郎という人物がきた。憲法調査会の委員の方々に天皇制は今のままにしてくれと説いているという。それはいいが、母権の信仰が平和の信仰だとか、東南アジアと同じ信仰で結ぼうとか、将来世界連邦ができたら、天皇を大統領にするとか、まともに相手になれず。藤沢親雄と一緒にやっているという。
(昭和32年11月28日)


「長沢九一郎」は天皇制社会主義者。戦前には国体原理研究所という組織を主宰していた天皇の狂信者だが、よく相手をしてやるものである。藤沢親雄は戦前、大政翼賛会の外郭団体“大日本興亜同盟”の宣伝部長だった。

今日根雨からきていたハルちゃんという女中帰る。歯医者。1本歯を抜いた。
夜「市政」の原稿を書き上げた。全国区の問題。
歯を抜いたところだから、物は喰べず、ストーヴの側でハイボールをやって寝る。
(昭和32年11月30日)


抜歯後は、むしろ酒のほうがまずいと思う。

矢部貞治の不愉快

選挙制度と憲法の両調査会で忙しい矢部貞治。

朝は医者に行く。薬をちょっと塗るだけだ。
ハレが引いたら抜くという。長期持久戦らしい。
(昭和32年11月11日)


歯周炎のようだ。ブリッジの前に歯周病治療はやっていたのか。

歯医者に行く。抜くのは旅行後にして貰う。歯石もとって貰った。
(昭和32年11月14日)


「旅行」は19〜22日の大阪行き。大阪府の選挙管理委員会が主催した中之島公会堂での講演をかねてのもので、講演のテーマは「公明選挙」であった。この公明選挙という言葉は今では滅多に聞かなくなったが、それはもちろん公明党ができたからである(昭和39年)。

朝のうちに歯医者に行く。
原稿の推敲と新聞のあとで、選挙制度調査会で発言するため、参議院全国区制の問題を考えてみる。憲法の範囲内ではどうも改廃論に熱が出ない。
(昭和32年11月16日)


矢部貞治は恐らく、選挙によらない国会議員の推薦制度を考えていたのではないか。推薦制度だと、憲法43条の「両議院は全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」に抵触するため改憲が必要になる。

地下鉄でお茶の水まで行き、そこからタクシーで首相官邸。選挙制度調査会で僕が皮切りに全国区制の問題につき意見をいう。
(昭和32年11月19日)


20日には矢部が副会長を務める憲法調査会の総会で、憲法作成に関わった参考人が招致された(矢部は総会には出席していない)。

昭和32年11月21日
▲憲法調査会総会第6回、昭和32年11月21日付朝日新聞。

中曽根委員(引用者註、中曽根康弘・自民党衆院議員) 幣原首相は戦争放棄の悲願をもっていたといわれる一方、幣原内閣では憲法の中に戦争放棄の条文を入れるのに反対の空気が強かったというが、その間に矛盾はないか。

岸氏(引用者註、岸倉松・元幣原内閣総理大臣秘書官) 幣原氏は外交官当時から熱烈な平和主義者で、「とくに原爆がつかわれたのちは、日本は将来戦争を放棄すべきだとの固い信念をもっていた。21年1月24日にマッカーサーに会った時、このことを力説したらマッカーサーは非常に感動していた。その結果、2月13日に提示された総司令部の原案に戦争放棄の条文が入ることになったのだと思う。しかし幣原氏は憲法で戦争放棄をうたおうとまでは考えていなかったようで原案をみた時には驚いたらしかった。

正木亮委員(弁護士)私は当時広島高検検事長をしていたが、首相官邸で幣原首相の訓示をうけたさい、首相は憲法第9条の自慢をしていた。この時私は、首相は憲法にこの条文を入れるよう働きかけたのだな、との印象を受けた。
(昭和32年11月21日付朝日新聞)


憲法第9条こそ再軍備を結党テーゼとする自民党の憎むもので、そのために幣原喜重郎は戦犯扱いされているわけだが、一方で護憲派が幣原をホメているのもあまり聞かない。

昭和32年12月5日
▲憲法調査会総会第7回、昭和32年12月5日付朝日新聞。

なお、当時は第1次岸改造内閣である。

一時半首相官邸。選挙制度。色々の委員の発言を黙ってきいていたが、明峯君が、調査会は政府、与党の意向に迎合して、全国区廃止を答申し、憲法改正の突破口を作るべきではないなどと、ジャーナリズムむき出しの発言をするので、最後にちょっと、反撃しておいた。自分の持論をいうだけのことで、政府与党の考えに合致するか否かはこっちの知ったことではない。政府与党の考えることと反対のことを、自分の所信を曲げてまでいう方がよほど政治的ではないかといっておく。
(昭和32年11月26日)


こう言い切る矢部貞治は、しかし、アンチ岸であった。岸信介は改憲したいがために社会党の不参加をおして憲法調査会を開始し(会自体は鳩山内閣で発足)、

昭和32年8月13日
▲昭和32年8月13日付朝日新聞。

だから改憲派の矢部貞治が用いられて活躍するのだが、矢部自身は岸など顧みずに自説を貫いてやるという態度であった。

国内政治では、2月に石橋湛山が引退して、岸に代ったが、僕は石橋を支持して期待していただけに、惜しい気がした。僕の評論がアンチ岸なので、岸は僕をどんな会にも呼ばない。狭量な男だ。しかしお陰でうるさくない。
(昭和32年12月31日)


ちなみに吉田茂は護憲派で、

昭和32年12月19日
▲昭和32年12月19日付朝日新聞。

12月18日の憲法調査会第8回総会に、「現憲法に欠陥はない」との見解を寄せている。幣原よりも、吉田茂のこの擁護のほうが改憲派にとってはよりキツかったに違いない。幣原は完全に過去のヒトだが吉田茂はいまだ政治的権力があって信奉者も多く、しかも自民党議員だからである。

矢部貞治の不愉快

昭和32年1月26日0時25分、湯河原の別荘「百里亭」で重光葵が死んだ。死因は狭心症である。

朝新聞一面で重光葵の急死を知って驚いたが、三面を見ると小林一三も死んでいる。恰度今日近衛文麿、文隆両氏の追悼会があって、出席しようと思っていただけに驚いた。
(昭和32年1月26日)


そしてこちらも偉大な明治人、小林“今太閤”一三はその40分前、25日夜11時45分に死んでいた。死因は「急性心臓性喘息」(=急性心不全)である。重光は明治20年生まれの69歳、小林一三は明治6年生まれの84歳――重光の若さが痛ましい。重光が国連で「日本は東洋と西洋の架け橋になる」と宣言してから60年を経たが、緊迫する米朝の架け橋になろうとする気配すらない、というのは情けない。
小林一三は阪急グループの創始者で、宝塚歌劇団の生みの親である。駅にショッピングモールを搭載したターミナルデパートも、鉄道沿線を宅地開発して月賦で売ったのも、小林一三の才がなしたのであった。なお、小林一三は一時期、東京電燈(現東京電力)の社長も務めている。今小林が東電の代表だったら、原発事業はスッパリやめるんではないかと思う。その経済性のなさを早くから見抜いたであろうし、そもそもが反権力・反官僚、「清く正しく美しく」を貫いた人だからである。
閑話休題。
54歳の矢部貞治は、餅で「義歯」をはずしていた。ブリッジのことだろう。

午後中田歯科に行って、上歯の義歯を締めてもらう。
先日餅を喰べていたらはじめて外れ、昨日は丸の内ホテルでレチュスを喰べていて抜けたので。直ぐ締まったようだ。序でにタバコのヤニも除去してくれた。150円也を払う。
(昭和32年2月6日)


「レチュス」が何かわからず。
南米のケーキでトレス・レチェスというのがあり、牛乳と砂糖タップリで歯にはめっさ悪そうではあるが、ブリッジははずれそうにない。で、当時の「150円」は、とんかつ1皿分である(銀座・煉瓦亭、昭和30年、並1皿・ライス別)。
55歳の誕生日には歯がグラつき、

考えてみると今日は僕の誕生日だ。誰も気づかない。久しぶりゆっくりした気持で、ジラスを読む。
(略)
前から右上歯がグラついているのを1日延しにしてきたが、夜意を決して中田さんに行く。レントゲンで検べた上で、2本抜かねばならぬということらしい。大ごとになると何より時間がないので弱る。
満55歳の誕生日に歯を抜く話しも中々面白い。
(昭和32年11月9日)

中田歯科へ。
「ジラス」は、ミロバン・ジラスの「新しい階級」だろう。ミロバン・ジラスは元ユーゴスラビア副大統領。第二次世界大戦時代のレジスタンス運動に参加し、戦後はチトー大統領の右腕として活躍、1953年に副大統領になるも翌1954年に民主化や一党独裁の廃止などを主張して失脚、9年の獄中生活を送ることになる。でまあ、共産主義国家=楽園という幻想がくずれたのは、このジラスの本が出たくらいの時期からなんだろうか。平成に入ってからも、北朝鮮の拉致問題を左派政党が認めようとしない状況はあったけれども。

昭和32年9月25日
▲昭和32年9月25日付朝日新聞。

なお、10月22日には参院全国区制の改廃を調査するための第5次選挙制度調査会が開始し、

12時半過ぎ富田君の車で総理官邸。選挙制度調査委員会。岸の挨拶のあと、会長、副会長の銓衡委員に僕も入れられ、有馬長谷部の両氏にきめた。
あと僕が真っ先に発言。衆院の小選挙区との関係、参院の構成全体の問題、政府の先走った意見などにクギをさしておく。
(昭和32年10月22日)


矢部貞治はまた運営委員に就任している。

昭和32年10月23日
▲昭和32年10月23日付朝日新聞。

当時の政府与党は参院全国区を廃止する意向だったが、

昭和32年11月14日
▲昭和32年11月14日付朝日新聞。

それは自民党の全国区当選者数が社会党のソレに抜かれたから、らしい。

保守党の、参院全国区当選者は選挙ごとに下向きの状態を続け31年選挙ではついに社会党に追い抜かれ自民党当選者19名に対し社会党は21名を数えた。革新系が労組の組織などを背景として全国区では有利だという傾向は今後も次第に強くなる見通しだし、この編で何とか社会党の進出を食い止める制度に切り替えねばならない――というのが自民党幹部の本音だろう。
(昭和32年10月6日付朝日新聞)


で、比例区は2001年、現在の拘束名簿式比例代表制になる。無所属の人間をどんどん排除していく方向である。

10時に歯医者に行く。レントゲンを見せられたが、一応薬で手当てして見て、それで駄目なら抜くということらしい。薬をつけて帰る。
(昭和32年11月10日)


ちなみにこの頃、日本原子力発電株式会社(日本原電)が設立されている(昭和32年11月1日)。

昭和32年11月21日
▲昭和32年11月21日付朝日新聞、なぜ耐震性の研究結果を隠した 学術会議原子力委で調査_発電原子炉計画

日本が初導入を目ざしたのは英国製原子炉であるが、そこで問題となったのが耐震性であった。イギリスに大規模地震はないからである。
10月29日に開かれた原子力委員会・原子炉地震対策小委員会(委員長・武藤清)では、関東大震災の半分程度の振動で炉心内部のレンガが崩れると報告され、11月14日には導入不可の結論が出る。しかし11月1日に原電が発足したことから、原子炉地震対策小委員会は原電内部の地震研究班に引き継がれ、そして同研究班は英国製原子炉でもOKと答申してしまう。日本学術会議からは批判声明――耐震性に問題ナシとするデータが一切公開されていない――が出されるも、昭和34年11月には原子力委員会専門部会がまたもや設置OKと答申。この時は同専門部会の坂田昌一委員(名古屋大教授)が安全性に責任が持てないと辞任もしていたが、結局、政府は原電に原発設置許可証を出すこととなった。こうして設置されたのが、東海原発である。

矢部貞治の不愉快

拓大の講義を休んで、9時半自治庁に行く。
蠟山さんはもうきていて、議長、副議長への要望書の文案を作っていた。(略)今日集ったのは下村宏、次田大三郎、松崎権四郎、御手洗辰雄、蠟山政道、野村秀雄、山浦貫一、僕で、これに次席の坂千秋阿部真之助両氏を加え署名。
高橋雄豹さんは、社会党から不信任案をつきつけられた関係で参加しないとのことであった。
11人時に皆で衆議院に行き、議長室で待つ。直ぐ益谷議長杉山副議長がきた。下村さんから、要望書を読んで貰う。議長、副議長も、御心配はよく諒解しているから善処したいと返事。要望書の要旨は、
現在国会で小選挙区案の審議状況をみるに、議会政治のため憂慮に堪えない。われわれは小選挙区制に賛成で、その実現を期しているものであるが、しかしこのまま政府案を強行することは、世論の反応をみても、議会制度を破綻におとし入れる恐れがある。議会制度の方が選挙制度よりも重大だから、角を矯げて牛を殺すの愚を犯すべきでない。議長、副議長は、国会の権威を保ち、信を内外に失墜せしめないために最善を尽し、両党首脳部に対し適切な措置をとってもらいたい。
というもの。
(略)
歯医者に行き、大分長くかかって、いよいよブリッジをセメントで固定。これで噛み合せがよければ、歯医者通いから暫くは放免される。
(昭和31年4月20日)

選挙制度調査会の委員は、矢部貞治のほか次田大三郎下村宏、松崎権四郎、阿部真之助御手洗辰雄蠟山政道野村秀雄山浦貫一の計9人。うち、松崎権四郎は東京都選挙管理委員会の委員長である。朝日新聞元社員が2人も入っているの目に付く(下村宏と野村秀雄)。また、この年の1月に死去しているが、緒方竹虎は鳩山一郎の側近で小選挙区制論者だった。

中食後一寸歯医者に行ってもう少し削って貰う。大体いいようだ。
(昭和31年4月21日)


しかし、歯科通いは続く。

1時公聴会というが、まだ時間があったので古井のところに寄り、国会の委員部と連絡してみたら、まだ理事会で決らないというのでビールなど飲んで駄弁っているうち、今日も流会になったとの知らせ。明日やるという。僕の発言で社会党は2日つぶしたわけだ。やんぬるかなだ。
タクシーで渋谷。帰宅して直ぐ歯医者に行き、最後の調節をして貰って勘定してくる。2万1千円。
(昭和31年4月24日)


「2万1千円」は恐らく左の義歯と、右のブリッジ込み。

矢部のいう「発言」とは、その手許に社会党から提出の法文が届かなかった、という国会での公述。これに社会党が食いついて、

昭和31年4月24日
▲昭和31年4月24日付朝日新聞。

矢部貞治は結果的に社会党にサービスしたことになる。

矢部貞治の公述
▲矢部貞治の公述。

矢部貞治が小選挙区制度導入に賛成する理由は、

〕効な多数(working majority:〔議案の通過に〕十分な過半数)を持つ政府を選べる
∪党の近代組織化を促進する
K…蠢挙費用が減る

の3点だった。

,蓮◆崛挙制度の眼目」=「社会の縮図を国会につくる」であれば大選挙区比例代表制が最も合致するが、比例代表制は小党の分立をもたらし、安定した政府をつくりにくいから。
△蓮△錣国の政党政治の弊害は、政党が派閥の寄り合い所帯であることがその重要な要因であり、それは選挙での同士打ち・共食いが生み出すものである。
は、選挙区あたりの面積が狭まり、有権者の数も減るから。

と矢部貞治は説明するが、このうち最もはずしたのがか。
もっとも、矢部貞治は選挙運動の取締強化と連座制の徹底化をもともに主張していた。で、平成6年の公職選挙法改正で衆院選に小選挙区比例代表並立制(小選挙区300、比例代表200)が導入され、あわせて連座制も強化されるのだが、金権選挙は相変わらずである。
また、派閥政治についてはつい最近まで悪し様に言われていたが、今安倍一強といわれる政治体制になってみると、むしろ派閥が自民党内に多様性と公平・公正をもたらしていたことに今更気付かされる。田中角栄がオイルショックによる国家危機を脱するためにライバルの福田赳夫に頭を下げ、経済政策の転換を図ったという話など、今聞くとまるで美談だ。角栄が福田赳夫に屈したのは国家危機もさることながら、このままでは党自体が危うくなってしまうという危機感、つまりは党への愛と忠誠心からである。森友・加計学園問題で党支持率まで低下させている安倍晋三を放置する自民党議員は、党への愛と忠誠心が角栄ほどないということなのだろう。

で、小選挙区制案は衆院を無修正で通過するが、

昭和31年6月4日
▲昭和31年6月4日付朝日新聞、三法案ついに流産「小選挙区」「健保」「教科書」

参院では審議未了で流産に。第3次鳩山内閣は昭和31年10月に日ソ共同宣言を締結し、12月にその発効と国連加盟実現(それまでソ連が反対していた)を見届けて、23日に解散した。
なお、衆議院選挙法改正特別委員会公聴会の公述人メンバーは、

自民党推薦:
四宮久吉・全国都道府県議会議長会会長
松田正雄・日本経営者団体連盟専務理事
矢部貞治・拓殖大学総長

野党推薦:
吉村正・早稲田大学教授
吉川末次郎・専修大学教授
石垣綾子・評論家

であった。

矢部貞治の不愉快

時は第3次鳩山内閣、与党自民党は公職選挙法改正案で小選挙区制導入を図るも、苦戦する。

昭和31年3月24日
▲昭和31年3月24日付朝日新聞。

一方、選挙制度調査会委員の矢部貞治は小選挙区制導入に努力しつつ、それ以上に義歯と苦闘していた。

夕方歯医者に行き型をとってきた。
(昭和31年3月24日)

夕方歯医者に行くと待っている人が多く、しかも型をちょっと合せただけだ。
(昭和31年3月27日)

型を合わせる? 噛み合わせのチェックか?

4時に出てNHK、古井島上岡村、僕で小選挙区のこと。(婦人の時間)、むしろ古井の態度が不愉快だった。
バスで帰る。夕食して歯医者。今日左の奥に義歯を嵌めてくれた。慣れないので妙だ。併し思ったより早い。
(昭和31年3月28日)


印象採得から4日間で義歯ができている。早い。
が、この義歯はなかなか合わないのである。

自主憲法期成同盟の憲法講座。5、60人の学生が集っていて非常に熱心だった。質問で9時迄。
出たら大山岩雄、野島貞一郎両君がいて、一緒に渋谷に行ってから北京楼という所で一盞やって分れた。
どうも入れ歯で痛いのではずして寝る。
(昭和31年3月29日)


「自主憲法期成同盟」=自主憲法期成議員同盟。憲法改正を目的とした保守各党議員の集まりで、昭和30年7月11日の創立総会には衆参両院議員132人が出席。会長:広瀬久忠、副会長:清瀬一郎山崎巌

歯医者に行って入れ歯を直して貰う。
(昭和31年3月31日)


新聞を見乍ら途中一寸歯医者にいき、少しまだ痛いので調整して貰う。
(昭和31年4月1日)


入歯が痛いので不愉快だ。外しておく。
もう桜がチラホラ咲いている。併しまだ寒い。
時間の工合が悪いので、3時頃歯医者に行き、息子さんに義歯を調節して貰う。
(昭和31年4月2日)


午後歯医者に行ったら待たされた。しかし細かく調整してくれたので、大分よくなった。
(昭和31年4月3日)


3月28日にセットしてから4月3日までに4回も調整している。で、まだ痛いらしい。
4月3日には夜行で関西に行き、8日に帰京。

午後一寸歯医者に行き、入れ歯を調整して貰う。中々うまく行かない。
(昭和31年4月9日)


9日、社会党の国対が全国5カ所で小選挙区法案に関する地方公聴会の開催を与党自民党に要求。

夕食後歯医者に行って、今日は右の破れかけているブリッジを外す。左の義歯は殆んど完全だ。
(昭和31年4月14日)


左側の義歯がようやく成功したようだ。あとは右。

11時歯医者。ブリッジの金嵌を作るので時間がかかった。
(昭和31年4月15日)


院内歯科技工士がいるもよう。

ラジオ東京の主婦の社会科というので、議会政治の在り方につき十二分にやってくれといい、明日録音してくれというから、その草稿を書き、それから歯医者。この次で仕上げということだ。
(昭和31年4月17日)


17日、公聴会を23日に開催することを決定。矢部貞治はその公述人のひとりである。

2時半帰宅。歯医者に行く。漸くブリッジを嵌めて試すことになったが、一寸高い所があるようだ。
古井が電話してきて、小選挙区の調停問題どうなったというから、明日議長、副議長に会う旨返事。法案は通すべきだという点を強調してくれないとぶちこわしになるという。議長へ申入れの文案を書いてみる。明朝蠟山さんと協議することになっている。
夕食後もう一度歯医者に行って、噛み合せの悪いところを少し削って貰う。大分よくなった。漸く歯の治療も終末に近づきつつある。
(昭和31年4月19日)


小選挙区制導入のための公職選挙法改正も、山場を迎えつつあった。

矢部貞治の不愉快

昭和27年7月を最後に、3年ほど歯科受診から遠ざかっていた矢部貞治。
昭和30年8月、静養と原稿書きを兼ねての箱根強羅旅行で歯痛を起している。

今日とにかく文化と緑化の原稿を書かねばならぬ。どこにも出ず、一寸午睡したきりで、原稿と取組み、とにかく夕方書き上げた。
時間を集中できるから有難い。今日は又いやに早く夕食を持参した。歯痛は治らぬ。
女中さんに聞くと、歯科医は小田原まで行かねばない由。
(昭和30年8月12日)


この時、52歳。昭和30当時、強羅には歯科医院がなかったらしい。
なお、矢部貞治が書いている原稿は、国政同志会の機関誌「文化と緑化」5巻9号に掲載された「日本の政治はこれでいいか」。

歯痛があるので不快だが、爽涼さは快眠を誘うに好適で、朝など特に起きがたい。しかし5時半に起き、入浴、洗顔。机に向かう。(昭和30年8月15日)

歯痛でよく原稿が書けるものだ。私にはムリ。手首を骨折した時も原稿を書いたが、歯痛ではムリであった。アタマに近いからか。
8月19日に帰京しているが歯科受診はせず。帰郷即日、松下幸之助と「御成門のナショナル・ビル」で27年に発足した「新政経」(新政治経済研究会の機関紙、昭和41年10月にPHP研究所と合併)の対談をするなど、相変わらず多忙である。

箱根から持って帰った鱒と、早大のゼミナールの山本君が送ってくれたという素敵なたくあんで夕食していたら、参議院の法制局参事の池田文雄という人物がきて、木下広居君が講談社に頼まれて、中等学校か何かの教科書みたいなものを書くので、この監修者をやってくれという話し。
(昭和30年8月19日)


「素敵なたくあん」が食えるのであれば、大した痛みではなかったのかも。
この半年後、

按摩にやってもらって寝る。歯がうまくない。
(昭和31年2月19日)


拓殖大学関係者との信州、甲州旅行中に歯痛である。
旅行中に歯痛を起こすことが多いのはなぜなんだろうか。飛行機に乗ると歯痛を起こす知人がいるが、それは気圧との関係なのだろうが。なお、この時矢部貞治は53歳である。

夜の伊那の町をゆっくり歩いて帰宿。湯はやめて洗面所で顔を洗う。夜食をやって寝る。歯が痛い。
(昭和31年2月20日)


2月22日に帰京しているが、歯科受診は3月になってからであった。

原稿思うように進まず。夕食後はいよいよ懸案の歯医者にいく。左の方からはじめることにして、ダメになっている歯を2本抜いた。ブリッジの中にあったもの。固まるまで10日位かかるとのこと。気永にやらねばならぬ。
(昭和31年3月14日)

「左の方」を2本抜歯。左右両頬が痛んでいるらしい。

今朝は文字通り鶯の声で眼がさめた。昨夜は歯を抜いた直後だったので、酒も飲まずに寝たから、快い。
(略)
正午過ぎもう少しというところに、毎日の伊沢君から電話で自民党の選挙区案が今日の閣議で正式決定になるから夕方6時までに批評を書いてくれという。止むを得ず、指圧をやってから書く。要するに調査会案を無視するのはけしからんということを書いた。6時に伊沢君がきて注文。
夕食後夕刊を見て歯医者。1時間も待って一寸薬を塗っただけ。明日も来てくれというが夕方はいないので、朝行く事にした。
(昭和31年3月15日)


当時は鳩山内閣で、矢部貞治は昭和28年10月から選挙制度調査会委員を務めていた。

昭和30年5月26日
▲昭和30年5月26日付朝日新聞。

当時与党自民党は昭和30年の左右社会党統一&保守合同を受けて「小選挙区制導入」を計画しており、同調査会はそのためにできたものだが、

毎日の1面に僕の自民党案非難が出ている。
8時半一寸歯医者。
(昭和31年3月16日)


自民党はその選挙制度調査会案に党利党略を仕込みまくって自民党案とし、調査会から非難を浴びる。調査会案をそのまま出せば自民党内の意見も割れず、衆院を通過した可能性が高かった。

昭和31年3月16日
▲昭和31年3月16日付朝日新聞。

朝一寸歯医者。これで1週間位は固まるのを待つ。
(略)
昨日の読売夕刊「印象手帖」にも、今日の毎日朝刊「余禄」にも僕に言及し、僕が政府の党略案を憤慨しているのを大いに支持している。
(昭和31年3月17日)


なお、それまでの選挙制度は昭和21年4月の衆院選では大選挙区・制限連記制が採られ、昭和22年3月31日に中選挙区・単記制が施行されていた。鳩山一郎といえば憲法改正・再軍備・自主外交路線、でもって鳩山が小選挙区制導入に注力したのは憲法改正のため――というのが教科書的な定説である。で、昭和31年3月19日に自民党は公職選挙法改正案を出すのだが、

(「ショウジョウジのタヌキ」のメロディーで)ショーショー正気じゃない、正気じゃない証拠には、ひょうたん、飛び石、うなぎの寝床、鳩マンダーの区割りはポンポコポンノポン
(社会党「小選挙区反対の歌」)


これがいわゆる“鳩マンダー”であった。すなわち、基本を1人区としながら社会党が強くて自民党が勝てそうにない地域を2人区にするなど、あからさまに自民に有利な区割りだった。そんなこんなで党内からも批判の声が上がり、衆院は強行採決したものの参院で審議未了→廃案となるのである。鳩山一郎はこの3年後の昭和34年に死去するが、健康不良を自覚して焦ってしまったのかもしれない。健康不安は政策、いや人生をも誤らせるのである。

矢部貞治の不愉快

昭和28年は選挙イヤーであった。
3月14日に衆議院が解散し(バカヤロー解散)、4月19日(日曜日)に衆院選が行われた。
フリーの政治評論家、矢部貞治も引っ張りダコになる。

夕刊を見乍ら1盃。
無暗に方々から講義だの講演だのを申し込まれる。
一々受けていたらそれこそ脳溢血だ。
(昭和28年3月11日)

衆院選の結果、吉田茂の自由党重光葵の改進党も敗北。自由党はかろうじて与党の地位を維持したものの少数与党となり、左派政党が躍進した。無所属で出馬した尾崎“憲政の神様”行雄もこの選挙で落選しているが、94歳で出馬するというその意欲がすごい。尾崎行雄はこれを機に引退し、翌昭和29年10月6日に死去した。享年95。
辻政信も当選している。

昭和28年4月20日
▲昭和28年4月20日付朝日新聞号外。

辻政信を裁けなかったというだけでも、極東軍事裁判は公平とはいえまい。辻なんざ捕虜の人肉を食った鬼畜なのに。投票する人(約5万人!)の気が知れない。

左社が延びて、改進が不振なのも何か面白くない。
早川崇も落ちたし、清瀬幹事長も落ちている。それに植原悦二郎牧野良三砂田重政などという連中が落ちているのは、民同派というものに対する批判だろう。
(昭和28年4月20日)


とこういう矢部は社会党右派の三輪寿壮に投票している。

どうも広川に反対の投票もいいが、安井大吉という対抗馬に入れれば、つまり吉田自由党に入れることになって、僕にはできない。左社の鈴木は勿論いけない。割り切れない所もあるが三輪寿壮の他はない。
(昭和28年4月19日)


矢部はアンチ吉田茂で、毎日新聞に「吉田引退論」を書いたりしていた。また、アンチ岸信介でもあって、矢部いわく岸からも嫌われていたという。矢部貞治の信条は基本的に保守だがバランス重視のつまりは中道政治をよしとするもので、左翼も右翼も批判していた。今矢部貞治が生きていたら安倍晋三を嫌ったろうし、何より安倍一強という政治状況を批判しただろう。
その5日後、24日(金曜日)には参院選が行われ、

11時家を出て先ず参議院の投票。全国区は八木秀次、地方区は改進党の浅野均一にした。
(昭和28年4月24日)

矢部貞治は右派社会党と、改進党に投票。
矢部と改進党とは因縁浅からく、

正午丸の内ホテルに行く。今日は珍しく、澤田廉三谷正之有田八郎などという新顔も見えていた。重光さんほか常連出席。食事のあとで政局収拾につき、主として僕の発言を求められた。率直に意見を言う。賛成の様だった。
(昭和28年5月13日)


幹部会にも出席している。

帰ってから漸く朝刊を読む。改進党の動向大体僕が進言した様な方向になってきた。
(昭和28年5月16日)


昭和28年5月16日
▲昭和28年5月16日付朝日新聞。

なお、矢部は当時改進党に所属していた古井喜実とは幼馴染である。

帰ったと思ったらこんどは改進党の宮本君が来て、古井などの動き方に懸念を表していた。僕も注意していることを話しておく。
(昭和18年5月17日)


古井喜実、医療史的には医師会や厚生省の反対を押し切ってカナマイシンを保険収載させた厚生相として有名である。

少しゆっくり起きて新聞を見ていたら、三木武夫が来て、改進党大会での宣言文案を書いてくれというし、もう一度協同主義の旗を立てたいから前に僕の書いた「協同主義の政治理論」を書き直してくれという。後者は夏休みの仕事として承諾、宣言文もまあ試みに書くことにした。
(昭和28年6月3日)


「協同主義」とは全体でも個でもなく、“和の思想”に基づく人間関係のネットワークで近代の隘路を超え、しかも私有財産の否定をしないというもの。共産主義のいいとこ取りみたいな思想である。戦時中は大東亜共栄圏などの論拠ともなり、戦後は、例えば農協(農業“協同”組合)などに使用された。でまあ、経済成長率低迷の今、関係性の構築は世知辛い世の中を生き抜くための重要な手段だけれども、先ずは個を確立しないと議論も協同もできないし(ピラミッド型の人間関係=しがらみになると下層部に厄介ごとが押し付けられて終了)、カネと政治が絡めば森友・加計学園問題的なエコひいき・癒着・馴れ合い(=和の思想の悪しき面)が頻発して、最終的には経済も破綻する思う。

新聞を見てから正午に丸の内ホテルに行く。重光さんの例の会だが、重光さんは歯痛で来ず。
(昭和28年6月12日)


重光葵も歯科ギライだったようだ。この3日後の15日は改進党の党大会なのだが、歯痛は治まったのだろうか。
なお、この年末に日経新聞主催の座談会で矢部貞治は白洲二郎に会っているっぽいが、

5時半頃日本経済新聞から迎えで、座談会に行く。蠟山、白渕、小汀と僕。えらい豪華な御馳走で、謝礼も1万円貰った。車で送って貰って9時帰宅。白渕次郎という人、松本重治とよく似たタイプだ。挙措まで似ている。
(昭和28年12月18日)


日記では「白渕次郎」だ。
矢部貞治日記の原本をテキストデータ化した人が、読み間違えたのだろう。まあ、矢部先生の字のアレさを思えば止むを得まい。原本の写真を見たが、私など1行も読めやしなかった。索引がないなど不満はあるが、この日記の刊行が偉業であることは間違いない。ぜひ文庫化してほしい。

矢部貞治の不愉快

矢部貞治、47歳。
昭和25年9月に歯茎の腫れを自覚するが、

肩が凝って歯ぐきが腫れているので、午後指圧療法をやる。
(昭和25年9月9日)


放置する。
肩こりはともかく、歯痛に「指圧療法」は効くまい。
で、1年8ヶ月後にぶり返す。

歯が痛くて食事が不愉快だ。入浴し、新聞を見て、辛うじて明日の講義の下見。忙しくてやり切れぬ。
(昭和27年5月25日)


ここまで痛んでもなお歯科受診しない。多忙はわかるけれども、結局は行きたくないのである。
なお、この昭和27年4月から早稲田大学大学院政治学研究科の講師を務めている。14日が入学式で、約20人が矢部教室のニューフェイスとなった。科目名は「政治思想」である。
その講義内容は、

民主思想を中心にルソーモンテスキューミルグリーンを分担してやらせる。夏休みまでは僕が民主主義を講義する。ラスキーメリアムか、もっと新しいところかを学生と相談してきめる。博士コースはただ相談に乗るだけでよかろう。
(昭和28年4月18日)

てな感じである。オーソドックス。

歯が痛くてよく噛めないのに、肉のランチを御馳走になったせいか下痢気味で用便。
(昭和27年5月26日)


おごってくれたのは、早大政治経済学部長の中村佐一先生。「肉のランチ」とは、しょうが焼定食とかか。銀座の煉瓦亭のとんかつなら、昭和28年で130円(ライス別)だ。平成29年現在は1300円、ちょうど10倍。

決心して歯医者に行こうと思ったら、恰度旅行中だという。
(昭和27年5月31日)


翌6月1日には、「6月4日の衆議院の行政委員会で、警察法の改正案と、集団デモ取締法案に意見を言えと言って来たので」、矢部貞治はその準備に追われている。

昭和27年5月7日
▲昭和27年5月7日付朝日新聞。

このうち集団デモ取締法案(集団示威運動等の秩序保持に関する法案)は衆議院で可決されたものの、参議院では審議未了→廃止に。同法案は戦後活性化したデモなどの大衆運動にGHQがビビって自治体の公安委員会に規制を要求、各地にデモを規制する公安条例ができたことがその前段である。

毎日多忙で余裕がないので、夕方指圧を呼んでやって貰う。それから断然決心して中田歯科に行って、右の上歯のグラグラしているのを抜いて貰う。
鍋山についての一文を書いてくれと世民研に言われているのを書き始めて見たが、歯が気になって思うに任せず。
(昭和27年6月2日)


歯科受診にも「断然決心」が必要なのであった。大変にわかる。

6時に国策ビルに行く。同志会で同じ頃の連中が一度会おうというので、鈴木重郎がやっているこのビルの地下室で会合。(略)
9時頃どこかに行こうかというところを、僕だけ脱けて帰る。
歯のこともあるし、明日のこともあるので。
(昭和27年6月3日)

「鈴木重郎」は、戦前の企画院書記官で、総力戦研究所経済戦審判部の鈴木重郎か。
この「明日のこと」が、警察法改正と集団デモ取締法案について、衆院の公聴会で参考人として陳述することであった。矢部の他、田上穰治高橋雄豺牧野英一が陳述。参考人の日当は700円で、当時の歌舞伎座の観覧料(正月興行の桟敷席、オトナ1人分)と同額であった。今の貨幣価値で2万円くらいか。
「国策ビル」は千代田区有楽町国策ビルにあったビルで、森林資源総合対策協議会など農林行政関連の組織が入っていた。
「同志会」は国政同志会。「文化と緑化」という月間誌を刊行していた。

夕食後歯医者。
松下氏から民主主義の解説を簡単に書くことを頼まれ、急ぐといって来ているが、少しも気が乗らない。
(昭和27年6月4日)


「松下氏」=松下幸之助。デフレ不況の今、

薄利多売は、言い換えれば低賃金ということだ。低賃金で生産し、薄利で多く売れば、企業は一時的にもうかるかもしれないが、大勢の人びとを貧困にし、業界を混乱させ、国を貧しくする。厚利多売と高賃金が当然となったとき、わが国にも米国の繁栄と肩を並べ得る社会が実現する。
(松下幸之助、昭和27年1月の経営方針発表会での発言)


という言葉が重い。
7月2日には、工業クラブで松下幸之助らの「政治をよくする会」発起人会が行われた。百数十人が出席。7月3日には「松下氏は今度の会で、一緒に心中してくれという」。この会が後の松下政経塾なのか。

民主主義の解釈をいやいやながら書く。
夕食後入浴、歯医者、そして原稿。
(昭和27年6月5日)


敗戦直後の丸山眞男が自治体や市民集会に呼ばれて民主主義とは何かを講じたという話をラジオの放送大学で知ったが(原武史、日本政治思想史)、矢部貞治もか。

夕食後は歯医者に行って型をとって貰う。
(昭和27年6月17日)

6月17日に印象を採り、

夕食後歯医者に行く。
(昭和27年7月2日)

今日入歯ができるというので、それなら旅行前にと思ったのだが、行って見たら出来ていない。これも約束が当てにならぬ先生だ。
(昭和27年7月7日)

7月18日にセットしている。

入れ歯大体よい様だが、少しぎこちない。
(昭和27年7月18日)


「入れ歯」は、部分床義歯だろうか。セットまでひと月もかかっているのは、まだ歯科技工士が貴重な時代だからかもしれない。

矢部貞治の不愉快

左奥歯を治療中の矢部貞治。

朝歯医者に行く。帰って見たら寺田新六が神戸から上京したとて来ていて、灘の酒を持参したというので、それを飲んで夕方までつぶれる。
(昭和25年2月26日)


この日は日曜日。中田歯科、休日診療をやっている。

歯が痛くて食事が一つの苦しみだ。
(昭和25年2月27日)


自業自得である。歯痛を3ヶ月近くも放置したのだから。

栃木県の講演速記に手を入れねばならぬ。この速記は愚劣で手がつけられぬ。夕食後歯医者に行く。
(昭和25年2月28日)


3月1日、昭和24年1月の衆院選で惨敗した国民協同党の若き党首が、矢部を訪ねている。

午後2時頃三木武夫氏が来て、民主党と一緒になるについての条件を聞かれた。完全野党、社会保障、協同主義を新党の性格に加えること、党名変更。しかし大局は合同を可とすべき時機だと答う。
(昭和25年3月1日)


三木“バルカン政治家”武夫、この時42歳である。党首の役職が“書記長”であるところに時代を感じる。

昭和22年3月7日
▲昭和22年3月7日付朝日新聞。

で、国民協同党と民主党野党派が一緒になったのが国民民主党(最高委員長:苫米地義三、幹事長:三木武夫)である。

帰ってシュープのレニン伝を読む。夜歯医者。
(昭和25年3月3日)


「シュープのレニン伝」は、恐らくDavid Shub(ダヴィッド・シューブ)著「レーニンの生涯」。シューブはユダヤ人で英、露、イディッシュ語で執筆したが、矢部の読んだのは恐らく英語版。

一日シュープのレニン伝を読む。
夜は歯医者。
(昭和25年3月7日)


木村剛輔君が来て、翻訳の件で判らぬところを親切に調べてくれている。写真を撮るというので、一寸外出し、歯科大学で撮って、序でにコーヒーを飲んでから判れる。
(昭和25年3月6日)

矢部はこの頃、仕事場である「飯田橋の共済ビル」の後藤隆之助の事務所で、ハンス・ケルゼンの著作を翻訳するなどしていた。近衛文麿の伝記もここで書いている。「木村剛輔君」は木村篤太郎の息子で、後に自民党衆院議員となる。「歯科大学」は日本歯科大学か。

中曽根君が田中清玄という人物をつれて来た。共産党の背後にあるソ連攻勢が切迫していて、今度の電産ストなども破壊戦術に出る公算があるので、既に田中清玄らの防衛組織を作っているとの事で、主として猪苗代と利根川筋と木曽が問題の由。(略)
夜歯医者に行って今日で完了する予定であったところ、夕食後予告なしに鳥取から警察大学に来ている森田、植森の両警部補がやって来て、一本携帯、鳥取のかれいなど持参したので、静子も美智子も映画に行っていて弱ったが、飲んでしもう〔ママ〕。歯医者には行かず。
(昭和25年3月8日)


中曽根康弘は、反共運動に田中“昭和の怪物”清玄を使っていた。
田中正弦は安保闘争の全学連に「岸内閣打倒」行動の資金援助をしたことで有名な右翼の大物である。戦前は共産党員、しかも武装派であったが昭和5年に逮捕、獄中で転向して昭和16年に出所、戦後は徹底した反共主義者となる。が、中国で新聞を読んでいたら小平の記事があり、田中正弦と親しく付き合っていたなどと書いてあって驚いた。1980年以降何度も訪中しているとかで、好意的に書いてあったが。
矢部は中曽根康弘からこの件で「講演班」をつくるので協力をしてほしいと頼まれるのだが、

田中清玄の件、鍋山君は知らぬというし、明日の会にも出ぬという。日発から金でも取っていて、我々を動員しようとするので、不断〔ママ〕は何の関係もないのにいつでも動員されては堪らぬという。同感だ。僕もことわることにしよう。
(昭和25年3月10日)


断るつもりでいた。
で、その会合。

赤坂の松宝という家に行く。4時の約束に誰も来ておらず、遅れて中曽根君が来た。田中清玄自身は名古屋に行っているとて、三幸建設工業の伏見二郎、木下俊郎などというのが代理で来ていた。
先日の様な話が出たが、鍋山君などから問題は組合の幹部を獲得することで、それには経営者の方に識見のあるしっかりした者がタイ・アップしなければならず、その上でならということ。僕も全く同感でその筋で種々忠告。そうでないなら僕は御免ということを判然とさせておいた。
(昭和25年3月11日)


中曽根のムチャをいさめている。なお、田中清玄は当時三幸建設の社長だった。

原田日記を少し見て十時頃歯医者に行く。
(昭和25年3月12日)


「原田日記」は原田熊雄の日記。昭和5年から昭和15年まで、西園寺をめぐる政局を原田が口述、筆記させたもの。極東国際軍事裁判でも証拠として採用された。

静子を歯医者にやったが、どうしても代金を取らぬというそうだ。何か品物でもあげるほかない。
(昭和25年3月13日)

今回の歯科治療費はタダらしい。
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鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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