大川周明日記」から、愛人・栗田女史関連の記述「栗田」「河原口」(=栗田女史の疎開先)をピックアップ。今回は昭和19年11月分。

朝9時半のバスで家を出で厚木に至り、河原口に立寄る。高山君を呼んでいろいろの事を頼む。昼飯を食ってから2時の小田急に乗り3時すぎ目黒の家に着く。
(日記、昭和19年11月3日)


「目黒の家」は東京での自宅である。
4〜6日には講演のため山形に行き、

松田君がくれた塩酸キニーネ錠を服んで就寝。
(日記、昭和19年11月6日)


4日から熱を出していた。キニーネは解熱剤として服用したようだ。22日にやっと全快。
7日、東京からそのまま郷里・酒田へ。8日昼に酒田で講演し、10日午後5時半酒田発の汽車に乗り、

朝5時半上野着。児玉君が迎えに出て居てくれた。目黒の家に落ち着く。(略)
午後新宿を出で河原口で一泊。
(日記、昭和19年11月11日)


10日には汪兆銘が名古屋で客死している。が、日記に大川周明の感想はない。

3時近く喜藏君が来た。石原将軍の身辺が危いというので田中君が寄越したのだ。田中君の話では東亜連盟理論が反逆思想だと騒ぎ立てて累を及ぼしそうだとのことであるが、実は角田少佐牛島辰熊等が東条・木戸暗殺を企てたという廉で軍法会議で審判中であり、石原将軍は21日証人として出頭することになって居るのだそうだ。法廷で将軍が激越な陳述をなし、そのために舌禍を買いはせぬかと東亜連盟の諸君は心配して居るとのことだ。とにかく緒方竹虎君に手紙を書き喜藏君に届けて貰うことにする。
(日記、昭和19年11月19日)


「角田少佐」とあるが、これは津野田知重だろう。

B29約70機来襲、焼夷弾や爆弾を投下したが大した被害はない様子。唯だ研究所北寮第4寝室の屋根に砲弾の破片が落ち屋根と2階の床板を貫いて湯殿に落ちた。 4時新宿発小田急にて河原口に至り一泊。
(日記、昭和19年11月24日)


24日、マリアナ諸島からのB29本土攻撃が開始された。この日の主目標は、零戦の製作所として知られる三鷹の中島飛行機武蔵製作所。同製作所は24日から計9回の空襲を受け、従業員220人の死者が出た。が、朝日新聞では被害の詳細は報道しなかったうえ、

昭和19年11月24日
▲昭和19年11月24日付朝日新聞。

空襲当日にこんな記事を出していた。この礼賛記事が出た当日に、空襲されたわけである。皮肉。
28日には長岡温泉で、

夕食に丁度来泉中の宇垣対象を招ぎ、牛肉、鯛ちり、鮪さしみの豪華なる御馳走。
(日記、昭和19年11月28日)


宇垣一成と宴会。3月事件で裏切られた恨みはないようだ。裏切られたとも思っていないのかも。

8時8分の電車にて三嶋に向い、三嶋で(ママ)省線で小田原まで。此処で約1時間待ち10時50分の小田急で12時河原口に着き一泊。
高山君を招き大工や畳のことを相談す。
(日記、昭和19年11月29日)


東京は27、29日も空襲されている。清沢洌は日記に、こう書いた。

この焼け出されたのに対し、政府は何事もできない。隣組で食料、衣服を取敢えず与え、後はいわゆる縁者疎開させるのだそうだ。隣組とても、しかし与えるべきものは、そんなにあるはずはない。そこで被害者は「身の不幸」として「お気の毒様」だけだ。
(昭和19年11月30日、清沢洌「暗黒日記2」)


この空襲で、被害家屋は9000戸に及んだ。だが焼き尽くされ、殺されようとそこは戦場ではない。死んで階級が上るわけでも、恩給がつくわけでもなく、持たざる庶民は焼け野原に抛られるのみ。それが日本にとって初めての総力戦の、結末である。