歯技同人誌「鱓」第37号(平成19年発行)江口雄世「ごまめ十九年余を振り返って」より。鱓主催者である著者は1931年4月北朝鮮生まれ、日本敗戦と同時に帰国し、歯科材料商を経て歯科技工士になった。第一回目の特例歯科技工士試験合格者である。1961年に、京都で開業。
今回で、鱓の引用記事は最終回。
創刊昭和63年、終刊平成19年。
最終刊で在籍中の同人は38人、過去の在籍者と物故者を含めると総勢62人が文章を寄せている。歯科技工界の記録として大変貴重なものだ。こういう、生の声ほど残るのである。人の心にも、歴史にも。
記事を引用するにあたり、著作権問題をクリアするために駄文をつけたが、まあ、蛇足であった。末尾に一文程度にしておくべきだったと後悔するが、後の祭りである。
今回で、鱓の引用記事は最終回。
『いずれこの項を書く時が来ると思っていたが、ついにその時がやってきた。
私もいつの間にか歳をとってしまった。
鱓を始めた時には五十代だったのだが、いつの間にか七十半ばを過ぎてしまっている』
『同人の仲間、それに購読者の中で、旅立たれた仲間
吉岡輝雄さん 野亀直行さん 中島五郎さん 森本佳秀さん 佐竹義昌さん 川崎伸さん 松本清さん 塚上公夫さん 高橋秀治さん
心からご冥福を祈りたいと思う。
思えば、創刊号は手探り状態でした。編集では間違いだらけの同人誌だったが、同人諸氏は黙って見守ってくれ、本当に感謝したい。
吉岡輝雄さんは、若くて働き盛りに肝臓ガンで亡くなられた。彼がいなかったら、同人誌・鱓は存在しなかっただろう。というのは同人誌・鱓を作ろうと言い出したのは彼だからだ。
塚上公夫氏も発足人のお一人だが、老齢と奥さんが病に倒れられ去っていかれたが、刀剣などのご趣味があり、一度その展示会のお招きにあずかったことがある。
刀剣というより、美術品といった感じだったが、色々説明を聞かせていただいたが、彼の投稿は刀剣に関したものが多く、色々勉強をさせていただいた、
その彼も昨年お亡くなりになったが、ご家族だけの野辺送りをされたのかご案内はなく、奥さんからのお葉書でびっくりしたのは、つい最近の事だ。
ニッシンの会長をされていた佐竹さんは、書くことがお好きで、社内報や他に自主出版された中からの下の話を面白おかしく為になる「糞尿譚」のお話を沢山送っていただき、お亡くなりになった後も最終号まで掲載ができ、花を添えていただいた。
また、森本佳秀さんもご自分の書かれたエッセイを送ってくれ、その中からお亡くなりになった後も最終号まで掲載ができた』
『その彼も何十万人に一人という細胞変質の奇病にかかり、三度目の手術を受けられましたが、最後まで原稿を書かれて、その遺稿の鱓誌を見ることができなかったということは、最後の原稿を書く時は、死も目の前に来ていることが彼はわかっていたと思う。さぞかし辛かっただろうと心が痛んだ。
彼は、ものすごく文章や文法にこだわる方で、最高六回も校正したときがあった。
創刊号より、終刊まで「ちょっとそこまで」を書かれた勝田さん。京都の古今を紹介され、その文章の何処かに現在の社会を憂いている単文が入っているのは、彼らしい一面をよく表していた。
足立さんは、短い文章でもお休みなしで、家族やご自分で体感なさったことを書かれていた。
彼はボーリングが大好きで、若かりし頃は、近畿の技工士会や歯科関係のボーリング大会に行って、入賞されたのを思い出す。
三橋さんは、私が東技に招待された時にお会いしたが、電話のお声を聞く限りでは、私のような小太りの方だと思っていたが、ものすごくスリムな方だったのが印象的で、彼も同人になられて以来、休みなしに原稿を送っていた頂いたことは忘れられない。改めて、お礼を申します。
同人には、四名の女性の会員が在籍されている。
入会順には中山真美さん。続いて育ちゃん。そして菜々子さん。しんがりには橋本ヨシ子さん。
最初の頃はお二方の投稿はあったのだが、技工という仕事とお母さん仕事との共存は難しく、休稿が多くなったことは残念、しかしこれも技工という仕事上いたし方ない。
菜々子さんは奥様業だが、つい最近、お母さまを見送り、父上の看病、最終号にも原稿を送っていただき心から感謝したい』
『橋本ヨシ子さんは、昔県技のお仕事をされていたとうかがっていたが、パソコン操作を一生懸命に憶えられ、最終号は、何度かメールに挑戦され、無事に受診できた時は私もうれしくなった。
上野昇平さん。彼の絵に対する才能はシャッポを脱ぐ。彼が同人の仲間に加われてからは、本当に助かり、冊子の格が上がったことは、間違いなく心からお礼を申したい。
今年の春に、遠路わざわざ京都までいらっしゃったが、書かれている文章と同じく、実直な好青年でお住まいになっている所のお話をうかがった。
お土産の自家栽培のお米や野菜を頂戴したが、美味しいを通り越した美味で、私も田舎に住みたくなったが、彼の書いたエッセイの一文に、都会から来られた方は半年もしたら都会に戻っていかれるというのを思い出して、話を聞いて想像するのが一番幸せかもと彼が帰られたあと家内と都会か田舎かの論争になった。
でも、一度は行ってみたいところだ。
岩澤毅氏は、学者肌の方で、私が仕事を引退した時、同人の加藤雅司氏に依頼され東京歯科技工士会で技工士生活五十年の体験記の講演にお邪魔した時にお会いした。お書きになるのは我が技工士と医療関係に対する矛盾、文献と同じく何か一本筋の通った青年と感じた』
『もう一人忘れられない人物は、加藤雅司氏だ。彼は独自のドッグフード理論を完成され、OurPlanet-TVトーチプロジェクトなど、ご自分のお仕事が忙しく、鱓には過去三度投稿されたと思う。
その彼が、私の引退する年の最後の仕事の最終日、忘れもしない平成十五年十二月二十九日に私の家へうかがいたいと電話が有り、東京からカメラを提げて、新幹線の八条口に立っておられた。
そして我が家に着くなり、白黒の写真を二百枚ほど、私の人生最後の仕事姿を映されて、夜になって新幹線で帰宅された。
後日、東京歯科技工士会の講演会でこの写真を紹介されたが、私には立派な手作りの私だけの写真集をつくっていただいた。これは私の歴史が集約されたもので我が家の家宝になった。
二人の娘が「お父ちゃんが死んだ時に」と今から取り合い合戦をしている。鱓の最終号で心からお礼申し上げたい。
また、私は三十歳代の時に歯科医師会から知事賞をいただいている。だが、肝心な本職では何もそれらしきものはもらっていないので、何の足跡も残していない。
だが、先日の日技の五十周年の折に加藤氏がこの写真を展示されて、会員に配った記念CDの中に私の名前まで載っていた。特例技工士、第一回国家試験合格者が引退後に日技の中に足跡を残せたことは、加藤氏のおかげでありがとうと言いたい。
愛知の田中等さんも、一度ご家族で我が家に来られた。きさくなご家族で、初めてお会いした感じはなく、夕方までいろいろな話をしたのだが、恐らく愛知万博の話が出たと思うが思い出せない。歳は取りたくないものだ。
彼はご自分の体験記がお得意で、文才のない私でも読みやすい柔らかい文章だった。
山登りの久保三徳さんとの付き合いは、半世紀にもなるだろうか。私の結婚前からの付き合いだ。今は初老のおっちゃんだが、当時は十代半ば過ぎの青年だった。
その彼が、技工士という仕事にけじめをつけ、鍼灸学校に通って鍼灸師の免状をもらい、鍼灸師になったのはシャッポを脱ぐ。先見の明があったのだ。
彼が技工を辞め、鍼灸治療院を開設してから、時間ができたのだろう。山登りをはじめられ、日本の百名山を踏破された記事は無理をいって今号で書き上げていただいた。
恐らく、技工所を続けていれば、山登りは無理だったのではないか。
高野敬三君、私とおない歳だ。
彼の技工に対する執念は、真似ができない。多くの文献をまとめられ、発表されている。彼のお宅は嵐山の良い環境の場所で、一歩外に出ると有名な寺社にいけるところだ。彼は持病があり、嵐山は市内より三度ほど気温が低いので冬はかなわないとおっしゃっている。体が弱く長らく休稿されていたのだが、最終号だというので投稿を送ってくれた。
申し遅れたが、彼も鱓の発起人の一人だ。
田村基央さん。彼は最初の頃は投稿されていたのだが、趣味の音楽で仲間を集めてジャズなどを演奏し始めてお休みになる。
テープを送っていただいたが、本職はだしで、これでおまんまが食べられるのではないかと思った。
最後に彼の文章が見られないのは寂しい。
尾上隆夫氏。彼は元日技の専務理事で、役職を辞めてから鱓に加わってくれた。
その彼も、奥さんに先立たれ、精神的に落ち込まれていたが、男の私では何もお助けすることができないのが悔しい。
お電話では、
「江口さん。あんたも奥さんを大事にしなくては、僕と同じ目にあうよ」
と、いつも注意してくれていたが、最近は体を壊されているので気にかかる。
お酒のお好きな方だった。
大澤文雄さんは、京都の大学をお出になっている。私と同じく引揚者で、苦労をされた話をよくうかがった。
大澤さんとは鱓五号を出したぐらいに京都駅八条口の新都ホテルでご夫婦とお会いした。
東京に行ったおりも、ホテルで一緒に食事したが、我が業界や医療に関していろいろ活動されているが、そのようなエネルギーは感じられない好紳士だ。
ただ一つ、彼は毎号最終の締め切り過ぎての投稿の常習犯だった。笑い
桑村利男氏はたしか、関東で野島精一さんが主催されていた「はなことば」の同人だったと記憶している。そこが廃刊になり、鱓に加わられ、現在まで中国史や日本の古い時代のことを現在まで投稿された。
私は歴史など古い話は苦手だが、同人誌を編集していると一言一句読まねばならず、そのうちに古い話に興味を持つようになった』
『野島精一さんも、同人誌を続けたかったようだ。
技工士という仕事と複数方で編集されていたのが災いして閉刊されたようで、その後鱓に加わっていただいた。
鱓の場合、当初三人で編集していたが、中々意見が統一できず、私の独断と偏見の編集を同人諸氏が温かく容認してくれたことで長続きしたのかもわからない。
下澤正樹氏は一、二回投稿していただいた記憶がある。彼は日技の理事になられ、そちらの方で活躍されているので、その内にわが業界を背負って立つだろう。
私にとって面白いと書くと失礼だが、神戸の村田富雄さんである。圧印システムの開発など、発明のお好きな方で、パテントをたくさん持っておられると思う』
『頭の中に残っている、鱓の十九年余の思い出を書き綴りました。やはり寂しい思いもありますが、肩の荷が下りた思いもあります。今後の余生を、今までどおりのお付き合いをお願いして筆を置きます。
江口雄世(ごまめの翁)』
創刊昭和63年、終刊平成19年。
最終刊で在籍中の同人は38人、過去の在籍者と物故者を含めると総勢62人が文章を寄せている。歯科技工界の記録として大変貴重なものだ。こういう、生の声ほど残るのである。人の心にも、歴史にも。
記事を引用するにあたり、著作権問題をクリアするために駄文をつけたが、まあ、蛇足であった。末尾に一文程度にしておくべきだったと後悔するが、後の祭りである。