売文家

売文家・鈴木陽子の取材記&雑記。医療、中国が守備範囲。 コメントは承認制です。コメント非公開希望の方はその旨を書いていただければ、決して公開いたしません。

ごまめ

鱓の十九年余の思い出

歯技同人誌「鱓」第37号(平成19年発行)江口雄世「ごまめ十九年余を振り返って」より。鱓主催者である著者は1931年4月北朝鮮生まれ、日本敗戦と同時に帰国し、歯科材料商を経て歯科技工士になった。第一回目の特例歯科技工士試験合格者である。1961年に、京都で開業。
今回で、鱓の引用記事は最終回。

『いずれこの項を書く時が来ると思っていたが、ついにその時がやってきた。

私もいつの間にか歳をとってしまった。
鱓を始めた時には五十代だったのだが、いつの間にか七十半ばを過ぎてしまっている』

『同人の仲間、それに購読者の中で、旅立たれた仲間

吉岡輝雄さん 野亀直行さん 中島五郎さん 森本佳秀さん 佐竹義昌さん 川崎伸さん 松本清さん 塚上公夫さん 高橋秀治さん

心からご冥福を祈りたいと思う。
思えば、創刊号は手探り状態でした。編集では間違いだらけの同人誌だったが、同人諸氏は黙って見守ってくれ、本当に感謝したい。

吉岡輝雄さんは、若くて働き盛りに肝臓ガンで亡くなられた。彼がいなかったら、同人誌・鱓は存在しなかっただろう。というのは同人誌・鱓を作ろうと言い出したのは彼だからだ。

塚上公夫氏も発足人のお一人だが、老齢と奥さんが病に倒れられ去っていかれたが、刀剣などのご趣味があり、一度その展示会のお招きにあずかったことがある。
刀剣というより、美術品といった感じだったが、色々説明を聞かせていただいたが、彼の投稿は刀剣に関したものが多く、色々勉強をさせていただいた、
その彼も昨年お亡くなりになったが、ご家族だけの野辺送りをされたのかご案内はなく、奥さんからのお葉書でびっくりしたのは、つい最近の事だ。

ニッシンの会長をされていた佐竹さんは、書くことがお好きで、社内報や他に自主出版された中からの下の話を面白おかしく為になる「糞尿譚」のお話を沢山送っていただき、お亡くなりになった後も最終号まで掲載ができ、花を添えていただいた。

また、森本佳秀さんもご自分の書かれたエッセイを送ってくれ、その中からお亡くなりになった後も最終号まで掲載ができた』

『その彼も何十万人に一人という細胞変質の奇病にかかり、三度目の手術を受けられましたが、最後まで原稿を書かれて、その遺稿の鱓誌を見ることができなかったということは、最後の原稿を書く時は、死も目の前に来ていることが彼はわかっていたと思う。さぞかし辛かっただろうと心が痛んだ。
彼は、ものすごく文章や文法にこだわる方で、最高六回も校正したときがあった。

創刊号より、終刊まで「ちょっとそこまで」を書かれた勝田さん。京都の古今を紹介され、その文章の何処かに現在の社会を憂いている単文が入っているのは、彼らしい一面をよく表していた。

足立さんは、短い文章でもお休みなしで、家族やご自分で体感なさったことを書かれていた。
彼はボーリングが大好きで、若かりし頃は、近畿の技工士会や歯科関係のボーリング大会に行って、入賞されたのを思い出す。

三橋さんは、私が東技に招待された時にお会いしたが、電話のお声を聞く限りでは、私のような小太りの方だと思っていたが、ものすごくスリムな方だったのが印象的で、彼も同人になられて以来、休みなしに原稿を送っていた頂いたことは忘れられない。改めて、お礼を申します。

同人には、四名の女性の会員が在籍されている。
入会順には中山真美さん。続いて育ちゃん。そして菜々子さん。しんがりには橋本ヨシ子さん。
最初の頃はお二方の投稿はあったのだが、技工という仕事とお母さん仕事との共存は難しく、休稿が多くなったことは残念、しかしこれも技工という仕事上いたし方ない。
菜々子さんは奥様業だが、つい最近、お母さまを見送り、父上の看病、最終号にも原稿を送っていただき心から感謝したい』

『橋本ヨシ子さんは、昔県技のお仕事をされていたとうかがっていたが、パソコン操作を一生懸命に憶えられ、最終号は、何度かメールに挑戦され、無事に受診できた時は私もうれしくなった。

上野昇平さん。彼の絵に対する才能はシャッポを脱ぐ。彼が同人の仲間に加われてからは、本当に助かり、冊子の格が上がったことは、間違いなく心からお礼を申したい。
今年の春に、遠路わざわざ京都までいらっしゃったが、書かれている文章と同じく、実直な好青年でお住まいになっている所のお話をうかがった。
お土産の自家栽培のお米や野菜を頂戴したが、美味しいを通り越した美味で、私も田舎に住みたくなったが、彼の書いたエッセイの一文に、都会から来られた方は半年もしたら都会に戻っていかれるというのを思い出して、話を聞いて想像するのが一番幸せかもと彼が帰られたあと家内と都会か田舎かの論争になった。
でも、一度は行ってみたいところだ。

岩澤毅氏は、学者肌の方で、私が仕事を引退した時、同人の加藤雅司氏に依頼され東京歯科技工士会で技工士生活五十年の体験記の講演にお邪魔した時にお会いした。お書きになるのは我が技工士と医療関係に対する矛盾、文献と同じく何か一本筋の通った青年と感じた』

『もう一人忘れられない人物は、加藤雅司氏だ。彼は独自のドッグフード理論を完成され、OurPlanet-TVトーチプロジェクトなど、ご自分のお仕事が忙しく、鱓には過去三度投稿されたと思う。
その彼が、私の引退する年の最後の仕事の最終日、忘れもしない平成十五年十二月二十九日に私の家へうかがいたいと電話が有り、東京からカメラを提げて、新幹線の八条口に立っておられた。
そして我が家に着くなり、白黒の写真を二百枚ほど、私の人生最後の仕事姿を映されて、夜になって新幹線で帰宅された。
後日、東京歯科技工士会の講演会でこの写真を紹介されたが、私には立派な手作りの私だけの写真集をつくっていただいた。これは私の歴史が集約されたもので我が家の家宝になった。
二人の娘が「お父ちゃんが死んだ時に」と今から取り合い合戦をしている。鱓の最終号で心からお礼申し上げたい。
また、私は三十歳代の時に歯科医師会から知事賞をいただいている。だが、肝心な本職では何もそれらしきものはもらっていないので、何の足跡も残していない。
だが、先日の日技の五十周年の折に加藤氏がこの写真を展示されて、会員に配った記念CDの中に私の名前まで載っていた。特例技工士、第一回国家試験合格者が引退後に日技の中に足跡を残せたことは、加藤氏のおかげでありがとうと言いたい。

愛知の田中等さんも、一度ご家族で我が家に来られた。きさくなご家族で、初めてお会いした感じはなく、夕方までいろいろな話をしたのだが、恐らく愛知万博の話が出たと思うが思い出せない。歳は取りたくないものだ。
彼はご自分の体験記がお得意で、文才のない私でも読みやすい柔らかい文章だった。

山登りの久保三徳さんとの付き合いは、半世紀にもなるだろうか。私の結婚前からの付き合いだ。今は初老のおっちゃんだが、当時は十代半ば過ぎの青年だった。
その彼が、技工士という仕事にけじめをつけ、鍼灸学校に通って鍼灸師の免状をもらい、鍼灸師になったのはシャッポを脱ぐ。先見の明があったのだ。
彼が技工を辞め、鍼灸治療院を開設してから、時間ができたのだろう。山登りをはじめられ、日本の百名山を踏破された記事は無理をいって今号で書き上げていただいた。
恐らく、技工所を続けていれば、山登りは無理だったのではないか。

高野敬三君、私とおない歳だ。
彼の技工に対する執念は、真似ができない。多くの文献をまとめられ、発表されている。彼のお宅は嵐山の良い環境の場所で、一歩外に出ると有名な寺社にいけるところだ。彼は持病があり、嵐山は市内より三度ほど気温が低いので冬はかなわないとおっしゃっている。体が弱く長らく休稿されていたのだが、最終号だというので投稿を送ってくれた。
申し遅れたが、彼も鱓の発起人の一人だ。

田村基央さん。彼は最初の頃は投稿されていたのだが、趣味の音楽で仲間を集めてジャズなどを演奏し始めてお休みになる。
テープを送っていただいたが、本職はだしで、これでおまんまが食べられるのではないかと思った。
最後に彼の文章が見られないのは寂しい。

尾上隆夫氏。彼は元日技の専務理事で、役職を辞めてから鱓に加わってくれた。
その彼も、奥さんに先立たれ、精神的に落ち込まれていたが、男の私では何もお助けすることができないのが悔しい。
お電話では、
「江口さん。あんたも奥さんを大事にしなくては、僕と同じ目にあうよ」
と、いつも注意してくれていたが、最近は体を壊されているので気にかかる。
お酒のお好きな方だった。

大澤文雄さんは、京都の大学をお出になっている。私と同じく引揚者で、苦労をされた話をよくうかがった。
大澤さんとは鱓五号を出したぐらいに京都駅八条口の新都ホテルでご夫婦とお会いした。
東京に行ったおりも、ホテルで一緒に食事したが、我が業界や医療に関していろいろ活動されているが、そのようなエネルギーは感じられない好紳士だ。
ただ一つ、彼は毎号最終の締め切り過ぎての投稿の常習犯だった。笑い

桑村利男氏はたしか、関東で野島精一さんが主催されていた「はなことば」の同人だったと記憶している。そこが廃刊になり、鱓に加わられ、現在まで中国史や日本の古い時代のことを現在まで投稿された。
私は歴史など古い話は苦手だが、同人誌を編集していると一言一句読まねばならず、そのうちに古い話に興味を持つようになった』

『野島精一さんも、同人誌を続けたかったようだ。
技工士という仕事と複数方で編集されていたのが災いして閉刊されたようで、その後鱓に加わっていただいた。
鱓の場合、当初三人で編集していたが、中々意見が統一できず、私の独断と偏見の編集を同人諸氏が温かく容認してくれたことで長続きしたのかもわからない。

下澤正樹氏は一、二回投稿していただいた記憶がある。彼は日技の理事になられ、そちらの方で活躍されているので、その内にわが業界を背負って立つだろう。

私にとって面白いと書くと失礼だが、神戸の村田富雄さんである。圧印システムの開発など、発明のお好きな方で、パテントをたくさん持っておられると思う』

『頭の中に残っている、鱓の十九年余の思い出を書き綴りました。やはり寂しい思いもありますが、肩の荷が下りた思いもあります。今後の余生を、今までどおりのお付き合いをお願いして筆を置きます。

江口雄世(ごまめの翁)』


創刊昭和63年、終刊平成19年。
最終刊で在籍中の同人は38人、過去の在籍者と物故者を含めると総勢62人が文章を寄せている。歯科技工界の記録として大変貴重なものだ。こういう、生の声ほど残るのである。人の心にも、歴史にも。
記事を引用するにあたり、著作権問題をクリアするために駄文をつけたが、まあ、蛇足であった。末尾に一文程度にしておくべきだったと後悔するが、後の祭りである。




「歯科医療物製造業」の法的位置づけ

歯技同人誌「鱓」第37号(平成19年発行)内藤達郎「“消費税に関して歯科技工は歯科医療物製造業”は誤りか? (最高裁判決が意味するもの)」より。
著者は1941年、広島市生まれの開業歯科技工士。
1988年広島県歯科技工士会会長、2000年広島大学法学部卒業、2005年同大大学院社会科学研究科修士課程修了。著書に「歯科の歴史への招待」「石内の四季写真集」「社会保障の市場化・営利化と医療制度改革の方向」など。
参考:内藤達郎のコラム「たっちゃんの関連法規」

『歯科技工とは、歯科医師等から依頼を受けて、指示書に基づき、材料業者から購入した樹脂材を自己の機械で熱加工して、これに業者から購入した人工歯やクラスプ等を結合させるなどして、自己の責任と計算において義歯を作成し、歯冠修復物などとともに歯科医師に納品することなどをいう。

簡易課税制度の適用上、これが第三種事業である製造業に該当するのか、それとも、第五種事業であるサービス業に該当するのかが問題となる。
消費税法および施行令は、製造業、あるいはサービス業の具体的内容について格別規定しておらず、したがって、各事業の課税範囲は、それぞれの業務内容によって「みなし仕入れ率」などが分別されるべきものであって、職業区分や社会通念に照らして判定されるものではない。

つまり、製造業とサービス業の範囲は、日本標準産業分類の分類は行政組織内部の規範にすぎず、事業の範囲の判定について絶対的な基準を示しているわけではないのである。
この歯科技工所を大分類L-サービス業、中分類88-医療業に分類しているのであって、これによれば、本体事業はサービス業に該当し、製造業には該当しないことになる。

材料を購入し、自己の責任と計算により義歯などを作成し、これを納品しているのであるから、その作業工程からすれば、本件事業は、業務内容上、製造業というべきである旨主張する。しかし、この主張が最高裁によって退けられたのである。

この度の最高裁判決は次のようなことを根拠にしていると思われる。
「日本標準産業分類は、社会通念に基づく客観的なものということができるのであって、簡易課税制度の公平な適用という観点からしても、当該日本標準産業分類の大分類に掲げる分類を基礎として、事業の範囲を判定することは、一応合理的なものということができる。」
「歯科技工は、免許を受けた歯科技工士でなければ、業として行うことができないとされ、また、設計、作成の方法、使用材料等が記載された指示書によらなければならないとされるのは、これを行うには相当高度な専門知識、技能・技術が必要とされるためだけでなく、歯科技工士は歯科医師の補助者として、歯科医療行為の一環としてこれを行うことによるものであるから、たとえ材料を購入し、その技術を駆使して義歯などを作成しているとしても、本件事業の本質は、歯科医師が患者に対してする医療行為と同様、専門的な知識、技能等を提供することにあるということができ、以上からすると、本件事業は、社会通念上もサービス業に該当すると解するのが相当である。」

この最高裁判決により、歯科技工は一般製造業としての立場は否定された。しかし、一応合理的とされる日本標準産業分類を根拠として、そしてさらに社会通念上サービス業とされる歯科医療の補助者である歯科技工士による歯科技工は、歯科医療物の製造者という立場は厳然として存在している。そしてそれは現在も連綿として反復継続して行われているのである。

サービス業としての実態に乏しい歯科技工士は、まさに社会通念上歯科医療物の製造者以外の何ものでもない。サービス業である歯科医療行為の一環であっても、そのなかに製造部門があっても不思議ではないのである。
医療界において「医療物」の概念は確立されて入るが、その一分野を担う歯科医療における「歯科医療物」の定義と法的裏付けのあいまいさが、医療に疎い裁判官によるこのような“狭義”を生んだと思えてならない。

また、製造業か否かというオール・オア・ナッシングを求めた、この度の裁判方法も少々稚拙といわれても仕方がない。「歯科医療物」という特殊性をもっと全面に出すべきであった。そもそも消費税課税対象の概念は、業務内容によって区分されるものであって、標準作業分類はその参考に過ぎない。

製造部門を内在する一般小売業者が、製造と販売の二本立てで消費税の申請をしているのは、極々日常的な行為である。(例えば、コロッケを加工製造し販売する精肉商など)
各地区の商工会は、これらのことを普遍的に指導し、節税に努めているのである。
私たちは、一般論でいう「製造業」ではないところの、「歯科医療物製造業」の法的位置づけにもっと関心を持たなければならない』


確かに。
どうも、歯科技工界には医療業のほうが製造業よりもステイタスが高い、と思われているフシがある。確かにその苦境は保険制度における位置づけの不明確さが原因なのだから無理もないことだが、しかし“保険制度における位置づけの不明確さ”と歯科技工の業種の如何は、無関係である。関係があるのは、歯科医療の社会化だろう。
また、モノなくしてサービスは成立しない。
ってなことを、営業に言ったことがある。出版社や新聞社において編集と営業はライバル関係にあり、編集は自らが手掛けたモノあっての営業力だと思っているし、営業はカネを持ってくるのは自分だと主張して、両者はぶつかりあうのである。編集はモノの完成度を、営業は一番カネになる時期と方法を極めるもので、両者はほとんど一致しないから。このあたりの拮抗が横山秀夫「クライマーズ・ハイ」によく描かれていたが、それはともかく。
製造業もサービス業も実は対等かつ協力関係にあるのだし、そんなカテゴライズ自体、無意味なものかもしれない。学ぶべきは「一般小売業者が、製造と販売の二本立てで消費税の申請をしている」という庶民の知恵であって、官僚の都合を忖度しても時間のムダなのであろう。税金に関しては、特に。

技工士は患者さんの口腔内を一単位として各部の補綴物を作る

歯技同人誌「鱓」第37号(平成19年発行)高野敬三「歯科技工は製造業か医療業か」より。著者は昭和6年京都市生まれの開業歯科技工士。

『歯科技工士は、製造業に従事していると認識している人がいます。私は、それには反対で、歯科技工士は医療業を営んでいると考えたいと思っています。
例えば、技工士会の前身である技工所連盟の頃には、サンプラ冠が多数を占めていました。そのせいか、一日の製作個数を競うような風潮がありまして、一日十個が限界とされていたのが、四十個もつくる人が出てきました。今でも単価を出す時に、時間をかける事で表示することがなされていますが、これでは製造業のごとく同じものを数多くつくればいいというイメージで技工を考えていることになります。
しかしながら、高額な材料や設備費のお金、研修費は誰が払ってくれるのでしょう。技工料は、技工士の人件費ではないはずです。
技工というのは、本来は、患者のための医療行為なのです。だからこそ一個一個の手作りになるわけですから、技工士は患者さんの口腔内を一単位として各部の補綴物を作るのだ、ということを念頭に置いて作業をしているはずです。
すなわち、技工士は、一日に何個つくれるかというよりも、いかに患者さんのためにより良いものを作れるか、ということを何より優先するわけですから、そのための経費はきちんと請求するべきだと考えます。
技工が医療業ということであれば、歯科技工士の職業はサービス業に属していることになります。そうなれば、一個いくらではありません。良い仕事(サービス)をしたら、良い見返り(対価)を支払う側に要求するべきです。もっといえば、そのことに関して制度的に何らかの不備があると感じたならば、技工士自らが国(政府)に要求するように働きかける努力をするべきだと思います』


製造業が「同じものを数多くつくればいいというイメージ」になったのは最近の話。私の母は服職人だったが、それこそ「一個一個の手作り」であったし、歯科でいえば印象にあたるであろう採寸も、決して人に任せたりはしなかった。
さて、歯科技工は医療業か、製造業か。どちらの職業的ステイタスが上か、という議論であれば完全にナンセンスだが、一方で、この皆保険制度の国で生き残りたいのであれば医療業としての社会化を主張すべきだとも思う。母のような職人、さらにあらゆる製造業がこの日本で衰退したのは、社会化に失敗したからである。医療、教育、軍事などは社会化したから日本で生き残ったのであり、そうでなかったらとっくに海外にアウトソーシングされ、淘汰されていたはずだ。
医療は社会化を目指し、皆保険制度となった。しかし歯科医療は不完全に社会化され、その不完全な社会化に最も苦しんでいるのが歯科技工士だろう。歯科医師も、その後を追いつつあるが。

「歯科技工法」から「歯科技工士法」へ

歯技同人誌「鱓」第37号(平成19年発行)高野敬三「歯科技工士法について」より。著者は昭和6年京都市生まれの開業歯科技工士。

『歯科技工士は歯科医の代理行為をしている人達である。そう考えられていた時代がありました。そのためか、技工料の決定権は歯科医にあり、技工士は単に歯科医の補助者であるかのような待遇を受けました。技工士自身すら、それを仕方がない事とあきらめていたように思います。
そして、長すぎる労働時間と少ない収入、それを改善しようにもあまりにも弱すぎる発言力、それらは技工士を長い間苦しめました。
それを解決するための一助となればと考えたのが、「歯科技工法」から「歯科技工士法」への改正でした。
たった一字の事と思われる方もおられましょうが、「歯科技工法」では、義歯の設計、材料の選択、仕事の数量、納期から技工料にいたるまで、すべて歯科医の指示通りにしなければいけません。技工士の意志は、その中に含まれないのです。「歯科技工法」では、技工士は技工という仕事に従う人、という意味合いしかないのです。
それを、「歯科技工士法」とすることで、歯科技工士とは意志をもって歯科医療の一環を担う人だという認識が持てます。その認識を法的にも、そして歯科技工に従事する本人達にも持って欲しいと考えました。
そのような事を考えてはみたものの、一歯科技工士にはなかなか発表の機会は与えられませんでした。しかし、幸い、京都の江口雄世氏が発刊されている同人誌「ごまめ」に私の意見を何回か載せていただくことがあり、たくさんの方々の賛同と協力を得ることができました。そして、結果的には、衆議院の伊吹文明氏のお力添えをいただきまして、平成六年一月二十六日午後一時九分、第一二八回臨時国会において、「歯科技工士法」が全会一致で可決成立する事になりました』


そもそも、なぜ歯科技工法であって歯科技工士法ではなかったのか。
以下は歯科技工法案を審議する、昭和30年7月11日衆議院社会労働委員会会議録要約からの抜粋(傍線筆者)。

委員
歯科診療の枠内における一部分担の考え方か、あるいは歯科技工士を作りさらに行く行くの問題としては歯科技工士を診療の一部から切り離した考え方に発展させようという基本的な態度であるが。

医務局次長
歯科技工が広い意味での、つまり通俗的な意味での歯科医療の一部であるというふうに考えられることは当然でございますが、法律的にいういわゆる歯科医療、この中には含まないと、かように考えておるわけでございます。

委員
この法律にいいます歯科技工といいますのは、歯科医療の外にあって、ただし歯科診療に必要なる器具を作るということだと私は思うのでありますが、さようでありますか。

医務局次長
世間的にいわゆる通俗的に考えねば、これは歯科診療のうちの重要な一部分を担当するものであるというふうに言われると思いますけれども、法律的な観念として考えれば歯科医療あるいはこれに即応する言葉で表されるところのものとしては含まれない。
(日本歯科医師会「日本歯科医事衛生史」1969年)


「法律的」な歯科医療に、歯科技工は含まれない。
しかし、あくまで「通俗的な意味での歯科医療の一部」に押しとどめておきたい。
なぜなら、歯科技工法は歯科技工士による歯科医療への侵食(代診行為)を規制するためのものだから。だからこそ、法に人格は持たせない――というところだろうか。技工士法ではなく、技工法とした意味は。
もうひとつ重要なのは、なぜ歯科技工が「法律的にいういわゆる歯科医療、この中には含まない」のかである。つまり、これは補綴を全部保険でカバーする気はない、という国の表明だろう。

委員
将来厚生省の見方としては、歯科技工士が歯科治療の領域に入ってくるおそれというものは全然ない。こういうお考えのようでありますが、しかし私は、その考え方は甘いと見ております。これは実際に現在の社会保険の状態から見て、補綴というものが非常に大きな社会保険の比重を占めておることは御承知の通り、しかも特に大きなものとして保険治療から締め出そうとして、何か中央医療協議会では、それが問題になっておると言われておる金冠の問題、こういうものとの関連から考えた場合には、これは私は必らず社会保険ではだんだん押さえられてくるということになれば、簡単に歯科技工所にいって、治療ではなく装飾的な入歯というようなものは、これは簡単に行われる可能性が出てくるということなのであります。それはどういうことになりますか。

医務局次長
歯科の技工士が歯科医師的な歯科医療に関する業務を行うことを防止する点につきましては、この法におきまして、あらゆる万全の規定を置いたつもりであります。
(同)


歯科技工法制定にあたり日本歯科医師会が要請したのは、保険外補綴が歯科技工士に流れないようにすることだったのだろう。そして、それは国と日歯双方の了解事項である“補綴の保険はずし”を前提にしていた。保険外薬剤を自由に調剤できる薬剤師のように独立させれば、自費補綴は歯科技工士のものになってしまう――それを防ぐための法的規制が歯科技工法であり、歯科技工士法ではなかったのだろう。

毛利という日歯の専務理事

歯技同人誌「鱓」第37号(平成19年発行)大澤文雄「あるある いくらでもある」より。著者は1932年ソウル生まれ、東京在住、「保険で良い歯科医療を」全国連絡会の世話人を務めていた歯科技工士。

『もう十数年前に
「ポリサルフォン」
義歯が華々しく歯科界に登場したことがある。普通歯科材料等は長年の研究の積み重ねと臨床実験を経なければなかなか厚労省の認可が得られないものだが、この材料はどういうわけか短時日に認められた上保険にも搭載されるという早業で、しかも従来のアクリル床の二倍の点数がつくことになった。ところが、この材料を使用して義歯をつくる機械システムや材料そのものも新潟の一企業が独占権を持っていて、そのルート以外では手に入らないという』


スルフォン床義歯が保険収載されたのは1981年。
「新潟の一企業」とは、沖歯科要材株式会社
創立者は木暮山人。1989年から参議院議員(2期)。
参考:歯友会歯科技術専門学校の思い出

『日歯はこれを推奨することを決め、日技に対して承諾書に連署することを強力に求めてきたのである。特に熱心だった毛利という日歯の専務理事が日技の酒井会長(当時)に原文を示して急ぎ諒解するよう迫った』


「毛利という日歯の専務理事」とは、大分県歯科医師会の毛利彊会長(当時)。

『酒井会長は不快であったが、日歯と対立することが将来「直接請求」など懸案の課題達成に支障を来たすことをおそれた。当時、私は日技の一常務であった。日技の緊急理事会が開かれ、三役は調印すべきかどうか諮った。多くの役員は黙して語らなかった。私はその協定書の一字一句に込められた怪しげな魂胆を見抜いた。そこには開発した企業の利権に伴う莫大な利益とそれによってもたらされる日歯の利得が明らかに読み取れた。実はその企業の創始者はほかならぬ参議院議員の木暮山人で、彼が厚生省と強力な絆で結ばれていることは明白であった。私は今思い出しても戦慄を覚えるほど強い口調でこの同意書には署名すべきではないときっぱり発言した。各条項の不当性を告発し、技工士にとっては何のメリットもないと主張した。一部の甘い利益を予想した人や、日歯との衝突を危惧する役員から疑義が出されたが、私の迫力に対して比較にならないほど小声であった。その空気を察した佐野専務(当時)は、
「これは拒否することにしましょう」
と宣言した。
翌日、酒井会長から日歯の毛利専務がすごい剣幕で書類を破り捨てたことを知らされた。酒井氏がどんなに苦い思いをされたか、今考えると気の毒でならないけれども、後になってこの選択が正しかったことが明らかになったことで、私は酒井氏をはじめ日技全体を守ることができたと自負している。
ポリサルフォンはその材質の劣悪性が証明されて、歯科界から消えていった。多額の権利を買ってこのシステムを採用した技工所のほとんどが気の毒にも損害を被った。毛利氏は歯冠材料金属の不正使用請求で失脚し、木暮山人氏は病没して消えていった。この流れの中で甘い汁を吸ったはずの厚生官僚は知らぬ顔である』


「歯冠材料金属の不正使用請求」とは、1982年に発覚したニッケルクロム不正請求事件。ニッケルクロム合金は1983年に保険収載されたが、「その材質の劣悪性が証明されて」、1991年末に厚生省は各メーカーに製造自粛を要請している。しかし現在も、ニッケルクロム合金は保険収載されたままである。

参考:新村勝雄議員「歯科材料の製造認可基準と保険導入手続き及び補綴技術料に関する質問主意書」

対する答弁書

答弁書によると「ポリサルホン樹脂有床義歯の保険導入に当っては、社団法人日本歯科医師会の意見を聴くとともに、中医協の議論を踏まえ、入念な審査が行われたものである。なお、日本補綴歯科学会は、社団法人日本歯科医師会に置かれており、その意見は、従来から、社団法人日本歯科医師会の意見に反映されているものと認識している。 今後ともこのような考え方で対処してまいりたい」そうだ。
また、「近い将来零細歯科技工所が経営困難に陥り、廃業や転職が進行するとは考えていない」そうである。
平成3年の時点で。
この確信犯っぷり、日歯や木暮山人以上にタチが悪い。
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Profile
鈴木陽子
20代までを肉体労働と旅に明け暮れ、旅行誌に紀行を連載したのをきっかけに30歳で売文家業に。中国情報系新聞の記者、男性向けフリーペ−パー編集者、書籍のゴーストライター、映画や芸能評論、歯科業界紙や医療機材メーカーの広告、患者向け医療ガイドなど、来るもの拒まず執筆中。
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