東京で生まれ育った私が、天文台とプラネタリウムで仕事をするために岐阜県藤橋村に移住してから30年が過ぎました。
その後、娘の進学やその他の事情により、もう少し揖斐川下流域の大野町に転居したのですが、今回は超がつく田舎である藤橋村(現在は町村合併により揖斐川町となっています)での暮らしぶりを書いてみようと思います。
美しい星空を求めて田舎へ移住したい方はけっこう多いと思いますので、参考になれば嬉しいです。
藤橋村は、木曽三川のひとつである揖斐川最上流部、福井県との県境にある人口450人の小さな村でした。
人口450人というだけで「すごいなー」と思われると思いますが、面積は名古屋市とほぼ同じでした。
面積の97%が森林であり、その当時、人口密度が日本一低い村だったのです。

村の人口は、東横山、西横山の2集落に集中していました。
役場などの公共施設も横山地区にあり、その他の地区はほぼ無人でした。
村の中央を揖斐川が貫流し、そんな揖斐川に沿って国道417号線が、南北に走っていました。
私は妻と娘とともに面積70坪、平屋建ての村営住宅に住んでいましたが、当時の家賃は月12,000円と破格で、住宅の内外装や風呂などの設備が破損した場合でも役場の方で修繕してもらうことができました。
ただし、トイレは汲み取り式。
後に下水が完備されて町と変わらなくなりましたが、都会から拙宅を訪れた友人などにとってはかなりの驚きだったようです。
気候としては日本海側の気候に属し、冬は時として2mを越える積雪がある豪雪地帯でした。
公共交通は一日4往復の近鉄バスがありましたが、自家用車の利用が主体となっていました。
冬期はかなりの雪が降りますので、車は4WDとスタッドレスタイヤが必須、それでも国道は完全2車線で除雪もしっかりなされていましたから、さほどの不便は感じませんでした。
村内にお店は一軒。
食品から雑貨まで何でも売っており、その他に移動店舗も週に2回程度は来ていましたので、車のないお年寄りでもなんとか暮らすことは可能でした。
ただ、いわゆる「遊ぶ場所」は全くなく、住民の方は買い物も含めて最も近い揖斐川町まで車で出かけることが通常でした。
健康保持に関しては、国保診療所がありましたので、よほどのことがない限り、病気になっても問題はありませんでした。
村立の保育園、小中学校もあり、教育環境も整備されていました。
村内に働く場所はほとんどなく、多くの方は揖斐川町以南まで毎日自家用車で通勤していました。
私は役場勤務だったとはいえ、職場である天文台やプラネタリウムまでは北へ車で20分ほどかかりますので、毎日役場から公用車で職場まで往復していました。
自然環境に関しては最高でした。
何といっても面積の97%が森林なのです。
加えて町からも遠く、光害はほぼ皆無。
天文を趣味とする私にとっては最高の環境でした。
ただ冬期はほぼ毎日が降雪で、観測できない日が多かったことが唯一残念なことでした。

職場である天文台には、60cm反射望遠鏡が設備されていました。
当時は珍しかった冷却CCDカメラなどの最新観測機器もそろっており、私が東京から移住してすぐにSL9の木星衝突が起こり、その後も続けて百武彗星、ヘール・ボップ彗星が明るくなったことから、本格的な観測を行える環境の下で天文ライフを満喫することができたのは有難いことでした。
私は星と自然が好きでしたから、こんな藤橋村での生活がとても楽しかったのですが、そうしたものに興味のない一般の方にしてみれば何とも退屈極まりない山中の集落だったと思います。
その後、大野町に転居した後も藤橋への通勤は続きました。
今は定年退職しましたので、藤橋村へは天体観測やツーリング、自然探索で訪れる程度ですが、それでも藤橋村は、私にとって特別の場所となっています。
少し前に半田舎への移住を勧める記事も書きましたが、本当に星空をライフワークとして楽しんでみたい方は、藤橋村のような超ド田舎で星と自然を友として暮らしてみるのも楽しいのではないかなと思います。
今回は、極限の星空移住とも言うべき藤橋村での暮らしについて書いてみました。
皆さんの参考になれば幸いです。
写真:藤橋村の航空写真・60cm反射望遠鏡
その後、娘の進学やその他の事情により、もう少し揖斐川下流域の大野町に転居したのですが、今回は超がつく田舎である藤橋村(現在は町村合併により揖斐川町となっています)での暮らしぶりを書いてみようと思います。
美しい星空を求めて田舎へ移住したい方はけっこう多いと思いますので、参考になれば嬉しいです。
藤橋村は、木曽三川のひとつである揖斐川最上流部、福井県との県境にある人口450人の小さな村でした。
人口450人というだけで「すごいなー」と思われると思いますが、面積は名古屋市とほぼ同じでした。
面積の97%が森林であり、その当時、人口密度が日本一低い村だったのです。

村の人口は、東横山、西横山の2集落に集中していました。
役場などの公共施設も横山地区にあり、その他の地区はほぼ無人でした。
村の中央を揖斐川が貫流し、そんな揖斐川に沿って国道417号線が、南北に走っていました。
私は妻と娘とともに面積70坪、平屋建ての村営住宅に住んでいましたが、当時の家賃は月12,000円と破格で、住宅の内外装や風呂などの設備が破損した場合でも役場の方で修繕してもらうことができました。
ただし、トイレは汲み取り式。
後に下水が完備されて町と変わらなくなりましたが、都会から拙宅を訪れた友人などにとってはかなりの驚きだったようです。
気候としては日本海側の気候に属し、冬は時として2mを越える積雪がある豪雪地帯でした。
公共交通は一日4往復の近鉄バスがありましたが、自家用車の利用が主体となっていました。
冬期はかなりの雪が降りますので、車は4WDとスタッドレスタイヤが必須、それでも国道は完全2車線で除雪もしっかりなされていましたから、さほどの不便は感じませんでした。
村内にお店は一軒。
食品から雑貨まで何でも売っており、その他に移動店舗も週に2回程度は来ていましたので、車のないお年寄りでもなんとか暮らすことは可能でした。
ただ、いわゆる「遊ぶ場所」は全くなく、住民の方は買い物も含めて最も近い揖斐川町まで車で出かけることが通常でした。
健康保持に関しては、国保診療所がありましたので、よほどのことがない限り、病気になっても問題はありませんでした。
村立の保育園、小中学校もあり、教育環境も整備されていました。
村内に働く場所はほとんどなく、多くの方は揖斐川町以南まで毎日自家用車で通勤していました。
私は役場勤務だったとはいえ、職場である天文台やプラネタリウムまでは北へ車で20分ほどかかりますので、毎日役場から公用車で職場まで往復していました。
自然環境に関しては最高でした。
何といっても面積の97%が森林なのです。
加えて町からも遠く、光害はほぼ皆無。
天文を趣味とする私にとっては最高の環境でした。
ただ冬期はほぼ毎日が降雪で、観測できない日が多かったことが唯一残念なことでした。

職場である天文台には、60cm反射望遠鏡が設備されていました。
当時は珍しかった冷却CCDカメラなどの最新観測機器もそろっており、私が東京から移住してすぐにSL9の木星衝突が起こり、その後も続けて百武彗星、ヘール・ボップ彗星が明るくなったことから、本格的な観測を行える環境の下で天文ライフを満喫することができたのは有難いことでした。
私は星と自然が好きでしたから、こんな藤橋村での生活がとても楽しかったのですが、そうしたものに興味のない一般の方にしてみれば何とも退屈極まりない山中の集落だったと思います。
その後、大野町に転居した後も藤橋への通勤は続きました。
今は定年退職しましたので、藤橋村へは天体観測やツーリング、自然探索で訪れる程度ですが、それでも藤橋村は、私にとって特別の場所となっています。
少し前に半田舎への移住を勧める記事も書きましたが、本当に星空をライフワークとして楽しんでみたい方は、藤橋村のような超ド田舎で星と自然を友として暮らしてみるのも楽しいのではないかなと思います。
今回は、極限の星空移住とも言うべき藤橋村での暮らしについて書いてみました。
皆さんの参考になれば幸いです。
写真:藤橋村の航空写真・60cm反射望遠鏡