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 海の香り。どこからか聞こえてくる潮騒の音。
 歩き続けている。丈の高い草が風になびいて遠くが見えない。星が見えるほど青い空を飛んでいる大きな白い鳥。行かなくちゃ。あの人のところへ。
 素足に履いているビーチサンダル。鼻緒が擦れてちょっと痛い。
 草むらの中の一本道。前にも来たことがあった。あの時は、そう、夕焼け。赤とんぼが数えきれないぐらい飛んでいて・・・。
 懐かしかった。あの人の歌が聴こえるような気がした。夕焼け小焼けの赤とんぼ。負われて見たのはいつの日か。
 遠くに人影が見える。あれは・・・あの人。私は走る。草原の道を懸命に。その人の姿が少しずつ少しずつ近づいて。
 風になびく銀色の長い髪。
「あずさ。あずさ」
 手を振っている。
 ここにいたんだね。ずっと探してたんだよ。もう一人にしないで。ずっとずっとそばにいて。
 手を差し伸べるその人の胸に飛びこもうとして不意に足を止めた。強烈な嘔吐感が、私を凍りつかせる。
 乾いた土の道の真ん中に立っている一本の杭。その上に載っている真っ黒に腐敗した首。  
 私の口は叫びの形に開いたままだ。でも叫べない。圧倒的な腐臭から逃げることもできない。
 だらりと垂れ下がった眼球が、私をじっと見つめている。爛れきった頬を半分覆っている、それだけは艶やかな銀色の長い髪。
 向い合ったまま時間が過ぎる。いつかあたりは茜色の夕暮れ。シルエットになったその人の首は、時間の経過につれて確実に腐敗が進行し、腐敗が進む分だけ銀色の髪はより光沢を増して・・・。
 
  ◇

 潮風が髪を洗い、打ち寄せる波が足首を洗う。
 麦わら帽子。手でおさえていないと、風に飛ばされてしまいそう。
 かすんで見える小さな半島。水平線をゆく白い客船。
「パパ、お魚、釣れたかな」
 まだよく回らない口で私は尋ねている。手をつないだその人の顔を見上げて。
「どうかしら。パパは、釣りがあんまり上手じゃないから」
 柔らかい声。その人がかぶっている大きなリボンのついた麦わら帽子。
「パパが乗るお船もあんな形?」
 ずいぶん遠くに行ってしまった客船を指さす。
「ちょっと違うかもね」
 笑いを含んだ涼やかな声が答える。
「パパが乗るお船はね、とっても大きいの。あのお船の何百艘分もあるかな。それにね、海に浮かぶんじゃなくて、お星さまの間を飛んでいくの。とっても速いお船なのよ」
 ふーん。
 不意に思いついた。
「ねえ。あずさにお星さま、取ってきてくれるかな。ひとつでいいの。パパに頼んでみてもいい?」
 笑い声。
「いいわよ。私からも頼んでみるわ。きっと魚釣りよりも、お星さまを釣る方がパパには似合っているかもしれないし」

 突然、日が翳った。麦わら帽子をかぶったその人が、いぶかしそうに空を見あげる。
 青空を覆って急速に大きくなる黒い影。
 私の手を握ったまま、その人が走り出す。引きずられるように私も走る。
「どうして。どうしてこの子まで巻き添えにするんですか。あずさはまだこんなに小さいのに。なぜ手元に置いてはいけないのですか。みんな狂ってるわ。どうして精神委員会なんてものに支配されなきゃいけないの?」
 その人の口から叫びとも泣き声ともつかない声が漏れる。見る間に大きくなっていく黒い影。
 その人に手を引っ張られながら私は、空の半分ほどを覆い隠しつつあるその物体を見つめている。
 クレーターに覆われた巨大な岩塊。その上にひしめく水晶にも似た超高層ビル。
 不思議に怖さは感じなかった。壮麗というほかない空中都市の姿に、私は心を奪われていた。
 ふと、真っ暗な影になった岩の一部が緑色に光る。
 ちかっと光ったその刹那、私の手が軽くなった。
 私の横に、誰もいない。今しがたまで私の手を握ってくれていた温かな手のひらはどこにもない。
(彼女は消滅した。精神委員会の決定による。私たちは、お前を迎えに来た。神の代理人として。お前を、神にもっとも近いものとするために)
 ママ。ママ。
 涙が溢れてくる。
 どうして。どうしてママだけが行っちゃいけないの? ママを返して! ママ!
 初めて誰かを憎いと思った。はるか沖合に、ゆっくりと降下してくるその物体を私は見つめる。涙で滲んだ目で痛いほどに。

seiretsu31

 耐えられないほど目が痛くなったとき。
 青い光が走った。水晶のビルがガラス細工みたいに砕け散る。それだけでは飽き足らない。さらに私は見つめる。ママを消滅させた巨大な物体。目の奥が熱くなる。視界のすべてが鮮やかな青い光に充たされる。
 巨大な岩の塊の真ん中に、太い亀裂が走った。亀裂は急速に広がり、やがて轟音とともに岩の塊が崩れ去る。粉々に砕けた岩とビルの破片が、無数の水柱をあげて海に落下する。やがて、砕けた岩とビルの破片をすべて飲みこんだ海面が元どおり静まり返った後も、私は物体が消えた深い青空を見つめていた。そんな青空のむこうにある星の海をひたすらに憎悪しながら・・・。

 ふと、足に何かが触れた。波が運んだそれを手に取ろうとした私は、声にならない叫びをあげる。
 首だった。白い端正な面差し。波間に揺れる銀色の長い髪。
 海は、なにごともなかったかのように穏やかだった。一人きりの渚で、足にまとわりついて離れないその首を拾い上げることもできないまま、私は凍りついていた。どうしてこんな。大切な人たちを奪ったのは私自身だったなんて・・・。(つづく)