毎日、さまざまな文章を書きます。
仕事の文章もあれば、ブログもあり、SNSもあり、小説や随筆も。
文章を書くことは昔から苦にならず、というより好きで、小学校6年生の頃には(今ではもう残っていませんが)大恋愛小説を書いたりしていましたし(ませてたんですねー)、若いころには天文雑誌にも多くの文章を書かせていただきました。
小説や随筆で文学賞もずいぶんいただきましたし、詩集も二冊刊行しました。

昔は、紙に筆記具で文章を書いていました。
ワープロやパソコンがなかった時代ですから当たり前なのですが、これはなかなかに苦痛でした。
というのは、特に小説を書く場合など、文章を書き起こすにあたって、頭の中でできる文章を筆写するのが何とももどかしく、自然、私の原稿はひどく乱れた字になってしまうのでした。
原稿用紙の升目を埋めてゆくという作業もまどろっこしく、一文字書く間に頭の中では何行もの文章が浮かんでくるので、文章を書く場合は原稿用紙ではなく広告の裏などに一気呵成に書き記していました。
それもきれいな字を書いていたのでは、頭の中の文章が書いているうちに消えてしまいます。
なので、自然、私の書いた文章は文字なのか記号なのかみみずののたくった跡なのかわからないほどの悪筆となります。
文学賞などに応募する場合は、みみずののたくったような字とも言えない乱筆悪筆を原稿用紙に清書するのですが、ときどき自分でも何が書いてあるのか判別することができず、途方に暮れたものでした。

ここで家内が登場します。
家内は字が上手です。
そして何よりも私しか読めない、というか私でも読めないぐにゃぐにゃの文字をきちんと判別して清書してくれるのです。
これは何とも特殊かつ有難い能力です。
手書き時代に私が書いて世に出た文章の多くは、こうして家内が判読・清書してくれたものがほとんどです。

そんな悪筆の私にとって、ワープロの出現は何ともありがたいものでした。
キーボードを打てば、きちんとした活字として文章化してくれるのです。
しかも書き直しも自由、そして手書きで紙に書くよりもはるかに速いスピードでタイピングができます。
この機械の出現によって、頭の中の文章をアウトプットする作業が非常に楽になりました。

ワープロはさらに進化してパソコンになりました。
この機器の出現によって、私は頭に浮かんだ文章をアウトプットするストレスが全くなくなりました。
また、パソコンで書いた文章は、そのままの形式でSNSに投稿したり応募用の原稿データとして使用することができます。
私が手書きで書いた文章が読みづらかった原因のひとつに、訂正箇所を何度も書き直したために、家内以外には判読できなくなってしまったということがあるのですが、パソコンのワープロソフトは気に食わなければ何度でも書き直しが可能です。

ワープロ、パソコンの出現によって私の文章書きはまさに革命的な進歩を遂げました。
今では、詩もパソコンで書きます。
パソコンに向かっているときの方がすらすらと詩を書くことができるのです。

詩というと、アナログ的文学の代表のように思われますが、私にとっては詩作ですらもパソコン頼りになってしまいました。
考えてみるとパソコンで詩を書いているという情景は不可思議な気がしますが、もうパソコン以外では詩は書けません。
ちょっとした言葉の断片や思い付きのフレーズは紙に書いておきますが、それを作品に仕上げるにはやはりパソコンです。
詩という文学形態は、一文字の違いで作品全体が変わってしまいますので、簡単に文字や文章を入れ替えることができるパソコンは非常に有用なのです。

このように、今では非常に便利な時代となりました。
でも、ワープロもパソコンもなかった当時、まだ結婚前だった家内が、象形文字の羅列の如き私の文章を、きちんと解読して清書してくれたことには大変な感謝をしています。
他の人では絶対にできなかったであろうその作業を遂行してくれたのは、やはり愛があったんだろうなあなんて、柄にもないことを思います。