午前4時。あらゆるものが眠りの淵に沈んでいる時刻。
青い闇、静寂、季節外れの星座たち。
夜明け前の情景は、そこに身を置くたびに新しい時を私の心に刻みつける。
幼い頃、初めて土星を見たのは、しし座がちょうど南中していたことから考えると、初冬の明け方だったかもしれない。
思い返せばその頃、土星は、ふたご座の足元に輝いていたようだ。
当時は口径6cmの天体望遠鏡を購入したばかりで、手当たり次第にさまざまな天体を導入しては、その美しさに感動していたのだが、金星も木星も見たのに、なぜか土星だけはいくら探しても見つからない。天体写真でおなじみの、あの不思議な姿を見てみたいというのが、乏しい小遣いをはたいて天体望遠鏡を購入した大きな動機の一つだったから、土星が見つからないのではせっかく天体望遠鏡を購入した目的が果たせない。
今から思えば、天文雑誌を購読するでもなく、土星がどこにあるのかすら知らなかったのだから、見つからなかったのは当然なのだが、それに加えてその頃、土星が夜明け前の空に見えていたことも見つからなかった要因のひとつだったのだろう。小学生の私にとっては、床に就くまでが星を見る時間であり、明け方に起床して夜空を見上げるなどということは思いもつかなかったのだ。
そんなある晩、なぜか明け方に目が覚めた。普段ならばすぐに再びの眠りについてしまうのだが、その晩に限ってすっきりと覚醒してしまい、眠れそうにない。
何気なく窓を開けてみると、快晴の空に見たことのない星座が一面にきらめいている。そんな星々のきらめきに誘われるように私は天体望遠鏡を家の前の道路に担ぎ出し、そして土星を見たのだった。
落ち着いた輝きを放つその星を視野に導入し、ピントを合わせてゆくにつれ鮮明になってゆく姿に私は驚嘆した。
それはまさしく、図鑑でいつも眺め憧れていたあの土星であった。
黄土色で小さかった。でも確かに環のある星だった。
一人で見ているのがもったいなくて、家族全員を起こして土星を見せた。冬の明け方に起こされたのだから、家族にとっては迷惑極まりなかったであろうが、不思議と私は叱られなかった。それどころか、父も母も妹も、何度も接眼レンズに目を当てては、摩訶不思議なその姿に見入っていた。
20世紀最大の彗星といわれたウェスト彗星も、明け方の素晴らしい見ものであった。宝石のような中心核、そこから吹き上げている青く長大な尾。
朝焼けの中を泳ぐその姿は、一生、脳裏から消え去ることはないだろう。
いつしかそんな彗星の魅力に憑りつかれ、私は彗星捜索を志すようになった。
といっても、満足なコメットシーカーもなければ彗星に関する知識もない。
中学生の分際で、私は彗星捜索の大家、関 勉先生に手紙を書き、教えを乞うた。
ほどなく関先生から丁寧な返信を頂戴したときのことは忘れられない。拙い中学生の手紙に、関先生は真摯なアドバイスをしてくれたのだ。
関先生のアドバイスで、彗星を見つけるには、太陽に近い天空…明け方の東天と夕方の西天を捜索すれば良いことを私は知った。
夕方は、スモッグや光害で空が霞んでいることが多かったから、勢い、明け方の東天を探索することが多くなった。
新しい星を求めて澄んだ夜明け前の空を望遠鏡でさぐってゆくと、いくつもの美しい星雲や星団と巡り合うことができた。
季節を先取りできるのも、明け方の空を眺める大きな収穫かもしれない。夏の朝、東の空に均整の取れたオリオン座を見つけたとき、冬の朝、明け染める地平線上に、巨大なS字を描く、さそり座を見かけたとき、なんとも言えない切なさが心の奥底にこみ上げる。傍らを足早に駆け抜けていった季節にまつわるさまざまな思い出と、新しい季節へのひそやかな憧憬が、そんな切なさを抱かせるのかもしれない。
彗星は、流星の源。
天文仲間とともに、流星群を一晩中観測して迎える朝を、これまで何度繰り返しただろうか。
しゃべりすぎた後のような空虚感、そして透明な疲労が描き出す不思議な充足感。夜を徹して流星を追いかけた明け方は、いつも同じ感覚を私たちに抱かせる。たった一晩のうちに季節が変わってゆくうつろさに、私たちはことさら声高に、その夜に数えた流星の印象を回想したりする。
そんなとき、明けの明星、金星が輝いていることもある。同じ星でも、宵の明星にはどこかしら人の暮らしに結びついた暖かさを感じるのに対して、明けの明星になると虚無に近い透明さを感じるのはなぜなのだろうか。
明け方の時の経過は早い。いつの間にか東の地平線が淡いピンクに染まり、漆黒の夜空が見る間に透徹した藍色へと変わってゆく。暗い星からひとうひとつ姿を消し、やがて真っ赤に燃えた地平線から太陽が顔を覗かせる。
そんな明け方に身を置いて、消えてゆく星を見上げているひとときが好きだった。心の底まで薄明の色に染まりながら、私はやるせない孤独と泣きたいほどの切なさに身を任せていた。
そんなやるせなさと切なさは、太陽が最初の光を投げかけた瞬間に崩れ去り、その脆さに私は戸惑い、思わず後ずさりしてしまう。
明け空の記憶は、そんな情景を幾たびも織りなしてゆくがゆえに、一層、新鮮であるのかもしれない。
☆1981年に東大和天文同好会の会誌「ほしぞら」に書いた文章です。
できるだけ原文を損なわないように留意しつつ、少しだけ加筆訂正しています。
私たち天文ファンにとって、明け方の星空は、特別な美しさと感慨を覚えさせてくれます。
そんな明け空の情景と心の揺れを伝えたくて、大学生の頃に書いた文章です。