日本全国には、200を超えるプラネタリウム館があるそうです。
これは考えてみればすごいことで、毎日、日本中でとっても多くの人がプラネタリウムを訪れているわけですね。
最近では投影のシステムも進化し、「本物以上の星空に出会える」などと銘打っている館も多いようです。
プラネタリウムが隆盛で、私のような天文ファンにとってはまことに喜ばしいこと…なんてこの先、文章は続きそうですが、もともとがへそ曲がりの私にしてみれば、ぜんぜんそんなことは思いません。

だって、プラネタリウムって、所詮はまがい物の星空じゃないですか。
「本物以上の星空」…?
そんなコピーを考えた人は、日本語をまったく理解していません。
本物はどこまでも本物、それを超えるなんて矛盾以外のなにものでもありえませんし、言葉としてもまことに不適切、というより、あんた本当に日本人なの?と突っ込んでしまいます。

さらに気持ち悪いのは、プラネタリウムが大好きという人種がじわじわと増加しつつあることです。
プラネタリウムの起源は、その名のとおり惑星の運動を正確に再現することにありました。
それが進化して、惑星だけではなくさまざまな運動系の再現を行えるようになり、天体の動きをよりリアルにシミュレートできるようになったわけです。
プラネタリウムとは、いわば精巧なシミュレーターであり、天文学を学ぼうとする者にとって、3次元運動でわかりづらい天体の運行を、視覚的にわかりやすく再現した「道具」なのです。
どれほど美しい星像が投影できるようになったとしても、それはシミュレーションであり星そのものではありません。
プラネタリウムのファンは昔から存在してはいましたが、彼らはプラネタリウムを見て天体や宇宙について学習し、実際の夜空を見上げる際に役立てるために、プラネタリウムという疑似空間に通い詰めていたのです。
プラネタリウムとは、端的に言ってしまえば宇宙を、星空を楽しむための学習マシンであり道具でした。

プラネタリウム2

ところが最近では、本物の星は見ないけれどプラネタリウムに通うのは大好きという輩が増殖しつつあり、自分は「プラネタリアン」であるなどとのたまう解説者まであちこちに出現しています。
私は長らくプラネタリウムの解説を続けてきましたが、自分が「プラネタリアン」であるなどとは、口が裂けても言いません。
私が好きなのは本物の星であり宇宙です。
どれほど美しい映像を見せてくれたとしても、それはシミュレーターが描き出した「まがい物の星空」であり、職業柄、「この館は星像がきれいだな」と思うことは多々あるものの、プラネタリウムを見た後にはやはり本物の星空を見上げたくなるのです。

もちろん人様の趣味にあれこれ言うつもりはありません。
でも、本当の星空を見上げることなくプラネタリウムに通い詰めるのは、正統派天文ファンを任じる私にとってみれば邪道の極みに思えます。
虫の声や風の音に耳を傾け、暑さ寒さを肌で感じつつ、星空の動きから時間の流れを知り、望遠鏡に映ずるかすかな銀河の光芒を見つめて空間の深遠さに思いを馳せる…。
それが星を見る楽しみであり、せいぜい35m以下の、夜空に比べれば取るに足らないほど小さなドームに映される人工の星空を眺めて喜んでいるのは、なんとも虚しく底が浅いと言わざるを得ません。

「プラネタリウムはショーだから、天文ファン云々の視点から文句を言うなよ」と仰る向きもあるでしょうが、それならばプラネタリウムばかりを見る、あるいは解説して喜んでいるのではなく、ぜひ本物の星空にも目を向けてくださいと、あえて苦言を呈します。
リアルよりも仮想現実を求める現代、本物の星空よりもお手軽なプラネタリウムは、手近な夢を見るのに好適な手段でしょう。
でも、あえて暑さ寒さに身をさらし、五感すべてを働かせて見上げる本物の星空は、プラネタリウムでは決して得られない何かを私たちに与えてくれます。

手近な仮想現実ばかりに目を向けず、現実の星空に目を向けてください。
星空は、小さな地球から宇宙という広大無辺の空間を垣間見ることのできる大きな窓です。
部屋の中にしつらえられた疑似体験では決して得られない何かを、星空という窓は教えてくれます。
プラネタリウムばかりを見て「星が好き」なんて言っているのは、スマホの中で仮想現実を追い求めているのと同じだということに気づいていただきたいと思います。

今日は、いささか辛口の記事を書きました。
気を悪くされた方がいたら申し訳ないです。
「てめーみたいなヤツがプラネタリウムの解説をしているなんてムカついて仕方がねえ」と思われた方、こんど一緒に星を見ましょうね。
秋が過ぎればすぐに厳しい冬。
リアルな氷点下の夜空の下、一晩、星空を見上げながら熱く語り合いましょうか。
星の輝きも凍てつく夜明けまできっちりお付き合いしますぜ。