二両編成の列車は、びっくりするほど混んでいました。ぎゅう詰めの列車内で、僕と母さんは身動きすることもできず、ただ列車の揺れに身を任せているしかありませんでした。
『とにかく、すごい数の蛍だそうだよ』
『蛍の数といったら、町が蛍に埋まってしまいそうで、それはきれいなものらしいよ』
乗客たちが声高に話している声が聞こえてきます。
そうです。今日は年に一度の蛍まつりなのでした。きっと、この列車に乗っている人のほとんどが、蛍まつりを見に行くのに違いありません。だからこそ、ふだんはガラガラに空いているというこの列車が、これほどまでに混みあっているのでしょう。
蛍まつりに行きたいと言い出したのは母さんでした。母さんは、きれいなもの、華やかなものが大好きです。テレビで放映していた蛍まつりのニュースを見て、すぐに宿の予約をしました。それだけならいいのですが、なぜか宿の予約は母さんと僕の二人分でした。
『聡、虫が好きでしょ。蛍、たくさん見たいわよね』
母さんはいつもそうです。子ども離れができていないというか、何かといえば一人息子の僕を連れ出そうとするのです。
まあ、確かに僕は昆虫好きだから、たくさんの蛍が群れ飛ぶ光景を見てみたいとは思いました。そんなわけで、うっかり母さんについてきてしまったというわけなのです。ちなみに父さんは接待ゴルフ。六年生にもなって母さんと二人で旅行をするのはちょっとカッコ悪いけど、仕事に追われて家にいることの少ない父さんのかわりに、母さんに付き合うのも息子としての義務だと思い、こうして満員の列車に揺られているのでした。
『蛍まつりの日は、町の人口の三倍もの人が集まるそうだよ』
『日本中から観光客が集まるのだもの。さぞかし賑やかなんでしょうね』
列車に乗っている人の誰もが、蛍まつりを楽しみにしているようすでした。母さんとの旅行なんてカッコ悪いやと思っていた僕にしても、いつのまにか早く駅に着かないかとドキドキし始めています。
満員の列車に揺られているのが少し辛くなってきた頃、キューッとブレーキがかかりました。
「蛍まつりへおいでの方は、この駅で降りて下さい」
車掌さんのアナウンスが入り、たくさんの電灯やちょうちんできらびやかに飾り付けられた小さな駅に、列車は滑りこみました。
大勢の人波に押されながらホームへ降りると、思っていたよりもずっと盛大で立派なお祭りのようです。ホームには『蛍まつりへようこそ』と書かれた大きな幕がかかり、狭いホームを埋めた観光客を案内するために、駅員さんや町の人が、マイクを片手に声を振り絞って叫んでいます。スピーカーからは、賑やかな音楽がひっきりなしに流れ、打ち上げ花火が何発も上がっては、夜空に大きな光の花を開かせていました。
人波にもみくちゃにされながら、ようやく改札口を出てみると、狭い駅前広場もまた、溢れそうなほどの人混みです。
想像以上の賑やかさにびっくりして駅前に立ちつくしている僕の前を、うす青い小さな光がひとつ、すいと通り過ぎました。
(蛍だ!)
思わず心の中で叫びました。夜空に舞い上がる小さな光を追っていくと、もう一匹。
気づいてみると、改札口のまわりにも駅前広場にも、その冷たくうす青い光は、それこそ数えきれないほどにたくさん飛びかっていました。
光のすじをひいて夜空を飛びかう蛍の姿に、あちこちで歓声があがっています。
『やっぱりすごいね。うわさどおりだね』
『来てよかったね。こんなにたくさんの蛍なんて、日本中どこに行ったって見られないよ』
たしかにそのとおりでした。駅前広場の人波にもびっくりしましたが、夜空を飛びかう蛍の多さは、ちょっと信じられないぐらいです。
来てよかった。そう思いました。母さんのお付き合いのつもりだったけれど、幻想的な蛍の光は、いつまでも見飽きることがない眺めでした。
駅前広場では、ちょうど町長さんのあいさつが始まったようです。大勢の人の話し声に混じって、マイクをとおしたひときわ大きなガラガラ声が聞こえてきます。
「えー、本日は皆さん、遠いところをはるばるお越し下さいましてまことにありがとうございます。私がこの町の町長でございます」
マイクを手にあいさつを始めたのは、でっぷりとふとって赤ら顔の、町長さんというよりは、どこかの会社の社長さんという雰囲気の人でした。
「えー、私がこの蛍まつりを考えついたのは、三年前のことです。この町はご覧のとおり山奥にありまして住む人も少なく、年々さびれていくばかりでした。そこで、これではいけない、何か町のイメージアップにつながるものはないかと日夜考え続けていたのですが、ある日、ふと思いついたのです。この町にだけたくさんあって他では見ることのできないもの、それを使って町の宣伝をしたらどうだろうかと。そうして考えついたのが、町のどこにでもたくさんいるこの蛍だったのです。おかげさまで、今では蛍まつりもたいへん有名になり、こうして大勢の観光客の皆さんにおいでいただけるようになりました。また最近では、都会向けに蛍を売り出しまして、これがまた大いに儲かって、いや、喜んでいただいて、私をはじめ町をあげて大喜びをしているところでございます。まさに蛍バンザイ、蛍あっての町長選挙、いや、町おこしというわけで、とにかくおおいにめでたいというわけなのですな。ワッハッハ・・・」
そんな町長さんのあいさつが終わると、駅前広場を埋めたお客さんから割れるような拍手がわきおこりました。
僕のとなりでは、町の人らしい二人づれが大声で話しています。
「蛍の養殖を始めたおかげで、ウチは儲かって儲かって・・・」
「ウチもそうじゃ。なにせ、都会の人が高い値段でいくらでも買い取ってくれるからのう」
ともあれ、町長さんのあいさつで始まった蛍まつりは、最初からすごい盛り上がりようです。駅前広場から大通りへと大勢の人の行列が長く続き、通りの両側にはたくさんの出店が並んでいます。
花火が立て続けに何発もあがりました。夜店はどこも、ギラギラとあかりを灯し、行き交う車のライトがあちこちを照らし出して、街中が大都会のような明るさと騒がしさです。
人波に押されて歩いているうちに、いつしか母さんとはぐれてしまっていました。今夜の宿の名前は知っていましたから、それほど心配はしていません。いざとなったら、宿に向かえばいいのです。それに、派手なものが大好きな母さんですから、今頃はきっと、あちこちの夜店を覗いては目を輝かせているはずです。
「ふう」
僕はため息をつきました。母さんとはぐれて寂しくなった・・・わけではありません。ようやく一人になれたことが、なんだか嬉しかったのです。六年生になった頃から、ときどきこんな気持ちになることがありました。父さんや母さん、友だちといっしょにいるのはもちろん楽しいのですが、時には一人で過ごしたいと思うようになっていたのです。
とぎれない人の波、そしてあたりをまぶしく照らし出している夜店のあかりや車のライトを見ているうちに、僕はなんだかばかばかしくなってきました。
(これじゃあ、蛍が見えないじゃないか)
そうなのです。蛍はたしかにたくさんいるのですが、あちこちのあかりが眩しすぎるのと、とにかく人が多いのとで、せっかくの蛍の光がちっとも見えないのでした。
僕の足は、いつのまにか駅前通りから町はずれへと向かっていました。夜店ではどこでも、かごに入れた蛍を売っています。観光客が、争ってそんな蛍を買い求めています。
僕は、町はずれへと歩き続けました。行き先はとくにありません。とにかく人混みとあかりから逃げ出したかったのです。
明るすぎて蛍が見えないから?
それはそのとおりでした。でも、そればかりではありません。僕はなんだか、とても悲しくなってしまったのです。なぜ悲しいのかはわかりません。とにかく僕は、人波をすり抜けてできるだけ人のいない方へと歩き続けました。
ふと気がつくと、ずいぶん遠くまで歩いてきてしまったようでした。夜店も、人の姿もまばらとなり、スピーカーから流れる賑やかな音楽も、ずっと遠くの方で小さく聴こえているばかりです。
ようやくほっとしたような気持であたりを見回したとき、道ばたに蛍のかごがひとつ、落ちているのが目にとまりました。観光客の誰かが落としたのか、もしかすると捨ててしまったのかもしれません。かごの中には蛍が二匹、じっとしています。弱々しく光っているところをみると、どうやらまだ生きているようすです。
かごを拾い上げると、そっとそのふたをあけてやりました。二匹の蛍は、しばらくかごのなかで動かずにいましたが、やがてふわりと飛び上がって、しばらく僕のまわりをゆらゆらと飛んだあと、もつれあうようにして暗い夜空へと消えていきました。二匹の蛍が見えなくなっても、しばらく夜空にはうす青いその光が残っているように思われました。
そのときです。急に後ろから肩をたたかれて僕ははっとしました。慌てて振り向くと、そこには蛍のもようの浴衣を着た若い女の人が立っていました。
「すみません」
僕は思わず、その女のひとに謝っていました。きっと、いま逃がした蛍のかごの持ち主に違いない。高いお金を出して買った蛍を逃がされて怒っているのに違いない。そう思ったのです。
頭を下げた僕を見て、女の人はにっこりと笑いました。
「違うのよ。私はあのかごの持ち主なんかじゃないわ」
女の人はそう言って僕の顔を覗きこみ、
「だからだいじょうぶ。謝ることなんてないのよ」
もう一度、にっこりと笑いました。
蛍の光のような笑顔だと思いました。清らかで、少し寂し気な・・・。
それでも僕は、しばらくの間、ただ黙って立っていました。見ず知らずの人でしたし、何を話したらいいのかわからなかったからです。
それから正直なことを言えば、その人はあまりにもきれいでした。もともと僕は、女の人と話すのが苦手です。クラスの女子とも、必要なこと以外は話をしません。ましてや、彼女のようにきれいな人とは、どうしてもうまく話すことができないのです。
僕たちは黙ったまま、しばらく並んで歩きました。だんだんと町のあかりが減ってきて、そのかわりに青い蛍の光が増えてきました。
「蛍ね、昔はもっとたくさんいたのよ。夜になると、山も川も蛍の光でまぶしいくらいだった・・・」
ずっと黙っていた彼女が、ひとりごとのようにぽつりとつぶやきました。
僕は、どう答えていいのかわからなかったので、なんとなくぶっきらぼうに言いました。
「今でもたくさんいるじゃない」
「ちがうのよ」
彼女が急に立ちどまったので、僕はちょっとあわてました。彼女を怒らせてしまったのかもしれないと思ったのです。じっさい、彼女は唇を引き結んだきまじめな顔をしていました。
「いま、この町にいるのは、みんな養殖された蛍よ。町長が、町の人たちに蛍の養殖を呼びかけたの。それまでは、山奥にあるこの町でも、川の水が汚れたり、木が切られたりして蛍は減っていくいっぽうだったわ。養殖が盛んになって、確かに蛍の数は増えてきたけど、蛍の住める場所は年々減り続けているの。あそこを見てごらんなさい」
彼女は川のむこうを指さしました。僕たちは、いつのまにか町はずれの小さな川のほとりに来ていました。
「あそこはね、蛍にとって絶好の住みかだったの」
彼女が指さす場所には、まあたらしいきれいな別荘が、夜の闇の中でも白く、いくつも建ち並んでいるのが見えました。
「この町が蛍で有名になったことを知った都会の会社が、あそこを別荘地として売り出したの。川を埋めて森の木をきって・・・」
彼女の頬に涙が伝ったように見えたのは、僕の見まちがえだったのでしょうか。
「あそこにはもう蛍はいないわ。これからもあそこに蛍は住まないでしょう。蛍って、そういう生き物なの。いちど住めなくなってしまった場所には、決して戻ってこないものなのよ」
そう言う彼女の顔は思いつめたように白く、一言しゃべるたびに、その白さがきわだっていくようでした。それはまるで、彼女の気持ちそのものが、その心の奥深いところから彼女を輝かせているようにも見えました。
「それからね。養殖された蛍。高い値段で都会の人が買いとっていくわ。都会のホテルやレストランの庭に蛍を放して、お金持ちに見てもらうために。都会の人は喜ぶよね。都会じゃ、蛍なんてもう見られないもの。でも、放された蛍はどうなるのかしら。都会には蛍の住める場所なんてどこにもないのに・・・」
僕たちは、小さな川の岸辺を歩いていました。町のあかりはずっと後ろに遠ざかり、あんなに賑やかだった放送や音楽も、もうほとんどきこえません。かわって耳をくすぐるのは、小川がさらさらと流れる音と、木や草の葉が風にそよぐかすかな音だけでした。
町のあかりが届かない空は、こわいぐらいの星空です。天の川が頭のてっぺんを真っ白に流れ、思い出したように流れ星が、星々の間を縫って消えていきます。川ぞいの草むらからは何匹もの蛍が舞い上がり、いつしか僕たちのまわりは、星の輝きと舞い踊る蛍の光で青く照らし出されているようでした。
本当に静かな夜です。青い静けさのなか、次々に舞い上がっていく蛍たちは、僕たちを包みこむようにゆらゆらと光り輝いて、そのうちの何匹かはまるで星空に溶けていくように、高く高く、どこまでも昇っていくのでした。
満天の星・・・?
一瞬、自分の目がどうにかなってしまったのではないかと思いました。降るような星空へと昇りつめては消えていく小さな輝き。蛍が夜空に溶けていくたびに星の光は輝きを増して・・・。
「蛍!」
思わず叫んでしまいました。
僕の足もとから、草むらから、木々のこずえから、さらさら流れる小川から、数えきれないほどの蛍たちが夜空へ向かって舞い上がり、きらめく星々の間に消えていくではありませんか。
いえ、僕たちのまわりからだけではありません。あちこちの山や川、そしていつしかずっと離れてしまった町の中からも、蛍の群れが青い光の雲となって、降るような星空へと次々に飛び去っていくのです。
小川のほとりに立ちつくし、舞い上がっては星になっていく蛍たちを、僕はまばたきもできずに見上げていました。満天の星と舞い上がる蛍の輝きは、あたりをいっそう青く染め上げて、その不思議な光の中で僕は、次々と舞い上がっては星空へと消えていく蛍たちを、ただ見送っているばかりなのでした。
「蛍も人間も、みんな同じ仲間なの。蛍が生きられないような場所では、人間だって生きていくことはできないはず・・・」
彼女の声がとても遠くできこえたような気がして、僕ははっとして振り返りました。
するとどうでしょう。彼女の姿は、いつしかうす青く透き通って、蛍と同じ色に光っているではありませんか。
思わず、彼女のそばに走り寄りました。一瞬、彼女がにっこりとほほえんだような気がします。
「いつか、蛍と人間が仲よくいっしょに暮らせる日が来たなら、もういちど帰ってくるわ。きっと、そんな日が来ると思うの。それまではさようなら。私のこと、覚えていてくれればとても嬉しい・・・」
その長い髪が、細い首すじが、そして蛍模様の浴衣のすそが、星空に滲むようにゆっくりと消えていき、僕はどうしたらいいのかわからないまま、ただとても悲しくて、星空に溶けていく彼女の姿を、いつまでも見つめ続けていたのでした。
☆ ☆
ふと気がつくと、あれほどたくさんいた蛍は一匹もいませんでした。僕のまわりには、小川のせせらぎと虫の声だけが、ただ静かに流れているばかりです。
風の吹きすぎる川のほとりで、ずいぶんと長い間、僕は星空を見上げて立っていました。
やがて、町の方から大勢の人の騒ぐ声が、風に乗ってきこえてきました。
『蛍がいない。蛍はどこへ行ってしまったんだ!』
『一匹もいないぞ。蛍まつりの真っ最中なのに!』
町の人たちのあわてぶりが目に見えるようでした。
この町の蛍、あれほどたくさんいた蛍たちはきっと、一匹残らず空へと舞い上がり、星になってしまったのに違いありません。
蛍がいなくなった川辺を、僕は町に向かって歩き始めました。星あかりが足元をほのかに照らし出し、その青い光はやはり、蛍と同じ色をしているように思われました。
☆令和5年度岐阜県文芸祭入選作品です。
岐阜県文芸祭では、過去に小説、児童文学、随筆で文芸大賞を受賞しましたが、今回は入選どまりでした。自分としては愛着のもてる作品だったのでちょっと残念でした。
長いですが全文掲載します。星がらみですので、天文屋さんも読んでいただけると嬉しいです。
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