日本自由メソヂスト教団 宣教開始121周年

私達の教団は、「貧しい者への福音」を掲げて1897年河辺貞吉師による淡路島福良での伝道からスタート致しました。私たちを取り巻く「いのち、人権、平和」をつぶそうとする動きに抵抗して、「地の塩、世の光」としてのはたらきを続け愛のある環境を築いてゆきたいと願います。共に歩みましょう。

   『 断捨離 』

妻が亡くなって二ケ月、そろそろ遺品の整理にとりかかりました。なかでも衣類の整理が大変でした。結婚した時に持ってきた桐の箪笥から洋服ダンス、・プラスチックのケースに入っている和服と洋服に下着類物、同様のものが老人ホームにもありました。家の掃除をしてくださるヘルパーさんと別の契約をしまして遺品整理を手伝ってもらいました。
次から次と差し出すとはさみで切ってはビニール袋に放り込んでいくという仕事を一時間ずつ三回してもらいました。一人の人間がこんなにも持っていたとは出してみて驚きました。本人が心斎橋で気に入った店の生地で縫ったもの、用事で手掛けた道を歩いていて気に入って買ったものなど、わたしも立ち会って買ったものもありましたから思い出もあります。バサバサと切り捨てていくのを本人が見たら耐えられなかったことでしょう。わたしの住んでいる住吉区では普通ゴミとしてこれらの衣類は問題があるので、見えないように小分けにして捨てました。まだ着ていただけるような洋服は、教会の方々に見てもらって着ていただけるなら、それからから処分しようと考えています。 亡くなってからほかの人に迷惑をかけるようなら、生きているうちにわたし自身の衣類を断捨離しておこうと、タンスの引き出しを開けてみました。すると今まで着たことがないような作務衣の上着をわたしの体に合わせて妻が縫ったものが二着もありました。ほかにもウールの着物、絣の着物がありました。絣は戦死した兄が着ていたものを縫い直したものでしょう。まだその下に結城紬の着物と羽織がありました。父が着ていたもので、江戸っ子は見えない裏地に凝った生地を使っています。これは母が齢を取って縫えなくなる前に、わたしの体に合わせて縫い直してくれたものです。一度教会の礼拝に着物を着て行こうかと思うのですが、絣は九〇歳の者には若すぎるし、結城はどちらかと言うと遊び着ですから着られません。洋服と違い和服は縫った人の魂がこもっていて、捨てられないのです。やはりこれらの着物もわたしが死んでから、ほかの人たちが処分するようになるでしょう。このようなことは人間の歴史で長い間繰り返されてきたことでしょう。

     二〇一七年十一月  大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

『 宗教改革500年に思う 』

今から500年前1517年10月31日修道会士・大学教授マルチンルターがドイツ北東部に位置するヴィテンベルグ城教会の門扉に「95カ条の提題」を貼りだして疑義を呈しました。死後の刑罰を軽くするという”免罪符”を販売許可しているローマカトリック教皇庁へ抗議する内容です。当時ラテン語聖書は閉じ込められた修道会のみ読む特権が与えられ、ドイツ語しか通用しない民衆にとって手の届かない書物でした。ルターはこのことの発端から帝国議会を追放され、生命の危険にさらされる中、フリードリヒ貴公によりひそかにワルドブルグ城に保護され与えられた時間を新約聖書ドイツ語訳作業に費やし完成させました。「95カ条の提題」はドイツ国内だけにとどまらず、ヨーロッパ全土を震撼させた事実は歴史が語っています。”免罪符”を買う行為の信仰に翻弄されていた人々に語りかけ聖書のみ・信仰のみ・万人祭司の三つの柱を中心にやがてプロテスタンチス(抗議する者たち)として新しい教会プロテスタントの名がつけられました。その後カトリック派とプロテスタント派の争いは度々起きたことは隠せません。残念ながら今もある地域には続いています。幸い日本はカトリックとプロテスタントの共同訳聖書を生み出し、それを用いていることから両者の交流は至る所で深まっています。  姫路野里教会牧師

  『 妻の死 』

 妻が危篤だと病院から電話が入り、午後四時ごろから妻の様子を見守りました。酸素吸入と点滴を続けていましたが、昨日まで体を激しく震わせていたのに、この時は静かになっていました。脈を診ると不整脈でかすかに弱々しくなっています。瞳孔はすっかり大きく開いています。それからは息がいつ止まるのかを見守るだけなのです。わたしに出来ることは神さまに祈ることだけです。
彼女の生涯は生まれてから幼少期は両親に従い、結婚してからは夫に従い、姑に従い、二人の男の子の成育のために夫の給料だけでは足りないので、娘時代に習い覚えた洋裁の技術を使って一所懸命働きました。わたしが会社の仕事が忙しく夜遅く帰って来ても、彼女は工業用ミシンに向かって仕事をしていました。
彼女は明石の教会で両親と共に生活しており、信仰深い両親に倣って洗礼を受けました。 わたしが彼女と結婚したのは一九五三年(昭和二十八年)キリスト教会に通い始め、洗礼を受けたころのことです。彼女の弟が病気で死亡し明石の教会で 葬儀が行われました。その教会は牧師がいない時代で、わたしが洗礼を受けた教会の牧師が彼女の弟の葬儀を行いました。その席にいた彼女に目を留め、自分の教会で洗礼を受けた青年がいると思い、早速この二人を紹介したのです。
わたしはそれまで母がすすめる見合いを何度か繰り返しても気に入らなかったのに、明石の娘にはその両親の信仰にほれ込み婚約を承知したのです。わたしの母にとっては気に入らないのです。結婚しても辛くあたりました。その姑に二十五年仕えましたが、その母が遊びに来る友達に「嫁を貰うなら、クリスチャンがいいよ」と話していたと言うのです。妻知恵子はどんなに姑から辛くあたられようと、一所懸命姑を愛して姑が喜ぶようなコートを縫ったりしていました。
その妻がついに息が止まりました。脈も止まり、医師も「お亡くなりになりました」と告げたのです。午後七時五五分でした。わたしは父と母と妻の三人の死を看取りました。妻知恵子は神の河を無事渡って、神さまの元で涙を拭いて頂いていることでしょう。後はかくいうわたしの番です。いつまで生かされるか、「御心次第」です。「妻より後に残してください」という願いを神さまはちゃんと叶えてくださいました。感謝です。

二〇一七年一〇月  大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

『ガン哲学カフェ活動にカフェ隣人活動を追加』  来会歓迎

教会行事案内に”ガン哲学カフェ!in播磨”と”カフェ!隣人(となり
びと)”が新たに加わりました。本職はバイオリン教師ですが趣味の大工
仕事もプロ並み?のF姉が早速教会の集会名プレイトを手作りして下さ
り、9月からぶら下げることになりました。残念ながら不用心のため
平素、集会以外は多くのプロテスタント教会の扉は閉ざされています。
カフェ!を教会で開くことは”路傍伝道”と位置付けて実行されている
牧師の話に刺激されて、月一回扉を開けました。プログラムももたず、
出入り自由、指定席はなく、年齢制限もなく、会堂の中は人間交流の声が
響き渡っています。心身の痛みを分け合っている姿にこそ、教会は応援
するのです。教会員はそのため存在すると頑張っています。

  『人生の終わり方』

思いがけないことは突然やって来るものです。家内が老人ホームに入っていて、意識がなくなり急遽救急車で今までかかっていた急性期総合医療センターに入院しました。病名は脱水症で点滴を続けて二週間で退院しました。ただ今までの老人ホームではまた同じことか起こるのではないかと心配して、九月一日に阪和総合病院に入院したところです。退院したころは意識もだいぶ戻っていたのですが、現在はまだ半分くらいで話しかけると訳のわからないことを口走ります。口からの食事は食べる量が少ないので鼻からチューブを入れて栄養剤を入れています。
現在の状況では退院も考えられないので、病院としては長期療養形ベッドへの転院を準備してくれています。 つい最近まで午後二時ころになると隣のコンビニでコーヒーを買ってコーヒータイムで昔話などしておりました。この十一月になると結婚六十四年になるところでしたのに、鼻からのチューブによる栄養剤だけでは長期間続けることは問題があり、胃ろうによる栄養摂取を求められるかもしれません。胃ろうとは延命治療であり、以前から元気な時には二人の間で延命治療は止めようと話し合っていました。ですから胃ろうをすすめられた段階で死を迎えるのです。
キリスト者には人生に良いことばかり続くのでしょうか。そんな人生を願うならそんな信仰はご利益信仰です、聖書にはこんな言葉があります。「神に従う人には災いが重なる。」災いもやって来るのです。
聖書にはヨブ記というお話がありまして、大金持ちで男の子十二人も与えられて何一つ不満のない生活を送っていました。ある日子供たち全員に突風が吹いてきて全員が死んでしまったのです、父親のヨブはそんな災難にあっても神さまに不平を言うことなく「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。神は与え神は取り給う。」 神さまはすべてを与え、すべてを取られるお方なのです。私たちは自分の命さへ自分ではどうにもなりません。神さまに与えられているのですから感謝して毎日を過ごすのです。 でも毎晩の祈りに「妻よりもわたしを後に残してください。」とお願いするのです。彼女が死んだあとの諸手続きをしなければ困る人たちが出てくるからです。でもそんな事を神さまはすべてご存知ですからお任せします。

二〇一七年 九月          大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

 言葉の露 中嶋嗣美

夏空に入道雲が湧くと”夏を見た!”と叫びたい衝動にかられます。子供の
頃、雲の形が“何に見える?”とよく遊んだものです。聖書を開くと古代人は神の臨在の場所または象徴として雲が度々登場します。“悪いことをしていたら、天から神様が見ておられるヨ!”とのメッセージに子供の返事は”今日は曇っているから大丈夫”とすかさず答えたこの子に会って見たくなりました。雲は見上げて見るものとばかり思って飛行機に乗ると下に見えることに合点がいかず笑われた思い出もあります。キリスト者は数字にできないほどの先のことか、または明日かも知れない神の御計画を知ることの出来ない群れとして”イエスが大いなる力と栄光”を帯びて天の雲に乗って来る(マタイ24-30)再臨の時を待ち続けているのです。この雲だけは想像出来ません。
激雨をもたらした雲を自然の恐怖と受け止めることが出来ても72年前、広島(8月6日)長崎(8きま月9日)に突然現れた黒く紫がかったきのこ雲だけは断じて受け止めるわけにはいせん。核兵器禁止条約採択に122か国が大拍手をもって賛成したのに、唯一被爆国日本がそれに署名しないことに世界中の人が納得するでしょうか。日本国民として悲しみをまた一つ背負うことになりました。しかし希望は雲一つない夜空に輝く星のように世界の良心は輝いています。

                          姫路野里教会 牧師

  『 良寛に学ぶ 』

良寛の歌
 手を折りて昔の友を数ふれば なきは多くぞなりにけるかな

たまたま良寛を読んでいてこの歌に出会いました。良寛のころに比べれば、現在は平均寿命が八〇歳を優に超えるようになりましたが、わたしにとっても同じ心境です。
年賀状がだんだん少なくなってきました。しまいには彼はまだ生きているのか、それとも亡くなったのかも分からなくなってきました。そのうちわたし自身も相手方から、彼は亡くなったと思っていたのに、まだ生きていたのか、と思われるようになるでしょう。 わたしの古い親友で中学二年生のとき組替えがあり隣の机で彼と出会いました。ほかに二人の友達も加わり、互いに写真を撮っては共通のアルバムに貼り付けて、そのアルバムに「桃源郷」と名付けました。まだ太平洋戦争が始まる前で学生生活ものんびりしていたのです。 後から加わった友達は広島の海軍兵学校を受験して駄目だったので海軍経理学校に入隊しました。どちらも難関と言われたところです。初めからの友達とは四年生の時海軍予備練習生に受験して一月七日に藤沢海軍航空隊に入隊、同じ部隊で、それも同じ班となりました。板張りのバラックみたいな兵舎は雪が吹き込むあり様で、あまりの寒さにふたり別々の毛布を一つにして体を寄せ合って寝た間柄でした。 敗戦となってわたしは神田の電気屋に勤めたのですが、その友達を会社に紹介して三年間共に働きました。それからの人生はそれぞれの道を歩み、彼は自動車関係に勤めわたしは大阪に来ることとなった次第です。東京と大阪、ときどき上京した折りには神田、新宿、池袋などで食事して別れましたが、それぞれ仕事が忙しくなり家庭もあり、いつの間にか疎遠になっていきました。
 それから何十年、たまたまわたしが教会の修道会に参加した帰り道に、タクシーで彼の家を訪ねてみました。なんと彼は軽い認知症になっていて奥さんも高齢となって体の調子も悪く、あまり長居もできない状態でした。年賀状も来なくなり現在生きているのか亡くなってしまったのかも分かりません。
 人は皆、草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。
 草は枯れ、花は散る。しかし神の言葉は永遠に変わることがない。

 わたしたちはいつかこの世を去るのです。ただ永遠の世界があることを知るだけで慰めが与えられます。 猛暑のみぎりお大切に。  敬具

           二〇一七年 八月大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也


教団声明・・憲法を破壊し、国のかたちを変える憲法改悪に抗議する

人類普遍の原理を柱とする日本国憲法
 政府与党は現憲法を「押し付け憲法」と考えこれに対し「自主憲法」を2020年施行を目指し改憲を加速している。
 戦前の侵略戦争を悔い、平和国家を目指すことを明確にしめした「戦争放棄」「国民主権」「基本的人権」を基本とする内容の憲法の考えは、日本国に平和と繁栄をもたらす歴史的恵沢であり、我々は神の導きと信ずるものである。
 自民党憲法改正草案には先の大戦については加害者としての反省は一言もなく、天皇は「元首」と規定され、国民主権国家とは思えない時代錯誤的表現で始まり、現憲法二章の「戦争の放棄」の規定は削除され、9条には「自衛隊」が明記される。
 現在の政府見解では自衛隊は「必要最小限の実力部隊」と規定されていて憲法によっても否定されない「個別的自衛権」で「戦力」にあたらない。
以前の改憲案にあった「国防軍」との表現は変わったが、今までの「専守防衛」を止めようとの本音があらわれている。その任務には「公の秩序を維持」するためにデモ鎮圧に出動が可能になり、さらに軍事機密保護を名目に文民統制は不可能と予想される。憲法に明確に規定されることにより将来「徴兵制」に道を開くことが危惧される。
 草案13条では「個人として尊重される」が削除され近代憲法の考えは無くなり「公益および公の秩序」が優先され、表現の自由も「公益及び公の秩序」に反するものは認められない。
 24条には新たに「家族」に関する条項が登場し「公共の福祉」の考え方は削除されてしまう。今日家族が解体されそれに伴う様々な問題が続出している時代に我々が目指すべき方向は家族の再構築である。我々キリスト教会は福音宣教における愛の奉仕の働きとしてこの分野に包括的取り組みを獲らねばならない。
最近政権与党の重鎮の中から「自民党は立党の当初から党是として憲法改正を掲げている」というのは誤りであるとの指摘がなされた。安倍政権という国民と乖離した感覚と持つ「不思議な政権」が独裁的に国のかたちを変えていこうとする手法は極めて危険である。
 我々キリスト者はイエス・キリストの罪の赦しと愛による歴史の再生を信ずるものとしてこのような様々な改悪が盛り込まれた憲法破壊とも言える動きに心から反対するものである。と共に現憲法を活かす「活憲」(*)に力を注ぐべきである。

  2017年6月18日 教団研修会において
                           日本自由メソヂスト教団

(*)「改憲問題とキリスト教」(稲垣久和、教文館)より引用



           言葉の露       中嶋嗣美

サン=テグジュペリ遺作”the little prince 星の王子さま”の童話を読んだ50年前、読み落とした言葉に出会う機会がありました。自分の星から飛び出して他のめずらしい星を巡り回っていた星の王子さまが前々から望んでいた地球の星に着いた所がアフリカの砂漠でした。そこで最初に出会ったのがヘビでした。

『星の王子・・「人間たちはどこにいるの、砂漠ってさびしいね・・・」
ヘビ・・「人間たちのところにいたってやっぱりさびしいさ・・・(It’s also lonely with people.)     王子さまは長いことヘビをながめていました。』

若い時、通りすぎたこのヘビの言葉が老年になってしみじみ味わえるのです。孤独感です。
人は孤独から逃れようと多くの体験に挑戦しますがやはり帰ってくるのは孤独です。
2017年7月1日野里教会はプレ70年を迎えました。小さな教会の歴史はただ神の愛に
守られそれに答える兄弟姉妹の信仰によって育まれてきた。今、ルカ14章にあるイエスが招く宴会に貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、眼の見えない人(耳の聞こえない人)が揃いました。一人一人さみしさを背負いながら共にイエス様のとりなしの祈りに支えられ御跡に続きたいと願います。

『憲法9条を守ろう』

わたくしたちのキリスト教団は「日本自由メソヂスト教団」と言います。インターネットをなさる方は検索してくださるとどんな歴史があるのか、主張をしている団体かが分かると思います。非常に社会問題に対して関心の高いグループなのです。
 先月の第三日曜日の午後、芦屋の市民会館で教団の研修会が開かれ、所属教会からの教会員が集まりました。主題は「憲法9条を守るために」。この主題のもと6名の発題者が現代のもっとも差し迫った課題としての憲法問題をそれぞれの立場から意見を発表いたしました。
 このわたしは一九二七年(昭和二年)生まれで生粋に戦争の時代を生き、太平洋戦争開戦から敗戦までを生きてきた証人としての意見を発表させていただきました。
なぜ今回の主題に「憲法9条を守るために」が選ばれたかというと、安倍内閣が高い支持率を背景に、いよいよ憲法9条改正を二〇二〇年に施行すると、具体的に日程を明言したからなのです。 ではなぜ9条なのかといいますと、9条といえば、まず第一は国際平和を守るためには武力による戦争の放棄を宣言し、二つ目はそのためには陸海空軍などの戦力を持たない、という大胆な発言です。平和憲法と言われる憲法の核心はこの9条にあるのです。以前から法曹界からは日本の自衛隊は、9条で武器などの戦力を持たない、といっていることに反しているから違憲である、と言ってきました。内閣は今まで専守防衛に徹する自衛のための実力は違反ではないと主張してきました。しかし言い訳せずに堂々と自衛隊を9条の中の三項に組み入れたいというのが今回の憲法改正の目的なのです。
わたしは日本の軍備は世界の主要国と比較して、専守防衛に徹する自衛のための実力程度なのかを調べてみました。するとどうでしょう。世界の中でもひけを取らない軍備を持っているのです。ただ今まで9条があるから戦争をしてこなかったのです。
わたしは藤沢海軍航空隊で敗戦を知りました。しかし家にはすぐに帰ることができず、厚木飛行場でマッカーサー元帥の到着を迎えるため滑走路の整備をさせられて、九月一日の到着と同時に除隊になりました。家は空襲で跡形もなくその後戦災者住宅で暮らしました。敗戦後二年目に現在の日本国憲法が発布されました。戦前の大日本帝国憲法と違って主権在民の暮らしやすい国になりました。もう戦争にはコリゴリしています。そのような国民の中から生まれたのが戦争放棄の9条だったのです。
五月三日は何の日と聞かれて「なんの日だったかな、建国記念日?」という人たちが大多数を占める時代になりました。あの空襲の下を逃げ惑うような日が来ないよう国民の皆さまがこの国を戦争のできる国にしないよう、子どもたちのためにも、国民投票の一票を大切にしていただきたいと願うものです。

二〇一七年 七月            大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

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