日本自由メソヂスト教団 宣教開始122周年

私達の教団は、「貧しい者への福音」を掲げて1897年河辺貞吉師による淡路島福良での伝道からスタート致しました。私たちを取り巻く「いのち、人権、平和」をつぶそうとする動きに抵抗して、「地の塩、世の光」としてのはたらきを続け愛のある環境を築いてゆきたいと願います。共に歩みましょう。

   『 言葉の露 』
ある有名な総合大学の神学部長が「神学部は牧師養成機関ではない。牧師になる召命は教会で育ててほしい」と伝え聞き、学校に対する期待がうすれました。
確かに神学部は生徒数のわりに教授数を広範囲に揃えなければならない経営面で足をひっぱる学部であります。世界的にカトリック・プロテスタントの神父・牧師が年々減少している壁にぶつかっている今日、教派を越えてこの問題に取り組まねばならない時です。教会とは何か。
 70年前、野里教会から若き高校生を神学校へ送り、卒業後10年近く真面目に牧師をされていた兄弟が親の新宗教を継ぐため苦しみのうちに転向されたことを知って、落胆のどん底に突き落とされた記憶があります。あれから何十年か過ぎて、その長男が教会生活を続け、信徒として高校教師を勤めながら月1回小さな田舎の無牧の教会へ聖書の言葉を語り伝えていることを知り、あと一年定年後神学部へ行く召命の報を聞き、久しぶりに心が燃えるのを覚えました。IT時代でロボット牧師になる時代が来る不安を抱えながら

“ わたしは、神に近くあることを幸いとし、
主なる神に避けどころを置く。
わたしは御業をことごとく語り伝えよう“   詩編73-28

語り伝えることは教職者のみとの傲慢に気づかされ、主にある兄弟姉妹凡て語り伝える器であることに希望を見出しました。暴走する科学技術の時代と宗教・哲学・倫理がいかに対峙してゆくか遠くて近い未来を詩編は呼びかけています。

                       姫路野里教会牧師 中嶋嗣美

  『 この教会を始められた方のご苦労 』

現在牧師として働いているが、教会と名乗るところへ行ったのはいったいいつ頃のことであろうか。札幌にいるわたしの甥が小学校に上がる前の五歳ごろのことである。たまたま小雨が降るある日のこと、甥が外に遊びにも行けずにいたところに、男女の青年たちが戸を叩き子供たちの集まりをしているのでよかったらおいで下さいと案内に来た。ちょうど甥が退屈していたのでそれを連れて近くの青年会館に行ったみた。そこでは高校生たちが紙芝居をしたり歌をうたったりと十数名の子供たちを相手に懸命に遊ばせていたのである。後でわかったのは歌っていたのはこども讃美歌だった。こどもたちの中におとながひとりいたので目立ったのだろう、その後ある日のこと通勤で駅に向かって歩いていた時、先ほどの高校生の娘さんが家の前にいて、わたしを見て教会においで下さいと誘われたのである。場所は電車で二駅ほどの所で、ある日曜日の朝聞いたところに行ったのである。近所で聞くと「ああ、よく太鼓を叩いてまわっている教会ですね」と教えてくれた。行ってみると間口が六メートルぐらいでいた板の間に座布団を敷いて座るような場所で、「西田辺教会」と看板には書いてあった。それからは朝の礼拝、夕方の伝道会にと、わたしもまだ独り者だったから毎週のように通ったものである。それは一九五三年の六月ごろで、牧師は織田金雄という五〇歳ぐらいで 大阪弁で面白おかしく説教する人で、一同笑ったり涙を流したりと信徒は満足していた。
 その年のクリスマスにわたしは洗礼を受けたのであった。今から七十七年前のことである。織田牧師は教団の総会議長であり、多忙のため教会の説教は牧師夫人と神学生数人が交代で行っていた。そのうちに借りていた建物が六十五万円で売りに出され、主婦と青年だけの教会は途方に暮れたが、幸い教団内のある信徒が買い取ってくれて立ち退きを免れた。だがその場所は地下鉄予定地に面しており、将来的には静かで教会の少ないところを探して現在地我孫子の畑の真ん中に坪当たり一万三千五百円で五十五坪の土地を手に入れ、木造の教会堂を建てたのである。その教会堂も二十五年たって老朽化したころ放火されて全焼し、同情心もあり四千万円の寄付金で鉄骨二階建ての教会堂が建てられたのである。わたしは勤務先を定年退職して神学校に学び牧師となり、その後また信徒の中から牧師となったものが起こり、また大阪南港にあった教会が合併して牧師が現在三名となったのである。わたしは今月九十一歳となるが安心して天に帰ることができる。将来の教会についてはこの教会を始められたお方のみ心がこの地に教会を続けられるであろう。

二〇一八年 十月       大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

  「 矢内原先生の遺訓 」

故矢内原忠雄先生が老人に残した“老人の救い”についての短いメッセージを送ります。

“人生の辛苦甘酸をなめつくし、今では活動能力もにぶって、夕日の傾くを見るような
老人の姿よ。あなたはこのまま墓に入って行こうとなさるのか。
まだ陽はあるのにうなだれることはない。さあキリストの救いを知り「わが生涯は恩恵であった。わが罪はゆるされた。わが前途には永遠の生命の国がある」という喜びと希望を抱きつつ、満足と感謝をもってこの世を去りましょう。それが残る生涯において為すべき最大の仕事であり、またそれによって最大の遺産を後の者に遺すことが出来るのです“

矢内原忠雄先生は社会科学者、教育者、キリスト教伝道者として日中戦争を契機として国家と為政者を厳しく批判し、東京大学教授の席を追われた。第二次大戦後、東大に復職し、国際関係論を論じ学部長、総長を歴任された。68歳で天に召される一年前、野里教会で礼拝説教をされたことが58年前の記録にある。

                     姫路野里教会 中嶋師美

  『 亡き妻との思いで 』

こんな言葉をはじめて読んだ。(女子パウロ会『修道院の風』)p100)
「すべてのものは対をなし、一方は他に対応する。
主は不完全なものを何一つ造られなかった。(主とは神のこと)
一方は他の長所をさらに強めるだれが主の栄光を見て飽き足りたといえようか。」
 これを読んで不完全なものは良くないものだと言っているように思う。だが純粋であることこそ完全でよいものだと言っているのかと思うとそうではない。世の中に不純も必要だとわたしは思う。塩は世の中でいくらでも売られているが、食卓塩は99.99パーセントという純粋さをを誇っているが、一度天然の塩をなめてみたら塩辛さの中に味があるのに気が付くだろう。不純物があるからこそうま味があるのだ。人間にしても、純粋、純真、清潔、完全無欠、という人間がいたらとても近づけないではないか。その前に出たら、自分の汚さ、不純が暴露されるようで恐ろしくさえ感じるだろう。話もできなくなる。お互いにある程度の不完全な人間であることが分かっているからこそ安心してお付き合いできる。親子にしても、子どもは完全無欠な父の前に出たら窮屈でこころを開いて話もできないだろう。酒も飲めないだろう。
 わたしと家内とは六三年間添い遂げたが、不倫こそしないが謹厳実直ではなかった。一九七〇年代は接待も多く、午前様をやったことは幾度もあった。 わたしの手元に家内が書いた紙の端くれに書いたメモがあり、捨てずに大切に持っている。これはあるとき会社にいたころ監査のために名古屋へ出張に行った時のこと、夕方になって相手がそのまま帰すわけにもゆかず、繁華街へ連れ出して飲みにゆき、遂に遅くなってホテルに泊まってしまった。酔っぱらっていて電話をすることも忘れて、そのまま眠ってしまった。前述のメモにはこのようにある。 「一晩の外泊を怒っているのではありません。一晩中心配しながら過ごしたその傷は 大きいです。なんのための電話でしょうか。朝の『おはよう』とねぼけたような声、安心と同時に大きな憤りを感じました。あしからず」 とある。家内がいなくなってしまった今、愛し合った記念としてこれは身近においているのです。 現在家内が無くなる日まで住んでいた老人ホームの同じ部屋に寝起きしているが、ベッドで眠るときのお祈りの中で、妻との再会を祈ります。天国では神への信仰ある者は皆、神さまへの礼拝をしています。家内が地上にいた時、夫やと姑との間で流したかったであろう涙を、神さまが拭ってくださるよう寝る前に祈るのです。                                                                  
   二〇一八年 九月      大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

『 言葉の露 』

毎年8月、特に被爆国日本は「平和」について急に多くの人が関心をもちます。
平和を守りたいというのは凡ての人の共通の願いです。しかし守る平和のために武器をったり、買ったりとは全く理解できない人間側にいる者が“非現実理想主義者“のレッテルをはられ、軽くあしらわれているテレビ討論を聞いて知らぬ間にそこに染められてゆくことの恐しさを感じとりました。過激な思想や行動でもって、自分だけに通じる理想の平和像を勝ち取ろうとして、かえって紛争や戦争が起こることも現実です。核保有国に向かって3000年前の預言者エレミヤの言葉が今も通じることに眼をとめてみました。

 “身分の低い者から高いものに至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らはわが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに『平和』『平和』と言う” エレミヤ書6章13〜14節


続く平和のない時代にイエスの深い言葉『平和をつくり出す人たちはさいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう』口語訳聖書マタイ伝5章9節
ピースメイカー(peacemaker)としてわたし達の出来る小さな祈りと行為が平和の足跡を残してゆくことを語られたのではないだろうか

                      姫路野里教会 牧師 中嶋嗣美

『 言葉の露 2018-7』

2018年7月1日姫路野里教会は創立70周年を迎えました。70年前の周辺は一本の田舎道をはさみ、両側ほとんど田圃でした。短い富士才町通りにお寺・天理教会(後に移転)神社・キリスト教会がありました。小さな裸電球で夜道は互いの顔を確認できなかった笑い話も残っています。もちろん車も少なく、音といえばこの時期蛙の合唱ばかりです。富士才町という新たな町名がつけられた初代町会長は野里教会の牧師が選ばれました。チョボヒゲはやし、袴姿で町民総会を畳会堂でしていたことを覚えている人は、すでにいないかも知れません。70年過ぎた現在あれから何十倍?増えた町民の住む家は今風になり昔の表札のある四軒を除いて、すっかり変わりました。教会の働きである一つの慈善活動は、今も地域の人が助け合って続けられています。
“是天の門なり”と表札の下を出入りする人凡てに神の祝福を祈り、数少ない信徒を中心に新たな出発を願っています。

                       姫路野里教会 牧師 中嶋嗣美

『 人生では思いがけないことが起こる 』


思いがけないと言うことは人生に何度か起こるものです。今回は右眉毛の内皮ガンです。今までから大腸ガン、膀胱がん、前立腺ガンを経験してきましたが、皮膚がんなど思いもしなかったモノです。皮膚科のクリニックには今まで水虫でお世話になっていましたが、水虫の薬をもらいに行ったついでに眉毛と目の間が少し赤いので診てもらったら、少し切って組織を検査して、その結果今日電話がかかり来てほしいとのことで、話を聞くと日光性内皮性ガンで手術が必要ですとのこと。希望する病院を聴かれたので今までからお世話になっている府立急性期総合医療センターを希望して手続きを取ってもらいました。すると六月二九日に入院と決まりました。ネットで調べますと病巣部分より少し大きく切取るでしょうから皮膚の移植が必要となるでしょう。それで多分内腿あたりの部分から取ることになるでしょう。
 九〇歳にもなって毎日元気で生活していたから、神さまのもとへ帰るのは何の病気で帰るのだろう、内臓の病気だろうか、老衰だろうかと考えていたので、皮膚がんでは死ぬこともないでしょう。ただ顔が少し醜くなるでしょうが、この年齢なって顔かたちを気にすることもありますまい。
 毎日朝晩にお祈りしていますが「すべてをあなたにお委ねいたします」との神さまのお答えが今回の手術です。わたしにはまだまだ仕事があるよ、ということでしょう。家内がいたらまた心配をかける所ですが、今はその心配もありません。久しぶりの入院で、ゆっくりさせていただきましょう。手術後の痛みはいっときのもので、いつまでも続くものではありません。ただこころの痛みがないわけではありません。「こころの痛み」とはわたしのキリスト信仰が、本当のわたしの信仰になり切っていないという痛みです。というのは、わたしと言う人間が日本の文化的、古典的文化に開花したキリスト者になり切っていないという無念さです。わたしの信仰としての目標はカトリック神父の井上洋次神父が持っている 日本人としてのキリスト教です。日本人としてのまなざしで新約聖書をくみ取るのです。この視点を小説として開花したのが遠藤周作の書いた『沈黙』です。  
キリスト教は西洋の宗教ではなく、人間全体にとっての道、キリスト道なのです。だからと言って仏教・神道をキリスト道と融合させるというようなことではなく、日本人としてイエスの歩みを生きることなのです。
         二〇一八年 七月  大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也

46b18683.jpg 今年も「こころのふれあいコンサート」を行います。

 大阪東南教会では毎年恒例の「こころのふれあいコンサート」を開催します。
第31回目の今年もソフィアアンサンブルの皆様に素晴らしい演奏と歌を披露していただきます。添付のビラとおり、5月27日(日)午後2時より開始です。入場無料!!!

  『 5月の言葉の露 』

57年前に交付された“母子手帳”が茶焼けした姿で現れました。母になる喜びと不安の記念帖として長い間引き出しの隅に眠っていたのです。あれから母になるということは“母子手帳”から始まって死ぬまで?“母になるとは何か”日々葛藤が続いています。幼子イエスを抱いているマリヤの母子像は多くの人を魅惑してきました。
聖書の中にイエスが母マリヤに対して手厳しい態度の場面があり、母として再度躓いた時期もありました。しかしヨハネによる福音書は十字架上の絶叫の苦しみの中でイエスは母マリヤに向かって、自分がいなくなっても子となる人がある・・・そしてその言葉を受けた側にいる者に向かっても母マリヤをあなたの母として受けるように告げられました。2000年後のこのメッセージは凡ての母が陥りやすい自己愛に通ずる自分の子供だけにそそがれるのではなく、他者に向かっても母になるように。
弱き他者に向かっては与えられた力で子になるように告げられたと受け止めています。
86歳で亡くなった母娘の会話に“これ何?”と感謝の気持ちで小さな乳首をつまむとかすれ声で一言“お乳”と答えたのが耳に残った最後でした。
毎年五月になると多くの人の母になって生涯を閉じた母を思い出します。

                        姫路野里教会牧師 中嶋嗣美

 『 今は妄想のとき 』

古代インドでは人生を四期に分け、学生(がくしょう)期〜二五歳、「家住期」(かじゅうき)〜五〇歳、「林住期」(りんじゅうき)〜七五歳、「遊行期」(ゆぎょうき)〜一〇〇歳とし、学ぶべき時、家庭を造り社会で働く時、仕事・家庭から卒業して林の中に庵を構え、自らの来し方行く末を瞑想する時、そして庵から出て思うままに遊行して道を説き、耳を傾け人生の知恵を人々に授ける時と言われています。さて、現在の自分はどの時期にあたるのかは考えて生きる必要があります。
最近読んだ本に五木博之氏の『百歳人生を生きるヒント』<日経プレミアシリーズ>は五〇代(事はじめ)から一〇代ずつ九〇代(妄想のとき)までを記し、「未曽有の長寿時代をどう生きるか・さあ準備を始めよう。」と書かれています。五木さんは昭和二十年のとき中学二年生で、現在の北朝鮮のピョンヤン(平壌)にいました。そして次のように書いています。
敗戦直後現地の日本人の一般市民には「治安は維持される。一般人は軽挙妄動することなく現地にとどまるように」とお上からの声が流されました。しかし政府要人の家族たちはここにいては危ないと察知してソウルの方に南下していきました。国家に寄りかかっていた人たちは、やがて南下してきたソ連軍にすべてを奪われて地獄を見たのです。 国と言う権威は何でもできるということです。人命を紙切れ一枚で引っ張り出すことができるのです。今わたしの手元に直径五僂療があり、その中に横六〇僉⊇鳥諭鮫僂梁腓な紙に「日本国天皇は故古川愛三郎を勲八等に叙し・・・」の賞状が入っています。この紙一枚で父母にとって大切なわが子は引っ張り出されミャンマーの奥地で死んでしまったのです。享年二七歳でした。父母がいなくなった今、わたしがこれを持っていても仕方ないので、私が死んだら棺の中に入れてもらいましょう。棺の中にはつれあいが「私が死んだときこの服をわたしの上にかけてネ」と頼まれていて入れ忘れた式服、以前ここに書いた母の髪の毛など、入れるモノがいろいろあります。ただまだ棺に足を入れる前に為すべきことが残っています。
今月は今年で三一回目を迎える「こころのふれあいコンサート」の新聞折り込みのチラシ一万枚を各社新聞に渡すこと、六月は行動することの反対で「しないこと」を「すること」、すなわち心の中をカラッポにしてただ聖書の御言葉だけを心の中で働いていただくアシュラムという集会を行うことなど、九〇歳のわたしにとって忙しき限りです。 先に九〇歳代は妄想のときと書きましたが、良い意味で妄想に遊ぶこと、聖書の中にある人間では考え付かない言葉に妄想したいと願っています。

二〇一八年 五月  大阪東南キリスト教会 名誉牧師 古川富也



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