2007年11月
2007年11月23日
2007年11月15日
【蕎麦の歴史】江戸時代2 蕎麦には山葵
日本で蕎麦が栽培され出したのが弥生時代と言いますから、とても古いお話で、お米が凶作になった場合の救荒作物だったと言います。蕎麦は美味しいだけでなく、本当に偉い食べ物。まったく、本当に! だってそう思いません。親はなくても子は育つと言いますけど、お米がなくても蕎麦があれば、腹は何とか膨れますから。こりゃあんまり喩えがよくありませんでしたかね(^^;
ところで、蕎麦があんな風に麺仕立てで食べられるようになったのが、元禄のころと言いますから、これもまた古い話でして、それまでは蕎麦粉を熱湯で練って、団子のように千切り、卸大根なんかで食べていたそうですが、これがいわゆる蕎麦掻っていうやつでして、あれは歯にくっついて、どうも粋なもんじゃないと思っていますけど、それが、二八と言って、小麦二・蕎麦粉八の割合で捏ねてつなぐと、あら不思議、細く切っても切れずにつながっている。それを茹でて、麺つゆにちょいとつけ、ずるずるすすれば、これがかっこいいってんで、江戸っ子が飛びついたと言う寸法で。そこで、時そばとか、そば清なんていう落語なんかも生まれまして、今に至ったわけでして。
さて、薬味にネギとワサビがつきものですが、江戸の町は意外に水が悪くてね、下手をすると、食中毒なんかしょっちゅう。ネギもワサビも殺菌作用があって、これを防いでいたんじゃないかと、もちろん、薬味で旨さも倍増と言う、一石二鳥のうまい話でして、でも、ワサビはつゆに溶かしちゃいけません。せっかくのつんつんした辛味が台無しになっちまいますから。ワサビは麺のほうにちょいとつけ、そばの足をほんの少しつゆに浸して、そのままずるずると行ってくださいな。これが、通っていうもの。なんてね、粋がっても、しょせんはお好きなように、いかように食べていただいてもけっこう。だって、傍(そば)で、ごちゃごちゃ能書き垂れることほど野暮はありませんから。
ところで、蕎麦があんな風に麺仕立てで食べられるようになったのが、元禄のころと言いますから、これもまた古い話でして、それまでは蕎麦粉を熱湯で練って、団子のように千切り、卸大根なんかで食べていたそうですが、これがいわゆる蕎麦掻っていうやつでして、あれは歯にくっついて、どうも粋なもんじゃないと思っていますけど、それが、二八と言って、小麦二・蕎麦粉八の割合で捏ねてつなぐと、あら不思議、細く切っても切れずにつながっている。それを茹でて、麺つゆにちょいとつけ、ずるずるすすれば、これがかっこいいってんで、江戸っ子が飛びついたと言う寸法で。そこで、時そばとか、そば清なんていう落語なんかも生まれまして、今に至ったわけでして。
さて、薬味にネギとワサビがつきものですが、江戸の町は意外に水が悪くてね、下手をすると、食中毒なんかしょっちゅう。ネギもワサビも殺菌作用があって、これを防いでいたんじゃないかと、もちろん、薬味で旨さも倍増と言う、一石二鳥のうまい話でして、でも、ワサビはつゆに溶かしちゃいけません。せっかくのつんつんした辛味が台無しになっちまいますから。ワサビは麺のほうにちょいとつけ、そばの足をほんの少しつゆに浸して、そのままずるずると行ってくださいな。これが、通っていうもの。なんてね、粋がっても、しょせんはお好きなように、いかように食べていただいてもけっこう。だって、傍(そば)で、ごちゃごちゃ能書き垂れることほど野暮はありませんから。
2007年11月13日
2007年11月09日
【山葵の歴史】戦国時代 越後の虎の「勝ち鬨(どき)膳」とは
上杉謙信こと長尾景虎は、敵に塩を送ったと言うエピソードが有名です。つまり、義に厚い人物として、後世の語り草となっています。
謙信公の日頃の食事は、他の戦国武将と変わらず、一汁一菜の質素なものでありました。しかし、一旦、戦ともなれば、大量の炊き出しを行い、重臣は言うにおよばず、馬周りや足軽にまで、山海の幸をおおいに振る舞ったそうです。
謙信公が、勝ち鬨を挙げることを願って、味方の人心を掌握するために用意した「勝ち鬨膳」とは、どんなものだったのでしょう。
◆一例を挙げてみます。 戦国時代の刺身
「白身魚・くらげ」 ずんだ酢・煎(い)り酒/辛み(山葵・生姜)
醤油は戦国時代にはまだ発明されていませんでした。醤油の醸造が始まったのは江戸時代以降です。戦国時代、魚を生で食べることはやはり稀であったでしょう。ところが、このころから刺身が膳に乗るようになったと言います。
醤油の代わりに、梅干を入れて酒を煮切った「煎り酒」や、枝豆を摺って酢を加えた「ずんだ酢」につけて、刺身を食べていたと言うではありませんか。
当然、薬味に、「わさび」も添えられました。他に生姜や南蛮味噌などをつけて、食していたようです。
一度、試してみたいなと思いました。なんだか美味しそうではありませんか。
参考文献
『厨事類記』(鎌倉後記)
『山内料理書』(1497年)
『四条流包丁書』(1498年)
謙信公の日頃の食事は、他の戦国武将と変わらず、一汁一菜の質素なものでありました。しかし、一旦、戦ともなれば、大量の炊き出しを行い、重臣は言うにおよばず、馬周りや足軽にまで、山海の幸をおおいに振る舞ったそうです。
謙信公が、勝ち鬨を挙げることを願って、味方の人心を掌握するために用意した「勝ち鬨膳」とは、どんなものだったのでしょう。
◆一例を挙げてみます。 戦国時代の刺身
「白身魚・くらげ」 ずんだ酢・煎(い)り酒/辛み(山葵・生姜)
醤油は戦国時代にはまだ発明されていませんでした。醤油の醸造が始まったのは江戸時代以降です。戦国時代、魚を生で食べることはやはり稀であったでしょう。ところが、このころから刺身が膳に乗るようになったと言います。
醤油の代わりに、梅干を入れて酒を煮切った「煎り酒」や、枝豆を摺って酢を加えた「ずんだ酢」につけて、刺身を食べていたと言うではありませんか。
当然、薬味に、「わさび」も添えられました。他に生姜や南蛮味噌などをつけて、食していたようです。
一度、試してみたいなと思いました。なんだか美味しそうではありませんか。
参考文献
『厨事類記』(鎌倉後記)
『山内料理書』(1497年)
『四条流包丁書』(1498年)