2006年05月

2006年05月11日

自分史について

自伝について
自伝又は自分史を書くことは流行っていると聞く。実は私も膨大なページ数の自分史原稿は既に書いている。昔と違ってパソコンだから、悪筆でもきれいに書ける。何日でも補足修正が出来るからなかなか便利だ。
しかし内容が問題である。いくら人に見せる予定が無くても、絶対に書けないことがある。口外したことは無いが仮に知られても仕方がない程度のものもある。このひとつを紹介しよう。

実は私は高校の修学旅行には行っていない。京都への旅行に行かなかった。お金が無かったからだ。私は6人兄弟の4番目だが、家は小作農家で終戦で自作農になったが田畑は1町にも足らず8段程度で貧しかった。更に父親が40才後半で結核で亡くなり母親が懸命に頑張ったが、女手では6人の子供を養うのも大変で、長兄は専門学校に通いながら農業の手伝い、私も勉強は全くさせてもらえず、特に農繁期には田畑に出て農作業を手伝だった。従って田畑の作業の合間の休憩時とか、行き帰りに歩きながら英単語も覚えた。二宮金次郎は当たり前だった。
それでも家計は苦しく、旺文社の100円英語豆単もなかなか買えない。

このような状態だから多分数千円だったと思うが、修学旅行に行くお金ははさらさら無い。しかし学校になかなか言い出せなかった。幹事の同級生が集金に来ても1日延ばしに延ばした。恥ずかしくて言えないのだ。しかし遂に苦し紛れの言い訳を見つけた。曰く京都大学に進学する予定だから十分見る機会がある、従って京都旅行には行かないと説明した。勿論、家には修学旅行の話は全くしなかった。母親を苦しめるだけで、解決策などはさらさら無いのだから。

そして猛勉強した。家では大学進学の話はしなかったが受験勉強を続けた。田舎なので予備校などは全くなく、ただひとつ夜中12時30分からの文化放送の旺文社受験講座が唯一の大学受験の道しるべであった。毎日夜中に目を覚まして朝まで猛勉強した。高等学校の授業や期末試験はそっちのけだったから、高校の成績は悪かった。

3年生の暮れになり受験する大学を申し出る段階になって、九大工学部を受験したいと話したところ、担当の(加藤)先生に大笑いされた。
→九大工学部は東大と同程度の難関だぞ、何を考えているんだ 君は!と。
(従兄弟が九大を受験するから、九大なら生活費が安く済むと思い九州に変更した)

母親や長兄には、大学を受験だけさせて欲しい、多分ダメだろうから近くの塩田会社に就職しますと説いた。受験浪人はしないと約束した。

そして、高校や周囲の期待を見事に裏切って、西日本では最難関の九大工学部に現役で合格したのだった。本当に万感の思いであった。
実はこのことは妻にもまだ話していない。話しても良いかと思うがやはり恥ずかしさもまだ残るから。



mh3944 at 16:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 雑感