2008年02月
2008年02月29日
グーグル航空写真は面白い
インターネット地図が面白い。特にグーグル航空写真は素晴らしく、ニューヨークの繁華街でも、パリ凱旋門でも、北朝鮮の核施設でも、世界中どこへでも空から案内してくれる。 しかし私は特に子供時代を育った自分の山村を見るのが大好きだ。
私は山口県の片田舎で育った。一応山陽本線は通っているが、本当に小さな山村で人口3000人だ。それでも当時は尋常小学校1学年で35名程度はいたが、何をやってもすぐに順番が回ってきた嫌な思い出がある。
今では廃校になっているが、当時の中学校も生徒数は少なく、陸上部、兼テニス部, 兼バスケット部兼。。。という具合に一人何役でも、色々なスポーツクラブの選手を兼ねていたが、不器用な私にはテニス部以外の声はかからなった寂しい思い出もある。
私はこの城南村で中学まで育ったのだが、前方には高さ300mの千坊山があった。その向こうにあった衣服廠と燃料廠の光市を米軍の空襲から守るため、戦前この千坊山には高射砲陣地が設けられていたが、ターボチャジャーのB-29には弾が届かず、空中で次々と炸裂する高射砲弾を眺めていた思い出もある。
後方には長州藩の奇兵隊が立てこもった石城山という山があり、その後ろには塩田村、更にその後ろは伊藤博文公の出身地の束荷(ツカリ)という山村があり、明治天皇を襲って極悪の非国民と言われた、難波大助が生まれた土地でもある。
山陽本線はもともと山村を通らずに海岸添いの路線計画で、繁盛していた室積漁港を通って光市に出る予定だったが、列車音に驚いて魚が逃げるという室積からの反対運動で、大きく捻じ曲げられ、結局わが山村を通ることになった。その後、室積港は交通の便から取り残されて完全に寂れてしまった。 多くの反対運動は、このように近視眼的な利益に惑わされて、中長期的な展望を考えない悲惨な結末に終わるのは、今も昔も全く変わっていない。
小さな山村から殆ど出たことのない私が、あるとき、15Km離れた隣町の柳井の本屋に英語豆単を買うため自転車で出かけたことがある。柳井は周辺を合わせても人口3万人という小さな町で、昔は映画館が4−5軒あったが、不案内な私は道に迷ってしまい、とうとう目的の本屋にたどり着けず、やっとの思いで自宅に帰ってきた記憶もある。
同じく真夏に、兄と一緒に、柳井から海岸に沿って10Km離れた阿月陸軍病院(当時)に歩いて出かけたが、途中で疲労困憊した思い出もある。今ならクルマで10分程度の距離だろうが、往年の苦闘も懐かしい。
同じく、後方の山深く30Km 程度は離れた高水町清尾に親戚があり、父と兄と私の3人が1台の自転車で出かけたことがある。まず父が兄を自転車に乗せてずっと先まで行って降ろして帰り、今度は自分を乗せて更に兄の先まで行っては降ろすという作業を数十回繰り返して、やっと夕方に、山深い親戚に辿り着くという難行苦行であった。今なら、クルマで多分30分以内で簡単に行けることを思うと、自動車の威力は格別で、日常生活の感覚と次元を完全に変えてしまった。その道すがら、西から東に流れていた田布施川が、何故か逆方向に流れ始めて、東から西に向かう島田川に変わるのが、幼な心には不思議で堪らなかった。
小さな田舎町で道に迷って困惑し、山の向こうに海や、山の後方には別の生活圏、更に川が突然反対方向に流れる私の子供時代の生活圏を、グーグルの航空写真でみると、私の幼かった幼年時代が、まざまざと思い出される。 今では住宅の番地を入れるとその家を航空写真で指示してくれる時代ともなり、昔の歩く生活圏が、クルマを使う広大な世界に代わってしまった。 時間があればグーグル航空写真を眺めて、昔の感傷に侵っている今日この頃である。
私は山口県の片田舎で育った。一応山陽本線は通っているが、本当に小さな山村で人口3000人だ。それでも当時は尋常小学校1学年で35名程度はいたが、何をやってもすぐに順番が回ってきた嫌な思い出がある。
今では廃校になっているが、当時の中学校も生徒数は少なく、陸上部、兼テニス部, 兼バスケット部兼。。。という具合に一人何役でも、色々なスポーツクラブの選手を兼ねていたが、不器用な私にはテニス部以外の声はかからなった寂しい思い出もある。
私はこの城南村で中学まで育ったのだが、前方には高さ300mの千坊山があった。その向こうにあった衣服廠と燃料廠の光市を米軍の空襲から守るため、戦前この千坊山には高射砲陣地が設けられていたが、ターボチャジャーのB-29には弾が届かず、空中で次々と炸裂する高射砲弾を眺めていた思い出もある。
後方には長州藩の奇兵隊が立てこもった石城山という山があり、その後ろには塩田村、更にその後ろは伊藤博文公の出身地の束荷(ツカリ)という山村があり、明治天皇を襲って極悪の非国民と言われた、難波大助が生まれた土地でもある。
山陽本線はもともと山村を通らずに海岸添いの路線計画で、繁盛していた室積漁港を通って光市に出る予定だったが、列車音に驚いて魚が逃げるという室積からの反対運動で、大きく捻じ曲げられ、結局わが山村を通ることになった。その後、室積港は交通の便から取り残されて完全に寂れてしまった。 多くの反対運動は、このように近視眼的な利益に惑わされて、中長期的な展望を考えない悲惨な結末に終わるのは、今も昔も全く変わっていない。
小さな山村から殆ど出たことのない私が、あるとき、15Km離れた隣町の柳井の本屋に英語豆単を買うため自転車で出かけたことがある。柳井は周辺を合わせても人口3万人という小さな町で、昔は映画館が4−5軒あったが、不案内な私は道に迷ってしまい、とうとう目的の本屋にたどり着けず、やっとの思いで自宅に帰ってきた記憶もある。
同じく真夏に、兄と一緒に、柳井から海岸に沿って10Km離れた阿月陸軍病院(当時)に歩いて出かけたが、途中で疲労困憊した思い出もある。今ならクルマで10分程度の距離だろうが、往年の苦闘も懐かしい。
同じく、後方の山深く30Km 程度は離れた高水町清尾に親戚があり、父と兄と私の3人が1台の自転車で出かけたことがある。まず父が兄を自転車に乗せてずっと先まで行って降ろして帰り、今度は自分を乗せて更に兄の先まで行っては降ろすという作業を数十回繰り返して、やっと夕方に、山深い親戚に辿り着くという難行苦行であった。今なら、クルマで多分30分以内で簡単に行けることを思うと、自動車の威力は格別で、日常生活の感覚と次元を完全に変えてしまった。その道すがら、西から東に流れていた田布施川が、何故か逆方向に流れ始めて、東から西に向かう島田川に変わるのが、幼な心には不思議で堪らなかった。
小さな田舎町で道に迷って困惑し、山の向こうに海や、山の後方には別の生活圏、更に川が突然反対方向に流れる私の子供時代の生活圏を、グーグルの航空写真でみると、私の幼かった幼年時代が、まざまざと思い出される。 今では住宅の番地を入れるとその家を航空写真で指示してくれる時代ともなり、昔の歩く生活圏が、クルマを使う広大な世界に代わってしまった。 時間があればグーグル航空写真を眺めて、昔の感傷に侵っている今日この頃である。
2008年02月25日
宅急便事情
私の会社は宅急便を度々使っている。重さ15Kgの半導体機器を月間50台近く横浜と富山に送るのだ。1台約100万円とかなり高価な機器だが、従来はヤマト宅急便を使っていた。 東京から横浜へは1個約1,000円、富山は約1,300円と経済的な料金で、しかも翌日午前中には確実にユーザーに届けてもらえる。月間の支払い料も5万円前後で済み、1回富山へ出張する旅費と余り変わらないから、誠に有難いものだ。
昔の鉄道便のチケットは、最寄の駅に受け取りに行くのが本当に面倒だったが、ヤマトは見事な小荷物運送体制を作り上げたものだと感心する。毎回電話をすると感じのよい若手のドライバーが直ぐに荷物を引き取りに来る。当社担当のドライバーは2名の交代制だが、どちらもなかなかの好青年だ。ドライバーは個人社長方式らしく、都心の街角をいつも走って仕事をしているのはヤマトと佐川ぐらいだ。ヤマトのドライバーになるのは、多分難しい面接を受けるのだろう。
ヤマトと8年間付き合い、満足していたが、昨年暮れに新しいS宅急便に変更することにした。理由は更に格安の料金提示を受けたからだ。ヤマトより2割以上の割引料金を示されて、変えることにした。 そんなに安くても出来るの?と尋ねたが、勿論ですとのS社の返事なので変更した。ヤマトに不満は無く悪いと思ったが、当社もコストダウンは悪い話ではない。しかし、S社はかなり高齢のドライバーだった。勿論受け渡しに問題はなく礼儀も正しいが、やはりサービス業には若手のほうが似合う。3ケ月ほど付き合ったS社の最初のドライバーは突然辞めてしまい、別の年配の担当に代わってしまった。勿論当方に大きな不都合はないが、新しい担当者がいつまで続くか少し不安になる。
ヤマトは小型の1トン車で引き取りに来ていたが、S社は10トンの大型車を横付けて取りに来る。後発だから人数も少なく、個人用も業務用もごちゃ混ぜで1台の大型車で集荷して回るのだろうか。当社の15Kgの機器を1,000円を切る値段で、東京から富山に超特急で運ぶのだから、収支も相当厳しいだろうとひとごとながら思う。ドライバーも若手はなかなか集まらず、シルバー人材を起用して、少数の大型車で集荷するなど、無理を重ねているのだろう。
そう言えば、土日祭日を問わず、夜遅く荷物を運んでくる中小の宅配会社は高齢の運転手が多い。郵便配達の場合はバイクは会社持ちで、残業手当もあり日曜は休みだが、宅配業者はクルマもガソリンも全て自分持ちで、残業手当など付く筈も無く、雨の日も風に日も、朝から夜遅くまで走り回わり、1個届けていくらの収入だ。近年は昼間不在の家庭も多く、運んだ先が留守なら1銭にもならない辛い仕事だ。 サービス残業とか休日出勤とか、いろいろ文句が言えるサラリーマン稼業が羨ましいのではないだろうか。
昔の鉄道便のチケットは、最寄の駅に受け取りに行くのが本当に面倒だったが、ヤマトは見事な小荷物運送体制を作り上げたものだと感心する。毎回電話をすると感じのよい若手のドライバーが直ぐに荷物を引き取りに来る。当社担当のドライバーは2名の交代制だが、どちらもなかなかの好青年だ。ドライバーは個人社長方式らしく、都心の街角をいつも走って仕事をしているのはヤマトと佐川ぐらいだ。ヤマトのドライバーになるのは、多分難しい面接を受けるのだろう。
ヤマトと8年間付き合い、満足していたが、昨年暮れに新しいS宅急便に変更することにした。理由は更に格安の料金提示を受けたからだ。ヤマトより2割以上の割引料金を示されて、変えることにした。 そんなに安くても出来るの?と尋ねたが、勿論ですとのS社の返事なので変更した。ヤマトに不満は無く悪いと思ったが、当社もコストダウンは悪い話ではない。しかし、S社はかなり高齢のドライバーだった。勿論受け渡しに問題はなく礼儀も正しいが、やはりサービス業には若手のほうが似合う。3ケ月ほど付き合ったS社の最初のドライバーは突然辞めてしまい、別の年配の担当に代わってしまった。勿論当方に大きな不都合はないが、新しい担当者がいつまで続くか少し不安になる。
ヤマトは小型の1トン車で引き取りに来ていたが、S社は10トンの大型車を横付けて取りに来る。後発だから人数も少なく、個人用も業務用もごちゃ混ぜで1台の大型車で集荷して回るのだろうか。当社の15Kgの機器を1,000円を切る値段で、東京から富山に超特急で運ぶのだから、収支も相当厳しいだろうとひとごとながら思う。ドライバーも若手はなかなか集まらず、シルバー人材を起用して、少数の大型車で集荷するなど、無理を重ねているのだろう。
そう言えば、土日祭日を問わず、夜遅く荷物を運んでくる中小の宅配会社は高齢の運転手が多い。郵便配達の場合はバイクは会社持ちで、残業手当もあり日曜は休みだが、宅配業者はクルマもガソリンも全て自分持ちで、残業手当など付く筈も無く、雨の日も風に日も、朝から夜遅くまで走り回わり、1個届けていくらの収入だ。近年は昼間不在の家庭も多く、運んだ先が留守なら1銭にもならない辛い仕事だ。 サービス残業とか休日出勤とか、いろいろ文句が言えるサラリーマン稼業が羨ましいのではないだろうか。
2008年02月18日
もっとスローな生活を!
再び京葉線新木場駅、この駅は眺望が素晴らしい。多分東京都内でも最高だと思う。片側3車線の明治通りの上を直角に、片側4車線の高速湾岸線が交わり、更にその上をJR京葉線が走る。往復8車線というこのハイウエーを、バス、トラック、自家用車がうなりを上げて夜昼の区別なく往来している。まるで日本ではないような景色だ。
直ぐ下は殆ど木材のない貯木場があり、その先に東京湾、その向こうの羽田空港からはひっきりなしに飛行機が飛び立ち、更にその向こうには夕日に浮かぶ富士山がはっきりと見え、反対方向にはつくば山が見える。少し離れたところに大型クレーンが唸る開発ラッシュの豊洲と、中央区、港区周辺の高層ビル群が折り重なって見える。東京全体を見渡すにはまだ高さは不十分だが、無秩序に広がる大東京を眺望するには、とにかく絶好の場所である。
眼下の高速道を絶えることなく疾走するクルマを見ると、なぜ人間はこんなに急がなくてはならないのだろうかと、いつも思議な気分にもなる。もっとスピードダウン出来ないのだろうか。確かに効率は大事だろう。クルマは一刻を急ぎ、カンバン方式とか毎時指定された時間に指定の量の商品をユーザーに納入するため何台もの車が行き交う。それでも必ずしも満足ではなく、更に次々と高レベルの条件が求められる。
これでは運転手は苦しみ、自動車事故は起こり、渋滞あり、排出する炭酸ガスは増大し、トラブルが続出するのは避けられない訳である。 増して仮に予想されている関東大地震でも起きれば、もう地獄の沙汰であり、数十万人という人が、混乱の極地に陥るといわれているが、確しかに事実であろう。
人間はもっとスローダウンできないのであろうか? 昨日と同じ勤務、去年と同じ仕事、10年前と同じレベルの生活が得られればそれでよいではないかとも思う。 限りない欲望に駆られて人間が益々自分自身を苦しめ、他人を走らせ、環境を汚し、地球を汚していると思う。
勿論 日本だけがスローダウンしたのでは、直ちに外国勢の圧倒されてしまうだろう。圧倒的なコスト競争力の中国勢、技術力の優れる米国製品、優れたデザインの欧州製品が、虎視眈々とわが市場を狙っているから、たちまちやられてしまうだろう。従って世界中の人がもうこれ以上の無駄な競争は止めようと申し合わすことが必要だ、しかしそれはまず実現不可能だろう。
では日本独特の商品や生活を実現できないのだろうか? 想像だが北欧諸国の民衆は、これほど多忙な生活に振り回されてはいないのではないだろうかとも思う。観光立国? 科学技術、スポーツ、手工芸製品、北欧家具、毛皮、花、お酒、一体北欧諸国はどのような考え方で、何を生活の糧として、高い生活水準を維持し続けているのだろうか。 私自身がもっと落ち着いて、勉強することも必要なのだが。
兎に角、人間は高望み過ぎるのは事実だ。これでは地球が悲鳴を上げるのは当たり前だ。何処まで追求しても満足はなく、まだ見ぬ青い鳥を求めて走り回る。もっと落ち着いて、世界中の人間が昨日と同じレベルの生活を楽しむことに満足はできないだろうか? 素晴らしい眺望とアンバランスな交通ラッシュを眺めながら、毎夕武蔵野線電車を待つ間に考える夢物語りのひとつである。
直ぐ下は殆ど木材のない貯木場があり、その先に東京湾、その向こうの羽田空港からはひっきりなしに飛行機が飛び立ち、更にその向こうには夕日に浮かぶ富士山がはっきりと見え、反対方向にはつくば山が見える。少し離れたところに大型クレーンが唸る開発ラッシュの豊洲と、中央区、港区周辺の高層ビル群が折り重なって見える。東京全体を見渡すにはまだ高さは不十分だが、無秩序に広がる大東京を眺望するには、とにかく絶好の場所である。
眼下の高速道を絶えることなく疾走するクルマを見ると、なぜ人間はこんなに急がなくてはならないのだろうかと、いつも思議な気分にもなる。もっとスピードダウン出来ないのだろうか。確かに効率は大事だろう。クルマは一刻を急ぎ、カンバン方式とか毎時指定された時間に指定の量の商品をユーザーに納入するため何台もの車が行き交う。それでも必ずしも満足ではなく、更に次々と高レベルの条件が求められる。
これでは運転手は苦しみ、自動車事故は起こり、渋滞あり、排出する炭酸ガスは増大し、トラブルが続出するのは避けられない訳である。 増して仮に予想されている関東大地震でも起きれば、もう地獄の沙汰であり、数十万人という人が、混乱の極地に陥るといわれているが、確しかに事実であろう。
人間はもっとスローダウンできないのであろうか? 昨日と同じ勤務、去年と同じ仕事、10年前と同じレベルの生活が得られればそれでよいではないかとも思う。 限りない欲望に駆られて人間が益々自分自身を苦しめ、他人を走らせ、環境を汚し、地球を汚していると思う。
勿論 日本だけがスローダウンしたのでは、直ちに外国勢の圧倒されてしまうだろう。圧倒的なコスト競争力の中国勢、技術力の優れる米国製品、優れたデザインの欧州製品が、虎視眈々とわが市場を狙っているから、たちまちやられてしまうだろう。従って世界中の人がもうこれ以上の無駄な競争は止めようと申し合わすことが必要だ、しかしそれはまず実現不可能だろう。
では日本独特の商品や生活を実現できないのだろうか? 想像だが北欧諸国の民衆は、これほど多忙な生活に振り回されてはいないのではないだろうかとも思う。観光立国? 科学技術、スポーツ、手工芸製品、北欧家具、毛皮、花、お酒、一体北欧諸国はどのような考え方で、何を生活の糧として、高い生活水準を維持し続けているのだろうか。 私自身がもっと落ち着いて、勉強することも必要なのだが。
兎に角、人間は高望み過ぎるのは事実だ。これでは地球が悲鳴を上げるのは当たり前だ。何処まで追求しても満足はなく、まだ見ぬ青い鳥を求めて走り回る。もっと落ち着いて、世界中の人間が昨日と同じレベルの生活を楽しむことに満足はできないだろうか? 素晴らしい眺望とアンバランスな交通ラッシュを眺めながら、毎夕武蔵野線電車を待つ間に考える夢物語りのひとつである。
2008年02月14日
友人が亡くなった
親友が亡くなった
とても親しくしていた先輩が亡くなった。享年75才。肝臓ガンだという。30年前の腸の手術のときにC型ウイルスに感染したらしい。当時C型ウイルスはまだ発見されておらず、Non-A,Non-B型とも言われていた。
この友人は東京銀座の超有名なA写真館の4男坊だった。教育大付属から千葉大工学部を卒業してD社に入った私の4年先輩の技術者だ。彼は常務にまでなった。特別な実績も無いのに運が良かったから出世できたと悪口を言うひともいたが、サラリーマンで万人が認める業績を上げるのはなかなか至難の技だ。
彼は退職後は、自宅近くの有名ゴルフ場でゴルフを楽しみ、広い庭にはバラを栽培し、クラシック音楽を嗜む典型的な上流社会の人だった。聴いたことはないがピアノも弾いたらしい。
人柄は温厚だが、結構辛らつな発言もするので敵も多かった。同じく私の友人で彼とは口も利きたくないという同僚を何人も知っている。私は結構八方美人なのかも知れないが、彼とはなぜかウマがあった。
長い時間一緒にいても気持ちの負担にならなかった。彼の高級車に長い時間同乗したことも度々あったが、いつも話が絶えなかった。決して自分を高く売りつける高慢な人ではなく、素敵な人物だったと思っている。
確かに彼は強運の星の下に生まれたと言えよう。強力なライバルだった優秀な技術者H氏は若いときに胃がんでこの世を去った。彼の上司のM氏はなかなかのやり手で副社長にまで出世したが、その引き上げが大きかったのは万人の認めるところ。今日の複雑極まりないハイテクと違い、我々の時代はまだ技術的にも余裕がある時期でもあった。
彼の葬儀はキリスト教に従って行われた。祭壇は沢山の白菊やランで飾り立てられていた。奥様は思い切って大枚をはたいたのだろうが、これほど豪華に飾ると結構お金もかかっただろうと、ひとごとながら気になった。
私は昔から、仏式よりキリスト教葬儀のほうが好きだ。まず意味の分からない念仏よりも牧師の話しは理解できる。多数のお坊さんが並ぶよりも一人の牧師さんの司会のほうがすっきりしている。私は音痴だが賛美歌を一緒に歌えば何だか参加した気分になりそうだ。
肝臓がんは慢性の病気で、気丈な奥様も既に70才超え、苦悩のためか結構やつれていた。これからの余生は相談相手のいない孤独なひとり人生だろう。2人の息子達はそれぞれ結婚してその家族たちも葬儀に参列していたが、年老いた奥様は、息子の義理の嫁たちとの果てしない葛藤が始まるのだろう。いつになっても人生はなかなか楽にはならないものだ。
とても親しくしていた先輩が亡くなった。享年75才。肝臓ガンだという。30年前の腸の手術のときにC型ウイルスに感染したらしい。当時C型ウイルスはまだ発見されておらず、Non-A,Non-B型とも言われていた。
この友人は東京銀座の超有名なA写真館の4男坊だった。教育大付属から千葉大工学部を卒業してD社に入った私の4年先輩の技術者だ。彼は常務にまでなった。特別な実績も無いのに運が良かったから出世できたと悪口を言うひともいたが、サラリーマンで万人が認める業績を上げるのはなかなか至難の技だ。
彼は退職後は、自宅近くの有名ゴルフ場でゴルフを楽しみ、広い庭にはバラを栽培し、クラシック音楽を嗜む典型的な上流社会の人だった。聴いたことはないがピアノも弾いたらしい。
人柄は温厚だが、結構辛らつな発言もするので敵も多かった。同じく私の友人で彼とは口も利きたくないという同僚を何人も知っている。私は結構八方美人なのかも知れないが、彼とはなぜかウマがあった。
長い時間一緒にいても気持ちの負担にならなかった。彼の高級車に長い時間同乗したことも度々あったが、いつも話が絶えなかった。決して自分を高く売りつける高慢な人ではなく、素敵な人物だったと思っている。
確かに彼は強運の星の下に生まれたと言えよう。強力なライバルだった優秀な技術者H氏は若いときに胃がんでこの世を去った。彼の上司のM氏はなかなかのやり手で副社長にまで出世したが、その引き上げが大きかったのは万人の認めるところ。今日の複雑極まりないハイテクと違い、我々の時代はまだ技術的にも余裕がある時期でもあった。
彼の葬儀はキリスト教に従って行われた。祭壇は沢山の白菊やランで飾り立てられていた。奥様は思い切って大枚をはたいたのだろうが、これほど豪華に飾ると結構お金もかかっただろうと、ひとごとながら気になった。
私は昔から、仏式よりキリスト教葬儀のほうが好きだ。まず意味の分からない念仏よりも牧師の話しは理解できる。多数のお坊さんが並ぶよりも一人の牧師さんの司会のほうがすっきりしている。私は音痴だが賛美歌を一緒に歌えば何だか参加した気分になりそうだ。
肝臓がんは慢性の病気で、気丈な奥様も既に70才超え、苦悩のためか結構やつれていた。これからの余生は相談相手のいない孤独なひとり人生だろう。2人の息子達はそれぞれ結婚してその家族たちも葬儀に参列していたが、年老いた奥様は、息子の義理の嫁たちとの果てしない葛藤が始まるのだろう。いつになっても人生はなかなか楽にはならないものだ。
2008年02月13日
若い母親
まだ2月だが今年は結構寒い。温暖化などはどこかへ吹き飛んだ感じだ。仕事を終えて夕方帰宅するとき、高架の京葉線新木場駅には寒風が吹きすさぶ。先日も赤ん坊を乳母車に乗せた若い母親が、北風の強いホームで武蔵野線の電車を待っている。 多くが蘇我行きで、武蔵野線は3本に1本しか来ないので結構長い時間待つことになる。その間子供を紛らかすように母親は休まず乳母車を前後に振動させている。 赤ん坊は泣きもせず目を開いてうつろに何かをじっと見ているだけだ。
ひと時も休まず揺すり続ける若い母親は、まだ20才代後半かと思われるが、ベタ靴をはき、自分の身なりはまったく構わない。吹き煽られる乳母車のカバーを抑えたり、時折乳母車に覗き込んで赤ん坊の様子を確かめたりしながらも、ひと時もやすまず揺らし続ける。ときおり携帯を取り出してメイルを確かめるのは、如何にも現代っ子の母親らしい。
友達の多くは恐らくまだ未婚で、寒くてもミニスカートのファッションに身を包み、髪の乱れを気にしながら並んで電車を待つのだろうが、この母親は自分自身にはもう全く関心がない。寒くない筈はないのだが、周囲には無関係で、ひとり離れた所で、赤ん坊に全ての注意を払いながら電車を待っている。
彼女もつい先年までは、お化粧や衣装に全ての関心と大枚を払っていたであろうに、子供が生まれた途端180度転換し、ファッションよりも何よりもわが子が可愛い母性に目覚めたのだろう。もう動物的本能としか言いようのない変わりようだ。こうして赤ん坊は母親の愛を一身に受けながら成長してゆく。父親はなかなかここまでは変身できない。子供たちが父親よりも母親を大事にする理由がよく分る。例えばか弱い小鳥も子育ての時だけは、犬やヘビなどの強敵に敢然と立ち向かってゆくのも同じだろう。
こうして大事に育てられた子供も、特に女の子はやはり母親と同じ軌跡を辿って、自分の子供を生み慈しみながら大事の育てる習性を繰り返す。寒風のホームで電車を待つ間、時折斜め向こうを見ながら、母親とは本当に有難いものだと痛感したひとときであった。
ひと時も休まず揺すり続ける若い母親は、まだ20才代後半かと思われるが、ベタ靴をはき、自分の身なりはまったく構わない。吹き煽られる乳母車のカバーを抑えたり、時折乳母車に覗き込んで赤ん坊の様子を確かめたりしながらも、ひと時もやすまず揺らし続ける。ときおり携帯を取り出してメイルを確かめるのは、如何にも現代っ子の母親らしい。
友達の多くは恐らくまだ未婚で、寒くてもミニスカートのファッションに身を包み、髪の乱れを気にしながら並んで電車を待つのだろうが、この母親は自分自身にはもう全く関心がない。寒くない筈はないのだが、周囲には無関係で、ひとり離れた所で、赤ん坊に全ての注意を払いながら電車を待っている。
彼女もつい先年までは、お化粧や衣装に全ての関心と大枚を払っていたであろうに、子供が生まれた途端180度転換し、ファッションよりも何よりもわが子が可愛い母性に目覚めたのだろう。もう動物的本能としか言いようのない変わりようだ。こうして赤ん坊は母親の愛を一身に受けながら成長してゆく。父親はなかなかここまでは変身できない。子供たちが父親よりも母親を大事にする理由がよく分る。例えばか弱い小鳥も子育ての時だけは、犬やヘビなどの強敵に敢然と立ち向かってゆくのも同じだろう。
こうして大事に育てられた子供も、特に女の子はやはり母親と同じ軌跡を辿って、自分の子供を生み慈しみながら大事の育てる習性を繰り返す。寒風のホームで電車を待つ間、時折斜め向こうを見ながら、母親とは本当に有難いものだと痛感したひとときであった。
2008年02月06日
自転車で転倒
今年の冬は結構雪が降る。気候温暖化が中断した訳でもないだろうが、この日曜も関東地区はかなりの大雪だった。子供達が大喜びなのはいつの時代も同じだが、いろいろな事故が起こる。どこかの町で泊まりに来た孫2人を、翌朝送り返す祖母がクルマでスリップして木に激突し、可愛い孫たちは即死、自分も重態となった事故があった。祖母といってもまだ50才代後半だから若い。通いなれた田舎道もクルマにも自信はあったのだろうが、悲惨なできごととなった。
私にも小さな事件があった。昨日凍りついた道路で自転車で転倒してしまった。雪と雨で路面が氷結していたのに気付かず、歩道を自転車で走行中、ハンドルを右に切り、タイヤがスリップして地面にたたきつけられた。骨折が避けられたのが不思議なくらい右半身を強打した。
幸い頭は打たなかったが、一張羅のズボンと上着に穴があき、使いものにならなくなってしまった。家内はカンカンだ。 私が路面の凍結に気付かず、ハンドルを切ったのが原因だが、一日経った今も、肩と腕とヒザがまだひりひり痛む。 カラダの調子が悪いとやる気力も失せてしまうから嫌なものだ。
実は自転車は結構危ない乗り物だ。一昨年大雨の翌日だったが、自宅近くの通り慣れた遊歩道で、また自転車で転倒してしまった。歩道の雨は引いていたが、湿った粘土層が薄く広がっていたところを、自転車で通りかかり、わずかハンドルを切ったら、見事にスリップして転倒した。この時は体の半面が泥だらけになり、恥ずかしい姿で自宅に舞い戻ったのだったのだが。
私は自転車に乗るのが大好きだ。エコを意識している訳でもないが、スピードが結構出て気分も爽快になる。更に、ある程度スピードを出さないと運転が難しくなるのは、自転車も船舶と全く同じなのが面白い。
大昔のこと、小型船舶の免許を取る練習で、ある漁港で勝手に船を動かして岸壁にぶちあたりそうになったことがあった。慌ててブレーキをかけスピードを落としたのが大間違いだった。 船はスピードを落とすとカジが全く効かなくなる。カジの方向とは無関係に船はそのまま惰性で横滑りして、岸壁に激突して、まだ新しい船の片側を破損してしまった事故を思い出した。
自転車は誰でも、また年をとっても便利に使える素晴らしい乗りものだが、いつも危険と隣り合わせていることを再認識した小さな事件だった。
私にも小さな事件があった。昨日凍りついた道路で自転車で転倒してしまった。雪と雨で路面が氷結していたのに気付かず、歩道を自転車で走行中、ハンドルを右に切り、タイヤがスリップして地面にたたきつけられた。骨折が避けられたのが不思議なくらい右半身を強打した。
幸い頭は打たなかったが、一張羅のズボンと上着に穴があき、使いものにならなくなってしまった。家内はカンカンだ。 私が路面の凍結に気付かず、ハンドルを切ったのが原因だが、一日経った今も、肩と腕とヒザがまだひりひり痛む。 カラダの調子が悪いとやる気力も失せてしまうから嫌なものだ。
実は自転車は結構危ない乗り物だ。一昨年大雨の翌日だったが、自宅近くの通り慣れた遊歩道で、また自転車で転倒してしまった。歩道の雨は引いていたが、湿った粘土層が薄く広がっていたところを、自転車で通りかかり、わずかハンドルを切ったら、見事にスリップして転倒した。この時は体の半面が泥だらけになり、恥ずかしい姿で自宅に舞い戻ったのだったのだが。
私は自転車に乗るのが大好きだ。エコを意識している訳でもないが、スピードが結構出て気分も爽快になる。更に、ある程度スピードを出さないと運転が難しくなるのは、自転車も船舶と全く同じなのが面白い。
大昔のこと、小型船舶の免許を取る練習で、ある漁港で勝手に船を動かして岸壁にぶちあたりそうになったことがあった。慌ててブレーキをかけスピードを落としたのが大間違いだった。 船はスピードを落とすとカジが全く効かなくなる。カジの方向とは無関係に船はそのまま惰性で横滑りして、岸壁に激突して、まだ新しい船の片側を破損してしまった事故を思い出した。
自転車は誰でも、また年をとっても便利に使える素晴らしい乗りものだが、いつも危険と隣り合わせていることを再認識した小さな事件だった。
2008年02月01日
もうひとつの心残り
一般に女性は発音が明瞭で口達者だが、男は口下手で饒舌ではない。 雄弁は銀、沈黙は金と言うが、これは国内で通用する格言であり、欧米ではなかなか理解されない。この世に生まれて誰も雄弁は望んでいることであり、世渡りにも有用である。
ところが私は思いっきり口下手だ。前にも書いたが、私は小学生時代から吃音癖がある。これを矯正しようと60余年間努力し続けたが、なかなか治らない。大人になるとボキャブラリ-が増えるので、いろいろな言い回しも可能になり、話しにもある程度余裕はでき始めたが、吃音は不便であり、屈辱でもある。田中角栄が吃音であったことはよく知られており、それを隠すため彼は非常に早口でしゃべっていた。
吃音は日本人だけではなく、欧米にもある。私が知っている米国の中堅の化学企業の営業部長はひどいどもりで、向かい合って商談しているこちらが居た堪れなくなるほど凄ましかった。しかし博学で誠実な営業部長であり、今でもはっきりと記憶に残っている。
私が吃音を強く意識し始めたのは中学校時代からであった。
例えば国語の時間で、順番に指名され、読本を読まされるのが、もう死ぬ苦しみであった。何しろ誰でも知っている簡単な単語を普通に発言できないのだ。特にカ行やタ行は難しい。例えば結核という言葉が出てくると、私がどう発音するか、級友たちは聞き耳をたてている。もう恥ずかしくて死にたい気持ちだった。
それに比較すると、英語の時間は大好きだった。誰もうまく発音できず、ドモって当たり前だから、逆に当方は英語は余りどもらず朗読できるのだ。従って英語が大好きになった。 今日でも口がスムースに動くよう、研究社のSpoken American English(Advances Course)を毎朝10分間大きな声で音読している。全部で24章あり通読すれば120分間かかるが、これを年間20回程度、約40余年間に渡って音読し続けているから、既に800回以上は音読を繰り返した計算となり、内容は殆ど丸暗記している。
私はこの毎朝の音読朝のお経と呼び、家族は甚だ煩がるが、最近はもう諦めて10分間我慢している、義母に至っては文章の一部まで聞き覚えているらしいから恐ろしいことだ。この朗読を怠ると、私はその日はてき面にドモルから恐ろしいものだ
この教本は約50年前に出版された隠れたベストセラーで、既に3回改定されているが、私の頭のなかには原本のままである、例えばロス→サンフランシスコ間のFlight-Ticketは原本では$74だが、今は$200に訂正されている。また米国の関係悪化により
Cube and Jamaicaは West Indiesになっている。
社会生活では、多くの場面でいろいろな屈辱に遭遇する。例えば私が労組の書記長をやった時、組合の年次総会で経過報告を行うが、なかなかうまくできない。 組合員は配布された資料を見ているが、私はそのまま音読するのは至難の技であり、報告はいつも原稿から離れて説明する。すると余りどもらないから不思議な話だ。
その結果、私は人前で話したり演説をする時、原稿を殆ど見ない習慣が完全に身についてしまった。その関係で、会社生活においてもテキストの音読は大の苦手だったが、企画説明会などでは資料ナシでどんどん説明するので、返って会社トップには好印象をもたれることもあった。
合弁会社時代に米国会長と英語で論争するのも平気だった。当方は英語のボキャブラリーは限られたが、可能な範囲で徹底的に反論できた。余計な修飾語を使わないから、なおさら真意を伝えることも出来たとも思う。しかし会長には嫌われてしまったが。
一般にテレビを見ても、欧米の大統領や役人は原稿を余り見ないで話すので、何だか信頼できそうな感じがする。先日の米国のブッシュ大統領の2008年度の年頭教書は、1時間近くかかったそうだが、殆ど原稿を見ないで説明したという。事前に随分リハーサルをしたらしいが、誠にご立派だ。日本の首相や役人たちの多くは原稿の棒読みであり、甚だ説得力に欠ける。本論の議論よりも、如何に言葉尻を捕まれないで逃げ切るかが大切らしい。誠に困ったものだ。
しかし私は、長い人生で、いつも大きな劣等感を感じていた。例えば、例えば、ある時の常務主催の企画開発会議で、私が新規なプロジェクトを提案したところ、財務担当のY常務が、 東さん! 我々は所詮サラリーマンなんだよ、折角大過なく40数年を過ごしてきたんだが、君の新しい企画で迷惑をこうむるのは、困るんだよ! 勘弁してくれよ!と言われて、私は頭に来た。卑しくも常務取締役が言うべき言葉ではないではないか! 直ぐに反論したが、所詮口下手の私には旗色が悪く, 途中で引き下がらざるを得なかった。
この常務は、社長の前では絶対に言わない暴言を、トップ不在の場では全く平気で、我々に対して公言するのだ。 まるで社会保険庁の役人や、地方公務員の意識と全く同一レベルだ。この常務連中の元では、我々は企業競争には勝てる訳がないのだ。
事実、その結果、私の愛するD社は、近年滅多に新聞記事にならない。今日のD社の株価も400円前後と上下左右に見当たらないほど低い水準だ。強いて同輩を挙げれば、石原産業(230), 宇部興産(330) 大日本塗料(120), イハラケミカル(220)など数も少なく、ろくな企業はない。 残念ながら我が社の往年の新進気鋭な企業イメージは、このような無能な常務たちによって根絶されてしまったと思う。彼らは 米国の学者が言う、集中と選択!とかを隠れ蓑として、要は何もやらないで、平穏無事にサラリ-マン社会を生き延びることなのだ。全く迷惑な話だ。
しかし、やはり雄弁は人生で戦う大きな武器であり、誰でも願っている。もし私が雄弁であったなら、自分の人生はかなり変わっていたかも知れない。例えば進学する学部は、口数が少なくて済む技術系ではなく、経済学部などを選んだだろうし、性格的も多分努力家でなかった筈だ。
誠実さしか売り物がない今の私とは異なり、口八丁手八丁で、借り物の言葉でも縦横無尽に使いながら生きていたかも知れない。その結果、今より幸福であったか、不幸となったかは、誰にも分からないが、やはり雄弁な人を見ると羨ましい。これも大きなこころ残りだ。
ところが私は思いっきり口下手だ。前にも書いたが、私は小学生時代から吃音癖がある。これを矯正しようと60余年間努力し続けたが、なかなか治らない。大人になるとボキャブラリ-が増えるので、いろいろな言い回しも可能になり、話しにもある程度余裕はでき始めたが、吃音は不便であり、屈辱でもある。田中角栄が吃音であったことはよく知られており、それを隠すため彼は非常に早口でしゃべっていた。
吃音は日本人だけではなく、欧米にもある。私が知っている米国の中堅の化学企業の営業部長はひどいどもりで、向かい合って商談しているこちらが居た堪れなくなるほど凄ましかった。しかし博学で誠実な営業部長であり、今でもはっきりと記憶に残っている。
私が吃音を強く意識し始めたのは中学校時代からであった。
例えば国語の時間で、順番に指名され、読本を読まされるのが、もう死ぬ苦しみであった。何しろ誰でも知っている簡単な単語を普通に発言できないのだ。特にカ行やタ行は難しい。例えば結核という言葉が出てくると、私がどう発音するか、級友たちは聞き耳をたてている。もう恥ずかしくて死にたい気持ちだった。
それに比較すると、英語の時間は大好きだった。誰もうまく発音できず、ドモって当たり前だから、逆に当方は英語は余りどもらず朗読できるのだ。従って英語が大好きになった。 今日でも口がスムースに動くよう、研究社のSpoken American English(Advances Course)を毎朝10分間大きな声で音読している。全部で24章あり通読すれば120分間かかるが、これを年間20回程度、約40余年間に渡って音読し続けているから、既に800回以上は音読を繰り返した計算となり、内容は殆ど丸暗記している。
私はこの毎朝の音読朝のお経と呼び、家族は甚だ煩がるが、最近はもう諦めて10分間我慢している、義母に至っては文章の一部まで聞き覚えているらしいから恐ろしいことだ。この朗読を怠ると、私はその日はてき面にドモルから恐ろしいものだ
この教本は約50年前に出版された隠れたベストセラーで、既に3回改定されているが、私の頭のなかには原本のままである、例えばロス→サンフランシスコ間のFlight-Ticketは原本では$74だが、今は$200に訂正されている。また米国の関係悪化により
Cube and Jamaicaは West Indiesになっている。
社会生活では、多くの場面でいろいろな屈辱に遭遇する。例えば私が労組の書記長をやった時、組合の年次総会で経過報告を行うが、なかなかうまくできない。 組合員は配布された資料を見ているが、私はそのまま音読するのは至難の技であり、報告はいつも原稿から離れて説明する。すると余りどもらないから不思議な話だ。
その結果、私は人前で話したり演説をする時、原稿を殆ど見ない習慣が完全に身についてしまった。その関係で、会社生活においてもテキストの音読は大の苦手だったが、企画説明会などでは資料ナシでどんどん説明するので、返って会社トップには好印象をもたれることもあった。
合弁会社時代に米国会長と英語で論争するのも平気だった。当方は英語のボキャブラリーは限られたが、可能な範囲で徹底的に反論できた。余計な修飾語を使わないから、なおさら真意を伝えることも出来たとも思う。しかし会長には嫌われてしまったが。
一般にテレビを見ても、欧米の大統領や役人は原稿を余り見ないで話すので、何だか信頼できそうな感じがする。先日の米国のブッシュ大統領の2008年度の年頭教書は、1時間近くかかったそうだが、殆ど原稿を見ないで説明したという。事前に随分リハーサルをしたらしいが、誠にご立派だ。日本の首相や役人たちの多くは原稿の棒読みであり、甚だ説得力に欠ける。本論の議論よりも、如何に言葉尻を捕まれないで逃げ切るかが大切らしい。誠に困ったものだ。
しかし私は、長い人生で、いつも大きな劣等感を感じていた。例えば、例えば、ある時の常務主催の企画開発会議で、私が新規なプロジェクトを提案したところ、財務担当のY常務が、 東さん! 我々は所詮サラリーマンなんだよ、折角大過なく40数年を過ごしてきたんだが、君の新しい企画で迷惑をこうむるのは、困るんだよ! 勘弁してくれよ!と言われて、私は頭に来た。卑しくも常務取締役が言うべき言葉ではないではないか! 直ぐに反論したが、所詮口下手の私には旗色が悪く, 途中で引き下がらざるを得なかった。
この常務は、社長の前では絶対に言わない暴言を、トップ不在の場では全く平気で、我々に対して公言するのだ。 まるで社会保険庁の役人や、地方公務員の意識と全く同一レベルだ。この常務連中の元では、我々は企業競争には勝てる訳がないのだ。
事実、その結果、私の愛するD社は、近年滅多に新聞記事にならない。今日のD社の株価も400円前後と上下左右に見当たらないほど低い水準だ。強いて同輩を挙げれば、石原産業(230), 宇部興産(330) 大日本塗料(120), イハラケミカル(220)など数も少なく、ろくな企業はない。 残念ながら我が社の往年の新進気鋭な企業イメージは、このような無能な常務たちによって根絶されてしまったと思う。彼らは 米国の学者が言う、集中と選択!とかを隠れ蓑として、要は何もやらないで、平穏無事にサラリ-マン社会を生き延びることなのだ。全く迷惑な話だ。
しかし、やはり雄弁は人生で戦う大きな武器であり、誰でも願っている。もし私が雄弁であったなら、自分の人生はかなり変わっていたかも知れない。例えば進学する学部は、口数が少なくて済む技術系ではなく、経済学部などを選んだだろうし、性格的も多分努力家でなかった筈だ。
誠実さしか売り物がない今の私とは異なり、口八丁手八丁で、借り物の言葉でも縦横無尽に使いながら生きていたかも知れない。その結果、今より幸福であったか、不幸となったかは、誰にも分からないが、やはり雄弁な人を見ると羨ましい。これも大きなこころ残りだ。