2008年12月

2008年12月25日

081225, フィギャアスケート 浅田真央と金妍児

いよいよ今年も年末となった。100年振りとかの大不況で、世界は暗くて静かなクリスマスだろう。ただ先日(12/12 - 12/13) 韓国高陽で行われた世界フィギュアスケートGPファイナルは見応えあった、今年の締めくくりとして感想をのべた。

GPファイナルは、世界各都市を転戦するフィギュアスケートGPシリーズの最後を飾る決勝戦であり、今回は特に韓国が至宝と誇る金妍児(キムヨナ)を擁して、国の名誉を賭けて地元高陽市で開催した大会でもあった。GPファイナル参加資格は、アメリカ、北京、カナダ、ロシア、フランス、東京などの世界各都市で開催した個別大会の優勝者と高得点を獲得した選手のみに参加資格があり、本当に優雅でかつ激しい戦いだった。

ファイナルの6名は浅田真央、中野友加里、安藤美姫、(韓国)金妍児、 (イタリア) カロリナ-コストナー、及び(カナダ) ジョアニー-ロシェットで、半数が日本人とはやや目立ち過ぎの感もあった。しかし実質はアメリカ大会と中国大会で優勝した金妍児と、NHK杯で優勝した浅田真央ちゃんの争いであった。浅田真央と金妍児は、敢えて同じ地方大会での顔を合わせを避けてきたのは、甲乙付けがたく突出した実力をもつ両者が個別大会での勝負を避け、GPファイナルで決着をつけようとしたものでありごく自然だろう。 初日(12/12)のSPでは、真央ちゃんが2回トライした3回転アクセルの一方が回転不足と認定されて得点65.38に終わり、金妍児の65.94に、僅か0.56ほど届かず、真央ちゃんは2位となったが、これが結果的には幸いしたとも言えるから勝負とは恐ろしいものだ。

なんだが、ジャンプには回転数と、飛び方も6種類あり、トールプ、サルコー、ループ、フリップ、ルッツ、アクセルの順に難度が高いという。なかでも特に3回転アクセルは、跳躍力の劣る女性には超高難度のジャンプだという。一般にフィギャースケートのジャンプは、進行方向に背を向けて飛び立つのが一番安全だが、3回転アクセルは、恐怖感を伴う進行方向に向かってジャンプして、空中で3回転半して後ろ向きで着地する技だという。10年前、容姿に劣る伊藤みどりが世界の公式戦で初めて成功して高い技術点で優勝したが、現在でも超難度の技であることは全く変わらない。問題は当人が3回転半を飛んだと思っても、1/4以上の回転不足なら1回転少ない2回転半と見なされて4点も減点されるという厳しさだ。回転数の判断は3人のテクニカルスペシャリスト審判員の多数決で決まるが、微妙な判定も避けられないようだ。

真央ちゃんの作戦はこうだった。即ち、地元の大声援を受ける金妍児にはHometown-Decisionが働き、僅差ではまず勝てないだろう。従って絶対的に高得点を獲得できる3回転アクセルを2回成功させて、誰からも文句をつけようがない内容で勝負しようと考えた。一方、2年連続でGPシリーズ女王の金妍児は、優雅で芸術的なダンスには定評があり、従って危険な3回転アクセルを試みるより、表現力、芸術点で勝負しようと考えたようだ。

幸か不幸か出番が先の真央ちゃんは、公式戦では初めての3回転アクセル2回を敢行して見事に成功し、大きな技術点を獲得した。聞くところによると、浅田真央の技術点64.57のうち、3回転アクセルで8.2x2=16.4点を稼いだそうだが、もし失敗すると、1回につき4.2点が減点されるという、極めてハイリスクハイリターンの技だそうだ。 演技の途中ではスリップしてマイナス1点を失ったが、兎に角世界の公式戦での2回の3アクセルは初の快挙だという。これは金妍児には大きなプレッシャーになりそうだと誰もが予感した。しかし優勝を信じた地元韓国の大声援をバックに出場した金妍児は、優雅なスケーティングの披露から始まった。直前に大きな転倒を犯した真央ちゃんの記憶にある私も、うーん!この調子ではやっぱり金妍児の勝ちかなー!と思いつつ4分間の優雅な演技の進行を見守った。

ところが事件は起こった。絶対の安定感があると思われたあの金妍児が3回転を1回転に終わってしまう信じられない大ミスを犯したのだ。この失敗は大きな減点となり、精神的に動揺した金妍児は、続いてスリップして転倒もしてしまった。ああ万事休す!と地元の大観客は息を呑んだであろう。いつもの妖艶な目つきで見上げるポーズで演技を終えた金妍児の顔からも、笑顔は消え失せていた。リングサイドの真央ちゃんは真剣な面持ちでじっと経緯を見つめたままだ。

我々日本人は真央ちゃんの勝ちだろうと確信したが、恐らく韓国の大観衆も一縷の望みをつないで金妍児の勝ちを祈ったに違いない。ここで結果の公表に時間をかけると観衆が騒ぎ出すと思ったか、審判団は採点をすばやく発表した。フリー演技は真央ちゃん123.17に対して、金妍児は120.41と3点近い大負けであった。その結果、総合得点は真央ちゃん188.55、 金妍児 186.35と逆転して、真央ちゃんのGPファイナル女王が確定した。大観衆からは小さな拍手と大きなため息がもれたが、浅田真央の完璧な3回転アクセルを2回も見せつけられては、さすがにブーイングは全く起こらなかった。

フィギャアスケートは、審判員の出身国による採点振れを防ぐため、最高点をつけた人と最低点をつけた人は集計から除外されるという厳密な採点法式をとっており、如何に熱狂的な韓国の大観衆も、目の前で真央ちゃんの世界初の大技をみせつけられては認めざるを得なかったのだろう。 世界同時不況の影響が特に厳しい韓国は、更にウオンが円に対して50%も値下がりする苦しい環境下で、社会の雰囲気はドン底状態にあり、このGPファイナルに国民的英雄の金妍児が優勝して、国内の沈んだ気分の大転換を図ろうとしたが、逆にその期待感が重圧になって、18才の金妍児は潰れてしまった。
 
何かにつけて日本に強烈な対抗心を燃やす韓国に対し、我々日本人は溜飲を下げた思いもあったと思う。韓国マスコミも、採点についてのクレイムは殆ど無く、新聞紙上には氷上を美しく舞う金妍児の姿と、顔を歪めて3回転アクセルを飛ぶ真央ちゃんのジャンプ写真が大きく載っていという。フィギュアスケート本場の欧州の王者イタリアC.コストナーが、20点以上大差の168.01ながらも3位に入賞したのは、ヨーロッパの不満を抑えるためにも非常に良い結末であったと思う。中野友加里(161.93)や安藤美姫(158.25)も健闘はしたが、各々5位6位に終わり、所詮真央ちゃんや金妍児の敵ではなかった。

もうひとつ、金妍児という強力なライバルの存在無しには浅田真央もリスキーな3回転アクセルを2回も飛ぶような冒険は犯さなかったと思う。その意味でスポーツの新記録達成には、やはり良きライバルが不可欠だということも痛感した次第。

では、来年はもう少し明るい年になりますように!



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2008年12月19日

081219, ノーベル賞の南部博士と、ワトソン博士

対称性の自発的破れとは、ご存知の南部陽一郎先生に代表される日本人グループが受賞したノーベル賞の受賞理由である。私は門外漢だが、宇宙の起源に非常には興味があり、この度いろいろ勉強してみた。まだ生半可ではあるが、私の理解を確認する意味もあり、感じるところを勝手にブログにまとめてみた。

まず日本人は、物質とエネルギーとは同じものだということは知っておく義務があろう。あの原爆がその証明だ。広島はウラニューム型、長崎はプルトニューム型というが、全てを焼き尽くほどの膨大なエネルギーは、僅か数グラムのウランやプルトニュームがエネルギーに変換して、全てを焼き尽くすほどの膨大なエネルギーを発生したものだという。これは世界で初めて日本人が被災した事実であり、あの巨大なエネルギーを初めて認識したのだった。

これは質量とエネルギーは全く同じものだというアインシュタインの方程式、エネルギー=MC2の証明を、悲惨な犠牲を払って確認したことになる。Cは光速で30万Km/秒だから、仮に1グラムのウランとか、プルトニュームがエネルギーに変わると、900,000,000,000,000,000,000エルグという猛烈な熱量のエネルギーになることを意味している。(分かり易く言えば、ウラン1gが石炭3トンを燃やした熱量だという)

他方、あらゆる物質には、必ず正物質と、反対の反物質とがあり、この2つが合体するとエネルギーに変わって消滅してしまうことも物理の原理である。陽子や電子は、各々プラスとマイナスの電荷を帯びており、この電子や陽子のプラスマイナスが合体すると、質量は瞬時に消滅して、光エネルギーとなって放散する。 まあこの辺もなんとか分かる。

100億年前、宇宙はエネルギーの塊であったが、大爆発ビッグバンを起こしてマイナス電子とプラス電子、プラス陽子とマイナス陽子などいろいろな素粒子となって飛散し始めた。光速で飛び出した同数の正物資と反物質は、その飛散する過程で殆どは再び合体して光に変わって消滅したが、一部分が対称性の自発的な破れによりバランスを崩して合体できずに、正物質のままで残り、それが現在の銀河系や地球となったのだという。ここまで来るとかなり難解だ。

南部陽一郎先生は50年前にこの対称性の自発的破れ理論を発表したが、当時は誰も注意を払わなかったらしい、しかし研究が進むにつれてその真価が認識され、世界中のいろいろな研究者がその先生の説を借用して発展させ、中にはノーベル賞を受賞した人もいるという。しかし温厚で慎ましやかな南部先生はご自分の説を声高く主張することは殆ど無かったという。もう89才の高齢になり、余命も長くないようだが、まだ生きておられる間にその功績が認められてノーベル賞の受賞が決まり、本当によかったと多くの学者が喜んでいるという。

大体、ノーベル賞を受賞するほどの学者は、高邁な人格者で、南部陽一郎先生のように謙虚な人格の持ち主だと誤解され易いが、実は、受賞とその学者の人格とは全く関係ない。それどころかノーベル受賞者には、性根良からぬ学者が結構多く、他人の発明発見をこっそりタダ乗りして、如何にもご自分の成果であると主張する方が多いともいう。 

事実、あの特殊相対性原理のアインシュタインと並んで超有名なDNAのワトソン博士も、50余年昔の当時の学会のDNAの構造解析の先陣争いで、X線回折像の分析が大議論になっていたとき、生物化学系のワトソン25才はX線回折像に無知でその読み方を知らなかった。しかし同僚の物理学者クリック37才は、X線回析の専門家でその回折格子像を分析して、アミノ酸の2本の分子鎖のラセン構造に気付き、ワトソンに話したという。野心に満ちたワトソンは、即座にクリックの説を2人の連名で、雑誌ネイチャー(1953/4)に発表し、ATGCからなるアミノ酸の2重ラセンがDNAの基本構造であると主張したのだという。従って真のDNA発見者はワトソンではなく、クリックなのだという人も多い。

実は、私はハワイやアメリカ、東京で何回もワトソン博士夫妻とディナーを共にした、しかし彼はとても人格者とはほど遠く、寛容さに欠ける偏狭なユダヤ人だと感じていた。例えば15年前ロサンゼルスのディナーパ-ティーの席で、米国政府のヒトDNA解析委員長であったワトソンは、日本政府の金の出し方が少ないと大声で隣席の私を非難したこともあった。文句を言う相手が違うだろうと私は答えたが、何回会っても私は彼を好きになれず、この方なら悪名高いDNA発見のうわさ話は事実かも知れないと思った次第。南部陽一郎先生のような、高邁な人格者のノーベル賞受賞は本当に稀有な例で、この意味からも益川博士が感涙するのも理解でき、同じ日本人として大変誇りに思うものである。 



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2008年12月17日

081217, ある朝の出来事

私は、例によって土曜日曜は朝早く手賀沼サイクリングにでかける。一周20Kmも走ると結構な運動になり、その日中気分が良い。先週土曜もまだ薄暗いうちに、手賀沼周遊道路をサイクリングしていたところ、民家から遠く離れた辺りで、ジョッギング途中の若者が道のど真ん中に立ち竦んでいた。私は自転車を止めてどうしたの? と聞くと, 若者はおどおどした態度である方向を指差した。その先には藤棚がある、いつもの見慣れた風景だ。どうしたの?と聞くと、再びその藤棚を指差す。よくみると、あれ!何だ! 何かぶら下がっている! 更に凝視すると人が藤棚にぶら下がっている。え!首吊り? と初めてことの重大さに気付いた。首吊り自殺だ!とやっと分かった。

驚いた。首吊りの現場の遭遇するのは長い人生でも, 勿論初めてのことだ。これこそ危機管理が問われる場面だ。若者は、助けましょうか!と言った。私は首を振った。こんな人里はなれた場所で夜中に首吊りをして、もうとっくに死亡しているに違いない。それよりも下手に手出しすると、話がややこしくなり事件になるから止めよう! 兎に角直ぐに警察を呼ぼう!と。

私は携帯を持ち合わせていなかった。どこか民家を探して電話しようかと思ったが、最寄りの民家もかなり遠い。どうしようかと考えた。すると田んぼのなかをある人が此方に走って来るのが見えた。済みません携帯をお持ちですか?と叫ぶと、いま警察に連絡をとったという。ああ!良かった。 第一発見者がいたのだ。

暫くしてパトカーと車が合計3台来るのが見えた。狭い畦と広い農道が交互に配置されているのを警察は知っており、広い農道からクルマが入ってきて、5−6人の警官がかけ寄ってきた。彼らは首吊り現場に近づき、まず生きているか死んでいるかを確かめた。やはり冷たくなっているらしい。続いて警察は周辺を調べ、盛んに写真を撮り始めた、現場にあった僅かの遺留品を調べてメモし、ポリ袋にいれた。警官に聞くと、こんな人里離れる場所の首吊りは、殺人事件の偽装の可能性もあるからといっていた。株の暴落で逃げ場を失ったのかどうか、自殺する人の気持ちはなかなか分からないが、悩みながらつい遠くまで来てしまったのだろうか。普通ならもっと楽な死場所を探さなかったのだろうかと。

やがて警官は死体を包んで降ろしクルマに積み込んだ。何とも嫌で哀れな気分であった。男はほぼ30ー40才代かと思われたが血の気がないからか、ヒゲを剃っていないせいか、顔はどす黒かった。不況のせいでリストされ、住む場所も追われたのだろうか。 或いは借金苦から逃れようとしたのだろうか。 この男にも間違いなく可愛い坊やの時代があった筈だ。年齢からみてその母親はまだ元気で、息子が自殺したなんて露知らず、どこかで生きて居るのではないだろうか。何だか動物と余り変わりない冷たい親子関係だとも思った。

確かにこの世は厳しく長い人生には死にたくなることもあるだろう。日本では年間3万人が自殺するという。そのうち半分は病苦、残りは破産とか失業などの経済的理由や、家庭内不和、失恋などが原因だという。しかし動物は決して自殺することはないと言われている。人間はそのときの状態を余りにも深刻に考え過ぎるから自殺に追い込まれるのだろう。また外聞とか見栄とか、或いは何とか苦しみから逃れたい一心から、最終的な結末に突っ走ってしまうのではないだろうか。

今回の不況でも、リストされて食べ物もなく、住む場所も失えば、死ぬことを考える人もいるだろう。しかし蟻やリスだって冬に対して食べ物を貯蔵し、クマは皮下脂肪を蓄えて冬眠に備える。この男は、株で大損を蒙り逃げ場を失ったのかもしれない。或いは、元気な間に何の準備や心構えもないまま、楽な生活を続けて、突然予期しない事故にあい、夢も希望も失って、行き詰まったのであろうか。

確かに人生において一番大切なものは将来の希望であろう。希望や夢が無くなった人生はもう生きていても仕方ないと思うのは分かる。これは間違いなく動物と人間の大きな違いだろう。しかし、朝暗いうちから熱心に散歩しているシルバーさんたちに私は毎日出会うが、彼らは道端に散らかったゴミにも全く無関心で、ただひたすらに散歩を繰り返しているようにみえる。何か夢は無いのだろうか。社会や現役世代の役に何か立てないかとは考えないのだろうか。夢も希望もなく、ただ社会の重荷となって何年も生き続けているのであれば、私にはその心境はなかなか理解できない。 



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2008年12月12日

081212,今回の不況は厳しい


今回の不況は猛烈に厳しい、先週ソニーが正社員も含めて世界で16,000人を人員削減すると発表し、ショックを与えたが、これはまだ序の口で、今後殆どの会社が大規模なリストラを実施するだろう。当社の近辺にも不況の風が吹き荒れている。

まず、梅雨入り前後までは、精密機器の修理について、いろいろ問い合せがあり、当方の条件に合わない場合お断りしていたが、夏以降、突然ぱったりとメイルや電話がなくなり、契約中の派遣人材の期限解約も始まった。多分、機器メーカーは突然来襲した不況の規模の大きさに驚き、自社のリストラに専念したのだろう。やっとリストラ計画が一段落して、少し冷静さを取り戻し始めたのであろうか12月に入ってから、再び修理点検などの相談が入りは始め、少々安心している状況である。

個人的にも、私の友人のIBM正社員E氏56才は、11月下旬に会社から12月末で自主退社するよう言い渡されたという。勿論退職金は12ケ月ほど上積みするらしいが, まだ在学中の2人のお嬢さんもおり、年金が出るまでの10年、どう生計を立てるか思案に暮れている。通告は人事部長ではなく弁護士だったという。問題を残したくないのだろう。もし自主退社に応じなければ、来年3月末で解雇するというから恐ろしい話だ。

別の例では、65才のO友人は、既に定年退職後、2,000万円以上の退職金を全て株式投資につぎ込み、自分は館山に係留した中古クルーザーヨットで、毎日、優雅なレジャー生活に入り浸っていた。新聞もテレビも殆ど見なかったというのはかなり問題だが、ある日自宅に帰って新聞を見て初めて株式の大暴落を知り、慌てて証券会社に駆け込んだが時既に遅く、投資金額の7割が吹き飛んで、たった600万円にまで減額してしまったという。株価が元の水準に戻るには5−6年はかかりますとの証券会社の話らしいが、これからどう生活を維持したものかと頭をかかえている。

同じく某有名大学を出て大手企業の中枢部門で働いてきたN友人は、口も達者で頭脳明晰だが、50代後半で心臓を病み早期退職した。受け取った退職金は自分の確信に基づいて数社の大手メーカーの株式につぎ込んだらしい。暫くは順風満帆であったが、突然の大暴落に遭遇して、投資金額を1/3以下に減らしてしまったという。折角、自信を持って設計した余暇人生は吹き飛んでしまったと意気消沈している。不器用な私は株をやらなくて良かったと胸を撫で下ろしている次第。

同じく、別の話だが、私の自宅の近くで、医薬品や化粧品などトイレタリー店を大規模に経営している親しいE薬局がある。10年前迄は店舗数を東葛地区全域に拡大して10店以上をもち、東京出身の奥さんはブランド好みの優雅な生活を送って、近所ではサクセスストーリーの家族であった。しかし5年前に少し離れた場所に、マツモトキヨシが大規模に出店してから様子が怪しくなり始めた。当初はマツキヨに対抗してキャンペインを繰り広げていたが、やはり資本力の差には対抗できず、殆どの購買者はマツキヨに流れて、この薬局は開店休業状態になってしまった。

私もどきどき、調髪剤とか水虫薬を買っていたが、品数が少なく値段も安くない。何より普通の店舗では一度入ると何も買わずには出るのが難しく、段々と足が遠のいた。奥さんもブランド嗜好には決別して店員として懸命に頑張ったが所詮ムリ。 彼女は親しかった私の家内に、こんな筈ではなかった、主人に騙された!と繰り返し嘆いていたようだ。孫もいる年齢で主人に騙されたとは遅すぎるが、思惑が狂ったのだろう。

先週11月30日の朝、突然この店のシャッターが開かなくなった、そして大きな張り紙に、突然店を閉めることになりました。申し訳ございません!店主、とかかれたマジック書きの張紙が残されていた。一家の行方は誰も知らないが、多分関西かどこか人目につかない遠方に夜逃げしたのだろう。これからは人目を避けながら日雇い稼業で残りの余生を生きるのだろうが、60才を超えた高齢とこの不景気でもあり、何かアルバイトが見つかれば幸いと祈っている次第である。

今回の不況は本当に大規模で厳しく、世界的な大企業から、中小零細企業、更に家計にまで尾大きな影響を及ぼし、これから更に第二ラウンド、第三ラウンドと深刻化するのであろう。本当に人生はどう転ぶか一寸先は暗で、終わってみなければ誰も分からないことを実感する、今回の不況である。




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2008年12月10日

081210. 昔の嫌な出来事

081210, 昔の嫌な出来ごと

半世紀近く昔の話しで恐縮だが、私には嫌な思い出がある。私が工学部を卒業して、合成樹脂製造会社R社に入社して5年目のときのことだ。いろいろ経緯はあったが、兎に角、神戸大学経済学部(夜間)も3月に卒業したときだった。
4月初めに会社の広報誌から発表があり、会社の将来についての懸賞論文の大募集があった。会社というものが分かり始めた私は、理系だが経済も学んで両方の知識を生かすチャンだと思い、応募しようと決めた。

特に神戸大経済学部で学んだ、東大某教授の日本の農業政策に関する教科書(上下)は、統計データを駆使した感銘深い論文だったので、その手法を真似て私も科学的データを集めて説得力をもった実証的な論文を書こうと考えた。市販の雑誌や、ビジネス本のマネではなく、実証データを駆使して論文を書き上げるべく、いろいろ構想を練った。神戸市や大阪府の図書館など、夏休みを返上してあちこちから統計データをかき集めて、わが社のビジョンなる400字詰原稿用紙に約15枚程度の論文を書き始めた。提出期限は9月末であったが、クーラもない西宮の狭い社宅の猛暑のなかで、夏休み返上で終に書き上げ、妻が清書した。まだ時間が欲しかったが、兎に角期限ギリギリに書留速達で東京本社に送った。まだ研究開発等についてはまだ不十分であったが、社長賞を獲得できる説得力のある論文に仕上がったつもりであった。

しかし、10月になっても11月になっても本社からは何の反応もなかった。12月になって初めて、論文の提出期限が3ケ月間延長され、12月末に変更されたことを知った。何の説明もなく提出期限が勝手に延期されたので不審にも思った。明けて1月になり、論文の審査結果が公表され、本社企画部門のI氏が最優秀社長賞、尼崎工場技術部に所属する私の論文が優秀賞、大阪営業部のO氏が第3席と発表された。しかし、私は自分の論文の出来栄えから考えて、如何にも納得できない気持ちであった。

4月になって、まず社長賞の論文が社内誌に掲載されて、初めてその理由が分かった。社長賞の論文は、市販の評論家のビジネス本の、まさしくコピペ作品(他人の論文をコピーしてペースト(貼り付)した論文)だったのだ。例えば、新しい酒は新しい皮袋に!などなど、P.ドラッガーのベストセラービジネス本などの切り貼りであることは、誰が見ても一目瞭然のコピー論文が社長賞とされたのであった。

ははーん、そういうことだったのかと私はやっと理解できた。初めての募集論文の名誉ある最優秀社長賞を、地方工場の無名の若造に渡すべきではないとの本社の茶坊主たちの判断で、急遽期限を勝手に延期して、内容は別としても見栄えの良いキャッチフレーズをふんだんに散りばめたコピペ論文を作り上げ、代表者として企画部のI氏の名前で、急ぎ押し込んだものだったのだ。今流で言えば、選択と集中など、のコピペ論文と同様なシロモノだった。

続いて私の論文が、次の社内報に掲載されたが、社員から驚愕の好評を得て大評判になった。やや恥ずかしいが40年が経過した今日でも、旧友や社員の方から、懸賞論文の東さん、とも言われている。しかしIさんの論文については誰も話さすことはなく全く知らん顔だ。 青雲の志に燃えていた私は、まさに冷水をぶっかけられた思いだった。社内には実力主義よりも保守的な体質が頑強に根を張っていることを初めて思い知らされたのであった。

仮に100歩譲っても、本件には明らかに問題な点が2つある。まず9月末という提出期限が、何の説明も無く勝手に延期されたことである。これはスポーツの試合途中で、ルールを変更するのと全く同じことであろう。何らかの理由で提出期限を延期するのなら、その旨を公表して応募者全員に、論文を推敲する機会を与えるべきであった。野球の審判が巨人びいきの判定をする程度でなく、途中でルールを勝手に変更して判定するのと全く同じ低レベルの無茶苦茶である。

更に問題なのは、審判とプレイヤーとは、同じグループに属する人であってはならないという常識すら守られていないかったことだ。サッカーでも柔道でも、審判は必ずプレイヤーとは異なるグループから指名されるのが大原則である。まして優劣を判定で決める場合には、審判は絶対に中立的な立場の人であるべきである。この懸賞論文の審査は本社の総務部と経管室、企画部で行われたが、同じ企画部に属する人の論文を最優秀賞と決定するとは、如何にもおかしな話であろう。仮に社内に審査できる適当な人材がいなければ、外部の大学の先生など中立な方に審査を依頼すべきであった筈だ。

このように自己革新の意欲に乏しく、社内に蔓延する潜在的な保守的体質は、そのあと数十年間に渡って、会社の活力を蝕み続け、有能な社員を企業中枢から追い出し、会社を台無しにしてしまった。特に創業者K相談役一族が会社を去ってからは、指針を失い、確信のある判断ができず、自己保身に明け暮れる経営陣の旧態依然たる会社に成り下がってしまった。理由は定かでないが3席のOさんは、その後に自殺してしまった。

私も排他的な社内ムードに嫌気がさして、外資との合弁会社を設立して社外に出て、もっと自由に活動できる道を選んだが、多くの志ある友たちも会社を去っていった。その結果、わが愛する親会社は、今では殆ど例のないほど低い株価150円の3流会社になり下がってしまった。勿論大きな負債を抱えていることもあるが、近年は会社に活力が全く感じられないことは誰がみても明らかである。この難しい経済社会においては、社員同士が自由闊達に激論を交わして、厳しい競争に打ち勝つことが不可欠な時代なのである。 私の親会社の恥を晒すのは忍びない話だが、企業体質の欠陥は、慢性病として企業体力を蝕み続け、長い年月の時間経過とともに、挽回できない凋落を引き起こす恐ろしいものである。

この出来事は既に半世紀前の話で、とっくに時効も過ぎており、私は何ら遺恨はないが、本件に関係された方はまだお元気な筈だから、もし私のブログを読まれたら、是非お話を聞かせて頂きたいと願っている次第である。




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2008年12月08日

081208, ユニークな英会話教室

もしもピアノが弾けたなら!ではないが、英語が自由に話せるようになりたいと願っている人は多いだろう。私も東京赤羽や志村坂上の英会話教室にも何回も通ったが、当方に具体的な目標があった訳ではなく、一向に上達しなかった。あるとき新聞で、港区赤坂見附に有名なデールカーネギー教室があることを知り、会社に頼み込んで3ケ月20万円を会社から出してもらって入学した。確か自分も半額を出したような記憶もあるが。

赤坂見付の東急ホテルの反対側ビルの地下1Fだったが行ってみてまず驚いた。受講生20人の半数近くはアメリカ人など外国人であった。何故?どうして?と思ったが、理由は分からなかった。何だかとんでもない教室に入ったかも知れないと不安になった。

教室は毎週1回2時間で3ケ月12回の契約だ。数人の講師は全て日本人だが、その素晴らしい発音と洗練されたマナーは、さすが並の外国人講師より格段に素晴らしかった。教室は全て英語使用だが、初回は各人がユーモアーを交えて自己紹介を求められ、自分がこの教室に来るようになった経緯の話をさせられた。英語で人を笑わせるのはなかなか難しかった記憶がある。

この教室は、英会話を教えるのではなく、コミュニケーションの方法、人間関係の作り方を教える場だと講師が説明して初めて外国人が多い訳が分かり始めた。更に人が、他人の注意を引き付けて話を出来るのは3分間が限界であり、その短い時間内に要旨を如何に要領よく相手に伝えるかを訓練するのが目的だとも説明された。少し大げさだとは思ったが、なるほどそういう趣旨でアメリカ人もいる理由が分かった

次の週は、自分の好きなテーマについて3分間、ジェスチャーを交えて話すよう求められた。私は原稿を作って練習を繰り返し、如何に3分間に圧縮するかの訓練をして、次週に手振り身振りも加えて何とか役目を果たした。

母国語のアメリカ人は、格好も話術も格段にうまく、流石彼らには敵わなかった。授業の終わりに講師から小さな紙片を全員に渡され、それには各々テーマが書かれており、次の週、各自はそれについて話をするよう指示された。例えば親しい友人とか、家族とか、嫌いな上司とかだったが、これも原稿を練って何とかやり終えた。
更に次は、当日会場に着くと講師からひとりづつ紙片を渡され、それに書いてあるテーマにつき、順番に前に出て3分間話をするのだった。これはかなり苦しかった。

その次の週は、最初に講師がある話を始め3分が経過すると突然中断して、次の生徒にその続きを話すよう求められた。話が続いていれば、どんな内容に発展させてもOKとの条件、その人が3分間話すと中断して、更にその隣席の人にバトンタッチして3分間話を発展さえ、更にその次が3分間、というような形式だった。自分の順番は分かるが、話がどの方向に進むか分からず、なかなか大変であった。

ある日本人の受講生が、自分にはそのような能力がないからと固辞したが、講師は受け付けず、執拗に説得し続けて険悪になり、終にその日本人は怒って退席して辞めてしまった。私もこの英会話教室を何度か辞めようと思ったが、会社に費用を出してもらっている関係上、簡単には辞められなかった。

更に次は、最初の人が3分間を終えると、講師が順不同に次の説明者を指名して、前の話の続きをやらせた。創り話でも結構だが、内容が繋がるようと求められた。突然に指名されるので、これには本当に困惑した。自分の出番が終わるまで、極度の緊張のしっぱなしであった。

更に進んで、受講生2人が指名されて前に出て、事前に与えられたテーマにつき、賛成、反対に分かれて討論するという形式だった。更にその次の週は、直前にテーマが与えられ、それにつき賛成反対に分かれてデベートするという、とんでもない仕掛けだった。

相手がアメリカ人では相手にならなかったが、日本人が相手の時は何とか切り抜けた、しかしその分野の用語を知らないと、大変な難行苦行になった。このように3ケ月の間合計12回の非常に厳しい英会話教室に通ったが、お陰で、ある程度の英会話はなんとか、なり始めたように思っている。

私は30余年の間、毎朝自宅でテープレコーダーを流しっぱなしで、発声練習を繰り返しており、自分の英語力についてある程度の自信があると思っていたが、しかし外国人と話して、初めて自分はヒヤリング能力が無いのに気がついた。話すことと聞くことは全く独立した別の能力であることを思い知らされたのだった。更に外資系合弁会社の社長を12年間勤めて痛感したことは、如何に先方の話の内容を正確に理解するかが、非常に重要であることも知った。 英語を聞くチャンスの少ない日本では、ラジオなどの英会話に浸かる以外になさそうだ。


更に日常の雑談にも大きな困難があることも知った。夕食会のテーブルは特に別次元の難しさがあり、買い物とか、ペットとか、旅行とか、夢とか、友人の話とかは本当に難しかしく、打ち解けた会話に加わることはなかなか大変であった。

あるときイタリアで、カラオケ店に行ったが、そこで私と同行した英語ペラペラの社長が、英語の歌を歌ったが、これは全く受けなかった。私は英語の歌を知らず、ラテン語の歌をひとつ知っていたのでこれを歌ったところ、上手下手は別だったろうが、大きな拍手喝采を受けた覚えがある。やはりヨーロッパは文明の発祥地だというプライドをもっていることを思い知らされた。特にイタリアはローマ文明の発祥地で、アメリカなどは新参者だとの自負をもっていることも痛感した。やはり第二外国語としてはドイツ語ではなく、ラテン系、特に母国語の国が多いスペイン語などをマスターしておくべきであったと後悔したのであった。



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2008年12月04日

081204, 私の兄弟姉妹

母については書いたので、次は兄弟についても記憶を整理しておきたい。私の兄弟姉妹は、長姉、長兄、次兄、私、妹、末妹の6人兄弟姉妹だった。今では表彰ものの人数だが、昔の6人兄弟はどこでも普通だった。 雨降りのときなどは早く学校に出かけないと、自分の傘がなくなってしまう心配もあった。超短気な父親は40才代の前半で結核で亡くなり、そのあとは長兄が家族を支えた。

優しい長姉は母親に協力して弟や妹の面倒をいろいろ見た。若いときは日本舞踊も習い、歩いて30分程度の宿場町の宿井の高さん宅で君島先生に教わっていた。いつも夕方から出かけるので帰宅が夜遅くなり、私は番犬代わりに同伴させられた。長姉にも短い青春はあったが、やはり厳しい農家に嫁ぐのは嫌で、何とか農村から逃げ出したいと切望し、隣町の商売屋のあるお兄さんからプロポーズされたときは、直ぐに結婚を承諾して家を出ていった。その後2人の息子をもうけ、50才前にある正月に心臓マヒで亡くなったが、短い割には恵まれた生涯であったと思う。

長兄は徳山工業高校を卒業した、早死した父親に代って、家族の面倒を一手に背負い、下松市の山角鉄工所に勤務して働き始めた。そのあと同僚の福吉さんと共同で自営の下請会社を設立し懸命に頑張ったが、平生町田名の松庫工業の鉄骨工事で建物から転落事故を起こして瀕死の重傷を負ったこともある。早朝や夕方に農業をした後、クルマのない当時のこと毎日自転車で20キロ以上を走って鉄工所に出かけて頑張り、父親のいない我々大家族を養った。27才前後で平生町のK子と見合い結婚した。  

次兄は小学校、中学校時代は腕っ節が強く、田舎のケンカ大将であった。自分のクラスの男生徒を引き連れて、上級生や下級生たちと、学校や八幡様の祭りなどでケンカを繰り広げていた。勉学は並であったが、腕力とスポーツに滅法強かった。 夏は川遊びで3円のアイスキャンディーを買うのが最大の楽しみだったが、5円のあずきカクテルは高くて買えなかった。あるとき川の淵に停めた自転車に荷台から、次兄は川に飛び込んだが、反動で自転車が倒れて、手前の岩に激突して頭に大怪我を負ったこともあるが、奇跡的に一命を取りとめた。そのころは終戦直後で、画用紙とかクレヨンなども無い時代であったが、次兄はこれらの貴重な物品を腕力で調達して私に持ち帰ってくれた。隣町の布団店の端正なお嬢さんと結婚して、先方に養子入りしてから落ち着き、バス運転手として幸福な人生を送っていたが、妻が難病にかかり亡くなるまで長い闘病の看護を経て、言葉に尽くせない人生の苦悩を味わったと思う。

私は、ケンカも弱く運動神経も悪く口下手で、全く地味な存在であったが、内心では負けん気が強い、コツコツタイプだった。しかし学校の期末試験ではいつも成績は余り良くなかったが、何故か実力試験や共通模擬試験にはめっぽう強かった。 小学校,中学校の卒業式には、私が優等生として表彰されるのを期待した母親が、一張羅に着替えて前方の席に参列したが、余り先生の受けが良くなかった私は、いつも期待を裏切って、一度も母を喜ばすことが出来なかった。これだけは大きな親不幸で母を傷つけたと思うと、今でも母に深く詫びている次第。

中学校3年のとき、私は全国共通試験(アチーブメントテスト)で、又しても県下の周南地区で5指に入る優秀な成績を収めて自分ながら驚いた、私は牧歌的な隣町のT農業学校への進学を希望したが、長姉宅への運び屋として便利だからとの理由で長姉嫁ぎ先近くのK普通高校へ進学させられた。高校でも期末試験は全く普通の出来なのに、何故か実力試験となるといつもトップクラスで、九大工学部に現役で合格した、大学の4年間の学資を支えてくれたのはやはり長兄であった。

もし私が大学入試に失敗したときは、長兄の嫁が勤務していた、平生町佐賀の当時の最新鋭の流架式の塩田会社に勤務する予定もあった。もし製塩会社に就職していたら、今は跡形も無くなく消え去った製塩会社と運命をともにして、社会人としてのスタートから苦難の道に、私は迷い込んでいたことであろう。

次女のK子は小学校時代は学業抜群で殆ど全優であったが、よくある例で、中学校になると途端に急降下して平凡な並みの生徒になってしまった。しかしなかなかの口が達者で、活動家でもあり、いつも私と口ケンカをした、いわゆる気の合わない兄妹であった。小野田に嫁ぐと直ぐに小野田弁をマスターして、自慢そうに我々に披露するのには閉口したが、当時ではまだ珍しいボランティア活動を熱心に行っていたが、40才代半ばでくも膜下出血で急逝した。

一番下の妹も学業は並だが、おっとり型の明るい性格で、末娘であったこともあり、兄弟姉妹全員から可愛いがられた。地元で結婚して2女を得て、既に4人の孫たちにも囲まれ、今では一番の幸福者かも知れない。

兄弟で私ひとりが、九大工学部に進学させてもらった。近くの東洋ソーダに就職するつもりで、余り好きではなかった応用化学科を選んだが、社員の子弟を優先採用する東洋ソーダには入社が敵わず、尼崎市の日米合弁の合成樹脂会社日本ライヒホールド社(尼崎工場)に入社した。しかし社交性に乏しくマージャンも出来ない私は、孤独な生活に飽きて、一心発起し、経済学の勉強を目指すべく、神戸大学経済学部の夜間過程に進学することにした。

しかし当時の会社の上司K課長は、自分はアフター5をマージャンと競馬に明け暮れているにも拘らず、部下が自分の知らない学問を勉強するのは決して許さなかった。暫くは秘密裏に夜間大学に通ったが、期末試験のときに露呈してK課長が激怒した。神戸大学を辞めなければ、通学不能な遠くの石川県美川工場に転勤させると脅された。終に退学したと偽って、私は泣き泣き2年間の休学届けを大学に提出したのだった。

今では典型的なパワーハラスメントだろうが、当時は全く普通で反抗のしようもなかった。2年間の休学期間が経過し、いよいよ正式退学かと思ったとき、上司のK課長が東京本社に転勤することになり、生き返った私は再び夜間大学に通い始め、計5年間かけて神戸大学経済学部経営学科を卒業した。その最終年度に私は結婚した。

妻は同郷の高等学校の3年後輩のK子だが、私には過ぎた才色兼備の女性と今でも信じている。同高校の数学のT先生から、東君には勿体無い、と言れ、国文のF先生からは、優秀な軍人一家だから時代が時代なら。。。とも言われた。勿論私は一目ぼれでもあった。長くなるのでやめるが、私はK子という伴侶をえたことで、人間社会の奥深さを学び、狭い殻に閉じこもっていた自分の偏狭な心を脱皮させ、大きく目覚めさせてくれたと、今でも深く感謝している次第。

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2008年12月01日

081201, 女子スポーツの大逆転劇

12月に入り急に寒くなった。1昨日と昨日の休みはもっぱらテレビ観戦であったが、大変面白かった。

まず土曜夜の女子フギュアスケートのNHK杯グランプリ最終戦。前々週のフランス杯で、ジャンプに失敗し、格下のイタリア,コストナーに屈辱の優勝をさらわれた浅田真央は、世界の第一人者としてのプライドが許さず、このNHK杯に賭けていた。女子では最高難度で殆ど誰も飛べないトリプルアクセルを2回飛んで名誉挽回を図ろうと計画し、直近の2週間はその練習に明け暮れていたという。失敗すると大減点になるリスキーなわざだが、タラソワコーチと相談して、もうこれをやるしかないと心に決めたのだそうだ。そしてNHK杯で初トライ、1回目は成功、2回目は回転不足の判定ではあったが、兎に角2回のトリプルアクセルを敢行して成功させた。

生まれつきのスタイルと美貌に恵まれた真央ちゃんだが、新聞で見たジャンプの瞬間の苦悶にゆがんだ顔は、今までみたことのない悲壮感にあふれたものだった。真央ちゃんの真のライバルはグランプリシリーズで連敗している韓国の天才児、金妍児であり、次回韓国でのグランプリフイナルで、真央ちゃんはトリプルアクセル2回で戦うのだそうだ。大変な苦しみを持ちながらも、いつも可憐な笑顔で滑る真央ちゃんの勇気には恐れ入った次第。

同じく日曜の女子ゴルフLPGチャンピオンシップ宮崎大会も見ごたえがあった。今年の日本女子ゴルフ賞金女王が決まる最終戦で、順調なら韓国の李知姫が女王になるといわれていたが、もし何か奇跡の大逆転でもあれば古閑美保か,更には横峯さくらの可能性も無くはなかった。しかし、試合は最初の3日間はリーダーを保ち続けた宋ボベ(韓国)が、最終日にダボを犯して7位に後退、代わって全美貞(韓国)が3打差でトップに立った。この全美貞は素晴らしい実力の持ち主で、確か昨年、日本で3連覇をも達成した実力派だ。 
2打差を保ったまま最終の18番のミドルホールで、逆転劇が始まった。まず同グループで2打差遅れの不動裕理がピンそば1m足らずの素晴らしい第二打を打った。これを見て内心動揺した全美貞は、第二打をこともあろうにピンそばの深いバンカーに打ち込み、逆転劇がいよいよ動き始めた。

普段の全美貞なら、バンカーから出してボギー、ピンそばの不動がバーディーで、全美貞は不動とのプレイオフとなる流れだ。ところが全美貞がこともあろうにバンカーからホームランを放ち、広いグリーンの反対側のエッジまで転がしてしまった。もう万事休す、不動がバディーで優勝だと観客全員が確信した。 ところがである。1mに満たない短いパットを不動が外してしまったのだ。何故こんなことが起こるのかと思ったが、素人でも90%は入る80cmの超短いパットを名手の不動が外してしまったのだ。さあこんどは先に上がっている1打差遅れの古閑美保とのプレイオフになってしまったと日本中が驚いてしまった。

しかし大逆転劇はこれでは収まらなかった。先に上がって見ている古閑美保の前で、あの冷静な不動が打った50cmにも満たないボギーパットは、ボールがカップを舐めて反対側に止まったのだ。本当に逆転の更なる大逆転劇だ。そして2,500万円の賞金は古閑美保の懐に転がり込み、奇跡の賞金女王になってしまった。現実に目の前で10分足らずの間に起こった奇跡の逆転劇に、古閑美保は震えが止まらず、飛び上がって泣きながら喜んだ。

聞くところにより、李知姫と全美貞は先輩後輩の関係で大の仲良だという。全美貞が優勝して、賞金女王は李知姫になる見込みが、大番狂わせの繰り返しで、殆ど可能性がなかった古閑美保に勝利の女神は微笑んだ。ゴルフは実力と精神力との勝負と、更に幸運の女神のご機嫌も大きく影響するから面白い。 韓国女性は豊富な練習量と、家族を背負って稼ぐ強い精神力で世界のゴルフ界を席巻しているが、やはり幸運の女神も時には見放すだろうか。全美貞はお姉さん(李知姫)に申し訳ないと、ロッカーの片隅で抱き合って泣き暮れたという。なんとも残酷な女子ゴルフ最終戦であった。



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mh3944 at 15:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)