2009年02月
2009年02月26日
090225, 就職活動
町を歩いていると、年中リクルートユニフォームで身を固めた就活中に学生に出会う。多分大學3年生だろうが、若々しくて顔も引き締まり、なかなかフレッシュな感じだ。世間は大不況のさなかで、特に女子学生は男性に比べて仕事も限られ、不安な面持ちで大変なようだ。それを見ながら私は50年前の苦労した自分の就職活動を思い出した。
文科系学生と違って理系、特に工学部の我々は、就職担当の教授がひとりづつ順番に予呼び出して就職先を紹介するから、学生は紹介された会社を受けるか否かの返事をすればよく、とても気楽だった。しかしそれは成績優秀者に限った話であり、優秀でなかった私には大変な難業苦行が待っていた。4年生の4月になると多くの学生は次々と担当教授から呼びだされて、紹介される大企業に就職がきまって行く、私の兄は自宅から近い東洋ソーダへの入社を希望していたが、別の友人が早々と決めてしまい、5月になっても6月になっても私には声がかからなかった。
実は成績のほかに、私にはある別の理由もあったのだ。それは直前の3月の燃料学科の期末試験で欠点(不合格)を食らった私は、担当のK教授にクイレムをつけ、逆に激怒されてしまったのだ。問題はそのK教授が翌月4月には我々の就職担当教授になるとは、私は夢にも知らなかったのだ。さあ大変!と内心大慌てだが、もう後の祭り。K教授に謝罪して就職先の紹介をお願したが、君は成績が良くないので紹介できる会社が見つからない!と言われてしまった。典型的なパワーハラスメントで、もう取りつく島もなかった。
同級生の殆どは就職先が決まったが、私は7月になってもまだ決まらなかった、友人たちは夏休み旅行とか帰郷を準備し始めたが、期待しているであろう親に会わす顔がない私は帰るに帰れず不安でいっぱいだった。この苦しい気持ちは、今の就活中の学生の不安そうな顔つきや心境を十分理解でき同情もしている。
見るにみかねたA助教授が、たまたま打診があった新しい会社を私に紹介してくれた。その会社は阪神間にある新設のライヒホールド(株)という小さな合成樹脂製造の合弁会社であった。とにかくどこでもよいから、夏休みまでには何とか就職先を決めたい私は飛び付いてOKした。 やっと私も晴れて同級生の仲間入りができ、故郷にも帰ることができると、もう天にも登る心地であった。
級友たちは 東レとか、旭化成、帝人、三菱重工、旭ガラスなどなど、知名度の高い超有名企業に次々と決まって行ったが、私はカタカナ名で今まで誰も聞いたこともない会社であり、友人にはなかなか話せなかったが、とにかく嬉しかった。会社が小さければ、入社して思う存分仕事ができる筈だと思ったから。
学校の試験が余り芳しくないのは私の幼少時代からの個性の一部だから仕方ない。実力では絶対に友人に負けないと内心思っていたので、親しい友人Nに、企業はなぜ大学の成績ばかりに注目して、当人の本当の実力を見てくれないのだろうか?と相談もしたが、彼は笑って相手にしてくれなかった。 とにかく私は誰も聞いたことがない無名のカタカナ会社からスタートした。そして波乱の多い会社生活を経て40年が過ぎ、定年を迎えた。
その間、私はいろいろな仕事を経験し、最後は社員50余名の小さな外資系の医薬品会社の社長として12年間世界中を歩きまわった。そして国内の平凡な人生では得られない貴重な体験もできた。そして70過ぎた今まだ現役で自営の仕事をやっている。毎年、春には大学の同窓会があり、今年も4月の予定との連絡が先日あった。同級生たちの多くは平穏無事に会社人生を終えて、諦観した感じで余生を過ごしている様子だ。
しかし昔と違って今日の社会は激変の時代だ。例えば数学専攻の私の知人M君は、昔流行りの異業種に挑戦して神戸銀行に入社したが、そのあと太陽銀行と合併して、太陽神戸銀行となり、更に三井銀行と合併して太陽神戸三井銀行となり、更に更に住友銀行と合併して、三井住友銀行となり、そして遂にその友人とは連絡が途絶えてしまった。まさに長い人生の間にはいろいろ予想をこえた大激変がおこり、有名企業に入社したからと喜んでいても何が起こるかわからず、また無名の会社だからといって、必ずしも悲観する必要もない。要は、人生は努力と運との組み合せであり、サッカーのようにシュートしたボールがゴールポストの右側に当たるか左に当たるかで人生は大きく左右される、結局は終わってみなければ何も分からないのだから。
確かに、学生諸君が目標の大企業に入社し、無事に人生を送ることができればそれは平穏無事な人生かとも思う。しかしそれが果たして満足できる人生かどうかは別問題である。名もない小さな会社からスタートすると、そこには波乱があるかも知れないが、また面白い体験もあり、決して悲観することはないと思う。そこには平凡な生活では味わえない稔り多い人生もあるのだから。そして人の一生は本当に夢の間に過ぎてしまうのだ。
文科系学生と違って理系、特に工学部の我々は、就職担当の教授がひとりづつ順番に予呼び出して就職先を紹介するから、学生は紹介された会社を受けるか否かの返事をすればよく、とても気楽だった。しかしそれは成績優秀者に限った話であり、優秀でなかった私には大変な難業苦行が待っていた。4年生の4月になると多くの学生は次々と担当教授から呼びだされて、紹介される大企業に就職がきまって行く、私の兄は自宅から近い東洋ソーダへの入社を希望していたが、別の友人が早々と決めてしまい、5月になっても6月になっても私には声がかからなかった。
実は成績のほかに、私にはある別の理由もあったのだ。それは直前の3月の燃料学科の期末試験で欠点(不合格)を食らった私は、担当のK教授にクイレムをつけ、逆に激怒されてしまったのだ。問題はそのK教授が翌月4月には我々の就職担当教授になるとは、私は夢にも知らなかったのだ。さあ大変!と内心大慌てだが、もう後の祭り。K教授に謝罪して就職先の紹介をお願したが、君は成績が良くないので紹介できる会社が見つからない!と言われてしまった。典型的なパワーハラスメントで、もう取りつく島もなかった。
同級生の殆どは就職先が決まったが、私は7月になってもまだ決まらなかった、友人たちは夏休み旅行とか帰郷を準備し始めたが、期待しているであろう親に会わす顔がない私は帰るに帰れず不安でいっぱいだった。この苦しい気持ちは、今の就活中の学生の不安そうな顔つきや心境を十分理解でき同情もしている。
見るにみかねたA助教授が、たまたま打診があった新しい会社を私に紹介してくれた。その会社は阪神間にある新設のライヒホールド(株)という小さな合成樹脂製造の合弁会社であった。とにかくどこでもよいから、夏休みまでには何とか就職先を決めたい私は飛び付いてOKした。 やっと私も晴れて同級生の仲間入りができ、故郷にも帰ることができると、もう天にも登る心地であった。
級友たちは 東レとか、旭化成、帝人、三菱重工、旭ガラスなどなど、知名度の高い超有名企業に次々と決まって行ったが、私はカタカナ名で今まで誰も聞いたこともない会社であり、友人にはなかなか話せなかったが、とにかく嬉しかった。会社が小さければ、入社して思う存分仕事ができる筈だと思ったから。
学校の試験が余り芳しくないのは私の幼少時代からの個性の一部だから仕方ない。実力では絶対に友人に負けないと内心思っていたので、親しい友人Nに、企業はなぜ大学の成績ばかりに注目して、当人の本当の実力を見てくれないのだろうか?と相談もしたが、彼は笑って相手にしてくれなかった。 とにかく私は誰も聞いたことがない無名のカタカナ会社からスタートした。そして波乱の多い会社生活を経て40年が過ぎ、定年を迎えた。
その間、私はいろいろな仕事を経験し、最後は社員50余名の小さな外資系の医薬品会社の社長として12年間世界中を歩きまわった。そして国内の平凡な人生では得られない貴重な体験もできた。そして70過ぎた今まだ現役で自営の仕事をやっている。毎年、春には大学の同窓会があり、今年も4月の予定との連絡が先日あった。同級生たちの多くは平穏無事に会社人生を終えて、諦観した感じで余生を過ごしている様子だ。
しかし昔と違って今日の社会は激変の時代だ。例えば数学専攻の私の知人M君は、昔流行りの異業種に挑戦して神戸銀行に入社したが、そのあと太陽銀行と合併して、太陽神戸銀行となり、更に三井銀行と合併して太陽神戸三井銀行となり、更に更に住友銀行と合併して、三井住友銀行となり、そして遂にその友人とは連絡が途絶えてしまった。まさに長い人生の間にはいろいろ予想をこえた大激変がおこり、有名企業に入社したからと喜んでいても何が起こるかわからず、また無名の会社だからといって、必ずしも悲観する必要もない。要は、人生は努力と運との組み合せであり、サッカーのようにシュートしたボールがゴールポストの右側に当たるか左に当たるかで人生は大きく左右される、結局は終わってみなければ何も分からないのだから。
確かに、学生諸君が目標の大企業に入社し、無事に人生を送ることができればそれは平穏無事な人生かとも思う。しかしそれが果たして満足できる人生かどうかは別問題である。名もない小さな会社からスタートすると、そこには波乱があるかも知れないが、また面白い体験もあり、決して悲観することはないと思う。そこには平凡な生活では味わえない稔り多い人生もあるのだから。そして人の一生は本当に夢の間に過ぎてしまうのだ。
2009年02月23日
090223, 恥っかき中川大臣
中川金融大臣が辞任した。大恐慌で世界が超多忙なこの時期に、その担当大臣が世界会議で寝ボケけた発言をしての辞任だから恐れ入る。テレビで見たイタリアでの蔵相会議後の、記者会見のぶざまな姿は本当に情けなかった。世界中の人々は、あれが世界No.2の経済大国日本の財務金融担当大臣かと目を疑ったと思う。
気の小さな白川日銀総裁はオロオロしている前で酒の酔っ払いから目が覚めないままの会見だ。本人は風邪をひいて服用した薬が原因だとか言っていたが深酒にきまっている。そのあとバチカン博物館見物にでかけて不心得な行動で警報までくらったそうだから、もう子供以下ではないか?
日本に帰ってから初めて世界中の大騒ぎを知り、慌ててどこかの病院で診断書を取りつじつまを合わせようとするケチな心構えがまたまた嫌らしい。起きてしまったらもう素直に謝る以外にないのが分からないのだろうか。 また麻生首相も親友中川大臣から泣きつかれ、よし君を守ってやる!とか言ったというからこれも笑い話のレベルだ。何でこのように世界が恐怖におののいている大恐慌の対策会議に、酒なんか飲んで出席するのだろうか?何か役立つ発言でもしたのだろうか?
確かに私も、アメリカとは言葉やマナーも違うイタリアの会合に一人で参加し、会議で苦労した経験がある。例えば、私がミラノ空港からミラノ駅に着き、電車の切符を買うとき、ジェノバ! と行き先を伝えると、ウノ?と聞き返された、 NO Genova! と答えると、またウノ?と聞き返される、数回やりとりして やっと切符の枚数が1枚(Uno)かと聞かれていることが分かったり、更にはGenova駅から初体験の仮面パーティーのホテルに行くのも苦労した。余談が続くが、William Tellに粉して仮面もつけた私は, そのパーティーでBesame Muchoをスペイン語で唄って大受けし、アンコールまで求めれられた思い出もある。しかし今回の中川大臣は財務省のお付きや通訳が同伴、更には日銀白川総裁も同行の国際会議で何の不自由もなかったはずだ。記者会見ぐらいで何でヘマをやるのだろう! 多分世界蔵相会議でもロクな発言はできなかったのではないだろうか。
仮に本当に風邪で体調を崩したとしても、たった30分足らずの記者会見は何の問題なく乗り切れたはずだ。想像するに多分、役目上、世界会議には出席するだけで、最初から真剣に協議し、世界が注目している日本代表としての発言など、最初から毛頭も考えていなかったのだろう。
半年前に中川さんが財務金融相に就任した時、私はテレビで中川大臣を見ていたが、当初から全く不真面目な態度で、なぜこんな人物が最重要な財務金融大臣に任命されたのか不思議でたまらなかった。当初はあの不貞腐れた態度はテレ隠しかとも思ったが、結局は実力のない2世議員の典型的なサンプルだったのだ。こんな人物が麻生首相の無二の親友だそうだから、麻生首相までその見識が疑われてしまう。全く残念なことである。
それに引き替え役職や立場は違うが、同時期に来日したあのクリントン国務長官の活躍振りはどうだ。誠実さの有無は別としても、全く素晴らしい行動であり発言ではないか? 中川さんと同様に時差ボケもあっただろうに、短い滞日中に、麻生首相に会い、小沢さんに会い、皇后に拝謁、明治神宮に参拝、更には東京大学で学生相手の荒っぽい討論会など、日本人には絶対に考えられない行動だ。どう展開するか全く分からない学生相手の討論会など恐ろしくて、日本人政治家はまず避けるだろう。しかもいずれの会議においてもクルントン国務長官は一人で堂々と渡り合っている。そしてわずか2日後には、次の訪問国インドネシアに飛び立っていった。更にそのあと韓国、中国にゆき、胡錦涛国家主席や温家宝首相を次々訪問し、その他政府関係者との会議を立て続けにこなし、更には中国政府が最も嫌がる人権団体との面談まで行なって、さっと米国に帰ってしまった。なんとも素晴らしい行動力だ。
クリントンだって、内心は米国大統領としての訪問を望んでいたはずだ。しかしそれはオクビにも出さず、黒人大統領の使いとして訪問しているのだ。 相手国の誰にも、こぼれるような笑顔のクリントン国務長官は、誠実さは欠けても、外交官としては素晴らしいものだ。外交とは重要人物に笑顔で会うだけで目的の大半は達成されるのであり、あとは役人連中が出かけて詳細を討議すればよいのだ。
クリントンと同様に、中国の胡錦涛主席や温首相も負けてはいない、彼らの笑顔には誠実心は感じられず、私は個人的には好きではないが、しかし国の代表者として、この世界的な大不況の機会にアフリカ諸国を歴訪し、ばら撒き外交を行っている。その結果は今後の資源外交とか、国連常任理事国選出などあらゆる面で、中国の威光として大きく影響するだろう。 兎に角相手国のトップへの道筋さえ作っておけば、そのあとは役人や官僚たちがいくらでもやってくれる。
これはヨーロッパ諸国でも同様だ。例えばフランスサルコジ大統領のあの働き振りはどうだ。確かに恋愛したり離婚したりいろいろあるが、いったん事件が起これば直ちに現地に飛んで、相手国トップと直談判する、あの勇気と行動力は素晴らしい。日本の政治家などは足元にも及ばない。失敗したらどうしようかと余計な心配ごとばかり考えて時間を無為に過ごし、結局タイミングを失っていつも2番煎じに終わる。その典型的な例が、莫大な金額を出しながらも世界中から非難された湾岸戦争のケースと同じで、非効率な外交に終わってしまう。
この1週間、繰り返しテレビ放映された中川大臣の恥っかき記者会見を見ながら、私も同じ日本人として、惨めな感情から救われなかった。
気の小さな白川日銀総裁はオロオロしている前で酒の酔っ払いから目が覚めないままの会見だ。本人は風邪をひいて服用した薬が原因だとか言っていたが深酒にきまっている。そのあとバチカン博物館見物にでかけて不心得な行動で警報までくらったそうだから、もう子供以下ではないか?
日本に帰ってから初めて世界中の大騒ぎを知り、慌ててどこかの病院で診断書を取りつじつまを合わせようとするケチな心構えがまたまた嫌らしい。起きてしまったらもう素直に謝る以外にないのが分からないのだろうか。 また麻生首相も親友中川大臣から泣きつかれ、よし君を守ってやる!とか言ったというからこれも笑い話のレベルだ。何でこのように世界が恐怖におののいている大恐慌の対策会議に、酒なんか飲んで出席するのだろうか?何か役立つ発言でもしたのだろうか?
確かに私も、アメリカとは言葉やマナーも違うイタリアの会合に一人で参加し、会議で苦労した経験がある。例えば、私がミラノ空港からミラノ駅に着き、電車の切符を買うとき、ジェノバ! と行き先を伝えると、ウノ?と聞き返された、 NO Genova! と答えると、またウノ?と聞き返される、数回やりとりして やっと切符の枚数が1枚(Uno)かと聞かれていることが分かったり、更にはGenova駅から初体験の仮面パーティーのホテルに行くのも苦労した。余談が続くが、William Tellに粉して仮面もつけた私は, そのパーティーでBesame Muchoをスペイン語で唄って大受けし、アンコールまで求めれられた思い出もある。しかし今回の中川大臣は財務省のお付きや通訳が同伴、更には日銀白川総裁も同行の国際会議で何の不自由もなかったはずだ。記者会見ぐらいで何でヘマをやるのだろう! 多分世界蔵相会議でもロクな発言はできなかったのではないだろうか。
仮に本当に風邪で体調を崩したとしても、たった30分足らずの記者会見は何の問題なく乗り切れたはずだ。想像するに多分、役目上、世界会議には出席するだけで、最初から真剣に協議し、世界が注目している日本代表としての発言など、最初から毛頭も考えていなかったのだろう。
半年前に中川さんが財務金融相に就任した時、私はテレビで中川大臣を見ていたが、当初から全く不真面目な態度で、なぜこんな人物が最重要な財務金融大臣に任命されたのか不思議でたまらなかった。当初はあの不貞腐れた態度はテレ隠しかとも思ったが、結局は実力のない2世議員の典型的なサンプルだったのだ。こんな人物が麻生首相の無二の親友だそうだから、麻生首相までその見識が疑われてしまう。全く残念なことである。
それに引き替え役職や立場は違うが、同時期に来日したあのクリントン国務長官の活躍振りはどうだ。誠実さの有無は別としても、全く素晴らしい行動であり発言ではないか? 中川さんと同様に時差ボケもあっただろうに、短い滞日中に、麻生首相に会い、小沢さんに会い、皇后に拝謁、明治神宮に参拝、更には東京大学で学生相手の荒っぽい討論会など、日本人には絶対に考えられない行動だ。どう展開するか全く分からない学生相手の討論会など恐ろしくて、日本人政治家はまず避けるだろう。しかもいずれの会議においてもクルントン国務長官は一人で堂々と渡り合っている。そしてわずか2日後には、次の訪問国インドネシアに飛び立っていった。更にそのあと韓国、中国にゆき、胡錦涛国家主席や温家宝首相を次々訪問し、その他政府関係者との会議を立て続けにこなし、更には中国政府が最も嫌がる人権団体との面談まで行なって、さっと米国に帰ってしまった。なんとも素晴らしい行動力だ。
クリントンだって、内心は米国大統領としての訪問を望んでいたはずだ。しかしそれはオクビにも出さず、黒人大統領の使いとして訪問しているのだ。 相手国の誰にも、こぼれるような笑顔のクリントン国務長官は、誠実さは欠けても、外交官としては素晴らしいものだ。外交とは重要人物に笑顔で会うだけで目的の大半は達成されるのであり、あとは役人連中が出かけて詳細を討議すればよいのだ。
クリントンと同様に、中国の胡錦涛主席や温首相も負けてはいない、彼らの笑顔には誠実心は感じられず、私は個人的には好きではないが、しかし国の代表者として、この世界的な大不況の機会にアフリカ諸国を歴訪し、ばら撒き外交を行っている。その結果は今後の資源外交とか、国連常任理事国選出などあらゆる面で、中国の威光として大きく影響するだろう。 兎に角相手国のトップへの道筋さえ作っておけば、そのあとは役人や官僚たちがいくらでもやってくれる。
これはヨーロッパ諸国でも同様だ。例えばフランスサルコジ大統領のあの働き振りはどうだ。確かに恋愛したり離婚したりいろいろあるが、いったん事件が起これば直ちに現地に飛んで、相手国トップと直談判する、あの勇気と行動力は素晴らしい。日本の政治家などは足元にも及ばない。失敗したらどうしようかと余計な心配ごとばかり考えて時間を無為に過ごし、結局タイミングを失っていつも2番煎じに終わる。その典型的な例が、莫大な金額を出しながらも世界中から非難された湾岸戦争のケースと同じで、非効率な外交に終わってしまう。
この1週間、繰り返しテレビ放映された中川大臣の恥っかき記者会見を見ながら、私も同じ日本人として、惨めな感情から救われなかった。
2009年02月18日
090218, 株は結局儲からない?
昨年9月初めから10月にかけての世界的な株式の大暴落は本当に恐怖だった。何しろNYダウ平均株価は$14,000から$8,500へ、日経平均株価も14,000円から8,000円へと、まさに真空中を墜落するような状態だった。この2ケ月間で世界は3000兆円の株式価値が消滅したそうだ。何と日本国の総資産の合計額とおなじ価値が世界の株式市場から消えて失せた訳だ。
技術屋の私は不器用で株式を余りやらないが、格好いい友人の多くは今回の暴落で大損を出しており、中には1ケ月近くのヨット遊びから帰ってみると、余生の生活資金にと投資していた2千万円近い株式が半減していたと悲嘆にくれる豪傑?もいる。彼が生きている間に株価が元の水準に戻ることはほぼ絶望だろう。
やっと何とか落ち着きを取り戻した最近の株式市場について, 2/16の日経新聞が面白い調査結果を載せていた。即ち投資家が抱える含み損について、5割以上の含み損をかかえている人が36%, 4割の含み損が25%, 合わせて60%以上の人たちが5割前後の含み損を抱えているという。少しでも含み益のある人はわずか5%だそうだ。本当に惨憺たる結果だ。
ではこの大損を抱えた投資家は今後どうしようとしているかも日経はアンケートしているが、まず大損を出してどうにも動けずそのまま保有し続けるという人が79%と圧倒的に多いそうだ。まだショックから立ち直れないということか、殆どの投資家は当分の間、塩漬けで様子を見るということのようだ。彼らは少しでも上昇すればすぐに売ろうと待ち構えているのだろう。もし私が同じ立場なら、多分同じ心境で、少しでも損失を減らしてこんな惨めな状況から早く逃げ出したいと思うだろう。しかし多数がこんな待機姿勢では株式市場は何年経っても上昇する訳がない。
実は私も少しだが株式をもっている、株価1000円前後の得意先A社の株式を1500株ほどだ。お付き合いで持たされている。正確には平均取得原価は約900円で、ピークで1500円近くにまで上がって喜んでいたが、再び落下して800円にまで落ち込み15万円程度の含み損だが、まあこの程度のキズなら、本当にラッキーな部類だろう。
しかし40年前に、私の月給がまだ5万円程度の時に株式投資に熱中した時もあった。当時の写真フィルム大手の小西六の株式が120円−150円程度の時代に、自分の全貯金100万円を投じて十回程度売り買いを繰り返して合計100万円ほど儲け、元金を倍増したことがあった。年間の給料以上を株式で稼いだのに気を良くして、更に売買を続けた結果、今度は逆に100万円の損失を出してしまい、結局もとの木阿弥に戻ってしまった。そして株式投資は割に合わないと悟り、完全に手を引いてしまった。何しろ恋に落ちた心理と同じで、寝ても覚めても株価のことが気がかり、会社の研究室で実験中も頭から株のことが離れなかった。そして帰宅後にラジオを聞いて株式の暴落を知る状態では、儲かる訳がないと、あきらめてしまった。
ものの本によると、株の売買をやる時は、急落局面での対応が決定的に重要らしい。先行きの見えない株式市場では、如何に損失を少なく逃げるかの、損切り自主ルールが必須なのだそうだ。例えば、目標とした株価から20%下がれば、愛着や理由の有無にかかわらず、無条件で全株を売ってしまうという自己ルールだ。
勿論、当時の私にはそのような専門知識などある訳がなかったが、実は今回の暴落に際しても国内の6割の投資家は、この自主ルールをもっていなかっと日経新聞は報じている。如何に儲けるかばかりに気が向き、今回の如くまっすぐ墜落するような暴落状況では、そのような損切り設定を考える余裕すらなかったということか。
しかし、株式投資の基本は、やはり人と人との心理的な戦いであり、相手に対策を考えさせる余裕を与えないほど素早く逃げないと勝てないのだろう。あるいは戦争と同じことで、相手に作戦を練り直させる時間的な余裕は与えないのが肝心らしい。
いずれにしても長い年月の単位でみると、日本の株価水準は全く上がっておらず、例えば1985年の日経平均株価9,000円が、1989年12月のバブル最盛期に38,915円に達して破裂し、97/11の山一証券倒壊に至るまでのバルブ大崩壊、2000年のITバルブ崩壊、米国サブプライムローンに端を発した今回の金融バブル崩壊と3度の大小変動を経て、今の平均株価は7,500円にまで落ち込んでしまった。25年経過して平均株価は元より下がっている訳だ。その間いろいろあったが、結局株式はゼロサムゲームで誰も儲かっておらず、仮に誰かが儲けたらその陰では、必ず誰かが泣いているわけだ。
アメリカでも、MBA卒業生の最優秀組は、殆どが地味な製造業を嫌って、一攫千金が期待できる株式市場に就職して、一時は巨満の富を得ていたらしいが、今回の大暴落で、彼らは再び文ナシに陥ってしまい、暴落を予想してうまく逃げ失せたものは少なく、自分たちの不運な運命を嘆いているという。
いずれにせよ人生とは常に陽のあたる道ばかりでなく、日陰の時にも必ず出くわす。私は技術屋だが、自分の選んだ地味で目立たない人生を嘆くことはしないで、逆に大きな幸運には巡り合えないかもしれないが、奈落の底につき落とされるほどの不幸に遭遇することも少ないと割り切って牛歩の歩みをつづけるのが、平凡だが一番安全な道かもしれない。ああまた夢のない話になってしまいました、お許し下さい。
2009年02月12日
090212, 私の幼少時代
私は、山口県の城南村という田舎で育った。後ろは明治維新のとき奇兵隊が立てこもたっという石城山があり、南の呉麓山との間に挟まれた山村で、ど真ん中を山陽本線が通っているのを少し自慢に思っていた人口2000人足らずの小さな村、野坂村長というカイザル口髭が自慢の時代錯誤的な人物が一番威張っていたところだ。
村の中心部には7―8軒の小さな集落があり、農協、雑貨屋、酒屋、サンパツ屋、文房具店などが集まっていた。子供時代のサンパツは確か50円程度だったが、入学式などを除いて、普段は母親が自宅で大きなバリカンで散髪し、いつも痛い思いをさせられていた。終戦前後の物資不足な時代で、大人はフンドシ姿で堂々と村の銀座通りを歩いていたから、今に思えば、南洋の島国に住む土着人とあまり変わらなかったかも知れない。しかし夏のフンドシは本当に快適だった。うろ覚えだが今でも東北地方にみる如く村祭りで幟や旗を立てた大人の行列が城南の田や畑の畔道を練り歩いていたように思う。
城南村は山陽本線の田布施駅と岩田駅の中間にあり、自家用車は殆ど皆無の当時、どちらの駅にも徒歩1時間近くかかる不便な土地だった。その当時、田布施駅には職員が10名程度、今は無人の岩田駅にも5-6名の駅員が誇らしげに働いており、更に当時は線路工夫という保線区の土木作業員も大勢いた。
田布施駅に行くには途中に瀬戸という場所を通らなければならないが、幼心にそこは怖いオシ(うぐし)の人物が住んでおり、何となく恐しくてその前の道は通れず、回り道して鉄道の線路上を歩いて駅まで行ったこともある。反対方向の岩田駅は更に遠く1時間以上の距離だが、今度は恐ろしい場所を通る道しかなく、更に勇気が要ることだった。 しかしある時から、朝夕はバスが通るようになり、子供心にも心配ごとが解消されて大変嬉しかったことを覚えている。
その時代の最大のお祭りはやはり正月休みだが、青年団主宰の農業品評会が小学校の教室で開催され、各農家が自慢の大根やカボチャを出品して競い合った。
しかし当時の最大の娯楽は映画鑑賞があり、5-6Kmほど離れた柳井町に出かけることだった。今は寂れてしまったが、その当時の柳井町は殆どの特急急行が停車する一大歓楽街であり、私も自転車で本屋に出かけたことがあるが、道に迷って遂に見つからずに引き返した記憶もある周南の中心街だった。その中に銀天街なる大通りがあって、東映、松竹、日活,セントラルなどなど10館ちかい映画館が軒をならべて、封切り映画の上映を競い、その映画鑑賞は正月休みのビッグイベントであった。もちろんわが城南村は映画館などはなく、時折小学校の講堂に暗幕を張った臨時会場で、三益愛子の母子物語とか、青い山脈とか、銀嶺の果てにとかいう映画が上映され、扇風機もない蒸し風呂のなかで、汗だくになって鑑賞した。
村の祭りとしては、夏には小学校運動場での盆踊り大会があり、若者が一番熱中した祭りだったと思う。幼稚な私にはわからなかったが、大昔の歌垣(カガイ)と同様に、老若男女の交歓の場所でもあったように思う。秋には岩城山のふもとの八幡様のお祭りがあり、素人演芸会や夜店が並んでいたが、とくに演芸会出演者は顔見知りもいて なかなか面白かった、 しかし血気盛んな村の若者たちのなかには徒党を組んで、隣村の若者たちとケンカすることもあった。
子供たちの夏の大きな楽しみは村のど真ん中を流れる田布施川での水泳で、今と違って当時の川幅は狭いが水深は結構深く、楽しい遊び場だった。 ガキ大将の私の次兄は川の淵に停めた自転車の荷台から川にダイビングを試み、キックした弾みに自転車が後ろに転倒して本人は淵の手前の岩に激突して瀕死の重傷を負い大騒ぎしたできごともあった。
水遊びの最中に、チリンチリンと鈴を鳴らして自転車でやってくるアイスキャンディー屋も大きな楽しみだった。我々は1本3円のアイスキャンディーしか買えないが、裕福な友人はいつも高級な1本5円のあずきカクテルを買っていた。私はそのアイスキャンディー屋がうらやましく、大人になったら、必ずキャンディー屋になろうと思っていた。
懐かしくて平和な時代にも聞こえるが、当時も結構悪い奴も居り、例えば夜中に農家の牛が盗まれた事件もあった。派出所の巡査が懸命に探したところ、その牛は近くの山のなかで賭殺されて解体され、肉として持ち逃げされていた、もちろん犯人は同じ村に住む若者ですぐに捕まったが。
当時の小中学校は春秋に1週間程度の農繁期休暇があり、農作業を手伝った。機械など皆無の時代で、すべて手作業のため、春の田植時には隣り近所4−5軒の女たちの共同作業で順番に田植えをした。まだ暗い早朝から出かけて作業を始め、7時過ぎに子供たちが弁当を母親の元に持参した。 秋には、脱穀機を使っての取り入れがあり、うず高く積まれた稲藁はいつも霜が白く降っていた記憶があるが、最近はそのような霜降る光景はみたことはなく、地球温暖化の証でもあろうか。
同じ村落の農家(岡本さん)の農作業は本当に別格で、稲刈りの株跡は素晴らしくきれいで、イネ株を丁寧に短く刈り取った残り株が見事なまでに整然としていた、更に秋に鍬で堀り起こした耕作の跡も碁石をならべたように几帳面だった。この岡本さん新宅は、全身全霊を農業に打ち込んだ方だったような記憶がある。
田布施川にはフナ、ハヤ、ドンコ、ウナギなどいろいろな魚がいたが、なかでも米ぬかをいれた蠅取り瓶を浅瀬の急流に逆さにおくと、川下のハヤが面白いほど群がって集まり、蠅取り瓶に入り込んだところを捕獲するのも楽しかった。あるとき田布施川
を源流ちかくまでさかのぼると、今度は反対方向に流れる岩田川があるのを発見して、大変驚いた記憶もある。
高度な技術だが、庭先で小鳥を捕まえるのもなかなかスリリングな遊びであった。これには結構な準備と技が必要となる。先ずは山に生えているモチの木の皮をはがして集めて布袋に詰めて泥水のなかに埋めて10日間ほど腐らせる、続いてその腐った皮を泥から取り出して水洗いしながら打撲して繊維を流すと、あとには粘着性の強いモチが残る。僅かしかとれない貴重なモチだが、素晴らしい粘着力があり、木の小枝に巻きつけて庭先に立て小鳥をおびき寄せるのだ。小鳥も簡単には近寄らないので、オトリの鳥かごを近くに置いてメジロをとらえるのだ。、美しい割には低脳で縄張り意識の強いメジロは直ぐにオトリを追っ払おうと近づき、その小枝にとまって逃げられなくなりバタバタするところをとらえるという算段だ。なかなか高度な技だが、鳥の世界も生存競争が厳しいらしく、比較的簡単に成功して面白いようにメジロを捕まえることができる。
用心深いホオジロには別の方法があり、地面に直径10cm程度の穴をほって、簾の子を斜めに仕掛け、簾の子の中央部に稲の穂をぶら下げておく、ホオジロが近づいて稲穂に食いつけば、簾の子が倒れてホオジロは穴のなかに落ち込むという算段だ。これはメジロよりは熟練を要する技だった いずれも結構高度な技で経験を要するが、本当にスルリリングで愉快な遊びだった。
思い出せばキリがないが、今日と違って、テレビもなく、学習塾もなく、増して携帯やパソコンなども無い情報から隔絶された田舎町の貧しい時代ではあったが、それなりに楽しい幼少時であったと思う。こんなブログを書くと私もずいぶん年をとったものだと観念するこの頃でもある。
村の中心部には7―8軒の小さな集落があり、農協、雑貨屋、酒屋、サンパツ屋、文房具店などが集まっていた。子供時代のサンパツは確か50円程度だったが、入学式などを除いて、普段は母親が自宅で大きなバリカンで散髪し、いつも痛い思いをさせられていた。終戦前後の物資不足な時代で、大人はフンドシ姿で堂々と村の銀座通りを歩いていたから、今に思えば、南洋の島国に住む土着人とあまり変わらなかったかも知れない。しかし夏のフンドシは本当に快適だった。うろ覚えだが今でも東北地方にみる如く村祭りで幟や旗を立てた大人の行列が城南の田や畑の畔道を練り歩いていたように思う。
城南村は山陽本線の田布施駅と岩田駅の中間にあり、自家用車は殆ど皆無の当時、どちらの駅にも徒歩1時間近くかかる不便な土地だった。その当時、田布施駅には職員が10名程度、今は無人の岩田駅にも5-6名の駅員が誇らしげに働いており、更に当時は線路工夫という保線区の土木作業員も大勢いた。
田布施駅に行くには途中に瀬戸という場所を通らなければならないが、幼心にそこは怖いオシ(うぐし)の人物が住んでおり、何となく恐しくてその前の道は通れず、回り道して鉄道の線路上を歩いて駅まで行ったこともある。反対方向の岩田駅は更に遠く1時間以上の距離だが、今度は恐ろしい場所を通る道しかなく、更に勇気が要ることだった。 しかしある時から、朝夕はバスが通るようになり、子供心にも心配ごとが解消されて大変嬉しかったことを覚えている。
その時代の最大のお祭りはやはり正月休みだが、青年団主宰の農業品評会が小学校の教室で開催され、各農家が自慢の大根やカボチャを出品して競い合った。
しかし当時の最大の娯楽は映画鑑賞があり、5-6Kmほど離れた柳井町に出かけることだった。今は寂れてしまったが、その当時の柳井町は殆どの特急急行が停車する一大歓楽街であり、私も自転車で本屋に出かけたことがあるが、道に迷って遂に見つからずに引き返した記憶もある周南の中心街だった。その中に銀天街なる大通りがあって、東映、松竹、日活,セントラルなどなど10館ちかい映画館が軒をならべて、封切り映画の上映を競い、その映画鑑賞は正月休みのビッグイベントであった。もちろんわが城南村は映画館などはなく、時折小学校の講堂に暗幕を張った臨時会場で、三益愛子の母子物語とか、青い山脈とか、銀嶺の果てにとかいう映画が上映され、扇風機もない蒸し風呂のなかで、汗だくになって鑑賞した。
村の祭りとしては、夏には小学校運動場での盆踊り大会があり、若者が一番熱中した祭りだったと思う。幼稚な私にはわからなかったが、大昔の歌垣(カガイ)と同様に、老若男女の交歓の場所でもあったように思う。秋には岩城山のふもとの八幡様のお祭りがあり、素人演芸会や夜店が並んでいたが、とくに演芸会出演者は顔見知りもいて なかなか面白かった、 しかし血気盛んな村の若者たちのなかには徒党を組んで、隣村の若者たちとケンカすることもあった。
子供たちの夏の大きな楽しみは村のど真ん中を流れる田布施川での水泳で、今と違って当時の川幅は狭いが水深は結構深く、楽しい遊び場だった。 ガキ大将の私の次兄は川の淵に停めた自転車の荷台から川にダイビングを試み、キックした弾みに自転車が後ろに転倒して本人は淵の手前の岩に激突して瀕死の重傷を負い大騒ぎしたできごともあった。
水遊びの最中に、チリンチリンと鈴を鳴らして自転車でやってくるアイスキャンディー屋も大きな楽しみだった。我々は1本3円のアイスキャンディーしか買えないが、裕福な友人はいつも高級な1本5円のあずきカクテルを買っていた。私はそのアイスキャンディー屋がうらやましく、大人になったら、必ずキャンディー屋になろうと思っていた。
懐かしくて平和な時代にも聞こえるが、当時も結構悪い奴も居り、例えば夜中に農家の牛が盗まれた事件もあった。派出所の巡査が懸命に探したところ、その牛は近くの山のなかで賭殺されて解体され、肉として持ち逃げされていた、もちろん犯人は同じ村に住む若者ですぐに捕まったが。
当時の小中学校は春秋に1週間程度の農繁期休暇があり、農作業を手伝った。機械など皆無の時代で、すべて手作業のため、春の田植時には隣り近所4−5軒の女たちの共同作業で順番に田植えをした。まだ暗い早朝から出かけて作業を始め、7時過ぎに子供たちが弁当を母親の元に持参した。 秋には、脱穀機を使っての取り入れがあり、うず高く積まれた稲藁はいつも霜が白く降っていた記憶があるが、最近はそのような霜降る光景はみたことはなく、地球温暖化の証でもあろうか。
同じ村落の農家(岡本さん)の農作業は本当に別格で、稲刈りの株跡は素晴らしくきれいで、イネ株を丁寧に短く刈り取った残り株が見事なまでに整然としていた、更に秋に鍬で堀り起こした耕作の跡も碁石をならべたように几帳面だった。この岡本さん新宅は、全身全霊を農業に打ち込んだ方だったような記憶がある。
田布施川にはフナ、ハヤ、ドンコ、ウナギなどいろいろな魚がいたが、なかでも米ぬかをいれた蠅取り瓶を浅瀬の急流に逆さにおくと、川下のハヤが面白いほど群がって集まり、蠅取り瓶に入り込んだところを捕獲するのも楽しかった。あるとき田布施川
を源流ちかくまでさかのぼると、今度は反対方向に流れる岩田川があるのを発見して、大変驚いた記憶もある。
高度な技術だが、庭先で小鳥を捕まえるのもなかなかスリリングな遊びであった。これには結構な準備と技が必要となる。先ずは山に生えているモチの木の皮をはがして集めて布袋に詰めて泥水のなかに埋めて10日間ほど腐らせる、続いてその腐った皮を泥から取り出して水洗いしながら打撲して繊維を流すと、あとには粘着性の強いモチが残る。僅かしかとれない貴重なモチだが、素晴らしい粘着力があり、木の小枝に巻きつけて庭先に立て小鳥をおびき寄せるのだ。小鳥も簡単には近寄らないので、オトリの鳥かごを近くに置いてメジロをとらえるのだ。、美しい割には低脳で縄張り意識の強いメジロは直ぐにオトリを追っ払おうと近づき、その小枝にとまって逃げられなくなりバタバタするところをとらえるという算段だ。なかなか高度な技だが、鳥の世界も生存競争が厳しいらしく、比較的簡単に成功して面白いようにメジロを捕まえることができる。
用心深いホオジロには別の方法があり、地面に直径10cm程度の穴をほって、簾の子を斜めに仕掛け、簾の子の中央部に稲の穂をぶら下げておく、ホオジロが近づいて稲穂に食いつけば、簾の子が倒れてホオジロは穴のなかに落ち込むという算段だ。これはメジロよりは熟練を要する技だった いずれも結構高度な技で経験を要するが、本当にスルリリングで愉快な遊びだった。
思い出せばキリがないが、今日と違って、テレビもなく、学習塾もなく、増して携帯やパソコンなども無い情報から隔絶された田舎町の貧しい時代ではあったが、それなりに楽しい幼少時であったと思う。こんなブログを書くと私もずいぶん年をとったものだと観念するこの頃でもある。
2009年02月06日
090206, もし日本の首相なら
先日、もし米国大統領であったらと気楽に書いたが、最近極端に支持率を落としている麻生首相の立場なら私はどうするかも、考えてみた。もともと私は麻生さんを嫌いではないが、やはり二世育ちの甘さか、考え方にいろいろ問題が多い。大阪の橋下知事のように本気にならなければ、麻生さんは野垂れ死しそうな雰囲気だ。気まぐれな支持率なんて当てにならないもので、人気取り政策は嫌であっても、民主主義とはそんな不条理なものだからその対策を本気で考える必要がある。起死回生の支持率アップ策として、私なら次の4政策を考える。
仮にこのなかのどれかひとつでも結構だから、体当たり精神で取り組めば、麻生首相は見直されると思うのだが如何?
1) 公務員改革の断行
2) 衆参議員数の半減
3) 農業制度の大改革
4) 少子化対策の実施
1) 最近、国会で連日報じられている国家公務員の改革がある。過日テレビで、某水産庁長官が退任後、競馬協会とか、種馬協会、遊漁船協会など、6ケ所の外郭団体を渡り歩いて、合計2.3億円の所得を得ていたという報道を知った。まさか水産庁在任中に仕事は放り出して競馬の勉強ばかりしていましたとでもいうのだろうか? バカらしい限りだ。 こういう現実を知ると絶望感に襲われてしまう、退職後に新たに2億円を超す所得なんて、庶民には夢のまた夢なのに、なぜ麻生さんは激怒しないのだろうか!
渡りに関し麻生首相は昨年12月に例外を認める政令を閣議決定しておきながら、私は例外は認めません!なんて訳の分からない弁明を繰り返しているが、麻生首相がやめたら無視されてしまうのは確実だ。 民主党の言う通り例外は認めないのなら政令を何故変更しないのか。 狡猾な役人どもは全て自分だけは例外扱いして好き勝手に運用するのは明らかだ。もう本当に麻生内閣を支持するのは止めようかとも思う気分になり始めている次第。
実はこれは氷山の一角であり、有象無象の下っ端国家公務員も天下り先の開拓に専念して膨大な時間を使っているという。その受け皿として4600もの公益法人が設立され、年間12兆円もの莫大な金額が使われているという。なんと消費税換算で3%近くに相当する税金が退職した役人に食い荒らされているわけだ。中には有益な公益法人もあると麻生さんは反論しているが、そんなのは子供の言い訳で、首相がいう言葉ではないだろう。公益法人の殆どは人畜無害で存在価値のない組織であり、下っ端役人の天下りの受け皿、税金の無駄使い組織なのだ。このような感覚では麻生さんは総選挙で大敗するのは明らかだろう、ひとつ思い切って公益法人9割削減でも提案すれば、議論は百出し、役人連中は猛反発するだろうが、支持率は一気に沸騰するはずだ。やってやれないことではないと思うのだが。
2) 衆議院、参議院の年俸カットと議員総数削減も重要なテーマだ。今回の突然の不況到来で、民間企業の正社員や派遣社員は死ぬ思いで苦しみ解雇や減給されている今日、衆議院450名 参議院250名は如何にも多すぎる、直ちに半減すべきだ。 特に参議院は一旦当選すると解散無しで6年間の地位が保証されているが、その設立主旨に沿った高邁な議論が全く行われず、衆議院のコピーで、毎日足の引っ張り合いの醜態を繰り拡げている。こんな参議院は無くしてしまっても全く不都合はないだろう。しかし憲法問題にまで発展するから、先ずは議員総数を半減してはどうか?
例えば、衆議院200名, 参議院100名でも十分だろう。 2院制の先進国イギリス議会をテレビでみると、議員数も100人足らずで日本のように居眠りしている議員は全く見当たらない。アメリカも同様に日本の半分以下の少ない議員が議論している。仮に1人の議員に年間1億円使うとしても、半減すれば毎年400億円の経費節減になる。もちろん、議員は地位を失うので大騒ぎすると思うが、我々一般国民はいつも解雇や倒産の危険に曝され続けてるのだ。どうせ衆議院は年内に解散がありこの程度の我が身を削る提案は甘受できるだろう。この提案で、支持率は跳ね上がり、麻生さんは多分来年も首相を続けることもできると思うのだが。
同じく国家公務員の給料を2割はカットしてもおかしくはない。自衛隊も含めて仮に40万人の国家公務員が2割カットすれば、財政難に苦しむ地方公務員50万人も続くだろう。合計90万人が、仮に年額600万円を2割カットすれば、計算上は 900,000人 x 6,000,000円 x 20%=1兆円以上が浮いてくる。関係部門まで広げると2兆円近い経費が節減できるだろう。
公官庁の組合は当然猛反対で、ローンが払えないとか、教育費がでないとか騒ぎ出すだろう。しかし小泉改革の例で、大多数の国民を味方につければ最後には勝てることが実証されている。これを達成して、麻生さんも国会議員を辞めて引退すれば、さすが名宰相と終世絶賛されるのは間違いないのだが。
3) 今日本の農地は荒れ果てているのを麻生さんはどの程度ご存知なのなだろうか? 国会議員は誰も、農村が過疎化と老齢化で耕作放棄が蔓延し、危機的状況にある現状をご存じなさそうだ。 理由は老齢化と安い食糧の輸入圧力であるが、隠れた最大の理由は、農林水産省が、農地活用に何重もの制約の網を被せて、民間の自由な活用や創意工夫、アイデアを使えなくしているからだ。例えば転用できる農地は耕作放棄地
ぬい限定して優良農地の活用を制限している。彼ら農水省の役人は、他の省庁からの介入極力嫌い、限られた権限の温存に執着しているのだ。
例えば、株式会社が農地を所有して自由に経営できるようにすれば、何倍も効率的な活用ができるのだが、三流官庁の農水省は、日本農業の将来像なんかそっちのけで10%以下の出資しか認めず、現実的には株式会社化を排除しているのだ。麻生さんがこの大改革に乗り出せば、農協は猛反対し、田舎者の小沢さんも反対運動を展開するだろうが、それこそ飛んで火に入る夏の虫、国内世論の圧倒的賛成で叩きつぶせばよい、強力な政敵を成敗できるチャンスでもあろう。
4) 最後に少子化対策だ。小泉首相、安倍首相、福田首相と内閣改造の度に、美しい女性大臣を少子化対策担当として毎回任命してきたが、何をやったのか全く知らない。たぶん何もやっていないのだろう。女性が結婚せず、子供を産まない理由はいろいろ複雑だと思うが、なぜ具体的な政策を考えないのだろう。たとえば子育て不安もあるだろう。子供を産んでも、果たして育てられるかどうかの不安は大きいはずだ。その対策として、これほど不足している保育施設の完全な充実を図り、女性の子育ての不安を払拭しては如何?
今の駅前コンビニのように交通便利な場所に民間の保育施設を多数設けて、働いている若い女性が通勤途中で子どもを預けたり引き取ることが簡単にできるようにしては如何? 公の組織ではすぐに定時とか残業とか、責任とか、急病時の呼び出しなどが問題にするから、必ず民間経営にすべきだ。そして国家予算から子供一人あたり毎月5万円程度の補助金を出してはどうだろうか。最近テレビで見たが、急病のときは、病院から看護師がタクシーで駆けつける民間施設もあると聞いた。頭の固い市役所とは違って民間に任して、若い女性が働きながらでも安心して育児できるよう、不安を一層してやることも大切だ。子育て不安の解消により、私生児も含めて子供の数が増えること請け合いだと思うのだが。
いつもおおざっぱな計算で恐縮だが年間80万人の子供が生まれ、10歳まで、毎月5万円(年間60万円)を補助すると仮定すると、800,000人 x 10年齢 x 600,000円=4.8兆円の大金になるが、これこそ将来の日本を担う子供たちへの先行投資であり、消費税1%でカバーできる金額であり、躊躇する理由はないだろう。文句ばかり並べる老人たちへの介護投資よりも、ものは言わぬが将来の日本を担う子供たちの養育投資こそ緊急で、かつ最重要な課題だろう。
これらのうち、ひとつでもよいから麻生首相が旗を掲げて体当たり精神でやってはどうか。大阪橋下府知事のように本気になるのだ。時には大ケンカになり屈辱に涙することもあるだろうが、それこそ本気の証明であり、大多数の国民の共感を得て、来る総選挙に圧勝できるパーフォマンスにもなるだろう。 無責任なマスコミは手の平をかえしたように、さすが吉田首相のDNAだとはやし立てるだろう。 真偽は別としても多数の国民が要らないとか言っている定額給付金をばらまいて選挙を有利に戦おうなんて、けちな発想では吉田茂名君のDNAが泣きますぞ! 麻生さん!
公園
仮にこのなかのどれかひとつでも結構だから、体当たり精神で取り組めば、麻生首相は見直されると思うのだが如何?
1) 公務員改革の断行
2) 衆参議員数の半減
3) 農業制度の大改革
4) 少子化対策の実施
1) 最近、国会で連日報じられている国家公務員の改革がある。過日テレビで、某水産庁長官が退任後、競馬協会とか、種馬協会、遊漁船協会など、6ケ所の外郭団体を渡り歩いて、合計2.3億円の所得を得ていたという報道を知った。まさか水産庁在任中に仕事は放り出して競馬の勉強ばかりしていましたとでもいうのだろうか? バカらしい限りだ。 こういう現実を知ると絶望感に襲われてしまう、退職後に新たに2億円を超す所得なんて、庶民には夢のまた夢なのに、なぜ麻生さんは激怒しないのだろうか!
渡りに関し麻生首相は昨年12月に例外を認める政令を閣議決定しておきながら、私は例外は認めません!なんて訳の分からない弁明を繰り返しているが、麻生首相がやめたら無視されてしまうのは確実だ。 民主党の言う通り例外は認めないのなら政令を何故変更しないのか。 狡猾な役人どもは全て自分だけは例外扱いして好き勝手に運用するのは明らかだ。もう本当に麻生内閣を支持するのは止めようかとも思う気分になり始めている次第。
実はこれは氷山の一角であり、有象無象の下っ端国家公務員も天下り先の開拓に専念して膨大な時間を使っているという。その受け皿として4600もの公益法人が設立され、年間12兆円もの莫大な金額が使われているという。なんと消費税換算で3%近くに相当する税金が退職した役人に食い荒らされているわけだ。中には有益な公益法人もあると麻生さんは反論しているが、そんなのは子供の言い訳で、首相がいう言葉ではないだろう。公益法人の殆どは人畜無害で存在価値のない組織であり、下っ端役人の天下りの受け皿、税金の無駄使い組織なのだ。このような感覚では麻生さんは総選挙で大敗するのは明らかだろう、ひとつ思い切って公益法人9割削減でも提案すれば、議論は百出し、役人連中は猛反発するだろうが、支持率は一気に沸騰するはずだ。やってやれないことではないと思うのだが。
2) 衆議院、参議院の年俸カットと議員総数削減も重要なテーマだ。今回の突然の不況到来で、民間企業の正社員や派遣社員は死ぬ思いで苦しみ解雇や減給されている今日、衆議院450名 参議院250名は如何にも多すぎる、直ちに半減すべきだ。 特に参議院は一旦当選すると解散無しで6年間の地位が保証されているが、その設立主旨に沿った高邁な議論が全く行われず、衆議院のコピーで、毎日足の引っ張り合いの醜態を繰り拡げている。こんな参議院は無くしてしまっても全く不都合はないだろう。しかし憲法問題にまで発展するから、先ずは議員総数を半減してはどうか?
例えば、衆議院200名, 参議院100名でも十分だろう。 2院制の先進国イギリス議会をテレビでみると、議員数も100人足らずで日本のように居眠りしている議員は全く見当たらない。アメリカも同様に日本の半分以下の少ない議員が議論している。仮に1人の議員に年間1億円使うとしても、半減すれば毎年400億円の経費節減になる。もちろん、議員は地位を失うので大騒ぎすると思うが、我々一般国民はいつも解雇や倒産の危険に曝され続けてるのだ。どうせ衆議院は年内に解散がありこの程度の我が身を削る提案は甘受できるだろう。この提案で、支持率は跳ね上がり、麻生さんは多分来年も首相を続けることもできると思うのだが。
同じく国家公務員の給料を2割はカットしてもおかしくはない。自衛隊も含めて仮に40万人の国家公務員が2割カットすれば、財政難に苦しむ地方公務員50万人も続くだろう。合計90万人が、仮に年額600万円を2割カットすれば、計算上は 900,000人 x 6,000,000円 x 20%=1兆円以上が浮いてくる。関係部門まで広げると2兆円近い経費が節減できるだろう。
公官庁の組合は当然猛反対で、ローンが払えないとか、教育費がでないとか騒ぎ出すだろう。しかし小泉改革の例で、大多数の国民を味方につければ最後には勝てることが実証されている。これを達成して、麻生さんも国会議員を辞めて引退すれば、さすが名宰相と終世絶賛されるのは間違いないのだが。
3) 今日本の農地は荒れ果てているのを麻生さんはどの程度ご存知なのなだろうか? 国会議員は誰も、農村が過疎化と老齢化で耕作放棄が蔓延し、危機的状況にある現状をご存じなさそうだ。 理由は老齢化と安い食糧の輸入圧力であるが、隠れた最大の理由は、農林水産省が、農地活用に何重もの制約の網を被せて、民間の自由な活用や創意工夫、アイデアを使えなくしているからだ。例えば転用できる農地は耕作放棄地
ぬい限定して優良農地の活用を制限している。彼ら農水省の役人は、他の省庁からの介入極力嫌い、限られた権限の温存に執着しているのだ。
例えば、株式会社が農地を所有して自由に経営できるようにすれば、何倍も効率的な活用ができるのだが、三流官庁の農水省は、日本農業の将来像なんかそっちのけで10%以下の出資しか認めず、現実的には株式会社化を排除しているのだ。麻生さんがこの大改革に乗り出せば、農協は猛反対し、田舎者の小沢さんも反対運動を展開するだろうが、それこそ飛んで火に入る夏の虫、国内世論の圧倒的賛成で叩きつぶせばよい、強力な政敵を成敗できるチャンスでもあろう。
4) 最後に少子化対策だ。小泉首相、安倍首相、福田首相と内閣改造の度に、美しい女性大臣を少子化対策担当として毎回任命してきたが、何をやったのか全く知らない。たぶん何もやっていないのだろう。女性が結婚せず、子供を産まない理由はいろいろ複雑だと思うが、なぜ具体的な政策を考えないのだろう。たとえば子育て不安もあるだろう。子供を産んでも、果たして育てられるかどうかの不安は大きいはずだ。その対策として、これほど不足している保育施設の完全な充実を図り、女性の子育ての不安を払拭しては如何?
今の駅前コンビニのように交通便利な場所に民間の保育施設を多数設けて、働いている若い女性が通勤途中で子どもを預けたり引き取ることが簡単にできるようにしては如何? 公の組織ではすぐに定時とか残業とか、責任とか、急病時の呼び出しなどが問題にするから、必ず民間経営にすべきだ。そして国家予算から子供一人あたり毎月5万円程度の補助金を出してはどうだろうか。最近テレビで見たが、急病のときは、病院から看護師がタクシーで駆けつける民間施設もあると聞いた。頭の固い市役所とは違って民間に任して、若い女性が働きながらでも安心して育児できるよう、不安を一層してやることも大切だ。子育て不安の解消により、私生児も含めて子供の数が増えること請け合いだと思うのだが。
いつもおおざっぱな計算で恐縮だが年間80万人の子供が生まれ、10歳まで、毎月5万円(年間60万円)を補助すると仮定すると、800,000人 x 10年齢 x 600,000円=4.8兆円の大金になるが、これこそ将来の日本を担う子供たちへの先行投資であり、消費税1%でカバーできる金額であり、躊躇する理由はないだろう。文句ばかり並べる老人たちへの介護投資よりも、ものは言わぬが将来の日本を担う子供たちの養育投資こそ緊急で、かつ最重要な課題だろう。
これらのうち、ひとつでもよいから麻生首相が旗を掲げて体当たり精神でやってはどうか。大阪橋下府知事のように本気になるのだ。時には大ケンカになり屈辱に涙することもあるだろうが、それこそ本気の証明であり、大多数の国民の共感を得て、来る総選挙に圧勝できるパーフォマンスにもなるだろう。 無責任なマスコミは手の平をかえしたように、さすが吉田首相のDNAだとはやし立てるだろう。 真偽は別としても多数の国民が要らないとか言っている定額給付金をばらまいて選挙を有利に戦おうなんて、けちな発想では吉田茂名君のDNAが泣きますぞ! 麻生さん!
公園
2009年02月03日
090202, 中学受験
昨日は2月2日。外は寒いが、暑さ寒さも彼岸までいうから、もう春も遠くはない筈だ。早朝の電車には私立中学校を受験するらしい親子連れが何組か乗っていた。子供はまだ小学生だからさすがに幼いが、親は一生懸命で、目が血走っている。ひとごとではなく、私も30年前に、子供を連れて都内や近郊の私立中学を受験し、喜んだり落胆したことを思い出した。今ではその子供たちは親となって孫を連れて中学受験に走っているのだから、月日の経つのは本当に早いもので、それだけこちらが老いたということだろう。
そう言えば、一昨日の日曜、強風が吹き荒れていたので外に出る訳にも行かず、1日テレビをみていたが、朝日テレビが開設50周年でニュースの記憶とか記念番組を組んでいた。即ち 昔のいろいろな事件現場の映像だ。例えば怒り心頭の佐藤(元)首相が記者団を追い出し、一人がテレビカメラに向かってしゃべっている場面とか、雪のあさま山荘事件の現場とかなどなど。
別の例では、まだ若々しい田原総一郎が、当時のお偉い議員先生方に鋭い質問を浴びせたり 黒髪ふさふさの小泉純一郎の郵政民営化論に周囲が嘲笑したり、今は好々爺のハマコーさんが、暴力団そのもので暴れまくっている場面なども放映していたが、皆さんが本当に若かったのには驚いた。
今では年老いた拉致事件の横田滋さん早紀江さん夫妻もまだまだ若々しく、小学生ひとみさんの突然の失踪に途方に暮れていたが、北朝鮮に拉致されたらしいとのニュースを知って驚がくしている場面もあった。
年月は誰にも差別なく襲いかかって、老醜へ引き立てるようだ。いやひとごとではない。私も昔の写真をみると頭髪がふさふさしているが、いまでは、残り少ない白髪をなんとか食い止めようと苦労しているのだから。
たぶん神様は次々と我々をお召しになるのだろう。私も今はまだ元気そのものだが、あと10年も経てばいずれ老いぼれになって腰も曲がり、今度は介護報酬の少なさなにぶつぶつ文句を言っているかもしれない。ああみっともないと今は思うが、その時になれば人間は全く別人格になってしまうのだろう。人間とは本当に勝手なものだ。
そう言えば、一昨日の日曜、強風が吹き荒れていたので外に出る訳にも行かず、1日テレビをみていたが、朝日テレビが開設50周年でニュースの記憶とか記念番組を組んでいた。即ち 昔のいろいろな事件現場の映像だ。例えば怒り心頭の佐藤(元)首相が記者団を追い出し、一人がテレビカメラに向かってしゃべっている場面とか、雪のあさま山荘事件の現場とかなどなど。
別の例では、まだ若々しい田原総一郎が、当時のお偉い議員先生方に鋭い質問を浴びせたり 黒髪ふさふさの小泉純一郎の郵政民営化論に周囲が嘲笑したり、今は好々爺のハマコーさんが、暴力団そのもので暴れまくっている場面なども放映していたが、皆さんが本当に若かったのには驚いた。
今では年老いた拉致事件の横田滋さん早紀江さん夫妻もまだまだ若々しく、小学生ひとみさんの突然の失踪に途方に暮れていたが、北朝鮮に拉致されたらしいとのニュースを知って驚がくしている場面もあった。
年月は誰にも差別なく襲いかかって、老醜へ引き立てるようだ。いやひとごとではない。私も昔の写真をみると頭髪がふさふさしているが、いまでは、残り少ない白髪をなんとか食い止めようと苦労しているのだから。
たぶん神様は次々と我々をお召しになるのだろう。私も今はまだ元気そのものだが、あと10年も経てばいずれ老いぼれになって腰も曲がり、今度は介護報酬の少なさなにぶつぶつ文句を言っているかもしれない。ああみっともないと今は思うが、その時になれば人間は全く別人格になってしまうのだろう。人間とは本当に勝手なものだ。