2009年05月
2009年05月28日
090528, 脳外手術と私のサラリーマン人生
一昨日テレビで頭痛について解説していた。もう35年前にもなるが、実は私も頭痛に悩まされ、遂には開頭手術まで受けた強烈な入院体験があり、その後の会社人生が大きく変わったことを思い出した。
何だか少し頭が重いと感じ始めたのが更にその10年前からだった。頭がどんよりと重い感覚があり、最初はジョギングや縄跳びでそのもやもやを取り払おうとした。例えば縄跳びをすると頭の中でピンポン玉のような組織の固まりが、縄跳びの衝撃で上下に動くような感覚があった。もうひとつの兆候は、ごく時折だが脚の膝頭がピリピリと震えることだった。ズボンをまくってみても震えは分からないが、明らかにピリピリと震える感覚があり、20-30秒後には消え去るというおかしな現象が1-2週間の間隔で起きることがあった。
不安を感じた私は、まだ寒い2月に、慶応大学病院の神経内科で診察を受け、担当の福内先生がCTをとってくれた。今と違って昭和40年代のCTは騒音がひどくガラガラと大きな音をたててリングが回転しているようだった。一週間後にその結果を聞きに再訪問する予定だったが、体調に特別の支障がない私は、なかなか病院には行かず、3月、4月、5月、6月と放置したままであった。
私の会社では毎年各部門から選抜された100人前後の社員が自費で長野県御嶽山に夏登山して商売繁盛を祈願する恒例行事があり、運悪く(運よく?)その年私も指名を受けた。御嶽山は3000mを超す北アルプス南端の霊山で、前日夕方に木曾福島の山荘に入り、真夜中に起きて、うす暗いランプの下で登頂を開始、5時前に山頂に着き、日の出を参拝するというかなりの強行軍だった。足を酷使するのでヒザの検査結果を聞いておこうと、6月20日金曜の午前に慶応病院を訪れて、初めて事の重大さに気づいた。(検査技師は異常を知っていた筈なのに病院側からも何の連絡もなかった?)
長い間訪問しなかった私に不機嫌な福内先生は、CT写真をみて、突然顔色を上げて直ちに入院して精密検査を受けるよう指示された。CT写真には頭の頂上付近に丸く白い腫瘍の影がはっきり映っているのを私も見た。ショッキングな結果を知った私は、昼過ぎに会社に帰って上司のH部長とN部長に、ヒザ痛の治療でしばらく入院したいと1週間の休暇を願い出た。その程度で入院するから健康保険料が高くなるのだと、無邪気なN部長から皮肉られたが、頭に重篤な兆候があることを知っている私は無視した。
本社企画部の課長であった私は、多分この職席には生還できないだろうと予感して、気づかれないように机の引出しを整理したが、まるで退社するようだと周囲から言われた。帰宅して精密検査のため明日から入院すると家内に話すと驚愕したが、今に思えば彼女には計り知れない不安を与えただろうと思う。
翌日7/21土曜に簡単な着替えと洗面用具をもって慶応病院の神経内科の古い病棟に入院した。神経内科は脳外科と同室だとは知っていたが、頭に切り刻んだ跡のある惨めな脳外患者に対して、私は何だか理由のない優越感を感じていた。しかし数日間の精密検査を受け、開頭手術で腫瘍を除去する必要があると告げられると、私の優越感はけし飛んでしまった。そして病室の名札も神経内科の白札から脳外の赤札に変わり、担当も河瀬先生と井上先生に代わった。そして次の日には、頭をまる坊主にされて翌7/31には家内が見守るなかでストレッチャーに乗せられて手術室に入り、何かガスを吸った途端に失神し、大きく開頭して腫瘍の摘出手術を受けたのだった。
翌々日の朝、集中治療室内で私が目覚めると、河瀬先生から無事終了した旨を告げられた。 私は取り除いた組織を見せてほしいとお願いしたが、もう処分したとの返事 午後、担当の看護婦にどんな腫瘍だったかと聞くと、まだありますから見せましょうと言って、小ビンを持ってきた、そのなかには濃茶色のピンポン玉ほどの肉塊がプカリとひとつ浮いていた。
疑い深い上司のH部長は、ヒザ痛の手術にしては日数が長過ぎると、部下を偵察に寄こして、私の重病に始めて気づいたようであった、それから次々と見舞客が来訪し始めたが、頭に包帯をグルグル巻いた無残な姿の私には迷惑千番で、全く有難くなかった。見世物になるのを避けたい一心で、私は早く退院しようと思い、河瀬医師に無理やりお願いして7/10に退院することを決めた。一応会社のH部長に退院を連絡しようと私は公衆電話を取り上げたが、指先が狙ったダイアルの穴に入らず、大変な後遺症を起こしているらしいことを知った。しかし家内の助けを借りて、兎に角退院手続きを済ませ、ふらつく体で電車を乗りつぎながら自宅に戻った。退院前に病院で行うべき職業機能回復治療OP (Operational Therapy)は、方法を記したマニュアルをもらって自宅で実施することとし、やっとの思いで病院から脱出したのだった。
極暑の1ケ月中、自宅でOPに励み、同僚達が夏休みで不在のお盆休み8月15日に、まだ丸坊主頭に近い姿で出社したが、同僚たちが殆ど出勤していたのにはがっかりした。開頭手術を受けたという私の変貌振りを見るためか、顔見知りの社員が入れ替わり立ち替わり企画部の来室して、ちらちらこちらを見るのが本当に嫌であった。
話が長くなるので止めるが、その後の会社の企画会議などで私の発言振りを、頭の手術でまだ回復していないのでは? など色々と皮肉られるのには閉口し腹が立った。遂に私は意を決して、企画部から出て自分で米国診断薬会社と合弁を設立し、その責任者として子会社の日本DPCに行くことを決意した。この合弁会社での10年間の経験は大きな不安と苦労の連続ではあったが、まだ見知らぬ欧米諸外国との素晴らしい交友関係と人生体験を与えてくれたことは、普通のサラリーマン人生では望めない莫大な収穫であり、幸せな年月であったと、今も深く感謝している。本当に人生は塞翁が馬で、何が得になるか全く分からないと思う。
何だか少し頭が重いと感じ始めたのが更にその10年前からだった。頭がどんよりと重い感覚があり、最初はジョギングや縄跳びでそのもやもやを取り払おうとした。例えば縄跳びをすると頭の中でピンポン玉のような組織の固まりが、縄跳びの衝撃で上下に動くような感覚があった。もうひとつの兆候は、ごく時折だが脚の膝頭がピリピリと震えることだった。ズボンをまくってみても震えは分からないが、明らかにピリピリと震える感覚があり、20-30秒後には消え去るというおかしな現象が1-2週間の間隔で起きることがあった。
不安を感じた私は、まだ寒い2月に、慶応大学病院の神経内科で診察を受け、担当の福内先生がCTをとってくれた。今と違って昭和40年代のCTは騒音がひどくガラガラと大きな音をたててリングが回転しているようだった。一週間後にその結果を聞きに再訪問する予定だったが、体調に特別の支障がない私は、なかなか病院には行かず、3月、4月、5月、6月と放置したままであった。
私の会社では毎年各部門から選抜された100人前後の社員が自費で長野県御嶽山に夏登山して商売繁盛を祈願する恒例行事があり、運悪く(運よく?)その年私も指名を受けた。御嶽山は3000mを超す北アルプス南端の霊山で、前日夕方に木曾福島の山荘に入り、真夜中に起きて、うす暗いランプの下で登頂を開始、5時前に山頂に着き、日の出を参拝するというかなりの強行軍だった。足を酷使するのでヒザの検査結果を聞いておこうと、6月20日金曜の午前に慶応病院を訪れて、初めて事の重大さに気づいた。(検査技師は異常を知っていた筈なのに病院側からも何の連絡もなかった?)
長い間訪問しなかった私に不機嫌な福内先生は、CT写真をみて、突然顔色を上げて直ちに入院して精密検査を受けるよう指示された。CT写真には頭の頂上付近に丸く白い腫瘍の影がはっきり映っているのを私も見た。ショッキングな結果を知った私は、昼過ぎに会社に帰って上司のH部長とN部長に、ヒザ痛の治療でしばらく入院したいと1週間の休暇を願い出た。その程度で入院するから健康保険料が高くなるのだと、無邪気なN部長から皮肉られたが、頭に重篤な兆候があることを知っている私は無視した。
本社企画部の課長であった私は、多分この職席には生還できないだろうと予感して、気づかれないように机の引出しを整理したが、まるで退社するようだと周囲から言われた。帰宅して精密検査のため明日から入院すると家内に話すと驚愕したが、今に思えば彼女には計り知れない不安を与えただろうと思う。
翌日7/21土曜に簡単な着替えと洗面用具をもって慶応病院の神経内科の古い病棟に入院した。神経内科は脳外科と同室だとは知っていたが、頭に切り刻んだ跡のある惨めな脳外患者に対して、私は何だか理由のない優越感を感じていた。しかし数日間の精密検査を受け、開頭手術で腫瘍を除去する必要があると告げられると、私の優越感はけし飛んでしまった。そして病室の名札も神経内科の白札から脳外の赤札に変わり、担当も河瀬先生と井上先生に代わった。そして次の日には、頭をまる坊主にされて翌7/31には家内が見守るなかでストレッチャーに乗せられて手術室に入り、何かガスを吸った途端に失神し、大きく開頭して腫瘍の摘出手術を受けたのだった。
翌々日の朝、集中治療室内で私が目覚めると、河瀬先生から無事終了した旨を告げられた。 私は取り除いた組織を見せてほしいとお願いしたが、もう処分したとの返事 午後、担当の看護婦にどんな腫瘍だったかと聞くと、まだありますから見せましょうと言って、小ビンを持ってきた、そのなかには濃茶色のピンポン玉ほどの肉塊がプカリとひとつ浮いていた。
疑い深い上司のH部長は、ヒザ痛の手術にしては日数が長過ぎると、部下を偵察に寄こして、私の重病に始めて気づいたようであった、それから次々と見舞客が来訪し始めたが、頭に包帯をグルグル巻いた無残な姿の私には迷惑千番で、全く有難くなかった。見世物になるのを避けたい一心で、私は早く退院しようと思い、河瀬医師に無理やりお願いして7/10に退院することを決めた。一応会社のH部長に退院を連絡しようと私は公衆電話を取り上げたが、指先が狙ったダイアルの穴に入らず、大変な後遺症を起こしているらしいことを知った。しかし家内の助けを借りて、兎に角退院手続きを済ませ、ふらつく体で電車を乗りつぎながら自宅に戻った。退院前に病院で行うべき職業機能回復治療OP (Operational Therapy)は、方法を記したマニュアルをもらって自宅で実施することとし、やっとの思いで病院から脱出したのだった。
極暑の1ケ月中、自宅でOPに励み、同僚達が夏休みで不在のお盆休み8月15日に、まだ丸坊主頭に近い姿で出社したが、同僚たちが殆ど出勤していたのにはがっかりした。開頭手術を受けたという私の変貌振りを見るためか、顔見知りの社員が入れ替わり立ち替わり企画部の来室して、ちらちらこちらを見るのが本当に嫌であった。
話が長くなるので止めるが、その後の会社の企画会議などで私の発言振りを、頭の手術でまだ回復していないのでは? など色々と皮肉られるのには閉口し腹が立った。遂に私は意を決して、企画部から出て自分で米国診断薬会社と合弁を設立し、その責任者として子会社の日本DPCに行くことを決意した。この合弁会社での10年間の経験は大きな不安と苦労の連続ではあったが、まだ見知らぬ欧米諸外国との素晴らしい交友関係と人生体験を与えてくれたことは、普通のサラリーマン人生では望めない莫大な収穫であり、幸せな年月であったと、今も深く感謝している。本当に人生は塞翁が馬で、何が得になるか全く分からないと思う。
2009年05月25日
090525, 苦闘する現役諸君へ
いま不況の真っただ中。新聞やテレビでも、抜け道が見えない不景気な話ばかりだ。さぞかし現役のサラリーマン諸君には苦しい毎日だろうと思う。公務員のボーナスも今年は20%カットだそうだから、民間企業ではもっと厳しいに違いない。まさに踏んだり蹴ったりだろうと同情する。
今、小さな自営会社の社長の私も、現役サラリーマン時代には厳しい時が何度もあった。 例えば30才代前半のFRP漁船の製造販売を担当した時もひどかった。FRP船の原材料のひとつである不飽和ポリエステルを自前で調達できるという理由だけで、付加価値創出のため、FRP漁船の製造販売を推進する特命を受けた時だった。
事業を始めて直ぐに気づいたことは、FRP漁船の原価は人件費の固まりで、原材料樹脂の原価割合は1割にも満たないという事実だった。仮に20%安い原料樹脂を入手できても、漁船にするとたった2%のAdvantageにしかならないということだ。これは企画自体に大きな欠陥があった訳で、まだ下っ端社員の私も、自社の有利性が僅少で将来性にがなく、早急な事業中止を主張すべきであったと後悔している。しかし当時は最前線の切り込み部隊としては、如何に計画を推進するかしか眼中になく、撤退などは決して口外できず、今でも屈辱の思い出だ。
この事業はまず如何に新造船の注文を取るかが課題であった。殆どの漁港は大都会とは無縁の遠隔地にあった。例えば高知県の土佐清水や宿毛、長崎の野母崎など電車もない場所だ。数少ないバスを乗り継いでやっとたどり着くと、そこには確かに多数の漁船と、安宿があった。
早速漁港を廻って古びた漁船をみつけ、その漁民と話し始めるが、よそ者の我々には殆ど口をきいてくれない。次の出漁に備えて網を手入れする漁師のそばに佇んで何時間も待ち、やっと話が出来ても、多くの場合は追い返された。万一具体的な話になっても、持参した汎用船の図面などには殆ど見向きもしない。漁船の型は漁港毎に違うのだ。
確か全国に小型漁船は40万隻との統計があったが、その船型は千差万別で、全国の主要漁港毎に異なり、汎用型の販売はとうてい不可能であった。対策として地元の造船所に相談を持ち込むが、造船所は設計図を見せる代りに自社で製造するのが大前提だ。また漁師と地元の造船所は昔からの親しい関係で、一朝一夕には造船所を変えない。従って仮に話が進んでも、結局は地元の懇意な造船屋で作ることになり、当方の漁船事業は単なる仲介屋になり下がり、主導権は全て地元の造船屋に握られてしまうのだった。
東京の本社の会議でFRP船企業化計画を大声で唱えても、現実には漁船販売の単なる仲介業者だった。これではとても漁船メーカーとは言えず単なるディーラー稼業なのだが、いったん計画が動き始めると、現場指揮官の立場としては、悲観的な内容を簡単には言えない。それは丁度 南太平洋海戦で敗走しつつある現状を隠して成果を誇張する大本営発表のようなものだった。
更に、当方は週1回ほど造船所を訪問するが、発注主の漁民は毎日のように造船所に訪づれあれこれと注文をつけ、造船所も簡単に設計変更を受けしまう。その結果コストアップ分は、当方のわずかなマージンから捻出するはめになり、仲介業務の収支は販売する前から赤字となってしまう。このような仕事は何年繰り返しても、技術や商権の蓄積は全く期待できず、赤字だけが累積する泣きたいような毎日であった。
しかし悲しいかな、本社に帰って報告する時は、針穴のように小さな可能性も、如何にも実現性のありそうな計画として説明せざるを得ず、幹部役員に苦しい現状はなかなか伝えられない。社長から事業中止を命令して欲しいと内心では切望しながら、絶望的な6年間を費やしてしまった。そして遂にFRP漁船事業は全面撤退となった苦闘の思い出だった。
社長や管理職は、予算達成の掛け声だけではなく、担当者が何を苦しんでいるか、本当に実現性があるのか、将来性はどうなのか、などを見抜いて決断する責任があるが、正確な情報収集はなかなか困難で、判断が遅れ勝ちになるのが現実だ。 逆にご自分の判断力を過信して決断すると、どん底が続く日産ゴーン社長のように、一時的なコスト節減を優先して、将来の虎の子の利益源ハイブリッド技術まで抹殺した無能な独裁者になってしまう恐れもある。
世紀の大不況とかで苦闘する現役サラリーマンに将来の方針を忠告できるほど、私に知恵はないが、今の時代は何をやっても大きな成果はなかなか望めない。泥臭い技術開発がバカ者扱いされて、マネーゲームが世界を制した金融万能主義はバブル崩壊で砕け散り、ひと昔前の夢のバイオ新時代は地味な開発に落ち着き、近年騒がれている自然エネルギーや環境事業も、いざ自分の仕事にどう生かすかとなると距離があり過ぎて簡単には結びつかない。
一つ言えることは今の時代の商品開発は単独ではあり得ず、社会情勢の変化と密接に関係しているという事実だろう。この苦しい時代に遭遇したサラリーマン諸兄は、生れついた時代の不運と諦めて、一歩引き下がり、これからの将来動向を慎重に洞察する以外に無いのではないだろうか?
今、小さな自営会社の社長の私も、現役サラリーマン時代には厳しい時が何度もあった。 例えば30才代前半のFRP漁船の製造販売を担当した時もひどかった。FRP船の原材料のひとつである不飽和ポリエステルを自前で調達できるという理由だけで、付加価値創出のため、FRP漁船の製造販売を推進する特命を受けた時だった。
事業を始めて直ぐに気づいたことは、FRP漁船の原価は人件費の固まりで、原材料樹脂の原価割合は1割にも満たないという事実だった。仮に20%安い原料樹脂を入手できても、漁船にするとたった2%のAdvantageにしかならないということだ。これは企画自体に大きな欠陥があった訳で、まだ下っ端社員の私も、自社の有利性が僅少で将来性にがなく、早急な事業中止を主張すべきであったと後悔している。しかし当時は最前線の切り込み部隊としては、如何に計画を推進するかしか眼中になく、撤退などは決して口外できず、今でも屈辱の思い出だ。
この事業はまず如何に新造船の注文を取るかが課題であった。殆どの漁港は大都会とは無縁の遠隔地にあった。例えば高知県の土佐清水や宿毛、長崎の野母崎など電車もない場所だ。数少ないバスを乗り継いでやっとたどり着くと、そこには確かに多数の漁船と、安宿があった。
早速漁港を廻って古びた漁船をみつけ、その漁民と話し始めるが、よそ者の我々には殆ど口をきいてくれない。次の出漁に備えて網を手入れする漁師のそばに佇んで何時間も待ち、やっと話が出来ても、多くの場合は追い返された。万一具体的な話になっても、持参した汎用船の図面などには殆ど見向きもしない。漁船の型は漁港毎に違うのだ。
確か全国に小型漁船は40万隻との統計があったが、その船型は千差万別で、全国の主要漁港毎に異なり、汎用型の販売はとうてい不可能であった。対策として地元の造船所に相談を持ち込むが、造船所は設計図を見せる代りに自社で製造するのが大前提だ。また漁師と地元の造船所は昔からの親しい関係で、一朝一夕には造船所を変えない。従って仮に話が進んでも、結局は地元の懇意な造船屋で作ることになり、当方の漁船事業は単なる仲介屋になり下がり、主導権は全て地元の造船屋に握られてしまうのだった。
東京の本社の会議でFRP船企業化計画を大声で唱えても、現実には漁船販売の単なる仲介業者だった。これではとても漁船メーカーとは言えず単なるディーラー稼業なのだが、いったん計画が動き始めると、現場指揮官の立場としては、悲観的な内容を簡単には言えない。それは丁度 南太平洋海戦で敗走しつつある現状を隠して成果を誇張する大本営発表のようなものだった。
更に、当方は週1回ほど造船所を訪問するが、発注主の漁民は毎日のように造船所に訪づれあれこれと注文をつけ、造船所も簡単に設計変更を受けしまう。その結果コストアップ分は、当方のわずかなマージンから捻出するはめになり、仲介業務の収支は販売する前から赤字となってしまう。このような仕事は何年繰り返しても、技術や商権の蓄積は全く期待できず、赤字だけが累積する泣きたいような毎日であった。
しかし悲しいかな、本社に帰って報告する時は、針穴のように小さな可能性も、如何にも実現性のありそうな計画として説明せざるを得ず、幹部役員に苦しい現状はなかなか伝えられない。社長から事業中止を命令して欲しいと内心では切望しながら、絶望的な6年間を費やしてしまった。そして遂にFRP漁船事業は全面撤退となった苦闘の思い出だった。
社長や管理職は、予算達成の掛け声だけではなく、担当者が何を苦しんでいるか、本当に実現性があるのか、将来性はどうなのか、などを見抜いて決断する責任があるが、正確な情報収集はなかなか困難で、判断が遅れ勝ちになるのが現実だ。 逆にご自分の判断力を過信して決断すると、どん底が続く日産ゴーン社長のように、一時的なコスト節減を優先して、将来の虎の子の利益源ハイブリッド技術まで抹殺した無能な独裁者になってしまう恐れもある。
世紀の大不況とかで苦闘する現役サラリーマンに将来の方針を忠告できるほど、私に知恵はないが、今の時代は何をやっても大きな成果はなかなか望めない。泥臭い技術開発がバカ者扱いされて、マネーゲームが世界を制した金融万能主義はバブル崩壊で砕け散り、ひと昔前の夢のバイオ新時代は地味な開発に落ち着き、近年騒がれている自然エネルギーや環境事業も、いざ自分の仕事にどう生かすかとなると距離があり過ぎて簡単には結びつかない。
一つ言えることは今の時代の商品開発は単独ではあり得ず、社会情勢の変化と密接に関係しているという事実だろう。この苦しい時代に遭遇したサラリーマン諸兄は、生れついた時代の不運と諦めて、一歩引き下がり、これからの将来動向を慎重に洞察する以外に無いのではないだろうか?
2009年05月18日
090518, 最近の美容院事情
私が毎朝電車に乗るJR我孫子駅前は、この2−3年で美容院が急に増えた。私が通う南口だけでも、大型店4軒、父ちゃん母ちゃんの三ちゃん美容院が3軒あり、合計7軒ある。人口が多い北口は良く知らないが多分同程度以上はある筈で、駅前だけでも15軒程度の美容院があると思う。同様に理髪店も多く、結局20-30店の理髪店,美容院がこの小さな駅前でひしめいていることになる。全くものすごい過当競争だ。
毎夕の帰宅途上に美容院を覗き見すると、いつもお客がいる店はほんの数店で、残りは店員が哀願するような客待ち顔で外を見ている。立ち止まると誤解されるので、そのまま通り過ぎるが、まあよく頑張っているものだと感心する。三ちゃん経営であれば、まだ何とかなるだろうが、如何せん従業員を抱えるともう長続きせず、直ぐに倒産してしまう悲しい運命だ。
男性専科の理髪店は、昔の総合調髪3500円時代はとっくに過ぎて、今は1000円カット時代だ。 いくら長時間かけて丁寧にヒゲ剃り洗髪して3500円支払っても、翌朝にはヒゲはちゃんと生えてくるから。従って私は早くから1000円カット派に宗旨変えしている。しかし我が家の家内や義母はかなり高額な費用をかけて美容院に度々通っているらしい。しかも美容師も指名するという。全く勿体ないと思うのだが、女性の心理には深入りできず黙っている。しかし、最近の美容院にも節約志向の波が押し寄せて1000円カット美容院が流行り始めているという話を聞いた。いわゆる男性の1000円カットのみの美容院版だ。
理容師美容師は、専門学校を卒業して実務経験を経て、やっと資格を取得できるが、新人はなかなかカットをやらせてもらえない。お客側にも言い分があり、腕前の分からない新人美容師に自分の大切な毛髪を下手にカットされてはたまらないから、慣れた美容師を指名する。 髪の毛が薄くなった私でさえ、腕前が未知の新人理髪師は余りお呼びでなく出来れば避けたい気持ちだから仕方無い。
男性に比べて女性は更に微妙な髪形を気にするので新人美容師は腕を磨くチャンスがなかなか恵まれず、最初の数年間は、掃除と洗髪がもっぱらで、カットできるチャンスは殆ど与えられない。しかし10分1000円カット美容院は、この慣習を変え始めたという。ここは効率最優先で、腕前は少々未知数でも早くからカットを担当させてもらえ、新人美容師にはたいへん魅力的な職場らしい。少々気に食わない髪型でも安いのだから我慢して頂くという算段のようだ。
合理的な理由は皆無だが、同じ1軒の店で、理容と美容を兼業することは政令で禁止されている。これは日本の官僚どもの典型的な権益温存政策で、ヒゲそりが認められる理髪店と、ヒゲそりは禁止だが化粧が認められる美容院の、どちらか一方を選んで保健所に営業許可を申請しなければならないのだという。全くナンセンスな話だが、厚生省のバカ役人どもが、自分たちの権益を保護するためいろいろな制約を設けて、自分たちの介入できる余地を残しているわけだ。いま論争中のインターネット医薬販売も自己の監督下からの逸脱を認めたくない厚労省の抵抗騒ぎだ。幼児教育についても、厚労省の保育園と文科省の幼稚園に微妙に分割されているが、利用者にはどちらでも良いことであり、事実は両省の権限争いが原因であり、それを糊塗するため、なんだかんだと屁理屈をつけているだけなのだ。
これは厚生労働省に限らず、日本のあらゆる政府官庁にはびこっている嫌らしい役人根性だ。たしかに明治維新の時代には無知な国民を指導するため、役人の役割もあっただろうが、今日では、日本の自由な発展を妨げる最大の妨害要因となっている。例えば、土地所有や、農業の企業経営を認めない日本の農政がもう壊滅寸前に陥っているにもかかわらず、何ら抜本的な対策を取ろうとしない農水省と同様で、これはあたかも、人のガン細胞が肉体の滅亡するまで増殖を続けるのと同じことで、最後はガン細胞自身も肉体と一緒に死滅してしまう。本当に悲しくなってしまう現実なのだ。
それにも拘わらず、役人どもは自民党と組んで、なんとか自分たちの権益を温存し続けようと必死になっている。また二世議員と土建屋出身が殆どの自民党も官僚どもと強い協力関係にあり、国民の利益はそっちのけで、自己の権益維持にやっきで、国家,地方公務員合わせて300万人の人件費30兆円を死守しようと懸命だ。日本の税収が約30兆円だから、すべて役人どもの給料となって消え失せている計算になる。官僚主導の政治に大ナタを振るうという民主党の綱領が、もし本当なら誠に立派なものだ。 得体の知れない小沢さんも交代したのだから、この辺りで一度民主党に政治をやらせてみるのも良いかも知れない。
毎夕の帰宅途上に美容院を覗き見すると、いつもお客がいる店はほんの数店で、残りは店員が哀願するような客待ち顔で外を見ている。立ち止まると誤解されるので、そのまま通り過ぎるが、まあよく頑張っているものだと感心する。三ちゃん経営であれば、まだ何とかなるだろうが、如何せん従業員を抱えるともう長続きせず、直ぐに倒産してしまう悲しい運命だ。
男性専科の理髪店は、昔の総合調髪3500円時代はとっくに過ぎて、今は1000円カット時代だ。 いくら長時間かけて丁寧にヒゲ剃り洗髪して3500円支払っても、翌朝にはヒゲはちゃんと生えてくるから。従って私は早くから1000円カット派に宗旨変えしている。しかし我が家の家内や義母はかなり高額な費用をかけて美容院に度々通っているらしい。しかも美容師も指名するという。全く勿体ないと思うのだが、女性の心理には深入りできず黙っている。しかし、最近の美容院にも節約志向の波が押し寄せて1000円カット美容院が流行り始めているという話を聞いた。いわゆる男性の1000円カットのみの美容院版だ。
理容師美容師は、専門学校を卒業して実務経験を経て、やっと資格を取得できるが、新人はなかなかカットをやらせてもらえない。お客側にも言い分があり、腕前の分からない新人美容師に自分の大切な毛髪を下手にカットされてはたまらないから、慣れた美容師を指名する。 髪の毛が薄くなった私でさえ、腕前が未知の新人理髪師は余りお呼びでなく出来れば避けたい気持ちだから仕方無い。
男性に比べて女性は更に微妙な髪形を気にするので新人美容師は腕を磨くチャンスがなかなか恵まれず、最初の数年間は、掃除と洗髪がもっぱらで、カットできるチャンスは殆ど与えられない。しかし10分1000円カット美容院は、この慣習を変え始めたという。ここは効率最優先で、腕前は少々未知数でも早くからカットを担当させてもらえ、新人美容師にはたいへん魅力的な職場らしい。少々気に食わない髪型でも安いのだから我慢して頂くという算段のようだ。
合理的な理由は皆無だが、同じ1軒の店で、理容と美容を兼業することは政令で禁止されている。これは日本の官僚どもの典型的な権益温存政策で、ヒゲそりが認められる理髪店と、ヒゲそりは禁止だが化粧が認められる美容院の、どちらか一方を選んで保健所に営業許可を申請しなければならないのだという。全くナンセンスな話だが、厚生省のバカ役人どもが、自分たちの権益を保護するためいろいろな制約を設けて、自分たちの介入できる余地を残しているわけだ。いま論争中のインターネット医薬販売も自己の監督下からの逸脱を認めたくない厚労省の抵抗騒ぎだ。幼児教育についても、厚労省の保育園と文科省の幼稚園に微妙に分割されているが、利用者にはどちらでも良いことであり、事実は両省の権限争いが原因であり、それを糊塗するため、なんだかんだと屁理屈をつけているだけなのだ。
これは厚生労働省に限らず、日本のあらゆる政府官庁にはびこっている嫌らしい役人根性だ。たしかに明治維新の時代には無知な国民を指導するため、役人の役割もあっただろうが、今日では、日本の自由な発展を妨げる最大の妨害要因となっている。例えば、土地所有や、農業の企業経営を認めない日本の農政がもう壊滅寸前に陥っているにもかかわらず、何ら抜本的な対策を取ろうとしない農水省と同様で、これはあたかも、人のガン細胞が肉体の滅亡するまで増殖を続けるのと同じことで、最後はガン細胞自身も肉体と一緒に死滅してしまう。本当に悲しくなってしまう現実なのだ。
それにも拘わらず、役人どもは自民党と組んで、なんとか自分たちの権益を温存し続けようと必死になっている。また二世議員と土建屋出身が殆どの自民党も官僚どもと強い協力関係にあり、国民の利益はそっちのけで、自己の権益維持にやっきで、国家,地方公務員合わせて300万人の人件費30兆円を死守しようと懸命だ。日本の税収が約30兆円だから、すべて役人どもの給料となって消え失せている計算になる。官僚主導の政治に大ナタを振るうという民主党の綱領が、もし本当なら誠に立派なものだ。 得体の知れない小沢さんも交代したのだから、この辺りで一度民主党に政治をやらせてみるのも良いかも知れない。
2009年05月12日
090512, 連休はヨットを満喫した
私がヨットをやっていることは以前にも書いた。ヨットといっても石原裕次郎や慎太郎のような5−10人乗りの大型クルーザーではなく、1人か2人乗りのディンギータイプで、オリンピックで使う470艇とほぼ同型だ。しかし小さいからと言ってバカにならない、この程度の小型ヨットは一番面白いのだ。今年の連休は久し振りにヨットに明け暮れて終わった。
まず世間の常識と違って、我々は全くお金をかけていない。勿論小型ヨットと言えども1隻100万円前後はするが、我々のヨットは全てタダでもらい受けた中古艇ばかりだ。近年の不況で各地のマリーナでは、ヨットオーナーが自分の船を置き逃げし、その処置に困ったマリーナ経営者からの要請で、無料で引き取ったものばかりなのだ。しかしクルマの中古車と違って、ヨットの中古は新艇と殆ど変わらない性能を維持している。
次ぎに日常の費用、 最も経費が嵩むのは係留料金で、大型艇をマリーナに係留すると年間100万円前後が相場、小型船でも1隻当たり年間10万円以上かかるが、我々の10隻は全て無料で済ませている。詳しい説明は省くがこれが決定的に効いて、クラブ員の会費は乗り放題で年間1万円という格安条件を提供している。1回あたりの費用は昼食代以内だ。従って近年は新規入会希望者が多すぎて困惑し始めているという事情もあるのだが。
私が入会した8年前の会員数はたった15名だったが、現在では100名ちかくにまで膨張し、しかも毎年10名程度増え続けている。 超格安の経済性と、本拠地が湖沼なので、条件さえよければ、自転車で行って直ぐにのれるという簡便性も備えているからだ。強いて問題点を挙げれば、湖沼の水深が浅く平均2メートル程度で、特に冬場は浅くなるので、乗り難くなるが、今の時期は十分な深さ、往復20キロは結構な距離でもあり、日照りのまだ柔らかく春は最高に爽快なスポーツといえる。
ヨットは基本的に風任せで、陸上からみると絵になるが、実際に乗船すると必ずしも優雅さばかりではなく、無風では全く動かず、逆に風が強いと直ぐに転覆する危険性があり、乗員は水中に放り出されてしまう。従って基本動作を完全に身につける必要があるが、習熟すれば後は難しくない。よくある例だが、陸上の見物人がヨットの転覆現場を見て事故と勘違いして119番に連絡し、救急車がサイレンを鳴らして駆けつけ、当方が平身低頭して謝り, お帰り頂くことが何度もあった。最近は地元の消防車も心得たもので、直ぐには動かず、特に溺死する危険性が少ない夏場はなかなか来ない。
ゴルフと違ってヨットは、2人が小さな船に乗るので会話が弾み、陸上では話さないような話題もでる。例えば自分の会社が倒産しそうだとか、得意先から不渡りをつかまされたとか、普段は言わない情報もつい漏らすようになる。しかし時には、ヨットの操船法をしつこく指導するのが好きなベテランと乗り合わせるともう閉口したくなり、ご自分の若いときの自慢話が好きな人物とか、更には恵まれなかった会社生活のうっぷん話をする定年退職者もおり、個人のパーソナリティの影響をもろに受けるので、誰と同乗するのか要注意だ。パートナーを間違うと、折角の楽しみが台無しになってしまう。
時代の傾向かも知れないが、最近の新入会員はうるさい先輩の指導を嫌って、シーホッパーとかレイザーとかシーマーチンなどの一人乗りの小型艇、キャットリグを好む若者が多い。一人乗りは自分の気ままに乗ってスピードも出るので快適だが、船体が不安定で、転覆し易く、全てご自分の責任となる。私は転覆するのが嫌でもっぱら2人乗のシカーラを楽しんでいる。
更に乗り方にもいろいろある。自転車でいえば、景色を楽しみながらサイクリングするツーリングを好む人と、ケイリンのようにレースをやりたい人がいる。ベテランは自分の腕前を誇示したくてレースを好み、素人会員はひとりで楽しむクルージングを好む。レ−スをやらないと操船技術が上達しないと先輩に無理やり脅かされて、新入会員もしぶしぶレースに参加するが、私はのんびりとセーリングするのが好きだ。
このスポーツの世界では入会順の先輩後輩の上下関係がなかなか厳しく、また学生時代にヨットをやっていた連中は早目にハバを利かすようになる。一般に大学の理系は授業が多忙で時間的な余裕がないが、文系特に私大のヨット部OBは勉強よりヨットに熱中したせいか、なかなかの実力の持ち主が多く、入会してすぐに幅を利かし始める。しかし入会年次も結構重要な意味をもち、それは丁度衆議院6回当選でやっと大臣にありつけるとかいう話にも似ている。ずぶ素人の私は入会して既に8年が過ぎ、兵隊の位で言えば、まあ大尉あたりかと自分では思っている。
我々のメンバーのひとり、Mさんは非常に温厚な某国立大卒の技術屋さんだが、中近東の石油会社に長年現地勤務してヨットを覚え、定年退職して直ぐに1000万円かけて中型クルーザーを作り、世界単独周遊航海にでかけたつわものだ。3年前に単独航海に出港して、今年4月に無事帰国したが、上品な紳士にかかわらず、その豪肝さには驚かされた。この危険な大計画を思い立ったときは、家庭内でもモメたらしく、長年連れ添った奥様との離婚騒ぎまであったやに聞く。
兎に角、ヨットについて話せば限度が無いので、続きは次回に譲るが、ゴルフと違ってヨットマンは金満臭が少なく(分かりやすく言えばケチが多いということ)、従って不況到来でエコ時代の現代には最適のスポーツとも言える。体力が劣ってくる中高年になっても結構楽しめる奥の深いスポーツで、欧米でセーリングが盛んな理由も分かる遊びである。いつでもタダ同然で好き勝手にセーリングが楽しめる我々の恵まれた環境には深く感謝している次第。


まず世間の常識と違って、我々は全くお金をかけていない。勿論小型ヨットと言えども1隻100万円前後はするが、我々のヨットは全てタダでもらい受けた中古艇ばかりだ。近年の不況で各地のマリーナでは、ヨットオーナーが自分の船を置き逃げし、その処置に困ったマリーナ経営者からの要請で、無料で引き取ったものばかりなのだ。しかしクルマの中古車と違って、ヨットの中古は新艇と殆ど変わらない性能を維持している。
次ぎに日常の費用、 最も経費が嵩むのは係留料金で、大型艇をマリーナに係留すると年間100万円前後が相場、小型船でも1隻当たり年間10万円以上かかるが、我々の10隻は全て無料で済ませている。詳しい説明は省くがこれが決定的に効いて、クラブ員の会費は乗り放題で年間1万円という格安条件を提供している。1回あたりの費用は昼食代以内だ。従って近年は新規入会希望者が多すぎて困惑し始めているという事情もあるのだが。
私が入会した8年前の会員数はたった15名だったが、現在では100名ちかくにまで膨張し、しかも毎年10名程度増え続けている。 超格安の経済性と、本拠地が湖沼なので、条件さえよければ、自転車で行って直ぐにのれるという簡便性も備えているからだ。強いて問題点を挙げれば、湖沼の水深が浅く平均2メートル程度で、特に冬場は浅くなるので、乗り難くなるが、今の時期は十分な深さ、往復20キロは結構な距離でもあり、日照りのまだ柔らかく春は最高に爽快なスポーツといえる。
ヨットは基本的に風任せで、陸上からみると絵になるが、実際に乗船すると必ずしも優雅さばかりではなく、無風では全く動かず、逆に風が強いと直ぐに転覆する危険性があり、乗員は水中に放り出されてしまう。従って基本動作を完全に身につける必要があるが、習熟すれば後は難しくない。よくある例だが、陸上の見物人がヨットの転覆現場を見て事故と勘違いして119番に連絡し、救急車がサイレンを鳴らして駆けつけ、当方が平身低頭して謝り, お帰り頂くことが何度もあった。最近は地元の消防車も心得たもので、直ぐには動かず、特に溺死する危険性が少ない夏場はなかなか来ない。
ゴルフと違ってヨットは、2人が小さな船に乗るので会話が弾み、陸上では話さないような話題もでる。例えば自分の会社が倒産しそうだとか、得意先から不渡りをつかまされたとか、普段は言わない情報もつい漏らすようになる。しかし時には、ヨットの操船法をしつこく指導するのが好きなベテランと乗り合わせるともう閉口したくなり、ご自分の若いときの自慢話が好きな人物とか、更には恵まれなかった会社生活のうっぷん話をする定年退職者もおり、個人のパーソナリティの影響をもろに受けるので、誰と同乗するのか要注意だ。パートナーを間違うと、折角の楽しみが台無しになってしまう。
時代の傾向かも知れないが、最近の新入会員はうるさい先輩の指導を嫌って、シーホッパーとかレイザーとかシーマーチンなどの一人乗りの小型艇、キャットリグを好む若者が多い。一人乗りは自分の気ままに乗ってスピードも出るので快適だが、船体が不安定で、転覆し易く、全てご自分の責任となる。私は転覆するのが嫌でもっぱら2人乗のシカーラを楽しんでいる。
更に乗り方にもいろいろある。自転車でいえば、景色を楽しみながらサイクリングするツーリングを好む人と、ケイリンのようにレースをやりたい人がいる。ベテランは自分の腕前を誇示したくてレースを好み、素人会員はひとりで楽しむクルージングを好む。レ−スをやらないと操船技術が上達しないと先輩に無理やり脅かされて、新入会員もしぶしぶレースに参加するが、私はのんびりとセーリングするのが好きだ。
このスポーツの世界では入会順の先輩後輩の上下関係がなかなか厳しく、また学生時代にヨットをやっていた連中は早目にハバを利かすようになる。一般に大学の理系は授業が多忙で時間的な余裕がないが、文系特に私大のヨット部OBは勉強よりヨットに熱中したせいか、なかなかの実力の持ち主が多く、入会してすぐに幅を利かし始める。しかし入会年次も結構重要な意味をもち、それは丁度衆議院6回当選でやっと大臣にありつけるとかいう話にも似ている。ずぶ素人の私は入会して既に8年が過ぎ、兵隊の位で言えば、まあ大尉あたりかと自分では思っている。
我々のメンバーのひとり、Mさんは非常に温厚な某国立大卒の技術屋さんだが、中近東の石油会社に長年現地勤務してヨットを覚え、定年退職して直ぐに1000万円かけて中型クルーザーを作り、世界単独周遊航海にでかけたつわものだ。3年前に単独航海に出港して、今年4月に無事帰国したが、上品な紳士にかかわらず、その豪肝さには驚かされた。この危険な大計画を思い立ったときは、家庭内でもモメたらしく、長年連れ添った奥様との離婚騒ぎまであったやに聞く。
兎に角、ヨットについて話せば限度が無いので、続きは次回に譲るが、ゴルフと違ってヨットマンは金満臭が少なく(分かりやすく言えばケチが多いということ)、従って不況到来でエコ時代の現代には最適のスポーツとも言える。体力が劣ってくる中高年になっても結構楽しめる奥の深いスポーツで、欧米でセーリングが盛んな理由も分かる遊びである。いつでもタダ同然で好き勝手にセーリングが楽しめる我々の恵まれた環境には深く感謝している次第。
2009年05月07日
090507, 大型連休が終わって
大型連休が終わった。30余年前には土曜が休みだと、土日連休だと喜んでいたが、近年は何日も続かないとちっとも嬉しくない。しかし特に大型連休だと言っても私は特に何かやった訳ではなく、毎朝20キロのサイクリングをやり、数日間はヨットを楽しみ、渋る義母を説き伏せて墓地見学に出かけた程度だったが。
手賀沼にはこぶ白鳥が50羽以上おり、すべてメタボ気味でもう北国への渡りは諦めて永住しているが、今年も新しくヒナが生まれていた。サイクリング途中で私が確認しただけでも3家族、16羽のヒナがいたので、広い手賀沼全体では多分30-40羽は生まれているだろう。近親交配の心配もあるが、とにかく春らしい雰囲気でうれしく、出来るだけ無事に育ってほしい。
今年は全国どこまで行っても高速料金1000円の特別サービスで、大渋滞を引き起こし折角遠距離ドライブを楽しもうとしたサラリーマンには難行苦行の連休になっているとテレビが報じ、業務用トラックが東京―大阪に3日も要したと業者がカンカンになっていた。これでは民主党は高速道路全面無料化計画も引っ込めざるを得ないことになりそうだ。
メキシコ発の悪性インフルエンザも毒性が強くないらしいと判明したが、海外旅行者は成田に帰国すると厳重な検疫を受けるため当初は3時間も機内で待機させられたと聞く、検疫体制も段々充実して、連休の終わり頃には30分以内にまで短縮されたらしい。しかし不思議なことに乗客の多くは訪問先の海外は殆どマスクを着用しておらず、なぜ日本だけがこんなに騒ぐのかと不思議がっていたが、ここにも日本人が得意とする規律厳守の習慣が表れている。しかし中国政府がメキシコ発の航空機の受け入れ全面中止発令に、メキシコ大統領は怒り心頭となり、数年前に中国政府がSARS発生を隠して大流行させたことを激しく皮肉っていた。
いずれにせよ、一週間以上の大型連休は天候にも恵まれたが、当方は不慣れな遠距離ドライブは止めてテレビのプロ野球観戦が一番の暇つぶしであった。しかし巨人戦では安倍、ラミレス、李、小笠原などの年俸数億円組は相変わらず殆ど貢献せず、年俸数千万円組の坂本、山口、亀井、などの働きが光っていたが、あれほど実力の世界と言われるプロ野球でも年功序列がはびこっている現実をみた。すると本当に実力だけの世界は大相撲だけかも知れない。
琴欧州が普通の日本人娘と婚約したと発表した。4年前に始めて出会ったという。テレビの記者会見を見たが、今日では珍しくなった控えめで奥ゆかしい昔型のお嬢さんであり、私も大変に好感をもった。欧米の諺に、アメリカの家に住み、中国料理を食べて、日本人妻と暮らすのが夢だというが、控えめな日本の嬢さんは欧米人にとってやはり理想的なタイプなのだろう。ハシャギまくる現代の日本の若い女性もよく考えてほしいのだが、低脳化した彼女たちにはもう理解する能力も失っているかも知れない。
同じくテレビでは大不況の影響で学生の就職難が一段と深刻化していると報じている。昨年まではあれほど売り手市場だったが、一転して不幸な年に巡り合った学生達は可哀そうなことだ。やはり最初の就職にだけは何とか無事にありついて欲しいと思うが、特に文系の卒業生には厳しいようだ。
しかし文系理系の両方を終了した私の経験では、理系の学生はアルバイトをする時間もないほどギュウーギュウー詰めの勉強で4年間を過ごすが、文系の学生は本当にヒマで理系の半分も勉強していないことを知っている。まあ楽に大卒の資格を得ようと思った学生達の自業自得というところもあるだろう。
同じく、派遣切りにあった中高年がこの大型連休を利用して資格試験をとるべく講座に通って猛勉強をしているとテレビが報じていた。例えば司法書士、行政書士、弁理士のような国家試験に合格して資格を取り、転職を有利にしたいという。話は分かるが、ネコもシャクシも同じような資格を取っただけで、転職が本当に有利になるのかは疑問で私は怪しいと思う。企業がほしいのは豊富な実務経験であり、単に連休を返上して取ったようなペーパー資格ではない筈だ。少なくとも私が採用人事部長なら、実務経験にない資格保有者は全員不合格にするだろう。企業は決してそんなに甘くはないのだ。もっと若い時から将来を見越して実務経験を積んでおくべきなのだ。
しかし多くの中高年には、長年の経験があり、これなら誰にも負けないという分野を何かもっている筈であり、それを活かす職場を探すほうがよほど現実的なのだ。それにはシルバー人材センターの仲介が不可欠なのだが、またまたお役所仕事の悪弊で、シルバー人材センターは紹介先を同じ市町村内にだけ限り、隣町以遠距の職場は紹介しないという勝手気ままなルールで動いている。中高年の多彩な経験を活かす職場は狭い町にはあるはずがなく、結局適材適所の職場には到達できない仕組みになっている。しかし民間が職業紹介所を開業することは厳しく禁止しており、何ともバカバカしい限りだ。
話は少々変わるが、全国で子供の虐待事件が頻繁に起こっているとテレビが報じている。例えば幼稚園児の幼女を寒いベランダに追い出して凍え死させたとかだ。 子供は世知に乏しく、親以外に助けをもとめる術を知らないから、本当に哀れな話だ。60年前私の小学生時代の同級生にも、義母が食事を与えずやせ細った女の子がいた、確か岸さんとか言ったが、とうとう学校には来なくなってしまい、そのあとどうなったか知らない。その義母はある小学校の先生だと聞いてあきれていたが、逃げる方法を知らない子供の虐待は重罰に処するべきだと思う。私が裁判員であったか、今回の実の母親には10年、同棲の男には15年に実刑に処すが、如何だろうか。すこし厳しい過ぎるかも知れないが、一罰百戒の意味も込めて。