2010年06月

2010年06月29日

100629,沖縄問題


民主党が菅内閣に代わっても、普天間問題は解決の見通しは立たない。普天間周辺の住民はさぞ不安な毎日を過ごしているだろう。私の住宅近くにも海上自衛隊の航空基地があり、航空機が結構うるさく飛んでいるが、頻度も多くなく、その存在が当たり前になっているので反対運動は全くない。

私が不思議に思うのは、沖縄の住民は普天間問題をどう解決して欲しいと思っているのだろうかということだ。確かに住宅街のど真ん中の普天間基地は危険極まりなく、早急に撤去すべきだいう点は私も全く同感だ。従ってその代替基地を名護市辺野古の人家を離れた海上に作ろうという現行案には基本的に合理的だと思う。名護市は沖縄でもかなり辺ぴな場所であり、更にその辺野古の住宅地から離れた沖合の海上に作る予定なので仮に事故が起こっても、被害は最小限に食い止められるだろう。その現行案が猛反対にあっているのだから、なかなか理解するのが難しい。

まず宜野湾市の危険性除去計画に、名護市が反対する理由がよくわからない。確かに名護市の頭上に新しく基地を移管するのなら誰でも絶対反対だ、しかし建設予定地は辺野古の沖合の海上なのだ。騒音被害と危険性が大幅に激減されるのは間違いなく、まだ危険が残るというのなら更に沖合に移せと要求すればよいのだがそれも無い。理由も無く、兎に角新しい海上計画に猛反対だというは子供レベルの要求だ 米軍人が来ると治安が悪くなるというのなら、その治安対策を要求すればいいと思うのだが、その話も聞こえない。理想と現実の区別ができない宇宙人のバカ鳩山さんが言った、海上埋め立ては自然への冒瀆だという意見に同調しているのだろうか。 

日本を守るため、どこに基地を作るかは、日本政府の義務であり、日本国民全体の問題であって、単に沖縄住民だけが決めるテーマではないと思う。もし基地建設で何か具体的な迷惑がかかるなら、それを取り除けというのなら分かる。殆どの日本国民は多分冷めた目で見ていると思う。多分、普天間の危険性除去はひとつの口実で、米軍が沖縄に駐留すること自体に反対なようだ。住民の安全性問題よりも、イデオロギー問題が主目的なら、その妥協は簡単に出来る筈がなさそうだ。

確か第二次大戦では、本土に比べ沖縄住民は悲惨な目にあった。私は本土住民だが、私の妻は、戦死した父親と共に満洲に渡っていた母親が命からがら廣島に連れ帰り、全く幸運にも寸前で廣島原爆を避ける事が出来た、また私の母かたの実家は一人息子が戦死して家系が途絶えてしまった。程度の差はあれ多くの日本国民が悲惨な目にあった戦争には、これかも絶対反対と言う心境だ。

しかし日本は我が身を守る事が非常に重要で、膨張を続ける中国軍に対して自力で守れなければ米軍に助力をお願いする以外に方策がないのも事実だ。その日本を守ってくれる駐留米軍をこれから減らして、普天間の危険性を除去しようとする沖縄米軍基地の削減計画の始まりが普天間移動なのだが、それに反対して続く予定の米軍基地大幅削減計画全体まで潰そうとしているのは、もうイデオロギー闘争だと思う。嘉手納空軍基地以南の米軍基地の大部分を撤去して、海兵隊要員8000人をグアムに移す計画は中断に追い込まれるだろう。そして、何も改善されないまま、普天間の住民だけがこれからも危険性を我慢し続けることになろう。まさか名護市はこのような結果を望んでいる筈はないと思うが、結果的にはそうなってゆくだろう。

中国や北朝鮮が日本に脅威か否かの判断は、日本全体が考える大問題であるが、中国軍はシビルコントロールが効かず、共産党からは離れて独自に動く傾向が非常に強く、外交交渉だけでは対処できない怖いお国柄なのだ。私は家族や子供たちを自分の手で守れないような考えは大嫌いだ。たまたま沖縄は地理的に日本を守る絶好の位置だから、そのひとつとして名護市の沖合海上を計画に選んだのだ。

 それは広大な土地に恵まれた北海道で放牧が行われ、漁港に恵まれている所は漁業で生計を立て、風光明美な信州が観光で生きるのが一番効率的なのと同じだと思う。中国軍から日本を守るに適した沖縄に、日本を守る前線基地を置くのは殆どの日本人は認めるだろう。もし米軍が沖縄から撤退したら、先ず尖閣諸島は直ちに中国領に占拠されて、そして次は沖縄列島自身も中国海軍に囲まれてその生存権すら脅かされることにならないとは誰も保証できない筈だ。既に米軍が撤退したフィリピンは南沙諸島を中国に実質的に占拠されてしまった事実もあるのだから。

宜野湾市と名護市との間に話し合いがないのも不思議なことだ。普天間の危険性を除去するために、早急に名護市の海上に移動させて、普天間住民を安心させて欲しいと、宜野湾市は名護市に相談できないのだろうか? 名護市は普天間の危険性除去に協力する気はないのだろうか。もし沖縄島民として普天間住民の危険を本気で考えるなら、新しい基地を沖合の海上に建設する案に絶対反対を唱え続けるのではなく、更に安全な基地にする方策など具体的に提案して、嘉手納空軍基地以南の米軍基地の撤去に協力すべだろう。

更に言わして頂けば、主要な産業が無い沖縄も不景気風に覆われて、住民の平均所得は全国最低レベルの年間200万円だと聞いいている。沖縄の若者達も、清く貧しく美しくだけでは生きられない筈だ。基地の従事員はその倍額の4-500万円の安定した収入があるという。これら従業員は何故声を上げないのだろうか? 米軍基地を海外に追い払って自分達は失業してもいいとは多分思っていないだろう。 沖縄の観光立国とかも聞くが、これは本当に頼りない産業で、同じ金額なら中国や台湾やフィリピンに行く人の方が圧倒的に多いのではないだろうか。 


mh3944 at 15:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 政治 

2010年06月25日

100625 テレビが壊れた

最近では珍しい話だが、我が家のテレビが壊れた。ソニーの5年前の32型が、映らなくなってしまった。スイッチを入れるとICカードが不具合ですと案内表示が出て画面が消える。直ぐにカスタマーセンターにTelして新しいICカードを入手し、差し替えたがやはりダメだった。

サッカーの最中でテレビ無しでは困るので、早速修理屋さんにお願いし、翌日午前昼前に来て頂いた。修理屋さんは配線基板を差し替えれば直る筈 結構値段が高いですがと説明して1枚3万円の基盤の交換を提案した。最新型は改良されて基盤が1枚だが、5年前は3枚あり、その1枚が3万円、出張料+技術料1万円で計4万円の見積もりであったが、新品を買うよりまだ安いかと思いOKした。しかし配線基板を交換してもテレビは直らなかった。

さあ困った、修理屋さんは午後の予定が詰まっており、次の訪問先に遅くなることを携帯で連絡しがら、色々復旧を試みたがなかなか直らず、終にテレビ本体を修理工場に持ち帰ることになった。更に夕方になって代替用テレビも運んで来た。勿論貸出料はゼロとのこと。結局1日仕事になってしまった。

近年テレビは強烈に値下がりして、同じ32型なら5万円で新品が買えそうなので、私は4万円を払って修理するのは無駄だと思い始めた。更に前々からもっと大型が欲しいと思っていたので、急い電気屋を訪れると40型が9.5万円で買えると分かった。これはもう買い替えのチャンスと判断し、方針を変更して修理は止める旨、修理屋さんに電話連絡し、大型を買うことにした、電気器具のデリバリーは素晴らしく、翌日には40型を設置してくれるという。何とも慌ただしい1日だったが、サッカー試合も見逃せず、テレビは不可欠で、何だか自分も中毒症状に陥っていることを知った。

もうひとつ驚いたのは世界に技術を誇るソニーでもテレビが簡単に故障してしまったことだ。先般米国でのトヨタ車のクレイムも似た事件かと思うが、買って5年に過ぎないテレビが簡単に故障してしまったのは、何だか信じられない思いだった。更に技術革新が激しく5年前に比べて、新型は大きく改良され、内部構造が非常に簡単になっているという。これからは急いで新製品を買うのは避けようとも思った。

新聞情報などで知ってはいたが、家電製品の急激な値下がりには驚いた。昔からテレビはインチ1万円を切ると購入時期だと聞いていたので、5年前に32型が23万円を見つけ格安品だと信じて飛びつき購入したのだが、今では32型は5万円、40型は10万円以下にまで低下し、更にエコポイント2.5万円がつくので、40型も実質7.5万円になった。有難いというべきか、家電メーカの関係者のご苦労に思わず同情した次第。

昔、私が従事した診断薬で、定価45,000円の甲状腺ホルモン検査薬FT-4が、激しい競争の結果、5−6年で6,000円に迄下がってしまった苦闘の思い出があるが、それでも輸入品の販売でまだ利益が出たので、正にクスリ9層倍は事実であった。最近、薬品業界は特許切れ後発医薬品(ゾロ薬品)の使用促進が叫ばれているが、やはり製薬会社はボロ儲けしており、類似製品の普及は更に押し進めるべきだと思う。

私の職業は修理業なので、今回のテレビ修理屋さんの動きが非常に参考になった。多くのケースで修理は短時間に終わるが、我が家のテレビは、修復困難で、会社に持ち帰り、更に無料の貸出専用テレビまで運び込み、修理屋さんには結局1日仕事になってしまったが、その対価は出張費5,000円であった、メンテは人件費の固まりだが、出張料や技術料を実費20,000円とか30,000円を請求すると、必ずお客さんが高過ぎるとクレイムするという。従って結局はパーツ代名目に振り替えて、高額な基盤ですとお客さんを納得させ、なんとか収支を合わせているという、当方も身につまされる1日であった。




mh3944 at 09:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 雑感 

2010年06月23日

100623, 他人から盗む

当たり前の話だが、ものを盗むのは良くない。他人が汗を流して蓄えたお金や物品、更にはアイデアを盗むのは許されないことだ。

私のほろ苦い思い出は、既に半世紀も昔、子供時代の夏休みに、大人がひる寝している間、近くの田布施川に泳ぎに行く途中に、山道の上から大きなアンズの木が垂れ下がり、鈴なりの赤紫に熟したアンズが、果物に乏しい子供時代には羨望の的だった。たまたま虫食いで落下した実は拾ったが、アンズは熟してもなかなか落ちてこない。周囲の目を盗みながら、木に登って盗んだことは何年経っても忘れられない。

世のサラリーマンも色々なケースでお互いに業績や情報を盗み盗まれている。私の知っている例では、上司が部下の業績を盗んで一人占めするため、その部下を放逐した例がある。業界展示会で新製品開発担当のI氏は珍しい人工皮革のサンプルを見てそれを参考に人工皮革用樹脂Cの開発に着手した。 そして試作した新製品は結構な出来栄えだった。そこまでは組織として当たり前の話だが、問題はその成果をH部長は一人占めするため、最初に着手した部下のI氏が目障りになり、徹底して彼を冷遇し続けたことだ。その後その製品Cは長い年月にわたって会社の収益を支え,社業に大きく貢献し続けたが、I氏は終生報われることがなかった。業績を挙げた部下の名前を発表しても上司の名誉は全く損傷しないことを理解しない部長をもつと悲惨な結果になる

数年が経過して、運悪く私は企画部に配属されて、H部長の組織に入り、私は不安を感じていた。普通の上司なら部下と協力しながら仕事を進めるのは当然だが、何しろ陰険なH部長のこと、企画が成功すると担当した部下は放り出し、逆に失敗すると部下に責任を押し付ける習性を私は知っていた。具体的にはH部長が企画部門の大目標として生理活性物質の事業化を掲げたが、具体策が無く、なかなか成果は上がらなかった。

私はロスの中堅医薬品会社が日本進出を狙って、当時としては巨額の10M$(20億円)の本格的な合弁事業を計画している情報を掴んだが、私はH部長に説明すると同時にK社長にも話して保険をかけた。初期投資が20億円は当時としては巨額投資で、H部長は少々怯んだが、K社長は数百人の研究開発部門に毎年数十億円を浪費して、何ら成果が出ないことに不満をもっていたので、本件20億円投資を進める決断をして米国ロスの医薬品会社に単独で訪問し、先方会長と合意してしまった。

帰国後、私は呼ばれて直接具体化推進の指示を受けたので、当該事業は本格的に動き始め、H部長は手出しできなくなってしまった。 内心H部長は悔しくて眠れなかったかと思うが、部下の功績を横取りしても、評価する術を知らない部長には仕方ないことだった。

情報や業績の盗み取り事件は企業では全く日常茶飯事だ。同じく私の実例としては、私が部下の鈴木三郎君と協力して昭和45年にPhillips社から導入したPPS樹脂が50年経過してやっと巨大製品に成長したが、最初の導入時の私と鈴木君の苦闘については誰も語らない。いや誰も知らず知ろうともしないのだ。このような事例は企業内では非常に多い。

政界には桁違いの大ドロボウが蔓延している。その代表例は数十億円を盗んで知らん顔の民主党小沢前幹事長だろうが、日本の天下り役人共も国民の血税をこっそり吸い取る質の悪いドロボウだ。数多くの独立行政法人や公益法人等を麗々しく設立して、10,000人近い役人を送り込んでいるというからもう呆れた話だ。これを黙認してきた自民党政権も立派な共犯だ。天下役人共は国内の主要な組織の奥深く食い込み、国民の気力と国力を蝕んできたが、民主党政権がその寄生虫の駆除を始めたのは大いに評価できる。日本のエリートを目指す若者たちも、人生の目的を待遇のよい天下り先への就職とかケチなことでなく、もっと次元の高い大目標に切り替えて、将来の日本を背負う気概でやってほしいものだ。

来月は参議院選挙だが、民主党が消費税値上げを公言し始めた。4年間は値上げしないとマニフェストに掲げた鳩山内閣が、現実に政権を担当して夢物語だと気づき、菅内閣に代わって10%値上げ方針を発表したのだ。自民党谷垣総裁は、自民党の10%スローガンの盗用だと騒いでいるが、これを盗用というのは単なる言い掛りで、責任政党となった民主党には当たり前の変更だろう。
  
話は飛んで中国に至っては商業道徳ゼロのお国柄、外国や金持ちからモノや情報を盗むのは当たり前だという風潮らしい。例えば外国の有名ブランドを国内で登録するなんてのはもう朝飯前で、金儲けを企む中国人が勝手に日本やヨロッパの商標を無断で国内登録している例が非常に多く イタリアやフタンスの有名ブランドバッグや時計などの偽モノが氾濫している。日本も被害を受けておりHondaと見間違う Handaとか、あらゆる分野で商業道徳に欠ける中国人の被害にあっている.
 
その点、アップル社のi-Phoneは全く独創的なアイデアだ。パソコンや携帯はKey-Boardに不慣れな年配者には面倒で 中高年者にはフレンドリーではなかったが、i-Phoneはこの問題を一挙に解決してくれた。また応用Softの開発を世界中の愛好者に解放するという奇抜なアイデアも立派だ。米国人の独創性には本当に驚かされる。何故ソニーでこのような画期的な新製品が出てこないのか、話題になっているが、これは日本の英才教育や、組織の運営、更には経営陣のリーダーシップも絡んでなかなかの難問だろう。しかし中国人のモノ真似精神はさらに凄く、i-Phoneが発売されるや否や,直ぐに類似i-Phoneを開発して売り出したというから、中国人の徹底したモノ真似精神には驚愕の至りである。 

 



mh3944 at 09:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ビジネス 

2010年06月18日

100618, 社長の務め

私は10年前まで、ある中規模の外資系医薬品会社の社長をしていた。
私が創業した事業だからなるべくしてなった社長だ、日本のマーケットに参入を企画していた米国の医薬品会社をみつけ、私が交渉を始めた。最初は私と事務女性との2人だけでスタートし、12年経過して年商約20億円近く、社員50名にまで成長した、しかし出資比率が国内/外資50/50 の合弁企業だったので問題もあり、更に医薬販売なので事業の成否が困難で、誰も責任を引き受けず、結局、企画した私が社長となって動き出した次第。

私は12年間無我夢中で働いたが、よくあるパターンで長い月日が経過する内に、私とアメリカ親会社の考え方のギャップが顕著になり、終に米国会長からクビを言い渡された。米国側は、日本の合弁会社に輸入販売店としての働きを期待したが、私は販売だけでは企業の成長性が乏しい、やはり技術開発力を持った本格的なメーカーを目指したので、当初より考え方が基本的に違っていた。

私は会社を拡大して最終的に、研究開発10名、製造部門10名、技術サ-ビス10名、営業部門15名、管理部門5名, の組織にしたが、米国会長は猛反対、特に研究開発は米国の300名だけで十分だと主張し、日本での技術開発に猛反発し続けた。しかし、幸いにも我が開発陣は米国会長も驚くほど画期的な新製品開発に成功したので、私もかなり長く社長業を続けられたが、結局はクビになってしまった。

私が退職した後、その合弁会社は色々な経緯を経て3年後には身売りされ、本体は三菱に買収されてしまった。私の優秀な部下達も各人各様の希望に従って転籍した。 技術に自信のある部員は商権と共に三菱に移り、三菱を恐れる部員は親会社インキに出戻り、営業部員は競合他社に移るなど、各人の考えで四散した。

今年の春久し振りに、三菱に移ったK君と飲んだ、彼は東大卒だが本当に優秀な技術者でしかも誠実な人柄で、三菱でも部長になっていた、しかし三菱はネコもシャクシも殆どが純粋培養の東大卒だと笑いながら話した。 問題は社内会議や書類作成が多過ぎて、本当に仕事をする時間が殆どないと嘆いていたことだ。お酒が入った席でもあり、昔の私の合弁会社時代は本当に自由で毎日の仕事が楽しかったと思い出を話すので、私も嬉しくなり、貴兄の努力のおかげだと率直に応じた。

やはり私の部下で、大手検査センターS社の部長になったT君とも最近話した。彼は私大卒だが、馬力気十分でしかも能力もあり、立派な部長になっていたが、やはり私の合弁会社時代は本当に全員が生き生きと働き、素晴らしい成果を上げたと思うと、懐かしそうに話してくれた。

インキに帰って研究所の専任部長になったN君は、先年の部下の結婚式のスピーチで、合弁会社時代は本当に充実した仕事ができたと懐かしそうに思い出話をしたと聞いた、いずれも私が社長時代のかなり昔の話だが、彼らのはつらつとした働きを実感していた私は、今更ながらに嬉しく思った次第。

しかし私が社長を務めた12年間は私には苦闘の連続であり、部下や米国会長から立派な社長だと言われたことは全くない。私も自分が立派な社長であったと思ったとは全く思っていない。私はいつも控え目な立場で、部下達が思う存分活動できるように配慮していたつもりだった。しかし部下から働き易いと職場だと言われたことはお世辞にもなかった。いつも社員達から、次々と新しい難題を出されて、その対応に忙殺された12年間であった。

しかし今考えてみると、私の長いサラリーマン生活のなかで、やはりこの12年間は私にとっても何ものにも代えられない思い出深い充実の時期であった。米国会長からは、私が米国の方針に従わず、独自路線に走り過ぎると、度々呼びつけられては怒られ、私も下手で英語でストレートに反論し続けたが、事業発展の為に頑張っている自信があったので、何らの不安は感じなかった。

しかしある事件で自分の地位に不安を感じ始めた。即ちK君が画期的な新製品の開発に成功し、私の独自判断で主要外国に特許を出願した時、米国親会社と大論争になってしまったのだ。米国側の言い分は、親会社に断りもなく子会社が親会社のテリトリーも含む全世界に特許を出すのは言語道断だという感情的な怒りだった。私は特許と販売権は全く別物であり、米国で販売するつもりは全くない。更に事前に米国に相談すると必ず発明内容の公開を求められ、特許申請が遅れると思ったから、先ずは特許出願してから会長と相談するという私の独自判断だったが、これが米国側の激怒を買い大論争になって時、私は初めて自分がクビになる可能性を感じ始めた。

事実、我々の画期的な新製品は、世界でも最高の頭脳を誇るEastman -Kodakの独占製品を追放する新技術だったので、早速Eastman-Kodakの偉い特許部長が来日して幕張WBG32Fで大激論になり、裁判にまで発展したが、終にEastman-Kodakを撤退に追い込んだ。

更に問題はこの我々の独自開発に対して、会長が米国へのロイヤルティーの支払いを求めてきたことだ。 私は日本独自の開発製品に何故ロイヤルティーを米国に支払う必要があるのかと感情的に反発して、来日した米国会長や開発部長と激論を繰り広げた。最終的には規定の10%を3%にまで引き下げて支払うことで妥協したが、私は親会社のメンツを潰し、最後の一線を越えてしまったことを感じた。多分私は解任されるかも知れないと本気で感じた。そして半年後に私はクビを宣言されてしまった。メンツをつぶされた米国会長は、私を解雇しても優秀な技術陣さえ残しておけば問題ないと考えたのだ。しかし3年後には合弁会社は分裂に追い込まれた。

私の12年間の社長時代は、色々な社内トラブルにも遭遇した。最初の大きな誤算は、米国企業がこれほどマーケッテングを重視することを私は知らなかったことだ。 マーケッテングとは営業部門の下に所属する市場調査だと私は軽く考えていたのが、大きな間違いだった。米国のマーケッテング部長とは、会長に次ぐ高いポジションであり、必要な研修を修めた学識者のみが就任できる最重要な業務だったことに、私は認識を新たにした。

また人事関係でも多くの事件があった。日本側の親会社の勧めで受け入れたT営業部長に、多くの営業課員が反発してボイコットして、遂にT部長を親会社へ返す事件があった。私も彼が一匹オオカミの英語屋であり、組織的な動きには不慣れで10人近い営業部員から総反発を食らったことは自然の成り行きだと内心思ったが。

代わりに営業部長として外からスカウトしたY君は私の大失敗であった。彼は40代前半で既に7社の国内企業を渡り歩いた策略の士であった。わが社に入って機檻嫁が経過してから、予期もしなかった私(社長)の追放運動を画策し始めた。 理由は私は指導力不足だとして、告発状を親会社に提出したことが分かった。この辺りは日本の政界の騒動に近い権謀術数の時期でもあった。最終的はY部長は部下4人を引き連れて集団退社しフランス系V社に移ったが、また問題を起こして再び転職したことをウワサに聞いた

更に、私が社長を務めた時期はバルブ期で、都内日本橋が事務所のわが社の家賃の毎年の値上げに悩まされ、終に私は千葉幕張地区に移転を決めたが、社内の5-6名の女性社員から、千葉より日本橋がいいとゴネ始め、更に営業部員も千葉は営業に不便だと反対運動に加わって大きな騒動に発展したことも懐かしいできごとだ。また幕張の大型ビルWBGは、外資系技術志向の有力企業でないと受け入れないと初めは高姿勢であったが、バルブ崩壊が始まると、急に方針を変更し、どなたでも受け入れますと態度を変えたのも興味深々であった。

恥ずかしい事件としては、大坂営業所の4名の課員が合議して、偽のゴルフ接待を何回も繰り返して、手土産まで自分達が持ち帰っていた事件が発覚し、関係者を解雇したが、私には予想もしなかった驚愕の出来ごとであった。
また工場から採用した高卒の会計課長は、私が営業部門と研究開発部門ばかり重視して、業務会計などの管理部門を重視しないと猛烈な不満を持たれて苦労したこともあった。

小さなトラブルだが、好成績をあげたM営業課員を米国親会社に報償派遣する時、当社内規則の航空券20万円のエコノミー席に太目のM君が座れないから40万円ビジネス席をつかわせて欲しいとの申し入れがあったが、体重100キロ近い米国人旅行者さえ平気でエコノミーを使っているのを知っていた私は、断固拒否し、彼の上司Y営業部長との激しい口論になり、これもY部長の社長追い出し運動にきっかけを与えたのだろうと思う。

またある技術研修で、英会話学校に行く費用を規定の3ケ月間支給ではなく、6ケ月間認めて欲しいとの個人的な要請もあったが、ルール違反で不可と私が許さず、激論した覚えもある。その他書き出せばきりがないほど、雑多なトラブルに対応した多忙な12年間であったが、多くの案件について中間管理職は自分で判断する責任を回避して、最終決断を社長の私に求めたので、小会社といえども、多忙で無我夢中に走り続けた12年間であった。

私は、組織のリーダーとして私が立派な指導者であったとは決して思っていない。しかし周囲から賞賛の言葉を期待した気持は皆無で、実際に褒められた覚えもない。 要は如何に部下をやる気にさせるかが社長の最大の任務だと思って働いた。社長に対する評価は、組織を退いたあと、他人が決めることで、在任中に自己の評価を上げようなんて下手な欲を出すと、ロクな結果に終わらないと思う。私の多くの失敗と少しの成功経験から言えば、社員各自が軽んじられていると思わないように最大の注意と敬意を払って、彼らの創意と工夫を存分に引き出し、発揮できる職場をつくることが社長の最重要な任務だということが、私の12年間の社長業で得た教訓だった。 
 



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2010年06月16日

100616, 鳩山さんご苦労様


鳩山内閣が倒れた。昨年9月に75%という高い支持率でスタートし首相に就任したが、8ケ月後には支持率が19%にまでつるべ落としに下落してしまった。確かに日本の国民から嫌われている小沢幹事長とコンビを組んだことも不運であったが、鳩山さんご自身の未熟さも大きな理由だろう。鳩山さんは性格的には本当に素直だと思うが、政治家としての基本的な考え方が未熟で、理想論と現実の進め方の判別が出来ず、遅かれ早かれ退陣は避けられなかったと思う。


鳩山さんの未熟さを挙げると主な具体例だけでも、a) 友愛という曖昧模糊な精神論を提唱して国民が???と疑問を感じ始めたこと、b) これほど財政が悪化しているにも拘わらず、消費税は議論しないという現実無視のマニフェスト原理主義、c)外交問題では先ず中国重視で米国は2番と言う現実無視の考え d) 同じく中国軍や北朝鮮軍の増強が著しいのに、米軍が沖縄に常駐する必要はないという現実感覚を欠く防衛思想e)環境問題でCO2を25%削減する超難度目標を掲げて世界をリードしたいという大きな重荷を残した世界公約 f)親から毎年1500万円という大金を贈与され続けていたのを知らなかったという大ウソ g)米国抜きの東アジア経済協同圏を提唱した実現困難なアイデア h)無能な官房長官と閣僚をコントロールしなかった放任主義 i)下手な英語で不慣れな交渉を行おうとした外交の失敗などなどがある。

先ずは小沢幹事長と組まざるを得なかったのは確かに不幸であった。衆議院選挙で小沢さんが圧倒的な成果を上げたので無視できなかったのだろうが、それは小沢さんだけの功績ではなく、堕落した自民党政権が行き詰まった時代の要請でもあったのだが。更に重大な問題点は、小沢さんが国家の金、数十億円を搾取しているインチキ議員だが、それに比べると鳩山さんの相続税未納問題は、一般庶民には無縁な問題で、羨望には思ったが、憤怒の気分はそれほど感じていなかったと思う。

鳩山退陣の直接原因となった沖縄問題では、鳩山さんが余りにも未熟過ぎた。問題の根幹は、普天間の危険性を早取り除きたいという緊急で真面目な現地の願望に対して、代替基地を辺野古の海上に建設するという誰にも迷惑をかけない自民党提案を、鳩山さんが、海の埋立ては自然への冒瀆だと大見栄をきって反対した事から端を発して、無責任な左翼活動家に格好の口実を与えてしまった。その結果、過疎地の辺野古では開発待ちの住民をも巻き込み始めて大きな反対運動に変質させた。その結果、基地建設による沖縄活性化を希望する多くの市民の意見を圧殺してしまった。まあこれは鳩山さんの典型的な自業自得で、多分神様だって助けてやる気にもならないような幼稚な進め方だ。

新しく就任した菅さんは、中曽根元首相に似た風見鳥的な性格で、手練手管の策士タイプ、鳩山さんのように自分の信念に元づいた不用意な冒険的発言や行動はしない変節の政治家であり、従って首相としては多分長続きするだろうと思う。今回の思い切った反小沢派人材の起用も、小沢さんの不人気を確認した上での変身であり、首班選挙に立候補した菅さんが小沢幹事長に事前挨拶をしたいという申し出を、仮に小沢幹事長が受けていたら、菅首相はここ迄大胆な反小沢人事を出来なかった筈だ。

また国会議員に当選させて貰った小沢ガールス達は、小沢さんの厳重な監視で身動出来ず当惑していたが、やっとその重圧から解放され安堵の気分に浸っており、その多数は徐々に小沢派から離れて行くと思うから、膨張し切った小沢派閥は再び収縮期に入り、遠からず一新会60名のメンバーに落ち込んでしまうだろう。何だか今読んでいる、宇宙の創成と歴史の、膨張と収縮を繰り返す現象、によく似た流れだ。 


mh3944 at 08:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 政治 

2010年06月10日

100610, 次兄が倒れた



100610, 次兄が倒れた
この3月に長兄の葬儀で帰郷したとき、一人住まいの次兄宅に宿泊した。奥さんは既に亡くなり子供達も遠くに独立して閑散とした次兄宅で、久し振りに夜遅くまで兄弟で話し合った。当人の心配は、もし自分が倒れた時はどうなるだろうか、PPK(ピンピンコロリ)ならいいが、中途半端に半身不随で倒れたら、誰が面倒をみてくれるだろうかという不安だった。 その次兄が先日倒れたと連絡があった。長兄の百カ日法要の夕食会の席で倒れ、病院に運び込んだという。
病状は脳動脈の狭窄がひどく血圧が200を超え、意識も不安定で、余命は保証できない重症だという。遠くに住む私は定期的に次兄宅に電話連絡して健在を確かめていたが、今回は電話応答がなかったので心配していたが、既に前々日に倒れて病院に運び込まれていた。

弱虫の私と違って次兄は子供時代は、けんか腕っぷしが強い村一番の番長で、クラス仲間からも大いに恐れられた存在で、私も内心は誇りに思っていた。 先年の同窓会であの恐ろしい次兄がこのように柔和なオヤジになるなんて信じられないと、同級生一同に大笑いされたと次兄から聞いていた。確かに次兄は小学校時代はクラスを率いて上級生や下級生組と争っていたが、我々兄弟姉妹には心優しい兄であり、家庭をもってから昔を忘れたように円満な大人に変身していた。

次兄より先に数年間に倒れた長兄は、一家の重荷を背負って真面目一点張り、寸刻を惜しんで働き続けた一生であった、しかし病には勝てず、長い苦闘の末に今年3月に亡くなった。 葬儀の後、焼却炉から出てきた遺骨に子供達は声をあげて嘆き悲しんだが、私は変わり果て小さな骨になった兄を静かに見ていた。多分何年か後には私も同じように遺骨片となってしまうのだろうと思いながら。

長兄が亡くなっても世の中は何も変わらず、昨日から今日へ、その次は明日へと日にちは静かに流れていく。仮に私は亡くなっても、周りの社会はごく小さな出来事としてすぐに忘れ去り、年月は流れ続けるだろう。このようにして、人の歴史は、小さな事件を次々と飲み込みながら、月日を刻み、またこれからも新しい歴史を作って行く。

昨年暮れに私の義母も90才で亡くなった。元スポーツ選手で体格もよく、もし体が不自由になり介護となれば体重を支えきれないと家内は心配していたが、夕食中に倒れてそのまま亡くなり、残された我々家族には全く手数をかけない家族孝行な最期であった。40年間も同居した義母とは全く身内の感覚で、鬼籍入りして仏壇に飾られた写真をみると、何だか文句を言われそうな感じもする。しかし義母が亡くなっても、残された我々家族の生活は余り変わらなかった。

やや大袈裟にいえば、織田信長が本能寺で明智光秀に攻め殺されたが、その明智光秀は10日後には豊臣秀吉に追い詰められて殺され、その豊臣は30年後には徳川家康に大坂城で滅亡してしまった。そして大願成就を果たした筈の徳川家も250年後には明治維新で完全に葬り去られてしまった。各々の戦いで勝者と敗者は決まったが、今となってみれば、どちらでも誤差範囲で余り大差ないように思われる。

世の中の出来事はそ各々の時点で勝負は決着し、勝者は狂喜し敗者は悲嘆に暮れるが、歴史的にみれば何れもつかの間の出来事で、勝負と敗者と共に月日の大波に押し流されて、勝敗の別なく悠久の歴史に飲み込まれてゆく。

そう遠くない将来、私もこの世におさらばする筈である。私の家族は少しは悲しむだろうが、友人知人は、ああ!あの人が亡くなったそうだよ!程度で、大きな感慨も無く、世の流れは何事もなかったように流れ続けるだろう。 次兄倒るの連絡を受けて、何だか鴨長明方丈記の. 行く川の流れは絶えずしてしかも本の水にあらず、よどみに浮ぶうたかたはかつ消えかつ結びて。。。の気分になってしまった。



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2010年06月07日

100607, 昔の思いでー2

私が育った山口県の実家は屋敷も広く、屋根は4面ともの大きな萱葺き屋根であった。その屋根の萱の吹き替えは毎回大苦労で、数年に渡って蓄えた大量の乾燥萱を使った。この屋根工事は専門の職人が行い、ススで真っ黒になりながらも、1週間かけてやっと一面を吹き替えるのだった。我が家を担当した職人は、胸ヤケするといって、裏山の粘土を水に溶かしてゴクゴク飲んでいたが、これは野生の動物がミネラルを採る行動に似ていると最近思い出した。

私の城南村小学校は山深い山村の中央に位置したが、徒歩で通学するには長い道のりだった、特に石の口とか、西山などは片道5キロ以上もあり、子供の足には2時間近くかかった。 更に今日の受験時代とは違って5月と10月の農繁期には各1週間程度、学校が休みになる農繁期休暇があり、子供達も田畑に駆り出されて重労働に従事した。

当時の尋常小学校は、6年制学業を卒業すると良家の子供は街の中学校に進学するが、殆どの児童は高等科という2年制の高等教育をうけて卒業して実社会に旅立った。何しろ終戦前後の物資の乏しい時代で、教科書は上級生が使ったものを貰って再使用したから、何年か前の上級生が書いた下手な書き込みがある教科書がなかなか面白かった。 

勿論通学の制服などは皆無、各自が勝手なボロ服だったが、時折配給される学生服はクラスでくじ引きして分配した。何だか話に聞く今の北朝鮮のようだが、私も一度クジで緑色のダブダブ服をゲットしたが、レーヨン製か何かで、水洗いすると衣服がカチカチに固まってしまったのを覚えている。殆どの児童はワラ草履で通学するが、新品のワラ草履は心地よいが、毎日履き続けると幅と長さが延びて、特に雨降りは一回でダメになる履物であった。

今でも似た傾向はあるが、昔は各学年にガキ大将がいて、その生徒の権力は絶大であった、しかし時折ボスの交代劇が起こるのは、サル山の動物園と同じ、降ろされたボスの落胆した惨めな姿は哀れでもあった。この姿は現代社会でも同じで、例えば政界ボスがその権力を失うと惨めなものであるが、体力に劣る私はそんなボス争いにはとても参加できず、ボスの交代劇を見守るばかりであった。

夏一番の遊びは水泳であり、親や家人が昼寝している2時間に、近くの田布施川に走って遊び呆けて過ごした、当時は水泳パンツなど無く、大人も子供もフンドシであった。これはなかなか風通しもよく快適で、夏の田舎ではフンドシ1枚の素っ裸で村の銀座にでかける外出着にもなったから、考えてみれば南洋の土人と殆ど変わらなかったといえる。また薄いタオルや布切れで簡単にできるものだから、学生時代の私も愛用したものだった。

水泳中の子供を狙ってキャンディー売りが自転車をチリンチンと鳴らしながらやってくる。裕福な子どもは5円の小豆カクテル、我々は3円の透明アイスキャンデーで、いずれもサッカリン味であったが、その美味さは忘れられず、子ども心にも将来の職業はアイスキャンディ屋だと私は心に決めていた。

小学校高学年か中学生時に夏の臨海学校があり、10キロ以上離れた麻里府小学校の教室を宿舎として3−4日の屋外活動を楽しんだ、最終日には恐怖の遠泳行事があり、対岸の島まで泳いで往復する大冒険であったが今考えると忘れられない思い出である。秋の八幡様の祭りはずらりと並んだ出店回りと、境内で行う素人演芸会が見ものであった。 時折近隣のガキ大将連中が互いに小競り合いやケンカをしたが、我々ヤジ馬には演芸会以上の本物勝負で興奮したものだ。

冬の最大行事はやはり正月休みだが、大人は柳井へ映画鑑賞に行ったが、子ども達は小学校の大講堂で開催される農産物の品評会見物がなかなか面白かった。それぞれ農家がその年に得られた自慢の農産物を展示して腕を競いあう舞台であり、私も将来は参加したいと思っていた。

食料不足の終戦直後も、農家は食べ物には困らなかったが、今日と全く同じ現金収入に乏しい慢性金欠病であった。我が家も同様で、子どもの小遣い、学校への納入金、更には特別な出費があるとヤミ米販売が唯一の現金収入であった。私も精米済みのお米をボロ自転車に積んで、よろよろしながら田布施駅近くの片隅に運んでヤミ業者に渡したことが何回もあった。 今の自主流通米と違って、当時のヤミ米は非常に貴重で高く売れたものだった。兎に角、確実に言えるのは、万事が忙しい今日と違って時間がのんびりと流れた時代であった。


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2010年06月02日

100602, 昔の思い出-1

半世紀前の私の学生時代、ある正月休みに自宅に帰らないで卒論を仕上げようと猛烈な追い込み作業に熱中したことがあったが、コンビニが年中無休の便利な今日とは違って、元旦から3日間は全てのお店や食堂が閉まってメシが殆ど食べられなかった苦い思い出がある。私の育ったひと昔前の生活を気付くままにメモした。

いまNHKの坂本竜馬伝で、土佐の坂本家の家族が食事をするとき、各人が別々の小さなチャブ台で並んで食事をとっている。これは私が育った昔と似ている。我が家は田舎なので、父親だけが別のチャブ台、残り家族は一緒に大きな食卓で夕食をとっていた。今日では父親は家族の一員として会話やコミュニケーションに加わるが、私は母親や兄弟姉妹とは頻繁に話したが、父親とは親しい会話を交わした記憶が殆どない。
別に我が家の父親に権威があった訳ではないがとても恐ろしい存在であった。それを反面教師として、私は子育てで家族との家庭内の自由な会話には特に留意してきた。

昔の子供は家事の雑用が多く、夕方は水汲みと風呂焚きが毎日の日課であった。特に深い井戸からツルベで水を汲み上げ、10m離れた五右衛門風呂に水を運ぶのは結構な重労働であった。そして山から集めた枯れ葉や雑木を1時間程度燃やして風呂を沸かした。入浴する順番は大抵父親、長男、次男、私、女姉妹の順で、母親は最後だったと思うが定かでない部分もある。母は朝早くから田畑に出かけて、日が暮れてから帰り、夕食支度をするのだから、毎日殆ど似たようなものばかりであったが、それでも空き腹にはおいしい夕食であった。夜は蚊帳釣りの中の布団で雑魚寝だが、兄弟同士で戯れるのは楽しかった。しかし暴れ過ぎて蚊が中に入るともう大変で、そいつを見つけて追いかけ捕まえるのが大騒ぎであった。今アフリカでは日本の蚊帳がマラリア予防に大変役立っていると聞いたことがあるが、夏の熟睡に蚊帳は不可欠であった。

田舎は年に数回のお祭りがあるが、その時は決まって餅ツキを行った。
特にアンコ入りモチは大好きだった。お盆や正月などはニワトリを絞めてご馳走に花を添えたものだ。初めて田舎から出て大学に入って気づいた事実に、夏も靴下を履くと知って驚いた。靴下は寒いから履くものだと信じ切っていたから。我が田舎には電気は通じていたが、冷蔵庫などは皆無、従って夏のスイカ冷やしは井戸にブラ下げて1日おくと結構冷たく美味しくなった。

車が普及した今なら数十キロ離れた遠い親戚に行くのも30分か1時間以内だが、昔は1日仕事だった。我が家にあった1台の古自転車に兄弟を乗せて、城南村から高水村の親戚に柿取りに行くのは本当に重労働であったが結構楽しくもあった。

極端な実話で恐縮だが、我が家の隣にSさん宅があり、同じ年代の兄弟が4人いた、寒い冬の朝の登校のとき、我が家の焚火で暖まると、彼らのズボンから湯気がもうもうと上がるのを不思議に思ってみていた。 後で分かったが、年中を通学衣服のままで暮らすから、夜中にオネショして濡れたままのズボンが登校時の焚火で湯気が立ち上るのだった。我が家はかなり違ったが、終戦後の物資にない時代の田舎生活は信じられないようなレベルであった。




mh3944 at 10:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)