2011年03月

2011年03月29日

110329,目を見張る惨状

古稀を過ぎた私が生きている間に、このような悲劇を見るとは思わなかった。東京大空襲にも匹敵する大惨事だ。原発暴走の抑え込み努力が続いているが、既に2号炉の格納容器の一部が壊れて、強い放射線が外部に漏れ出しているそうだ。何とかこの漏洩を抑え込んで解決しないと、日本地図から東北三県が消え去ってしまうことになる。日本の危機管理能力を発揮してほしいと切に願っている次第。

それにしても今回の津波災害は本当に痛ましい限りだ。先日も66才の男性が雪を被った妻と母親の亡きがらを前にして泣き崩れていた。倒れた家屋の下敷きで引き出せず、救助隊を待っているのだが、超多忙でなかなか順番が回らず、毎朝遺体の前に来て毛布をかけて、嘆き悲しんでいるのだそうだ。本当に地獄絵だ。同様に可愛い孫の写真を片手に遺体を尋ね回っている祖父母もいた 更には、行方不明になった幼児を見つけ出して母親の遺体に抱かせて葬りたいと、愛児の亡きがらを探し求めている若い父親の姿もあった。地獄とは正にこのことを言うのだろう。

しかしテレビに映る画面は避難所も病院にも、老人や高齢者の姿が多いことに驚く。避難所で朝から夕方まで寝たままで過ごす年寄達や、介護老人を何人かが力を合わせてクルマに乗せている。殆どの老人達は意思表示もせず、謝意も示さず、なすがままに身を任せているようだ。不遜極まりないと非難されるのは承知で言えば、救出の順番が間違がっているのでは?と私は思う。これら人生の終末期の老人達は、仮に救出されても意味ある余生がある訳ではなかろう。このような時間を争う状況では、先ず救出されるべきは子供達であり、人生の峠を越えた老人たちは後でも仕方ないと思う。これからの日本を背負う子供達を1名でも多く救い出すべきだと私は思っている、猛烈に非難されるだろうからこれ以上の言及は避けるが、自分より子供達を先に、という老人がひとりでも居たら本当に嬉しいのだが。

私が電車で大地震に遭い、最寄りの駅で野宿を覚悟した時、頭をよぎったには、タクシーの乗車順は、先ずは子供や幼稚園児が先で、古稀を過ぎた私は、野宿でも十分だと思っていた。従って私はタクシーの行列には並ばず、駅舎でごろ寝の場所を探していた。深く考えた訳ではなく単に人生の峠を越えた自分よりも、将来に夢多い子供達に順番を譲ろうと思っただけだ。
             
頭脳が極度に発達した人間は別としても、一般に動物は、壮年期を過ぎたら、若い仲間に座を譲って、消え去るのを静かに待つと聞いたことがある。 それに比べると、人間は、口をきけない赤ん坊や子供に比べて、口達者な高齢者が大口をたたき続け、やれ年金を増やせ!介護の充実を!とわがままを叫び過ぎる。我々老人はもっともっと謙虚であるべきだと私は思う。

遅かれ早かれ、人間は誰でも必ず死んでしまうが、その時一番大事なことは、屈辱を感じることなく、尊厳を汚さずに、静かに最期をむかえられることだろう。1日でも長く生きることではないと思う。私の義母は軍人家系の出身でプライドも高く、私と衝突したことが何度もあったが、いつも自然な死を強く望み、事実、介護サービスには全くお世話にならなかった。卒寿を過ぎた1昨年のある日、元気で夕食中に突然倒れて救急車で運ばれてそのまま亡くなった。後日残された彼女の書類箱から、自分は尊厳死を強く望み、人工的な延命処置は絶対に避けるよう厳命した達筆なメモが見つかった。人は誰でも長生きを望むが、私自身も、屈辱にまみれて生きながらえることは絶対に避けたい。

石巻市の大川小学校では、大津波が襲来すると聞いて、100人以上の子供たちを校庭に集めて点呼をとっている間に、津波に襲われて、殆どの児童が溺死したというニュースを聞いた。何とも哀れな話だ。迫りくる危険を予知せずマニュアルに従って点呼をとっていたバカ先生達は厳罰に値すると思う。 別の幼稚園では、用務員さんが、遠くの水平線上に見えた津波の大きさに驚き 庭に集合していた園児達を急いで裏山に追い上げて全員が助かったという嬉しい話も聞いた。直前に襲った地震の大きさと、鳴り続ける津波警報を聞けば、窓から遠景を覗いて差し迫った危険性を察知すべき立場なのに、大川小学校の先生の怠惰な考えは、多くの未来ある子供達の命を奪ってしまった、本当に悔しい限りだ。

確かに今回は1000年来とも言われる大地震と大津波の襲来で、東電は想定の範囲外だったと言う。 誰が勝手に決めた想定だか知らないが、それにしても各原発に2重に設置されていたという緊急発電用のディーゼルエンジンが、全く機能しなかったことが、その後に続く恐怖の放射能被害を引き起こした。 これら地下に設置された非常用発電機は、津波の一撃で簡単に水没して動かなくなったという。場所的に限られた都会ならいざ知らず、広大な松林に囲まれた敷地で、しかも必ず津波で水没する地下室に、緊急用発電機を設置すること自体に、誰も疑問を感じなかったのだろうか? 
新聞情報だが、東電原発の津波対策は10mを想定して徹底的に破壊されたが、近くの東北電力の女川原発は15mを想定して無事だったそうだ。何とも間抜けたバカ東電の津波対策で、菅首相が腐り切った東電の官僚的組織に怒り狂うのも分かるような気がする。

それにしても、被害を免れた子供達が避難所ではしゃぐ姿をみると思わず心が和む。大災害など知らん顔で早足に追い越して行くカップルの姿も、何だか頼もしく見え始めた。今回の大災害で打ちのめされた日本を立て直すには、嘆き悲しみに打ちひしがれた我々老人ではなく、彼ら次世代の若者達に頼る以外にないのだから。


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2011年03月23日

110323, 恐怖の大災害が起きた

何とも恐ろしい大災害だった。これが津波なのかとまじまじと見つめた。続いての10日間は原発が暴走するのではないかと心配の連続でテレビにかじりついていた。 数万人が溺死し行方不明になった悲惨さも忘れる程の恐怖で、暴発寸前の原発の恐ろしさを世界中が見守っていた。続々と帰国し始める外国人のニュースを聞くと事態の重大さを改めて教えられ、我々日本人はここ以外に逃げ出す場所はないのだと思った。自分の人生でこれだけの大事件を目の当たりにするとは思ってもみなかった悲惨な出来事であった。

大地震が起こった3/11(金) の午後2:46, 私は京葉線電車に乗っていた。西船橋を出て突然車体がガタガタガタと大きく横揺れして急ブレーキがかかった。殆ど脱線する寸前で電車は止った。地震だと分かった。直ぐに車内の電源が切れて車内放送が通じなくなり、車掌が通路を運転席へ走った。 慌てた乗客は各自携帯をかけ始めたが殆ど通じない。しかしドコモは少し通じるらしく、若い女性が急に泣き声を上げて、いま電車の中なのよ!と携帯に叫んでいた。大人の女性が恐怖で泣くのを見たのは初めてだ。窓から見える外の景色は殆ど変わりなく、近くのマンションから主婦が高架上に止った我々の電車をじっと見つめ、道路のクルマが何事もなかったように走っていた。

30-40分経ってから、電車は動かないので線路を船橋法典駅へ歩いて下さい、と車掌が大声で案内して来た。昼間のことで混雑も少なく、順番に電車から線路に降り、石ころだらけの線路上をトボトボ歩き始めた。流石ハイヒールの若い女性は困りきっていたが、平底靴の人も多く30分ほど歩いて駅についた。有馬記念競馬で有名な船橋法典だが、小さな駅舎だった。お客は300名前後いたが、皆これからどうしたものかと思案している様だ。

暫くして駅員が、今日は終電まで電車は動かないので、各自ご自分で帰宅して下さいとアナウンスして回り始めた。自分で帰れと言われてもタクシーが3台の小さな田舎駅だ。機先を制して先頭に並んだ乗客達が一人づつ乗ったが、遠方まで行くらしく、タクシーはなかなかは帰ってこない。音声の出ない駅のテレビが、スローモーション映画のように大津波の襲来を放映し始め、巨大津波の実態を始めて知った。ケチな私は、今夜はこの駅で野宿でもしようかと思い始めた。駅構内での野宿は平気で、明日朝の一番の電車で帰れば出費もゼロだとその時は軽く考えていた。 

駅構内には20名近い幼稚園児を3人の先生が面倒をみていたが、これからどうするのだろうと、人ごとながら心配だった。既に人生の峠を越えた私は野宿でも、または仮に悲惨な目にあっても仕方ないが、これから大きな花が開く子供達は無事に帰してやりたいと思った。しかし暫くする内に、幼稚園児たちは居なくなっていた。多分迎えのクルマが来たのだろう。よかった。

夕方6時頃を過ぎると辺りが暗くなった、相変わらず長い行列が滅多に来ないタクシーを待ち続けている。こちらは野宿覚悟だから平気だ。しかし明朝迄まだ10時間以上あり結構長いなあ!とも思っていた。当夜はかなり寒かったが駅構内に温かそうな片隅でも見つけて寝ようと思うと、何だかホームレスの気持が分かるような気にもなった。夜8時過ぎになると駅員がやってきて、駅の総点検をするので全員構内から出て下さい、とアナウンスを始めた。これはまずい、この寒空で路上に放り出されたら、カゼを引きそうだ。何とか帰宅しようとやっと本気で思い始めた。タクシーの行列はかなり短くはなっていたが、まだ20人程度が並んでいた。私は列の最後尾に並んだが、自分の順番が来るのは夜明けになるかも知れないと思った。

やっと1台のタクシーがやってきて、若い女性が一人乗り込んだ。滅多に来ないタクシーに、一人乗りは勿体ないと思った私は、どこまで行くの?と大声で叫ぶと、隣り駅です!(市川大野)だという。私も乗せて!と叫んでタクシーに飛び込むと、続いて行列の中からパラパラと2名も乗り込んで合計4名となった。みんな他人同士だ。普段ならタクシー運転手は相乗りを断るだろうが、今日は黙って見守っている。そして見知らぬ他人同士の4名を乗せたタクシーは走り始めた。

市川大野駅についた時、メーターは1,200円を指していたが、運転手は1,000円ですと言った。え!、私は理由が分からなかったが、残った3人を乗せて今度は南柏に向かった。メーターが6,000円を超えた時、2人の客が降りますというと、運転手は二人から各々4,000円づつを受け取った。そして一人残った私を乗せて、今度は我孫子に向かうことになった、メーターを元に戻さないの?と私が聞くと、非常時にそんな馬鹿な運転手はいませんよ!と大声で反駁された。やっと私は料金徴収方法が分かり始めた。

周囲が見慣れた風景になって夜中12時過ぎ、私は自宅に着いた。メーターは10,000円を少し超えていたが7,000円です! と言われた。完全に理解した。10,000円のメーター表示に対し合計1,000+4,000+4,000+7,000 =16,000円を運転手は受け取ったのだ。超過分は彼の個人所得なのだろう。

違法には違いないが、当方も見知らぬ4人が相乗りで無事に帰宅できた手前、文句を言う気はなかった。息子に話すと、それでも良心的な運転手だよ!との意見だった。待っていた家内が早口で話し続ける津波の惨状を聞きながら、テレビに映し出される恐怖の大津波を、私は息をこらして見つめていた。関東圏の電車は全て止ったので、殆どの学生や会社員は徒歩で帰るか会社泊りになったのだろう。こうして世界を恐怖に陥し入れた巨大津波と原発暴走の危機が始まった。


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2011年03月07日

110307, 上司と部下の関係2


私が米国との合弁会社の設立から社員60名の中堅企業に成長させる迄、社長として働いた10年間も、忘れられない多くの出来事や失敗があった。今回は上司の立場で、部下との関係に苦しんだ諸事件を振り返ってみる。

まず初めはC社の設立だった。最初は新入女性のAさんを説得して諸事務担当とし、社長1+社員1の最小組織からスタートした。新人Aさんが、海のものとも山のものとも分からない私のC社に承知で入社してくれたのは嬉しかった。
                  
続いて輸入販売の準備だが、商品が医薬診断薬なので、厚生省の面倒な認可が必要となったが、その申請手続きが分からず、外部に委託を見積もると1品目500万円という法外な金額を吹きかけられた。これは不可能と, 私は厚生省申請の経験者のスカウトに方針を切り替え、試行錯誤を重ねて1年後にやっと不妊関係診断薬5品目の書類を作り上げ、厚生省に提出した時は、目的を半ば達成したような感覚になった。素人の我々には試行錯誤の連続であったが、経験者にはデータさえ揃えば簡単な書類作成であった。特に女性経験者は素晴らしく効率的に能力を発揮できる分野だ。

次は営業体制の整備。ドクターに医薬品を直接販売する業態はインキ専業の親会社とは世界が違う分野であり、外部から人材をスカウトした。当時は転職が盛んな時代で、人材紹介会社に頼ったが、紹介される人材は玉石混合であった。米国Z会長よりMarketing担当者を採るよう再三要請されたが、私がMarketingの認識が薄く、営業部長の業務の一部程度に考えて、Z会長と何度も衝突した。Z会長は正規Marketing大学を終了した高級人材を要求したが、日本の親会社も、英語に堪能なら使える筈だという程度の認識でT君を押しつけてきた。T君は米国ロス駐在が長く、英会話堪能、交渉術と裏技を信条にしてサラリーマン社会を生き抜いてきた策士タイプだが、長い米国生活を終えて帰国するにも、国内の何処の部署も引き受けず、結局新設の日米合弁会社なら、英話力が生かせる筈だと言う本社首脳の判断だった。

入社するとT君は早速活発に動き始め、特に社内でオルグ活動を始めたが、余りにも異質で露骨なやり方が、営業部員から総スカンクを食い、逆に部員に追い出される羽目になった。 このような社内の人間関係構築を重視する、廊下トンビ族が親会社D社には多いが、社業も長期に停滞からなかなか抜け切れず、今日では長期の株価低迷に落ち込んでいる。 競争が激しい現代では、このような社内外交専門の人種が跋扈する企業が成長出来る訳がない時代になった。多分、彼らは天賦の能力と話術に自惚れて、激しく変動する業界と戦う心構えがないからであろう。孔子の巧言令色少仁という言葉の意味を改めて実感させられた時でもあった。

やっと揃い始めたスカウト人材のなかには、A君など比較的Marketing的な考えをもっている人物もいたが、兎に角玉石混交であった。 私は
彼等の疎外感や不安な心情に配慮して、営業成果をボーナスに大きく反映させる方式を採用した。しかし彼ら全員が親会社D社に本籍をおく出向形式をとったので、D社の低い賃金レベルからの大幅な離脱は本社人事部が許さず、逆に営業部員には不満が残る結果だった。
                 
退社したT部長に代わってプロの営業マンとして採用したY部長を同伴してロスのZ会長に面談したが、先方の評価は散々であった。Y部長も米国側の低い評価を察知して、わが社で長く生き延びる事は難しい直感し、徐々に営業部員等と談合して、移籍計画を練り始めていたのに私は暫く気付かなかった。そして感染試薬専門のフランス系B社の日本進出を契機に、営業部員の半数を伴って集団退社してしまった。営業部員が集団脱退したのは打撃であったが、特にスカウト人材の多い我社の内部が動揺し始めたのは困惑した。戦で敗れるのは、敵方の攻撃よりも、内部の意気喪失が主な原因だと聞いたことがあるが、正しく真実だと恐怖に感じた。

営業部員が半減してその人材を補う迄1年以上が経過したが、その間、わが社の営業実績への影響は皆無で、売上は順調に伸び続けた。その時初めて私は、当社の商品が営業力で売れているのではなく、商品そのものの優位性で売れていることを知った。逆に他社との同等性能品は殆ど販売能力がなかったのだ。B社に移ったグループはその後、更に離合集散を繰り返して四散し、リーダーのY君はいま無職だと聞いている。

一般に医薬販売は、昔はルノアール営業と言われ、1日の殆どを喫茶店ルノアールで過ごし、朝夕の病院ドクターに短い暇ができる時を狙って、病院で立ち話し商談するという異様な販売形態であり、営業部員のモラールや規律保持は難しい世界であった。そして多くのスカウト人材を取り入れたわが社も、その悪弊も同時に輸入されていた。東京から隔離した大坂営業部で典型的な事件が起きた。

成果の出ない大坂営業部には、N部長以下4名をつぎ込んでいたが、彼等は、仕事は片手間で仲間同志が内密に打ち合わせて、ドクター接待と称して自分達だけでゴルフを享楽し、手土産まで持ち帰えるインチキ接待を長い間繰り返していたのだった。大坂駐在のN部長はゴルフには参加していなかったが、知らない筈はなかった。
           
事実が露呈した時点で、私は実行首謀者を即時解雇したが、その実情を知っていた他の部員や管理職も、私に知らせなかったことは本当に悲しかった。やはり日本のサラリーマン社会では、社員との意思疎通は焼き鳥屋やお酒の交遊が不可欠であり、酒の飲めない私は自分の下戸を嘆いた。しかし昔の中小の医薬品会社は、似たようなインチキが横行していたようだ。私は裸の王様で社員との意思疎通能力の不足を恥じた事件でもあった。

しかし技術部門は違った。N部長K課長以下、若手の優秀な人材に恵まれて本当に大活躍した。私も一応は技術出身だがバイオ技術の知識とは無縁だったが、20名近い技術部隊は生き生きとに働き、次々と成果も生み出した。

私がこの合弁会社を始めた時は、この新規事業の軌道乗せは殆ど困難で、遠くない将来、私も立ち枯れて消え去るだろうという周囲の目を感じ、私も恐れていたが、技術部門の献身的な働きのお蔭で、軌道乗せに成功したことを関係者一同に感謝しても余りあることだった。米国Z会長が主張する、技術部は不要、Marketing +営業部員だけで十分だとの厳命を守っていたら、私は大失敗に終わったであろうと確信している。  

しかし診断薬業界に大きな時代の荒波が襲ってきた。 検査機器の自動化だった。何とか避けようと苦慮したが米国Z会長の強力な圧力もあり、我社は1台5百万円-1千万円の高額な自働機器を米国から20-30台購入して、病院に無償設置することを強いられ、財力の弱い我が社には莫大な負担となった。

更にメカに習熟した人材が不在で困り果てた。やっと大手濾紙会社の若手メカ技術者T君と接触でき、彼をスカウトしたが、相手側社長との大ケンカに発展した。しかしT君の活躍は、研究部門のK君と並んで我が社の軌道乗せに絶大な貢献を果たした。K君T君とめぐり合うことがなかったら、周囲の予想通り、私は未経験の業界に参入して大失敗したと、業界の嘲笑を浴びたと思う。やはり少数でも核となる優秀な人材の確保はどんな事業にも必須の条件だ。      
               
もう一つの問題があった。業務担当のS部長だった。高卒だが見掛け端正でゴルフ上手、女性にもてるやさ男だったが、致命的な欠点は彼に実務能力が皆無で、机に座って小さな業務部門を監督するだけの男だった。直ぐに彼は事務能力に優れたU君を連れてきた。U君も高卒であったが暗く陰険な性格持ち主だった。 

私が退職して暫く経ったある日、たまたま私はS部長から誘われてU君同席で食事を
始めた途端、直ぐにU君が大声で私に激しく噛みつき始めた。彼の意見は、その昔、私がメカ担当のT君を重用し過ぎるので、U君が私に何かアドバイスしたらしいが、私は経理屋は社内から簡単に採れるが、メカ人材のスカウトは至難でT君は非常に貴重な人材なのだと、彼に答えたらしい。それをU君はひどく恨み、いつの日か私に反撃する機会を狙っていたらしく、私が会社を辞めて上下関係がなくなった途端に、私に昔の恨みをぶちまけたのだった。   
                  
私は自分の発言は記憶していないが、メカ技術者の重要性は信じているので、多分彼のいう通り、経理屋より機械屋の重要性を強調したのだろう。しかし考えてみれば、これはその昔私が、上司のH常務から転勤命令書に捺印拒否をされた事件と反対で、今度は私が恨みを買ったケースだった。 U君にはもっと丁寧に説明したほうがよかったし、彼の心を傷つけたことは少々後悔するが、メカ技術者T君は、我が社に絶大な貢献を果たした貴重な人材であり、私のスカウト苦労を正直に表現した発言だったのだ。しかし不十分な意思疎通は大きな誤解と永い怨念を残すことになるのを実感した事件であった。 

わが社は社員60名、1/3以上は若い女性であり結構楽しく、社内結婚もあったが、やはり女性達の間には嫉妬やねたみの争いがあった。例えば総務担当S嬢はボス的存在で、新入の薬事担当Mさんをかなり苛めていたようだ。私が退職して直ぐに、Mさんが日本橋に私を訪ねて泣きながら訴えたことから初めて実情を知った。S嬢がグループでMさんを無視して口をきかずシカトし続けるが、その理由がMさんには心当たりがなく、退職せざるを得ない心境なのだという。

私は直感でその原因が分かった。年増のS嬢は同僚との社内不倫に悩み苦しんでいるのに、若いMさんは結婚して幸せな家庭と子供に恵まれているのを恨んでいるのだと思った。私はMさんに私の想像を話した。途端にMさんは一転して晴れ晴れとした顔付きになり、元気いっぱいで帰っていった。 私の想像は多分間違っていないと思うが、女性の深刻な悩みも、案外短いアドバイスで完治してしまう女性心理の機微も知らされた。

一言で言えば、私は合弁会社社長の10年間、思い残すことのない充実した年月であった。先日のサッカーアジアカップでザッケロール監督は、チーム員をよく知らないので、全員をピッチに立たせるべく配慮したそうだ。その結果、香川の素晴らしい働き、長友の好アシスト、李忠成の超ファインプレイ、川島の奇蹟的なゴールセーブなどを次々生み出し、見事に日本チームを優勝に導いた。企業経営も同じことで、社員の心情に配慮しながら、しかも適材適所に配置して、各人の能力をフルに発揮させる環境作りの重要性を学んだ。ただ豊富な経験を積んだ頃には、」私の残り時間も少なくなり、人生はなかなかうまく行かない。


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2011年03月01日

110301 上司と部下の関係1

多くのサラリーマン諸兄と同様に、私も長い会社生活で、色々な上司に仕えてきた。多くは日本人上司だが、米国人にも10年間仕えた。そして上司の立場と、部下の受け取りの違い痛感したこともあり、その例をいつくかPick-Upしてみた。

新人社員として仕えたK課長は悪辣だった。何しろ会社の3悪人とか言われた人物で、無茶苦茶なパワハラ、部下を人間扱いしない人物だった。正月明けの初日、K課長に挨拶すると、今年の方針は?と聞かれたので、ハイ!体に気をつけて頑張ります!と答えた途端 烈火のごとく怒り始めて大いに面食らった。朝の始業式典そっちのけで、1時間以上怒鳴り続けた。後になって良く考えると多分、私は昨年働き過ぎたが今年は健康に注意しながら働きますと、曲解したのだろうと分かった。この事件が大きな契機となって、K課長に対する私の感情は変り始めた。上司の許可なく私が夜間大学に通い始めたのも、事前に相談すると反対するのは明白だと知っていたから。その後数年間K課長の下で働いたが、私の心が晴れやかに開くことは少なくなった。

何年か経過して、次に仕えたH部長も3悪人の一人だった。工場勤務の私が本社の懸賞論文に応募して優等賞を獲得したのが気に食わなかったのだ。論文を書く余裕があるなら、もっと仕事に精を出せということだろう。この論文が契機となって、半年後に私は本社から本社企画部への転勤命令を受けたが、これが更にH部長の癇に障った。本社に行って何をするのか?と私に詰問し、転勤命令書に捺印を拒否した。頭超しに部下の人事異動が決まったことを怒ったのだ。住民票の転居手続きを済ませ、家族の荷物も発送して、同僚に挨拶して晴れて東京へ出発する当日まで、私の上司は転勤命令書にサインしなかった。
 
上司の転勤命令ナシでは流石に私も出発できず、呆れた家族に話して1日延期した。困惑した私は労務課長O氏に相談して代理サインを貰ってやっと翌日出発するという何とも哀れな門出だった。部長のイジワルの原因は、懸賞論文が尾を引いているのは明らかだった。H部長の承諾なしに論文を投稿して表彰され、本社栄転となったことが許せないのだ。論文は本社人事部に直送せよとの指示に従って、私は郵送したのだったが。

仮に私がH部長に事前相談すると、ケチを付けて、多分期限内の投稿を諦めさせる心配を私は感じていた。もし信頼関係にあったら間違いなく私は原稿を見せたであろうし、その結果H部長の面目も立った筈だが。転勤命令書の拒否は些細な事件としてH部長はとっくに忘れているであろうが、10年後に再びH部長と一緒に働くことになる私には、消え難い屈辱として心の奥底に残る傷であった。

本社企画部の常務の昇進したH氏の元で、再び私は企画課長として働くことになった。H常務は生理活性物質の企業化というテーマをブチ上げて我々部員を叱咤激励した。しかし提案されたテーマはチマチマした小型案件ばかりだった。生理活性物質には種類が数百以上あり、私はそのような物質群を纏めて製造販売する米国企業との合弁事業を考えた。多数の欧米企業に手紙を出して日本で企業化を打診したが、既に殆どは日本に提携先をもっていた。しかし米国ロスのDPC社から、対等な合弁事業なら進めてもよいとの返事を受け、内心小躍りして喜んだ。しかし問題はその具体化の方策だった。下手にH常務に相談すると、部下殺しで有名な彼の本性から考えて、たちまち私から取り上げるのは確実だろうと疑った。将来もし私の手元に返ってくる時があれば、それは計画が失敗して責任者探しの時以外にないと私は予感した。

従って、私は計画の概要を先にK社長に話した後,初めて上司のH常務に説明した。昨日偶然に社長に出会い、何をしているか聞かれたので、本件概要を簡単に話しましたと、さりげなく伝えておいた。即ちH常務が私からテーマを簡単に取り上げる道を閉ざした。そして数ケ月が経ち、K社長が米国に出張した帰路、ロスのDPC社に立ち寄り、先方Z会長と意気投合して、一挙に本件計画が動きだした。もうH常務の出番は無かった。 もし部下の努力を素直に評価する上司なら、私はきっとH常務を前面に立て、計画を具体化したと思うが、昔の転勤命令にサインを拒否されて以来、私はH常務を心底から信頼する気持はなかった。転勤命令拒否はH氏にとって小さな悪戯だったが、私には大きなトラウマとして、簡単には消えない心の古傷であった。    

何年か経過して私が海外企画部長の時代、三菱銀行部長のO氏が常務として天下りしてきたが、この期間は本当につらい毎日の連続だった。銀行マンだけに、人当たりや言葉使いは丁寧だ、理系技術屋は虫けら扱い、文系社員の支え役で、縁の下は当然だという本性が露骨に感じられ、本気で仕事をする気になれない数年間だった。政府外郭団体や、独立行政法人には、今年も中央官庁から4000人が天下りしたそうだが、そこで働くプロパー社員の意気消沈は同情に値すると私は思う次第。
           
私が米国DPC社の日本支社長としてZ会長に10年間仕えた時も面白かった。日本支社の役割は米国製品を輸入販売することだと、米国会長から命令を受けていたが、技術屋の私は単なる輸入代理店は好きではなかった。後発企業として日本市場に強力に参入するには、技術開発陣が不可欠だと信じていた。幸い優秀な若手技術者の参加を得て小規模な開発グループを組織し、次々と新製品を上場できたのは本当に有難かった。典型的な例として、免疫一辺倒の診断薬業界に遺伝子組換え技術を導入できた。これには米国Z会長も驚愕して、我々日本子会社の実力と貢献を認め始めた。しかし米国を含む世界に本件特許を申請したことで問題が起きた。

日本子会社が親会社の米国市場に特許を申請するとは何事かと、Z会長は烈火のごとく怒った。確かに米国親会社に事前相談をしなかったのは事実だが、特許出願とは一刻一秒を争うので、米国親会社に長々と相談して致命的な時間のロスが生じること恐れ、出願を急いだのだったが。        
          
更に本件は日本側の単独技術で開発したにも拘わらず、米国はRoyaltyを支払えと要求してきた。私は米国Z会長と終日の激論を繰り広げた。その時私は、怒り狂ったZ会長の眼差しを見ながら、日本支社長を追われる日が近いと予感し始めた。

私は下手な英語だったが、思いの全てをぶちまけた論争だったので、無念さは残らなかった。私の英語はストレート過ぎて、few(殆どない)や a few(少ししかない)などの使い分けも不完全で、相手の立場を気遣った丁寧な表現が出来ていない悔しさは感じた。また左遷とか降格とかは、一寸した事件が計契機で事実上決まってしまう恐ろしさも実感した次第。

次回は、私が上司として働く間に起こった色々な失敗談や事件を顧みてみたい。




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