2012年02月
2012年02月24日
120224 新幹線の生みの親
新幹線でビジネスが本当に楽になった。まだ昭和38年頃、私がDIC尼崎工場の組合書記長をやっていた頃は、東京で開く中央執行委員会には、前日夜行で上京し、早朝に東京駅に着いて、今は撤去された八重洲駅口地下の大浴場に入り、寝不足を解消して、委員会に出席したが、今日では早朝に新大阪を出発すれば、午前中の東京の会議に参加できる時代になった。世界中が日本を真似て超高速鉄道を建設し、中国に至っては世界各国から技術と車両を導入して、世界最大の超高速鉄道網大国になろうとしている。
この新幹線は昭和39年10月東京オリンピック開催に合わせて開業した。当初は時速100キロの東京-大阪6時間弾丸列車計画で企画され、昭和28年に時速200キロ4時間半の広軌計画に拡大されたが、世界的な自動車の普及による鉄道斜陽論で反対も根強く、十河国鉄総裁は強硬な反対論の矢面に立たされ続けた。同じく技術陣トップの島秀雄技師長は、世界で初めての超高速広軌鉄道と新型車両の技術開発に明け暮れ、遂に時速256キロを達成して東京-大阪3時間半計画の目処をつけることに成功した。
しかし2年前に発生した三河島駅大事故の責任を問われた総裁と技師長は辞任を強いられ、昭和39年10月1日の新幹線開業式典には招待されなかった。島元技師長は品川近くの自宅ベランダから新幹線始発電車を無念の思いで静かに見守ったそうだ。中国では最初に井戸を掘った人の苦労を忘るなかれという格言があり、例えば田中角栄が反対を押し切って日中国交の道を開いたことを中国首脳は終生大事にし続けた。お国柄は違うと言えばそれまでだが、日本では最初に井戸を掘った人の苦労は簡単に忘れてしまう習性がある。
同様に消費税率もある。誰もその税率10%Upの必要性は認めながらも、小沢元代表などは政局に悪用して、自己の影響力維持に増税反対を発言し続けているが、最初に3%消費税を導入した竹下首相と宮沢大蔵大臣の並大抵ではなかった苦闘を忘れてならない。
似にたような出来事は長い人生には色々あり、周囲の無視や反対を押し切って始めた事業が、失敗すると責任者は厳しく後々まで声高く非難され続けるが、成功すると途端に最初に井戸を掘った人の苦労は忘却の彼方へ押しやられるのは、日本の国民性でもある。私も似たような扱いに遭って悔し涙を流した思い出がある。
最初は新卒入社早々のこと、塩ビの新しい添加剤として経済性に富む塩素系可塑剤の技術開発を命じられた私は、責任者となって部下2名とその技術開発と製造プラント建設の基礎データ収集に寝食を忘れて取り組んだ。特に塩化反応を終わった後の粘凋な生成物から不純物HCLを取り除く洗浄工程は困難を極め、その水洗と乾燥工程の見通しが立たず大変苦労したが、水洗いではなく、空気を吹き込んでHCLを吹き飛ばすドライ法開発の幸運に恵まれて開発が成功し、当時で数億円のピカピカ新プラントを尼崎第二工場を建設できた。
東京本社から社長以下お偉い役員達が尼崎に来訪して操業式典が行われた。しかし驚いた事にこの操業式典の列席者に開発責任者の私がリストアップされていないことを当日朝に知った。この製品開発を全て取り仕切った実質上の責任者の私が呼ばれないとは驚愕の至りだった。しかしその理由には深い意味はなく、大卒3年目程度の新人が出席する場ではないと総務担当者が勝手に判断したらしいが、私にとっては憤怒の極りであった。既に半世紀前の話だが、定年退職した今日でも忘れることができない悔しく懐かしい思い出である。
同様な例は他にもあり,例えば超高耐熱性樹脂Polyphenylen-Sulfide PPSの導入がある。工場勤務8年で私は東京本社の企画課長の辞令を受けた。当時私の上司のH技術部長は、頭越しに社長決済で出た部下の栄転人事に怒り、私が住居を尼崎から東京へ移動する転出許可証の捺印を拒否して泣かされたが、大島総務部長の計らいで何とか無事に尼崎を脱出できた。
新しく東京本社の樹脂企画課長に着任し、3−4人の小さな所帯であったが便利屋企画から脱皮して、本格的な事業企画への転向を目指し、私と部下の鈴木三郎、桜井道子は懸命に頑張った。現業部隊を持たない企画課として欧米企業との技術提携を目標に、部下の鈴木三郎と英文雑誌Chem.Eng.NewsにPhillips-Petroleum社の超高耐熱性樹脂PPSの開発成功のニュ-スを見つけ、港区大門のPhillips社に飛び込み、先方の井上さんを説得し、数ケ月後に遂に日本で初めてPPSサンプルを入手し勇んで持ち返り、開発担当のエンプラ部門に持ち込んで共同開発を提案した。
しかし当時の市場開発担当部門は、ナイロンや、ポリアセタール、ポリカボネート樹脂等、既に上市されている製品にしか興味を持たず、PPSの如く海のモノとも山のモノとも分からない実績ゼロの新製品には全く関心を示さず、長い年月を徒労に過ごした。 その後10年近く経過して私が海外企画部長に転属して、やっと彼らはPPSの素晴らしい性能に目覚めその市場開発を開始した。そして25年間の彼らに努力が実り、今日ではDICの最大の新製品に成長している。
しかし取り組みが後れたため独占的な市場占拠を逃して、他社製品と激しく競合しているが、DICの最有力製品であり、誰が最初にその井戸を掘ったかは全く語られないまま、由緒不明で突然天から降ってきた新製品となっている。仮に失敗製品であったら、誰が持ち込んだか徹底的に犯人追求がなされていただろう。
2012年02月15日
120215 プロ棋士とコンピュター
面白いテレビを見た、コンピュターがプロ棋士の最高峰,米永永世棋聖との対決に勝ったというニュースだ。 将棋をやらない私には良くは分からないが、画期的な出来事だそうだ。 先年、コンピュターがチェス世界一に勝ったというニュースが世界中を騒がせたが、将棋はチェスより格段に複雑な世界で、獲得した敵方の駒を自由に使える勝負はチェスとは桁違いに複雑な読みを要し、小宇宙とも呼ばれる複雑高度なゲームなのだという。
相手の出方を読んで自分の手を打つのはチェスも将棋も同じだが、コンピュターは自分が内蔵している過去の全データと比較検討して、次の可能性を計算して点数に表示し、最高の点数を示した差し手を選ぶのだそうだ。人間も似たような手法だが、検討できる程度に限度があり、最終的には自分の直感から有望だと判断した数種類の打ち手を選び出して、その範囲に絞って更に深く読み進めてゆくのだという。
米永棋聖は、コンピュター(ボンクラーズ)との試合に備えて、普通の試合ではまず使わない変則的な作戦で臨んだという。一方コンピュターは過去の日本の有名な試合のデータと逐一照合しながら、試合を進めたという。
7時間の対戦中、初戦から中盤にかけては米永棋聖が有利に戦いを進め、コンピュターは決め手がなく戸惑ったが、電気を流し続ければ疲れることを知らないコンピュターは後半になって勢いを盛り返し、米永棋聖の小さな判断ミスを捕らえて一気に攻勢に転じ、遂に7時間の戦いを勝利に納めたという。
疲労しないコンピュターは、毎回自分が保有するあらゆるデータを照合しながら各場面の可能性を検討して、最も可能性大な手を選んで勝負を進めるが、米永棋聖は時間の経過とともに、段々と疲れ始めて思考の範囲も狭くなり、拠り所の直感も鈍ったらしい。 各人の感情も関係する人の頭脳と、計算一本槍のコンピュターは物事を判断する方法に根本的な違いがあって大変面白く、コンピュターの将来性について色々想像を巡らせた。
まず我々人間が何か複雑な判断を下す時には十分な気力と体力が必要だということだ。相手以上に十分な馬力があれば、読み解く範囲と程度が深まり、多くの可能性を考慮にいれて判断し的確に勝利に近づくことが出来るが、気力が不十分な場合、疲れた頭脳は読み方が浅くなり危険に晒され易い。別の表現をするとリーダーには明晰な頭脳とともに疲れを知らない若さ(馬力)が必要だということにもなる。コンピュターは電流さえ流し続ければ疲れないので、長時間に渡って複雑な判断を要する時は、人は残念ながらコンピュターに敵わないことになりそうだ。
しかし人はコンピュターにない特技を持っている、それは他人と話し合い、新しいアイデアを導入して自分の思考を飛躍させることができることだ。これは判断基準を全て自分の内蔵データの範囲に限定されるコンピュターには不可能なことだ。 この点我々人間は仲間と自由に話し合い、討議することによって新しいアイデアを展開できることを示している。アメリカ等で盛んなベンチャービジネスでも仲間とお茶を飲みながら自由に意見を交換して、新らしいビジネスに辿り着くことがよく知られている。
次にコンピュターと違って人には感情の波に左右されることもある。強烈な感情が加わると、想定以上の創造力を発揮することもあり、機械的に自分の保有するデータの枠に限定されるコンピュタ―にない優位性だろう。
問題は、人の一生は精々長生きしても80年か90年に限られることであり、そこに決定的な限界があるが、コンピュターには機能の老化はあり得ず、絶えず新しい知見を追加して、次世代、3世代、4世代、5世代と世代を重ねる毎に能力を倍増させ自己の判断能力を強化でき、如何なる天才も必ずゼロの赤ん坊からスタートする人間より大いに有利だと思う。
確かに人間も先輩の知識経験を吸収し積み重ねながら成長を高めて文明や技術を発展させてきたが、必ずゼロ誕生からスタートして教育を受け成長する長い前過程を必要とするので、爆発的に増大し続ける人類の知識経験を全て吸収するには長い教育期間を必要とし、遂に遠い将来は教育だけで人の一生が終わってしまうことにもなりそうだ。長いスパンで考えると、やはり人間はコンピュターに追い越されて、フィクションやマンガで活躍する超人的なロボットの世界が段々と現実に近づいてくるかも知れない恐ろしさを感じた。
2012年02月09日
120209 お墓を買った
長い間、思案していたお墓を買った。 一般的な日本の縦型墓石ではなく、広い芝生に平らな墓標を埋め込んだ西洋式の芝生墓地を手賀沼の近くに契約した。
私の故郷山口には両親が眠る墓もあるが、半世紀前に故郷を出て以来、正直言えば余り未練はない。大学を出て、神戸、東京都内、そして千葉県の手賀沼近くに居を構えて既に40年と人生の大半をこの湖畔で過ごしてきたので、やはりこの周辺に愛着がある。近隣の同輩何人かは既に鬼籍に入り、また三途の河原からの招聘状に手をかけている友人もおり、私自身も自分の墓地をどうするか真剣に考え始めていた。
従来の日本の墓は、墓石にXX先祖のお墓とか,,,を刻印した縦型墓石が一般的だが、価格は小型の3百万円から中大型の5百万円以上と結構高く,こんな大金を使っては安らかに眠れそうにないと思っていた。特に高さや豪華さを競う日本式墓石には私は余り好きになれなかった。
近年、川や海に遺骨を撒く自然葬とか樹木の下に骨粉を埋める樹木葬など、子供に負担をかけないで済む経済的な墓地も流行り始めており、例えば東京町田には、小高い丘の中央に桜の木を配した円形の樹木葬墓地を開発して、単価40万円で発売されたところ、大きな人気を呼び次々と広げて、2000区画にまで拡張したという。 平安末期の西行法師の歌のように、願わくは桜のもとにて春死なむ、そのきさらぎの望月の頃、というそのままに、毎年桜の花を愛でながらゆっくり眠れるとの感傷があるの0かも知れない。
この共同墓地は、周囲に埋葬者の名前を刻印した共同銘板も埋めてあり、各人の埋葬地点は分かるようになっているという。このような樹木葬が人気を集めるのは経済的な理由もあり、少子化の進展で先祖伝来の墓地を子供が守る方式が困難になり、次世代に負担をかけないよう、生前に自分の墓地を確保して予約する人も多いという。東京都でも同様な樹木葬の都営霊園を計画中といわれる。
別の方式として、便利な都心のお寺の地下室の納骨堂に祭る方式もあり 妻はこの納骨堂形式に興味をもっていたが、何百という位牌が整然と並んだ地下室は少々薄気味悪く、私には息が詰まりそうな感じだった。郊外に住む妻の知人は巨大な大仏様を中央に配した太規模霊園の一角に自分のお墓を早々と購入したが、ご本人は早く手配し過ぎたと後悔気味らしい、自分のお墓をどうするかなかなか簡単ではないようだ。
私が住む手賀沼周辺は自然豊かな山林や田畑に恵まれ、都心から電車で30-40分程度の近さもあり、300-500基程度の中規模墓地が何ケ所か開発されており、休日のサイクリング途中に、私は何回か見回っていた。しかし詳しく調べると、その開発墓地は法律上お寺が責任者になっているが、実質的には石材業者が全て取り仕切っており、営業担当者もその店員だった。確かにお坊さんが値段交渉に乗り出すのは少々不似合な感もある。
石材業者は墓石1基で百万円単位の加工賃を稼げる日本式墓石を推奨し、価格的にも一般向けの300万円から中大型500万円以上と色々で、宗派は何でもOKと便利にできている。しかしケチな私は安いお墓を買って子供に肩身の狭い思いをさせたくはないが、逆に見栄えを張って高額なお墓を買うと後悔して安らかに永眠できそうにない心配もあった。
前々から私はテレビで見る米国ワシントン近郊の国立アーリントン墓地のようにゴルフ場のような広々とした芝生に墓石を埋めた墓地に憧れていたが、この形式では石材業者が加工賃を僅かしか取れない為、日本では殆ど開発されず、横浜辺りに少し販売されているだけという。 サイクリング途中で私が見た何ケ所かの墓地も殆どが全て日本式墓地だったが、1ケ所だけ小規模な芝生墓地を併設して、価格も日本式墓石の1/3程度で毎年少区画づつ売り出しているのを見つけ、思い切って契約した次第。 日本人の墓離れ傾向で、墓地開発業者の競争は激しく、各社は工夫しながら販売しているが、高価な縦型墓石では集客が難しく、余り儲からないが芝生墓地も目玉商品として少し用意して今年も5区画だけの限定販売だった。
契約した芝生墓地は、一面が芝生の墓地に3尺四方(90cm x 90cm)、高さ20センチ程度の平らな墓石が並んで埋められており、墓標には、やすらかにとか、ありがとう、お休みなさい、絆、等々 各人好みの短い言葉が彫り込まれ、墓石の下にかなり広い空室もある。アーリントン墓地のような広大さには欠け、1m隣りはお隣さんだが、まあ国土の狭いわが国だから、遮るものが少ない広々とした芝生全体を自分の墓地と思えばいいかと、納得している次第。
いまは元気な私も既に結構な年で、日本人の平均寿命から計算すると、余生は片手以上、両手未満となるが、まあそう簡単に死ぬ気はなく、まだまだ長生きする筈と楽観はしているが、元気な内に自分の永眠する場所を決めて、まずはひと安心という次第。
私の故郷山口には両親が眠る墓もあるが、半世紀前に故郷を出て以来、正直言えば余り未練はない。大学を出て、神戸、東京都内、そして千葉県の手賀沼近くに居を構えて既に40年と人生の大半をこの湖畔で過ごしてきたので、やはりこの周辺に愛着がある。近隣の同輩何人かは既に鬼籍に入り、また三途の河原からの招聘状に手をかけている友人もおり、私自身も自分の墓地をどうするか真剣に考え始めていた。
従来の日本の墓は、墓石にXX先祖のお墓とか,,,を刻印した縦型墓石が一般的だが、価格は小型の3百万円から中大型の5百万円以上と結構高く,こんな大金を使っては安らかに眠れそうにないと思っていた。特に高さや豪華さを競う日本式墓石には私は余り好きになれなかった。
近年、川や海に遺骨を撒く自然葬とか樹木の下に骨粉を埋める樹木葬など、子供に負担をかけないで済む経済的な墓地も流行り始めており、例えば東京町田には、小高い丘の中央に桜の木を配した円形の樹木葬墓地を開発して、単価40万円で発売されたところ、大きな人気を呼び次々と広げて、2000区画にまで拡張したという。 平安末期の西行法師の歌のように、願わくは桜のもとにて春死なむ、そのきさらぎの望月の頃、というそのままに、毎年桜の花を愛でながらゆっくり眠れるとの感傷があるの0かも知れない。
この共同墓地は、周囲に埋葬者の名前を刻印した共同銘板も埋めてあり、各人の埋葬地点は分かるようになっているという。このような樹木葬が人気を集めるのは経済的な理由もあり、少子化の進展で先祖伝来の墓地を子供が守る方式が困難になり、次世代に負担をかけないよう、生前に自分の墓地を確保して予約する人も多いという。東京都でも同様な樹木葬の都営霊園を計画中といわれる。
別の方式として、便利な都心のお寺の地下室の納骨堂に祭る方式もあり 妻はこの納骨堂形式に興味をもっていたが、何百という位牌が整然と並んだ地下室は少々薄気味悪く、私には息が詰まりそうな感じだった。郊外に住む妻の知人は巨大な大仏様を中央に配した太規模霊園の一角に自分のお墓を早々と購入したが、ご本人は早く手配し過ぎたと後悔気味らしい、自分のお墓をどうするかなかなか簡単ではないようだ。
私が住む手賀沼周辺は自然豊かな山林や田畑に恵まれ、都心から電車で30-40分程度の近さもあり、300-500基程度の中規模墓地が何ケ所か開発されており、休日のサイクリング途中に、私は何回か見回っていた。しかし詳しく調べると、その開発墓地は法律上お寺が責任者になっているが、実質的には石材業者が全て取り仕切っており、営業担当者もその店員だった。確かにお坊さんが値段交渉に乗り出すのは少々不似合な感もある。
石材業者は墓石1基で百万円単位の加工賃を稼げる日本式墓石を推奨し、価格的にも一般向けの300万円から中大型500万円以上と色々で、宗派は何でもOKと便利にできている。しかしケチな私は安いお墓を買って子供に肩身の狭い思いをさせたくはないが、逆に見栄えを張って高額なお墓を買うと後悔して安らかに永眠できそうにない心配もあった。
前々から私はテレビで見る米国ワシントン近郊の国立アーリントン墓地のようにゴルフ場のような広々とした芝生に墓石を埋めた墓地に憧れていたが、この形式では石材業者が加工賃を僅かしか取れない為、日本では殆ど開発されず、横浜辺りに少し販売されているだけという。 サイクリング途中で私が見た何ケ所かの墓地も殆どが全て日本式墓地だったが、1ケ所だけ小規模な芝生墓地を併設して、価格も日本式墓石の1/3程度で毎年少区画づつ売り出しているのを見つけ、思い切って契約した次第。 日本人の墓離れ傾向で、墓地開発業者の競争は激しく、各社は工夫しながら販売しているが、高価な縦型墓石では集客が難しく、余り儲からないが芝生墓地も目玉商品として少し用意して今年も5区画だけの限定販売だった。
契約した芝生墓地は、一面が芝生の墓地に3尺四方(90cm x 90cm)、高さ20センチ程度の平らな墓石が並んで埋められており、墓標には、やすらかにとか、ありがとう、お休みなさい、絆、等々 各人好みの短い言葉が彫り込まれ、墓石の下にかなり広い空室もある。アーリントン墓地のような広大さには欠け、1m隣りはお隣さんだが、まあ国土の狭いわが国だから、遮るものが少ない広々とした芝生全体を自分の墓地と思えばいいかと、納得している次第。
いまは元気な私も既に結構な年で、日本人の平均寿命から計算すると、余生は片手以上、両手未満となるが、まあそう簡単に死ぬ気はなく、まだまだ長生きする筈と楽観はしているが、元気な内に自分の永眠する場所を決めて、まずはひと安心という次第。
2012年02月06日
120206 社会学的な遺伝
遺伝子DNAが肉体形状的な遺伝を司っていることは科学的に証明されているが、その他に、DNAに依らない社会学的な遺伝として、親の貧富が子供に伝わることも統計的に証明されているという。即ち子供に十分な教育を与える余裕がある家庭は教養豊かな子孫を残し、貧乏人は子供を教育する余裕がなく、不十分な教育のまま社会に放り出すので、再び貧しい家庭を再生産するという。この傾向はかなりの程度まで統計的に証明されているらしいが、更に興味深い話として他にも社会学的な遺伝もあるのではないかと、新聞に出ていた。
近年の就職難で、大学3年生の多くは授業そっちのけで就職活動に走り回っているが、その中には早々と複数の企業から内定を得る学生達もおり、彼らは内定ゲッターと呼ばれるという。読売新聞だと思うが、この内定ゲッターには特徴があり、総じて性格的に明朗活発な学生だという。理系と違って文系学生は大学で履修した専門が少々違っても入社後の仕事には殆ど無関係だから、企業としては積極的で性格の明るい学生を望むことになる。理系の場合は事情が異なり、性格が良くても専門知識が不十分な学生なら企業は採らないが、残念ながら文系は何を履修したかは殆ど無意味で、明るい学生の方が入社後に成長する余地が大きいという。
なかなか内定を得られない学生には特徴があり、多くは暗い性格の持ち主だという。このよう消極的な学生を生む大きな原因は親の家庭教育がダメ押し過ぎだ、と新聞に書いてあった。即ち、親が子供の教育に下手に干渉して、あれはダメ、これもダメと、と介入し過ぎる結果、発達途上の精神に恐怖心がインプリントされて性格が消極的になり、暗い人格になるという。入社試験の面接を少々訓練しても、ベテラン面接官はごまかせず、暗い後ろ向きの性格は簡単に露見して不合格となり、内定を取れないという。
大企業とは比較にならない零細な我が社でも、技術系人材の面接は何回も何回も繰り返しているが、はやり誠実で明るい人物には好印象を持ち、性格の暗い人物は専門知識の話に入らないまま面談を終えることが多い。規模の大小とは無関係に、どんな企業でも明るく積極的な人物を希望しているのは間違いない事実だろう。
大事なことは子供の性格には成長過程で親のダメ押しが、大きく影響するということだ。あれもこれもダメだ、何回言ってもお前はダメだ、、、と親から日常的に繰り返されるダメ押しは、子供の人格形成に大きくマイナスして、消極的な性格になり、成人して家庭を持つと、今度は自分の子供に同じダメ押しを繰り返して後向きの子供を再生産することになり、暗く消極的な性格が次々と伝えられるという説だ。どこまでデータ的に証明されているか知らないが、私にも頷ける部分がある。
新聞やテレビには、大企業のリストラ報道が繰り返され、パナソニック、NEC、ソニー、東芝、日立など各社は大規模の人員削減を計画中とも報道されている。幼稚園時代から塾通いを強いられ、小学校、中学校から進学高校を経由して、やっと有名大学に滑り込んで卒業し、憧れの有名企業に就職しても、嬉しいのはごく短期間に終わる。社内には高学歴者ばかりで、ささやかな自分の学歴などは無用の長物で、今度は同僚との激しい社内競争が待ち受ける。無菌状態で塾通いに明け暮れ、親のダメ押し教育で育った虚弱な青年には終わりのない荒波の世界が待ち受けている。そして心身共に疲れ果てた挙げ句、リストラに遭って、免疫のないまま社会の荒波に放り出されては、全く報われることのない人生に終わってしまう。
官公庁などは、高学歴で就職すれば、入社時の学歴と入社年次だけで出世ルートが決まり、後はトコロテン式に相応な天下り先も期待できる時代であったのは確かだが、近年は状況が激変した。世論やマスコミの目は厳しく、2.5万人の国家公務員OBの天下り組が年間10兆円の血税をドロボウまがいに浪費する状況はとうてい許されなくなってきた。民間企業は大小を問わず更に厳しく、下手をすると直ちに倒産に直結する激しい競争世界であり、既に学歴や入社年次は無用の時代になっている。
確かに科学知識の習得も重要だが、それと同等に明朗で積極的な性格も必要であり、科学知識は猛勉強でなんとかカバーできても、一度身についた消極的な性格は並大抵の努力では払拭できない。そういう私も性格的には決して明るくないが、幸い科学知識が不可欠な技術分野を選んだお陰で、なんとか乗り切ってきたが、明朗な同僚仲間は今でも羨ましく思う。大人になってから何とか自分の性格を矯正しようと努力したが、三つ子の魂百迄で、一旦身についた性格から脱出することは至難の技であることを身に沁みて実感している。
受験生を抱える親達は、昔の学歴社会の亡霊から簡単には抜けきれないだろうが、子供にダメ押しを強制して消極的な暗い子供の再生産を強いることだけは止めたほうが良さそうだ。