2013年03月
2013年03月27日
130327 昔の名詞-2
色々とお世話になった外国人の1人にCharles-Manzoさんがいる。彼はイタリア出身だが私と同様に結構シャイで、日本人Fashion-DesignerONさんと結婚して日本国籍を持ち南青山のDeluxマンションに住んでいた。彼がヨーロッパから仕入れる流行のデザインをON女史が日本のファッション界に紹介し、雑誌に記事を載せて稼ぎ優雅に暮らしていた。ある時, 彼がアメリカSea-Snarkという軽量プラスチック製の簡易ヨットを私に紹介した。日本は大型FRPヨットの市場には適さず、車搭載型の軽量Sea-Snarkヨットが可能性ありと見込んだ私は国産化し、末端価格10万円で発売して春〜秋のヨットシーズンに派手に試乗会を行って販売促進に努めたが見事に失敗した。彼は誠実な人柄で親しく友好したが10年前のバブル崩壊と共に突然行方になった。多分大借金を抱えて破産しイタリアに夜逃げしたのだろう。Cola-Colaのデザイン入りヨットを、販売促進に使えないかと電通に持ち込み、嘲笑された苦い経験もある。
既に故人だがPleasure-Boat設計の馬込さんとの付き合いも忘れられない。昭和46年頃、レジャーボート界の旗手ヤハマに対抗して同社技術部長を辞めて独立しコマンドクラフトを設立し、国内ボート市場で大反響を巻き起こしたが、資金繰りに行き詰まり倒産した。我が社のポリエステル樹脂の付加価値化戦略に応じて彼をスカウトして、FRP漁船市場へ進出を目指した、色々な経緯があったが漁船は人件費の固まりでコストが合わなかった。漁船はローカル性も強く全国統一の設計船は受け入れられず、各地方の造船所が持つ独特な船型にも負けてしまった。記憶に残る例では天草五和の造船所で作った中型底引網船が進水直後、長崎橘湾での試験操業中に転覆した事件もあった。その他とても公表できない恐ろしい事件があり、素人が下手に手出しすると造船は重大事故に発展することを知らされた。
通産省の筑波研究所にも色々な思い出がある。特に繊維高分子研究所は化学が専門で、我々と話しが通じ有益なDiscussionができた。もし私が頭脳明晰なら彼らと同じ研究所に入っていたかも知れないが、研究者は超一流の実績を残さないと研究所に残れず、何れ外部に再就職先を求めざる得えない宿命だった。特にバルブ崩壊で政府が外郭団体の整理統合を進め、多くの研究者は辞職を迫られた。彼らの多くは中高年で、早急な結果を求める民間企業はなかなか入れず、私大学教授などに散っていった。ある時、新聞情報を手に電総研を訪れて面会した某研究者とは意見の行き違いもあり、先方の激怒を買って追い返された事件もあったが詳細は忘れた。
横浜シルバーから紹介された安住さんも大恩人だ。私が精密機械のメンテナンス業を始めた時、暗いイメージのメンテ業は若者から嫌われ、私は幅広い知識と経験をもつシルバー人材を起用した。しかし今度はシルバーがユーザー側から毛嫌いされ、サービス業は若さがないと受け付けない雰囲気にあった。しかし安住さんはよく頑張った。最初に半導体装置のメンテナンスに安住さんを起用したが、彼の馬力と電気メカの幅広い知識経験は半導体機器メーカーの若い技術陣を驚嘆させ、ユーザーからも全幅の信頼を得て、クレスの仕事が軌道に乗る契機になった。彼の真面目で熱心な仕事態度はシルバー人材に活躍の場を拓き、一般社会の偏見を打ち破ったと私は自負している次第。
診断薬合弁会社の社長の時の思い出はいろいろ多い。例えば医療業界のドクターは概して評判が悪く、名誉欲と金銭欲旺盛な先生が多いのは事実である。例えば東京慈恵医大のI教授や長崎大のN教授等は何事に付けてもお金優先で評判通り金銭亡者であった。しかし例えば東京済生会中央病院の糖尿病専門の松岡先生などは、優れた業績だけでなく本当に誠実な人柄の持ち主であった。やはり人格は仕事とは関係なく、素晴らしいドクターもおられることを知らされた。
合弁会社の社長を務めた関係で、欧米の方々と幅広く付き合ったが、概してラテン圏の人々は明朗快活であり、逆にドイツ人は冗談を好まず性格的に生真面目で付き合い難かった。しかしデンマークとかスエーデンなど北欧諸国は奔放で開放的な人が多く、デンマークの若くて愛らしい女性事務員が社長と恋仲になって、社長夫人を追い出し、副社長に居座る手練手管には驚いた。
一般に日本人は社交下手で私もそのタイプだが、毎年夏恒例の家族同伴のサマーバケーションは私には楽しみであったが同時に苦しみでもあった。私は英会話が堪能な人を単なる英語屋と軽視していたが、どうしてどうして、自由に話し合うことにより親近感と新しい世界に触れて自分の固い殻を破る出来事も多く、話せないと失うものが大きいと痛感させられた合弁会社の社長時代であった。 記憶に残る例だが、数百人が参加したイタリアでの仮装パーティーで、私の親会社のK社長がナポレオン姿で英語のカラオケを唄ったが殆ど誰も反応せず、逆にウイリアム-テルに扮した私がBesame-Muchoを原語で唄うと20ケ国にも達するスペイン語圏の参加者達から大喝采を受け、アンコールまで求められて会場に興奮をもたらした出来事もあった。
2013年03月22日
130322 旅立ちの春
春は進学や就職の季節だ。町には新人らしいグループが嬉しそうにはしゃいでいる。大願成就した学生は春爛漫だろうが、悔いが残った人々も多いことだろう。しかし悔しさを振り払って各々新しい道に進んでいくことになる。私も大学1生の時は毎日が失敗とトラブル続きで、田舎者の若造にはほろ苦く恥ずかしい思い出ばかりの時代だった。
山口県のど田舎から初めて福岡に出た私には人口100万人の大都市の全てが驚きだった。まず田舎で買い求めたピカピカの角帽をかぶって登校してみたが、誰も帽子なんかかぶっていなかった。暫くは我慢したが、遂に恥かくなり帽子は捨ててしまった。角帽をかぶるのは田舎出の証拠だと分かったから。
初めは大学の寮を希望し、案内されたのは運動場の片隅の古びた学生寮で、朝食込み寮費は日額なんと100円という安値だったが、朝食はパンと牛乳1本だ。田舎で飽食に慣れた私はいつも空腹だった。部屋は20畳ちかい大部屋に新入生ばかり10名がザコ寝すると知ってこれにも驚いた。田舎では広い部屋を使っていた私は、夜遅くまで同室者が騒ぎ続けるのに耐えられなくなり、遂に従兄弟と話して東公園近くの2階6畳1間を月3,000円で共同間借りすることにした。教養学部までは毎朝都電で30分だったが、窓から見る街の風景は全て物珍しく、私には一番楽しい時間だった。しかし間借りした大家の奥さんから、使い続けて汚れた寝布団を窓から干すのだけは、みっともないので止めるよう懇願された。
教養部の新築校舎は素晴らしかったが、不慣れな水洗トイレで用を済ませてノブを押すと、強烈な勢いで水が流れ出た。余りの激しさに故障かと思ってノブを押し続けると更に轟音を立てた水流が続いた。こればバルブの破損に違いないと恐ろしくなった私は逃げ出してしまった。しかし周辺が水浸しになるかも知れないと思い直して引き返すと、水は静かに止まっていた。なるほど交通事故を起こして逃げた犯人が、心配になって再び事故現場に舞い戻るのはこの事なのだとその気持ちが分かる思いだった。
最初の一週間は、履修科目を選択する為の見学講義だった。年間50単位とかを取得するよう決まっていたが、田舎者の私には1単位が何を意味するのはなかなか理解できなかった。幸い工学部の私には殆どが必須科目の連続で、選択の余地は少なかったが、やっと1単位の意味が理解出来始めたのは1年が経過したころであった。理解の遅い私には必修科目の多い工学部は毎日が地獄だった。特に第二外国語に選んだドイツ語は最悪で、たまに読本を指名されるともう大変で辞書を片手に朗読して、先生は怒り、友人達も呆れて失笑した。
全く恥ずかしい話しだが、私は大學生になるまで、自分から電話をかけたことがなかった。昭和30年代初めで固定電話すらごく少なかったが、顔の見えない相手と話すのが怖かったのだ。外部からかかる電話を受けた経験はあったが、信じられないことだが大学4年間を通じて自分から電話したことは一度もなかったのだ。今日では小中学生まで、携帯やスマホを使い慣れた時代とは、次元の違う世界の学生だったのだ。
お風呂は近くの銭湯に週何回か行ったと思うが、サンパツは滅多に行かなかった。私は剛毛だったので、いわゆるポマードを塗って固い髪を抑えていた。更に滅多に洗髪せず、時折り訪れるサンパツ屋からも多分嫌われていただろう。剛毛なら長髪ではなく短髪にすれば臭いポマードも不要なのに、何故その程度の知恵も回らなかったのかと古希過ぎてやっと自分の石頭を嘆いている始末。今でも穴に入りたい恥ずかしい気持ちだ。毎月の生活費は多分5,000円以上かかり奨学金3,000円では足りなかった。しかし理系の授業は超多忙でアルバイトする余裕は無く、田舎からの細々とした仕送りで何とか凌ぐ生活だった。
しかし唯一の楽しみはプロ野球だった。当時は野武士集団の西鉄ライオンズが全盛時代で、稲尾、島原、豊田、中西、大下、玉造、高倉など、荒武者が洗練された東京ジャイアンツを徹底的に叩きのめすのが耐えられない快感だった。田舎者の自分が都会人を見返えす気持ちだったのかも知れない。或いは中国が反日を叫んで日本店を叩き壊す気持ちと同じなのだろうか。 後日聞いた話だが学部の履修科目の選択で、友人達は簡単に単位が取れて、就職の面倒見が良い教授の科目に選んだと聞いたが、そんな余裕はかけらもない自分だった。
しかし学部に進と少しずつ気持ちに余裕が出始めたが、ある休日、級友から平尾の墓地公園へピクニックに誘われて出掛けると、彼はガールフレンドを同伴していた。女性の影も匂いにも無縁な私は、眩しいばかりの彼女に気を取られて過ごした1日だった。私には精々、朝の大学食堂で窓越しに盗み見る福岡女学院の生徒の登校姿ぐらいだったのだ。今日でも、テレビや新聞で信じられないような学生の幼稚な愚行を見るが、或いは当時の私も同レベルに幼稚だったかも知れないと思うと、気軽に笑い飛ばせない気持ちになる。
大学で研究を始める時は、先ず世界の研究の現状を調べるが、その時最も参考にする文献集としてChemical Abstractsがある。毎年化学に関する世界中の新しい論文の要旨を纏めたもので、1冊10 cm近い厚さで年間10冊を越える。私達の時は既に1年で書棚1段を右から左まで占めていたが、毎年冊数が増え続け、現代では書棚が何十段にも達している筈で、既に印刷本はある筈もなく、電子版になっていると思われるが、世界の科学技術の猛烈な進歩には驚くばかりである。
昔はChemical-Abstractsを1-2週間も調べると、最先端の研究までほぼ把握できたが、今日では長い月日が必要だろうと思う。このまま世界の技術が進むと我々の子孫は過去の研究成果をマスターするだけで一生を終える事になるだろう。そして将来は人工頭脳の手助けを借りても、最先端には到達出来ない時代がやって来るかも知れない。何とも恐ろしい時代になったものだと痛感する。
山口県のど田舎から初めて福岡に出た私には人口100万人の大都市の全てが驚きだった。まず田舎で買い求めたピカピカの角帽をかぶって登校してみたが、誰も帽子なんかかぶっていなかった。暫くは我慢したが、遂に恥かくなり帽子は捨ててしまった。角帽をかぶるのは田舎出の証拠だと分かったから。
初めは大学の寮を希望し、案内されたのは運動場の片隅の古びた学生寮で、朝食込み寮費は日額なんと100円という安値だったが、朝食はパンと牛乳1本だ。田舎で飽食に慣れた私はいつも空腹だった。部屋は20畳ちかい大部屋に新入生ばかり10名がザコ寝すると知ってこれにも驚いた。田舎では広い部屋を使っていた私は、夜遅くまで同室者が騒ぎ続けるのに耐えられなくなり、遂に従兄弟と話して東公園近くの2階6畳1間を月3,000円で共同間借りすることにした。教養学部までは毎朝都電で30分だったが、窓から見る街の風景は全て物珍しく、私には一番楽しい時間だった。しかし間借りした大家の奥さんから、使い続けて汚れた寝布団を窓から干すのだけは、みっともないので止めるよう懇願された。
教養部の新築校舎は素晴らしかったが、不慣れな水洗トイレで用を済ませてノブを押すと、強烈な勢いで水が流れ出た。余りの激しさに故障かと思ってノブを押し続けると更に轟音を立てた水流が続いた。こればバルブの破損に違いないと恐ろしくなった私は逃げ出してしまった。しかし周辺が水浸しになるかも知れないと思い直して引き返すと、水は静かに止まっていた。なるほど交通事故を起こして逃げた犯人が、心配になって再び事故現場に舞い戻るのはこの事なのだとその気持ちが分かる思いだった。
最初の一週間は、履修科目を選択する為の見学講義だった。年間50単位とかを取得するよう決まっていたが、田舎者の私には1単位が何を意味するのはなかなか理解できなかった。幸い工学部の私には殆どが必須科目の連続で、選択の余地は少なかったが、やっと1単位の意味が理解出来始めたのは1年が経過したころであった。理解の遅い私には必修科目の多い工学部は毎日が地獄だった。特に第二外国語に選んだドイツ語は最悪で、たまに読本を指名されるともう大変で辞書を片手に朗読して、先生は怒り、友人達も呆れて失笑した。
全く恥ずかしい話しだが、私は大學生になるまで、自分から電話をかけたことがなかった。昭和30年代初めで固定電話すらごく少なかったが、顔の見えない相手と話すのが怖かったのだ。外部からかかる電話を受けた経験はあったが、信じられないことだが大学4年間を通じて自分から電話したことは一度もなかったのだ。今日では小中学生まで、携帯やスマホを使い慣れた時代とは、次元の違う世界の学生だったのだ。
お風呂は近くの銭湯に週何回か行ったと思うが、サンパツは滅多に行かなかった。私は剛毛だったので、いわゆるポマードを塗って固い髪を抑えていた。更に滅多に洗髪せず、時折り訪れるサンパツ屋からも多分嫌われていただろう。剛毛なら長髪ではなく短髪にすれば臭いポマードも不要なのに、何故その程度の知恵も回らなかったのかと古希過ぎてやっと自分の石頭を嘆いている始末。今でも穴に入りたい恥ずかしい気持ちだ。毎月の生活費は多分5,000円以上かかり奨学金3,000円では足りなかった。しかし理系の授業は超多忙でアルバイトする余裕は無く、田舎からの細々とした仕送りで何とか凌ぐ生活だった。
しかし唯一の楽しみはプロ野球だった。当時は野武士集団の西鉄ライオンズが全盛時代で、稲尾、島原、豊田、中西、大下、玉造、高倉など、荒武者が洗練された東京ジャイアンツを徹底的に叩きのめすのが耐えられない快感だった。田舎者の自分が都会人を見返えす気持ちだったのかも知れない。或いは中国が反日を叫んで日本店を叩き壊す気持ちと同じなのだろうか。 後日聞いた話だが学部の履修科目の選択で、友人達は簡単に単位が取れて、就職の面倒見が良い教授の科目に選んだと聞いたが、そんな余裕はかけらもない自分だった。
しかし学部に進と少しずつ気持ちに余裕が出始めたが、ある休日、級友から平尾の墓地公園へピクニックに誘われて出掛けると、彼はガールフレンドを同伴していた。女性の影も匂いにも無縁な私は、眩しいばかりの彼女に気を取られて過ごした1日だった。私には精々、朝の大学食堂で窓越しに盗み見る福岡女学院の生徒の登校姿ぐらいだったのだ。今日でも、テレビや新聞で信じられないような学生の幼稚な愚行を見るが、或いは当時の私も同レベルに幼稚だったかも知れないと思うと、気軽に笑い飛ばせない気持ちになる。
大学で研究を始める時は、先ず世界の研究の現状を調べるが、その時最も参考にする文献集としてChemical Abstractsがある。毎年化学に関する世界中の新しい論文の要旨を纏めたもので、1冊10 cm近い厚さで年間10冊を越える。私達の時は既に1年で書棚1段を右から左まで占めていたが、毎年冊数が増え続け、現代では書棚が何十段にも達している筈で、既に印刷本はある筈もなく、電子版になっていると思われるが、世界の科学技術の猛烈な進歩には驚くばかりである。
昔はChemical-Abstractsを1-2週間も調べると、最先端の研究までほぼ把握できたが、今日では長い月日が必要だろうと思う。このまま世界の技術が進むと我々の子孫は過去の研究成果をマスターするだけで一生を終える事になるだろう。そして将来は人工頭脳の手助けを借りても、最先端には到達出来ない時代がやって来るかも知れない。何とも恐ろしい時代になったものだと痛感する。
2013年03月15日
130315 北朝鮮の核兵器
北朝鮮が核兵器の開発に力を入れている。我々日本人にとっては他人ごとのように思われ、米国や韓国が主な標的だろうと気楽に考えているが、実は北朝鮮の核攻撃の対象は日本が主な標的だと3/9の産経新聞に書かれている。何とも恐ろしい話だ。
産経によると、北朝鮮が一連の核実験で目指しているのは、北朝鮮広報官が絶叫するような米国本土を攻撃する長距離ミサイル,テポドンの開発ではなく、日本を狙う小型化した準中距離弾道ミサイル,ノドンに積む計画であるということが、米国政府の専門家で結論を出したという。知ってか知らずか、日本政府はこの恐ろしい現実には知らん顔で、相変わらず拉致問題の解決を!と呑気に叫び続けている。
他方、北朝鮮は韓国に対しては如何に考えているのだろうか?これも新聞情報だが、雑誌 朝鮮の前編集長に鞘甲済氏の意見によると、北朝鮮の戦略は、核兵器と韓国内の容共勢力を利用して韓国を共産化させることだという。国力に自信を持ち始めた韓国は、米国依存からの独立を目指して、米国との同盟体制を弱めて自力防衛を目指しており、米軍も危険な38度線の最前線から後方に引き下がったのは事実である。
米韓同盟体制の弱体化を見届けた北朝鮮は、まず奇襲攻撃で38度線のすぐ南隣りの首都ソウルを包囲する。そして韓国に現状休戦を提案するという。仮に休戦を受諾しなければ核を使ってソウルを壊滅すると脅かす。米国に対しては、朝鮮民族内部の問題だから干渉するな、もし干渉すれば、日本国内の米軍基地を核攻撃すると脅す。韓国政府は決死の抗戦か和平交渉かのどちらかを選ばざる得なくなるというストーリーだという。
核を放棄したリビアのカダフィ政権が米国とNATOにより抹殺されたのを目の当たりに見た北朝鮮は、核を放棄すると結局カダフィと同じ運命になると確信しており、絶対に核を手放すことはないという。更に韓国内には明らかに強力な容共勢力があり、金大中政権や盧武鉉政権も実体は容共政権だった。韓国内の反北勢力と容共勢力とは互いに拮抗しているのだ。韓国で容北政権が2代続いたことは、韓国内に北朝鮮を受け入れる素地が確実にあると北朝鮮は知っており、核兵器をもたない裸の韓国を制圧できそうだと北は確信を強めているという。 一方韓国の容共勢力は、もし韓国と北朝鮮が統一すれば、韓国は簡単に核を入手できるという意見もあるという。なんとも怖い話だ。
既に昔の話だが、米国は韓国に対して、核ミサイル防衛MD網の提供を申し出たが、金大中政権が拒否した事実がある。核武装を続ける北朝鮮と裸の韓国との軍事的な不均衡は誰が見ても明らかになりつつある。新しく発足した朴槿恵政権は、自力で核開発を進めていた父親の朴正熙大統領が米国の圧力により挫折させられたことを鮮明に記憶しているが、現在でも韓国民の2/3は正当防衛の為、韓国も核武装すべきだと思っているという。韓国朴槿恵政権は米国戦術核兵器の再配備を決断するか否か迫られている。
英国フィナンシャルタイムズは、北が体制崩壊して改革に踏み切ることは有り得ず、逆に北朝鮮と米国との関係改善が進むと、今度は中国に対して北朝鮮が危険な国になることもあり得ると予言している。
私は、中国の限りない軍備拡張と北朝鮮の核武装は、日本と韓国を最終的に核武装に追い込むことになるだろうと予想する。技術の進んだ日本が核武装することは中国にとって悪夢だろうが、中国や北朝鮮の常識を欠く行動を思うと、両国を全面的に信頼することは不可能であり、日本は自力で自国を守る以外に方策はないと思う。中国は既に800基の核ミサイルを持ち、その内100基を日本各地に標準を合わせているという。アメリカのMDでは中国の核ミサイルを防ぎきれず、逆に米国は長距離核を持つ中国とは、日本を守るために本気で戦争する気はない筈だ。 従って結局は 日本が自分の力で守る以外に生きのびる道はないのだ。その為には武器として圧倒的に経済性と効率が優れる核兵器をもつことが常識であり、日本が安全に生き残る唯一の道でもある。
産経によると、北朝鮮が一連の核実験で目指しているのは、北朝鮮広報官が絶叫するような米国本土を攻撃する長距離ミサイル,テポドンの開発ではなく、日本を狙う小型化した準中距離弾道ミサイル,ノドンに積む計画であるということが、米国政府の専門家で結論を出したという。知ってか知らずか、日本政府はこの恐ろしい現実には知らん顔で、相変わらず拉致問題の解決を!と呑気に叫び続けている。
他方、北朝鮮は韓国に対しては如何に考えているのだろうか?これも新聞情報だが、雑誌 朝鮮の前編集長に鞘甲済氏の意見によると、北朝鮮の戦略は、核兵器と韓国内の容共勢力を利用して韓国を共産化させることだという。国力に自信を持ち始めた韓国は、米国依存からの独立を目指して、米国との同盟体制を弱めて自力防衛を目指しており、米軍も危険な38度線の最前線から後方に引き下がったのは事実である。
米韓同盟体制の弱体化を見届けた北朝鮮は、まず奇襲攻撃で38度線のすぐ南隣りの首都ソウルを包囲する。そして韓国に現状休戦を提案するという。仮に休戦を受諾しなければ核を使ってソウルを壊滅すると脅かす。米国に対しては、朝鮮民族内部の問題だから干渉するな、もし干渉すれば、日本国内の米軍基地を核攻撃すると脅す。韓国政府は決死の抗戦か和平交渉かのどちらかを選ばざる得なくなるというストーリーだという。
核を放棄したリビアのカダフィ政権が米国とNATOにより抹殺されたのを目の当たりに見た北朝鮮は、核を放棄すると結局カダフィと同じ運命になると確信しており、絶対に核を手放すことはないという。更に韓国内には明らかに強力な容共勢力があり、金大中政権や盧武鉉政権も実体は容共政権だった。韓国内の反北勢力と容共勢力とは互いに拮抗しているのだ。韓国で容北政権が2代続いたことは、韓国内に北朝鮮を受け入れる素地が確実にあると北朝鮮は知っており、核兵器をもたない裸の韓国を制圧できそうだと北は確信を強めているという。 一方韓国の容共勢力は、もし韓国と北朝鮮が統一すれば、韓国は簡単に核を入手できるという意見もあるという。なんとも怖い話だ。
既に昔の話だが、米国は韓国に対して、核ミサイル防衛MD網の提供を申し出たが、金大中政権が拒否した事実がある。核武装を続ける北朝鮮と裸の韓国との軍事的な不均衡は誰が見ても明らかになりつつある。新しく発足した朴槿恵政権は、自力で核開発を進めていた父親の朴正熙大統領が米国の圧力により挫折させられたことを鮮明に記憶しているが、現在でも韓国民の2/3は正当防衛の為、韓国も核武装すべきだと思っているという。韓国朴槿恵政権は米国戦術核兵器の再配備を決断するか否か迫られている。
英国フィナンシャルタイムズは、北が体制崩壊して改革に踏み切ることは有り得ず、逆に北朝鮮と米国との関係改善が進むと、今度は中国に対して北朝鮮が危険な国になることもあり得ると予言している。
私は、中国の限りない軍備拡張と北朝鮮の核武装は、日本と韓国を最終的に核武装に追い込むことになるだろうと予想する。技術の進んだ日本が核武装することは中国にとって悪夢だろうが、中国や北朝鮮の常識を欠く行動を思うと、両国を全面的に信頼することは不可能であり、日本は自力で自国を守る以外に方策はないと思う。中国は既に800基の核ミサイルを持ち、その内100基を日本各地に標準を合わせているという。アメリカのMDでは中国の核ミサイルを防ぎきれず、逆に米国は長距離核を持つ中国とは、日本を守るために本気で戦争する気はない筈だ。 従って結局は 日本が自分の力で守る以外に生きのびる道はないのだ。その為には武器として圧倒的に経済性と効率が優れる核兵器をもつことが常識であり、日本が安全に生き残る唯一の道でもある。
2013年03月08日
130308 昔の名刺-1
ある定年退職したサラリーマンが、これは私の財産です、と嬉しそうに名刺の束を掲げる姿をテレビで見たことがある。確かにそうかも知れないが少し勘違いがありそうだと私は思った。私も膨大な人々と名刺を交換した。特に長かった企画課長時代には枚数が多かった。しかし後日その名刺が何かの役に立つ機会など殆どなかった。自分の仕事が変わり相手も違う仕事に移ると、再び昔の名刺を見ることは殆どなくなった。
私のサラリーマン時代にはコペルニクス的大転換が2回あった。初めは化学会社の技術職から日米合弁の診断薬会社の責任者に変わった時、次はその診断薬会社を定年退職して自己資本で機械メンテ会社を創設した時、いずれも必死の思いだったが、その時代に交換した膨大な名刺は今も残っているが、殆どは見直すことは無い。
人間関係が不得意な私の内気な性格が原因だろうか、業務上の付き合いの殆どは仕事の切れ目が縁の切れ目になった。名刺交換から業務以外の何かが生まれたことはごく僅かで、相手が違う部署に移ると途端に関係が切れ、連絡しても迷惑顔をされることもあった。しかしその中でも例外的に長い付き合いが続いている人が何人かはいる。
例えば三菱商事のOさんだ。後に東大法学部卒のエリートだと知ったが人柄は悪くない。彼が商事の課長時代に知り合ったが、初めからご自分が大物であるという自負が見え見えだった。カチカチの技術屋気質の私と違っていつも世界的な視野で考えるような話し振りだ。暫くすると三菱を退社した彼はアメリカの某大企業の日本代理人になり、大きな個室に移ってからも、雲をつかむような大プロジェクトを好む態度は変わらなかった。米国親会社が何故彼に高額な経費をかけているのか私には理解できなかった。
一般に、事務屋は技術屋を単細胞で視野が狭いと軽蔑し、技術屋は日本を背負っているのは我々技術職であり、世渡り上手だけの事務屋では日本は生きて行けないのだと互いに反発しているが、話題がいつも世界規模のOさんと私は何だか気が合い、時たま訪問しては遠大な雑談をする関係が続いている。
Stevensonさんも大変お世話になった方だ。米国ボストン生まれで私より20才若い彼は、色々な経緯があって私と同じ企画部に所属し翻訳を担当していた。毎日がスポット的な頼まれ翻訳を長年担当すると、流石に彼も仕事に飽きている感じだった。しかし私が彼に頼んだ仕事は少し違っていた。米国版会社四季報Medical Directory (医薬)の中から、我社と提携可能な企業を探し出すことだった。私にとっては分厚い英語の会社四季報など精読するだけでも大苦労で仕事は遅々として進まず、更に殆どの米国企業は日本と提携済みで半ば諦めかけていた。しかし彼はそのDirectoryの解析を引き受け、発展途上のDPC社を見付けて、我が社との交渉も始まり、遂に合弁会社を設立するに至った大恩人である。彼は茶色の鼻ひげを生やしていたが、ある日きれいに剃り落しているのに私が気付かず、気まずい思いをした記憶もある。
全く異分野の医薬事業は誰も引き受けず、企画した私がその合弁会社の社長になったが、未経験の診断薬は毎日が苦労続きであった。特に診断機器が自動化してメカトロニクス装備になったが、私の周囲にはメカトロ技術者は全く居なかった。私はある得意先に若手のメカトロ技術者T君を見つけスカウトを試みたが、直ぐに相手側に漏れて先方社長との大ゲンカになり、遂に引き抜きに成功した。私は彼に大きな責任と権限を与えて米国にも派遣し思う存分働かせ、彼も積極的に対応してメカトロ技術者として成長し、後に大企業S社の企画部長に昇進している。
私が定年退職して、資本金2000万円の自営会社を設立した時、手持ち資金は600万円しかなかった。残りを投資してくれる出資者を探したが、危険な素人ベンチャーには誰も手を出す筈もなかった。その時助けて頂いたのが、私が親会社の企画担当時代に副社長であったMさんだった。彼はやり手の副社長で、私は直接部下として司えたことはなかったが、得意先T社社長と共同で大金を出資して頂いた。本当に頭が下がる思いだった、永年株主として支えて頂き、私も丁重に対応したが、彼が希望した株式の上市には至らず、10年後に元利合計を返して詫びを乞うた次第。
S分析センターのHさんも恩義ある友人だ。自営の機械メンテ業を立ち上げた私は、ユーザー開拓に血道をあげていたがなかなか最初の顧客が見つからず、その間資本金2000万円は流出し続けて遂に破産が迫ってきた。その時出会ったHさんは、ある市場調査資料を見せてくれた。 そこには国内機械会社500社の名称、社長名、責任部門、扱い機械の種類を詳記した資料だった。干天に慈雨とはこのこと、早速私はその500社にDirect-Mailを発送してやっとユーザ−との交渉が始まった。一般に宛先が不確かなDMは庶務課で殆ど破棄され、目的の部署には届かないという。宛先の役職と氏名が確実なDMのみが、社内の関門を潜り抜けて始めて相手の目に触れるのだ。
私は特定分野の機械の経験がなかったので、逆に対象機械は何でも構わなかった。当社のホームページには、あらゆる精密機械のメンテナンスを引き受けますと、逆張りの誇大宣伝をした。すると全く未経験な商談が舞い込み始め、その専門技術者の手配が大問題になった。誰が考えても不可能な、どんな機械でも修理しますと大見えを切った当然の報いであった。
その時横浜シルバー人材センターが助けてくれた。流石に横浜市は日本が誇る人口400万の巨大都市で、あらゆる職種の専門技術者が同市には住んでいた。例えば印刷機械の技術者、スパコンのメカ技術者、コンピュターDOSソフト専門家、半導体装置の技術者、真空冷凍機の技術者、レオロジー技術者、化学分析装置の技術者などなど、あらゆる機械の熟練技師が横浜には居たのだ。一般のシルバー人材センターは典型的な縦割り組織で、仕事を市内に限定し、外部の業務は一切受けつけないが、上大岡の横浜シルバー本部は柔軟に対応して頂き、特殊な業務なので市外の業務も黙認しますとのこと。その結果、横浜シルバーからは長年に渡って多様な技術者の紹介を受け続け、多様な熟練技術者を確保する道が拓けた。
外資系BD社のYさんと部下Fさんとも苦い思い出がある。Yさんは赤顔で貧相な容貌だが記帳面で仕事熱心、逆にFさんは呑気で体格も立派だったが、外資系特有の名刺上では上下関係が不明確だった。訪問するといつも2人が対応してくれたが、私は外見が立派なFさんが上司で、貧相なYさんが部下だと思い込んでしまった。半年も経ったある時、先方の社員から、貴方は上司と部下を間違えておられるのでは?と忠告されて始めて自分のミスに気付き赤面の至りだった。Yさんもよく我慢されたものと、眼力のない自分に恥じいった次第。
半導体機器の専門商社T社のNさんの横柄過ぎる態度もなかなか忘れられない。商社無用論が囁かれる中間企業の立場を死守する為か、あらゆる細事にクレイムを付け、中間商社の存在を主張した。少々のクレイムなら我慢もするが、常識人なら80円の郵便で済ませる小さなネジの返品まで、彼は着払い宅急便で送り返してきた。450円を自腹で払った私は、彼の横着な態度が生涯忘れられない。
大学同期のTさんは50年間に渡ってお世話になり続けている。私はアイデアと行動力はあるが大ざっぱで何事にも理解が鈍い、逆にTさんはクールな理論派で頭脳も緻密、いつも私に有益なアドバイスをして頂いている。最初はパソコン操作から教えて頂き、今は我が社の経理を担当して頂いている。 彼に習って書き始めたこのブログも既に15年以上になり、私の貴重な自分史になりつつある。
2013年03月01日
130301 無防備な平和ボケ
私は休日には自転車で手賀沼を周回する。周囲20キロの美しい景色をみながらのサイクリングは結構な運動になり、強風が吹くと半周で終えることもある。同じ道路をスタイルを決めた若者集団が猛烈な速さで追い抜いて行く。彼らは合計100キロ近く走るそうだから、若さは本当に羨ましいものだ。
以前私は自転車で転倒した経験もあり前々からヘルメットが欲しいと思っていた。若者のような斬新なデザインは高齢の私に似合わないので、数年越しで色々探し求めていたが満足できるもがなく、遂に若者と同じ派手なヘルメットを買った。しかし年寄りに不似合いで気恥ずかしさが抜けなかったが、慣れると自分が思う程、他人は私の派手な姿に気を使っていないようだと分かり段々平気になった。そして最近はヘルメット無しで走ると恐ろしく必ず着用するように心境が変わった。ヘルメットさえあれが転倒しても体の打撲傷で済むが、ハゲ頭を強打すると半身不随になって、惨めな老後になることを恐れるようになった。
実は日本の平和ボケについても全く同じではないかと最近思い始めた。尖閣列島周辺では連日中国の監視艇が日本領海に入り込んで挑発し続け、更にFCレーダーまで浴びせられて日本の巡視艇を挑発している。彼らが挑発し続ける理由は明らかで、平和主義に徹した日本の軽武装巡視艇は、少々挑発しても反撃することは絶対にありえないと熟知しているのだ。仮にこれが米国やロシアの警備艇であれば、中国監視船は絶対に挑発しないだろう。
今回、北朝鮮が長距離ロケットの発射に成功して、米国西海岸もその射程範囲に入り、米国で大問題になっている。しかし我が国は既にノドンの射程範囲に完全に入っているにも拘わらず、国民は殆ど騒がない。中国の長距離ロケットも日本の全都市を完全に射程圏内に納めているが、日本は反撃の手段もないまま平気でいるのが如何にも不思議だ。多分北朝鮮や中国は日本を攻撃することはないだろうと何の根拠もなく思っているからだろうが、彼らの常識外れの行動を見ると、それは全く裏付けのない希望であり超楽観だと分かる筈だ。その証拠が、連日の尖閣領海でのFCレダー照射であり、漁民と称してニセ軍人を上陸させたりして、国際常識では考えられない野蛮な領土侵略の行動を繰り返している訳だ。
竹島問題も同じだ。あれほど信頼できる隣国だと信じていた韓国は、支持率低迷に苦しむ李明博(前)大統領が、不法占拠の竹島に堂々と上陸して自国領土だと世界に誇示した。このような暴挙にも日本は何ら反撃する筈なないことを韓国政府は知っているのだ。バカな韓国政府は、日本は無防備で弱腰なので敵に回しても実損はあり得ない、という考えが支配しているのだ。日本が実力行使で竹島を取り返す姿勢を全く見せていないのに、韓国があれほど竹島の防衛を叫び続けるのは、不法に占拠した島だから死守しなければならないとの思いに駆られているのだ。
逆の例がフィリピンだ。韓国以上の8,000万人という巨大な人口を抱えながら、1000キロ以上も離れた中国に、目と鼻に先のスカボロ−岩礁まで占拠されても、見守るだけで全く手も足も出せず世界の笑いものになっている。これは他人事ではなく竹島も尖閣も全く同じことなのだ。
ガキ大将の理不尽な要求に、抵抗せずに屈服すれば、確かにケンカにならないだろうが、それは世界の笑いものになり、屈辱に甘んじることになるのだ。フィリピンの如く一旦弱みを見せると、益々相手は強気になり、その次は本当に戦争しないと対等な立場を取り戻すことは出来なくなるのだ。
確かに日本の10倍の人口を抱える中国はGDPでも追い越した。しかし彼等は世界の道徳観念や秩序が全く分かっていない。最近、習近平総書記が中国各地を回って法律に従うよう遵法精神を説いているのは、彼らの社会が道徳的に低いレベルにある事を明示している。しかし彼らが知らないのは、尖閣問題の如く威嚇行動を続けていると、日本は更に保守的になり、そして核武装論が巻き起こるだろう。日本の核武装を一番恐れているのは中国自身なのだ。昔の戦争と違って現代の核戦争は、勝利国と敗戦国の区別が無くなり、お互い致命的な損害を被ることになるから。
日本では小学校レベルの道徳を、中国では一般社会人を相手に、法治国家とは何かと説かなければならないのだ。経済的には巨大だが、精神的に未発達で乱暴な隣国と共に我々日本人は生きなければならないのだ。流石に韓国は少し進んでいるが基本的には中国と似たり寄ったりに国際常識を欠いた国だ。例えば日本で罪を犯して韓国に逃亡した中国人を、国際条約に従って日本に返還することはせず、中国の要求に従って帰国させたり、日本の寺院から盗まれ、韓国で発見された仏像を日本に返還しないでも全く平気な国なのだ。
韓国は原子力立国を目指して20余基の原発を建設し運転中だが、もし大事故を起こせば漏洩した放射能の大半は日本を襲うことになる。しかし彼らは多分、日本だって福島の漏洩放射能を太平洋に流したではないかと平気な顔で反論するに決まっているだろう。日本は余りにも平和ボケして平穏に慣れ過ぎてしまった。激変する世界情勢のなかで、全く無防備で大事件や大災害を蒙るまではヘルメット無しで平気に暮らせる鈍感な国民になってしまった。