2013年10月

2013年10月29日

131030 地方自治拡大は尚早

大坂維新の橋下市長が主張する地方自治の拡大は、堺市長の反撃に遭い少しばかり停滞した。大阪府を東京都と同様に区制に再整理して、重複する行政の無駄を省くのは良案だと思うが、大阪市と並んで政令都市の堺市の竹山市長は権力を手放すのが急に惜しくなったようだ。 地方行政に無縁な私だから、外野席からの勝手な独り言だと読み流して頂いて結構だが、最近私は地方自治の拡大にはやや疑問を感じ始めている。即ち地方の首長は行動規範や実務能力が欠如しており、大きな行政権限を移管するのは時期尚早ではないかと感じている次第。               
                           
例えば先日の伊豆大島は台風26号の来襲が予想されていながら、全権をもつ伊東市長は公務に名を借りて隠岐島の料亭で酔い潰れ、市職員も台風来襲を知りながら全員が定時帰宅し、伊豆大島は荒れ狂う台風に蹂躙され結局42人の犠牲者を出した。慌てて帰島した伊東市長は今度は名誉挽回とばかり、全島避難とか自衛隊救援とか大袈裟な発言と行動を続けている。沖縄でも、中国から露骨な尖閣侵略を繰り返されても地元は知らん顔で米軍基地縮小を叫び続け、名護市長は危険な普天間を辺野古に移することに断固反対している。          
                                  
国政で深傷を負った滋賀県の嘉田知事は、琵琶湖周辺での米軍オスプレイの訓練飛行に反対するが、もし福井原発が事故を起こし、琵琶湖西岸の住民が緊急救出を求めても、飛んで来たのがオスプレイなら拒否するのだろうか?高知県の尾崎知事も四国上空でオスプレイ訓練にクレイムをつける。防災救助なら受け入れるが軍事訓練はダメだという。防災訓練と軍事訓練をどう区別するのか知らないが、高度飛行はOKで、夜間飛行や低空はダメだと言っているようだ。流石に右旋回はNOだが左回りはOKだと馬鹿なことは言わないが。2年半前の東日本大震災で米軍ヘリコプターが大活躍したが、近い将来予想される南海トラフ地震を正面から受ける高知県民は、大津浪の恐怖に震えているのを知らない訳はないだろう。津波は夜間には来襲しないと言う訳でもないだろうが、とにかく地方首長の発言や行動は幼稚でスタンドプレイが多すぎる。
                               
新潟県も迫りくる冬の電力需要に備えて、柏崎原発の再稼働の準備を急ぐ東京電力社長に、新潟県の泉田知事が意地悪い対応を続けている。頭を深く下げて懸命に準備開始の認可を乞う東電社長に対して、ニタニタ笑ならが意地悪な発言を繰り返す泉田知事をテレビで見ると、まるで封建時代に命乞いをする庶民を悪代官様が苛めている光景にそっくりだ。そんなに原発が嫌いなら柏崎に誘致したことが間違いだと思うが、自分が認めた訳ではないと泉田知事は言訳するのだろう。大きな影響力をもつ地方行政が簡単に朝令暮改では国民が困るのだ。          
                
東北は、今回の福島原発の事故で甚大は被害を蒙ったが、その復旧過程で見える県知事の不遜な態度は、選挙民受けを狙っているだけに見える。この程度の首長に地方行政を本当に任せていいのか甚だ不安になる。東北復興事業は地元から上がる諸計画を国土交通省がなかなか認めないと不満なようだが、地元では資材不足、技師不足、労働力不足、関係者合意ナシで大混乱に陥っており、中央官庁は粗雑な計画に巨額な復興資金を簡単に渡すことは出来ないのは誰でも分かる筈だ。 東北地方で一番早く復興したのは仙台青葉区の歓楽街だと聞く。続々と申請される復興事業計画は細部を確認しないと、国民の汗と涙の結晶の税金をドブに捨てることになるのだ。道徳感も無く選挙民ばかりに気を取られる地方首長にこれ以上の巨大は権力を持たせて本当に大丈夫かと心配になるのは私だけではないかと思う。 




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2013年10月23日

131023 津波の遺構は保存を 

陸前高田市の広大な松原は大津浪で根こそぎ押し流され、一本だけ残った松が防腐処理されて、モニュメントになっているのは良く知られている。 新聞の報道によると、大津浪で被害を受けた遺構が次々と取り壊され撤去されている。例えば気仙沼の市街地の中心部まで運ばれて津波の威力をまざまざと見せつけた大型漁船第18共徳丸は解体作業が始まった。南三陸町では若いアナウンサーの遠藤美希嬢が最後まで避難を叫び続けて多くの町民を救いながら、自らは50余名の同僚と共に津波に飲み込まれて亡くなった鉄骨3階建の頑丈な防災庁舎も解体されることになったという。犠牲者の冥福を祈る訪問者は絶えなかったが、鉄骨だけの防災庁舎を見るとあの日を思い出すと、撤去を希望する遺族の意思により遂に解体されることになった。庁舎が無くなると訪問者は来なくなり忘れられてしまうのは確実で、何とも残念で拙速な結論だ。             
                       
確かに大槌町の木造2階建て民宿の屋上に乗り上げた観光船はまゆうは危険で撤去されて当然だが、地元住民や被害者にアンケートした結果で撤去を決めるのは無責任すぎる。被害者の多くは自分達は見世物ではなく保存は必要ないというに決まっている。震災の痛みと怒りを思い起こさせる遺構なんか早く取っ払って欲しい!と答えるのは理解できる。しかし結論の分かり切ったアンケートを実施する市長は、将来もし責任を追及された時、住民の意思を尊重した結果だと言い訳し責任逃れしたいだけではないだろうか。  
                            
200人以上が犠牲になった釜石市の鵜住居(うのすまい)防災センターは、遺族から早期撤去の要望書が出され、市長は住民の意思に応じることにしたという。住民個人の建物ならいざ知らず、公共建物を一部のアンケートだけで勝手に処分するのはいささか疑問だ。これでは復興に名を借りて低地に津浪防災センターを作った市長の判断ミスを早く消したい気持ちがまる見えだ。日本の有史に残る超巨大津波の悲惨さを後世に伝えることは施政者として最も重要な責務であり、住民を説得して保存の努力をすべきである。
                           
小学生80人近くが犠牲になった石巻市の大川小学校も解体か保存かで今月から有識者の協議が始まるという。小田原評定で右往左往し40分間も時間を浪費して、殆どの児童を津波に飲み込まれた校長の不手際が早く忘れ去られるよう、荒れた校舎の撤去を望んでいるのだろうが、先生の決断力無さで若い命を絶たれた大勢の子供達は救われない。巨大津浪の恐ろしさを後世に知らしめるため、校長や市長は自ら率先して遺構を残すよう周辺に働きかけて然るべきだ。災害の遺構は一度取り壊すと2度と復元は出来ず、悲惨な大津浪の記憶を次の世代に直接訴えることが出来なくなる。これほどの大きな犠牲を出してもまだ反省せず、災害の痕跡を消そうとする無神経さには呆れてしまう。            
                            
腹立たしい遺構を早急に取り払って目の前から消し去って元住民の気持ちも分かるが、撤去して平坦な更地になっても、気持ちが慰められるわけではないだろう。人間の理解力は高が知れており、実像を突きつけられてこそ、初めて物事の深層を実感し理解できるのだ。もし保存に資金が必要なら、全国から募金すればよい。もしお金が集まらなければ、周囲を囲って荒れ果てた姿をそのまま残してもいいではないか。   
                                  
近年は外国からの訪日者が増えて1000万人も近いともいわれるが、来日する外国人が日本で最も大きな衝撃を受けるのは、浅草でも日光でもなく京都でもなく、広島の原爆ドームと記念館だという。確かに一瞬にして大都市が消滅した広島全市の模型を原爆記念館で見た時、私も戦慄を覚え、見ると聞くのはこれほど違うものかと、息を飲んだ覚えがある。
                       
広島住民にとって原爆ドームは見るも忌まわしい遺跡だが、これは世界の政治家が見学すべき最も貴重な教材であり、ヒトが如何に理性に欠けたバカな生き物であるかを証明する歴史的な遺構である。原爆ドームの保存が決まったのは戦後20年が経過した後だという。言い過ぎを承知で言えば、原爆ドームが生き残ったのは、地元住民や周辺が全滅して、撤去を主張する人が居なかった為かもしれない。              
                        
人類初の原爆リトルボーイを広島に落としたB29-エノラゲイが米国スミソニアン博物館に展示された時、丸焼け野原になった広島の模型も展示するよう求めた日本側の要望を米国退役軍人が拒否したのも、自分達の残酷な悪行を消し去ろうとする冷淡で身勝手な人の性を象徴している。   




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2013年10月15日

131015 税金の無駄使い

 
川崎浮島のゴミリサイクルセンターと花王工場をバスで団体訪問した。参加者は中小企業の20余名で、多くは高齢の会長とか相談役など閑人ばかり、経営が厳しい現役社長等は殆ど居なかった。ある高齢会長はバスガイドの説明等は眼中になく隣席との自慢話に終始していた。老害会長に仕える社員の苦労が想像された。           
花王はトイレタリー専門メーカーで、素晴らしい案内嬢が手際よく工場を案内しながら説明した。問題のカネボ白斑事件こそ触れなかったが、花王は石油化学には目もくれず、生活用品専業を守り続けて業務も繁盛、売上高1兆円、社員1.2万人の元気な企業であった。
  
京浜工業地帯は石油化学工業発祥の地で、周辺は石油化学プラントが林立していたが、多くは錆びつき休止状態、中には解体中のプラントもある。石油化学は60年前、私の学生時代に始まった産業で、光り輝き林立する欧米のプラントは見る目にも眩しく我々を夢中にさせた夢の産業であった。国内企業は猫も杓子も石油化学に突入したが、半世紀が経過した今日、石油産出国との競争に破れ、コスト的にも競合できず老朽プラントは次々と閉鎖されている。     
                          
私の故郷、徳山のJR沿いにも出光石油のピカピカの石油精製プラントが軍艦のように林立し壮観を呈していた。しかし今日では多くのコンビナートと同様に収支苦で四苦八苦、この徳山プラントも閉鎖が間近という。夢多き石油コンビナートも半世紀後には、収益悪化で閉鎖されるだろうとは誰も予想できず、将来性を疑う気持ちは我々には毛頭なかった。錆びついた石油プラント群を見ながら、企業の長期戦略は如何にあるべきか私はつくづく猛省させられた。関東大震災でも起これば、川崎や京葉の石油化学工業コンビナートは火の海になり大被害を受ける危険性も孕んでいる。   
                    
同時に訪問した川崎市ゴミ回収のエコ暮らし未来館は、ごみ処理と太陽光発電、風力発電を見学した。他に訪問者は無く、ひっそりと静まり返るエコセンターを、ジーパン姿の不慣れな案内嬢が説明した。多分本日の来訪者は我々老人グループだけのようだ。案内嬢は懸命に説明するが勉強不足で、例えば風力発電機と家庭扇風機の羽根の形状が違うのは何故?と聞いても???。来訪者も少なく予算も限られては、古ぼけた展示物ばかり並べた説明にも迫力がなかった。
      
私が長年間勤務した東京江東区潮見にも下水処理エコセンターがあった。入口には見学者歓迎の立派な看板があるが訪問者は誰ひとり居なかった。余りの静かさに私も迷惑かと思い遂に行かなかった。見るべきものがないから来訪者がないのか、来訪者が来ないから内容を更新出来ないのか分からないが、収支が心配無用な公営センターでは、来訪者がないことは全く問題にならないのだ。
            
京浜や東京臨海部ばかりでなく、ごく身近にも同じく寂れ果てたエコセンターがある。例えば手賀沼湖畔の水の館、3階建の立派なビルが出来て既に20年になるが、内部に見るべきものは皆無、ガラスケースに数種類の魚が飼われているだけだ。このエコセンターは汚染著しい手賀沼を浄化する目的で、多分10億円〜20億円?投じて建設されたのだろうが、訪問者は殆ど無く、県も毎年1億円にも達する経費負担に耐えかねて管理を外部に委託した。新しい管理者も、来訪者を増やす意欲は毛頭なく、静まりかえった建物を維持管理するのが精いっぱいで、全く税金の垂れ流しだ。
             
税金の無駄使い例はいくらでもある。水の館から東方2キロほど離れて荒れ果てたビオトープもそうだ。数ヘクタールの広い土地に池や川、試験農場などが配置されて自然環境を守る意味で作られたが、本当に利用されたのは最初の数年のみで、今では誰も顧みず一面セイダカアワダチ草が茂って荒れ放題になっている。貸出農園にでも変更すれば、閑なリタイア組が自由に耕作し活性化するだろうが、目的変更はビオトープの失敗を意味するので簡単ではなく、結局は放置され続ける訳だ。民間企業では決して許されない無責任だが、国の予算は結果の評価がきわめて形式的で、一度作られた後は誰も検証せず、責任を取らなくて済むのだ。
                    
お隣り中国では、国家予算の半分以上は役人達の懐に消えて、一般市民の怨嗟の的になっているというが、他人事ではなく程度の差はあれ我が国も似たような状態で、お隣さんを笑ってはいられない。難関の国家試験を突破した我が国のエリート達も、税金の無駄使い防止は勉強しなかったようだ。






mh3944 at 13:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 政治 

2013年10月08日

131008 神の数式

このテーマは不勉強な私には不似合いだが、9/21にNHKの特別番組で放送された内容を私流に言い換えたものである。難解で視聴率は低かっただろうが、深淵なテーマを素人向けに分かり易く説明しようとNHKが苦労して編集したものだ。神の数式とは、世界がどのように作られているか、その宇宙の設計図を解き明かそうとするもので、神が創造した宇宙はきっと美しい対称性をもつ数学的な言葉(数式)で説明できる筈だと、思索し苦悩する世界の天才達の100年に渡る長い試行錯誤の物語だ。男性ナレーターは荘厳な口調で、上田早苗ナレーターも丁寧に解説しているが、多分何も分からないままテキストを読んでいたのかも知れない。             
                       
1) 既に解明されている原子の構造は、電子と原子核からなり、原子核はニュートリノと2種類のクオーク(u,d)からなるが、それらを支配している力は4つの数式から説明できる。 即ち基本素粒子の力、電磁気力、強い核力 及び 弱い核力である。
                    
2) 基本素粒子については、シュレディンガー方程式で殆ど説明できるが、電子に自転がありNSの磁石もあることを説明できなかった。しかし1928年に時間と空間は基本的には同じであるという考えを導入したケンブリッジ大のディラック方程式で、電子、ニュートリノ及びクオークの対称性はほぼ説明できるようになった。
                     
3) ディラックは、神の数式は、回転対称性、並進対称性及びローレンツ対称性をも含む美しい対称性を含むべきであるとし1928年に素晴らしいディラック方程式を発表した。
              
4) 原爆の父と言われるオッペンハイマーは、1930年に電磁気力を説明するゲージ対称性が回転対称性と良く似ていることを示した。しかしその数式を使って計算すると、例えば電子のエネルギーは無限大になるなど、全ての計算結果が無限大という非現実的な結論に達し、我々人間を含む宇宙の物質自体が存在してはならない悲惨な結論になった。更に物資=エネルギー、E=mc2という原理を応用して製造した原子爆弾が、人類を極めて悲劇的な災いに陥れたことを知って、オッペンハイマーは悲嘆に暮れていた。
                     
5) 原爆を被爆した廃墟の日本の朝永振一郎から、閉鎖状態で発表する機会がなかった新しい考え方を手紙で知らされたオッペンハイマーは、朝永の考え方に感銘して、無限大の問題を解決できるかもしれない朝永論文をPhysical Reviewに掲載した。その数式を使って電子の磁力を計算すると2.0023193043という小数点以下10桁まで、理論値と実験値が完全に一致することが判明し、朝永の独創的な考え方が、無限大の問題を打開できる道を拓いた。 

6) 更に中国人CNヤン博士は、弱い核力と強い核力に関するゲージ対称性理論を発展させた非可換ゲージ対称性の理論を発表した。しかしその数式を用いて計算すると、今度は素粒子の質量が全てゼロになるという矛盾に満ちた結果になった。従来、質量ゼロは光子だけで、他の素粒子は決して質量ゼロであってはならない標準理論に真っ向から対立することになった。もしこの世の全ての物質の質量ゼロであると仮定すると、宇宙は瞬時にバラバラになって飛散するという重大な矛盾に陥ることになるから。    
                     
7) この矛盾を解決する学説として現れたのが、1960年に南部陽一郎博士が唱えた対称性の自発的破れ理論である。 数式的には対称性を持っていても現実の世界ではその対称性は自発的に崩れてしまうという主張だ。例えば、設計上は完全に対称性をもつエンピツも真っ直ぐ立てて手を離すと倒れて対称性が壊れてしまう実例だ。即ち、数学的には美しい対称性も、現実には自発的に対称性が破れて完璧な美しさは崩れ去る運命にある、と南部は説明した。但し質量ゼロの問題だけは依然として解決できなかった。            
                    
8) 英国Pヒッグスは1964年に宇宙誕生の大爆発ビッグバンの1/100億秒後、冷えた宇宙を埋め尽くしたヒッグス素粒子の存在を唱え始めた。 ワインバーグは1967年にこのヒッグス粒子が質量ゼロの問題を解決できる可能性があると主張した。即ちヒッグス粒子の中を素粒子が移動する時に生じる抵抗が質量であるとの説明だ。
しかしそれは余りにも便宜的な解釈であると世界の学界から総反撃をうけて、40年の長い年月が経過したが、スイスのCERN国際合同実験装置LHCで追跡実験の結果、2012年6月にそのヒッグス粒子が99.9999%の確率で存在するとのシグナルが得られた。ヒッグス粒子のお蔭で、存在してはならないとも思われた我々人類を含む宇宙のすべての物質が存在可能になることを説明できる。ヒッグス粒子が便宜的な説明であるのは確かだが、例えば華麗な夢に満ちた人間社会にも、汚いトイレの存在が不可欠である現実に似ているともいえる。   
                            
9) 質量は素粒子がヒッグス粒子中を移動する時に生じる抵抗であると説明でき始めたが、余りにも軽い素粒子の陰で、従来見過ごされてきた万有引力、即ち重力というもうひとつの宇宙の大きな力と素粒子を統一的に説明できる数式は依然として解明されておらず、大きな課題として残っている。

宇宙の誕生に関わる深遠な科学と、神様との境界的な最先端テーマについて、ブログしようとすること自体私には恐れ多く、翌週に放映された続編には殆ど手がつかなかったが、好奇心に富む厚顔無恥な老人の自己満足に免じて許して頂きたく。       







mh3944 at 08:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 雑感 

2013年10月02日

131002 ブランド時計

私は昔からブランド品が好きではない。必ずしも田舎育ちだからではなく相性が合わないのだ。しかし腕時計はROLEX Oyster Perpetualを使っている。米国合弁会社の社長を辞めた時, 会長から贈られたものだ。ROLEXは高級時計とは知っていたが、ロスから帰国の挨拶に会長室に挨拶に伺った時、突然贈られたものだ。前日の会議で解職を言い渡された私はもう2度と会うことはない幹部連中に別れの挨拶を告げて、最後に会長室に挨拶に行った時、豪華な箱にはいったROLEXを差し出されたので私は驚いた。
                              
簡単にお礼を言って受取りそのまま荷物ケースに放り込んで帰国、成田の荷物検査も何事もなく通過した。無造作な扱いに空港の係官も気付かないままだった。もし見つけられていたらかなりの税金を取られていた筈だ。
翌日、日本橋高島屋に行って調べると、同じROLEX Oyster Perpetualに80万円の正札が付いて麗々しく展示されていたのには驚いた。 自分では絶対に買わない値段だ。日本製なら1/10程度でも正確に時を刻む高級な腕時計が買える。

合弁会社の社長を12年間も務めると、私も米国会長も互いに色々な不満を胸に溜めていた。もうそろそろ辞め時かなと感じていたが、会長も解職を言い出すチャンスを狙っていたらしい。前日の会議で論争になったとき、怒った会長が君はUntouchableだ、今月末で社長を解職すると言われた。Untouchableとは、命令に従わないという意味だ。社長を解かれると退職する以外に行く道はなかった。               
                               
しかし長年の恩義にも報いるつもりだろうか、会長はROLEX時計を準備していたらしい。私も適当なチャンスがあれば辞める潮時だと思っていたが、現実に言い渡されるとやはり寂寥感でその夜は眠れなかった。確かに12年間だったが、あっと言う間の年月で、私が全身全霊を込めてゼロから作り上げた社員60名の先端企業だから組織の隅々にまで愛着があった。
                       
ROLEXは豪華で格好よいが、美人妻の如く面倒を見続けないと機嫌を損ねてしまう。例えば大型連休に放っておくと自動巻きだから直ぐに止まってしまう。しかし折角もらった高級時計だから一応使い始めたが余り高揚感はなかった。その内にある友人が良く似た時計を持っているのに気付き、君もROLEX?と聞くと、ニセモノだよ-ハッハハと豪快に笑い飛ばした。ニセモノでも本物と殆ど見分けつかないほど精巧に出来ており、しかも正確に時を刻むので素人は簡単には分からない。更にニセモノROLEXを持っている人が結構多いのにも驚く。私の知人友人だけでも何人か居り、現に事務所のすぐお隣さんもニセモノROLEXを使っている。ブランド品は大金を払ったことに満足感があるが、偽物はその満足感を借用しているのだから高揚感は殆ど無い筈で、何かあるとすれば若干の後ろめたさぐらいだろう。 
                            
ある新聞で、Louis Vuitton Bagをもって満員電車に乗る日本人の気持ちが分からないと、読んだ覚えがある。欧米では、高級住宅に住み高級車で通勤する人がVuitton-Bagを使うが、日本では混雑の満員電車で使われているというのだ。確かにブランドバッグを提げて電車に乗っている女性は非常に多い。全てが本物ではないかも知れないが、素晴らしい使用感よりも周囲に見られている快感のほうが大きいだろう。偽物はどんな気持ちだろうか。 Vuittonは高級乗用車向けと言われても、高級乗用車は一桁以上高額だから、若い女性には手が出ず、結局バッグだけ買って満員電車に乗ることになる。
                               
暫くROLEXを使っていたが、自分の懐を痛めた時計ではないので飽きてしまった私は、ROLEXを本棚の奥に仕舞い込み、3万円のセイコーを使い始めた。そして10年前後の長い年月が経過したある日、何かの都合で再び取り出してみると何だか具合が悪くなっていた。仕方なくオーバーホールに出したところ、2ケ月後に修理代6万円の請求書付きで返ってきたのには驚いた。パーツ1個も交換したという。高いとは聞いていたが6万円とは国内で高級時計が買える金額だ。ROLEXは本体だけではなく、修理でもボロ儲けしているようだ。        
                      
もう売ってしまおうかと思い始め、駅前の時計店に相談すると、殆ど傷んでいないので5万円なら買い取りますとの返事だった。何と正札の1/20だ。 確かに年月も経過し、為替レートも激変しているが、外観も動きも新品同様なのに何故そんなに安いのかと聞くと、全く使っていない完全な新品でも、買い戻す時は半額ですよと言われた。 即ちブランド品の販売価格は、実際の価値ではなく、ブランド品特有のインフレーション価格であり、翌日に買い戻す時でも半額なのだと言う。       
                                
なるほど、80万円の超高級腕時計だと威張っても、それは正札だけの話で、実物の価値とは全く違うのだと教えられた。 新車のクルマなら翌日でも殆ど同じ金額だろうが、ブランド品は、販売正札と品物の価値は全く別物なのだと分かった。いわゆるブランド品自体にはその正札の半分の価値しかないが、自尊心をくすぐる為に高額の正札をつけて売っているのだ。これも私がブランド品を好きになれない大きな理由のひとつだ。 




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