2022年01月
2022年01月27日
220127 超一流大学の看板
今年の大学共通一次試験は、レベルが高く難解で、特に数学は公式を知っているだけでは解けず、最初から論理的な思考が必要な問題だったという。多くの受験生は悩み苦しんだことだろう。私も70年前の大学受験を思い出した。数学は30点以上でないと不合格だと聞いており、自信のない私は、意気消沈して長旅を帰宅した。不合格は確実だと諦めて 合格者発表も無視していた処、近所のおばさんが新聞片手に飛び込んで来て、合格の名前が出ていますよ!との叫び声に仰天したのだった。
今年の共通一次での50%合否のボーダー得点率は、東大文1が81%、東大理3が88%だと言われる。テスト初日に、東大医学部を目指す名古屋の有名高校2年生が、受験勉強に苦しんで錯乱し 東大試験会場前で受験生らに切りつける事件があった。 彼はなぜ地元の名大医学部を目指さないのかと私は疑問に思った。確かに超名門の東大医学部は将来性も洋々かも知れないが、名大医学部も十分立派なものだ。多分同級生達の視線を考えると、名大では軽蔑されるので 東大医学部を目指さざるを得ず それが哀れな凶行を招いたのだろう。近く住む有名医学部卒の引退開業医は 名古屋の事件について、医者は非常に厳しい職業であり、学生達は医学部を天国だと勘違いしていると嘆いていた。
受験生達は 超一流大学卒には超一流の将来が約束されていると信じているらしいが それは大変な間違いだ。超一流大卒でも本当に超一流の人物は精々1〜2割で、大半は普通人、逆に有名大の看板の重さに一生苦しみ続ける哀れな卒業生も2割以上はいると 何かで読んだ。私も全く同感で 有名大学合格の喜びは長い人生のごく一部であり、普通以上の学歴なら 当人の努力次第で人生は如何ようにも変わり、有名大学卒が即 幸福な人生ではありえないのが現実なのだ。換言すれば 人の一生は本人の努力次第で大きく左右され、幸運の女神に会えるか否かも大きく影響する。
私の近隣にも、東大、京大、東北大、慶応大など超有名大OBが多数住んでおり 彼らは殆ど私と同年配だが、超有名大卒が幸せな人生だったとは決して言えそうになく、各々深刻な問題に苦闘している。例えば、東大OBで大学教授のBさんは肝臓がんに苦しみ早逝、東大OBで大手都銀の副社長も痴呆症で逝去した。同じく東大OBの銀行専務のMさんは強過ぎる奥さんに敷かれて苦しい病床に伏し、慶大OBの営業部長 Yさんも永年肺がんに苦しみ逝去した。京大OBの銀行常務Zさんは年配の長男が結婚できない悩み、同じく私立大幹部Qさんは奥様と不仲で 子供達も全員未婚など、各々深刻に悩み苦しい人生を送っている。超有名大卒の多くは気難しく、屁理屈が多く、変なプライドが高すぎる。 実社会では、本人意欲、幸運の女神との出会い、健康や家族運、友人運、時代運など学歴以外の多くの要素が 長い人生に大きく影響するのが現実なのである。
地方大学OBの私も、40代で脳腫瘍となった時は人生に絶望したが 幸運にも全快した。身軽な3男坊だった為、私は大学を卒業すると同時に、九州から→大阪へ→東京へと、都会を目指して移転を続け、現在は千葉県の利根川近くに住んでおり、子供達や孫達,仕事運にも恵まれている。
私が大きな恐怖を感じたのは、10年前の東日本大震災の時で、福島原発4基全てが大暴走して 東日本全域が深刻な放射脳汚染に陥りかけた時、利根川より東側に住む国民は全員 西日本へ移動避難を強いられる危険性があった時だった。外国人は殆ど成田空港から国外に脱出し、私も千葉県を捨てて遠い九州か山口へ帰らざるを得ないかと悔し悩んだが、原発関係者の必死の頑張りで 膨大なウラニュ-ムを抱えていた原発第4号機の大暴走は避けられた。
その後は 大病に無縁で、家族運に恵まれて子供や孫達も 適材適所で元気に働いており、年賀状で一等賞を2回も獲得したハプニングもあり 家族でハワイ旅行を何回も楽しみ、傘寿を過ぎてもほぼ健康で 仕事を続けられていることなど、幸運の女神のお陰で、地方大学OBでも 東京,京都の超有名大学OBには全く負けない充実した生涯を送っていることに感謝している。もし学生が希望校に失敗しても まだまだ前途は多様であり 挽回可能な長い人生があることを忘れず 常に前を向いて努力すれば充実した人生になるのだ。
今年の共通一次での50%合否のボーダー得点率は、東大文1が81%、東大理3が88%だと言われる。テスト初日に、東大医学部を目指す名古屋の有名高校2年生が、受験勉強に苦しんで錯乱し 東大試験会場前で受験生らに切りつける事件があった。 彼はなぜ地元の名大医学部を目指さないのかと私は疑問に思った。確かに超名門の東大医学部は将来性も洋々かも知れないが、名大医学部も十分立派なものだ。多分同級生達の視線を考えると、名大では軽蔑されるので 東大医学部を目指さざるを得ず それが哀れな凶行を招いたのだろう。近く住む有名医学部卒の引退開業医は 名古屋の事件について、医者は非常に厳しい職業であり、学生達は医学部を天国だと勘違いしていると嘆いていた。
受験生達は 超一流大学卒には超一流の将来が約束されていると信じているらしいが それは大変な間違いだ。超一流大卒でも本当に超一流の人物は精々1〜2割で、大半は普通人、逆に有名大の看板の重さに一生苦しみ続ける哀れな卒業生も2割以上はいると 何かで読んだ。私も全く同感で 有名大学合格の喜びは長い人生のごく一部であり、普通以上の学歴なら 当人の努力次第で人生は如何ようにも変わり、有名大学卒が即 幸福な人生ではありえないのが現実なのだ。換言すれば 人の一生は本人の努力次第で大きく左右され、幸運の女神に会えるか否かも大きく影響する。
私の近隣にも、東大、京大、東北大、慶応大など超有名大OBが多数住んでおり 彼らは殆ど私と同年配だが、超有名大卒が幸せな人生だったとは決して言えそうになく、各々深刻な問題に苦闘している。例えば、東大OBで大学教授のBさんは肝臓がんに苦しみ早逝、東大OBで大手都銀の副社長も痴呆症で逝去した。同じく東大OBの銀行専務のMさんは強過ぎる奥さんに敷かれて苦しい病床に伏し、慶大OBの営業部長 Yさんも永年肺がんに苦しみ逝去した。京大OBの銀行常務Zさんは年配の長男が結婚できない悩み、同じく私立大幹部Qさんは奥様と不仲で 子供達も全員未婚など、各々深刻に悩み苦しい人生を送っている。超有名大卒の多くは気難しく、屁理屈が多く、変なプライドが高すぎる。 実社会では、本人意欲、幸運の女神との出会い、健康や家族運、友人運、時代運など学歴以外の多くの要素が 長い人生に大きく影響するのが現実なのである。
地方大学OBの私も、40代で脳腫瘍となった時は人生に絶望したが 幸運にも全快した。身軽な3男坊だった為、私は大学を卒業すると同時に、九州から→大阪へ→東京へと、都会を目指して移転を続け、現在は千葉県の利根川近くに住んでおり、子供達や孫達,仕事運にも恵まれている。
私が大きな恐怖を感じたのは、10年前の東日本大震災の時で、福島原発4基全てが大暴走して 東日本全域が深刻な放射脳汚染に陥りかけた時、利根川より東側に住む国民は全員 西日本へ移動避難を強いられる危険性があった時だった。外国人は殆ど成田空港から国外に脱出し、私も千葉県を捨てて遠い九州か山口へ帰らざるを得ないかと悔し悩んだが、原発関係者の必死の頑張りで 膨大なウラニュ-ムを抱えていた原発第4号機の大暴走は避けられた。
その後は 大病に無縁で、家族運に恵まれて子供や孫達も 適材適所で元気に働いており、年賀状で一等賞を2回も獲得したハプニングもあり 家族でハワイ旅行を何回も楽しみ、傘寿を過ぎてもほぼ健康で 仕事を続けられていることなど、幸運の女神のお陰で、地方大学OBでも 東京,京都の超有名大学OBには全く負けない充実した生涯を送っていることに感謝している。もし学生が希望校に失敗しても まだまだ前途は多様であり 挽回可能な長い人生があることを忘れず 常に前を向いて努力すれば充実した人生になるのだ。
2022年01月24日
220124 新浪社長/早期転職提案
サントリーの新浪社長の45才退職案が批判を浴びている。やっと仕事が軌道に乗り始めた中年で転身しろとは冗談ではない!と激怒する人が多いが、私はGood-Ideaだと思う。 新浪社長は、激変する現代社会では、入社20年程度が経過し知識経験も積んだ45才前後は、気力体力も充実しており、現業は後輩に託して 何か新規な分野に取り組み、後半人生を豊かにしては如何?と言う意味だと思う。
実は私も45才で人生を転換した経験者であり 新浪社長の提案には賛成する。入社して20年間、合成樹脂の研究,製造,営業など2次中間材料業務に従事していた私は、より有能な若手が出始めた為、これから何をしようかと悩み始めていた。このまま社員7,000人の大企業の企画部長の椅子にかじりついて 雑用を続けることが不安になり始めていた。
丁度その頃、毎年恒例の御嶽山参拝登山組の一人に選ばれた私は、片脚の太ももに痺れを感じていたので 旧知の慶大医学部神経内科F先生を訪ねて診察を受けた処、頭にピンポン玉状の大きな腫瘍があることと判明し、即入院手術しないと全身マヒになると知らされた。即ち頭頂部を切開して、腫瘍を摘出する脳外科手術で、仰天驚愕の診断結果であった。
躊躇する暇もなく 私は信濃町に入院して 丸坊主になった頭を開頭手術した。幸い結果は良好で 1ケ月間休んで まだ頭髪もない丸頭のままで 再び会社に出始めたが、やはり周囲から奇異の目で見られ、企業中枢の企画部長が脳外科手術ではと 笑い話にもならない嫌な雰囲気を感じ始めた。これでは長続きしないと直感した私は 企画部長を辞めて外部に転出しよう考え始めた。
色々考えた末、目指すべき分野は、多くの化学会社が夢に見る、超高付加価値商品の医薬品事業だと思い始めた。その計画を確実に実行するには 既存の欧米会社との合弁会社設立が手っ取り早いと決断した。方向は決まっても、問題はパートナー探しが難題で 殆どの場合は頓挫するのが現実だったが 知恵を絞った私は 米国版の医薬会社四季報を取り寄せて パートナーを選択しようと思い始め、 NY事務所にTELEXで、米国医薬品業界の会社四季報を入手して欲しいと頼んだ。
半月程度で、US MED-TECH-Directory1984が送られてきたのは嬉しかった。米国の医薬品会社 医療機器会社 約2,000社の事業概要とP/L, B/S, 役員名が略記された小冊子だったが 包みから取り出し 小躍りして喜んた。
しかし合成化学出身の私には 英文の医薬品情報は難解過ぎた。仕方なく親友のRobert さんに頭を下げて、この冊子から合弁相手となりそうな中規模新進会社を選び出して欲しいと頼んだ。すると彼は半月余りで30社近い新進医薬品l会社を赤マークして返してくれたのも感謝感激だった。やはり持つべきは友人だとつくづく肝に銘じた。
この30余社のMedical-Companyに 私はInvitation - Letterを次々と書き始めた。それは恋しい米国女性にLove-Letterを出す気分で、御社の商品を日本に輸入販売したいので 合弁会社を設立しませんか と切々と訴えた。殆ど同様な手紙を 色々違う相手に出すには少々気も引けたが、相手は誰でもよく当方が選別できる権利はなかった。同時に我社自慢の豪華なAnnual-Reportも同封したが、庶務担当の女性は 費用が勿体ないから無駄なことは止めてほしいと抵抗したが、私は無視して手紙を投函し続けた。
全て返信が来たが 殆どは丁重な断り状で, 日本の代理店を紹介するから そちらの担当者に相談してほしいという内容だった。ただ NYのQ介護専業会社と、LAの体外診断薬会社の2社からは前向きの内容だった。特にLos-Angeles のDPC社 のZ会長は本気で、合弁会社設立の具体策を協議したいとあった。私には躊躇する理由もなく 早速単身でロスに飛び LA出張所W氏に同伴をして、空港近くのDPC社本社工場に訪問し、余り得意ではない英語でZ会長に切々と訴えた。Z会長は $10million (当時約30億円)を出せば 対等合弁交渉OKとの意思を確認して帰国した。社内の茶坊主役員を通すと妨害するので、直接K社長に直談判した。
突然の医薬品合弁話にK社長は驚愕したが、相手会社の内容を確かめようと K社長自身が訪米してZ会長に面談し、会社規模、商品内容、製造設備などを見学した幸運もあった。社長は 自社研部門の高額な開発開発の無駄な結果に比べれば 100種類以上の体外診断薬が $10millionで入手できるとは安いと断じ、本件合弁会社設立は実行することになった。
一端決まればワンマン会社の特長で即実行となり、まだ40代半ばの私がその責任者となって動き始めた。スタート時は3人の小所帯だったが、直ぐに社内から 幸運の女神や騎士などバイオ技術の大集団10名が参加を希望して、技術先行型の輸入販売合弁会社が幕張新都心を拠点にスタートし、彼ら技術陣の献身的な努力のお陰様で、10年間に社員50名、年商20億円近いRIA型診断薬の輸入製造販売会社に成長した。果敢に参加してくれた有能な技術陣諸兄には万感の謝意を忘れられない。
しかし体外診断薬は技術進歩が激烈で、放射性RIA型からNon-RIA型の自動検査システムへ転換し始め、全自動検査システムの開発競争に移行して 電子機器技術に無縁な我々は対応不可能になり、遂に三菱系に身売りすることになり、私も定年退職年齢を迎えて引退することになった。しかしこの米国合弁会社への転身で、私の東京日本橋の会社人生から 世界を股にかけた 異次元の会社人生となり、波乱万丈で満ち足りた後半人生になった。
医学の進歩で現代は 人生100年時代になった。会社人生も定年延長で 給与半減 部下無しで 寂しく勤務するよりも、一旦45才辺りで新しい分野に挑戦し、パソコンを活用すれば、少人数と小資本で、危険も少ないベンチャー起業が可能な時代になっている。元気ある内に、気の合う仲間と相談して新規な分野に切り込み、長い後半人生を充実した年月にするべきだと私も思っている次第。
実は私も45才で人生を転換した経験者であり 新浪社長の提案には賛成する。入社して20年間、合成樹脂の研究,製造,営業など2次中間材料業務に従事していた私は、より有能な若手が出始めた為、これから何をしようかと悩み始めていた。このまま社員7,000人の大企業の企画部長の椅子にかじりついて 雑用を続けることが不安になり始めていた。
丁度その頃、毎年恒例の御嶽山参拝登山組の一人に選ばれた私は、片脚の太ももに痺れを感じていたので 旧知の慶大医学部神経内科F先生を訪ねて診察を受けた処、頭にピンポン玉状の大きな腫瘍があることと判明し、即入院手術しないと全身マヒになると知らされた。即ち頭頂部を切開して、腫瘍を摘出する脳外科手術で、仰天驚愕の診断結果であった。
躊躇する暇もなく 私は信濃町に入院して 丸坊主になった頭を開頭手術した。幸い結果は良好で 1ケ月間休んで まだ頭髪もない丸頭のままで 再び会社に出始めたが、やはり周囲から奇異の目で見られ、企業中枢の企画部長が脳外科手術ではと 笑い話にもならない嫌な雰囲気を感じ始めた。これでは長続きしないと直感した私は 企画部長を辞めて外部に転出しよう考え始めた。
色々考えた末、目指すべき分野は、多くの化学会社が夢に見る、超高付加価値商品の医薬品事業だと思い始めた。その計画を確実に実行するには 既存の欧米会社との合弁会社設立が手っ取り早いと決断した。方向は決まっても、問題はパートナー探しが難題で 殆どの場合は頓挫するのが現実だったが 知恵を絞った私は 米国版の医薬会社四季報を取り寄せて パートナーを選択しようと思い始め、 NY事務所にTELEXで、米国医薬品業界の会社四季報を入手して欲しいと頼んだ。
半月程度で、US MED-TECH-Directory1984が送られてきたのは嬉しかった。米国の医薬品会社 医療機器会社 約2,000社の事業概要とP/L, B/S, 役員名が略記された小冊子だったが 包みから取り出し 小躍りして喜んた。
しかし合成化学出身の私には 英文の医薬品情報は難解過ぎた。仕方なく親友のRobert さんに頭を下げて、この冊子から合弁相手となりそうな中規模新進会社を選び出して欲しいと頼んだ。すると彼は半月余りで30社近い新進医薬品l会社を赤マークして返してくれたのも感謝感激だった。やはり持つべきは友人だとつくづく肝に銘じた。
この30余社のMedical-Companyに 私はInvitation - Letterを次々と書き始めた。それは恋しい米国女性にLove-Letterを出す気分で、御社の商品を日本に輸入販売したいので 合弁会社を設立しませんか と切々と訴えた。殆ど同様な手紙を 色々違う相手に出すには少々気も引けたが、相手は誰でもよく当方が選別できる権利はなかった。同時に我社自慢の豪華なAnnual-Reportも同封したが、庶務担当の女性は 費用が勿体ないから無駄なことは止めてほしいと抵抗したが、私は無視して手紙を投函し続けた。
全て返信が来たが 殆どは丁重な断り状で, 日本の代理店を紹介するから そちらの担当者に相談してほしいという内容だった。ただ NYのQ介護専業会社と、LAの体外診断薬会社の2社からは前向きの内容だった。特にLos-Angeles のDPC社 のZ会長は本気で、合弁会社設立の具体策を協議したいとあった。私には躊躇する理由もなく 早速単身でロスに飛び LA出張所W氏に同伴をして、空港近くのDPC社本社工場に訪問し、余り得意ではない英語でZ会長に切々と訴えた。Z会長は $10million (当時約30億円)を出せば 対等合弁交渉OKとの意思を確認して帰国した。社内の茶坊主役員を通すと妨害するので、直接K社長に直談判した。
突然の医薬品合弁話にK社長は驚愕したが、相手会社の内容を確かめようと K社長自身が訪米してZ会長に面談し、会社規模、商品内容、製造設備などを見学した幸運もあった。社長は 自社研部門の高額な開発開発の無駄な結果に比べれば 100種類以上の体外診断薬が $10millionで入手できるとは安いと断じ、本件合弁会社設立は実行することになった。
一端決まればワンマン会社の特長で即実行となり、まだ40代半ばの私がその責任者となって動き始めた。スタート時は3人の小所帯だったが、直ぐに社内から 幸運の女神や騎士などバイオ技術の大集団10名が参加を希望して、技術先行型の輸入販売合弁会社が幕張新都心を拠点にスタートし、彼ら技術陣の献身的な努力のお陰様で、10年間に社員50名、年商20億円近いRIA型診断薬の輸入製造販売会社に成長した。果敢に参加してくれた有能な技術陣諸兄には万感の謝意を忘れられない。
しかし体外診断薬は技術進歩が激烈で、放射性RIA型からNon-RIA型の自動検査システムへ転換し始め、全自動検査システムの開発競争に移行して 電子機器技術に無縁な我々は対応不可能になり、遂に三菱系に身売りすることになり、私も定年退職年齢を迎えて引退することになった。しかしこの米国合弁会社への転身で、私の東京日本橋の会社人生から 世界を股にかけた 異次元の会社人生となり、波乱万丈で満ち足りた後半人生になった。
医学の進歩で現代は 人生100年時代になった。会社人生も定年延長で 給与半減 部下無しで 寂しく勤務するよりも、一旦45才辺りで新しい分野に挑戦し、パソコンを活用すれば、少人数と小資本で、危険も少ないベンチャー起業が可能な時代になっている。元気ある内に、気の合う仲間と相談して新規な分野に切り込み、長い後半人生を充実した年月にするべきだと私も思っている次第。
2022年01月09日
220108 EV車の開発競争
寒い時期は誰も自宅に籠りっきりになる。特にコロナが恐い今年の 正月3ケ日は駅伝ばかり見ていた。私が応援したのは 伝統も名声も無く孤軍奮戦する近くの中央学院大学で、長年保持し続けてきたシード権を維持する為、死にもの狂いで今年も頑張ったが 初日の第一走者が大ブレーキして最後尾となった。第一走者が遅れると、後続ランナーは長距離を単独走することになり、苦しみ続け 何とか14位まで回復したが シード権には届かなかった。リーダーの走者選定の判断ミスと言わざるを得ない。
サラリーマン生活では誰でも色々な失敗があるが、若い時のミスは挽回できても 社長や重要幹部の判断ミスは深刻な結果を招く。私が入社したD社は印刷インキのTOPメーカーだが、業務拡大を狙って 独ハイデルベルグ社が世界を独占する大型高速印刷機に進出しようと 20年間に渡って 膨大な投資と人材投入して高速印刷機を開発し続けたが、コンピュターがスマホに代わる時代で、印刷機は小型高性能化が進み、机上型の小型印刷機で殆どの印刷が可能な時代になった為、社運を賭けた大プロジェクトは完敗し、自信を失った会長は失意の内に逝去した。
似たような競争は産業界には山ほどあり、テープレコーダーでソニーと ビクターVHSとが争い、反ソニーのパナソニックがビクター側に参戦した為、小型高性能のソニーは敗退した。そのパナソニックも壁掛けテレビで、自社が主導した高品質プラズマ方式も シャープの液晶テレビに敗れ、更にテレビ界を制覇したシャープ亀山方式も、大画面低コストの有機EL型テレビに駆逐されつつある。
現代の最大の競争にEV(電気自動車)がある。米国のフォードのT型量産車で幕開けした世界の自動車戦争は、高性能トヨタのHybridエンジン車が世界のTOPに立ったが、今度はクリ-ンエネルギーを理由にHybridエンジン車が駆逐されようとしている。高性能の日本Hybrid車に敵わない中国は 環境問題を理由に 電気自動車の必要性を宣伝して EV変革を主導し,Hybrid車で日本に敗れた欧州もEV戦争で日本を負い越そうと、EV車転換を契機に必死になっている。
確かに化石燃料を大量消費するガソリン車は 自然エネルギーのEV電気自動車に代替される運命だが、主導する中国こそ 石炭発電所を多数稼働させて 世界のCO2排ガスの30%を排出し続けており、中国のEV車作戦は羊の仮面を被ったオオカミともいえる。
幸か不幸か、EV車はコストの大半を占める蓄電池がまだ未完成である。トヨタは 開発中の短時間充電可能な大容量の全固体電池の完成を待って、一挙に量産販売に入る計画で、全固体電池も数年以内には完成するだろうが、先行投資で逃げ切りを狙う中國勢と欧州勢は 日本に先行して低コストEV車の大量販売で 世界を制する作戦である。自動車業界は 激変を続け地獄の10年間が待ち受けている。
サラリーマン生活では誰でも色々な失敗があるが、若い時のミスは挽回できても 社長や重要幹部の判断ミスは深刻な結果を招く。私が入社したD社は印刷インキのTOPメーカーだが、業務拡大を狙って 独ハイデルベルグ社が世界を独占する大型高速印刷機に進出しようと 20年間に渡って 膨大な投資と人材投入して高速印刷機を開発し続けたが、コンピュターがスマホに代わる時代で、印刷機は小型高性能化が進み、机上型の小型印刷機で殆どの印刷が可能な時代になった為、社運を賭けた大プロジェクトは完敗し、自信を失った会長は失意の内に逝去した。
似たような競争は産業界には山ほどあり、テープレコーダーでソニーと ビクターVHSとが争い、反ソニーのパナソニックがビクター側に参戦した為、小型高性能のソニーは敗退した。そのパナソニックも壁掛けテレビで、自社が主導した高品質プラズマ方式も シャープの液晶テレビに敗れ、更にテレビ界を制覇したシャープ亀山方式も、大画面低コストの有機EL型テレビに駆逐されつつある。
現代の最大の競争にEV(電気自動車)がある。米国のフォードのT型量産車で幕開けした世界の自動車戦争は、高性能トヨタのHybridエンジン車が世界のTOPに立ったが、今度はクリ-ンエネルギーを理由にHybridエンジン車が駆逐されようとしている。高性能の日本Hybrid車に敵わない中国は 環境問題を理由に 電気自動車の必要性を宣伝して EV変革を主導し,Hybrid車で日本に敗れた欧州もEV戦争で日本を負い越そうと、EV車転換を契機に必死になっている。
確かに化石燃料を大量消費するガソリン車は 自然エネルギーのEV電気自動車に代替される運命だが、主導する中国こそ 石炭発電所を多数稼働させて 世界のCO2排ガスの30%を排出し続けており、中国のEV車作戦は羊の仮面を被ったオオカミともいえる。
幸か不幸か、EV車はコストの大半を占める蓄電池がまだ未完成である。トヨタは 開発中の短時間充電可能な大容量の全固体電池の完成を待って、一挙に量産販売に入る計画で、全固体電池も数年以内には完成するだろうが、先行投資で逃げ切りを狙う中國勢と欧州勢は 日本に先行して低コストEV車の大量販売で 世界を制する作戦である。自動車業界は 激変を続け地獄の10年間が待ち受けている。